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2008年03月31日

フリースペースの皆さんはTHUY THANH(トゥイ・タン)村

曇り 昼大豪雨


午前7時朝食。

チャオバンカン(小麦の手打ちうどん)




午前10時。フリースペース(10人)は、フエ市郊外の
純農村地帯「トゥイタン村」へ。バオミンさん、リー君も
一緒。
ベトナムは「農業国」。ベトナムを本当に知るためには
ホーチミン市やハノイ市にいても分からない。
人口の80%は農民である。
5軒の農家に2人組で分宿。

フリースペースの皆さんが分宿した農家

農家の子どもたちと仲良くなる


農村地帯には水田の水を引くための水郷がある。
水郷を手漕ぎ舟で巡る。


トゥイタン村の「日本橋」を参観

日本橋(タントアン橋)

午後は、農村の幼稚園を訪問。
子どもたちと交流。


村を散策


今日は分宿した農家に1泊。明日の午後、農村から直行で
フエ空港へ。帰国。

投稿者 koyama : 20:36 | コメント (0)

2008年03月30日

「縫製研修センター」増強事業の推進

晴天

32度 55%。

午前中は真夏。汗がだらだら出て来る。推定36度程度。

午前7時半朝食。昨夕、地球の歩き方スタディーツアー
との交流夕食会で残った食事を子どもたちが
お土産にしてくれた。ご飯を炊き、「お土産」をおかずに
朝食。

午前9時前、ベトナム事務所へ。
ベトナム事務所には、佐藤さん、スタッフのベトナム人、
バオミンさんが既に到着。

その足で「縫製研修センター」へ。
既に50台のミシン寄贈を受けて、縫製研修は開始されているが、
今回、宇都宮縫製工業組合佐藤さんより、更に70台のミシンと裁断機、
ボイラーなどの追加寄贈があった。電気の配線、ミシンの設置場所など
大幅な改革を断行する計画。更に研修生も増やす予定。
今回は、佐藤さんが2ヶ月フエに滞在し、「縫製研修の効果」
更に上がるよう様々な技術指導もしてくれることになっている。


午後12時半まで「縫製研修センター」での仕事を行い、
近くの大衆食堂で昼食。私は朝食でおなかが一杯のため
水を飲む。

今日は、気温が一気に上昇。体温が急激に上がり、
内耳と外耳の気圧が変化。右耳が飛行機下降時状態となり
半日人と話が出来なかった。冷たい水を飲み体を冷やすと
治るのだが・・・・。大衆食堂には冷たい水はない。

午後1時半、「ハイリーホテル」へ戻り、昼寝。

午後3時 読書「与謝野源氏(下)」
匂宮、紅梅の巻。

光源氏の孫の匂宮と子どもの中将の薫の話に移る。
源氏の子ども夕霧は、かなりの重鎮となっている。

午後4時過ぎ、「子どもの家」へ。
今日から2日間、フリースペースの皆さんが「子どもの家」へ宿泊。
体調を崩している人もいるので様子を見に行く。

ダーカウ(羽のけまり)で交流を楽しむ。

ベトナム語を使って会話を楽しむ。

捌(さば)いたニワトリは、今夜の夕食に。


午後7時頃、火炎樹日記の構想を考え書き始める。
ドアをノックする音が聞こえる。開ける。リー君・ハイ君が
ドアの前に立っている。
「先生、腹が減った。飲みたい」とのこと。実に単刀直入な
要望。「どこで飲みたいの?」と聞く。「ハイリーホテル」前の
ヤギ肉屋とのこと。

仕方がないので二人と一緒に「ハイリーホテル」前の
ヤギ肉屋に行く。


豚肉の揚げ物(おつまみには美味しい。リー君はこの種の
美味しいおつまみを良く知っている)

私は50年ほど前を思い出した。小学校2年生位だったと思う。
父親が「おい道夫、銭湯に行こう」と言われ、夕方、父親の自転車の
後ろに乗る。父親は銭湯に行った後、板橋駅前の飲み屋に必ず連れて
行ってくれた。
というのか、正確には、自分が飲みたいということなのだろうが。
父親に飲み屋に何度も連れて行ってもらい、男というものは
飲まなければいられない人生の「何かがある」ということを
そこはかとなく知ったのである。
今夜、リー君・ハイ君に誘われヤギ肉屋で飲んだこの風景は
50年前にタイムスリップしていた。
リー君・ハイ君に誘われヤギ肉屋で飲んだ。50年前の
父親と私が蘇ってきた。

ヤギ鍋

午後8時過ぎ、一足先に私は「ハイリーホテル」へ帰る。
リー君・ハイ君は引き続き飲んでいた。

「ハイリーホテル」の部屋に戻り、必要なメールの
送信。

午後9時過ぎ、佐藤さんから電話。「縫製研修センター」の
増強の件でいくつかの意見。

投稿者 koyama : 17:29 | コメント (0)

2008年03月29日

ACCLの皆さん帰国:地球の歩き方スタディーツアー夕食交流会

晴天  夏。

32度  60%。

やっと例年の本格的な「夏」になってきた。ほっとする。

午前6時半、ベトナム事務所のハンさんから電話。
体調が悪いので今日は休むとの事。確かに声がでていない。
この2ヶ月間ほど、ベトナム事務所員はほとんど休みなく
仕事をしている。みんな疲労が蓄積している。
ゆっくり休むように話す。

バオミンさんと電話連絡。今日、地球の歩き方ツアー
を案内する予定だったハンさんが休む事を受けて
代替要員の件。急遽、税田さんにお願いすることにした。
地球の歩き方ツアーは税田さんとクアンさんでグエンフエ高校
交流、午後、「子どもの家」での交流、お別れの挨拶の予定。

フリースペースはソン君。「子どもの家」へ行き、近くの
タイロック市場へ買い物。、昼食作り。昼食の予定。


午前7時朝食。
今日は、日本料理店の子どもたちの英語の勉強日。
朝食作りの時間が少ないので「フランスパン(玉子焼き入り)」

今朝はリー君も朝食に参加。「ハイリーホテル」住人全員が
揃う。


昨夜、私の電動バイクがパンクし使用不能となった。
ソンさんのオートバイに乗せてもらい「ハイリーホテル」へ帰る。
今日はベトナム事務所までの交通手段がない。
ベトナム事務所付近にいるリー君に頼み、電動バイクを
「ハイリーホテル」まで乗って来てもらう。

午前9時半、電動バイクでベトナム事務所へ。
リー君はハンナ先生の自転車に乗ってベトナム事務所へ。

バオミンさんと当面の諸問題を話し合う。

午前11時過ぎ、ACCLの渡辺さんや医師の先生方、
日本語教師の皆さん、バオミンさんと「チャオバンカン」
(米の粉とキャッサバの粉の手打ちうどん)を食べに行く。


午後12時半過ぎ、「ハイリーホテル」へ。
昼寝。

読書「与謝野源氏(中)」をやっと読み上げる。
「御法(みのり)の巻」  源氏の妻「紫の上」の死去。
「まぼろしの巻」 紫の上の死去、1年間、妻の死を悲しむ
          生活をする。出家の準備を始める。
「雲隠れの巻」 この巻は、何も書かれていない。
          推測では源氏の死去を意味する
「与謝野源氏(下)を読み始める。
「匂宮(においみや)」の巻
          冒頭で「光宮がおかくれになったあとに・・・」
          とあり、源氏の死去が分かる。 
          「雲隠れの巻」の意味もこれで分かる。

午後5時、ベトナム事務所へ。
午後5時半、ACCLの皆さんが帰国。フエ空港へ。
ホテルまで行き見送りをする。バオミンさんが
空港まで送っていく。
10日間近く、実際にフエ中央病院小児科「小児白血病病棟」
ACCL支援の日本人医師が実際に入り、診療を行った。
ベトナム側の診療についての実態を知り、小児白血病患者の
存命率を一層高めるための方策を知ることが出来た。
ACCLは小児科長・病院長へいくつかの提案を行い、
改善を約束してもらっている。
こうして実際に現場を見て、ベトナム側の医師と協力しながら
現実を踏まえて改善施策を行うことこと、私たちがめざす
海外支援のあり方である。そうした意味では、ACCLの
小児白血病支援のプロジェクトは大きな意味のあるものである。

ACCLの皆さんを見送り、ベトナム事務所へ帰る途中、
リー君がみやげ物店の赤ちゃんを抱いて遊んでやっていた。
なかなか心優しい若者ではある。

午後6時、地球の歩き方ツアー(10人)の皆さんが
日本料理店に到着。ベトナム事務所スタッフとの交流夕食会。
ベトナム事務所側は私、税田さん、ハンナ先生、千草先生、
いぶき先生、ソンさん。遅れてバオミンさん。


税田さんの司会で交流夕食会は始まる。リー君もサポート。

ニー店長のメニュー説明

スタディーツアー団長の音頭で乾杯

日本人スタッフやバオミンさんも交えて交流

ソンさんは、フリースペースの皆さんと一緒に「子どもの家」で
ホームステー。



約3時間の交流。

最後に日本料理店スタッフの自己紹介

日本料理店前で全員で記念写真


地球の歩き方スタディーツアーの皆さんは明日観光をし、
午後1時頃の飛行機でホーチミン市へ行く。

午後9時過ぎ、日本料理店の片づけを行い、護送船団方式で
「ハイリーホテル」帰る。

投稿者 koyama : 18:08 | コメント (0)

2008年03月28日

フリースペース講演会と夕食会

晴天   真夏

午後2時の気温30度。湿度60%

急に気温が上がり真夏になる。

午前7時朝食。


フォーティウ(芋の粉メン)


今日からいぶき先生も朝食に参加。
「昨夜は眠れましたか?」の質問に「爆睡した」とのこと。
一安心。


リー君は午前7時前に外出したとのこと。

午前7時30分、ベトナム事務所へ。
徒歩、バオミンホテルへ。フリースペースの皆さん(10人)
の出迎え。ハンさんも来て、皆さんと一緒に「子どもの家」へ。


「子どもの家」へ到着。ハンさんが施設案内。

午前9時半、私の講演。テーマは「人生」。

午前10時50分から「子どもの家」の子どもたちとの
文化交流会。


セン運営委員長の歓迎の挨拶

子どもたちの歓迎の踊り


フリースペースの皆さんの歌。


フリースペースの出し物を鑑賞する男子


午前11時50分。「ハイリーホテル」へ戻る。
昼食。既に皆さんはほぼ昼食を終わっていたい。
リー君は、バオミンさんと一緒に地球の歩き方スタディーツアー
の皆さんを案内して「ナムドン山岳地帯」へ。

昼食は「茹でた野菜」「インゲン炒め」


午後12時半、昼寝。

午後2時、読書「与謝野源氏(中)」
夕霧1 夕霧2

夕霧は源氏の子ども。左大臣。葵の上との間に出来たこども。
源氏の友人左大臣の息子頭の中将の娘「雲居雁」と結婚。
源氏の妻「葵の上」は頭中将と兄弟。
夕霧は友人の柏木が死に、その奥さんの「落ち葉宮」に
恋をしてしまう。

午後4時半、ベトナム事務所へ。

午後5時過ぎナムドン山岳地帯へ行っていた地球の歩き方ツアー
の皆さんがベトナム事務所3階の刺繍土産門店へ買い物


午後6時半、フリースペース(10人)の皆さんと夕食会
小山・ソン参加。体調を壊した人も回復。全員揃っての
夕食懇談会となった。

同時刻、バオミンさん・税田さんは、ACCLの渡辺さんたちと
フエ中央病院小児科との懇談夕食会に参加。

フリースペース夕食懇親会乾杯


ホンニー店長のメニュー紹介

夕食懇親会の最後。日本料理店スタッフ自己紹介。


午後8時半過ぎ、夕食懇親会終了。
その後、子どもたちと日本料理店の片付け。

午後9時頃、子どもたちと「ハイリーホテル」へ帰ろうとしたが、
私の電動バイクがパンク。
バオミンホテルまで持って行き、ソン君のオートバイで
「ハイリーホテル」へ帰る。
「ハイリーホテル」では既に帰っていたリー君が「飲み会」
の準備。ハイ君、千草先生・ハンナ先生も入り、反省会。
その後、税田さんも戻り、反省懇親会。いぶき先生は
疲れて部屋へ戻る。

投稿者 koyama : 16:59 | コメント (0)

2008年03月27日

新任日本語教師いぶき先生フエ着:フリースペースフエ到着

終日曇り

午前6時半 気温22度 湿度92%
午後12時 気温26度

昨日午後から寝ていた。
今朝は大分楽になった。

午前7時朝食。

今朝はリー君、不明。
食事はチャオバンカン(小麦粉の手打ちうどん)

幸い、今日は1日仕事が入っていない。
体調が完全ではないが、部屋の掃除、洗濯、部屋の荷物の
片付け。
たくさんの受信メールを読み、必要なメールへの返信。
月刊教育雑誌「子どもと教育」5月号の校正。
いくつかの部分を訂正し出版社へ送る。
これで6ヶ月の原稿執筆を終了。


午前11時半、昼食。

魚の丸ごとスープ


今日の昼食は少人数となった。皆さん、それぞれ他の仕事あり。


昼食後、やはり体がだるい。横になる。
昼寝。

午後2時半読書「与謝野源氏(中)」
(柏木の巻) 
源氏の庇護の下、妻になった天皇の娘『女三の宮」
と柏木(衛門督)との不義で子どもが生まれる。
源氏は、その事実を知るが、黙って我が子として
育てる。柏木は、お世話になっている源氏を欺いた
ことに心を痛め、ついには、悶死。

(横笛の巻)読了

夕方、バオミンさんから電話。
「フリースペース」スタディーツアーのフエ到着時刻が
変更になったとのこと。午後4時20分フエ空港到着の
予定でバオミンさんはフエ空港へ出迎えに行っていたが、
午後6時20分着とのこと。

午後7時、飛行機30分遅れで新任日本語教師
「いぶき先生」着任。税田さん・ソンさんがフエ空港へ出迎えに。
空港から「ハイリーホテル」へ直行。ホテルで
荷物の整理をして午後8時過ぎ、日本料理店で夕食。
私、千草先生・ハンナ先生・税田さん・ソンさん・ミンさん
の6人で歓迎夕食会。

いぶき先生のフエに着いて初めての食事は日本料理店


午後9時過ぎ、夕食会を終了。「ハイリーホテル」。


投稿者 koyama : 18:13 | コメント (0)

2008年03月26日

フエ「解放」33周年:フエ中央中央病院院長懇談:地球の歩き方講演会

終日雨・曇り

気温22度。寒い

朝、体がだるい。悪寒。

今日は1975年3月26日、北ベトナム軍がフエに入り
フエ「解放」33周年記念日。あれから33年たったのだ。

午前7時朝食。
フォーティウ(芋の粉の麺)


久しぶりにリー君が朝食に参加

朝食後直ぐに「ハイリーホテル」を出てベトナム事務所。
午前7時30分過ぎ、ベトナム事務所でバオミンさんと
合流。フエ中央病院へ。

フエ中央病院院長と渡辺和代さんたちACCLの
皆さんとの懇談に同席。バオミンさんは通訳。

渡辺さんACCLや国立ガンセンター辻医師・荒木医師の皆さんは
長い人で1週間、フエ中央病院小児科病棟で小児白血病の治療
を行った。
今回帰国にあたり、1週間の体験で得たいくつかの助言を
フエ中央病院院長に行った。
①血液担当とガン担当の分離ーー小児白血病だけの病室を作って
                      欲しい。
 ●院長は同意

②病室を「暖かく・きれいにして欲しい

 ●院長同意

③テレビ電話で日本の国立ガンセンターと交流・会話を
 したい。 毎週木曜日。
 ●院長同意

④小児白血病病棟にエヤコンをつけて欲しい
 ●院長回答 特別の部屋しか付けられない。財政問題。
         小児白血病棟の特別の患者用にエヤコン
         設置を考える。

⑤ベトナム中部小児白血病患者父母の会
  ●院長回答  組織としては認めない。クラブ的なものなら
            求める。基本的には、国家が組織として認める
            ことがあれば認めるが・・・・。

⑥小児白血病の治療
  緊急に必要な薬が病院にない。病院の外では売っている。
  何とかして欲しい。
  ●院長回答  病院のお金がない。高価な薬は病院長が
            使用の許諾を管理する。
            特別必要な薬の使用については考える。

