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2005年12月31日

お正月の料理作り

晴天。
非常に寒い。

午前9時起床。精神的には今日から正月。
お正月用の料理を作る。最初にしっかりと出汁を作る。

蓮の煮物(蓮の歯ごたを保つことがポイント)

こんにゃくの煮物(一晩寝かせておくと美味しい)

里芋の煮物(煮すぎない)

金平ごぼう(ゴボウは最初に。鷹のつめを必ず入れている)

イクラと大根おろし・しらす

昆布と鰹節でしっかりと出汁をとった。
蓮、こんにゃく、里芋の煮物はそれぞれ少しずつ味と出汁を変えて
作ってみた。

昨日、買ったイクラは塩味が強い。大根おろしとしらすと一緒に。

午前11時半。私は既にお正月。余りに寒いのでお風呂に入る。
その後、除夜の鐘を聞く前にお正月料理の味がどうだったか
の確認をするため、軽く一杯飲む。蓮とこんにゃくは薄味に、
里芋はおつまみにはちょうど良い味になっていた。
正月料理がうまく出来たことを確認。

午後、読売ナベツネの「わが人生記」(中公新書)を読了。
半分は政治、半分はプロ野球。前半は非常に興味深く読んだ。
戦後、東大卒業生を中心に「世紀」という会が作られた。
ナベツネ、安部公房、関根弘、五味康祐、吉行淳之介、
森本哲郎、三島由紀夫、疋田桂一郎(朝日天声人語筆者)
加藤周一など。
東大共産党細胞指導部、同大新人会などを組織し、共産党を
除名される。除名した責任者は宮本顕治氏。後日、共創協定を
特ダネ。東大哲学科の恩師、出隆教授を共産党に入党させる
など若い頃は左翼活動家だった。
音楽が好きな人。召集礼状が来た時、チャイコフスキー交響曲
第6番を聞くなどかなりロマンチスト。
「小泉首相に友情を持って直言する」の」項では、かなり率直に
小泉=ヒトラーをぶち上げている。小泉の構造改革といういう
言葉が、イタリア共産党のトリアッチ書記長「社会主義の
イタリアの道」で言ったのが初め。その後、社会党の江田三郎
が主張し「構造改革派」と言われた。構造改革はこうした
流れの中で使われた言葉で、小泉氏の構造改革は偽者。
ヒトラーの「我が闘争」を引用し、小泉首相がいかにヒトラー
の用法を真似しているかを検証。(体系なき絶叫スローガン)
と言っている。「ワンフレーズ・ポリティックス」とも言っている。
小泉首相をポピュリズムといってる。

アメリカのシュレジンジャーの言葉を引用し、新自由主義が
もたらす結果を警告している。

「保守主義者が信奉する制約なき市場は、保守主義者が
公然と支持する価値、すなわち安定、道徳、家庭、共同体、
仕事、規律、先憂後楽といった価値を損なう。あぶく銭の
きらびやかさや強欲、短期収益主義、過剰な性的関心の
悪用、安直な詐欺行為、早い者勝ち、と言ったことは
すべて、保守主義者の理念と相容れないはずのもので
ある」。昨今の強度偽装問題、東証のジェイコム株誤発注
時の大手証券会社の対応・・・・などを考えると真っ当な
保守主義者であれば、心痛む今の日本の現状である。
ナベツネ氏も政治的には同様の認識をこの本には
記している。

投稿者 koyama : 19:53 | コメント (0) | トラックバック

2005年12月30日

上野アメ横へ年末の買い物

終日晴天。

午前11時、家族で上野アメ横へ年末の買い物に行く。

アメ横は人人人。すごい人出である。

アメ横は確かに安い。私のお酒のおつまみ類を中心に
海産物を買う。

酢だこ(1500円)


中トロ(1000円)

数の子(1000円)

いくら(1000円)

手つき切り餅(500円)

帰りに上野「ライオン」で軽くサッポロ生ビールを飲む。
美味しい。牡蠣。

「わが人生記」(青春・政治・野球・大病)(渡辺恒雄著)
読売ナベツネの伝記。興味深深。感想は後日。
東大時代に共産党細胞の委員長。小泉構造改革に
批判的。小泉ヒトラーを警戒する論調。


★バオミン・ベトナム事務所長よりメール。
 一昨日の日記の中で「大変観光」とあったが
「太平観光」の誤りだとの指摘。ありがとう。

投稿者 koyama : 21:51 | コメント (0) | トラックバック

2005年12月29日

日本到着

終日晴天。

午前7時半、成田着。寒い。
午前10時自宅着。

フエ空港・ホーチミン空港の待ち時間、機内で
「井上ひさし 私家版 日本語文法」(新潮社)を読む。
1978年初版版を古本屋で200円で買った。
本の値段と内容は全く関係ない。読んで得したと思う。
全体を通して言っていることは、日本語については、
分からないことがいっぱいだということに尽きる。
勉強になったことも多い。「句読点」のつかたには
決まりがないことなど・・。

読んで行くと岩崎民平という名前が出てきた。
諸橋徹次「大漢和辞典」と一緒に
岩崎民平「新英和中辞典」が紹介されていた。
岩崎民平は東京外大英語学の権威。
戦後、倒産した我が家の稼ぎ手は母親の「縫い物」だった。
和服の仕立てである。母親は岩崎民平の奥さんの
お抱え仕立師だった。奥さんが年間何着もの和服を
作るが、全て私の母親が夜なべをしながら仕立てていた。
そのお陰で我が家は食いつないでいけたのである。

井上ひさしは敬語は「恩の気持ち」が基礎にあるという。
ホーチミン市から成田へのベトナム航空機内で日本人
アテンダントが「ビデオ設備が故障しました。本日は
映画の上映を見合わて頂きます」と放送していた。
機内放送を聴いて「見合す」とは「控える」という意味。
ビデオ放送はできるがしないということを含意している。
実際は機械が故障して放映できないのである。
こうした場合に「申し訳ありませんが、機会が故障して
放映ができません」というべきなのである。
2人しかいないベトナム航空の日本人アテンダントは
敬語の気持ちで「見合わせる」と言ったようだが、
この言葉は、思いあがった言葉である。
敬語を使うなら、故障して本来見られるべき
映画が見られなくなり申し訳ありませんという
気持ちが必要なのである。この若い日本人
アテンダントの女性はそうした気持ちがあったのか
どうなのか? 「見合わせる」という言葉の「主体」は
ベトナム航空側なのである。基本的には謝罪の気持ちは
伝わらない。

東京は余りに寒む過ぎる。

投稿者 koyama : 18:35 | コメント (0) | トラックバック

2005年12月28日

フエを発ち日本帰国へ。

終日雨。

約2ヶ月のフエ滞在だった。

今回の日本帰国は1月5日からの講演会、2月5日の
JASS総会やその準備等のため。

午前9時、東京に到着した内田さんより「無事帰国」
の電話。フエから東京自宅までは長い旅である。26時間
ほどかかっている。無事帰国された声を聞いてほっとする。
最近はこうしてフエを訪問し帰国された方から電話などで
「無事帰国報告」があることが稀になってきた。これも時代の
流れなのだろうか?
内田さんの話では成田空港付近は3度~4度とのこと。
相当寒そうだ。防寒の衣類を着て行かなければ・・・。
改めて内田さんに感謝。

午前10時、ハイバーチュン高校の副校長先生・
労働組合委員長・ホーチミン青年団担当教員などが
「新年」の挨拶にやってきた。
ベトナム事務所2階の会議室で応対。ハンさんの通訳。
ハイバーチュン高校には10年間奨学金を贈呈している。
この奨学金は東京太平観光北垣会長の寄贈によるもので
ある。

昼食後、帰国の荷物等準備。

午後3時過ぎ、トンチンカンホテル発。
リー君・ターオ君が見送ってくれる。


午後6時半、ホーチミン空港(タンソンニャット)着。
ホーチミン市で小学校支援をしているF氏の
出迎えを受ける。午後9時過ぎまでF氏の
活動の様々な問題について話し合う。
F氏の話ではホーチミン市は「拝金主義」に侵されているとのこと。
小学校では学校・教師が「制服・体育着等」を強制的に
購入し、リベートをもらっている。学校や自宅で補習をしお金を
取っている。そうした拝金主義の結果、公立学校へ通うのにも
かなり高額なお金が必要になっているとのこと。
貧しい家庭の子どもたちが通学出来なくなっているそうだ。
多くの貧しい家庭は地方農村からの流入者で住民票がない。
従って不安定な労働者としてホーチミン社会の最底辺で社会
を支えている人たちであるが、収入が少なく「高額」になった
公立学校に送り出すことが出来ないという実態があるとのこと。
又、ホーチミン市の階級格差は非常に大きく、多くの地方農村
流入者と一部共産党幹部や企業家など特権階級の贅沢三昧な
生活のとの乖離は相当大きなものがあるようだ。

午後11時55分、ホーチミン市発VN機で成田へ行く予定だったが
30分ほど遅れる。

小山2006年1月~2月帰国日程 


12/
29(木)午前7時半成田着
30(金)
31(土)
1/01(日)
2(月祝)
03(火)
04(水)
05(木)P1:20新英語研究会関東大会記念講演/那須塩原
06(金)
07(土)
08(日)A10役員会
P1:30オアシスの会懇談
9(月祝)
10(火)P1静岡市役所訪問打ち合わせ
      P8 京都・紫野ローターアクト講演会
11(水)講演会休 香川県西成さん訪問懇談
12(木)
13(金)
14(土)
15(日)
16(月)
17(火)
18(水)
19(木)
20(金)豊島区豊成小講演会
21(土)P5高校クラス会 
22(日)役員会(予定)
23(月)講演会休 京都綾部前泊
24(火)京都府綾部市立綾部小学校講演会
25(水)
26(木)
27(金)
28(土)P1日本事務所会議
29(日)親戚結婚式
30(月)
31(火)
2/01(水)
02(木)
03(金)
04(土)
05(日)A10日本事務所会議 P1ベトナムの「子どもの家」を支える会総会 )
  06(月)
  07(火)
08(水)
09(木)東村山市民講座 
10(金)

投稿者 koyama : 23:00 | コメント (0) | トラックバック

2005年12月27日

内田さん帰国

曇り・時々晴れ

午前7時半、内田さんが日本へ帰るためにトンチンカンホテル
経由でフエ空港へ。
トンチンカンホテルで日本人の見送り。

内田さん、ミン・ベトナム事務所長、私の3人でフエ空港へ。
出発1時間半前ということもあってチェックインの行列は
出来ていない。20分ほど、3人でお茶を飲みながら雑談。
10回のクリスマス会を寄贈し、里子メンさんを大学まで進学
させてくれた内田さんに改めて御礼を申し上げたい。

フエ空港からベトナム事務所へ。
フールー小学校の校長先生、労働組合委員長の二人が
新年の挨拶に来ていた。フールー小学校との付き合いは
12年になる。

ベトナム事務所3階では日本料理店の店員に松下先生が
日本語教育。実践的な日本語教育を行っていた。


昼食は私の大好きなチャオバンカン(小麦粉の煮込みうどん)
30分ほど昼寝。

午後、手紙の整理、メール送受信。

午後3時、先日までフエ市共産党委員長だったクアン夫妻が
ベトナム事務所を訪問。30分ほど懇談する。

午後4時、リー君と話し合う。バオミン・ベトナム事務所長も
一緒に。
今日の午前中、トンチンカンホテル前においてあった
トンチンカンホテル・ルーム係りの自転車が盗まれた。
トンチンカンホテルではこれで2台目。ベトナム事務所で
も2台の自転車が盗難にあっている。フエも物騒になって
きたものである。
その時期、リー君がトランプのギャンブルに行っていて
警備員の仕事をサボっていた。トンチンカンホテル前に
リー君がいれば自転車盗難はなかったものと思われる。
リー君は気分が乗らないと時々どこかえ行ってしまうことが
ある。仕事についての責任ということをじっくりと話しあう。
また、ギャンブルは絶対にしないと約束していたのに
またしたことについてミンさんと二人で強く注意する。
今後は、午前8時~午前11時。午後2時~午後5時までは
我慢してでもトンチンカンホテルの警備員として仕事をすること、
その上で「給料」がもらえるのだということを話す。
人間の成長とは本当に「螺旋階段」のようなものである。
右に行ったり左に行ったりしながら、大局的には成長している
のである。成長を厳しく長い目で見守ってやる必要がある。

トンチンカンホテルにラームさんの長男(VU:ヴー)君が
お母さんとやってきた。

夕食後、日本語学校参観。中級コースを石岡先生が
教えていた。30人。

中級クラスには「子どもの家」のスタッフである
キムアンさんとハンさんも学んでいる。

投稿者 koyama : 22:32 | コメント (0) | トラックバック

2005年12月26日

全教フールー小学校へ

終日曇り。

午前8時半、全教の先生方はフールー小学校へ。
フールー小学校は船上生活者の師弟が多い小学校。
全教千葉の皆さんは今回で4回ほど参観している。
今年は夏と冬の2回。

