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2008年09月30日

成田着

終日雨。

午前7時半、成田着。成田の気温は16度。
成田で日比谷フェスタで使う荷物を山西さん宅へ宅急便で送る。

その後、成田から池袋へ行き、西口の大衆飲み屋へ。
生ビールとホッピーを飲む。

昼過ぎ、自宅へ。

メールの受信・送信。ボランティア貯金関連の新たな資料を書き
山西さんに送る。


アメリカ・ニューヨークの株が過去最大の大暴落。777ドル安。
日本の株も580円もの大暴落。ドル安・円高も進行。


世界の経済も寒くなってきたが、日本に帰り、気温の落差が
大きく、私も寒くて仕方がない。長そでと上にセーターを
着ても寒い。

ベトナムで買ってきた「するめ」を焼き、おつまみを作る。


インターネットの調子が悪く使えなかった。
1日かけなんとか直る。
とにかく寒い。

投稿者 koyama : 22:14 | コメント (0)

2008年09月29日

千草先生誕生会 日本へ帰国

終日雨  

午前7時朝食。

ブンの精進麺。

午前9時半、千草先生の1日早い誕生会。


ベトナム事務所員全員の寄せ書きを贈呈





皆で誕生ケーキを食べながら千草先生の大いなる成長を
祈る。



午前11時半昼食。


昼食後、日本帰国の荷物整理。


午後3時、里親のNさん親子がベトナム事務所を訪問。
里子のQさんの自宅訪問、「子どもの家」訪問などを行う。
1時間半ほど懇談。

午後5時、「ハイリーホテル」を出てフエ空港へ。

午後8時半ホーチミン空港着。

午後11時35分、ホーチミン空港を出て成田へ。

フエ滞在2ヵ月半、本当に忙しい毎日だった。
300人ほどの訪問者への応対、静岡大学フえ訪問準備、
フエ高等師範大日本語学科の件など・・・・。

基本的な問題は解決し、帰国となった。

投稿者 koyama : 16:44 | コメント (0)

2008年09月28日

「子どもの家」のこども退所式

終日曇り。時々雨


午前7時起床。ひどい頭痛と倦怠感。気候の変化が大きい。

ボランティア貯金申請書を書く。様々な資料をチェックし
ミスがない様に細心の注意を払う。

お米5勺で全かゆを炊く。塩でおかゆを食べる。

午前10時前、ベトナム事務所へ。
バオミンさんと一緒に「子どもの家」へ。

今日は「子どもの家」のユオンさん・グエットさんの
退所式。父親(58歳)、ユオンさん(23歳)、グエットさん(19歳)、
セン「子どもの家」運営委員長、ロック寮長、バオミンさん、私。

(セン)今日はユオンさんとグエット姉妹の退所式を行う。
    ただし、正式に退所するのは、下宿などが決まってからとする。
    二人は1995年入所。今年で13年間「子どもの家」で
    生活してた。ユオンさんは10歳から、グエットさんは6歳
    からこの「子どもの家」で生活したことになる。
     二人は今までの人生の半分以上を「子どもの家」で過ごした。
    姉のユオンさんは9月22日付けでフールー小学校の教員に
    仮採用された。(1年間の試行期間を経て1年後に正式採用)
    給料もきちんともらえるようになった。18歳で退所すべき
    「子どもの家」に既に5年以上も延長して住んでいる。
     その期間、フエ高等師範大で3年間勉強し、教師の資格を
    取得し、この度、自立することが出来た。
     グエットさんは19歳。既に退所の年齢を過ぎている。
    JASSの日本料理店に勤めて3年。接客主任として仕事
    をしている。今日を区切りに自立する。JASS日本料理店で
    は今までは研修生だったが自立後正式な店員・主任として
    月給も満額もらえるようになる。JASS日本料理店の月給の
    ならきちんと生活していくことが出来る。

(父親)13年間、「子どもの家」で生活させてもらい感謝している。
    二人が仕事をするようになったので退所することは当然だと
    思っている。今後二人の下宿探しやこまごまとした生活の
    ことなどを是非面倒みてもらいたい。
     自分はフォンディン郡で農民をしているので都会の生活
    のことなどは分からない。今後も宜しくお願いしたい。

(セン)「子どもの家」は基本的には18歳で退所の決まりだ。
    グエットさんは19歳、ユオンさんも23歳。
    二人とも仕事を始めて月給も安定している。二人で
    力を合わせて頑張って欲しい。

(小山)この13年間の「子どもの家」の先生やJASSの支援を
    忘れないで欲しい。ユオンさんの給料とグエットさんの
    給料を合わせれば、一般の人よりも多い位の給料と
    なる。
     自分たちで働いてもらった給料の範囲内で生活するよう
    に。お金持ちの友達などの真似をしようとしても無理。
    自分たちの「身の丈」を考えて生活をすれば、二人の
    給料で十分である。二人はまだ若い。これから自分の力で
    努力して立派な生活が出来るようになって欲しい。
     実際に給料が入った後で下宿などを見つけ、実際の
    退所となるよう1ヶ月程の余裕を見た方がよいと思う。
     しかし、23歳と19歳になったということは、もう誰かに
    頼って生きていくのではなく、自分自身の足で立って
   生きていくことだ。何事をも自分で決める。決めたことが
   間違っていたらその責任も自分にある。そうした自覚を
   もって欲しい。


(ユオン)グエットと一緒に住むと自転車がない。
     自転者を買って欲しい。
      今後大学に行きたい。大学の授業料は年間200万ドン
     (140ドル)。大学に行く費用を支援して欲しい。
     2年間分で280ドル分をもらえないか?
(セン)仕事をしながら夜間の大学へ行くようにしなさい。
    多くの人は、自分で仕事をしながら夜間の大学に
    通い資格を取っている。何でも人に頼る姿勢はよくない。
     自分の置かれている社会的な状況を理解するように。

(ユオン)大学に行くには2年間で300ドル程度かかる。
      私の給料では出だせない。応援して欲しい。
       また、小学校の先生の給料では生活するのは
      大変だ。

こんなやりとりを2時間ほどする。ユオンさんは、小学校の教員
の給料は安いので生活できない。大学に行きたいのでその
学費を出して欲しいという2点を強く要求する。
セン運営委員長は多くの小学校の先生は1万5千円程度の
月給で生活している。一般の労働者の給料は5000円ちょっと
なのだから、3倍も新任教師でもらえれば十分だ、との見解。
更に妹のグエットさんが退所した段階で日本料理店では
65万ドンと夕食代(37万ドン)を支給する。約7000円強。
二人で毎月22000円強のお金があれば、超贅沢な生活をしない
限り十分生活していける。一般の縫製工場なので月給は
熟練工でも70万ドン(4600円)程度である。二人で22000円、
一人平均11000円もあるんだから「贅沢をしなければ」十分
生活が出来る筈。

最後に父親が『二人の子どもたちが成長できたのは、子供の家と
JASSのお陰」と話す。


二人は社会に出るのに不安を持っていることは確かだが、
いつまでも「ひよこ」のままで放置することは出来ない。
不安があっても子どもたちを社会に出し、社会の荒波と
闘いながら生きていくような子どもたちを育てなければ
ならない。一般の労働者の2倍程度の給料をもらっても
さらに支援をして欲しいという点は、セン委員長が
「大学に行きたければ、自分の給料を出して、夜間の
大学に行きなさい」と話すことに説得力がある。
二人はこれから自分の力で出発する自立の世界に
不安を抱えながら話を終える。

最後に保護者である父親が退所の文書にサイン。

最後に記念写真を撮る。二人の実際の退所は9月末に実際に給料を
もらい、その間に下宿等の諸準備が完了する1ヶ月後位だろうか?
里親からの12月までの支援金3ヶ月分も二人の手渡すことに
なっている。

送信者 08-9月28日

午後12時過ぎ、バオミンさん・セン委員長と「チャオバンカン」
(待つ店)へ。本店はフハウ地区にあったのだが、支店が
「子どもの家」の近くに出来た。

この店のチャオバンカンも200円ドン、3000ドン、5000ドン
と値上がりしているが味は落ちていない。

バオミンさんはフエ人らしく唐辛子を大量にぶち込む。


私は口内炎3つ。唐辛子はしみる。



午後1時、「ハイリーホテル」へ。
昼寝・読書せずに2009年度ボランティア貯金申請書を
書く。

午後4時、ボランティア貯金申請書を書きあげる。
必要な資料を添付して山西司郎さん・渡辺和代さんに送信。
9月30日が締め切り。何とか9月30日付でボランティア
貯金に提出出来ることを祈っている。

小山 2008年10月 日本帰国日程(予定)

09月29日(月)フエ出発(P7:10)→ホーチミン
     ホーチミン発(23:35)→成田
09月30日(火)7:20成田着
10月01日(水)北海道行きの準備         
   02日(木)ANA羽田→オホーツク紋別
北海道雄武町「町民大学」講演会
03日(金)雄武町 サロベツ 名寄駅→札幌
   04日(土)小樽 (日比谷国際フェスタ)
   05日(日)小樽 (日比谷国際フェスタ)
   06日(月)札幌
   07日(火)P1~P5 札幌芸術高校講演会 
札幌「エルプラザ」ホール
08日(水)札幌:北星女子中高講演会 宗教礼拝
     ①8:55~10:35  ②10:45~12:25
09日(木)石狩 藤女子大学人間生活学科講演会
10日(金)石狩国際交流協会:石狩市民図書館
       JR手稲→新千歳→羽田
11日(土)
12日(日)P7 JASSスタディーツアー反省会
13日(月)Uさんたちとの懇談
14日(火)
15日(水)
16日(木) 
17日(金)A11ピースインツアー本社訪問
      P6:30高校クラス会
18日(土)秋の各地の会交流会(京都泊)
京都府国際センター主催講演会
19日(日)同上(京都泊)
20日(月)(名古屋泊)
21日(火) (名古屋泊)
22日(水)北海道芸術高校名古屋校講演会 15:00
23日(木)
24日(金)北海道芸術高校池袋校講演会
25日(土)Hさん長男結婚式
26日(日)
27日(月)P3洗足学園中高校講演会 P5五反田ブライセン藤木社長懇談
28日(火)P6教育を語る会講演会(東京板橋区)
   29日(水)
   30日(木)A10浜松 静大工学部(浜松校舎)懇談
         夕方、JASS静岡の会と懇談会
   31日(金)A9国際課長懇談
         静岡市長との懇談(10時45分~11時05分) 
         (興静大学長・小山同行) 
         午後、記者会見(静大関係者と一緒)
         静大関係者夕食会
11月01日(土)JASS静岡の会主催講演会
   02日(日)
   03日(月)文化の日
   04日(火)
   05日(水)
   06日(木)北海道芸術高校仙台校講演会 15:00
   07日(金)茨城県日立市立田尻小学校講演会
   08日(土)茨城
   09日(日)
   10日(月)
   11日(火)A6:30練馬倫理法人会講演会
P1:45栃木県宇都宮市立宝木中学講演会
   12日(水)成田(18:10)→ハノイ

投稿者 koyama : 18:10 | コメント (0)

2008年09月27日

地球の歩き方ツアー7班講演会:飛んでけ車椅子

曇りのち晴れ、雨

天気の変動が大きい。

午前7時朝食。ブンボー。

午前7時半過ぎベトナム事務所へ。
午前8時、地球の歩き方スタディーツアー7班(15人)の皆さんに
ベトナム事務所員を紹介する。
バオミンさんは体調を崩し休む。


そのまま、私とハンさんが引率して「子どもの家」へ。
午前8時半、「子どもの家」の子どもたちの歓迎の踊り

●初めにセン運営委員長の歓迎の挨拶

●子どもたちの歓迎の踊り


●地球の歩き方スタディーツアーの出し物(歌)


交流会終了後、ハンさんが「子どもの家」の各施設を案内(30分)

●午前10時から90分、私の講演会

気候の変動と疲れから体調が悪い。声がかすれて出ない。

午前11時半、地球の歩き方の皆さん、ハンさんと一緒に
昼食レストラン。「固焼きそば」を食べる。

午後1時、「ハイリーホテル」へ。
来年度のボランティア貯金申請書締め切りが、9月30日との
連絡が一昨日の夜はいる。昨日から急いで申請書作りを
はじめる。字数にして400字詰め原稿用紙で50枚程度。
昨日1日かけてある程度書く。この数年の申請書、中間報告書、
完了報告書の全てに目を通して、2009年申請書の記載内容
がこの間の申請書・中間報告書・完了報告書と完全に
整合性を持っていなかればならない。数字や日にちなどの
誤記、活動の評価などの誤りは許されない。この10年近く
ボランティア貯金をもらっているが、少しの数字の誤記でも
必ず質問が来る。それほどボランティア貯金の担当者は
公正に業務を行っているともいえる。申請書を書く前に
今までの各種報告書(かなり長文)を全て読むだけで
1日仕事である。
今日は、朝から夜まで訪問者の案内が入っている。

午後1時に北海道の車椅子支援NGO「飛んでけ車椅子」の
皆さんが、以前贈呈して頂いた車椅子の活用状況、
メンテナンスのためにわざわざフエに来てくれるとのこと。
しかし、午前中ハノイから電話連絡があり、フエ行きの
飛行機が遅れているとのこと。午後2時半頃つくとのことだった。
その後、更に電話があり、飛行機は更に2時間ほど遅れると
いう。

飛行機が遅れてフエに着いたのは午後4時頃。
若干時間が出来たので、昼寝・読書を中止し、ボランティア貯金
申請書を書く。かなり書き上げる。

午後4時過ぎ、ベトナム事務所へ。
「飛んでけ車椅子」の皆さん4人がベトナム事務所へ。
ミンさんも午前中と午後休み、案内に合流。
車椅子の修理工具を持って出発。

現在、ベトナムでは中古の車椅子のベトナムへの輸入を
禁止している。唯一の道は1台1台の車椅子を手持ちで
持ち込むこと。「飛んでけ車椅子」は各国を旅行する人たちに
車椅子を手持ちで搬入してもらっている。
数年前にそうした方法で「飛んでけ車椅子」に依頼され
旅行者は手持ちで車椅子を持ってきてくれた。
フエ市のキムロン地区(農村部)の10歳位の男子に
車椅子を贈呈した。この男子は両足が麻痺して歩けない。


車でキムロン地区のかなり奥まで行く。30分ほどかかる。
車椅子を上げた家へ。本人(13歳)と家族などが既に
家の前でまっていた。

早速、飛んでけ車椅子の皆さんが車椅子の調子を調べる。
両側のタイヤに空気が入っていない。パンクと判断し
両輪のパンク修理に入る。

しかし、結果的には空気が入っていなかっただけだった。
3年間、一度も空気を入れていないかったことが判明。
飛んでけ車椅子事務局の方が母親に車椅子をもらって
以降の子供の生活などをインタビューし記録。
「飛んでけ車椅子」は車椅子を上げるだけなく、その後の
活用状態、アフターケヤーをしっかりしている。NGOは
こうあって欲しいものである。学校を何校作ったと数ばかり
競っていても、その学校が使われているのか?
そこで子どもたちは成長しているのかの「事後調査」が
なされていない。地元の有力者が学校を工場tして
使っているなどという話を良く聞く。
たった1台の車椅子贈呈であるが、やはり日本の寄付者
から贈呈された車椅子である。仲介したNGOは、その
車椅子が本当に役立ているのかを自己チェックする
義務と責任はある。飛んでけ車椅子の活動を
高く評価したい。

午後7時、ベアリングに脂を塗ったり、車椅子全体の
メンテナンスを終えて、帰途に着く。

ベトナム事務所へ帰る。飛んでけ車椅子の皆さんは
バオミンさんの案内でホテルへ。

私は日本料理店で夕食。午後8時半、日本料理店を
出て「ハイリーホテル」へ。ボランティア貯金申請書の
続きを書く。

午後9時半、日本料理店を終えたリー君が「先生、明日日本
へ帰るんでしょ。今晩、ハイ君と3人で飲みましょう」と
部屋に誘いに来る。
3人で「ハイリーホテル」の隣に最近出来た「ヤギ肉屋」
の飲み屋に行く。ヤギ肉鍋で一杯飲む。

午後10時半、疲れが出たので私は一足先に
「ハイリーホテル」に戻る。リー・ハイは、引き続き飲む。

長い1日。ボランティア貯金申請書は9月30日締め切り。
数百万円の交付金となる。9月30日消印で山西さんが
ボランティア貯金事務局に郵送する予定。

明日(日曜日)の午前中までに全ての原稿を
書き上げ、必要な資料(写真等)を添付して、
ACCLの渡辺和代さんにメールで送信。
渡辺さんが私の書いた原稿を清書し、ボランティア貯金
申請書フォームにきれいの載せてくれる。
そうした手順で何とか9月30日には申請書が郵送できる
ようにしなければならない。明日、私は日本へ帰国する。
とにかく時間がない。時間の勝負である。

