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2007年01月31日
総会準備
晴天
1日中、総会関連の諸準備。
午前8時半朝食。午後7時の夕食まで食欲なし。
21通のメール受信。29通のメール送信。
読売新聞医療功労賞のお祝いのメールなどへの返事。
手紙4通を書く。
総会議案を最終的に点検。
①2006年の活動総括
総会方針と会則改正案について、寒河江さん、
福田もえ子さんなどと協議。いくつかの問題があり
再度訂正することにした。そのため、方針と会則改正案の
全体にわたって部分修正が必要となった。
外務省と電話で連絡。南東アジア第1課長と懇談の日程を
確認。
各地の会の代表の方にメール送信。
明日は、バオミンさんと一緒に静岡へ。
午後9時まで仕事が続く。
安部政権も末期症状。「女性出産機械発言」の
重大さが未だに理解できていない。
国民をなめた態度。柳沢厚生労働大臣一人
クビに出来ない首相の指導力のなさ。
公明党も辞任の要求をしないとのこと。
この政党の本質が見えるというもの。
国民をなめると最後にしっぺ返しが来ると
いうことを知るべきである。
2007年01月30日
ミン・ベトナム事務所長と支援者懇談
晴天
読売新聞朝刊「顔」欄に私の記事が掲載される。
ホテルから午前9時半出発。バオミンさんの
泊まっている上野のホテルへ。
昨夜から宇都宮縫製工業組合佐藤理事長も投宿。
午前10時、ホテルでバオミンさん、佐藤理事長と合流。
3人で衆議院議員会館へ。会館議員面会所で、佐藤理事長
の中学・高校時代の同級生のO氏と合流し、T衆議院議員の
議員会館へ。T議員へベトナムの諸問題についての要請・
懇談を行う。
衆議院議員会館前では、北朝鮮系の人たちが、「マンボンギョン号」
入港を認めよ、朝鮮学校学生への人権侵害をやめよなどの
集会をしていた。
また、国鉄労働組合の座り込みも行われていた。
バオミンさんはこうした日本の状況を見て驚いていた。
午後1時。上野駅で名古屋の支援者時田さんと合流し、
昼食を共にする。
4年ほど前、フエの船上生活者の多い
フールー小学校の校舎増築支援をして頂いた。
今回、読売新聞医療功労賞受賞のお祝いの言葉を
頂く。引き続き、「子どもの家」やJASSへの支援を
約束してくれる。時田さんは昔、春日野部屋のお相撲さん。
その後、呼び出しの修行。現在、「日本相撲振興会会長」
を勤めている。
午後2時半過ぎ上野駅から有楽町駅へ。駅前の
「ビックカメラ」を散策。昨日発売された「ウインドーズビスタ」
の説明を聞く。
午後5時半、地下鉄永田町を経て「ホテルニューオータニ」。
バオミンさんと一緒に国際ソロプチミスト東京ー東例会に出席。
初めにバオミンさんの挨拶。続いて、私の方で障害児医療センター
の活動報告。
国際ソロプチミスト東京ー東会長さんより「読売新聞医療功労賞」
受賞のお祝いの言葉を頂く。
国際ソロプチミスト東京ー東は、1997年、朝日新聞の
「人」欄で私が紹介された記事を読んで、支援を開始。
障害児医療センターを設立してくれる。障害児支援を開始。
その後、更に障害児医療センターの増築を行う。
1998年から4年間行われた「JICA開発福祉支援プロジェクト」
の基礎的施設を設立してくれる。その後の障害児父母の会や
今回の読売新聞医療功労賞受賞へと繋がる道筋を作ってくれた。
10年前に障害児医療センター設立の尽力して頂いた一色さん
たちと若干の交流をして会合を辞する。
永田町経由で上野駅まで。ミンさんを上野まで送り自宅へ。
27日の早朝バオミンさんを成田へ出迎え、日本事務所会議、
夜のバオミンさんさん歓迎会、その後、森田さんたちとの
懇談。
翌日28日、午前中、次男の結婚相手一家との懇談会。
午後読売新聞医療功労賞授賞式打ち合わせ。
29日は読売新聞医療功労賞授賞式、パーティー等。
そして今日と4日間、ほとんど休みなく過ごした。
多くの人々との交流はかなり疲れる。
午後8時自宅に着いた時には、ほとんど持っていたエネルギー
を使い果たした感がある。話すことも食事をすることも出来ない
疲れ。年齢的なものなのか、今まで経験したことのない
疲労感を感じる。メールを開くと23通のメール。
読売新聞医療功労賞のお祝いのメール多数。
私がベトナムへ渡った初期の頃、ご支援を頂いた方々から
「読売新聞を読んだ」とのことで、お祝いの言葉を
送って頂いた。ありがたいことである。
こうした方々の力で今日の私たちがあることを再確認した。
2007年01月29日
第35回読売新聞医療功労賞受賞式
午前中曇り、午後太陽が顔を出す。
昨夜、妻、長男一家と同じホテルに投宿。
午前10時半、帝国ホテルで「第35回読売新聞医療功労賞」
授賞式。
●明日(1月30日)の読売新聞朝刊「顔」欄に私の活動紹介記事
掲載。
2月4日総会参加のため来日中のバオミン・ベトナム事務所長も
参加。
今回は19人の受賞者。うち海外受賞者は3人。
読売新聞医療功労賞は読売新聞主催、厚生労働省・日本テレビ
放送網後援、エーザイ協賛の医療関連の賞である。
授賞式は読売新聞東京本社会長松井氏の挨拶で始まる。
菅原厚生労働大臣政務官とエーザイ株式会社社長内藤氏の祝辞。
その後、菅原厚生労働大臣政務官の表彰状授与。表彰状は
今話題の「柳沢伯夫」厚生労働大臣名の「厚生労働大臣表彰」。
1時間半後の午前11時30分に授与式終了。
授与式にはベトナム事務所長のバオミンさんも参加。
式典後、午前11時40分から記念パーティーが行われた。
午後1時30分、受賞者夫婦が皇居に招待される。
天皇皇后と対面。
その後、1時間半ほど、皇居内を宮内庁係官に案内してもらう。
午後5時、ホテルへ戻る。
午後6時半、長い間「子どもの家」を支援して頂いている
上尾の星野理一氏経営の四川料理「嘉泉」で食事。
家族で美味しい中華料理を堪能する。
今まで色々な中華料理店で食事をしてきたが、『嘉泉』(かせん)
の四川料理は本当に美味しい。色々な種類の料理を
食べたがどれも100%以上の満足度。これは家族全員
の評価。注文した料理は全く残さず全て頂いた。
特に「フカひれの姿煮」「マーボ豆腐」「小エビリチ」
「小エビと豆腐の塩味煮」「もやしそば」などは美味。
エビス生ビールの泡が本当に滑らかで音頭調整も
ばっちり。「ピータン」をおつまみにエビス生ビールを
飲んだらこの世の世界とは思えない。
銀座へ行った際には立ち寄る価値のある名店。
四川名菜 銀座 「嘉泉」
http://www.hoshimata.co.jp/ginzakasen/
2007年01月28日
読売新聞医療功労賞事前打ち合わせ
晴れ
午前10時、自宅を出て地下鉄日比谷駅。医療功労賞授賞式
会場の帝国ホテルへ。
午前11時45分から次男の結婚相手家族の皆さんと会食。
S家の皆さん(5人)と我が家(6人)とで2時間ほど楽しく歓談。
午後3時、読売新聞から指定された帝国ホテルへ投宿。
午後4時半から1時間ほど『第35回読売新聞医療功労賞」
受賞に関する説明会。
長男一家と会食。
2007年01月27日
バオミンさん成田着 総会準備の日本事務所会議
晴れ
昨夜、午前12時半にFAXが入り眼を覚ます。
そのまま眠れず。午前5時起床。5時半自宅を出て日暮里経由
京成で成田第2ターミナルへ。
スカイライナーの中で夜明けを迎える
午前7時半頃着。
総会出席のため訪日するバオミン・ベトナム事務所長が
午前7時25分に成田へ付く予定だったが、到着が早まり
午前6時56分についていた。
ホーチミン空港の出発が1時間遅れ、成田への到着が
30分早まった。結局予定時間を1時間半早く飛んだことになる。
スカイライナーで京成上野へ。駅の改札口でFさん、Nさんが
ミンさんを歓迎してくれる。
上野駅前にある「ああ 上野駅」の石碑前で先日なくなった
井沢八郎さんの冥福を祈る。ミンさんと一緒に「集団就職」
で上京した1960年代の日本の若者に思いを馳せる。
Fさん・Nさんと一緒にバオミンさんが投宿する上野駅前の
ビジネスホテルへ。荷物を預け、昼食。ミンさんの希望で
ラーメンを食べる。高い。
4人で王子駅へ。午後1時から王子飛鳥山前の
「北区教育会館」で行われる「JASS日本事務所会議」へ出席。
24人の参加。
議題は2月4日に開かれる「第13回JASS総会」に提案する
議案の検討。
①2006年度活動の総括(ベトナム・日本)
②2007年活動の方針
③会則改正案
④2006年会計報告
⑤2007年会計計画
「子どもの家」のタンさんと結婚したTさんと生まれたお子さん
午後5時近くに日本事務所会議終了。引き続きバオミンさん
の歓迎の会。
飛鳥山前から王子駅前に河岸を移す。
日本事務所や日本語学校で仕事をしていた人などバオミンさん
と旧交を暖めたりして懇親。
午前9時近くまで懇親は続く。
歓迎の宴を終了し、外へ出ようとすると救急車・消防車が多数
私たちのビルを取り巻いている。
私たちのいたビル7階の居酒屋でお客が間違って催涙スプレーを
押してしまい、居酒屋中に異臭が漂い、7人が病院へ搬送された