初めに会議室で校長先生・担任の先生方と交流。


●全教千葉訪問団長の挨拶
日越教職員の友好交流を更に続けたい。
フエに来て元気をもらえる。

全教より記念品贈呈

フールー小学校より全教へ記念品贈呈

●日越両国教職員の記念写真

続いて1年・2年・3年・5年の全クラスを訪問し『紙粘土作り』で
遊ぶ

●紙粘土の説明

●紙粘土で遊ぶ

●紙粘土完成ークラス全員で見せ合う

フールー小学校での交流を終えて、全教ツアーの皆さんと
昼食を摂る。

昼食後昼寝。

午後、床屋へ。明日日本へ帰国する。帰国前の恒例行事
であう散髪。150円。

夕方、内田さんと一緒にトンチンカンホテルで夕食。
内田さんは明日帰国する。料理のフオンさん・税田さん
と記念写真。

夕食後、午後7時半まで内田さんたちと雑談。

午後7時45分。日本語学校訪問。上級クラスの授業。
中村先生が教えていた。
ベトナム事務所のソン君も学習中。

上級クラスの生徒が書いた「習字」。

投稿者 koyama : 06:46 | コメント (0) | トラックバック

2005年12月25日

全教ー「子どもの家」へ:内田さんと昼食、夕食

終日曇り。

雨が降らなくなりほっとする。
昨夜のクリスマス会でかなり疲れる。

午前8時半、全教ツアー(7人)と一緒に「子どもの家」へ。
ミンさんは内田さんをオートバイのうしろに乗せて。

「子どもの家」では2006年1月29日のテト正月(旧正月)
に向けて、一人一人の子どもたちの新年用の服とズボンを
採寸していた。64人の子どもたちの体に合った新年の
晴れ着を作っていた。


午前9時。「子どもの家」で3人の退所式を行う。

●トアン君(18歳)の退所式
 トアン君は1993年10月から私が支援を始めた
 子である。当時は、チーラン通りにあった「子どもの家」
 である。私が1993年9月1日、フエ師範大学で日本語
 を教え始めて1ヶ月後である。
  当時トアン君は6歳。それから12年。トアン君は18歳に
 なった。
 *母親は20歳だと言っていたが、戸籍がなく「子どもの家」
   で「子どもの家」に入所した時に「子どもの家」で戸籍を
  作ったので詳細不明なまま18歳となってしまった。
  もしかしたら母親の言うように20歳なのかも知れない。
   当時3歳ほど年上の姉も一緒に「子どもの家」にいた。
  数年前に「子どもの家」を退所し、クアンチ省のドンハ市に
  帰り、結婚したい。現在、5歳、4歳、7ヶ月と3人の子どもが
  いるとのこと。姉は知的障害をもっていた。夫は車椅子生活。
  姉は豚を飼い、夫は車椅子で宝くじやつま楊枝を売って生計
  を立てているとのこと。姉の自立を聞いて嬉しく思う。

●トアン君と母親

 (セン委員長)
 今後は、自宅へ帰って普通の家庭生活を経験して欲しい。
 研修した靴作りを生かして自立し、母親を助けて欲しい。
       
●母親署名
  47歳の母親は字がかけず、トアン君が代わりに書いていた。
  母親には口に出せない苦労の人生があったことが想像できる。

トアン君は私が一人でフエにやって来て1ヶ月後に支援した子ども
である。それから12年3ヶ月。小学校にも入っていない小さな頃の
トアン君を思い出す。今は私よりも背が高い。12年間の時間の
流れをつくづくと感じる。長かったのか短かったのか?
とにかく、トアン君という一人の人間がこうして自立していくことが
出来るようになったことは、何よりも喜びである。トアン君にとっては
「子どもの家」が自分の家庭であり世界であり12年間の人生
だった。トアン君の幸せな人生を祈るのみである。
 

●トアン君はお母さんより背が高くなっていた

退所式では、お母さんもトアン君も目から涙がこぼれていた。
12年間は、トアン君にとっても長い時間だった。「子どもの家」
を出ることには、やはり感慨深いものがあるのだろう。
お母さんは大きくなったトアン君を見て感激したのか?

ーーーーーーーー
続いてMEN(メン)さん(22歳)の退所式を行う。
メンさんは、クリスマス会を寄贈してくれている内田征子さんが
10年間近く支援してくれている里子である。1995年4月に
入所している。今の「子どもの家」(グエンチャイ)が出来た
時からの子どもである。9歳で入所してきた。兄・メンさん・
妹の3人で入所してきた。両親は病気で亡くなっている。
それから10年8ヶ月。メンさんも様々な苦難を乗り越えて
高校・浪人・大学と進学し、自分の力で自分の人生と
未来を切り開いてきている。内田さんや私たちの10年間に
わたる支援がこうした形で結実することは私たちにとっても
嬉しいことである。たった一人に人間であっても、私たちの
応援を受けて自立する道を歩めるようになった。
海外支援・人道支援の一端を担ったような気がする。

退所保証人のおばさん二人(メンさんのお父さんの妹)

(セン委員長)
メンさんは両親が亡くなったので今日は、二人のおばさんが
身元引受人となる。今後は、「子どもの家」を退所し自立する。
戸籍も「子どもの家」は離れる。「子どもの家」への恩を忘れ
ないように。また、JASSや内田さんの支援を生涯思い出す
ように。退所しても「子どもの家」へ来て欲しい。
何よりも内田さんの恩を忘れないように。

(おばさん)
「子どもの家」やJASSの皆さんの支援に感謝します。

(メンさん)
10年間、「子どもの家」で生活してきた。
内田さんやJASSの支援のお陰で自分は大きくなり大学への
行くことが出来た。JASSや「子どもの家」がなければ
成長も出来なかったと思う。

(内田)
メンさん、退所おめでとう。私も支援をしたが、「子どもの家」の
スタッフの皆さんのお陰でメンさんのこんにちがあることを
忘れなうように。
今後、困ったことが起こったらJASSベトナム事務所に相談
して欲しい。

(小山)
今後は、ラームさんの実家を下宿として生活するように。
また、「子どもの家」に来て年下の子どもたちの勉強や
生活の面倒も見て欲しい。
1995年4月から入所したメンさんは、グエンチャイ「子どもの家」
の第一期生。「子どもの家」の第一期生としてしっかりと大学で
勉強し、「子どもの家」の子どもたちの見本となるような大人に
なって欲しい。そして、自立して欲しい。

ロック寮長の「退所宣誓書」の読み上げ
この宣誓書に署名をすることで新しい戸籍と住民票(身分証明書)
が作れる。


おばさんの署名


メンさんの退所式終了後、関係者全員で記念写真

ーーーーーーーーーーーー
PHOU君(フオイ)の退所式

フオイ君は18歳。1993年10月にチーラン通りの
「子どもの家」に入所。それ以来の付き合いである。
12年と3ヶ月。長い付き合いだ、
今は彫刻の研修をし良い成績を残している。
彫刻の先生は専任彫刻師として採用すると言っているが
本人は急に印刷をすると言い出し、既に5回セン委員長、
私、ミンさんと話し合いをしている。今回、叔父さんの
方からクアンチ省の親戚で引き取るとの話があり、
本人も納得。しばらくクアンチ省の親戚の家で生活し、
将来を考えることとなった。叔父さんも親戚も彫刻の
仕事をする方が良いといっている。フオイ君は
バンキエウ族という少数民族である。
クアンチ省にあるバンキエウ族の村で生活する中で
少数民族の彫刻師として生活を始めることをみんな
願っている。本人のやる気と意欲がでるのを少し
待つ必要がある。

●フオイ君と叔父さん

叔父さんが署名する

ーーーーーーーーーー
トアン君・フオイ君は12年間の付き合い。文字通り私の
フエ滞在と同じ足跡を辿っている仲間でもある。
トアン君・フオイ君の成長と共に私のフエでの
ストリートチルドレン支援、障害児支援、奨学金支給など
と活動の範囲も広がってきた。
メンさんも10年間の付き合いである。2番目に作った
今のグエンチャイ「子どもの家」の第1期生。
3人とも私にとっては、我が子同然の子どもたちである。
3人の子どもたちの新たな門出を祝いたい。
人生の荒波の中でも自分をう失わずに幸せな人生を
歩んで欲しい。

「子どもの家」では、全教千葉の皆さんが「子どもの家」
の子どもたちと遊んでいた。

ひょっとことおかめのお面を被っての踊り。
子どもたちはびっくりするやら驚くやら、中には怖がって
泣いてしまう子どももいた。楽しいひと時。

久しぶりに雨のない1日。全教の先生方と子どもたちは
「子どもの家」の庭で絵描き遊びした。

午前11時半。内田さん、ミンさん、税田さん、松下さん、中村さん
石岡さん、私でチャオバンカンを食べに行く。

午後5時、同一メンバーで「蟹料理専門店」へ。


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2005年12月24日

ナムドン少数民族訪問:第10回クリスマス会

晴天。午後曇り

24日ぶりに太陽を見る。

午前7時半、トンチンカンホテルを出発しフエ空港へ。
午前8時20分、全日本教職員組合(全教)千葉の皆さん
7人を出迎える。

フエ空港からそのままナムドン山岳地帯へ。
カトゥー族のTHUONG LO(トゥオンロー)小学校へ。
全教千葉の皆さんがカトゥー族の子どもたちに奨学金を
贈呈するために。

●奨学金を手渡す

●全教の先生方、日本の折り紙を教える

●THUONG LO村副村長と懇談

●THUONG LO 小学校で全員記念写真

昼食後、カトゥー族の村へ。交流会。


●カトゥー族の子どもたちに紙粘土を教える


午後4時、フエ市内へ。フォンザンホテルへ到着。

午後5時、「ズイタンホテル」で恒例の第10回クリスマス会
開催。クリスマス会は内田征子さんの寄贈によるもの。
内田さんは10年間続けて子どもたちにクリスマス会を
贈ってくれた。「子どもの家」・在宅支援・スタッフなど
総勢130人。
内田さんは10回全てのクリスマス会に参加。
10回参加しているのは私、ラームさん、何人かいる
「子どもの家」スタッフ、「子どもの家」第一期生など。

記念すべき第10回クリスマス会の企画立案者は
日本語教師の松下先生。

「子どもの家」・在宅支援の子どもたちや親、
スタッフ、全教ツアー参加者(7人)、フエ市人民委員会
などの参加者が勢ぞろいし、クリスマス会は始まる。

●内田さん寄贈の子どもたちへのお土産


●クリスマスケーキ

司会は松下・ハン。

●セン委員長の挨拶
 「子どもの家」の子どもたちは健やかに生活することが
 出来ている。JASSのお陰でである。クリスマス会を10年間
 も支援して頂いた内田さんに心から感謝したい。
 子どもたちを立派な人間に育て、自立させることが内田さんや
 JASSへの恩返しだと思っている。

セン委員長や子どもたちよりクリスマス会10周年記念の
お礼が内田さんに贈呈された。

●セン委員長より「心」と縫われた刺繍が贈られる

子どもたちから『手作りプレゼント』が贈られる

●内田さんの挨拶


●全教千葉の松原先生の乾杯の音頭でクリスマス会の会食が始まる。

私はサンタ役を指示され、会場の子どもたちやスタッフを巡り
クリスマスのお祝いを言う。

会食途中で「カラオケ大会」。

今年は10周年記念ということで正式な大会とした。
審査委員は内田さん、セン委員長、小山。
エントリーは9人。
会場に設置したカラオケのテレビを見ながら熱唱。

会食・歓談の参加者

●メン姉妹

●ユオン姉妹

10回ものクリスマス会を寄贈してくれた内田さんへお礼の
出し物

初めに子どもたちから内田さんに10年間のクリスマス会
支援のお礼の言葉。子どもたちの代表として里子の
メンさんがお礼を言う。

「子どもの家」の子どもたちから内田さんに感謝の歌。
「あわてんぼうのサンタクロース」。
全員日本語で3番まで歌う。3番は替え歌で「内田さんのが
いつまでも元気で元気で元気で」と歌う。

●ベトナム事務所員より
 「小さな世界」の合奏。ピアニカ、リコーーダー、
 ハーモニカ、タンブリン、すず・・・・
 バオミン・ベトナム事務所長の指揮で行進しながら演奏。
 その後、「小さな世界」を合唱。


