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2008年02月29日
全国大学生協スタディーツアー(15人)来訪
終日雨 休肝日
気温22度。寒い。
2月17日にフエへ戻り今日まで家族の案内など
忙しく過ごした。
今日からやっと普通のフエでの生活に戻った。
午前6時起床。寒い。なかなか起きられない。
午前7時朝食。チャーハン。久しぶりに子どもたちや
日本人スタッフと朝食を摂る。飲みすぎて転んだ
打撲もだいぶ和らいできた。5階までの階段の
上り下りが結構大変だった。
月刊誌「子どもと教育」2008年4月号校正原稿チェック。
午前8時半小雨の中、「ハイリーホテル」を出て
ベトナム事務所へ。
今朝8時過ぎ全国大学生協スタディーツアーがフエ空港へ
到着。ホテルチェックイン後、ベトナム事務所を訪問。
ベトナム事務所でベトナム事務所員の紹介。
●バオミンさんJASSベトナム運営委員長の挨拶
ベトナム事務所員自己紹介
大学生協スタディーツアーの皆さん、バオミンさん・クアンさん・
ソンさんと一緒に「子どもの家」へ。
クアンさんとソンさんは今後のスタディーツアー案内の
練習を兼ねての参加。
ソンさんが施設案内をする。クアンさんも同行。バオミンさんが
見守る。
午前10時半から11時半までの1時間、学生さんに
私が話をする。テーマは「人生」。
講演会終了後、大学生協の皆さんは、ミンさん、クアンさん
ソンさんと一緒にレストランで昼食。
私はベトナム事務所に戻り電動バイクに乗り換え「ハイリーホテル」
へ。
「ハイリーホテル」では、私が昼食を摂るとは思っていなかった
ようで急いで私の分の昼食を作ってくれる。
朝、「ハイリーホテル」を出る際、ハイ君に昼食は「ハイリーホテル」
で食べるよと話しておいたのだが・・・・・。
昼食を摂っていた千草さん・ハンナさんと話しながら昼食を
摂る。
午後1時過ぎ昼寝。寒い。
午後2時過ぎ読書。「与謝野源氏」。「澪標」。
午後3時過ぎ、床屋へ。100円強。
昨年12月29日に床屋へ行っている。偶然ではあるが
2ヶ月ぶりの散髪。出来るだけ質素な生活をしたい
ものである。無駄な「生活の装飾」は極力省きたいものだ。
午後5時半、2週間ぶりに日本料理店で夕食。
煮魚、野菜炒め、野菜スープ、ご飯。
昨日、青魚のアレルギーで蕁麻疹になったニーさんも
仕事に復帰。
午後6時には日本人の来客あり。
日本人3人、ベトナム人2人、欧米系4人。合計9人の来客。
閉店は午後9時50分。
欧米系のお客さんはなかなか帰らない。話が長い。
食事と会話がセットになっている。
午後10時、「ハイリーホテル」まで護送船団方式で帰宅。
日本時間午後10時半、衆議院で予算案と租税特別措置法
改正案が強行採決された。イージス艦問題、防衛庁汚職問題、
そして何よりも59兆円もの「道路中期計画」が本当に
必要なのかの論議がなされなかった。
政府が「道路中期計画」の内容を出してきたのは25日。
論議も十分しないままの強行採決。
予算の根幹の一つである5兆円の軍事予算。
国民を守ると主張している防衛庁が零細漁民を
殺していている。一度に20機ものミサイルを攻撃できる
最新性能のイージス艦自体必要あるのかどうかも
十分検討しなかればならない。
衆議院通過後30日で自然成立するという「日程」だけが
優先され、国会の空洞化、形骸化が一層進行している。
2008年02月28日
縫製研修工場視察
晴天
ホーチミン市気温31度。過ごし易い。
午前7時半ホテルで朝食。
読書「与謝野源氏」(明石の巻)
久しぶりに源氏を読み始める。
与謝野源氏は650ページ3巻。
上巻の最後。明石、澪標(みおつくし)
与謝野源氏は現代語訳の最初の本であるが、
やはり明治時代の翻訳なので多少読みにくいが、
天皇の記述を実に的確・正確に記述している。
戦時中の天皇神聖化とは記述を異にしている。
午前11時、バオミンさんがホテルに来てくれる。
一緒に車で30分かけて宇都宮縫製工業組合
マルサの佐藤さんが関係している縫製研修工場へ。
縫製工場の運営の実態を視察。新規採用職員の
採用試験の実際を視察する。
午前11時半から午後3時半まで宇都宮縫製工業組合
マルサの佐藤社長たちと縫製研修工場の運営についての
経験などを伺う。
午後3時半、バオミンさんとホーチミン市空港へ。
途中、私のスーツケースが壊れたので新しい
スーツケースを買う。3000円。
途中のタクシーの中で「ホーチミン市には、
フエ師範大学日本語クラスの卒業生が
ホーチミン市にいるね」との話をした。
優秀で頭の良かった学級委員長のバオトアンさん、
ジューキに紹介したバンチン・トゥーイさん、
ゴックジェップさん、トンアンさん、キンコックさん、
チュンチンさんなど・・・・・・。バオトアンさんをはじめ
皆さん元気にやっているのだろうか?
私はたった2年間教えた教師に過ぎないが、
それでもバオトアンさんをはじめ教え子の
皆さんが幸せに暮らしていることを願っている。
1993年から1995年までの2年間。私は
無私の気持ちで学生を教えたつもりである。
私は何も求めるものはなかった。20人の学生に
日本語を教え、幸せな生活をして欲しいと願って
いるのみであった。
ホーチミン空港着。お客が一杯。荷物を預けない
カウンターへ。何とか午後4時50分までに
チェックインを終了。既に空港内放送で
「午後5時10分フエ行きのお客は7番ゲートへ」と
の放送が繰り返されている。バオミンさんと
急いで7番ゲートへ。
午後6時20分フエ空港着。気温14度。非常に寒い。
バオミンさんと一緒に車で日本料理店へ。
バオミンさんは自宅へ帰る。
私は日本料理店で夕食。軽く一杯。
リー君が仕事に精を出していた。
日本人、欧州人の来客あり。
接客のグエットさんも仕事に頑張っていた。
店長のホンニーさんは、昨日の夕食の魚に
アレルギーで蕁麻疹(じんましん)が出て
「ハイリーホテル」で寝ている。
午後9時半、日本料理店終了。
オートバイタクシーで「ハイリーホテル」へ帰る。
2008年02月27日
ホーチミン市へ
終日雨
寒い。
午前6時起床。昨夜、酔っ払って転び、右足打撲。
かなり痛い。5階までの階段の昇降がかなり大変。
午前7時朝食。冷麦の炒め物のような麺類。
最近、リー君は朝食・昼食を「ハイリーホテル」で
摂っていないとのこと。
日本料理店前でトランプギャンブル仲間に入りこんで
いる模様。
午前10時まで昨日の日記や受信メールへの
返事を書く。
バオミンさんは、訪日するIT関係者の研修生に
ついての訪日書類作成のため朝9時の飛行機で
ホーチミン市へ。
雨の中電動自転車でベトナム事務所へ。
研修生派遣会社社長来訪。懇談。
いくつかの問題について税田さんと懇談打ち合わせする。
静岡大学関係者フエ視察団の滞在日程について
打ち合わせ。
たくさんのメール受信。
1月23日、フエ要人を連れて日本へ帰国。
2月17日、日本からフエへ戻ってからも毎日忙しく
部屋の整理が全く出来ていない。とにかく寒さとの
闘い。これからは春の訪問スタディーツアーの時期となる。
自分の身の回りの整理をする時間は当分取れそうもない。
その日の日程を誠心誠意遂行するだけが今の生活である。
昼食。フォーサイゴン。家族と税田さんで。
私はチャーハンを食べる。
午後1時過ぎ「ハイリーホテル」へ帰宅。
昼寝(1時間半)。この間の疲労か?
