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2008年02月11日

弔辞構想:「子どもと教育」原稿仕上げ:平野先生御通夜

晴れ

寒い。体がベトナム対応になっているので、10度以下
になると寒くて仕方がない。フエでは20度になると「寒い」
と感じ、ジャンパーを着る。

午前8時起床。朝食。
午前9時、メールチェック。火炎樹日記修正。

明日午前10時半からの「平野先生」告別式の弔辞原稿を考える。
何を言ったらよいのか、この37年間のお付き合いを振り返る。
様々な場面が脳裏に去来する。23歳から60歳までの37年間
の付き合いはやはり長い。その間、一度も中断なくお付き合いは
続いた。お付き合いと言うよりは、お世話になったということだが。
午前中をかけて2000字ほどの弔辞原稿を書く。

午後12時半、コーヒーブレイク。

午後1時から「子どもと教育」2008年4月号の原稿を推敲。
何回か読むが何となく「物足りない」。一部修正。
まだ不満。午後3時半まで推敲を続ける。
同時掲載の写真10枚を探す。

明日午後1時から日野市立七生中学校1年生学年集会にいく。
テーマは「何故、勉強をするのか?」。話す概要を作る。

午後5時、自宅を出て巣鴨経由日暮里→町屋へ。

町屋斎場。平野先生の御通夜。焼香。




会場内には平野先生の生涯の業績に関わる写真が飾られていた。

●北区教職員組合役員時代(左端)

●平野先生先導の「子どもの家」視察団。1995年。
 コックホック高校にて。案内はフエ師範大学日本語クラス
 学級委員長の「バオ・トアンさん」。バオトアンさんは
 私が教えた学生の中では一番優秀だった。人間も
 尊敬に値する人物だった。ベトナム社会でバオトアンさんの
 能力が本当に発揮できれば素晴らしい仕事が出来る
  人間である。私はバオトアンさんを学生として尊敬していた。
  今でも能力のある立派な人間と思っている。噂では
   ホーチミン市の日系企業で仕事をしているとのこと。
  仕事と家庭がうまくいくことを願っている。
  平野先生は、フエ師範大学日本語クラスの学生との交流を
  進めてくれた。
  平野先生は私がフエに渡って2年後には、励ましのための
  ツアーを組んで仲間の皆さんで応援に来てくれた。

●フエ市副市長を表敬訪問。

御通夜には、JASS日本委員長の福田もえ子さん、副委員長の
山西さん、野村さん、石崎さんも参列。
元代表の上田さん、事務局長の大西さんも参加。
心のある人たちである。平野先生は第3代目のJASS代表に
1年間就任して頂いた。諸般の事情で代表の候補者がいない
時だった。平野先生に相談した。先生は即断で「小山君が
困っているのなら応援する」と言ってJASS代表を引き受けてくれた。

私は平野先生と37年間のお付き合いである。
その間、平野先生と様々なことを経験した。
本来、今日の通夜に絶対に来なければならない一派が
誰も来ていない。悲しいことである。口では立派なことを
言っている連中である。結果的に来なかったことが
平野先生の冥福を祈ることになる。元都教組副委員長の
落合さんや執行委員の塚本さん、古川さんなど心のある
友人が参列した。
こうしたことを見るとJASSの皆さんは本当に立派だ。
JASS代表としては1年間の付き合いである。
それでも寒い中多数お別れに参列してくれた。本当に感謝したい。

1971年から18年間、私が平野先生と同じ学校に勤務した。
その当時の先生方はみんな退職しているが、通夜に参加。
平野先生と過ごした1970年代の楽しい思い出を語り合った。
私も20代だった。


私がベトナムへ行って15年間。常に平野先生は私を励まして
くれた。年に3回帰国すると必ずお会いし、二人で色々と話し合った
ものである。
今日は、悲しい。私の最大の理解者であり支援者の平野先生を
亡くした。

帰宅午後10時。

この種の御通夜に参加した後は、必ず平野先生と
一緒に飲んだものである。

帰宅後、平野先生のご冥福を祈り一人杯を干すのであった。

投稿者 koyama : 2008年02月11日 12:19

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