中山国土交通大臣が辞任するという。当然のこと。
任命権者である麻生首相の責任は免れない。
政権発足5日目にして暴言大臣の辞任。
失言首相内閣の真骨頂発揮と言ったところか?
成田空港問題の関係者、日教組や大分県の子どもたちや
保護者、単一民族発言で傷ついた皆さんへの真摯な謝罪がない。
中山大臣の上記発言は『確信犯』的な発言。この種の
人物は主権者である国民が選挙ではっきりとその適否の
判断を示さなければならない。

投稿者 koyama : 08:19 | コメント (0)

2008年09月26日

ボランティア貯金申請書作成

晴天

午後9時の気温30度。湿度80%。蒸し暑い。

午前7時起床。朝食。

フォー。美味しい。


午前8時半から静岡大学の件に関する長文の報告書を書く。

午前11時半昼食。
野菜炒め。豚肉の甘辛煮。野菜スープ。

午後1時昼寝。

午後2時読書「私が生まれた日」(池波正太郎著:朝日文庫)
池波正太郎は代々東京生まれの東京育ち。
昭和25年結婚し、駒込新明町で新婚生活をしたとある。
私が1971年、初めて教員になった駒込の小学校が
駒込新明町の花柳界のあるそばだった。

午後3時過ぎから2009年度のボランティア貯金の
申請書を書く。9月30日が締め切りとの連絡が昨夜
入った。急いで今日から申請書を書き始める。
400字詰め原稿用紙で50枚程度の量を要求される。
午後5時半まで申請書を書く。60%程度書き上げる。

午後6時前、日本料理店へ。壊れていたフダ生ビール。
業者を呼んで直したと言う。飲んでみる。かなり発酵が
進んでいる。関係者に聞くと昨夕から今日の午後3時半
位まで水素ガスを止めていたとのこと。結局、生ビールが
冷やされず発酵が一気に進み「酸っぱくなった」ということ
である。

中山国土交通大臣の罷免を求める

中山国交大臣の「暴言3連発」は、任命権者である
麻生首相の責任も重大である。

中山大臣は9月25日の各社のインタビューで以下のような
発言をした。

①成田空港の滑走路拡張問題は「ごね得というか、
戦後教育が悪かったと思う」「自分さえよければ、という風潮の中で、
なかなか空港拡張ができなかった」と発言した。

成田空港問題は、そもそも自民党政府が地元の理解と了解を
得ないまま強引に建築を強行したところに原因がある。
その後反対派の人々と政府・地元行政が腹を割って話し合いを
続け、一定の解決を見ている問題である。自民党政府自体が
建築当初の合意を得ないままの空港建築については一定の
反省の姿勢を示している。
成田問題で政府は95年1月、亀井静香運輸相(当時)が閣議で
了解を得た上で、建設反対派の農家に謝罪文を提出している。
中山大臣はこうした自らが所属する
自民党とその政府が近年行っている成田空港反対派との
話し合いとその結論などについての勉強をまずすべきである。
『ごね得』などという言葉を自民党・地元自治体関係者が聞いたら
激怒するのは当然である。自民党内でも辞任論がでている。
また、地元千葉県の堂本知事をはじめ芝山町長などが
国土交通省に抗議をしている。中山大臣の無知蒙昧、知性のなさ、
偏向ぶりが分かる。

②日本への観光客の誘致策を問われた際、日本人の国民性に触れ、
「日本は随分内向きな単一民族といいますか」などと述べた。

今年の6月には国会でアイヌの先住民族認定を政府に求める
国会決議が採択された。この時点で、国権の最高機関で
ある国会が、アイヌが日本の先住民族であること正式に
認めたのである。日本は単一民族ではなく多民族
国家なのだ。国家決議を受けて政府の有識者懇談会が設置され、
議論されている。こうした日本の歴史と数ヶ月前に自らも参加して
議決された「アイヌ先住民決議」すら理解していないのである。
1997年にはアイヌ新法が議決され、北海道旧土人法保護法
(アイヌは1997年までこの野蛮な法律で管理されていた)
が廃止されている。

③、大分県教委汚職事件について、「日教組の子供なんて
成績が悪くても先生になる。だから大分県の学力は低い」
との暴言を吐いている。
大分県の子どもたちの学力が低いと誰がどこで認定したのか?
「日教組の子供なんて成績が悪くても先生になる」という意味は
日教組組合員の子どもたちをさすのだろうか。今回の
大分県教育委員会の汚職でワイロを使って教員になった人たちは
日教組の組合員の子どもたちといいたいのだろうか。
馬鹿な発言である。
親が日教組組合員だからと言って、子供が馬鹿と勝手に
決め込む大臣の人間性が窺える。日教組の批判は自由であるが
日本の法律に基づき結成された合法的な団体である。
その組合員の子どもたちは馬鹿だというのは、これほど
人権無視の思想もはなはだしい。親が日教組であっても
子どもたちは日教組とは関係ない。
今回の大分県教育員会の汚職は、むしろ中山大臣が文科省大臣
だった当時、中山氏の指示に忠実に動いていた教育委員会の
人々の汚職腐敗である。むしろその責任は中山氏自身にあるのである。
少なくとも大分県教育委員会の汚職で逮捕された人間に
日教組の人はいない。地方公務員法で「職員団体」に加入できる
範囲は決められている。校長・副校長・教頭など学校現場の
管理職ですら日教組など教職員組合には加入できない。ましてや
校長・教頭を管理する大分県教育委員会の幹部が日教組に
入れる訳でもなく、基本的には「労使」として対立関係にある人
人々である。
本来、中山氏は、自分が文科省大臣だった時に指導した
大分県教育委員会の幹部の汚職は自分にもその責任の
一旦はあるというべきなのである。文科大臣は、各県の
教育委員会への指導・助言権を持っている。
事実上の指揮命令を持っているのが実態であるが。

中山大臣の暴言3連発はどれ一つとっても「勉強不足」
は否めない。日教組と戦後民主教育が悪いと言っている
だけでは、もうすまない時代になったことを理解すべきである。

中山氏の発言を助長しているの『失言首相』である。
失言首相にして暴言大臣あり。

この暴言のツケは、総選挙で必ず帰ってくる。

投稿者 koyama : 23:27 | コメント (0)

2008年09月25日

「フエ市国際交流センター」:フエ省教育局長懇談

曇り

気温36度。湿度も高い。多くのフエ人は体調を崩している。

午前7時朝食。キャッサバのうどん。



午前中、ハノイの日本大使館へ2回電話。
大使との懇談の日程確認。

静岡大学との連絡。必要なメールへの返事を書く。
部屋の掃除。ズックの靴を洗う。

午前11時半、昼食。

野菜サラダ、魚の煮付け、野菜スープ。

午後1時昼寝。

午後2時読書「上意討ち」(池波正太郎著)読了。
塚原ぼく伝か後半は新撰組の話。短編だが
それも読んだあと「人生」の機微に触れる内容。

午後3時、「フエ市国際交流センター」へ。
所長のニエン氏と1時間ほど諸問題を話し合う。

午後4時半、フエ省教育局長と懇談。当面の諸問題に
ついて協議。

午後5時、フエ市から郊外へ40分ほどの純農村へいく。
ブンボーの「ブン」(米の麺)をどう作っているのかを視察。
1軒の農家ではあるが、毎日200キロのブンを作り
午前2時からフエ市内のブンボー屋に配達しているとのこと。


2時間ほどかけて、米からどのようにしてブンを作るのかの
全ての工程を実地でやって見せてもらった。大変良い勉強に
なった。作り方は「企業秘密」・・・・・。


帰りに作りたての「ブン」を醤油と唐辛子のつゆにつけた
ものをご馳走してもらった。麺にこしがあって美味しい。
作りたての麺は醤油だけで食べるのが一番美味しい。



午後7時、日本料理店へ戻る。
大塚さんが「海老の頭」をフライにしたおつまみを作ってくれる。
フダ生ビールを飲もうとしたら、サーバーを支える「水素ガス」
のボンベからガスが漏れているとのこと。見に行くと、
ガスについて何ら知識のないリー君がナイフでねじを外して
水素ガスボンベを分解しようとしている。
私は「ガスは勝手にいじってはいけない。素人は触っては
だめ」とリー君を注意する。リー君は「俺は直せる」と言い張る。
しかし、リー君の知識では水素ガスの取り扱いは無理。
命令で水素ガスを触るのを禁止。店長になって責任感が
出てきたのは大歓迎だが、なんにでも手を出すようになり
知識と経験のないものまでやり始める傾向がある。
危険なことも「俺は出来る」と言って勝手にやてしまい、
機械を壊したりすることが多々ある。

午後9時過ぎ、日本料理店を出て「ハイリーホテル」へ帰る。

受信メールへの返信。火炎樹日記を書く。

投稿者 koyama : 22:32 | コメント (0)

2008年09月24日

フエ高等師範大日本語学科懇談

晴れ  

午後3時気温36度

午前7時朝食。ブンボー。

午前8時から静岡大学関係者と電話連絡。
静岡市関係者と電話連絡。

午前10時、ベトナム事務所でバオミンさんたちと
当面の諸問題について協議。

午前11時半、昼食。魚の甘辛煮、海老の塩辛と豚肉


午後1時昼寝。

午後2時、読書「上意討ち」(池波正太郎著)

午後3時、当面の問題に関して文書を書き送信。

午後5時、フエ高等師範大へ。
フエ高等師範大学長・教育部長・外務部長、
ベトナム人教師が参加。



日本側・私、日本人教師(3名)フーン先生、税田さん、
ベトナム人教師、新任日本人教師が参加。


私からフエ高等師範大日本語学科は、フエ高等師範大と
JASSが共同して運営する学科であること、日本語学科は
私が顧問で責任者となっている、私の代理はフーン先生、
日本語学科の関係者は私とフーン先生と相談して授業を
進めるようお願いしたいと挨拶。

これを受けてフエ高等師範大学長より挨拶。
今まで若干の問題があった。これはフエ高等師範大側の
体制が出来ていなかったこと、外国人と協力して仕事を
する経験がなかったことに由来する。この点は謝罪する。
今後は、日本語学科を外国語部の指導下から外し、
日本語学科だけ独立し、学長、教育部長が直接管理
する体制に変更する。日本語学科は、小山さんが顧問と
なっている。これはハノイの文部省の認可を受けたものである。
今後、フエ高等師範大日本語学科の運営は、日本語教育に
ついては、小山さんを中心にJASSの先生方(フーン主任を
中心に)の指導を受けて進めて行くことにする。



私より、私が責任者となるが、実際の教育内容などに関しては
フーン先生を主任に日本人教師3人とフエ高等師範大側の
ベトナム人教師が協力して進めて行きたい。新しく来た日本人
の先生もJASSの指導下に入ってもらいたい。
日越で協力してフエ高等師範大日本語学科をベトナム中部最高の
日本語学科にしたい。

話し合いは1時間以上。午後6時過ぎ終了。

その後、日本料理店に帰り夕食。石上さん・税田さんと
軽くフダ生ビールを飲む。

日本人の来客あり。

今日は、当面の課題であった静岡大学とフエ高等師範大
の協定調印問題が解決した。
更にフエ高等師範大日本語学科の諸問題が解決した。
この二つの問題はこの1ヶ月ほど大きな課題として
残っていたが、何とか二つとも私たちの思うような
方向で解決することが出来た。大きく言えば、『外交』である。
外交は中々難しい。相手のあること、妥協をしながらも
自分たちの主張と意見はしっかりといい、相手を説得し、
引き下がるところは引き下がり、相手の顔も立てながら、
最終的には自分たちの主張を通すというもの。

投稿者 koyama : 16:40 | コメント (0)

2008年09月23日

「オアシスの会」支援問題:地球の歩き方6班夕食会

快晴 

午前6時の気温30度。日中34度。

午前7時朝食 フォー。

今朝は何故かリー君が朝食に出てこなかった。


午前7時半、「ハイリーホテル」を出てベトナム事務所へ。
ベトナム事務所で大塚さん、バオミンさん、税田さん
と合流し、フービン地区診療所へ。

フービン地区診療所と「オアシスの会」が提携して推進している
船上生活者への支援の打ち切りを通告する。
先日、この地区の人民委員会副委員長をベトナム事務所
に呼んで同様の話をしたが、今回は実際に医療行為を
行っている診療所長と懇談。理由は、「オアシスの会」と
フービン地区診療所とで当初交わした約束とプロジェクトが
違う内容になっているからである。更に支援を増やせとの
要求を出すに至り、支援中止を決定。私たちも
「オアシスの会」の英断を支持。支援は約束を守る、
必要以上の支援はしないことが、海外支援の鉄則である。
フービン地区診療所長も同意。

午前8時半、フールー小学校へ。校長と懇談。

午前10時、「ハイリーホテル」へ戻り、静岡大学とフエ高等師範大
との間の交流協定の件で文書を書く。

昼食。

魚のフライ、野菜の煮物、野菜スープ


午後1時から1時間昼寝。
午後2時読書「上意討ち」(池波正太郎著)
アマティア・センはあまりに学術書のため、読むのに
疲れる。楽しんで読書をしたい。
塚原ぼく伝。

午後3時過ぎからバオミンさんと連絡を取りあいながら
いくつかの問題についての対策と関係者への
連絡を行う。何事もそうだが、一つのプロジェクトを
成功させるためには当日は2割、準備が8割である。
全てのプロジェクトは事前の準備をしっかりしておくことで
初めて成功する。見えないところでの仕事こそ、成功の
秘訣。

ODA(政府開発援助)からもらい建築した「縫製研修センター」
の完了報告書を書き上げ、必要な書類、写真などの添付を
終わる。11月13日にハノイ大使館に持って行き、関係者に
ODA「縫製研修センター」建築の報その後の「縫製研修センター」
の活動について報告する予定である。


日本人支援者と電話で打ち合わせ。その後、急遽、
ある問題に関する文章を書く。

午後6時半、地球の歩き方6班の皆さんと夕食会。地球の歩き方6班
は明日の午前中、フエ王宮などの観光を行い、夕方の便で
フエを発つ。

地球の歩き方6班の夕食会。ソン君・リー君の今晩のメニュー紹介
から始る。
二人とも10数年前に「子どもの家」に入所した子どもたち。




乾杯の音頭で交流夕食会が始る。



午後8時半、厨房のスタッフ、接客スタッフなどの紹介


午後9時前地球の歩き方6班の夕食会終了。みんな真面目な
学生さんだった。
午後9時過ぎ、リー君と二人で「ハイリーホテル」へ帰る。
税田さん・大塚さんは残務整理。ご苦労様。

「ハイリーホテル」に帰り、必要な文書を書く。

福岡ソフトバンクホークスの王貞治監督が引退するという。
ON時代というのがあった。私はとにかく巨人が嫌いだった。
嫌いな巨人で一番嫌いなのが長島だった。
そんな嫌いな巨人で王貞治だけは何か人生の
悲哀を感じる選手だった。中国人で色々と苦労したの
だろうかなどと考えていた。
巨人の監督を追放され苦労したのだろう。心から
ご苦労様と言いたい。人間の人生はこうありたいもので
ある。

明日24日、国会で麻生氏が首班指名を受けるという。
「あ、そう」という単純なしゃれしかでない。
現在日本の閨閥のトップに君臨する男だ。
貧しさや人生の本当の苦労を知らない「お坊ちゃん」の
5代目の政治家だそうだ。大久保利通から数えて。
 麻生財閥の御曹司。
朝鮮人の強制連行という汗と血と命の汚濁にまみれた
家系に何ら恥じらいをもっていない。
インターネットカフェで寝ている若者、携帯電話で呼び出されて
週に何回か仕事が来る若者などの存在と気持ちが全く理解
出来ないと思う。これで政治家の何代目かの人間が4代
続いて首相になる。小泉・安部・福田・麻生。
10月か11月の総選挙は日本の21世紀がどうなるのか
日本の未来を占う大事な総選挙となった。貧しい人、頑張っても
生かされない若者が生かされる社会にしたいものである。
日本国憲法で主権者は国民である。今度の総選挙で
主権者である国民の主権行使を行いたいものである。
とりあえず、自公政権を止めさせ、政権交代をさせてみることで
ある。政権交代をしたらよくなるかというと必ずしもそうならない。
国民がこうした政権交代の経験を通して政治的な学習を
しながら民主政治を体験で学んでいくものと私は思っている。

投稿者 koyama : 18:50 | コメント (0)

2008年09月22日

日本帰国前の仕事を行う

晴天・時々曇り

午前6時の気温26度。
午後12時の気温30度。

午前7時朝食。精進うどん。


午前中、2回洗濯。

パソコンの容量が減少。業者を呼び容量を増やす作業を
してもらう。
午前8時から午前11時まで。結局、部屋で業者の作業に
付き合う。完全に良くなったわけではないが、当面は
パソコンが使える。