午後3時過ぎ、日本の関係者にメール送信。
午後5時、車で家族が泊まっているホテルへ。
ホテルで家族と交流し、フエ空港へ。
午後7時20分フエ発の飛行機でホーチミン市へ。
ホーチミン空港にはバオミンさんが迎えに来て
くれていた。家族と一緒にホテルのレストランで
遅い夕食。
午後10時半過ぎ、ホーチミン市市内のホテルを出て
ホーチミン空港(タンソンニャット)へ。国際線から
家族は帰国便(28日0時05分発)に乗り帰国。
私とミンさんは、一緒にホテルへ戻る。
明日、私とミンさんは、「縫製研修センター」関係者と
縫製ミシンや運営、その他の問題について打ち合わせを
する予定。
就寝は、午前0時30分。
2008年02月26日
国際ソロプチミスト京都ー西山の皆さん帰国:フエ市共産党委員長と会食
終日雨。
気温が少し上がるが寒い。
午前7時朝食。チャオバンカン(小麦粉の煮込みうどん)
午前8時半ベトナム事務所→フォンザンホテルへ。
国際ソロプチミスト京都ー西山の皆さんと一緒に
縫製研修センター・アクセサリー研修センター視察。
フォンザンホテルにて
縫製研修センター視察
「アクセサリー研修センター」視察
ソロプチミストの皆さんは、その後、ハンさん、税田さんとで昼食へ。
私はバオミンさん家族とわが家族との昼食会へ。
庶民の行く大衆食堂へ。
いつの世でも庶民が一番美味しいものを食べている。
豚肉の脂を落としたものに海老の塩辛をつける(豚肉・海老塩辛料理)
野菜の漬物
鶏肉の炒め物
空芯菜の炒め物
野菜スープ
魚の甘辛煮
午後3時、国際ソロプチミスト京都ー西山の皆さんが帰国。
フエ空港までお見送り。リー君も荷物の運搬を手伝うため
空港へ。
午後5時過ぎのフエ発の飛行機でホーチミン市へ。
短い時間だったが、密度の濃い視察をされた。
1998年9月に建築して頂いた「子どもの家」C棟には
絵画教室もあり、フック君はこの絵画教室で才能を
見出されフエ芸術大学受験のため猛勉強中。
ソロプチミスト京都ー西山の皆様方に感謝。
無事の帰国を願う。
午後6時、フエ市共産党委員長自宅に招待される。
1月下旬に日本に招待したフエ要人の皆さんの答礼。
フエ市共産党委員長夫妻、人事部長、財政部長夫妻、
外務部長、警察副署長。
バオミンさん・税田さん・我が家族。
何度もの乾杯が繰り返される。私はかなりの酒量となる。
今後、フエ市共産党・フエ市人民委員会とJASSとの
提携を一層緊密にすることで意見が一致。そのたびに
乾杯となる。
かなり飲んで「ハイリーホテル」へ帰る。暗い部屋に入り
スーツケースにつまづき転び、足を打撲。
2008年02月25日
国際ソロプチミスト京都ー西山の皆さん
雨・曇り
湿度95%、室内がじめじめする。
ベッドのシーツも湿っぽい。
午前7時朝食。フランスパン1つ(玉子焼き入り)
5日ぶりの子どもたち、日本人スタッフと会う。皆さん
元気。
午前8時前ベトナム事務所へ。更にフォンザンホテルへ。
ハンさんと合流。
国際ソロプチミスト京都ー西山の皆さん5人を案内して
ベトナム事務所へ。
ベトナム事務所では、ベトナム事務所員と挨拶。
国際ソロプチミスト京都ー西山の皆さんには、1998年9月
「子どもの家」C棟1階を建築して頂いた。それから10年。
建築後10年のC棟の利用状況、「子どもの家」の実情の
視察が目的。
京都ー西山より寄金、関係者よりの寄金を頂く。
その後、ベトナム事務所3階の刺繍みやげ物店で多量の刺繍を
買って頂く。
ハンさんと一緒に皆さんを案内して「子どもの家」へ。
セン運営委員長と懇談。
セン委員長からは、10年前に建築して頂いた「子どもの家」
C棟(絵画教室・・・)の利用状況、建築そのものへの感謝
の言葉あり。ソロプチミスト団長の井上さんより、10年前
に建築した建物が、子どもたちのためにしっかり利用されて
いると聞いて嬉しいとの言葉を頂く。
その後、子どもたちと一緒に近くの「タイロック市場」へ
昼食の食材買出し。
「子どもの家」へ戻り、子どもたちと昼食作り。
午前11時半、子どもたちと一緒に昼食
昼食後、子どもたちにお菓子のプレゼント
午後1時半、「ハイリーホテル」へ戻る。
30分ほど昼寝。
午後2時過ぎから月刊誌「子どもと教育」4月号の
原稿仕上げ。4000字。10枚の写真を探す。
今まで書いた日記に載せた写真を調べる。
午後4時半過ぎ原稿と写真を出版社へ送る。
午後5時、日本料理店へ。
午後6時、ソロプチミスト京都ー西山の皆さんと
夕食会。ベトナム事務所はバオミンさん・税田さん
小山が参加。
サーモン、イカの刺身・・・・・・・。
今夜は日本料理店の来客多数。ソロプチミスト5人以外に
総計28人の来客あり。欧米人多数。
日本料理店の子どもたちはてんてこ舞い。
ソロプチミストの皆さんとの会食は午後9時過ぎ。
その後、フランス人多数来店。
閉店は午後10時。
私は午後9時半過ぎ、家族の泊まっているホテルへ。
家族と少し飲む。
午後10時半「ハイリーホテル」へ帰宅。
「ハイリーホテル」では、リー君とハイ君がビールを
勝手に買って待っている。しばらく飲む。
長い1日だった。
風邪をこじらせ「声が出にくく」なる。胸のあたりから咳あり。
寒い。
2008年02月24日
ホーチミン市より帰る
フエは雨
午後10時「ハイリーホテル」へ到着。
部屋中が「カビ」だらけ。かび臭い。
宇都宮縫製工業組合佐藤理事長より電話。
午後11時過ぎ就寝。
ホーチミン市は31度。フエは17度。フエは寒い。
ホーチミン市から国際ソロプチミスト京都ー西山の
皆さん(5人)と一緒にフエへ戻る。
5日間の不在中に110通のメールあり。
2008年02月20日
地球の歩き方ツアーⅠ班活動開始
雨時々曇り
気温18度。湿度95%。
午前7時朝食。今日は玉子焼き入りフランスパン1本。
リー君は朝食を摂らずに喫茶店へ。
雨の中ベトナム事務所へ。
午前8時、地球の歩き方ツアーⅠ班(10人)の皆さんが
ベトナム事務所を訪問。ベトナム事務所員紹介などを
行う。
ベトナム事務所の隣の会議室では日本料理店の子どもたちの
英語教室が行われていた。
ベトナム事務所では、仮採用のクアンさんが仕事をしていた。
クアンさんは、JASS日本語学校の卒業生である。
仮採用を経て正式採用をめざしている。
ベトナム事務所員紹介後、刺繍土産門店見学。
その足で「子どもの家」へ。バオミンさん、税田さんと。
バオミンさんの「子どもの家」案内。
私の講演会(90分)
その後、子どもたちの歓迎の歌と踊り
北海道教育大釧路校の先生お二人来訪。
今後の協力・提携を話し合う。
午前11時半、ベトナム事務所スタッフ、「子どもの家」スタッフで
チャオバンカンを食べに行く。12人。
午後3時、ダナン経由ホーチミン市へ。2月24日まで
日記を書くことはできないと思う。
再開は2月24日の夜より。
2008年02月19日
静岡市ライオンズクラブの皆さん帰国
終日雨
気温16度。湿度90%以上。
午前7時朝食。インスタントラーメン。
「ハイリーホテル」にいるリー君・ハイ君・ニーさん・トゥオイさん
にお正月のお土産を買ってきた。本人たちの希望を聞いて
日本で購入。リー君とハイ君は白い靴に模様の入ったもの。
ニーさんは写真立て、髪飾り、トゥオイさんは、あかぎれの
薬。
朝食後に子どもたちにお正月のお祝いとしてあげる。
「子どもの家」にいた子どもたちはお正月のお祝いを
家族からもらった経験が少ない。
トゥオイさんはあかぎれの薬しか希望していなかったが、
ホンニーさんと一緒に鏡、髪飾りを買ってあげる。
リー君は朝食を摂らず、あげた靴を履いて喫茶店へ。
午前9時過ぎ、家族の泊まっているホテルへ。
家族とドンバ市場へ。リー君も一緒にホテルへ
行きたいというので連れて行く。
ホテルで家族とトランプで遊んでいたい。
ドンバ市場で家族の里子であるTRUNG君の冬着を買う。
午前11時、ベトナム事務所へ。
静岡市ライオンズクラブの皆さんと昼食。ソン君も
同行。午後1時近くまで食事。その後、フエ市郊外の
山の中腹にある「ウーロン茶庭園」へ行き、
本格的なウーロン茶を飲む。2時間ほど皆さんと
懇談。皆さんそれそれ企業を経営されている。
企業経営の様々なご苦労の実情を伺う。
午後3時、ウーロン茶庭園を出発し、フエ空港へ。
午後3時半、フエ空港チェックイン。
静岡市ライオンズクラブの皆さんはフエ滞在中は
各種施設、活動の視察だけに専念。フエだけを
視察し帰国という本当に真面目な皆さんだった。
短期間に多くの行事と視察指圧が入りかなり
体力的にも大変だったツアーだが、皆さん
強行日程を受け入れてくれた。感謝したい。
午後4時半ソン君とフエ市内へ戻る。
約3週間日本に滞在している間に「ハイリーホテル」の
部屋はカビにまみれていた。部屋につるしてあった
衣類の全てがカビてしまい、異臭を放つ。午前中から
洗濯を始める。3回から4回の洗濯が必要。全ての衣類
の洗濯をしたい。「ハイリーホテル」へ行き、2回目の
洗濯をする。
その足で家族と「子どもの家」へ。里子のTRUNG君に
冬着とオセロをプレゼントする。
「子どもの家」では明日の地球の歩き方スタディーツアーの
歓迎会の出し物の練習をしていた。
子どもたちはテレビ番組に熱中していた。
「子どもの家」を出てホテルへ。
午後6時半日本料理店で会食。
京滋YOUの会の水本先生、前川父娘、税田さん、
わが家族との懇親会。
日本料理店には欧米系のお客がかなり入っていた。
今日の来客は12人。午後9時過ぎ懇親会を
終了。
2008年02月18日
静岡市ライオンズクラブ来訪
終日雨
気温16度。湿度90%。
非常に寒い。
午前5時半起床。寒さで目が覚める。
午前7時朝食。
料理主任のトゥオイさんを除いて全員結集。
5分で朝食を終わったリー君は朝の掃除を急いで行い、
直ぐに喫茶店へ。
今日は朝8時過ぎに静岡市ライオンズクラブの皆さんが来訪予定。
バオミンさんと出迎えに行く。午前7時15分にバオミンさんが
「ハイリーホテル」までに迎えに来てくれる約束になっている。
急いで朝食を済ませる。バオミンさんは多少遅れて「ハイリーホテル」
へ。
フエ空港で待つこと30分。静岡市ライオンズクラブの皆さん5人が
ホーチミン市から無事到着。
静岡市ライオンズクラブは、「静岡フエ青年交流会館」を建設して
くれた皆さんである。2001年のことである。現在は日本語学校や
各種行事、コンサート、日越文化交流の場となっている。
空港から市内のホテルへ直行。
ホテルチェックイン後、「子どもの家」へ。
「子どもの家」ではセン委員長と懇談。団長の稲葉さんは、
今回が7度目のベトナム訪問とのこと。「子どもの家」は
4回目とのこと。
その後、私が皆さんを案内し、各施設の説明。
図書室では、京都の水本先生が図書室の整備を行って
くれていたい。毎年来て頂き図書の整理、図書室全体の
整備、私費での図書購入寄贈などを行ってくれている。