午前8時から午前9時過ぎまで懇談。

その後、急いでバオミンさんのオートバイで「子どもの家」へ。

「子どもの家」では「子どもの家」スタッフのキムアインさんが
ターオさん(小2)の国語の勉強を教えていた。

午前9時半から1時間、講演。体調を崩し、声が出ない。
何とかマイクを使い1時間話す。


午前10時半から「子どもの家」の子どもたちの歓迎・交流会。

セン運営委員長の歓迎の挨拶。通訳はクアンさん。

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子どもたちの歓迎の踊り


地球の歩き方スタディーツアー参加者の歌

午前11時過ぎ、「子どもの家」を後に昼食レストランへ。
フォーザオ(フォ炒め)


午後12時過ぎ、「ハイリーホテル」へ帰る。
体調不良。そのまま「ハイリーホテル」で寝る。
夕方も倦怠感あり。
日本料理店に夕食を食べに行ったハイ君に
夕食を「TAKE OUT]で持ってきてもらう。
「ハイリーホテル」で夕食。

悲しいかな体力がなくなった。物があまり食べられなくなった。
人間の自然の「現象」ではあるが。

投稿者 koyama : 20:38 | コメント (0)

2008年03月25日

ベトナム中部小児白血病父母の会総会

晴天             休肝日

気温26度。

午前6時過ぎ、太陽が地平線から上ってきた。

午前7時朝食。

インスタントラーメン。(1つ10円程度)

りー君は午前6時半に「ハイリーホテル」を外出。所在不明。

午前8時半、ベトナム事務所。
明日はベトナム戦争終結時、フエ市が「解放」されて33周年の
記念日。
フエ「解放」33周年記念を祝って、女子大生のマラソン大会
が行われた。ベトナム事務所前を通過。既に相当へばっている
学生がいる。救急車に救助されている学生も。
普段あまり走っていない学生を『動員』しての記念マラソン大会
だったのだろう。


午前8時半過ぎからバオミンさん・税田さんと当面の日程等の
打ち合わせ。2時間

「ハイリーホテル」へ戻り昼食。

モツ煮物、茹でた空芯菜、パイナップルと豚肉すり身のスープ

昼食にもリー君は来なかった。



午後12時半、昼寝。少し寒気がする。

午後1時30分「ハイリーホテル」を出て、ベトナム事務所。
ベトナム事務所でバオミンさんと合流し、フエ中央病院へ。

午後2時過ぎ、『ベトナム中部小児白血病父母の会総会』が
行われた。渡辺さんが代表を勤める「ACCL」支援。
会場はフエ中央病院小児科会議室。



小児白血病父母の会会長の挨拶

父母の会はフエだけではなく、フエの北クアンチ、南のダナン、
ホーチミン市に近いダックラック省など17の省にわたっている。
今日数十人の参加。
ACCLが患者の子どもたちの治療のためにフエ中央病院に
来る交通費の支援、薬の支援などを行っている。
ベトナム中部で小児白血病の治療が出来るのはフエ中央病院
の小児科(アメリカのNGOの支援建設)だけ。
小児白血病は発病から6ヶ月ほどはかなり集中した治療を
行い、その後、20ヶ月ほどは、定期的に薬を使いながら
治療を進める。完治する病気である。ベトナム中部では
有効な薬が高いこと、少ない事、患者が治療を継続しないこと
など様々なもんだいがある。
渡辺さんたちACCLは、フエ中央病院小児科医師と協力し
死亡率の減少をめざすプロジェクトを行っている。

国立がんセンターの辻医師・荒木医師が、小児白血病の
子どもたちや親に「病気の説明」「生活の注意」などを
プロジェクターを使って説明した。

渡辺さんも生活の注意、白血病は治る病気である事、
日本の多くの子どもたちが、時間をかけて治療を行い、
普通の社会生活を送っていることを説明し、子どもたちや
親を励ました。


日本の小児白血病の患者の子どもたちから千羽鶴が送られた。

午後4時、総会は終了。

全員写真を撮る。

午後4時半、ベトナム事務所へ。
寒気と倦怠感が強まる。風邪か? ベトナム事務所で
1時間ほど横になる。

午後5時半、日本料理店夕食。リー君もやって来た。

夕食は野菜サラダ、魚の煮物、

午後6時半、日本料理店開店。
早速、インドネシア人2人が来店。続いて欧米系2人。
午後7時半過ぎ、更に欧米系2人。
午後8時過ぎ、2人の欧米系。

今日の来客は8人。
午後9時閉店。

護送船団帰途、雨。

ベトナム事務所のハンさん、日本語教師のゴックさんも
私と同じ症状だとのこと。

「ハイリーホテル」に戻り、直ぐ横になる。かなりだるい。
口内炎が4つ。

投稿者 koyama : 20:54 | コメント (0)

2008年03月24日

フエ高等師範大学長懇談:フエ中央病院小児科懇談

曇り                休肝日  
 
気温22度。湿度55%。
かなり寒く感じる。扁桃腺付近が少し痛い。風邪の前兆か?

午前7時朝食。

チャオバンカン(小麦粉の手打ちうどん)

リー君は今朝も早朝外出。



ハイ君が体調崩す。薬を上げる。ハイ君は部屋で頭痛がすると
言って寝ていた。水と薬を持っていく。薬の飲み方を教える。


午前8時半、ベトナム事務所へ。
午前9時、フエ高等師範大学学長と懇談。


午前10時、フエ中央病院小児科で元医長のフオン先生、
ACCL代表の渡辺さん、辻医師と懇談。今後の小児白血病
の存命期間を更に長くする取り組み、患者の死亡率50%を
大幅に削減する取り組みなどなどを話し合う。
3月28日、小児白血病父母の会を開催するなどを話し合う。


午後12時前に「ハイリーホテル」へ戻る。
昼食。既に皆さんは食事を済ませていた。
アヒルの玉子焼き、野菜スープ、空芯菜のニンニク・唐辛子炒め

午後1時、昼寝。
読書「与謝野源氏(中)「若菜(下)」を読み終える。
衛門督(えもんのかみ)の『不倫』と悩み。
源氏の対応。
「柏木」を読み始める。

渡辺さんなど何人かから電話。

午後4時ベトナム事務所。
ピースインツアーへ電話。スタディーツアーの打ち合わせ。

午後5時半夕食。



「豚肉・海老塩辛」脂を落とした豚肉を海老の塩辛につけて食べる
「油揚げの甘辛煮」
「牛すじ煮込み」
「野菜スープ」


午後6時半、日本料理店開店。

フランス人4人。
オーストラリア人5人は、ガイドブック「ロンリープラネット」
を見て来たとのこと。私と話したいといわれ、色々と質問された。
一緒に写真を撮って欲しいと言われ、写真を撮る。


厨房は注文で大忙し。

テンプラ定食。

注文の「寿司」を握る。軍艦巻きも。

今日は9人の来客。

午後9時過ぎ、護送船団方式で「ハイリーホテル」へ帰宅。

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3月20日(木)夜、日本料理店付近で倒れたイギリス人。
フエ中央病院で亡くなられた。心臓の持病があったとのこと。
心からご冥福をお祈りする。

投稿者 koyama : 10:15 | コメント (0)

2008年03月23日

休日

深夜から明け方にかけて「雷雨」。ひどい稲光が近くでする。
近くで落雷。
このまま推移すると私たちの「ハイリーホテル」にも
雷が落ちるのではとの危惧。

隣の空き部屋には水が入り込み、水浸し。

午前9時半、バオミンさんが「ハイリーホテル」へやって来る。
27日に日本語学校教師として赴任するいぶき先生用の
冷蔵庫を購入してきてくれた。

しばらく雑談。「ハイリーホテル」1階には、税田さん、バオミンさん
リー君、ハイ君。

午前10時。リー君・ハイ君と雨の中、「ブランチ」を近くの大衆食堂に
食べに行く。


既に2組、5人ほどの若者が来店。ビールや焼酎を飲んでいたい。
隣の席に座っている若者は、フエ大学の学生とのこと。
ハイ君に「この人は韓国人か?」と聞いている。
「この人はベトナムが話せるのか?」との質問に、ハイ君は
「少し」と答えていた。


トリ鍋でビールを10本飲む。



海鮮鍋にブン(米の麺)を入れて食事。牛肉、魚、海老、野菜。


海鮮鍋の汁と具にブン(米の麺)を入れた「つけめん」。
出汁(だし)がしっかり出ていて本当に美味しい。


リー君は新しく買った携帯電話をなんどもかけていた。
「子どもの家」の子どもたちも携帯電話を持つ時代になって
きたのである。「経済発展」の中の貧困。格差社会。
「物の豊かさ」「物を持つことへの憧れ」=幸せ
という価値観が蔓延しつつある社会でもある。


大衆食堂のオーナーを呼んで一緒に飲む。


久しぶりにリー君・ハイ君と飲みながら「ブランチ」。
ハイ君の生い立ちを聞いてみた。
父親はシクロの運転手。15年前に亡くなったとのこと。
ハイ君7歳。9年前に路上の物売りをしていた母親も
亡くなる。既に両親はいない。弟は「子どもの家」で
靴の修理の研修中。二人の妹はホーチミン市で
尼さんになっているという。
ハイ君は「子どもの家」や私たちに頼る以外にない。
ハイ君の生い立ちを考えると可哀想ではある。
しかし、自分の力で生きていかなければならない。
「ハイリーホテル」の警備員としての仕事をしっかりと
行い、給料をもらうということは、必要なこと。


午前11時半、「ハイリーホテル」に帰り、昼寝。

「ハイリーホテル」のパソコンの調子が悪い。
日記やインターネットが出来ない。


「与謝野源氏(中)」を読む。

ベトナムの「子どもの家」作品展実行委員会主催の
「子どもの家」の絵画等の作品展が開かれる。
kiku-mk@mtc.biglobe.ne.jp(菊)

2008年4月20日(日)~26日(土)
札幌市中央区民センター
後援は札幌市  札幌市教育委員会  独立行政法人 国際協力機構(JICA)
財団法人 札幌国際プラザ  北海道新聞社  HBC北海道放送
TVhテレビ北海道   STV札幌テレビ放送 HTB北海道テレビ放送

札幌周辺にお知り合いの方がいらっしゃいましたら
情報を伝えて頂ければ幸いである。

(以下をクリックすると作品展のポスターが出ます)

Download file


投稿者 koyama : 19:28 | コメント (0)

2008年03月22日

ACCL懇談:地球の歩き方スタディーツアー晩餐会

晴天

午前6時過ぎ、地平線から太陽が顔を出す。

午前7時、朝食。フランスパン(玉子焼き入り)

リー君は午前6時に「ハイリーホテル」を出てどこかへ消えた。

午前8時、ベトナム事務所へ。
ACCLの渡辺さんと懇談。今後の小児白血病支援の
進め方について。3月24日(月)A10中央病院小児科で
話し合い。 25日(火)午後2時、「ベトナム中部小児白血病
父母の会」開催。

渡辺さんはJASS里親会費の担当者でもある。
この10数年間、里親への連絡、会費の徴収を行ってくれてきた。
今回は2008年度里親会費の残金を持って来てくれた。

午前10時。バオミンさん・税田さんと当面の諸問題について
協議。「縫製研修センター」ミシン搬入結果。今後の
「縫製研修センター」の運営の進め方などを協議。

今日は地球の歩き方スタディーツアーはグエンフエ高校交流。
「子どもの家」での交流。
大学生協スタディーツアーは農村ホームステーから帰り、飛行場へ。

大学生協で体調を崩す人が出る。フエ中央病院で診察。
今回の大学生協スタディーツアーでは3人目のフエ中央病院
診療となる。

今日はスタディーツアーなど様々な取り組みがあり大忙し。

午前11時半、「ハイリーホテル」で昼食。

久しぶりでリー君が昼食参加。また、仕事に対して
前向きな姿勢になって来た現われか?

昼食は、インゲン炒め、茹で野菜、野菜・豆腐のスープ

午後1時昼寝。

午後2時から読書。
「与謝野源氏(中)」。

午後5時ベトナム事務所へ。

午後6時から地球の歩き方スタディーツアーとの晩餐会。
地球の歩き方16人、私、税田さん、ハンナ先生、千草先生。
(バオミンさんは体調を崩す。38度もの発熱)

参加者団長の乾杯の音頭。

晩餐会参加者全員で乾杯。

店長・副店長から「本日のメニュー」の紹介。

午後8時半まで会食・交流が進む。地球の歩き方スタディーツアー
参加者とJASSベトナム事務所員との交流が続く。

最後に日本料理店スタッフの紹介。

最後に参加者と日本料理店スタッフとで記念写真


その後、日本料理店スタッフと後片付けをし、午後9時過ぎ
日本料理店を後にする。

午後9時半ごろ、「ハイリーホテル」へ到着。
リー君から「先生、今晩一杯飲みましょう」との呼びかけあり。
久しぶりに皆で飲む。



投稿者 koyama : 10:09 | コメント (0)

2008年03月21日

地球の歩き方ツアーナムドンへ:縫製研修センター用のミシン到着

晴天

午前5時半目が覚める。30分ほど起きられずにいる。
今朝も電気湯沸かし器の調子が悪い。

朝からひどい頭痛。倦怠感。まだ、本調子ではない。
バオミンさん、税田さんも日本語教師のみなさんをはじめ
ベトナム事務所員はかなり疲労が溜まっている。

午前7時朝食。
キャッサバ芋のチャオバンカン


今朝もリー君は午前6時に「ハイリーホテル」を出て
どこかへ消える。


午前9時過ぎ、ベトナム事務所へ。
昨日、ダナン税関から連絡あり。宇都宮縫製工業組合から寄贈された
78台のミシン類がダナンに届き、フエの縫製研修センターへ運搬する、
40フィートのコンテナに入れてくるとのこと。
40フィートのコンテナは最大のコンテナ。
縫製研修センターは、ユネスコの世界文化遺産内にある。
王宮に入らなければならない。王宮に入るのには
途中にあるいくつかの小さな古い橋をわたる。40フィートの
コンテナを積んだトレーラーは、王宮にかかっている橋を
わたれない。当然、警察の許可がいる。
突然のミシン運搬の連絡。
今日、地球の歩き方ツアーでナムドンへいく予定だった
ミンさんはミシンの受け取りに行き、代わりに私が
ナムドンに行くことにした。

ベトナム事務所出発は9時30分。
ベトナム事務所1階の日本料理店でリー君が何やら
手紙を書いているとのこと。しばらく2階の会議室で待つ。
噂では、日本料理店退職願を書いて、私に渡したいと
言っているとのこと。ベトナム事務所出発の9時半を過ぎる。
地球の歩き方ツアーが待っているホテルには、千草先生
に行ってもらい、午前10時に地球の歩き方ツアーの皆さんが
ベトナム事務所にきてもらうようにした。時間がない。

リー君は手書きで長文の文章を書いて2階会議室に持ってきた。
バオミンさんを呼んで翻訳してもらう。
要旨は以下のよう。
「僕は小山さんたちJASSのお陰で大きくなった。その間、
色々と迷惑をかけた。小山さんをはじめJASSに感謝している。
今回、僕は、日本料理店のスタッフに暴力を振るってしまった。
もう、JASS日本料理店の店員、JASSの関係者でいることは、
JASSに迷惑をかけることになる。僕は既にJASSにいられない
人間だ。今日を限りに日本料理店を退職する。お世話様に
なりました。」

