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2006年12月30日

ベトナム事務所員会議 ふぇみんT先生と懇談

終日雨。時々豪雨。

午前8時半。2006年最後のベトナム事務所員会議。
ラームさんは私用で欠席。
2007年新年年賀用のベトナム事務所員全員集合写真を撮る。


(ソン)全教ツアーの案内でフールー小学校、ナムドン山岳地帯へ。
    フールー小学校では3年生とゲームをして楽しかった。
(石岡)クリスマス会の司会をした。火曜日と土曜日、日本語学校
    の授業。1月11日に上級クラスの試験 1月12日中級・上級
    クラス合同のお楽しみ会。
(石塚)月曜日・金曜日、日本語学校授業。1月10日中級クラス試験
(フーン)日常の業務
(ハン)全教ツアーとフールー小学校へ。
 全教の皆さんから新たな刺繍作品の注文があった。
     ペットボトル入れ。良い作品を作れば注文があるので
     刺繍作り、頑張りたい。
(サン)静岡スタディーツアーと一緒にタイロック市場に買い物へ
    行き、昼食作りをした。中級と上級の授業。
(ミン)静岡スタディーツアーの案内。
     クリスマス会(150人参加)は成功だった。
    会場が少し狭かった。
     「子どもの家」では現在前期に試験中。子どもたちは
    頑張って勉強している。
     静岡の巣山先生からクリスマスプレゼントとして寄金を
    頂いた。セン委員長などとも相談し「子どもの家」食堂の
    厨房に鉄で大型の換気扇をつけることにした。現在、換気扇
    がないので『練炭』の黒い煙が天井を覆い、食堂と厨房の
    天井が煤(すす)で真っ黒になっている。このまま推移すると
    天井の張替えをせざるを得ない。巣山先生に感謝。
     フエ中央病院小児科医長のフオン先生が2007年1月
   2日、小山先生に会いに来る。何か相談したいとのこと。
    ●2007年1月27日~2月5日までJASS総会出席の
       ため訪日する。留守中、宜しく。
     2月6日にはボランティア貯金視察団が来る。
     現在、「子どもの家」には61人の子どもたちがいる。
    入所希望者が8人程いる。家庭調査をして入所が必要な
    子どもを入れたい。
      在宅支援のHIEUさん(女子)を12月で支援終了
      在宅支援のVU君(2007年日本へIT留学)12月支援終了
    2007年1月1日の夜、日本語学校の入学案内をフエテレビ、
    トゥアティエンフエ省テレビで放映する。

午前10時半。トゥアティエンフエ省外務局副局長が新年の挨拶で 
ベトナム事務所を訪問。ミンさん・ラームさん・ハンさんとフエ師範大
日本語クラスで私が教えて教え子。

午後2時。婦人民主クラブのTさんがフエ訪問。宿泊している
ホテルへバオミンさんと一緒にたずねる。
Tさんは婦人民主クラブがダナンの「希望の家」を支援している
その現地駐在員。日本料理店・日本語学校・縫製研修工場建築現場
・「子どもの家」を案内。午後5時まで「子どもの家」の各種施設を
視察。


その後、ホテルへ戻る。バオミンさんは帰宅。
ホテルロビーでTさんと遅くまで懇談。
Tさんは、私と同年齢。品川区の中学校の英語の先生。
昨年退職。退職前は品川区の不登校の子どもたちの
相談員をしていたとのこと。懇談をして「同世代だな」と
感心する。前向きな姿勢、平和と民主主義を希求する
気持ちは全く同感である。そして、子どもたちへ愛情。
Tさんのダナンでの活動が成功することを祈る。

日本料理店へ帰る。今日は日本料理店の2006年最終日。
来客は3人。私は今年最後の日本料理店のお客となり
フダ生ビール5杯飲む。後からシンガポール在住の日本人
が来店。2006年最後の日本料理店は5人の来客で
店を閉じる。

フセイン元大統領の死刑執行に疑義あり

今日、イラクの元大統領のフセインの死刑が執行された。
「人道に対する罪」での死刑。しかし、これまでイラクには
人道に対する罪という刑法上の規定がなかった。
アメリカの強要で新政府が作ったもの。法制手続き上も
疑義のある死刑。フセイン暗殺未遂事件で150人の
イラク人を殺したことが「人道に対する罪」の内容。
しかし、本当に「人道に対する罪」を問うのであれば
アメリカのブッシュこそ「人道に対する罪」の最大の対象者。
イラクではブッシュの違法な侵略行為で一説によれば
15万人のイラク人が殺されている。
国連決議もなく、侵略の口実だった「大量破壊兵器」
もなく、「アルカイダを支援している」という事実すらなかった
(米CIA報告)ブッシュのイラク侵略。フセインに「人道に対する
罪」があるとすれば、ブッシュ大統領はその何百倍もの罪がある。
1989年の中国「天安門事件」で数千人の中国の学生・市民・労働者
が中国軍のクーデターで戦車でひき殺された。
中国共産党指導者こそフセイン以上に人道に対する罪を背負っている。
米中の指導者こそ文字通り「人道に対する罪」を背負うべきである。
小泉・安部氏はさしずめ「人道に対する罪」ほう助罪・追随罪。
暴力の強い人間は罪を犯しても何も問われないのか?

フセインが独裁者なのは事実であるが、それ以上に「人道に対する
罪」を問われる人間はたくさんいるはずである。
「それが国際政治というものだ」と物知り顔で評論する人がいるかも
知れない。しかし、国際政治であれ何であれ、人殺しは罪である。

投稿者 koyama : 11:43 | コメント (0)

2006年12月29日

静岡の会 ホーチミン市へ

曇り

午前8時。静岡の会の皆さんとフエ空港へ。
静岡の会の皆さんは、ホーチミン市で1泊。
クーチトンネルや戦争博物館などを訪問予定。
12月31日午前7時過ぎに成田着。
当初、ホーチミン市から関西空港へ行く予定だったが、
ベトナム航空の機材不足(この意味が分からないが)
のため、突然、ホーチミン市から成田へ行かざるを
得なくなった。ベトナム航空の拝金主義・営利至上主義
のなすところ。皆さんの無事な帰国を祈る。

午前10時過ぎ、フールー小学校の校長先生・副校長先生が
ベトナム事務所を訪問。新年の挨拶。

午後、読書「平家物語」
平家一族が京を脱出。しかし、平家の縁者の中からも
平家の都落ちの途中から相当数の人々が都へ戻ったり
地方へ逃げたり、中には源氏(木曽義仲)と仲良くなろうと
するなど、栄華を誇った平家時代に甘い汁を吸った
殿上人たちも、甘い汁が吸えなくなりようになると
たちどころに「日和見」を決め込んでしまう。
いつの時代にも「甘い汁」を
吸うことを目指し、人間は日和見を決め込み、右往左往
するものである。悲しい人間の性(さが)ではある。

ODA支援で建築中の「縫製研修センター」の工事進捗状況
の中間報告書を書きあげる。必要な写真を揃える。
取り急ぎ、ハノイ大使館の吉田書記官にメールで参考資料と
して送る。正式には印刷し、フエ市越日交流委員会委員長の
ニエン氏のサインをつけて、書類を大使館へ郵送する。


投稿者 koyama : 11:14 | コメント (0)

2006年12月28日

JASS静岡の会「ナムドン山岳少数民族」交流

朝小雨、その後終日晴天。

午前6時半。フォンザンホテルに宿泊している全教千葉の
皆さんが帰国。ホテルまで見送り。10年近く、「子どもの家」や
JASS関連施設、船上生活者の多いフールー小学校への支援
を行ってくれている。数年前からナムドン山岳地帯のカトゥー族の
「トゥオンロー小学校」60人の子どもたちへ奨学金を贈呈して
いる。単発的な支援の仕方もあるが、全教千葉の皆さんは
10年近くもの間、国際支援・子どもたちへの愛情を持続させて
いる。なかなか真似のできることではない。皆さんに感謝。
無事な帰国を祈る。

午前7時。日本人スタッフと朝食。ブンボー。

午前9時。JASS静岡の会スタディ-ツアーの皆さんと
フエ市人民委員会へ。タン副市長と懇談。
滝下団長が小島善吉静岡市長のメッセージを代読。
意見交換。

●JASS静岡の会滝下団長挨拶。小島善吉静岡市長からの
 メッセージを代読。


●タンフエ市副市長歓迎の挨拶

昨年5月、静岡市とフエ市は「友好都市」となった。
両市の友好都市提携のきっかけは10数年前
JASS静岡の会の子どもたち組織(THINK OF EARTH)
の子どもたちが小島市長のメッセージを持ってフエ市長を
訪問したことだった。それから5回目の子ども訪問団である。


午前10時。静岡スタディーツアー一行は、バスでナムドン
山岳地帯へ。カトゥー族との交流へ向かう。

1時間半のバスの旅。
午前11時50分。ナムドンの中心地へ。昼食休憩。

滝下団長と日本料理店警備員のリー君。
リー君は訪問者がナムドン山岳地帯へ行く時は専属で
付添い・案内人となる。2006年には、20回近く
ナムドンへ行っている。「ナムドン専門家」(自称)である。
日本料理店での仕事では、時々遅刻、無断欠勤、無断職場離脱
がある。ナムドン行きとなると予定時刻の2時間ほど前には
出勤し、諸準備を行う。ナムドン山岳地帯がすきなのだ。


午後1時、少数民族カトゥー族のトゥオンロー村へ。

●支援物資の贈呈

●カトゥー族子どもたちの歓迎の踊り

●静岡の会子ども派遣団の出しもの歌「富士山」

村人と交流の踊り



午後4時半、フエへ戻る。静岡の会の皆さんは、バオミンさんと
一緒にドンバ市場へ。私と「ナムドン専門家」(自称)リー君は
日本料理店で下車。

トンチンカンホテル自室で2時間ほど読書。
「テロルの真犯人」(加藤紘一著:講談社)読了。
非常に興味深く読んだ。
私は加藤紘一氏については深い知識は持っていなかった。
「加藤の乱」ではテレビで無様な格好を晒したという程度の
ものであった。
本書を読んで加藤氏への評価は大きく変わった。
加藤氏は自民党の元幹事長である。一時は首相の最短候補者
でもあった。そうした加藤氏が今では、盟友YKKの小泉政権を
厳しく批判。安部現首相への批判も厳しい。
小泉氏は自民党内に支持基盤がない。従って国民の支持だけが
頼り。そのためにパフォーマンスを繰り返した。自民党内では
「旧守派」「改革反対勢力」を作り出す。国際的には北朝鮮、
中国・韓国を反対勢力に仕立て、自分の人気と国民的な支持を
維持するというパフォーマンス政治だと断定している。
そして、国民がこうした「危うい」政治に流される今の日本の
危機を強く指摘している。
なぜ、加藤氏はこうした態度をとっているのか?
「加藤の乱」は敗北に終わった。失態続きの森首相への野党からの
不信任案採決に欠席すると言明。自民党が割れ政界再編の入り口に
立った。結局、当時の野中幹事長の裏工作で「加藤の乱」は
つぶされる。加藤氏は、加藤の乱は政界再編の序章だといっている。
加藤氏の生い立ちが詳細されている。自民党内の野党的な存在、
一匹オオカミ的な存在になっている加藤氏の生い立ちは
「平和・民主主義」という彼の基本的な概念形成に大きな
役割を果たしている。
父親は戦前内務省の高級官僚。戦後、山形県選出の衆議院議員。
父親が議員になった関係で東京に住んだ加藤氏は、都立日比谷高校
から東大法学部。東大在学中の「60年安保闘争」が加藤氏の
人間形成に大きな影響を与えている。加藤氏は直接安保闘争の
学生運動には加わらなかったものの、安保闘争の影響下、人間の
生き方を深く考えていた。仲間の多くが学生運動に参加している。
自分はどう生きればよいのか、自民党代議士の息子としての
自分は学生運動に参加すべきか? こうした悩みを最後まで
引きずって生きてきたように思われる。
東大3年で外交官試験に合格し東大を退学。
外務省入省。外務省からハーバード大学大学院へ派遣。
中国関係の専門研究をし、香港副領事などとんとん拍子に
出世コースを辿り、父親の事後、一時期を置いて山形県から
衆議院議員に当選。加藤氏のライフワークは「中国」である。
本書で加藤氏は繰り返し「アジア・太平洋戦争ではアジア諸国に
多大な迷惑をかけたということを日本人は認識すべきだ」と述べている。
対米協調路線をとりながらも、アメリカべったり路線には批判的
である。中国・アメリカ・日本は「正三角形」関係であるべきだと
言っている。小泉・安部政権はアメリカとのつながりが強すぎると
批判。
加藤氏は台湾の李登輝総統と会談し、「GNP対比で国民所得が
年収3000ドルを超えると、国民は独裁政治から離脱し、独自の
思考を始める』と発言すると李登輝総統は「いや1500ドルを超えると
政府の強圧的なコントロールから国民は離れる」と言っている。
既に中国は700ドル程度の所得となっている。近々に1500ドル
の所得を超えると中国共産党の独裁支配から離脱する可能性が
あると言っている。
小泉首相の靖国参拝には正面から反対を唱えている。
そのため右翼が山形県の実家兼事務所に放火し割腹自殺を図る
という事件が起きた。小泉首相、安部官房長官は10日間以上、
右翼の言論封殺のテロリズムに無関心でいた。加藤氏は、
この放火・割腹自殺未遂事件は、言論の自由と民主主義に
対する重大な挑戦であると言明。私は、テロがあったからこそ
なお一層、自説(中国やアジアとの友好、靖国参拝反対、
言論の自由と民主主義を守る)を曲げずに行動すると言っている。
立派な態度である。政治的な見解を異にする部分は多いが、
加藤氏の生き方には賛同するところ多し。
多くの方々に本書を勧めたい。読むべき価値のある本である。
今の日本の「右傾化」「偏狭なナショナリズム」「格好だけの
強さの強調」など怪しくなった国民全体の雰囲気に
警鐘を乱打している。この点は、私と全く同じ現状認識と
意見である。加藤紘一氏の活動が暴力や脅しでつぶされない
ことを祈る。ともに民主主義を守る同志だと思える人物である。
異なった意見の持ち主が共存する社会こそ民主主義社会である。
今の日本は特定の意見を「異端」と一方的に決め付けると
排除する社会となりつつある。ファシズムに一歩踏み込んだ
社会である。

午後6時。日本料理店の厨房では、静岡の会の皆さんの
夕食作りに余念がない。

●天麩羅を揚げる

●豚肉のしょうが焼きの生地作り

●しょうが焼きを作る


●調理の仕上がった「てんぷら」


●出来上がった「しょうが焼き」

●日本料理店の子どもたちと交流するアオザイ姿の静岡の
  子どもたち



投稿者 koyama : 08:27 | コメント (0)

2006年12月27日

JASS静岡の会「子どもの家」へ

12月25日位からインターネット、メール、電話が通じなくなった。
特に12月27日からは、インターネットは接続不能となり、
メールの受信は出来たり出来なかったり、送信は不能。
国内電話は可能だが、国際電話は受信は出来るが、ベトナム
からの発信は一切出来なくなった。
12月30日午後になってやっとインターネットが断続的では
あるが接続可能となった。遅ればせながら、27日からの
の日記を掲載する。
なお、インターネット、メール、電話不通の原因は不明ながらも
国内政治問題が大きいとの噂。台湾地震の影響もあるという
声も聞こえるが、真因不明。
この1週間、メールなどを送信して頂いた方々にご迷惑を
おかけした。お詫びする次第である。

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晴天

今日は1日「インターネット接続不通」「電話不通」「停電」という
三重苦に悩まされた。
昨夜台湾で起こった地震による津波警報が昨夜から今朝にかけて
テレビで繰り返し放送された。インターネット不通の原因は津波関連
で東アジア戦域の調子が悪いとの情報もある。

午前8時、JASS静岡の会スタディ-ツアーの皆さん(11人)は
「子どもの家」へ。「子どもの家」の子どもたちと市場で買い物。

午前9時。「子どもの家」へ。「子どもの家」では静岡の会と
子どもたちが昼食作りの真っ最中。



午前11時半。子どもたちと一緒に昼食。


昼食後、静岡市にある「ふた葉学園高校子羊委員会」より寄金を
頂く。


●子どもたちと全員写真


トンチンカンホテルに戻る。メール・インターネット接続を試みるも
不調。

午後読書、「テロルの真犯人」(加藤紘一著:講談社)
静岡の会の笠井さんに急遽お願いて持ってきてもらった本。
2006年12月18日発行の最新版。自民党の加藤紘一が
最近の日本、政治の現状を同考えているのかを知りたくて
笠井さんにお願いした。加藤紘一のHPを時々読んでいるが
政治的な立場は違っても「同感する」所多し。