感謝。
午前11時、「子どもの家」訪問を終えて、近くの縫製研修センター、
アクセサリー研修センターなどを視察し昼食会場へ。
午後1時半過ぎまでベトナム料理を堪能。休息へ。
私は「ハイリーホテル」へ帰り、休息。昼寝。寒さと疲労で
30分の昼寝を寝過ごす。急いで雨の中電動バイクを
使い、フエ市人民委員会へ。
午後2時半、ライオンズクラブの皆さんはフエ市長との
懇談へ。
カオフエ市長より歓迎の挨拶。
稲葉団長より訪問の挨拶。
稲葉団長による小嶋善吉静岡市長メッセージの代読
フエ市長表敬訪問を終え、午後3時半過ぎ、静岡フエ青年交流会館
にある日本語学校を視察。静岡市ライオンズクラブの皆さんが
建設して静岡フエ青年会館が建築後7年、どのように使われて
いるかの視察。
日本語学校の現状を視察する
日本語学校生徒との日本語の交流
午後5時日本語学校視察を終了
午後6時、日本料理店でフエ市長・外務部長とライオンズクラブ
とのレセプション
静岡市ライオンズクラブ視察団長稲葉さんの挨拶
ホンニー店長の活躍
店長のホンニーさん、グエットさんも活躍
カオフエ市長の挨拶で懇談会は終了
午後8時半、懇親会は終了。
その後、ベトナム事務所で今日の日記を書き、午後9時過ぎ、
親族の泊まっているホテルへ。
2008年02月17日
成田→ホーチミン→フエへ
晴天。
成田は気温3度。寒い。
午前8時過ぎ、成田のホテルを親族3人で出発。
午前10時半成田発のベトナム航空機でホーチミン市へ。
成田空港内でおにぎりの朝食。
成田空港にて。ベトナム航空機をバックに
ホーチミン市行きの機内にて
午後2時50分(ベトナム時間)ホーチミン市着。
ホーチミン市は31度。暑い。
全てスムースに進行。入国手続き、税関審査も終わり
徒歩国内線へ。午後5時20分、国内線でホーチミン市を
出てフエへ。
午後6時半、フエ着。フエは17度。寒い。
車で「ハイリーホテル」に行き、私の荷物を部屋に置く。
税田さん、リー君、ハイ君が出迎えてくれる。
その後家族の泊まる市内のホテルへ。
午後7時半、フォーの夕食を摂るために「フォーサイゴン」へ。
午後8時半、フォーサイゴンを出て市内のホテルへ家族を
送り、「ハイリーホテル」へ帰る。
リー君、ハイ君、ホンニーさんが近くの「ヤギ肉」屋で飲もうと
待っていた。4人で飲む。
今日は3度→31度→17度と気温の変化の大きい中を
移動した。12時間かかる。かなり疲れる。
何とかフエまでたどり着く。税田さん、リー君、ハイ君、
ホンニーさんと元気だったので一安心。
バオミンさんとも電話で話す。元気そう。
成田からフエまでの機内で「枕草子」読了。
なかなか面白い。1000年以上前の人間が
今の私たちと同様の気持ちを持って毎日を
生活していたことに同感と驚きを感ずる。
小山道夫 2008年1月日本帰国日程
1月23日(水)
24日(木)0:05ホーチミン市発(フエ訪日団引率)
7:30成田着 (日暮里泊)
25日(金)フエ訪日団自由 P6JASS東京の会歓迎会(日暮里泊)
26日(土)P1:30 JASS日本「現地報告会」(北区教育会館)
P5 現地報告会後反省会(北区王子) (日暮里泊)
27日(日)A9:56東京発―10:55三島着(こだま537号)
富士山経由静岡へ
P6 静岡の会歓迎会 (静岡泊)
28日(月)お茶の郷 P3小嶋静岡市長懇談
P4静岡大学訪問 P6静岡大学懇親会 (静岡泊)
29日(火)A8:11静岡発→A9:13東京着
浅草発1:30 下今市着
日光市長と「姉妹都市」提携懇談 (日暮里泊)
30日(水)A10:30成田発
31日(木)A10 通院 P4オアシスの会
2月01日(金)
02日(土)A10ブライセン
A11 青少年教育の会懇談
03日(日)P1内田さんたちとの懇談
04日(月)P1時 宇都宮ボランティア協会講演会(60人)
P4 雀宮地区講演会(60人)
05日(火)P2:30足立第四中学校夜間学級教職員講演会(15人)
06日(水)P4 三鷹「フリースペース」打ち合わせ
07日(木)
08日(金)A10 須賀氏懇談
09日(土)P1 沼津市トラック協会講演会(40人)
P7 三島市ウオータービジョン講演会(30人)
10日(日)P2 原田虎太郎君 新宿南口
P3 邦楽支援者懇談(JR市谷駅改札口)
11日(月)P6 平野先生御通夜(荒川区町屋)
12日(火)A10:30平野先生告別式
P1日野市立七生中学校講演会(160人)
13日(水)帰国準備
14日(木)A9:30 通院 P:30高校クラス
15日(金)福島 「子どもと教育」4月号原稿締め切り
16日(土)成田前泊
17日(日)A10:30成田発 フエ着
講演会 6回 365人
2008年02月16日
福島→成田へ
晴天
しかし雪が降っている福島。寒い。
午後、福島を出て上野経由成田へ。
明日、成田からフエへ帰国する。
我が家の関係者も二人同伴する。
成田空港付近のホテルに投宿。
2008年02月15日
福島へ
晴天
寒い。
午前中、帰国の荷物整理・準備。
午前10時過ぎ自宅を出て上野へ。
ベトナム行きのスーツケースや荷物が多い。
スーツケースは上野のコインロッカーへ。
パソコンなどの荷物は背中へ。上野から東北新幹線
で1時間半、福島へ。午後12時45分福島着。
福島駅前のスーパー銭湯「極楽湯」へ。
30分ほど入浴し、軽く生ビールを飲む。スーパー銭湯で
しばらくゆっくりする。福島駅商店街で子どもたちへの
買い物。薬など。
新幹線車中で読書。
「清少納言 枕草子」。今風に言うとかなり「すっ飛んだ」
女性だったようだ。
他人への批判は辛らつ。
男女関係のきわどい話もかなりあけすけに書いている
午後4時半、宿舎着。
孫が4月から小学校へ入学する。記念にランドセルをお祝いする。
夕方から福島市内中心街にある『屋台村』へ家族と一緒に。
刺身、牡蠣(かき)などをつまみに飲む。
明日は成田へ。
2008年02月14日
通院:高校クラス会
晴天・曇り
午前6時半起床。
午前8時、自宅を出て春日経由大江戸線で都庁前。
新宿SNビル内の榊原記念クリニック。
心臓検診。午前9時半に心臓エコーの予約をしていたが、
何の理由も告げられずに午前10時に変更。
最初に心電図の検査。午前10時過ぎ、心臓エコー検査。
その後、主治医による診察。2ヶ月分の投薬。
次回帰国は6月中旬。薬は2ヶ月分しか出せない。
この15年間、常に心臓薬問題が横たわっている。
この20年近く心臓のチェックをしている。毎回帰国すると
通院し、検診・投薬を続けている。これは、今後、10年、
20年たった時にその効果が出てくるものと思っている。
血圧の管理は心臓への負担軽減、心電図、心臓エコーは、
心臓弁などのチェック。こうしたことをこまめにしておくことで
60代後半、70代に心臓疾患の危険性を少なくする可能性
がある。4種類の薬をもらう。
都庁第1庁舎前では、君が代・日の丸強制に反対した
都立南大沢学園養護学校(八王子)教諭根津公子先生
の懲戒免職のための教育委員会が開かれようとしていた。
新左翼系の人たちが反対のチラシを配っていた。
根津先生は君が代・日の丸の強制に反対し過去9回の
懲戒処分を受けている。
根津先生は以前から「OBJECTION HINOMARU
KIMIGAYO」とのゴロがついたトレーナーを着ていた。
トレーナーの前には「戦争放棄」とかかれ、後ろに
OBJECTION・・・・」。
昨年10月停職6ヶ月の処分があけて登校した
ところ、尾崎祐二校長から「トレーナーを着ないように」
「学習指導要領に反対を唱えるのは学校現場ではふさわしく
ない」と言われた。根津先生は8年以上も前から同トレーナー
を着用していた。
根津先生は校長に「職務命令ですか」と聞くと「答えません」
と言われた。昨年10月中旬、校長から「トレーナーを着ていけない
のは職務命令です。職務専念義務違反です」と言われたそうだ。
根津先生は君が代・日の丸問題で過去9回もの処分を
受けている。今回、処分を受けると「懲戒免職」となる。
2月1日、東京都教育委員会は根津教諭を呼び事情聴取。
今日の教育委員会で処分が決まりそうだとのこと。
(以上、2008年2月13日 東京新聞より)
東京都教育委員会の行為はバカバカしいものである。
トレーナー着用に「職務命令」を出すなど、およそ教育の
場に適さない。何を着るかに職務命令を出すのもバカバカ
しいことであるが、憲法の表現自由にも抵触する。
教育というもっとも民主主義を勉強する場に「憲法が存在しない」
現状である。東京都の教育は異常である。脅しと脅迫で
教員を抑えつけ、言うことを聞かない教員は処分し、解雇するという
およそ教育には縁もゆかりもない現状である。
都民の知らない間に東京の学校は民主主義と日本国憲法
が通用しないところになりつつある。戦前の国民学校と同様の
学校となりつつある。
3月の卒業式、4月の入学式前に見せしめの処分といえる。
地下鉄の往復、病院の待ち時間で「なぜ日本人は
劣化したか」(香山リカ著 講談社現代新書)読了。
今、読むべき本である。モラル崩壊、偽装・・・・の現状、
そしてその真の原因は何かを精神科医の香山氏が臨床
を通して解明しようとしている。
2004年度、東京大学保健センターによると、精神疾患
のため休学した学生は137人(学部87人、大学院50人)。
10年前の4倍。東大学生相談所長は「東大生は大きな挫折を
味わった体験が少ない。失敗への恐怖を過大に想像してしまう」
と言っている。
最近香山氏が頼まれる女性誌の原稿の1テーマの字数は
200字だそうだ。以前は1テーマ800字程度の字数だった
そうだ。今、800字の字数を読むことができなくなったとのこと。
2006年のベストセラーの第4位に「えんぴつで奥の細道」
が入ったそうだ。奥の細道が薄く書かれた紙の上をなぞる
だけの本。
「活字の劣化」として、文章が読めなくなったことを指摘している。
「長い本、字が小さい本、ちょっとむずかしい本は読まない」と
いう傾向が顕著になっているという。
「モラルの劣化」。
「ソフト産業の劣化」。RPG(ロールプレーイングゲーム)
の需要が激減しているそうだ。ゲームに世界観や物語が
あり、時間をかけ、辛抱強く主人公の経験値を上げていく
ゲームである。2006年のソフトランキングの3位に
東北大川島隆太の「もっと脳を鍛える大人のDSトレーニング」
が入っている。簡単な四則計算などをするソフト。
ソフトの世界も時間をかけて忍耐しながら目標を達成するという
ものがなくなり、簡単な四則計算などの実用ものが売れている。
「若者の劣化」。香山氏は大学教員でもあるが、「不可」をひとつ
つけただけで学生は傷つき、怒り、「私は駄目な人間」と決め付けて
しまう。傷つきやすくなっている。一般の女子高生の10%以上が
自傷行為(リストカット・・・)を経験している。死にたい願望。
