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2005年09月30日
テレビ東京取材関係者と懇談
ベトナムでの活動がテレビで放映予定
2005年10月22日(土)午後1時55分
テレビ東京系(1都6県)
晴天。
終日、ボランティア貯金中間報告書作成。
午後、赤塚公園までウオーキング。
20通メール受信。15通送信。
夕方からテレビ東京取材関係者と懇談。
8月末から2週間ほど「子どもの家」等で取材。
現在の私たちの活動の到達点、子どもたちの成長、生活困難な
子どもたちの受け入れの様子など。
10月22日午後1時55分からテレビ東京系(1都6圏)で放映予定。
現在、最終的な編集段階に入っている。今日は次男がベトナム語の
翻訳・通訳のために編集に参加。
懇談にはディレクターのMさん、プロデューサーのS氏、台本作家の
N氏。午後9時過ぎまで「紹興酒」で懇談。
投稿者 koyama : 09:18 | コメント (0) | トラックバック
2005年09月29日
阪神優勝万歳 通院ー刺繍打合わせ
晴天。
午前8時発。新宿NSビルにある榊原記念クリニックへ。
心臓の検診(心電図)、診察。投薬。
午後1時、ベトナム事務所付属刺繍みやげ物店の
刺繍つくりについて、ジーンズ・エドウインの與芝君(高校同級生)と
打合わせ。上野にて。
12通メール受信。9通メール送信。
阪神優勝。巨人の目の前での優勝。今の巨人ではうれしさも「小」。
現在の巨人では敵愾心もわかない。今日の試合は全くドキドキ感が
ない。巨人の反撃力ゼロ。最初から阪神のエネルギーに圧倒されていた。
それでも50年間の阪神不安としては、本当にうれしい。
今年のストーブリーグでは阪神の「アホフロント」(江本)主導の例の
ゴタゴタが起こることを期待する。優等生阪神は面白くない。
阪神専売特許のゴタゴタを「球界の紳士」である巨人が
やっている。阪神は20年に1回程度の優勝が一番良い。
株が大幅値上がりしている。今日は4年4ヶ月ぶりに1万3617円。
村上ファンドが阪神の筆頭株主になる。今後のゴタゴタ要因に
なるのか?
京都での講演会の打合わせを行う。
京滋YOUの会の藤井事務局長と。
ケーブルTV「SKY・A」は朝5時まで阪神優勝の特別番組を放映。
ビールかけをみていたらつい飲みたくなる。
一人、浦霞禅で祝杯を上げる。
今後も阪神は『球界の傍系』であって欲しい。
投稿者 koyama : 18:06 | コメント (0) | トラックバック
2005年09月28日
火炎樹日記改編ー支援者への手紙等
晴天→曇り
午前中、支援者への手紙、メール。
午後、火炎樹日記に「私のボランティア論」を載せる。
今後、詳しい内容をまとめる。
渡辺和代さんから電話。ボランティア貯金中間報告書。
ボランティア貯金中間報告書の原案を書き始め
9月、10月講演会日程の調整。
夕方、買い物。夕食は手製ラーメン。
高校時代、1年間巣鴨のラーメン屋に勤める。その時に
覚えた東京さっぱり味ラーメンを作る。
フエの日本料理店に我が家にあった日本酒を全て持って行って
しまった。
昨日で小樽・田中酒造のお酒がなくなった。
今日、純米吟醸「浦霞禅」(宮城県佐裏酒造)を買う。
小樽の故拝田和夫氏の葬儀の香典返しでもらった海苔。
この海苔は艶があり香りも抜群。吟醸酒と軽くあぶった
海苔に醤油をちょっとつけて酒のさかなにする。日本酒と
美味しい海苔はぴったりと合う。最高のおつまみ。
小松菜・ニラ茹、小樽の鮭トバ、きゅうり・なす・ニンジン・大根の
ぬか漬けもおつまみ。
投稿者 koyama : 17:39 | コメント (0) | トラックバック
2005年09月27日
池袋へ外出
寒い。
ぬか漬けは漬かるまでほぼ24時間かかるようになった。
午前中、手紙、メールの返信。講演会の準備。