午後6時半、全教千葉婦人部関係の皆さん(8人)が
日本料理店へ。
日本料理店で仕事・研修している子どもたちや日本人スタッフ
を紹介。


全日本教職員組合(全教)千葉婦人部の松原先生をはじめ
多くの先生方は、10年近くもの間、毎年、「子どもの家」を
訪問し、子どもたちと交流を深めている。
同時に船上生活者の多い「フールー小学校」(富留小)も
訪問し、先生や子どもたちに様々な遊び、工作などを教えて
くれている。今回は、10人の船上生活者などの貧しい子どもたち
に奨学金を贈呈。
また、数年前からナムドン山岳地帯の少数民族カトゥー族の
子どもたちが通う「トゥオン・ロー小学校」に子どもたち60人に
奨学金を贈呈している。
全教千葉婦人部の先生方は、大言壮語をする訳ではないが、
10年間、コツコツとアジアの子どもたちの生活実態を
見続け、心からの愛情を持って子どもたちに接し、必要な範囲での
支援を行っている。全教千葉婦人の先生たちと付き合って
一番感じることは、この先生方は本当に子どもたちが好きなのだ
という言葉に尽きる。こうした先生方が本当に力を発揮できるる
学校であり職場であって欲しい。安部政権は教育再生を口にしている
が、怪しげな「有名人」を人寄せパンダとし、結局は真面目な先生方の
やる気を失わせる政策を推進しているように思われてならない。
全教千葉婦人部の皆さんの10年近くの活動に感謝している。

投稿者 koyama : 08:03 | コメント (0)

2006年12月26日

内田さん帰国・静岡ー全教「子どもの家」へ

晴天。

久しぶりに「夏の太陽」を拝む。

午前7時、内田さん帰国。トンチンカンホテルを出発。
私とミンさんでフエ空港まで見送り。
クリスマス会、ベトナム事務所への支援など心からの
応援に感謝。

午前8時。JASS静岡の会(11人)と一緒にベトナム事務所を訪問。
静岡の皆さんはバンベーなどを日本から運んでくれる。


午前8時半。JASS静岡の会の皆さんと一緒に「子どもの家」訪問。
子どもたちの歓迎の歌と踊り。

●JASS静岡の会の歌


その後、子どもたち同士で遊ぶ

午前11時過ぎ、静岡の会の皆さん、バオミンさんと一緒に
昼食。ベトナム料理

午後2時。フォンザンホテルへ。全教の皆さん(8人)と一緒に
再度、「子どもの家」へ。

その後、私が「子どもの家」も各施設を案内。

案内後、子どもたちと交流。
風車を作り、遊ぶ。

午後5時。全員で写真を撮り交流を終わる。

午後6時半。JASS静岡の会の皆さんと日本料理店で会食。

生ジュースで乾杯

JASS静岡の会用の特別献立

JASS静岡の会より日本料理店へお酒の差し入れ

静岡の会の子どもたちより日本料理店の子どもたちへ
「静岡の凧」の贈呈


午後9時過ぎ会食終了。


投稿者 koyama : 20:08 | コメント (0)

2006年12月25日

第11回「子どもの家」クリスマス会

終日曇り

午前9時。全教千葉婦人部の皆さんがベトナム事務所を訪問。
しばし懇談。

午前10時、ハイバーチュン高校の校長先生・副校長先生などが
クリスマスと新年の挨拶、懇談。

午前11時。大塚さん;内田さん・ベトナム事務所員と一緒に
フエ名物「バイン・コアイ」(フエ風お好み焼き)を食べに行く。


昼寝。
読書「平家物語」。平家、京から撤退。

午後3時半。バオミンさんとフエ空港へ。
ベトナムの「子どもの家」を支える静岡の会スタディ-ツアー
出迎え。
午後4時20分。11人の訪問者は無事フエ空港へ到着。

JASS静岡の会の皆さんと一緒に「バオミンホテル」へ。
午後6時。静岡の会の皆さんと「第11回子どもの家クリスマス会」
会場へ。

●クリスマス会会場看板


●石岡先生・ハンさんの司会でクリスマス会は始まる。

第11回クリスマス会には「子どもの家」の子どもたち、
在宅支援の親子、ベトナム事務所スタッフ120人。
JASS静岡の会、全教千葉婦人部など総勢150人。

はじめに来賓としてフエ市人民委員会外務部長ニエン氏挨拶。


続いてクリスマス会を贈呈してくれた内田さんの挨拶

ミン・ベトナム事務所長挨拶

子どもたちを代表してフエ医科大学に入学したフオンさんが
クリスマス会のお礼の挨拶


子どもたちが待ちに待った「乾杯」。
静岡の会の滝下さんの音頭。

いよいよ楽しみの会食。





全教千葉婦人部の皆さん


JASS静岡の会の皆さん


「子どもの家」スタッフ


ビンゴ大会で優勝し賞品をもらう。


クリスマス会も佳境に。いよいよカラオケ大会。

カラオケの順番を待つ子どもたち


午後9時、クリスマス会終了。
お土産をもらって帰る。


2時間半にわたるクリスマス会が終了。
内田さん、江平さんなどクリスマス会を支援して頂いた
皆様に心から感謝。

内田さんがはじめたクリスマス会は今年で11回目。
何事もそうであるが、「続ける」ということ自体が素晴らしい
ことである。一時、思いついて行動することはあるが、
それを続けるということは時間と忍耐とエネルギーそして
思想・意思が必要である。
内田さんの中にどんな思想と意思があるのか?

11年間もの長き間、毎年年末フエに来て頂き、クリスマス会を
行ってくれた内田征子という人間のエネルギーはどこから
出ていているのか? 非常に興味のあるところである。

とにかく、今日は子どもたちが最高に楽しんだ日であった。

投稿者 koyama : 14:49 | コメント (0)

2006年12月24日

縫製工場「棟上式」-クリスマスイブ

終日曇り・時々雨。

午前8時起床。

読書「平家物語」。倶利伽羅峠敗退後の平氏内部の動揺、
叡山との離反。義仲入洛へ。

午前10時過ぎ。バオミン・ベトナム事務所長と一緒に
縫製工場「上棟式」へ。

途中、サンタさんの宅配便に出会う。
昨年からフエで始まったものだそうだが、フエ郵便局が
お客さんが指定した時刻と場所にサンタさんがクリスマスプレゼント
を宅配便すると言う趣向。
フエでもこうした趣向が営業として成り立つようになったのだ。
「フエ版成金」が一つの「層」として存在するようになった
証拠。
11月のアセアン、WTO加盟、アメリカとの貿易協定など、
ベトナム政府は矢継ぎ早に「グローバル市場」への参入を
進めている。金持ちになる人はドンドンなってよい、貧しい人は
致し方ないという方針としか思えない。ストリートチルドレンや
学校へ行けない子どもたちを多数抱えての「近代化」
「グローバリゼンーション」路線が今後どのような軌跡をたどるのか?
富の公平な分配が社会主義の基本理念だったはずだが?・・・・・・

縫製工場に着くが、棟上式の準備が十分出来ていない。
午後12時に開始とのこと。
縫製工場は、既に80%近く進んでいたい。
午前11時から日本人スタッフと昼食を食べにいくことになって
いるので日本料理店へ帰る。

●縫製研修工場全景

●縫製研修工場正面

●縫製研修工場1階

●縫製研修工場1階奥の作業場

●縫製研修工場2階


午前11時。内田さん、大塚さん、バオミンさん、日本人スタッフ
とキムロン地区にある「バイン・クオン」専門店へ。
バイン・クオンは、生春巻きの一種。生のライスペーパーに
生野菜や味付け豚肉を入れて食べる。美味。

●豚肉入りブンどんぶり
 米のうどん(ブン)に味付け豚肉とミントやどくだみなどの各種野菜
 を乗せる。私はバインクオンよりは、豚入りブン丼の方が好き。

1時間半ほどバインクオンのお店で会食。
その後、ティエンアン山麓にある『ウーロン茶』専門茶庭園へ。

ござの座敷に座り、数種類のウーロン茶を楽しむ。
甘い香りと上品な味。緑と静かな山麓。2時間ほど
山荘のお茶を楽しみ。忙中閑。

午後3時近く、トンチンカンホテルへ帰る。
昼寝。その後、読書。

夜、クリスマスイブの街に出て「コムディア」(ほか弁)を
買う。
町中、歩いている人、オートバイ、車。とにかく人人人
でごったがえす。どのホテルでも「上流階級」の家族親族
がクリスマスパーティーをしている。カラオケがうるさい。
ホテルでパーティーができない人たちは、庶民の食堂で
家族で会食。お金のない若者は路上の食べ物屋などで
うどんなどを食べている。一回り街を歩き、色々と感じる
ことはあったが、それでも戦争のない平和な社会は
ありがたいことだと改めて感じた。
金持ちはお金を使い、お金のない人はそれぞれに工夫を
してクリスマスイブを楽しんでいた。
トンチンカンホテルへの帰り、真っ暗な路上のうどん屋で
家族数人が肩を寄せ合ってブンボー(牛肉入り米うどん)
を食べている風景を垣間見た。
 先日読んだ「ベトナム報道1300日」では、庶民はアメリカと
南ベトナム軍、北ベトナム、南ベトナム民族解放戦線のその
時々の戦闘方針に翻弄されていた。常に死と背中合わせに
生きていた。
ベトナム戦争中の庶民の生活を考えると、とにかく
戦争がなく、死の恐怖から庶民が解放されたという
一点で私は現状を肯定したい。

午後8時、コムディアをおつまみに缶ビール3本。
午後9時半時点でも隣りのホテルのクリスマスイブパーティー
ではカラオケが大音響を発している。
「音害」も平和の象徴か?

投稿者 koyama : 19:07 | コメント (0)

2006年12月23日

日本語学校新学期入学生説明会

曇りのち晴れ。晴天

午前9時。静岡会館付属日本語学校で「入学希望生」への
説明会。「日本語集中観光コース」第2期生の募集である。

●支援者から送られた「年表」前で日本語学校の先生


トゥアティエンフエ省観光局が関係機関などを通して
募集した13人が参加。毎日午後2時から6時まで、
毎週5日、1年間の授業を行う。年間授業時数は800時間。
1年終了後、学生の希望を聞きながらその後の授業などを
考えるとの説明をした。

●小山校長挨拶

●トゥアティエンフエ省観光局代表挨拶


その後、日本語学校主任のフーン先生から細かい説明。
日本語学校は来週のフエテレビで独自の宣伝コマーシャルを
流す予定。最終的には40人~50人の希望で開講予定。
開講は2007年1月15日頃。

午前9時半、北海道の「北方圏センター」の視察団が
ベトナム事務所を訪問。1時間ほど、活動を説明する。
視察団の6人の方々は小中高・教育委員会などの先生方。

その後、一緒に「子どもの家」まで。「子どもの家」を案内し、
子どもたちと一緒に昼食を摂る。


先日、心臓の手術をして実家で療養していたターオちゃんは
完全に復調。「子どもの家」で元気に活動していた。
食事もモリモリ食べていた。これでターオちゃんも安心して生きて
行ける。
心臓手術を支援して頂いた『高野道朗メモリアル基金』の皆さんに
心から感謝した。また、里親のNさんのお気遣いにも深謝。


「子どもの家」で昼食を摂る。

昼寝。

読書「平家物語」 倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲と巴御前
が平氏を壊滅させる。

午後5時半、子どもたち、日本人スタッフ、内田さんと夕食。

午後6時半日本料理店開店。

午後7時半頃、イスラエル人8人家族が来店。おじいさん夫婦、
息子夫婦、4人の子どもたち。
天麩羅・御寿司・酢の物など「日本食通」が伺えるような注文。

午後9時。日本語学校から石岡先生が戻る。
日本料理店を閉店し、日本人スタッフで「クリスマスイブ・イブ」の
お祝い。午前1時まで。

フエの街中がクリスマスで浮かれている状態。町中に多くの
人が出ている。j家族、友人、恋人・・・・・。
昨日は、ラームさんの弟のレー君家族が日本料理店前の
5つ星ホテルに来たようで、内田さんと交流した。
特に目的もなく街中をオートバイで走る。歩き回る。
こうした華々しい雰囲気とエンターテーメントを求めている
フエ市民の心理が読み取れる。クリスマスで町中を
「徘徊」できる豊かな層の人々が増えたことはうれしい
ことではある。

投稿者 koyama : 11:02 | コメント (0)

2006年12月22日

クリスマス会を待つ子どもたち 冬至ーかぼちゃの茎を食べる

晴天。

少し肌寒いが過ごしやすい晴天。

あまり眠れず午前4時に読書をしていた。
隣りのホテルから「ボンボン」と2回爆発音が聞こえた。
その途端、停電となる。直ぐにテラスに出てみると
町中は真っ暗だった。星空がきれいに見えた。
結局、電気が点いたのは1時間半後の午前6時過ぎ。
その間、真っ暗な部屋で眠れないまま過ごす。

午前7時。朝食はフォー。美味しい。

午前8時。日本料理店「第4回英語教室」。
子どもたちは定刻前に全員集合。やる気が見える。
毎週2回、これから50回の初級英語講座である。
この講座を経て初級英語が少しでも身につき、
人生に役立ってくれることを祈る。


午前9時。ベトナム事務所へ。事務所2階ではクリスマス会の
準備。10数種類のお菓子を一つずつ袋に分けて、120人分の
クリスマスプレゼントのお菓子を作る。
ベトナム事務所員全員。内田さんが始めた恒例のクリスマス会も
会を重ねて今年は、11回目となる。


●一人分のお菓子


日本料理店店長の大塚さんより電話。
日本料理店の冷凍庫のふたが自然に開いてしまう
状態になってしまい、マグロなどの冷凍品が解けてしまって
いるとのこと。日本料理店に急行。確かにふたのしまりが
良くない。4ヶ月前に買ったばかりの冷凍庫である。
仕方がないので発泡スチロールに氷をいれ、臨時の
冷凍庫とし、冷凍庫を買ったお店に行く。
2年間の保証がついているのだが、お店側はたった4ヶ月間
で扉が壊れてしまったことに何ら責任を感じていない。
冷凍庫が壊れて使えないので仕方なく新しい冷凍庫を
1台買うつもりで、値段交渉した。以前買った時には、
1台2万円ほどだったものが、今日値段を聞いたら「3万円」
という。「あなたの店の無責任な仕事で冷凍庫が使えなくなり
日本料理店の仕事ができなくなった。仕方なく、1台冷凍庫を
買うというのに以前より高い値だとは何事か・・」と詰問する。
すると店側は「600円位なら負けていい」という。
「なめるな」と思う。お前の店が4ヶ月で壊れてしまう不良品を
売りつけておいて、仕方なくもう1台買うと言っているのに以前より
1万円も高く値段をいい、交渉しても600円位しかまけない
という。
ベトナムのドイモイの実態である。金権主義、金儲け主義は、
結局、「仕事に責任を持つ」という方向には行かず、
「お金を儲ければ、相手を騙しても、いい加減な仕事をして
もよい」という風潮を生み出している。悲しい現実である。
あまりにもひどい金権体質、金金金の体質に腹が立ち、
冷凍庫を買わずに、「保証書通り直ぐに修理しろ」と
いう話にした。電気屋側は「直ぐに直る」という。
日本料理店に帰り業者に再度督促し、壊れた冷凍庫を
取りにこさせる。また「直ぐに直る」という。
ベトナムで『直ぐに』というのは、「時間がかかる」という
意味。案の定、20分ほどで直せると言って持って帰った
壊れた冷凍庫だが、4時間から5時間かかると言って来た。

午前11時。内田さんの誘いで大塚さんなど日本人スタッフ
全員で「海鮮料理店」へ。ソフトクラブ、イカ、炭火焼のえび
などを食べる。ほんの少しビールを嗜む。

午後1時半から昼寝。
午後3時。受信メールのチェック。このところ本当に
インターネットとメールの送受信が恣意的に操作されていて
不愉快である。仕事にならない。

読書「平家物語」

午後5時半、子どもたちと一緒に夕食。


今日は冬至。かぼちゃの茎を食べ健康を祈る。

午後6時半。日本料理店開店。
直ぐにベトナム人のお客さんが2人。お寿司を注文。

厨房では子どもたちがお寿司を握っている。


午後8時。「子どもの家」へ。子どもたちは12月25日の
クリスマス会を楽しみにしていた。



●私の電動自転車を6人で乗り回す

投稿者 koyama : 23:32 | コメント (0)