そうだ。
異臭騒ぎで混乱した繁華街を出て解散。
その後、森田さんたちに誘われ自宅近くの喫茶店で懇談。
午後10時半頃帰宅。
長い1日だった。
2007年01月26日
「子どもの家」支援について懇談
晴れ
寒い。
夜明け前、ひどい吐き気と腹痛・下痢。
朝食を作る。白菜の味噌汁、焼き鮭、納豆、大根おろし。
夫婦二人だけだと1合のご飯で充分。
しげしげと妻の顔を見る。初めて出会ったのは妻が18歳の時だった。
大学の1年後輩。学生結婚をし、それから約40年。
既に二人とも教職を退職した「爺さん・婆さん」となっていた。
歳月の流れは速い。
午前中、支援者とのメール連絡。ベトナム事務所、静岡等。
第13回JASS総会議案「2007年予算案」整理。
役員会へ予算案、方針案の最終版送信。
JICAと連絡を取り、本部訪問打ち合わせ日を決める。
支援者依頼の講演会の準備のための打ち合わせ。
午後2時自宅を出て、明日訪日するバオミン・ベトナム事務所長
出迎えのためのスカイライナーの切符を買う。
ベトナムの携帯電話の充電器のためのアダプターを買う。
午後5時、東京駅近くの「パレスホテル」で日本料理店長の
大塚さんの息子さん、そして義父の造園会社社長さんと
懇談。「子どもの家」支援の具体的な話をする。
夜、読売新聞よりFAX。新聞掲載の文章の最終確認。
2007年01月25日
第13回JASS総会議案原案作成
晴れ
風が冷たい。
今日バオミン・ベトナム事務所長が2月4日JASS総会
出席のためフエを出発。1月27日午前7時25分成田着。
出迎えに行く。
終日、第13回JASS総会関連の議案を作成する。
①2006年の活動を振り返って(総括案)の最終仕上げ
②2007年の活動方針(方針案)の最終仕上げ
③会則改正案の個人原案作成
方針案と会則改正について原案を大幅に修正する。
基本的ないくつかの点を改定。それに合わせての措置。
今後の原則と当面の移行期間の問題をうまく調整するため。
23通のメール受信。9通のメール送信。
支援者から電話数本あり。
二つの講演会依頼。某国会議員との懇談など・・・。
読売新聞から電話。1月30日の読売新聞朝刊「顔」欄に
私の紹介を掲載するとのこと。
2007年01月24日
支援者との懇談
晴天
15通のメール受信。9通のメール送信。
支援者より電話。
第13回JASS総会議案の「会則改正案」作成。
一応出来たがまだ不十分。「一晩寝かせて」明日再度検討。
午後12時過ぎ、自宅をでて新橋へ。
協同組合中小企業経営支援センター東京支社長の
N氏と懇談。フエの造船関連のことで話し合う。
センターの本部は香川県にある。
1995年久米宏のニュースステーションで「子どもの家」が
紹介された。その番組を見た香川県建築会社社長のS氏が
「子どもの家」への支援を申し出てくれた。毎月10万円位の
寄付を続けてくれている。S氏もその中心となっている
協同組合中小企業経営支援センターは、香川県の数十の会社
社長が加入し、共同して中小企業活動を進めている。
2時間ほど、ベトナムのこと、ボランティア、日本社会の問題など
を話し合う。
午後5時半。新橋から五反田へ。支援者の会社「ブライセン」へ。
http://www.brycen.co.jp/
ブライセンはIT企業。1999年から社長、社員の皆さんが
「子どもの家」の支援を続けている。
今日は藤木社長の呼びかけで太平観光の北垣会長
など何人かの知り合いの方が「読売新聞医療功労賞」受賞の
お祝いの会。
ブライセンには、私の紹介でベトナム事務所員のラームさんの
弟のホアン君とトアン君が研修にきている。
今日はトアン君が会社にいたので一緒に写真を撮る。
五反田駅近くのお店で懇親会。ブライセン藤木社長、太平観光の
北垣会長、YSCC(YOKOHAMA SPORTS AND CULTURE
CLUB)代表の吉野氏。
午後10時近くまで懇親は続く。
2007年01月23日
読売新聞本社訪問
曇り
2月4日午後1時から「北区教育会館」(王子駅徒歩10分)で
行われる「第13回JASS総会」の方針案を仕上げ役員会へ送付。
1月20日の夜行われた役員会の討議を経て最終仕上げをした。
小山個人原案作成→役員会へメール送付→役員会からメールで意見
→役員会を開き討議→小山・役員会最終案作成→役員会へメール送付
→1月27日の日本事務所会議で討議→再度役員会原案修正→
JASS関係者に「総会原案」として提案→2月4日総会で討議決定。
2月4日総会議案は上記のような手続きを経て決定される。
内容は
①2006年の活動を振り返って(活動総括)
②2006年会計報告、会計監査報告、承認
③2007年活動計画(方針案))
④2007年会計方針
⑤JASS会則改正
⑥2007年役員選出
総会を開くまでには議案作成など多くのエネルギーを
使う。しかし、1年間の活動を振り返ることは今後の
取り組みをする上には必要なこと。自分たちの1年間を
改めて見直し、次年度に向けての取り組み方針が見えてくる。
午前10時自宅を出て、地下鉄で「大手町」へ。
読売新聞本社訪問。読売新聞は大手町駅と連動していた。
玄関から入るが、直ぐに警備員のチェック。かなり厳しい
セキュリテイーを取っている。読売新聞本社は10階建て。
1972年頃出来たそうだ。当時は最新・最高のビルだった
そうだが、現在はNTTビルなど高層ビルの谷間に沈んでいる
と言った状態。
しばらくすると担当のU記者が来てくれる。
U記者の案内で取材室へ。解説部のS記者のインタビューを
受ける。読売新聞医療功労賞受賞のテーマである「障害児支援」
の内容、フエでの活動の全容、ベトナムの実情・・・・など。
取材中、写真部記者が相当数の写真を撮る。
取材後、更に写真撮影。その後、屋上で再度、写真を撮る。
1月25日か26日頃の読売新聞2面の「顔」欄に掲載するとのこと。
午後1時過ぎ自宅へ。スーツから鍵を出そうとしたら鍵がない。
いつものジーンズのポケットに置き忘れていた。
妻は自動車免許更新のため警察へ。仕方がないので
池袋へ。本屋など散策。食材などを買い帰宅。
メールチェック。20通のメール受信。13通のメール送信。
2007年01月22日
「第35回読売新聞医療功労賞」受賞決定
曇り・時々晴れ。
読売新聞朝刊に「第35回読売新聞医療功労賞」受賞者が載って
いた。海外部門の3人の中に私が入っていた。
ベトナムで行っている「障害児支援」活動を評価したもの。
1月29日に授賞式がある。
読売新聞を読んだとのことで5人の方からお祝いの電話
2人の方からFAXがあった。
午前10時半、神保町で読売新聞U記者と懇談。明日の取材の
打ち合わせ。
午前11時50分。宇都宮縫製工業組合佐藤理事長と落ち合い
新小岩へ。佐藤理事長の中学・高校時代の同級生のRさんの
会社を訪問。ベトナムの話などをして懇談。
昼食(手打ち蕎麦)をご馳走になる。その後、「子どもの家」への
支援などを話し合う。
2007年01月21日
終日自宅
曇り時々雨
午前7時起床。
午後12時半、結婚した次男が自宅へ来た。結婚生活、今後の
抱負などを話し合う。
総会議案・会則改正案などを考える。
読書「現代ベトナムの政治と外交」(中野亜里著)
興味津々の内容。
夜、宮崎県知事選挙でそのまんま東が当選。
フジテレビ系列、関西テレビ製作の「発掘 あるある大辞典Ⅱ」
で納豆ダイエットが嘘だったとの報道を読んだ。
スーパーから納豆がなくなったという。
この二つのニュースを聞いて日本のファスズム化が一層進行
していることを感じた。安易な「民主主義」は簡単にファシズムに
通じることを痛感した。
テレビ・ファシズム。テレビで放映されたことを国民は鵜呑みにする。
納豆が減量に通じると放送されるとその日から国民は「納豆党」に
変身。納豆を1日2箱食べたという。テレビで「右」といわれれば右に
行き、左と言われれば左に動く日本の国民。自分の頭で考え
「少し変だぞ」と思う『自分』がいなければならない。
テレビニュースを聞いていたら「テレビで放送されていたので
信じて納豆を1日2箱食べていたのに・・」と抗議の言葉を言っていた
人がいた。私は自分の頭で考えない人間ですと告白しているような
もの。何事も少し変だぞと考える生き方が必要である。
今の日本のテレビやマスコミが商業主義におかされ、見ていても
馬鹿らしい番組があまりに多いことを知るべきである。
ベトナムのテレビを見ているから一層感じるのかも知れないが。
常識的に考え、人間が物を食べて生きていくということは、
色々な食べ物を満遍なく食べることが基本である。何か一つの
食べ物に執着するような食生活は「少し変だ」と思わないこと自体が
可笑しいということが分からなくなってきた昨今の日本である。
そのまんな東氏を私は特に知っている訳でもないが、彼が当選した
最大の理由は「テレビで知られていた」と言うことなのだろう。
もちろん、前知事の汚職が酷いということへの反撥から『極端な』
方向へ投票行動を変えたということもあるかも知れない。
しかし、テレビに出ている「有名人」だから政治が出来るという訳でも