ベトナム事務所員もクリスマス会を楽しむ


午後7時半、クリスマス会は終了。
帰りに内田さん手作りのお土産も含め、多くのお土産が
用意された。子どもたちが好きなお土産を手にして
「子どもの家」へ帰る。

クリスマス会終了後、ベトナム事務所スタッフ全員で記念撮影


「10年間の支援」と言うのは簡単であるが、実際に10年間、
毎年12月24日に現地までやって来て子どもたちにクリスマス会
を贈呈するということは『言うは易し行なうは難し』である。
この12年間、多くの方々と出会ったが、私は人間が何を
言うかではなく「何をするのか」を基準に人をみるようになった。
色々と立派なことを言う人もいる。しかし、ただ言うだけの
人は直ぐに去ってゆく。ボランティアは最終的には
「心」である。心がなければ形だけのもので終わる。
言うだけで終わる。百万遍の立派なお説教よりも
子どもたちに一粒の米が必要なのである。
改めて10年間、10回ものクリスマス会を毎年寄贈して
くれた内田さんの「心」に感謝し、「継続」という偉大な
闘いを続けてくれたことにお礼を申し上げたい。
人間は一時燃え上がった時にはエネルギーが出る。
しかし、永続しないものである。私たちのしている
ボランティアにとって一番の課題は「継続」である。
一時燃え上がった心の灯をどのように「永続」させるかである。
「継続」「続ける」「モチベーションを保つ」ということが
いかに難しいかは、「子どもの家」を支援する活動を
通して学んだことである。
得てして「声高の人」が組織やその場を支配する。
しかし、私は声高の人間を信用しない。出来なくなった。
内田さんは、声高には言わない。しかし、コツコツと活動を
継続している。10年間の取り組みがその証明である。
人間はこうありたいものである。

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2005年12月23日

餅つき大会

終日曇り。

午前8時半から日本料理店調理実習。
今日は内田さんの『豚汁』と餅つき大会。
内田さんの「豚汁」は日本料理店で家庭料理を
教えるボランティアの一環。

餅つきを始める。フォー(米うどん)の上新粉(米粉)をつくための
うすを借りてくる。リー君と一緒にきれいにあらう。熱湯で消毒。

ベトナム事務所では餅つきの経験者がいないので、餅つきの仕方を
実演する。練りが80%、つきが20%。餅つきの基本は「練り」。

料理人のターオ君に餅のつき方、「合いの手」の入れ方を教える。
「練る」ことを教える。今後、日本料理店でお餅を出すためには
餅つきを覚えることが必要。
松下さんに「合いの手」の仕方を覚えてもらい、餅つきを始める。



松下・石岡先生も餅つきを体験する。

日本料理店の子どもたちも初めての餅つき体験。


一臼をほぼ一人でつき上げる。かなり疲れる。助っ人に
バオミン・ベトナム事務所長を呼ぶ。
税田さんの合いの手も息が合って、一臼をつきあげる。

お餅がつきあがったので「からみ餅」「納豆餅」「きなこ餅」「あんこ餅」」
を作る。

休憩しながら和気藹々(あいあい)と子どもたちとも餅つきを楽しむ。


午前11時半から「試食会」。

からみ餅(大根おろし)

安倍川餅(のり巻きもち)


納豆餅(手作り納豆ともち)


午後2時過ぎ、2006年2月5日のJASS第11回総会への
議案の構想を考える。必要な資料をセン委員長に依頼する。

午後4時過ぎ、「子どもの家」へ。
「子どもの家」では内田さんが里子のメンさんと懇談中。

「子どもの家」の子どもたちは、雨が止んだので庭で久しぶりの
遊び。

10月22日テレビ東京で放映された「ザ・ドキュメンタリー」で
入所した「リーさん」もすっかり「子どもの家」に慣れた。
笑顔が戻ってきた。

午後6時、夕食。

にわとりの玉子焼きを食べる。
日本ではとりインフルエンザを心配している向きがある。
ベトナムの全てが怖いと言う人もいる。
トリインフルエンザは、熱を加えれば安心。
「にわとりの玉子焼き」は本当に美味しかった。
このとりの玉子は、厚生省安全認定印のある玉子である。
普通のたまご(今は買えない)の60%ほど高い。
1個10円程度。

明日は、クリスマスイブ。朝、7時からナムドン山岳少数民族へ
行く予定。

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2005年12月22日

雨が上がる 

終日、曇り。

22日ぶりに雨がやむ。
街が何となく明るくなり人々の歩みが軽くなったように
感じる。


午前中、ラームさんと中部全域のツアー関係の打ち合わせ。

午後、教育評論2006年3月号原稿を書きあげる。
2週間ほど時間をかけて最終号を推敲した。
1年間連載の最後なのでテーマも21世紀を考えて大きな
ものとした。
「21世紀―日本の針路・平和国家としての日本
―――ベトナム戦争から学ぶ憲法9条の偉大さーーー」

最終号にあう写真を7枚。今まで保存していた数百枚の
子どもたちの写真の中から、子どもたちの笑顔、生活を
中心に選ぶ。
1600字。1年間の連載は格好きついものがあった。
毎月のテーマをどうするのか? 1600字と写真を
準備することなど、いつも追い詰められているような気持ちに
なる。昨年は1年間の連載を二つもっていたので、いつも
精神的な負担感があった。これで全ての連載が終わった。
今日は、正直ほっとした気持ちである。

明日の餅つき大会用に「うす」と「きね」の用意をする。
うすは近隣の農家から借りる。きねは京都青年会議所が
ボランティアツアーで「子どもの家」に来た時に作ったの
だが、「子どもの家」の倉庫にないという。急いで
「きね」を特注してもらう。今日中に出来るか?

明日の「納豆持ち」用の納豆作りを進める。

リー君の下宿探しに行く。身分証明書がなかったので
正式な下宿が出来なかった。今回、身分証明書を作ったので
やっと下宿が出来るようになった。
ラームさんと一緒にリー君の下宿探しに行く。リー君は
トンチンカンホテル(日本料理店)の警備員である。
トンチンカンホテルから徒歩で通える下宿を探している。

●ラームさん、リー君と一緒に下宿探し

●目星を付けた下宿を見る


福島にいる長男から2回電話あり。来年2月のベトナムツアーの
件。

夕食は内田さんと一緒に。

明日は日本料理店で「大餅つき大会」の予定。
ラームさんに頼んで石うすときねを持ってきてもらう。

内田さんや日本語教師の皆さんがもち米を一晩漬ける準備。
昨晩から作っていた『手作り納豆』が出来上がる。
明日は、「納豆もち」「からみもち」「きな粉もち」「あんころもち」
を作る予定。どうなるか?

●出来上がった「手作り納豆」

投稿者 koyama : 19:23 | コメント (0) | トラックバック

2005年12月21日

日本の各団体等と連絡

終日雨。

寒い。

事情は不明だが、朝食を作る人が来なかった。
今朝は朝食なし。

23日に日本料理店で実習予定。実習に出す「手作り納豆」
を作る。大豆を洗い12時間水に漬けておく。

22通のメール受信。19通のメール送信。

午後、ラームさんとツアー等の打ち合わせ。

日本のつげの高校と電話連絡。

夕食は内田さんも加わって。

午後6時過ぎ、漬けておいた納豆用の大豆を圧力鍋で
30分煮る。温かいうちに「納豆菌」をふりかけ、納豆製造機に
かける。28度、24時間の保存後、12時間ほど、冷蔵庫で
熟成させる。12月23日の午前11時頃、丁度美味しく納豆が
出来ている予定。これで納豆作りは5回目。段々と納豆の作り方
がわかってきた。

夜11時半まで「ある問題」で関係者と連絡。無駄な時間を
過ごす。

WHO(世界保健機構)の発表によれば、ベトナムの
トリインフルエンザ死者数60数人は間違いだったとのこと。
検査の方法が未熟でトリインフルエンザの死者でない
人もトリインフルエンザの死者として扱ってしまったのこと。
実際の死者は30人程らしい。
ベトナム政府の60数人の死者という発表で日本の観光客
の多くは来春のベトナム訪問を中止してしまった。
「子どもの家」への訪問者の多くも、ベトナム政府の
60数名死亡との発表でベトナム訪問を中止した。
トリインフルエンザの死者数を隠していた中国よりは
ましだと思うべきなのか?・・・・。

日本は大寒波。明日も日本海側は大雪とのこと。
小樽はどうなっているのだろうか?

投稿者 koyama : 19:18 | コメント (0) | トラックバック

2005年12月20日

日本事務所の内田さんフエ到着

終日雨。

気温14度。とても寒い。

朝目が覚めず。午前7時の朝食に間に合わなかった。

午前9時。フエ市人民委員会へ。
余りに寒いので「ゴムの合羽」を防寒のために着る。


オアシスの会プロジェクトの打ち合わせ。
フエ市人民委員会とオアシスの会との間のプロジェクトの
契約書(覚書)の詳細を詰める。最終合意。
覚書のベトナム語・英語版を作る。

ベトナム事務所へ戻り、バオミン・ベトナム事務所長と打ち合わせ。

今日は20日。ベトナム事務所や「子どもの家」、関連施設の
給料支給日。ベトナム事務所には奨学金をもらっている
子どもたちやオートバイ修理研修センターの先生など
関係者が給料などをもらいに来ていた。

●給料を受け取るオートバイ修理研修センターの先生

午後3時半。バオミン・ベトナム事務所長と一緒にフエ空港へ。
日本事務所の内田征子さんを出迎えに。
内田さんは、12月24日のクリスマス会参加のため。
「子どもの家」のクリスマス会は内田さんの寄贈で行われてきた。
1996年から。今年で10回目である。
例年のように子どもたちへのクリスマスプレゼントをスーツケース
一杯に詰め込んでフエ空港へ到着。

バオミンホテルへ投宿。12月27日までフエに滞在予定。

午後6時から内田さんの歓迎会。
日本語学校の先生も時間を工夫して参加。

●内田さん歓迎会



●トリインフルエンザ対策で家禽類(鶏、あひる・・)の処分
 という方針が出され実行されている。全ての市場から
 家禽類は一掃された。それに伴い鶏肉、玉子類は一切
 販売されなくなり、庶民の口には入らなくなった。
 当局から一部承認された玉子や鶏肉などがある。
 フエに戻って1ヶ月半。初めてアヒルの玉子焼きにありついた。

●久しぶりということとそもそもアヒルの玉子焼きが好きだった
 ということもあり「美味しい」アヒルの玉子焼きだった。


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2005年12月19日

日本料理実習

終日雨。

とても寒い。

今朝も起きられず、寝坊する。朝食ぎりぎりに起きる。
普段は5時半から6時には起きられるのだが・・・。

午前8時半、ベトナム事務所で打ち合わせ。
オアシスの会の会の大塚さんから電話。

午前10時40分、日本料理店へ。

日本料理店では店長のホンさんと料理4人組で料理を
作っていた。自分たちで料理を作る手順に慣れてきた。
経験と時間が必要。人を育てるということは、時間と
忍耐、自主性、間違いの繰り返しが必要。

先日、ハノイのバッチャンに買出しに行った日本料理店の
食器類は、12月25日頃、届くとのこと。

日本料理店は、トンチンカンホテル全体の工事が終わらないと
開店できない現状である。8月下旬に開店予定だったのが・・。
来年2月頃までは工事がかかるようだ。完成の時期は不明。

●段々料理がうまくなり手順が良くなった「料理4人組」

●エビの下ごしらえ

●小魚の下ごしらえ

●協力して天ぷらを揚げる


●日本人のお客さんの注文を聞く練習

●天ぷら定食

●肉じゃが

お客さんの注文を取って急いで天ぷらをあげる。
それぞれのお客さんの個別注文料理を出す。
警備員のリー君もベトナム人客役となる。

午後2時半、フエ市共産党委員長のクアン氏がトンチンカンホテル
を訪れる。先日のトゥア・ティエン・フエ省共産党大会で任務が変わり
トゥア・ティエン・フエ省共産党委員会常任委員となったとの挨拶に
来た。トゥア・ティエン・フエ省共産党委員は46人。常務委員は13人。
クアン氏はフエ市担当のトゥア・ティエン・フエ省共産党常務委員
となった。これからもJASSと協力して仕事をしていきたいとのこと。
フエに住んで12年。フエ省・フエ市の共産党・人民委員会、各種
機関など様々な人々の「人脈」を持っている。様々な情報もはいる
ようになった。海外NGOとして本当に現地で有効な支援活動をする
ためにはどうしてもこうした「目に見えない」現地の実情把握が
必要である。大使館もJICAもこうした現地の実情把握に対する
関心が非常に低い。寂しいものがある。ODAが国益だとか外交戦略
のひとつだなどと大見得を切っている「お偉いさん」もいるが、
現地の実情把握、少なくともトゥア・ティエン・フエ省・フエ市の
状況把握はとにかく弱い。表面を撫ぜているようなもの。
はなはだ寂しい日本外交ではある。