2006年12月21日

クリスマス会の準備

朝雨、昼曇り、午後晴天。

今日の午後、久しぶりの晴天となる。やはり太陽が出ると
精神的にも晴れ晴れとする。

午前7時、内田さんを交えて朝食。ブンボー。美味しい。

雨の中、ベトナム事務所へ。内田さん、石塚さん、仁枝さんは
ハンさんは内田さんと一緒にクリスマス会のプレゼントの買い物。

私はこのところ溜まっている受信メールを再点検。
12月17日に返信したメールが届いていないとの連絡。
これはベトナムの政治的な事情があり、プロバイダー(公安警察)
の方でメール等のチェックが厳しくなったせいでもある。
また、今年はモーツアルト生誕300周年。ベトナムでもモーツアルトの
誕生日には、モーツアルトの音楽が無料でダウンロードできると
あって電話回線のインターネットを使う人がいて、インターネット
が接続できなくなったとの話も聞いている。
日本からメールを送信された方には申し訳ないが、ベトナムの
特殊な事情をご勘案頂き、送信のほど。メール等を送信しても
返事が来ない場合は、何らかの事情ありとの判断をお願いしたい。

昼食。内田さんたちと「チャーハン」専門店へ。玉子焼き入り
チャーハン17000ドン(120円)。
1979年の『中越戦争』まではフエにもチャイナタウンがあり
多くの中国系ベトナム人が住んでいたい。27年前の
中越戦争のため、フエ在住の中国系ベトナム人はほとんど
全員ベトナムを脱出。アメリカ、香港・・・・へ。
このチャーハン屋も当時のチャイナタウンにいた中国系の
人たちのお店。本当に安くて美味しい。

午後12時半から昼寝。

読書「平家物語」。木曽義仲決起。同族の頼朝は義仲を嫌う。

午後2時半。ベトナム事務所まで徒歩。午前1回、午後1回と
1日2回、雨でもベトナム事務所まで徒歩で通う。片道20分
程度。1日1時間ほどの徒歩が必要。健康維持のため。
私は1時間歩くと「1分間長生きする」と勝手に決めて
歩いている。既に車をやめて徒歩を始めて20年になる。
とにかく歩くことと肝に銘じている。
ベトナム事務所で受信メールへの返信を書く。かなり溜まっている。


午後5時半。内田さんも交えて夕食。大人数で食べると食事も
美味しい。子どもたちも家族と食事をしている気持ちである。

夕方、フエの街はクリスマス一色。久しぶりの晴れ。
日本料理店前のホテルではクリスマス商戦のためか、
聖歌隊のような歌手・バンドの一団が大音響の下で
歌を歌い、クリスマスを盛り上げていた。
子どもたちも一緒に写真を写す。



今夜の日本料理店。5人の来客。3人日本人、2人欧米系。
ーーーーーーーーー
日本社会は病んでいる。空元気の政治家などは
いやに元気が良いが、社会の上層部から腐食が始まっている。
それも急速な社会上層部の腐敗・腐食現象である。

昨日、テレビを見ていたら福井日銀総裁が日本経済の先行き
について語っていた。ホリエモン村上ファンドとの株取引
をめぐっての「不正」事件はすっかり忘れて「偉そうな顔」をしての
記者会見である。日本経済の先行きを語る前に、村上ファンドで
金儲けをしたことについての責任を果たすべきである。
「不正」にもうけた金を寄付したから全てがお終いと思っている
ようだが、これで社会は収まるのか? 


政府税制調査会の本間正明会長は東京・渋谷の一等地にある
幹部用の国家公務員宿舎に住んでいた。本間氏は9月に
経済財政諮問会議の専門調査会長として、財政再建のために
公務員宿舎を含む国有財産の売却推進を求める報告をまとめた
責任者。
役人は特権を使って安い公務員宿舎に入っていると批判していた
張本人が「相場50万円の3LDK」の幹部用の特別宿舎に
家賃7万7千円で入っていたという。しかも事実上の「2号さん」を
住まわせていたとのこと。奥さんがいるのだから社会ではそうした
女性を「浮気か本気相手」というのだろう。
自分が批判していた高級公務員宿舎に政府税制調査会会長
という『特権』をつかい、ただのような安い家賃で入居し、
本人は大阪大の先生もしていたので、あまり泊まっていなかった
と思われる。浮気だか本気だかは知らないが、奥さん以外の
女性との「ラブホテル」として使っていたようなもの。
これに対し、本間氏を政府税調会長に任命した安部首相は
「仕事をしっかりやってもらえれば問題ない」という趣旨の発言
をしている。
自民党の首脳・政府首脳も「自分で進退は決めるべき」などという
禅問答のような発言しかできない。
自民党・公明党・政府首脳の中で「本間はやめるべきだ」と
筋を通した発言をする気骨ある人間はいない。
北朝鮮の核実験などにはやたら強硬発言発言を繰り返す
大臣や自民党首脳もいるが、「身内のこの種の不祥事」のとき
こそ、きっぱりと「筋を通す」ことが必要である。

三国志の「泣いて馬謖を斬る」を引き合いに出すまでもなく
「規範意識を育てる」(教育基本法改悪時の発言)と言う
のであれば、こうした問題の時にこそ、阿部首相は
はっきりと自分が任命した本間氏を「クビにする」という
根性が必要なのである。

本間氏の行動は
「李下に冠を正さず」 「瓜田(かでん)に履(くつ)を納(い)れず 」
という故事にすら該当しない。上記故事は、「誤解を受けるような
ことはするな」と言っている。
本間氏は『誤解を受けるようなこと』ではなく、すももの木の下で
冠を正すふりをして、すももを盗んでしまったのであり、
瓜(うり)の畑で履(くつ)が脱げたふりをして瓜を盗んでしまった
のである。
誤解を受けないようにという故事すら当てはまらない本間氏の
行状へ本質的な批判すら出来ない安部首相や自民・公明の
幹部に、どうして子どもたちへの「規範意識」が育てられると
いうのか。

銀行協会が自民党への政治献金を再開するとの記者会見を
テレビで見た。
厚顔無恥とはこうした人間を指すことばなのであろう。
バブルの頃、やくざを使って『地上げ』をし、庶民をおどかし
土地を買いあさり、バルブが崩壊して行き詰った日本の大銀行。
公的資金をジャブジャブ注入してもらい、「ゼロ金利」などという
訳の分からない言葉でお年寄りの退職金などの預金利子を
掠め取り、「貸し渋り」「貸しはがし」を常套手段とし、
未だに法人税を支払っていない日本の大銀行。
今、史上最大の利益を上げているという。
その上、自民党への政治献金を再開すると言って
はばからない。政治献金する金があるのなら、
最低、庶民と同様に「税金を払いなさい」と言いたい。
戦前は一定の税金を払わないと「参政権」がなかった
時代があった。
政治をうんぬんする以前に銀行協会は税金を支払い、
この10数年、国民の皆様の利子を「横取りして」
今史上最大の利益をあげていますと謝罪とお礼を国民に
言うべき。自民党への政治献金をする金があるのなら、
国民へ直ちに還元すべきである、などど、私たち
庶民に言われる前に、社会の常識的な行動をとることが
「規範意識」というものである。

福井日銀総裁、本間政府税調会長、銀行協会など
日本の社会の「上層」にいると言われている人たちの
「規範意識」の低さは、子どもたちなどの比ではない。

日本社会の融解現象は深刻な事態である。
子どもたちではなく、社会の上層部が腐っている。

投稿者 koyama : 10:47 | コメント (0)

2006年12月20日

内田さん出迎え

雨のち曇り

午前中、ベトナム事務所で仕事。当面の諸問題を整理する。
午後12時。ピースボートのレオさんが来る。日本料理店で
ミンさん、ラームさんと一緒に打ち合わせ。

2007年6月に来るピースボートのツアー。今回は4日間の
フエ滞在の受け入れ。「子どもの家」や少数民族など様々な
取り組みをすることを相談する。1時間。

午後1時過ぎ、昼寝。

読書「平家物語」。清盛死去。

午後3時半、日本事務所の内田さんを出迎えにフエ空港へ。
バオミンさん、里子だったメンさんと一緒に。
予定より10分早く午後4時10分過ぎに到着。
昨夜、成田からホーチミン市しへの飛行機は遅れ、夜中の
12時過ぎにホーチミン空港へ着いたそうだ。

その足でベトナム事務所経由トンチンカンホテルへ。
クリスマス会の飾り・プレゼント、日本人やベトナム人スタッフ
へたくさんのお土産を持って来てくれた。
私も酒の肴を頂く。本当にたくさんの荷物を持ってきてくれる。
ありがたいことである。「言うは易し、行うは難し」。見習いたい。


午後6時半、内田さん、里子のメンさんと一緒に日本料理店
で夕食。

店長の大塚さんが、特別に「イカめんたい」などの差し入れ。
てんぷら、とんかつ、キンピラ、浅漬け、・・・・・。
十分、美味しい日本料理店を満喫する。
午後9時半閉店。
今日の来客10人。

毎月20日は日本料理店の給料日。
18歳以上で自立している子どもたちは直接支給。
18歳未満で「子どもの家」で生活している子どもたちは
研修生としてセン委員長に手交。20万ドンを個人通帳に貯金。
退所時本人に渡す。毎月5万ドンのお小遣い。

今日は、下宿している子どもたちに直接給料を渡す。
50万ドン。

警備員と料理人の男子は先月の給料日の翌日には
全額お金を使ってしまった。今回は、1ヶ月の計画を立てて
月給を使うように諭す。

●警備員のリー君

●調理人のターオ君

日本料理店は、子どもたちの教育の場である。仕事を通して、
「子どもの家」の子どもたちが社会性、仕事に対する責任、
など人間が社会人となって生きていくために必要な能力を
体験させることが大きな目的のひとつである。
子どもたちはいわゆる「家庭」での生活をしていない。
一般的に家庭で親が日常的に「躾ける」様々な能力が
体験的に身についていないこともある。
特に「仕事をして生きていくこと」については、だまだま
甘い部分を持っている。この日本料理店は、子どもたちの
そうした甘い部分を体験を通して、身につけて行って
もらうという役割を果たしている。
子どもたちの成長は文字通り「螺旋(らせん)階段」を上るがごとく
紆余曲折の中での成長である。子どもたちの教育に
直ぐ結果など出せるわけがない。日本料理店の
子どもたちとの付き合いは既に10数年になる。
子どもたちを育てるということは『手間』『ひま』『時間』
がかかるものである。

とかく海外支援は「お金」と「建物」の支援と思われがちだが、
海外支援の本質は「人間」である。「人間を育てる」「自立させる」
「自分で仕事をして生きてゆく」ことへの支援こそが、海外支援の
本質だと思っている。時間と労力と忍耐力、としてお金もかかる
事業である。私たちが今ベトナム・フエで展開している活動は
海外支援活動の新しい形態のひとつへの挑戦でもある。

子どもたちを「学力」とか「進学」など、子どもたちの持っている
一部の『能力』で見るのではなく、「生きる」という視点で見てゆく
活動である。子どもたちを育ている、教育するという事業への
新しいひとつの取り組みともいえる。

仕事に来たり来なかったり。仕事をしたりしなかったり。
こうした子どもたちを時間をかけて育て、自力で生きてゆく
ように導くことこそ教育の本質のように思える。
私がベトナムの「子どもの家」で行っている諸活動の
スローガンは、
「どのこともたちも生きてゆく力を本能的に持っている」
「子どもたちに『くず』はない」である。
どの子どもたちへも愛情と忍耐、厳しさと暖かさを持って
接し、けしてあきらめずに付き合ってゆくことが「子どもの家」
では求められているが、これは日本の子どもたち、教育にも
同じことが言えるのではないだろうか?

ベトナムで日本の教育や子どもたちの諸問題を
見ていると、「教育」の一番大事な論議(どの子にも素晴らしい
能力が眠っている)が忘れられているように思えてならない。

ベトナム・「子どもの家」では「未履修問題」や」タウンミーティング
問題」など、姑息なやり方は必要ない。正々堂々と子どもたちと
対面し、ぶつかっていく気概があれば、結果は自ずからついてくる
ものである。


投稿者 koyama : 13:19 | コメント (0)

2006年12月19日

ベトナム事務所で仕事

終日雨。寒い。

終日、インターネット接続不良。Eメール(アウトルック)使用不能。
プロバイダーに原因あり。日本事務所、関係者との連絡が出来ず
困る。

朝、内田さんから電話。これから成田発でベトナムへ行くとのこと。
旅行の無事を祈る。

午前7時。朝食。ブンボー。
午前8時。日本料理店の英語教室。男子2名欠席。女子5名学習。

午前8時半、ベトナム事務所で仕事。ボランティア貯金からの
質問状への回答。必要な領収書をデジカメで撮りホットメールで
送る。

昼食はベトナム事務所隣りの「精進料理屋」のコムディア(ホカ弁)。
40円。野菜ばかりで美味しい。

1時間ほど昼寝。寒い。

読書「平家物語」。いよいよ平家滅亡へ・・・。


午後、雨の中徒歩ベトナム事務所へ。


午後5時半、日本料理店で夕食。今日は男子2名、食事に
加わる。

JASS静岡の会スタディ-ツアーの日程等の計画・連絡。

日本料理店来客は2人。

午後9時、閉店。雨の中、子どもたちが帰宅。
明日は、日本料理店の給料日。子どもたちは楽しみにしている。

投稿者 koyama : 17:46 | コメント (0)

2006年12月18日

ベトナム事務所で仕事

曇りのち雨。 とても寒い。


50年前の1956年12月18日、日本は国連に加盟した。
なぜか私はこの日を鮮明に記憶している。
当時、豊島区立文成小2年生だったと思うが、小学校の
全校朝礼があった。木下校長先生が「今日から日本は国連に
入ることができました。お目出度い日です。世界の仲間に
入りました」というような趣旨の話をした。その日の朝礼の
様子、学校の様子、色まで鮮明に記憶している。人間の記憶とは
不思議なものである。なぜ、国連加盟のこの日だけが
記憶に残っているのか、私にも分からない。
国連加盟の記憶と連動してどういう訳か担任の先生と
アコーディオンを抱え門脇という先生が歌を教えてくれたことをも
記憶につながっている。白と黒の大きなイタリア製の
「EXCELSIOR」を抱えて歌いながら教えてくれた階段下の
変な教室での出来事。教室が足りなくて階段下の倉庫が
教室だったように思う。
歌詞まで思えているというのも不思議なものだ。
今朝何を食べたかすら忘れてしまう今日この頃だが。・・・・。
題名は忘れたが「東京を讃える歌」だった。
戦後10年位たった頃である。
『花が咲き 夢がこぼれる 東京の 緑の町よ明るい園よ
東京の 昔懐かし お堀の水に 映るは富士か議事堂か
白鳥の影は鮮やか』こんな歌だった。
昔の特定の記憶だけが鮮明に頭に残り、『今』の出来事が
分からなくなる症状は、典型的なアルツハイマーの症状
である。既にその初期症状に入ったいるのか?・・・・・・・

午前中、ベトナム事務所で仕事。
先日ホーチミン市のIT事務所でお会いしたDNA会長
のH氏より日本と世界の手作り年表が送られてきた。
1850年からの日本と世界の主な出来事、首相名など
が書かれた年表。最後の首相名は小泉純一郎。
日本語学校に掲示する。感謝。

昼、停電。

午前中、インターネットが接続されなかった。
Eメールは1日中送受信できなかった。

2007年12月15日に日本からフエに帰る切符を
フエで買おうとしたが、「テト」(旧正月)の前と
いうことで座席が満席。2007年2月17日(一説では18日)
がベトナムのテト正月。この日をめざし、世界中から
ベトナムの故郷へ一時帰国する。又、ホーチミン市や
ハノイ市などの大都市へ来ている人も故郷へ帰る。
そのため、2月17日(18日)の前1週間の飛行機の切符は
既に満席。困っている。2月15日に日本の支援者と一緒に
フエへ戻ることになっている。既に支援者は日本でフエまでの
切符を買っているが、肝心の私の切符が買えない。

今日は夜遅くまで1日中、Eメールが使えず、日本事務所への
連絡ができなかった。また、支援者や関係者からのメールも
受信できず。送信された方には申し訳ないが、今日送信された
メールは一切読むことができていない。明日、受信可能になったら
急いで読み、返事をする予定。日記を借りてお詫びしたい。
FAXで日本事務所送信しようとしたが、FAXも使えず。

午後、生ビールの機械が故障。修理業者に連絡するが来ない。
昨日から生ビールのゴムの管が破れて生ビールがこぼれ出して
いた。日本料理店中が生ビールの腐敗臭。
結局、破れたゴム管から空気が入り、生ビールの発酵を早め、
既に酸っぱくなってしまった。お客さんには出せない。
原因は業者がゴム管を抑える金具を強く締め過ぎていたため
ゴム管が破れてしまった。責任は業者にあるが、全く責任を
感じていない。まだ60㍑中、40㍑以上は残っている生ビールを
お客さんに出すことができなくなった。