ないことは、青島幸男都知事、横山ノック大阪府知事などの事例を
見れば分かることである。長野の田中知事を除いて・・・。
現代のファシズムはヒトラー時代と違って「暴力的」ではない。
ソフトな自主的な選択と言う形を通して忍び寄ってくる。
毎日報道されるテレビのニュースや解説などを通して、徐々に
国民の意識を「納豆ダイエット」報道のように偏った方向へ導いてゆく。
国民一人ひとりが「自分の頭で考え」「自分の強い意思と考え」を
もつことが今こそ大事になって来ている。
そのうち、「国を守るために戦争をしよう」などと言うテレビキャンペーン
が放映される時代が来るかもしれない。
既に「美しい日本」などいう「とらえどころのない」キャンペーンを
通してどこか分からない方向へ日本が進もうとしている。
2007年01月20日
JASS役員会
曇り
非常に寒い。
1月22日(月)読売新聞朝刊に私の記事掲載。
1面と中面。
午前中、メール受信、送信。
読書「現代ベトナムの政治と外交」(中野亜里著)
午後4時、自宅を出て上野へ。
上野駅前「ああ 上野駅」記念碑を参観。
上野「アメ横」へ。するめと芽昆布、酢蛸、鮭切り身を買う。
安い。スルメ10枚で1000円。
午後5時半、元日本事務所日本語教師の西山優子さんと
会社のベトナム旅行の件で懇談。
午後6時、JASS役員会。総会議案の方針案のいくつかの問題に
ついて最終意見集約。
午後6時に集まったが上野広小路に喫茶店があまりない。
いくつかの喫茶店を訪ねたが満席か喫煙席のみ。
30分近く探し歩きやっとAUショップと提携の喫茶店を
見つける。
役員会。若林さん、山西さん、寒河江さん、福田さん、西山さんと
私。皆さん、仕事が終わってからの参加。本当に忙しい中での
役員会開催に感謝。
JASS活動の現地移行に伴うJASSの日本でのあり方について
論議。会員登録、会費納入、会員管理などの原則的な問題を
論議。
更に具体的な問題の整理。HP作成、日本語学校教師採用、
会計管理、助成金申請、私の日本での講演会等日程管理・・・・。
2月4日JASS総会後に行われる「JASS創立12周年記念式典」
の式次第・諸準備案(福田作成)を論議し、具体化案を作る。
午後9時過ぎまで。閉店の催促で会議をきりあがる。雨が降り出す。
1月27日日本事務所会議へ提案する総会原案、12周年式典原案
の作成がほぼ終わる。ほっとする。
今後、今日の論議を受けて「2007年の活動方針案」を更に
肉付けし、JASS会則の全面改定案を作る作業が残っている。
2007年01月19日
東京へ帰る
雪
寒い。
飯坂温泉は小雪がちらつく。
昼前、長男の車で福島駅へ。
2泊3日の休養。温泉に入るということは、疲労するという
こと。体中がだるくなることを知った。
15通のメール受信。10通の返信。
井沢八郎が死んだ。
38年前の1969年の今日、東大安田講堂「落城」。
37年前、佐世保に米原子力空母エンタープライズ入港
井沢八郎の「ああ 上野駅」を聞くと私は高校2年生の
時に牛乳屋の寮に入り早朝牛乳配達をしていた頃の未来が
見えなかった青春時代の思いや臭いまでが即座に心に
浮かんでくる。この歌が発売された1964年に父親が急死。
家族の生活費を稼ぐために私は寮に入り牛配達員となった。
牛乳屋の寮には、40人ほどの若者が
入寮し一緒に牛乳配達をしていた。彼らの大半は、長崎県の
諫早市から来た若者である。多くの若者は私と同年令か年下。
中学を卒業し上京。ほとんどの若者が定時制高校へ通っていた。
旺盛な向学心を持ち、長崎県からたった一人で上京してきた
多くの同年齢の若者たち。朝3時に起きて牛乳配達をし、
昼間は牛乳の勧誘活動や集金。夜定時制高校へ通学という
生活と必死に闘っていた若者と一緒に生活した数年の経験は
「日の当たらないところでコツコツと頑張っている人間」に
強い共感をもつ今の私を作ったといえる。
その後、高校を卒業すると弟が白血病を発病し半年で死亡。
翌年学芸大に入学。1967年である。時代は60年代から
70年代へ移行する時代の変換点だった。
日本中の大学で大学闘争が起こり騒然とした時代だった。
どこの大学でも学生運動が盛んに行われ、学生運動各派の
闘争も続いていた。
2年後の東大闘争はある意味で60年代中ごろから昂揚してきた
戦後学生運動の第2次高揚期の終焉を象徴する出来事であった。
私は「安田講堂篭城」グループの思想と行動には
真正面から反対の立場を取っていた。彼らの思想と行動は
地に足のついていない幼児的な行動との認識をもっていた。
はしかのような行動だと批判的に見ていた。
それでも安田講堂落城という出来事は、同時期を生きた多くに
人間の一人として感慨深いものがある。
安田講堂篭城組も批判的な人たちも含めて、自分の利害や
立身出世を考えての行動ではなかった。利害打算での行動
ではなかったことだけは確かである。行動と方法の是非論は
あるが・・・。70年安保と呼ばれる1960年代学生運動を
経験した団塊の世代の若者が「2007年問題」と称され
今年から集団退職する時代となった。彼らは今、何を考えて
退職を迎えるのであろうか?40年前の思想と行動は
今も心の片隅に残っているのであろうか? それとも
全て忘れてしまったのだろうか? 少なくとも「世の中を
良くした」「貧しい人たちを世の中からなくした」との思いは
当時の全ての若者に共通していたものではないかと
思うのだが。それは「若気のいたり」だったと一笑に付して
しまうのだろうか? 会社人間から脱皮する今年からの
団塊のおじさん・おばさんたち。退職し、自由を取り戻すこと
が出来るようになった団塊の世代になおもわずかな期待を
持っている。
1968年1月19日、佐世保に米原子力空母エンタープライズが
入港。全国の学生、労働者が佐世保に行き入港阻止闘争を
行った。私が大学入って1年たっていない1月だった。
大学の友人の何人かが佐世保に行った。
「エンプラ闘争」と呼ばれた。死者も出た闘争だった。
その後の70年安保闘争、学園闘争の走りであった。
既に39年が経過しているが、当時の情景が今でも
鮮明に目に浮かび、当時の自分自身の気持ちや
行動が蘇る。
昨年TBSテレビで放映された「オーイ 俺道」が
好評だったようで再放送される。機会があったら
ご覧頂きたい。「子どもの家」、日本料理店、
私のベトナムでの活動が30分にわたり放映。
TBS BS-i 2月16(金)20:00~20:54
2007年01月18日
飯坂温泉2日目
曇り。気温3度。
長男家族と。
孫は午前9時半頃、車で幼稚園へ。
午前10時過ぎから1時間半ほど飯坂温泉街を散策。
あちこちのホテル・旅館が廃業している。
大げさに言えば、「ゴーストタウン」風な町。
25年ほど前に何度か仕事の関係で来ているが
当時の「繁栄」が夢のよう。夜温泉街に出れば、たくさんの
お客が温泉街を闊歩していた。今は、温泉街に人がいない。
午後メールチェック。25通のメール受信。
携帯電話を使ってのメール受信のため、時間がかかる。
25通のメールを読み、必要な返事を出すだけでは半日かかった。
午後5時半。長男一家がホテルへ戻ってくる。
温泉入浴。夕食。長男夫婦と久しぶりに飲みながら「人生」を語る。
今日は温泉に3回ほど入った。そのせいか、1日中からだがだるい。
午後7時、眠くなりねてしまう。午後11時半頃目覚める。
今日は半日「子どもの家」・JASS関連の総会などの各種文書やメール
のチェックと返信で終わる。
2007年01月17日
福島へ
曇り
福島は気温5度。
午前中、メール返信。帰国関連身の回りの整理。
送信を依頼された刺繍の追加を郵送。
上野発新幹線で福島へ。午後4時着。飯坂線で飯坂温泉へ。
長男家族と合流。仕事の話、家族の話など。
メール多数。
読書「現代ベトナムの政治と外交」(中野亜里著:暁印書館)
2007年01月16日
日本へ帰国
曇り(東京)
すごく寒い。
午前6時40分(ベトナム時間午前4時40分)成田着。
ハノイから成田へは4時間半ほど。飛行機で2時間半ほど寝た
午前3時近くに起こされ「朝食です」とのこと。到底食事をする
気持ちではない。水を飲む。
午前4時40分(日本時間午前6時40分)成田に着く。
入管・税関も簡単に終わり、午前七時10分には京成線の
改札へ。スカイライナーは7時55分。しばらく待つ。朝刊を
買い読む。「不二家問題」が1面のトップニュース。
成田→日暮里→巣鴨経由で自宅。午前9時半着。
自宅に着後、ベトナム事務所から預かってきたいくつかの品物、
お土産などを「宅急便」様式に詰め替える。
近くのお米屋さんに宅急便として3箱出す。
その後、しらばく妻と「諸情勢」を話し合う。
午前11時。ブランチ。寒いので「煮込みうどん」を作る。
入浴。ゆっくりと。軽く缶ビール2本。次男の結婚のこと、その他
色々なことなど、不在中の諸情報を聞く。
ねむくなり昼寝。
午後5時。メール受信。10通ほどのメール送信。
寒い。寒い。
新聞・テレビを見る。暗い話ばかり。