知的・教育レベルの劣化。
講談社顧問の鷲尾氏の言。
東大法学部卒の新入社員に「君は丸山真男なんか読んでいる?」
と聞いたら「丸山真男さんて誰ですか?」と言われたとのこと。
戦後の歴史・政治史(法学も含む)で丸山真男を知らない学生は
もぐり。
岩波書店前社長の大塚氏の言。
東大文学部歴史専攻の入社志望の学生に「最近読んだ岩波の
本で面白かったのは何?』と聞いたら「読んでいません」とのこと。
彼は今まで岩波文庫だけではなく新書すら一冊も読んだことが
なかったとのこと。
講談社・岩波の社長・顧問がこれらの例をあげて、最近の学生の
知的水準の低下を嘆いている。受験の「学力」はあっても
知的水準は低下したいると。丸山真男を知らない東大法学部生、
岩波を一冊も読んでいない東大文学部生。
リベラリズム・護憲勢力の劣化。
寛容社会から排除社会への移行。
そして、こうした劣化と社会の変化の底流は、
「新自由主義」だと結論付けている。
『他人の気持ちを想像する力」「弱い立場の人や少数者に対して
寛容な心を持つ力」が今、必要と説く。
それぞれ頷ける内容である。
午後12時半、自宅着。
読書「枕草子」(角川書店)
源氏物語関連の本は全てベトナムにおいてきた。
枕草子を読み出して分かったこと。
源氏の紫式部は中宮章子の女房。
枕草子の清少納言は中宮定子の女房。
清少納言の仕えた中宮定子は藤原道長の兄藤原道隆の娘。
紫式部はその藤原道隆の弟道長の娘章子に仕えた。
兄の藤原道隆が栄華を極めた時、急死。弟の道長が
実権を握る。兄の道隆の息子は道長に追放され大宰府へ
流され、兄道隆一族は凋落する。
同時期、源氏の紫式部と枕草子は相対立した藤原道隆と
弟の道長兄弟の権力闘争に巻き込まれていたのである。
源氏の紫式部は、枕草子の清少納言を「小生意気で
下品で目立ちがり屋でいやなやつ」と書いている。
枕草子は脈略のない300編のエッセーを羅列したもの。
『春は曙・・・』から読み始める。
現代語訳があり、続いて原文となる。
午後5時過ぎ、自宅を出て巣鴨経由池袋へ。
高校のクラス会。私が帰国している時に五井君が
みんなに呼びかけて会合が行なわれる。
皆さん、今年退職の年である。
沖電気の役員を退職し、ラオスに渡り、サトウキビ栽培をしながら
ラム酒会社を作ったクラスメイトがいる。
ジーンズ会社役員を退職し、海外に会社を設立した仲間もいる。
大学院に入学した仲間。大阪大学非常勤講師をしている仲間。
「第2の人生」にチャレンジ。
鴨鍋で交流を深める。
午後10時、クラス会を終わる。再開を誓う。
2008年02月13日
休日
晴天
相当な寒さ。耐えられない。
平野先生の急逝は私にとって相当な精神的な打撃となっている。
23歳からの付きあいであり、私と平野先生しかしらない様々な
問題があった。私の本当の苦しみを理解してくれる人がいなくなった。
本当に私は悲しい。父と弟の死以来の悲しみ。
私の23歳から今日まで私の活動のどこかで支えになってくれていた
恩人がいなくなるということの悲しみと不安。
この間の疲れがでた。午前9時起床。起きられなかった。
昨日の日記に追加の文章。
午前10時半、西台駅前から送迎バスに乗り「板橋温泉」。
午後2時10分までゆっくりと各種温泉などに入る。
精神的にリラックスし、少し疲れが取れたような気がした。
お年寄りがかなりの数入浴していた。
リラックスいすで1時間ほど寝る。
休みのない講演会などの連続だった。
読書「日本論」(佐高信、カン・サン・ジュン著)読了。
読み応えがあった。
特に印象に残ったのは、伊丹十三監督の父親である
伊丹万作の次のような言葉である。
1946年(昭和21年)の言葉である。敗戦後、こうした
認識を持っていた人がいたことに驚く。
「だまされるということは、不正者による被害を意味するが、
しかしだまされた者は正しいとは、古来いかなる辞書にも決して
書いてはないのである。だまされたとさえ言えば、一切の
責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘違いしている
人は、もう一度良く顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされた者、必ずしも正しくないことを指摘するだけに
とどまらず、私は更に進んで『だまされるということ自体が
すでに一つの悪である』ことを主張したいのである。
(中略)『だまされていた』という一語の持つ便利な効果におぼれて、
一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる
態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹(あんたん)たる
不安を感ぜざるを得ない。『だまされていた』と言って平気でいられる
国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在
でも既に別のうそによってだまされ始めているに違いないので
ある」。
敗戦の翌年である。炯眼(けいがん)。
1945年8月15日まで「天皇バンザイ」を叫び、翌日から
民主主義者に変身したわが国民。
アジア・太平洋戦争も「東條英機など一部の軍国主義者」
の暴挙。国民はだまされていた、との総括をして今日まで
来てしまった。天皇バンザイを叫び、シンガポール陥落、
南京陥落などで「提灯行列」をして祝った国民。
戦後、日本国民はアジア太平洋戦争を一部の軍国主義者
だけの責任にしてしまい、「自らが戦争を支持し推進した」
ことへの真摯な自己批判をしてこなかった。
伊丹万作が戦後翌年にこうした意見を持っていたことに
驚きを隠せない。
1945年8月15日まで「天皇ばんざい」だった人間が、
左翼に傾斜し、共産党などに入党した途端にすっかり
戦争を推進し、支持したことはどこかに吹っ飛んでしまい
全くの反戦主義者に変身し、今日に至っている人たちが
いる。頭の中が「天皇」から「共産党や社会党」に代わった
だけの人間。なくなった平野先生ど同世代の人間に
この種の「変身人間」が多い。平野先生は自己自身の
厳しい総括をしている。
郵政民営化選挙で小泉チルドレンに入れたわが国民。
与党に圧倒的な議席を与えた結果が、自らの首を
しめることになっている現実である。マスコミなどに
だまされたというのだろうか?
社会や政治の現実は主権者である国民の責任である。
一人ひとりの国民が自分のできるところで、だまされないよう
な目をもつ必要があると自戒している。
読書「なぜ日本人は劣化したか」(香山リカ著:講談社現代新書)
古本屋で350円。2007年7月発行。
フエ帰国の荷物チェックリストを作成。
午後8時半、次男と駅前の飲み屋で話し合う。
2008年02月12日
平野先生告別式:日野七生中シンポ
終日雨
寒い。6度位か?
午前5時起床。
今日の平野先生告別式の弔辞の推敲。5分以内に終わるか
何度か読む練習。
午前7時朝食。
午前9時自宅を出て「町屋」の斎場へ。午前10時斎場着。
斎場には平野先生の二人の息子さんと葬儀委員長の
庄司さんが既に来ていた。平野先生の奥さんと息子さんに挨拶。
告別式場を見回す。平野先生が1995年にフエ視察に
来られた時の写真が更に数枚飾ってあった。
午前10時半、告別式が始まる。
平野先生が人生をかけて活動した東京都教職員組合本部。
生花も何もなかった。
平和とか人権などと言っている人々ではあるが、東京都教職員組合
のために人生をかけて闘って来た平野先生の通夜や告別式に
生花を出さないだけでなく代表者の弔問もない。
1年間しか付き合いのなかったJASSの皆さんではあるが、
昨夜の通夜には多くの皆さんが参列してくれた。
立派な「効能」を言うが人間としての当たり前の気持ちすら
持てない集団に嫌悪を感ずる。平野先生が一番嫌悪する
人間集団である。
人間はこうした時にその本質が分かるというものである。
2月8日頃の新聞に平野先生の訃報がでえいたそうだ。
20分間の読経。禅宗である。急に大声で「カツ」と言ったのには
驚いた。
午前10時50分。弔辞。
最初に私が弔辞を述べる。弔辞の内容は「続きを読む」
続いて、平野さんの親友である元東京都教職員組合副委員長
だった落合九州男さんの弔辞。
落合さんは涙で絶句することが多かった。仲間の急逝である。
落合さんの純な気持ちが伝わって来る。
どんなに忙しくてもこうして葬儀に参列し、お別れを言うことは
人間の根源的な誠実さを示すものである。落合先生の
誠意に心から感謝する。
私は事前に午後1時から日野市七生中でのシンポ参加を
約束していた。午前11時に町屋斎場を出ないと間に合わない。
本当は「お骨」まで行きたいとの強い思いがあったが、後ろ髪
を引かれながら、葬儀場を後にした。町屋から2時間。
町屋→西日暮里→新宿→高幡不動→南平 2時間。
午後1時、日野市立七生中へ。
七生中の給食
職員室前の廊下に習字が貼ってあった。素晴らしい習字。
20年ほど前一緒に仕事をした綿貫先生としばらく話し合う。
午後1時35分。七生中1年生160人に「勉強は何のために?」
のシンポジュームを行なう。
パネラーは
①大滝さん 小学校2年生から不登校。三鷹フリースペース。
大学検定で4月から大学の教育学部に入学
②カレン・エリカ・カリアソさん
フィリピンからの留学生
③脇野さん 青森の高校3年生 昨年の甲子園に出場
④小山
フィリピンのカレンさんは、フィリピンでは大学に行くのは
30%。一種のエリート。勉強をすることで素晴らしい人生
が待っているとのこと
大滝さんは不登校の経歴を話す中で色々な人生の選択が
あることを話す。
脇野さんは、高校野球で甲子園に行った経験を話し、
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という教訓を話す。
私はストリートチルドレンの子どもたちの生活とバイタリティーある
生き方を話す。
午後3時10分。生徒代表のお礼の言葉
お礼の言葉を言った女子学生。4人の話をしっかりと聞き、
上手に4人の話のエキスをまとめていた。なかなか能力の
ある生徒である。
七生中には私の友人の綿貫先生がいる。1年間一緒の職場で
仕事をしたことがる。心のある友人である。
午後4時過ぎ南平駅を出て、新宿経由巣鴨。
自宅着午後7時。
色々とあった一日であった。
平野先生の冥福を祈る。
午後4時、七生中を退出。
午後6時過ぎ自宅。
本当に悲しい一日だった。
私がベトナムに行った理由を本当に知っているただ一人の
知り合いだった平野先生。
平野先生がいなくなって本当に悲しい。素晴らしい人間だった。
今日の私の活動の基本は平野先生から学んだもの。
平野先生のご冥福を心よりお祈りする。
平野先生への弔辞
平野先生、先生と私が始めて出会った時のことを覚えていますか?