午前11時半昼食。

ジャックフルーツ(越名ミット)の炒め物、海老と豚肉の
甘辛煮、野菜スープ。

午後1時昼寝。

途中、バオミンさんから電話。
静岡の滝下さんから電話。

午後2時読書。「アマルティア・セン」は疲れる。
「上意討ち」(池波正太郎著:新潮文庫)を読む。
日本帰国直前の今の時期の学術書はさすがに
疲れる。池波正太郎の本は、短編だが、
読後に余韻がある。記述も淡白だが庶民的。

午後3時、ベトナム事務所へ。母親が義母から
金の指輪を預かり「盗難にあった」A子さんを呼び、
必要なお金を貸す。

「ハイリーホテル」の警備員ハイ君を呼び、勤務態度に
ついて注意する。警備員の勤務時間は「ハイリーホテル」
玄関に貼ってあるのだが、全員ベトナム事務所・日本語学校
などに行っているため、ハイ君の勤務の管理が出来ない。
時々、予定外に「ハイリーホテル」に帰ってもハイ君は
遊びに行ったり部屋で寝ていたりして警備員の仕事を
していない。3食を無料で食べ、「ハイリーホテル」に泊まり
その上毎月30万ドン(2000円)の月給をもらっている。
食事代、「ハイリーホテル」代などを含めると500万ドン。
33000円。小中学校の先生の月給の3ヶ月の給料を
事実上もらっているのだが、仕事はほとんどしていない。
ハイ君は既に23歳。仕事をしないで遊んでいながら、
3食の食事と「ハイリーホテル」の宿泊だけの甘い汁を
吸うような仕事の仕方は良くないと注意。
リー君は店長となり午後2時半から午後9時半まで毎日
身を粉にして働いている。ハイ君は「ハイリーホテル」で
チェックする人がいないことを良いことに仕事をしないで
インターネットカフェなどに勤務時間中に遊びに行っている。
きちんと仕事が出来ないのなら他の警備員を雇うと
宣言する。ハイ君は真面目にやりますとの返事。

地球の歩き方ツアーとナムドン山岳地帯に行っていた
バオミンさんとリー君が帰ってくる。
バオミンさんと「某問題」で協議。なかなか深刻な問題。
私たちとしては、日和見を起こさず断固厳しい姿勢で
臨むことを確認。

午後6時過ぎまでバオミンさんと話し合い。
その後、日本料理店で夕食。

投稿者 koyama : 22:28 | コメント (0)

2008年09月21日

帰国までに済ませる仕事を進める

朝からうす曇

午前7時半起床。

ブランチ用に「全かゆ」を炊く。

受信したメールを読み返信。
10月帰国講演会の日程調整。北海道のホテルなどの
予約依頼などをする。

1合の全かゆを半分食べる。
日曜日は食事を作ってもらえないので、本当に困る。

部屋の掃除。床のゴミをきれいに取り、拭く。
資料、本などの整理。机上整理。

午後1時から1時間半ほど昼寝。

読書「アマルティア・セン」を読む。


静岡大学関連のいくつかの資料作りなどの依頼。

「ハイリーホテル」のパソコンの能力が満杯になり
パソコンが使えなくなる。

夜、夕食を買いにいく。

10月帰国中の講演会(現在15回予定)の内容を検討。
聞いてくれる人によって内容を変えて話したり、ビデオを
変えたりするのでその計画を立てる。

10月から11月11日までの日本滞在中、北海道の
雄武町、札幌、石狩、茨城、栃木、東京、静岡、名古屋、
京都で講演会を行う。中学生・高校生・大学生・一般の大人。

夜、洗濯。日本、特に北海道は寒くなっている。
「ハイリーホテル」の部屋にある冬服を全て洗濯し
日本へ持って帰る予定。

投稿者 koyama : 19:29 | コメント (0)

2008年09月20日

地球の歩き方ツアー6班講演会

終日晴れ。 夜、小雨。

朝7時、朝食。雲のある青空。

朝食。ブンボー。


午前7時半、「ハイリーホテル」を出る。電動バイクの調子が悪い。
途中で電気が通じなくなり、こいでベトナム事務所へ。

午前8時、地球の歩き方スタディーツアー第6班の皆さんと
ベトナム事務所居の顔合わせ。ベトナム事務所員自己紹介。
リー日本料理店長も参加。一緒にナムドン山岳地帯へ行くので。

午前8時半、ミンさん、私で地球の歩き方の皆さんを案内し
「子どもの家」へ。「子どもの家」で子どもたちと交流会。

セン運営委員長の挨拶。

セン委員長の話を真剣に聞き入る子どもたち


子どもたちの歓迎の踊り



地球の歩き方6班の皆さんの歌。


この8月9月で300人近くの訪問者があった。特に地球の歩き方
スタディーツアーの参加者は訪問記念に大型色紙を残して行って
くれた。




交流会終了後、バオミンさんの案内で施設見学

●「子どもの家」に住んでいるユオン/グエット姉妹。

妹のグエットさんは、日本料理店の接客主任。
姉のユオンさんは、7月、フエ高等師範大を卒業し、
9月22日(月)からフールー小学校の教師として赴任する
ことになった。
フールー小学校は、児童の60%が船上生活者の子弟。
フエで最も貧しい家庭の子どもたちが多く通う小学校で
ある。「子どもの家」の子どもがこうした貧しい環境で
育っている子どもたちを教えるようになったことに
一つの感慨を覚える。私たちの国際支援というものが、
けして「物を与える支援」「お金を上げる支援」にとどまらず、
最終的にはこうした「人間を育てる支援」「子どもたちの
自立のための支援」でなければならないことを改めて痛感
した。ユオン・グエット姉妹は、「子どもの家」が出来た時から
入所している。既に14年間「子どもの家」で過ごしている。
2年か3年で「自立した」と称して、転々と支援先を変える
海外ボランティア団体もあるが、私たちのように一箇所で
15年間の支援を続けることも一つの支援のあり方である。
子どもたちの成長と自立をしっかりと支援できる。
この15年の活動を通して痛感したことは、私たちの海外支援、
国際協力のめざすものは、子どもたちの人間としての成長を
通して、自立することである。自立は自活である。
私たちのめざす海外支援は、最終的には、子どもたちが
自分で働き給料をもらい、自分の力で生きていける子どもたちを
育てると言うことに尽きる。お金や物支援は、子どもたちの
自立のための「手段」ではあるが、目的ではない。
両親のいないユオン・グエット姉妹も姉は小学校の教師として、
妹は日本料理店の接客主任として給料をもらい自立していく
ことが出来る。私たちのめざす支援である。

午前10時。私の講演会。90分。


午前11時50分、地球の歩き方の皆さんと昼食レストランへ。

昼食は日本流に言えば「野菜入りかたヤキソバ」

午後1時、バオミンさんのオートバイで送ってもらい
「ハイリーホテル」へ戻る。

1時間ほど昼寝。

読書「アマルティア・セン 経済学と倫理学」(鈴木興太郎・
後藤玲子著)を読む。
純粋な学術書。1998年センはノーベル経済学賞を受賞。
受賞理由は「厚生経済学と社会的選択の理論への貢献」
である。センは伝統的な経済学を学びながら、ノーベル賞
受賞後も正統経済学会から「異端視」されていたという。
第1章はセンのプロフィールと本書の概要が述べられ
ている。センはインドで生まれ、インドの国民的詩人
タゴールの設立した寄宿学校で学ぶ。途中、
バングラディシュダッカで生活して時もある。
センの学んだ厚生経済学の歴史の詳細が続く。
センがケンブリッジ大学、ハーバード大学で厚生経済学を
どのようの学び、この学問にどのような批判を持ち、
センの独自の学問領域を作っていったが詳述される。
大学の先生はどうして簡単なことばを「難解な用語」に
書き換えてしまうのか? 難しい単語を使い難解に
書くことで内容が「高級に」なるとも思えないのだが。

午後3時過ぎ、電動バイクは故障し修理に出ている。
バオミンさんがオートバイで「ハイリーホテル」まで
迎えに来てくれる。

「縫製研修センター」に行き、宇都宮縫製工業組合
佐藤理事長と懇談。今後の「縫製研修センター」の
進め方、雨季に入って洪水等が発生したときの
対処法、研修の結果出来上がった製品の販路などを
話し合う。既に50種類以上のサンプルが出来上がって
いる。午後6時まで話し合いは続く。

午後6時過ぎ、日本料理店へ。夕食。

夕食中、タイで日本語を教えている男性が来店。
20分ほど話し合う。


午後7時、佐藤さんと北海道で和服を作っている会社の
役員の方が来店。この和服の会社はフエに和服の
縫製工場を作っている。役員・主任の方はフエに来て
4ヶ月とのこと。午後9時過ぎまで日本料理店で飲みながら
話し合う。

午後9時半閉店。今日の来客は10人。ドイツ人3人、
日本人7人。

午後10時前「ハイリーホテル」へ。電動バイクの修理が終わる。
5万ドン(350円)。
リー君と一緒に「ハイリーホテル」へ帰る。リー君から
「先生、今日は土曜日。明日は日曜日で休みなのでこれから
飲みに行こう」と誘われたが、今日は疲労困憊。断って
部屋に戻り直ぐに横になる。雨季に入り気候・気温の変動が
大きい。多くのフエ人も頭が痛いとか体がだるいとか言っている。
私も同様の症状が朝から続いている。

投稿者 koyama : 08:45 | コメント (0)

2008年09月19日

雨季到来

終日曇り  夕方大雨

午前7時、朝食。ブンボー。美味しい。


午前8時半、中国地方の某大学講師の「非行」について
学長への抗議と謝罪要求の文書を書く。400字詰め30枚。
草稿完了。

午前10時、床屋へ。30分ほど待たされ、30分ほどで終わる。
3万ドン(200円)。

先日の大風と大雨で「ハイリーホテル」の2階、3階の
ガラスドア4枚が破損。業者を呼んで修理。修理中業者が
間違って1枚破損。合計5枚の修理。


福島の会津城に行ったさい、会津藩の藩校「日新館」の
「什の掟」の手ぬぐいを買ってきた。

1、年長者の言うことに背いてはなりませぬ。
2、年長者にはおじきをしなければなりませぬ。
3、虚言(うそ)をついてはなりませぬ。
4、卑怯(ひきょう)な振る舞いをしてはなりませぬ。
5、弱いものをいじじめてはなりませぬ。
6、戸外で物を食べてはなりませぬ。
7、戸外で婦人と言葉を交わしてはなりませぬ。

ならぬことはならぬものです。

7、を除いては今日に通ずること。特に自民党の
政権投げ出し首相に言いたい。5人の総裁候補も
同じようなもの。

昼食。野菜の煮物、豚肉の甘辛煮、野菜スープ。



午後1時、昼寝。1時間。

読書「アマルティア・センー経済学と倫理学」(鈴木興太郎、
後藤玲子著:実教出版)

アマルティア・センの生い立ちと学業。
福祉経済学の歴史。

某大学学長への手紙、必要な資料等を全て揃え
抗議と謝罪要求の文書を同封する。

夕方、雨雲。合羽を着てベトナム事務所へ。

午後5時45分、日本料理店で夕食。

午後8時半、バオミンさんが地球の歩き方6班を引率して
フエ飛行場から夕食、ホテルへ。仕事が終わり、
日本料理店に立ち寄る。

バオミンさんからの話。フエ空港で空港警備員に泣きながら
話している日本人女性がいた。バオミンさんが通訳してやる。
2日前にホーチミン市に着き、マレーシア人とベトナム人の
若い男性と仲良くなった。二人に「お金を貸して欲しい」と
言われ、財布ごと貸してやった。財布にはカードも入っていた。
今日の夕方、ホーチミンの飛行場に財布を返しに来てくれる
との約束だった。飛行場に行く途中、飛行場に到着するまで
は、二人の男性に電話をすると通じた。ところが、いよいよ
飛行機が出発する時刻になっても二人の若者は来ない。
若い日本人女性は、不安になり二人に携帯電話をするが
通じない。フエ行きの飛行機が出発する時刻になり、
結局「無一文」でフエ空港についた。何とかして欲しいとの
はなし。空港警備隊は、ホーチミン市の空港で盗まれたのなら
空港警備隊で処理するが、2日目に盗まれたのなら、
ホーチミン市の警察に行くようにとのこと。
バオミンさんが日本人の若い女性に「どうしますか?」と
聞く。「分からない、分からない」とのこと。
警察に訴えるのか? フエ市内に行くのかは自分で決めなさい
とバオミンさんが言う。フエ市内にホテルを予約しているんで
ホテルに行きたいとのこと。バオミンさんは地球の歩き方
スタディーツアーの皆さんに事情を話し、その若い日本人
女性をバスに乗せてよいか了解を取る。乗せて良いとのこと。
ホテルまで乗せて、帰って着たとのこと。
何と無知で「腰軽」な女性なのか? 警戒心がないのではなく
無知で馬鹿としか言いようがない。初めてあった見知らぬ
外国人にカード入りの財布を渡す馬鹿がどこにいる、と言いたい。
最近、フエに来る若い女性を見ると「この種」の女性は多い。
警戒心がなく、安全神話に包み込まれ、何でも日本の
ようになると思っている。自業自得と言ったところだが
無一文ではフエ市内のホテルにいけない。バオミンさんの
救済は正解だったが、この種の女性は、バオミンさんの
善意を「善意」と理解できず、当たり前を思っている節がある。
日本人のどこかの神経が切れてしまった若者が増えているのは
事実である。常識という言葉がなくなってしまった。

投稿者 koyama : 20:53 | コメント (0)

2008年09月18日

「オアシスの会」関連懇談

晴天 気温32度。  夜雨。

朝起きて体調不良。頭痛・倦怠・喉痛。典型的な風邪症状。

午前7時朝食。フオー。




午前8時半。ベトナム事務所で「オアシスの会」の
船上生活者支援について、フービン地区人民委員会副委員長と
協議。「オアシスの会」代表大塚さん・小山・バオミン・税田。
2008年7月からフービン地区の船上生活者へ「オアシスの会」が
薬の支援を行っていた。当初、川に隣接する地域の廟
を診療所に船上生活者が船で廟まで来て、直ぐに診療が出来る
という約束だった。しかし診療所を勝手に代えて、徒歩で歩いて
行かないと診療が受けられない地域診療所にしてしまった。
また、薬代の支援と言う約束が「診療費の支援も」となってきた。
この2つの理由で当初の約束と違うのでフービン地区の
「オアシスの会」の診療を10月から中止する旨を通告。
フービン地区人民委員会副委員長もそうした事実を知らなかったが
事実なら申し訳ない。支援中止は了解したとのこと。


急いで、フエ市人民委員会外務部(国際交流センター)へ。
ニエン国際交流センター所長と「当面のいくつかの重要問題」
について協議。意見の一致を見る。バオミンさんと国際交流センター
副所長のホアン氏(私の第1期生の教え子)も同席。

帰りにバオミンさんと薬局により風邪薬を買う。仕事がたくさんある。
早期に治さないと仕事が出来ない。

午前11時半昼食。

リー君が床屋へ行った。さっぱりしている。日本の中学校の
野球部員のような感じ。

午後12時半、体調が悪く横になる。雨季に入り、1日の
気温の変化が大きい。体が気温の変化についていけない
現象と見た。1時間ほど寝る。

午後2時読書「グr-バリズムと不平等 階級社会」(ジェレミー・
シーブルック著 渡辺雅男訳:青土社)読了。

本書を読んでまず感じたことは、翻訳者の渡辺氏の日本語
能力の問題。つまり、英語の原書に忠実に翻訳をしている
点は評価できるが、日本語として何を言っているのかが
分からなかったり、非常に理解しにくかったりする。
翻訳本としての良くないところが出ている。
階級概念の歴史を説く。マルクスは組織された労働者を
意味しているが、グローバル化の中でG8などの労働者
自体が自らを「ミドルクラス」と意識している。
労働者が世界中に散らばり、今までの労働者概念では
把握できなくなっていると解く。途中経過を除き
最終的には著者は「左翼の歴史的課題が無効になった
からと言って、公正な世界を求めて活動する人々が
幻滅を感じる必要はない。社会正義を求める新しい
運動ははるかに広い人々を含んで沸き起こっている。
それには、メキシコのチャバス州のサバティスタ、インド
で多国籍企業の種子生産に抵抗している農民たち、
ヨーロッパで遺伝子組み合え作物に対する反対運動
をしている人々、アジアや中南米でブランド製品の
工場で働く現地労働者と彼らを支援する西欧の
支持者の運動、地球上の各文化のマグドナルド化と
ディズニーランド化に反対する抵抗運動、
全世界の先住民族の組織、都市の貧民の国境を
超えた協力関係、豊かな世界で有機農法への回帰、
過剰な消費に反対する運動、小規模な文化を守る
運動、地場産業の再評価と行政の中央集権化への
反対運動など」に階級と未来を求めている。

午後3時から午後5時まで「ナムドン山岳交流会」に
闖入してきた中国地方の大学講師の非常識な
行動について、学長への謝罪要求、講師本人が
直接私に会っての謝罪、大学としての再発防止の
取り組みについての抗議要求書を書きあげる。
1万3千字。400字原稿用紙30枚以上。

