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2005年11月30日

京都N電気宮崎さん一行フエ訪問

終日晴天。

午前8時、日本料理店のターオ君、またもや「ぬか床」作りに
こない。私が掻きまわす。かなり発酵した匂いになっていた。
あと数日でぬか床完成は完成する。

午前9時、ベトナム事務所で松下先生から日本語を教えてもらって
いたターオ君を会議室に呼び、バオミン・ベトナム事務所長と一緒に
話す。日本料理店で仕事をするということは、行動と約束が一番大事。
約束をして出来なのなら日本料理店の仕事やめて欲しい、と話す。
厳しいが、仕事をするという社会的な意味をターオ君に知らせたい。
言い訳と理由は必要ない。今後は、どんな事情があっても約束した
仕事、ターオ君の与えられた仕事は必ず責任をもって実行することが
「仕事をする」という意味だと教える。ターオ君は、仕事として頑張る
と話す。これからしばしばこうした問題が起こると思うが、繰り返し
ターオ君に親の気持ちで注意をしていきたいとバオミンさんと
話す。一人の人間を育てるということの大変さを実感。忍耐と
時間が必要。

午後1時、バオミン・ベトナム事務所長とフエ空港へ。京都の
N電機常務の宮崎さん・須田さんのフエ訪問の出迎え。
偶然、今日はバチカン支庁国からカソリックの幹部がフエを
訪問する日と重なってしまった。フエ省の盛大な歓迎(動員)。
たくさんの小中高大学生が歓迎のセレモニーに動員させられて
いた。暑い中、何十分も待たされていた。可愛そう。
カソリックのお偉いさんは、暑い中無理に動員された子どもたち
の苦痛までは理解できないだろう。

午後2時過ぎ、宮崎氏とN電機ベトナム社長須田氏と合流。
フォンザンホテルへ。
午後3時過ぎ、ベトナム事務所→日本料理店・東京平和産業
→日本語学校へ。

日本語学校では、宮崎氏・須田氏の話、両氏への質問など
日本語ガイドコースの学生の勉強に協力いただいた。

その後、オートバイ修理研修センター・工場視察。
「子どもの家」へ。「子どもの家」のセン委員長と懇談。
「子どもの家」の各施設を視察。

午後6時から宮崎氏・須田氏・小山・ミン・ラームの5人で
夕食会。
宮崎氏と須田氏は私と同年代。お二人とも中々心のある方々。
N電機ベトナム工場(ハノイから30キロ)に「子どもの家」の
子どもたちを採用してくれるとのこと。更に引き続き子どもたち
を支援してくれるとの話をしていた。耐震強度偽装など
日本の道義は落ちるところまで落ちている。そうした中で
宮崎氏などのような日本人がいることに安堵感あり。

午後8時。トンチンカンホテルへ戻る。
料理のターオ君の兄、リー君と話す。弟のターオ君は
午後6時に日本料理店に来て、ぬか床を掻きまわした
とのこと。これで一安心。人間は理屈だけでなく行動が大事。
ターオ君の成長のためには、苦言も呈しながら成長を
見守りたい。

琴欧州が大関に昇進した。ヨーロッパ初の大関だそうだ。
お祝いの言葉を送りたい。私など同じアジアのベトナムで
生活しても「違和感」「文化の違い」で悩んだ時期もある。
「伝統」を振りかざす相撲の世界で良く頑張ったと思う。
人に言えない苦労があったことを想像する。更に大成して
欲しい。日本の「国技」に朝青龍や琴欧州などが参加し
トップまで登りつめたことに大きな意味を感じる。
「国技」という言葉自体が死滅している。
国際的スポーツになりつつある。

11月のカレンダーを切る。12月だ。早いものだ。
もう12月。師走。昔は私も学校で走っていたものだ。
走るのをやめて12年。


NHK衛星放送「どんまい」を見た。
淡路恵子が良い。素晴らしい老け方。こういう形で
年を取りたいものである。

投稿者 koyama : 21:58 | コメント (0) | トラックバック

2005年11月29日

終日、仕事・国会中継を見る

晴天。

メール事情。朝からメールはストップ。

昨日、ターオ君と作った「ぬか床」。毎朝8時と夕方6時に
かき混ぜることになっていた。午前8時、日本料理店でターオ君を
待つがとうとう現れず。兄のリー君に呼んでくるように頼む。
「寝ています」とのこと。仕方なく私が掻き混ぜる。
改めてリー君に頼みターオ君を呼び出す。30分後にやってくる。
ごちゃごちゃ言い訳をしていたが、言い訳は一切聞かない。
「午前8時にぬか床を掻き混ぜるという約束をし、それは同時に仕事」。
どんな事情があっても仕事はきちんとしなければだめ、と注意。
今からぬか床を掻き混ぜるように言う。ターオ君、ぬか床を掻き混ぜる。
些細なことではあるが、「社会に出ること」「仕事をする」という意味を
ぬか床作りを通じて考えさせようと思う。これから1週間、毎日2回
ぬか床をかき混ぜる。1週間後、醗酵し「臭く」なる。
それから食用のぬか漬を始める。毎日臭いぬか床を2回掻き混ぜる。
臭くて嫌な面もあるが、それが仕事。そうしてお客さんにぬか漬を
だし、喜んでもらう顔を見て、「嫌な仕事」が同時に「喜び」にもなること
を体験して欲しい。

と思い午後6時の「かき混ぜ」を待ったが、とうとう、またもや来なかった。
この男は人の話をどう聞いていたのだろうか?
明朝、再度、呼び出しお説教。

午前9時、ベトナム事務所へ。
ベトナム事務所では、日本語教師の松下先生が日本料理店の
ホンニーさん、グエットさんに接客用の日本語を教えていた。

●接客の練習

●料理の本を読んで日本料理店名の勉強


「教育評論」3月最終号の原稿のあらましを書きあげる。
1600字。締め切りは1月初旬。もう少し温めておき
再読し修正の予定。

昼食は「チャオバンカン」(小麦粉で出来た煮込みうどん)

午後12時、昼寝タイムに入り、見るとはなしに
NHK衛星放送を見る。
衆議院国土交通委員会を中継していた。耐震強度偽装問題
での参考人質問。見るとはなしに見ていたが、段々引き込まれ
結局2時半の全ての中継を見てしまった。
この半年のNHKの全ての番組の中で一番「面白かった」。
面白いというのは、被害者には失礼な表現かもしれないが、
興味深いものだった。内容はもちろんだが、6人の参考人の
人間性がそれぞれにでていた。安上がりに作られている
現実離れしたドラマを見るより何十倍もの真実のドラマ、
人間ドラマがあった。
主役は開発会社「ヒューザー」の小嶋社長。始めは
殊勝に反省したかのような態度だったが、議員に
追求され始めると「本性露呈?」。「国交省が・・・」
などと怒鳴り始める始末。顔をみてとやかくいうのも
失礼な話ではあるが、それでも何となく「怪しい雰囲気」
が漂っている社長さんではある。テレビに大写しになった
ヒューザーの社長さんの目のあたりが、「みのもんた」に
そっくりだった。何となく胡散臭い雰囲気が漂っている。
その対極が民間建築確認会社「イーホームズ」の
藤田東吾社長。若く、きちんとした身なり。身だしなみも
しっかりしている。話は饒舌。いかにも自分は被害者
の一員であり問題の発見者・告発者でであるかのような
話し振りである。しかし同社は避難路などに問題のある
建物にも建築確認を下ろし、今年十月に東京・品川区から
建築確認を取り消されるという「前科」がある。
木村建設社長さんは、ほとんど質問すら聞いていない
かのような態度である。ピントは外れっぱなし。
責任を感じているとの態度すら示さなかった。あまりに
トンチンカンな答えに同社東京支社長が社長の答弁を遮って
答えている場面などは噴飯物。東京支店長はいわゆる
「とかげのしっぽ」のような人に見えた。真面目な人なの
だろう。木村社長の罪を一手に被ることが自分の生きる道
であるかのような確信犯的・使命感をもった態度である。
こういう人がそのうち大変な道を選んでしまうのである。
一番弱そうな人。
などと2時間半、人間像を想像しながら見させてもらった。
こんな見方は失礼なのかもしれないが・・・・・。
久々に生身の人間模様を見た思いである。

記者会見で小泉首相が今日の参考人質問の感想を
聞かれていた。「再発防止が大事」を繰り返していた。
武部幹事長の「悪者探し」発言は問題外としても、
政府の対応が無責任という批判は免れない。
そもそも「官」が建築確認をして国民の命と財産を
守るという責任を持っていた。小泉首相の大好きな
「官から民へ』路線で、建築確認という大事な業務が
民間にも開かれた。民間は営利が目的。
小泉首相にも責任の一端があることへの自覚が
全くない。他人事である。いつものことではあるが。

投稿者 koyama : 11:43 | コメント (0) | トラックバック

2005年11月28日

米・仏支援の「子どもの家」視察

久しぶりに晴天。時々暑くなる。

朝、トンチンカンホテルは停電となる。ベトナム事務所へ。

午前8時半過ぎ、バオミン・ベトナム事務所長と一緒に
フエ郊外にある「THUY XUAN 子どもの家」を視察。
この「子どもの家」はフエ郊外の山のふもとにある。
敷地面積1万7千㎡。

この「子どもの家」はフランスのNGOが資金を出し運営している。
2000年の設立である。
41人の子どもたちと12人のスタッフ。
フランスNGOはアジアの各地に「子どもの家」を作っている。
建物の総工費は20万ドル。(2千数百万円)
THUY XUAN「子どもの家」には、1年~2年契約で若い
フランス人のアルバイトのような人が来ている。
通訳が翻訳したフランス語を直したりしている。
子どもたちはフエ市内まで自転車で40分から50分かけて
通学している。

財政は年間5万ドル程度をフランスNGOが出している。
フエ側はフエ市人民委員会副市長とそのグループが対応し
ているが、様々な問題がある。副市長グループの所長は
フランスNGOとの間の軋轢があり困っているとのことだった。
私の概算では、41人の子どもたちと12人のスタッフ
で年間最大限でも3万ドル程度で済むはず。2万ドルが
どこかへ消えているかに見えた。
所長さんは「フランス人は自分たちのすることは
全て正しい。ベトナム人のすることは間違っていると
言い、対立が続いている」と奥歯に物が挟まったような
言い方だったが、かなり深刻な対立があるようだった。

所長さんの案内で施設を参観。広い敷地にいくつかの
施設があるが、閑散としてもの寂しい感じだった。
子どもたちの姿も数人見える程度。子どもたちの
声や歓声も聞こえない。1万7千㎡という広大な
敷地が却って活力を失わせているように思われた。
山の麓での生活は大人や外国人の支援者の
頭の中での『支援』としてはよく見えるが、子どもたち
にはどうなのだろうか? 


午前10時、オートバイで15分ほど離れた「XUAN PHU子どもの家」
を視察。

この「子どもの家」は2003年9月、アメリカのNGOが設立。
フエ市児童保護委員会と協力しての運営となっている。
所長さんに会おうとしたが「所長さんがいない」。
所長候補者とアメリカのNGO現地代表がいた。
二人から「XUAN PHU 子どもの家」の様子を聞いた。

子どもたちは31人。スタッフ5人。
「子どもの家」の建築費は55000ドル。これはアメリカNGOが
全額拠出。

2003年にアメリカNGOが設立したが、運営費用は
フエ市児童保護委員会に出すように言われ、全額出しているが
使われ方に疑義がある。
現在、アメリカNGOが決めた所長さんとそれに反対し
独自にフエ市児童保護委員会が所長さんを決めている。
二人の所長が並立する形となっている。実際に「子どもの家」に
いる所長さんは、アメリカNGOが決めた人である。
フエ市児童保護委員会はこの所長を認めていない。
そうした事情もあり、この「子どもの家」は責任者不在のまま
運営されている。非常に不正常な形である。

更にアメリカNGOが「子どもの家」の前に1000㎡の土地を
手に入れ、「職業訓練センター」設立を決めた。
ところが、フエ市児童保護委員会が半分の500㎡を
取り上げてしまい、そこに児童保護委員会の事務所を
勝手に作ろうとしているとのこと。

●職業訓練センター建設予定地

そうした様々な事情がからみ、資金拠出のアメリカNGOと
フエ市児童保護委員会は対立状態のままで「にらみあっている」
と言った現状である。
アメリカNGOの現地代表とアメリカNGOが決めた所長さんは、
JASSの「子どもの家」には6年前に視察に来たそうだ。
JASSはうまくいっているが、どうすればうまくできるのか
教えて欲しいと質問を受けた。
結局、フエ市児童保護委員会は、海外支援を「利権」と
考えているので、アメリカNGOがどんなに頑張っても
児童保護委員会は「すきを見つけ」ては「一儲け」しようと
たくらむのである。この「子どもの家」の現状は
私がフエに来て5年目位の状況と瓜二つである。
「子どもの家」の2部屋を児童保護委員会の事務所として
乗っ取られてしまい、「子どもの家」への資金の一部を
『横領』されるという事態があった。全て解決するのに
8年間もかかっている。

「子どもの家」の中の子どもたちの部屋を視察。
ここには子どもたちもいて、子どもたちの明るい声が
響いていた。

こうして他の海外NGOが運営している「子どもの家」を直接視察
することは、私たちのやっている「子どもの家」自立活動について
大いに参考になることが分かった。
私たちの現在到達している地点に改めて自信をもった次第である。
職業訓練、児童文化センター、日本語学校、日本料理店、
オートバイ修理研修センター・工場、障害児医療センター、
刺繍みやげ物店など、自己開発した様々な取り組みは
それなりに先進的な取り組みであることが分かった。
フランスは多額の支援金を出しているが、ベトナム側に
全て任せっ切りと言った感じ。
アメリカは始めて2年。頑張っているが、これからフエの
様々な政治的な流れに翻弄され、その中で経験を
強め、力を付けていくものと思われる。

11時半頃、トンチンカンホテルへ戻る。
今日も日本料理店の試作・批評会。



●蓮の実ご飯(上品な味)


●マカロニサラダ(予想以上に美味しかった)

●豆の五目煮(日本料理店の商品になる)

●野菜キムチ(ベトナム人のお客さんに受ける)

●かぼちゃの煮物(典型的な家庭料理)

●ベトナムうなぎの煮物(小骨が多く課題を残す)

「子どもの家」の子どもたちも日本料理というものの味に少しずつ
慣れてきているようだ。こうして徐々に子どもたちやベトナム人
スタッフに日本料理の味と日本料理店のシステム、手順を
に慣れてもらう必要がある。何事も時間がかかる。

1時間、昼寝。

午後3時、日本料理店の料理担当ターオ君に『ぬか床』の
作り方の初歩を教える。ぬか漬けの原理。ぬか床の意味。
ぬか床作りと「捨て野菜」の意味。発酵と微生物、酸素の意味。
これから毎日午前8時・午後6時の2回、ターオ君が
ぬか床をかき混ぜることとなった。

●捨て野菜の入ったぬか床(1週間程で食べられるようになる)

メールの受信に異常。
今日付けの受信は午後3時過ぎまで1通もなかった。
昨日付けのメールが突然いくつか入ってくる。
プロバイダーが、メールの管理とチェックをしているのは明白。
大事なメールが入ってこないので活動にも大きな影響あり。

投稿者 koyama : 16:24 | コメント (0) | トラックバック

2005年11月27日

休日

雨のち曇り。寒い。

午前7時起床。
NHK衛星放送「日曜討論」を見る。自民党の憲法改正案に
ついて各党代表が討論。自民党舛添氏の主張には無理がある。
自民党内にはもっと極論があるがそれを抑えてこの改正案を
作ったことを理解して欲しいということが主な主張。
公明党太田氏は9条の1項・2項とも改正に反対との主張。
この主張がいつまで続くのか?
来年の国会に憲法改正国民投票法案を提出するという。
法案提出そのものに明確に反対したのは共産党のみ。社民党は
国民投票法案そのものは論議の対象との主張。
かなりあいまいさを残す。
民主党枝野氏。憲法改正についてほぼ自民党と同根の主張と
思われる。
いずれにしても、国民一人一人に憲法、特に9条の改定が
必要かどうかが問われる時代が来た。中曽根元首相によれば
2007年が山場とのこと。大江健三郎氏は第1回目の
憲法改正国民投票は失敗し、その後2010年以内に憲法は
改正される可能性ありとの主張だとの噂。

洗濯。たんすに入れておいた「かび臭くなった」衣類を洗う。

トンチンカンホテルオーナーのラームさんが来る。
私の部屋の鉄筋が錆びているので危ない、とのこと。

私の部屋の壁を剥がして鉄筋を見て驚く。錆びていることもそうだが、
その鉄筋の細さ。ラームさんの話では、水がもれて鉄筋が錆び、
強度が低下しているとのこと。
この12年間フエに住み、各種の工事を見ていたが、細く少量の
鉄筋しか使っていないように見える。これで、もし地震でもあったら
どうなるのか、などと考えていた。フエの人に「地震はないの?」
と何度も聞いたが、「ベトナムには地震はありません」との答え。
先日、ベトナム南部で地震があったとのこと。北部の中越国境
でも地震はあるとの噂。
姉歯建築士などの建築偽装問題に怒っていたが、それどころで
はなくなった。わが身が強度問題の真っ只中に置かれてしまった。

朝7時前からトンチンカンホテル建築工事開始。
柱を金槌で「トン・トン・トン」と叩く。これでは寝ていられない。
結局、午後5時まで工事は続き、騒音とほこりが漂っていた。