午後9時過ぎまで日本料理店を開店したが、来客ゼロ。
久しぶりのゼロ日だった。外は雨、寒い。街を歩いている
人はいない。たまには、こうしたこともある。
商いは「飽きない」である。良い時もあれば、悪い時も
ある。

今日は1日、ベトナムの社会に翻弄された。
インターネット、Eメールが使えず、停電、生ビール破損。
お客ゼロ。

投稿者 koyama : 07:52 | コメント (0)

2006年12月17日

休息日。みんなで昼食を共にする

終日雨。寒い。

昨夜、午前1時半まで飲んだ。今朝は流石に起きられなかった。
午前7時のNHKの「政治討論」を見ることができなかった。

午前8時半。ベッドで「平家物語」(2巻)を読む。興味津々。面白い。

午前11時、日本料理店で日本人スタッフと「ブランチ」食事会。
フダ生ビールが寒くて売れない。60㍑の樽を買っているが、
生なので2週間で発酵が進み、酸っぱくなる。先週も生ビールが
2週間経過し酸っぱくなり捨てた。今ある生ビールも
今週の日曜日に2週間となり飲めなくなる。
捨てるよりは、人間の胃袋に入れた方が良いとの判断で
今日は生ビールを飲んだ。60㍑樽を取り寄せて丁度1週間。
一番美味しい時。大塚さんが「刺し盛り」を作ってくれる。
大トロ、中トロ、赤み、イカ、鮭の刺身。野菜天ぷら。
その他いくつかおつまみ。仕上げは雑炊。
午前11時から午後4時まで雑談をしながら日本人スタッフで
交流。

午後8時。夕食。缶ビール2本。コムディア(ベトナム風ホカ弁70円)

「平家物語」を読む。

投稿者 koyama : 22:57 | コメント (0)

2006年12月16日

ベトナム事務所員会議:日本語学校会議

終日雨・風強し。寒い


朝6時半のNHK[週間ニュース」を見る。
今週1週間のトップニュースが何と「松坂レッドソックス入団」だった。
教育基本法・防衛省問題は一般のニュースの中のひとつとしての
扱い。NHKのジャーナリズムとしての体たらくぶり。
週間ニュースと銘打った番組である、教育基本法・防衛省問題が
今後の日本の針路を決めるほどの重要ニュースであるとの
認識がない。政府・体制べったり。政府・体制の提灯持ちと
化している。NHK視聴料を強制徴収などという前に真っ当な
報道をすべきである。少なくとも少し前なら、今週の「週間ニュース」
と銘打った番組ならトップで教育基本法・防衛省問題を報道して
いた。戦後61年続いた日本国家の基本的な枠組みを180度
右展開する問題である。ジャーナリズムがその時々の
権力を批判するという任務があるからこそ「報道の自由」という
概念が存在するのだ。体制・権力の追随する報道に
「報道の自由」などという言葉は必要ない。

今日は朝からトーンが高い。

午前7時朝食。ブンボー。美味しい。

午前8時、ベトナム事務所へ。バオミン・ベトナム事務所長と
いくつかの問題の打ち合わせ。

午前8時半、ベトナム事務所員会議。
サンさんが体調を崩し休む。

(ソン)小山さんに頼まれ日本料理店のT君のジーンズを
    T君と一緒に買に行く。T君にお金を渡すとギャンブルか
    遊びに使ってしまうので、お金を預かって買いに行く。
    1本12万ドンのジーンズ屋に行ったが、T君は
    そんな安いのは嫌だ、25万ドン位するジーンズじゃないと
    買わないと言った。僕は8万ドンのジーンズをはいている。
    仕方がないので、ジーンズを買わずに小山さんの所へ
    帰った。小山さんはT君を注意した。高いジーンズを
    買いたいのなら、毎日きちんと仕事をして、給料を
    もらい、それで高いジーンズを買いなさい。T君は
    この2週間ほとんど日本料理店に来ていないじゃないか。
    仕事もしないで高いジーンズが欲しいということ自体
    T君は考え違いしている、T君が1本しかジーンズ
    がなく洗濯したら他にはく物がないと言ったので
    可能いそうだから買ってあげるのだ、と小山さんは
    T君をおこった。その後、T君と一緒に12万ドンの
    ジーンズを買いに行った。
     また、小山さんに頼まれL君の布団と枕、ござを
    買いに行った。
(ラーム)日本料理店で仕事や研修している子どもたちの
      労働契約を作る。
      生年月日を改めて調べたら、T君は14歳(本当は19歳)
      L君は17歳(本当は20歳)。18歳以下は労働契約を
      結べない。二人とも「研修」ということになる。
      日本料理店で労働契約を結び労働局に提出し、
      動労保険をかけるのは、フエンさん、ハンニーさんの
     二人だけ。あとの子どもたちは、全員「研修」。
     研修は、「子どもの家」のセン委員長と
     JASSベトナム事務所長のバオミンさんに依頼され
     日本料理店で日本料理店の研修をさせるという契約
     となる。18歳に達した段階で労働契約を結ぶ。
(石岡)日本語学校の上級授業。日本語学校資料整理。
(石塚)日本語学校中級授業。
(ハン)里親への手紙を書いた。
    刺繍みやげ物店の皆さんの給料アップを相談したい。
(フーン)日本語学校資料整理。
     昨日、省観光局に行き日本語学校新入生の打ち合わせ
     をした。
(ミン)●テト休暇中のベトナム事務所閉鎖を確認したい。
     2007年2月12日(月)~2月22日(木)の10日間。
    ●2007年1月から4月までの個人訪問者一覧
    ●全教千葉の皆さんの受け入れ態勢検討
     12月25日~28日まで。宜しくお願い致します。
    ●12月25日クリスマス会の日程を確認したい。
     ・午後5時集合
     ・参加者 140名(「子どもの家」、在宅支援
           スタッフ、静岡の会、全教千葉、
           フエ市人民委員会
     ・式次第 
       ・はじめの挨拶(司会 ハン・石岡)
       ・出席者紹介
       ・ニエン外務部長挨拶
       ・内田征子さん挨拶
       ・バオミンベトナム事務所長挨拶
       ・子どもたち代表お祝いとお礼のことば
       ・乾杯(静岡の会 滝下正敏さん)
       ★会食
       ★ビンゴ大会
       ★大カラオケ大会(担当ロック、作業員:りー、イン)
       ・セン「子どもの家」委員長お礼のことば

     
午前9時半、日本語学校の先生方と打ち合わせ。
昨日の観光局との話し合いを受けて、どう対応するのか
を話し合う。
2年前に「日本語ガイド養成スラス」を開講し、第1期の
卒業生を出した。
今回は、ガイド養成コースとせずに、「日本語観光集中コース」
とし、1年間の日本語集中基礎コースとする。
午後2時から午後6時まで。月から金まで。週20時間。
年間900時間程度の授業を行い、「集中基礎コース」
を卒業とする。その後、1年間の上級コースを設定。
このコースは、「日本語観光集中コース」の卒業生
だけでなく、他校の生徒など静岡会館日本語学校
の卒業生だけでなく、私たちの行う「試験」に合格した
学生は入学を許可する。大体、こんな内容である。
現在、観光局で募集した学生は17人。
今後、静岡会館として、テレビ等で宣伝し、
「日本語観光集中コース」の学生を50人程度
募集するようにしたい。2007年1月15日頃に
入学式・開講式を行う。

山西さんからメールあり。ボランティア貯金より
2005年度ボランティア貯金完了報告書について
詳細な問い合わせがあったとのこと。
バオミンさんと山西さんから送られたボランティア貯金
からの問い合わせ内容を詳細に検討し、対応を決める。

昼食ご昼寝。

午後2時半。読書。「平家物語」(第2巻)。

午後4時過ぎ。ボランティア貯金からの問い合わせの
回答の準備。

メールが満杯になる。メールボックスにあるメールを削除。

外は雨。夕方、仕事に疲れボーッとNHK衛星放送を見ていた。
福島県の飯坂温泉の紹介。摺上川ダム下に茂庭温泉
がある。茂庭広瀬温泉。市営温泉である。温泉付属の
「茂庭ふるさと館」で作っている手打ちそばがうまそうだった。
フエに戻って3週間。休みなしに働いた。ふーっと「温泉にでも
入って一杯飲んでゆっくりしたい」などという『邪念』が沸々と
湧き上がってきた。

ボランティア貯金から請求のあった「小山フエ滞在証明」
を山西さんに送る。パスポート、ビザをデジカメで写す。
飛行機のチケットとボーディングパスを渡してあるのに
更にボランティア貯金は、私が現地にいないのでないかと
の疑点を確かめるために、「滞在証明」を出せとのこと。
ボランティア貯金担当の方の仕事の熱心さ、責任感の強さに
感服する。文部科学省も内閣府もこうした職員がいて欲しかった。

午後5時半。子どもたちと夕食。日本料理店店長大塚さん指導の
てんぷら、天丼、味噌汁、野菜の甘酢など。美味しい。
本当の日本の味。


午後6時半から日本料理店開店。
午後8時半までに5人の来客。外は雨。人通りも
途絶える。

午後8時50分。閉店。子どもたちは帰る。
その後、日本人スタッフで交流会。午前1時半終了。
    

投稿者 koyama : 08:48 | コメント (0)

2006年12月15日

観光局懇談  日本大転換の記念日

雨・曇り

午前8時、第2回目「日本料理店英語教室」開催。

●先生の指示でホワイトボードに英語を書く警備員のリー君

毎週2回、少しずつ英語を身につけて行って欲しい。

午前8時半。トゥアティエンフエ省観光局で副局長・部長と
今後の日本語教育、観光関連の日本語教育について
突っ込んだ話し合いを行う。
参加は、バオミン・ベトナム事務所長、フーン日本語学校主任。


午後、ベトナム事務所で仕事。


読書「平家物語」第1冊読了。読みでがある。
地下人と殿上人に蔑まれていた武家平氏が保元・平治の乱
などで御白河上皇と結び天下の実権を取るまで。
保元・平治の乱で平氏に完敗した源氏の統領「頼朝」の伊豆での
様子、鞍馬の義経など。
1000ページほどの冊子に中に出てくる多くの貴族・武家の
毀誉褒貶。人生の縮図である。権謀術策を凝らして生きる
悲しき人間の性。そして、全ての人間が死んでゆく。
成功した人、失敗した人。全てが死んで行く。人生とは
何が幸せなのか?
第2巻が楽しみ。1000パージの冊子なので重くて
持って読むのが大変。

午後5時半。日本料理店の子どもたち、先生と夕食。
今夜は「カレーうどん」。子どもたちが作る。
子どもたちはカレーうどんに更に粉末唐辛子を
山ほどかける。私などカレー自体が相当に辛く感じた
のだが・・・・・。


日本料理店のお客さん、8人。
日本人4人、ベトナム人3人、欧州1人。
日本人はお馴染みさんが何人か来てくれる。
ありがたいことである。

閉店、午後9時45分。


国会で教育基本法改悪が強行された。
防衛省が成立した。
何とも暗い気持ちである。この法律改悪を
強行した自民党・公明党の責任は大きい。
近い将来、日本という国に大きな禍根を残す。
子どもたちが、国家の命令で動くような時代が
くる。子どもたち・若者が国家の命令で
再び、戦争に行くようになる。
アフガンへ、イラク・イランへ、北朝鮮へ。

戦後、61年間、多くの日本人によって守られて
来た平和と人権を守る日本が急速に瓦解している。
大きな国民的な反対運動がない中で。

治安維持法が成立した時、ほとんどの国民は
治安維持法を知らなかった。しかし、いつのまにか最高刑が
死刑となり、戦争反対の国民を徹底弾圧する法律と化した。

今日2006年12月15日、教育基本法が改悪され
子どもたちが戦争に突き進む路線が敷かれた。
防衛省設置で戦争へ参加する司令部が出来上がった。
最後に憲法改悪、9条改悪が待っている。
その後は徴兵制。若者たち、子どもたちの未来を
考えると暗澹たる気持ちである。

狂気の自民・公明の暴走を止める運動を最後まで
続けなければならない。


投稿者 koyama : 21:26 | コメント (0)

2006年12月14日

兄61回忌ーー改めて反戦の誓いを立てる

終日雨。

午前中、日本語学校教師募集について、日本事務所担当
責任者福田さんとメールで連絡。

★JASSが運営している静岡青年交流会館付属日本語学校
  の教師1名を募集している。詳細は以下のJASSホームページ
  参照。知り合いの方でフエにある日本語学校で日本語を
  教えたい方がいたら紹介して頂きたい。日本語教師資格は
  必要ない。
 ●日本語教師募集要項
   http://www001.upp.so-net.ne.jp/jass/

 ●問合せ先 jass@pd5.so-net.ne.jp


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

寒い。町の人たちは冬服を着ている。

午前中、ベトナムで仕事。
縫製研修工場問題、日本語学校問題、2007年度総会議案
などについて私案を考える。

昼食後、1時間昼寝。気温の変化が大きく体が付いて行けない
のかだるい。

昨日、インターネットの百科事典に私への誹謗中傷が書き
込まれていた。かなり私を知っている人物。右翼系の人と
思われる。卑怯である。「名を名乗れ」と言いたい。
自分は隠れた所にいて他人に対して嘘を並べての誹謗中傷は
人間として最低である。

午後2時、パソコン修理。2時間ほどかけてCDとDVDを直す。
しかし、今度はインターネットの接続ができなくなる。

今日、12月14日は兄の61回目の命日。1945年12月14日、
中国からの引き上げの途中で死亡。5歳。
今、生きていたら66歳になる。


中国で生まれ中国で育つ。戦争に敗れて逃避行中に風邪を
引き、肺炎を起こし死亡。今なら死ななくても良かったのだが。
戦争は兵士だけではなく、こうした無辜の民、無抵抗の子どもたち
こそ最大の犠牲者なのである。
小泉元首相や安部首相は、「国のために戦って死んだ人たちに
哀悼の誠を捧げる」ために靖国参拝をすると言っている。
しかし、私の兄のように国家の植民政策により「関東軍が守って
くれるから安心」だと言われ中国に渡った子どもたちや
国家に棄民された「残留日本人孤児」には、至って冷たい
人たちである。
戦争が負けそうになると一番最初に逃げたのは
守ってくれるはずの関東軍と政府関係者だった。
取り残されたのはお母さんたちと子どもたち。
先日、「残留残留日本人孤児」と言うなの国家による
棄民(捨てられた)の子どもたちが国の無責任な対応を裁判に
訴え神戸地裁で勝訴した。
しかし、11日、冷たくも安部内閣は控訴している。
我が兄は現地で死亡したが、私ももう少し敗戦が長引けば、
棄民され「残留日本人孤児」となっていたかも知れない世代である。
アジア・太平洋戦争は61年前に終わったが、我が家は
毎年12月14日、赤穂義士の討ち入りの日になると
中国で無念のうちに5歳で死亡した兄の存在を思い出す。
兄が蘇らない限り、我が家では戦争は終わらない。
日本人でありながら日本を知らずにわずか5年間という
短い一生を中国で終わった兄。アジア・太平洋戦争では300万人
の日本人がなくなっている。我が兄のような「非戦闘員」
「一般庶民」でなくなった人たちが多いことを知るべきである。
広島長崎、東京など多くの都市で空襲・・・・・。
同時に2000万人のアジアの人々がなくなっている。
兄の無念の死から61年。戦争を二度としないことが兄に対する
供養だと思っている。これは今生きている弟としての私が
背負っている義務だと思っている。


今日、参議院委員会で教育基本法改悪法案が採決された。
タウンミーティングで「やらせ」を繰り返した自民党・公明党
内閣である。国民の意見を直接聞いて政府の政策に反映
すると称して行われたタウンミーティング。しかし、政府の
政策を支持する組織された人たちの嘘の会合だった。
教育関連のタウンミーティングでは、反対する人が多いと
いうことで一層、政府・文部科学省などの組織的な動員が
あった。質問から大臣の答弁までは筋書き通り出来上がった
嘘の上を更に嘘で塗り固められた「国民の声を政府の政策
に反映する」タウンミーティング。主権在民、民主主義の根幹に
関わる問題である。政府が国民に嘘を言っていたということである。
嘘の上に作成された政策である教育基本法改正案でもある。
安部首相は嘘のタウンミーティング時の最高責任者。
今日、責任を取るとして給料をカットする処分をしたというが、
これがまた嘘の処分。テレビなどでは「給料の3ヶ月分をカット」
と言っているが、給料の本体の議員歳費(年収2400万円程度)
には一切手をつけず、首相職に付属手当て(毎月30万円)
をカットしただけ。
実際の月収の10%程度のカットである。あたかも月収全てを
数ヶ月分カットしたかのような言い方をしている。卑怯な手口。