不二家のこまかし、三菱ふそうがふたたび欠陥でリコール、反省なし。
第一生命また不払い1200件。イラクでフセイン側近2人死刑執行。
国会議員の事務所費不透明計上問題・・・・・。
夫の切断殺人事件詳報。妻が夫に睡眠薬を飲ませ放火殺人。
うーん、暗い話ばかりだ。
日本滞在中、さらに二つの日程が入る。
明日から3日間は福島で休養。今日はゆっくりと休もう。
2007年01月15日
ハノイの日本大使館へ 帰国
曇り(フエ)
曇り(ハノイ:15度)
午前5時起床。
午前6時半、トンチンカンホテルを出る。タクシーでフエ空港へ。
午前7時、フエ空港着。空港には掃除のスタッフのみ仕事中。
8時半のハノイ行きに乗るつもりだが・・・・。
7時20分頃になって空港職員「登場」。搭乗手続き。
空港前の食堂で「フォー」を食べる。乾麺のフォーを戻したもの。
スープが手抜きで美味しくない。
空港2階の待合室で1時間ほど待機。
午前9時40分、ハノイ「ノイバイ空港」到着。
空港タクシーでハノイ市内のカメリアホテルへ。
ホテルでしばらく休む。午前11時半、ホテル近くの
ビンザン屋(コムディア屋)で野菜炒め、肉などとご飯。
25000ドン(200円)。
午後2時、タクシーで日本大使館へ。
大使館のODA担当・文化担当スタッフと2時間ほど懇談。
縫製研修センター落成記念式典、フエ高等師範大学日本語学科
支援の件などを打ち合わせ。
午後5時から読書。「試された女たち」(澤地久枝著)読了。
午後7時、再度ビンザン屋で夕食。
午後9時、ホテルを得てハノイ空港へ。
翌、16日 午前0時10分発のVN機で成田へ。
2007年01月14日
日本帰国準備
小雨・曇り
7時目覚める。NHK海外衛星放送「日曜討論」を見る。
久間「防衛大臣」、岡本元内閣補佐官、法政・東大教授。
イラク戦争をどう見るか、自衛隊の「防衛省昇格」問題など。
そもそも出演者自体が偏っている。久間氏と岡本氏が
現政府の人間か限りなく現政府に近い人間である以上、
現政府の防衛政策に真っ向から反対し、批判している
人を最低一人はいれるのが、この種の討論をNHKが行う
場合の最低条件。法政・東大教授は言葉の端々で政府批判を
いうものの、結局、イラク問題も自衛隊問題も根本的な批判
の出来ない人たちであった。民主主義社会のジャーナリズムは
少なくとも社会に存在する相対立する意見を広く国民に披露する
ことが最低の基礎的な任務である。
ブッシュ大統領がイラクに2万人の
増派を発表したが、現状ではうまくいかないとの意見は言うが、
ブッシュさえ「イラク戦争のやり方は間違っていた」と記者会見
で述べているのに、第1の賛同者である小泉・安部政権への
批判は結局誰もできなかった。イギリスやスペインなど欧州の
政府・首相などのイラク戦争批判を述べるが、自分自身の
政府への批判が出来ない大学の専門家とは何のために
存在するのか? NHKの論者の人選に大きな偏りが
あることを知るべきである。世界でただ日本だけが
未だに「イラク戦争は正しかった」などと言っているのである。
親分のブッシュ大統領ですら一定の自己批判をしている。
イギリスのブレアー首相は失脚寸前。スペインの首相は
敗北しイラクから撤退。フランス、ドイツは初めから批判的。
こうして今やアメリカでさえ「イラク内戦」と言う事態に
手を焼き、結局は「名誉ある撤退」を模索せざるを得ない現状
である。それでも航空自衛隊はイラクに居続ける大義があるのか?
午前10時。1年前に買ったベトナム米を1合ほど炊いてみる。
それなりに美味しく炊けていた。昨日の「入学式」のお祝いに
出た納豆などで朝食。
一時帰国するに当たって様々な問題についてのメールを
関係者に出す。
NHKのど自慢は放送されず。女子マラソン中継。興味なし。
読書「試された女たち」(澤地久枝著)続きを読む。
江馬細香と頼山陽の複雑な恋。
帰国の持ち物の点検。
日本滞在中の1ヶ月のスケジュールを整理。
昼寝。1時間。お腹の具合いが悪い。体もだるい。
午後、床屋へ。混んでいる。既に2ヶ月近く床屋に行っていない。
今日はフエ滞在最終日。何としても髪を刈らなければ
ならない。1時間ほど待たされる。偶然、ミン・ベトナム事務所長
のお父さんも同じ床屋にやってきた。挨拶。
横に5人並び散発。左右両端に座った私とミンさんのお父さん。
二人とも1947年生まれ。1945年の帝政廃止、フランスとの
戦争、ベトナム戦争を経験してきたはずだ。グエン王朝の末裔の
皇族であるお父さんの顔が鏡に映る。王宮の奥にある歴代
皇帝の写真が目に浮かぶ。ミンさんのお父さんの目の回りは、
何人かの皇帝の目とそっくりである。間違いなく血のつながりはある。
生まれる2年前に帝政が打倒され、民間人になったお父さん。
ベトナム戦争中は南ベトナムの憲兵だった。鏡に映った
お父さんの顔を見ながら、その顔のしわに刻まれている
人生の苦しみや悩みを想像してしまった。
何ごともなかったように散髪を終えて帰って行ったお父さんだが、
皇族から民間人へ。アメリカ資本主義の南ベトナムから
急激な社会主義社会への「変革」を体験したお父さんの
心の奥底に潜んでいるであろう『何か』を聞きたい衝動を感じた。
夕方、散髪終了。100円。これでまた2ヶ月ほど散髪をしない。
夜、依頼された荷物の整理を行い、小型スーツケースと
リュックに詰め込む。
午後7時、フエ師範大学近くのコムディア屋(ベトナム風ほか弁)
に行く。いつも行く店だ。今まで特に店の人と話をしたことは
なかった。ただ実務的に野菜や肉などをご飯の上に載せて
弁当にしてくれるだけだった。今日は「あなた、日本語学校の
先生でしょう。昔、フエ師範大学で日本語を教えていたでしょう」
と話しかけてきた。テレビで「静岡会館日本語学校」の入学式を
見たようだ。フエの街では誰が私のことを知っているのか
分からない。少し不気味な気持ちがしないでもない。
13年住むということは、こういうことなのだろうか?・・・・・・
明日の朝は6時半にトンチンカンホテルを出発。
8時半フエ発の飛行機でハノイへ。午後2時、ハノイの
日本大使館に行き、縫製研修センター完成祝賀会の打ち合わせ。
フエ高等師範大学日本語学科の日本語授業支援プロジェクト
について、大使館の関係者と詳細打ち合わせをする予定。
午前0時10分、ハノイ発便で16日(月)早朝成田へ。
明日の1日は長い。
夕方、宇都宮縫製工業組合佐藤理事長から電話。宇都宮から。
縫製研修センターー落成式の件。
部屋の鍵をかけると中からは開かなくなる。
間違って中から鍵を閉めてしまい、税田さんに携帯電話。
外からあけてもらう。
ベランダのトアが開かない。タンス代わりの戸棚のドアも開かない。
部屋の電球が二つつかない。今日で一応は日本へ帰るが、
帰国後、どうなるのやら・・・・・。
昨年11月27日にフエに戻った。1ヶ月半の滞在。
日本人スタッフが本当に真面目に良く仕事をしてくれた。
感謝したい。ほとんど無給に近状況の中でも
自主的に仕事を見つけ、精力的に仕事を進めてくれた。
日本語学校教師の二人、ベトナム事務所、日本料理店と
それぞれ、初めての仕事のはずなのに不安もあったろうに
おくびにも出さずに頑張ってくれた日本人スタッフに感謝したい。
また、ベトナム事務所のベトナム人スタッフもそれぞれ分担の
分野に慣れてきて、責任をもって仕事を進めてくれている。
自分の分担以外にも良く気を利かせて、手伝ってくれる。
勤務時間が過ぎても、日曜日でも仕事をしてくれる。
そんなに高い給料でもないのに・・・。やはりベトナム事務所の
ベトナム人スタッフの皆さんは、ボランティアや子どもたちに
心を寄せている人たちである。お金だけで生きている今の
ベトナムの風潮をみていると、ベトナム事務所スタッフの
皆さんの爽やかなしごとへの姿勢が一層素晴らしく見える。
「オアシスの会」代表の大塚さんは、船上生活者の支援の
ための医療船の仕事をしながら、日本料理店の店長の
役割をしっかりと果たしてくれている。7人の子どもたちへの
料理・接客指導、仕事の仕方の指導など、無私の気持ちで
しごとをしている様子にある種の感動と神々しささえ感じる。
必ずしも体調十分ではない中で、午前中の医療船指導、
午後2時から午後10時までの日本料理店。頭が下がる。
ベトナムの「子どもの家」や事務所などの仕事はこうした
日本人の心ある人たちとベトナム人スタッフの良心で
支えられている。ベトナムがWTOに加入し、
資本主義から「金権体質」「拝金体質」だけを引き抜いた
ような社会風潮の中で、ベトナム事務所や日本料理店
に集まった日本人・ベトナム人の役割りと存在は大いに
意味のあるものだと感ずる。
2007年01月13日
日本語学校入学式 里親Yさんと里子懇談
雨のち曇り、時々晴れ。
少し天候が好転してきた。多少、暖かくなってきた。
午前9時、静岡フエ青年交流会館で日本語学校入学式があった。
「観光専門日本語基礎コース」(30人)。
毎回のことではあるが、日本語が分からない看板屋さんが横断幕を
作るので「誤字」がある。
このコースは週5日間、1日4時間。1週間20時間。年間800時間