私から「今までリー君は確かに色々と問題を起こした。
しかし、この数年、人間もしっかりしてきた。仕事も以前より
しっかりとやるようになった。今回は日本料理店の女子スタッフ
に暴力を振るった。このことは、絶対に許せないことだ。
だから、暴力を振るったという事に対して処分をした。
月給10%カット1ヶ月、出勤促進処分、但し、ナムドン行きを
2回停止という内容だ。これは、暴力をふるったことに対しての
処罰である。リー君の日本料理店での仕事全体への評価ではない。
最近は接客もしっかりとやってくれている。色々問題はあるが、
私もバオミンさんもリー君が立派な大人になる事を願っている。
日本料理店を辞めるなどといわずに、暴力に対する処分は
しっかりと受けて、日本料理店での仕事は今後もやってもらいた」
と話す。
リー君は泣き出す。ぼろぼろボロボロと涙を流す。
私は「リー君の暴力は絶対に許せない。そのために処分をした。
同時にリー君の成長に期待している。日本料理店の副店長と
して今後も頑張ってもらいたいと思っている」と話す。
リー君は泣きながら、「これからも日本料理店で働かせて
ください」という。なかなか心の優しい子である。
生まれてからの成長過程でしっかりとした親の躾けと愛情が
あれば、もっと人生を上手く生きていたかもしれない。
様々な問題もリー君だけの責任ではないと思うが、
既に20歳。全ての言動はリー君の個人責任となるという
こともしっかりと理解させなければならない。
リー君だけならば、まだ対処はしやすいのだが、
父親と母親が突然現れ、父親はリー君の月給日頃やってきて
何がしかのお金を無心する。母親は、リー君を老後の
「安全保障」のために引き取り、働かせようとの魂胆を
もっている。数日前に母親はフエにやって来て、
リー君に会い、多額のお金を上げている。リー君は
そのお金で携帯電話を買い、皆に見せびらかしていた。
こうして、10数年も「音沙汰のなかった」両親が
突然現れ、リー君を「利用」しようとしている。
それぞれ再婚しているとは言え、リー君にとっては
両親である。両親が出没する度にリー君は動揺し、
心が乱れ、生活が混乱する。リー君問題の半分以上は
無責任・自分勝手な両親の責任である。
JASSとしては、リー君の立場に立ち、同時に甘やかせず、
愛情と厳しさをもって付き合っていく必要がある。
リー君がどんなことをしても、何があってもけして
「切り捨てない」という強い気持ちをJASSは持たなければ
ならない。口先だけの支援などは意味がない。こちらも
体を張って、真剣にリー君と付き合って行くことが求められ
ているように思う。たった一人の人間との付き合いでは
あるが、それでもリー君にとってはたった一度の人生である。
幸せに生きて行って欲しいと思うのは私だけではないと
思う。

私は、地球の歩き方スタディーツアーと一緒に行くナムドン山岳地帯
に行く時間が来たので、バオミンさんに『「縫製研修センター」ミシンの
受け取り業務にリー君も連れて言って欲しい』と話す。

午前10時、ベトナム事務所前を出発して地球の歩き方スタディーツアー
はナムドン山岳地帯へ。クアンさんと千草先生と。


午後1時過ぎ、ナムドン山岳地帯のカトゥー族の村「フオン・ロー村」
へ到着。


支援物資を持って交流会場へ。



スタディーツアー参加者から支援物資を贈呈。


地球の歩き方スタディーツアーの出し物
「ふるさと」重唱


カトゥー族の皆さんと交流




交流会の途中、2回宇都宮縫製工業組合理事長より電話。


最後にカトゥー族の皆さんの手料理で交流


午後3時半交流会を終了。全員で記念撮影

午後5時過ぎ、ベトナム事務所へ到着。
ベトナム事務所3階の刺繍みやげ物店で刺繍の買い物。

ベトナム事務所で横になる。

午後6時、ベトナム事務所を出て「ハイリーホテル」へ帰る。
午後6時45分、バオミンさんから電話。
宇都宮縫製工業組合からのミシンの受け取りほぼ完了との
こと。これからリー君と一緒に「縫製研修センター」に
入ったミシンなどの数量を確認するとのこと。

今日は朝から夜まで色々と問題があった。
本当に疲れた。

投稿者 koyama : 19:13 | コメント (0)

2008年03月20日

ACCLフエ中央病院小児科交流:大学生協晩餐会

晴天

気温30度。湿度55%(午前11時)

今日は朝から太陽が出て、気温も30度。
それでも寒気を感じた。やはり体調が少し不良。

午前5時起床。
昨夜、洗濯機に入れておいた洗濯物が
完全に乾燥されていなかった。かなり水っぽい。
部屋に生乾きの洗濯物を干す。

午前7時朝食。
キャッサバ芋を粉にしたチャオバンカン。

リー君は午前6時半に「ハイリーホテル」を出て
市内の喫茶店へ行ったとのこと。


午前7時45分、「ハイリーホテル」を出てベトナム事務所へ。
午前8時、ACCLの渡辺さん、国立がんセンターの辻先生
と合流。
フエ中央病院小児科へ。渡辺さん、辻先生は今日から
10日間、フエ中央病院小児科の小児白血病病棟に
常駐し、小児白血病の治療、成績向上のための技量を
ベトナム人医師と一緒に指導・研究する。
2007年度のフエ中央病院小児科の小児白血病の死亡率は
50%。日本は20%弱とのこと。
極端に死亡率の高いフエ中央病院での小児白血病の治療を
ベトナム人医師と共同で行い、その中で死亡率の高い原因を
見つけ、改善することが今回のフエ訪問の目的。
ACCL(アジア・チャイルド・ケア・リーグ)は、フエ・ベトナム中部の
小児白血病の死亡率を引くするプロジェクトを実施している。

今日はフエ中央病院小児科にベトナム中部各省の病院から
派遣されている小児科医師で修士・博士号を取るためのフエに
来て勉強している先生方と中央病院小児科医師との合同打ち合わせ会。
全員で110人。中央病院小児科は30人。


渡辺さん、辻先生、私、バオミンが全体会で紹介される。


ACCL代表の渡辺さんが挨拶。


新旧医長の挨拶

その後、小児科医長室で『小児白血病』担当医師、
新旧小児科医長と10日間の小児科滞在中の様々な
打ち合わせを行う。


午前11時半、「ハイリーホテル」で昼食。


昼食は「貝の煮付け」「油揚げのサラダ」「パイナップルスープ」。


久々にリー君が昼食を摂る。昨日の暴力事件での処分を
受けて、少し生活態度を自粛しているのか?
今日は、真面目な態度に見えなくもないと言えるのかどうか
と言って良いのかどうかは分からないという人の意見を
あながち否定はできないとは思うのだが・・・・・・。


午後12時過ぎから昼寝。
まだ体調は完全にまでは復活していないが、仕事は出来る。
食事をしっかりとして、横になって休める時は休むという
2原則を実行中。

午後2時半頃、ナムドン山岳地帯で少数民族と交流している
税田さんから電話。大学生協ツアーの添乗員さんが体調を
崩し、39度ほどの熱があるとのこと。
税田さんと電話で話し合って、夕方フエに戻ったら
その足でフエ中央病院へ行き診察してもらうということに
した。バオミンさんにも連絡。バオミンさんも38度超の熱が
あり体調を崩している。ベトナム事務所で仕事をしていた。
バオミンさんに帰宅するよう促す。要人との訪日、春の
スタディーツアーの受け入れなど忙しく過ごしている。
若いとは言え、やはり無理に無理を重ねているのだ。
仕事以外にも不必要な用件で相当エネルギーを
「浪費」している。早く、体調を回復して欲しい。
今日は、仕事をストップして帰宅した。
家で薬を飲んでいるとのこと。

ナムドンに税田さんと一緒に行っているソン君が、
体調不良の添乗員さんを病院に連れて行くことにした。

地球の歩き方ツアーには、ハンさんとクアンさん。
日本語学校はハンナ先生・千草先生・ゴック先生と
ベトナム事務所は、総力を上げてスタディーツアー・日本語学校
などへの対応を行っている。

午後5時過ぎ、大学生協スタディーツアーがホテルへ戻る。
ソン君が添乗員さんを連れて病院へ。スタディーツアー参加者の
対応は税田さんが行う。

午後5時半。バオミンさんから電話。
添乗員さんをフエ中央病院へ連れて行ったソンさんから
バオミンさんに電話あり。
JICAが作った新しいフエ中央病院へ添乗員さんを連れて行った。
熱があり、短時間ベッドで休息したそうだ。
医師は「休息料」として100ドルを要求。ソンさんは、対処に困り
バオミンさんに電話をしてきたという訳である。
JICA支援の実態である。冷房完備の立派な病院の箱物は
作ったが、運営は、ベトナム側がするという「支援方式」。
結局、ベトナム側はお金がないので、患者から法外なお金を
取る事で病院運営をせざるを得ない。リー君のナイフ刺傷事件の
際もリー君は医師から「お前いくら持っている」と聞かれ、
800円というと、7針縫っただけで追い返されてしまった。
翌日、私たちが協力しているフエ市立病院へ行き、消毒と
化膿止などの薬をもらい、3日間の通院治療をした。
仕方がないので、フエ中央病院の幹部に電話。
事情を話し、常識的な料金にさせる。
ベッドで若干の時間休息しただけで1万円ものベッド料を
取るのは法外である。治療費・薬代は別なのである。

雑誌「子どもと教育」5月号の原稿と11枚の写真を出版社に
送る。6ヶ月間の契約。今回が6回目の原稿。最終号となった。
1回4000字の原稿。たいしたことはないと思い受けたのだが、
1ヶ月が直ぐにやって来て、結構、精神的なストレスになった。


午後6時。全国大学生協スタディーツアーの皆さんと
ベトナム事務所員との交流晩餐会。
スタディーツアーからは11人の参加者。ベトナム事務所は
小山・税田・ハンナ。

ホンニー店長がメニューを紹介


午後8時半過ぎ、日本料理店スタッフの紹介。

午後9時前、大学生協スタディーツアーの夕食会終了。
税田さんが皆さんを案内して徒歩でホテルへ。
私がベトナム事務所で帰宅の準備。

税田さんから電話。日本料理店をちょっと出た所で
外国人が血を流して倒れているとのこと。
急いで現場へ行く。70歳代のイギリス人男性が
大量の血を流して倒れていた。数十人のベトナム人が回りを
取り囲んでいる。

ドイツ人の青年が倒れた英国人の面倒を見ていた。
私は現場に着き、ベトナム語で「事情を知っている人」と
大声で聞いてみた。一人のベトナム人が来て、
自分はホイアンから来た観光ガイドだ。
倒れたイギリス人はフォンザンホテルに泊まっている。
奥さんもホテルにいるという。
そのうち、ベトナム人の誰かが救急車を呼んだらしく、
救急車が来る。急いでストレッチャーに乗せ、
フエ中央病院へ運ぶ。
私とドイツ人青年、ホイアンガイドの3人でフォンザンホテル
フロントへ行き、奥さんを呼び出す。
奥さんと友人が3人が出てくる。ベトナム人ガイドも一緒に。
奥さんに夫の症状とフエ中央病院に行ったことを話す。
ベトナム人ガイドに「急いでフエ中央病院へ行くように」話す。
奥さんに旦那の様子を手短に説明する。意識はあること、
倒れてお尻を打って大量の出血をしていること。
時々、意識が薄れていることなどを話す。
タクシーを呼ぶ。奥さんと仲間、ガイドがタクシーでフエ中央病院
へ行く。
残ったドイツ青年と簡単な会話。ドイツ青年は偶然英国人が
倒れた場所を通りかかったとのこと。黙って通り過ぎることも
出来ず、英国人に声をかけていたとのこと。
ドイツ青年のシャツは血で真っ赤。腕も血だらけ。
韓国人か?と聞かれたので、日本人だ。ストリートチルドレン
や障害児支援のNGOをしている。近くで日本料理店も
やっていると話す。
ドイツ青年は、仲間がいるので帰るといい、協力してくれて
ありがとうと英語で挨拶をして帰って行った。

ドイツ青年、ホイアンのベトナム人ガイド、救急車を呼んだ
ベトナム人、だれもお金とか名誉とかに関係なく、
一人の人間の生命に関わる重大事を目の前にして
黙っていられず、何らかの行動をとったのである。
英国人の出血昏倒事件を通して、人間の本質に
他人が困っている状況を見たら黙っていられないという
DNAがあることがはっきりと分かった。
国籍は色々だが、人間の命の瀬戸際にあるとき、
人間は自分のできることをしたいと思うのである。
私に電話をしてくれた税田さんも黙っていられない
人間である。
多くの人間の善意でこの英国人の命が救われることを
願っている。

午後9時過ぎ、ホンニー、トウオイ、ハンナ、千草の
皆さんと「ハイリーホテル」へ。税田さんは日本料理店で
最後の仕事。リー君は税田さんを守って「ハイリーホテル」へ
帰ると言って日本料理店に残る。

午後10時。バオミンさん・ソンさん、が添乗員さんを連れてホテルへ
戻る。税田さんから状況報告。リー君は税田さんの護衛で
税田さんについて「ハイリーホテル」まで帰るという。

投稿者 koyama : 13:06 | コメント (0)

2008年03月19日

地球の歩き方スタディーツアー来訪:ACCL出迎え

晴天 夕方雨

午前6時起床。
再び、電気温水器故障。

午前7時朝食。
インスタントラーメン。

午前7時45分、ベトナム事務所着。
午前8時過ぎ、地球の歩き方スタディーツアーの皆さん
ベトナム事務所訪問。


ベトナム事務所員の紹介。


地球の歩き方の皆さんと一緒に「子どもの家」へ。
バオミンさんの施設案内。

9時30分から10時半まで地球の歩き方スタディーツアーの
皆さんに「子どもの家」・ボランティアなどについて話す。


午前10時半から日越文化交流。


子どもたちの歓迎の歌と踊り


地球の歩き方スタディーツアーの出し物


午前11時過ぎ、レストランで昼食

フォーサオ(フォー炒め)。私はチャーハン。半分ほど食べる。

昨日のリー君の暴行事件。被害者のTさんの家へ電話。
今日の午後、私とバオミンさんで家まで行き話をしたいと
伝える。Tさんは「私がベトナム事務所へ行く」との話。
午後2時にTさんが日本料理店へ来るとの話。

午後1時45分、ベトナム事務所へ。
Tさんがベトナム事務所へ来るのをしばらく待つ。
午後2時半過ぎ、腹を蹴られ、殴られたTさんがベトナム事務所
へやってくる。
暴力を振るったリー君も呼び、バオミンさんと私、リー君、Tさん
で話し合う。

はじめにリー君の腹蹴りと殴りの事実を二人に確認。
被害者・加害者ともに暴力の事実自体は認めた。

私がリー君に「何故Tさんに暴力を振るったのか」を聞く。
リー君の答え。「いつも日本料理店の女子たちが、俺を
馬鹿にしているので、仕返しにしてやった」とのこと。
どんな理由があるにしても、暴力で相手を従わせる
というやり方は卑怯だ。また、リー君と闘っても負けてしまう
年下のTさんに不満を持って、暴力を振るうということは
絶対に許されない、と話す。

第1に「暴力を振るったこと」について、リー君はTさんに
謝りなさいという。
リー君は、「俺は親が言ったって、絶対に謝らない」と断言。
君の態度は男として卑怯だ。日本料理店会議を何度もしている。
日本料理店のHさんは、年下の女子が年上の自分に対して
失礼な態度を取ると言って、日本料理店会議で本人の
前で批判している。リー君が、女子たちが悪口を言っている
と思うのなら、何度も行っている日本料理店会議で何故
堂々と自分の意見をいい、悪口を言っているとリー君が
言っている女子を名指しで批判をしないのか?
とリー君の卑怯な態度を批判する。口論で批判する機会が
何度もあったのに何も言わないで、突然相手に蹴りを入れたり、
殴ったりというのは、人間として一番卑怯なやり方だと
再度リー君を批判。「リー君はまず、自分は卑怯にも
相手に暴力を振るったことを謝りなさい」と忠告する。
リー君。「謝りたいけど、恥ずかしくて謝れない」という。
リー君は勇気のない男だ、こうして自分が間違っている
と思ったのなら、堂々とTさんに謝ることが、勇気のある
人間だ」とリー君を批判。
リー君は、Tさんに「俺が、不満があって殴ったり、
蹴ったりしたことは、悪かった。ごめんなさい。
謝ります」と謝罪。
Tさんに「リー君が暴力について、謝罪しているが
Tさんの意見は?」。
Tさんは、「リー君の謝罪を受け入れる」とのこと。

一応、暴力問題は、リー君の謝罪とTさんの「リー君の
謝罪を受け入れる」との発言で収束。

私はリー君に暴力がいけないだけでなく、不満があったら
堂々と日本料理店会議やミンさんに訴えるなど、暴力を
使わない方法で問題を解決するように、と注意を与える。
リー君も分かったとのこと。
Tさんとリー君の話し合いは終わる。

その後、バオミンさんと協議し、暴力は絶対に許さない
とのベトナム事務所の立場を鮮明にする必要があるとの
認識で一致。
リー君の処分を決める。
①1ヶ月分の給料の20%をカットする。
②出勤停止はしない。出勤停止処分にすれば、
 喜んで遊ぶ回る。
  今回は出勤促進処分とする。同時に出勤
 しながら、リ君の好きなナムドン山岳などのスタディーツアー
 の付き添いを2回禁止する処分とする。
③今後、言いたいこと、不満などは日本料理店会議という
 公開の会議で堂々と意見をいう