午後5時半。日本料理店へ。子どもたちと夕食。

川魚と野沢菜の油煮。もやしとインゲンの炒め物

午後7時半、「子どもの家」里親の友人が日本料理店へ。
午後9時まで飲みながら懇談。
今まで4回ほどフエに来ているとのこと。
2人のベトナム人日本語ガイドは、「小山さんの悪口を言っていた」
とのこと。小山はストリートチルドレンを出し(だし)にフエで贅沢な
生活をしているというのが、その趣旨。
小山はミニホテルを作り、金儲けをしていると話した男性日本語
ガイドは、自分自身のホテルに私たち日本人を泊めて時価の
倍の家賃を取っていた人物。よくこうした嘘が口から出るものだ
感心する。子どもたちや日本人を出しに巨額の富を稼いだのは
自分自身ではないかと言いたいが、この種の金の亡者に
言っても意味はない。いつかは、嘘はばれる。こういうガイドに
「JASSと小山は子どもたちを出しにして金儲けをしている。
フエで贅沢な生活をしている」などと聞かされると、知らない人は
少しは本当のことなのかと思ってしまう。反論できないところで
人を攻撃する人間の心の浅ましさを感じる。

午後9時、閉店。10数人の来客。
雨がポツリ、ポツリと降り出す。私は「ハイリーホテル」へ帰る。
リー君、大塚さん、税田さんは残務整理。

投稿者 koyama : 23:24 | コメント (0)

訪問者案内など

晴天  夕方大雨

午前7時朝食。
キャッサバの麺。

午前8時、ベトナム事務所へ。今日は中島いぶき先生の
誕生会。


みんなの寄せ書きを贈呈。


地球の歩き方スタディーツアーで「子どもの家」の話を聞いた
という大学生がベトナム事務所を訪問、対応。

午前10時からタクシーで「縫製研修センター」、「子どもの家」
を案内。午前11時過ぎまで。

「縫製研修センター」では若者向けの新しいシャツのサンプルを
作っていた。

ベトナム事務所3階の刺繍みやげ物店には、地球の歩き方5班の
皆さんが支援の買い物中。


午前11時半、「ハイリーホテル」へ帰り昼食。


午後12時半から昼寝。1時間。

その後、北星学園女子中高の先生と電話連絡。講演会の
打ち合わせ。

札幌芸術高校講演会の打ち合わせなどのメール送信。
関係するメールの送信。

ODA支援による「縫製研修センター」の完了報告書を書きあげる。
かなり詳細な報告書を書く。

午後5時過ぎ、日本料理店。午後2時から停電。

午後5時半夕食。今日、新しく生ビールをいれたとのこと。
しかし、午後2時から停電のため生ビールは冷えていないと
関係者は言う。一応確かめて見ると言い、生ビールを
飲んで見る。バッチリ冷えている。と言うことは、ガスで冷やして
いることが分かる。

午後9時半閉店。7人の来客。日本人1人、欧米人6人。

午後10時前一人で「ハイリーホテル」へ。
大塚さん、税田さん、リー君は残務整理で少し遅くなる。

受信メールを読む。返信。

投稿者 koyama : 00:20 | コメント (0)

2008年09月16日

地球の歩き方5班日本料理店晩餐会

晴天 夕方豪雨

気温32度。

午前7時朝食。
ブンボー。とても美味しい。


午前9時、フエ省警察幹部2名がベトナム事務所へ。
1時間半ほど懇談。

午前11時半、昼食。

インゲンの炒め物、揚げ魚、野菜スープ




午後12時半から1時間ほど昼寝。
気候の変わり目。夏から秋・雨季に入る。
気候の変動も大きい。起きていても終日体がだるい。

読書「グローバリズムと不平等 階級社会」

2件、日本からの電話あり。訪問者よりの打ち合わせ。

ハノイの大使館に電話。いくつかの打ち合わせを行う。

「縫製研修センター」ODA支援の完了報告書を書き上げる。


ある賞の申請書を書き上げ、推薦者のWさんに送信する。

途中、バオミンさんと電話でいくつかの打ち合わせ。

午後6時半、地球の歩き方5班の晩餐会を日本料理店
で行う。
日本料理店厨房では今日のお客さんの夕食作り



午後6時半、地球の歩き方5班の晩餐会。

バオミンさんとソン君が夕食のメニューの紹介。


このスタディーツアー中に誕生日を迎える方の誕生会を
行う。

参加者の発声で乾杯。

バオミンさん、石上先生、ソン君、私が参加。

晩餐会の「コロッケ」。

野菜サラダ

晩餐交流会の最後に日本料理店スタッフの自己紹介


午後9時。晩餐会終了。全員で記念写真を撮る


午後9時半「ハイリーホテル」へ帰る。
大塚さん、税田さん、リー君は残務整理で日本料理店に残る。

自民党の総裁選挙が行われているそうだ。
残念ながらベトナムで日本のテレビが見られないので
何といえないが。5人の候補者があまりにも「小粒」。
テレビで何か言っているようだが、一政党の「茶番劇」。
テレビ、マスコミで報道する価値はない。

NY株式市場は504ドル安の急落、87年のブラックマンデー
並みとなった。欧州株も全面安となり、東証株価も618円安で
1万2000円を大きく割り込んだ。このまま行ったら、
リーマン破綻が世界大恐慌の引きがねになる可能性もある。
世界恐慌の前兆が現れている時に5人の候補者の意見を
インターネットで見ると、ピンボケ状態。
この種の人間に政権を任せることは出来ない。

投稿者 koyama : 19:05 | コメント (0)

2008年09月15日

フエ高等師範大開講式

終日晴天


午前6時起床。
午前6時50分、「ハイリーホテル」にバオミンさんが迎えに来る。
今日はフエ高等師範大の開講式。日本流に言えば新学期の
始業式兼入学式。
しばらく来賓控え室で待つ。オーストラリア人の英語の先生と
一緒に。



午前8時半開講式開会。学長、フエ省副知事の後ろに
ベトナム事務所員は座席を指定される。

初めに参加者紹介。フエ省知事・フエ省副知事・フエ省教育局長
など共産党員のみの紹介。「ドンチイー」(同士)と言う言葉で
紹介される。5人目位に私の紹介。その後も「ドンチー」と言って
共産党の各組織の代表の紹介。結局、外国人で共産党と関係ない
人物は私だけの紹介だった。

開講式会場には4000人の学生が参加。フエ最大の体育館
が使用された。


1年生から3年生まで。4000人もいると一人一人の
学生の顔は見えない。

●学長の挨拶

●在校生の新入生への励ましの言葉。日本語学科の2年生。


式典後半は踊りとカラオケ大会。

午前11時半、昼食。

午後1時昼寝。30分。
読書「グローバリズムと階級社会」
イギリスの歴史を語りながら、階級の概念と実質の変容、
グローバリズムの歴史を解き明かす。
今日の日本の歩んだ道をイギリスは既に同じ道を歩んで
来たことが分かる。

9月8日、ナムドン山岳少数山岳民族との交流に「闖入」してきた
日本人への抗議文を書く。

午後5時過ぎ、日本料理店へ。夕食。
今日は「中秋祭り」の最終日。
何組かの中秋の獅子舞が日本料理店にやって来た。
幾ばくかお金を上げる。お金を上げても見るべき価値の
ある「芸」を披露していた。

午後9時。日本料理店閉店。
リー君、石上先生、千草先生と「ハイリーホテル」へ帰る。
大塚さん、税田さんは最後の日本料理店の整理。

投稿者 koyama : 23:36 | コメント (0)

2008年09月14日

ピースボートダナンへ

雨が降ったり、暑かったり。気候の変わり目。

午前7時起床。昨日の1日は、本当に忙しかった。
今朝は体が動かない。1日中、直ぐに横になりたい
状態だった。


午前7時半、ご飯1合を炊く。
昨夜のピースボートの残り物である「ロールキャベツ」2つを
おかずに5勺のご飯を食べる。心臓の薬を飲む。
体がだるい。ベッドにしばらく横になっている。
やはりかなり体に無理をしていることが分かりる。
ベッドに横になると寝てしまった。気が付くと午前10時半。
急いでバオミンさんに電話。今日は私の出番ではないが
やはり気になる。急いで「子どもの家」へ行こうと電動バイク
に乗ったが、電気が通じない。色々と工夫したがとうとう無理だった。

タクシーに電話。ミニホテルとホテル前の山羊肉屋の名前を
言うがタクシー会社のオペレーターは分からないという。
仕方がないのでハイ君に代わってもらうが、オペレーターは
分からないと言って電話を切っていまう。
馬鹿なオペレーター。自分が無能なのに。
仕方がないのでバオミンさんに電話。タクシーを呼んでもらう。
5分で来る。バオミンさんも私たちと同じようにホテルの名前と
ホテル前の山羊肉屋の名前を言ったら直ぐ分かったとのこと。
このタクシー会社には3人ほど女性のオペレーターがいるが
私の当たった女性は推測力に乏しい人だったようだ。
正確に言えば、フエの地図が頭に入っていない人。
タクシーのオペレーターと言う仕事をなめている人である。

午前11時過ぎ、「子どもの家」へ。
ピースボートは「子どもの家」の子どもたちと昼食も終わり、
交流をしていた。いよいよダナンへ帰る時刻。
全員で記念写真。

午前11時半。シクロで王宮前のバスターミナルまで行く。


午後1時過ぎ、「ハイリーホテル」へ。
昼寝。というか、立っていられなかった。2時間ほど睡眠。

読書「グローバリズムと不平等 階級社会」。

午後4時過ぎ、電動バイクに雨水が入っているから
電気がつかないのではと思い、ドライヤーで電動バイクの
電気系統を乾かす。電気が付く。
その足で夕食の「コムディア(ほか弁)」を買いに行く。
5分ほど電動バイクに乗ったら電気が消える。
結局、「ハイリーホテル」に戻る。近所の子どもたちが
「ハイリーホテル」
の玄関で遊んでいる。「人の家の玄関で遊んでは駄目」と
子どもたちに言う。一人の子供が、私を馬鹿にしたような態度で
へらへら笑っている。私はそいつを捕まえて、「ハイリーホテル」の
中に入れる。そいつがもっていたビールの王冠50個位の箱を
床に叩きつけ、そいつを朝食を食べる椅子に座らせ、違う椅子を
何度も蹴飛ばす。こどもは青い顔になり、泣き出す。泣いても
何度も私は他の椅子をバンバン蹴飛ばす。こどもは椅子を
蹴飛ばす行為自体に驚きを感ずる。30分ほど懲らしめる。
夜、日本語教師が「ハイリーホテル」に帰って来ると子どもたちが
玄関で遊んでいて日本語教師を室内に入れさせないと言う。
警備員のハイ君が注意しても聞かない「悪がき」。
共産党の幹部の子どもたちか一時成金の子どもたち。
「ハイリーホテル」付近は一時成金か共産党幹部が作った
新興住宅地。これらの子どもたちは「怖い」ということを知らない。
何でも自分の思い通りになりと錯覚している。この際、
自分の思い通りにならない人間がいると言うことを教え
日本人になめた態度をとったら、とんでもないことになる
ということを教えておくことが必要と判断。子どもは
30分ほど泣いていたが、その間、私は彼の座っている
椅子の2・3個隣の椅子を靴でけりまくった。
子どもたちは恐怖で青い顔をしていた。
私は疲れたので椅子に座る。するとハイ警備員が
子どもにお説教を垂れる。かなり怒鳴りながら。ハイ君も
状況を察知して警備員の仕事に「復帰」したのかと思う。
お灸も大体すえ終わったので子どもを帰す。「他の子どもたちに
言っておけ。このホテルは日本人がいる。勝手に入ったら
直ぐに警察に言って捕まえる。玄関で日本人の女性に
なめ%E

投稿者 koyama : 20:29 | コメント (0)

2008年09月13日

地球の歩き方5班講演会:Aさんの家庭訪問:ピースボート出迎え

断続的に雨  気温も30度前後。寒い。

午前7時朝食。今週2回目のインスタントラーメンのお湯入り。
ひと口食べたら喉を通らなかった。二口食べて挫折。

午前7時45分、ベトナム事務所へ。
午前8時過ぎ、地球の歩き方5班の皆さんとベトナム事務所員の
顔合わせ。

ベトナム事務所員の自己紹介

そのまま地球の歩き方5班の皆さんと一緒に「子どもの家」へ。
午前8時45分から午前10時まで私の講演会。

午前10時過ぎ講演会を終わり、子どもたちの歓迎交流会が始る。

セン運営委員長の挨拶

ここまでプログラムが進んだ時、日本料理店からミンさんに電話。
日本料理店スタッフのAさんのお母さんが緊急入院した
とのこと。Aさんは憔悴しきっている。大塚さん・税田さん
が日本料理店でAさんと話し合っているが、私に来てもらいたい
とのこと。

地球の歩き方スタディーツアーの歓迎会はバオミンさんと
ソン君に任せ、タクシーで日本料理店へ。

日本料理店でAさん、大塚さん・税田さん、そしてハンさんの
通訳で何が起こったのかを聞く。
しばらくまえにAさんの家(農村)に泥棒が入り、Aさんの
祖母から預かっていた金の指輪8個が盗まれた。
Aさんの父親は1999年のフエ大洪水で死亡。
母親とAさん、妹、二人の弟で生活。わずかな米を作り、
庶民のお菓子のような「バイロック」を作り市場で売って
生計を立てている。生活が出来ないため、Aさんと
妹のBさんが、「子どもの家」に入所している。
Aさんは日本料理店に勤めるようになって「子どもの家」を
退所し、農家の自宅から通っている。
亡くなった父親の弟が祖母の金の指輪8個を預かっていたが、
自宅を新築だか改築だかするので、その間物騒なので
Aさんのお母さんに祖母の指を預け、泥棒に取られた
という状況である。先日、母親とAさんを呼んで泥棒に
あった時の様子を詳細に聞いた。結論的には、泥棒は
他のところは一切手をつけず、一直線に家の奥の
分からないところに母親が隠しておいた金の指輪だけ
盗んでいった。他の場所は全くあらされていなかった。
ということは、Aさんの母親が金の指輪を預かっている
ことを知っている人の仕業とみるのが妥当なところ。

その後、Aさんの母の亡くなった夫の母親と夫の弟(家を新築中)、
その兄弟がよってたかって「指輪はAさんの母が、盗んだのだ。
泥棒に取られたというのは嘘だ」「金の指輪8個分のお金を返せ」
と毎日のように家に来て、Aさんの家族を脅迫。とうとう、Aさんの
母親は心労が溜まり、Aさんの母親の弟の手配で昨夜、
病院に入院したということが分かった。奇怪な指輪盗難事件である。
「嫁」の立場のAさんの母親は、祖母や父方の親族の不当な
要求に対して何もいえない立場にある。これは、ベトナムの農村の
実態である。私見ではあるが、一番怪しいのは、家を新築し
母親の指輪8個を預かっていた父の弟だ。
彼はAさんの母親が指輪を持っていることを知っている唯一の
確かな人物なのである。ベトナム社会の金権主義の実態でも
ある。父方の祖母を先頭に父方の兄弟が連日、嫁のAさんの
母親を責めにやってくる。Aさんの家が遠く、日本料理店の帰りが
遅くなり物騒なので、私たちがお金を貸して、Aさんは、安い
オートバイを1台買い、通勤に使っている。父方の親族は
Aさんのお母さんに「おまえの娘が乗っているオートバイも
お前が祖母の金の指輪を盗んで売って買ったのだろう」
と攻め立てているとのこと。昨夜、日本料理店でAさんは、
「自分は死にたい」ともらしていたという。
私はこれは急いでAさんの母の入院している病院にいき、
Aさんの母親の病状を知ること、病状が悪化していたら
フエ中央病院に入院させること、必要ならAさんの母親の弟を
呼んで今後の対応について助言をすべきと考えた。
既に時刻は午前11時過ぎ。私は午後2時半にピースボートを
迎えにダナンへ行かなければならないが、とにかく、その時間
をぬってAさんの母親の入院している病院へ通訳のハンさんを
連れて行くことのにした。タクシーを呼び、私、Aさん、ハンさんで
フエ市内から郊外まで行く。途中、Aさんが、もしかしたら母親は家に
いるかも知れないというので、一応、Aさんの家に行く。
田舎の田んぼの中の小さな市場の近くであった。

