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2008年09月13日

地球の歩き方5班講演会:Aさんの家庭訪問:ピースボート出迎え

断続的に雨  気温も30度前後。寒い。

午前7時朝食。今週2回目のインスタントラーメンのお湯入り。
ひと口食べたら喉を通らなかった。二口食べて挫折。

午前7時45分、ベトナム事務所へ。
午前8時過ぎ、地球の歩き方5班の皆さんとベトナム事務所員の
顔合わせ。

ベトナム事務所員の自己紹介

そのまま地球の歩き方5班の皆さんと一緒に「子どもの家」へ。
午前8時45分から午前10時まで私の講演会。

午前10時過ぎ講演会を終わり、子どもたちの歓迎交流会が始る。

セン運営委員長の挨拶

ここまでプログラムが進んだ時、日本料理店からミンさんに電話。
日本料理店スタッフのAさんのお母さんが緊急入院した
とのこと。Aさんは憔悴しきっている。大塚さん・税田さん
が日本料理店でAさんと話し合っているが、私に来てもらいたい
とのこと。

地球の歩き方スタディーツアーの歓迎会はバオミンさんと
ソン君に任せ、タクシーで日本料理店へ。

日本料理店でAさん、大塚さん・税田さん、そしてハンさんの
通訳で何が起こったのかを聞く。
しばらくまえにAさんの家(農村)に泥棒が入り、Aさんの
祖母から預かっていた金の指輪8個が盗まれた。
Aさんの父親は1999年のフエ大洪水で死亡。
母親とAさん、妹、二人の弟で生活。わずかな米を作り、
庶民のお菓子のような「バイロック」を作り市場で売って
生計を立てている。生活が出来ないため、Aさんと
妹のBさんが、「子どもの家」に入所している。
Aさんは日本料理店に勤めるようになって「子どもの家」を
退所し、農家の自宅から通っている。
亡くなった父親の弟が祖母の金の指輪8個を預かっていたが、
自宅を新築だか改築だかするので、その間物騒なので
Aさんのお母さんに祖母の指を預け、泥棒に取られた
という状況である。先日、母親とAさんを呼んで泥棒に
あった時の様子を詳細に聞いた。結論的には、泥棒は
他のところは一切手をつけず、一直線に家の奥の
分からないところに母親が隠しておいた金の指輪だけ
盗んでいった。他の場所は全くあらされていなかった。
ということは、Aさんの母親が金の指輪を預かっている
ことを知っている人の仕業とみるのが妥当なところ。

その後、Aさんの母の亡くなった夫の母親と夫の弟(家を新築中)、
その兄弟がよってたかって「指輪はAさんの母が、盗んだのだ。
泥棒に取られたというのは嘘だ」「金の指輪8個分のお金を返せ」
と毎日のように家に来て、Aさんの家族を脅迫。とうとう、Aさんの
母親は心労が溜まり、Aさんの母親の弟の手配で昨夜、
病院に入院したということが分かった。奇怪な指輪盗難事件である。
「嫁」の立場のAさんの母親は、祖母や父方の親族の不当な
要求に対して何もいえない立場にある。これは、ベトナムの農村の
実態である。私見ではあるが、一番怪しいのは、家を新築し
母親の指輪8個を預かっていた父の弟だ。
彼はAさんの母親が指輪を持っていることを知っている唯一の
確かな人物なのである。ベトナム社会の金権主義の実態でも
ある。父方の祖母を先頭に父方の兄弟が連日、嫁のAさんの
母親を責めにやってくる。Aさんの家が遠く、日本料理店の帰りが
遅くなり物騒なので、私たちがお金を貸して、Aさんは、安い
オートバイを1台買い、通勤に使っている。父方の親族は
Aさんのお母さんに「おまえの娘が乗っているオートバイも
お前が祖母の金の指輪を盗んで売って買ったのだろう」
と攻め立てているとのこと。昨夜、日本料理店でAさんは、
「自分は死にたい」ともらしていたという。
私はこれは急いでAさんの母の入院している病院にいき、
Aさんの母親の病状を知ること、病状が悪化していたら
フエ中央病院に入院させること、必要ならAさんの母親の弟を
呼んで今後の対応について助言をすべきと考えた。
既に時刻は午前11時過ぎ。私は午後2時半にピースボートを
迎えにダナンへ行かなければならないが、とにかく、その時間
をぬってAさんの母親の入院している病院へ通訳のハンさんを
連れて行くことのにした。タクシーを呼び、私、Aさん、ハンさんで
フエ市内から郊外まで行く。途中、Aさんが、もしかしたら母親は家に
いるかも知れないというので、一応、Aさんの家に行く。
田舎の田んぼの中の小さな市場の近くであった。