今、日本は戦争の入り口にある。
3本柱で新しい時代の新たな戦争体制に入ろうとしている。
第1は戦争を進める国家体制作りのための「憲法改悪」。特に
9条の改悪である。既に防衛庁が防衛省になろうとしている。
第2が教育基本法の改悪。積極的に戦争に突き進む子どもたちを
育成するためのシステム作り。
そして、第3が共謀罪。戦争反対と話し合おうとするだけで逮捕される
という戦前の治安維持法の現代版である。
こうしてこの3つの法律により、国民は気づいた時には既に
「がんじがらめ」ということになる。
 私の声は小さなものではあるが、教育基本法改悪を
絶対に阻止しようと呼びかけたい。私は日本にいないので、
この日記を通して呼びかけるしかないが、まだ本会議が
ある。

投稿者 koyama : 16:04 | コメント (0)

2006年12月12日

日本料理店「英語教室」開講

終日雨。

台風の影響。台風は北上し、このまま行くとベトナム中部に
上陸する恐れはなくなったようだ。一安心。

午前8時。日本料理店で英語教室開講。日本料理店開店を
構想していた当時、来客は日本人と決め込んでいたい。
接客や厨房に入る子どもたちにも松下安希子先生が
日本語を教えてくれた。子どもたちはかなり日本語が
上手になった時点で開店。しかし、実際に日本料理店
を開店してみると、65%~70%のお客さんは欧米系。
どうしても英語での接客が必要となった。子どもたちは
英語は話せない。先日の日本料理店会議でも子どもたち
から英語を勉強したいとの積極的な希望が出ていた。
子どもたちの希望を受けて今日から日本料理店の
英語教室を開講することにした。
先生は日本語学校ガイドコース卒業生のBAO TUさん。
フエ外国語大学3年生。
英語教室は希望する子どもたちが学ぶようにした。
警備員のリー君、接客のグエットさん、ホンニーさん、
厨房のトゥオイさん、フエンさんが参加。
今日は、英語の基礎の人称代名詞から勉強を始めた。

日本人スタッフもしばらく参観。

警備員のリー君も一生懸命に英語を学んでいた。

英語教室は午前9時半まで1時間半続いた。
これから半年、しっかりと勉強し、日本料理店で仕事が可能な
英語能力を習得して欲しい。
私たちの活動は、こうして子どもたちの人間形成、子どもたち
の能力を伸ばすことで「自立」「「自活」できるようにする
ということに主眼を置いている。物をあげるといういう形の
「支援」を極力排除したい。人を育てるという支援の本質に
向かった活動を常に念頭において活動をしているが、
なかなか思うようには進まないもの事実である。遅々とした
歩みの努力を積み重ねて行きたい。

午前10時半。ベトナム事務所に京都の「日越友好協会」会長
さん夫妻が訪ねて来られる。1時間半ほど交流。
ご夫妻は同時に「ベトちゃん・ドクちゃんの会」にも入っている
とのこと。
ドイモイ政策をどう評価するのか? 障害児支援のあり方などに
ついて話し合う。会長さんは80才。元京都市教祖専従書記次長
をされていたそうだ。

午後12時半、昼食。コムディア(70円)。

1時間ほど昼寝。昨夜午前1時まで読書。その後就寝となったが、
どういう訳かなかなか寝付けず、結局午前5時まで起きていていた。

午後2時半。ベトナム事務所で仕事。

日本料理店警備員のリー君は現在弟と下宿している。
1枚の布団を二入で使っているので、1組買って欲しいと
頼まれ、ござ、枕、布団を買う。

リー君は20歳になる。初めて出会ったのは12年ほど前。
ということは8歳の頃。それから紆余曲折があったが、最近
少しずつ、落ち着いて来た様な気はするのだが・・・・・。

クリスマス会の諸準備。訪問者日程の調整など・・・・・・。

午後5時半、日本料理店で子どもたちと夕食。

日本料理店来客3人。3人との欧米系。
午後9時45分閉店。

読書。「平家物語」。

投稿者 koyama : 21:58 | コメント (0)

2006年12月11日

「子どもの家」NGA(ガー)さん12回目の誕生日

日記が回復した。12月初めからの写真全てをアップ。

昨夜半から豪雨。台風22号(日本名)、アジア名「ウトア」がベトナムに接近中。
このまま行くと12月13日にはフエなどベトナム中部が
暴風圏に突入する可能性がある。その影響で昨日から
豪雨。

午前中、ベトナム事務所で仕事。
午前11時、「子どもの家」へ。今日は今年入所した
NGA(ガー)さんの12回目の誕生日。里親の希望で
「子どもの家」の子どもたち全員に誕生ケーキをプレゼント。
ガーさんは、諸般の家庭の事情がありハノイ近郊から
「子どもの家」へ入所。NGAというベトナム語は、
「ソビエト社会主義共和国連邦」という意味。
「ソ連ちゃん」。事情で帰る家庭がない。今年の夏
「子どもの家」でボランティア活動をした神奈川県青少年海外
派遣団の団長K教授が里親を申し出てくれた。
NGAちゃんは、今日12月11日が12回目の誕生日。

両親、親戚などと1000キロも離れたフエで生活している
NGAちゃんである。言葉もだいぶ違う。入所当初は
ハノイ「標準語」を使っていたので、「子どもの家」の
いたずら坊主どもからからかわれた。
近親者が誰もいないNGAちゃんにとっては、何よりの
お祝いだったと思う。

12本のロウソクに点火。


「子どもの家」の昼食時にみんなでNGAちゃんの誕生を祝う。
昼食を摂って後、しっかりとケーキは全員の胃袋へ入っていった。

午後12時半から1時間ほど昼寝。
その後、読書。

午後2時半。フエ市人民委員会外務部へ。
ニエン外務部長と当面の諸問題を打ち合わせ。
①縫製研修工場関連
  ・近日中に縫製研修工場の社長・会計などの人事を検討する
  ・2007年3月に縫製研修工場落成記念式典を行う。
②静岡市からのゴミ処理・下水等の視察団受け入れの件
③日本語学校とフエ市文化会館の境界線紛争の件
 近日中に境界線に50cm程の高さの花壇を作る。
 しゅろなど木を植えて境界線とする。
④日本語学校の件
  今後、フエ高等師範大学日本語学科との提携を模索する。


縫製研修工場の建築状況。

フエの様々な政治的な事情により建築許可などが出ず、
着工が遅れていた縫製研修工場の建築は、一気に進み、
70%程度の進捗状況となっている。

●縫製研修工場全景

●縫製研修工場玄関


●縫製研修工場2階

日本料理店は6人の来客。
日本人2人、韓国人2人、ベトナム人2人。
韓国人が帰ったのは午後10時。

久しぶりに職場復帰したターオ君。退勤記録用紙に時刻を記録


投稿者 koyama : 18:34 | コメント (0)

2006年12月10日

休日

朝から小雨・曇り/午後晴れ

午前6時目が覚める。雨の音。しばらくベッドの中で
今日1日の日程を考える。フエに戻って2週間。
久しぶりの休みである。

しばらく読書。「平家物語」。

午前7時、NHK「日曜討論」。この番組は一応、見る価値あり。
日本の今、政治で何が問題になっているのか?
主な政党の主張はどんなものなのか? が概略分かるからだ。
どうしてもベトナムにいると日本の状況が分からなくなってしまう。

午前8時、読書。なかなか面白い。人間というものの本質を
様々な面から描いている。

午前9時半、コムディア屋へ。ご飯、おかずを買う。70円。
午前9時40入浴。午前10時から日本の正午のニュースを
見る。午前10時15分。楽しみにしていた「素人のど自慢」、
のはずが、「時代を通した日本の美」となる。しかも英語。
今までタイ→ホーチミン市経由でNHK海外衛星放送を
パラボラで受信していた。年間受信料800ドル。
ラームさんから200ドルでNHKが見られる安いケーブルテレビ
が入ったとの話があり、安い200ドルケーブルTVに変更。
「安物買いの銭失い」という諺がある。年間200ドルで
30チャンネルほど見られるので安いことは安いが、そこが
曲者だった。NHK海外衛星放送は2種類発信されている。
800ドルの方はニュースから娯楽、歌謡、子ども向けなど
総合的な番組編成。200ドルの方は、外国人向けの放送。
基本は英語。ニュースと日本紹介。歌や娯楽番組は一切
排除。という訳で、「NHKのど自慢」の代わりの英語版の
「時代を通した日本の美」のような番組となってしまった。
銅鐸、勾玉、くが玉などの解説。続いて「日本つけもの物語」。
自分のミス判断に強く抗議し、缶ビールを3本飲む。

ブランチ後、昼寝。

終日、読書。「平家物語」。1冊1000ページの文庫文。
厚いので寝ながら読むと、重くて腕が痛くなるが、
引き込まれる。読書は「エンターテーメント」。
読書は楽しみであり、喜びであり、典型的な娯楽だ。

安倍晋三首相の諮問機関「教育再生会議」が来年1月下旬に
公表する中間報告についての集中討議をしたそうだ。
「規範意識・家族・地域教育再生」をテーマとする第2分科会では、
主に「子供の心の成長」について議論。
社会や他人への奉仕の精神、優しさ、友情、勇気、親孝行など
といった「徳目」を身につける上での読書の重要性が改めて
指摘されたそうだ。。具体的には、一部学校で実施されている
始業前10分間の「読書の時間」を全国普及することが提言
されるという。
読書までが公権力によって、奉仕や親孝行などの徳目の
手段にされようとしている。教育再生会議の答申のような
読書が全国で実施されると本当の読書の喜びからは、
大きく逸脱した「ニセ読書」が横行するようになるのだろう。
私は小学校高学年頃から「講談本」を読む時だけが、
自分の時間・自分の自由な精神世界に浸ることができる
唯一の時間だった。6畳一間に家族6人の生活。自分の
自由な時間などない。毎日近くの古本屋へ行き、1冊の
古本の講談本(忠臣蔵・猿飛佐助・・・)を買い、家族が
ワイワイやっている片隅で「自分だけの自由な精神世界」
に入り浸っていたものだった。
私にとって読書は、楽しみであり、心の自由の象徴。

親孝行だとか「やさしさ・友情」などを身につけるための
読書を強要されては、たまったものでない。
せめて、読書位は自由にさせてもらいたいものである。
本を読んで「立派な人間になる」と言う発想そのものが、
読書を冒涜している。本を読んで何を考えるかは、
読んだ人の自由。それこそ心の自由。この本を読んだら
「友情の大切さ」を理解しなえればならない、などと
いう読書こそ、まがい物の読書。読書は著者の思いすら
裏切って読むものだ。読者は自分の人生と経験を通して
自由に読書する。著者の思いとは当然異なるものだ。
それが読書というもの。

教育再生会議に入っている「ヤンキー先生」「100マス計算の
影山先生」たちの胡散臭さが、浮き彫りになってきた。
「美しい日本」を実質的に支える役割を果たさざるを得ない
ピエロと化している。


投稿者 koyama : 12:17 | コメント (0)

2006年12月09日

ベトナム事務所員会議 

昼間、快晴。夕方雨

再度、台風が近づいている。来週の火曜日頃、接近上陸する
ようだ。

ベトナム事務所員の税田さんが、何とか日本へ辿りついたようだ。
ベトナム航空のでたらめな営業で何度も飛行時刻が変更となり
つらい思いをしたようだ。

午前8時半、ベトナム事務所員会議。
バオミン・ベトナム事務所長の司会。久しぶりのベトナム事務所員
会議。皆さん、元気に担当分野の仕事を進めている様子を見て
感謝の気持ちで一杯である。

(ソン)奨学金を上げている少数民族THUONG LO小学校の
    児童141人のお礼状などの名簿をベトナム語から日本語へ
    翻訳した。
(石岡)日本語学校上級クラスの授業 週2回(午後7時~9時)
     上級クラス 20人  中級クラス 30人
(ラーム)12月23日にお客さんを案内してカンボジアへ行く。
(石塚)ベトナムに来て4ヶ月になる。中級クラスを教えている。
     週2回。月曜日に定期テスト
(ハン)ソンさん、税田さんと一緒に子どもたちから里親への
    冬のメッセージの翻訳をした。
     奨学生(300人)の名簿を作った。
    12月11日は「子どもの家」のNGAさんの誕生日。
    里親から依頼の誕生ケーキを昼食時に配る。
(フーン)日本語学校の諸準備
(サン)中級、上級の授業
(ミン)読売新聞記者案内 「子どもの家」創立12周年記念式典
    「子どもの家」から2人退所し自立した。
    フオンさん、ザン君。
    現在、入所希望者が8人いる。早急に自宅や関係箇所を
    を訪問し、入所が必要な子どもは入所させる。
(小山)●日本滞在2ヶ月弱の報告
      ・2007年2月4ヶ月総会の件
      ・2007年9月世界観光博覧会講師の件
      ・縫製研修工場建築状況

昼食。

午後12時過ぎから1時間ほど昼寝。
今週は月曜日朝4時半からダナンへ行き、ホーチミン市滞在。
その後、日本語学校問題、フエ中央病院小児科訪問など
色々な活動があり、かなり疲れた。

午後1時過ぎ読書。「平家物語(第1巻)」(森村誠一)

渡辺和代さんから電話。小児ガンプロジェクトの件

午後5時半、日本料理店で子どもたちと夕食。

午後から豪雨となる。

日本料理店には、日本人、欧米人、ベトナム人
5人の来客あり。

最近、何冊かの本を読んだ。
本は最終的には「ことば」を読み取ることである。
ことばには、かならず「内実」がある。そのことばから
感ずる感覚、匂い、重み、思い出など様々なことが
連想され、具体的な内実があるものだ。

最近のお偉いさんの言葉は、内実がなく「空虚」だ。
福島県・和歌山県・宮崎県知事が逮捕された。
逮捕前、3人とも「絶対には私は悪いことはしていない」
とのことばを繰り返した。日本中に報道されるテレビ報道
でも断言した。しかし、空虚なことばを連ねただけでの
これらのお偉いさんたち。直ぐに分かってしまうような
嘘を平然と述べる。お偉いさんたちは、ことば
ということそのものに何も愛着のない人々である。
人間が一度発した言葉は、二度と戻らない。一度、人間が
口にしたら必ず実行するという生き方をしたいものである。
言葉が空虚になった時代が到来した。
石原都知事が我が子を「余人に代え難い人材」と言った。
虚しいことばである。我が子が可愛いのはどこの親でも同じ
ではあるが、「余人に代え難い」と言ってしまっては、
お終いだ。我が子は大変立派で素晴らしい人間です、
と言ったのだ。「余人に代え難い」ということばが空虚に
響く。空虚な言葉を発する人間の空虚さ。人間性が分かると
言うものである。あまりにガサツな石原知事のことばである。
作家でありながら言葉に無頓着な人間。この人が何を
考えているのかは、彼の記者会見を見ているとそのことば
でよく分かる。三選に出馬するという。
都民はそこまで馬鹿ではないと言いたいのだが・・・・。

「美しい」ということばすら、既に薄汚れた空虚なことばとなって
しまった。


投稿者 koyama : 20:58 | コメント (0)

2006年12月08日

日米英開戦65周年、一切の戦争に反対し、反戦平和のために闘います

快晴

真夏のような日差し。

1941年12月8日(日本時間)、日本と米英との戦争が開始。
1931年の中国侵略、傀儡政府満州国樹立など、
アジア・太平洋戦争」では、300万人の日本人、
2000万人もの他国の人々が犠牲となった。
改めて65年前の無謀な戦争を記憶に留め、今日的な戦争
社会に一歩一歩近づいている我が日本の現状に警鐘乱打
したい。誰にどのように言われようとも、私は「個人」として
いかなる戦争にも反対し、意思を表明し、できる反対の
行動を取りたい。子どもたちや孫への私のできる唯一の
行動である。

午前中、受信メールの中で重要な内容のものを改めて
読み取る。

午前9時半。ベトナム事務所でバオミンさん、税田さん
といくつかの問題について情報意見交換。

午後2時。日本料理店で子どもたちと「日本料理店会議」。


日本料理店を公式に初めて7ヶ月。この間1500人以上の
お客様に来て頂いた。毎月平均200人強。
同時に仕事をする中で子どもたちに社会的経験が
ないこともあり、仕事に対する責任感、お客様に対する姿勢
などに大きな問題が出て来た。
また、お客様がいる時が仕事で、いなければ仕事ではないとの
認識を持ち、お客様がいない時には、どこかえ消えてしまう
こともあった。

子どもたちは日本料理店での仕事に少し慣れてくると
店長などの注意を聞かず、自己流の仕事をしはじめ、
日本料理の味も少しずつ変化してきた。一部の子どもたち
は「自分は日本料理の専門家」との自意識が強くなってきた。
しかし、実際には、日本料理の入り口に入った程度なの
だが、意識だけが先行する状態となった。
親戚に法事があるといえば、勝手に仕事を休んでも
良いという社会風潮があり、子どもたちもそうした
ベトナム社会の風潮に影響され、無断欠勤や
法事などと言っては休む傾向が見えてきた。
概して、仕事をして給料をもらうということの大変さを
理解できない状況があった。特に日本人スタッフの
言うことや指示を聞かないで自分勝手な自己流の
行動をする傾向は、厳に慎まなければならないと
感じ、昨日、日本人スタッフ全員で相談し、今日の
会合を持った次第である。