Aさんの家(といっても1間の小さな家である)にはいるなり、
中で女性が大声で泣いているのが聞こえる。
薄暗い粗末な部屋の中へ入る。女性が部屋の隅に寝転んで
大声で泣いている。人が入って来る気配に気づいていないようである。
Aさんが「お母さん、小山先生が来たよ」と声をかける。
母はそれでも泣き続けていた。連日の父方の親戚の
脅迫にも似た「嫁いびり」ですっかり参ってしまった母親。
嫁として姑から頼まれれば金の指輪の預かりを断れなかった。
挙句の果てに「お前が盗んだ」「金代を帰せ」と毎日、家に来て
責められている母親は、何の対応も出来ない。ベトナムの
田舎の嫁の現状である。ただ泣いているだけしか知恵を
持たないAさんの母親を責めることは出来ない。
小さな農村社会・共同体である。夫をなくし、4人の
こどもを抱えて、夫の親族と事を構えるほどの財政力がない、
収入もない。結局、夫の親族一同のいびりにも似た嫌がらせ
に泣いて耐えるしかない。昔は貧しい中お互いの協力・共同で
生活していたベトナムの農村社会にも「ドイモイ」の波は
容赦ないなく押し寄せてきている。父の弟は家を新築するほどの
財産があるのだ。兄が洪水で死んだら、財政力のある弟がAさん
一家を助けるのが、ドイモイ前のベトナムの農村社会だった。
しかし、ドイモイで社会に資本主義が導入され、お金お金の
社会になった。自分だけでもお金をたくさん手に入れて、
贅沢な生活をしたいという風潮は都会を中心に農村まで
広がってきている。フエ市内でも私の身の回りを見れば
お金に目がくらみ、人間の一番大事な「恩」という言葉を忘れて
しまった元JASS関係者もいる。この例一つを見ても
ベトナム社会の金権主義は人間性そのものを破壊している
ことが分かる。Aさんとその一族の問題を見れば、金権主義が
農村まで波及してきていることが窺える。

私はAさんの母親に「泣かないように。私たちが一緒になって
問題を考え、解決するから」と話す。母親はやっと泣くのを
やめ、起き上がる。「小山さんには二人の娘がお世話になっている。
感謝いている」とお礼を言う。なかなか礼儀正しいしっかりした
母親である。私はAさんに言って丁度いい機会だから「お母さんの
弟を呼んで来て欲しい」と頼む。Aさんは急いで母親の実の弟
を呼びに行く。父方も母方の親戚もほぼ同じ地域に住んでいるの
である。

弟がやってくる。母親と弟と話す。「何が最大の問題なのか?」
「どうすれば、問題は解決するのか?」を話し合う。
私などの発想では「父方の兄弟にケツをまくって、つきあわなければ
いいのでは?」など考えるが、父方・母方の親族一同が同一の
地域で代々生活しているこの種の農村共同体では、その共同体
からの離脱は、人生からの離脱と同じ意味をもつ。

結局、母親はこの場所から離れることは出来ない。ということは、
父方の親族と折り合いをつけて生きていかなければならない。
解決策は不当だが、父方親族が毎日母親を攻め立てる道具で
ある「預かった金の指輪12.5個分のお金を返せ」という無理難題
にしかたないが応じるしかない、しかし、そのお金が全くない
貧乏暮らし。そのためになす術がなく母親は毎日朝から晩まで
Aさんと妹、弟の前で泣いているだけだったのだ。それを見て
Aさん自身もどうしようもなくなり、自分も死んだほうが楽だと
考え始めていた。
(急に金の指輪が8個から12、5個に増えていた。
父方の親族の言い分だそうだ)

母親・弟などの話を聞いて、この問題は早急に解決しないと
思わない方向に事態が進展する可能性を秘めていることが
分かった。つまり、母親とAさんに何らかの異常行動を起こす
可能性を否定できない。母親もAさんも常識をわきまえ、
真面目な人間であることは、私も大塚さんも税田さんも
日常の付き合いの中で確認している。

「分かりました。父方の親族が言ってきている12、5個分の
金代を現金で返しましょう。当面、私がAさんの家に貸します。
返済の仕方は今後考えましょう。その代わり条件があります。
一つは、父方の親族に返済したお金の領収書をもらうこと、
二つ目が、このお金を返済したことで、指輪盗難事件に
ついては今後何も言わないという証文を書く」。
母親も弟もそうします。ありがたいとのこと。
当面、毎日のようにやってくる父方親族と戦う人がいない
中で、母親とAさんが追い詰められ、どう行動するかは
私たちも推測できない。万一の事態を回避することが
当面の目標と私は判断した。私たちがいつもAさんや
母親の家にいて、父方親戚と戦えるのなら色々と選択肢
もあるのだが・・・・・・。
とりあえず、遠隔操作ではあるが、当面の解決を図る。
母親も弟もAさんも本当に喜んでいた。弟も財政力はないが
やさしそうな人で父方のずうずうしい連中と渡り合える
人間ではない。とりあえず、当面の問題を解決はしたが、
この複雑怪奇な人間関係、農村社会の関係は変らない。
今後、新たな問題が起こる可能性は濃厚。

とりあえずの解決をさせて、日本料理店に帰る。
大塚さん・税田さんに報告。午後1時半を過ぎていた。
朝食のインスタントラーメは二口しか食べていない。
空腹。税田さんが肉まんを買ってきてくれていた。
肉まんを1つ半食べる。

午後2時半、クアンさん、ソン君と車でピースボートが着岸する
ダナン港へ。3時間。午後5時半、ダナンへ着く。

24人の「子どもの家」訪問団を乗せて再びバスで一路フエへ。
バスの中でベトナム社会・歴史、「子どもの家」のことなどを説明。

午後7時半過ぎ、「子どもの家」へ到着。
今日は「中秋祭り」(日本の中秋の名月。ベトナムでは
子どもの日)

ピースボートの皆さんと一緒に「中秋祭り」を祝う。

セン委員長の「挨拶」


小山のお祝いのことば

子どもたちの獅子舞


子どもたちの歓迎の踊り

ピースボートの皆さんから文房具の支援物資を頂く。

参加者全員で子どもたちにお菓子や果物などをプレゼントする


午後9時前「子どもの家」での行事を終了し、日本料理店。

バオミンさん・リー団長がメニューを説明。


会食となる。

フダ生ビールを堪能。



中秋のお祝いで近所の子どもたちの獅子舞がやってくる


日本料理店スタッフの紹介

午後10時過ぎにピースボートの夕食会が終了。
子どもたち・日本人スタッフで後片付け。

午後11時前にリー君、石上さん、私で「ハイリーホテル」へ
帰る。税田さん・大塚さんは少し残った後片付け。

リー君が「今日は土曜日だから飲もう」と誘う。
今日は私自身は朝から午後10時過ぎまで仕事の連続。
午前中、1時間ちょっとの講演会。昼は農村で家族問題の
解決、午後はダナンまで行き、車中1時間半ほど話を
する。「子どもの家」での交流会、日本料理店と続く。
本当に疲労困憊。しかし、リー君も店長になってから
仕事中は一切飲まなくなった。勤務時間も1時間前には
出勤し、日本料理店の玄関を書き清め、机を揃えと
本当によく仕事をしている。ハイ君も読んで近くの
路上の飲み屋で3人で飲む。

午後11時半過ぎまで私は飲む。体力の限界。
私はそこで失礼。リー君とハイ君は更に続く。

投稿者 koyama : 10:52 | コメント (0)

2008年09月12日

地球の歩き方5班の出迎え

終日雨

昼の気温30度。午後6時の気温28度。寒く感じる。

午前7時朝食。朝、肌寒く感ずる。精進料理うどん。

午前中、静岡大学関連の文書を書く。
静岡大学の教務部長先生へ電話。いつくかの打ち合わせ。

ある「賞」の申請書を渡辺和代さんが探して送信してくれる。
必要事項を記入する作業を始める。

午前11時半。昼食。

海老と豚の甘辛煮、空芯菜のニンニク炒め、野菜スープ。

午後12時半から昼寝。気候が急変し、寒くなり体調も良くない。
だるい。疲労もたまり頭が働かない時に限って、頭を使う仕事
がたくさんある。現在、10個ほどの仕事を平行して進めている。
寝ている時も、横になっている時も常にこれらの問題の
解決策を考えている。最善の策は何かを。子どもたちに
取って何が一番良い策なのか? 全ての可能性の
シュミレーションをいつも頭の中で行っている。

30分昼寝をしたが直ぐに目が覚めてしまう。

読書「グローバリズムと不平等 階級社会」
イギリス人の著作だが、非常に興味をそそる内容。
世界で最初に工業化したイギリスで労働者がどのように
発生し、どのような階級・階層の中に位置していたのか?
労働者の運動はイギリスではどのような歴史と展開をしたのか
を歴史的に辿ってゆく。『階級』という言葉の語源から始る。
ラテン語のCLASSISであり古代ローマ人が課税の目的で
6つの身分(RANKやSTATION)に分けられていたことを
意味する。西欧では階級(CLASS)という言った概念が意味を
持つ以前、個人の社会的な地位の表現として使われた。
中世では3つの身分(ESTATE)。貴族・聖職者・平民。
階級(CLASS)という言葉が使われるようになったのは、
18世紀フランスの「百科全書派」の著作以降。
マルクスがブルジョアジ(仏語)ーとプロレタリアート(仏語)との間
には非和解的な利害の対立があるとの見解を表明。マルクスは
階級が生産手段に対する関係を表現していると喝破した。
資本家は作業場や鉱山工場を所有し、労働者は
売るべき労働力以外何も持たない。
プロレタリアートの語源はラテン語のPROLETARII。
これは最下層の貧困階級を意味し、子孫を残す以外に
資産を持たない人々を指す言葉であった。その意味では
現在の私は100%PROLETARIIであるといいたいが、
「子孫を残す以外に資産を持たない」の「子孫を残す」
の部分にさえ既にその資格を失っているような感触を
もっているので、PROLETARIIを僭称することさえできない
存在なのかもしれない。社会の最下層のPROLETARII
の更に下層に私は位置しているのかもしれない。
英語でプロレタリアートは、1853年に最下層の階級を
軽蔑して使われたのが最初の現代的な用例だそうだ。

ブルジョアジーは少し複雑な経過をたどっている。ラテン語の
BURGUSとドイツ語のBURGが「城塞」によって守られた
町を意味する。そこから中世のフランスでは農民や貴族に
対する市民を表す言葉であった。17世紀、フランスでは
商業的中産階級(貿易や商取引に従事する人)を指していた。
フランス革命前、貴族はブルジョワジーという言葉には
軽蔑の意味を込めて使っていた。英語圏では、今でも
プロレタリアートもブルジョアジーも外国語の響きを
持っているそうだ。

午後3時、引き続き「某賞」への申請書を書く。

午後5時半、地球の歩き方5班の宿泊するホテルへ行き、
バスでフエ空港へ。今朝、バオミンさんがホーチミン空港へ
出迎えに行った地球の歩き方5班の皆さん(14人)が
午後6時20分にフエ空港へ到着。今回は小学校1年生も
参加。私とクアンさん、バオミンさんで市内まで案内。

市内のフォー(米の麺)専門店でフォーの夕食。

午後8時、地球の歩き方5班の投宿するホテルへ到着。

諸注意を行い、ホテルで20分ほど待機し、問題がないことを確認し
引き上げる。

投稿者 koyama : 22:29 | コメント (0)

2008年09月11日

VISTAの皆さんとの懇談:フエ市国際交流委員会懇談

7年前の2001年9月11日、NYで卑劣なテロがあった。
犠牲者の死を悼み、いかなるテロリズムも憎む。
アメリカのアフガニスタン、イラクで現在行っている
「国家によるテロリズム」も同時に憎む。


雨季に入る。終日断続的な雨

午前7時朝食。キャッサバのうどん。

午前8時、ベトナム事務所から電話。シクロの運転手と弟が
ベトナム事務所に謝りに来ているという。
急いでベトナム事務所へ。

先日の「シクロ事件は、小山さんも普通の観光者だと思い、警察を
呼べなどとひどいことを言ってしまった。私は10人兄弟で貧しい。
シクロの運転手になって5日目だった。その日はお金がなく
1日食事をしていなかった。悪いと思ったが、違法にお金を請求
してしまった。悪いと思っている。反省している。許して欲しい」。

私は告訴を取り下げてもいい。条件は一つ。「JASSやその関係者
になめた態度をとったら、直ぐに警察に連絡し5分以内に警察が
来ると、貴方が体験したことをシクロ仲間、オートバイタクシー
仲間に言って欲しい」。


午前9時、「VISTA 大学生による大学生のための
WARLD WIDE NEWS MAGAZINE」の皆さん
3人がベトナム事務所を訪問。首都圏を中心にした
大学による海外情報マガジン。枯れ葉剤、障害児、
ストリートチルドレンなどの話をする。午前11時半まで。


午前11時45分、「ハイリーホテル」で昼食。


午後2時半、ベトナム事務所から電話。
シクロの母親と当人が再度ベトナム事務所に来ているとのこと。
急いでベトナム事務所へ。
警察に行ったが、小山さんが告訴を取り下げていないので
逮捕すると言われたとのこと。
バオミンさんに告訴取り下げの文書をベトナム語で書いてもらい、
私のサインをする。母親が戸籍謄本のような書類を持ってくる。
10人の子どもたちの名前が列挙。母親はピーナッツを町で
売って生計を立ているという。1日頑張って仕事をしても
300円程度の収入。私に告訴されたシクロの運転手は
長男。私はこうした人をいじめる気持ちはない。しかし、
仕事をしないで観光客を脅してお金を取るような仕事の仕方は
絶対に認めないと話す。


午後3時半から、バオミンさん・税田さんと当面の重要問題に
ついて協議。

午後5時、フエ市人民委員会国際交流委員会のニエン委員長と
懇談。いくつかの問題を協議。

午後6時、日本料理店へ。日本料理店は日曜日の出勤が続いたので
ベトナムの労働基準法に従って、9月10日、11日を休みにした。
今日は子どもたちから好きな日本料理のパーティーをしたいとの
申し出があり、夕食会を開く。

●海鮮ドン

●ごぼうのてんぷら、豚の角煮、枝豆

午後9時までバオミンさん、税田さん、大塚さん、千草先生、
リー君などと世間話をして飲む。

読書「グローバリズムと不平等 階級社会」
(ジェレミー・シーブルック著:渡辺雅男訳:青土社)
私としては一番読みにくい本である。学術図書であり
翻訳物。英語の直訳的な文書は一番読みにくい。
翻訳者の「日本語能力」が最大限問われている。
イギリス社会とアメリカの歴史をたどり、階級という
概念がどのように変化してきたのかを考察している。

投稿者 koyama : 23:11 | コメント (0)

2008年09月10日

関係者にいくつかのメールを送信:オーストラリア人と懇談

いよいよ雨季が始った。今日は断続的に雨。夕方には
豪雨。

朝から雨。
午前7時朝食。フォー。食事を作ってくれるベトナムの主婦は
本当に料理がうまい。フォーは出汁に脂が乗っている。



停電。「ハイリーホテル」で仕事が出来ずベトナム事務所へ。
ヤッケを着ていく。
ベトナム事務所で必要なメール送信。受信。
少し長文の文書を送信。
ハンさんと四方山話。

午前11時半昼食。



午後12時半から昼寝。断続的に小雨。大雨の繰り返し。

午後2時、読書「片想い」(中島みゆき著:新潮文庫)読了。
1987年版。この当時、この手の本が売れたのかどうかは
分からないが、毒にも薬にもならない対談集。
しかし私のねらいは、中島みゆきの「バックグランド」を少しでも
知りたいということ。その点ではいくつか対談や「オールナイトニッポン」
の現場中継の中で分かったこともあった。
中島みゆきの本名が「中島美雪」ということ。帯広に住んでいたことが
あったこと、札幌に母親と弟がいること。1987年当時30歳。
ということは現在55歳。
5歳からピアノを習っていたこと。紫外線アレルギー。
あまり人付き合いは好きではないこと・・・。岩城弘之、河島英五、
桃井かおりとの対談は読んでも価値のあるもの。
私の一番好きな中島みゆきの歌「狼になりたい」は吉野家の牛丼屋
が舞台。何度もこのCDを聞いて、中島みゆきがどうして「あそこまで」
吉野家の実態を知っているのだろうと思っていた。
ヒット曲を多数だして吉野家の牛丼屋に行くことができるのだろうか、
などと不思議に思っていた。本書を読んで石狩の藤女子大に通って
いた時、吉野屋の牛丼でアルバイトをしていたことが分かった。
中島みゆきの曲よりも歌詞に私はいたく興味を持っている。
私の想像ではこの歌詞の内容の大半は、中島みゆきの
実体験から得た「教訓」から引き出されたものと見た。

関係者にメール送信。

午後4時、ベトナム事務所のいぶき先生から電話。
オーストラリア人がベトナム事務所に来ている、
私に会いたいと言っているとのこと。

急いでベトナム事務所へ。雨。カッパを着ていく。
オーストラリア人はに英文観光ガイドブック「ロンリープラネット」
を見て、トンチンカンホテルの
日本料理店に行ったそうだ。(ここは、私が作った
日本料理店を現オーナーがそのまま使っている。
ロンリープラネットを読んだお客さんはJASSが経営し
ストリートチルドレンや貧しい子どもたちを助けている
日本料理店と思い、勘違いして入店している。)

