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2005年10月30日

京滋YOUの会講演会

午前10時、京都駅前ホテルで京滋YOUの会事務局長の藤井さんと合流。京都駅から嵯峨嵐山へ。秋の観光シーズンと重なり、たくさんの観光客が下車。
午前11時神川さんとお会いし、藤井さんと共に昼食。
午後1時半から3時まで講演会。その後午後4時まで質疑応答。20人。終了後、日新電気の方と懇談。午後5時43分の東京行き新幹線に飛び乗る。午後8時東京着。午後8時16分東北新幹線で福島。

●嵯峨嵐山駅


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2005年10月29日

京都長岡京市講演会

午前7時過ぎ自宅を出て東京駅から京都へ。午後12時過ぎ京都駅着。京滋YOUの会の藤井さんの案内で長岡京市へ。午後2時から90分間、子どもの家についての話をする。50人の参加。

元JICAサイゴンの石崎先生と久し振りに話す。
午後6時から懇親会。20人の方がたが参加交流を深める。懇親会後、長岡京市から京都市内のホテルへ。

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2005年10月28日

柏市立柏高校講演会ーJASSスタディーツアー反省会

晴天。
11日ぶりに自宅で寝る。

午前10時過ぎ自宅を出て、都営三田線「春日」乗り換え。
大江戸線「新御徒町」下車。つくばエキスプレスに初めて乗る。

新御徒町から「柏たなか」駅まで700円。高い。

柏高校・柴田先生の努力によるもの。
午後1時20分~午後2時半までの70分間の講演。
全校生徒1100人の「人権講演会」としての授業。

午後5時帰宅。

午後6時半から今年8月に実施した「JASSスタディーツアー」
の反省会を行う。
団長の森田さん、加藤さん、山田さん。

午後9過ぎ帰宅。
明日の京都行きの諸準備。

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2005年10月27日

札幌→東京帰京

午後7時、東京自宅へ帰る。
11日間の北海道の旅だった。

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2005年10月26日

札幌国際大・北星学園大学講演会

午前9時、中島公園前のホテル発。
10時50分札幌国際大学着。担当の斎藤先生とお会いし打ち合わせ。
学長先生と懇談。
学生食堂で塩ラーメン(330円〕。

午後1時から40分講演。国際文化学科の授業。150人。その後パネル討論。午後2時半終了。


札幌国際大学は来年1月、国際文化学科の学生をフエに数週間派遣しボランティア体験・アジアを知る取り組みを行う。午後2時半から4時時過ぎまで来年のスタディーツアー参加学生と保護者の皆さんへの説明会に参加。フエの気候や生活などを説明。

説明会終了後、直ちに北星学園大学へ。北星学園大学は明治初年ブロテスタントのスミス女史により女子教育機関として創立された。
今回の講演会は大学主催、学生サークルコパンの後援。
知り合いの田淵先生の支援による。
会場には夜にもかかわらず150人もの学生や先生が来場。22日に放映されたテレビ番組の一部も上映。一時間半の講演会を行う。終了後質問も。午後8時半過ぎホテルへ。

★学生サークル コパンの皆さん

北海道での全ての講演会を終える。明日帰京。

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2005年10月25日

酪農学園大学講演会

午前中、中島公園散策。
午後、2時過ぎ江別市にある酪農学園大学へ。ここは雪印乳業を作った黒澤酉蔵が1933年に創立した北海道酪農義塾が発展したもの。
今回の講演会は酪農学園大学四年生の岡本真歩さんが企画し同大学の高橋一先生、吉野宣彦先生の協力を得て実現したもの。午後4時20分から6時までNPO・NGO論の授業をする。学生が作っているFACE(社会を考える学習団体〕も共済。約150人の参加。講演会終了後参加者と懇談会。約30人の学生と話し合う。私の学生時代と同じような雰囲気が少し漂う。意欲・問題意識のある学生の存在に嬉しさを感じる。帰宅懇談会9時半。夜は一層冷え込む。

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学生と懇談
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2005年10月24日

札幌市立北都中学校講演会

午前9時、札幌中島公園のホテルを出て地下鉄で札幌へ。札幌からJRで平和駅。平和駅には札幌市立北都中学校の長谷川先生が車でむかえに。午前11時20分から午後12時40分までベトナム・ボランティアなどについて話す。620人の生徒、先生方、保護者の皆さん総勢650人。話のあと生徒からいくつもの質問があった。しっかりと話を聞いて質問をしてくれる。嬉しいことである。午後2時半ホテルへ戻る。講演会の様子を写真に撮る機会を失する。

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2005年10月23日

小樽から札幌へ

小樽で法事。夜、小樽から札幌へ。

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2005年10月22日

函館から小樽へ

函館は雨。
函館から小樽へ移動。

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2005年10月21日

JICA函館講演会

終日晴天

午前中函館朝市場、立待岬。午後4時 半、菊先生・川人先生がホテルに迎えに来てくれる。午後6時半、函館JICA主催 の講演会。40人の参加。子どもの家の子どもたちの絵画展も開催されていた。

講演する小山
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ライトアップされたハリストス正教会
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2005年10月20日