昼から妻と池袋へ出かける。
午後3時帰宅。体調不良。しばらく休む。
ハノイに進出中の日本の電気会社からメール。
WEBサイトを見て支援いたいとのこと。
日記やHPなどの威力を改めて感じる。
たった2ヶ月間であるが、町と社会は早い変貌を遂げていた。
巣鴨のキオスクが大きなお店に。JRのイオカードがなくなり
全て「スイカ」になっていた。スイカを買った。
夜、日本酒を飲んだ小樽の故拝田和夫氏を偲んで
小樽「亀甲蔵」田中酒造の日本酒を飲む。
田中酒造HP Phttp://www.ne.jp/asahi/frog/hh/hk2097.html
投稿者 koyama : 18:48 | コメント (0) | トラックバック
2005年09月26日
久しぶりの休日 DUONGさん大学合格
終日晴天。寒い。
今日は天気は良いが寒い。長袖を着ていた。
7月20日にフエへ戻り丁度2ヶ月。228人の訪問者を
受け入れ、この2ヶ月は本当に忙しかった。
帰国後の小樽、静岡県磐田市、日本事務所会議と
続き、7月20日以来の休日。
たまっていた手紙の返事。メールの返信。
糠漬けの整備。
午前11時、ブランチ。妻と二人。
午後昼寝。
「自民党幹事長室の30年」(奥島貞雄著:中央公論新書)を読む。
奥島氏は40年間自民党本部職員を勤め、自民党幹事長室長
として歴代の幹事長の身近に接していた人である。
その奥島氏が身近に見た田中角栄、福田赳夫、保利茂、橋本
登美三郎、中曽根康弘、大平正芳、桜内義雄、二階堂進、
田中六助、金丸信、竹下登、安部晋太郎、小沢一郎、
小渕恵三、加藤紘一などの実像を紹介している。
全体を読んで見て、自民党の幹事長や総裁も実に人間であり
怒り、ねたみ、喜び、飲み、遊びとそれぞれの人物が人生を
生き抜いたことが分かる。熾烈な首相争いの競争と闘いをしながら
生きてきた。その中でもやはり「人間の匂い」を感じる人々だった。
私が中学生から1995年の「加藤の乱」までの自民党内の
様々な動きが、自民党職員(幹事長室長)という要職にあった
人の目からどのように見えたのか、大変興味深い。
新聞やマスコミでは分からない、裏で悩み苦しんだこれら
派閥の親分たちの実に人間くささがよく分かる。
午後4時、散歩。赤塚公園まで往復1時間半。
25通のメール受信。15通の返信。
午後6時、ベトナム事務所より連絡。
フエ高等師範大学を受験していた「子どもの家」の
DUONG(ユオン)さんの合格発表があったとのこと。
1年間の浪人の後、見事に栄冠を勝ち取った。
おめでとう。師範大学では小学校の先生になるコースに入った。
将来小学校の先生になって、後輩を導いて欲しい。これで
DUONGさんの自立への道が一歩進んだ。DUONGさんは、
「子どもの家」の第1期生である。
今年は4人大学を受験し、3人が大学合格。1名は不合格。
フエ師範大学数学科、フエ経済大学、フエ高等師範大学。
大学不合格となった子は、電気専門学校へ入学。
4人とも将来の生きる道を見つけたようだ。
一人一人の子どもたちの自立に向けての取り組みは
これで終わりと言うことはない。粘り強く、子どもたちの
特性と希望を聞きながら進めてゆかなければならない。
支援とはこうした取り組みが一番大事である。
ベトナム事務所のスタッフ、セン委員長をはじめ「子どもの家」の
スタッフと日本人スタッフとの粘り強い協力体制があったればこその
ことである。
投稿者 koyama : 17:53 | コメント (0) | トラックバック
2005年09月25日
日本事務所会議
雨。
午前中、メールの返事。
午前11時半、日本事務所会議出席のため西台→西巣鴨→
都電飛鳥山。北区教育会館へ。
17人の参加。
最初に自己紹介。先日フエに来た地球の歩き方ツアー第5次に
参加した山中さんも出席。
私の方からベトナム事務所現地の報告。