先生と初めてお会いしたのは1971年2月でした。37年も前になりますね。
当時、私は東京学芸大の学生でした。北区への就職が決まり4月1日付けで採用される前でした。
私は4月1日から新規採用される前に「教職員組合」に入りたくて、北区教職員組合の事務所を訪ねました。飛鳥山前の北区教育会館。古い木造の建物でした。玄関右の応接間に通され、応対してくれたのが平野先生でした。先生は当時、北区教職員組合の専従書記長をしていましたね。
初対面の学生の私に親切に応対してくれました。4月から北区立滝野川第7小学校に赴任することを話すと、先生は大変喜んでくれましたね。「そこは僕の職場だ。この10年間20代の先生が一人もいなかったんだ。採用される前に組合に入りたいなんて嬉しい」と言って長い時間職場の話、組合の話などをしてくれました。
それから採用される4月までの2ヶ月間、毎日のように組合事務所に行き、新採教員の組合加入の準備などの打ち合わせをしましたね。何度も組合事務所近くの飲み屋に連れて行ってもらいました。
教員になってからは、晴れて組合員となり毎日学校が終わると平野先生の所へ通いました。翌年は分会長、しばらくして平野先生が組合の委員長になると私は副委員長となり、組合運動のイロハを教えてもらいました。
74春闘のストライキで先生の家の家宅捜査という出来事がありました。
警察の家宅捜査・不当弾圧に備え、毎日平野先生のお宅に泊まり、奥さんの美味しい食事を頂いたことを思い出します。
お酒の飲めなかった私にお酒の美味しさを教えてくれたのも先生でした。
何度も何度も飲み屋に連れて行ってくれました。先生は山の手線・京浜東北線のどの駅に降りても必ず美味しいものを食べさせるお店を知ってしましたね。
先生の紹介で私が都教組本部の専従役員になり様々な問題を体験しました。その度に先生に電話をすると必ず池袋東口の小さなうなぎやに行き、私の悩みや身の振り方などの相談に乗ってくれました。今、ベトナムでストリートチルドレン支援のボランティアをしていますが、先生の適切な助言があったらから今日の私の活動があると感謝しています。
先生に仲人もしていただきました。今や二人の孫もいるおじいちゃんになりました。
ベトナムの会の代表の適任者がいない時には進んで代表を引き受けれくれました。
私が日本へ帰ると必ず二人で駒込のおすし屋さんに飲みに行き、『小山君、ベトナムの活動がどうだ』と私の活動に心をかけてくれました。
先生との活動をこうして一つずつ思い出していくと走馬灯のように様々な思い出が脳裏をかけめぐります。23歳から60歳までの37年間教え導いてくれ平野先生は私の人生の師である恩人です。
今日、ここでお別れすることは本当につらい事ですが、多くの仲間の心の中に先生の柔軟な思想と戦争を忌み嫌う平和の精神、弱い人を助ける義侠心、そして仕事に最後まで責任をもつ責任感は受け継がれるて行くものと思います。
先生のご冥福をお祈り致します。 合掌
2008年02月11日
弔辞構想:「子どもと教育」原稿仕上げ:平野先生御通夜
晴れ
寒い。体がベトナム対応になっているので、10度以下
になると寒くて仕方がない。フエでは20度になると「寒い」
と感じ、ジャンパーを着る。
午前8時起床。朝食。
午前9時、メールチェック。火炎樹日記修正。
明日午前10時半からの「平野先生」告別式の弔辞原稿を考える。
何を言ったらよいのか、この37年間のお付き合いを振り返る。
様々な場面が脳裏に去来する。23歳から60歳までの37年間
の付き合いはやはり長い。その間、一度も中断なくお付き合いは
続いた。お付き合いと言うよりは、お世話になったということだが。
午前中をかけて2000字ほどの弔辞原稿を書く。
午後12時半、コーヒーブレイク。
午後1時から「子どもと教育」2008年4月号の原稿を推敲。
何回か読むが何となく「物足りない」。一部修正。
まだ不満。午後3時半まで推敲を続ける。
同時掲載の写真10枚を探す。
明日午後1時から日野市立七生中学校1年生学年集会にいく。
テーマは「何故、勉強をするのか?」。話す概要を作る。
午後5時、自宅を出て巣鴨経由日暮里→町屋へ。
町屋斎場。平野先生の御通夜。焼香。
会場内には平野先生の生涯の業績に関わる写真が飾られていた。
●北区教職員組合役員時代(左端)
●平野先生先導の「子どもの家」視察団。1995年。
コックホック高校にて。案内はフエ師範大学日本語クラス
学級委員長の「バオ・トアンさん」。バオトアンさんは
私が教えた学生の中では一番優秀だった。人間も
尊敬に値する人物だった。ベトナム社会でバオトアンさんの
能力が本当に発揮できれば素晴らしい仕事が出来る
人間である。私はバオトアンさんを学生として尊敬していた。
今でも能力のある立派な人間と思っている。噂では
ホーチミン市の日系企業で仕事をしているとのこと。
仕事と家庭がうまくいくことを願っている。
平野先生は、フエ師範大学日本語クラスの学生との交流を
進めてくれた。
平野先生は私がフエに渡って2年後には、励ましのための
ツアーを組んで仲間の皆さんで応援に来てくれた。
●フエ市副市長を表敬訪問。
御通夜には、JASS日本委員長の福田もえ子さん、副委員長の
山西さん、野村さん、石崎さんも参列。
元代表の上田さん、事務局長の大西さんも参加。
心のある人たちである。平野先生は第3代目のJASS代表に
1年間就任して頂いた。諸般の事情で代表の候補者がいない
時だった。平野先生に相談した。先生は即断で「小山君が
困っているのなら応援する」と言ってJASS代表を引き受けてくれた。
私は平野先生と37年間のお付き合いである。
その間、平野先生と様々なことを経験した。
本来、今日の通夜に絶対に来なければならない一派が
誰も来ていない。悲しいことである。口では立派なことを
言っている連中である。結果的に来なかったことが
平野先生の冥福を祈ることになる。元都教組副委員長の
落合さんや執行委員の塚本さん、古川さんなど心のある
友人が参列した。
こうしたことを見るとJASSの皆さんは本当に立派だ。
JASS代表としては1年間の付き合いである。
それでも寒い中多数お別れに参列してくれた。本当に感謝したい。
1971年から18年間、私が平野先生と同じ学校に勤務した。
その当時の先生方はみんな退職しているが、通夜に参加。
平野先生と過ごした1970年代の楽しい思い出を語り合った。
私も20代だった。
私がベトナムへ行って15年間。常に平野先生は私を励まして
くれた。年に3回帰国すると必ずお会いし、二人で色々と話し合った
ものである。
今日は、悲しい。私の最大の理解者であり支援者の平野先生を
亡くした。
帰宅午後10時。
この種の御通夜に参加した後は、必ず平野先生と
一緒に飲んだものである。
帰宅後、平野先生のご冥福を祈り一人杯を干すのであった。
2008年02月10日
H/K君と懇談:清元専門家から寄金
晴天(三島)
午前8時起床。昨日2回の講演会、さすがに疲れる。
昨日書いた日記をチェック。一部訂正。平野先生の葬儀実行
委員会から電話。「告別式で弔辞を」とのこと。当日午後1時に
日野の中学校での講演会が予定されている。
午前11時には告別式場を出なければならないが、恩人の
平野先生への最後の告別の言葉を言いたい。
葬儀委員会と何度か電話連絡。午前11時までに私の
出番は終わるとのこと。弔辞を引き受ける。
午前9時40分ホテルを出る。三島駅から新幹線で
東京へ。
午後1時半、H・K君と新宿駅で出会う。
私が2月17日にフエへ帰る前に私の顔をモチーフに
した「焼き物」を作ったとのこと。
午後3時、市谷で静岡の会の笠井先生の親戚の
方から寄金を頂く。
東京芸大で清元を学び、現在その道の第一人者とのこと。
先日、清元のチャイリティー演奏会を行いその純益を
「子どもの家」に寄贈して頂けるとのこと。
笠井さんと親戚の方に感謝。
読書「日本論」。
佐高氏とカン氏との対談。
佐高氏が、五味川純平の「人間の条件」を高く評価していた。
澤地和枝が五味川氏のアシスタントして調査し書いた本。
私の人生の出発の原点となる本は2冊。
「人間の壁」(石川達三)、「人間の条件」(五味川純平)
人間の壁は教師はどうあるべきかを示唆している。
人間の条件は「人間の本質は?」「究極的に人間はどういきる
べきか」、「中国への日本の侵略の実態は?」などを学んだ。
人間の条件はその後、テレビで放映された。加藤剛主演。
私の住んでいた板橋区稲荷台の近くに明治時代からの
「兵器廠」の後があった。戦前からのレンガの塀とレンガの
宿舎が残っていた。ここをロケ地にテレビの「人間の条件」(白黒)
が作製された。撮影を何度も見た記憶がある。
2008年02月09日
静岡県トラック協会東部支部講演会:三島市清水町ウオータービジョン講演会
雨
午前5時起床。本日の講演会の準備。
必要なメール送信。
午前8時過ぎ自宅を出て巣鴨経由東京駅へ。
こだまに乗り三島まで1時間。
午前11時、三島駅でウオータービジョン松浦理事長と落ち合う。
松浦さんとは10数年前にテレビ朝日ベトナム支局長の北村さん