函館北高校講演会

午前中、川人先生と函館国際センターヘ。函館JICA講演会の打ち合わせ。
昼 菊清美さんと合流し昼食。
午後1時45分、函館北高校で講演会。1年生中心に180人。

夕方、函館に登り夜景堪能。


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2005年10月19日

札幌から函館へ

札幌から函館へ移動

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2005年10月18日

札幌

晴天。
札幌の最高気温13度。
時計台、中島公園散策。

札幌は紅葉が始まっていた。温暖化もあり今年の紅葉は遅いそうだ。


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2005年10月17日

,北海道へー小泉首相の靖国神社参拝に抗議する

雨。

午前10時に自宅を出て、羽田→新千歳へ。
今日から10日間、札幌、函館で講演会。

小泉首相が靖国神社を参拝。
姑息にも拝殿に上がらずに参拝するとのこと。
小泉首相としての参拝には「違憲判決」がでている。
私的・一般参拝客の振りをしての参拝は姑息なやりからである。

これほど、「国益」を損ねる行為もない。首相の靖国神社への
参拝には反対である。アジア各国からの反対、国内の
世論の批判もある。東条英機などA級戦犯も合祀されている。
海外での首脳がヒトラーやムッソリーニを参拝したらどうなるかを
考えれば、自ずから結論は出ると言うもの。これで、中国、韓国・北朝鮮、
ベトナムなどを含めて、多くのアジア諸国との関係が難しくなる
小泉首相の個人的趣味で国益が損なわれることを憂う。
首相関係・政府・外務省などの中にも「反対」の気持ちをもつ
良識的な人は多いと思う。

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2005年10月16日

茨城・火炎樹の会講演会

朝から雨。

朝、かぼちゃの甘辛煮を作る。

午前10時、自宅を出て巣鴨経由上野へ。上野から土浦へ。
土浦駅から茨城県南生涯学習センターへ。

午後1時半から火炎樹の会主催・土浦市教育委員会後援の
講演会。テーマ「子どもたちと見る明日」。
50人の参加。


初めに火炎樹の会森島代表の挨拶。

途中、震度4の地震があり中断。

90分の後援のあと、火炎樹の会からJASSへ寄付金。
74739円。

横島さんの閉会挨拶。


会場には福田もえ子副代表、松下さんなどの姿もあった。

午後5時から地元で反省交流会。

今年の8月、「子どもの家」を訪問した千葉の大学生も参加。

午後9時20分土浦発の列車で上野経由自宅へ。
自宅着10時過ぎ。

「ベトナム戦争の戦後」(中野亜里著:めこん)読了。
読み応えのある本。この12年間読んだベトナム関連の本では
私にとって一番インパクトの強い本。読後感は後日。

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2005年10月15日

歯科医院

終日曇天。

午前中、メールの受信・送信。
明後日から10日間の北海道行きの準備。
明日から3週間、札幌・函館・京都・静岡での講演会。

16(日)P1:30火焔樹の会主催講演会(茨城県・土浦市)
17(月)羽田(13:00)→札幌(14:30)
18(火)札幌
19(水)札幌→函館
20(木)P2:30 函館北高校講演会 
21(金)P6:30函館 JICA函館講演会
22(土)函館→小樽
23(日)小樽→札幌
24(月)A11:15 札幌北都中学校 
25(火)P4:20 酪農学園大学講演会
26(水)A10:30 札幌国際大学父母説明会
    P1 札幌国際大学講演会 
    P6 北星学園大学講演会
27(木)札幌(16:30)→羽田(18:00)
28(金)柏市立柏高校講演会《人権》
     P6 JASSツアー反省会
29(土)P2京都府長岡市講演会
30(日)A11神川さん懇談 P1:30京滋YOUの会講演会
    P4日新電気宮崎氏懇談 京都(P6:15)→東京
31(月)
11/1 (火)
2(水)P12:30静岡市長訪問・懇談 P6フエフェスティバル参加者懇談
3(祝・木)P1 静岡県主催講演会
4(金)フエ帰国準備
5(土)A10 成田発→ホーチミン市→フエ(19:15)


午後1時45分 歯科医院。
「ベトナム戦争の戦後」を読む。

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2005年10月14日

支援者懇談→日本女子大講演会

晴天。

午前10時~午後12時半まで支援者と懇談。
午後2時半、日本女子大人間社会学部教育学科講演会へ。
新宿から小田急線で向ヶ丘遊園へ。途中、中野亜里先生の
『ベトナム戦争後の戦後」』を読んでいたら乗り越し新百合丘
まで行ってしまう。向ヶ丘遊園から日本女子大までスクールバス
が出るとのことでしばらく待つ。
スクールバスで日本女子大生田校へ。小高い山の中腹に
ある。人間社会学部(2000人)、付属中・高校がある。

今回の講演会は8月に地球の歩き方ツアーで「子どもの家」を
訪問した佐藤さんが、大学と交渉し実現したもの。

午後4時半から6時過ぎまで人間社会学部教育学科の
授業(120人)を行う。

VTRなどを使いながら90分間の授業を行う。
佐藤さんという一学生の勇気があり、ベトナムスタディーツアー
へ参加。また、佐藤さんとういう学生が学校へ掛け合い
私の講演会が実現した。「今時の若者」などと知ったかぶりを
する評論家に見てもらいたいものである。
今、日本ではこうした若者が確実に育ってきているという
事実である。佐藤さんのような若者に日本の未来を託しうると
いう確信を持った一日であった。
帰りのスクールバスを待つ間「虫の鳴き声」を聞く。秋である。
「秋来ぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞ
おどろかれぬる」の世界である。