●ベトナム事務所訪問者数
・7月(9人) 8月(121人) 9月(98人) 計228人
●日本料理店仮開店
●縫製工場 ODA申請の現状
●「子どもの家」を巡る様々な状況
加藤さん、森田さん、鴻池君からJASSツアー報告
10月1日・2日、日比谷公園で行われる
「グローバルフェスタJAPAN2005」の準備打合わせ
野村透子さんが会を代表して実行委員会に参加。
野村さんから日比谷フェスティバルの詳細報告。
当日販売する「ブンボー」つくり等の準備やベトナム雑貨
販売の打合わせ。
午後4時半、日本事務所会議は終了した。
投稿者 koyama : 17:26 | コメント (0) | トラックバック
2005年09月24日
木村百合子さん一周忌記念会出席
朝から雨。
午前中、日本を不在にした2ヶ月間の手紙等30通ほどに
目を通す。必要な返事。フエを出て5日間の受信メールのチェック。
必要な返信。
午前11時過ぎに自宅を出てコンビニへ。エドウインへ刺繍の見本を
宅急便で送る。
東京駅午後1時20分発のこだまで静岡県掛川駅へ。掛川から
東海道線に乗り換え午後3時半に磐田駅着。徒歩で探しながら
磐田教会へ。
今日は昨年亡くなったJASSの会員でもあった木村百合子さんの
一周忌。クリスチャンだった木村さんの死を忘れないため、
教会主催の記念会が開催された。午後4時、私も出席。
木村百合子さんは静岡大学教育学部時代から「子どもの家」への支援
を続け、2回「子どもの家」を訪問。子どもたちとも交流している。
昨年4月から念願の小学校の教員となり4年生の担任をしていた。
昨年7月にベトナムの子どもの家を支える静岡の会があり私も参加。
木村さんも参加した。その場で木村さんから『自分の学校でも
「子どもの家」の話をして欲しい』との依頼を受ける。
その時、木村さんが異常に痩せているのに気づく。
その後、9月に入り「学校での講演会はいつ頃になりますか?」
とのメールをベトナから送る。木村さんより「学校の諸事情で講演会が
出来なくなり残念」という趣旨の返事が来た。私は行間から木村さんに
何かが起こっているのではと感じた。私の講演会が出来なくなったと
いうことは、校長など管理職の反対にあったと理解した。
しばらくすると木村さんからメールが入り、「フエに出来た日本語教師
に応募したい」とのこと。ということは、せっかくなった小学校教師を
辞めるということなのか?と訝しく思った。直ぐに静岡の会に連絡し
木村さんが日本語教師に応募したいと言っているが、小学校で何かが
起こっているようなので、木村さんに連絡して欲しいと。
そうこうしていると、「木村さんが自らの命を絶った」との連絡が入る。
こうして未だ若い木村さんは天国へと旅立った。
私は日本へ帰国し、静岡の会の滝下さん、笠井さんと木村さんの
実家を訪ね、お線香を上げた。ご両親にお悔やみを申し上げ、
事情を聞くと、学校側の態度が異常なことに気づいた。
教師には緘口令をしき、新任教師の木村さんに対して、管理職など
からかなりひどい人権侵害とも取れる暴言を浴びていたことが分かった。
木村百合子さんは亡くなるまで詳細な日記を書いていた。
日記には管理職や新任教師指導教員の暴言が詳細に書かれ、
木村さんの心をずたずたに傷つけたいた様子が書かれていた。
ご両親は娘さんの突然の死と何とも言い表せない異常な学校生活
の実態を知り、一層心を痛めていた。
私も笠井さん、滝下さんもできることがあれば協力すること、
木村百合子さんの無念な死を「あやふや」にしないで、その死の
原因を究明し、同じ様な死が今後起こらないようにすることが
木村さんの無念な死を供養する道だとの進言をする。
同時に何故私たちが木村さんの死を止められなかったのか、
自責の念にかられる。
現在、ご両親は教育委員会、校長などに死の真相、公務災害申請
などの手続きを行っている。