集中日本語教育である。1年間で日本語の基礎を勉強し、
2年目は、学生の希望などに沿った教育課程を用意することに
なっている。
税田さん・バオミンさんの司会で入学式が始まる。
トゥアティエンフエ省観光局代表挨拶
続いて「フエ市越日交流委員会』副委員長・兼日本語学校校長
の私が挨拶。日本とベトナム、日本とアジアの平和の架け橋に
なって欲しいと挨拶。
新入生
観光専門日本語基礎コース担当の先生方
入学式後、担当の先生方による新入生へのオリエンテーションが
行われる。
私とバオミン・ベトナム事務所長は佐賀県の里親Yさん親子を
迎えにバオミンホテルへ。Yさん親子を案内し、「子どもの家」へ。
「子どもの家」の各施設を案内する。
11時半、「子どもの家」の子どもたちは昼食。
セン委員長と記念写真
午前11時45分、日本料理店着。
簡単な「日本語学校入学式」のお祝いを行う。
日本料理店の大塚さんたち日本人スタッフがお祝いの
昼食を作ってくれる。大塚・石岡・石塚・仁枝・バオミン・
イックホアン(外務部員)などと会食。(ラームさんは体調不良で
欠席)
ちょうど日本料理店の生ビールの2週間賞味期限の切れる日。
捨てるのももったいないので、みんなで飲む。
午後1時半、トンチンカンホテルの部屋に戻る。
ホーチミン市にいる宇都宮縫製工業組合佐藤理事長、
日本から2本の電話あり。
読書「試された女たち」(澤地久枝著:講談社)
古本屋で100円で購入。
著者澤地氏が明治初期から気になっていた女性6人を
取り上げその生き方を書いた。
『横浜富貴楼 お倉」。伊藤博文の愛人とも言われた明治の
女傑。
読んでいるうち眠くなる。1時間ほど昼寝。
午後、12通のメール受信。9通のメール送信。
午後6時半、佐賀県の里親Yさん親子が日本料理店へ。
二組の里子と初対面・懇談。
佐賀県のYさんは、私がフエに来た1993年9月に始めた
チーラン通り「子どもの家」の支援の直ぐ後、1995年頃から
里親支援を始めてくれた最初の支援者のお一人。
縁があって福岡市国際交流協会の招請で講演会に行った
際、極短時間Yさんご夫婦にお会いした。佐賀県で酪農を
されているとのことだった。現在ベトナム事務所1階の
刺繍みやげ物店で仕事をしているフオンさんを最後まで
支援して頂いた。フオンさんは、諸般の事情で「尼寺」
生活をしていた。Yさんは、尼寺での生活を支援。
成人し、ベトナム事務所付属の刺繍みやげ物店を開店する
と直ぐに就職。既に6年間ほど刺繍みやげ物店で仕事を
している。その間、結婚し、現在は4歳と4ヶ月の子どもがいる。
フオンさんが成人し自立したが、引き続き新しい里子を引き受け
てくれている。ゴックさん。11歳。
里子だったフオンさん(親子)と里親だったYさん親子
ゴックさん親子。
ゴックさんは、生まれながらに「心臓病」を持っていた。
里子になった6歳位の頃、心臓病の手術をしようとしたが、
体重が8キロしかなく出来なかった。小学校に入学し
体重が10キロを超えた時点でJASSの支援で心臓病の手術を
した。現在は、6年生。普通の女の子と同じような日常生活を
することが出来るようになっている。
お母さんは、天秤棒で手打ちうどんを売り歩く仕事をしている。
朝3時に起き、小麦粉をこね、手打ちうごんを作る。午前5時頃から
街に出て路上で売り歩く。午後12時頃まで。70杯ほど売る
と仕事が終わる。70杯売って儲けは100円。朝3時に起き
9時間も働き、1日・100円、1ヶ月働いて3000円
の儲けで生活しているベトナムの庶民がいることを
私たちは、記憶に留めておく必要がある。
私の回りでは20代の若者であるにも拘わらず
1食50ドル(6000円)の5つ星ホテルでのバイキングイングを
平然と食べるベトナム青年夫妻もいる。
この若者夫妻はゴックさんのお母さんが毎朝3時から
9時間も働いた2ヶ月分の収入をたった1回のバイキングで
食べてしまう人たちである。
私たちベトナム事務所の付き合っている「子どもの家」の
子どもたちや関係するベトナム人の多くは、ゴックさんの
お母さんのように必死に働いても1日・100円程度の
収入しかない中で、一生懸命働き・働き・働きしている
人間たちばかりだ。一見豊かになったかのような幻想に
惑わされてる『ベトナム観』を吟味する必要がある。
ベトナムを訪問した日本の政党の委員長が「ベトナムのドイモイ
政策は日本の社会主義社会を作る参考になる政策だ」
「ベトナムの貧困削減は、世界でも特筆すべき成果を
収めて、IMFからも高く評価されている」「ベトナムのドイモイ政策
を高く評価する」と言っていた。ベトナム社会の深層を知らない
人間の皮相的なベトナム観と言える。ベトナム社会の
本当の矛盾を自分の目でしっかりと見るべきである。
真面目に働いている人たちが報われない社会は変である。
佐賀県のYさんのように10年間もの間、コツコツと支援を続けることは
なかなか大変なことでる。しかし、その10年という間に里子の
子どもたちは成長し、自立し、時には子どもを産むという「人間の
ドラマ」に出会うことも出来る支援でもあるのだ。
私がベトナムに13年住んでいたこともあながち意味のないことでは
なかったとも思える時間だった。Yさんご夫婦に感謝。
里子だったフオンさんが作った刺繍の作品(バラ)を記念品に
もらうYさん親子。フオンさんと4歳、4ヶ月の二人の子どもたちを
記念写真。
日本料理店の来客、14人。
雨が降らないと日本料理店への来客は増える。
2007年01月12日
ベトナム事務所員会議 日本語学校のお楽しみ会
終日雨。
午前8時半、ベトナム事務所員会議。明日、日本語学校入学式
があるため今日実施。
(ソン)一昨日・昨日と新村さんの案内。今夜梁井さんの出迎え。
(フーン)フエ高等師範大学学長との懇談
(ラーム)特にない
(石岡)火ー中級授業 木ー上級テスト
(石塚)月ー中級授業 水ー中級テスト
(税田)12月8日~1月8日まで休暇を取り日本へ帰国した。
1月9日から仕事を再開した。竹とんぼ400個作る。
全教千葉婦人部の松原先生より刺繍の再注文あり。
(ハン)手紙の翻訳。里親からのクリスマスプレゼントを
子どもたちに届けた。
(サン)中・上級ーテスト
(ミン)新村さんの案内。
現在、「子どもの家」入所希望者待機者は8人。
近日中に入所希望者の家庭実態調査に行く。
2月17日のテト正月に着る新しい子どもたちの服を買いたい。
1月26日~2月5日までJASS総会出席のため訪日する。
2月12日~2月22日(10日間)テト正月のため事務所閉鎖。
日本人スタッフで旅行などする人は、緊急連絡が出来る
ようにして欲しい。
●1月13日(土)日本語学校の開講式式次第を確認。
・初めのことば(ミン・税田)
・出席者紹介(ミン・税田)
・フエ省観光局長挨拶
・フエ市越日交流委員会代表ニエン氏挨拶
・日本語学校校長小山挨拶
・日本語教師紹介
・終わりのことば(ミン・税田)
★当日は、二つのテレビ局の取材あり。
●当面の訪問者日程の確認
①地球の歩き方スタディーツアー(1月30日~2月4日)
②静岡市議視察団(静政会)(2月1日~2月3日)
③ボランティア貯金視察団(2月5日・6日)
●JASS2007年活動の計画について説明。
ベトナム事務所員会議終了後、静岡市議視察団の
受け入れ態勢について、バオミン・ラーム・税田、小山で
詳細打ち合わせ。
昼寝。30分。
読書「反骨のジャーナリスト」読了。
明治から現在まで10人のジャーナリストを取り上げ、
その生い立ちと活動、社会的な意義を解明している。
著者の鎌田慧氏が一番言いたかったことは、人間は
「時流に流されるな」「自分の目と耳で将来を見つめよ」
「集団ではなく『個人』として自分を持て」「孤立しても
自分の正しい道を進め」というようなことだと理解した。
10人の中に何人かの人は、必ずしも社会的に評価されない
ままこの世を去っている。また、社会から否定的な評価を
未だに受けている人もいる。しかし、どの人も人間的で
孤立しても正しいと思ったことは、はっきりと主張した人々
である。私たちの先人が、明治以降の軍国主義の時代にも
未来を見つめ、民主主義と人権を孤軍奮闘しながらも
主張した人がいたということは、私たち日本人も誇りとすべきで
ある。美しい日本とか愛国心などと声高に主張する人間の
薄っぺらさが、この本を読むと浮き彫りにされる。
私宛のメールへの返信。26通のメール受信。8通の送信。
午後4時半。ベトナム事務所でバオミンさん、ハンさん、税田さん
と私の不在中の諸問題について詳細打ち合わせ。午後6時まで。
午後6時から日本語学校の「お楽しみ会」。
日本のお正月の伝統などを体験しながら楽しむ。
日本語教師の皆さんの熱心さをつくづく感じる。
小山挨拶
手作りの雑煮を食べる。納豆・あんこなどの餅を食べる。
日本料理店。14人の来客。ベトナム(4人)、アイルランド(2人)、
スペイン語を使う人(6人)、欧州系(2人)
この1週間、総会議案(総括・方針・会則改正)原案作成、
フエ高等師範大学日本語学科とJASSの提携、縫製研修工場、