午後9時、自宅へ戻る。

小樽から私の大好きな「いくらの醤油漬け」が送られてくる。


早速、いくらの醤油漬けをさかなに「佐藤さんに感謝」の
気持ちを込めて吟醸酒を飲みながら「一人乾杯」。
疲れが取れる。

「ベトナム戦争の戦後」(中野亜里著)60%を読む。

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2005年10月13日

通院→高校同級生会

終日晴天。

午前8時半、自宅発。都庁前の榊原クリニックへ。
心電図、心臓エコー、血液検査、診察、投薬。しめて1万円。
うーん、高い。心臓とは20年の治療付き合い。

都庁が秋空を突き刺すように聳えていた。異様な高さに見えた。

一度帰宅。15通のメール受信。18通の送信。

午後5時、再度自宅発。上野へ。高校同級生会。
43年前に偶然同じクラスになった仲間。3年間同じクラス
だった。入学から遠足・・・の写真を持ってくる。
確かにみんな若かった・・・。
ベトナムへ行った一行と豆腐料理。二次会は銀座ライオン。
帰宅午前0時半、何とか家へたどり着く。飲みすぎ。

●ベトナムツアー参加者①

●ベトナムツアー参加者②

●安曇野にいる田中さん(ベトナムツアー参加)より秋の絵手紙


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2005年10月12日

久門さん訪問→院生懇談

終日晴天。

午前11時自宅を出て都営三田線西台→三田→都営浅草線横浜
→相鉄本線希望が丘。(2時間半)
3年前から仲介している「久門ーNHK奨学金」の原資を提供して
いる久門さんのお宅を訪問し、奨学金のお礼を伝える。
久門奨学金は戦前の朝日新聞記者だった久門氏の意思を生かし、
奥さんが氏の死後設立した奨学金である。NHKに500万円の
寄付をし、NHK厚生文化事業団より私たちに話があり、奨学金が
実現した。久門氏は戦前朝日新聞記者としてベトナムの取材を
何度もおこなったそうだ。
 その中でフエの印象が一番強かったそうで、亡くなる前に
フエの思い出をたくさんか語っていたとのこと。夫の死後、
奥さんの希望でNHK厚生文化事業団に多額の寄金があり、
「ベトナムの若者に役立つ事業に使って欲しい」とのことだった。
NHK厚生文化事業団は、HPなどで私たちのフエでの取り組みを
知り、久門さんの話が具体化された。
過去3年間の約300人の児童・生徒・学生に奨学金が支給された。
船上生活の小学生(フールー小学校)、グエンフエ高校やヤーホイ
高校・・・・・。
2005年9月からは最終年度が始まった。2006年8月で当初の
予定である4年間の奨学金支給が終了する。
久門さんは体調を崩され、入院されていたが、今日は自宅で
私たちに応対してくれた。
NHKの担当の方も同席された。

見ず知らずのアジアの貧しい子どもたちに奨学金を支給するという行為は
素晴らしいことである。偉そうななことを言う人は多いが、こうした地味では
あるが、実際に人間を育てることに力とお金を注ぐ行為は本当に
立派なことである。

セレブとか勝ち組などと「お金」と贅沢がもてはやされるご時世である。
久門さんの生き方を見習いたいものである。「言うは易し、行なうは
難し」。

1時間半ほど、久門さんのお宅で懇談。急いで相鉄本線の
「希望が丘」から横浜→東京→上野へ。
午後4時過ぎ、千葉大学院生のNさんと合流。大学院修士論文について
懇談。

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2005年10月11日

オアシスの会講演会

終日、曇天。

午前8時半家を出て四ッ谷駅へ。オアシスの会の大塚さん、
田畑さんと合流。
「幼きイエス会」修道院へ。ここには学校法人雙葉学園がある。
雙葉小学校・中学校・高等学校が併設されている。
現皇后の美智子さんもこの学校の卒業生とのこと。
オアシスの会は雙葉高校15回卒業生の有志で作った国際支援
ボランティア団体。

午前10時半から午後12時までの1時間半、同窓生、先生、
関係者30人に「子どもの家」の活動を話す。

午後12時過ぎから昼食を頂きながら、今後のオアシスの会の
ベトナム支援について打合わせ・相談をする。
オアシスの会は「芝の会」にも参加し、フエに幼稚園をいくつも
建設し、1998年には大塚さんがフエの幼稚園で支援活動
を行った。
オアシスの会はフエの「船上生活者」に医療支援を始める。
JASSベトナム事務所が現地の窓口となり、フエ市人民委員会
との協力でオアシスの会の支援事業を行う。
オアシスの会支援が、船上生活者の健康保持、生活向上に
つながるよう私たちも努力した。