現在、全国的な規模で若い先生など教師の自殺が増大している。
学校を取り巻く環境が異常を極めている。
私はわずか20数年で命を絶った木村百合子さんの無念の気持ちを
考えると何かしないではいられない。私ができることは小さなことだが、
それでもこうした社会的不条理に闘いを挑みたい。思想・信条がどうで
あれ、20数才の若者が、たった6ヶ月の教職で自らの命を絶つに至った
無念な気持ちを晴らしてあげたい。
今日、ご両親からA4版24枚に上る詳細な学校・教育委員会との
話し合いの内容を印刷した綴りをもらった。帰りの新幹線の中で
読んでみる。詳細は省くが、教育委員会、校長側の対応は
ひどいのひとこと。自分の部下の若者が自ら命を絶ったことへの
自責の念は微塵もない。ただ、責任のがれの言い訳のみ。
経験未熟な若い教師を死へ追いやったこと、人間の命への
畏敬の気持ちすら失った教育界の幹部の精神的荒廃に
唖然とする。同時に我が子を亡くしたご両親の誠実な態度に
心打たれるものがある。人間はこうありたいものである。
肩書きがなんであれ、人の心を失った動物にはなりたくない。
自分の良心と血の通った心を持ち続けたい。木村夫妻を
見ていてつくづくとそう思った。
1時間で「木村百合子さん記念会」は終了。
その後、大学の同級生などと教会2階で懇談。
午後6時過ぎからご両親・親族、私、滝下さんと会食をしながら
懇談。午後8時過ぎ終了。
滝下さんの車で磐田から静岡駅まで送ってもらう。静岡駅から
新幹線こだまで東京→巣鴨→西台。
自宅着。25日午前12時20分。
投稿者 koyama : 00:05 | コメント (0) | トラックバック
2005年09月23日
東京自宅へ
小樽の気温は16度から20度。やはり寒い。長袖シャツの
上にセーターを着た。
午前10時、故拝田和夫氏にお線香。
その足で南小樽から新千歳へ。
新千歳空港から羽田。午後6時、自宅着。
7月20日以来の帰宅。
投稿者 koyama : 18:25 | コメント (0) | トラックバック
2005年09月22日
小樽泊
終日小樽。
故拝田和夫氏にお線香。
投稿者 koyama : 18:23 | コメント (0) | トラックバック
2005年09月21日
小樽泊 法要参列
9月20日
午後11時45分ホーチミン発成田行きの飛行機が更に1時間遅れる。
午前12時半、ベトナム機はホーチミン空港を離陸。
9月21日午前8時半、成田着。その足で次男と合流し成田発ANA便で
新千歳へ。新千歳から小樽へ。午後1時半小樽着。
小樽のお寺で故拝田和夫氏の法要に参列。62歳で逝去した
拝田和夫氏に合掌。
小樽泊。
投稿者 koyama : 18:21 | コメント (0) | トラックバック
2005年09月20日
日本帰国
午前7時、朝食。
午後5時40分フエ発の飛行機でホーチミン市へ行く予定だった。
今回の帰国は9月21日に行われる故拝田和夫氏の葬儀参列も。
日本語教師・税田さんなどと朝食を摂っていると、突然ラームさん
から話しがあった。「ベトナム航空が急に飛行機の日程を変えた。
今分かった。午前9時10分フエ発に変更になった」「7時40分には
トンチンカンホテルを出ないと間に合わない」とのこと。
7時40分までには、20分しかない。午後3時過ぎにトンチンカンホテル
を出て帰国する予定だった。前日まで仕事があり、帰国準備は
何も出来ていない。取り急ぎ、部屋に戻り、パスポート、航空券を
確認し、ラームさん(訪問者の出迎えでフエ空港へ)と一緒に
車に乗る。ホーチミン市へ。午前10時半、ホーチミン市着。
午後9時半まで市内で待ち、ホーチミン空港へ。
投稿者 koyama : 18:09 | コメント (0) | トラックバック
2005年09月19日
帰国準備
台風一過、晴天。暑い。
拝田和夫氏の急逝を悼む。
