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2008年03月01日

静岡大学代表団来訪:3・1ビキニデー

終日小雨・曇り

気温14度。湿度85%。

午前5時半起床。寒くて起きられない。
午前7時、朝食。チャオバンカン(小麦粉の煮込みうどん)
温かい煮込みうどんでほっとする。


リー君は大学生協の皆さんとナムドン山岳少数民族を
訪問する担当だと言って朝食も摂らずにベトナム事務所へ。

午前7時半から5階の自室と隣りの部屋の掃除。
訪日や来客案内のために約1ヶ月半近く掃除をしていなかった
ため、かなり埃があった。箒で掃き水拭き。
自室の荷物の整理。洗濯。

午前10時頃、大家さんが工事人を連れてやってくる。
昨年12月15日の引越し時に2階から水漏りがしていた。
1階の天井がびしょ濡れ。大家さんに話し、業者を呼んで
修理をしてもらった。それでも数日しても水漏りが直らない。
業者に話すと「2階に溜まった水が全部出てしまえば
水漏りはない」との返事。それから2ヶ月半。
1階天井の水漏りは、その面積を増大させ、1階天井の
半分ほどに至っている。朝食を摂る場所を何度か移動。

数日前バオミンさんに話し、再度大家を呼ぶ。
業者が2階のトイレ・風呂場を点検する。
その際、2階リー君・ハイ君の部屋は掃除をしていなので
くさい、掃除をするようにといわれる。
業者の話は「水漏りとは関係ない話」と思いつつ、二人の部屋を
点検するとトイレの掃除をしていない、部屋の掃除をして
いないので相当な「異臭」を放っている。
トイレ掃除、室内掃除の仕方をしっかりと教えなければ
ならないと痛感。

ついでに業者に対し、玄関の鍵が壊れているので
直すよう要求。直してくれる。

資料の整理。

「子どもと教育」2008年5月号の原稿の構想

全国大学生協スタディーツアーは、ナムドンの
山岳地帯へ。税田さん・ソン君・クアンさん・リー君などが付き添い
案内。

その間、バオミンさんと電話で静岡大学訪問日程の
細部について打ち合わせを行う。

午前11時半昼食。引き続き、天井の水漏りは続く。

昼食

日本語の先生の仕事が長引く。子どもたちと
定刻に昼食を摂る。
油揚げのトマトソース煮、「カイ」という野菜の漬物の
油炒め、野菜スープ、ご飯。



ハイ君の食事を隣りで見ていた。4杯ご飯を食べた。
23歳。食べる時期なのか? 先日、最近問題はない?
と聞いてみた。「仕事で疲れる」と言っていた。
1日中「ハイリーホテル」での門番は大変なのかも
しれない。午後5時頃「ハイリーホテル」を出て
日本料理店で夕食。午後6時半頃「ハイリーホテル」に
帰り、警備員の仕事をすることになっているのだが、
時々7時頃、物を取りに「ハイリーホテル」に帰ると
「警備員氏」がいない。他の日本人からも時々
午後7時過ぎに「ハイリーホテル」に戻ると警備員氏が
いないとの声も聞く。噂では喫茶店に行っているとのこと。
若いので致し方のないことなのかもしれないが・・・・。

午後1時読書。「与謝野源氏」(澪標)
午後1時40分、「ハイリーホテル」を出てベトナム事務所へ。
バオミンさんと一緒に「フエ医科大学」へ。
静岡大学代表団とフエ医科大学懇談の内容について、
その細部を詰める。