午後4時、自宅へ。 
家に帰ると中野亜里先生編著『ベトナム戦争の「戦後」』(株:めこん)
が届いていた。私の知っている範囲では、1975年に終わった
ベトナム戦争以後の状況・諸問題を主に扱った本はないように思う。
かなり厚い本ではあるが、大いに興味のある内容である。
これからじっくりと読むことにする。
出版社「めこん」は(03-3815-1688)。


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2005年10月10日

葉書・メール書き

終日雨。寒い。

朝起きて急にのり巻きが食べたくなる。
午前中、「のり巻き」を作る。
茨城の新米を3合炊く。寿司酢としゃもじで切るように混ぜる。
玉子焼き、きゅうり、雑魚煮(じゃこに)、ツナ缶とマヨネーズを
具にする。

まき簾(まきす)に酢飯を薄くのばし、具を手前に置く。
まき簾(スダレ)で巻く。のり巻きの真ん中に具を入れるのが
難しい。
海苔は小樽の海苔。新米と酢は合わないそうだが、
美味しく出来る。

妻と二人で試食。酢の味と海苔の香りが口で混ざり美味。

その後、10月22日放映される「テレビ東京」の
「ザ・ドキュメンタリー」の案内の葉書(20枚)を書く。
日本事務所に登録されていないメールアドレス30通にメールを送り、
10月22日のテレビ放映を見てもらうように依頼する。

夕方、葉書き出しと買い物。

夜、静岡の巣山さんから頂いた静岡岡部町初亀酒造「瓢月」(吟醸酒)を飲む。
手作りのスルメと雑魚(じゃこ)の煮物をおつまみに。
「砂糖」「「みりん」という料理の「邪道」を一切廃棄し、醤油とだし汁だけ
の単純な味にする。最近の食べ物はやたらに砂糖やみりんが混入して
いて美味しくない。
少し柔らかくなった出汁の入ったスルメと雑魚煮は、日本酒にぴったり合う。
日本酒がすすむ。すすみ過ぎ・・・・。


今日は朝から夜までテレビ放映の案内書きで終わる。

早船ちよさんが亡くなった。中学生の頃、近くの映画館で
「キューポラのある町」を見た。1950年代の日本。
貧しさの中で生き行く子どもたちの群像があった。
1962年、私が中学2年の頃の日本は「キューポラのある町」
が子どもたちの「娯楽映画」になっていたのだ・・・。
この40年間で日本人の感性がいかに貧弱になったことか・・・。

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2005年10月09日

自宅ーホワイトバンド運動を考える

終日雨。寒い。

午前中、メール受信。返事を出す。
ブランチ。

午後、教育評論12月号推敲完成。送付。
関係者に手紙を書く。

「欲望」と資本主義の続きを読む。

夕方、買い物。往復1時間徒歩。

数日前の朝日新聞投書欄に「ホワイトバンド」についての投稿が
載っていた。アフリカへの支援を呼びかけながら、直接アフリカへの
支援はしないで、「啓発」をするということへの疑問である。

あるHPにも「ホワイトバンド」運動への疑問が出されていた。
今日、改めて「ホワイトバンド」についてのHPを検索した。

http://www.hottokenai.jp/

水泳の北島などがトップ画面に載っている。HPを細かく読んで見る。
私の疑点は唯一つ、300円のホワイトバンド購入費用は何に
使われているのか、という点である。

「ほっとけない 世界の貧しさ」キャンペーンによると売り上げの
30%にあたる収益金を何に使うかは協議中とのこと。

以下、表記HPにある寄金の使い途についての部分。

『ホワイトバンドの売り上げも、このキャンペーンの重要な資金源となっています。現在、売上の3割にあたる「世界の貧困をなくす活動費」の部分の使い方について、キャンペーン実行委員会とホワイトバンド・プロジェクトで慎重な話し合いを重ねていますが、これは「貧困を根本からなくすために最も効果的な方法」に活用していく計画です。特に2005年G-CAPのメッセージである「お金ではなく声をください」の趣旨に合致した、貧困をなくす政策を先進各国が採用するためのはたらきかけに使っていく予定です。その一環として、キャンペーンの新聞広告、9月10日のホワイトバンド・デーのイベントなど、実際のキャンペーンの活動にも活用していきます。この点については、ホワイトバンドFAQもご参照ください。
実際の売り上げの会計情報は、ホームページ上で公開し高い透明性を確保していきます。ホワイトバンドの販売が開始されたのは7月初旬ですので、売り上げの代金がホワイトバンド・プロジェクトに届きはじめるのは9月以降です。キャンペーンの終了予定である2005年12月末時点での会計報告を、2006年3月までに公開する予定です。また、経過報告も予定しています。』

となっている。また、ホワイトバンド運動は「貧困をなくす政策を
先進国が取るように働きかけること」が目的とされている。

キャンペーンでは次のように言い、寄付金は現地への直接の寄付ではなく
先進国に「政策の転換」をさせる費用とするとしている。

『「貧困を根本からなくすために最も効果的な方法」に活用していく』と。

『世界的な貧富の差が拡大しています。モノをつくっても公平に取り引きしてもらえなかったり、返済不可能なほどの借金を背負わされていたりすることで。
この貧困は人災です。克服することができます。
そのために必要なのは「貧困を世界の優先課題とすること」です。
20年前、アフリカ救済イベントで280億円の寄付を集め、
喜んだのもつかの間、それがアフリカでは先進国への債務返済に一週間で消える額でした。
寄付だけでは、貧困のスピードに追いつけないのです。
みんなの意向を集めて、政策を引き寄せなければ。』