頭が痛い。今日は今までの中では特別寒い一日だった。

2005年JASS総会議案の骨子を書く。

読書「さようなら、私の本よ」(著;大江健三郎 講談社)を
読み始める。


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2005年12月18日

休養日

雨。寒い。

18日連続の雨。太陽を全く見ない。

午前7時、NHK日曜討論を見る。耐震強度偽装問題の各党討論。
北側国土交通大臣が打ち出したマンション住民への「支援策」。
世論調査では、「自己責任」でやるべきだ、支援はおかしい
との声もあるとのこと。北側大臣は『緊急に手厚い支援策』を
取ったと記者会見で述べた。今日の討論会では、特別手厚い
ものではなく、今ある法律制度の範囲での支援策である。
北側大臣が意気込んで「緊急」「手厚い」などというので
国民の一部に反撥がでているとの評価もある。
一部報道では、「姉歯元一級建築士」は創価学会員、
創価大学HPには就職先のひとつに「ヒューザー」があったのが
突然HPから消えたとの噂もある。ヒューザー小嶋社長と
国交省の間を最初に取り持ったのは公明党の山口那津男
参院議員という話もある。話が公明党や創価学会に
波及する前に火種を消したいので「緊急」「手厚い」などと
誇張した記者会見になったと言う人もいる。真偽の程は
不明。いずれにしても耐震強度偽装問題に政権党が
関与している匂いがする。

午前9時半、昨夜6時にぬか床に漬けておいた「なす」
「きゅうり」「大根」「人参」を取り出す。
低温浴 25分。チャートゥー(豚肉のコラーゲン部分)、
ぬか漬けでフダ缶ビール2本。満腹。

昼寝。

午後、読書。「下流社会(新たな階層集団出現)」(著:三浦展
光文社新書)
著者の三浦氏はマーケッティング情報誌「アクロス」編集長を
経て三菱総合研究所入所。マーケッティングをしながら
家族、消費、都市問題などを研究し「郊外社会学」を展開。

「マルクスだったらこう考える」ではグロ-バリゼーションの
中で「中流階級」が二分化し、少数の上流化と多数の下流化
の二極分化に向かうと推論していたが、本書「下流社会」では、
4つの年代の意識調査を詳細に分析し、同様に「中流階級」
の二分化を分析している。

4つの年代とは「昭和一ケタ世代」「団塊の世代」「新人類世代」
「団塊ジュニア世代」。
団塊ジュニア世代の中流意識が明確に少数の上流階級意識と
下流階級意識に分化していると分析している。今後の日本社会
の進路を暗示している。
マルクス主義学者といわゆる若者など世代の意識調査をした
三浦氏とが、軌を一にして『中流階級の消滅・分化』を言っている
のは興味深いところである。
三浦氏の意識調査の結果によると団塊ジュニアの特徴は
①下流男性は引きこもり、女性は歌って踊るだそうだ。
 上流の女性は読書、ガーデニング、音楽鑑賞、料理。
 下流は絵画・イラスト・ダンス・舞踊などのサブカルチャー的
  趣味への志向が強い
②朝のテレビ。
  上流はNHKを見るが、下流はフジテレビを見るそうだ。
③政治的には下流男性は自民党支持が18.8%
  民主党支持18・8%。
  上流の男性は自民党8・3%、民主党16.7%。
  団塊ジュニア下流意識の男性は、政治意識が高く、
  フジテレビを見て、スポーツ観戦は好きとの結果。
③幸せを感じるとき(団塊ジュニア)
  上流男性 美味しいものを食べる、家族でいる、友達といる。
  下流男性 一人でいる、ゆっくりと休む時。
  上流女性 美味しいものを食べた時、感動した時、新しい
         知識を身に付けた時、自己表現できた時。
  下流女性 一人でいる時。

実際に意識アンケートをとった結果の分析なので興味の
ある部分もある。全て鵜呑みには出来ないが・・・・・。

NHK衛星放送「笑いが一番」を見る。

以下採点。(5段階絶対評価)

・おぼんこぼん(3)
・順子ひろし(5)
・横山ホットブラザース(5)
・昭和のいるこいる(2)

漫才「順子ひろし」はすごく良かった。表面はさっぱりしているが
年季の入った芸だった。特に男性のひろし。
良い。とにかく良い。今まで何回も寄席で見ている。
ひとつひとつのせりふ、ネタに無駄がない。すべてあっさりと
見えるがしっかりと決まっている。
こうした芸をもっと世間は高く評価すべきだ。
人間国宝にしたらどうだろうか?
のいるこいるはただうるさいだけ。

夜、午後8時、朝と同じぬか漬け、チャートゥーでフダビール2缶。


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2005年12月17日

ベトナム事務所「週間反省会」

終日雨。寒い。

朝、起きられず。午前7時の食事に遅刻。
体がまだだるい。直ぐに横になりたくなる。
今日土曜日、一頑張りして明日は休もう。

午前8時半、ベトナム事務所員会議「週反省会」。
バオミン・ベトナム事務所長の司会で今週の反省と来週の計画を
ベトナム事務所員で共有した。

(フーン)日本語学校のガイドクラスの実地教育を行った。
     市内から飛行場を往復し、観光案内、飛行場での
     諸手続き等の実習を行った。飛行場へ行ったことのない
     学生もいて意義のあった実習だった。
      まだ学生は覚えてきたガイドの内容を言うだけで
     質問やお客さんとの応答はあまり出来なかった。
     今後への課題を残した。
      今週はホテル、レストラン等でのお客さん案内の
     現場自習も行った。
      来週は、今週行った実習の復習を行い学習内容を
     定着させる予定。

(石岡)ガイドコースの実習に参加したが、会話がまだ十分では
    ない。
(サン)日本語学校初級・中級は問題ない。
(ハン)ベトナム事務所会計
(税田)メー元知事の日本語教育再開予定
    エドウインの刺繍は順調に進んでいる。土日も刺繍を
    する。
     「京滋YOUの会」のUさんより教材をあげるとの申し出。
     全教千葉Mさんからの依頼の刺繍はほぼ終わる。
(ソン)日本語学校で勉強した。クリスマス会の飾りを買いに
    行った。「京滋YOUの会」藤井さんなど支援の里子などの
    写真を撮りに行った。
(ミン)退所式を来週行う。メンさん、トアン君、ホイ君。
    クリスマス会の会場は「ズイタンホテル」になった。
    P5~P8時半位まで
     札幌のK大学のスタディーツアーが中止になった。
    (2006年2月11日から)
    その関係でテト期間中のベトナム事務所閉鎖期間を
    2月10日までとする。
    ミシン研修の件
(小山)観光省・トゥア・ティエン・フエ省の日本語ガイド認定試験
    を私たちが行ったことは重要な意義がある。
    これで今後、毎年フエで行われる日本語ガイド認定試験
    は私たちの日本語学校が専任の試験認定機関となった。
    これはハノイの観光省も認めたものである。
     日本語学校の先生方の努力の結果だ。

●ベトナム事務所員会議

昼食後、休養。

午後「喜びは悲しみのあとに」(上原隆著:幻冬舎)
を読む。上原隆の本は「友がみな我よりえらく見える日は」
に続いて2冊目。ドキュメンタリーのような書き方で世間の
目立たないところで生きている人間にインタビューし
生活を見ての記録。淡々とした記述はよけいその内容に
真実味を与える。探偵小説作家打海文三の「時には懺悔を」
に書かれた「二分脊椎症」の我が子の生活の実態を聞き取る。
天安門事件で日本へ来て日本の会社に入り、日本の会社の
中国進出で故郷を訪ねて中国の女性の聞き取り。
日本の会社社長の横暴な態度、中国蔑視の態度に我慢し
ながらの生活。
「会社がなくなった」では栃木新聞社倒産撤回闘争の中心に
なって活動した新聞記者の倒産後の職探しの実態。
「キャッチセールス」では、渋谷でキャッチセールスをしている
若者の生い立ち、生活、インタビュー・・・・。
鶴見俊輔の解説もよい。今まで読んだこともない新しい
形の小説。私が一番気に入ったのは、「どぎつさ」や
誇張を極力排した淡々として筆致。

夜、ホーチミン市に来ている内田さんより電話あり。

投稿者 koyama : 12:22 | コメント (0) | トラックバック

2005年12月16日

「子どもの家」メンさん自立へ:日本料理店実習

終日雨。

午前7時、朝食。
トンチンカンホテルの隣の携帯電話屋と少し先の携帯電話屋に
泥棒が入った。今朝午前3時頃、トンチンカンホテルの隣の
携帯電話屋の入り口ドアを破って泥棒が侵入。家主が物音に
気づき、入り口に来て泥棒を見つける。泥棒は逃げる。

今朝はトンチンカンホテルの両隣の家々を地元の警察官が
実況検分。多数の警察官が出ていた。
トンチンカンホテルの玄関で寝ているリー君にも「犯人」の嫌疑
がかけられる。警察官に「身分証明書」の提示を求められたが
もっていない。IDカードがないので、トンチンカンホテルでの
宿泊届けも出来ない。形の上では、住所不定となっている。

今年の5月頃、「子どもの家」を通して警察にリー君の
身分証明書(IDカード)の発行を申請しておいた。
急いで「子どもの家」へ行き、ロック寮長に地元警察に行き
IDカードをもらってきてもらう。
リー君にIDカードを渡す。リー君の本籍は「子どもの家」と
登録してある。急遽、リー君のトンチンカンホテル居住届けを
出す。

ドイモイ政策の中、経済のある程度の発展の中で
人心も乱れてきている。今年の春には、トンチンカンホテル
近くの携帯電話店に強盗が入り、店員を刺殺した。
段々とフエも物騒になって来ている。ホーチミン市は
既に相当荒れているが・・・・・。

午前8時、トアン君と話し合う。トアン君(ラームさんの弟)は
2006年1月2日に日本へ行く。ブライセンという会社の
藤木社長の招待。日本語学校で勉強し、その後、IT専門学校へ。
更にブライセンでの仕事と今後7年間ほどに日本滞在となる。
藤木社長が私たちを支援する一環としてトアン君を日本に
招待し、IT技術を身につけさせるとのこと。既に兄のホアン君
も4年間藤木社長の招待で日本にいる。今年の4月から
ブライセン(コンピュータのプログラミング・組込み技術等)で
実習している。日本にもこうした心のある経営者がいる。
藤木社長に感謝。

1時間ほど、日本での生活について、問題が起こった時の
処理、日本の生活習慣などを話す。

午前9時過ぎ、「子どもの家」へ。9月からフエ経済大学に
入学した「子どもの家」のメンさんと会う。
メンさんの自立(退所)のため、下宿を見に行く。
ラームさんの実家へ。「子どもの家」からオートバイで15分。
少し田舎に入り、川の縁にあるラームさんの実家へ行く。
ラームさんのお母さんと懇談。メンさんもラームさんの実家
に下宿し、そこから大学へ通うことを決める。近日中に
退所式を行う予定。
雨の中、「子どもの家」→ラームさんの実家へオートバイでいく。
体はびしょ濡れ。風邪を更に悪化させた感じ。

●ラームさん実家で。ラームさんのお母さんと面談。

●ラームさん実家応接間

●ラームさん実家庭

●ラームさん実家の門


午前0時半、トンチンカンホテル。今日は日本料理店の
実習。「子どもの家」日本語教師の松下先生が責任者
で料理実習を行う。

●料理人のターオ君と松下先生

「子どもの家」訪問の戸取さんが半日料理ボランティア。
「牛丼」の作り方を教えてくれる。ホン店長、子どもたちは
牛丼の作り方を習い、一緒に作る。ポテトサラダ。
魚の塩焼き。

●半日料理ボランティアの戸取さんと日本料理店スタッフ

私は急いでジャガイモとたまねぎの味噌汁を作る。
冷蔵庫で一晩寝かせておいた「手作り納豆」とぬか漬けを
だす。「手作り納豆」は納豆菌を入れすぎた。匂いが強い。

牛丼は本当に美味しく出来ていた。半日料理ボランティアの
戸取さんが丁寧に「牛丼レシピ」を手書きで書いて来てくれた。
これで実習後にベトナム人スタッフが「自習」出来る。
料理レシピと半日料理ボランティアをしてもらえると
一番ありがたい。日本料理店のスタッフも
牛丼作りを習得。今後もこうした形で自分の得意な家庭料理を
1品、日本料理店で教えて欲しい。戸取さんのようなボランティアを
是非お願いしたい。これでかなりレパートリーが増える。

家庭料理「子どもの家」は、専任の日本人料理人を置かず、
全て手作り。素人の私たちや「半日料理ボランティア」の
皆さんの力で時間をかけて子どもたちやベトナム人スタッフを
育てて行く。人づくり日本料理店である。

●戸取さん仕込みの牛丼

●昨夜午後6時に漬けたぬか漬が17時間後においしく出来た

●ポテトサラダ(とてもおいしかった)