午後3時半「ハイリーホテル」へ戻る。

4月初めまでの訪問者案内日程をバオミンさんに
送ってもらう。
4月初めまでほとんど休みはないことが判明。
毎日、多くの訪問者への対応がある。

読書「与謝野源氏」
・澪標(みおつくし)ー赦免された源氏が京へ戻り復権。
    明石に残し女児を生んだ明石の君と
    住吉詣で出会いすれ違う。
     後段は六条の御息所(みやすんどころ)の死と
    娘の元斎宮の引き取りにからむ微妙な人間の心理。
    「みおつくし恋ふるしるしにここまでもめぐり逢いける
     縁(えに)は深しな」と源氏が詠み、
    「数ならでなにはのこともかひなきに何みをつくし
     思い初めけん」と明石の君が返歌する。
・蓬生(よもぎう)
    末摘花は源氏が須磨・明石に流されて生活の
    糧を絶たれてしまう。源氏が復権し京に戻って
     からも源氏は末摘花を忘れてしまうが、末摘花は
    いつまでも源氏が来るのを待っている。
    目的地へいく途中で偶然朽ち果てた末摘花の家の
    前を源氏が通りかかり、声をかけ関係が復活。
    と言っても末摘花の生活の面倒を見るということ。
     末摘花の家が朽ち果て庭に「蓬(よもぎ)が
    生えて家も見えなくなるほどに荒れているというので
    蓬生と表題がついたのか?
    「尋ねてもわれこそ訪(と)はめ道もなく深き蓬の
     もとの心を」と源氏は歌った。


午後5時、バオミンさんが車で「ハイリーホテル」へ
迎えに来てくれる。
バオミンさんと二人でフエ空港へ。
静岡大学露無副学長など5人の代表団の出迎え。

10分遅れの午後6時30分にフエ空港到着。


車で夕食会場の「フォーサイゴン」へ。
フォーの夕食。

午後9時ホテルへ。

大学生協スタディーツアーは午後6時半から夕食会。
ソン君・クアンさんが案内。

日本料理店は税田さんたちが・・・。

午後9時過ぎ、「ハイリーホテル」へ帰る。

今日は3・1「ビキニデー」。
太平洋のビキニ環礁で1954年3月1日、遠洋マグロ漁船
「第五福竜丸」が米国の水爆実験で被ばくしてから54年を迎えた。
「唯一の被爆国日本」と言っている人が多いが、
マーシャル諸島共和国など当時のマーシャル諸島の住民が
アメリカの水爆実験の「モルモット」とされている。
被爆国は日本だけではない。
1961年から1971年までのベトナムでの枯葉剤散布も
壮大な人体実験。
アメリカという国は大きな過ちを犯している。
力が強い、経済力がある、唯一の超大国というだけで
勝手気ままな行動をすることは許されない。
沖縄米兵の少女暴行事件。少女側が告訴と取り下げ
事件は収束した。その裏にどれだけのお金が動いたことか?
未だに日本はアメリカの植民地であることは明白。
半植民地状態の日本。日米地位協定では、米兵の
犯罪は基本的には、アメリカに捜査と裁判権がある。
独立国家日本と言えない現状が事実上ある。
1954年3月1日のビキニ環礁での第5福竜丸の
水爆実験の被爆。久保山愛吉さんなど多数の
乗組員が死亡した。

  

2000年3・1ビキニデー焼津アピーール

 

 

 わたしたちは、二〇〇〇年の今年、46回目のビキ二デーを迎え、核兵器のない21世紀を築く決意を新たに、ここ焼津にどいました。

 1954年三月一日にアメリカが太平洋ビキニ環礁でおこなった水爆実験な、広島原爆の一千倍を越える威力をもち、マーシャル諸島の島民と第五幅竜丸をはじめ約一千隻の日本漁船に被害を与えるとともに、「原爆マグロ」や「放射能雨」をもたらし、日本国民に大きな衝撃を与えました。

 「広島」・「長崎」の惨禍につづく三たびの核兵器による被害をうけて、原水爆禁止の世論と運動が全国にひろがり、翌一九五五年、第一回原水爆禁止世界大会が開かれ、いらい今日まで核兵器廃絶を求める運動はたゆみなく前進し、世界の大きな流れに発展しています。