アフリカに支援金を送ったり、直接貧困で苦しんでいる人々へ
支援金を送ることを目的とはしていない。飽くまで先進国の
政策転換を行うための啓発活動に使うとしている。

私自身はベトナムに来るスタディーツアーなどと話す時には
ホワイトバンドについて肯定的な評価をしている。
アフリカの貧困に目を向けて、貧困を撲滅する運動自体は
評価している。
しかし、今、ホワイトバンドをすることが若者の間では
一種のファッションのようになっている。これらの若者などが
果たしてこのキャンペーンが目指している「先進各国の
政策を変える運動」であることを理解しているかというと
疑問である。
若者やホワイトバンドをしている多くの人々は
ホワイトバンド300円の中からいくらかは、アフリカの
子どもたちに届くものと思っている。テレビ宣伝でも
「3秒間に一人の子どもが死んでいる」といい、あたかも
ホワイトバンド寄金で子どもたちを直接助けるかのような
宣伝となっている。

実際には、ホワイトバンド運動は直接アフリカへ寄付金を
送る運動ではなく、先進国に政策を転換させる運動なので
ある。これは、「政治を変える」政治運動でもある。
各国の政策を変えるという課題は至って政治的なものである。
現実にはブッシュ大統領の「先制攻撃論」で世界の一国支配
をめざす新保守主義の流れがある。こうした政府の政策を変えると
いう大きな課題に挑戦することは意義のあることだが、同時に
大きな課題であり、「学習」「知ること」「知識」が必要である。

寄金を頂く場合には、
①その目的を明確にし、
②使い途を明らかにして
寄金を呼びかかることは、NGOの最低の任務だと思っている。

今回のホワイトバンド運動は、寄金を頂くNGOの最低の責務である
寄金の目的と使途の明示化が極端に不足していることである。
つまり、直接現地に寄付をするのではなく、各国内の政府や
先進国の「政策を変える」ことやそのための啓発に使うということの
宣伝が足りないということである。協賛団体すら未だに明示されていない。
(HPでは近日中に明らかにするとしているが・・・)

また、使途については、現在検討中とあるが、寄金を呼びかけるのでは
あれば、何にどのように使うかを明らかにしないで、お金を集めるのは
間違っているといわざるを得ない。
今回のキャンペーンの最大の眼目である「先進国の政策を変える」
という課題の道筋する示していないままの募金活動である。
いくらアフリカや世界の貧困をなくすキャンペーンだと言っても
寄金の目的の宣伝が不足し、使途は未だに検討中という
活動の仕方には、疑問を感じずにはいられない。
貧困をなくすという立派な取り組みだからと言って、NGOや
ボランティア活動への批判を控えるのは間違っている。
無批判からは腐敗しか生まれない。
このキャンペーンで動く何億円という大金がどのように流れ
何に使われるのかを明らかにしないままでの募金は「怪しい
キャンペーン」になってしまう。


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2005年10月08日

上野へ散策

朝曇り。昼間晴れ。

昼前に家を出て妻と上野公園散策。
夏を思わせる暑さ。土曜ということもあって多くの人出。
帰りにアメ横でスルメ7枚(1000円)、シラス干し(500円)
を買う。市販の6割程度の値段。

夕方帰宅後、スルメを1センチ角に切り、少量のだし汁、こぶ、
醤油に漬け込み冷蔵庫で熟成させる。一晩たつとスルメが
柔らかくなり日本酒のおつまみに最適。

シラスはお湯で塩抜きし、少量のだし汁と醤油で時間をかけて
汁がなくなるまで煮る。シラスに醤油とだし汁の味がしみて
ご飯の付け合せに美味しい。

『「欲望」と資本主義』(終わりなき拡張の論理)佐伯啓思著:講談社
読み始める。

2005年度ボランティア貯金中間報告書完成。
関係者に送付。

夕食、次男の誕生祝。
ニュージランドのレディーさんからお祝いの電話。
スルメとシラスをおつまみに静岡の巣山さんから頂いた日本酒
を飲む。

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2005年10月07日

横浜市立あざみ野中学校講演会

朝曇り。日中晴天。夕方雨。

午前3時起床。読書。
午前5時半朝食。午前7時前に自宅を出る。
西台→巣鴨→渋谷→(田園都市線)あざみ野駅。
片道2時間弱。
午前9時前にあざみ野駅着。日本事務所員の
田山さんと合流。徒歩で横浜市立あざみ野中学校へ。
学校には既に日本事務所の森田さんが来ていた。

横浜市立あざみ野中の全校生徒は600人。
午前9時10分から講演会。1時間。

午前10時半講演会終了。

とても真面目な生徒さんたちだった。質疑。その後、生徒代表から
花束贈呈。校長室で懇談。田山さん、森田さんも一緒に。

あざみ野駅まで田山さんの車で送ってもらい、田園都市線で
渋谷へ。午後1時過ぎ、自宅着。

何故か今日は疲労困憊。帰宅後、昼食を摂らず横になる。

「巨人軍に葬られた男たち」(織田淳太郎著:新潮社 OH文庫)読了。
今回の堀内監督と原新監督の「巨人内の人事異動」(ナベツネ言)
騒動を見ていてもこの球団の腐敗状態は深刻かつ歴史的なもの。