拝田氏は「子どもの家」のチュン君の里親であり、
我が長男の義父でもある。昨年12月から闘病生活を
続けていたが、今朝逝去。62歳。
長男の結婚で親戚となった拝田氏である。温厚な方だった。
私が北海道で講演会があると良く小樽の拝田氏のお宅へ
お邪魔する。拝田氏は必ず私の好きな「大和屋」という
割烹料理店で北海道のおいしいお刺身(特にしめ鯖や光り物)
をご馳走してくれる。こんなに早く亡くなられるとは思っても
いなかった。改めて拝田氏の急逝を惜しみ、心から哀悼の
気持ちを表したい。
拝田氏の急逝は「いつかわが身」という気持ちを強く私に
抱かせた。人生は短い。生きている間に何か世間に役立つ
ことをしたいとの気持ちを新たにさせてくれた。
拝田氏は病床で「子どもの家」の里子チュン君にリコモン車
を買いプレゼントした。9月4日に長男が「子どもの家」を
訪問し、チュン君に「日本の里親は今、病気と闘って頑張って
いるよ」と話し、リモコン車をプレゼント。
今日、里子のチュン君に「日本のお父さんが亡くなったよ」と
話す。チュン君は大事にしまってあった拝田氏から
贈られたリモコン車を取り出し、「拝田のお父さんからもらった
リモコン車をお父さんだと思って大事にするよ」と言って写真に
写っていた。拝田氏は亡くなったが、その意志と支援した
子どもは遠く離れたベトナムでしっかりと生き成長していく
ことであろう。一人の人間の存在は、目に見えないところで
その意義を発揮するものである。チュン君の健やかな成長を
祈らずにはいられない。
午前中、刺繍みやげ物店の諸問題についてミンさんなどと
2時間ほど懇談。
午後、帰国のための部屋の整理。
床屋へ。(150円)。衣類の中へ散髪した髪が入ってしまい
体中がかゆくなる。
夕方、ミンさんと「子どもの家」へ。セン委員長と懇談。
明日午後11時45分のホーチミン発のVN便で21日朝成田へ。
その足で成田から新千歳→小樽へ。拝田氏の告別式に
間に合えばよいのだが。
投稿者 koyama : 23:30 | コメント (0) | トラックバック
2005年09月18日
愛知万博・国際ソロプチミスト植樹祭、「子どもの家」中秋祭り
(引き続き写真を多数掲載予定)
昨日からベトナム中部に台風が接近。
夜らい豪雨。ベトナムテレビでは1時間毎に台風情報を
流している。特に今日は高潮。洪水への厳重な警戒を呼び
かけている。
午前中も豪雨。フォン川は氾濫直前状態。
午前8時15分、ミンさん、税田さんと一緒に「子どもの家」へ。
今日は愛知万博の呼びかけで国際ソロプチミストが世界中で
「植樹」の統一行動を行う日。
国際ソロプチミスト東京ー東では、「子どもの家」での植樹を
提案。私たちは提案を受け、今日9月18日の「世界植樹行動」
に参加した。
朝からの豪雨ではあるが、こどもたち、スタッフ、業者は
雨合羽を着て植樹を行う。植樹は「子どもの家」C棟の裏に
「びんろう樹」を5本植える。コンクリートを50センチ四方に
砕き穴を開け、びんろう樹の苗木を植える。数年後に
大きいものは10メートル位になるとのこと。コンクリートを
砕き穴を掘るとすぐに豪雨の水が浸水。水を掻き出し
土を入れる。5本の苗木を植えるのに数時間かかる。
こどもたちやスタッフ、業者は雨の中、熱心に植樹。
一方のグループは、「子どもの家」の庭に花壇を作り
4種類の草木を植える。
花壇は7つ。20メール、20メートル、30メートルという
「コの字型」に花壇が出来上がる。
午前8時半から昼前まで豪雨の中植樹は続く。
「子どもの家」のスタッフからこどもたちへは一切の
強制はなかった。好きなこどもたちが植樹に参加。
63人のこどもたちのほぼ全員に近いこどもたちが
参加。途中で疲れて部屋へ戻るこどもも若干はいたが、
大半のこどもたちは雨の中作業に集中する。
こどもたちのこの仕事への情熱はどこから出てくるのだろうか?
