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2007年01月19日

東京へ帰る

寒い。

飯坂温泉は小雪がちらつく。

昼前、長男の車で福島駅へ。
2泊3日の休養。温泉に入るということは、疲労するという
こと。体中がだるくなることを知った。

15通のメール受信。10通の返信。

井沢八郎が死んだ。
38年前の1969年の今日、東大安田講堂「落城」。
37年前、佐世保に米原子力空母エンタープライズ入港

井沢八郎の「ああ 上野駅」を聞くと私は高校2年生の
時に牛乳屋の寮に入り早朝牛乳配達をしていた頃の未来が
見えなかった青春時代の思いや臭いまでが即座に心に
浮かんでくる。この歌が発売された1964年に父親が急死。
家族の生活費を稼ぐために私は寮に入り牛配達員となった。
牛乳屋の寮には、40人ほどの若者が
入寮し一緒に牛乳配達をしていた。彼らの大半は、長崎県の
諫早市から来た若者である。多くの若者は私と同年令か年下。
中学を卒業し上京。ほとんどの若者が定時制高校へ通っていた。
旺盛な向学心を持ち、長崎県からたった一人で上京してきた
多くの同年齢の若者たち。朝3時に起きて牛乳配達をし、
昼間は牛乳の勧誘活動や集金。夜定時制高校へ通学という
生活と必死に闘っていた若者と一緒に生活した数年の経験は
「日の当たらないところでコツコツと頑張っている人間」に
強い共感をもつ今の私を作ったといえる。

その後、高校を卒業すると弟が白血病を発病し半年で死亡。
翌年学芸大に入学。1967年である。時代は60年代から
70年代へ移行する時代の変換点だった。
日本中の大学で大学闘争が起こり騒然とした時代だった。
どこの大学でも学生運動が盛んに行われ、学生運動各派の
闘争も続いていた。
2年後の東大闘争はある意味で60年代中ごろから昂揚してきた
戦後学生運動の第2次高揚期の終焉を象徴する出来事であった。
私は「安田講堂篭城」グループの思想と行動には
真正面から反対の立場を取っていた。彼らの思想と行動は
地に足のついていない幼児的な行動との認識をもっていた。
はしかのような行動だと批判的に見ていた。
それでも安田講堂落城という出来事は、同時期を生きた多くに
人間の一人として感慨深いものがある。
安田講堂篭城組も批判的な人たちも含めて、自分の利害や
立身出世を考えての行動ではなかった。利害打算での行動
ではなかったことだけは確かである。行動と方法の是非論は
あるが・・・。70年安保と呼ばれる1960年代学生運動を
経験した団塊の世代の若者が「2007年問題」と称され
今年から集団退職する時代となった。彼らは今、何を考えて
退職を迎えるのであろうか?40年前の思想と行動は
今も心の片隅に残っているのであろうか? それとも
全て忘れてしまったのだろうか? 少なくとも「世の中を
良くした」「貧しい人たちを世の中からなくした」との思いは
当時の全ての若者に共通していたものではないかと
思うのだが。それは「若気のいたり」だったと一笑に付して
しまうのだろうか?  会社人間から脱皮する今年からの
団塊のおじさん・おばさんたち。退職し、自由を取り戻すこと
が出来るようになった団塊の世代になおもわずかな期待を
持っている。

1968年1月19日、佐世保に米原子力空母エンタープライズが
入港。全国の学生、労働者が佐世保に行き入港阻止闘争を
行った。私が大学入って1年たっていない1月だった。
大学の友人の何人かが佐世保に行った。
「エンプラ闘争」と呼ばれた。死者も出た闘争だった。
その後の70年安保闘争、学園闘争の走りであった。
既に39年が経過しているが、当時の情景が今でも
鮮明に目に浮かび、当時の自分自身の気持ちや
行動が蘇る。


昨年TBSテレビで放映された「オーイ 俺道」が
好評だったようで再放送される。機会があったら
ご覧頂きたい。「子どもの家」、日本料理店、
私のベトナムでの活動が30分にわたり放映。

TBS BS-i   2月16(金)20:00~20:54 

投稿者 koyama : 2007年01月19日 14:58

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