午前11時入浴。岳温泉の湯の花を入れて温泉気分。
その後、「ブランチ」。
昨夜作り冷蔵庫に入れておいた「一夜漬け」をおつまみに
フダビール缶3本飲む。するめと昆布の出汁がきいて
野菜類にうまみが出ている。日本料理店の「付け出し」に
もってこい。

昼寝。

午後、ボランティア貯金中間報告書についての郵政公社からの
質問への回答書を書く。

教育評論3月号(最終号)の骨子を考え書き始める。

福島からメール。長男家族が穴原温泉というところで足湯に
入ったりお蕎麦を食べたりしたとのこと。孫の口述筆記の
メール手紙。しっかりした文章で驚いた。
今度一緒に温泉に行こうと孫に誘われしまう。フフフ・・・。


投稿者 koyama : 18:50 | コメント (0) | トラックバック

2005年11月26日

ベトナム事務所週反省会

終日雨。寒い。

午前8時、ベトナム事務所で「ベトナム事務所週反省会」。
バオミン・ベトナム事務所長の司会で始まる。

(小山)船上生活者支援。
     フエ中央病院小児科支援
     「子どもの家」の子どもたちの自立
(石岡)日本語学校中級コースは現時点では特に問題なし
     ガイドコースは数人の休みが目立つ。
(中村)中級は特になし。
     ガイドコース、専門課程に入って8週目。
     フエ市内観光学習を終えた。今後は、観光の実習に
     入る。
(ラーム)「子どもの家」卒業生のTさんが戸籍とIDを取られてと
      言ってきた。多少、不審な点もあり引き続き話し合う。
(ハン) 父親の病気が心配。現在入院し検査中。
     年末年始の里親へのメッセージを出し終わった。
     全教千葉から刺繍の注文があった。1月24日までい作る。
(フーン)12月24日のクリスマスイブ、日本語学校は休校。
(松下)日本料理店の子どもたちは3グループに分けて
     日本語を教えている。

午前9時、JICAベトナム事務所スタッフの奥さんと友人の方が
ベトナム事務所を訪問。ベトナムの事情、子どもたちのことなど
午前11時過ぎまで話す。


その後、ミン・ベトナム事務所長とサン日本語教師が
「子どもの家」へ案内。昼食を共にする。

午後2時から夕方まで「教育評論」2月号原稿を書く。
1600字。必要な写真を探す。

午後5時、雨の中ドンバ市場まで徒歩。
明日の食材を買う。人参、キャベツ、きゅうり、ねぎ。100円。

帰り、トンチンカンホテルの前でオートバイの三重衝突。

午後7時、明日用の「野菜の一夜漬け」を作る。
キャベツ、人参、きゅうりに昆布、焼きするめ、醤油少量。
30分ほど重石を置く。明日、食べごろ。

自民党の武部幹事長がまた「妄言」。
マンションなどの耐震強度偽造問題で「悪者探しに終始して
いたらマンション業界はつぶれる。不動産業界も参ってしまう。
景気もおかしくなる。」「マンション住民が眠れないと言って
いるのは、大地震が心配で眠れないというのと同じだ」(趣旨)
との暴言を吐いた。BSEの時の暴言を思い出す。
耐震強度偽造問題は今まさに「悪者を見つける」ことが課題
である。なぜこうした問題が起こったのか? どこに責任者が
いるのか・・・・・。国民の命に直結する重大問題である。
姉歯建築士以外にも「業界」にこの種の問題はないのか?
まさに業界に巣くっている「悪者」を探さなければ国民は
安心して生活できない。悪者を見つける仕事こそ政治の
仕事である。武部幹事長は建築業界の手先なのか?
といわれても仕方がない。今、この問題が大きく騒がれて
いる時に「この種の発言」がどのような結果をもたらすのか?
その程度の政治感覚は持ち合わせなくてはならない。
政権政党の幹事長や森失言元首相が中枢では、
小泉政権の本質も分かるというもの。
人間や命、弱者に興味のない人々の集合体。
意見は違うが加藤紘一元幹事長の発言に聞くべき
良識を感じるのは私だけだろうか?

東京コミックショーのショパン猪狩が亡くなった。
あの怪しい雰囲気が好きだった。私の大好きな芸人さん。
「レッドスネーク、さようなら」。奥さんが最後に演台から
出てくるのが何とも微笑ましかった。猪狩氏のお腹から
ズボンがずり落ちるのも懐かしい。こうした芸人はもうでない。
合掌。

「ネギ味噌」を作る。味噌にかつぶし、ネギと出汁を加える。
私は日本酒を飲む時、単純なおつまみが好きだ。
究極のおつまみは、アメリカユタ州の1億5千万年前の
岩塩と吟醸酒。ネギ味噌と日本酒も美味しい。
あまりごちゃごちゃした油類のおつまみは嫌いだ。
今週の休肝日は月・火・木・金・土の5日間。日曜日には
飲酒日とする「飲酒権」が発生する。明日はがんがん飲む。


投稿者 koyama : 19:35 | コメント (0) | トラックバック

2005年11月25日

第2回日本料理店試食批評会・「子どもの家」関連

終日雨。寒い中国からの風が吹く。

午前8時過ぎから日本料理店開店のための調理自習。
日本料理店の調理のキーワードは「家庭料理」。
今日は、かつおを市場で買い、「かつおの土佐作り」を作る
予定だったが、市場にかつおはなかった。
代わりに「CA THU」を買った。日本語風に訳すと「秋魚」。
さばに似た魚。今日は秋魚をさばの代用品と考え調理した。

●秋魚を三枚におろす

中村友香先生を調理指導員とし、HONG店長以下、
ターオ、トゥオイ調理人、ホンニー・グエット調理兼店員
の皆さんで調理実習に入る。

●「子どもの家」5人組
  ・5人で協力し頑張って自立して欲しい。

●中村調理指導員・ホン店長

●調理実習をしているターオ君

●調理実習をする新加入のトゥオイさん


●調理実習するホンニーさん

●調理実習をするグエットさん


●警備員のリー君

ターオ君・グエットさんに手伝ってもらい、するめ35枚を焼く。
11月23日の私の誕生祝いにベトナム事務所の皆さんから
頂いたするめ35枚。さっとあぶって、ハサミで小さく切り
醤油を少量加えて冷蔵庫で寝かす。大量のするめが焼きあがる。
ビール、日本酒のおつまみに最適。これもお客さんに出すために
試作してみる。


午前11時過ぎ、試作品が完成。
バオミン・ベトナム事務所長も参加し、楽しく試食会を行う。

●秋魚の竜田揚げ

●秋魚の味噌煮

●魚のすり身「はんぺん」

●あじのマリネ

●野菜炒め

●味噌汁(手作りの油揚げ入り)

●参加者全員で試食・批評会

定食の試作品を作る。ご飯、味噌汁、いんげんの胡麻和え付き

●秋魚定食

●秋魚の竜田揚げ定食


こうした試作・試食会を繰り返し行い、実際の仕事の手順
に慣れることが大事である。私たちは日本料理店には全くの
素人である。全て手作り。準備も手作り、試行錯誤を繰り返し
自ら学んで行く必要がある。


午後2時半、ミンさんのオートバイで「子どもの家」へ。
先週「進路」を話し合ったP君の進路について再度話し合う。
P君、セン運営委員長、ミン・ベトナム事務所長、
P君の親戚(41歳・フエ医科大の2年生)。

P君は1994年から私と付き合っている。チーラン「子どもの家」。
付き合って12年になる。現在18歳。6歳の時から付き合っている
ことになる。

P君は中学2年で学校を辞めた。その後、彫刻・みやげ物の
研修を2年間行って来た。研修の先生はP君の能力を認め
今では毎日15000ドン(120円)の手当てをくれている。
贅沢を言わなければ3食食べられる金額である。
ところがP君は2ヶ月程前、セン運営委員長にも断らず
勝手に彫刻・みやげ物研修を辞めてしまい、印刷訓練に
行ってしまった。前回、セン委員長・ミンベトナム事務所長
と一緒に何故彫刻・みやげ物研修を辞めてしまったのか
、その訳を聞いたがはっきりしなかった。
今回、P君がどのような『人生進路』を考えて月給をもらい
自立できる彫刻を辞めて印刷研修に行ったのかを
聞くための会合である。

(セン)何故印刷研修に行ってしまったのか?
   私は彫刻の研修を続け自立した方がよいと思っている。
(P君)無言
(小山)P君どうして印刷研修がしたいの?
(P君)好きだから。印刷は将来性がある。友達のロン君と
    一緒に将来印刷の会社をしたい。印刷の研修は
    簡単だ。1年位すれば給料をもらえる。
(セン)P君の考えは甘い。1年で印刷の仕事を覚えることは
    出来ない。1年間は基礎教育だ。
     ロン君と一緒に印刷会社を作るのは無理だ。
    ロン君はお兄さんとお姉さんが印刷を研修しているの 
    ロン君は兄弟で仕事をする。
     自分の意見をもっとしっかりと持たなければだめだ。
(P君)自分の意見はない。ただ、小山先生に応援して欲しい
    だけだ。
(セン)あなたは今後、印刷を本当に続けたいの?
   100%印刷をしたいの?
(P君)はい。
(小山)P君の選ぶ道は、①彫刻研修→自立 ②印刷研修
    と二つの道がある。どちらにするのか、じっくりと考えて
    欲しい。
(P君)「子どもの家」を出ても印刷したい。一人で生きてゆける。
(小山)これ以上、話を続けても成算がないので、また、後日
    話し合いたい。P君もそれまで自分の考えをもっと
    しっかりまとめておいて欲しい。

*P君との話し合いは1時間以上に及ぶ。
 P君自身、印刷研修の今後の展望をしっかり持っている訳では
 ない。P君はオートバイ修理研修を始めたが辞めてしまい、
 2年間彫刻研修をし、彫刻も辞めて印刷と気持ちが移り
 動いている。18歳である。自分のしっかりとした人生進路を
 考えることの出来る年齢であり、またそうしなければならない。
 私たち大人は、P君に妥協せず、言うべきことは言って、
 P君の本当の将来の自立のために援助していきたい。
  本来、こうした話し合いは家庭があれば家庭で親と
 話し合い、ぶつかり合いながら徐々に自分の意見が
  固まっていくものである。「子どもの家」の子どもたちは
 そうした家庭と親がいない。セン委員長、私、ミンさん
 などが家庭と親の役割を果たさなければならない。
  「安易な妥協はP君のためにならない」。
 しばらく「考える時間」と「冷却時間」をとりたい。

「子どもの家」に新入生が入って来た。HOA君。
15歳。中学4年生(日本の中3)。
父親(39歳)はラオスで木材伐採中に腰に伐採した木材を
受けて骨折。仕事が出来なくなる。母親(42歳)は農業。
子どもはホア君も入れて3人。ホア君は将来建築技師に
なりたいとのこと。ホアン君の幸せな生活を祈る。
    

10月22日にテレビ東京で放映された「ザ・ドキュメンタリー」に
出てくる姉妹。姉のHONG(ホン)さんが「2005年子どもをレイプ
から守る絵画展」に入選。奨励賞を受賞した。
ユニセフ主催のコンクール。
どんな絵を描いたのか聞いてみた。お父さんがお酒を飲んで、
お母さんとけんかをしている。こどもは、家の外で泣いていると
いう絵だそうだ。

フエに戻って3週間。「子どもの家」の子どもたちの自立のための
進路指導のようなことをする日々が続く。なんとかして一人一人
の子どもたちが自立し、幸せな人生を歩んで欲しい。そのためには
愛情を持ち厳しく接していきたい。


投稿者 koyama : 18:50 | コメント (0) | トラックバック

2005年11月24日

「子どもの家」卒業生・在宅支援の子どもたちの相談・納豆完成

終日雨。寒い。

糸引き納豆が完成。
昨夜冷蔵後に入れて醸成しておいた納豆を今朝出してみる。
見事に糸引き納豆となっていた。今まで3回実験したが粘りが
でなかった。
今回初めて粘り(糸引き)となった。成功。


●糸引きとなった「手作り納豆」

何故、今回糸引きとなったのか? 過去3回とはどこが違うのか?
これからじっくりと総括してみたい。今回の経験を生かし、
本格的な(日本料理店で出せる)納豆作りを始めたい。

昨日は1日中寒い外で雨の中を出回った。すっかり体調を崩した。
昨夜から今朝方にかけて、ひどい腹痛・下痢症状。風邪がお腹に
きたものと思われる。

午後3時、トンチンカンホテルにTさんが来た。Tさんは1994年から
チーラン「子どもの家」・グエンチャイ「子どもの家」で生活をして来た。
その後、父親なる人物が出てきてホーチミン市へ連れて行き、Tさんは
大変な苦労をしフエに戻ってきた。その後、ハノイのフランス料理学校
で勉強し、フエ市内のHホテルの厨房で仕事をしている。
今日の話は今年の4月頃、厨房の仕事を終え、午後11時頃王宮
近くの下宿に帰る途中、二人組みの若い男がオートバイに乗って
近づき、自転車の荷台にあったバッグをひったくって逃走。
そのバッグの中に戸籍と身分証明書が入っていたとのこと、
戸籍と身分証明書の再発行をしたいので手伝って欲しいという
相談だった。ラームさんと一緒に話し合う。

戸籍はベトナム人に取っては非常に大切なもの。それをバッグに
入れて持っていたということは不自然に感じた。色々話していくと
今の仕事を辞めたいという。Tさんは現在21歳。厨房の仕事で
80万ドン(6000円程度)もらっている。この年では高級取りである。
刺繍みやげ物店の子どもたちが一生懸命仕事をしても50万ドン
程度。辞めたいという理由は、厨房の主任に意地悪をされるから
という。厨房を辞めてどうするのか聞くと、「ビニール合羽の工場
で仕事したい。月給は30万ドン程度」。Tさんの話は何となく
不自然であり、素直に頷けないことがある。せっかくハノイで
1年間フランス料理の学校に入り、料理のライセンスを取り、
Hホテル厨房でも高級をもらっている。それを辞めたいという。
新しい仕事をするために身分証明書が必要だから作って欲しい
との依頼である。1時間ほど、ラームさんも交えて話をするが
なんとなく要領を得ない。来週、もう一度話をすることにする。
「子どもの家」の卒業生の一生に関わる問題である。
「はいそうですか」と言って済ますわけにはいかない。
Tさんの生き方、今後の人生をどう生きるかという問題を
含んでいる。何とかTさんが幸せになるように手立てを
考えたい。必要な苦言は呈したい。

午後4時過ぎ、脳障害になったヒエウ君の生活の様子を見に行く。
ヒエウ君は1997年から北海道の芳村さんが支援している。
ヒエウ君は事情で父親はいない。
生後5年ほど経った時、高熱を出し、右の手足が麻痺してしまった。
貧しさもあり母親はヒエウ君を通学させることが出来なかった。
1997年に支援を開始し、学校へ行くようになった。勉強をして
みると成績は最優秀。母親も人生の目標と生きがいが出てきた。
母親も保育園の給食作りの仕事をして頑張ってきた。
今年の春、16歳になったヒエウ君は再度高熱に見まわれる。
母親の連絡で私とバオミン・ベトナム事務所長は市営住宅を
訪れるとヒエウ君は一点を見つめ、ふふふふと笑っているだけ
だった。JASSベトナム事務所と芳村さんの支援でフエ中央病院へ。
投薬と通院を続けた。今日、ヒエウ君と話してみた。
私がベトナム語で「フエウ君、ハンサムになったね」と
冗談を言った。ヒエウ君は「サウ(ハンサムじゃない)」と
答えた。しっかりと通常の会話が出来ることを確認した。
学校へはいけないが、脳の障害が少しずつ改善してきた
ことが分かる。母親は右手の麻痺を改善するため
鉄アレーでリハビリをすると言っていた。8年間の支援中、
紆余曲折があった。また、完全に回復したわけではない。
しかし、今年の春、まともな会話や受け答えさえ出来なくなった
時の母親の落胆振りを思うと、少しほっとした。
里親の芳村さんに感謝すると共に
引き続き母親とヒエウ君への物心両面の支援が必要である。

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2005年11月23日

船上生活者医療支援・誕生祝い

雨・曇り。寒い。気温18度。

午前7時50分、ラームさんと一緒に「医療船」に乗り、
船上生活者支援の実態を視察。

「オアシスの会」(大塚合子さんたち)からの依頼で
フエ市人民委員会が実施している「医療船」支援の
具体化のため、医療船に乗ってみた。

医療船は10年前にフランスの支援団体が製造したものである。
船の横には「医療船」とベトナム語で書かれている。

フオン川には、4つ~5つ程の船上生活者のコロニーが
ある。医療船診療は5箇所の地点を決め、1日に1箇所を訪問。
1日その地点で患者を待つ。患者は医療船が来る曜日を知って
いて、体調が悪いと医療船を訪ねてくる。

今日は午前中で15人ほどの患者が訪ねてきていた。
ほとんどがお年寄りか幼児だった。

医療船に来た船上生活者の患者さん


スタッフは医師のLAN先生、看護婦1名、船頭さん2名である。

医療船には小さな薬品庫があった。


診療後、子どもたちには、歯ブラシセットが贈られた。

全体的に医療船の支援を見て以下の感想を持った。
①医療器具が聴診器と血圧計だけなので、詳細な
  医療診断は出来ない。
②投薬も下痢、皮膚病等簡単な症状への対応である。
③それでも多くの船上生活者への初期診療としては
  大いに意義のあるものである。