 「ヒロシマナガサキからのアピール」署名は日本国内で5900万をこえ、非核宣言自治体は全自治体の75パーセント2483自治体に達し、海外では東南アジアなど非核地帯がふえるとともに、核兵器廃絶を求める草の根からの世論と運動が、アメリカをふくめ世界各地でひろがっています。昨年の第54回国連総会でも、非同盟諸国提案の決議とともに、非核国政府の「新アジェンダ(課題)連合」の提案による「すみやかな核兵器廃絶の誓約」を核保有国に求める決議が圧倒的多数で採択され、アメリカなど核兵器にしがみつく政府は、これまでになく孤立を深めています。しかし、世界にはいまなお3万発の核兵器が存在し、脅威を与えづけています。アメリカは、「安全に対する最高の保障」として核兵器を21世紀にむけて独占し、核兵器先制使用と武力干渉の政策を強めており、包括的核実験禁止条約(CTBT)の批准を否決しました。ロシアも未臨界核実験をくりかえし、核兵器使用条件を拡大する政策見直しをおこなっています。

 このような核保有国の横暴をいつまでも続けさせるわけにはいきません。いまこそ、世界の人々と連帯して世論と運動をひろげ、核兵器廃絶を核保有国に迫り、2000年を核兵器廃絶へのいっそうの前進の年とし、核兵器のない21世紀への展望をきりひらこうではありませんか。

 このようなとき、日本政府は国連ですみやかな核兵器廃絶を求める諸決議のすべてに棄権し、「究極廃絶決議」を提案して、核兵器廃絶を妨害しつづけています。この背景には、アメリカの「核の傘」を受け入れ、アメリカと「密約」を結んでまで核兵器の持ち込みを容認してきた日本政府の許しがたい姿勢があります。これは、新ガイドライン、戦争法のもとでアメリカが必要とすればいっでも核兵器が持ちこまれ、沖縄をはじめ日本全土がアジア諸国への核攻撃基地となる危険をも示しています。

 2000年3・1ビキニデーを新たな出発点とし、各国政府と国連にすみやかな核兵器廃絶のための具体的な措置を求め、日本政府に核兵器容認政策の根本的な転換を要求し、全力をあげて運動をおしすすめましょう。この実現を願うすべての人々、団体、自治体とも協力し、世界の人々や非核国の政府とも連帯を広げましょう。2000年の運動の焦点となる原水爆禁止2000年世界大会の圧倒的な成功のため、力をあわせましょう。

 世界大会にむけ、原水爆禁止国民平和大行進をはじめ、核兵器廃絶のための広範な行動と共同・連帯をいっそうひろげましょう。広島・長崎の被爆とビキニ被災の実相をひろげ、松谷裁判をはじめ原爆症認定訴訟の勝利をめざす運動やビキニ被災者への援護を求めるたたかいなど被爆者と被害者との連帯をすすめ、核兵器廃絶署名、原爆展、非核の自治体、非核の港づくり運動なゼ、草の根から核兵器廃絶と非核の日本を築く世論と運動をさらに大きくすすめましょう。「原水爆の被害者はわたしを最後に」の久保山愛吉さんの遺言と、世界のすべての被爆者・核兵器被害者とその遺族の願いを胸にきざみつつ、「核兵器のない21世紀」の実現をめざして核兵器廃絶の大きな共同をつくりだしましょう。

     2000年3月1日   被災46周年200年3・1 ビキニデー集会

 

 


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□被災46周年 2000年3.1 ビキニデー集会開催よびかけ

 

 人類はまもなく新しい世紀を迎えようとしています。2000年という歴史の節目を迎えて、核兵器の脅威を21世紀にはひきつがせない、との声が世界に大きくひろがっています。

 そしていま、核兵器廃絶を求める世界の世論と運動が前進し、国際政治のうえでも新たなうごきがおこっています。1999年の第54回国連総会では、非同盟諸国などの決議案に加えて新アジェンダ連合が核保有国にたいして「早期かつ完全な核兵器廃絶を達成するために明確な約束」を求める決議案が、圧倒的多数の国の賛成で可決され、核兵器にしがみつく政府の孤立をいっそうきわだたせています。にもかかわらずアメリカは、核兵器の独占と核優位を保持するために未臨界核実験をくりかえし、包括的核実験禁止条約の批准さえ拒否し、その横暴さには、核保有国などからも批判の声があがっています。

 