Aさんの家(といっても1間の小さな家である)にはいるなり、
中で女性が大声で泣いているのが聞こえる。
薄暗い粗末な部屋の中へ入る。女性が部屋の隅に寝転んで
大声で泣いている。人が入って来る気配に気づいていないようである。
Aさんが「お母さん、小山先生が来たよ」と声をかける。
母はそれでも泣き続けていた。連日の父方の親戚の
脅迫にも似た「嫁いびり」ですっかり参ってしまった母親。
嫁として姑から頼まれれば金の指輪の預かりを断れなかった。
挙句の果てに「お前が盗んだ」「金代を帰せ」と毎日、家に来て
責められている母親は、何の対応も出来ない。ベトナムの
田舎の嫁の現状である。ただ泣いているだけしか知恵を
持たないAさんの母親を責めることは出来ない。
小さな農村社会・共同体である。夫をなくし、4人の
こどもを抱えて、夫の親族と事を構えるほどの財政力がない、
収入もない。結局、夫の親族一同のいびりにも似た嫌がらせ
に泣いて耐えるしかない。昔は貧しい中お互いの協力・共同で
生活していたベトナムの農村社会にも「ドイモイ」の波は
容赦ないなく押し寄せてきている。父の弟は家を新築するほどの
財産があるのだ。兄が洪水で死んだら、財政力のある弟がAさん
一家を助けるのが、ドイモイ前のベトナムの農村社会だった。
しかし、ドイモイで社会に資本主義が導入され、お金お金の
社会になった。自分だけでもお金をたくさん手に入れて、
贅沢な生活をしたいという風潮は都会を中心に農村まで
広がってきている。フエ市内でも私の身の回りを見れば
お金に目がくらみ、人間の一番大事な「恩」という言葉を忘れて
しまった元JASS関係者もいる。この例一つを見ても
ベトナム社会の金権主義は人間性そのものを破壊している
ことが分かる。Aさんとその一族の問題を見れば、金権主義が
農村まで波及してきていることが窺える。

私はAさんの母親に「泣かないように。私たちが一緒になって
問題を考え、解決するから」と話す。母親はやっと泣くのを
やめ、起き上がる。「小山さんには二人の娘がお世話になっている。
感謝いている」とお礼を言う。なかなか礼儀正しいしっかりした
母親である。私はAさんに言って丁度いい機会だから「お母さんの
弟を呼んで来て欲しい」と頼む。Aさんは急いで母親の実の弟
を呼びに行く。父方も母方の親戚もほぼ同じ地域に住んでいるの
である。

弟がやってくる。母親と弟と話す。「何が最大の問題なのか?」
「どうすれば、問題は解決するのか?」を話し合う。
私などの発想では「父方の兄弟にケツをまくって、つきあわなければ
いいのでは?」など考えるが、父方・母方の親族一同が同一の
地域で代々生活しているこの種の農村共同体では、その共同体
からの離脱は、人生からの離脱と同じ意味をもつ。

結局、母親はこの場所から離れることは出来ない。ということは、
父方の親族と折り合いをつけて生きていかなければならない。
解決策は不当だが、父方親族が毎日母親を攻め立てる道具で
ある「預かった金の指輪12.5個分のお金を返せ」という無理難題
にしかたないが応じるしかない、しかし、そのお金が全くない
貧乏暮らし。そのためになす術がなく母親は毎日朝から晩まで
Aさんと妹、弟の前で泣いているだけだったのだ。それを見て
Aさん自身もどうしようもなくなり、自分も死んだほうが楽だと
考え始めていた。
(急に金の指輪が8個から12、5個に増えていた。
父方の親族の言い分だそうだ)