ベトナム事務所へ戻る。ベトナム事務所には
「子どもの家」のセン運営委員長より、私の当年(10年)
取って(差し引いて)48歳の誕生日へのお祝いの生花が
贈られてきた。

昼。リー君はトンチンカンホテルの工事に参加していた。
人間は何があっても最後まで『信じること』が大事。
紆余曲折があってもリー君の応援団長でありたい。


昨日から作っていた「手作り納豆」が完成。
4度目の今回は初めて「粘り」がでた。
粘りとしては完成品の40%の出来。
これで日本料理店で手作り納豆を出す第一歩を踏み出す
ことが出来た。


午後2時半、ラームさんと「フーハウ地区診療所」を視察。
フーハウ地区診療所で船上生活者への診療を行う
プロジェクトを実施する予定である。
THU所長はフーハウ診療所での船上生活者の患者を
受け入れることを快く了解してくれた。
2006年1月より、フーハウ診療所の1室を「船上生活者診療
専用室」とし、無料で診療することとなった。
フーハウ診療所はフオン川の支流から徒歩3分の所にある。
体調を崩した船上生活者は、得意の船でこの支流まで来て
フーハウ診療所できちんとした診察と治療を受けることが出来る。

医療船が、臨時的な応急措置的な診療だとすれば
フーハウ診療所はベトナムの医療システムの基礎をなす
診療所である。大きな病気の患者は直ぐに上位の
診療機関(フエ市立病院→フエ中央病院)へ搬送できる。

当面は、医療船とフーハウ診療所を併用して、船上生活者の
医療支援を行うこととする。
「オアシスの会」に状況を報告する予定。

●THU(トゥー)診療所長と小山

フーハウ診療所の歯科診療室

午後6時、センチュリーリバーサイドホテルレストランで
私の48回目の誕生祝いパーティーが行われる。
●バオミン・ベトナム事務所の開会の挨拶

●ベトナム事務所より記念品贈呈
 寄せ書きとするめイカ


●セン「子どもの家」運営委員長より記念品
  セーター

●セン委員長の音頭で乾杯

誕生会参加者



午後8時過ぎ、誕生会は終了した。

福島のはな嬢(孫:4歳)から誕生日のお祝いの
写真が送られてきた。しっかりしたひらがなでお祝いの
言葉があった。感激した。素晴らしいことだ。

投稿者 koyama : 16:07 | コメント (0) | トラックバック

2005年11月22日

支援希望者宅訪問:手作り納豆作り

雨・曇り。寒い。冬の様相。

フエの人たちは「真冬」の服装をしている。

午前8時過ぎ、バオミンさんのオートバイに乗り、雨の中
支援を希望している家庭を訪問。

ベトナム事務所からフォン川支流を越えた「VI DA」(ビーザ)地区。
広い道路を一本入ると迷路のような細い道になる。
くねくねした細い道の奥に支援を希望する家があった。
先週の日曜日、ドンバ市場を歩いていたら突然呼び止められ、
「私があなたを知っている。生活が困っている。支援して欲しい」
と言ってなにやら書類や写真をだされた。良く事情が飲み込め
ないので、ベトナム事務所に来てくださいと言って別れた。

先日、ベトナム事務所にやってきた。しばらく事情を聞き、
自宅を訪問することとした。

3ヶ月前にシクロ運転手の父親(夫)が44歳でなくなった。
母は40歳。天秤棒で果物や野菜を売っているとのこと。
15歳の長女(中学4年生)、11歳の次女(5年生)、
9歳の長男(4年生)の3人の子どもがいる。


母親にどうして欲しいのか、聞いてみる。
「家を建て直して欲しい」とのこと。
母親は色々と書類や写真などを出し、いかに貧しいかを
説明する。
しばらく母親の意見を聞いて雨の中を事務所へ戻る。
バオミンさんと総括する。今までの経験で、言わないのに
資料を出したり、写真をだしたりする場合、多くの経験では
だまされることが多かった。特に家を建て直して欲しい、
というのはどうなのか? 生活のこんなところ、子どもたち
の通学、奨学金、「子どもの家」への入所などの話は
全くなかった。どこか変な感じは拭えなかった。
じばらく時間をかけて調査をすることにした。


日本料理店で提供する「手作り納豆」の試作を行う。
これで4回目。過去3回は見事に失敗。というのか
アジアでは糸を引く納豆を作るのが難しいのかも知れない
などと思うようになった3回の試作だった。
4度目の挑戦。昨夜、納豆に使えそうな小粒の大豆を
水に漬け14時間ほど置いておいた。

圧力鍋で30分ほど煮る。

大豆が柔らかくなったら粉末「納豆菌」を蒸留水に混ぜて、
冷たくなる前の納豆に振り掛ける。その後、『納豆製造機』に入れて、
28度に保ち24時間保温する。すると糸を引く納豆が出来るはず。
明日昼ごろ、24時間となるが、どうなるだろうか?
何とか、日本料理店の特製品「手作り納豆」としたいものである。
明日を楽しみにしている。が、糸引き納豆の出来る予想確立は
20%位か。この4回、大豆の量、納豆菌の量と蒸留水の量など
を微妙に変えて試行を繰り返している。

午後、ベトナム事務所へ。バオミン・ベトナム事務所長と
とりインフルエンザ対策について相談。

●トリから人へ感染するトリインフルエンザがフエで流行しだした
 場合のベトナム事務所と「子どもの家」での対応、事前の諸準備。

●トリインフルエンザが「人から人へ感染」するウイルスに変異した
 との噂や情報が入りそうになった場合のベトナム事務所と
 「子どもの家」での対応と事前の準備についての対策を考える。

基本的には、ベトナム事務所閉鎖、「子どもの家」からの外出を禁止し
2ヶ月ほど「篭城」する体制を構築することとした。
そのために
・小山以外の日本人スタッフの即刻帰国体制の構築
・ベトナム事務所の閉鎖。ベトナム事務所員に自宅待機と
 自宅での自給生活への諸準備。(食料、水等)
・「子どもの家」の2ヶ月間ほどの外出禁止。「子どもの家」での
 自給自足生活。そのための「米」「インスタントラーメン」
 「燃料」「塩」「醤油」「ニオクマム」「魚など缶詰」等の
 70人×2ヶ月分の備蓄計画の作成などを話し合う。
 今後、更に具体的な計画を立案する予定。
 いくつかの場合のシュミレーションを想定して計画を立てる。
 「子どもの家」で子どもたちを預かっている責任がある。
  また、ベトナム事務所員の生活と生命を守る責任。
 そして、日本人スタッフの生活とそのご家族の安心を保証する
 義務もある。そうしたことを総合的に解決きるよう事前の計画と
 準備が必要。


今日のベトナムの新聞によると、ハノイと南部の省で
政府命令の「全家禽類の処分」について、「全て実施」と
報告したが「嘘だった」ことが暴露され、大問題となっている。
官僚国家・社会はこうした「嘘」がはびこる。怖い。

日本は狂っている。広島で小学校1年生の女児が殺害されたらしい。
記者会見した校長先生の言葉が、痛ましく聴けなかった。
何かが狂っている。怒りと悲しみしかでてこない。ご両親・ご家族
の気持ちを察すると言葉が出ない。
せっかくこの世に生を受けて7年程で人生を絶たれた
女児の無念な気持ちは察して余りある。狂気の日本。

投稿者 koyama : 17:39 | コメント (0) | トラックバック

2005年11月21日

日本料理店試食会

終日雨。

午前8時半から日本料理店の試食準備。
中村先生を中心に店長のホンさん、料理のタオー君、
新人のトゥオイさん、調理接客のニーさん、グエットさん、
警備員のリー君。

今日の試食会兼料理作りの練習会で以下の料理を作った。
栗ご飯(実際はタロイモご飯)、太刀魚の梅煮、天ぷら、
青菜のお浸し、魚のすり身汁。
これから本格開店の12月15日まで何度もこの種の
試食会を行い実践的な練習を行う予定である。

●新鮮な食材

●太刀魚をさばく


●中村先生の指導で日本料理を調理する


●料理人のターオ君

●新人調理人のトゥオイさん

●炭火焼の焼肉を作るグエットさん

●警備員のリー君(エレベータの前で)


●日本料理店スタッフ


午前11時過ぎ、試作品料理完成

●完成した試作料理

・小口天ぷら


・炭火焼の焼肉

・太刀魚の梅煮

・青菜のお浸し

・魚のすり身汁


●試食会始まる


・グエットさん、トゥオイさん、ターオ君。自分たちの作った料理を堪能。

・試食者全員。各料理の評価を話しながら楽しく昼食。
ラームさん、松下さん、石岡さん、中村さん、
ホンさん、ターオ君、トゥオイさん、グエットさん、
ニーさん、リー君、小山で試食。

小さな取り組みかも知れないが、こうして5人の子どもたちの
人生の出発を用意した。日本料理店の役割は子どもたちに
長い人生の出発を用意することである。
5人の一人一人は、この日本料理店を出発に自分の人生を
真っ当に歩んで行って欲しい。

ターオ君・リー君がこうして仕事をする中で、社会とつながって
行って欲しい。仕事をする中で人間が生きる意味を知って欲しい。
私たちはこの二人に何ができるのだろうか?
私たちができる事は、社会から排除されたこの二人の若者の心に
『希望』の灯をともすことである。生きること、人と付き合うことの
楽しさを経験させることである。

二人と出会ったのは1997年である。私は8年前の二人との
出会いを大切にしたい。二人に取っては
私との出会いと現在の私たち日本人やベトナム人スタッフ
との繋がりこそが、未来への希望の窓口ではないだろうか。

トゥオイさんも同じである。妹が「子どもの家」へ入所した
ということをきっかけに「子どもの家」へ入り
私たちと知り合った。これも人生の何かの縁である。
日本料理店で研修し、働くことで社会と人生と触れ合って
欲しい。私たちが5人の若者と付き合うのは偶然である。
偶然ではあるが、人生の出会いと縁である。私たちの目の前に
人生の行く先を模索している若者がいれば、誰でも
手を差し伸べることと思う。私たちは手を差し伸べたが
若者は自分の力で立ち上がり、歩いて行かなければならない。
私たちは若者が未来を向いて歩いて行く事を信じ、
バックアップするだけである。私たちが若かった頃、
多くの先輩が私たちにしてくれたことを今、ベトナムで
しているのである。日本料理店で研修・仕事をする
5人の若者の前には紆余曲折と荒波が待っているかも
知れないが、恐れずに闘い・挑んで行って欲しい。
彼等・彼女等にはそのエネルギーがある。

投稿者 koyama : 19:44 | コメント (0) | トラックバック

2005年11月20日

休日

終日雨。寒い。

トンチンカンホテルは今日も工事。1階か2階でコンクリートの
壁をハンマーで叩いているのか、「ドン・ドンドン」という轟音が
響く。落ち着いて休めない。トンチンカンホテル中がほこりと
砂にまみれているようだ。私の部屋の床も毎日掃除をして
もらっているのだが、じゃりじゃりしている。

午前10時過ぎ起床。疲れもありドンバ市場ウオーキング中止。

昨夕、近くの市場で「人参」「キャベツ」「きゅうり」、豚肉を
買う。昨夜、野菜の一夜漬けを作る。昆布少々、するめ少々、
巣山塩、醤油、とろろ昆布少々を入れて冷蔵庫に寝かしておいた。
豚肉は軽く炒め、お湯を入れて煮込む。そうめんの汁(つゆ)。

軽く入浴。野菜の一夜漬けはするめととろろ昆布の味が複雑に
しみ込み、おつまみに最適。軽くフダビールを飲む。

8通のメール受信。8通のメール送信。
昨日の11周年式典でセン委員長が「教科書を買って欲しい」
との話をしていた。この日記に書いた。日記をお読みになった
H氏から教科書購入の申し出があった。有難いことである。

終日、だらだらとして過ごす。結局、一歩も外出しないで1日が
終わる。

朝日新聞のホームページを読む。トップニュースが
『小林さん、米の早食い大会連覇 ハンバーガー67個』だった。
これが、朝日COMのトップニュースなのかと驚く。
私はそもそもこの種の『馬鹿食い競争』自体嫌いである。
何の意味があるのだろうか? 例え意味がないとしても
この世界で飢えている人がたくさんいると言う時代に
この種の馬鹿食い競争を恥ずかしくもなく主催する団体も
馬鹿だが、トップニュースで報道する朝日COMの知性も
疑う。最初から知性などないのなら、腹を立てることもないのだが。

NHK衛星放送で『日曜討論』を見る。
中曽根元首相が自民党政治の60年を語っていた。
政治家の気骨・道徳・道義が最終的に自民党政治が継続する
のか終焉するのかを決めると言う趣旨のことを言っていた。
炯眼のあることばだ。
国鉄分割民営化のねらいは、当時最強の労働組合だった
国鉄労働組合をつぶすことだと言明していた。
郵政民営化は何をぶっつぶすのか? 
その中曽根氏ですら、小泉首相の「独裁」に懸念を持っている。
東大教授、評論家の吉永氏も自民党が一極に固まり、
主流派に対する反主流(非主流)のバネがなくなったことへの
危惧を語っていた。11月22日は自民党結党60周年。
自民党の憲法「改正」案が正式に発表される。

自民党「加藤紘一」氏のHPを見た。中々「含蓄」のある
見解が述べられている。一読の価値あり。

http://www.katokoichi.org/


APECに参加した小泉首相の韓国での記者会見を見た。
日本のNHKなどの記者は提灯持ち質問。
BBCの記者は、靖国神社の戦争博物館、遊就館が日本
の過去の戦争を「防衛のためとして正当化する見解を流している」
とし、これを支持するのかと質問していた。
ジャーナリズムは政治家が一番聞かれたくない質問をすべき
である。国民の知る権利を保障するための質問である。
イラク戦争のバクダッドでの米軍の記者会見をCNNでよく見た。
この時も日本の記者は無難な質問しかしていなかったが、
外国記者は日本では共産党が質問するような辛辣な質問を
していた。日本のジャーナリズムの腰抜けぶりが分かる。

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2005年11月19日

「子どもの家」創立11周年記念式典

終日曇り。

午前8時、バオミン・ベトナム事務所長のオートバイで
「子どもの家」へ。今日は「子どもの家」の創立11周年記念式典。
1994年11月21日に「子どもの家」のA棟1階が作られた。
それから11年。紆余曲折のあったベトナム・フエでの
ストリートチルドレン支援活動ではあるが、こうして11年経って
見ると300人もの卒業生、62人の在所の子どもたちがいる
立派な施設になっていた。改めて日本での支援者や
ベトナム事務所スタッフなど多くの関係者にお礼を申し上げたい。

8時15分、「子どもの家」へ到着。
セン運営委員長、フエ市人民委員会外務部長のニエンさんと
と挨拶。


式典前、子どもたちも興奮気味。


午前8時半、「子どもの家」2階の音楽室で式典は始まった。
式典の始めは「子どもの家」の演芸。

女子の踊り。少数民族の衣装で登場。

●テレビ東京「ざ・ドキュメンタリー」で入所したリーさんも
明るい笑顔で踊りを披露


アン君の歌(ともだちと仲良く・・)

続いて「子どもの家」でミシン研修をしているMENさんが企画し、
自分で全ての衣装をセメントの袋で作った「ファッションショー」。
もちろんモデルは全員「子どもの家」の子どもたち。
これが意外に絵になっていた。私は、このファッションショーを
見て、ほとんどお金をかけずにすばらしいファッションショーを
作り、モデルの子どもたちも楽しんでいた姿を見て、
この子どもたちの文化・芸術の水準の高さに驚いた。
お金を使わずにこれだけ楽しくショーを作り上げた能力の
素晴らしさに敬服し、心からモデルを楽しんでいた子どもたちの
純真な素直さとエネルギーに圧倒された。
「日本の子どもたちならどうなるだろう?」とふと頭をよぎった。

ディレクターのMENさんとモデルのフィナーレ。

ファッションショーを企画し、自分で全ての衣装を作ったMENさん。
自分でセメント袋の紙で作った衣装。


続いて音楽専門学校へ通っているDUOC君の『涙そうそう』。
ぞうりを履いて和服姿で歌う。さすがに歌がうまい。同時に
日本語がきれいである。教えた先生の能力か、DUOC君の力か?