 最大の核保有国アメリカでは、バーモント州の30を超えるタウンミーティングから核兵器廃絶の決議があがるなど、世界各地で核兵器のない21世紀を築こうとする人々の草の根からの世論と運動がひろがっています。

 このようなとき、すみやかな核兵器廃絶のための諸決議に賛成せず、「究極廃絶」決議をくりかえし提案して、核兵器廃絶を妨げている日本政府を許すことはできません。この背景には被爆国でありながら、「核の傘」を受け入れ密約までも結んで核持ら込みを許し、戦争法を強行するなど政府の異常な姿勢があります。

 こうしたもとで2000年の一年間を核兵器のない二一世紀への転換の年とするために、内外で核兵器廃絶の共同をひろげ大さなうねりをつくりだすことが求められています。

 

 全国のみなさん2000年3.1ビキニデーは、1954年三月一日、アメリカが太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁でおこなった水爆実験による被災から四六周年にあたります。ビキニ水爆被災事件は、広島・長崎の惨禍を思いおこさせ、また地球的規模の放射能汚染とそれによるいのちとくらしの危険、自然破壊の恐怖を実感させ、広範な国民の原水爆禁止の世論はいっきに高まりました。

原水爆禁止運動を日本と世界にひろげる契機となった3.1ビキニデーの歴史的意義をふまえ、核兵器廃絶の方向へと前進する2000年の運動の出発点として、被災四六周年のビキニデーを成功させましよう。

 

 核兵器の恐ろしさを身をもって体験し、その廃絶を訴えつづけてきた広島・長崎の被爆者の声を世界に伝え、核実験被害者と連帯して、核兵器全面禁止・廃絶、被害者援護・連帯の内外の共同と連携を大きく発展させましょう。第五幅竜丸乗組員をはじめ放置されてきたわが国のビキニ水爆被災者の実情を調査し、被害の補償を求める運動をすすめましょう。

 人類最初の水爆実験の犠牲者久保山愛吉さんの「原水爆の被害者はわたしを最後に」の訴えと被爆者.核実験被害者とその遺族の願いを胸にきざみつつ、日本政府がアメリカの核政策への追随をやめ、広島・長崎.ビキニの「三たびの被爆国」として、核兵器廃絶の先頭に立つつよう迫りましょう。

 原水爆禁止2000年世界大会の成功と核兵器廃絶の運動のいっそうの前進をめざし、核兵器のない21世紀を願うすべての人々との共同と連帯をひろげ、2000年3.1ビキニデー集会に全国の草の根から参集されるようよびかけます。

 

1999年12月17日

 

原水爆禁止世界大会実行委員会被災46周年2000年3.1ビキニデー静岡県実行委員会


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□3.1ビキニデーとは

1954年三月一日未明、アメリカは西太平洋ビキニ環礁で大規模な水爆実験を行い、焼津のマグロ漁船第五幅竜丸をはじめ太平洋で操業していたわが国の約一千隻の漁船が、マーシャルなど太平洋諸国民とともに被災しました。第五幅竜丸の23人の乗組員はふりそそぐ「死の灰」によって、焼津に帰港後全員が放射能症にかかり、半年後の9月23日無線長の久保山愛吉さんが亡くなりました。広島・長崎の原爆につづく三度の核兵器による被害は、世界中に大きな衝撃を与えました。また、広島原爆の一千倍の威力をもつビキニ水爆実験は、地球的規模での放射能汚染と、それによるいのちとくらしと環境の破壊の恐怖を人類にはじめて実感させました。

原水爆禁止の署名は一年余りで3400万に達しました。翌年には第一回原水爆禁止世界大会が広島で開かれるなど原水爆禁止の国民的な世論と運動をひろげる契機となりました。3.1ビキニデーは、人類初の水爆実験の犠牲者となった久保山愛吉さんの「原水爆の犠牲者はわたしを最後に」の遺言と妻すずさんの「ヒバクシャとその遺族が生きているうちに、一発残さず核兵器をなくしてください」というおことづてを胸にきざみつつ、毎年焼津市で開催されています。


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1954年3月1日
ビキニ被災四十五周年によびかける-

埋田昇二

1

その日

日本時間午前三時五十分

夜明けにはまだ少し間のある昏い海に突然閃光が炸裂した

17メガトン!