昼前にトンチンカンホテルへ戻る。
朝食を摂らずに「子どもの家」へいった。帰宅後ブランチ。
と言っても「そば」2分の1束を茹でただけだが・・・。
しばらく昼寝。雨は更に降り続ける。
メールの受信・送信。
トンチンカンホテルの日記ブログを業者に直してもらったの
だが、結局、直っていない。更に不都合が拡大しただけ。
困ったものである。文章はかけるが、写真が掲載できない。
写真掲載の場合にはベトナム事務所にいかなければ
ならない。
午後6時から「子どもの家」で中秋祭り。
中秋祭りは日本の子どもの日に当たる。子どもたちの
お祝いの日。
B棟2階音楽室にこどもたち全員集合。
はじめにセン委員長の挨拶。続いて
私の言葉。中秋祭りにはフエ師範大学の
学生15人も参加。学生はこどもたちの
特別支援教育を手伝っている。
こどもたちのお祝いの歌と踊り。
こどもたちに中秋祭りお祝いのお菓子と
果物を配る。
午後7時半、中秋祭りは終了。
「子どもの家」中秋祭りの看板
セン委員長挨拶
小山挨拶
中秋祭り進行役のベトナム民話に出てくる漁民とお月様役。
中秋祭りの三角帽子とお月様の飾りを持ってお祝い。
子どもたちの出し物(男子による二匹の龍の踊り:太鼓に合わせて)
女子の踊り
おどけ役の子ども
子どもたちへお菓子のプレゼント
ベトナムテエrビも取材に来る
線香花火でお祝い
フエ師範大学女子学生と我が日本人教師による「いすとりゲーム」。
日本語学校教師の中村さんが見事優勝。
投稿者 koyama : 17:38 | コメント (0) | トラックバック
2005年09月17日
札幌の会 鹿又さん「子どもの家」訪問:渡辺和代さん帰国
快晴。暑い。
午前7時朝食。ブンボー(フエ名物米うどん)、ヨーグルト、
豆乳(飲めなかった)。
6日前から「ぬか漬け」を試作している。
ベトナムの米ぬかで日本で漬けているぬか漬けができるか?
漬け始めて6日目の今日、見事にぬか床が完成。
醗酵度合いも丁度良い。酸っぱさも見事に出ている。
日本より醗酵進度が少し速い。日本料理店で美味しい
ぬか漬けを出すことが出来る。次は、何とか手作り納豆を
完成させたい。納豆菌の培養はなかなか難しい。
午前8時、ベトナム事務所へ。午前8時半写真撮影。
「京滋YOUの会」の水本さんが1ヶ月の日程で「子どもの家」へ。
図書室の管理・整理などを担当してくれる。いつもながら水本
さんのご支援に感謝。早速、ベトナム事務所と「子どもの家」に
中秋祭の「月餅」を差し入れしてくれる。
午前9時、札幌の会の鹿又さんと友人の方が
ベトナム事務所へ。鹿又さんは10年前から札幌の会の
会員として「子どもの家」の支援を続けている。
仕事がビデオなどの専門職ということで、私の札幌講演会
のビデオをDVDにしてくれたり、多くの私のテレビ番組の
ダビングを無料でしてくれている。
「子どもの家」の里子も長年してくれている。
午前9時半、鹿又さんと友人、ミンさん、私で
「子どもの家」へ。
「子どもの家」ではセン委員長と挨拶。
早速里子のMENさんに対面。現在メンさんはミシン縫製の
研修をしている。鹿又さんはメンさんにサウスポー用の
縫製はさみ洋裁の本をプレゼント。
午前11時過ぎ、フォンザンホテル社長と昼食会
午後、ベトナム事務所で仕事。
午後5時半、鹿又さん・吉田さんと夕食。
午後5時40分の飛行機で日本事務所の渡辺和代さんが
帰国。小児がん・小児白血病のこどもたちへの支援が
進むことを祈る。また、これからも里親・里子担当、宜しく。
投稿者 koyama : 10:09 | コメント (0) | トラックバック
2005年09月16日
渡辺さん「子どもの家」・最後の夕食会
快晴。
午前8時、ベトナム事務所へ。日記を書く。