(1)ロック寮長の「開会のことば」
   ・バオミンベトナム事務所長の通訳。
  
ベトナム共産党第10回大会と11月20日の
先生の日を前にして、「子どもの家」創立11周年式典が開催
でき嬉しい。みんなでお祝いしよう。

(2)創立記念ケーキ点火式
 私とセン運営委員長とで3つのケーキにある11本のろうそく
 に火を点ける。

(3)セン「子どもの家」運営委員長の経過報告
  通訳はラームさん。


①困っている子どもたちを助けることはベトナム共産党の方針である。
 「子どもの家」はフエ市人民委員会、JASS、「越日交流委員会」、
 各組織のスタッフの努力のおかげでここまで発展できた。

②2004年~2005年の活動の報告
 ・この11年間で322人の子どもたちが入所してきた。
  そして卒業した子どもたちの中には、ダナン、ビン、
  ホーチミン市などで働いている子どもたちもいる。
  最近JASSベトナム事務所で働き始めた子どももいる。
 ・「子どもの家」には現在62人の子どもたちが生活している。
 ・在宅支援は24人。
 ・2004年~2005年の学校の成績
  62人の子どもたちのうち47人が学校へ通っている。
   最優秀賞受賞    6人
   優秀賞受賞     12人
   素行・芸能特別表彰13人
 ・「子どもの家」は衣食住だけでなく、子どもたちの自立のために
   努力している。2004年~2005年の学期に3人大学進学を
    果たした。
   MENさんはフエ経済大学。DUONGさんはフエ師範短大。
   KHANH君はフエ師範大学。特にKHANH君は
   高校の年間平均が10点満点で8点だった。
 ・職業訓練も自立のために進めている。
   ミシン、靴作りなどでは、既に給料をもらえるまでに
   研修の成績が上がった子どもたちもいる。
   「子どもの家」でのパソコン、ミシン研修も成果をあげている。

 ・「子どもの家」での道徳指導の結果
  道徳と知識、そして芸術が子どもたちには必要である。
   道徳の面では、多くの子どもたちがホーチミン共産青年団、
  ホーチミン少年団(少年先鉾隊)、「子どもの家」赤旗隊に
  加入し、自分たちで自立した生活ができるよう努力している。
    また、フエ市主催の絵画大会、音楽大会、凧揚げ大会など
  に積極的に参加した。
 ・6月1日の子どもの日。中秋祭なども実施。
 ・JASSの内田征子さんなどの支援で夏にバーベキュー大会、
  タンタン温泉へ行き集団行動をしながら楽しんだ。
   また、12月24日には内田さんの支援で9回目のクリスマス会
  が行われた。
 ・人事管理
  現在「子どもの家」には13人のスタッフがいる。それぞれの
  スタッフが子どもたちのために頑張っている。
   医師も一人いる。フエ医科大労働組合と協力して
   定期健康診断を実施している。
 ・「子どもの家」労働組合には13人全員が加入し、
  フエ市労働組合連合の指導で活動を進めている。
・子どもたちの能力を高めるために日本・英語教室、
 絵画教室、パソコン教室、図書教育などを実施している。
 図書は、子どもたちへの貸し出しを試験的に実施し、
 大きな成果を得た。今後、毎日貸し出しを行うこととした。

②2006年の目標
  ・「子どもの家」スタッフの専門分野の能力を高めたい。
   ストリートチルドレンや親の愛情不足な子どもたち
   への指導の仕方を更に専門的に学びたい。
  ・子どもたちの能力を全面的に開花させたい。
   学校での勉強の推進、「子どもの家」での特別教育の
   充実。進学も頑張りたい。
  ・子どもたちの教育と陶冶に力を入れたい。
   特に思春期の子どもたちの指導に習熟したい。
   専門の本を買って学びたい。
    今年文部省が国定教科書を改訂した。
   JASSにお願いです。新しい教科書を買って欲しい。
  ★「子どもの家」はひとつの家庭。お互い助け合って
   生きて行きたい。
    「子どもの家」はベトナムと日本の友好の証である。
   「子どもの家」の全ての子どもたちとスタッフを代表して
   フエ市人民委員会とJASSにお礼を言いたい。

(4)フエ市人民委員会外務部フエ副部長挨拶

HUE(フエ)副部長は最近就任したばかり。今日はニエン
外務部長も出席していたが、外務部も若い人を育てている
ようで、フエさんの「学習」出番となった。良いことである。


・11年間、大きな成果はあった。それはJASSとベトナム事務所の
 おかげである。改めて感謝した。大学にも子どもたちは入学して
 いる。卒業生は他の都市でも仕事をしている。
・「越日交流委員会」を設立したが、その設立は大きな意義がある。

(5)JASS代表小山の挨拶

(6)表彰式

①操行善良・道徳優秀グループ表彰

  MAI先生グループ、TIEN先生グループ

②大学合格特別表彰
 
 フエ師範大学数学科に入学したKHANH(カイン)君。
私からお祝いの自転車を贈った。KHANH君は
「子どもの家」の子どもから自転車を借りてフエ師範大学へ
通っていた。

KHANH(カイン)君のお礼の言葉
  大学に入学できたのは日本の支援者のおかげです。
  また、「子どもの家」の先生の指導のおかげです。
  JASSや先生のご恩を忘れずに努力します。
  大学でも良い結果を出したいです。

③高校合格者表彰

  THUYさんはグエンフエ高校。
  SON君とNHIさんはハイバーチュン高校。

④真面目に仕事をしたり活動をした特別表彰


⑤11月20日「教師の日」特別感謝表彰

「子どもの家」のスタッフ13人全員にJASSからアオザイと
ワイシャツの布を感謝の気持ちを込めて寄贈


式典は午前10時に全て終了。
式典には児童保護委員会の新しい委員長のLAN(ラン)さん
も参加。ランさんはフエ市立病院付属の診療所の医師。
JICAと協力して行った障害児支援プロジェクトで一緒に
仕事をした仲。前委員長のT氏が解任され、新しい委員長に
就任。色々と大変なことがあるようだ。

午前10時40分。「子どもの家」創立11周年記念昼食会。
今日の食事は専門会社に委託。いつもは、寮母さんたちが
食事を作るが、今日は食事のスタッフもゆっくりと昼食を
摂ってもらいたいと業者に委託。


子どもたちも11周年記念昼食会を堪能していた。

●昼食会に出たフエ名物のイカ

●牛肉料理

●昼食会に出たパン

●フエ風チャーハン


●昼食会を楽しむ子どもたち


●「子どもの家」スタッフと記念写真


●ベトナム事務所スタッフと。

●子どもたちと一緒に全員写真


11年。早いものである。私としては必死に毎日を生きてきた。
私は実践者である。偶然出会ったストリートチルドレン。
子どもたちの幸せと自立を考えて12年が過ぎてしまった。
他のことは何も考えていない。
人の評価は色々である。私は自分の力を精一杯出し切った
12年間だったと自負している。
今日の式典の子どもたちの活動を見て、私たちの活動は
けして間違っていなかったとの確信を持った。
子どもたちの明るい眼差し。元気な行動。一人でフエに
来て「子どもの家」を作って良かったと今は思っている。

今日の日記を書くのに4時間半かかった。
写真は45枚。
日本とベトナムのインターネット事情の違い。
「純米吟醸 八海山」を飲みながら日記を書く。


日本の多くの支援者の皆さんに12年間の活動の
結果としての「子どもの家」創立11周年記念式典
の報告。皆様への感謝の気持ちを込めて。

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2005年11月18日

日本料理店打ち合わせ

終日曇り、時々晴れ。

停電あり。

午前8時半、トンチンカンホテル1階日本料理店で
「日本料理店打ち合わせ会議」を行う。


日本料理店は既に出来上がったのだが、トンチンカンホテル
全体の改築・改装・エレベーター設置などの作業が長引き、
未だに日本料理店の正常な業務が出来ないままになっている。
当初の予定では8月下旬に全ての改築が完了することになって
いた。しかし、作業が送れ10月下旬に全て完了の予定だった。
現在、更に送れて来年の1月に全て完了とのこと。
日本料理店の正常業務を1月まで遅らせるわけに行かない。
トンチンカンホテル全体の改築のために常に1階の日本料理店前に
作業物資等が置かれている。

今日の話し合いでトンチンカンホテル全体の改築が完了しなくても
日本料理店の業務を始めることにした。12月15日を目処に。

参加者は店長のホンさん(ラームさんの奥さん)、ラームさん、
日本語教師の松下さん、中村さん、石岡さん。
更に接客兼調理人の「子どもの家」グエットさん、ホンニーさん。
料理人の「子どもの家」卒業生のターオ君。警備員のイン君。

当面の課題として日本料理店業務開始後の日本料理の品目決定。
更に「子どもの家」の卒業生や子どもたちの日本語教育。
日本料理店の内装・装飾。これらの諸課題について参加者で
話し合う。

料理は中村さんと店長ホンさんが子どもたちに再度
教えることになった。
料理内容は、昼前後は「ランチメニュー」とし、定食類とする。
夕方以降は一品料理、おつまみなども用意し、夕食メニュー
とする。来週から3週間、お客さんに出せる内容の料理の
練習・最終準備とチェックを行う。

日本語は松下さんが中心となり、1週間に2回~3回程度
教えることとなった。

内装・装飾は石岡さんのセンスで行う。
そして建築促進はラームさん。

●日本料理店の営業時間
   ★午前11時から午後2時まで(定食中心のランチメニュー)
   ★午後5時から午後10時まで夜のメニュー
●日本料理店内にNHKTVを入れる。日本人に見てもらう。
●会計はベトナム風。客さんが座席で支払う。
 会計責任者はホンさん。
○今後の検討課題
  ・全面禁煙とするかどうか?
  ・換気扇の設置
  ・厨房と店内の間を仕切るドアは必要か?
  ・料理人がターオ君一人では少なすぎる。もう一人追加。

午前10時過ぎに打ち合わせを終わる。次回は11月25日頃?

料理人と警備員の男子二人は、この所少し生活態度が
傾いている。かなり危ない状況でもある。
日本料理店の仕事を通して何とか人生と生きがいを見つけ、
真っ当な生き方、人生を歩んで欲しいと念願している。

徒歩でベトナム事務所へ。いくつか打ち合わせ。

昼食後、停電。

午後2時45分、ミンさんと一緒に「子どもの家」へ。
「子どもの家」のTUOIさんを日本料理店の料理人として
迎え入れる話し合い。

TUOIさんは16歳。1999年のフエ大洪水で父親が死亡。
7人兄弟の3番目。6番目の妹と2000年に「子どもの家」へ
入所した。母親(52歳)は路上で「チャオバンカン」(煮込みうどん)
を売って生計を立てている。
・長女(22歳)-ホーチミン市でミシン工
・次女(19歳)-ホーチミン市でメイド
・三女(16歳)-TUOIさん
・長男(15歳)-中学2年生(双生児)
・次男(15歳)-中学1年生(双生児)
・4女(12歳)- 中学1年生(「子どもの家」入所)
・三男(11歳)-小学校3年生

お母さんも大変である。一番下の子どもは小学校3年。
長女・次女は自立した自分たちの生活を賄うだけで
精一杯。それでも長女・次女は母親へ多少の仕送りは
して来ているという。TUOIさんの自立=自活は急務である。
日本料理店で2年間研修をし、18歳になったら自立する予定。
その頃には、かなりの給料を貰えると思う。本人の自立と
母親・家族の生活を支えるために日本料理店での修行が
どうしても必要である。
8月頃からTUOIさんに「日本料理店で働きたい」との
申し入れを受けていた。しかし、日本料理店の展望が
必ずしも明確でなかったこともあり、採用は控えていた。
TUOIさんは今年8月、高校受験に失敗し、ミシンの研修を
受けていたが、料理が好きで何とか日本料理店での研修に
人生の活路を見出そうとしていた。
私は、子どもたちの自立が最大のテーマである。そのためには、
子どもたちを「マス」(固まり)で見るのではなく、一人一人の
子どもたちの生い立ち・環境・実情・能力などを考え、進路を
決めようと思っている。もちろん、本人の希望とやる気
が一番だが。
TUOIさんは、「子どもの家」の日本語教室で松下先生から
日本語を学んでいる。来週からは、トンチンカンホテルの
日本料理店厨房で日本料理の練習。更に松下先生から
日本語の特訓を受けるとことなる。

明日は午前8時半から「子どもの家創立11周年記念式典」。
明日着ていくスーツを箪笥から出す。総カビ状態。
毎年のこととは言え、今年は異常気象で雨が少ない。
部屋もカビがほとんど生えないでいた。甘かった。
黒いスーツ(3年ほど前の私の誕生日にベトナム事務所員
の皆さんがプレゼント)全体に白いカビが生えている。
困ったものだ。これもベトナムである。何事も我慢。

投稿者 koyama : 17:59 | コメント (0) | トラックバック

2005年11月17日

18歳以上の子どもたちの進路相談

曇り・雨・一時晴れ間。

終日曇りで寒い。時々太陽が出来ると汗をかく。
終日倦怠感。ベトナム事務所員の皆さんも同様の感想。
「気候の変化に体がついてゆけない」症候群。

午前8時15分、ベトナム事務所でグエンさんと会う。
グエンさんは、日本語学校「レセプションクラス」の卒業生。
10月29日京都府長岡京市で講演会をした際、渡辺京子さん
が話を聞いてくれた。講演会後、渡辺さんと話す。
渡辺さんは、今年ピースボートで「子どもの家」や日本語学校
を訪問。日本語学校でグエンさんと日本語の交流をしたとのこと。
グエンさんに日本語の絵本をプレゼントしたいとのことだった。
私が預かり今日グエンさんをベトナム事務所へ呼び手渡す。

グエンさんは、日本語学校を卒業後、現在はフエ市立樹木管理会社
で仕事をしているとのこと。

グエンさんを教えた松下先生、サン先生も久しぶりの対面。

直ぐにバオミン・ベトナム事務所長と「子どもの家」へ。
今日は「子どもの家」の17歳以上で「進路」が定まっていない
子どもたちと懇談をする予定。セン運営委員長、バオミンさん
と私。午前8時50分頃から進路相談を始める。


●最初に職業訓練をしているT君(17歳)とP君(18歳)。


★T君は靴を作る手工業の小さな工場で研修をしている。
  3年間の研修ですっかり腕を上げ、現在会社から
  毎月50万ドン(4000円)程度の手当てをもらっている。
  
(セン)T君は3年間良く研修をした。最初は研修について行けるか
    心配だったが、今は良く出来るようになった。
     研修の先生もT君の腕前には太鼓判を押している。
    社長はT君を工場に泊まりこみで受け入れると言っている。
     私たちは、あなたに人生のチャンスをあげるだけだ。
     靴工場で働き自立するのかどううかは、あなた自身の
     判断だ。
(小山)自立し、働きながら更に自分の能力を高めてほしい。
     これが最良の道だと思う。
     回りの友達の中には、親がお金持ちで贅沢な生活を
     している人もいるが、T君はそうした友達のことは
     気にしないで、自分の力で生きて行って欲しい。
     自分の力で仕事をすることが一番立派なことだ。
      親の力で生きていく友達はいつか挫折する。
     今は厳しく、辛いこともあるが頑張って欲しい。
(T君) 分かりました。少し、自信はないけど、セン先生や  
     小山先生の言うことを心に入れて、靴屋で仕事をし
      自立したい。これから頑張って、田舎のお母さんと
      妹の生活の面倒が見られるようになりたい。

※T君は1993年10月から支援した子どもである。
  当時5歳。早いものである。今はすっかりお兄さんに
  なってしまった。当時、チーラン通り「子どもの家」で
  姉と一緒に生活していた。姉は知的障害があったが、
  5年ほど前にやはり足の障害がある男性と結婚。
  私もクアンチ省・ドンハ市の結婚式に呼ばれた。
  姉は夫と廃品回収業をしながら生活している。
  子どもも生まれた。12年間、「子どもの家」で面倒を
  見てT君はやっと自立=自活することが出来る。
  私も成長し自立できるT君を見ることが出来て嬉しい。

★P君は18歳。やはり12年前、チーラン通り「子どもの家」
  時代に弟と一緒に山岳地帯からやってきた少数民族の
  子どもだ。3ヶ月前まで2年間、彫刻でみやげ物を作る
  工場で研修をしていた。所が3ヶ月前、セン委員長にも
  言わずに勝手に彫刻研修を止めてしまった。
   彫刻研修の先生はP君の能力を高く評価し、毎日
  15000ドン(100円)の手当てをくれていた。
   1ヶ月45万ドン程度の収入があり、「子どもの家」を
   退所したら彫刻の先生は自分のお店に受け入れ、
   能力給にして更に手当ても出すと言っていた矢先であった。

(セン)P君は何故彫刻研修を辞めたの?
(P君)先生がよくない。
(小山)先生の何がよくないの?
(P君)?・・・・・(無言)
(小山)2年間彫刻の研修をして辞めてしまったら
    もったいないでしょう?
(P君)そうは思わない。
(小山)彫刻を続ければ自立できるよ。どうして彫刻を続けないの?
(P君)彫刻では良い人間になれない。
(セン)あなたは3ヶ月前に勝手に彫刻を辞めてしまった。
     彫刻を辞めたと私に言ったのは1ヶ月前だった。
     あなたは今まで何度も仕事を辞めるのを繰り返している。
     あなたは2年前、彫刻の研修をしたい。母親の面倒を
     見たいと言って来た。彫刻を研修して将来は社長になる
     と言っていた。
      真面目に労働もしないで社長になりたいと言っても無理だ。
     しっかりと働き、努力した後、社長と言う仕事が付いてくる。
      あなたは彫刻の社長とけんかしたのですか?
(P君)社長とけんかしたわけではない。
(小山)君は彫刻の研修を続けた方が良い。
(P君)彫刻は辞めると決めてしまった。誰とも相談しないで
    自分の意志で決めた。
(セン))彫刻を続けて欲しい。
(P君)彫刻に戻りたくない。辞めた理由は大人のせいだ。
    大人が原因だ。
(セン)大人とは誰だ。「子どもの家」のスタッフ?
    ベトナム事務所のスタッフ? 彫刻研修のスタッフ?
(P君)大人だ。