巨人軍は強くあれ
巨人軍は紳士たれ
巨人軍はアメリカ野球に追いつけ、そして追い越せ
(巨人軍の創始者 正力松太郎)

その裏で人生を棒に振った多くの男たちがいた。

スポットを浴びた長島茂雄の影で人生を棒に振った難波昭二郎。
自殺に追い込まれた湯口敏彦。巨人から追放された王貞治。
こうした人々がどのように巨人軍で生き、自殺し、人生を棒に振り、
怨念を持って今も生きているのかのドキュメントである。
清原も江藤も小久保もその一人かも知れない。

午後5時過ぎ、歯科へ。歯肉が老化のために萎縮し
歯根が露出。痛みを感じる。これから4回ほど通院し治療。
今日は、歯根露出部分にバリアーを付ける。
日本滞在中に出来るだけ体の治療をしておきたい。

夕方、買い物。
さんまが安い。1尾80円。3尾200円。
1尾は塩焼き。2尾はしょうが煮にして保存。
塩焼き1尾は妻と半分ずつで丁度良い量。
2尾は数日保存できる。
しょうが煮の作り方はインターネットで検索。簡単に調理できる。
里芋7つで99円。蒸して「きぬかつぎ」にする。

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2005年10月06日

耳鼻科ーベトナム航空へ

終日・曇天。

午前中、耳鼻科。溶解した耳垢を取る。ピンセットで取るのか
と思ったら機会で吸引。よく聞こえるようになった。この3日間は
右耳が全く聞こえない(完全に溶解した耳垢で詰まっていた)
状態だった。人間は左右対称の生活に慣れてしまっている。
右耳と左耳とから同時に音が入ってくる生活に60年近くも
慣れてしまうと、片方だけの音の生活は以外に不便なことを
体験した。老後の疑似体験と言ったところ。とにかく、聞こえるように
なり、明日からの講演会できちんと声が出せるようになったので
一安心。

教育評論12月号推敲。必要な写真も選ぶ。
2005年ボランティア貯金中間報告書加筆修正。
バオミンさんに添付資料としての写真を1枚追加依頼。

午後3時、霞ヶ関大同ビルにあるベトナム航空に行く。
2005年1月15日にホーチミン市でパスポートの盗難に遭う。
その際、パスポートに入れてあった帰りの航空券も盗難。
直ぐにホーチミン市警察に盗難届けを出し、ベトナム航空の
ホーチミン市支店で盗難の諸手続きを行う。新しい航空券
を買い日本へ帰国した。帰国後、ベトナム航空の日本支社
(霞ヶ関)へ行き、盗難航空券の払い戻し手続きを行うが
1年後に手続きを受け付けるとのことだった。その際、
必要な書類を言われ準備をした。それから1年半たった。
今日、改めてベトナム航空日本支社(霞ヶ関)まで行き、
払い戻し手続きを行うが、必要な書類が違うといい、受付すら
出来ない。1年半前にベトナム航空日本支社の00という担当者
が言った書類を全て用意したのに何故駄目なのか・・・との
やり取りが続く。結局、ベトナム航空日本支社の係りの人は
「上司に相談する」「今日は書類を置いて帰って欲しい」とのこと。
しかたなく帰る。帰りの地下鉄内幸町ホームに電話。
上司が書類は問題ないと言っている、支払いは3ヶ月後になる、
とのこと。いやはや大変な航空会社ではある。
単純な払い戻しという手続きに1年。払い戻しというこれまた
単純な手続きに3ヶ月もかかるという。ベトナム航空支店は
東京・大阪・福岡・名古屋にしかない。これらの都市住民
でない人は大金をかけてこれらの都市に出て行くのか?
片道航空券の払い戻しにこれほどのエネルギーを求める
ベトナム航空。これでは、世界に通じないなあと考えながら
帰宅する。午後5時過ぎ。

「人間(じんかん)宣言」(住井すゑ・永六輔)読了。
光文社:知恵の森文庫

人間の縁とは不思議なものである。
永六輔が新国劇を勉強したくて1年半ほど和歌山へ行き、
澤田正二郎を良く知っているお爺さんの家へ泊まり
当時の話を聞いたそうだ。その人が「水平社宣言」を
書いた西方万吉(さいほう まんきち)氏だったそうだ。
西万万吉と住井すゑは仲良しでよく住井すゑは西方の
家へ泊まりに行ったそうだ。
西方は、大正11年3月3日の「全国水平社創立大会」の
宣言を起草したが、戦前、天皇制を認め「転向」。
戦後、永六輔が通った頃は部落解放同盟からも
その他の部落問題の関係者からとも疎遠になっていたとのこと。
住井すゑは差別の根源に天皇制があるしている。
西方が戦前天皇制を認めたことを是認した上で、西方を高く
評価している。人間は様々な主義主張を持っている。
そうした主義主張・宗教など思想の更に根底には
人間はみな平等、人間に対する根源的な愛情があるということを
二人は説いているように思う。保守主義であれ社会主義であれ
共産主義であれ、その根底に人間平等・人間への根源的な
愛があることを強く訴えていると私は読んだ。
(続きを読むに「全国水平社創立大会」の宣言)一読の価値あり。
永六輔・筑紫哲也はこの宣言が、日本の人権を
書いた宣言の中で一番素晴らしい文章だと述べている。