勤務すること、仕事をすること、お客様が神様との
思想をもつことなど「労働規律の低下した」フエの
社会ではなかなか浸透させることが難しい課題で
ある。フエの市役所や公的機関が昼間からお酒を
飲み、出勤が午前10時頃。勤務中に勝手に
喫茶店でお茶を飲むなど日常茶飯事の社会に
あっては、子どもたちが「勤務すること」「仕事をすること」
を社会的に学ぶことは難しいことである。
時間はかかるが、一つ一つの行動を子どもたちと
一緒にする中で、「労働規律の確立」を進めて行きたい。
仕事を責任を持って遂行するという厳しさの中から
働く喜びを知って欲しいと思っている。「濡れ手で粟

午後3時半。ベトナム事務所員の税田真理子さんが
一時帰国のため出発。全員で見送る。

午後5時フエ空港発のベトナム航空便でホーチミン市へ。

丁度その時刻、バオミンさんから電話。ベトナム航空からの
情報によれば、税田さんが乗る予定の午後11時半頃
ホーチミン市発→関空行きの飛行機は今日飛ばないとのこと。

午後10時半。税田さんから電話。ホーチミン空港に着いたら、
今夜の関空行きベトナム機は飛ばないとのこと。
乗機予定者は、そのまま空港ラウンジで「ごろ寝」をするように
とのことだったそうだ。何人かの人たちが厳重抗議。
結局、5人の人だけが、車で近くのホテルに泊まれたとのこと。
12月9日、ホーチミン市を出て関空にいく予定。
とにかくベトナム空港は社会的に責任を負うという姿勢ゼロである。
全てがお金儲け・拝金主義に貫かれている。乗客が少なく
採算が合わないと飛行をキャンセルしまい、他の便と合流させる
ということを繰り返している。先日の私もどうだったが、税田さん
も同様。迷惑なこと甚だしい。


夜、読書「平家物語」(森村誠一著:小学館)
30代の頃、吉川英治の「新平家物語」を読んだ。
読み応えのある内容だった。吉川英冶と松本清張から
人間の生き方をたくさん学んだ。
今回は、森村誠一解釈・創作の平家物語に挑戦。
1000ページの本が3冊。なななか手ごわい。
普通の文庫本12冊分の分量である。
盛者必滅、会者定離、栄枯盛衰は人間の定め。
飛ぶ鳥もいつかは落ちる。淡々と平凡に生きて
死んで行きたいものである。


日本料理店従業員心得

2006年12月8日
日本料理店オーナー  

(1)日本料理店で仕事をするということは、決められた時間の間仕事をして、
   お客さんに日本料理をサービスすることで、必要なお金を得ることである。
   お客さんからもらったお金で従業員の皆さんが生活していくことができる
   ということをしっかりと理解すること。仕事には楽しいことばかりでなく、
   厳しいことや嫌なこともあるが、我慢してすること。

(2)日本料理店「子どもの家」の目的は、お客さんに接客のサービスや
   美味しい日本料理を食べてもらうことである。日本料理専門の
   日本人が直接日本料理を指導している日本料理店である。

(3)日本料理店での仕事は、上司の指示に従って仕事をすること。

(4)「オーナー」→店長(大塚さん)→店長代理(仁枝さん)→日本人
   スタッフが日本料理店の責任者となる。上記の人たちの指示に
   従い仕事をすること。

(5)日本料理店で一番大事な人は、「お客様」である。日本料理店
   の全ての従業員はお客様のために仕事をすること。お客様が
   日本料理店に来てくれたことに感謝すること。お客様を「ばか」
   にするような気持ちや態度を取ってはならない。

(6)勤務に関すること
   ①勤務時間  午後2時から午後10時
    (但し、午後5時半~午後6時半は夕食休憩とする)
    勤務時間は、お客がいてもいなくても仕事をすること。
    時間働くことで1日分の給料をもらえるというを理解すること。

    ②勤務時間内の職場離脱
      原則として午後2時から午後10時までの勤務時間(7時間)内
      では、日本料理店から離れることはできない。
    ③無断欠勤の場合は1日分の賃金を差し引く。
      無断遅刻・早退など無断職場離脱の場合には、その時間に
      相当する賃金を差し引く。
    ④日本料理店従業員は勤務時間中、決められた場所で仕事をすること。
    ⑤年次有給休暇は年間10日間(当面は研修のため)とする。
      年次有給休暇をとる場合には、事前に上司に連絡し了解を取ること
    ⑥2007年のテト休暇は2007年2月16日(金)~2月25日(日)
     まで10日間とする。
   
(7)その他
   ①接客や厨房で働くのに必要な英語研修を行う。
     12月12日(火)午前8時から午前9時。
      毎週、火曜日と金曜日の午前8時~午前9時まで、専門の
      英語の先生を雇用し、希望者全員に英語を教える。
      出席義務のある人は、接客係り(グエット・ニー)、警備員(リー)。
   ②接客、厨房での様々な決まりや約束事は、それぞれの部署で決める
     

投稿者 koyama : 13:49 | コメント (0)

2006年12月07日

「子どもの家」退所式 

晴れのち曇り

気温の変化が激しい。寒いような暑いような気候。
今日は皆さん体調が悪い。体がだるい。

午前7時朝食。

午前9時、日本人スタッフで日本料理店について話し合う。
正式には2006年5月1日に午後6時半からの日本料理店開店
をはじめ、同年8月より午前11時からの昼の部もはじめる。
11月になり、再度、昼の部は休み、現在は午後6時半から
午後9時半までの夜部の開店となっている。
7ヶ月間の日本料理店開店の総括を行った。
・この7ヶ月間の来客は1522人。(1ヶ月平均217名)
・子どもたちがお客さんがいなくなるとどこかへ行ってしまったり、
 外にででしまう。お客さんがいる時が仕事の時間と思っている。
・毎日、日本料理店の掃除などをするように言っているが
 言うことうを聞かない。きれいだから掃除をしなくて良いなどと
 いう。
・最近はほとんど欧米系のお客さんだ。英語ができないと仕事に
 ならない。接客の二人の子どもは英語が全くできないので
 緊急に英語を教える必要がある。接客の限定した実践的な
 英語を教える手配が必要。
・お客さんが食事をしている最中、お客さんを見ていないで
 本を読んだり、おしゃべりをしている。お客さんの注文などを
 直ぐに聞く態勢になっていない。「立ち位置」をしっかりと
 確認させる必要あり。
・お客さんが来て食事をするのは当たり前との気持ちがある
 ように思えることが多々ある。お客さんに感謝する気持ちを
 子どもたちに持たせたい。
・日本人スタッフが子どもたちに注意しても言うことを聞かない
 ことがある。
・研修生の子どもたちや従業員の子どもたちの勤務条件を
 まとめる必要あり。年次有給休暇・・・・・。

午前11時半。大塚さんが「鉄火丼」を作ってくれた。
私がホーチミン市で買ってきた「生のマグロ」5キロを使って
鉄火丼と鉄火巻き。久しぶりに美味しいお刺身とどんぶりものを
食べることでができて満足。


午後2時半。「子どもの家」で二人の子どもたちが「退所式」を
行った。

HUONG(フオン)さん。フオンさんは現在18歳。私がフエに
来た1993年10月に最初の「子どもの家」である
チーラン「子どもの家」に入所。それから13年間、「子どもの家」
に在籍。結局5歳から18歳までの幼年期から思春期までの
人生の一番重要な時期を「子どもの家」で過ごした。
この間、フオンさんはミシンの研修を行い、現在自立して
月給がもらえる段階に来ている。そうした事情もあり、
母親と同居し、母親を助けながら自立して生活をするように
したいとのこと。


ザン君は16歳。1995年から11年間「子どもの家」に在籍。
5歳から16歳までのやはり幼児期から思春期を「子どもの家」で
過ごしたことになる。長い年月である。
技術専門学校に在学していたが、無断欠席、無断登校が多く
退学処分を受ける。
母親が心配し、自分の手元において、ザン君を
育てないとのこと。家には22歳の兄がペンキ屋
をして生計を立てている。
ザン君は「ウエイター」になりたいとの希望を持っている。

私からの励ましのことば。
セン委員長からの諸注意。
ロック寮長から退所承諾書への署名などがおこなれた。


最後に家族と記念写真。
HUONGさんGIANG君の幸福を祈る。

●フオンさん家族と

●ザン君家族と

明日午後2時から日本料理店の子どもたちとの話し合いをする。
子どもたちへ渡す仕事への心構え、勤務の決まりなどを
まとめ日本人スタッフに目を通してもらう。

NHK衛星放送がフエのケーブルテレビで見られるように
なった。NHK衛星放送をフエケーブルテレビで見る。
ニュースで安部首相が新宿牛込の小学校へ行き、子どもたち
と交流。「一人ぼっちの子どもに声をかけて」と訴えた場面が
放映された。小泉流のパフォーマンス。しかしこの手法は
既に色あせている。子どもに声をかける前に、タウンミーティング
でのやらせ問題、一会場で1000万円もの税金を使った問題
などにイニシアティブを発揮して、率先解決することこそ、
首相に求められていることである。牛込で子どもたちと
給食を食べている時じゃないでしょう。

久間防衛庁長官が今日の参院外交防衛委員会で、
「米国のイラクに対する武力行使について日本は政府として
支持すると公式に言ったわけではない。
(小泉前)首相がマスコミに言ったということは聞いている」と述べ
たと報道されている。
2003年3月20日、小泉内閣は閣議決定でアメリカの
イラク侵略支持を閣議決定している。
「わが国の同盟国である米国をはじめとする国々によるこの度の
イラクに対する武力行使を支持する」との首相談話を閣議決定
している。

アメリカでは元ベーカー国務長官など民主・共和両党の
「長老」がブッシュ大統領に79項目に及ぶイラク戦争
に関する提言を発表。イラクからの段階的撤退、
米軍のイラクでの戦闘参加から治安指導への移行、
日本など他国にアメリカの肩代わりをさせることなどの
提言をおこなった。アメリカは事実上、ベトナム戦争時
のパリ協定と同様の「撤退戦略」に入った。
そうした流れに同調し、久間防衛庁長官(イラク開戦当時
自民党政調会長代理)が、卑怯にも「小泉政権は
イラク開戦に賛成していない」と歴史そのものの改ざんする
というハレンチな態度に出ている。
たった数年前のことである。まだ誰でも記憶に新しい。
こうした誰でもわかるミエミエの嘘を言っても通じると
思うほどに今の日本の政治は腐敗している。
野党の民主党が野党の役割を果たしていない。国会が
事実上大政翼賛会状態。ちょっと前なら久間防衛庁長官
の嘘発言だけで長官辞任だ。今の体制翼賛国会では
どうなることやら・・・・・。

投稿者 koyama : 18:31 | コメント (0)

2006年12月06日

日本料理店玄関で寝ていた親子 フエ高等師範大学学長懇談

雨・のち曇り。
寒い。

昨夜からフエ市内フオン川が氾濫。フォンザンホテル横の
通りが通行止めとなる。


午前7時、朝食。フォー。朝食の途中、日本料理店の玄関に
母親と子どもが寝ているのに気づく。行ってみる。
母親は30歳代、娘は5歳だと言う。ダンボールを敷いて
日本料理店の入り口で寝ている。しばらく前から寝ていたと
いう。近くに壊れかかった自転車があり、ビニール袋などが
集められている。母親にベトナム語で聞くが真っ当な返事がない。
ラームさんが仕事で日本料理店前に来る。早速、通訳を頼み
事情を聞く。隣のクアン・チ省から来たとのこと。ビニールなどの
ゴミを拾い売ってたり、物乞いをして生活いるという。色々話して
いるうちに、少し精神に異常をきたしている事に気づく。5歳の
娘は半そでで熟睡している。寒いだろうに。
 近くで「子どもの家」を運営しているので娘を入れるように
説得するが、母親は「子どもの家」そのものの理解ができない。
 地球の歩き方パンフレットやボランティア貯金のパンフレット
などで紹介されている「子どもの家」の写真などを見せて、
「子どもの家」への入所を勧める。「とにかく入所しなくても良いから
一度見にこないか?」と誘う。母親はその気になる。直ぐに近くに
いるシクロを呼び乗せる。20分程で「子どもの家」へ到着。

 セン委員長、ロック寮長が、母親から路上で寝ている訳、
どんな事情でフエにいるのかなどを詳細を聞き取ろうとするが、
母親の答えがチンプンカンプン。


 分かったことは、クアンチ・省に両親がいる。自分は32歳。
身分証明書では35歳となっている。ダナンに夫がいて二人の
子どもがいる。5歳の娘の下に9日前に産んだ子どもがいるが、
出産した病院に3000円で売った。
 クアンチ省にいる両親の電話を聞いたら、教えてくれる。
早速、ロックさんが両親に電話。以下両親の話。
昨年の8月に5歳の
子どもを連れて家出をしてしまった。今、フエの「子どもの家」に
いるのなら、直ぐに迎えに行く。バスで行くから「子どもの家」で
待たせていて欲しいとのこと。結局、クアンチの両親に引き取られる
ことになる。出産してまだ9日目である。体が大丈夫か心配である。
そんなこんなで朝食を全部食べきれないまま午前10時になって
しまう。
 午前10時。ベトナム事務所でバオミンさん、税田さんと当面の諸問題
について打ち合わせ。
 
昼食。コムディア(70円)。

午後3時、バオミンさんとフエ高等師範大学学長と懇談。同大学の
日本語学科(現在ベトナム文部省に申請中)へのJASSとしての
協力体制について協議。

午後5時半。日本料理店で夕食。

「ベトナム報道1300日」(古森義久著:講談社)読了。
興味津々の本。1972年のパリ協定から1975年のサイゴン
「解放」までの3年半の毎日新聞のサイゴン特派員として
活動した記録。
昨日滞在したホーチミン市の当時の状況が克明に記されている。
また、1973年頃のフエの様子も書かれている。
本書はベトナム戦争終了後の1978年という早い時期に
書かれた本である。パリ協定からサイゴン「解放」までの期間を
サイゴンで体験した
ことは非常に大きな意味がある。古森氏の体験から出たい
くつかの結論。
ひとつは、多くの日本人が当時思っていた「南ベトナムで戦争を
しているのは、アメリカの傀儡政権それと闘う南の自由主義者、
宗教者、など南ベトナム民族解放戦線との戦争」という図式が
嘘であり、ベトナム戦争の本質は、北ベトナム、ベトナム労働党
(現在のベトナム共産党)の南下とベトナム共産党主導の独立
戦争であり、社会主義革命戦争だったということ。第2に多くの
南ベトナムに住んでいた庶民(アメリカの横暴とグエンバンチュー
大統領の横暴に反対していた)の期待と希望を裏切った
「1975年4月30日のサイゴン陥落」だった。
古森氏の先見性は、ベトナム戦争終結3年後に今日のベトナム
社会主義社会のもっている本質的な矛盾(共産党の一党独裁、
人権と思想・表現・宗教の自由がない・・・・・)を見抜いていたこと
である。古森氏は南ベトナム解放戦線の戦いを支持し、
期待をもっていたが、結局、サイゴンが陥落すると
南ベトナム解放戦線が無視され、ベトナム共産党だけが、
実権を握るという過程を詳細に記述している。南ベトナム民族解放戦線
のグエン・フー・ト議長や南ベトナム臨時革命政府
(当時、100カ国近くから南ベトナムを代表する政府として承認
されていた)が、何の役割も存在すら認められないまま
消滅していった過程は私たちが、歴史の中にいて歴史を知る
大きな参考になる。
 11月にハノイで行われたAPEC。ベトナムがホスト国として会議
を主催し、安部首相、ブッシュ大統領が参加。同時にベトナムが
「WTO」に加入した。
日本の各新聞の論調を見ると「ベトナムはAPECを主催し、
WTOに加盟しいよいよ世界に進出する。これから経済発展の
過程を辿る」という趣旨の記述がほとんだだった。
読売新聞の林田記者のコラムだけが、今後、
大きな貧富の格差が生まれ社会全体の危機につながる
(文章はそう明確にかいてはいないが)
という趣旨の文書を書いていた。
30年近く前に毎日新聞の古森記者の記した「ベトナム報道
1300日」の訴えている重みは未だに日本のマスコミも
ベトナム研究者も本当の意味で理解していない。