※こんなやり取りを1時間ほど繰り返す。P君は理由は言わないが
とにかく2年間研修した彫刻をセン運営委員長にも言わずに
辞めてしまった。1時間ほどの話し合いの中でP君は彫刻の
先生との間に私たちに言えない何かトラブルがあったのかとも
思った。調べてみたが、先生はP君を可愛がっていたことが
分かった。彫刻の先生は「子どもの家」に内緒でP君に
自転車を買ってやったがP君は直ぐに売ってお金にしてしまった。
今年のテト正月にはわざわざP君の実家のあるクアンチ省に
P君を連れて行き、親戚にP君の挨拶し、お土産などを上げ
ている。こうした先生の行動を見ると先生はP君に期待を
かけていたことが分かる。
P君が突然2年間の彫刻研修を辞めた理由は今でも不明。
P君・T君を帰した後、3人で話し合う。
P君が研修を辞めた理由は友達関係ではないか?
P君は地元の不良グループと付き合い始めた。
不良グループに入り、お酒を飲んだりしている。時々、
飲酒が発覚し、「子どもの家」スタッフに注意されている。
ハイバーチュン高校3年生の男子もこの仲間に入り飲酒をしている。
今後、友達関係をもう少し詳しく調べることにする。
来週、P君の親戚を(フエ在住)を呼んで再度話し合う。

通訳を通しながらの話は本当に疲れる。

●次に大学等への入学を果たした3人を呼んで今後の
 身の振り方を話し合う。Mさんは、2ヶ月間の軍隊入営中。


(セン)18歳以上になったら原則的に「子どもの家」を出ることに
   なる。皆さんは特別にJASSの方針に基づき大学卒業までは
   JASSが面倒をみてくれることになっているが、自分の進路、
   身の振り方は自分でしっかりとした意見を持っていて欲しい。

●D子さん(20歳)
(Dさん)私は20歳。小学校の先生になるつもりだ。
    出来たら大学の寄宿舎に入りたいと思っていたが、友達
    などの話を聞くとうるさく、人間関係も大変なようだ。
    2006年のテト正月(1月29日)明けまで待って欲しい。
     その間に寄宿舎に入るか、下宿をするか、
    「子どもの家」で生活するのかを決めたい。
(小山)将来、小学校の先生になって自立して欲しい。
     小学校の先生になって今まで日本人やベトナム人の
    支援で大きくなったことへの恩返しをして欲しい。 
     子どもたちの教育をしっかりして欲しい。そして、給料を
    もらい財政的にも自立して欲しい。

●K君(18歳)
(K君)僕は「子どもの家」にいたい。「子どもの家」で今後
    4年間お世話になりたい。
    家庭教師や塾の先生などアルバイトをして自分なりに
    努力したい。

(小山)年下の子どもたちの面倒を見て欲しい。勉強や
    生活など・・・・・・。K君は将来何になりたいの?
(K君)僕はフエ師範大学数学科に入ったので、高校の
    数学の先生になって皆さんへの恩返しを社会に
    お礼をしたい。
(セン)アルバイトをすることは問題がある。
今後、話し合う。是非、頑張って欲しい。

●T君(22歳)
(T君)現在、電気専門学校に通っているが、コンピュータの
    専門学校にも入りたい。昼と夜、二つの勉強をしたい。
    (小山)T君は「赤旗隊」隊長(「子どもの家」生徒会長)なので 
     他の子どもたちのリーダーとなって頑張って欲しい。
(セン)専門学校やコンピュータの学校へ行くのは良いことだ。
    
(セン)今日は、3人の意見を聞くとこうことで終わりたい。
    今後、また時間をとって3人と話し合う。それまで
    自分の意見を更にまとめておいて欲しい。

※フエ経済大入学のMさんは、フエ飛行場近くの軍隊に
  入営している。これはフエ経済大学の方針である。
  2ヶ月間、軍隊で共同生活をする。ミンさんに何をしているの?
  と聞いてみた。鉄砲の分解・組み立て、行進、射撃など
  民兵としての基礎訓練となるようなもののようだ。
   Mさんが軍隊から帰って来たら再度話し合いをする。

結局、午前9時前から11時過ぎまで話し合いが続いた。

「子どもたちの自立をめざす」と口で言うのは易しいが
実際に子どもたちの成長の紆余曲折と付き合い、
子どもたちの気まぐれな成長に付き合って行くのは
中々気苦労なことではある。今日のようなやり取りは
本来なら各家庭で親と日常的に進めるものかのかも
知れない。しかし、「子どもの家」の子どもたちは
親と家庭がない。センさんやミンさん、私などが
家庭と親の代わりをせざるを得ない。私の最大の任務は
「忍耐」である。「厳しさと愛情」の二刀流である。
私は子どもたちと最後まで寄り添い、子どもたちの
成長の「漂流」に付き合おうと決意している。
時間と労力、そして忍耐と子どもたちへの愛情が必要。
何よりも子どもたちへの尊敬と人間への愛情が必要ではない
のかと思っている。私は「人間こそ第一」主義者である。
人間を冒涜したり、粗末にするどのような動きとも
闘って行きたい。「子どもたちに国境はない」主義で
世界中の子どもたちの幸せを祈りたい。
こんな夢を持ってフエで生活している。私は11月23日に誕生日を
迎える。58回目となる。
これからいつまで生きられるのかはわからない。
人間主義、子どもたち第一主義の思想で生きて行きたいと
思っている。残りの人生をこうした子どもたちのために生きられる
自分の幸せな境遇に感謝している。
東京にいる妻、子どもたちが自由にさせてくれていることに心から
感謝している。

9月18日、愛知万博に協賛し、国際ソロプチミスト東京ー東
主催の「子どもの家」での植樹祭で植えた「びんろう樹」や
花壇の花が大きく成長していた。

午後12時半から30分ほど昼寝。

その後、メールの受信・送信。多数。

午後4時、ベトナム事務所へ。
ベトナム事務所には静岡の会の巣山先生からクリスマスの贈り物
が届いていた。

「子どもの家」の子どもたちにお菓子

ベトナム事務所スタッフ用にもお菓子の差し入れがあった。

また、「子どもの家」絵画教室用のスケッチブック、クレヨン、
鉛筆削り、折り紙・・・・・・。


ベトナム事務所男性スタッフ用のハンカチ

ベトナム事務所女性スタッフ用ハンカチ


改めて巣山先生のお気遣いに感謝。
9月中旬からベトナム事務所は訪問客もなく、毎日が意外と
単調な生活となっている。これはこれで体力回復には
必要なことではあるが。こうして時々、「日本の風」が吹くこと
もベトナム事務所やスタッフへの励ましとなる。
有難い激励である。


朝日新聞のインターネット版を見る。

『松井秀 4年64億円で合意・
松井「またストライブ着れて幸せ」ーAP』

こんな文章が載っていた。APも「着れて」という
言葉を使うのか? 私にはひどく抵抗のある言葉だった。

投稿者 koyama : 13:20 | コメント (0) | トラックバック

2005年11月16日

終日雨。

昨夜来より豪雨。

今日は一日強い雨。気温も急激に下がった。
今までの経験では、こうした気候の時に体調を崩す。
少し「寒い」と感じた時、そのままにしていると必ず風邪を引く。
こまめな衣類調整が必要。ラームさんの話では数日は続くとのこと。

午前中、徒歩でベトナム事務所へ。
17通のメール受信。15通のメール送信。

10月22日テレビ東京「ザ・ドキュメンタリー」を見た東京の
会社社長からメール。返事を書く。

2006年1月5日「新英語研究会」全国大会記念講演についての
打ち合わせ、諸準備。

午後、豪雨。外出できない。

大相撲九州場所をNHK衛星放送で見る。十両の取り組みかと
思ったら「三役」だった。それほどお客が入っていない。
小結・大関の取り組みなのにテレビの画面に空席が見える。
カメラを引いた時など会場のガラガラ状態が一目瞭然。
お客が激減したことが良く分かる。相撲内容が面白くない。
特に大関陣がふがいない。既に栃東が休場している。
他の大関も4日目で既に優勝争いは無理だと思われるような
相撲内容。ヨーロッパ、ロシア、モンゴルなど海外勢の
相撲は面白い。何が起こるかわからない魅力あり。
総体として日本人力士の闘争心がなくなているような
感じがする。私だけがそう思っているのか?

東武鉄道の運転手が3歳の子どもを運転席に乗せたという
理由で懲戒免職となったそうだ。運転席の後ろに乗っていた
3歳の息子が騒ぐのでドアを開けると子どもが運転室に
入って来てしまった、怒ると子どもは座り込み泣いてしまう。
運転手は仕方なくその場に子どもを置いていたと言うことらしい。
確かに運転手の行為は軽率であり、人の命を預かる仕事
のモラルに反するものであり懲戒処分の対象である。しかし、
やはり懲戒免職とはあまりに杓子定規な処分である。
東武鉄道の『会社の厳正な姿勢を示したい』という気持ちは
良く分かるが、まだ、将来のある23歳の若い運転手を
「生贄」にすることはないように思う。
世の中とは不思議なものである。いつもこのような世の中に
なると「弱い者」が最初に槍玉にあがるのだ。
国鉄分割民営化問題の時は、「1円を着服した職員」が
やはり懲戒免職となっている。
ポマード大王(橋本元首相)が1億円の小切手をもらっても
覚えていないとぼければ、そのままである。
アスベスト問題を長期間放置した歴代の厚生大臣・次官など
「お偉いさん」は何の処分もない、やたら甘い国である。

午後7時過ぎ、日本の孫から電話。東京の自宅に来ているとの
こと。元気溌剌な声を聞いてこちらも元気が出た。
暗い話の多い昨今ではあるが、4歳の孫の声は自然に
人間の気持ちを和ませるものだ。電話から若々しい
エネルギーが飛び込んで来た。ディズニーランド・シーに行った、
新しい乗り物に乗った・・・・・、次々に話しまくる言葉の端々を
聞きながら、光景が目に浮かんで来た。この子も「おしゃべり」の
DNAをしっかりと受け継いでいるなと、不思議な安心感をもった。

京都で日米首脳会議。
共同記者会見をテレビで見る。NHK衛星放送。CNN.。
歴代首相でこれほど恥も外聞もなくアメリカの言いなりになる
首相も珍しい。

『日米安保条約による平和と安全の中に日本の発展があり、
しかるべき代価を払わないといけない。』
アメリカ軍の大幅再編に伴い米軍の司令部など軍事中枢が
日本へ配置換えされる。
当然ながら各地の自治体首長(ほとんどが保守系)が反対している。
これらの反対に対しての首相の言葉である。
平然と「代償を払わねばならない」と言っているが、
自分自身がその代償を払う一人にはならないのだ。
いつジェット機が落ちるか分からないところで生活はして
いない。夜も眠れない轟音の中で生活をしている訳ではない。
この首相にとっての「代償」はあくまで自分の関係ない
他人事なのだ。
BSE問題では、とうとう、国民の命を売ってしまった。
CNNでは、小泉首相はBSE問題でアメリカの言い分を聞いた
と言っていた。BSE問題は調べれば調べるほど、アメリカの
調査はいい加減なもののようだ。科学的に不確かな
段階での「政治決着」。小泉首相のブッシュ大統領の
僕(しもべ)ぶりが分かるというもの。

首相は『世界の中の日米同盟という視点から話した』
と言っている。今までの歴代首相はまがりなりにも
「アメリカは日本を守ってくれる」との建前は堅持していた。
小泉首相は、日本ではなく、イラク・アフガンなど
世界にアメリカと日本が出て行くとの姿勢を鮮明に
した。日本を守るためと言う『大義名分』の
日米安保が今や「世界中、どこでもアメリカと共に戦争をする」
日米同盟に変質した。歴史的な日米同盟の大転換を
いとも簡単にしてしまった。コバンザメマスコミは、本質的な
報道をしない。大政翼賛会マスコミ。

ライオン首相は「世界の憲兵」の手先宣言をしたようなもの。
自由と民主主義を世界に広めるとの両首脳の
話の実態は、イラクではアメリカがイラク兵を
ライオンの檻に入れて「大量破壊兵器」のありかを
尋問し、アメリカが自由と民主主義を与えたとする
イラクの暫定政府では、反政府勢力の容疑者への拷問と
虐待を日常的に行っていたと暫定政府自身が昨日発表している。

ブッシュ大統領と小泉首相の言う「自由」は
アメリカの勝手な自由、権力と力と軍事力を持った人たち
の自由である。金持ちなど「勝ち組」の自由である。
結局、今回の日米首脳会談は、アメリカの世界支配、
「自由と民主主義」を語ったアメリカの一国世界支配に
子分の小泉首相が「提灯持ち」をしたようなもの。
日本の安全を守るどころか、アメリカと世界中で
戦争をする体制が作られようとしている。
そのための憲法9条の改悪である。歴史の岐路。
他人事ではない。いつか、家族・子ども・孫が
イラクやアフガンなどに「国際協力」の美名の下、
戦争をしに行く時代が来る・・・・・・・。来ないように
しなければ・・・・・・。
戦争反対は思想・信条・イデオロギーの問題ではない。
人間を大事にするかどうかの問題。
昨日までの仲間に「刺客」を送り「惨殺」し、協力者は
山の奥まで刺客を放ち追求する。
この人に人間の温かい思いやりはない。


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2005年11月15日

オアシスの会支援「医療船」関係者懇談

晴天。

午前9時、フエ市人民委員会外務部で「医療船」
関係者と懇談。


オアシスの会は芝の会関係者が「大塚合子さんを支援する」会を
作り、フエでの船上生活者の支援を始めた。
今日は、船上生活者を船で回りながら医療支援をしている
フエ市立病院のLAN医師と船上生活者が多い「フーハウ地区診療所」
の「THU」所長と懇談。

オアシスの会の現地コーディネーターを委嘱されている私は、
支援金が本当に困った人に使われるように実情を調査し、
実際の支援を決めることにした。
今日はその第一歩である。今日は医療船支援の実情を
詳細に聴取した。いくつか問題があった。
オアシスの会の支援が本当に役立つものなのかという
一点に絞られる。活動の現状、人員、費用等の詳細を
聞く。昨年まではフランスに支援で行っていたが
今年からフエ市人民委員会の支援となる。
来週、医療船に半日乗船し実際の診療行為等を確認する
予定である。

次にフーハウ地区診療所長から意見と実情を聴取。
フーハウ地区は人口 10456人。2階建ての
立派な診療所を持っている。その一室を船上生活者
の診療のために使っても良いとのこと。
来週、フーハウ診療所を実際に訪ね詳細を相談する
ことにした。フーハウ診療所はフオン川の支流にある。
船上生活者が急病になったり、体調を崩した時には
船でフーハウ地区診療所で無料診療が受けられるよう
にしたい。今後、医療船とフーハウ地区診療所での
船上生活者の医療支援を進めて行きたいと思っている。
こうした活動がオアシスの会の希望して支援ではないかと
思う。

午前11時、昼食。

午後、友好都市問題のメールを書き送信。

午後2時過ぎ、ラームさんと当面の諸問題の対応策に
ついて協議。

夕方、ベトナム事務所で仕事をしていると突然私の部屋に
おばさんが入り込んで来た。
驚いてミンさんに連絡。ミンさんと2階の応接室で応対。
趣旨は、昔、娘さんの心臓病のことで私に相談したことがある。
昨日、ドンバ市場で私を見かけたので今日、ベトナム事務所に来た。
最近旦那さんが亡くなったので生活が難しくなった。支援して欲しい、
とペラペラと延々と話す。手には、貧しさの証拠となる「写真」が
たくさんある。40分ほどおばさんの話を聞く。
来週、自宅を訪問し実情を聞くことにする。

午後5時過ぎ、ドンバ市場へ。ウオーキング。
ドンバ市場では一切の「とり」が排除されていた。
11月12日を期してベトナム政府の指示で国内にいる
一切のニワトリ、アヒルなど全てを「処分」することとなった。
市場には鶏肉も卵も一切売られていない。
こうした事は社会主義ベトナムでは『徹底して実行』される。

WHOはトリインフルエンザが「人から人へ移るようになるのも
時間の問題」「ウイールスが変異し、毒性と感染力の強い
別種の新型ウイルスとなる」と警告している。
ベトナムでは新型ウイルスが流行した場合、800万人の
死者との予測。日本では数十万人の死亡予測。
日本人の多くはベトナムやアジアでは鳥インフルエンザが心配だ
と思っている。しかし、ベトナムでは政府の指示で全ての
とりやアヒルを処分するという「強行手段」をとった。
ベトナムはある意味では、鳥インフルエンザの原因を
国内から全て排除するということになった。かなり抜本的な
対策をとったのである。

現在、トリインフルエンザは、「渡り鳥」で感染するというのは
通説となっている。
また、茨城県の養鶏場では鳥イウフルエンザの嘘の報告をし
県もまた法律に違反して養鶏場に検査を任せていた。
更に青森、岩手、宮城、埼玉、徳島、熊本の6県が
不適切な鳥インフルエンザ検査をしていたことが判明。
再検査の指示を受けている。
そうしたことを踏まえると、我が日本の方がベトナムよりも
新型とりインフルエンザの恐怖・流行の可能性は大きい。
日本はラムサール条約で渡り鳥の保護に取り組んでいる。
渡り鳥から新型インフルエンザが移る可能性が強い。
昨日、日本政府関係閣僚会議が行われ、新型トリインフルエンザ
対策・計画が作られた。これはあくまで計画である。
備蓄すべき治療薬すらまだ予定の半分以下である。
世界の多くの国では人口の30%~50%程度の
治療薬(タミフル)の備蓄をしている。わが国政府の
備蓄計画は人口の25%。最初から国民への手当てを
放棄しているといわざるを得ない。
新型インフルエンザが流行ったときに対応は出来ていない。
ベトナムはトリインフルエンザの原因となる全てのトリの
処分を決めて現在実行中である。どちらが安全か?
ベトナムだけが一方的に危険と思っている日本人には
考えてもらいたい危ない我が国の実情である。
(時々、ベトナム訪問予定者からベトナムはトリインフルエンザが
危ないので・・・・との声を聞くが、自分のすんでいる日本の
現状には至って無知である)