母親・弟などの話を聞いて、この問題は早急に解決しないと
思わない方向に事態が進展する可能性を秘めていることが
分かった。つまり、母親とAさんに何らかの異常行動を起こす
可能性を否定できない。母親もAさんも常識をわきまえ、
真面目な人間であることは、私も大塚さんも税田さんも
日常の付き合いの中で確認している。

「分かりました。父方の親族が言ってきている12、5個分の
金代を現金で返しましょう。当面、私がAさんの家に貸します。
返済の仕方は今後考えましょう。その代わり条件があります。
一つは、父方の親族に返済したお金の領収書をもらうこと、
二つ目が、このお金を返済したことで、指輪盗難事件に
ついては今後何も言わないという証文を書く」。
母親も弟もそうします。ありがたいとのこと。
当面、毎日のようにやってくる父方親族と戦う人がいない
中で、母親とAさんが追い詰められ、どう行動するかは
私たちも推測できない。万一の事態を回避することが
当面の目標と私は判断した。私たちがいつもAさんや
母親の家にいて、父方親戚と戦えるのなら色々と選択肢
もあるのだが・・・・・・。
とりあえず、遠隔操作ではあるが、当面の解決を図る。
母親も弟もAさんも本当に喜んでいた。弟も財政力はないが
やさしそうな人で父方のずうずうしい連中と渡り合える
人間ではない。とりあえず、当面の問題を解決はしたが、
この複雑怪奇な人間関係、農村社会の関係は変らない。
今後、新たな問題が起こる可能性は濃厚。

とりあえずの解決をさせて、日本料理店に帰る。
大塚さん・税田さんに報告。午後1時半を過ぎていた。
朝食のインスタントラーメは二口しか食べていない。
空腹。税田さんが肉まんを買ってきてくれていた。
肉まんを1つ半食べる。

午後2時半、クアンさん、ソン君と車でピースボートが着岸する
ダナン港へ。3時間。午後5時半、ダナンへ着く。

24人の「子どもの家」訪問団を乗せて再びバスで一路フエへ。
バスの中でベトナム社会・歴史、「子どもの家」のことなどを説明。

午後7時半過ぎ、「子どもの家」へ到着。
今日は「中秋祭り」(日本の中秋の名月。ベトナムでは
子どもの日)

ピースボートの皆さんと一緒に「中秋祭り」を祝う。

セン委員長の「挨拶」


小山のお祝いのことば

子どもたちの獅子舞


子どもたちの歓迎の踊り

ピースボートの皆さんから文房具の支援物資を頂く。

参加者全員で子どもたちにお菓子や果物などをプレゼントする


午後9時前「子どもの家」での行事を終了し、日本料理店。

バオミンさん・リー団長がメニューを説明。


会食となる。

フダ生ビールを堪能。



中秋のお祝いで近所の子どもたちの獅子舞がやってくる


日本料理店スタッフの紹介

午後10時過ぎにピースボートの夕食会が終了。
子どもたち・日本人スタッフで後片付け。

午後11時前にリー君、石上さん、私で「ハイリーホテル」へ
帰る。税田さん・大塚さんは少し残った後片付け。

リー君が「今日は土曜日だから飲もう」と誘う。
今日は私自身は朝から午後10時過ぎまで仕事の連続。
午前中、1時間ちょっとの講演会。昼は農村で家族問題の
解決、午後はダナンまで行き、車中1時間半ほど話を
する。「子どもの家」での交流会、日本料理店と続く。
本当に疲労困憊。しかし、リー君も店長になってから
仕事中は一切飲まなくなった。勤務時間も1時間前には
出勤し、日本料理店の玄関を書き清め、机を揃えと
本当によく仕事をしている。ハイ君も読んで近くの
路上の飲み屋で3人で飲む。

午後11時半過ぎまで私は飲む。体力の限界。
私はそこで失礼。リー君とハイ君は更に続く。

投稿者 koyama : 2008年09月13日 10:52

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