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2008年02月12日
平野先生告別式:日野七生中シンポ
終日雨
寒い。6度位か?
午前5時起床。
今日の平野先生告別式の弔辞の推敲。5分以内に終わるか
何度か読む練習。
午前7時朝食。
午前9時自宅を出て「町屋」の斎場へ。午前10時斎場着。
斎場には平野先生の二人の息子さんと葬儀委員長の
庄司さんが既に来ていた。平野先生の奥さんと息子さんに挨拶。
告別式場を見回す。平野先生が1995年にフエ視察に
来られた時の写真が更に数枚飾ってあった。
午前10時半、告別式が始まる。
平野先生が人生をかけて活動した東京都教職員組合本部。
生花も何もなかった。
平和とか人権などと言っている人々ではあるが、東京都教職員組合
のために人生をかけて闘って来た平野先生の通夜や告別式に
生花を出さないだけでなく代表者の弔問もない。
1年間しか付き合いのなかったJASSの皆さんではあるが、
昨夜の通夜には多くの皆さんが参列してくれた。
立派な「効能」を言うが人間としての当たり前の気持ちすら
持てない集団に嫌悪を感ずる。平野先生が一番嫌悪する
人間集団である。
人間はこうした時にその本質が分かるというものである。
2月8日頃の新聞に平野先生の訃報がでえいたそうだ。
20分間の読経。禅宗である。急に大声で「カツ」と言ったのには
驚いた。
午前10時50分。弔辞。
最初に私が弔辞を述べる。弔辞の内容は「続きを読む」
続いて、平野さんの親友である元東京都教職員組合副委員長
だった落合九州男さんの弔辞。
落合さんは涙で絶句することが多かった。仲間の急逝である。
落合さんの純な気持ちが伝わって来る。
どんなに忙しくてもこうして葬儀に参列し、お別れを言うことは
人間の根源的な誠実さを示すものである。落合先生の
誠意に心から感謝する。
私は事前に午後1時から日野市七生中でのシンポ参加を
約束していた。午前11時に町屋斎場を出ないと間に合わない。
本当は「お骨」まで行きたいとの強い思いがあったが、後ろ髪
を引かれながら、葬儀場を後にした。町屋から2時間。
町屋→西日暮里→新宿→高幡不動→南平 2時間。
午後1時、日野市立七生中へ。
七生中の給食
職員室前の廊下に習字が貼ってあった。素晴らしい習字。
20年ほど前一緒に仕事をした綿貫先生としばらく話し合う。
午後1時35分。七生中1年生160人に「勉強は何のために?」
のシンポジュームを行なう。
パネラーは
①大滝さん 小学校2年生から不登校。三鷹フリースペース。
大学検定で4月から大学の教育学部に入学
②カレン・エリカ・カリアソさん
フィリピンからの留学生
③脇野さん 青森の高校3年生 昨年の甲子園に出場
④小山
フィリピンのカレンさんは、フィリピンでは大学に行くのは
30%。一種のエリート。勉強をすることで素晴らしい人生
が待っているとのこと
大滝さんは不登校の経歴を話す中で色々な人生の選択が
あることを話す。
脇野さんは、高校野球で甲子園に行った経験を話し、
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という教訓を話す。
私はストリートチルドレンの子どもたちの生活とバイタリティーある
生き方を話す。
午後3時10分。生徒代表のお礼の言葉
お礼の言葉を言った女子学生。4人の話をしっかりと聞き、
上手に4人の話のエキスをまとめていた。なかなか能力の
ある生徒である。
七生中には私の友人の綿貫先生がいる。1年間一緒の職場で
仕事をしたことがる。心のある友人である。
午後4時過ぎ南平駅を出て、新宿経由巣鴨。
自宅着午後7時。
色々とあった一日であった。
平野先生の冥福を祈る。
午後4時、七生中を退出。
午後6時過ぎ自宅。
本当に悲しい一日だった。
私がベトナムに行った理由を本当に知っているただ一人の
知り合いだった平野先生。
平野先生がいなくなって本当に悲しい。素晴らしい人間だった。
今日の私の活動の基本は平野先生から学んだもの。
平野先生のご冥福を心よりお祈りする。
平野先生への弔辞
平野先生、先生と私が始めて出会った時のことを覚えていますか?
先生と初めてお会いしたのは1971年2月でした。37年も前になりますね。
当時、私は東京学芸大の学生でした。北区への就職が決まり4月1日付けで採用される前でした。
私は4月1日から新規採用される前に「教職員組合」に入りたくて、北区教職員組合の事務所を訪ねました。飛鳥山前の北区教育会館。古い木造の建物でした。玄関右の応接間に通され、応対してくれたのが平野先生でした。先生は当時、北区教職員組合の専従書記長をしていましたね。
初対面の学生の私に親切に応対してくれました。4月から北区立滝野川第7小学校に赴任することを話すと、先生は大変喜んでくれましたね。「そこは僕の職場だ。この10年間20代の先生が一人もいなかったんだ。採用される前に組合に入りたいなんて嬉しい」と言って長い時間職場の話、組合の話などをしてくれました。
それから採用される4月までの2ヶ月間、毎日のように組合事務所に行き、新採教員の組合加入の準備などの打ち合わせをしましたね。何度も組合事務所近くの飲み屋に連れて行ってもらいました。
教員になってからは、晴れて組合員となり毎日学校が終わると平野先生の所へ通いました。翌年は分会長、しばらくして平野先生が組合の委員長になると私は副委員長となり、組合運動のイロハを教えてもらいました。
74春闘のストライキで先生の家の家宅捜査という出来事がありました。
警察の家宅捜査・不当弾圧に備え、毎日平野先生のお宅に泊まり、奥さんの美味しい食事を頂いたことを思い出します。
お酒の飲めなかった私にお酒の美味しさを教えてくれたのも先生でした。
何度も何度も飲み屋に連れて行ってくれました。先生は山の手線・京浜東北線のどの駅に降りても必ず美味しいものを食べさせるお店を知ってしましたね。
先生の紹介で私が都教組本部の専従役員になり様々な問題を体験しました。その度に先生に電話をすると必ず池袋東口の小さなうなぎやに行き、私の悩みや身の振り方などの相談に乗ってくれました。今、ベトナムでストリートチルドレン支援のボランティアをしていますが、先生の適切な助言があったらから今日の私の活動があると感謝しています。
先生に仲人もしていただきました。今や二人の孫もいるおじいちゃんになりました。
ベトナムの会の代表の適任者がいない時には進んで代表を引き受けれくれました。
私が日本へ帰ると必ず二人で駒込のおすし屋さんに飲みに行き、『小山君、ベトナムの活動がどうだ』と私の活動に心をかけてくれました。
先生との活動をこうして一つずつ思い出していくと走馬灯のように様々な思い出が脳裏をかけめぐります。23歳から60歳までの37年間教え導いてくれ平野先生は私の人生の師である恩人です。
今日、ここでお別れすることは本当につらい事ですが、多くの仲間の心の中に先生の柔軟な思想と戦争を忌み嫌う平和の精神、弱い人を助ける義侠心、そして仕事に最後まで責任をもつ責任感は受け継がれるて行くものと思います。
先生のご冥福をお祈り致します。 合掌
投稿者 koyama : 2008年02月12日 18:58