の紹介でお会いする。その後、3回ほど松浦さんが局長をしていた
郵便局で講演会をした経験がある。
松浦さんと三島から沼津へ行く。
松浦さんの紹介で静岡県トラック協会青年部の皆さんとお会いする。
皆さんと一緒に昼食。「黄金ご膳」という大盛りの昼食をご馳走に
なるが、半分以上食べられず。
午後1時から静岡県トラック協会東部支部講演会
今日の講演会はウオータービジョンの松浦さんの紹介で実現
40人の参加で講演会が始まる。
1時間半の講演、30分の質疑応答。2時間の講演会を終わる。
松浦さんの案内で沼津から三島へ。
三島の愛媛(伊予)料理店で夕食。午後5時から。
ウオータービジョンでフエ・「子どもの家」へスタディーツアー
で来られた方々(過去数回)と夕食会。
愛媛の郷土料理「六宝汁」を頂く。一昨日亡くなられた
我が恩人平野先生も愛媛出身。平野先生も食べたのかな
などと思いながら「六宝汁」を頂く。ご飯に鯛の刺身と汁を
かけて食べる。初めての料理だった。
なかなかの美味。
ウオータービジョンスタディーツアー参加者の皆さんと記念写真
午後7時から三島市「清水町」主催の講演会
雨の中30人の方々が参加。
90分の講演、30分の質疑応答。
午後9時過ぎに講演会終了。雨の中、松浦さんの車で
三島駅前のビジネスホテルへ。
長い1日だった。
読書「日本論」(佐高信・カン・ソン・ジュン:角川文庫))
70Pほど読む。古本屋BOOK OFFで半額。
2008年02月08日
須賀さんの会社訪問:「母べえ」をみる
曇り
寒い・寒い。
杉花粉症の症状が強く出ている。目が痛い。鼻水がでる。
視力が落ちる。
午前7時朝食。ジャガイモ、たまねぎの味噌汁。
白菜の漬物。納豆。
午前8時過ぎ、西台を出て巣鴨経由五反田、乗り換えて
戸越銀座へ。
午前10時、お宝鑑定館、ホットラインの社長須賀さんの会社へ。
須賀社長は日本語学校へ支援などを行なってくれている。
今日は今後のフエ訪問の件、JASSへの支援要請などに
ついて話し合う。
http://www.hotline.ne.jp/otakara_rec/index.html
午後12時。有楽町へ。
丸の内ピカデリー2で「母べえ」を見る。
私は閉所・暗闇恐怖症。映画館が一番怖い。
1974年に日活の「戦争と人間」を見て以来映画館に行った
ことはない。映画に興味がなかった。
映画館は団塊世代以上の「老人」で満席。
素晴らしい映画だった。
今、この時期に見る価値のある映画でもある。
「反戦映画」と括ってしまうことには抵抗がある。
山田洋次が何故この時期に「母べえ」を作ったのかを考えた。
戦争の場面も出てこない。普通のドイツ文学の学者の家庭。
吉永小百合の奥さんと二人の女の子の普通の家庭である。
昭和15年、1940年から話は始まる。
日本軍国主義が異常な勢いを増し始めた時代である。
夫の「父べえ」は「赤」として検挙される。
そして拘置所で死んでしまう。真珠湾攻撃が始まって
4年間の普通の家庭の日常が、戦争でどのように変わって
いくのか? 戦争が普通の家庭、普通の人間をどのように
狂気に追い込むのかを淡々と描いている。
山田洋次は、戦争が一部の指導者の責任でおこなわれるの
ではなく、国民の強烈な支持なくしては遂行できないことを
言いたかったのではないかと思う。
戦争は普通の庶民が最大の犠牲者であり「加害者」であることを
訴えているようにおもえる。シンガポール陥落の提灯行列・・・。
「時代」に少しでも合わない人間・思想を徹底して排除する社会
こそファシズムである。普通のドイツ文学者が牢獄で殺され、
民主的といわれた恩師が「思想が悪い」と奥さんの吉永小百合
に言う。「時局」ということば。
ほんのちょっと前。「美しい国」と言った首相がいた。
美しくないとこの首相が思ったものは「抹殺」しそうな
危うい首相であった。そして、今も危うい時代である。
その時代に逆らう人間と思想を受け入れる時代こそ
本当の民主主義社会である。
「母べえ」は1940年から45年の「狂気」を描きながら
今の日本の危うさ、狂気へ突入する可能性と危険性に
警鐘を鳴らしていると思われてならない。
私の住んでいるベトナムは「母べえ」の時代そのものである。
是非、多くの皆さんに推薦したい映画である。
映画の始まりから最後まで涙が止まらなかった。
家の近くの「BOOK OFF」で古本を買う。
佐高信、曽野綾子、藤沢周平、香山リカ。1000円。
「噺家カミサン繁盛記」読了。
電車の中で読んだが、何度も可笑しくて笑ってしまった。
とにかく面白い。肩の凝らない本ではあるが、同時に
人間を知らされる内容を持っている。
柳家小三冶の家庭生活が女将さんの側から見られるという
面白い設定の本でもある。
明日から沼津、三島での講演会。
昨日亡くなった私の恩人平野先生の通夜・告別式などに
ついての問い合わせなどがある。
明日は東京も雪だとのこと。寒さには滅法弱い。
小山道夫 2008年1月日本帰国日程
1月23日(水) フエ→ ホーチミン市
24日(木)0:05ホーチミン市発(フエ訪日団引率)
7:30成田着 (日暮里泊)
25日(金)フエ訪日団自由 P6JASS東京の会歓迎会(日暮里泊)
26日(土)P1:30 JASS日本「現地報告会」(北区教育会館)
P5 現地報告会後反省会(北区王子) (日暮里泊)
27日(日)A9:56東京発―10:55三島着(こだま537号)
富士山経由静岡へ
P6 静岡の会歓迎会 (静岡泊)
28日(月)お茶の郷 P3小嶋静岡市長懇談
P4静岡大学訪問 P6静岡大学懇親会 (静岡泊)
29日(火)A8:11静岡発→A9:13東京着
P浅草発1:30 下今市着
日光市長と「姉妹都市」提携懇談 (日暮里泊)
30日(水)A10:30成田発
31日(木)A10 通院 P4オアシスの会
2月01日(金)
02日(土)A10ブライセン
A11 青少年教育の会懇談
03日(日)P1内田さんたちとの懇談
04日(月)P1時 宇都宮ボランティア協会講演会(60人)
P4 雀宮地区講演会(60人)
05日(火)A11WさんとACCLについて懇談
P2:30足立第四中学校夜間学級教職員講演会(15人)
06日(水)P4 三鷹「フリースペース」打ち合わせ
07日(木)「子どもと教育」原稿
08日(金)A10 須賀氏懇談
09日(土)P1 沼津市トラック協会講演会(40人)
P7 三島市ウオータービジョン講演会(30人
10日(日)P2 H/K君 新宿南口
P3 邦楽支援者懇談
11日(月)P6 平野先生御通夜(荒川区町屋)
12日(火)A10:30平野先生告別式
P1日野市立七生中学校講演会 京王線南平駅
13日(水)帰国準備
14日(木)A9:30 通院 P:30高校クラス会
15日(金)福島 「子どもと教育」4月号原稿締め切り
16日(土)成田前泊
17日(日)A10:30成田発 フエ着
2008年02月07日
「子どもと教育」原稿 ベトナム・テト正月
JASS元代表の平野先生がお亡くなりになりました。
心から哀悼の意を表します。
(御通夜)2月11日(月)午後6時
(告別式)2月12日(火)午前10時半
(会場)荒川区 「町屋斎場」京成上野線「町屋駅」下車 徒歩5分
平野先生との出会いは1971年2月だった。
4月に東京北区立小学校の新任教員になることになった。
その前に教職員組合に加入しようと1971年2月に
北区教職員組合を 訪問した。
応対してくれた人が当時北区教職員組合専従書記長の
平野先生だった。同時に平野先生は私が配属される予定の
小学校の先生でもあった。その場で意気投合した。
職場の先輩と言う関係もあり、毎日のように平野先生と
あっていた。1992年2月の結婚式の際も仲人をお願いした。
37年の付き合いだった。
第3代目のJASS代表にもなっていただいた。一緒に海外旅行も
した。教員になってお酒の飲めなかった私に『楽しくお酒を飲む』
飲み方を教えてくれた。平野先生との思いでは数え切れない
ほどある。今日、私がベトナムでの活動をしているのも平野先生
の影響である。人間的にも大きな影響を受けた恩人である。
夜中に元同じ職場の同僚から電話があり、「平野先生が亡くなった」
との話しを聞き、耳を疑った。近日中に一緒に飲もうと思っていた
矢先だった。私は帰国した際には、出来るだけ平野先生に
ベトナムでの活動を報告していた。
公私とに本当にお世話になった恩人の平野先生のご逝去を
心から悲しむ。先生から学んだことがあまりにも多かった。
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ベトナムのテト正月 おめでとうございます。
晴天
風が強く寒い。
今日はベトナムのテト正月。
午前8時起床。1月23日、フエを出て今日まで連続しての
仕事となった。さすがに疲れた。特に人との交流はそれなり
に気を使うので疲れる。今朝はゆっくりする。
午前中、今までの仕事の整理。
「子どもと教育」2008年4月号の原稿4000字を考える。
今後の日程を考えると今日何とか大筋の原稿を書かなければ