住井すゑの尊敬する人間はただ一人だそうだ。
アナーキストの幸徳秋水である。井上陽水は幸徳秋水
の遠縁にあたるそうだ。この一族は名前に「水」をつける
とのこと。

明日の横浜市立あざみ野中学校講演会の講演内容準備。
ビデオ等調整。明日は7時過ぎに自宅を出る。

明日は5時起床。6時半朝食。朝食用の味噌汁を作っておく。
ジャガイモと玉ねぎの味噌汁。


宣言

全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ。
長い間虐(いじ)められて来た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる
方法と、多くの人々とによってなされた吾等(われら)の為の運動が、
何等の有難い効果を齎(もたら)さなかった事実は、夫等(それら)の
全てが吾々によって、又他の人々によって毎(つね)に人間を冒涜され
ていた罰であったのだ。そしてこれ等の人間をいたわるかの如き
運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた事を想えば、此際吾等の
中より人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集団運動
を起こせるは寧ろ(むしろ)必然である。
 兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇仰者(かっこうしゃ)であり
実行者であった。陋劣(ろうれつ)な階級政策の犠牲者であり男らし
き産業殉教者であったのだ。ケモノの皮剥ぐ報酬として、生々しき
人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代価として、暖かい
人間の心臓を引き裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけ
られた呪われの夜の悪夢のうちにも、なお誇り得る人間の血は
、涸れずにあった。そうだ、そして吾々は、この血を享けて人間が
神にかはろうとする時代にあるのだ。犠牲者がその烙印を投げ
返す時が来たのだ。殉教者が、その荊冠(けいかん)祝福される
時が来たのだ。
 吾々が、エタであることを誇り得る時が来たのだ。
吾々は、かならず卑屈な言葉と怯だなる行為によって、祖先を
辱め、人間を冒涜してはならない。そうして人の世の冷たさが
、何に冷たいか、人間を()る事が何であるかを良く知っている
吾々は、心から人生の熱と光を願求礼賛(がんくらいさん)する
ものである。
 水平社は、かくして生まれた。
人の世に熱あれ、人間に光あれ。

大正11年3月3日

全国水平社創立大会

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2005年10月05日

自宅で仕事

終日雨。寒い。

午前中、メールへの返事。

午後、「2005年度ボランティア貯金中間報告書」作成。
ほぼ完成。今週中に資料としての写真も添付し提出予定。

日本事務所・加藤さんから電話。

教育評論12月号ほぼ書き上げ。

メール受信13通。送信8通送信。

オートバイ修理研修センターに大使館からODA支援申請の
実情調査に。ニエンさん、ミンさん、税田さん対応。
現地調査で問題がなければ、縫製工場建築支援の
ODAが支出される予定。

右耳が全く聞こえない生活と言うのは結構大変。
老後の生活の一端を垣間見た思いがする。
ただ音が聞こえないだけでなく、身体全体の感覚が狂う。

全JASS代表の上田さんから電話。

福田もえ子家からもらった「茨城新米」を食べる。
今日で4食目。米が立っている。光と艶と香り。
美味しい。ベトナムの長粒米も美味しいがやはり
日本米もうまい。小樽でもらった海苔に醤油をつけて
ぬか漬けで新米を食べる。

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2005年10月04日

耳鼻科通院

終日曇天。夕方小雨。

午前中、高島中央病院耳鼻科へ。総合病院のためもあるのか
たくさんの患者がいた。特に老人。

2ヶ月ほど前から右耳の調子が悪い。自分の声が大きな音となり
話が出来なくなることが良くある。声がかすれる。
耳鼻科の診察。喉に軽く麻酔をかけ内視鏡で診断。
大きな問題なし。
耳は「耳垢」が固まっていた。耳垢をあまり頻度多く取ると
かえって耳垢を奥へ追いやり固まってしまうとのこと。体質にも
よるそうだ。固まりが強く薬で溶かして取ることになった。
2日間目薬のような薬を耳に注入し、柔らかくしてから取る。
耳に水溶液の薬を入れると耳垢が膨張し、右耳は完全に
音なし状態。
片耳が聞こえなくなって色々な体験をした。テレビの音は
後ろから聞こえるようになる。買い物に出る。右耳は
セミの鳴き声のような音が聞こえ、静寂。不思議な光景。

午後、ボランティア貯金中間報告作成。
教育評論12月号加筆。

15通のメール送信。

静岡の巣山さんからお酒を頂く。
新潟「越の誉」樽酒。小樽の海苔をおつまみに飲む日本酒は
美味しい。こもかぶりの樽の香りがする。


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2005年10月03日

新橋ー銀座で懇談

終日、曇り。

午前中、教育評論原稿書き。
午後12時自宅発。午後2時、新橋で大学院生と懇談。
午後6時、銀座まで徒歩。上尾の星野さん経営の
銀座嘉泉で会食。
帰宅午後11時。

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2005年10月02日

「グローバルフェスタJAPAN2005」第2日目

ベトナムでの活動がテレビで放映予定

2005年10月22日(土)午後1時55分
テレビ東京系(1都6県)