1時間半ほどの話し合いを終わる。午後4時半。
午後4時半、日本語学校へ。
観光基礎コースの2年目の授業について、学生に
責任者として説明。学生も納得。


午後5時半、日本料理店で子どもたちの夕食。
りー君も皆の中に入って夕食を摂っていた。


午後5時半、バオミンさんと二人でACCLの渡辺さん、辻先生
の出迎えにフエ空港へ。午後6時20分到着の予定。
しかし、2時間遅れで午後8時過ぎに到着。その間、
ベトナム航空からは、何ら情報がなかった。


空港からホテル行く途中で「フォー」を食べる。
午後8時50分。日本料理店へ。今日は来客ゼロとのこと。
午後9時、日本料理店閉店。

護送船団方式で「ハイリーホテル」へ帰る。リー君、Tさんも
一緒。

今日は朝から夜遅くまで休みなく仕事が続いた。


投稿者 koyama : 23:30 | コメント (0)

2008年03月18日

全国大学生協スタディーツアー:地球の歩き方ツアーⅦ

晴天    休肝日

朝7時。気温28度。湿度90%。
朝から太陽が顔を出す。


朝6時シャワーを浴びる。体を石鹸で洗い、髪の毛にシャンプーを
つけた途端に電気温水シャワーが壊れてしまう。体中石鹸だらけ、
頭はシャンプー。お湯は出ない。仕方がないので、ヤカンでお湯を
沸かし、体の石鹸と髪を洗おうとしたらが、途中で停電となり、
ヤカンのお湯も沸かせない。
そうこうしているうちに電気がつき、試しに電気温水シャワーを
つけてみると直っていた。なかなか「気難しい」温水シャワー
である。

朝食。インスタントラーメン。1つ10円。


最近のリー君の言動には様々な問題がある。今朝も
朝6時半に「ハイリーホテル」を出て、どこかへ行ってしまった。
税田さんは、午前8時20分フエ空港着に大学生協スタディーツアー
の皆さんの出迎えで朝食を摂らずに出かける。



午前8時半、ベトナム事務所へ。
午前9時過ぎ、全国大学生協スタディーツアー(11人+添乗員)
の皆さんがベトナム事務所を訪問。JASSベトナム事務所を紹介




大学生協スタディーツアーの皆さんとバスに乗り、「子どもの家」へ。
税田さん、クアンさん、ソンさんが担当。

午前10時から40分ほど「子どもの家」2階で講演会。
体調を崩し、声が「かれて」話しづらい。

その後、子どもたちと文化交流を行う。

セン運営委員長の歓迎の挨拶


子どもたちの歓迎の踊り


大学生協スタディーツアー参加者の歌と踊り


午前11時20分。「子どもの家」からベトナム事務所へ。
ベトナム事務所から電動バイクで「ハイリーホテル」へ。

午前11時40分。「ハイリーホテル」で昼食。
リー君は昼食にも来ない。

午後12時半から昼寝。


午後2時、受信メールのチェック。必要なメールの送信。
日本のNさんへ電話。
バオミンさんから電話。いくつかの問題の打ち合わせ。

大学生協スタディーツアーの参加者が体調を崩し
フエ中央病院へ。税田さん・ハンさんが付き添い通訳。

午後3時半、ベトナム事務所へ。
バオミンさんといくつかの問題の打ち合わせ。

午後3時頃、リー君が日本料理店員の女子〔18歳〕をなぐり、腹を
蹴るという暴力事件を起こした。
女子は興奮し・泣いて自転車で実家へ帰ってしまったとのこと。
事後報告を聞く。
午後6時半ごろ、自宅へ逃げ帰った女子へ電話。
「ハイリーホテル」、日本料理店には戻らないと言っている。
リー君は土日と母親に会い、かなりの額のお金をもらった
模様。今日、8000円ほどの携帯電話を買い、ベトナム事務所
日本料理店で使っている。母親から金銭の『誘惑』を受けている
ようだ。お金と物で引き付け、ホーチミン市に連れ帰ろうと
いう母親の作戦。既に弟のA君はホーチミン市に帰り、工場での
仕事をしている。母親の老後の面倒を見させたい、老後、
子どもたちと一緒にいたいとの母親の勝手な要望。
9歳から11年間も『捨てておいて』、子どもたちが収入を得る
年頃になったら急にやってきて「返して欲しい」という。
全く自分本位の親である。

先週からリー君はかなり精神的に動揺の色を見せていた。
日本料理店・「ハイリーホテル」で共同生活をしている
女子のお腹を蹴り、殴るという暴行は絶対に許されるもの
ではない。蹴られ、なぐられた女子は強い衝撃を受け、
自転車で45分ほどの実家へ帰ってしまい、戻らないという。

午後5時半。夕食。
そうめんサラダ。リー君は1分ほど席に着き、食事をしないで
どこかへ行ってしまう。


そうめんサラダ


午後6時過ぎ、税田さんが体調を崩した大学生協のツアー参加者に
おにぎりを持っていく。日本料理店の子どもたちが作る。

午後6時半日本料理店開店。
日本人2人の来店。ロンリープラネットを見て来店とのこと。
欧米系3人。

ソン君は大学生協スタディーツアーの皆さんと夕食。
バオミンさん・クアンさんは、地球の歩き方ツアーⅥの皆さんの
出迎えのため午後8時10分、フエ空港へ。その後、夕食、
ホテルへ。

午後9時、欧米系男性2名来店。午後9時40分まで在店。
午後9時40分日本料理店閉店。
今日は11人の来客。(欧米系9人、日本人2人)

護送船団で「ハイリーホテル」へ帰宅。午後10時。
リー君は夕方には、アルコールの臭いがした。

投稿者 koyama : 19:17 | コメント (0)

2008年03月17日

日本語学校打ち合わせ

晴天 休肝日

気温28度。

午前5時起床。
かなり体調回復。まだ100%ではないが・・・。
体力が続かない。

昨夜、洗濯機で洗濯をした。乾燥機の調子が悪い。完全には
乾かない。
朝から太陽が出た。早速、部屋の窓付近にロープを張り、
乾燥不良の衣類を干す。


午前7時朝食。チャオバンカン。
ホンニーさんは、昨日から親戚へ。


午前8時半ベトナム事務所へ。日本語学校についての打ち合わせ。
産休で休んでいるフーン日本語学校主任も参加。4月から復帰。


1時間ほど打ち合わせを行う。
その後、ベトナム事務所で仕事。宮城県仙台市のNGO
がJASS刺繍みやげ物店の作品を会合等で紹介。
刺繍を買ってくれた市民の方からベトナム事務所へ
立派な刺繍に感動との励ましの手紙が届く。
仙台の市民の方へお礼の手紙を書く。
仙台市のNGOの方々との連絡も付く。
土日に来たメールを受信。必要なメールへの送信。
32通のメール受信。15通のメール送信。

午前11時半昼食。「ハイリーホテル」。

インゲン炒め、大根の煮物、野菜スープ。

土日と母親と会ってきたリー君も一緒に昼食。


午後12時半、昼寝。体がだるい。うつらうつら1時間半ほど
寝てしまう。

午後2時から読書。『与謝野源氏(中)』 「若菜(下)」。

午後4時、ベトナム事務所。電動バイクの電気の調子が
悪い。片道は電気が通じるが、片道は通じなくなる事が多い。


午後5時半、日本料理店で夕食。

芋の茎の煮物、魚の煮物、トマトスープ
「ハイリーホテル」の警備員のハイ君は3膳のご飯。

午後7時過ぎ、オランダ人とマレーシア人夫妻来店。
英字ガイドブック「ロンリープラネット」を読んできたとのこと。
何故、ストリートチルドレンの支援をしているのか?
日本の家族は何をしているのか?など20分程の話し合い。

日本からは「春」「梅」「桜」の便り。
水戸の偕楽園では梅の満開。日本の春を満喫していた頃、
春になるとよく行った小田原の「アジ寿司」。もう一度行きたい
気分に。
午後9時前、日本料理店を閉店しようとした矢先、日本人の
来客1名あり。午後9時半過ぎまで食事。

本日の来客3人。
リー君は「職場放棄」。8時に職場復帰。職場放棄1時間半の間に
どこかで飲酒。アルコールの匂いプンプン。

午後9時30分過ぎ閉店。

護送船団方式で「ハイリーホテル」へ帰宅。
午後10時。

投稿者 koyama : 19:13 | コメント (0)

2008年03月16日

地球の歩き方スタディーツアーⅥの皆さんと懇談

晴天

午前8時に気温28度。湿度60%。
やっと例年通りの気温となり、過ごし易くなる。
検温。微熱あり。
朝から耳が飛行機の急降下時のように「ガーン」となり
なかなか治らない。急に温度が上がり、気圧の変化の
影響か? 飛行機に乗るといつも同じ症状になるのだが・・。

午前8時半、昨晩の地球の歩き方ツアーとの
交流会の残りの「コロッケ」などをおかずに朝食を摂る。
1キロ1万ドン(65円)のお米を炊飯器で炊く。あまり
食欲なし。

午前9時。「ハイリーホテル」の近くの広場で下着などの
古着を燃やす。1時間ほど監視。
7人の「くず拾い」の女性が『燃やしているものを頂戴い』という。
監視していないと燃やしている火を消して、古着の下着などを
もって行く可能性あり。暑い中、焚き火と格闘。疲労困憊(こんぱい)。

午前中、横になり休む。
午後2時、税田さんから電話。地球の歩き方スタディーツアーの
何人かの人が「子どもたちの事」「貧困問題」などについて
話を聞きたいとのこと。
急いでベトナム事務所へ行く。添乗員さんを含め5人の
学生さんと話し合う。ベトナムの歴史、帝国主義・新旧植民地主義
などについて話す。「皆さんの大学にJASSを作って欲しい」と
お願いする。体調不良で声がかすれて出ない。
地球の歩き方や大学生協で来る学生さんたちは本当に真面目な
学生さんたちである。しっかりとした学力と問題意識を持っている。
未来を託くせる若者たちである。「今時の若者は・・・・」などと
非難がましく言う人たちには、是非、「子どもの家」を訪問する
若者を紹介し、見てもらいたいものである。
昨年「還暦」を迎えた。もう、それほど長く生きていることもないと
思う。今はもうお金も地位も何も要らない。
次代を担う若者に何かを伝えたいという一念だけが残っているだけで
ある。


1時間弱の話し合い。

午後3時20分。ホテルからフエ空港へ。
税田さん・ソン君などが見送り。ホテル玄関で記念撮影。


JASS支援者「ホシマタグループ」が
素敵な『レトロモダンな蔵造りカフェ&ギャラリー』
を上尾市原市737番地に開店。何かの機会にお立ち寄りを。
http://www.hoshimata.co.jp/yamamotoya.html
電話048– 723– 3901

数日前から体調不良。空いている時間は横になっていた。
「与謝野源氏(中)」、かなり読み進む。

「蛍」「常夏」「篝火(かがりび)」「野分」「行幸(みゆき)」
藤袴」「真木柱」「梅が枝」「藤のうら葉」。源氏39歳。
準太上天皇(天皇譲位後の上皇・院に準ずる)の位に就く。
与謝野源氏は現代語訳の第一号。登場人物が年齢に
連れて昇進し官職名が変わる。与謝野源氏は、説明なしに
新たな官職名が突然出てくるので、与謝野源氏を最初に
読むと理解が難しい。瀬戸内源氏・田辺源氏を読んで
与謝野源氏を読むと理解が容易い。

午後6時半、何故か「ハイリーホテル」のインターネット
が通じるようになった。

午後7時、ベトナムのほか弁:コムディア(1万ドンー65円)を食べる。


ヨーヨーマのチェロで「ソウル・オブ・タンゴ」を聴く。
ヨーヨーマのチェロを聴くと何か心が落ち着く。
アジア人の心がどこかに流れているのだろうか?

読書「与謝野源氏(中)」「若菜(上)」。

早めに就寝。

中国政府のチベット民族弾圧に抗議。
昨年、「ダライ・ラマ伝記」を読む。
チベットは、1940年代までは「独立国家」だった。
1950年に中華人民共和国の軍事侵略を受け、占領。
中国人がチベットの政治・軍事を独占。チベット民族
の伝統文化・精神活動を禁止。
1989年の天安門事件を見ても中国は、人間の命を
虫けらのように扱う。天安門で自由を叫んだ市民を
戦車でひき殺すという残忍な軍事国家。
既に60年間、チベット民族は同様の軍事圧制を受けている。
中国の人権と人間の尊厳と自由・命を無視する政治体制を
忌み嫌う。

投稿者 koyama : 18:18 | コメント (0)

2008年03月15日

マブベの会帰国:地球の歩き方ツアーⅥ晩餐会

晴天

インターネット状況が悪く、「ハイリーホテル」での日記記載
が出来ない。メール受信・送信も出来ない。


やっと寒い「雨季」を脱出か? 今年はフエ滞在15年で
一番遅い冬と雨季の終了だった。

午前5時起床。頭痛。検温。37度。微熱あり。
体重が3キロ減少。

午前7時朝食。私の「大好きな」フランスパン(玉子焼き入り)

リー君はホーチミン市から出てきた母親と対面のため
2泊3日の外出をするとのことで早朝、「ハイリーホテル」を
出て行く。

朝食後、リー君の指摘があった雨で濡れている「電動バイク」の
電気系統。ヘヤードライヤーで関係箇所を乾かす。
リー君の言ったとおり、電気系統が回復した。なかなか
生活力のある子だ。

朝食後、体がだるいので部屋で横になる。

午前10時半、「ハイリーホテル」を出てベトナム事務所へ。
マブベの会の皆さんと昼食。
「チャオバンカン」(手打ちうどん)を食べに行く。


午後1時、「ハイリーホテル」へ。昼寝。

午後3時、フォンザンホテルへ。
マブベの会の皆さんが帰国。バオミンさんと一緒に
フエ空港まで見送り。


マブベの会の皆さんは、年に2回フエを訪問。小児針の施術を
子どもたち、「子どもの家」やベトナム事務所スタッフ、
地域診療所、フールー小学校、養老院などで行っている。
毎年フエに来る度に知り合いが出来、活動領域を広げている。
こうした海外支援こそ本物の海外支援だと思う。
一気に大きく活動をするのではなく、着実に人と人との出会い
知り合いを増やしての地道な活動は中々出来るものではない。
とかく海外支援をする団体は、一気に目立つた活動をしたがるもので
ある。マブベの会の活動は私たちも見習うべきものをたくさん
持っているように思える。


午後6時半、地球の歩き方ツアーⅤの皆さんとの
晩餐会。18人(添乗員含む)の皆さんとベトナム事務所員との
交流晩餐会。ベトナム事務所側はバオミンさん・税田さん・
ソンさん・ゴック先生・ハンナ先生・千草先生。



会食途中、日本料理店の子どもたちの自己紹介



子どもたちとスタディーツアー参加者との交流
午後9時近くに終了。
後片付けをし、子どもたちと一緒に「ハイリーホテル」に
帰る。今晩の会食の残りの食べ物を「お土産」にしてもらい
明日(日曜日)の朝食にする予定。


投稿者 koyama : 17:39 | コメント (0)

2008年03月14日

体調を崩す

晴天 休肝日

気温26度。湿度65%。

朝なかなか起きられなかった。体がだるい。
気候の変動が大きいためか?


午前7時、朝食。野菜おかゆ。
リー君は朝食を摂らずにどこかへ消えた。


起きているのがつらく、食後、部屋で寝る。
体がだるい。気力なし。ひどい頭痛。

午前11時半、昼食。
なまずの煮物、もやし炒め、野菜スープ。
食事をしっかり摂り、自然治癒力を喚起し
体力を回復することが一番。休養と食事。


リー君は地球の歩き方ツアーの皆さんとナムドン山岳地帯へ。


昼食後、引き続きベッドで寝る。

午後2時半、この間忙しかったので、中々受信メールを
読む時間がなかった。この間の受信メールを読み、
必要なメールを送信する。
部屋の整理をしていたが、やはりだるくて整理を中止。
再び横になる。

午後4時前、「ハイリーホテル」を出てベトナム事務所へ。
電動バイクの電気が壊れてしまう。自力でこいで
ベトナム事務所へ。

途中、フォン川の支流を通る。太陽が川面(かわも)を照らす。

地球の歩き方の皆さんはナムドンツアーからの帰り、
ベトナム事務所3階の刺繍みやげ物店で買い物。
地球の歩き方の添乗員、税田さん、ソン君がお世話をする。



午後5時半夕食。

煮魚、アヒルの玉子焼き、野菜スープ

夕食後、日本料理店の子どもたちが「先生、顔色が悪い。
みかんジュースを作りましょう」と言って、みかんをジュースに
してくれる。ビタミンCの補給。ありがたい。

午後6時半、体調不良。「ハイリーホテル」へ帰り寝る。
検温する。7度6分。少し熱がある。風邪の前兆か?