今日は1日NHK衛星放送を見なかった。テレビジャック状態。


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2005年11月14日

ベトナム事務所員会議

晴天。

午前8時、ベトナム事務所で臨時「ベトナム事務所員会議」。

ベトナム事務所の仕事は各担当部署での仕事を遂行する
ということが日常の活動となる。時にそれぞれの担当部署
の活動しかわからずに日常的な生活をする傾向がある。
そこでこれから毎週土曜日午前8時~8時半までの
30分間、ベトナム事務所員会議を定例化し、各部署、
各人の活動を報告し、ベトナム事務所員がJASSの活動
全体を知る中で自分の部署の活動を位置づけられるように
した。

①小山ー日本での活動。JASSの現状
②ハンーエドウイン商事の刺繍
③石岡ー日本語学校の怠学生問題と対策
④松下ー日本語学校。日本料理店
⑤ソンー特になし
⑥中村ー日本語学校の怠学生問題
⑦サンー日本語学校の実情
⑧ミンーセン運営委員長との話し合いの内容報告
     11月19日「子どもの家創立11周年記念式典」
     12月24日「クリスマス会」

今日は臨時に月曜日の午前8時からとなったが、
今週の土曜日からは定例で朝8時からの打ち合わせとなる。

友好都市問題でのメール作成。

午前11時、昼食。
ベトナム風「冷麦」の煮込みうどん。

ベトナムにも小麦粉で出来た「冷麦」ほどの太さの麺がある。
今日は温かい煮込み冷麦だは、冷たくしても美味しい。

昼寝をしようと思ったらラームさんから連絡。
日本料理店の手伝いをしている男子2名の素行問題で
二人の下宿と食事の面倒を見ているおばさんが来ているとのこと。
ラームさん、おばさん、年上男子、私で午後12時半から午後2時
まで話し合う。
地域の食堂のおばさんは、下宿と食堂を持っている。
小さな頃から路上生活をしていた年上のA君を良く知っていた。
日本料理店で仕事をしながら自立するという話をすると
おばさんは、小さな頃から知っているので、自分も私たちと
一緒に応援したいとのことだった。
そこで私たちがおばさんに食事代を出し、A君が食堂に
行けば3食だしてくれるようにした。また、A君はIDカードを
持っていない。ベトナムで身分証明書がない人間は
ホテルや下宿、飛行機などの利用が出来ない。
今回はおばさんの好意で何とか下宿をさせてもらっている。
ところが最近A君は「ばくち」の世界に入り込んでしまった。
近くの郵便局の回りで「遊び人」がばくちをしている。
その仲間に入り、日本料理店での仕事をしないで
ばくちに興じるようになった。私やラームさんが何度も
注意をしているんだが、ばくちをやめることはできないでいる。
ばくちを続けるうちにお金がなくなった。
A君はおばさんの食堂で食事をしないで、食べなかった
食事代をおばさんに請求し始めた。そのお金で
ばくちをしようとした。おばさんは、食事をするように言い
食事をしない場合、お金はラームさんたちに返すと返事をした。
その返事を聞いたA君は逆上し暴言を繰り返した。
こうしたことが何度も続き、とうとう地域の親切な
おばさんは、私の所へやってきて、A君の面倒は見られない、
と言い出した。
A君、おばさん、ラームさん、私の4人で話し合った。
その席上、A君はまたもや暴言を繰り返した。
私が「なぜ、食堂で食事をしないのか?」と聞くと
A君は「おばさんの食事がまずいので食べられない」と
言ってしまった。それまで我慢しながらもある程度
冷静に対処していたおばさんだったが、とうとう切れて
しまい、激怒。その場で席をたって「もう、こんな子の面倒は
見られない。食事も作らない、下宿も出て行って」と言い残し
帰ってしまった。また、A君は「俺はラームさんなんてなにも
怖くない。ラームさんなど相手にしていない」との暴言を
吐き、とうとうラームさんも切れてしまい「もうA君の面倒は
見られない」と言い出した。ラームさんも1年間近く
我慢に我慢を重ねてきたのでその心情は手に取るように
良くわかる。ラームさんとも話し合い、「数時間の考える
時間を上げる。自分の口にした暴言、そして今後の自分
自身の身の振り方について冷静に考えろ。18歳になって
いるのだから、もう子どもではないので自分の人生は
自分で考えるように。A君が真っ当に生きたいと
いう気持ちがあるのなら、応援するが、今のような
暴言を繰り返すこどもじみた態度なら支援はやめる」
と話す。異様な雰囲気の中で話し合いは終わる。

●部屋に戻り、友好都市問題で長文のメールを送信する。

●その後、ラームさんと日本料理店A君・B君の問題を協議。

その足で次にB君を呼び出す。B君は現在日本料理店に
来ていない。B君は日本料理店で仕事している時に
不良グループと付き合っていた。午後7時半にその日の
宝くじの当選発表がある。B君とそのグループは、
チャンティエン橋の袂にたむろし、発表されたばかりの
宝くじの当選番号一覧表をコピーし通行人に売っていた。
同じように当選番号をこーピーしていた不良グループと
抗争し腕力のあるB君は相手を殴ってしまう。

翌日から殴られた不良グループ5・6人が日本料理店
を訪ねて来て、「Bはいるか? ぶん殴ってやる」と息巻く。
何日もやってくる。その度に日本料理店ではB君を
かくまったり逃がしたりしていた。しかし、かなり危険を
感じるようになりラームさんの指示でB君はしばらく
日本料理店に来ないようにした。その際、ばくちはしない、
松下先生から日本語を習うとの約束をした。
B君もA君と一緒に郵便局の周辺でやくざと一緒に
賭博行為に没頭していた。
日本料理店に来なくなったB君は日本語の勉強もせずに
ばくちに明け暮れていた。

今日、B君を呼び出し、ラームさんと一緒に「今後、君は
どうする気なのだ?」との問題を投げかけた。
このままばくちと不良グループとの付き合いを続けるので
あれば、日本料理店での研修も出来なくなる。
本当にばくちと不良グループとの縁を切ることが出来るか?
と問い詰めた。
しばらく考えていたB君は「これから真面目に生活するので
日本料理店において欲しい」とのことだった。
B君にラストチャンスと話し引き続く日本料理店での研修を
続けるようにした。

A君もB君も3歳、4歳から故あって路上生活を繰り返している。
親や大人から「自分の気持ちをコントロールする術」を
教えられていない。時に衝動的な行動が見られる。
また、暴力を振るうことも多い。これらは、しっかりした
家庭での教育・心の安定、気持ちのコントロールなどの
人間として生活して行く基本的な家庭での教育が不足
している所から来るのではないかと思われる。
広い意味で「必ずしも子どもたちに全ての責任がある」
ともいえない。回りで気のついた大人が、今からでも
遅くないので、二人のために出来ることをしてやることが
必要である。愛情を持って接すること、厳しさと
自己の気持ちをうまくコントロールする術を教えることも
必要である。

今日はA君・B君にチャンスを与えた。今後の推移を見るしかない。
子どもたちは螺旋(ラセン)階段を登るがごとく、右に行き、左に揺れ
成長してゆく。回りの大人は、子どもたちの揺れと成長を
見守るしかない。回りの大人が動揺していては子どもたちの
成長はおぼつか無い。A君・B君の成長を祈り・期待する。

夕食後、久しぶりに日本語学校を参観。
中村先生が上級コースを教えていた。今日の生徒は10人。
ベトナム事務所のソン君も熱心に勉強していた。
今日は、漢字の学習をしていた。

●日本語学校・上級コースを教える中村先生

●漢字の練習

●ソン君も上級コースで日本語の勉強中

午後9時から午前1時まで「友好都市提携」問題を文章化する。


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2005年11月13日

休日

午前5時起床。
午前7時(日本時間)のNHKニュースを見る。
滋賀県彦根市の高速道路で7人死亡の事故。
午前8時までウトウトと寝る。

午前8時半、ドンバ市場までウオーキング。
ブランチの食料買出し。総計235円。
キャベツ・人参・きゅうり(9000ドン:70円)
鶏たまご2個(2000ドン:15円)
りんご2個・マンゴー1個(2万ドン:150円)

往復、徒歩4000歩。

草津の湯を入れて20分間低温で入浴。

人参、キャベツ、きゅうりの即席漬けを作る。
静岡の会巣山さんに頂いた岩塩(1億5千万年前の米国ユタ州産)
で和えた。
ネギは茹でてかつおと醤油少々。
卵は二つとも腐っていた。ベトナムでは目と鼻が利かないと
生活できない。賞味期限も何もない。自分の五感だけが頼り。
2日前に作ったフエ特産するめの醤油漬けと小樽でもらった
「鮭トバ」、巣山さんから送られた「静岡名産味付けしらすのり」
で飲む。
ギンギンに冷えたフダビール2缶。その後、静岡県
焼津市産吟醸「磯自慢」少々。
6日間お酒が入っていない胃袋にフダビールがキューと
入っていく。文字通り「五臓六腑に染み渡る」というやつである。
何事も美味しく食べる、美味しく飲むというのにも「工夫」と
努力が必要だと実感した。

●野菜の一夜漬け

●するめの醤油漬け

●4つ切りにしたマンゴー(熟れていてとても甘い。香りも良い)


NHK喉自慢を見ながら。前川清、石原洵子。

今日のおつまみ。
NO1 「野菜の即席漬け」。
NO2 「小樽鮭トバ」
NO3 「するめの醤油漬け」
NO4 「味付けしらすのり」

イスラエルのラビン元首相暗殺10周年。
ラビン氏の死を悼む。

午前11時、NHKTV「笑いが一番」。
東京漫才の若手が出ていたが、ほとんど大阪吉本の
物まね。東京の「一歩引いた」漫才は影を潜めてしまった。
リーガル千太・万吉、天才・秀才の系譜はどこにんったのだろう?
などとボーッとテレビを見ているうちに睡魔に襲われ昼寝。

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2005年11月12日

セン運営委員長と打ち合わせ

晴天。
最低気温23度。最高気温32度。真夏の気候。
今年は「異常気象」。この13年間、11月のこの時点で
こんなに晴天が続き、暑かったことはない。
私にはありがたいことである。

午前7時、朝食。ハノイ名物米うどん「PHO」(フォー)。
料理を作ってくれるPHUONG(フオン)さんがハノイの人なので
フォーは美味しい。鶏の出汁(だし)をしっかりと取ってある。
PHUONGさんの今日のフォーは牛肉。いつもは鶏肉なのだが。
「かぼす」のような柑橘類を絞り、生唐辛子を入れると食べごろ。
時々、唐辛子が異常に辛いときがある。私は何気なく7片ほど
唐辛子を入れたが、これが口を叩き割るほどの辛さ。

午前8時過ぎ、ミン・ベトナム事務所長がオートバイで
トンチンカンホテルまで迎えに来てくれた。
「子どもの家」へ。セン運営委員長と当面の諸問題に
ついて打ち合わせ。1ヶ月半ほどフエを不在にした。
「帰国」挨拶。


打ち合わせ内容。(概要)

①18歳以上になった17人の子どもたちの今後の進路
  (17歳も含む)について話し合う。

★子どもたちに寄り添いながら一人一人の子どもたちの進路を
 具体的に検討した。


・T君(20歳)現在ハイバーチュン高校3年生→「子どもの家」残留
・P君(18歳)靴作り研修中。うまくなった。毎月43万ドン
 の手当てをもらえるようになった。しかし、本人は辞めたい
 と言っている。印刷をしたいという希望。→近日中に話し合う
・Mさん(21歳) フエ経済大1年。12月7日まで軍隊に入営中。
 →入営が終わった時点で今後の下宿をどうするか話し合う。
 →基本的には下宿の方向
・Dさん(20歳)フエ師範短大1年。本人の希望を聞きながら決める。
 →近日中に小山・セン・ミンと本人の話し合い。
・H君(18歳)靴研修中。→「子どもの家」残留
・HI君(19歳)靴研修→葬儀用人形作り(中々覚えられない)
 →「子どもの家」残留
・T君(22歳)電気専門学校2年生→「子どもの家」残留
・K君(18歳)フエ師範大1年。本人は「子どもの家」に残留希望
 →「子どもの家」残留の方向
・D君(21歳)フエ省立音楽専門学校3年。2006年5月卒業予定。
 卒業後、フエ芸術大入学希望。→「子どもの家」残留
・P君(18歳)オートバイ修理研修センター。進度が遅い。
 センターを休みがち。→「子どもの家」残留。様子を見る
・PH君(17歳)フエ省立絵画専門学校2年。→「子どもの家」残留
・Hさん(17歳)ミシン研修。非常に成績良い。2006年2月卒業予定。
 その後は就職も可能。→当面は「子どもの家」残留。その後話し合う。
・Pさん(17歳)グエンフエ高校3年。来年大学受験希望。
 フエ医科大かフエ薬科大受験予定。→「子どもの家」残留
・Hさん(17歳)ミシン研修。上手。→「子どもの家」残留
・T君(17歳)靴研修中。毎月50万ドンの手当てをもらっているが
 自分で使ってしまっている。問題あり。→「子どもの家」残留。
 →生活態度について話し合い
・Mさん(17歳)ミシン研修。上手。→「子どもの家」残留
・L君(17歳)印刷研修中。成績優秀。2006年2月終了後は
 給料をもらって生活できる。→「子どもの家」残留

②「子どもの家」創立11周年記念式典 

11月19日(土)午前8時半~「子どもの家」で行う。
 セン運営委員長・ミンベトナム事務所長で詳細案を作る

③図書室の図書貸し出しについての総括・新方針

・2005年9月15日~10月10日までの22日間、
 「京滋YOUの会」の水本さんが図書の貸し出し「試行」を
 行ってくれた。セン・ミン・小山で総括を行う。
・延べ43人(スタッフ3人含む)の子どもたちに
 828冊の貸し出しを行う。
●全体として非常に意味のある貸し出しとなった。
 子どもたちも読書に興味を持つようになった。
 指導して頂いた水本先生に感謝したい。
・問題点
 ★図書の又貸し(今後はないようにする)
 ★紛失2冊。(1冊は出てきた)
 ★学校の授業中に読んでいて先生に「没収」された1冊。
   寮長のロックさんが学校へ行き返却。
●今後、「子どもの家」スタッフに担当してもらい
 引き続き「子どもの家」の子どもたち(スタッフ含む)に
 図書の貸し出しを行うようにする。
●貸し出しをすることを前提にセン運営委員長が
 「子どもの家」スタッフに担当者問題を提起する。
 午前中1時間ほど、午後1時間ほど貸し出し時間を
 スタッフが担当する。

④クリスマス会の件

詳細略。

⑤セン運営委員長より
・図書を購入する際、漫画も買ってほしい。しかし、最近
 ベトナムの漫画は暴力シーンが多い。暴力シーンの
 ある漫画は購入を控えて欲しい。
 →水本さんより図書購入費の寄贈を受けている。
   担当は会計担当のハンさんなので、図書を購入する
   際には気をつけるよう話す。
・11月20日はベトナムの「先生の日」。11月19日の
 「子どもの家」創立11周年式典の中に「先生への感謝」
 (具体的には寮母さんなどスタッフへの感謝)という
 項目を入れたい。→是非そうして欲しい。
・音楽室のスピーカーが2回壊れた。「子どもの家」が
 歌の練習をしていて、音量を上げすぎたことが原因。
 →修理不能なら買い換えるが、今後、ものを大事に
   使って欲しい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
その後、フエ市児童保護委員会委員長のT氏が
解任されたことが話題となる。

現在、フエ省には5つの「子どもの家」がある。
我が「子どもの家」とフエ省「子どもの家」以外は、
児童保護委員会委員長のT氏が関与し、全てで問題を起こしている。
私は児童保護委員会委員長のT氏とチーランン通り「子どもの家」
そして現在のグエンチャイ「子どもの家」で関係したが、
ストリートチルドレンなどを「利用」して私服を肥やす人物で
あった。我がグエンチャイ「子どもの家」も5年間近くに
わたり児童保護委員会に「子どもの家」のかなりの
部分を事務所として「乗っ取られてしまっていた。
また、「子どもの家」の入り口の門の横に「肥料倉庫」を
作り貸していた。T氏は肥料倉庫貸し代を着服していた。
夏になると肥料倉庫から「異臭」が漂い、「子どもの家」の
子どもたちの生活にかなりの困難を与えた。T氏は
子どもたちのことはほとんど頭になかった。自分の立身出世と
金もうけである。何も知らない海外からのNGOは
児童保護委員会にいく。T氏は海外NGOにうまく話し
支援金をもらうという方法を常套手段としていた。
支援金は実際には使われなかった。我が「子どもの家」は
長期間かけての闘争の結果、やっと児童保護委員会を
追い出し、「子どもの家」の全ての施設を子どもたちが
使えるように出来たのは5年ほど前である。
今回、こうしたT氏の諸行動が問題となり、解任された
というのが、地元の人たちの話である。