●さわらの塩焼き

●ジャガイモとたまねぎの味噌汁(煮干の出汁が強かった)

●日本人が「うるさいお客」になり接客の実習

●お客役の税田さんと警備員のリー君


悪寒と倦怠感。立っているのが辛かった。
午後4時半、フエ市人民委員会へ。ニエン外務部長と懇談。
いくつかの問題について意思統一。フエ市・フエ省との
微妙な問題について突っ込んだ話し合い。

フエでは気候の変化と寒さのため風邪など体調を崩している
人が多い。バオミンさんの奥さん、お父さんなど・・・・・。
私もあまりエネルギーが出ない。話をするのが少し辛い。
少しの音でも頭がガンガンする。音と匂いに弱い。
夕食後、早めに横になる。食事と休養しか対策はない。
お灸を足に据える。
フエでの生活は文字通り「自己責任」。
体調の悪い時に限り、様々な悩ましい問題が起こり、
休んでいられない。また、横になっていても心休まらない
ことが多い。人生の皮肉。

日本に大寒波が襲来しているようだ。小樽や福島は
どうしているのだろう?東京も寒くなったのだろう・・。

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2005年12月15日

体調崩す

終日雨。寒い。

数日前から体がだるい。今日は1日横になっていた。
微熱あり。雨に濡れたのが原因か?
部屋にいても寒くてどうしようもない。
ミンさんに厚手の毛布を買ってきてもらう。

考えてみれば、6月から7月半ばの帰国講演会で
全国を回り、フエに戻り7月8月9月と300人近く訪問者を
受け入れた。10月~11月5日までの日本帰国講演会。
11月5日フエに戻りとこの半年間、あまり休みもとれず
にいた。少しの休養が必要。

18通のメール受信。8通返信。

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2005年12月14日

「子どもの家」セン委員長と打ち合わせ

終日、雨。


2週間以上の雨でフォン川は氾濫寸前。

午前8時半、バオミン・ベトナム事務所長のオートバイの
後ろに乗り「子どもの家」へ。


セン委員長と「今後の職業訓練センターのあり方」について
協議。


子どもたちは14度という寒さに真冬のいでたち。

2週間以上の雨で「子どもの家」2階の天井から雨漏り。
あまり雨が多いと、屋根のかわらの間から雨水がしみこむ。
蛍光灯をつけいてる小さな穴から雨漏り。
天井は昨年、ベニヤからアルミに張り替えたばかり。
原因は天井ではなく屋根の構造。一般的にベトナムの
家屋の構造はこんな風だ。

ベトナム事務所も2箇所で雨漏り。

午前10時半、トンチンカンホテルへ戻る。
NHK海外衛星放送は衆議院国土交通委員会の証人喚問の
中継はしていなかった。姉歯氏の弁明を聞きたかったのだが・・。
参考人質疑は中継し、証人喚問は中継しないNHKの姿勢は
頷けない。


一昨日の夜、日本語ガイドライセンス会話試験をに立ち会った際、
雨に濡れたのが悪かったようだ。体がだるい。風邪の初期症状。


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2005年12月13日

日本語ガイドライセンス授業終了式

終日雨。

昨夜部屋に干した衣類が全く乾かない。ぬれたまま。
湿度の高さが分かる。この2週間、太陽を見ていない。
部屋がかび臭くなってきた。

午前7時、朝食。中村さんがぬか漬を出してくれる。にんじん、
なす、大根、きゅうりが頃良く漬かっている。17時間。

朝食後、第4回目の「手作り納豆」に挑戦。
残っていた大豆をきれいに洗う。日本と違って砂やごみが
たくさんはいっている。かなり丁寧に洗わないと駄目。
水につけて1日おく。

午前中、読書。
午前10時、ベトナム事務所でベトナム事務所員会議。

昼食後、昼寝をしようかと思ったが工事の音と強烈なシンナーの
匂い。1階でコンプレッサーを使ってペンキを吹き付けている。
3階の私の部屋の前にシンナーを使い、木に塗料を塗っている。
トンチンカンホテルの建築工事中、目がかゆくなったり、鼻水がでる
のはこれらのアレルギーのようだ。フエに戻ってから急に症状が
出てきた。とにかくシンナーの匂いがひどく部屋にいられない。
吐き気がする。仕方がないのベトナム事務所へ逃げ込む。
11月のはじめにトンチンカンホテルに戻ってから
ごみとほこり、騒音の中での生活に心底参ってしまう。
昼寝の時間も日曜日もドンドンガンガン、異臭。到底休めるもの
ではない。シンナー、ペンキ、グラインダーでの石削り。
毎日部屋には数ミリの石の粉とほこりがたまる。
これだけの大掛かりな工事中に部屋にいること自体が無理な
話である。

徒歩でベトナム事務所へ行く途中、2人の日本人が地図を
片手に家を探している。「どこへいくんですか?」と尋ねると
「「子どもの家」です」とのこと。ベトナム事務所に案内する。
茨城県から来た「子どもの家」訪問者母娘。
30分ほどベトナム事務所で話をし、松下先生が「子どもの家」へ
案内。


その後、30分ほど、バオミン・ベトナム事務所長と「子どもの家」
の問題について話し合う。明日、セン運営委員長と相談すること
となる。

北海道のH大学関係からフエでのボランティア体験ツアーの
可能性があるかの問い合わせ。可能との返事を出す。

午後4時50分、バオミン・ベトナム事務所長と一緒に
「臨時ガイドライセンス取得特別講座閉講式」に参加。
中村先生・石岡先生も一緒に。

受験に遅刻した「豪傑」氏は、卒業ライセンス発行式
には第1番目にやってきた。

●閉校式掲示
 「数少ない外国語観光ガイド業務向上コース閉講式」

参加者紹介。ハノイ観光省代表、フエ省観光学校校長、
「越日交流委員会」付属日本語学校校長小山の紹介。

フエ省観光局副局長挨拶。
観光省代表挨拶。
学生代表謝辞。

学生代表が外国語の先生たちに感謝の花束贈呈
試験官だった石岡先生・試験の準備をしてくれた
中村先生や日本語学校教師の皆さんに感謝する。
ハノイ観光省・フエ省観光局そしてJASSとの提携
が出来上がった。民間NGOとして微力ではあるが、
国家試験の日本語ガイドライセンスの認証の仕事を
することになった。小さな取り組みであるがこうして
日本語ガイドを養成し日本とベトナム・フエとの友好
交流に尽力したい。


●試験官の中村先生に花束贈呈

●試験官の石岡先生に花束贈呈

●日本語ガイドライセンス合格者全員記念写真


日本語ガイドライセンス合格者


午後6時半、閉講式は終了。

その後、場所を変えて、卒業生主催の先生に感謝するパーティー
が行われる。中村・石岡先生は日本語学校の授業があり、
私が参加。

パーティーは午後8時半終了。

帰宅後、1日漬けておいた大豆を圧力鍋で40分ほど煮る。
粉末納豆菌をふりかけ、納豆製造機に入れる。
28度、24時間で納豆が出来るはず。
午後10時。日本料理店警備員のリー君が納豆作りを
手伝ってくれた。40分間、圧力鍋で大豆を煮た。
その間、リー君は圧力鍋の沸騰状況を見ながら
濡れた机を拭いたりしてくれた。リー君とは10年以上の
付き合いである。色々と問題もあったが、最近を落ち着いて
来ている。年齢というものが、人間を落ち着かせるものだ
ということもある。


ハゲタカ国家日本。

みずほ証券の発注ミスにつけ込んで他の証券会社が
多額の利益をえていた。
みずほ証券の発注ミス自体も情けない話ではあるが
誤発注と認識しながら、他の証券会社がその間隙(かんげき)を
ぬって顧客に仲介するのではなく、自分の証券会社が
ジェイコムの株を買ったのである。野村證券などハゲタカ証券会社
と言っても過言でない。明らかに発注ミスと分かっていながら、
「金儲け」のためなら、倫理も道徳も無視して、ハゲタカの
ように金儲けにまい進する大手証券会社。
自分の子どもにこうした卑怯な態度を話せるのか。
与謝野経済・財政・金融担当相がこれら卑怯な証券会社を
批判した。「行動の美学を持つべきだ」と。当然の批判である。
法律には違反しないが、人間としてしてはしてはいけないことである。
日本の支配層やグローバリズムの象徴である世界金融資本の
腐敗はどうしようもない所に来ている。金儲けだけに生きる
魔物である。ブッシュ大統領や小泉・竹中氏が主導している
新自由主義の行き着く先である。
ケイズン主義すら否定し、資本が好き勝手に動ける「勝手気ままな」
世界資本主義を目指している。スイスに本拠のあるUBS証券は
たった数分でみずほ証券のミスに付け込み100億円以上もの巨額の
富を手に入れた。耐震強度偽装と根は同じである。
金儲けのためには、命もモラルも眼中にない「無政府資本主義」
世界に突入しようとしている。新自由主義路線の実態である。

投稿者 koyama : 17:43 | コメント (0) | トラックバック

2005年12月12日

日本料理店試作・批評会ーー日本語ガイド免許試験

終日雨。

午前7時、税田真理子さんがフエに戻って最初の朝食。
ブンボーフエ。元気にフエに戻ってきた税田さんと
合わせて5人の日本人の協力で日本語学校や
「子どもの家」支援など各種活動を進めていく。

午前8時、「子どもの家」訪問者と懇談。


午前8時半から日本料理店の料理試作・批評会を行う。
私は手製のラーメンを作る。バラ豚肉と醤油、
ニンニク、しょうがで30分ほど煮る。チャーシューを作る要領。
出来た豚肉風味の醤油がラーメンのたれ。
別に脂身の豚肉、各種野菜、にんにく、しょうがなどを
2時間ほど煮てスープを作る。本来は鶏がらなどを入れたい
のだが、トリインフルエンザ問題で鶏が買えない。
代わりに鶏がらスープをいれる。
ベトナムの生ラーメンを茹でて食べる。ネギ、チャーシュー、
いんげんを青みとする。出汁がしっかりと出て美味しかった。
ほかに魚の竜田揚げ、天ぷら、カレー、サトイモの煮物・・・。

今日は、本番並の接客の練習。松下さん、石岡さん、税田さん
などがお客になり注文。ホンニー、グエットさんが注文を受ける。

みんなで会食しながら批評会。

午後1時50分、バオミン・ベトナム事務所長と省観光局長と
懇談。その後、今夜行われる『観光ガイドライセンス』試験の
打ち合わせ。ハノイから観光省の担当者、フエ観光局、
フエ観光学校校長などが参加。今回の臨時ガイドライセンス
試験の意義についてハノイ観光省より説明。
「今回の臨時ライセンス発行はベトナム政府の方針である。
ホーチミン市・ダナン・フエ・ハイフォンでも同様の試験を
行っている。今回の試験はベトナムでの観光客が急増した
日本語、ドイツ語、スペイン語の観光ガイドライセンスを
出すことである。あくまで観光客急増に対応した臨時の
ライセンス発行である。」
フエ観光局より認定基準を説明。私からは、日本語試験の
基本と基準を話す。

午後6時、トゥア・ティエン・フエ省観光局で「臨時観光免許」試験
が行われる。試験官は石岡先生。私は豪雨の中オートバイで
試験場に行く。豪雨で上半身がびしょ濡れ。
30名近い受験生。ハノイ観光省の責任者が挨拶。
第1次試験はベトナム語による法律、観光ガイドの心得などの
口頭試問。

その後、日本語ガイド免許取得希望者は石岡先生による
日本語会話の試験。

日本語ガイド免許取得受験者

日本語ガイド受験生は8人。
中には試験に遅刻する豪傑受験生もいた。

●遅刻した受験生


●遅刻した受験生を心配して雨の中、待っている受験生

●試験を待つ受験生

8人の受験生の成績を総合的・かつ厳密に精査し、
合格者を発表する。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
日本は本当に怖い国になっている。
東京株式市場で発注ミスがあったが、東証側のミスもあり
みずほ証券は500億円もの損失を蒙った。
つい先日、東証のミスで半日取引が出来ないという
不祥事があったばかり。無能な東証ではある。

今日、アメリカ産牛肉の輸入が解禁された。
だれもアメリカ産の牛肉の安全性を保障できる人はいない。
農水省も厚生労働省も専門家会議も誰一人、責任を
とる人はいない。サリドマイド・水俣病・薬害エイズ
ハンセン病問題などの「前科」がある。