1月23日にフエ要人を案内して訪日。それから今日まで
本当に休みなく仕事をした。体力が落ち、抵抗力を
失いつつあるのだろうか? 休養と食事。
早めに寝る。自然に眠れる。睡眠を体が要求しているようだ。
口内炎と歯痛。
この15年間。よく大病をしないで過ごすことが出来たなと
改めて関係者の皆さんの支援に感謝。
現在、課題多し。早く体調を回復しなければ・・・・・・。

「消された年金」。『2008年3月までに全て確認し、
安心させます』と昨年の参議院選挙で安倍前首相・
自民党・公明党は公約した。
1025万件が確認できなかったとのこと。
福田首相・町村官房長官は「3月までに照合すると言った
だけだ」との卑怯な言い訳に終始している。
国家というもの、そのものが、『信用』出来ないということを
改めて自覚せざるを得ない。
国家的泥棒、そのものである。大見得を切った枡添厚労相も
言い訳だけに終始している。みっともない。
政府・与党の誰一人も「責任」を感じていない。また、この問題で
責任を取ろうとする歴代厚生大臣は皆無。菅直人も責任者の
一人だ。「申請者」には全員年金を支給すべきである。

歴代厚生大臣は、自宅を売却し、全財産を国庫へ提供すべきで
ある。これが中小企業なら倒産。社長の中には自分に生命保険を
かけて、自殺し、支払いをする人もいる。
我が家も倒産し、全財産と自宅の全てを失った。
国家による年金の「倒産」。政治責任者は相応の道義的責任を
取るべきだ。

投稿者 koyama : 18:29 | コメント (0)

2008年03月13日

静岡市国際交流協会ナムドン山岳地帯へ:マブベの会夕食会

晴天

気温22度。湿度90%。

静岡市国際交流協会の皆さんがナムドン山岳地帯を訪問する。
通常はナムドンのレストランで昼食を摂るが、昼食を「おむすび」
などの日本料理にしたいとの依頼。
午前8時フエを出発ということで、それ以前に日本食の昼食弁当
を作らなければならない。
リー君・ハイ君は午前4時半に「ハイリーホテル」を出ている。
税田さん、日本料理店の子どもたちも午前5時から6時の間に
日本料理店へ集結。大急ぎで13人分の「おむすび」などの
日本料理弁当を作る。



ナムドンへ行くリー君も早朝から張り切っている。


私たち「ハイリーホテル」滞在日本人も
そのあおりで朝食がなく、午前7時半、日本料理店に出向き
朝食のインスタントラーメンを食べる。


午前8時過ぎ、ベトナム事務所はガラガラ状態。
今日は3つのツアーのお世話をする。

・地球の歩き方ツアーⅤは税田さん・ソン君。
・静岡市国際交流協会はバオミンさん・クアンさん・リー君。
・マブベの会はハンさん。

一度、「ハイリーホテル」へ戻り、仕事に必要な資料を持ち
再度ベトナム事務所へ。

ベトナム事務所で「子どもと教育」最終号の原稿をほぼ完成。
後は10枚程度の写真を揃え仕事が残っている。

午前11時半、昼食。「ハイリーホテル」にて。

昼食はチャオバンカン(小麦粉の手打ちうどん)


税田さんは地球の歩き方ツアーと昼食。
りー君はナムドン山岳地帯へ。
ハンナ先生はベトナム事務所で仕事。

午後12時半から1時間ほど昼寝。
午後の気温26度。湿度60%。
風も涼しく過ごし易い。太陽が照っている。

午後2時半から部屋の掃除。トイレの水漏れを
調査。

読書「与謝野源氏(中)」
「初音」 『年月をまつに引かれて経る人に今日鶯(うぐいす)
      の初音聞かせよ』
     新年元旦の諸行事。源氏邸(六条邸)での管弦の
     遊び。男踏歌の様子。

「胡蝶」『花園の胡蝶をさえや下草に秋まつ虫はうとく見るらん』
夕顔と源氏の子「玉蔓」に言い寄る源氏。

源氏は自邸「六条邸」に自分の関係した女性を住まわせる。
奥さんは紫の上。それぞれの女性に気を使いながら過ごす。
官吏の最高位に就き我が世の春を謳歌する。
しかし、夕顔の忘れ形見「玉蔓」と関係を持ちたいと悩む。

午後4時ベトナム事務所へ。
ナムドンから帰ったりー君。
日本料理店前にりー君の父親と伯父さんがやって来ていた。

父親は55歳。アヒルを成長させ収入を得ている。
新しい奥さんとの間に2児あり。
りー君はこの父親がかなり好きなようだ。

りー君の実母はホーチミン市に住んでいる。
リー君兄弟を5歳の時捨てて、他の男性とホーチミン市に
行ってしまった。それから10数年音沙汰がなかった。
昨年、リー君の実母がベトナム事務所にやって来て
「リー君を引き渡して欲しい」といってくる。リー君は20歳なので
自分で決めることと母親の言い分には、返答。
リー君を呼んで意見を聞く。『自分は独立独歩』の生活をしたい。
母親のところには行かないとの返事。
その後、母親は弟のI君をホーチミン市に引き戻し、同居。
今は、I君を工場で働かせている。ホーチミン市の母親は
リー君にもホーチミン市に来て同居しようと繰り返し言ってきている。
労働力としてリー君兄弟を利用しようという意図が見え隠れ。

現在、母親もフエに来ている。先日、リー君を呼んで
「母親がフエに来ているね。母親がホーチミン市に来いと
言ったらどうする?」と尋ねて見る。「俺は独立独歩、ホーチミン市
にはいかない」という。

リー君も中々複雑な人生ではある。
父親には新しい女性がいて子どももいる。母親はリー君が
5歳の時駆け落ち。その男性が死んでしまい現在は一人。
そして段々と老齢化していた。老後の不安からリー君
兄弟を働かせてそのお金で生活しようとの意図あり。

親がいてもリー君はなかなか親に「甘えて」行くことも
出来なかった。十分な愛情も受けず、しつけもされない
まま20歳になってしまった。リー君の日常の諸行動の
一つ一つには、リー君の複雑な家庭状況と生い立ちが
隠されている。衣類は、長く着て洗濯をしないで捨ててしまう。
先日、リー君の部屋とトイレを掃除したら、たくさんの衣類が
ダンボールの箱に入れられたり、水槽に捨てられたりしていた。
また、衣類は脱げばその場に置きっぱなし。整理整頓
という概念を持っていないと非難するのは簡単だが、リー君の
生育歴を見れば、そう偉そうに彼の諸行動を指摘・非難は
出来ない面もある。
私たちは出来る限り、リー君の「自立」を応援したい。
愛と規律が必要。

午後5時半、日本料理店で子どもたちは夕食。



午後6時半、「マブベの会」の皆さんとベトナム事務所員との
懇親会。

午後9時過ぎまで交流。

日本料理店来客15人。

午後10時、護送船団方式で「ハイリーホテル」へ帰る。

日本料理店の残りの料理をハイ君たちが夜食で食べる。


投稿者 koyama : 12:37 | コメント (0)

2008年03月12日

静岡国際交流協会:地球の歩き方ツアー受け入れ

終日晴れ

気温24度。湿度75%。

今日はしっかりと太陽が出た。


午前7時朝食。私の「大好き?な」パン。味気ないのだが、
塩味だけは強い。

午前7時半、「ハイリーホテル」を出てベトナム事務所へ。
地球の歩き方ツアーⅤ(18人)がベトナム事務所を
訪問。ベトナム事務所員紹介。




地球の歩き方ツアーの皆様

地球の歩き方ツアーの皆さんと一緒に「子どもの家」へ。
午前9時から10時過ぎまでの1時間『講演会』。

皆さん、真剣に話を聞いてくれた。感謝。

講演会終了後、税田さんの案内で「子どもの家」の視察を
視察。


急いでタクシーに乗り、静岡市国際交流協会
スタディーツアーがいる「ハイバーチュン高校」へ。
高校では高校生とスタディーツアー参加者との懇談交流会が
行われていた。


30分ほど遅れてフエ市人民委員会へ。
タン副市長を表敬訪問。

静岡市国際交流協会は昼食は自由行動。

バオミンさんと二人でフエの「ラーメン屋」へ。
昔、フエにあったチャイナタウンの伝統を受け継いでいる
ラーメン屋。ワンタンメンを食べる。18000ドン。
少し前は5000ドンだったのだが、3倍以上に
値上がりしていた。

午後1時過ぎ、「ハイリーホテル」へ。
1時間ほど昼寝。

午後2時過ぎ読書。
「与謝野源氏(中)」。『玉蔓」(たまかずら)
朝顔の君の娘との出会い。


今までの受信メールをチェック。かなりの数の
返事メールの送信。

午後4時、ベトナム事務所へ。
ベトナム事務所で仕事。

午後6時静岡市国際交流協会の夕食会だったが、
いつまでたっても来店なし。子どもたちも
夕食を短時間で終え、午後6時半の開店を
30早め待っていた。結局、来店は午後7時。
午後8時半過ぎ終了。

午後9時45分「ハイリーホテル」へ帰る。
リー君・ハイ君と「夜の宴会」。

午後10時、私だけ宴会から抜け出し自室へ。

明日の朝は「ハイリーホテル」の子どもたちは午前6時に
日本料理店へ。静岡市国際交流協会のナムドン山岳地帯
交流の昼食のお弁当作り。

投稿者 koyama : 19:27 | コメント (0)

2008年03月11日

マブベの会ベトナム事務所訪問

曇りのち少し晴れ

気温22度。湿度80%。

午前7時朝食。インスタントラーメン。(10円)


午前8時、ベトナム事務所にマブベの会の皆さん来訪。
マブベの会より日本料理店の日本酒の差し入れ


ベトナム事務所スタッフに記念品贈呈


マブベの会の関係者からJASSベトナム事務所への寄金



日本語学校にカルタ寄贈



マブベの会の皆さんと全員写真

マブベの会の皆さんは「心がある」。
感謝。

メール受信をチェック。必要なメールを送信する。

午後11時半、「ハイリーホテル」で昼食。
インゲン炒め、ニワトリの卵の醤油煮、野菜スープ。



午後2時。リー君・ハイ君の部屋の掃除をする。
廊下を通ると異臭が漂う。

二人の部屋をチェックする。

①トイレの掃除を一切していない。
  トイレットペーパーがない。どうしているのだろうか?
②リー君は衣類をダンボールに入れてこの数ヶ月
 一切洗濯をしていない。また、シャワールームの
 流しに衣類を水に浸しているが、ヌルヌルしている。
 リー君は衣類を洗濯する習慣がない。衣類は
 1ヶ月ほど着てその後は捨てていた。
③部屋の掃除を3ヶ月ほどしていなかった。
④お風呂に入っていない気配あり。
⑤ベッドの寝具を干したり洗ったりしていなかった。

以上の理由で廊下を通るだけで異臭が漂っていた。
今日、私は長靴を履き、二人の住んでいる廊下と
二人の部屋、トイレの掃除をした。
二人のトイレはこの3ヶ月、一切掃除がされていなかった。
異臭を放つ訳である。

廊下・部屋・トイレをきれいに掃除し、ハイ君に掃除の仕方を
教えた。



廊下を掃除した。日本料理店女子の部屋から掃き出された
長い髪の毛がたくさん廊下に散らばっていた。
日本料理店女子は部屋のゴミを毎日廊下に掃き出して
いたのだ。子どもたちを攻める訳にはいかない。
子どもたち時代からキチントした清掃・清潔観念を
教えられていなかったのだ。

午後4時、「縫製研修センター」の追加電源工事の
民間会社の担当者を招請。打ち合わせ。
「縫製研修センター」は始動しているが、更に
宇都宮縫製工業組合から78台のミシン等の
寄贈があった。更に電源等を設置する打ち合わせ。


午後5時、刊行誌「地球の歩き方」の取材記者が
日本料理店を訪問。2008年7月改定版に
日本料理店・JASS活動を掲載してくれるとのこと。
1時間ほど懇談。

午後6時半から午後9時過ぎまで11人の来客あり。

投稿者 koyama : 23:52 | コメント (0)

2008年03月10日

税田さん・ハンナ先生誕生日:マブベの会来訪

終日曇り・一時日の目を見る

午前5時起床。「朝ズバッ」を見る。
午前7時朝食。チャオバンカン。
私の一番好きな食事。



日本料理店店長のニーさんが体調を崩す。
リー君は一口・二口食べて残す。
直ぐに自転車で外出してしまう。

午前8時ベトナム事務所へ。
今日はハンナ先生(2月生まれ)、税田さん(3月生まれ)
の誕生会。

午前9時、ベトナム事務所で二人の誕生会を行う。
千草先生の司会。

バオミンさんから税田さんに皆さんからのお祝いの寄せ書きを贈呈。

ハンナ先生へは私からお祝いの寄せ書きを贈呈。


●誕生ケーキ贈呈・入刀


税田さん・ハンナ先生による誕生ケーキ入刀。


昨日飲み過ぎのため二人の年齢は失念してしまったが、
まだ若い二人である。これからの人生に挑戦して行って
欲しい。

二人の誕生日を祝ってベトナム事務所全員で記念写真。
(日本語主任のフーン先生は産休中)


昨日と今日受信したメールのチェック。
必要なメールへの送信。

バオミンさんは、ダナン港へ「縫製研修センター」へ
寄贈された追加のミシンを取りに行く。
宇都宮縫製工業組合からは既に50台のミシンが
贈呈され「縫製研修センター」に設置されている。
今回は78台の工業用ミシンやボイラーなどが
寄贈された。中古品の輸入を一切禁止している
ベトナムである。
ベトナム政府副首相からの特別の許可をもらい
78台のミシン等を輸入することが出来た。
早速、ダナンヘ副首相の書類を持っていく。
宇都宮縫製工業組合からのミシン等の寄贈は
3月8日の地元「トゥアティエンフエ新聞」に紹介
されている。JASSとフエ市人民委員会協力の
「縫製研修センター」は、日本政府からのODAで
建物を建て、宇都宮縫製工業組合からミシン等の
機材・縫製のノウハウを教えてもらいながら
進めている。地元でもJASSとフエ市人民委員会
日本政府・宇都宮縫製工業組合の協力体制を
高く評価している。

午前11時半昼食。


「スープカレー」「なすの煮物」「野菜スープ」。


リー君は昼食に来なかった。最近の生活態度にかなり大きな
変動あり。

午後1時から昼寝。

午後2時半読書「与謝野源氏(中)」。玉蔓(たまかずら)を
読み始める。
何とか時間を見つめて粘り強く現代語訳源氏を読みきる
つもりである。当面は与謝野源氏3巻。やっと1巻を読み終わり
二巻目に入る。


今日は「東京大空襲64回忌」

1945年3月10日、米空軍の空襲で一夜にして
10万人以上の尊い人々の命が奪われた。
戦争というものの残虐性を改めて確認したい。
それは同時に日本軍がアジア諸国で行った
侵略の反省をも必要としていることを意味している。
広島への原爆投下の際、シンガポールの新聞が
「広島原爆投下万歳」という趣旨の記事を書いている
ことも同時に私たちは記憶しておかなければならない。
シンガポール陥落に寄与した日本海軍の基地が
広島の呉にあったこと、アジア侵略の拠点だった
広島であることも私たちは自覚する必要がある。
戦争は加害と被害が裏表である。
防衛庁が防衛省になり、アフガン支援と称して
日本の艦船が海外に派遣され、イラク支援と称して
陸上自衛隊(当時)が海外へ派遣されている。
守屋防衛庁問題だけでなく、イージス艦の漁船
「撃沈」問題など、一段ときな臭くなったわが日本である。
3月10日の今日、改めて平和の意味とその大事さを
考えたい。イラク・アフガンでの一切の戦争に反対したい。
憲法9条を守りたい。