執筆する時間がない。
既に4回の原稿を送り「子どもと教育」に掲載されている。
5回目の今回、どんなテーマを書くかも決まっていない。
午前中、今までの原稿を全て読んでみる。
何とか連続性をもたせながら新しいテーマを決める。
この種の原稿は「理屈」「理論」ではなく、実際、実情、現実、
私が何をしたのか、子どもたちは? など具体的な事実を書くことが
大事である。
今回は11年前に出会ったA君の生い立ちとその後の紆余曲折と
螺旋階段状に成長していく子どもたちに焦点を当てて書くことにした。
午前中にテーマを決め、午後5時までかけて何とか4000字を
書きあがる。数日おいて再度読み返し、推敲する予定。
2月17日にフエに帰国する予定だが、当初作った日程に比べ
5つ程新しい日程が追加された。
17日までほとんど休む機会がなくなってしまった。
今日は数少ない休養日。何とか原稿の目処が立ってほっとした。
今日は1日仕事をしたので「飲む権利」がある。
夕方、駅近くに買い物。
お酒の量販店で「ホッピー」を売っていた。
厚揚げを焼き、スモークベーコン、スルメ、小樽から送ってもらった
魚介類をおつまみにビールと「ホッピー」(焼酎割り)を飲む。
3日前に漬けておいた「白菜漬け」を食べる。美味しく漬かっている。
2008年02月06日
NPO文化学習共同ネットワーク「フリースペースコスモ」訪問
雪
寒い。非常に寒い。
朝から雪。
午前中、昨日の日記を書く。
ベトナム事務所関係者、JASS日本関係者にいくつかの
メールを送信。
大極さんからお灸が送られてくる。ありがたいことである。
感謝。体を温めることが疲労回復につながるとのこと。
読書「旧約聖書を知っていますか」(阿刀田高著:新潮文庫)読了。
旧約聖書がユダヤ教、イスラエルと言う国にとってどのような位置
にあるのか、概略を理解する。
旧約聖書の構成。創世記はイスラエル建国の神話のような前史。
天地創造・アダムとイブ。ノアの箱舟。バベルの塔。
続いて実際の歴史に入る。アブラハム→イザヤ→ヤコブ→ヨセフ
→モーセ→ヨシュア→ダビデ→ソロモン。
旧約聖書の簡単な解説書ではあるが、イスラエルの歴史が
分かる。複雑な中東問題の見えない深部が少し見えたような
気がした。2000年間放浪していたイスラエル人。その心の
中に相当強い「自分」というのか「自我自己意識」がないと
2000年間の流浪は出来ない。それは別の言葉で言えば、
「自分勝手」とも取れる強烈な自己意識・イスラエル民族
意識ともいえる。旧約聖書では他宗教は徹底的に破壊
している。他者の破壊が自己を守るということにつながる
のかもしれない。日本人とはかなり精神構造の違う
ことは理解した。
読書『噺家カミサン繁盛記」(郡山和世著:講談社文庫)
柳家小三冶のかみさんのエッセイ。
医者の娘で美大の学生と都立高校校長など家族が教育者の
息子の噺家の結婚と弟子を交えて滑稽なエッセイ。
午後2時、自宅を出て新宿経由で吉祥寺へ。
西台駅は雪だった。
池袋・新宿経由吉祥寺へ。
吉祥寺から徒歩、フリースペースコスモへ。
途中、井の頭公園は雪が積もっていた。
フリースペースコスモは不登校・引きこもりの居場所。
1階には「風のすみか」というパン屋を子どもたちが経営。
フエの日本料理店は、このパン屋を真似たもの。
代表の佐藤洋作氏や佐藤真一郎氏などと懇談。
3月に行なわれるベトナムスタディーツアーの内容を検討する。
その後、不登校・引きこもりの子どもたちや若者をフエで受け入れる
プロジェクトに就いて協議。
早急に実現することで意見の一致を見た。
佐藤氏が運営する「NPO文化学習共同ネットワーク」は三鷹市
や厚生労働省の委託をうけて、「みたか地域若者サポート
ステーション」を行なっている。
仕事のない若者の相談窓口となり、
進路相談、仕事体験、心の相談、職業技能講習、
就職セミナー、ハローワークなどへの就職支援機関への
つなげるしとごを行なっている。
また不登校・引きこもりの若者を対象に厚生労働省の
委託を受けて「風のすみか」での実習や神奈川県津久井町に
持っている農場「ニローネ農場」での実習などの事業も行なっている。
私と懇談している間にも東北地方の15歳の若者から電話が
かかってきた。両親も養育力がない、中学を卒業し東京の
新聞配達屋で仕事をしたが、販売拡張の仕事が年齢上
出来ず、クビになり東北の家にいるが、どうしても住み込みの
仕事したい。電話番号を調べる「104」に電話をし
フリースペースを紹介してもらったという。
15歳である。中学を卒業したばかりの子どもが、
「仕事を紹介してくれるところの電話番号を教えて下さい」
と104に電話をした。
まだ子供である。家庭にどのような事情があるのかは分からない
が、家族・親族・中学校の先生、隣り近所のだれか「大人」が
相談に乗ってやれなかったのだろうか?
親も貧しくこの15歳の男のを育てきれない状況のようだ。
今の日本の悲しい現状を垣間見た思いがした。
15歳の子どもが、仕事を探し104に電話をしなければならない
現状は、「貧しい国日本」といわれても仕方がない。
杉並区の和田中で学習塾が入り、成績の良い生徒を更に伸ばす
との名目で公教育が塾を導入している。
勉強の出来る子を更に引き上げることで底辺の生徒も引き上げられる
との理屈。1ヶ月1万円から2万円の費用がかかるという。
東北の15歳の男児。東京へ出てくる費用もないという。
テレビ、マスコミは杉並区和田中を持ち上げている向きがあるが、
日本社会の見えない底流で「東北の15歳男児」が一人で
悩み、模索し、親も含めて相談相手もなく、電話番号案内
「104」にしか相談が出来ないという現実を知るべきである。
二極分化が一層進行している日本の現実である。
佐藤洋作氏と15歳の男児を何とか助けようと話をする。
午後6時過ぎ、懇談を終え、佐藤氏と吉祥寺駅付近で
軽く一杯。外は雪。
自宅着午後10時半。
2008年02月05日
足立区立4中校内研修会
晴れ
寒い
午前7時起床。宇都宮縫駅前のビジネスホテル内は暖かいが
一歩外に出たら「極寒」。
午前8時半ホテルを出て新幹線宇都宮駅へ。駅内のスターバックス
でコーヒーを飲む。ここは禁煙となっている。煙の臭いから逃げる
必要もなく安心してコーヒーが飲める。
新幹線で上野まで。東北新幹線は全車禁煙。東海道新幹線は
禁煙車と喫煙車に分かれている。先日東京から三島までの
新幹線切符を買いに行ったが『禁煙車』は満席とのこと。
喫煙車はがらがらだが・・・・・といわれた。
たった1時間の乗車である。飛行機は5時間でも10時間でも
全面禁煙なのに、どうして東海道新幹線はたった1時間の
三島までを全面禁煙にできないのか。禁煙席は満席。
くさい臭いを我慢しながら喫煙席にお金を出して乗るのは
ばかげたこと。
午前11時。上野駅でACCLのWさんと落ち合い、喫茶店で今後の
ACCLのフエでの活動について打ち合わせをする。
午後1時過ぎまで。
その足で北千住経由東武野田線に乗り「梅島」駅へ。
梅島駅前で初代JASS代表の岩辺さんと落ち合い、
足立区立第4中学校の教職員研修会へ。
足立4中夜間学級の壁にはベトナム語で
「新年おめでとう」と書いた紙が貼られていた。
今回の校内研修会は岩辺さんの紹介で実現したもの。
足立4中には夜間学級がある。現在11人のベトナム人の
若者が学んでいる。今年の4月からは更に14人の
ベトナム人が入学を希望しているとのこと。
ベトナムの若者は昼間は野菜のカットなどかなり厳しい
労働環境の中で仕事をし、夜中学で学んでいる。
1995年の神戸地震の際、岩辺さんと一緒に神戸支援に行った。
長田区は皮革産業の小さな工場が多い。皮革産業の小さな工場
でたくさんのベトナム難民の皆さんが働いていた。
ベトナム難民の皆さんは日本社会の最底辺で日本社会を支える
人々でもあった。
今日の足立4中に通っている20歳代のベトナムの若者も
かなりきつい仕事をしながら通学をしているとのことだった。
今日の研修会のテーマは「ベトナムの今 政治・経済・若者・・・」
ベトナムの大雑把な歴史、ベトナム戦争の位置づけと今日への
影響、ベトナムの政治システム、ドイモイ政策とは?そしてドイモイの
現実とその影響。ベトナム社会の15年間の変貌と拝金主義の
現状、「子どもの家」の子どもたちを通してみた今のベトナムと
若者の様子などを1時間ほど話す。
その後30分質疑応答。午後5時近く終了。
足立4中を出て、岩辺さんと近くの焼き鳥屋に入り、
様々な問題を語り合う。その後、もう一軒の飲み屋に
行き、更に「様々なこと」を語り合う。
午後8時過ぎ別かれる。
足立4中校内研修会用資料 2008年2月5日
ベトナムの現状―政治・経済・人々の生活・若者の状況
ベトナムの「子どもの家」を支える会
代表 小山道夫
(1)ベトナムの歴史の概略
・中国
・フランス
・日本
●ベトナム人のアイデンティティとは?
(2)ベトナム戦争の残したものは
●ベトナム戦争は「社会主義革命」達成の戦争
・革命の烈士
・南北ベトナムの関係 国民的和解の未達成状況
(3)ドイモイ政策とは?