耐震強度偽装事件。他の建物も怪しいと誰でも思っている。

食べ物と住まいという人間が生きる原点である「食住」が
怪しくなった日本。

学校へ行けば刺殺され、登下校中に殺され、今度は学習塾でも
殺される。家では虐待。日本の子どもたちは「居場所」がない。

食住が危なくなり、子どもたちはいつも命の危険を感じながら
生活する。今の日本の危機的状況を象徴しているようである。
全て「営利優先」「金儲け優先」の社会である。

投稿者 koyama : 23:46 | コメント (0) | トラックバック

2005年12月11日

終日トンチンカンホテルは工事

一日中雨。気温16度。

今夕、東京では初雪を観測したそうだ。
日本もいよいよ本格的な冬に突入。

午前9時半起床。この4日間程の活動で疲れる。
ゆっくりと入浴。20分。
一昨日ぬか床から取り出し冷蔵庫に入れておいた「大根」
とするめでフダビール3缶。
NHKのど自慢を見る。下手なドラマなどを見るよりは、のど自慢
の方が面白い。そこには「人間」がいる。この世のどこか
で何十年も生きてきた人間がいる。少しの感動がある。
歌がうまいか下手かではなく、今生きている様々な
人間がいる。

今日は日本事務所会議。バンベー1700通の発送作業を行う。
山西、寒河江、内田、高橋、原田、野村、小山、藤原(佐藤)、
石崎、原、須賀田、広瀬、木村、福田の皆さんに感謝。
1年間日本語教師をし、帰国した原かおりさんが帰国報告を
行う。原さん、日本語学校での活躍ご苦労様でした。

昼寝をしようと思ったが、朝7時前から工事。おまけに隣接して
いる隣のホテルも工事。トンチンカンホテルでは、金属棒を
かなづちでうち、壁に穴を開けているのか、壁を崩しているのか
、ドンドンドンという体を震わせるような音が響いてくる。
グラインダーで金属か硬い石を削る音がする。
日曜日の朝位はゆっくり寝かせてもらいたいものである。
グラインダーのキーンとした音、金槌のドンドンドンと言う音は
緩慢な「拷問」である。到底寝ていられるものではない。
そのうち頭が痛くなり、イライラしてくる。私は音が嫌いだ。
特に大きな音、騒音、キーンとする音、コツコツコツと延々と
続く音・・・・。

隣接するホテルの宴会場で結婚式。昼頃から延々とカラオケ
が続く。ベトナムはとにかく音を右一杯に回す。
これでもか? というほどの音量でカラオケをする。これも
拷問のようなもの。生半可ではない音量が延々と半日続く。

「マルクスだったらこう考える」(銭場昭弘著:公文社新書)
を読む。著者は神奈川大教授。
マルクスが現代に生きていたら今おこっている諸現象を
どう考えるだろうか、という問題意識で書いた本。
趣旨はこれからマルクスの出番だということ。
ロシア社会主義、レーニン主義、スターリン主義の誤りを指摘し
本当の共産主義社会は今まで言われているものではない、
それらは、レーニン、スターリン、毛沢東などによって変質された
共産主義のイメージであると述べている。
詳細にマルクスの原著を紐解き、けしてマルクスは
ソ連・東欧などの社会主義のような社会を目指していなかった
と述べる。グローバリゼーションを悪のように言うが、
逆説的に言えば、グローバリゼーションの行き着く先は
世界の人間の共同体。
マルクスの描いた共産主義社会だという。
先進国の中流階級と自認している層が崩壊していく、
海外への工場の移転、資本移動の中で、結局は
先進資本主義国の「中流階級」の所得は、海外の
低位所得に平均化されていく。先進国に海外動労者が
流入し、国際化(グローバリゼーション)が進行する。
これから50年、100年先の世界を想定している。
一読の価値のある書。

夕食。TAKE OUTのコムデイア(65円)。ご飯の上に
野菜炒め、豚の煮物、海老の煮物、たけのこの煮物
などがのる。店で好きなおかずを乗せてもらいトンチンカンホテル
で持ち帰り。おかずをおつまみにビールを少し。

ビールを飲みながら「教育評論」3月最終号の原稿を推敲。
不満が残り、後日書き直す予定。

今日は1日雨。夕食を買いに外へ出る以外は室内にいた。

NHK海外衛星放送はごった煮の放送である。
大人も子どもも誰も「こぼさず」に放送するというもの。
CNN、BBC、フランス、ドイツなどの海外放送がニュースを中心に
大人向けなのに比べてNHKは特異な放送局である。
お陰で日本では見ないような番組も「強制的」に見せられてしまう。
そうして仕方なく見せられた番組で意外に面白いのが
NHK教育テレビである。面白いという意味は相当自由に実験的な
内容を放送していること。特に幼児番組は面白い。
今日は「おかあさんといっしょ」特別番組。「あそび だいすき」。
・みんなとあそぼ。
・そうきんかけレース。
・でこぼこフレンズ。
・おすしすしすし。
・うちのびじゅつかん。
・イチジョウマン。
・くるくるヘリコプター。

2分か3分ごとに内容を変える。私も飽きずに見ている。
これが結構面白い。これからこうした番組を見た
子どもたちが育ってくる時代が来るのだ。
NHK教育の「おかあさんといっしょ」はお勧め番組。
つまらないバラエティーやワイドショーなどよりは
面白い。かなり水準の高い芸術家が子どもたち向きに
工夫して作った番組のように思えた。芸術的水準は
かなり高い。
日曜日に強制的に見せられる「少年倶楽部」という
小学校の学芸会以下の番組に比べるとはるかに
質が高い。子どもたちには良い番組である。
小中高校生になると「少年倶楽部」のような学芸会
以下の番組しか見られない若者に「可愛そうに」
との一言をささげたい。
義経役の何とかという歌手が出ていたが、
義経の脇役の素晴らしさに比べ、あなたは学芸会以下です、
せりふの練習をしっかりしてください、あなたが一言しゃべると
番組がしらーっと白けてしまいますと言いたい。
「少年倶楽部」をNHK衛星放送から追放して欲しい。
代わりに1時間ものの落語を放送して欲しい。独断的偏見だが。

投稿者 koyama : 18:43 | コメント (0) | トラックバック

2005年12月10日

「子どもの家」視察。JASA(日本システムハウス協会)帰国

終日雨。寒い。

昨夜、帰宅が遅くなり、朝起きられず。
午前8時、ベトナム事務所で『週反省会』。

(ミン)・ハン会計担当のお父さんが手術をした。手術は成功。
    来週から仕事に復帰できそうだ。ベトナム事務所としても
    必要な援助をしていきたい。
    ・「子どもの家」MENさんが5週間の軍事教練から
     帰ってきた。
    ・来週も何人かの訪問者がある。
(中村)日本料理店のメニューを決めたい。
     料理の値段も決めたい。
     昼食(午前11時から午後2時)は安く、夕食は少し高くしたい。
     昼食のメニューは、魚定食、肉定食、カレー、カツカレー、
     うどん類、ラーメン・・・・。
(石岡)観光局主催の日本語ライセンス発行のための日本語講座
    をした。参加者の中で日本に滞在していた人がいるが、
    言葉が乱暴というのか、先生や公式の発言の仕方が
    分からず、友達に話す会話しか出来ない。
(フーン)日本語学校関係は問題ない。
     ガイドコースのHさんが退学。能力がなく授業について
      こられなかった。
(松下)クリスマス会の準備をした。日程表の改定を行ったの
    提案する。
(ソン)今週は日本語学校で勉強した。コピーをとった。
    昨日、「子どもの家」へ言って里子の写真を撮った。
(サン)初級・中級を教えた。特に問題ない。
(小山)ブライセンの藤木社長一行が来ている。
    長年の会への支援者なので出来るだけ視察に
    協力したい。

午前9時、ベトナム事務所で日本料理店の料理人への
日本語の授業が行われていた。松下先生。
私から日本料理店の子どもたちに日本語教育をお願いして
いないのだが、自主的に子どもたちに日本語を教えてくれている。
「子どもの家」での日本語クラスの授業、日本語学校での
授業の上にこうした活動を自主的にしてくれている。
本当に助かっている。日本料理店は私も関係者も初めての
体験である。日常の様々仕事の中で中々頭が回らない所がある。
関係者の皆さんが様々な所でホローしてくれている。
松下さんの日本料理店の子どもたちの日本語教育・接客マナー
教育、中村さんの日本料理の試作・指導、石岡さんの観光コース
の生徒への特別な教育指導など、本当に有難いことである。
世間では、『いまどきの若者は・・・」などと知ったかぶりなことを
言う人もいるが、現実にはこうした若者がたくさん育っているのも
事実である。こうした若者に日本の未来を託したものである。

一人一人に丁寧に日本語教育の入門授業を行っていた。
なかなか根気が長続きしないターオ君も一生懸命勉強していた。


午前10時、ミンさんとモーリンサイゴンホテルへ。
藤木さんなどJASA(JAPAN SYSTEM HOUSE ASSOCIATION)
の4人の方を案内し、オートバイ修理研修センター→「子どもの家」。
「子どもの家」を案内。セン委員長と挨拶。各施設、子どもたち
と交流。午前11時、「子どもの家」の昼食の様子を参観。

昼食。ティエンアン山の麓にあるレストランへ。
松下・中村・石岡さん、ミンさんなども参加。
その後、王宮、ティエンムー寺などを参観。

午後4時、日本料理店「子どもの家」へ。
吟醸酒・ビールなどを嗜む(たしなむ)。

午後6時、フエ空港からハノイへ。夜中にハノイを
出て成田着。(12月11日朝)。

私とミンさんで見送り。そのまま、フエ空港へ残り、
午後7時半着のホーチミン市経由「帰国」する
税田さんを出迎え。3人でトンチンカンホテルへ。
1ヶ月の日本休養であった。税田さんは元気な顔で
フエ空港へ現れる。

さすがに今週、特にこの3日間は朝から夜遅くまでの仕事が
続き、疲労の局地に達する。
ベトナム事務所では、ハンさんはお父さんの手術で大変だったが、
日本語学校、日本料理店、「子どもの家」などそれぞれの部署を
ベトナム事務所員がしっかりと守って仕事を進めてくれる。
真面目なベトナム事務所員の皆さんである・有難いことだ。
感謝。

投稿者 koyama : 06:26 | コメント (0) | トラックバック

2005年12月09日

日本システムハウス協会視察団

終日雨。寒い。

トンチンカンホテルの建築工事で電話線が切断される。
このためインターネットが使えず、日記が書けなかった。

午前7時45分、ラームさんと一緒にモーリンサイゴンホテルへ。
日本システム協会(会員社130社)一行4人とフエ科学大へ。
同協会の視察目的は、フエのIT事情である。
フエ科学大学IT科がベトナム中部では最高水準を保つとの
こと。

早速、IT科長のHAN教授と懇談。

フエ科学大学INFOMATION TECHNOLOGY教育の現状を
聴く。学生は1000人ほど。その中で成績優秀な学生10%
を選抜し特別クラスを編成している。授業、教室での会話は
全て英語。授業を参観。
フエ科学大IT科は、理論学習を優先した教育プログラムと
なっていた。実践的な教育はかなり遅れているとの評。

午前10時、フエ省立IT専門学校を参観。
トゥア・ティエン・フエ省の指示で設立されたIT専門センター。
DUNG所長と懇談。
トゥア・ティエン・フエ省(国からも)からの財政措置は相当なもの。
広大な敷地、設備。所長さん以下7人ほどの幹部と1時間ほど
意見交換。

授業は1日2時間、週4日、1年間とのこと。年間授業料700ドルには
驚いた。ベトナムの平均年収は480ドル(2004年)。
年収の2倍もの授業料を払える学生はどんな家庭の学生だろうか?
所長に質問してみた。共産党幹部や高級役人の子どもたちで
大学に入れなかった若者が中心だそうだ。大学に入れるほどの
学力はないが、と言って「お偉い親」からするとその辺の仕事は
させられない。そこでIT専門学校で勉強させるという図式になった
ようだ。授業を参観する。確かに流行の服装、スタイル、装飾品
を身に着けていた。

日本のIT専門学校では1日5時間、週5日間で3年とのこと。
フエIT専門学校の20倍程度の勉強をしている。視察団の
意見では、日本の専門学校を出て会社に採用し、会社で
3年ほど研修してやっと給料が出せる第1歩程度になるとの
こと。現在のフエIT専門学校の水準では到底世界水準の
競争には間に合わないとこと。
その後、種々のカリキュラム、授業内容、学校のシステム
などを聞いてみると、毎月学生を募集しているとのこと。
結局、IT専門家を育ているということよりも年額700ドルの
授業料目当ての「お金儲け」専門学校的な側面が強いとの
感想が強かった。