★フエ省「子どもの家」(現在、若干名入所)。
●チーランン通り「子どもの家」
 (1993年から95年まで私がT氏と運営。問題が多く、止めた)
その後、T氏とフランスのNGOが共同でしばらく運営していたが、
T氏の金銭的な不正、運営の独占などの問題があり、
フランスNGOは支援をやめ閉鎖した。

●THUY XUAN「子どもの家」
フエ市人民委員会とフランスのNGOが共同運営しているが、
運営責任者の人選をめぐってフランスNGOと対立。
現在、責任者がいないまま運営が行われている。
フランスNGOとフエ市人民委員会との対立が続き
正常な運営が出来ない状態である。

●XUAN PHU「子どもの家」
T氏(児童保護委員会)とアメリカのNGOとの共同運営。
T氏が「子どもの家」の施設を児童保護委員会の事務所
としてしまう。アメリカのNGOは「子どもの家」を返して欲しい
と要求。児童保護委員会は未だに「子どもの家」を
児童保護委員会の事務所として使用、アメリカNGOの
返還要求に応えていない。アメリカNGOは「子どもの家」の
運営役員などを引き上げ、支援を凍結している。
現在、紛争状況。 

こうした紛争を見ていると、私たちが作った「越日交流委員会」
という組織の大きな意義がわかる。
児童保護委員会やフエ市人民委員会などの直接的な介入を
排し、JASSが事実上独自に「子どもの家」や日本語学校、
オートバイ修理研修センターなどの運営が出来るのである。
フエ市人民委員会の一部の人たちは、未だに海外からの支援は
「利権」、金儲けと考え、自分たちの独占物と思っている。
ストリートチルドレンや障害児を利用し、自分たちの「懐を肥やす」
社会システムが歴然と存在している。
私たちの海外支援は、こうした人々との長く・粘り強い闘いが
必要なのである。
アメリカ・フランスのNGOは既に私たちは10年以上前から苦しみ、
工夫し改善の闘いをしてきた道を辿っているように思えてならない。
近日中にフランス・アメリカNGOとの交流を行う段取り。

「子どもの家」の火焔樹が先日の台風8号の影響で折れてしまった。
この火焔樹は茨城県の「青年の翼」スタディーツアーで来た皆さんが
記念に植樹をしたもの。植樹当時は1メートルほどの細い苗木だった。

「子どもの家」では、9月に亡くなった長男の義父である拝田和夫氏
の里子のチュン君が、病床の和夫氏から送られたリモコンカーで
遊んでいた。こうしてリモコンカーを使って里子が遊んで
くれることが、亡くなった和夫氏の何よりの供養になる。
チュン君はリモコンカーで遊ぶ度に和夫氏を思い出すことだろう。
遠く離れたベトナムで、故拝田和夫氏を思い出している子どもが
いる。


昼食はイタリア風「マカロニ」。かなリ太いマカロニ状のもの。
多分正式な名前はあると思うのだが・・・・。
みかんの生絞りジュース、梨。

*福田もえ子管理栄養士より名前を教えてもらう。
 「ペンネ」。ペン先のように尖っているのでそついたそうだ。
 イタリヤ語PENNEーペン先の意味(広辞苑)

昼食後、昼寝。

午後、JASS機関紙バンベーの校正。

午後4時過ぎ徒歩でベトナム事務所へ。
ベトナム事務所では、刺繍の皆さんがエドウイン商事の
仕事をしていた。

ベトナム事務所から徒歩でドンバ市場へ。
フォン川には眩い夕日が沈みかけていた。
南国の夕日。

夕食。今日で6日間、「ノンアルコール」。
肝臓を休めるのには必要な「休肝日」である。
美味しくお酒を飲むための飲酒生活の知恵・・・・・・。

投稿者 koyama : 16:22 | コメント (0) | トラックバック

2005年11月11日

税田真理子さん一時帰国へ

晴天。

午前7時、税田真理子さんが一時帰国で日本へ帰った。

税田さんは今年の5月からベトナム事務所員として活動している。
丁度半年程たったので、一時休養帰国の運びとなった。
税田さんは数年前に「子どもの家」でボランティア活動をした
京都青年会議所の一員(京都府綾部市役所から派遣)として
「子どもの家」を訪問。その後、何度か個人的にも「子どもの家」
訪問を行い、最終的に今年綾部市役所を退職し、ベトナム事務所
へ来た。今後、長期にわたりベトナム事務所を中心に「子どもの家」
や現地自立の日本人担当者として活動することになる。

朝食、フエ名物「ブンボー」。

午前8時半、パソコン修理業者がパソコン修理に来る。
午前中修理不能。

午前9時、ベトナム事務所。
今日は「ゴック・ハン」ベトナム事務所員(会計・里子担当)の
00回目の誕生日。松下さんが音頭を取ってハンさんの
誕生祝いを行う。ハンさんはベトナム戦争が一番激化した
「テト攻勢」の前年にフエで生まれている。翌年のテト攻勢
でフエは主戦場となり、1ヶ月にわたり米軍・南越軍と
解放戦線が王宮を舞台に戦った。多くの兵士と一般市民が
犠牲となっている。一説では数千人ともいわれる市民が
解放戦線によって虐殺された「フエ事件」も起こっている。
現在、ベトナムではこの事件は「タブー」となっているが、
当時の関係者などの証言で死者数は不明だが解放戦線による
大量虐殺があったことは事実である。
そんな、世情が血なまぐさい頃、ハン赤ちゃんはフエの教会の
片隅で生を受け両親の深い愛情を受けてすくすくと成長した。
1993年から95年までミンさん、ラームさんと一緒のクラスで
日本語を勉強した。
私がフエ師範大学で日本語を教えた第1期生でもある。

バオミンさん、ソン君が誕生ケーキを用意。
私が誕生ケーキを贈呈。

松下さんが集めた誕生祝の寄せ書きをソン君が贈呈。

ハンさんの誕生ケーキカット

全員の記念写真

ベトナム事務所3階では日本料理店に勤める
「子どもの家」のニーさん、グエットさんが松下さんの指導で
実践的な日本語を勉強いる。こんな会話を。
(客)ビールが冷たくないよ
(店員)申し訳ありません。すぐとりかえますので・・。

休憩時間にハンさんの誕生ケーキのお裾分けを食し、祝う。

JASSベトナム事務所のスタッフがいつも気持ちを一(いつ)にし
「子どもの家」や生活困難な子どもたち、障害児などへの
支援活動が出来るようにしたいものである。
その基礎は、ベトナム事務所の団結である。
日越両国スタッフが文化と生活経験、年齢を超えて
相互理解を深め、現地の自立のために奮闘することが
求められている。日常的に一緒に仕事をすれば、思わぬ
ところで文化の違い、国情の違いに戸惑うことがある。
これは、お互い様ではあるが・・・・。
こうしたことを乗り越えての共同の活動が必要である。
「寛容」の精神と相互理解、思いやりの気持ちが必要。


午後2時、パソコン修理業者が再度来訪。
修理中に散髪へ。徒歩15分。散髪30分。散髪屋の職人さん
全員がくわえタバコで仕事をしている。煙くさい。
2万ドン支払う。140円。

午後4時、パソコン修理終了。大筋は直ったが今までの
保存が全て消去されていた。送信メール、受信メール、
デスクトップに置いてあった資料・講演会記録等・・。
一番の痛手はメールアドレスが全て消去されていたことだ。
ベトナムでの生活体験では、一箇所直すと違うところが
壊れているということが良くある。
致し方ない。日記に写真をアップ出来るようになっただけでも
感謝の気持ちを持たねば。
メールアドレスを各所から集め登録する。

夕食は中村さん、石岡さんと。7時前に中村さんが
日本語学校上級クラスの授業へ。入れ替わりで
初級を教えている松下さんが帰って来る。雑談をしながら
夕食。

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2005年11月10日

フエ市人民委員会へ

晴天。

午前8時、フエ市人民委員会外務部へ。
ニエン外務部長と懇談。
●日本滞在中のこと。静岡市長との懇談内容等・・・
●2006年6月5日~11日までのフエフェスティバル打ち合わせ
●静岡市への環境・下水道専門家派遣の打ち合わせ
●「オアシスの会」主催ー医療船運営・フーハウ診療所の件
●児童保護委員会委員長更迭の件
●その他

ベトナム外務省海外NGO管理委員会(PACCOM)へ
出す2004年、2005年活動報告の原案を考える。骨子を書く。

函館では菊さん、川人さんを中心に「子どもの家」作品展示会が
行われている。私が函館に行った時には函館中央郵便局に
展示されていた。現在は北海道教育大学函館校の学生さんなどの
協力を得て、同校で展示会が行われている。地域で
コツコツと「子どもの家」の活動を紹介してくれている。
自分たちの出来ることを出来る範囲で活動をする、これが
ボランティアの原点である。ありがたいことだ。
「大言壮語」し人を攻撃する人もいれば、菊さんや川人さんのように
コツコツと活動を進める人もいる。
人間様々であるが、菊さんや川人さんのようになりたい
ものである。

北海道教育大学函館校での展示会
実行委員会の川人さんと教育大の学生さんたち

午後1時半から夕方までかけてPACCOMへ提出する
2004年、2005年のJASS活動報告を書きあげる。

夕方、静岡市役所国際課より電話。
フエ市人民委員会が静岡市へ出した書類の内容についての
確認。静岡からメール送信をしたが、フエには届いていない。
1時間半、パソコンの前で静岡市役所が送信したという
メールを待ったがとうとう届かなかった。
静岡市役所から再度電話。電話で内容を確認し、
直ぐにフエ市人民委員会へ連絡。フエ市人民委員会からの
答えを受けて、静岡市役所を連絡し、問題は解決した。
静岡市とフエ市の間は「友好都市」となっている。
私たちJASSは両市の交流を民間NGOとして支援する
という関係である。私たちが出来ることで両市・両国の
交流が進めばありがたいことである。
ベトナムのプロバイダーがメールをストックしている。
来年の第10回共産党大会前の措置か?
毎回共産党大会がある数ヶ月前からメールや入国問題で
トラブルが起こる。

午後6時過ぎ、夕食。
ベトナム事務所員の税田さんは明日フエを発ち、一時帰国
する。今日がフエ最後の食事。税田・松下・中村・石岡・小山
で食事。食後、松下さんは「子どもの家」の日本語クラスの授業へ。
残った4人で雑談。税田さんの無地帰国を祈る。

11月5日にフエへ戻り、教育評論・バンベー原稿・PACCOM報告書
などいくつかの大きな文書を書かなければならなかった。
今日の夕方、当面の課題となっている文書を全て書き終わりほっとする。

★月・火・水・木と4日間、アルコールを飲んでいない。偉い・・・。
 休肝日。

午後8時過ぎ、ドンバ市場で買った身の厚い「スルメ」2枚を
軽くあぶり、5ミリ角に切り醤油を少したらし冷蔵庫でねかす。
一晩置くと味がしみて美味しい日本酒のおつまみとなる。
休肝日あけに美味しくビール・日本酒を飲むために
美味しいおつまみを作っておく。何事も美味しいものを
食べるには「努力」が必要である。

投稿者 koyama : 12:11 | コメント (0) | トラックバック

2005年11月09日

忙しい1日だった

晴天。

終日晴天。真夏を思わせる暑さだった。気温30度。

札幌や函館では初雪が降ったとのこと。

●真夏のような青空

午前中、ベトナム事務所でJASS機関誌「バンベー」最新号の
原稿を書く。

ベトナム事務所3階では、松下先生が日本料理店の
店員・調理研修生になる「子どもの家」のこどもたちに
日本語教育を行っていた。日本料理店ですぐ使える
実践的な日本語を教えていた。

午後、バンベ原稿書き上げる。

「子どもの家」へ。

今日はターオちゃん(小1)、7歳(数え年・満6歳)の誕生日。
里親から送られた誕生祝いを届ける。熊の人形、絵本、
着せ替え人形など。ターオちゃんは大喜び。
家族や家庭で誕生祝など出来ないこどもたちに
とっては、思い出の誕生日となった。
年上のお姉さんたちと着せ替え人形で遊んでいたい。
他のこどもたちも一緒になって喜んでくれていた。
国情の違いなのか? 日本のようにすねることもはいない。
アジア・南国・大陸の大らかな気風が「子どもの家」にも
漂っていたい。

●ターオさん誕生祝い

「子どもの家」では午後組みのこどもたちが、庭や2階で遊んでいたい。


午後5時過ぎから夕食。夕食は魚の唐辛子煮、豚肉料理、
野菜スープ、ご飯。一人1食30円程。平均三膳ほど食べる。
多い子は5膳・・・・。



夕食全景

魚料理

豚肉料理

野菜スープ

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2005年11月08日

フエの生活に慣れる

晴天。

午前5時起床。

窓を開けると朝日が顔を出しかけていた。
例年は今頃、雨・雨・雨の季節なのだが・・・・・。
晴天でありがたい。

午前7時朝食。フォー。唐辛子とレモン(カボス様のもの)を入れる。
ヨーグルト。

メールの返事。徒歩ベトナム事務所へ。
午前中、税田さんと話す。

午前11時、昼食。フエ風ラーメン。果物は梨。

午後1時から教育評論原稿完成。1800字。写真3枚送信。
JASS機関誌「バンベー」原稿を書く。2005年8月に
「VIETNAM NEWS」(ベトナムの英字全国紙)に掲載された
JASS関連の記事の翻訳したものを日本語風に仕上げる。

その他、バンベーに書く原稿の骨子を考える。
原稿を書いている途中、トンチンカンホテルは停電。
11月2日の台風8号の被害で電気関連施設が壊れて
いるとのこと。仕方なく徒歩ベトナム事務所へ。
ベトナム事務所でバンベ原稿等の仕事をする。

午後5時半過ぎには、日が落ちる。冬が間近に来ている。

夕日のフォン川

午後5時過ぎ、「子どもの家」へ。
午後6時。夕食。クレソン、魚煮物、豆腐煮物、スープ。
デザートはりんご。

●クレソンの料理

●豆腐料理


松下さん、石岡さんは日本語学校へ。
小山、税田さん、中村さんと午後7時半まで雑談。

元レバノン大使天木直人氏のホームページを見た。
http://amaki.cc/

天木氏は私と同年齢。1947年生まれ。団塊の世代。
同世代とは言え、外務省上級職として、ある意味で
「出世コース」を邁進してきた人でもある。
こうした人が、こんな意見を持ち、日本国憲法に
これほど強い愛情と入れ込みを持っているいることに
驚きと同時に親近感を感ずる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「戦争あかん、基地いらん」に参加して

  今日(11月6日)私は大阪の平和集会に日帰りで参加してきた。集会で参加者に語りかけ、その後平和行進で皆と一緒に、「米軍基地は要らない、辺野古を返せ!」と叫んだ。その足で東京にとんぼ返りしてこれを書いている。
  私は参加者に次の三点を語りかけた。少し誇張して書くとこうなる。
1.  外務官僚として人生のほとんどを過ごした私は、平和について、そして憲法9条について、それほど真剣に考えてきたわけではなかった。しかし米国の不当なイラク攻撃や中東政策の犠牲になって死んでいったアラブの民の悲しみと悔しさを目の当たりにし、武力行使は何があっても許してはならないと考えるようになった。
官僚を離れ、さまざまな人と接し、意見を交わし、そして、世界現代史や昭和史をあらためて読み直し、今では平和主義者、護憲主義者の仲間入りをした。平和はすべてにまさる。憲法9条は世界が到達すべき究極の理想である。日本はこれを誇りにして世界に主張すべきである。これこそ、自らの体験と思索の果てに最後にたどり着いた私の信念である。誰が何と言おうと変えない、変わらない。
日本があの憲法を手にした背景には、我々の祖先の犠牲と戦いの歴史がある。我々の後に生きる未来の世代はその贈り物を共有する権利がある。その憲法9条を、たまたま今を生きているからといって、時の政治家や有識者、国民が勝手に変えてしまってよいはずはない。そんな権利は彼らには断じてない。
2.  平和憲法を守るということは、しかし、憲法改悪の動きを阻止するだけでは不十分である。現実の政治は憲法改悪阻止の動きを通り越し、憲法を否定しようとしている。
小泉圧勝のドサクサにまぎれて、日本政府が米国と合意した米軍再編への協力は完全な憲法否定である。この全く新しい日米軍事同盟が、無気力な今の政治状況の中であっさりと最終合意に至ってしまうのなら、もはやいくら憲法改悪阻止の動きを行ってもむなしい。なぜならば、たとえ憲法改悪を阻止できたとしても、それより先に日本は戦争する国になってしまうからだ。事実が先行してしまうからだ。 我々は、憲法改悪阻止の動きと並行して、いやそれよりも先に、それよりも激しく、米軍再編への協力が確定することを阻止しなくてはならないのだ。
3.  そう考えると、今我々に求められているのは、日米安保体制そのものの見直しである事に気づく。戦後60年、当たり前のように唱えられてきた日米安保体制が、果たしてこれからの日本に本当に必要なのかという問いに行き当たる事に気づく。
日米安保条約反対!といえば共産党や全共闘の専売特許のようになって一般市民に広がらない。しかしそうではない。イデオロギーとは無関係の問題である。我々ひとりひとりの生活に直結する問題なのである。それを国民に訴えていかなければならない。政治に無関心な若者に教えなくてはならない。
今の米国は誰が見ても行き過ぎた戦争国家に成り下がってしまった。その米国の軍事戦略に巻き込まれることは明らかに間違っていると思わないか。日本の美しい国土が巨大な米軍の基地に占領され続けてきた。本来ならばとっくに撤収されていなければならない米軍の基地がこれからは固定化されてしまうのだ。こんな馬鹿なことを黙って許していいのか。今こそ我々は眼を覚ますべきだ。左翼も右翼も無い。右翼、愛国者こそ声をあげてくれ。おい!石原慎太郎、中国ばっかり攻撃せずに、米国を追い出すことに声をあげてくれ。
米軍基地のない日本を考えてみよう。そこには美しい日本と無限の可能性が広がっている。いまからでもまだ間に合う。平和な日本をとりもどす運動をひろげよう。その運動の象徴として沖縄辺野古沖の基地建設に反対しよう。