広島原爆の1200倍!

第二次世界大戦で使用したすべての砲爆弾の威力の合計の5.5倍という

観測していたアメリカの科学者の予想をもはるかに超えた途方もない巨大な火の玉を

人間が

いや人間の皮を被った悪魔の心をもった怪物の手がつくりだした

数千万度の火の柱がマーシャル諸島・ビキニ環礁のサンゴ礁を吹き飛ばした

アメリカはこの水爆に「ブラボー」(万歳)という御日出たい名前を付けて喜んだ焼津のマグロ漁船第五福竜丸はビキニ環礁の東方160キロ

アメリカ軍が設けた航行禁止海域の30キロの外で操業していた

延縄作業が終わって一息ついたそのとき

暗い海に閃光が走り

一瞬空も海も船も焼けただれるように真っ赤に染まった

「太陽が昇るぞ」

「馬鹿言え!西野空から太陽が昇るか!」

「海底火山の爆発かなあ」

「ピカドンじやねえか」

誰かが小さな声でつぶやいた

答えるものもなくみんな押し黙った

 

数分後

ドドドドドドドド

海の底から突き上げてくるような轟音が船を揺り動かした

間もなく小雨がふりはじめ

雨にまじって奇妙な白い灰のような粉末が雪のように舞い降りてきた

乗組員のだれもがその奇妙な灰に恐るべき放射能を含んでいたことなど知るよしもなかった

降りそそぐ「白い灰」はようしゃなく乗組員の肩に降りそそいだ

 

ビキニ環礁の東方240キロ離れたロンゲラッップ島でも

少し離れたアイリングナェ島でもウトリック島でも

真っ赤な閃光と島を揺るがす爆音と激しい爆風が通り過ぎて五、六時間後

白い灰が日没まではげしく降りしきった

ビキニ周辺から船と人が消えて

マーシャル諸島島民だけが厚い放射能雲の下で九2日から3日の間取り残された

 

2

バリッバリッバリッバリッ

日本の港という港で放射能を測定するガイガーカウンターから

トタンを金棒で叩くような不気味な音がした

まぐろが悲鳴をあげている!

原爆まぐろが悲鳴をあげている!

知らずにまぐろを食べてしまったひとも悲鳴をあげた

魚屋も寿司屋も悲鳴をあげた

魚だけでなく

その後も続いた核爆発実験によって

ふりそそぐ黒い雨からも放射能が検出され

京都では最高八万カウントが測定された

野菜や米も食べられない!

牛乳も飲み水もあぷない!

底知れぬ不安と恐怖がからだの芯の奥底から湧きあがってきた

 

その年九月二十三日

国立第一病院の医師の懸命の看護と

妻すずさんと子どもたちの励ましと祈りにもかかわらず

第五福竜丸無線長久保山愛吉さんは

ついに急性放射能症によって帰らぬ人となった

人類最初の水爆の犠牲者となった久保山さんは

苦しい死の床で「原水爆の被害者は私を最後にして下さい」

という遺言を残して亡くなった

 

広島・長崎の原爆被爆から九年

原爆許すまじ!

水爆許すまじ!

腹の底から

しぼりだすような声は小さなさざ波から

竜巻のような大きなうねりとなって

日本のいたるところの町や村に海にひろがっ

あれから四十五年

マーシャル ネバダ セミパラチンスクと

世界にひろがる数百万人もの核実験被害者は告発する

「人類は核兵器とは共存できない」

この人類生存の真実の声を

いまこそ

核兵器のない輝かしい二十一世紀を創造するために

広島の原爆詩人峠三吉とともに

世界に呼びかける

人間の良心によびかける

ちちをかえせ ははをかえせ

としよりをかえせ 

こどもをかえせ

わたしをかえせ わたしにつながる

にんげんをかえせ

 

にんげんの にんげんのよのあるかぎり

くずれぬへいわを

へいわをかえせ

投稿者 koyama : 2008年03月01日 12:34

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