午前11時半、視察を終え、チャオバンカン(フエ名物煮込みうどん)
を食べに行く。

午後1時45分、省道路建築局付属ソフトウエアー会社を視察。
ほとんど得るものなし。

午後3時、再度、IT専門学校を視察。

午後5時、「越日交流委員会」付属日本語学校を参観。
藤木視察団団長より挨拶。その後、視察団員が
それぞれ自己紹介。学生より質問など話し合いを行う。

午後6時より夕食会。ラームさん、弟のトアン君も参加。

今回の視察団にはホーチミン市から「通訳」が同行した。
S日本語学校の専任講師という肩書きのベトナム人。
しかし、既に視察団がホーチミン市の企業を視察した際にも
通訳が出来ないでいた。ホーチミン市の観光会社と
日本の観光会社との契約で派遣された通訳さん。
ホーチミン市では通訳として役立たなかったが契約上
そのままフエへ同行する。しかし、フエ滞在2日間、
全く通訳が出来ず、全てミンさん、ラームさんが行う。
私と話をしても何を言っているのか分からなかったり
発音、アクセントがしっかりしていないため、聞きにくい。
特にIT関連の通訳は専門用語も多く難しい。
到底この通訳さんでは何の役にも立たない。
フエでは日本の会社がフエの観光会社と提携。
日本語ガイドが付く。結局視察団一行の3日間の
フエ滞在中、通訳・ガイドはラームさんミンさんが
無料で行う。現在のベトナムの観光事情、
日本語教育事情を垣間見る。S日本語学校の
専任講師通訳さんは、視察団がわが日本語学校を
参観中、日本語学校の掲示物などをカメラに写して
いた。「本当はあなたが通訳をする仕事ですよ」
と言ってやりたい衝動に駆られるが我慢。
この専任講師先生は、自分が通訳として大金を
もらって仕事をする立場にあることの自覚ゼロ。
普通の人間なら、自らの「無能」を公然と指摘されている
訳なので、恥ずかしくて人前に出られないのだが。
自らを否定されていること自体に気づかない人間の
悲哀を感ずる。最初は少し腹もたったが、途中で
可愛そうになってしまった。

夕食終了後、午後11時半まで懇親。

投稿者 koyama : 05:27 | コメント (0) | トラックバック

2005年12月08日

ブライセンの藤木社長フエ訪問

終日雨。寒い。

この1週間、気候の関係で「倦怠感」と「頭痛」がひどい。
文章を書いたり、物を考えたりするのが億劫(おっくう)。
30分ほど時間があれば、体を横にしている。
今日のフエは16度。太陽が出ると30度。一気に15度ほど
気温が下がる気候に体がついてゆけない。これは私だけで
なくベトナム人も同様。

ベトナム事務所で「キャノン支援報告書」を書きあがる。

ベトナム事務所では日本料理店の接客の練習をしていた。
松下先生の指導の下にホンニーさん、グエットさん。

今日は私がお客になり「実践的な練習」をした。
「いらっしゃいませ」「ご注文は」「お待たせしました」
「しばらくおまちください」・・・・・。
まだ課題は残っているが、一通り接客が出来るようになっていた。
松下先生の熱心な指導に感謝。

●お客の注文を聞く練習

午後3時半、バオミン・ベトナム事務所長と一緒にフエ空港へ。
JASS支援者の藤木さん一行4人の出迎え。
到着予定を1時間ほど遅れる。午後6時フエ市内モーリンホテルへ。

一度トンチンカンホテルに戻り、午後8時半、再度藤木さん一行
とモーリンホテルのバーで一杯飲む。帰宅午後10時半。

64回目の「アジア・太平洋戦争」開戦日。
1941年、64年前の今日、マレー半島とアメリカの真珠湾への攻撃
を行い、米英との戦争が始まった。
アジア・太平洋への侵略戦争が始まったこの日。改めて戦争に
反対し、人間の命の尊さを声高に叫びたい。
64年後の今日、アジア太平洋戦争が日本の侵略ではなかった
と主張する一部の人々がいる。小泉首相の靖国参拝問題では
アジア諸国との関係が最悪の事態に至り、日本が孤立している
かに見える。アジア侵略を反省することは、中国や韓国、アジア
諸国に跪く(ひざまずく)ことではない。むしろきちんとした付き合い
と外交を進めるためにも必要なことである。あの無謀な侵略戦争で
亡くなった多くの日本人(私の兄、特攻隊の叔父たち)への
本当の鎮魂にもなる。
今日小泉首相はイラクへの自衛隊派遣を1年延長した。
今年のノーベル文学賞受賞者である英国の劇作家、
ハロルド・ピンター氏ははイラク戦争を「露骨な国家テロ」とし
その首謀者としてブッシュ米大統領とブレア英首相を
「戦争犯罪人」として訴追するよう訴えている。
ブッシュ政権第1期の国防副長官でイラク戦争の必要性を
強硬に主張したウォルフォウィッツ氏が「イラク戦争は必要
なかったかも知れない」と発言している。
今や自衛隊のイラク派兵の「大義」すらなくなっている。
サダム・フセインへの「人道への罪」は同時に「ブッシュ米大統領と
ブレア英国首相」へも適用されるべきものである。
米英首脳の責任で殺した人間は数万人に上る。
小泉首相が2010年10月以降に選挙制度を改変し、衆議院は180名も
議員を削減し300人程度、参議院も削減すると言っている。
これほど大幅な議員削減は、結局、自民党と民主党という
同根政党が残り、その他の野党や少数政党は国会から追放
されうる事態となる。
国民の様々な意見が国会に反映されない。これは小泉首相の政治的
なクーデターである。議員定数削減は、民主主義の根幹・原点の
問題である。こうして、少数野党を排除し、憲法改定、9条改定
への道を一歩一歩進めようとしている。
戦争への道である。徴兵への道である。
アメリカが進めようとする「世界中での戦争・紛争」の手先と
して私たちの子どもたちや孫が「国際協力」という名の下に
戦争に行く。体を張っても阻止しなければならない。
まずは、「戦争反対」「憲法9条改悪反対」の声を上げよう。
私が今出来ることは、この日記で自分の意見を言うことくらい
である。出来ることをしたい。「戦争反対」は思想や信条の違い
ではない。人として「命と人間」を大事に考えるかどうかの
問題である。

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2005年12月07日

日本語ガイドライセンス取得希望者対象講義

終日、雨。寒い。
昨夜から豪雨。夜半、あまりの豪雨で目が覚める。
隣の家のトタン屋根に雨が落ちる音がうるさく、寝ていられない。

午前6時40分、昨日昼に漬けたぬか漬けを取り出す。
なすは丁度良く漬かっていたが、大根、キューリなどは漬かり過ぎ。

午前中、ベトナム事務所でバオミン・ベトナム事務所長といくつか
の問題の打ち合わせ。
キャノン支援の「特別進学促進プロジェクト」の報告書を書く。

昼食は「ペンネ」。

午後12時半~午後1時半まで衆議院『国土交通委員会』の
参考人質問を見る。
この参考人質問を見ていると、日本人の道徳的退廃が
どのように進行しているかが良く分かる。日本社会を
象徴しているようである。
建築確認という重要な仕事をしている2社の社長が
自らの責任を認めず、言い訳ばかりがうまく、口先での
謝罪のような言葉は言うが、人間としての本当の
謝罪はない。お金のためなら、人間の命と安全、財産を
などどうでも良いと言う日本社会を象徴している。

午後2時からキャノン支援金の報告書。
ボランティア貯金についての各種連絡。

午後5時半、ラームさんと一緒にトゥア・ティエン・フエ省観光局へ。
午後6時から臨時日本語ガイドライセンス受験者に「日本」に
ついて講義する。ラームさんは通訳。


内容は、歴史、政治、経済、文化の概要。
途中で明日『日本語講義』をする石岡・中村先生も駆けつける。
雨の中、ラームさんのオートバイで帰宅。

部屋で若干のフダビールを飲む。

茨城県土浦市の霞ヶ浦で蓮根の収穫が始まったそうだ。
冬の風物詩。蓮根は御節料理の定番。蓮根の穴から未来が
見通せるとのこと。わが日本はどんな未来が待っているのか?

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2005年12月06日

フエ師範短大奨学金贈呈式

曇り・雨。

午前9時、ラームさんと一緒にフエ市人民委員会外務部へ。
当面の重要諸問題について打ち合わせ。

午前11時、ぬか床に新しい野菜を入れる。
きゅうり、にんじん、なす、大根。

午後1時半、ぬか床をかき回す。今日の夕食で試食するため
ぬか床に酸素を供給。右手のぬか臭が石鹸で洗っても抜けない。

午後1時45分、バオミン・ベトナム事務所長のオートバイで
フエ師範短大へ。

1999年から奨学金を贈呈している。
長島弘道・和子奨学金。久門ーNHK奨学金である。
長島奨学金は私の従兄弟が支給し一人20ドルで20人。
久門ーNHK奨学金は戦前ベトナムを取材した新聞記者
久門氏の遺志を継いでベトナムの若者育成のための
奨学金である。10万ドンで10人である。


初めに私から挨拶。長島奨学金と久門ーNHK奨学金の
由来について説明。

続いてGUY(クイー)学長より感謝の言葉。
奨学金をもらっている皆さんは卒業後貧しい人たちのために
尽くして欲しい。



奨学生代表挨拶。ANHさん(2年生。英文科)
私が長島奨学金をもらっている。将来、ベトナムの
子どもたちのために活動したい。長島先生に宜しく
お伝えください。


続いて、奨学金の贈呈。一人一人の学生に奨学金を手渡す。

奨学生・学長と記念写真

帰途は大雨。ベトナム事務所で仕事。

夕食前に昼に漬けて7時間経ったぬか漬けを出してみる。
大根、きゅうりは大体美味しく出来上がっていた。
人参、ナスは明朝が食べごろか? ぬか漬けで夕食を摂る。

日本料理店の警備員リー君にも4年遅れで「ベッカムヘヤー」が
到来。19歳になる。年頃。
昨年12月、トンチンカンホテルにやってきた。それから1年。
大分顔つきが柔和になってきた。
真っ直ぐに成長して行って欲しい。

投稿者 koyama : 18:16 | コメント (0) | トラックバック

2005年12月05日

フエへ戻る

フエは曇り時々雨。寒い。

午前4時起床。午前4時半ホテルを出発してハノイ空港へ。
午前6時半ハノイ発の飛行機でフエへ。フエ着7時半過ぎ。
一行はたくさんの荷物を持ってトンチンカンホテルへたどり着く。

午前9時半、ベトナム事務所で日本語教育関連の会議。
12月7日・8日、12月12日・13日の4日間にわたり、
日本語ガイドライセンス発行のための日本語試験の
詳細打ち合わせ。
ハノイ観光省、フエ省観光局からの依頼で、私たちが試験を行う
こととなった。

12月7日(午後6時~9時)までは私が「日本」について
概略の説明をすることとなった。歴史・文化・政治・経済・習慣。
12月8日(午後6時~9時)は石岡さんたちが日本語の基本を
教える。

12月12日13日の日本語会話試験の面接は石岡先生、
中村先生などが行うこととなった。

午前11時、近くの小さな市場で「人参」「なす」「大根」
を買い、ぬか床に漬ける。

午後、ベトナム事務所へ。28通のメール受信。15通のメール
送信。

午後6時、ぬか床に7時間程入れた野菜を食べてみる。
美味しく漬かっていた。できばえは70%ほど。
今後、繰り返しぬか漬けを作っていくうちに更に美味しい
ぬか漬けが出来る。

投稿者 koyama : 22:33 | コメント (0) | トラックバック

2005年12月04日

バッチャン(BAT TRAN)へ陶器の買出し

ハノイ市滞在。
曇り。寒い。時々、雨。

午前9時にホテルを出発。車で50分ほどのバッチャンへ
陶器を買いに行く。バッチャンは日本でもその名が知られて
いる陶磁器の有名な産地である。
バッチャンの街は農業地域の真ん中にある小さな村である。
バッチャンに入るとたくさんの陶磁器の店があった。
結局、5つの店を見て、フエの日本料理店「子どもの家」
で使う食器類を買う。
午前9時にホテルを出てホテルへ戻ったのは午後4時。
実質買い物時間は6時間。約600枚の食器を買う。
店の選定に時間をかけ、店が決まると必要な食器を
たくさんの品物の中から「品定め」する。これが
べらぼうに時間がかかる。良いものを選びたいとの
気持ちからだが・・・。ご飯の茶碗、小鉢数種、湯飲み茶碗、
カレーの器、とっくり、おちょこ、その他数十種類の
食器を選ぶ。次に各食器毎に枚数を決め、店主と値段の
交渉。1種類の食器の値段が決まるまでにかなりの時間を
要する。これを数十種類にわたり行った。6時間を要した
理由である。店主のホンさん、中村・松下・石岡さんたちの
値引きにかける並々ならぬ「情熱」を感ずる。
最終的に600枚ほどの食器を買い、フエまで送ってもらう
ことにする。