以下、(天木直人氏プロフィール)


天木直人(あまきなおと)前駐レバノン国日本国特命全権大使 Naoto-AMAKI

1947年
山口県下関市生まれ。

小学校:尾道市・士堂小、伊勢市・明倫小、松阪市・第一小、
中津川市・南小
中学校:中津川第二中学、高山市、京都市北野中
高校:洛星高校(京都市)

1969年
京都大学法学部を中退し外務省に上級職として入省

69年4月
研修所入所 7月・南東アジア第二課

70年7月
米国研修

72年
オハイオ州オバリン大学卒業

72年1月
エール大学で半年間聴講生

72~74年
ナイジェリア日本大使館 書記官

74~76年
外務省 経済局総務参事官

76~77年
外務省 在外公館課

77~80年
経済協力局・経済協力第1課(現・有償資金協力課)

80~82年
在ジュネーブ 日本国政府国連代表部

82~84年
サウジアラビア日本大使館

84~85年
経済協力局技術協力課企画官

85~88年
中近東アフリカ第二課課長

88~90年
内閣安全保障室審議官

90~93年
マレーシア大使館公使

93~96年
在オーストラリア大使館公使

96~97年
在カナダ大使館公使

97~2000
在デトロイト総領事

2001年

2月から2003年8月まで駐レバノン国日本国特命全権大使

イラク戦争に反対する公電を送り小泉首相の対米追従外交を批判して「勇退」をせまられる。


以来自由な立場から講演、執筆などで言論活動を続ける

著書にベストセラーとなった「さらば外務省」(講談社)のほか「アメリカの不正義」(展望社)、「マンデラの南ア」(サイマル出版会)、「さらば小泉純一郎」(講談社)、「ウラ読みニッポン」(講談社)がある。


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2005年11月07日

フエでの仕事開始初日

晴天。

午前5時起床。
7時朝食。フエ名物ブンボー。税田さん、松下さん、
中村さん、石岡さんと一緒に。

パソコンが故障。午前中、パソコンの修理業者を呼ぶ。
結局半日かけたが修理できず。日記の写真がアップできない。

午前9時半、ベトナム事務所へ。1ヶ月半ぶり。
ベトナム事務所1階の刺繍みやげ物店には新しいスタッフが
2人か入っていた。挨拶をする。

2階のJASSベトナム事務所ではバオミン・ベトナム事務所長を
中心にしっかりと仕事をしている。
会議室で会計担当のハンさん、税田さんに日本各地の講演会
などで預かってきた「寄金」を渡す。領収書を送ってもらう。

午前11時半までバオミンさんと私が不在中のフエや「子どもの家」
などの諸情勢について話を聞く。

昼食に50分ほど遅れる。チャオバンカン(煮込みうどん)が
見事に延びていた。

午後12時半から1時半まで1時間昼寝。
午後2時から教育評論原稿。午後3時からラームさんと
フエの諸情勢などを話す。

午後4時、ベトナム事務所へ。10月22日放映された
テレビ東京「ザ・ドキュメンタリー」を皆さんに見てもらう。

午後5時過ぎから6時までドンバ市場へウオーキング。


午後6時夕食。税田さん、松下さん、石岡さんと
フエの出来事などを2時間ほど話す。

19通のメール受信。午後8時から7通のメール送信。

投稿者 koyama : 23:02 | コメント (0) | トラックバック

2005年11月06日

フエは晴天・蒸し暑い

晴天

午前5時起床。
ルーティーンとなっている血圧測定、日記アクセス数などを
記録。
教育評論2006年1月号の原稿を書く。

午前8時、徒歩ドンバ市場へ。フエは青空、晴天。
蒸し暑い。朝から相当高い湿度。ちょっと歩くだけで
体中に汗が滴る。

モーリンサイゴンホテル前のテャンティエン橋をわたり
旧市街のドンバ市場へ。寒いはずの冬でも太陽が出ると
強い日差しとなる。

●晴天のチャンティエン橋

ドンバ市場で「チャオ・バイン・カイン」を買う。4000ドン。(30円)
ねぎ、1000ドン(7円)。
ドンバ市場往復1時間の徒歩。

今日愛知県方面で放映されたテレビ東京「ザ・ドキュメンタリー」
を見た視聴者から「感動した」とのメールが届く。早速返事を書く。

帰宅後、入浴。久しぶりの入浴である。日本滞在中は風邪を引き
口内炎も併発、体調が良くなかった。
福島大学ゼミ生からもらった岳温泉の「湯の花」の粉末を入れ
岳温泉気分で入浴。
体重を測る。少し前に比べ5キロ程減少していた。

NHK衛星放送でブラジルからの「のど自慢」を見ながら
フダビール2缶を飲む。静岡の巣山さんから頂いた
手焼きしらすのり、小樽の鮭トバをおつまみに。
ブランチは温かい小麦うどん。午後2時まで昼寝。

午後2時過ぎに教育評論の続きを書く。

夕方、「子どもの家」へ。テレビ東京の取材の際入所した
リーさん姉妹の様子が気になり行って見た。

9月初旬に入所して2ヶ月ほど経っている。
もう「子どもの家」に慣れているだろうか?

リーちゃん(3年生)は元気に「子どもの家」で遊んでいた。
「子どもの家」のこどもたちともうまく交流していた。
こどもが持っている本能的な順応性に一安心。
日本のこどもだったらどうなっただろうか?などと考える。

●笑顔のリーちゃん

●みんなと一緒に


11月2日・3日台風8号の洪水は、「子どもの家」の前の
道路まで浸水したとのこと。
午後5時半、こどもたちは楽しく夕食を食べていた。

NHK記者が自分で放火をし消防へ通報しながら記事を書いていた
とのこと。「マッチ・アンド・ポンプ・アンド・ペン」。NHKは
この不祥事を知りながらしばらく発表しなかったそうだ。
今日午後2時から橋本会長がテレビで記者会見をすると聞き
中継を待っていたが、海外衛生放送では放映されなかった。
NHKのこの種の不祥事を聞いても驚かなくなった。さもありなん。
視聴料未納者には法的な手続きをすることも検討していると
新聞にあった。報道の基礎の基礎すら出来ていないで、
視聴料だけは取るというのも身勝手な発想。親方日の丸。

午後8時、フエ師範大学近くの「コムディア屋」(大衆食堂)へ
行き、夕食のTAKE OUT。ご飯、野菜2種、竹の子煮物で
5000ドン(40円)。

本田美奈子さん(38歳)が急性骨髄性白血病で亡くなった。
1990年代の初め頃、ベトナムで撮影をし、警察に拘束されたとの
記事が頭に残っている。私の弟と同じ病名である。
発病から6ヶ月で亡くなった。本田美奈子さんとは
縁もゆかりもないが、あまりにも若い逝去。ご本人も
悔しかっただろうな、やりたいことがたくさんあったのだろう
などと想像してしまう。人間の命は本当にわからないもので
ある。生ある間、充実した生き方をしたいものである。
本田美奈子さんの死を心から悼む。

投稿者 koyama : 19:49 | コメント (0) | トラックバック

2005年11月05日

ベトナム・フエへ帰る

午前4時起床。寒い。

荷物等の整理、チェック。
中野亜里先生からメール。中野先生も今朝、成田から
ハノイへ行くとのこと。
神奈川県青少年協会スタディーツアー報告集への
原稿を書き送信。

午前6時半、自宅発。
西台→巣鴨→日暮里経由成田へ。
ベトナム航空カウンターで中野先生と出会う。
成田空港で北垣奨学金など数種類の円をドルに替える。
午前10時、成田発ベトナム航空便でホーチミン市へ。
午後2時半(ベトナム時間)ホーチミン市着。思ったより涼しい。

●ホーチミン市(タン・ソン・ニャット空港)


朝のスカイライナー車中に太平観光グーさんより電話。
今日のホーチミン市→フエ便が2時間早まったとのことだった。
ホーチミン空港を急いで出て、国内線へ。
国内線カウンターで手続き。すると1時間遅れるとのこと。
結局午後4時40分ホーチミン市→フエへ。午後6時フエ空港着。

フエは蒸し暑かった。曇り空から三日月が顔を出していた。
宿舎のトンチンカンホテル着午後7時。
税田さん、松下さん、中村さん、石岡さんたちが日本料理店で
夕食を摂っていた。

私は飛行機の気圧のせいで耳がおかしくなり、自分の声が
聞こえすぎる状態。やはり相当疲れた。30分ほど休む。

フエは11月2日から3日にかけて台風8号の襲来を受けて
フオン川が氾濫、洪水となった。

1ヶ月半ぶりにフエへ戻る。不思議なものである。
12年間住むということは人間を落ち着かせる。
トンチンカンホテルに戻り「ほっと」する。
日本滞在1ヶ月半。講演会以外はほどんとどこへも
行かなかった。何か仕事に追われる毎日だった。

日本滞在1ヶ月半。日本は今、大きな転換点に立っている
ことを実感する。
各紙が第3次小泉内閣を様々に命名していたが、私は
「ハイルーヒトラー内閣」と命名したい。
小泉チルドレン=イエスマン集団に囲まれたヒトラー首相
の下、一切の批判を受け付けず、批判者は「刺客」を送り
暗殺する強権政治である。
猪口国務大臣など小泉シスターズや最後にもろくも
小泉首相に頭を垂れた野田聖子など、「強いものには
巻かれろ」という国民的な風潮が出来つつある。
アジア太平洋戦争に突入する頃の日本に似ている。
当時も軍国主義軍部が「革新」「改革」を呼号していた。
小泉首相の「改革」路線と瓜二つである。
民主主義は批判を基調とし成り立つ制度である。
日本社会は批判や異端が排除される様相を呈して来た。
民主主義が死滅しつつある・・・・などと考えながら
軽く帰国祝いの「一杯」。睡魔に襲われる。
明日は日曜日。ゆっくりと休みたい。
日本滞在中、お世話になった皆さんにお礼。
札幌、函館、小樽、京都、滋賀、福島、静岡・・・・。

投稿者 koyama : 05:44 | トラックバック

2005年11月04日

フエ「帰国」諸準備。テレビ東京放映反省会

晴天。

体調不良。風邪、口内炎。

午前中、フエ帰国の準備。買い物。奨学金準備。
太平観光北垣会長より電話。
18日間の講演旅行が昨夜終わる。
20通ほどのメールの返事を出す。

午後3時過ぎ自宅を出て神保町へ。
エドウイン與芝君と会い、ベトナム事務所の
刺繍の仕事について打合わせ。

午後6時。神保町でテレビ東京の番組「ザ・ドキュメンタリー」
の完成放映打ち上げ。
テレビ東京制作局ディレクター、フリー映像、現地取材関係者
の皆さんと10月22日放映後の反響などについて懇談する。
番組を見た視聴者から感動したとの手紙が来ていた。


午後10時帰宅。
明日朝6時半自宅を出るので、そのために最後の持ち物チェック。

      小山:2005年9月・10月 帰国日程   2005年11月5日現在

 9/21 (水) A8:30成田着 A10:30成田→新札幌 (故拝田和夫氏葬儀)
  22 (木) 故拝田和夫氏葬儀関連
  23 (祝・金)  同上  P6東京自宅着
  24(土) P4木村百合子さん一周忌集会(静岡県磐田市磐田教会)
  25(日)P1日本事務所会議
  26(月)27(火)28(水)
  29(木)通院 P1エドウイン懇談(上野丸井前)
  30(金)
10/1(土)日比谷国際協力フェスティバル
02(日)日比谷国際協力フェスティバル
03(月)P2早稲田院生 俊野さん懇談 P6:30 銀座嘉泉(星野さん懇談)
04(火)05(水) 06(木)休息
07(金)A9:30 横浜市あざみ野中学校講演会(600人)
08(土)P6 こうばこの会(南大塚ホール)
09(日)
10(祝・月)
11(火)A10:30 オアシスの会・雙葉学園(30人)
12(水)P2 NHK・久門さん自宅訪問 P4支援者打ち合わせ
13(木)P6高校クラス会
14(金)A10支援者懇談 P4:30日本女子大講演会(120人)
15(土)P1 歯科通院
16(日)P1:30火焔樹の会主催講演会(50人)
17(月)羽田→札幌
18(火)札幌
19(水)札幌→函館
20(木)P2:30 函館北高校講演会 (180人)
21(金)P6:30函館 JICA函館講演会(40人)
22(土)函館→札幌
23(日)札幌
24(月)A11:15 札幌北都中学校 (650人)
25(火)P4:20 酪農学園大学講演会(150人)
     P6懇談会(30人)
26(水)P1 札幌国際大学講演会 (150人)
     P4 父母説明会
     P6 北星学園大学講演会(150人)
27(木)札幌→羽田
28(金)柏市立柏高校講演会(1100人)
     P6 JASSツアー反省会
29(土)P2京都府長岡市講演会(50人)
30(日)A11神川さん懇談 P1:30京滋YOUの会講演会(20人)
     P4日新電気宮崎氏懇談 京都(P6:15)→東京→福島(22:38)
31(月)
11/1 (火)
2(水)P12:30静岡市長訪問・懇談 P6フエフェスティバル参加者懇談
3(祝・木)P1 静岡県・静岡の会共催講演会(50人)
4(金)フエ帰国準備
5(土)A10 成田発→ホーチミン市→フエ(19:15)

講演会 16回  3490人  

投稿者 koyama : 14:32 | コメント (0) | トラックバック

2005年11月03日

静岡県主催「世界の子どもたちと女性」講演会

終日曇り。時々雨。

昨夜は静岡の会の笠井さんのお宅泊。
午前中、笠井さん宅で休息。風邪気味。
昼前に笠井さんと静岡市女性会館へ。

静岡県男女共同参画センターとベトナムの「子どもの家」
を支える静岡の会共催の「世界の子どもたちと女性の今」
講演会。

絵本作家のこやま峰子さんと私の共同講演会。

●こやま峰子さんと私

こやま峰子さんは、私たちの会の初代代表だった
岩辺泰吏さんと一緒に読書運動である「アニマシオン」運動を
している。ボスニア・ヘルツェゴビナの地雷を扱った「地雷のあしあと」
(小学館)を著している。

会場の静岡市女性会館には「子どもの家」の子どもたちが描いた
絵が展示されていた。

午後2時から講演会が始まる。

初めに私が「子どもの家」の子どもたちや地雷・障害児を抱える
ベトナムの母親などの話をする。

続いてこやま峰子さんがスライドを使いながらボスニア・ヘルツゴビナの
地雷被害の実態を講演。

その後、こやま峰子さんと質問を受けながらの対談。

質問する参加れた方々

午後4時過ぎ終了。

その後、静岡の会会員や関係者と懇談。

関係者全員写真

午後8時前に終了し、静岡駅へ。
午後8時過ぎの新幹線で帰宅。自宅着10時。


投稿者 koyama : 09:31 | コメント (0) | トラックバック

2005年11月02日

静岡市長、静岡市邦楽ボランティア懇談

終日晴天

午前9時半自宅発。東京駅から静岡へ。
12時半、静岡駅で牧田先生と合流。
午後1時、静岡市役所訪問。
小島市長と懇談。今年4月、静岡市とフエ市JASSの仲人で
友好都市の提携を行った。小島市長、松田助役、河野局長
など静岡市の役員の方々と懇談。
来年のフエフェスティバル参加、静岡ラジオ体操連盟の
フエ訪問などの打ち合わせを行う。

●小島市長と

今年4月静岡市・フエ市友好都市提携記念式典に参加した
フエ市長より贈られた「火炎樹の種」が発芽し、育っていた。

静岡市役所訪問後、休憩。
JASS静岡の会の巣山先生、牧田先生と静岡特産の
お茶を飲みながら懇談。

午後5時半、静岡ラジオ体操連盟の理事長さんとフエ訪問の
打ち合わせ。2006年3月に30人程でフエを訪問されるとのこと。
静岡市と友好都市になったフエでラジオ体操をしたい、との
話だった。協力を約束し別れる。

午後6時、JASS静岡の会事務局長の笠井さんと一緒に
静岡邦楽ボランティアの会の方々と懇談。

邦楽ボランティアの皆さんは、2006年6月にフエで行われる
「フエフェスティバル」に参加し、琴、尺八、詩吟などを披露して
くれるとのこと。
また、静岡邦楽ボランティアの会は12月2日に静岡市で
「邦楽チャリティーコンサート」を開催する。
静岡市・フエ市友好都市定型記念・ストリートチルドレン支援の
ためのコンサートである。
共催は静岡市国際交流協会。後援は静岡市・静岡市文化協会・
SBS静岡放送・静岡新聞社。

夕食も兼ねた懇談・打ち合わせ会を終わり、笠井さんの
お宅に泊めてもらう。

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2005年11月01日

東京へも戻る

寒い1日。

新幹線で東京自宅へ戻る。
一昨日から風邪を引く。

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