アメリカの有識者がブッシュ大統領に「イラクからの段階的
徹底」を提言した。アナン国連事務総長が「イラクは内戦状態
にある」と明言した。

28年前に書かれた本書には1972年のパリ協定の
いきさつが詳細されている。
1972年時点ではアメリカは、ベトナム戦争の泥沼から
手を引くことを決めていた。1972年のパリ協定は
まさにアメリカのベトナムからの撤退のための儀式だった。

今回のアメリカ有識者の「イラクからの撤退」提言は、
1972年のパリ協定と同じ役割を持っている。
既にアメリカはイラクからの撤退という基本戦略を
採用したかに見える。ラムズフェルト国防長官が
更迭され、いわゆるネオコンと言われる人々の
ほとんどが政権中枢から去った。

1972年のパリ協定でアメリカはベトナムから
軍隊を撤退した。アメリカがでっち上げた
ベトナム共和国は3年後にもろくも崩壊した。
アメリカが作り、支援し、援助し、自らも
軍隊を出して戦い、不利になったら、さっさと
本国へ帰ってしまった。
アメリカは火をつけガソリンをかけて一層燃やした
上で、火勢が手に負えなくなったら本国へ
逃げ帰ってしまった。その後のベトナム人
がどれだか長い間苦しみ、苦労したかは想像に難くない。
アメリカ、アメリカ人の思い上がった態度は未だに
反省なきまま永続している。

31年前のベトナム戦争への本質的な反省を
していないアメリカやアメリカ人。
同じ過ちをイラクで繰り返している。
同様にベトナム戦争でアメリカの僕として
戦争に加担したわが日本。未だにベトナム戦争で
南に加担し敗北した反省をしていない自民党の面々。
自分で放火し、ガソリンを注いだイラク戦争。
我が小泉自民党・公明党政権もアメリカに
追随した。今、親分のアメリカは「内戦状態」に
陥ったイラク戦争から撤退しようとしている。
小泉元首相もブッシュ大統領も「残されたイラクの
人々のこれからの苦労や苦しみ」に心痛まない。
フセインを戦争犯罪人として軍事法廷裁く以前に
世界最大の戦争犯罪人であるブッシュ大統領、
こそ、戦争犯罪人として裁くべきである。

投稿者 koyama : 08:53 | コメント (0)

2006年12月05日

フエ行き飛行機、遅れる

曇天のち晴天(真夏)

午前8時半起床。
疲れが残っているのでバスタブにお湯を入れてゆっくり
入浴しようとした。ある程度お湯がはいたので入浴。
しかし、途中でお湯が水に変わる。そうだった、忘れていた。
ベトナムのホテルの基本はシャワーだったのだ。

午前9時。8階のレストランへ。このホテルは朝食つき35ドル。
7人~8人の日本の若者がいた。日本人だけだった。
バイキング方式。パンとおかゆ、チャーハン、野菜。
私が係りの人に「フォーはありますか?」と聞く。「はい」
との答え。しばらくするとフォーを持ってくる。
それを見て日本の若者はみんなフォーを頼む。バイキングの
机にフォーがなかったので皆さん気が付かなかったようだ。
言ってみるものだ。昼食兼用で朝食を摂る

食後、日本人がいなくなったレストランでお茶を飲みながら
読書。「ベトナム報道1300日」。著者は毎日新聞の南ベトナム
特派員。ベトナム滞在最長の特派員だった。1972年から
1975年までの3年半のサイゴン滞在記である。非常に興味
深い記述が多い。上野の西郷さん下の古本市で150円。

30歳位の日本人がやってきてサイゴン弁で携帯電話
をしている。タバコを片手に。誰もいない広い
レストランなのにわざわざ私の横に来て大きな声で電話を
しながらタバコを吸う。煙がもろに私にかかる。
この若者(とも言えないが・・)何を考えているのだろう。
自分の事しか考えていないのだろうか? 自分が
このレストランの中で「どんな位置」にいるのかの自覚が
全くないまま、ただ電話をしたい、タバコを吸いたいから
吸っているという、全く「赤ちゃん」と同じ、欲求の赴く
ままに行動しているように思われた。
私は近づき、肩をポンポンとたたたき、「タバコはだめ」
と言う。若者はきょとんとした顔をしている。私の言った
意味が分かっていないのか、すっとぼけているのか?
私は再度、「レストランでタバコはだめだよ」という。
やっと分かったようで、プィーと出て行く。


朝食後、何とか大塚さんたちに頼まれている「まぐろの刺身」
を買って行こうともう一度、日本料理店街に行く。
昨日は「お刺身類は一切ない」と言っていた店長が、
「まぐろはないですが、ほかの刺身ならある」と言う。
それならどうして昨日言わなかったのか?などという
野暮な疑問はもたないで、どんな刺身があるのか見せて
もらう。
「赤貝」「たこ」など数種類の冷凍刺身があった。
税田さんに電話をし、大塚さんの意見を聞く。買ってきて欲しい
とのこと。早速、置いてある何種類かの冷凍刺身を買う。
もう一度、本命の「まぐろの刺身」を聞いてみる。
「それなら仕入れることが出来るので、午後1時頃来れば
用意できる」とのこと。昨日どうして言わなかったの?と
のど元まで出かかってやめる。これもベトナムの「伝統?」
午後1時に来ることを約束して店を出る。
レ・タン・トン通りからハイバーチュン通りの一角には
本当に多くの日本料理店がある。この際、我が日本料理店の
参考にしようと片っ端から日本料理店の玄関とメニューを
写真に撮る。

午後11時過ぎ、ホテルをチェックイン。
荷物を持ってインテーネットカフェへ。12月4日の日記を
書く。
午後1時近くになったので、再度日本食材店へ行き、
まぐろなどの刺身を箱詰めし、ドライアイスで保護してもらう。
「3時間から4時間は保ちます」とのこと。3時発の飛行機に
乗れば午後4時には着く。大丈夫と胸算用。

午後1時半。タクシーでホーチミン空港へ。午後3時発では
あったが、早めにチェックインをし、待合室で本を読みたかった
ので、早めに空港へ行く。
チェックインカウンターの女性は平然と「飛行機は午後8時10分
に変更になりました」という。私は彼女の英語を聞き違えたかと
思い再度聴いてみるが、やはり「午後8時10分発」とのここと。
午後3時発が午後8時10分と言うことは、5時間10分も遅れる
ということか・・・・・・。いつものことだが、勝手なことだ。
一応、カウンターの女性に「遅延の理由は?」と聞いてみる。
「時間の変更」との答え。答えになっていない。
カウンター女性にこれから私はどうすれば良いのかを聞く。
「27番窓口に行き、あなたのホテルへ戻る手続きをしてください。
費用は当方で出します」とのこと。「ヘー、最近のベトナム航空は
ずいぶん変わったな?」などと思いながら、27番窓口に行く。
何枚かの書類に休息するホテルなどをゴチャゴチャと書かされる。
そして何枚かのサイン。それでもホテル代とホテルまでの
往復タクシー代をベトナム航空が出すようになった、
やっと世界の普通のことが出来るようになった、などと心の中で
喜びながら、27番窓口の女性に「ホテル代とタクシー代が出るので
ですね?」と再度確認してみる。
「違います、あなたのホテルに行く片道のタクシー代だけしかでま
せん」とのこと。やっぱり。私の考えが甘かった。どうもおかしい
と思っていたのだ。「タクシーは、ベトナム航空のエヤポートタクシー
を使ってください」と何度も言われた。何か「おかしい」。
本来は近くのホテルにお客さんを案内し、時間まで待ってもらう
というのが、決まりのはず。今年2月にハノイに行き帰りにハノイ
空港で待たされた時も、湖のあるホテルにベトナム航空が連れて
行った。
今回は「片道のタクシー代しか出さない」などという理屈の会わない
対処の仕方はない。少なくとも往復のタクシー代を出さないと
意味がない。ホーチミン空港の関係者がベトナム航空の決まりに
従った正規の「顧客処理・対応」を行わず、片道のタクシー代
で表面をごまかし、ホテル代、往復のタクシー代を「山分け」
にするのだろうか? とにかく「片道のタクシー代」とは
不可解な対応である。
飛行機の5時間10分遅れも午後3時便の乗客数が少ない
ので、午後8時10分の最終便に合体したといういつもの
パターンである。11月にWTOに加入したのにこうした
馬鹿なことがいつまで続くのだろうか?

片道タクシー代は、400円ほど。私の隣りや後ろに
何人ものベトナム人や欧米人がいて、カウンターの係りに
「文句」を言っている。多分、私と同じことを考えている
のだろう。私の方は、ドライアイスで保冷している
「生のマグロ5キロ」が腐ってしまう。急いで、
食材店に持って行かなくてはと焦る。
こんな馬鹿らしいところで言い合いをしていても
仕方がないので、みんなが見ている前で数枚の
「片道タクシー代請求書」をビリビリと破いてやった。
べトナム航空スタッフは「何をするんですか?」
と言う。回りの数十人のお客さんたちは
?とした顔で見ていた。大声で「クレージー」と叫んで
空港を後にした。

ホーチミン空港前のタクシーに乗り、日本食材店に行くよう
言う。メーターを倒したので一安心。5分位行ったところで
「5ドル」という。私が日本人だと知り、何も知らないと
思い、また吹っかける。また同じ対応。タクシーを止めろ、
お前の名前を教えろ、今から警察に電話をしてここに
来てもらう、とベトナム語で言う。運転手さん、すみません
、すみませんを連発。何度、こうしたことを続ければ良い
のか? 20分ほどで日本食材店に着く。

食材店スタッフに「5時間10分の飛行機遅れ」の事情を説明。
日本語の出来るベトナム人スタッフは「またですか?」と
言った反応。早速、冷凍室に保管してくれる。
包装とドライアイスを変えて欲しいと頼む。午後6時過ぎに
もう一度来るのでそれまで保管して欲しい旨依頼し
店を出る。

午後6時。食材店に行き、生マグロ5キロ、赤貝、ミル貝、
〆サバなどを買いホーチミン空港へ。

ホーチミン空港では、氷が入った2キロ以上の荷物預けは
できないといわれる。こうしたときには、自分たちの
勝手な決まりを言い張るのだ。

仕方がないので7、5キロの刺身などの荷物を
機内に持ち込むことにする。
午後6時から午後8時10分まで空港内で待機。
ベトナム航空のお陰で「ベトナム報道1300日」が
ほぼ読み切れる。

午後8時10分、150人ほどを乗せてホーチミン空港を
離陸。午後3時便がどうして午後8時10分に変更されたか
のカラクリがわかる。午後8時10分便には、韓国のツアー
60人ほどが乗っていた。午後3時便の乗客が少なかった
ために午後8時10分便に詰め込まれ、ほぼ満席で
ホーチミン空港を飛び立ちことになった。
ベトナム航空の金権体質は目に余る。

飛行時間1時間の約束が結局1時間半となる。
午後9時半過ぎにフエ空港へ到着。その足でトンチンカンホテル
へ。
トンチンカンホテルでは、大塚さん、税田さん、石岡さんたちが
待っていてくれた。早速40センチの生マグロをさばいて
調理。残りは冷凍室へ。私は生マグロやミル貝、赤貝を
おつまみに生ビールを堪能。刺身類の調理を終わり、
皆さんと久しぶりの懇談。午前12時過ぎまで。
さすがに疲れた2日間ではあった。ベトナムの新しい
側面を知った気がする。金権体質、お金がすべての
体質がホーチミン市には蔓延している。
今回タクシーに5回ほど乗ったが、全て高額の支払いを
請求された。今までそうしたことはあったが、5回に1回
程度だった。5回中5回とは既にお客を騙しても
お金を取るという風潮が蔓延していることを物語って
いる。フエでも同様の一時成金が肩で風を切って
跋扈(ばっこ)している。悲しいことではある。
12月6日午前1時、就寝。

投稿者 koyama : 16:52 | コメント (0)

2006年12月04日

ダナン経由ホーチミン市へ

雨(フエ)
真夏(ホーチミン市)

午前3時半起床。外の風雨は強い。台風9号の影響か?
3日の夜からうつらうつらしているうちに
午前3時半となる。シャワーを浴び目を覚ます。
関係する薬を飲む。荷物の最終チェック。
結局昨日、ミンさんが努力してくれたのだが、
午前9時フエ発ホーチミン行きの飛行機の切符は
満席ということで手に入らず。

午前4時半、この10年間付き合っている運転手のトアンさん
がトンチンカンホテルの前に来ている。何か事情があるのか
奥さんも一緒。
真っ暗な国道1号線を南下。途中、ハイバントンネルを通るのか
と思ったらハイバン峠を上りだす。これは時間がかかるなと一瞬
、何を考えているのだろうと思ったが、何か事情があるのだろうと
運転手トアンさんに任せる。午前7時過ぎにダナン空港へ到着。
2時間半かかる。
そのままチェックイン。待っている間読書。

午前8時、ダナン空港を出発。ほぼ90%の乗機率。
80%は欧米系の乗客。

機内で読書。
「ベトナム報道1300日 ある社会の終焉」(古森義久著:講談社)

午前9時過ぎ、無事ホーチミン空港に到着。

タクシーでホーチミン市内のボンセン2ホテルへ。
途中相当の渋滞。結局1時間以上かかる。
通常なら20分程度でいけるのだが。
運転手さんはスピードは出すは、交通放棄はでたらめ、
急ブレーキはかけるは・・・。やり放題。
ホテル到着。5万ドンちょっと。10万ドン紙幣しかなかったので
10万ドン紙幣を出す。おつちがないから「10万ドン寄こせ」
という。「お釣りぐらい用意してなくてどうする。外で両替しろ」
という。500円程度のタクシー代に千円札を出したらおつりが
ないので千円寄こせと言っている訳である。
ポケットから携帯電話を出し、ベトナム語で「警察を呼ぶ」
という。運転手さんは、あわてて外に出て両替してくる。
3000ほど大目に支払う。

ボンセン2ホテルは、ホーチミン市内中心部の更に中心にある。
バーバーチュン通り。


ホテル着午前10時。その足で日本料理店の食材の買出し。
大塚さんたちに頼まれた「まぐろ」などの刺身を買いに
日本食材店に行く。ハイバーチュン通りからレータントン通り
までの間に数十軒の日本料理店がひしめいている。
「東京ショップ」という店に行く。事前にべトナム人スタッフが
電話で「マグロの刺身がある」との確認をしてくれていた。
ベトナム人店長に聞くと「ない」という。刺身類はないの?
と確認すると「刺身類はない」とのこと。仕方ないので
もう一軒の食材店にも行くが、ここも刺身類はない。

ホテルに戻る。午前11時。さすがに朝早かったので疲れる。
横になる。30ほどつい寝込んでしまう。

考えてみれば朝食を摂っていない。お金ももったいないので
何度か行ったコムディア屋へ。(日本風に言えばホカ弁屋)
いつもの通り、ご飯の上に野菜炒め、豚肉の煮物、玉子焼き
などを乗せてもらう。1万ドン(70円)~15000ドン(100円)程度。
ところがお店のおやじが「5万ドン」(350円)という。
日本人と思い相当ふっかける。
「おじさん、いつもきているんだよ。いつも1万ドンじゃない・・」
と私が言う。おやじさんは、「へへへ・・・」と言って1万ドンに。
ホテルの部屋で「ホカ弁」を食べながら午後1時(日本時間
午後3時)のNHK衛星放送のニュースを見る。
宮崎県知事が辞任するという。この人の記者会見を見たが
個人的な心象で申し訳ないが、最終的には「収賄」で
逮捕されそうな印象を持った。

読書。そのうち眠り込み込む。

午後4時。荷物を整理して、京都青年会議所のT氏と
待ち合わせ絵いている「Aホテル」へ。
T氏は京都青年会議所(100人)の現地スタディーツアー
で「子どもの家」へ来た。事前調査で3回。当日に1回。
その後、一昨年、近畿青年会議所スタディーツアーで
再度、来訪。「子どもの家」の庭にコンクリートを張り、
縫製工場建築予定地の整地をしてくれた。
今回は、T氏の会社の仕事でホーチミンに来たとのこと。
知り合いに私を紹介したいとのことだった。

午後5時、Aホテルロビーで再会。2人の日本人を同伴。
しばらくホテルの喫茶室で懇談。IT関係の仕事をしている
人たち。この時点で私が何故ここにいるのかの事情が
必ずしもはっきりとはしない。