このオーストラリア人は、トンチンカン日本料理店を訪ねたが
どうも小山さんのやっている日本料理店ではないと思ったという。
夫が日本人で日本語はぺらぺら。「あの日本料理店は日本料理店
ではないです。中国料理店です」と言っていたい。
真っ当な日本人ならこの手の日本料理店は
どう見ても日本料理店ではないと分かる。誰が見ても中華料理店。
ニセモンは日本人なら誰でもわかる。夫が日本人なので
このオーストラリア人は「偽者と看破」した。
そんな事情で町を捜し歩いてやっと、私の事務所に
たどり着いたという。
夫はシドニニーの高校の物理の先生。娘さんは医科大学生。
娘さんの勧めでベトナム旅行をしているとのこと。
医科大生の娘さんがJASSでのボランティアをしたいとのこと。

午後6時頃、税田さんから電話。ベトナム事務所に着いたとのこと。
急いでベトナム事務所の1階に行く。バオミンさん、大塚さんがいる。
ご苦労様。マルサの佐藤さんと日本からお呼びした縫製の
社長さんたちの視察を終わり帰ってきたとのこと。
税田さん・大塚さんは二人で夕食。バオミンさんは自宅へ。
2階に千草先生がいたが、石上先生と合流し夕食。
今日と明日は日曜日に出勤した「代休」の休日。
日本料理店は従業員にベトナムの労働基準法に基づく
勤務時間と休日を適法に保障している。
今日と明日は日本料理店は休日。

私は雨の中「ハイリーホテル」へ帰る。
支援者から頂いたおつまみでフダビールを少し飲む。
中島みゆきのCDを聞きながらこの日記を書いている。
中島みゆきは「良い」。この人の歌は、上っ面の皮を破って
自分の女の本音を歌っている。本物の詞であり詩だ。

午後10時。就寝。私の睡眠導入剤は「獅子てんや・瀬戸わんや」
の漫才、「Wけんじ(東けんじ・宮城けんじ)の196年代の
漫才を聞きながら寝ることだ。
今流行の関西系吉本のどぎつい漫才とは一線を画し、
「目立たず」「そっと」「粋な」漫才。毎晩、これを聞きながら
眠りに入る。

投稿者 koyama : 22:00 | コメント (0)

2008年09月09日

縫製研修センター関連の仕事:北星学園大:地球の歩き方ツアー4班晩餐会

晴天

少しずつ「雨季」が近づいてきた。暑いが時々小雨が降る。
夕方大雨。

午前5時過ぎ、マルサの佐藤社長から電話。
午前5時半、東京の次男に電話。飛行機関係の
ことを聞く。佐藤さんに返事をする。

今日も3つのスタディーツアーを担当している。
地球の歩き方ツアー・北星学園大・大学生協ツアー。

午前7時朝食。ブンボー。


午前7時半、バオミンさんが「ハイリーホテル」へ車で
迎えに来てくれる。一緒にフエ空港へ。
午前8時半、ホーチミン市からの飛行機が到着。
佐藤さんと日本の縫製関係の会社に社長さんたち
3人が来訪。縫製研修センターへの仕事の発注を
お願いしている。その視察。

最初にフエ市内の刺繍工場を視察。
JASS「縫製研修センター」は、「平成20年度
国際ボランティア貯金の交付金の配分を受けてのプロジェクト」

の実施である。

その後、縫製研修センターへ。
縫製研修センターでは、既に30種類のサンプルを作っている。


最近、若者向けの新しいサンプルを作る。

縫製研修センター内を視察。


特殊なミシンが何台もある。

縫製研修センターから「子どもの家」へ。
「子どもの家」には、静岡大学に留学していたファットさんが
会社の社長さんと視察に来ていた。挨拶をする。


日本から来た縫製関係の社長さんたちに「子どもの家」の
各施設を案内。午前11時過ぎとなる。

そのまま私は「子どもの家」に残り、北星学園大学の
皆さんの反省会と昼食会へ。
バオミンさん、税田さんは佐藤社長、縫製関係の社長さん
たちとランコーへ。今夜はランコー泊。明日は、ダナンの
税関、縫製工場等視察。

私は北星学園大学の皆さんと一緒に日本料理店へ。
最初に昼食を共にする。大塚さんの配慮で「親子丼」、
蓮のキンピラ、浅漬け、味噌汁の昼食。


昼食後、今回のスタディーツアーの反省を行う。
一人一人に「スタディーツアーの感想」「問題点」
などを発表してもらう。

午後1時半、「ハイリーホテル」に戻る。
30分昼寝。

読書「片想い」(中島みゆき著)

午後4時過ぎ、北星学園大学の皆さんのホテルへ。

ソン君と皆さんを案内してフエ空港へ。少し早く到着した
ため、若干空港で待つ。チェックイン。



午後5時過ぎ、チェックイン終了。皆さんは空港内待合室へ
入る。

4日間ほどのお付き合いではあったは、いまどきの若者
という人もいるが、中々真面目で素直な学生さんであった。
また、日本料理店・日本語学校などでもよく体を動かし
仕事をした。今後の大いなる成長を祈るものである。

ソン君とベトナム事務所へ戻る。

午後6時半過ぎ、地球の歩き方ツアー4班のお別れ晩餐会。

今日誕生日の人がいて誕生祝。

投稿者 koyama : 20:12 | コメント (0)

2008年09月08日

地球の歩き方ツアーナムドン山岳少数民族訪問交流

晴天  午後雨

午前6時の「ハイリーホテル」5階日陰の気温28度。
少し涼しくなってきた。雨の降る回数も増えてきた。
少しずつではあるが、雨季に近づいてきたことは
確かである。15年間のフエ滞在の経験では、9月15日
に台風が来て第1回目の洪水が起こっている。

午前5時半、読書「片想い」(中島みゆき著)
所ジョージとの対談は面白くなかったが、勝新太郎、
根津甚八、吉行淳之介などの対談を通して、中島みゆき
の人間性などが少し分かってきた。
強度の紫外線アレルギーとのこと。普段は家で10数時間も
寝ているのが一番好きだとのこと。
中島みゆき30歳頃の対談集。時代もまだ活気のある
日本であった。


午前7時朝食。久しぶりにインスタントラーメンのお湯入り。

午前8時、ベトナム事務所のソン君から電話。
日本人がベトナム事務所にきている。税田さんもミンさんも
いないとのこと。急いでベトナム事務所に行く。

九州・福岡の草場さんがベトナム事務所を訪問。
草場さんは10数年前からの付き合い。
今のベトナム事務所員が誰も知らない、一昔
前のベトナム事務所でお付き合いのあった方。
1時間ほど、四方山話をする。糖尿病で目を悪くする。
新聞かテレビ報道で私を知り、その後毎年、「子どもの家」
に様々な支援品を持ってきてくれる。
草場さんのお元気な姿を見てほっとする。

午前9時45分、地球の歩き方4班の泊まっているホテルへ。

ホテルロビーで地球の歩き方添乗員の0さんが今日の日程、
諸注意をする。


地球の歩き方ツアーの皆さん34人、クアンさん、Hさんの
案内でナムドン山岳地帯へ。


午前11時半、ナムドン山岳地帯の麓に到着。昼食。

午後1時、昼食レストランを出て、トゥオン・ロー村へ。
カトゥー族の村。
支援物資をもって村の集会所へ行く。

集会所で交流。村長さんの挨拶。


支援物資の贈呈

カトゥー族の皆さんの歓迎の踊り

地球の歩き方ツアー側のお返しの歌

その後、カトゥー族の食事を頂きながら交流。


もち米を竹筒で煮たもの

豚肉の煮物、果物ランブータン(ベトナム:チョムチョム)

交流は更に続く。日本、カトゥー族の歌合戦


午後3時半過ぎ、交流を終わり全員の記念撮影

今回の地球の歩き方4班のナムドン行きは34人という
大所帯にも関わらす2人のスタッフしかついていないのを
知り、何か「胸騒ぎ」がした。昨夜、急遽バオミンさんに
話し、私も一緒に行くことにした。個人的には疲労困憊の
今日である。出来ればナムドンなどという遠い山岳地帯への
添乗はお断りした。しかし、万が一問題があった場合の
責任の問題もあるので最高責任者の私が付いていった。

案の定、大きな問題が起こった。
私たちがカトゥー族の村に入り、集会所で交流会を始めようと
したら一人の日本人が数人のベトナム人と一緒に私たちの
交流する集会場に入り、ちゃっかり私たちの交流に参加して
いるではないか。とんでもない日本人である。
今回の交流は地球の歩き方が募集し、参加者はそれ相当の
費用を負担しナムドンに来ている。今日の交流は
ナムドン・カトゥー族と地球の歩き方ツアーとの契約による
交流である。そこに事前の了解もなく勝手に入り込んでいる
日本人がいた。

交流が始っていたが、日本人の所に行き、「貴方は誰ですか?」
この交流は地球の歩き方スタディーツアーの参加者が費用を
出して企画したプライベートな交流会である。貴方が参加する
権利はないはず。再度「誰ですか?名を名乗れ?」と詰問。
「私はベトナムの観光を研究している研究者だ」と言う。
その言葉を聞いて私の頭の中の「反抗心」のスイッチ全開と
なる。「研究者だか返球者だか知らないが、人のうちに
土足で入るようなことは昔のヤクザでもしない。昔の
やくざですら仁義を切り自己紹介したものだ」、貴方は
自己紹介すら出来ないのか?
40歳位の日本人は「私は研究者」と言う。
私は頭に来て「研究者もへったくれもあるか」、
今日の交流会は私たちの私的な交流会、貴方が勝手に
入って来る筋のものではない、と言う。
変な日本人は「私は貴方たちを知らない、今日のこの
交流会が何であるかも知らない」という。
「馬鹿者」と私は言う。知らないで人の家に土足ではる
馬鹿がいるか?と。
私は研究者です、とまたその男は言う。
私は「研究者だか何だか知らないが、関係ない、
今日の交流は私的なもの、出て行け」と。
交流会は進む。交流会をぶち壊すような争いをしている
ように思われるのもツアー参加者には失礼なので
私は交流会のお世話に移る。
変な研究者はそのまま居座る。
そのうち、変な研究者の連れてきたベトナム人が
地球の歩き方ツアーの参加者の顔写真を撮り出す。
その時点で私の「冷静な神経」がプッツと切れた。
再度、変な研究者の所に行き、貴方の連れてきた
ベトナムが日本人のツアー参加者の写真を勝手に
撮っているが貴方はそれを知っているのか?と聞く。
知っているという。何故止めさせないのだと私が言う。
「この人はフエ大学の先生だ」とその変な研究者は言う。
更に私の神経は切れる。「フエ大学の先生かどうかは
関係ない。人の顔写真を本人の許可なく撮影するのは
肖像権を犯す犯罪だよ」と変な研究者に言う。
「貴方はこうしたことを日本でもするのか?」と質問。
変な研究者は「しません」という。
「日本でしないものを何故ベトナムでするのか?」と質問。
「ごめんなさい」という。「ごめんでは済まされない」
そもそも貴方はいまだに自己紹介すらしていない。
大学の先生だか何だかしらないが、人の家に来て
挨拶も出来ないのは小学生以下。名刺を出せと迫る。
仕方なく名刺をだす。中国地方の地域学部の講師。
それから20分ほど、お説教を垂れる。
この程度の人間が日本の大学の講師をやっている
現実に失望する。
この講師は自分のしたことの意味を客観的に理解する
能力を持っていない。正常の能力の持ち主ではない。
この程度の人間が大学で教えている現実に戦慄を
覚える。自分のした不躾な行動の意味も理解出来ず、
挨拶も名乗りも出来ない40歳代の大学講師。
この人間の生い立ちを知りたいものである。
近日中にこの馬鹿大学講師の勤める大学の学長に
事実経過と抗議と謝罪を要求する文書を送るつもりで
ある。
以前にも一度、京都大学大学院生と名乗る若い男が、
同じように私たちの交流会に勝手に参加したことがり、
厳しく叱責したが、彼は、私が叱責いた意味すら理解できなかった。
知的水準の低さを痛感した。
今日の大学講師さんも私の叱責している意味が十分理解できて
いない。とにかく私が怒っているので「謝っておこう」とう態度。
知的に自分自身の行動を分析し、私が理論的に講師の行動を
分析し話しているのだから、その話しを理解できる程度の
人間の最低の能力は持ってもらいたいのである。大学の教師
以前に人間の最低の能力である。人の家に入ったら挨拶を
し、理由を述べる。この講師のしたことは「土足で人の家に
勝手に入り込み、家族が食事をしているところを勝手に
写真を撮り帰って行った」のと同じこと。そのことをいくら
説明してもこの講師さんは理解する基礎教養と能力が
なかった。日本人の「メルト現象:溶解現象」の
現れの一つと見た。

午後5時半、宿泊ホテルの到着。皆さんが買った
アオザイが届く。一人一人に手渡す。
その後、ベトナム事務所へ帰り、疲れたのと
今夜は大学生協ツアー貸切の晩餐会があるので
私がいては邪魔なのでコムディア(ほか弁:100円)
を買い、「ハイリーホテル」へ帰る。

途中、バオミンさんの娘さんのアルファーちゃんと会う。
9月5日、レロイ小1年生に入学したとのこと。

多くのメールが入っている。

故木村百合子さんの裁判を
支援する会ニュース  創刊号

2008年9月 発行 発行・木村百合子さんの公務災害認定裁判を支援する会
代表・蓮井康人(静岡県磐田市中泉2979-3 ℡0538-32-8063)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この会は、新規採用されたばかりで自殺した小学校教諭・故木村百合子さん(磐
田市下太当時24歳)の、公務災害の認定を求める遺族の裁判を支援すること
を目的とし、このことを通じ、多くの困難を抱えている学校教育現場の状況が
改善され、教師になることに夢をもって新規採用される若い教師たちが、安心
して教育に取り組むことができるようになることを目指すものです。


「裁判を傍聴しましょう!」
いよいよ、第1回 口頭弁論が開かれます。
9月25日(木)14:00~ 於・静岡地方裁判所
皆で傍聴席を埋め尽くしましょう!
傍聴人数の調整もありますので、詳細及び傍聴ご希望の方は、支援する会代表の蓮井(℡ 0538-32-8063)までご連絡下さい。

「 裁判のあらまし 」
この裁判は、百合子さんの死が公務災害であるとのご両親の認定請求が、被告である「地方公務員災害補償基金」によって却下されたことに対し、百合子さんのご両親・木村憲二さん・和子さんが、原告としてその取り消しを求めるための裁判です。原告側弁護士は、はままつ共同法律事務所所属・塩沢忠和さんと、小笠原里夏さん。

「 これまでの動き 」   
< 支援する会発足 >
6月21日、磐田市内で「故木
村百合子さんの裁判を支援する会」の発足の会を開催。百合子さんの小さい頃からのお知り合いや、ベトナム「子どもの家」を支える会、静大関係者なども駆けつけて頂き約40名が参加。「支援する会」にも多くの入会がありました。報道も6社が取材、当日の夕方にTVニュースが流れ、翌日には新聞各紙が様子を伝えました。
蓮井代表から「妹さんの絶叫の電話で知り、亡がらも見られないままの死だった。彼女が何を訴えたかったのかを考えたい」とのあいさつで始まり、ご両親の話、弁護士から裁判の話等があり、ベトナム「子どもの家」を支える会の小山代表からは「百合子さんの死は憤死であり、全国の教育現場に通じることである。世論を広げていきたい」と、また、同様の例で裁判を闘っている尾崎さんからは「公務災害補償基金は冷たすぎる。働く人の安全を守るために係争中だが、何でも協力したい」と応援メッセージがありました。最後に会則を承認し、「この運動を広げていきましょう!」と確 認しあい閉会しました。

< 支援の声寄せられる >
新聞やテレビ等の報道後、多くの声が県内外から寄せられ、入会される方も増えました。「百合子さんの事が他人事とは思えない」「同じ悩みを持つものとして勇気付けられた」「決して裁判をあきらめないで!」等々。大きな励みです。引き続き支援の輪の拡大をお願いします!

