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2008年02月13日
休日
晴天
相当な寒さ。耐えられない。
平野先生の急逝は私にとって相当な精神的な打撃となっている。
23歳からの付きあいであり、私と平野先生しかしらない様々な
問題があった。私の本当の苦しみを理解してくれる人がいなくなった。
本当に私は悲しい。父と弟の死以来の悲しみ。
私の23歳から今日まで私の活動のどこかで支えになってくれていた
恩人がいなくなるということの悲しみと不安。
この間の疲れがでた。午前9時起床。起きられなかった。
昨日の日記に追加の文章。
午前10時半、西台駅前から送迎バスに乗り「板橋温泉」。
午後2時10分までゆっくりと各種温泉などに入る。
精神的にリラックスし、少し疲れが取れたような気がした。
お年寄りがかなりの数入浴していた。
リラックスいすで1時間ほど寝る。
休みのない講演会などの連続だった。
読書「日本論」(佐高信、カン・サン・ジュン著)読了。
読み応えがあった。
特に印象に残ったのは、伊丹十三監督の父親である
伊丹万作の次のような言葉である。
1946年(昭和21年)の言葉である。敗戦後、こうした
認識を持っていた人がいたことに驚く。
「だまされるということは、不正者による被害を意味するが、
しかしだまされた者は正しいとは、古来いかなる辞書にも決して
書いてはないのである。だまされたとさえ言えば、一切の
責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘違いしている
人は、もう一度良く顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされた者、必ずしも正しくないことを指摘するだけに
とどまらず、私は更に進んで『だまされるということ自体が
すでに一つの悪である』ことを主張したいのである。
(中略)『だまされていた』という一語の持つ便利な効果におぼれて、
一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる
態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹(あんたん)たる
不安を感ぜざるを得ない。『だまされていた』と言って平気でいられる
国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在
でも既に別のうそによってだまされ始めているに違いないので
ある」。
敗戦の翌年である。炯眼(けいがん)。
1945年8月15日まで「天皇バンザイ」を叫び、翌日から
民主主義者に変身したわが国民。
アジア・太平洋戦争も「東條英機など一部の軍国主義者」
の暴挙。国民はだまされていた、との総括をして今日まで
来てしまった。天皇バンザイを叫び、シンガポール陥落、
南京陥落などで「提灯行列」をして祝った国民。
戦後、日本国民はアジア太平洋戦争を一部の軍国主義者
だけの責任にしてしまい、「自らが戦争を支持し推進した」
ことへの真摯な自己批判をしてこなかった。
伊丹万作が戦後翌年にこうした意見を持っていたことに
驚きを隠せない。
1945年8月15日まで「天皇ばんざい」だった人間が、
左翼に傾斜し、共産党などに入党した途端にすっかり
戦争を推進し、支持したことはどこかに吹っ飛んでしまい
全くの反戦主義者に変身し、今日に至っている人たちが
いる。頭の中が「天皇」から「共産党や社会党」に代わった
だけの人間。なくなった平野先生ど同世代の人間に
この種の「変身人間」が多い。平野先生は自己自身の
厳しい総括をしている。
郵政民営化選挙で小泉チルドレンに入れたわが国民。
与党に圧倒的な議席を与えた結果が、自らの首を
しめることになっている現実である。マスコミなどに
だまされたというのだろうか?
社会や政治の現実は主権者である国民の責任である。
一人ひとりの国民が自分のできるところで、だまされないよう
な目をもつ必要があると自戒している。
読書「なぜ日本人は劣化したか」(香山リカ著:講談社現代新書)
古本屋で350円。2007年7月発行。
フエ帰国の荷物チェックリストを作成。
午後8時半、次男と駅前の飲み屋で話し合う。
投稿者 koyama : 2008年02月13日 17:39