午後5時半、マブベの会の出迎えのためベトナム事務所を
出発。ソン君、リー君と3人。

午後6時20分到着の予定が40分以上遅れる。
フエ空港で待機。

午後7時、マブベの会(3人)が無事フエ空港に到着。


フエ空港から車でレストラン「フォーサイゴン」へ。

午後8時半、マブベの会の皆さんをホテルへ送り、
日本料理店へ。
今日は多くの来客あり。合計25人。ベルギー、イギリス、
シンガポール、オーストラリア・・・・。

来客が帰ったのは午後9時半過ぎ。片づけをした後
護送船団で「ハイリーホテル」へ。午後10時「ハイリーホテル」着。


投稿者 koyama : 17:45 | コメント (0)

2008年03月09日

久々の休日

終日雨。

気温21度。湿度90%。

昨日の地球の歩き方ツアーとの交流会で痛飲。
二日酔い状態。
起床午前8時半。定例の体重・血圧測定など・・・。

今日は久しぶりに「バスタブ」にはいる。
今までバスタブにはいると風邪を引くという恐怖観念に
取り付かれ、なかなかバスタブ入浴が出来なかった。
この10数年の体験で寒い冬にバスタブに入ると
必ずと言ってよいほど風邪を引いていた。

イタリア製の電気湯沸かし器が付いているが、
少し調子が悪くあまり熱いお湯が出ない。
やかんに2杯、お湯を沸かしバスタブに追加。入浴。
20分ほど低温浴。

午前10時前、ハイー君が部屋の前まで迎えに来る。
今日は午前10時からハイ・リー君と3人で朝食を
摂ることになっていた。
近くの大衆食堂へ。既に「お偉いさん」たち10人ほどが
宴会をしていた。

レストランから見た「ハイリーホテル」。左。


ハイ君とリー君。3人で朝の乾杯。


アヒルの炭火丸焼きを頼む。


焼きあがるまで30分。


寒いので海鮮鍋を頼む。

午後12時過ぎまで2時間ちょっと3人で色々と「人生」を話し合う。

ハイ君。23歳。母親は45歳で亡くなり、父親は再婚。子どももいる。
この10年間父親と会っていないとのこと。
「ハイリーホテル」の警備員として毎日真面目に仕事をしている。
以前日本語教師をしていたNさんの写真が欲しいという。
軽度の知的障害があり、小学校を3回落第し退学。
「学歴」は小2卒。「子どもの家」に10数年在籍し、昨年退所。
「ハイリーホテル」に私たちと一緒に居住し「ハイリーホテル」
の警備員となり今日に至る。現在は朝食・昼食は私たちと
一緒に「ハイリーホテル」で食べ、夕食は日本料理店に来て
食べている。
私たちがベトナム事務所などで仕事中は一人で「ハイリーホテル」
に滞在。1階床の掃除、庭の掃除、来客の取次ぎなどをしている。



ハイ君・リー君と一緒に朝の乾杯をし食事をした。
私は食事は出来なかったが。
二人がどれだけ私の気持ちを理解しているのかは不明だが、
二人に出合ったのも何かの縁(えにし)。人間は年を重ねる
毎に「縁」ということを考えるようになる。「神様のお導き」
などとは言わないが、この広い地球、63億人の人間が
いる中で、ハイ君・リー君と出会ったのも縁である。
彼らが私たちの存在をどう考えているかは別にしても
私が出来ることをしてやりたいと思う年頃になってきた。
「私は君たちのお父さんだと思っているよ」と二人に
話す。二人の人生を考えると同情もするし、私が何か
出来ることがあれが応援してやりたいと思う。これが
普通の人間の考えることだと思う。
二人の幸福を祈っているうちに、フダビール12本が空いて
しまった。二人の食欲に圧倒される。私はビールと
おつまみを食べているうちに2時間ほどが過ぎてしまった。

「ハイリーホテル」に戻り、昼寝。圧力鍋の湯たんぽを
作り、足を温めて寝る。気づいたら午後4時。考えて
見ると1月23日にフエ要人を連れて訪日。その後
2月17日まで講演会で全国を回る。家族と一緒に
フエに戻り、今日までほとんど休みがなかった。
疲れが溜まっていた。

昨日の日記もまだ書いていない。

午後5時半、夕食用のコムデイア(ベトナムほか弁)を
買う。1万ドン(70円)。

読書「与謝野源氏」(薄雲・朝顔・乙女)読了。
やっと与謝野源氏の上巻を読み終わる。658ページ。
上巻を読んで天皇の子どもとして生まれた源氏も
世間一般の人間の苦悩を持っている事を知る。

缶ビール4本を飲む。

今日は「JASS東京」の総会。
新JASS東京の代表に松下さん、副代表に中村友香さん、
戸取さんを決める。4つの目標を設定し活動を進めることに
なった。松下さんを始め代表・副代表の皆さん、JASS東京
の皆さんご苦労様。今後とも宜しく。

投稿者 koyama : 19:51 | コメント (0)

2008年03月08日

原稿書き:地球の歩き方ツアー晩餐会

終日雨

気温19度。 湿度94%。(5階テラスの湿度計)

午前5時半起床。
TBS「朝ズバッ」を見る。「国土崩壊」の特集。
定例の体重・血圧測定。

午前7時朝食。フランスパン(玉子焼き入り)
今日は午前8時から日本料理店店員の英語の勉強。
そのため朝食は簡素にするとのこと。いつも質素なのだが。
健康には良いことだとは思うが・・・・・。


午前8時過ぎ月刊雑誌「子どもと教育」5月号の原稿執筆。
締め切りは3月15日だが、スタディーツアー受け入れで
忙しい毎日が続く。時間のある時に書いておかなければ、
原稿を書く時間がない。今回が最終号。
1回4000字の原稿を6ヶ月間書くことになる。
最終号は
『21世紀・アジア・ベトナム・ボランティア
そして平和―――「アジア・ベトナムから学ぶ」』

2時間ほどかけて骨子を書く。数日おいて更に仕上げていく
予定。

午前11時半。昼食


昼食は「アヒルの玉子焼き」「油揚げの煮物」「にがうりのスープ」

午後12時から1時間ほど昼寝。寒い。

午後2時から自室と隣りの部屋の掃除。洗濯。

読書「与謝野源氏」

午後6時半。地球の歩き方スタディーツアーⅣの
皆さんの晩餐会。


●会計の計算をする店長のホンニーさん

午後9時過ぎ地球の歩き方スタディーツアー晩餐会終了。

片付けをして日本料理店を後にする。「ハイリーホテル」
住人は護送船団。

事前にリー君が「先生、今晩飲みましょう」との呼びかけあり。
少し早く「ハイリーホテル」に帰り、夜の「反省会」の準備を
していた。

私は午後11時まで。子どもたちは午前0時まで交流。


投稿者 koyama : 08:42 | コメント (0)

2008年03月07日

通常のフエ生活に戻る

終日雨    休肝日


気温19度。湿度95%。寒さ復活。今年は本当に異常気象。
例年なら気温30度前後。半袖・Tシャツで過ごしているのだが。
朝から雨。気持ちも沈む。

日本では河津桜や梅が咲き始め、春近し。


午前7時朝食。
インスタントラーメン(10円強)にお湯とキャベツの細切りを
入れたもの。至って簡素な朝食。
日本のテレビを見ていた。赤坂に「赤坂ビズタワー」とか言う
大きな建物が出来たとのこと。
1階は「リーズナブル」な値段の食堂がたくさんあると
アナウンサーは言っていた。中華食堂。「レッドリバードラゴン」という
とんかつ。1食1650円。1650円の食事は日本では安いのか・・・?
10円の朝ごはんを食べながら、日本人の表面的な「贅沢さ」を
考えた。


昨日、バオミンさん・税田さんとでリー君を呼んでお説教。
テト休暇中に生活が乱れ、朝食・昼食をみんなと摂らず
どこかへ行ってしまう。日本料理店開店中も日本料理店前の
かばん屋に入りびたり、賭けトランプに興じていると言った
状況。
仕事をするということ、規則正しい生活をすること、
仕事でお金をもらうということ、リー君の将来・人生を
どう考えているのか? などを話し、意見を聞く。
これからしっかりと生活すると言っている。

今朝は、朝食に出てきた。午前10時には、地球の歩き方
スタディーツアーの皆さん(18人)と一緒に雨の中ナムドン
山岳少数民族訪問に同行した。
いつも「左右に揺れる」リー君ではあるが、私たちが
諦めた途端にリー君の人生は「自堕落」(じだらく)な
人生になってしまうのではと思い、強い忍耐と長期的な
視野で付き合っていく心づもりではある。

「教育」とは何だろうか? 人を教え・はぐくむということは、
究極的には「人間を育てること」であり、自立させることである。
自立させるということは、自分で働き、生きていく人間を
育てること。リー君とのこの10数年間の付き合いも
大きな目で見れば「教育」、人を育てるということになるの
かも知れない。時間とエネルギーのかかることだ。
人を育てることに『手抜き』や労力・費用を惜しむようでは
本当の教育ではない。
今の日本の教育界の風潮には何か違和感を感じる。
学校も教師も教育委員会も文科省も子どもたちを
トータルとして人間としてみていない。人間を育てる
という視点が根本的に欠けている。
時間とエネルギーと費用をかけ、忍耐力をもち
子どもたちの成長を見守ってやる大人が日本の
子どもたちの回りにどれだけいるのだろうか?
予備校のテストのような試験にだけ目が行っている
日本の教育界の風潮に異議申し立てをしたい、などと
ベトナムで「心の中で吼えている」今日この頃である。
一緒の建物に住み、一緒に日本料理店で仕事をしながら
リー君の人生に付き合って行こうと思っている。
これも何かの縁(えにし)である。リー君の成長を願っている。


朝食後、ハイ君は1階食堂の掃除をしていた。
自分に与えられた仕事に責任を持って遂行しようと
いう気持ちが少しずつ出てきたのか?
自分の役割りを自覚するということが子どもたちには
大事。

午前中、受信メールの確認。必要な返事。
洗濯。洗濯機を修理はしたものの完全には
直っていなかった。部屋の掃除。

日本のNさんに電話連絡。
宇都宮縫製工業組合佐藤理事長と電話連絡。
バオミンさんはナムドン山岳民族訪問に同行中。
バオミンさんと何度か縫製研修センターミシンの
件で電話連絡。

午前11時半昼食。
川魚の甘辛煮、漬物の油炒め、野菜スープ。
千草先生・ハンナ先生は仕事で若干遅くなる。



午後1時過ぎから昼寝。寒い。やかんでお湯を沸かし、
圧力鍋にいれ、バスタオルで包み即席湯たんぽを作る。

午後2時読書「与謝野源氏(上)」
松風の巻き。須磨明石に「流され」ていた源氏が
明石で出会った「明石の君」を京都郊外の大井に
呼び寄せる。父親の入道とも分かれて明石の君は
源氏の子ども、母親と共に京郊外の大井に移るが
寂しい。

「身を変えて一人帰れる山里に聞きしに似たる松風ぞ吹く」
と明石の君は詠む。明石の海に吹いた松風を思い出すと
言い、明石に残してきた父親や家族、明石への愛着を
歌った。


午後、かなりの雨の中、ベトナム事務所へ。荷物を置いて
フエの秋葉原電気街に電気のコードを買いに行く。

午後5時半頃、地球の歩き方スタディーツアーの
皆さんが刺繍みやげ物店で刺繍を買ってくれる。ありがたい。

午後5時半夕食。

イカと野菜の煮物、もやし炒め、金平、卵スープ


午後6時半、日本料理店開店。昨日も雨。お客さんはゼロ
だった。今日も雨なのでどうなるか?と子どもたちも
心配していた。

午後7時半、イタリア人・フランス人夫妻4人が来店。
ロンリープラネット(欧米系最大のガイドブック)を
読んで来たとのこと。「貴方がMR JASS MANか?」
と聞かれる。日本料理店の住所が違っているとの
指摘。以前のトンチンカンホテルの住所になっている。
お客さんはロンリープラネットのメールアドレスを示し、
ここに連絡し、訂正するようにとのこと。
「ごぼう」とはどんな食べ物かを聞かれる。
テンプラ、トリのから揚げ、生ビール、テンプラそばを
注文。

その後、8時20分頃、欧米系の女性2人が来店。
午後8時40分、更に2人の欧米系の来客あり。
フランスから来たNGO。明日隣のクアンチ省に
行くとのこと。
雨の中、良く来てくれたと感謝の気持ちである。
子どもたちもせっかく準備した料理が無駄になるので
お客さんが来ることは喜びである。
欧米系の来客8人ということで、リー君が活躍。
ホンニー店長の通じない部分をリー君が通訳していた。
最終フランス人が帰ったのは午後10時過ぎ。
護送船団方式で「ハイリーホテル」着、午後10時20分。
帰宅は雨の中。


投稿者 koyama : 18:36 | コメント (0)

2008年03月06日

K大学学生と懇談:日本料理店全員会議

曇りのち雨    休肝日

ほぼ終日雨。気温22度。

午前5時半起床。
午前7時朝食。今朝は久しぶりに全員が揃い朝食となる。
リー君が今朝から朝食に復帰。朝からニコニコしている。
彼の心の中の何が変化したのか?

朝食、チャオバンカン。(小麦粉の煮込みうどん)


午前8時過ぎ、洗濯機の修理に2人の修理人が来る。
昨日はオートバイ修理研修センターのスタッフが修理した
のだが、配線問題などもあり、途中でストップ。
今朝は修理の「専門家」と称する人を一人連れてやってくる。
5階の洗濯機の部屋は私の引越しの荷物がたくさんある。
そんな事情もあり、ハンナ先生が5階洗濯室に待機し
修理の様子を監督。

リー君も運搬を手伝う。


午前8時過ぎ、「ハイリーホテル」を出てベトナム事務所へ。
ベトナム事務所には、東京のK大学政治経済学部・法学部の
3人の学生が待っていた。
午前11時まで2時間半、政治・経済・ボランティア・海外支援・
人生・新自由主義などの話をする。


「ハイリーホテル」へ戻る。雨が降っていた。

洗濯機の修理はまだ終わっていなかった。
ヒーターが壊れただけなのだが、なかなか修理が進まない。
かえって故障箇所が増えたような来もする。修理は途中休憩。

午前11時40分から昼食。
ブン(米の麺)の「野菜つけ麺」。美味しい。


午後1時から午後2時まで昼寝。
午後2時から午後4時まで洗濯機修理作業の監督。
色々と修理作業はしているのだが、何度やっても
ヒーターがつかない。最後は、「ヘヤードライヤー」を貸して
欲しいとのこと。私のドライヤーを貸す。洗濯機の配線部分を
ヒーターで温めている。あまりに湿度が高いので配線部分が
湿気でショート気味。配線部分を乾かす作戦のようだ。

午後4時、雨の中、合羽を着てベトナム事務所へ。
午後4時半、日本料理店全員会議。



(小山)●皆さんが日本料理店で仕事をする目的
     ・多くのお客さんに日本食を提供し、収益を上げる
     ・美味しい日本料理を提供する
     ・お客さんに高度のサービスを提供する
    ●自分の分担部分だけでなく、常に自分が店長と
      なったつもりで、全体の動きを見て行動して欲しい。
    ●今日の日本料理店会議は、お互いの仕事の内容を
      一層向上させ、お客さんに喜んでもらうための
      日本料理店にするために忌憚のない意見を言って
      欲しい。
(税田)●毎日の夕食時、1品は日本料理を出して欲しい。
     日本人が味のチェックをする。常に品質の高い
     日本料理を提供したい。
    ●スカーフをきちんとつけて欲しい。これは髪の毛が
      料理に落ちないために必要なもの。
     また、名札をつけていない人もいるので、必ずつける
     ように。
      髪をスカーフの中にいれるように。後ろにたらして
     おかない。
    ●日本料理店の食料品を勝手に使って料理を作り、
     内緒で自分たちで食べないように。
      また、日本料理店で髪を洗ったりしないように。
      髪は「ハイリーホテル」や「子どもの家」で洗うこと。
     日本料理店で洗濯などをしないように。これも
     「ハイリーホテル」や「子どもの家」ですること。
    ●風邪を引いたり、体調を崩した時には無理に
     日本料理店に出勤しないように。細菌などが
      食品に混入することがあるので・・・。
    ●食器数を数えて欲しい。大分食器がなくなっている。