< 東京で訴えてきました >
6月28日に東京・池袋で開かれた「学びをつくる会」で、全国から集まった80人ほどの教職者を前に、ご両親がこの事件の内容報告と、支援を求める訴えをしてきました。会場からは、同様の悩みを持つ方から共感の発言や、類似ケースの報告もされました。支援する会への賛同を頂くとともに、参加者同士がお互いに励まし会う貴重な機会にもなりました。


✾✾ みなさまへのお願い ✾✾
< ミニ集会で 支援の輪の拡大を! >
この裁判を勝訴とするために、多くのご支援が必要です。ご両親から直接お話を聞く機会を作って頂けませんか?サークル等の会合や、少人数のおしゃべりの機会にお時間を頂ければ幸いです。支援する会代表の蓮井(℡ 0538-32-8063)までご連絡下さい。

< テレビ放映のビデオ・DVDをお貸しします >
百合子さんの事件がテレビでも取り上げられました。NHKとSBSがご両親などを取材し、放映されたものを一本にまとめたビデオとDVDがあります。ぜひ、ご覧下さい。お貸ししますので、蓮井代表までご連絡をお願いします。

     < 情報を求めています! >
 この件に関して、いろいろに思いをお持ちの方や、陰でご協力をして頂ける方等々、ぜひ、ご連絡をお願いいたします。多くの現実の声を求めています。  

< 会員を募っています! 8月31日現在 78名 >
多くのお仲間をお誘い下さい! 詳細をご希望の方には資料等をお送りします。ご賛同下さる方は、裏面の入会申込書をお送り頂きますようお願いいたします。ご連絡は、蓮井代表まで。
[故木村百合子さんの公務災害認定を求める裁判を支援する会]会則
第1条 この会の名称を「故木村百合子さんの公務災害裁判を支援する会」とする。
第2条 この会は、新規採用されたばかりの小学校教諭故木村百合子さん(当時24歳)の自殺の公務災害の認定を求める遺族の裁判を支援することを目的とする。このことを通じ、多くの困難を抱えている学校教育現場の状況が改善され、教師になることに夢をもって新規採用される若い教師たちが、安心して教育に取り組むことができるようになることを目指す。
    (※木村さんは新規採用後、いきなり困難な学級運営を担わされ、しかも学校管理職らからの適切な指導や助言もなく、むしろパワハラとも言うべき配慮なき言動によって過重な精神的負荷を受け、自殺に追い込まれた)
第3条 この会に次の役員をおく。
    世話人代表 1名
    世話人   若干名
    世話人の中で事務局、会計、通信、組織
等の係を分担する。
第4条 この会は個人加盟制の会とし、会費は年額1000円とする。また、寄付を募る。会計年度は4月から3月までとする。
第5条 この会の総会を毎年6月開催する。
第6条 この会は次のような活動を行う。
    裁判を支援するための集会や学習会の企画、会への加入を勧めるための案内やニュースの発行、裁判傍聴の呼び掛け
    他団体、他組織への呼びかけ
第7条 会則の改定は必要に応じて行う。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
〔 入会申込書 〕 頂いた情報は会の目的以外に使用しません。

この会の趣旨に賛同し、会費を添えて入会します。  2008年  月  日

氏名              

住所 〒                             

℡         fax         eメール                        

連絡方法(囲んで下さい)  郵便   電話   fax   メール     
メッセージなど

メールでのお申し込みは→にお願いします。 iwatach@hotmail.com 
*この部分をメールにコピー・貼り付けして書き込んで頂いても結構です。

投稿者 koyama : 21:17 | コメント (0)

2008年09月07日

全国大学生協スタディーツアー講演会

北海道雄武(おうむ)町の菊さんから
2007年9月07日に行われた「雄武町児童センターこどもまつり」
での『ベトナム「子どもの家」絵画展』の様子が送られてきた。
雄武町は網走の方角。私も正確にはわからない。
北海道でも「子どもの家」の絵画作品展が行われていることに
15年の年月と、それを支援し、地域の皆さんに知ってもらおうと
する人々がいることに感動。2008年10月に雄武町町民大学で
講演会を行う。菊さんの紹介。


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晴天

北星学園大学ツアーがA班・B班と分かれて行動する。
今日は4つのスタディーツアーが行動することになる。
地球の歩き方(34人)、大学生協(16人)、北星学園A・B。
ベトナム事務所スタッフも総出て対応。

午前6時起床。今日は日曜日。3食とも各自で作る日。
ご飯を1合炊く。昨夜の日本料理店の残り物を
パックしてもらった。5勺のご飯と残りの空芯菜などをおかずに
簡単な朝食。

午前7時半、「ハイリーホテル」を出て、全国大学生協ツアー
の泊まっているホテルへ。
午前8時出発だったが、行き違いがあり、午前8時20分、
ホテルを出て16人のスタディーツアーの皆さん、
ハンさんで「子どもの家」へ。

午前8時40分。「子どもの家」で私の講演会を行う。
午前10時半まで90分以上話す。

その後、ハンさんの案内で施設を参観。

「ハイリーホテル」警備員のリー君が「子どもの家」に来ていた。
今日は日曜日。ハイ君は休日。やはり休日になるとハイ君は
「子どもの家」が恋しいのか毎回遊びに来ているようだ。
もっとも昼食を「子どもの家」で摂って浮いた食事代で
インターネットのチャットをやっているという噂もあるが、真偽の
程は不明。


午前11時。「子どもの家」2階で「子どもの家」との文化交流会。

歓迎会の出番を待つ子どもたち

セン運営委員長の歓迎の挨拶。(通訳はハンさん)


「子どもの家」の子どもたちの歓迎の踊り。

●久々に「アリババ」を踊る

●男子のヒップホップ



大学生協ツアーの皆さんは、「さんぽ」を歌い、
「チューリップ」に踊りをつけて歌う。

子どもたちと一緒に振り付け付きのチューリップを再度踊る

午前11時45分、歓迎交流会を終わり、大学生協ツアーの
皆さん(16人)、ハンさんと昼食レストランへ。

午後1時、「ハイリーホテル」へ戻る。
これで4週連続日曜日の講演会となる。既に1ヶ月以上
1日の休みもない。これはバオミンさんなどベトナム事務所
スタッフの皆さんや「子どもの家」スタッフの皆さんも同じ。

1時間ほど昼寝。

読書「汚辱の近現代史」(藤岡信勝著:徳間文庫)
いくつかの問題提起がある。ソ連崩壊後の日本の進路、
国家と国民の責任と権利。戦後民主教育の「総括」・・。
しかし、私はこれらについては基本的に見解を異にする。
藤岡氏の基本的な出発点は、1945年8月15日の
日本の敗戦という事実を曖昧にするところから出発し、
いつの間にか、明治以降の近代化は日本の素晴らしい
勝利だったという図式に持ち込み、最終的には、命をかけても
国家のため戦い、血を流す国民の教育が必要だとの
結末に到達する。そのような研究会も組織している。
安部「政権投げ出し首相」など「戦前回帰」を主張している
アナグロ政治家のひとつの理論的な基礎を作っている
学者でもある。

読書「片想い」(中島みゆき著:新潮文庫)
1987年の本。20年前だ。私が読む本は、ほとんど
古本屋(BOOK OFF)で105円で買っているので
古い。古いからと言って、内容がないわけでもない。
中島みゆみと各界の人士との対談集。10月に中島みゆきの
出身大学である北海道石狩市の「藤女子大」で講演会をする。
この大学は中島みゆきや氷室冴子、藤堂志津子などを輩出
している。私はCDを1枚選べと言われたら中島みゆきの
「大吟醸」を選ぶ。「1曲を」と言われたら「狼になりたい」をあげる。
なかなか魅力のある詩を書く人である。
対談集でその人となりの一部でも分かればと読む気になった。
藤堂志津子の本も読みたいのだが、ベトナムで買うことは
出来ない。

午後6時、「ハイリーホテル」を出て、日本料理店へ。
今夜は「子どもの家」のスタッフを招待し、慰労会を行った。
この夏、たくさんの訪問者は「子どもの家」を訪れた。
セン委員長をはじめ、「子どもの家」スタッフは日曜日も
出勤することもあり、大変だったと思う。JASSとして、
長期スタディーツアー受け入れ中ではあるが、
中間地点で「子どもの家」スタッフへ感謝の気持ちと慰労を
こめて、夕食会を開く。


小山・慰労の挨拶


厨房担当の学生は暑い中、調理に挑戦。


また、今日は北星学園大学(11人)の学生が、日本料理店
での実習を行っている。朝から食材の買出しを行い、
午後は、今夜の夕食のために調理。今夜は、事前に献立を
決めず、突然10数人のお客さんがやって来て各自好きなものを
注文すると言う「筋書き」の日本料理店実習。


午後8時45分、晩餐会は終了。
セン委員長のお礼の挨拶。


「子どもの家」スタッフが帰った後、北星学園大学の学生さんと
反省会


●日本料理店の子どもたちの自己紹介



●北星学園大学の学生さんの今日の活動の感想

北星学園大学の学生さんは本当に真面目に日本料理店
のサポート活動をしてくれた。子どもたちとも仲良くなった。

今回初めてスタディーツアーで日本料理店の手伝い・サポート
というプログラムを入れてみた。大局的には成功。

午後9時過ぎ、全ての仕事が終わる。
リー君と二人で「ハイリーホテル」へ帰る。

投稿者 koyama : 18:07 | コメント (0)

2008年09月06日

地球の歩き方ツアー4班講演会

晴天  非常に蒸し暑い

午前5時起床。直ぐに停電。朝、読書をしようと思ったが、
停電。まだ薄暗い。しばらくボーッとベッドで休んでいる。
そのうち、外の陽射しが見えるようになった。カーテンを
明け、窓を開ける。多少、涼しい「田舎」の空気が流れ込んで
来る。

読書「汚辱の近現代史」(藤岡信勝著:徳間文庫)
4分の3ほど読む。
藤岡氏はよほど、戦後体制、戦後教育が嫌いなようだ。
戦後体制を『東京裁判史観』『コミンテルン史観』と定義し、
批判している。
明治維新から敗戦、戦後から今日の歴史を子どもたち
が「明るく、自信のもてるものに書き換えるべきだ」と
主張している。正確には歴史教科書であるが、基本は
歴史の見方を変えろと言う訳である。
藤岡氏の視点は、物事を『色眼鏡』で見るような視点である。
戦後日本の体制を『東京裁判史観』として、一色に真っ黒に
塗ってしまうのである。東京裁判史観は戦争の勝者アメリカの
一方的な裁判の結果、日本が侵略をし、日本の戦前の
侵略は間違っていたとアメリカの都合の良い様に仕組まれた
一方的な裁判と決め付けている。しかし、東京裁判は
アメリカだけではなく、連合国の代表が入った裁判であり、
その内部には様々な意見があった。オーストラりアの
代表は、最後まで天皇の戦争責任を追及し、裁判で訴追すべき
との主張を崩していなかった。必ずしもアメリカの思うままに
進んだ訳でもない。
アジア・太平洋戦争で300万人の日本人が亡くなり、
2000万人のアジア人がなくなっているという厳然たる
事実から目を蔽い、「明るい日本の歴史、子どもたちが
誇れる歴史」といいつつ、戦争の責任は、アメリカやソ連の
膨張主義と経済制裁など欧米、ソ連など連合国にあるかの
ような主張をすることで、日本の戦争責任を否定するもの
である。自由主義史観と自らは書いているが、自由に
歴史の事実を捻じ曲げる史観ともいえる。
「コミンテルン史観」だとも批判する。ソ連とアメリカが共謀して
東京裁判を押し付けた。戦後60年。日本人は、東京裁判史観、
コミンテルン史観の束縛から離れなければならないと主張している。
色々と言ってはいるが、結局藤岡氏の言い分は、日本の行った
戦前の暗い部分は触れずに、明るい良いところだけ探し出し、
子どもたちに教えるべきだと言っているようなもの。
戦後民主主義にも悪罵を投げかけている。

午前7時朝食。停電中。精進料理のブンと野菜。
健康食品の朝食。

午前7時45分、ベトナム事務所へ。
午前8時過ぎ、地球の歩き方4班がベトナム事務所へ。
ベトナム事務所員の紹介。



リー日本料理店店長が日本料理店の掃除に来ていた。
一緒に記念写真。

午前9時過ぎベトナム事務所を出て「子どもの家」へ。
電動バイクの調子が悪い。フースアン橋から先は
自転車を漕いでいく。

午前9時半、ベトナム事務所着。

税田さん・ハンさんが地球の歩き方4班(34人)の
皆さんの「子どもの家」施設案内を行っていた。


午前10時過ぎから11時40分まで90分の私の講演会。
内容はフエ滞在15年の軌跡。人生とは人との出会い。


午前11時40分過ぎから「子どもの家」を出て「ハイリーホテル」へ。
自転車のバッテリーの調子が悪く。「ハイリーホテル」まで
漕いでゆく。結構きつかった。
午後12時過ぎに「ハイリーホテル」着。既に皆さんは
昼食を終わっていたが、私の昼食に付き合ってくれた。
感謝。

午後1時から30分昼寝。

読書「汚辱の近現代史」(藤岡信勝著)

午後2時半、ベトナム事務所へ。
午後3時、バオミンさんと一緒にベトナム事務所を
管轄する地元の警察へ。昨夜の「シクロ事件」
のお礼に行く。
昨夜のシクロ事件の運転手の自転車シクロが地元警察の
庭に押収されていた。名前と住所も書かれている。

地元警察の幹部と懇談。
海外からの旅行者が多いフエでは、外国人への
シクロの運転手の犯罪が激増しているとのこと。
外国人は警察への連絡手段がないのでほとんど
「泣き寝入り」とのこと。昨夜、電話をしてもらい
感謝しているとのこと。今朝、早速、シクロの運転手の
家に行ったが、既に逃亡していた。
しかし、ベトナムではこの種の逃亡は簡単に見つかると
言っていた。今後も地元警察とJASSとで協力して
日本人のスタディーツアーを成功させたい、そのために
シクロやオートバイタクシーなどの犯罪をなくしたいとの
こと。

午後5時半、日本料理店夕食。


空芯菜の炒め物、春巻きの揚げ物、海老のかしらの揚げ物


午後7時、大塚さん、税田さんがお客になって抜き打ちの
日本料理店「査察」。丁度、北星学園大学の先生と
学生さんが日本料理店を訪問。交流。


午後9時半「ハイリーホテル」へ戻る。

明日の日曜日も朝から仕事。

投稿者 koyama : 18:30 | コメント (0)

2008年09月05日

グエンフエ高校開講式:北海道北星学園大学ツアー(11人)出迎え

晴天  猛暑(40度を超える)  夕方、小雨

午前4時目が覚める。読書「人間の檻」(藤沢周平著:講談社文庫)
読了。

藤沢作品の時代物は、市井の普通の市民の生活の臭いが
行間から読み取れる。獄医 立花登の叔父はうだつの上がらない
町医者。長屋の貧乏人ばかり診ているので収入がない。
それでいて、夕方になると「仕事」と称して飲みに行ってしまう。
妻に毎日のように「お小言」を言われているという「情けない叔父」
なのだが、主人公立花登を通して、「庶民の貧しい人たちから
払えるとき払えと言って病気を見ている叔父。そんな時でも
叔父は一切診察に手抜きはしない。そんな叔父が俺は好きだ」と
言わせている。夜間の中学を出て山形師範から戦後、中学校の
先生になったが、肺結核で療養、退職という「不遇」の生活を
したことが藤沢作品の底流に流れている。


午前6時45分、ソン君がタクシーで「ハイリーホテル」まで迎えに
来てくれる。今日はベトナム全土の開講式。日本風に言えば
新学期の始業式。
いくつかの学校から招待状が来ていたが、私は一番関係の
深い「グエンフエ高校」へ行った。午前7時過ぎグエンフエ高校
に到着。招待状の開始時刻は午前7時。7時5分に着いたが、
既に開講式は始っていた。

校長先生に案内され来賓席に着く。隣は、前フエ市共産党委員長
のクアンさん、その他前フエ省児童保護委員会委員長、
現フエ市児童保護委員会委員長、ホーチミン青年団、保護者会代表
・・・・。



開会式。オリンピックの聖火リレーを真似て聖火が入場



真夏の猛暑の校庭。生徒たちは、その中で開会式中は起立して
いた。日本でこれをやったら、貧血を起こして倒れる生徒続出ろう
などと思った。


開講は校長先生が「太鼓」(チャイム代わり)を叩く。



校長先生の話。新入生の挨拶。9月から大学に進学した
優秀な卒業生14人に記念品贈呈などが行われ、1時間
程で式典は終了。



「子どもの家」からNHI(ニーさん)が今年1年生として入学。

グエンフエ高校はフエ省立高校ではトップ校と地元の人は言っている。


午前8時45分、ベトナム事務所へ。昨夜、日本料理店
に来たオーストラリア人が「明日、午前9時にベトナム事務所
に言って話し合いたい」といっていたので待つ。
9時25分位まで待つが来ないので、溜まっている仕事をする
ため「ハイリーホテル」に戻る。

午前11時半昼食。

豚肉の脂を落としたもの、発酵した燃やし、肴の甘露煮。

午後1時まで日本語教師、大塚さんと世間話。
午後1時から1時間ほど昼寝。
今日はいつもより蒸し暑い。日本人の皆さんの
私見では40度はゆうに超えているとのこと。
私もそう思う。

今日は大安吉日のようだ。朝から「ハイリーホテル」の
近所で結婚式。マイクの音がうるさい。午後からは
近くの大衆食堂で飲みながらのカラオケ大会が始った。
下手な歌を大音量で歌う。うるさくて眠れない。

読書「汚辱の近現代史」(藤岡信勝著:徳間文庫)