●粘り強く「値引き交渉」をする店長のホンさんたち

朝食を摂らなかった私は、午後3時過ぎまで買い付け業務が
あり食事にありつけなかった。
バッチャンから市内へ帰る。せっかくハノイに来たのだから
ハノイ名物の「PHO」(フォー)を食べようということになった。
4~5軒のフォー屋さんに行ったがどこもやっていなかった。
トリインフルエンザの影響で鶏の売買が禁止されている。
そのため鶏肉で作るフォーが作れなくなったとのこと。
「24000」という全国チェーンのフォー屋さんを見つけ
入る。豚肉でスープを取り、牛肉が乗ったフォーを食べる。

ホテルへ戻り、しばらく休憩。

午後7時半、フエでの日本料理店開店のために
ハノイの日本料理店を視察・試食する。
ハノイに来る度に行っていた「おはん」という日本料理店
へ行く。つぶれていた。代わりに「ととや」という日本料理店
になっていた。入ってみる。日本人オーナーにお願いし
厨房を見せてもらう。8人のベトナム人が料理を作っていた。

●「ととや」メニューの表紙

●「ととや」の「今日のおすすめ」

●海鮮丼


接客態度、テーブルの配置、醤油差し、食事の味など良い意味
でも悪い意味でも参考になった。

投稿者 koyama : 22:01 | コメント (0) | トラックバック

2005年12月03日

ハノイへ日本料理店食器類買い物

ハノイは曇り

午前6時半、トンチンカンホテルを出発。午前8時フエ発の
VN機でハノイへ。日本料理店の食器類をハノイ郊外の
陶器類の産地「BAT TRAN」(バッチャン)へ。
店長のホンさん、夫のラームさん、松下、中村、石岡、小山。
6人。

午前9時過ぎ、ハノイ「ノイバイ空港」着。気温20度。曇り寒い。
そのままタクシーでハノイ名物の「チャーカー」料理を食べに行く。

●オートバイに溢れたハノイの街

午前10時半、チャーカー通り(CHA CA)14番地にある
チャーカーという魚料理店へ入る。

炭火を使った小さな七輪に魚の切り身と野菜、ネギ、などを
入れて若干の時間を待つ。柔らかくなったら「マムトム」という
海老の発酵したくさやの原液のようなものにつけて食べる。

チャーカーは何ともいえない味である。美味しいと言えば
それまでだが。個人的にはベトナムで一番好きな美味しい
食べ物は?と聞かれたら「チャーカー」と答える。
ハノイの「ハリダビール」を若干「試飲」し、午後ホテルへ。

朝が早かったので午後はホテルで休息。
ラームさん・ホンさん夫妻は市場へ買い物。
日本語教師3人も他の場所へ買い物。

午後6時過ぎ、ベトナムレストランへ。
10年前から付き合っていた故近藤紘一氏と一緒に
近藤コーポレーションで仕事をしていたLANさんが
ベトナムレストランを作った。もともとLANさんは
ハノイで最初に出来た日本料理「らん」のオーナー
だった。
開店したばかりのベトナムレストランを訪問。

鮭の焼き物やサラダなどを堪能。中々美味しい
ベトナム料理だった。


午後8時過ぎ、ハノイ市内にあった日系スーパー「SEIYU」へ行く。
しかし、店名がベトナム名に代わっていた。
日本料理店で必要な日本米、ソースなどの食材を買う。

投稿者 koyama : 21:24 | コメント (0) | トラックバック

2005年12月02日

日本料理試食・批評会、フエ省観光局懇談

曇り・雨・時々晴天。
最近の天候は変動が大きい。暑かったり寒かったり。
1日で10度~15度程の気温差がある。このところ朝から
頭痛や倦怠感が続く。時間があったら横になっていたい心境。

午前8時、料理人のターオ君が「ぬか床」作りを始める。
始めて5日目。ほぼ80%ほどの発酵度である。
捨て野菜からのエキスと微生物の発酵が順調に進んでいる。
来週の月曜日あたりから実際に食用の野菜を入れることにする。
これで手作り「納豆」と「ぬかづけ」をベトナムで作ることが
出来るようになった。


ターオ君もやっと責任を持って仕事をすることを覚えてきたようだ。
今日は私の肩を揉んでくれた。優しい気持ちの持ち主でもある。

午前8時半から日本料理の調理実習が始まる。
中村料理指導員の指導の下にホン店長、グエット、ホンニー、
トゥオイ、ターオ。そして警備員のリー君。


●何度も繰り返しながら日本料理の手順などを覚えていく。

今日の実習メニューは、「カツカレーライス」「天ぷら」、
「海老入り湯葉そうめん」「「厚揚げ」。

●カレーの野菜を炒めるグエットさん


●トマトを茹でるトゥオイさん


●トンカツ作りを覚える

●トンカツが美味しくあがる


●海老を料理するターオ君


●リー君は店内の掃除

午前11時半、日本料理試食・批評会が始まる。
食材は基本的にフエの市場で買えるもの。
玉子と鶏肉が買えないのが残念。
どの料理も美味しかった。

●カツカレーライス
  ベトナムのカレー粉70%、日本のカレールー30%の
  ビーフカレー。

●海老入り湯葉そうめん
  フエの市場には立派な湯葉がある。ふえの名物はえびなど
  の海産物。そうめんはフエ産。

●カリフラワーの辛し和え

●手作りの「厚揚げ」
  豆腐を小さく切り、油で揚げた。おろし生姜とネギを醤油に
  入れて食べる。お酒の肴にちょうど良い。

●各種天ぷら


今日で何回目の試食会なのだろう。
大分レパートリーも広がってきた。そろそろ、日本料理店
でのメニューを決める時期に入ったように思う。

午後3時、バオミン・ベトナム事務所長とフエ省観光局へ。
観光副局長・人事部長と懇談。

懇談の内容は、以下のよう。
フエには正式なガイドライセンスをもった『フエ人』がとても少ない。
ハノイ政府は中部フエの観光産業を発展させることを重要な課題
にしている。
今回、ハノイ観光省からの指示でフエ省観光局は「臨時のガイド
ライセンス」を発行する権限を委託さされた。
当面、日本語、スペイン語、ドイツ語。2006年限定有効の
公式ガイドライセンスである。ついては、日本語臨時ライセンス
の発行の認定をJASSにして欲しいとのことであった。
既に日本語ガイドライセンス応募者は17人。スペイン語は2名。
ドイツ語は10名。受験資格は日本滞在2年以上、又は日本語
学習2年以上。10日間ほど、観光局主催でベトナムの法律や
観光に関する基礎学習を行う。2日間の日本語教育と
2日間の会話の試験、そして最終認定をして欲しいとのこと。
私の方からは、今後、この種の日本語能力認定については
JASSを窓口にして欲しいとの話をし合意に至る。
これで、トゥア・ティエン・フエ省では、我がJASS日本語学校
が日本語能力認定機関となった。基本的には、唯一の
認定機関である。
来週月曜日、ベトナム事務所として日本語認定に関する
日本語教育、試験等の分担などを話し合うことする。
日本語学校での日本語教育、日本語能力認定などを
通して、トゥア・ティエン・フエ省・ベトナム中部の日本語の質の
向上に協力したい。

また、茨城県で小学校1年生の女の子が死体で見つかった。
広島でも同様の事件があったばかり。日本は本当に異常な
病んだ社会になった。耐震強度が偽装され、誰も責任者が出て
こない。お互い責任のなすりあい。政権政党の幹事長は
「悪者探しをすれば、日本経済は悪くなる」(趣旨)との
馬鹿な発言をし、責任もなにも感じない醜態を晒している。
子どもが親に毒薬を飲ませ、子どもが両親を殺す。
親が子どもを殺し、高校生が同級生を殺す。
民主党の国会議員が覚せい剤で捕まり、西村弁護士が法律
を犯し、三井住友銀行が違法行為を行い指導を受ける
など・・・・。きりがない。
流行語大賞表彰式に政権党幹事長や環境大臣などが出ている
ようでは、真っ当な政治は期待できない。品格という言葉は死語。
まさに「小泉劇場」である。
特権や情報のない「弱い者」は切り捨てられ、
一部の特権階級や情報独占者などが「甘い汁を吸う」という
二重構造社会が出来つつある。いつの世でも『弱者』は
踏みにじられ、一部の勝ち組が甘い汁をすうのである。
この異常な社会の出来事の中で、誰かがどこかで
「おかしい」「変だ」「間違っている」と責任を感じて
行動すれば、どこかでストップさせられるのに・・・・。
何故、ストップする個人が出てこないのか?

最近メール事情は一層悪化。
日本から送られるメールが取捨選択されてプロバイダー
から届く。ある時一挙に多数のメールが送られることも
あれば、届かないメールもある。
メールを送られた方で返事のない方は
私たちベトナムに届いていないことがあるので、その辺の
事情を了解していただきたい。共産党大会が近づくと
こうしたメール現象が起こるという体験をもっている。
来春、第10回党大会がある。

投稿者 koyama : 19:20 | コメント (0) | トラックバック

2005年12月01日

ベトナム事務所「週反省会」ーフエ中央病院小児科

午前7時起床。
昨夜少し飲みすぎ。

午前8時、ベトナム事務所で「週反省会」。
バオミン・ハン・サン・フーン・ソン・ラーム・松下・中村・石岡・小山


(ソン)今週日本語学校上級の試験があった。僕は会話が95点、
    筆記が85点でした。クラス平均は大体70点位。
(松下)クリスマス会の打ち合わせをしたい。
    ・参加者は130人
    ・会場は例年通り「フェスティバルレストラン」。
    ●式次第
     ・始めの言葉(司会:松下、ハン)
     ・出席者紹介
     ・来賓等挨拶     
     ・セン委員長挨拶
     ・乾杯(全教千葉 松原先生)
     ・ビンゴ大会
     ・カラオケ大会
     ・終わりの言葉


(フーン)日本語学校・上級クラスーーゆっくり進めている
     ガイドクラスの生徒も最近は頑張ってきている。
(中村)上級・ガイドコースは特に大きな問題なく進んでいる。
    日本料理店ーベトナムの食材で日本料理を作るのは
    結構大変。同じ名前の食材でも日本とベトナムでは
    質が違うものがある。開店まであと3回調理実習したい。
    あと2週間で開店。それまでにお店でだせる日本料理を
     確定したい。月・金の午前中調理実習をする。
(ハン)平本さんから寄贈されたお金で「参考書」「心理学図書」
    を買った。
(ラーム)フエ市人民委員会の内部でフエ市立病院が独立した。
     今まではフエ市立病院長がフエ市厚生部長も兼務して
     いたが、今回、フエ市厚生部という新たな組織が出来た。
(石岡)中級・ガイドコースを教えているが特に問題ない。
     中級は39人。常時30人+ほど出席している。
(サン)中級と初級を教えている。初級を49人。月水金P5~7
(小山)フランス・アメリカの「子どもの家」を視察した。
    その本当の実態は・・・・・・のようだった。
(ミン)観光局と日本語ライセンス試験のための話し合いをする。 
    12月6日フエ師範短大奨学金贈呈式
    フエ市共産党委員長のクアン市が委員長を辞めた。
    フエ省汚職追放委員会委員長となった。
     代わりにフエ市共産党委員長となったのは、DUNGさん。
    ことし5月の静岡市との友好都市提携で訪日。
    上野でJASSとの交流会にも参加した。

午後3時、ラームさんとフエ中央病院小児科医長と懇談。
渡辺和代さんが作った小児がんのNPOから依頼された
いくつかの問題をHUONG小児科医長と協議。

午後4時、フォンザンホテルで働いている「子どもの家」の
卒業生Tさん(21歳)の戸籍・IDカード盗難再発行問題で
話し合う。

先週の話し合いの続き。Tさんは1993年10月に始めた
チーラン「子どもの家」のときからの付き合い。1999年まで
チーラン・グエンチャイと2箇所の「子どもの家」で付き合った。
9歳からの付き合いである。
話し合いの結果、戸籍再発行の手続きをおこなうこととした。
ベトナムでは戸籍を持ち歩いたり、盗難にあうことは滅多にない。
再発行も中々困難。
最初に「子どもの家」で生活した証明書が必要。

早速、ラームさんと「子どもの家」へ。セン運営委員長に
「子どもの家」に戸籍があったことを証明する文書を作ってもらう。

再度、トンチンカンホテルに戻り、Tさんに戸籍再発行証明書を
渡す。

早急に戸籍の再発行を受けて、IDカードを作り、安心して仕事に
集中してもらいたい。

日本料理店のターオ君。今日は朝と夕方、しっかりとぬか床を
かき混ぜた。少しうるさいが、仕事は一所懸命にやること、
約束は守ることはしっかりと身に付けて欲しい。

今日は二人の「子どもの家」の卒業生の自立のために付き合った。
こうして少しで仕事を知り、成長して行って欲しい。

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