アクセサリー工場、フエ市の政治的な複雑な状況の中で
関係幹部との懇談など様々な仕事があった。精神的な
ストレスも溜まる。口内炎は4つ出来ている。
私は本当に疲れると口内炎が出来て治らない。
毎度のことではあるが、日本へ帰る1週間前は本当に
忙しい。今回はハノイの大使館に寄るという仕事も急に入り
一層忙しくなった。ビールが欠かせない事態に至っている。
2007年01月11日
各種仕事に忙殺
晴天
10日ぶりの晴天。久しぶりに太陽を見る。
午前9時、ベトナム事務所へ。私の日本帰国中のツアー、
訪問者、視察者などへの対応、諸準備等について関係者と
打ち合わせ。
昼食、コムディア。
30分ほど昼寝。
「反骨のジャーナリスト」読む。
『ゾルゲ事件』の尾崎秀実。尾崎が「ゾルゲスパイ事件」の
共犯として死刑を宣告され、敗戦8ヶ月前の1944年11月に
死刑執行。遺体が家に目黒区祐天寺の自宅に帰る。通夜に
参加した人はたったの6人。妻、娘、高校時代の友人松本慎一、
尾崎の弁護士竹内金太郎、そして西園寺公一と秘書。
戦前、治安維持法、国防保安法、軍機保護法で裁かれた
尾崎の通夜には誰も「怖くて」参加しなかった。生前、多くの
人たちが尾崎との親交を深めていたのだが・・・・・。
戦後、尾崎の一周忌に西園寺公一が再度参加すると
「狭い家に入りきれないほどの訪問者がいた」とのこと。
「1年前には国賊。戦争が敗戦に終われば今度は、尾崎を
英雄扱い。一周忌に参加者たちは、いかに故人と親しかったか
、それを聞こえよがしに語っていた」。
戦後から今日まで続く日本人の「日和見」体質を物語るよう
である。昨日までは「皇国史観」の天皇万歳が、今日からは
民主主義者を「自称」し、その実、内容は何も変わっていない、
戦後民主主義者を多く見ている。
午後3時。ハノイ大使館へ電話。大使館へ行き、縫製研修センター
完成式典、フエ高等師範大学日本語学科プロジェクトの件について
の要請を行うことを連絡。1月15日午後2時過ぎに大使館で
関係者と懇談することになった。
宇都宮縫製工業組合佐藤理事長より電話。
太平観光北垣会長より電話。2月13日の早朝講演会。
ベトナム事務所へ。
フエ中央病院小児科代表より「新年の挨拶」。
拙著「火炎樹の花」を読んだ広島の方から感想メール。
ありがたいことである。真面目な方。
2007年01月10日
フエ高等師範大学学長懇談
終日雨。
とても寒い。
午前7時45分。バオミンさん・フーン日本語学校主任と
一緒にフエ高等師範大学へ。フエ高等師範大学は
3年制の小学校・中学校の教員養成大学。
2007年9月から高等師範大学ではベトナムの高等師範では
初の日本語学科が出来ることになった。JASSの日本語学校と
提携して日本語学科を運営したいとの意向があり懇談を行う。
午前10時。ベトナム事務所を新村さんが訪問。
各所で写真を撮ったり訪問したりする案内を
頼まれる。ミンさん・ラームさんと一緒に話を聞く。
ベトナム事務所員・日本語学校主任のフーン先生の
誕生日。ベトナム事務所で簡単な誕生会を行う。
昼食。コムディア(精進料理)35円。
午後1時半から午後5時まで「JASS2007年活動方針案」を
起案。役員会に送信。正直、かなり疲れる。
12周年記念写真を関係者に送信。12枚。
午後5時半、日本料理店で子どもたち・スタッフと夕食。
久しぶりに男子2名出勤。
午後7時。「JASS2007年総会 会則改正案」の骨子を
考える。
日本料理店には新村さんなど6名の来客。
日本人1、オーストラリア1、フランス2、
スエーデン2。
読書「反骨のジャーナリスト」(鎌田慧著:岩波新書)
大杉栄、宮武外骨、桐生悠々。
今日は仕事が多く、かなりの疲労感。
日本から数本の電話あり。
37通のメール受信。15通のメール送信。
2007年01月09日
総会議案作成 「子どもの家」でセン委員長と懇談
終日雨。気温15度。すごく寒い。
これで1週間ほど連続の雨。フエの雨は絹糸のような
霧雨が24時間連続して降り続ける。
午前8時半、徒歩でベトナム事務所へ。
バオミンさん・税田さんと打ち合わせ。
・ボランティア貯金現地視察団受け入れの件
・アクセサリー工場設立の件
・テト正月(1月17日)期間中のスタッフの動静把握の件
・バオミンベトナム事務所長訪日中のベトナム事務所体制確立の件
・第13回JASS総会議案のベトナム事務所員議案討論会(1月12日)
・その他
午前11時半終了。トンチンカンホテルへ戻る。途中霧雨で
体はびしょ濡れ。
30分ほど昼寝。
午後2時、バオミン・ベトナム事務所長と「子どもの家」へ。
今年の5月から6月頃設立する「手作りアクセサリー製作工場」
で研修し自立する「子どもの家」の子どもたちについて
セン委員長と話し合う。
「子どもの家」の庭には『石灰』が大量にまかれていた。
事情を聞くとフエ市人民委員会に指示で「トリインフルエンザ対策」
の一環として、ウイルス殺菌のために石灰を撒いたとのこと。
午後3時半。日本料理店のHさんが『フランスパン屋で午前中仕事
をし、午後2時過ぎから日本料理店で仕事をしたいがいいか?』と
言ってきた。Hさんは22歳。
私、大塚さん、仁枝さんとバオミンさんの通訳を通して話し合う。
常識的に考え、午前中7時間ほどパン屋で働き、引き続き
午後2時過ぎから7時間日本料理店で働くことは無理。
日本料理店での仕事は現在『研修中』であり一人前の仕事は
出来ていない。
自分の置かれた客観的状況が理解されていない。
1日14時間も働くことも無理なことだが、日本料理店での仕事も
十分出来ていないのになぜ、そんなにアルバイトのようなことを
したいのかを聞く。H子さんは、「お金が欲しい」とのこと。
お金が欲しいということも分かるが、自分の今している日本料理店
での仕事もたった半年程度経験した日本料理の「ひよこ」である。
そもそも給料をもらうこと自体、厚顔というものである。
給料をもらう以前に日本料理が何たるかを大塚さんなどの
日本人から教えてもらっている真っ最中の人間が、日本料理店に
来る前に7時間も働いてくると言う発想がどこから出てくるのか?
「金・金・金」という風潮がベトナムに蔓延しているのか?
35通のメール受信。16通のメール送信。
午後5時半、日本料理店で夕食。
午後9時。日本料理店閉店。
2007年01月08日
JASS13回総会議案書作り
終日雨。
非常に寒い。昨日、ゆっくりしたので今日は大分楽になった。
午前7時朝食。フォー。
部屋の2箇所のドアが雨を含んで閉まらなくなってしまった。
トンチンカンホテルの立付けは本当に悪い。
午前8時半、雨の中、徒歩でベトナム事務所へ。
ベトナム事務所で「2007年方針」の骨子と肉付けを行う。
数日以内に「2006年総括案」「2007年活動の方針案」
「会則改正案」の原案を作らなければならない。
「2006年総括案」は先週作成し、役員会へ送信。
現在修正案がいくつか来ている。「2007年方針案」は、
2007年2月4日の総会でJASSは大きく組織替えを行う。
ある意味で抜本的な方針転換である。その内容を方針案と
してどう記述したらよいのか、苦労するところである。
30分ほど昼寝。
読書「反骨のジャーナリスト」(鎌田慧著:岩波新書)
明治以降、10人のジャーナリストを選び出し、伝記と
その仕事の大きな意義について書いている。
陸かつ南、横山源之助の二人を読む。
午後2時。「2007年方針案」を書く。
13のメール受信。4通のメール送信。
午後5時半、日本料理店で子どもたち・スタッフと夕食。
今夜は「チャオ・バイン・カイン」(小麦粉の手打ちうどん)。
体が温かくなる。美味しい。
午後8時半過ぎ、税田さんが1ヶ月の日本での休暇を終え
無事「帰国」。日本料理店・日本人スタッフ全員で出迎え。
税田さんの元気そうな姿を見てほっとする。
その後、日本人スタッフで歓迎の宴。午後11時解散。
今日は本当に寒い1日だった。
今日は「成人の日」。私は1月15日だとばかり思っていた。
いつから変わったのか? 私がフエにいる間に日本の祝祭日
は大きく変わっている。
私が成人式を迎えたのは、1967年1月15日。
2ヶ月前の1966年11月に弟を白血病で亡くす。
1年近く昼間弟の看病、夜は午後7時頃から午前2時位
までの中華料理屋での仕事をしていた。
何にも受験勉強すら出来ずに過ごした1年間。
それでも教員になりたくて2月の国立2期校の受験をめざしていた。
成人式の招待状が区役所から来たが、「意味のないもの」と思い
当日は家で寝ていた。晴れがましい成人式には到底出る気持ちに
なれなかった。将来に展望のない時代だった。教員になりたい、
子どもたちのために生きたいという強い希望と夢だけは持っていた
20歳の頃。石川達三の「人間の壁」を繰り返して読んで教員への
夢を膨らませていた。
2007年01月07日
風邪で寝込む
終日雨。
風が強く、とても寒い。
昨日から体調を崩す。昨夕は早めに寝る。
10時間ほど寝る。昨年11月27日にフエへ戻り
40数日。色々と仕事も多く、疲れが溜まったのか?