その後、Tさんの呼びかけで「会社に行こう」とのことになる。
タクシーで市内中心地へ。10階建てほどのIT関連企業の
集中センターへ。

学校の教室4つ分ほどの部屋にパソコンが整然と置かれて
いる。何人かの日本人に紹介される。

最後にBさんに紹介される。Bさんは、1974年に南ベトナム
から京都大に留学。ITを勉強。1975年に南ベトナムが消滅
し、カナダへ移民。現在はカナダ国籍のベトナム人。
日本語と英語は堪能。Bさんが、何か特殊なIT関係の発明を
したそうだ。この会社はBさんがカナダに作った映像関連にIT
会社のベトナム法人。そこに日本のベンチャー企業として
いくつかのIT企業が共同で会社を運営しているという
ことがわかった。京都青年会議所のTさんもBさんの
特許を使った特殊な映像ITを使い、ある仕事しようとして
とのこと。
今回、Tさんが私をホーチミンに招待したのか、これらの
IT関係の皆さんに私を紹介し、ストリートチルドレン、障害児
支援などの活動を皆さんに知ってもらいたい、そして、これら
IT関連の企業の皆さんに「子どもの家」の支援をして欲しい
との気持ちだと言うことがわかった。

30分ほど会社で懇談。ベトナム系カナダ人も4人の日本人IT
関連の会長さんや社長さん、香港系中国人なども、
ITとは異質な私がこの場にいることを理解してくれる。

しばらくして、「フランスからIT企業の社長が今ホーチミン空港
に着いた。皆で出迎えに行き、一緒に夕食を摂ろう」ということ
になる。

フランスのIT企業の社長も一緒になり「フエ料理」専門店
へ行く。午後9時半頃まで食事。

京都青年会議所のT氏はそのままホーチミン空港へ。
午後11時過ぎの飛行機で関空へ。
T氏の計らいに感謝。

ホテルへ戻ったのは、午後10時半。
さすがに朝が早かった。急に睡魔に襲われ就寝。
ベトナムテレビでは、台風9号はニャチャン近くに
上陸したとのこと。ホーチミン市には直接影響はない
とのこと。明日のフエ行き飛行機は飛びそうだ。

投稿者 koyama : 13:54 | コメント (0)

2006年12月03日

台風9号(ベトナム名)接近

雨・うす曇

午前6時起床。
日課の血圧、体重測定。

午前7時、NHK日曜討論を聴く。
自民党復党問題、教育基本法改悪、防衛省「昇格」問題。

午前9時、ベンゲー市場近くのコムデイア屋へ。
ご飯と野菜炒めを買う。1万ドン(70円)。
午前10時低温浴20分。
NHKのど自慢を見ながらフダ缶ビール2本。

トンチンカンホテルの日本人スタッフ・大塚さんたちは
午前11時半から日本料理店で食事をするとのこと。
私はそれ以前に食事をして昼寝。

午後1時10分。ベトナムテレビの「緊急放送」を見る。
台風9号が、ベトナムの海岸に接近中とのこと。
ハノイに副首相を本部長とする「台風9号特別対策本部」
が設置される。政府から緊急指示がだされる。
●危険地域(フエより南;特にクアンガイから南端の
  カーマウ)では安全を第1に警戒態勢を作ること

明日12月4日にクアンガイ省からカーマウまでの
海岸に上陸する可能性大。
そのまま西に直進するとフエに上陸する。

早速、バオミンさんに連絡し、更に詳しい情報を取って
もらう。万一の可能性も考慮し「子どもの家」への
食料の備蓄、安全の再確認、ベトナム事務所員、
日本人スタッフの安全確保などについての対策を
考える。

明日(12月4日)午後5時に京都青年会議所の
T氏とホーチミン市で会う約束をしているが、
飛行機の切符が取れない。ダナン発午前8時という
飛行機しかない。更に明日の台風事情もあり、
飛行機が飛ぶかどうかも疑問。
夕方、バオミンさんから連絡。明日午前8時ダナン空港発の
切符しか取れない。午前4時半にフエを出ないとダナン空港
からの飛行機に間に合わない可能性があるとのこと。
夕方、12月4日午前8時ダナン空港発の飛行機の切符を
届けてくれる。という訳で明日は、午前4時半にフエを
出なければならない。という事は、午前3時半起床。
今夜は徹夜か? 明日の台風も気になる。
ダナン空港に着いてから「台風9号のため飛行中止」
などとならないことを祈るのみ。

午後2時から読書。
「スパイM」(小林峻一、鈴木陸一著:文言春秋)読了。
上野アメ横近くの古本屋で150円。1994年版。
読んでいて引き込まれる。

25歳頃に「昭和史発掘」(松本清張著)で戦前の
日本共産党に特高警察のスパイが潜入し、最高指導者と
なり、川崎第百銀行大森支店を襲撃し、3万円相当(現在
の数億円)の現金を強奪した事件があったということは
読んだことがあった。
本著は、1991年のソ連崩壊後、戦前の日本共産党や
ソ連、コミンテルンなどの資料が公開されるに至り、
暗闇になっていた資料や現存する関係者の証言などを駆使して、
戦前の日本共産党に潜入した日本史上最大といわれる
「スパイM」の生い立ちから死までを描いている。
通称スパイMと言われる所以は、パーティーネーム(党内名)
を松村昇と名乗ったためである。本名は飯塚みつ延。
没落士族の子ども。成績優秀だったが、家が貧しく進学できず。
南葛地域で労働運動に参加。創立から何度か弾圧を受け壊滅
しつつあった日本共産党からの指示でソ連のモスクワにある
「クートベ」(東洋勤労者共産大学)に派遣され頭角を現す。
日本へ帰国後、渡辺政之輔の指導下に入り、共産党の活動を
行うが特高警察に逮捕。その際、特高警察のスパイとなる。
その後、度重なる弾圧で壊滅した共産党の事実上の指導者
となり、毛利特高課長の手引きで共産党を拡大し、戦前では
最大の共産党を作る。そして、徐々に特高警察の指導で
「極左戦術」を取らせる。金持ちの共産党支持者に自宅から
株券やお金も持ち出させる、銀行強盗、やくざを使っての
詐欺、密輸などを行う。更に「エロ映画」を作り、販売上映会
を行い金を稼ぐ。最後には、女性党員に売春までさせるという
「ハレンチ共産党」というイメージを作り上げた人物がスパイM。
こうして戦前の共産党は国家権力のスパイの巧みな指導で
壊滅していくことになる。

この本を読むと「スパイM」の生い立ちとソ連留学中に起こった
レーニンの死去、それに続くソ連共産党内の権力争い、
そしてスターリンが行ったトロッキーなどへの粛清。こうした
一連の出来事を4年近いソ連留学中に見ているスパイM
が共産主義の祖国と言われたソ連の恐ろしさと隠された
実態を知ってしまったということが、共産主義思想に対する幻滅
、そして特高警察のスパイとして落ちてゆく下地になっている
ように思われる。また、国家権力がいかに陰湿に時間をかけて
反対勢力を駆逐していくのかがわかる。
スパイMの秘密通報で「小林多喜二」「岩田義道」など当時の
共産党の指導者が次々に逮捕され、警察で虐殺されていく。
当時の日本共産党への支持協力者は多数に上っている。
俳優の小沢栄太郎、佐々木考丸、中野重治、秋田雨雀、
大宅壮一、山本有三、林芙美子、堀辰雄、高見順、太宰治・・。
また、スパイMが主導権を握る前の共産党の幹部は、
三田村四郎、鍋山貞親。二人とも戦後は反共主義となり
反共労働運動を指導している。また、水野成夫は、戦後、
産経新聞の社長。

一人の人間の「人生」はやはり「歴史」に規定される。
その時代から逸脱はできないということを改めて感じた。
「その時代」という制約の中で悪戦苦闘して生きてゆくという
宿命を持っているのだ。時代に翻弄されたとも言えるMの人生
ではあった。スパイM」は1965年に亡くなっているが
戸籍がなく、火葬許可がなかなか出なかった。
私たち「団塊の世代」と言われている人たちが過ごした
1960年から1970年。それぞれの人がそれぞれの1960年代
を過ごしてきた。それぞれの人たちが、1960年代という
「その時代」に規定されて生きてきた。そして2006年の
今も心のどこかに「その時代」を引きずって生きている
のだ。


当時、天皇制打倒を主張し、日本の民主主義革命・
社会主義革命を目指した若者たち(多くが20代・30代)。
そしてそれらの「革命家」を一網打尽に取り押さえようとした
国家権力の歯車だった特高警察。本書はこの両者への
綿密なインタビィーによって成り立っているノンフィクション。
温故知新。古きを知ることは、今を知る一番の近道。

憲法改悪、教育基本法改悪、共謀罪新設、防衛省設立、
愛国心の強調・・・・・。こうした「美しい国」安部政権の
めざすものが何なのかが見えてくるというものである。

フエに帰って1週間。久しぶりにゆっくりとした1日を過ごした。
夜、フダ缶ビール2本。コムデイア屋で野菜炒め、豚肉煮、
モヤシ炒めを買う。

投稿者 koyama : 15:13 | コメント (0)

2006年12月02日

「子どもの家」創立12周年記念式典

終日雨。

寒い。気温が30度から一気に20度以下に下がる。
フィリッピンを襲い400人以上の死者を出した台風21号の影響。
12月4日(月)にはベトナムに上陸する気配。
CNNを見ていたら、台風21号はフエを直撃する様相を呈している。
台風に対する監視と対策をとる必要がある。

午前8時45分、「子どもの家」へ。今日は「子どもの家」創立
12周年記念式典。
雨の中、関係者が「子どもの家」へ結集。

午前9時。「子どもの家」2階の音楽室で式典が行われる。
1994年11月21日に「子どもの家」は創設された。
当初はたった6部屋の「子どもの家」だった。
式典には、フエ市人民委員会外務部、児童保護委員会、
フエにある3つの「子どもの家」の所長などが参加。
64人の子どもたち、ベトナム事務所、日本料理店の関係者
など総勢100人。

●式典の横断幕

「JASS  ストリートチルドレンの家設立12周年記念」
「1994年~2006年」


開会前に子どもたちの歓迎の踊り、手製のファッションショー
が行われる。30分。踊り、ファッションショーはこの日のために
子どもたちが練習・準備した全て新しい「出し物」。

●ファッションショー(紙で作った洋服)


9時40分、開会宣言。
はじめにロック寮長(通訳ラームさん)の開式宣言。


セン委員長と私で創設12周年記念の「誕生ケーキ」に点火。


続いてセン運営委員長(通訳バオミンさん)が
「子どもの家」活動の報告を行う。

この12年間で大きな成果があった。また、最近、
「子どもの家」の子どもたちが頑張って勉強をするようになった。
今年の9月には、フエ医科大学、グエンフエ高校・
ハイバーチュン高校などへ進学した。
職業訓練もしっかりとやるようになった。JASSと
共同しての活動に満足している。今後も自立して
活動できるように頑張りたい。

次にJASSを代表して私からお祝いの挨拶。

1993年9月にフエ師範大学に来た。1ヶ月後に
チーラン通り108番地に「チーラン子どもの家」を
設立した。その時(1993年10月)入所した子どもたちが
現在も「子どもの家」にいる。ヒー君、ホーターロン君、
タン君。日本料理店で働いているハンニーさんもその一人。
13年間も私と付き合ってくれた子どもたち。

●1993年10月から「子どもの家」にいた
  ホーターロン君、ヒー君。13年間、私と付き合ってくれた。

子どもたちは、ベトナム人スタッフのお世話で暮らして
いける事に感謝するように、私たちは子どもたちの
成長と幸せを祈っていると挨拶した。

続いて、フエ市人民委員会外務部代表の挨拶。
ニエン外務部長とクン副部長は、1週間の軍事訓練の
ため不在。代わりに副部長の挨拶。

式典の最後。子どもたちの表彰。

①2005年~2006年度の成績「最優秀賞」
 日本で言えば、通知表オール5に匹敵する。
②2006年9月に大学・高校に合格した子どもたち
③人間性が立派な子どもたち
④日常生活を真面目に過ごした子どもたち

●成績最優秀賞を受賞したチュン君と小山


●ベトナム人スタッフ表彰

●「子どもの家」ベトナム人スタッフ全員記念写真

●JASSベトナム事務所員全員写真

●大人参加者全員の記念写真

約1時間半の式典は無事終了。

式典参加の来賓の皆さんを案内し、「子どもの家」の
各施設を紹介。

午前11時。子どもたち、来賓、スタッフ全員で
創立12周年記念の会食。


午後12時半、全て終了。台風21号の影響下、豪雨の
中を帰る。

1時間ほど、昼寝。

その後、読書。「スパイM」。

パソコン、メールの調子が悪い。

投稿者 koyama : 10:22 | コメント (0)

2006年12月01日

当面の打ち合わせ会 誕生会

曇りのち雨。終日雨。

★日記容量満杯のため、しばらくは写真掲載不能。

午前9時。バオミン事務所長、税田さんと意思統一。
この間に起こった大きな問題についての意見交換。
縫製研修工場建築問題・・・・・・。2時間半ほど。

午後12時、トンチンカンホテルに戻る。
しばらく前から日本料理店は、昼休んでいる。
近くのお弁当屋で10000万ドン(70円)の
お弁当(ご飯と野菜、肉など)を買う。

読書「スパイM」を読む。

NHK国際衛星放送のニュースを見る。
2005年9月11日の「郵政選挙」で郵政民営化に
反対し、刺客を送られた自民党「反党組」の復党が
決まったとのこと。平沼議員は、郵政民営化に
引き続き反対して復党が認められなかった。
平沼議員だけが「男をあげ」ているそうだ。
復党した「反党議員」は、結局、自らの主義主張を
捨てて、踏み絵を踏み「転びキリシタン」となった。
永久に人間性を問われることとなった。

今日のニュースでは、刺客「小泉チルドレン」の
佐藤ゆかり・片山さつき議員が、国会採決に欠席した
とのこと。私は、何か自己信念があっての欠席とばかり
思っていたが、何のことはない、「採決時に携帯電話があり
議場を出た」「事務所の連絡ミスで採決に出られなかった」
とのこと。刺客の刀は竹みつだった。最初から小泉チルドレン
の実態はこの程度のもの。国権の最高機関として、主権在民
を裏打ちする国会議員が、法案の採決時に欠席するという
ことは、議員としての明確な意思表示でなければならない。
「携帯電話がなったので」「事務所のミスで知らなかった」など
二人は国会議員としての資質が全くない無能議員である。
既に自民党から「使い捨てカイロ」状態になっているお二人
ではある。今や自民党でもいてもいなくてもよい
「泡のよう」な存在と化した。泡沫候補とはこういう状態を
言うのか・・・。
「反党議員の復党に反対する」自民議員の会が解散した
そうだ。根性も信念もない小泉チルドレンではある。

午後、受信メールを読む。11月27日~30日までの
間は、読売新聞記者の案内でメールを読む時間が
とれなかった。今日4日間のメール57通を読む。
必要な返事を出す。

「子どもの家」を訪問した学生さんが卒論を書いていて
わからないことがあるので以下の件について教えて
欲しいとのこと。部屋においてある何冊かの本や
今までの体験、ミンさんや関係者などに聞いて
ある程度の長さの返事を書く。2時間ほどかかる。
せっかく若い人からのメールなので誠意を持って対応しようと。
質問をしてきた学生さんの日記を読んだら
「昨日卒論提出」と書いてあった。11月28日に私に質問し
11月30日に卒論を出すということは、私への質問は
ほとんど必要のないものだったのだ。今日の2時間の
私の回答は無意味となったのではあるが・・・・。
これも人生。学生さんが無事卒論を提出できたのであれば
良かったということである。

現在、もう一人「14項目」にわたる卒論のための質問を
して来ている学生さんがいる。正直、これに真っ当に
回答をしたら「卒論がひとつ」書けてしまう内容である。
この質問に答えるためには、数日を要する。
どうしたものか?
この13年間、随分、ストリートチルドレンをテーマに
した卒論を書くのに協力してきた。今まで
卒論(修士論文)を送ってくれた人は、ベトナム事務所員を
してくれたお二人だけ。数十件の卒論に協力したが、
私からの回答をもらったら、お礼すらないことが多い。
私への質問は、インターネットで検索することと同じなのか?
などという疑問を持ちながらも、せっかく学生さんが
ストリートチルドレンに興味を持って卒論を書くというの
だから、できるだけ応援したという気持ちが交錯している。


午後6時半。ベトナム事務所スタッフの皆さんが
私の誕生祝いをしてくれる。大塚さん、バオミンさん、
ラームさん、税田さん、ハンさん、石岡さん、フーンさん、
石塚さん、ソンさん。
大塚さんを中心に皆さんで日本料理を作り祝宴。

皆さんから寄せ書きとビール2ダースをもらう。
一人一人からのお祝いの言葉を頂く。
ありがたいことである。皆さんに感謝。
誕生祝いなどとんと記憶にない。数年前に札幌であったかな?
午後11時半まで懇親会は続く。


●司会の石岡先生

●小山お礼の挨拶

●バオミン・ベトナム事務所長のお祝いの言葉

●ベトナム事務所員のソン君から誕生ケーキ


投稿者 koyama : 17:55 | コメント (0)