昨日からトンチンカンホテルのパソコン故障。
午前8時半、渡辺和代さんがベトナム事務所へ。
ミンさん、渡辺さんと一緒にオートバイ修理研修センター
視察。その足で「子どもの家」へ。「子どもの家」では
セン委員長と懇談。
渡辺さんは10年ぶりのフエ訪問。渡辺さんが
フエに来たのは1995年。当時、私はチーラン通りで
「子どもの家」を作っていた。
セン委員長と懇談後、ミン・ベトナム事務所長が
「子どもの家」を案内。
その間、「子どもの家」訪問の学生さんと1時間ほど
懇談。
「子どもの家」には地球の歩き方ツアーの皆さんが
最後の訪問。子どもたちと遊んでいたい。
子どもたちも9月18日(日)の中秋祭りの獅子舞稽古中。
18日午後6時からの「子どもの家」中秋祭が楽しみ。
午後12時半、トンチンカンホテルの自室へ帰る。
午後2時過ぎ、16通のメール受信。必要な送信。
午後3時過ぎ、ベトナム事務所へ。仕事。
午後6時、コードーレストランで渡辺和代さんとフエ最後の
お別れ夕食会。
ミン・ベトナム事務所長挨拶
ベトナム事務所員全員が参加(日本語学校授業以外の人)。
18日の中秋祭を前にフエ市内は中秋のお祝い一色。
町内毎にこどもたちや若者が獅子舞と太鼓で町を練り歩く。
各家庭や商店、レストラン前で獅子舞を披露し、何がしかの
お小遣いをもらう。
午後8時半、トンチンカンホテルへ。
投稿者 koyama : 22:04 | コメント (0) | トラックバック
2005年09月15日
外務部・市立病院長懇談・地球の歩き方ツアー夕食会
晴天。暑い。
午前8時、訪問者と懇談。1時間。NGO、ボランティアなどを
話す。
午前9時、フエ市人民委員会外務長と懇談。
10月5日に現地視察をするODA支給調査の打ち合わせ。
現在、ハノイ大使館に「縫製研修センター」の建築費の
申請を行っている。今回、大使館のODA担当者が現地
視察をすることが決まり、その諸準備の打ち合わせ。
小山・ミン・税田。
昼食。
昼、パソコン故障の修理。
午後2時半、フエ市立病院院長と懇談。
午後4時、ベトナム事務所で仕事。
午後6時半、地球の歩き方ツアーと最後の夕食会。
女性18人、男性2人。
地球の歩き方の方で9月・10月の誕生会。誕生ケーキをカット。
2005年09月14日
クアンチ省へー小児ガンの子ども支援家庭訪問
台風一過、快晴。
長野から来ていた前田さんが帰国。
フエでの滞在で何かを感じてもらえればありがたい。
午前7時45分、小児ガン患者の家庭実態調査のため
クアンチ省へ。私、渡辺和代さん、ラームさんの3人。
そしてフエ中央病院小児科白血病担当医師トアンさん。
片道100キロ。国道1号線を北上する。途中、交通取締りが
何箇所かで行われていた。そのため35キロから40キロの
超低速で進む。片道2時間以上。
クアンチ省はフエより一つ北側の省。省都ドンハー市着9時。
今回は渡辺和代さんの作ったNGO法人「ACCL」
(アジア・チャイルドケアー・リーグ)の支援活動の実地調査。
小児白血病の子どもたちの在宅ケヤーの様子を調べることが
目的。
ドンハー市のはずれにある家庭を訪問。4歳の女の子。
フエ中央病院にしばらく入院し、現在は自宅で療養中。
両親に療養中の問題、生活の門代表 小山道夫などを聞く。
段々女の子と仲良くなる。女の子は渡辺さんとすっかり
友達になる。40分ほど話し、次の家庭へ行こうとしたら
女の子は「さみしい」と言って泣いてしまう。
結局、両親・女の子と一緒に30キロ離れた次の家庭へ
行くこととなる。
次の家庭は男の子。1年生。4歳の女の子と同時期に
発病。一緒にフエ中央病院に入院していた仲。
フエ中央病院への通院もいつも一緒とのこと。
母親は小学校の先生。男の子は母親と一緒通学している。