頭痛・腹痛・吐き気・倦怠感。
今日は1日ゆっくりと寝る。
午前7時、NHK衛星放送。新春党首挨拶。
自民党川、民主小沢、公明太田、
共産志井、社民福島、国民綿貫、日本田中。
今年の参院選挙が焦点。
午前10時、NHKニュース。日本は大雪、強風。
北海道の浦河では強風で家が壊れたとのこと。
明日、関空からフエに帰る税田さんの飛行機が飛ぶのか
心配になった。
10時10分から「NHKのど自慢」。
終日、読書。
「平家物語」第3巻読了。1巻1000ページ近い。
3巻全てを読み終わった。読みでがあった。
30代の頃、吉川英治の「新平家物語」を読んだ。
吉川平家と森村平家は大分趣を異にする。
吉川平家は清盛を中心に描いているが、森村平家は
「権力」というものの「はかなさ」を中心に描いている。
私には、森村誠一は義経に相当入れ込んでいるように
読んだ。
3巻、3000ページをかけて森村誠一が言いたかったことは
所詮は人間の生とは、宇宙からすれば瞬間の「まばたき」の
ようなものということに尽きる。後白河法皇・平清盛・平氏一族・
義仲・義経・頼朝・奥州藤原3代。全て権力をねらい、蠢動する。
しかし、権力を取ったあとの虚脱感・はかなさもまた描いている。
森村誠一は例の「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」」と
の名文句をかいていない。しかし、森村平家物語りも尽きるところ
「諸行無常」を言っているのである。「人は何のために生きるのか?」
は永遠の課題である。この本は、清盛から義仲、義経・頼朝までの
平氏勃興から繁栄を描き、頼朝の勝利で話は終わっているが、
勝利した頼朝が最後に北条義時の平氏一門にまた、権力を奪われ
「執権政治」となるである。
人間は宇宙のまたたきの「一瞬」を精一杯もがき生きて死んで
行くのだ、ということを改めに知ったような気がする。それでは、自分は
どう生きてゆくのか?・・・・・・・・。
今日の読売新聞の社説は、2007年問題、団塊の世代頑張れ
という趣旨のものだった。
私と同世代の皆さんが今年からどんどん退職して行く。
それまで会社や組織で重要なポジションにいた。
小さな「権力」を持っていた。退職し、全ての「権力」を失ったとき、
名刺と肩書きがなくなった団塊の世代は自分という人間だけで
生きてゆくことになる。どんな生きたかをするのか。
トンチンカンホテルのパソコンがまた調子が悪い。日記が書けない。
「反骨のジャーナリスト」(鎌田慧著:岩波新書)を読み始める。
夜のニュース。福島県で40m以上の強風とのこと。
2007年01月06日
ベトナム事務所員会議
終日雨。
急に寒くなり、体調を崩す人多し。
昨夜、豪雨。隣りの家にトタンに落ちる雨の音がうるさく
一晩中眠れなかった。
午前2時から4時まで読書。
午前7時、朝食。ブンボー。
午前8時過ぎ、徒歩でベトナム事務所へ。
午前8時半、京都の高校の先生がベトナム事務所を訪ねてくる。
昨年、京都府国際センター主催の「東南アジア講座」で
講演会をした際、聞きに着てくれた先生。
お土産に清酒を頂く。しばらく懇談。
午前9時、ベトナム事務所員会議。
(ソン)フエ高等師範大学で新しい教員免許を取る勉強をした。
(ラーム)個人ツアーのガイド
(石岡)火、土、日本語学校授業
(石塚)月・火、中級授業。木に体調を崩す。
(ハン)里親や訪問者からの手紙の翻訳。30通。
京滋YOUの会藤井さんから依頼を受けた刺繍の準備。
(フーン)フエ高等師範大学日本語学科認可文書翻訳
(サン)二日間、日本語学校授業
(ミン)フェミン案内。JASS総会資料調査。
「子どもの家」スタッフの給料の件をセン委員長と相談
全教千葉婦人部よりの奨学金計算
日本語学校入学案内をフエの二つのテレビで宣伝
(1月10日締め切る)(1月13日入学式)
その後、第13回JASS総会議案(2006年の総括)を
私が説明・提案。意見などは、メールで。
来週、2007年活動方針案を提案する。その骨子を説明。
ベトナム事務所員会議終了後、腹痛と吐き気。
食中毒か?と思ったが、気温の急激な変化で体調を崩した
ようだ。のどが痛い。体がだるい。
昼食はベトナム事務所隣の「精進料理屋」のコムディア(ほか弁)。
一食35円。
体調が悪く寝る。
午後2時。京都の高校の先生を案内して「子どもの家」へ。
ソン君と一緒に。「子どもの家」施設、運営、子どもたちの様子など
を案内し説明する。
午後4時トンチンカンホテルに戻る。だるくて横になる。
午後5時半、日本料理店で子どもたち・スタッフと夕食。
警備員のリー君から「欠勤届け」。体調が悪く欠勤するとのこと。
私と同じ症状。欠勤届けをだすようになり、一歩前進。
やはり風邪を引いたようだ。こうした時はきちんと食事をして
寝るしかない。早めに横になる。
2007年01月05日
第13回JASS総会議案書原案作成
終日雨。
寒い。
昨夜、飲みすぎ。二日酔い気味。
朝、少し暑い風呂に入る。
ルーティーンとなっている「血圧測定」「体重測定」
など。
午前7時朝食。フォー。暑い風呂に入った後なでの
暑い。扇風機をかけてもらう。
朝食後、30分ほど、寝る。
午前9時、雨の中徒歩でベトナム事務所へ。
健康のために1日2回(午前と午後)、徒歩でベトナム事務所
へ行くようにしている。
昨年までフエにあるJASS日本語学校の先生をしてくれていた
中村友香先生のご祖父様が亡くなられた。86歳。
私はお祖父様にお願いして切り絵様の手作りの「百福」を
作って頂き自宅に飾っている。日本料理店にも百福飾りが
ある。素晴らしい飾りである。「福」という漢字を百種類も
ナイフで切って作ったもの。
ご冥福をお祈りする。 合掌。
ベトナム事務所で総会議案の「方針案」の素案を考える。
同時にJASS会則改正案を考える。
昼食。
昼寝1時間。
午後、2時間ほど読書「平家物語」。
いよいとクライマックス。頼朝が鎌倉を出て、義経追討へ。
午後3時、関係者から来ているメールへの返事。
その後、総会方針案の骨子を書く。
午後5時半、日本料理店で子どもたち、スタッフと夕食。
午後6時半、日本料理店開店。
今日から大塚さんも仕事に復帰。
外は大雨。午後9時50分閉店。
今日の来客は8人。(ベトナム人6人、日本人2人)
2007年01月04日
次男結婚 : 「子どもの家」支援のVU君の訪日
曇りのち晴れ、夕方雨
次男が結婚した。と言っても今日、憲法24条に基づき、
区役所へ「婚姻届」を出したとのこと。
新年からお目出度いことである。
ベトナム語が生かせる仕事をしたいと観光会社のピースインツアーに
入社。毎日観光の仕事に没頭している。仕事と結婚と
なかなか大変な毎日になるが、伴侶と一緒に新しい人生を
切り拓き幸せな家庭を築いて行って欲しい。
結婚式は海外か?これで我が家も二人の子どもが就職・結婚し
自立していった。肩の荷が下りたと言うべきか? 一層、
ベトナムの子どもたちに力を入れていくというべきか?
今年は私の「イノシシ年」。ベトナムの子どもたち支援、
世界の貧困撲滅・平和を希求し『猪突猛進』したい。
午前9時、ベトナム事務所でVU君とTHI君に会う。
二人は私の推薦で訪日し、日本語学校へ通う。その後、
IT専門学校を経て、IT会社「ブライセン」で研修をつみ
7年後を目処に帰国する予定。フエで「子どもの家」支援の
IT会社を設立し、その中心になって働く予定。
二人ともフエ科学大学コンピューター学科卒業生。
VU君は1993年に「子どもの家」に入所し、その後。、母親
の下で在宅支援。昨年12月に支援が終わった。
これから4年から7年の間、健康に気をつけて日本での
生活を送って欲しい。帰国後、「子どもの家」や貧しい子どもたち
のために貢献してくれることを願っている。
午後12時半から30分間、昼寝。
読書「平家物語」。
義経が壇ノ浦で平家一族を滅ぼし、都へ凱旋。
後白河法皇以下殿上人や庶民・大衆が義経を
熱狂をもって迎え入れる。鎌倉の頼朝は義経の
人気高揚に疑念を持つ。平家の統領平宗盛が捕虜となり
義経が鎌倉まで護送する。鎌倉の入り口腰越まで来たが
そこで捕虜を受け渡し、腰越で待たされ、平家を滅ぼした
第1の立役者義経を頼朝は「自分を超える弟」と考え、
接見しないまま、捕虜の平家統領平宗盛を京への途上で
首を切るよう命ずる。頼朝と義経の確執を経て義経追討へ。
ベトナム事務所で「第13回JASS総会議案書」原案を
作成。「2006年を振り返って」(総括案)の素案を作る。
ベトナム事務所員全員に送信。明後日(土)のベトナム事務所員
会議で皆さんの意見を聞き、日本の「役員会」の皆さんへ
送信、検討をお願いする。役員会の皆さんからの意見を受け
『総括原案』を修正したあと、日本事務所員、JASS関係者
に送信し、広く関係者の意見を取り入れ1月27日頃の
日本事務所員会議で原案として最終決定。2月4日の
第13回総会で論議をしてもらい、最終決定という運び。
午後5時半、日本料理店で子どもたち・スタッフと夕食。
今日は次男の婚姻届・結婚ということなので、結婚を祝って
ビールを飲む。正式には1月17日に日本へ帰国してから
のお祝いとなるが・・・・・、とりあえず、今日、フエで祝う。
午後8時半頃、来客もいなくなったので、日本人スタッフを
誘って「次男の結婚祝い」。
午後9時近く、日本料理店前のホテルに息子さん一家が宿泊している
大塚さんが日本料理店に立ち寄る。大塚さんも交えて交流。
午後11時をかなり過ぎる頃まで交流。生ビール10杯飲む。
2007年01月03日
JASS総会議案書作り
曇り・時々晴れ
午前7時朝食。フォー。
読書「平家物語」
午前9時、ベトナム事務所へ。
2007年2月4日に行われる第13回JASS総会へ
提案する議案書(総括・方針・会則改正案)の原案を作る。
今日は、2006年度の総括。1年間にどんな活動をしたのか?