晴天。気温31、7度。暑い。真夏状態。

日比谷公園で行わた「グローバルフェスタJAPAN2005」
の第2日目。

たくさんの人々が参集。会場は混雑で歩けないほど。

物品販売は会場も工夫で広くなった。若林さん、中村さん
原田虎太郎君が販売員。刺繍、ベトナム物産などを
JASS活動を紹介しながら販売。昨日は数万円の
売り上げがあったとのこと。暑い中本当にご苦労様。

フエ名物の米うどん「ブンボー」とベトナムコーヒー販売は
次から次とお客が来る。
今回の日比谷イベントの総責任者である福田もえ子さんを
中心にたくさんの人たちの協力で販売が行われた。
地球の歩き方ツアーに参加した人、JASSツアー参加者。
千葉県立八街高校卒業生、日本事務所員・・・・。

八街高校卒業生の渡辺君から八街名物の「落花生」をもらう。
4年前に千葉県立八街高校の「国際ボランティア養成講座」で
海外ボランティアを教えた。3年前、機会があって八街市長と
会食をした。その時初めて「塩ゆで落花生」を食べた。
その後、静岡市でも同様の落花生を食べた。
早速、家で塩茹で落花生を作ってみた。
甘く美味しい。


昨日から耳がおかしい。飛行機で時々なるような
自分の声が大きく聞こえ、自分がどの程度の大きさの声を
だしているのか分からなくなった。今日も朝から同様の症状。
人と話が出来ない。最近ベトナムでも同様の症状が出る。

しばらく日比谷公園に。北垣さん、地球の歩き方ツアー参加者
などと懇談。

夕食はぬか漬け。今日は30度を越えた夏日。ぬか漬けも
早く漬かりすぎた。


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2005年10月01日

日比谷公園「グローバルフェスタJAPAN2005」

ベトナムでの活動がテレビで放映予定

2005年10月22日(土)午後1時55分
テレビ東京系(1都6県)

晴天。

日比谷公園で行わた「グローバルフェスタJAPAN2005」に
参加。後援は日本政府、民放連、MHK、日経連、東京都・・。
今日、明日で20万人参加予定とのこと。
約200の海外ボランティア団体が参加している。

私たちJASSは物品販売・JASS説明ブースとブンボー販売ブース
の二つを出店。

物品販売ブースでは、刺繍みやげ物店で作った刺繍作品や
ベトナムの物品を販売。

ブンボー販売ブースにはお客さんが鈴なり。10分以上の待ち時間。

店の前でブンボーの売り込み。JASSツアーに参加した中学生の
鴻池君も。

調理場では例年のように高橋さん、柳沢さんがブンボーつくりに活躍。


ブンボー販売店の前は長蛇の列

静岡の会から笠井さんも来ていた。しばらく意見交換。
JICAベトナム事務所の会計責任者だった江本さんとばったり会う。
体調不良。立っているのがつらくなる。

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今日10月1日、フエ市がベトナム政府より「第1級都市」に指定された。
フエ市内で記念式典。

式典に参加したバオミン・ベトナム事務所長と税田ベトナム事務所員

フエ市第1級都市指定は実に政治的なものである。
フエ市とフエ省との対立・政治的綱引きの産物。
フエ市はフエ省から独立し、ハノイやホーチミン市のような「政府直属」
都市の指定を望んでいた。
数年前、隣のダナン市と共に国会に申請。国会での論議となるが、
フエ省がフエ市の独立に反対し否決、ダナン市だけが独立都市となる。
日本で言えば政令指定都市のようなもの。
その後、フエ市は何度も政府に陳情。その度にフエ省は県庁所在地の
フエ市の独立に反対し今日に至る。フエ市とフエ省の力量と能力の
差は歴然としている。フエ市の方が海外との付き合いも多く
外交は洗練されている。省はフエ市を除くと山岳地帯か農村。
結局政府は、フエ市とフエ省との対立を「第1級都市」という
訳の分からない制度をつくり、当面の妥協を図った。
第1級都市に指定されたのはフエ市のみ。
国会で第1級都市という制度を作っても「市と省」の権限の線引きは
未だに出来ていない。12月に政府の調査団がフエにやってきて
市と省の話を聞き、権限の線引きをするとのこと。
外交権、財政権などをどのように線引きするのかは未定。
基本的にフエ市は独立し、一部権限を引き続き省が握るという
形で解決が図られるのではないかと推測している。
12年間フエに住んでいるが、フエ市とフエ省との和解できない
程の対立を数多く見てきている。

JASSはフエ市に軸足を置きつつ、フエ省とも付き合ってきた。
地元の実情を知らない海外ボランティアは省の方が力があると
思い、省と提携し結局は失敗している。
私たちは最初から一貫してフエ市との提携を軸に活動を進めて
いる。地元の実情を知ると言うことが海外ボランティアを成功させる
最大の秘訣でもある。

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