(ニー店長)●餃子の写真をメニューに入れて欲しい。
         天ぷらそばなどの写真もメニューに入れて欲しい。
(フエン)さつま揚げなどの注文がないので、メニューから
     はずしたい。
(フエン)リー君は掃除をしないし、日本料理店の前の
     かばん屋に入り浸りになって、日本料理店の仕事を
     していない。
(グエット)リー君は日本料理店の仕事をしていない。
(リー)俺はやっている
(ニー)水掛け論だ。今後、リー君がしっかりと仕事をすると
    約束することが大事だ。
(リー)皆が俺の悪口を言う。
(ニー)8時50分頃来客があった場合は、入店を断っているが
    帰りの時間が少し遅くなっても良いから、9時頃来る
   お客は入店させたい。

午後6時、夕食。ベトナム風チャーハン




午後6時半日本料理店開店。

結局雨もあり来客ゼロ。

午後9時、日本料理店閉店。子どもたち・日本人スタッフ
と一緒に「ハイリーホテル」に帰る。

読書「与謝野源氏」。関谷・絵合。

投稿者 koyama : 18:18 | コメント (0)

2008年03月05日

地球の歩き方ツアーⅢ活動開始

終日雨。

気温20度。気候の変動が大きい。

午前5時起床。昨日は疲労が募り午後8時に就寝。
熟睡した。

午前7時朝食。「おかゆ」。


今朝もリー君はいない。最近、朝食も昼食も一緒に摂らない
ようだ。問題あり。

午前8時過ぎベトナム事務所へ。昨夜、地球の歩き方ツアーⅢ
がフエに到着。今朝から活動開始。8時半にベトナム事務所
を訪問。17人と添乗員。


初めにバオミンさんがベトナム事務所員の紹介。


地球の歩き方スタディーツアーの皆さんはベトナム事務所
3階の刺繍みやげ物店を参観。

雨の中バスで「子どもの家」へ。
「子どもの家」ではバオミンさんの案内で「子どもの家」の
各施設を参観。クアンさんも案内の様子を参観する。


2階「子どもの家」の部屋にはフエ医科大2年生の
フオンさんの成績表彰状が飾ってあった。
2006年~2007年の学期にフエ医科大学で
成績最優秀賞を受賞した。

「子どもの家」では静岡市出身の学生さんたちが子どもたち
と昼食を作っていた。


午前9時半~午前10時40分まで私の講演会。

その後、子どもたちと地球の歩き方ツアーⅢの皆さん(17人)
と文化交流。

日本側の歌の出し物

交流会後、子どもたちと庭や建物内で交流。


「京滋YOUの会」のF君も「子どもの家」を訪問。

午前11時半、「子どもの家」を後にする。
昼食。「フォーサイゴン」でフォーサオ(フォー炒め)を食べる。

午後1時過ぎベトナム事務所へ。その後「ハイリーホテル」へ
戻る。昼寝。

午後2時半、ベトナム事務所で訪問者と1時間半懇談。
愛知万博で行われた「世界ストリートチルドレン絵画展」で
お世話になった「ストリートチルドレン芸術祭」のKさんと
話し合う。

午後5時、リー君を呼んで話し合う。
勤務時間中、日本料理店前のかばん屋の行き手伝いを
する、朝食・昼食をみんなと一緒に食べないなど
行動に問題がある点を指摘。勤務時間中は日本料理店
でしっかりと仕事をすること、かばん屋の人間とトランプの
ギャンブルをしないことなどを話す。リー君は「分かった」
と言ってはいたが・・・・。

午後5時半、夕食。フエに帰って2週間。来客の対応が多く、
子どもたちと夕食を摂るのは2回目。


午後6時半、日本料理店開店。
早速、欧米系の来客2名。生ビールを1杯飲んで帰る。
更に欧米系。カツライス。
午後9時半日本料理店閉店。
日本人1人、欧米系5人。合計6人の来客。ありがたいことで
ある。こんな寒い日によく来てくれたと感謝。

閉店後、リー君が「先生飲みましょう」との呼びかけ。
護送船団方式で「ハイリーホテル」へ帰る。

前もって帰っていたリー君がハイ君と協力して
フダビール10本とスルメをおつまみに買って来る。
午後11時まで一緒に飲む。久しぶりにリー君の
笑顔が出てきた。リー君は基本的に宴会の好きな子だ。

午前0時就寝。


投稿者 koyama : 21:11 | コメント (0)

2008年03月04日

静岡大学代表団:全国大学生協スタディーツアー帰国

晴天

川田龍平さんが結婚した。おめでとう。


気温26度。暖かくなる。やっと例年の気候。

午前5時半起床。
午前7時朝食。インスタントラーメン。
リー君は大学生協スタディーツアーの皆さんと昨夜から
農村ホームステー。今朝は不在。


午前8時半、ベトナム事務所へ。
静岡大学の皆さんとフエ郊外の農村地帯にある
ファンダンルー高校を訪問。静岡大学への留学勧誘活動を
行う。


フォンダンルー高校校長先生・副校長先生

1時間ほどの説明と意見交換の後、数学の授業を参観。
静大工学部の先生の話によると相当高度の数学を
勉強しているとの話だ。

午前10時過ぎファンダンルー高校を出る。


続いてハイバーチュン高校を訪問。
ハイバーチュン高校は1917年創立。
1975年前まではベトナムで最高の女子高だった
とのこと。
校長先生は以前、ヤーホイ高校の校長先生だった。
顔見知りである。

静岡大学留学についての細かい話を行う。
ハイバーチュン側からかなり参考になる意見をもらう。

午前11時過ぎ、訪問を終了。

その後、ベトナム事務所3階の刺繍土産物店で刺繍を
買って頂く。

午後12時過ぎ、昼食。大衆食堂「コードー」で
「豚肉と海老の塩辛」「アヒルの玉子焼き」「煮魚」
「モヤシ炒め」「ニガウリのすーぷ」で食事。

久々の太陽。道路も明るくなった。

昼食後、静大の皆さんと一緒にドンバ市場を視察。

午後2時半、ドンバ市場を出てフエ空港へ。

今回10回にわたる「静大留学」の説明を行う。
精力的な現地視察・交流・説明であった。

同時刻、フエ空港に全国大学生協スタディーツアーの
皆さんが帰国のためやってきていた。
税田さん・クアンさん・ソンさんの引率。


「子どもの家」卒業生のソン君が段々「一本立ち」出来るように
なりつつある。
フエ空港ではお客さんのチェックイン手続きを行い、
ボーディングパスを一人一人に渡していた。

ソンさんのお別れの挨拶。なかなか立派なことを
日本語で言っていた。


新しくスタッフになったクアンさん。

全国大学生協スタディーツアーの皆さんは5日間のフエ滞在で
何かを学んでくれることを祈る。
(ベトナム事務所への連絡はkoyamavn@dng.vnn.vn)

午後4時過ぎ、ベトナム事務所へ戻る。
さすがに疲れが出る。

夕食を摂らずに「ハイリーホテル」へ戻り休む。
税田さんが夕食を持ってきてくれる。感謝。

投稿者 koyama : 19:23 | コメント (0)

2008年03月03日

グエンフエ高校など訪問し静大の広報活動

晴天

フエに戻り2週間ぶりの晴天。
気温27度。

午前6時起床。
午前7時朝食。フランスパン(玉子焼きリ入り)

午前8時半、静岡大学代表団(5人)、バオミンさんと
一緒にフエ市人民委員会表敬訪問。
タン副市長・トアン共産党人事部長・トアン財政部長・
ニエン外務部長などと懇談。

●タン副市長挨拶

●静大挨拶
2009年10月入学の件についてフエ市人民委員会と
意見交換


午前9時半、トゥアティエンフエ省教育局長と懇談。
静岡大学は2009年10月入学にアジアからの特別留学生を
募集する。その件について懇談。
省教育局からいくつかの意見を聞く。
静大留学生計画に全面賛成。最大限の協力を約束。
既に県下20数高校に静大と協力して留学生を日本へ送る
機会を作るよう県立高校長へ通達を出している。

教育局長と全員写真


2009年10月入学、2009年6月入試を暫定的に
予定している。
JASSベトナム事務所が静岡大学現地連絡事務所として
活動するとの成約が成立。
2008年4月には、静岡大学工学部入試のための学校説明会
をフエで行う。先生、生徒、保護者を対象に静大の説明、
工学部の説明、入試、授業料、日本での生活費等の説明を
静大の担当者が直接説明する。JASSベトナム事務所は
静大の関係者の説明会を成功させるために事前の
学校当局と打ち合わせ、準備、広報を行う予定。

午前11時半。フエ高等師範大学を訪問。大学間交流の
打ち合わせ。
初めにフエ高等師範大学の日本語学科を参観。

その後、学長先生と懇談。



午後12時、フエ市人民委員会主催のお別れ昼食会。
市内から7キロ離れた山の中腹にある豪勢な料理屋で
昼食会が行われた。昼食会は今後の静大とフエ市人民委員会、
JASSとフエ市人民委員会との団結と協力・共同を確認しあった。



午後2時、農業大学を訪問。大学間交流について意見交換。



午後3時、フエ医科大学を訪問。
静岡大学が進めようとしている「バイオ・ハザード」プロジェクト
での協力・共同を話し合う。

午後4時半、グエンフエ高校を訪問。
静大工学部への留学の件について具体的な話し合いを
進める。
校長先生は積極的に静大留学を進めると言明。


午後5時半、ザーホイ高校訪問。

静大入試についての話をする。ザーホイ高校の実情を
聞く。午後6時に終了。

その足でホテルへ戻る。
静大の皆さんはホテルで一休み。
私はベトナム事務所に戻り日記を書く。
バオミンさんは、静大のTさんと会計の打ち合わせ。


午後7時過ぎ、静大代表団(5人)と静大現地連絡事務所に
なったJASSベトナム事務所との顔合わせ交流・懇親会を
行う。ベトナム事務所側からは、バオミンさん・ハンさん・
税田さん・ハンナさん・千草さん・私が出席。
静岡大学A理事・B副学長・C学長補佐・D教務部長・
T学生安全課副課長が出席。



静大の皆さんは1分の休みもなく、7箇所の訪問を
行った。精力的な活動である。議員さんの地方視察や
海外視察がとかく「大名旅行」になりがちだが、
静岡大学代表団(5人)のフエ視察・打ち合わせは
100%が業務であり、遊びなど全くない、密度の
濃い視察旅行である。こうした真面目な視察をする
人たちもいることを世間の人に知ってもらいたいものである。

今日は1日で8回の懇談会を行った。
13時間連続の仕事だった。


投稿者 koyama : 20:21 | コメント (0)

2008年03月02日

静岡大「子どもの家」視察

久しぶりに太陽が少しを顔を出す。


気温24度。湿度85%。

午前6時起床。今日は日曜日で朝食がない。

午前8時ベトナム事務所へ。
午前8時半、静岡大学代表団ベトナム事務所を訪問。
ベトナム事務所会議室で2時間ほど懇談。
私の方からJASSの歴史、フエでの存在などを話す。
約時間ほどの懇談会

午前10時半、ベトナム事務所を出て王宮見学。
私とバオミン運営委員長が案内。

その後、「子どもの家」へ。
「子どもの家」ではセン委員長の歓迎の挨拶
初めに静岡大学代表団より支援物資贈呈

施設参観

午後12時過ぎ、昼食。
チャオバンカン(米とキャッサバの麺)

そのままベトナム事務所に待機し、午後2時から
日本語学校を視察。観光基礎コースの授業。
ハンナ先生の授業。

日本語学校学生と懇談。日本語能力の水準を調査。




午後3時半過ぎ、フールー小学校視察。
船上生活者の師弟が多数通っている。
10年ほど前静岡県中部電力平和委員会より
校庭の舗装をして頂いた。その後の様子を視察。

午後5時。フエ市共産党委員会主催の夕食会。
ちょうど1ヶ月ほど前、共産党人事部長など4人の
役員が静岡大学を訪問し交流。今日はその返礼の晩餐会。


ユンフエ市共産党委員長挨拶


午後8時過ぎ、懇談会終了。
日本料理店へ帰る。既に大学生協スタディーツアーの
夕食会は終了していた。

税田さん・ハンナさん・千草さん・リー君・ニーさんなどと
少しビールを飲み、ベトナム事務所で日記を書き上げ
「ハイリーホテル」へ戻る。

昼間は少し太陽が出て多少温かくなったが、夜は相変わらず
寒い。

「簡易湯たんぽ」を考え出した。圧力鍋に沸騰したお湯を入れて
バスタオルで包み、布団の足下に入れる。温かい。
熟睡できる。

今日は朝食抜きで1日の仕事だった。かなり体にこたえた。

静岡大学代表団の皆さんは精力的に視察を行っていた。
また、ベトナム事務所員全員が大学生協スタディーツアーの
案内、夜の日本料理店で交流会などに活躍した。
ベトナム事務所・日本料理店の皆さんに感謝。
これか1ヶ月ほどは日曜日もなく仕事をするようになる。

投稿者 koyama : 22:53 | コメント (0)

2008年03月01日

静岡大学代表団来訪:3・1ビキニデー

終日小雨・曇り

気温14度。湿度85%。

午前5時半起床。寒くて起きられない。
午前7時、朝食。チャオバンカン(小麦粉の煮込みうどん)
温かい煮込みうどんでほっとする。


リー君は大学生協の皆さんとナムドン山岳少数民族を
訪問する担当だと言って朝食も摂らずにベトナム事務所へ。

午前7時半から5階の自室と隣りの部屋の掃除。
訪日や来客案内のために約1ヶ月半近く掃除をしていなかった
ため、かなり埃があった。箒で掃き水拭き。
自室の荷物の整理。洗濯。

午前10時頃、大家さんが工事人を連れてやってくる。
昨年12月15日の引越し時に2階から水漏りがしていた。
1階の天井がびしょ濡れ。大家さんに話し、業者を呼んで
修理をしてもらった。それでも数日しても水漏りが直らない。
業者に話すと「2階に溜まった水が全部出てしまえば
水漏りはない」との返事。それから2ヶ月半。
1階天井の水漏りは、その面積を増大させ、1階天井の
半分ほどに至っている。朝食を摂る場所を何度か移動。

数日前バオミンさんに話し、再度大家を呼ぶ。
業者が2階のトイレ・風呂場を点検する。
その際、2階リー君・ハイ君の部屋は掃除をしていなので
くさい、掃除をするようにといわれる。
業者の話は「水漏りとは関係ない話」と思いつつ、二人の部屋を
点検するとトイレの掃除をしていない、部屋の掃除をして
いないので相当な「異臭」を放っている。
トイレ掃除、室内掃除の仕方をしっかりと教えなければ
ならないと痛感。

ついでに業者に対し、玄関の鍵が壊れているので
直すよう要求。直してくれる。

資料の整理。

「子どもと教育」2008年5月号の原稿の構想

全国大学生協スタディーツアーは、ナムドンの
山岳地帯へ。税田さん・ソン君・クアンさん・リー君などが付き添い
案内。

その間、バオミンさんと電話で静岡大学訪問日程の
細部について打ち合わせを行う。

午前11時半昼食。引き続き、天井の水漏りは続く。

昼食

日本語の先生の仕事が長引く。子どもたちと
定刻に昼食を摂る。
油揚げのトマトソース煮、「カイ」という野菜の漬物の
油炒め、野菜スープ、ご飯。



ハイ君の食事を隣りで見ていた。4杯ご飯を食べた。
23歳。食べる時期なのか? 先日、最近問題はない?
と聞いてみた。「仕事で疲れる」と言っていた。
1日中「ハイリーホテル」での門番は大変なのかも
しれない。午後5時頃「ハイリーホテル」を出て
日本料理店で夕食。午後6時半頃「ハイリーホテル」に
帰り、警備員の仕事をすることになっているのだが、
時々7時頃、物を取りに「ハイリーホテル」に帰ると
「警備員氏」がいない。他の日本人からも時々
午後7時過ぎに「ハイリーホテル」に戻ると警備員氏が
いないとの声も聞く。噂では喫茶店に行っているとのこと。
若いので致し方のないことなのかもしれないが・・・・。

午後1時読書。「与謝野源氏」(澪標)
午後1時40分、「ハイリーホテル」を出てベトナム事務所へ。
バオミンさんと一緒に「フエ医科大学」へ。
静岡大学代表団とフエ医科大学懇談の内容について、
その細部を詰める。