具体的にどんな成果が上がったか、問題は何か?などを
分析。
昼食。野菜中心のコムディア(70円)。
20分ほど昼寝。太陽がでる。部屋に強い日が射し目が覚める。
読書「平家物語」。屋島の闘い。義経の奇襲。いよいと壇ノ浦の
闘いとクライマックスへと突入する。
後白河法皇・頼朝・義経の3者の心理描写と葛藤がうまく
描かれている。森村誠一は、後白河法皇のしたたかな
政治力に注目して記述。
後白河法皇は、天皇を手玉のように扱い、取り代えている。
崇徳天皇ー二条天皇ー六条天皇ー高倉天皇ー安徳天皇ー後鳥羽
天皇。屋島ー壇ノ浦の戦の頃は、清盛の孫である安徳天皇が
在位中であるにも関わらず、一方的に「廃帝」と称して、
後鳥羽天皇を即位させている。安徳天皇と後鳥羽天皇鼎立
状態である。源平の武士集団のバランスを上手くとりながら、
後白河法皇に権力が集中するよう、したたかに生き延びる
後白河。権力というものの非情さを感じる。後白河法皇は
義経に平家の手の内にある安徳天皇の「死」を求めている。
自分の孫でもあるのだが。自分の傀儡天皇後鳥羽天皇を
使って権力を維持するため。森村平家物語はこう記述している。
午後3時、ベトナム事務所へ。
引き続き、第13回JASS総会議案書の「総括部分」を書く。
関係資料、数字などの正確を期するため、「子どもの家」、
ベトナム事務所などに何度も確認する。
午後5時半、日本料理店で子どもたちと夕食。
新年初日から欠勤した男子2名も今日から元気に出勤。
かぜを引いたとのこと。
今日はまだ三が日。大塚さんたちが「雑煮」を作ってくれる。
餅入り鶏肉だし。コロッケ、手作りはんぺん・・・・。
午後6時半。日本料理店開店。
午後7時、引き続き、第13回JASS総会議案書の総括部分
の記述。
午後9時、日本料理店閉店。
読書「平家物語」。
2007年01月02日
ベトナム事務所「仕事はじめ」
曇り・時々晴れ
寒いが暑い。
午前7時。朝食。ブンボー。
午前9時、徒歩、ベトナム事務所へ。
ベトナム事務所の正月休みは1月1日のみ。
今日から仕事始め。
皆さん、ベトナム事務所で仕事。
午前10時過ぎ、フエ中央病院小児科医長のフオン先生が
ベトナム事務所を訪問。しばらく懇談。
ベトナムの小児がんの研究センミナーを行いたいとのこと。
そのための詳細打ち合わせ。
午後2時半。快晴。真夏のような日差し。
徒歩でベトナム事務所へ。バオミンさんのJASS総会参加の
ためのビザ取得関連の書類が届き、その整理。
年賀状メールへの返事を書く。
午後5時半。日本料理店で子どもたちと夕食。
新年初日から男子2名欠勤。
日本料理店長の大塚さんの息子さん家族がフエ訪問。
一緒に数日を過ごすため夕食は不在。
大塚さんは12月31日午後1時過ぎの飛行機でホーチミン市
からフエへ長男家族と一緒に来る予定だったが、
「例の機材の関係」との理由で飛行機が午後1時過ぎから
午後10時過ぎへ変更。
10時間ほどホーチミン市で待機するよう言われたそうです。
当然、ホーチミン市内のホテルでの待機となるが、一人2000円
程度のホテル待機保証費用しかでないとのこと。ベトナム航空の
世間知らず・非常識・金権体質が如実に出ている。乗客の時間を
10時間も奪っておいて、謝罪すらなく、2000円程度のお金で
勝手に市内のホテルで待っていろという態度。これで通用する
ベトナム社会の現状も異常である。大塚さんは午後3時頃フエに
着いてゆっくりとご家族でフエの「大晦日」を楽しもうとしたのだが
フエに着いたのは、午前0時近く。ベトナム航空のいい加減さに
ベトナム事務所員や日本人スタッフは翻弄されている。
午後6時半、日本料理店開店。仁枝さんが店長代理で統括。
大塚さんご家族4人来店。
今日は10人の来客あり。日本人4人、米国2人、
ベトナム人3人、不明1人。午後9時過ぎ、閉店。
昨日、1月1日は終日、読書。
『平家物語』第2冊読了。1冊1000ページあるので1冊の
読み応えがある。
義仲を倶利伽羅峠で破った義経が入洛。平家は一の谷に
拠点を構築し、清盛の娘の子安徳天皇と3種の神器を保持。
入洛した義経を後白河法皇は、鎌倉の頼朝を牽制するために
利用。義経の一の谷の合戦。ひよどり越え。平家敗退。
屋島へ敗走。京は義経の支配下に入り、後白河法皇が
義経を寵任。後白河法皇のしたたかなな手法で、
義経に平氏を平定させ、その義経と鎌倉にいる源氏の統領
頼朝とを闘わせる。
それぞれの登場人物の人間性と生き方、そして人生を
垣間見ることが出来る。
政治と軍事力との関係をつくづくと考えさせられる。
政治が軍事をコントロール出来なくなった時、世の中は
混乱する。後白河法皇が武力のない中で
源平の軍事力の均衡を保ち、利用される振りをしながら
「利用する」したたかさが上手く描かれている。
第3巻(最終巻)の読書に入る。
2007年01月01日
2007年の平和を祈ります
新年おめでとうございます。
今年は世界の平和と戦争がなくなることを心より願います。
日本の社会に民主主義が根付き、様々な意見と思想の
人々が共存できる社会であることを願います。
2007年1月元旦
ベトナムの「子どもの家」を支える会
ベトナム事務所員・関係者一同
昨夜の大晦日。日本人スタッフ4人で「紅白歌合戦」を見ながら
年越しをしようと言うことになっていた。仁枝・石岡・石塚さんたちが
内田さん差し入れの食材などを使って年越しの膳を準備。
いよいよ午後5時20分(日本時間午後7時20分)の紅白歌合戦
が始まる時刻になったら全く違う番組が放映された。
タイ→ホーチミン市→フエとパラボラアンテナで経由されている
「NHKワールドプレミアム」が一昨日あたりから突然配信が中止
された。昨夜、午後5時20分に見ていたのは地元ケーブルテレビ
の「NHKワールド」(海外の外国人向けのNHK国際放送)。
結局、「NHKムレミアム」は放送を中止され、「NHKワールド」は
紅白を放映しない。最後の手段。フィリピンが衛星で放送している
電波がベトナムでも「傍受」できる。フィリピン衛星放送には
「NHKプレミアム」が入っている。日本人の部屋にはフィリピン
衛星放送傍受のセッティングはしてあるのだが、傍受技術が
未熟で受信できない。偶然、4階に住んでいる石塚さんの
部屋だけはフィリピン傍受可能が判明。急いで、石塚さんの
部屋に大晦日の年越し宴の料理を持ち込み、『紅白』を見る。
内田さん差し入れの「数の子」「昆布巻き」などをおつまみに
フエ生ビールを飲む。ほとんどは知らない歌手の知らない歌。
3人のその道の専門家に名前などを聞きながら紅白を見る。
森昌子の次に森進一に出てもらいたかった。
美川憲一・小林幸子は歌よりも衣装の印象しかなかった。
歌が上手いと思える歌手はいなかった。
何とかという男性歌手のバックで踊っているのか
もがいているのか判らない女性が途中で衣装を脱ぐと
半裸状態(?)。NHKも相当焦っているのか?視聴率を上げたかった
のか? 邪道である。半裸状態に見える女性が踊り狂う場面は、
少なくと家族全員が「今年を振り返り、来年に希望を託そう」として
見ている番組には不適当である。NHK幹部の無能振りが
出てしまった。TPOである。半裸状態風の女性をバックに歌った歌手が
何か世の中に「挑戦」したつもりなら馬鹿馬鹿しい。
挑戦するのなら、教育基本法採決の国会に乱入する方が
よっぽどましだ。公共放送を使って半裸風女性をバックに
歌う馬鹿馬鹿しい歌手の反抗は、幼児以下の下品な遊び。
NHKの無能ぶりが露呈した。
私は9時頃(?)だろうか? 眠くなり退席。
もう紅白歌合戦そのものを放送する意味自体がなくなった
ように思われる。
午後10時(日本時間午前0時)。関係者に「謹賀新年」の
メールを送信。