・社会主義市場経済と一党独裁
(4)ベトナムの政治
・共産党の独裁体制
・思想信条の自由の制限禁止、宗教のへの弾圧
・共産党・政府への批判の排除
・複数政党システムの否定
★ フエ グエンバンリー神父事件(2007年3月)
★ 若者は政治から経済へ・金もうけへ
・一部特権階級の発生と豪華な生活―子どもたちへの
伝承と特権階級グループの形成
(5)経済
・壮大な実験過程(社会主義と資本主義の奇妙な結合)
・政治の一党独裁と経済の資本主義路線
・ドイモイ政策で儲け、我が世の春を謳歌している一部特権階級
★ 天秤棒をかついていでいるおばさんの隣をベンツに乗り携帯電話をかけ、
1食50ドルのイタリア料理を家族で楽しむ階層の人々
★別荘をもちプール付の豪邸で暮らし、子どもたちを海外留学させると特権階級
・小中学校の新卒の月給が100ドル
・人口80%の農民の平均年収が100ドル~300ドル程度
(6)人々の暮らし
・都市と農村の乖離
・大都市( ホーチミン市・ハノイ市)と他の都市との乖離
・都市の中の豪邸とスラム
★ドイモイの行き着く先
・国民全体の「拝金主義」
・旧来の儒教に裏打ちされた農業国ベトナム社会の急激な崩壊
・金持ちとお金、物持ちが「立派な人間」との社会的 評価
★貧しい人々の「豊かさ」「物」への憧れ・犯罪等社会秩序の混乱
(7)若者の状況
①進学 特権階級の師弟への特別措置
②進学・受験競争の中での貧富の格差
③政治は危ない 経済で金儲けを・・・・・
④真っ当に働くという社会道徳の崩壊過程
・努力しないでうまく金儲けをする・・・・
・外国人との結婚
⑤豊かさへの憧れ 貧しさは「恥ずかしい」
(8)ボートピープル
①1970年代後半から80年頃
・ホーチミン市の華僑(中国系金持ち)
・学者、文化人、知識人
・行政の高官など社会的地位の高い人たち
②1980年代
★経済難民
・1975年4月30日「全土解放」
・1976年 ベトナム全土社会主義化
性急な社会主義政策の失敗
1986年頃にはお米の輸入国
庶民は米が食べられず、キャッサバを
2008年02月04日
宇都宮ボランティア協会講演会:雀宮ボランティアネットワーク講演会
晴天
午前8時朝食。
午前9時半自宅を出て巣鴨経由上野駅へ。
午前11時上野発宇都宮駅新幹線の乗車。
宇都宮付近は雪で覆われていた。
午後12時宇都宮着。宇都宮縫製工業組合佐藤理事長が
駅に迎えに来てくれる。感謝。
車で宇都宮総合福祉センターへ。
午後1時、宇都宮ボランティアセンター主催「全体研修会」。
はじめに主催代表の松本カネ子会長挨拶
宇都宮縫製工業組合・マルサ佐藤会長挨拶
小山講演(90分)
90分の講演会後質疑応答
60人以上の参加。
最後は主催者から花の贈呈
今日の宇都宮ボランティア協会にはVG雀宮、泉の会、いとの会
西地区ひまわりの会、肢体不自由児父母の会、JRPとちぎ、
子どもの問題を考える会、横川子供とふれあう会、看護ボランティア
ふれあい、V・G野紺菊、一心会、ゆずり葉、シェイクハンズ友の会、
おおるり、宇都宮市社会福祉協議会ボランティアセンター・・・。
午後1時~午後3時半までの講演会終了。
その後、佐藤理事長とスカイラークで休息。
午後5時半、佐藤理事長の地元栃木県雀宮地区での
講演会。「雀宮ボランティアネットウェアーク主催研修会」。
60人以上の参加。
午後5時半近くになると一気に参加者が入場。
雀宮ボランティアネットワーク代表松本カネ子さんの主催者挨拶
続いて宇都宮縫製工業組合佐藤理事長から「講師紹介」
午後5時40分から90分講演を行なう。
90分の講演、質疑応答を終わり、花束贈呈。
今日は作新学園大学の学生さん、看護学校の学生さんなど
多くの若者も参加してくれた。
看護学生さんから花の贈呈を受ける。
講演会終了後、主催関係者と記念撮影
午後7時半講演会終了。
その後、佐藤さんのマルサ主催の夕食会。
今日の宇都宮市と雀宮での講演会は宇都宮縫製工業組合
マルサの佐藤社長、宇都宮ボランティア協会松本会長の尽力の
賜物。ありがたいことである。
午後10時過ぎ、マルサ工場長さんに送ってもらい宇都宮駅前
の ホテルまで送って頂く。
その後、午前0時までかけて日記を書く。
今日は1日、忙しくはあったが、楽しい1日であった。
多くの良心的な方々との出会いは、貴重な機会でも
あった。
宇都宮駅前ビジネスホテル泊。
明日は午前11時上野でWさんと懇談。
午後2時半、足立4中校内研修会講演あり。
2008年02月03日
内田・高橋・影山・柳沢さんとの懇談会
東京は雪。
朝から非常に寒い。コタツしか暖房のない我が家。
寒さ対策を考え、朝から長時間お風呂に入る。
寒さがなくなる。
家の外は雪。自宅庭の寒椿に積もった雪
自宅前の駐車場に積もった雪
必要なメール送信。
午前11時半自宅を出て新宿へ。
途中、巣鴨駅でJRに乗り換え。巣鴨駅の外は雪。
午後1時新宿伊勢丹へ。
内田さんたち指定のお店がない。係りの人に聞くと別館とのこと。
15分ほど遅れて到着。内田・柳沢・影山・高橋さんとの懇談会。
私の好きな日本料理。全て美味しい。刺身、蟹。
内田さんたちとのお付き合いは10年以上になる。
紆余曲折のあったJASSボランティア活動であったが
今日の皆さんは一貫してJASSへの支援を続けて
くれた。あり難いことである。
2008年02月02日
ブライセン懇談:JASS青少年教育の会懇談
晴天
非常に寒い。
午前8時朝食。
午前9時過ぎ自宅を出てブライセンの所在する五反田駅へ。
午前10時半、ブライセン藤木社長と懇談。
ブライセンは「子どもの家」支援のためにフエの若者を
招請しITを教え、フエに戻り「子どもの家」のために
貢献する若者支援を行っている。
これは大野さんの「北企画」も同様である。
北企画から依頼され私が推薦したフエの若者二人
が2年間ほど北企画の支援で日本語とCADを学んでフエに戻った。
フエに帰った後、「子どもの家」への支援のため奮闘する義務を
負っている。
現在新たに2名のフエの若者をブライセンが受け入れ無料で
ITの研修ボランティアを行おうとしている。打ち合わせ。
今後のブライセンとJASSとの協力について話し合う。
その他。
午後12時までにブライセンで懇談。
午後12時過ぎ、JASS青少年教育の会、森田さん、加藤さん
山田さんと五反田駅付近で懇談。
2008年8月のスタディーツアーの打ち合わせ。1時間半ほど。
その後自宅へ帰り、メール受信送信。
読書「旧約聖書」
ダビデ→ソロモン、そして南北イスラエル、紀元前後
イスラエル滅亡。それから2000年、イスラエル人の
流浪生活が続く。
アダムとイブ(エバ)。
夕方、あまりに寒いので「豚肉野菜なべ」。
近くの量販店で「ホッピー」を売っていた。
Oさんに頂いた焼酎をホピーで割って飲む。
明日(3日)は新宿。4日(月)は宇都宮講演会、夜は雀宮講演会で
宇都宮泊。5日(火)は足立4中夜間学級校内研修会講師。
6日(水)フリースペース代表と懇談。フエでの不登校・引きこもり
の若者の長期滞在体験プログラムの相談と続く。
ベトナム事務所の税田さんがテト休暇で帰国。短期の日本本滞在。
ゆっくりと休んで欲しい。
2008年02月01日
久しぶりの休日
晴天
寒い。
1月23日フエを出て昨日まで9日間連続活動。
さすがに疲れる。
文字を読むのも少し嫌になって来ていた。
午前8時起床する。
午前10時半西台発のバスで「板橋温泉」へ。
自宅を出て西台駅まで行く途中、たくさんの受験生が
歩いていた。
今日は我が家の裏にある大東文化大の入試。
地図を片手に入試会場へ。駅前では業者や大学関係者が
案内をしていた。
私の大学入試は1967年2月。この寒さと受験生を
見ていると40年前の大学受験時代の空気と雰囲気が
一気に蘇ってきた。父親が急死し、翌年弟が白血病で
入院。6ヶ月間弟の病室のベッドの下に畳を敷きラーメン屋に勤め
ながら看病をした。1966年11月に弟が亡くなる。勉強をする
時間もなく、お金がない。私立大の授業料は出せない。
受験料を払うお金もなかった。たった一度の受験。
寒い2月に受験をした当時の不安な、未来が見えなかった
頃が蘇る。たった一校の大学受験だった。人生とは不思議な
ものである。私の人生は断崖絶壁に立つことが何度かあった。
西台から送迎バスに乗り15分。板橋温泉へ。
バスには、70代のおばあちゃんが5人ほど乗り込む。
板橋温泉で3時間ほどゆっくりと温泉に入り、休む。
読書「旧約聖書を知っていますか」(阿刀田高著:新潮文庫)
堅苦しい文章でなく、旧約聖書の解説本。
ユダヤ教では、本書は「聖書」。旧約とつくのはキリスト教。
アブラハム→イザク→ヤコブ→ヨセフ→モーセ→ヨシュア→サムソン
→ダビデ
イスラエル人がカナンの地に定着するまでの苦難の歴史の
概略を知る。
旧約聖書を読んで一番感じることは、非常に排他的且つ
選民主義的な考えに貫かれていること。絶対神の指示
であれば、かなり酷いこともしているように読めた。
昔、イタリヤのフィレンツェで「ウフィッツ美術館」へ行った。
ミケランジェロのダビデ像があった。ダビデが片手に石を持っていた
のだが、この本を読んで若いダビデがなぜ石を持っていたのかが
分かった。
板橋温泉の帰り古本屋へ。
「ワーキングプア」(NHKスペシャル ポプラ社)
「噺家のカミサン繁盛記」(郡山和世著 講談社文庫)
定価の半額。
与謝野源氏本3冊はフエにおいてくる。在日中に読む本と
して買う。
今後の講演会の講演内容の原案を作成。
2月4日 宇都宮講演会
5日 足立4中教職員研修会(レジュメを作成)
午後7時過ぎ一杯飲む。昨夜ご馳走になったOさんから
頂いた食べ物をおつまみに。
毒入り餃子事件。日本中が大騒ぎ。テレビでもコメンテーターが
検査体制の不備を指摘している。
最大の問題は、我が日本人が食料の60%を海外に依存している
ということである。
自国で食料を調達するということは、「先進国」では常識。
歴代の自民党政権が農業を切り捨て、繊維産業を切り捨ててきた。
アメリカからの要求にしたがっている。
愛国心や美しい国などと言っている御仁こそ、愛国心のない
人々である。今回の毒入り餃子事件を契機に日本の農業を
再生させる必要がある。今後の温暖化問題などを考えれれば
近い将来、食料輸入が難しくなるいことは、自明の理。
食料自給は国の安全保障の根幹である。
今日は早めに寝る。明日から4日間の活動。
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『石塚啓子先生母校の小学校で講演会』
昨年末まで静岡会館日本語学校の教師をしていた
石塚先生が、帰国後、母校の小学校の道徳の時間に
「ベトナムの体験談」を話す授業を行った。
こうしてフエから帰国し、その体験を日本の子どもたち
に伝える活動をしてくれることが私には一番嬉しいことである。
フエでの生活・日本語学校の仕事などで得た石塚さんの
体験を基にした「異文化体験」の話は子どもたちの心に
響いたものと思う。石塚先生に心からお礼を言いたい。
以下、石塚先生からのメールの抜粋。
「母校の小学校で道徳の時間に、いろいろな方面で地域で活躍して
いらっしゃる方を招いてお話を聞いているとのことで、
私は4回目のその時間に呼ばれました。
今週の水曜のことです。ベトナムのことを紹介したり、
私がそこで何をしていたのか、JASSについて、などを話して
欲しいとのことでした。
私にできることなら、と思い、お引き受けしました。
福田もえ子JASS代表委員長に相談し、京滋YOUの会の
藤井さんにプチバンベを送っていただき、お二人をはじめ、
家族の協力の元で成功させることができました。
私がベトナムで撮っていた写真を大きくして紹介しました。
子どもたちはとても反応よく、質問や投げかけたことに対して応え
てくれたりもし、私はその反応だけで心強く、楽しく話すことが
できました。
全校生徒32人の小さな小学校ですが、私の話を聞いて少しでも
何か心に残るものがあればいいなと願っています。
また、プチバンベを配ることで、少しでもJASSやベトナムの様子などに
興味を持って欲しいと思います。
これからも、こうして少しでもJASSのお手伝いができれば、と思います」