午後3時半「ハイリーホテル」へ戻る。

4月初めまでの訪問者案内日程をバオミンさんに
送ってもらう。
4月初めまでほとんど休みはないことが判明。
毎日、多くの訪問者への対応がある。

読書「与謝野源氏」
・澪標(みおつくし)ー赦免された源氏が京へ戻り復権。
    明石に残し女児を生んだ明石の君と
    住吉詣で出会いすれ違う。
     後段は六条の御息所(みやすんどころ)の死と
    娘の元斎宮の引き取りにからむ微妙な人間の心理。
    「みおつくし恋ふるしるしにここまでもめぐり逢いける
     縁(えに)は深しな」と源氏が詠み、
    「数ならでなにはのこともかひなきに何みをつくし
     思い初めけん」と明石の君が返歌する。
・蓬生(よもぎう)
    末摘花は源氏が須磨・明石に流されて生活の
    糧を絶たれてしまう。源氏が復権し京に戻って
     からも源氏は末摘花を忘れてしまうが、末摘花は
    いつまでも源氏が来るのを待っている。
    目的地へいく途中で偶然朽ち果てた末摘花の家の
    前を源氏が通りかかり、声をかけ関係が復活。
    と言っても末摘花の生活の面倒を見るということ。
     末摘花の家が朽ち果て庭に「蓬(よもぎ)が
    生えて家も見えなくなるほどに荒れているというので
    蓬生と表題がついたのか?
    「尋ねてもわれこそ訪(と)はめ道もなく深き蓬の
     もとの心を」と源氏は歌った。


午後5時、バオミンさんが車で「ハイリーホテル」へ
迎えに来てくれる。
バオミンさんと二人でフエ空港へ。
静岡大学露無副学長など5人の代表団の出迎え。

10分遅れの午後6時30分にフエ空港到着。


車で夕食会場の「フォーサイゴン」へ。
フォーの夕食。

午後9時ホテルへ。

大学生協スタディーツアーは午後6時半から夕食会。
ソン君・クアンさんが案内。

日本料理店は税田さんたちが・・・。

午後9時過ぎ、「ハイリーホテル」へ帰る。

今日は3・1「ビキニデー」。
太平洋のビキニ環礁で1954年3月1日、遠洋マグロ漁船
「第五福竜丸」が米国の水爆実験で被ばくしてから54年を迎えた。
「唯一の被爆国日本」と言っている人が多いが、
マーシャル諸島共和国など当時のマーシャル諸島の住民が
アメリカの水爆実験の「モルモット」とされている。
被爆国は日本だけではない。
1961年から1971年までのベトナムでの枯葉剤散布も
壮大な人体実験。
アメリカという国は大きな過ちを犯している。
力が強い、経済力がある、唯一の超大国というだけで
勝手気ままな行動をすることは許されない。
沖縄米兵の少女暴行事件。少女側が告訴と取り下げ
事件は収束した。その裏にどれだけのお金が動いたことか?
未だに日本はアメリカの植民地であることは明白。
半植民地状態の日本。日米地位協定では、米兵の
犯罪は基本的には、アメリカに捜査と裁判権がある。
独立国家日本と言えない現状が事実上ある。
1954年3月1日のビキニ環礁での第5福竜丸の
水爆実験の被爆。久保山愛吉さんなど多数の
乗組員が死亡した。

  

2000年3・1ビキニデー焼津アピーール

 

 

 わたしたちは、二〇〇〇年の今年、46回目のビキ二デーを迎え、核兵器のない21世紀を築く決意を新たに、ここ焼津にどいました。

 1954年三月一日にアメリカが太平洋ビキニ環礁でおこなった水爆実験な、広島原爆の一千倍を越える威力をもち、マーシャル諸島の島民と第五幅竜丸をはじめ約一千隻の日本漁船に被害を与えるとともに、「原爆マグロ」や「放射能雨」をもたらし、日本国民に大きな衝撃を与えました。

 「広島」・「長崎」の惨禍につづく三たびの核兵器による被害をうけて、原水爆禁止の世論と運動が全国にひろがり、翌一九五五年、第一回原水爆禁止世界大会が開かれ、いらい今日まで核兵器廃絶を求める運動はたゆみなく前進し、世界の大きな流れに発展しています。

 「ヒロシマナガサキからのアピール」署名は日本国内で5900万をこえ、非核宣言自治体は全自治体の75パーセント2483自治体に達し、海外では東南アジアなど非核地帯がふえるとともに、核兵器廃絶を求める草の根からの世論と運動が、アメリカをふくめ世界各地でひろがっています。昨年の第54回国連総会でも、非同盟諸国提案の決議とともに、非核国政府の「新アジェンダ(課題)連合」の提案による「すみやかな核兵器廃絶の誓約」を核保有国に求める決議が圧倒的多数で採択され、アメリカなど核兵器にしがみつく政府は、これまでになく孤立を深めています。しかし、世界にはいまなお3万発の核兵器が存在し、脅威を与えづけています。アメリカは、「安全に対する最高の保障」として核兵器を21世紀にむけて独占し、核兵器先制使用と武力干渉の政策を強めており、包括的核実験禁止条約(CTBT)の批准を否決しました。ロシアも未臨界核実験をくりかえし、核兵器使用条件を拡大する政策見直しをおこなっています。

 このような核保有国の横暴をいつまでも続けさせるわけにはいきません。いまこそ、世界の人々と連帯して世論と運動をひろげ、核兵器廃絶を核保有国に迫り、2000年を核兵器廃絶へのいっそうの前進の年とし、核兵器のない21世紀への展望をきりひらこうではありませんか。

 このようなとき、日本政府は国連ですみやかな核兵器廃絶を求める諸決議のすべてに棄権し、「究極廃絶決議」を提案して、核兵器廃絶を妨害しつづけています。この背景には、アメリカの「核の傘」を受け入れ、アメリカと「密約」を結んでまで核兵器の持ち込みを容認してきた日本政府の許しがたい姿勢があります。これは、新ガイドライン、戦争法のもとでアメリカが必要とすればいっでも核兵器が持ちこまれ、沖縄をはじめ日本全土がアジア諸国への核攻撃基地となる危険をも示しています。

 2000年3・1ビキニデーを新たな出発点とし、各国政府と国連にすみやかな核兵器廃絶のための具体的な措置を求め、日本政府に核兵器容認政策の根本的な転換を要求し、全力をあげて運動をおしすすめましょう。この実現を願うすべての人々、団体、自治体とも協力し、世界の人々や非核国の政府とも連帯を広げましょう。2000年の運動の焦点となる原水爆禁止2000年世界大会の圧倒的な成功のため、力をあわせましょう。

 世界大会にむけ、原水爆禁止国民平和大行進をはじめ、核兵器廃絶のための広範な行動と共同・連帯をいっそうひろげましょう。広島・長崎の被爆とビキニ被災の実相をひろげ、松谷裁判をはじめ原爆症認定訴訟の勝利をめざす運動やビキニ被災者への援護を求めるたたかいなど被爆者と被害者との連帯をすすめ、核兵器廃絶署名、原爆展、非核の自治体、非核の港づくり運動なゼ、草の根から核兵器廃絶と非核の日本を築く世論と運動をさらに大きくすすめましょう。「原水爆の被害者はわたしを最後に」の久保山愛吉さんの遺言と、世界のすべての被爆者・核兵器被害者とその遺族の願いを胸にきざみつつ、「核兵器のない21世紀」の実現をめざして核兵器廃絶の大きな共同をつくりだしましょう。

     2000年3月1日   被災46周年200年3・1 ビキニデー集会

 

 


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□被災46周年 2000年3.1 ビキニデー集会開催よびかけ

 

 人類はまもなく新しい世紀を迎えようとしています。2000年という歴史の節目を迎えて、核兵器の脅威を21世紀にはひきつがせない、との声が世界に大きくひろがっています。

 そしていま、核兵器廃絶を求める世界の世論と運動が前進し、国際政治のうえでも新たなうごきがおこっています。1999年の第54回国連総会では、非同盟諸国などの決議案に加えて新アジェンダ連合が核保有国にたいして「早期かつ完全な核兵器廃絶を達成するために明確な約束」を求める決議案が、圧倒的多数の国の賛成で可決され、核兵器にしがみつく政府の孤立をいっそうきわだたせています。にもかかわらずアメリカは、核兵器の独占と核優位を保持するために未臨界核実験をくりかえし、包括的核実験禁止条約の批准さえ拒否し、その横暴さには、核保有国などからも批判の声があがっています。

 

 最大の核保有国アメリカでは、バーモント州の30を超えるタウンミーティングから核兵器廃絶の決議があがるなど、世界各地で核兵器のない21世紀を築こうとする人々の草の根からの世論と運動がひろがっています。

 このようなとき、すみやかな核兵器廃絶のための諸決議に賛成せず、「究極廃絶」決議をくりかえし提案して、核兵器廃絶を妨げている日本政府を許すことはできません。この背景には被爆国でありながら、「核の傘」を受け入れ密約までも結んで核持ら込みを許し、戦争法を強行するなど政府の異常な姿勢があります。

 こうしたもとで2000年の一年間を核兵器のない二一世紀への転換の年とするために、内外で核兵器廃絶の共同をひろげ大さなうねりをつくりだすことが求められています。

 

 全国のみなさん2000年3.1ビキニデーは、1954年三月一日、アメリカが太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁でおこなった水爆実験による被災から四六周年にあたります。ビキニ水爆被災事件は、広島・長崎の惨禍を思いおこさせ、また地球的規模の放射能汚染とそれによるいのちとくらしの危険、自然破壊の恐怖を実感させ、広範な国民の原水爆禁止の世論はいっきに高まりました。

原水爆禁止運動を日本と世界にひろげる契機となった3.1ビキニデーの歴史的意義をふまえ、核兵器廃絶の方向へと前進する2000年の運動の出発点として、被災四六周年のビキニデーを成功させましよう。

 

 核兵器の恐ろしさを身をもって体験し、その廃絶を訴えつづけてきた広島・長崎の被爆者の声を世界に伝え、核実験被害者と連帯して、核兵器全面禁止・廃絶、被害者援護・連帯の内外の共同と連携を大きく発展させましょう。第五幅竜丸乗組員をはじめ放置されてきたわが国のビキニ水爆被災者の実情を調査し、被害の補償を求める運動をすすめましょう。

 人類最初の水爆実験の犠牲者久保山愛吉さんの「原水爆の被害者はわたしを最後に」の訴えと被爆者.核実験被害者とその遺族の願いを胸にきざみつつ、日本政府がアメリカの核政策への追随をやめ、広島・長崎.ビキニの「三たびの被爆国」として、核兵器廃絶の先頭に立つつよう迫りましょう。

 原水爆禁止2000年世界大会の成功と核兵器廃絶の運動のいっそうの前進をめざし、核兵器のない21世紀を願うすべての人々との共同と連帯をひろげ、2000年3.1ビキニデー集会に全国の草の根から参集されるようよびかけます。

 

1999年12月17日

 

原水爆禁止世界大会実行委員会被災46周年2000年3.1ビキニデー静岡県実行委員会


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□3.1ビキニデーとは

1954年三月一日未明、アメリカは西太平洋ビキニ環礁で大規模な水爆実験を行い、焼津のマグロ漁船第五幅竜丸をはじめ太平洋で操業していたわが国の約一千隻の漁船が、マーシャルなど太平洋諸国民とともに被災しました。第五幅竜丸の23人の乗組員はふりそそぐ「死の灰」によって、焼津に帰港後全員が放射能症にかかり、半年後の9月23日無線長の久保山愛吉さんが亡くなりました。広島・長崎の原爆につづく三度の核兵器による被害は、世界中に大きな衝撃を与えました。また、広島原爆の一千倍の威力をもつビキニ水爆実験は、地球的規模での放射能汚染と、それによるいのちとくらしと環境の破壊の恐怖を人類にはじめて実感させました。

原水爆禁止の署名は一年余りで3400万に達しました。翌年には第一回原水爆禁止世界大会が広島で開かれるなど原水爆禁止の国民的な世論と運動をひろげる契機となりました。3.1ビキニデーは、人類初の水爆実験の犠牲者となった久保山愛吉さんの「原水爆の犠牲者はわたしを最後に」の遺言と妻すずさんの「ヒバクシャとその遺族が生きているうちに、一発残さず核兵器をなくしてください」というおことづてを胸にきざみつつ、毎年焼津市で開催されています。


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1954年3月1日
ビキニ被災四十五周年によびかける-

埋田昇二

1

その日

日本時間午前三時五十分

夜明けにはまだ少し間のある昏い海に突然閃光が炸裂した

17メガトン!

広島原爆の1200倍!

第二次世界大戦で使用したすべての砲爆弾の威力の合計の5.5倍という

観測していたアメリカの科学者の予想をもはるかに超えた途方もない巨大な火の玉を

人間が

いや人間の皮を被った悪魔の心をもった怪物の手がつくりだした

数千万度の火の柱がマーシャル諸島・ビキニ環礁のサンゴ礁を吹き飛ばした

アメリカはこの水爆に「ブラボー」(万歳)という御日出たい名前を付けて喜んだ焼津のマグロ漁船第五福竜丸はビキニ環礁の東方160キロ

アメリカ軍が設けた航行禁止海域の30キロの外で操業していた

延縄作業が終わって一息ついたそのとき

暗い海に閃光が走り

一瞬空も海も船も焼けただれるように真っ赤に染まった

「太陽が昇るぞ」

「馬鹿言え!西野空から太陽が昇るか!」

「海底火山の爆発かなあ」

「ピカドンじやねえか」

誰かが小さな声でつぶやいた

答えるものもなくみんな押し黙った

 

数分後

ドドドドドドドド

海の底から突き上げてくるような轟音が船を揺り動かした

間もなく小雨がふりはじめ

雨にまじって奇妙な白い灰のような粉末が雪のように舞い降りてきた

乗組員のだれもがその奇妙な灰に恐るべき放射能を含んでいたことなど知るよしもなかった

降りそそぐ「白い灰」はようしゃなく乗組員の肩に降りそそいだ

 

ビキニ環礁の東方240キロ離れたロンゲラッップ島でも

少し離れたアイリングナェ島でもウトリック島でも

真っ赤な閃光と島を揺るがす爆音と激しい爆風が通り過ぎて五、六時間後

白い灰が日没まではげしく降りしきった

ビキニ周辺から船と人が消えて

マーシャル諸島島民だけが厚い放射能雲の下で九2日から3日の間取り残された

 

2

バリッバリッバリッバリッ

日本の港という港で放射能を測定するガイガーカウンターから

トタンを金棒で叩くような不気味な音がした

まぐろが悲鳴をあげている!

原爆まぐろが悲鳴をあげている!

知らずにまぐろを食べてしまったひとも悲鳴をあげた

魚屋も寿司屋も悲鳴をあげた

魚だけでなく

その後も続いた核爆発実験によって

ふりそそぐ黒い雨からも放射能が検出され

京都では最高八万カウントが測定された

野菜や米も食べられない!

牛乳も飲み水もあぷない!

底知れぬ不安と恐怖がからだの芯の奥底から湧きあがってきた

 

その年九月二十三日

国立第一病院の医師の懸命の看護と

妻すずさんと子どもたちの励ましと祈りにもかかわらず

第五福竜丸無線長久保山愛吉さんは

ついに急性放射能症によって帰らぬ人となった

人類最初の水爆の犠牲者となった久保山さんは

苦しい死の床で「原水爆の被害者は私を最後にして下さい」

という遺言を残して亡くなった

 

広島・長崎の原爆被爆から九年

原爆許すまじ!

水爆許すまじ!

腹の底から

しぼりだすような声は小さなさざ波から

竜巻のような大きなうねりとなって

日本のいたるところの町や村に海にひろがっ

あれから四十五年

マーシャル ネバダ セミパラチンスクと

世界にひろがる数百万人もの核実験被害者は告発する

「人類は核兵器とは共存できない」

この人類生存の真実の声を

いまこそ

核兵器のない輝かしい二十一世紀を創造するために

広島の原爆詩人峠三吉とともに

世界に呼びかける

人間の良心によびかける

ちちをかえせ ははをかえせ

としよりをかえせ 

こどもをかえせ

わたしをかえせ わたしにつながる

にんげんをかえせ

 

にんげんの にんげんのよのあるかぎり

くずれぬへいわを

へいわをかえせ

投稿者 koyama : 12:34 | コメント (0)