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2006年12月06日

日本料理店玄関で寝ていた親子 フエ高等師範大学学長懇談

雨・のち曇り。
寒い。

昨夜からフエ市内フオン川が氾濫。フォンザンホテル横の
通りが通行止めとなる。


午前7時、朝食。フォー。朝食の途中、日本料理店の玄関に
母親と子どもが寝ているのに気づく。行ってみる。
母親は30歳代、娘は5歳だと言う。ダンボールを敷いて
日本料理店の入り口で寝ている。しばらく前から寝ていたと
いう。近くに壊れかかった自転車があり、ビニール袋などが
集められている。母親にベトナム語で聞くが真っ当な返事がない。
ラームさんが仕事で日本料理店前に来る。早速、通訳を頼み
事情を聞く。隣のクアン・チ省から来たとのこと。ビニールなどの
ゴミを拾い売ってたり、物乞いをして生活いるという。色々話して
いるうちに、少し精神に異常をきたしている事に気づく。5歳の
娘は半そでで熟睡している。寒いだろうに。
 近くで「子どもの家」を運営しているので娘を入れるように
説得するが、母親は「子どもの家」そのものの理解ができない。
 地球の歩き方パンフレットやボランティア貯金のパンフレット
などで紹介されている「子どもの家」の写真などを見せて、
「子どもの家」への入所を勧める。「とにかく入所しなくても良いから
一度見にこないか?」と誘う。母親はその気になる。直ぐに近くに
いるシクロを呼び乗せる。20分程で「子どもの家」へ到着。

 セン委員長、ロック寮長が、母親から路上で寝ている訳、
どんな事情でフエにいるのかなどを詳細を聞き取ろうとするが、
母親の答えがチンプンカンプン。


 分かったことは、クアンチ・省に両親がいる。自分は32歳。
身分証明書では35歳となっている。ダナンに夫がいて二人の
子どもがいる。5歳の娘の下に9日前に産んだ子どもがいるが、
出産した病院に3000円で売った。
 クアンチ省にいる両親の電話を聞いたら、教えてくれる。
早速、ロックさんが両親に電話。以下両親の話。
昨年の8月に5歳の
子どもを連れて家出をしてしまった。今、フエの「子どもの家」に
いるのなら、直ぐに迎えに行く。バスで行くから「子どもの家」で
待たせていて欲しいとのこと。結局、クアンチの両親に引き取られる
ことになる。出産してまだ9日目である。体が大丈夫か心配である。
そんなこんなで朝食を全部食べきれないまま午前10時になって
しまう。
 午前10時。ベトナム事務所でバオミンさん、税田さんと当面の諸問題
について打ち合わせ。
 