夕方まである長い文書に関する関係者にメールを送る。

午後5時半、ソン君と一緒にベトナム事務所からバスに乗り
フエ空港へ。午後6時前に到着。午後6時半、北海道の
北星学園大学の皆さん11人が到着。
これから4日間のフエでのボランティア体験を行う。

ソン君と一緒に空港から夕食レストランへ。
ベトナム名物「フォー」(米の麺)を食べる。

午後8時過ぎ、ホテルへ到着。
ソン君がホテルでの生活の諸注意を行う。


午後9時。北星学園大学の皆さんの投宿を確認し、
私とソン君はベトナム事務所に戻ろうとした。
ホテルの前に3台ほどのシクロが泊まっていた。1台の
シクロの若い運転手が「シクロへ」というような動作をした。
北星学園大学の女子一人が、シクロの運転手席に
乗り数分間遊んだ。するとシクロの運転手は「変身」し、
お金を寄こせと大学生に迫ってきた。
私は丁度良い機会だ、と思いシクロの運転手の
腕を掴み、「シクロに乗ってないのにお金を寄こせとは
何事か?」と問い返した。シクロの若い運転手は
私も何も知らない日本人と見て「なめた態度」で応対
している。このシクロの運転手は今までもシクロを
触ったらそれだけで「お金を取る」という悪徳運転手を
繰り返していることがよく分かる。この際、日本人の
団体にや日本人、外国人になめた態度でひどいことを
すると「大やけど」を負うよ、という事を知らしめる必要が
あると考えた。私がシクロの運転手と言い合いになっている
の見た、シクロ仲間が相当集まってきた。近くの
DMZレストランの店員、更には、多くの近所のベトナム人が
集まって成り行きを見ていた。
私は「シクロに乗せないで3ドルも5ドルも寄こせというのは
でたらめも出ひどすぎる。警察に電話をする」と脅す。
シクロの運転手は私を初めてフエに来た日本人と思い、
なめた態度で「警察? 呼びたければ勝手に呼べ」と
何度も言う。私は何十人という「野次馬の前」で警察に
電話。多くのシクロやオートバイタクシーの仲間、
地元のベトナム人などは、どうなるのか?
成り行きを見ている。この日本人は口先だけで
警察に電話など出来ない、という雰囲気が漂う。
私がフエ市警察本部のAさんに電話をして5分後。
二人の制服の警官がオートバイで直行。
今まで外国人だから何も出来ないとなめ切って
いた若いヤクザのシクロの運転手は、シクロを
おいてあわてて逃げていってしまう。
シクロは警察から鑑札をもらい、管理されている。
警察がシクロを押収。ホテルのロビーで私から
事情聴取。事実を話す。警察は、フエ市警察本部
からの指令でやって来た地区の警察。
「日本人はフエの観光の中心。小山さんは
テレビで何度見ている。長い間、フエにたくさんの
支援をしている。私たちも良く知っている。
今後、何か小さな問題があっても直ぐに地域の
警察に連絡してくれれば、直ぐに駆けつける」
との話。

結局、馬鹿な若いシクロの運転手は商売道具のシクロを
おいて逃亡。しかし、商売道具を置いて行ったので、誰だか
人物は直ぐに特定されていまう。1ヶ月間ほどは
仕事が出来ないとのこと。この若いシクロの運転手は
今回だけでなく、今まで数多く、若い外国人の
女性に声をかけ、シクロの運転台に乗せ、その後、
シクロに乗ったのだから金を寄こせと脅迫し、
お金を外国人から巻き上がるというこことを行って
いたことが推定される。

今回、30分程のトラブルであった。フエ市のメイン通り
でのやりあいなので多数の「野次馬」「シクロの仲間」
「オートバイタクシー仲間」などが見ていた。
誰も想像しなかった電話から5分で警察が来たことに
驚いている。もちろん、多くの野次馬は私のことを
知っている。15年間もここに住んでいるのだ。
多くのシクロ、オートバイタクシー、野次馬は、
「下手に日本人に絡んだら、直ぐに警察を呼ぶ
力を持っている」と言う事実を知った。これは、
数日以内、口コミでフエの多くの人に伝わる。
午後6時半のフエとハイののテレビに私が参加した
グエン高校の開講式の様子が放映され、多くの
フエ市民が見ている。こうした形で、日本人への
犯罪を防ぐ一助になればと思っている。


午後9時、日本料理店閉店。
午後9時過ぎ、大塚さんと税田さんが「ハイリーホテル」へ戻ってくる。


私とリー君とハイ君は、近くの「飲み屋」に行く、冷やした
フダビールと豚肉のから揚げなどをおつまみに飲む。
飲み屋の親父も誘い、一緒に飲む。
今日の夕方のテレビで私を見たという。グエンフエ高校
開講式で写っていたとのこと。

午後10時過ぎ、私は一足先に「ハイリーホテル」に
戻る。リー君・ハイ君は日続き飲み屋で飲んでいた。

今日は朝6時45分から午後10時過ぎまで、長い1日だった。

投稿者 koyama : 18:44 | コメント (0)

2008年09月04日

フエ高等師範大学との話し合い

晴天  快晴 暑い

午前5時起床。
読書「人間の檻」(藤沢周平著) 

午前7時朝食。

ブンボー。美味しい


午前8時から「ハイリーホテル」自室で仕事。
支援者への長文のメール送信。

午前11時半、昼食。
日本語教師3人、ハイ君と。

午後12時半から1時間昼寝。
その後読書「人間の檻」(藤沢周平著)

午後3時、フエ高等師範大学学長との懇談。
今後の日本語学科の運営の進め方等について。

午後4時過ぎ、ベトナム事務所。
フーン日本語主任、バオミンさん、税田さんと
フエ高等師範大学学長との意見交換の内容を説明。

その後、ベトナム事務所で仕事。
多くのメールへの返事。

午後5時半、日本料理店で子どもたちと夕食。



午後6時、ベトナム事務所にいたバオミンさんへ
オーストラリア人から電話。英語のガイドブック「ロンリー
プラネット」を読んだ。「MR.JASS MAN」に会いたいとのこと。

午後7時半頃、オーストラリア人夫妻が日本料理店に来る。
しばらく話をする。ブリスベンの大学の副学長と大学教授夫妻。
ブリスベンでも麻薬や親の問題で非行に走る子どもたちが
多いとのこと。そうした子どもたちを支援したいと言っていた。
明日の午前9時にもう一度ベトナム事務所に来て話をしたい
とのこと。

その後、 ベトナム事務所で関係者にいくつかのメール送信。

午後9時、日本料理店閉店。

投稿者 koyama : 22:17 | コメント (0)

2008年09月03日

ベトナム人、ボランティア希望者懇談

●ウイルスの侵入で火炎樹日記の何日か分が消されてしまった。
 8月22日の火炎樹日記を再生した。ぜひ、目を通していただきたい。


晴天

午前7時の時点で32度。(5階の日陰。実際には34度位)
午後2時、36度。(実際には、38度位)

午前6時起床。
午前7時、朝食。「フォー」、美味しい。




午前8時半、ベトナム事務所へ。昨夜、ベッドの上に「ちょっと」
置いた眼鏡を間違って踏んでしまった。レンズが取れてしまう。
細いビニールの留め紐が切れる。
ベトナム事務所に来て、ソン君に頼み眼鏡屋さんに行って
直してもらう。見事に直る。2万ドン(150円)。

「じゃむじゃむ」の紹介でフエに来ているビン君としばらく打ち合わせ。



一度、「ハイリーホテル」へ戻る。8月22日の日記がウイルス侵入で
途中で消えてしまっている。書き直すため。

午前11時、再度ベトナム事務所へ。ビン君とビン君から日本語を
習っているT君とで話し合うため。午前11時過ぎにベトナム事務所に
来る予定のT君が来ない。午後12時まで1時間待ったが、とうとう
こなかった。ベトナム人の時間の観念と私の時間の観念とは
時々大きくずれる事がある。

午後12時過ぎ、「ハイリーホテル」へ帰る。既に皆さん
昼食を終わっていた。税田さんは、大学生協スタディーツアー
の方が少し体調を崩したので様子を見に行き昼食に
遅れる。大塚さん、税田さんとで昼食。

午後1時半、ベトナム事務所へ。

「ハイリーホテル」の隣の家の息子さんがベトナム事務所へ。
ハノイでNGOの仕事をしていたそうだ。
JASSで働かせて欲しいとやってくる。
「ハイリーホテル」に住んでいるが、日本人はベトナム事務所
と「ハイリーホテル」の往復の毎日。近所のベトナム人と話した
ことはない。しかし、近所のベトナム人は「ハイリーホテル」
の住人が「子どもの家」や障害児施設、日本料理店、日本語学校
などを運営していることを良く知っている。
ベトナム人の「口コミ」の速さと正確さに驚く。


午後3時過ぎ、日本料理店のリー店長が黙々と日本料理店
の床掃除をしていた。リー君は完全に「化けたな」と思った。
化けたという意味は、真面目に日本料理店の店長職をやる気に
なったという意味。


人を信じるということは、結構難しいことである。
15年間ベトナムで生活し、ベトナム人に裏切られた回数は
数知れず。それでもこどもたちを信ずることが私たちの
使命である。「紆余曲折」があっても「螺旋階段」を登るが
如くこどもたちは成長するのだということを信じて。
その場のこどもたちの言動だけに目をやらず、長い将来の
こどもたちの成長を信ずること。

「ハイリーホテル」に再度戻り、ウイルスに侵され、削除されて
しまった8月22日の火炎樹日記を書き直す。


午後5時半、日本料理店へ。こどもたちと一緒に夕食。



投稿者 koyama : 16:49 | コメント (0)

2008年09月02日

ベトナム国慶節(独立記念日)休日

晴天   快晴   暑い。


午前7時起床。

今日は国慶節で全国的に休日。

63年前の1945年9月2日、ホーチミン主席がハノイで
「ベトナムの独立」を宣言。1945年8月15日、日本がポツダム宣言
を受け入れ無条件降伏をした。その前日からホーチミンの指令で
ベトナム全土で侵略者日本軍国主義者に対する武装蜂起が行われ
8月23日にはフエが解放され、8月末にはサイゴンが解放され
9月2日、ホーチミンがベトナム全土の日本軍国主義とフランス
植民地主義に対して独立を宣言した記念日。
同時に「グエン王朝」も崩壊。第13代皇帝バオダイが退位し、
グエン王朝は終焉する。
といった歴史的経過はあるが、独立記念日と言って騒いでいるのは
人民委員会や共産党の諸氏のみ。フエの一般市民は至って
冷静沈着。

ベトナム事務所・日本料理店も休み。
ただし、バオミンさんとリー君は全国大学生協の皆さんと
ナムドン山岳民族交流へ。

午前9時、朝食。ご飯を1合炊き、5勺を食べる。
昨夜の大学生協晩餐会の残りを大塚さんや子どもたちが
パックしてくれた野菜サラダや高菜の炒め物などをおかずに。

午前9時半、読書「少女の器」読了。

今まで何冊か読んだ灰谷作品からする印象としては、
生活感と現実感のないような内容に読み取れ、多少の
違和感を感じた。


午前11時、部屋の掃除。汚れた靴を洗い日なたに干す。
半日で完全に乾く。トイレ掃除。

午後12時半から昼寝。


午後2時過ぎ読書。「人間の檻」(藤沢修平著:講談社文庫)
江戸時代、小伝馬町の牢獄の獄医 立花登が体験する
獄人の人間模様。6編の半分ほど読んだが、どの編も庶民が
登場し、庶民の生活が見える。

午後4時過ぎ、夕食用の「コムデイア(ベトナムほか弁」(100円)
を買いに行く。町は国慶節なのに意外と静かだった。

午後5時、部屋の内外を少し掃除。
バオミンさんに電話。
丁度、ナムドンから帰り、ホテルで皆さんと対応している
所とのこと。

午後5時半、トイレットペーパーがなくなったことに気づく。
近くのスーパーに買いに行く。

久しぶりにスーパーに来て見ると開店当初賑わっていた
雰囲気はなくなっていた。
エスカレーターが止まり、室内の電気もほどんと切ってある。
所々の蛍光灯がついているだけ。室内は薄暗い。
色々探したがトイレットペーパーはなかった。何人かの
係員(ダラダラしている)に聞くが英語が分からず通じない。
陳列棚にティッシュボックスを飾っていたが、角がへし曲がって
いるほどたくさん詰め込んで陳列している。
結局、店全体のデイレクターの能力に全てはかかっている。


午後7時すぎから夕食兼軽く一杯飲む。
メール受信。いくつかのメール返信。再受信。最返信。

読書「人間の檻」。

午後9時、就寝。
この1ヶ月間ほどの疲れを取る。ゆっくりと1日中、ダラダラして
休む。人間は、こうした休みも必要。

投稿者 koyama : 19:46 | コメント (0)

2008年09月01日

終日いくつかのベトナム事務所の仕事

晴天  テレビの最高気温35度。

午前7時朝食。キャッサバのチャオバンカン。
美味しい。


午前中、長文の文書をある公的人物に郵送。
抗議・謝罪要求文。

受信メールへの返事。かなりある。
ベトナム事務所でバオミンさんさんといくつかの件に
ついて協議。ピースボート受け入れ等。

午前11時45分、昼食。


午前1時、昼寝。1時間。

読書「少女の器」。理屈っぽくてあまり面白くない。
現実味がない架空の話と思えてしまう。

午後3時、当面のいくつかの問題について解決策を
考える。

午後4時、トゥアティエンフエ省の幹部がベトナム事務所を
訪問。当面のいくつかの問題について話し合う。

午後5時、夕食。


こうした日本人とベトナムの子どもたちとが一緒に食事をするのも
何かの縁。楽しく、貴重な一時を共有したいものである。

発酵した高菜の唐辛子炒め、豚肉と人参の煮物、野菜サラダ

午後6時半、全国大学生協スタディーツアーの皆さんの
夕食会。税田さんの担当。

福田康夫首相は1日夜、首相官邸で緊急記者会見を開き、
辞任を表明した。

一般的に言えば、突然の首相の辞任は「驚く」ものなのだろうが
「ああそうなの」程度の感想しかない。福田氏はどうみても
首相の器ではない。安倍前首相と同様、親やおじいさんの
後光・後輪で首相になった程度の人物としか思えない。
その証拠に在任中、真っ当なことは何一つ出来なかった。
福田氏に至っては1年間の在職中何をしたの?といった
程度の感想しかない。いてもいなくてもどうでもいいような
存在であることは確か。自民党がこの程度の人材しか
首相に出来ない所に自民党の歴史的退潮の現状がある。
麻生氏に代わっても今の自民党では何も出来ない。
公明党にその「大事な部分」を握られている宦官政党
である。

麻生太郎が総裁に立候補しても「あ、そう」というしか
ない。何の期待もできない。無能なお坊ちゃん。
興味のある方は、麻生太郎の家系を知るべき。

高祖父(牧野の父)・大久保利通
高祖父(牧野の妻の父)・三島通庸
曽祖父(父方)・麻生太吉
曽祖父(母方)・牧野伸顕
祖父(母方)・吉田茂
父・麻生太賀吉
義父・鈴木善幸
(初当選は父の引退から24年後)
義弟・寛仁親王(信子の夫)


箒木蓬生の「三度の海峡」を読むと麻生太郎の
曽祖父だか祖父だががいかに朝鮮人を強制連行し
強制労働をしたかという実態がリアルに描かれている。
朝鮮人の汗と血で築き上げた「麻生財閥」の孫。
生まれた時から「お坊ちゃん」だったのだ。
普通の「お坊ちゃん」なら自分の出自に反抗する程度の
教養と知識はあるのだが、安部氏と同じく、自分の
出自に疑問すら抱かず、国会議員になり、問題発言を
繰り返している。このような人物が首相なるという話題が
出るだけで、片腹痛い。麻生太郎は「漫画の世界」で
活躍すれば良いのだ。政治家としての能力ゼロと私は見た。

自民党はこれで安部・福田と2代に亘り「政権投げ出し」
内閣が続いた。両者とも内閣改造を行い、臨時国会を召集し
議論する直前に「敵前逃亡」してしまったのである。
前代未聞の「政権投げ出し」。自民党の末期症状と
見るのが妥当なところだろう。

後期高齢者医療制度や若者の派遣・低所得問題、
格差社会の到来、国家によって盗まれた年金など
問題山積の中で、政権を途中で「放り出してしまう」
首相が2人も続いてしまった。小泉郵政選挙で
こうした政党を選んだ国民にすべたが返ってくるのである。


安部氏、福田首相、そして近日中に選出されるであろう
自民党の新たな首相と3代に亘り、総選挙の洗礼を
受けずに首相となっている。つまりは、国民の審判
を受けない首相が3代も続くと言う「議会制民主主義」
「代議制度」「間接民主主義」にとっては、最大の
危機にある。
この際、総選挙を行い、直近の民意を受けて組閣を
すべきである。

投稿者 koyama : 20:48 | コメント (0)