昼食。コムディア(70円)。

午後3時、バオミンさんとフエ高等師範大学学長と懇談。同大学の
日本語学科(現在ベトナム文部省に申請中)へのJASSとしての
協力体制について協議。

午後5時半。日本料理店で夕食。

「ベトナム報道1300日」(古森義久著:講談社)読了。
興味津々の本。1972年のパリ協定から1975年のサイゴン
「解放」までの3年半の毎日新聞のサイゴン特派員として
活動した記録。
昨日滞在したホーチミン市の当時の状況が克明に記されている。
また、1973年頃のフエの様子も書かれている。
本書はベトナム戦争終了後の1978年という早い時期に
書かれた本である。パリ協定からサイゴン「解放」までの期間を
サイゴンで体験した
ことは非常に大きな意味がある。古森氏の体験から出たい
くつかの結論。
ひとつは、多くの日本人が当時思っていた「南ベトナムで戦争を
しているのは、アメリカの傀儡政権それと闘う南の自由主義者、
宗教者、など南ベトナム民族解放戦線との戦争」という図式が
嘘であり、ベトナム戦争の本質は、北ベトナム、ベトナム労働党
(現在のベトナム共産党)の南下とベトナム共産党主導の独立
戦争であり、社会主義革命戦争だったということ。第2に多くの
南ベトナムに住んでいた庶民(アメリカの横暴とグエンバンチュー
大統領の横暴に反対していた)の期待と希望を裏切った
「1975年4月30日のサイゴン陥落」だった。
古森氏の先見性は、ベトナム戦争終結3年後に今日のベトナム
社会主義社会のもっている本質的な矛盾(共産党の一党独裁、
人権と思想・表現・宗教の自由がない・・・・・)を見抜いていたこと
である。古森氏は南ベトナム解放戦線の戦いを支持し、
期待をもっていたが、結局、サイゴンが陥落すると
南ベトナム解放戦線が無視され、ベトナム共産党だけが、
実権を握るという過程を詳細に記述している。南ベトナム民族解放戦線
のグエン・フー・ト議長や南ベトナム臨時革命政府
(当時、100カ国近くから南ベトナムを代表する政府として承認
されていた)が、何の役割も存在すら認められないまま
消滅していった過程は私たちが、歴史の中にいて歴史を知る
大きな参考になる。
 11月にハノイで行われたAPEC。ベトナムがホスト国として会議
を主催し、安部首相、ブッシュ大統領が参加。同時にベトナムが
「WTO」に加入した。
日本の各新聞の論調を見ると「ベトナムはAPECを主催し、
WTOに加盟しいよいよ世界に進出する。これから経済発展の
過程を辿る」という趣旨の記述がほとんだだった。
読売新聞の林田記者のコラムだけが、今後、
大きな貧富の格差が生まれ社会全体の危機につながる
(文章はそう明確にかいてはいないが)
という趣旨の文書を書いていた。
30年近く前に毎日新聞の古森記者の記した「ベトナム報道
1300日」の訴えている重みは未だに日本のマスコミも
ベトナム研究者も本当の意味で理解していない。

アメリカの有識者がブッシュ大統領に「イラクからの段階的
徹底」を提言した。アナン国連事務総長が「イラクは内戦状態
にある」と明言した。

28年前に書かれた本書には1972年のパリ協定の
いきさつが詳細されている。
1972年時点ではアメリカは、ベトナム戦争の泥沼から
手を引くことを決めていた。1972年のパリ協定は
まさにアメリカのベトナムからの撤退のための儀式だった。

今回のアメリカ有識者の「イラクからの撤退」提言は、
1972年のパリ協定と同じ役割を持っている。
既にアメリカはイラクからの撤退という基本戦略を
採用したかに見える。ラムズフェルト国防長官が
更迭され、いわゆるネオコンと言われる人々の
ほとんどが政権中枢から去った。

1972年のパリ協定でアメリカはベトナムから
軍隊を撤退した。アメリカがでっち上げた
ベトナム共和国は3年後にもろくも崩壊した。
アメリカが作り、支援し、援助し、自らも
軍隊を出して戦い、不利になったら、さっさと
本国へ帰ってしまった。
アメリカは火をつけガソリンをかけて一層燃やした
上で、火勢が手に負えなくなったら本国へ
逃げ帰ってしまった。その後のベトナム人
がどれだか長い間苦しみ、苦労したかは想像に難くない。
アメリカ、アメリカ人の思い上がった態度は未だに
反省なきまま永続している。

31年前のベトナム戦争への本質的な反省を
していないアメリカやアメリカ人。
同じ過ちをイラクで繰り返している。
同様にベトナム戦争でアメリカの僕として
戦争に加担したわが日本。未だにベトナム戦争で
南に加担し敗北した反省をしていない自民党の面々。
自分で放火し、ガソリンを注いだイラク戦争。
我が小泉自民党・公明党政権もアメリカに
追随した。今、親分のアメリカは「内戦状態」に
陥ったイラク戦争から撤退しようとしている。
小泉元首相もブッシュ大統領も「残されたイラクの
人々のこれからの苦労や苦しみ」に心痛まない。
フセインを戦争犯罪人として軍事法廷裁く以前に
世界最大の戦争犯罪人であるブッシュ大統領、
こそ、戦争犯罪人として裁くべきである。

投稿者 koyama : 2006年12月06日 08:53

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