下校を母親と一緒とのこと。二人は仲良く遊んでいた。
病気が完治することを祈る。
午後12時半。ドンハ市内で昼食。
帰りの100キロも徐行運転。時々快速運転。
午後3時にフエへ到着。その足で帯広の芳村さん支援の
ヒエウ君の自宅を訪問。お土産などを渡す。ヒエウ君は幼児期に
高熱が出て右手足が麻痺。学校へも行っていなかった。
芳村さんの支援が始まり3年遅れで小学校へ入学。
右手足の麻痺はあるが。勉強好きで成績最優秀。
今年の5月、高校受験を控えたある日、急に高熱となり、
精神を病んでしまう。6月に私とミンさんで訪問したが、
私たちのことを認識することも出来なくなっていた。
暗い部屋で「はははは」と笑っているだけだった。
芳村さんとベトナム事務所の支援で病院へ。
入院と通院、投薬のおかげで、今回の訪問では、
私を認識できた。本や新聞も読むようになった。
写真を撮るとき笑うことも出来るようになった。
高熱で精神を病んだ時の母親の暗く落ち込んだ
様子を今でも忘れることはできない。
今日の母親は終始笑顔だった。もちろん、ヒエウ君が
完治したわけではないが、母子間の意思疎通が
出来るようになったことを、母親は喜んでいた。
母の手一つでわが子をてているお母さんの頑張りに
頭が下がる。ヒエウ君を支援して8年。紆余曲折は
あったが、里親の芳村さん、日本事務所里親担当の
渡辺さんとベトナム事務所の協力、そして何よりも
母親の頑張りと多くの大人の力でヒエウ君は
再度元気を取り戻したかに見えた。
午後4時、「子どもの家」へ。セン委員長と植樹の
打ち合わせ。愛知万博が9月25日に閉幕する。
それにあわせ、世界中で子どもたちが植林を
スルキャンペーンがあり、万博協会と国際ソロプチミスト
東京ー東の皆さんの支援で「子どもの家」でも愛知万博
記念「子どもの家」植樹会を行うことになった。
今日はその打ち合わせ。9月18日(日)午前8時半から
午後12時まで。「子どもの家」の7つの花壇に花を植え、
「子どもの家」の裏庭に成長すれば10メートル以上の
大木となる「びんろう」の樹を植えることになった。
「子どもの家」では夕食前。門前で子どもたちが
ビー玉をして遊んでいた。
今日は朝から夕方まで活動が続いた。
パソコンが故障しメールが開けず、返事が遅れた
人もいた。お詫び。
トンチンカンホテルへ帰る。日本料理店内が煙くさい。
料理人のターオ君が自分でお灸をすえていた。
「どうしてお灸をするの?」と聞くと気持ちが良いとの
答え。いつも「お灸を据えられて」いるので、今日は自分で
お灸を据えたのかなどと冗談で思ってしまった。
長い1日が終わった。
投稿者 koyama : 09:38 | コメント (0) | トラックバック
2005年09月13日
渡辺さんとフエ中央病院小児科へ
昨夜からベトナム中部に台風襲来。
豪雨。
午前8時、ベトナム事務所へ。ベトナム事務所のパソコン
で日記をアップしようとしたが、プロバイダーが一斉に
インンターネットをストップ。インンターネットが使えない。
午前8時半、ベトナム事務所で渡辺和代さん、ミンさんと
懇談。
ミンさんは宇都宮縫製工業協同組合佐藤理事長を
フエ空港へ見送り。忙しい中の佐藤理事長のフエ訪問に
感謝。
午前9時、渡辺和代さん、ラームさんと3人でフエ中央病院
小児科を訪問。渡辺和代さんが立ち上げたNPO法人
「ACCL](アジア・チャイルドケアー・リーグ)の活動の一環として
フエでの小児ガン、特に小児白血病患者の支援活動の視察を
行った。
始めにフエ中央病院小児科医長HUONG先生、副医長、
白血病担当医師と2時間半の懇談。フエでの小児白血病患者の
実態、生活の様子、治療・支援の必要、問題点、要望などを
聞く。
午後12時半、懇談を終了し、渡辺さん、ラームさんと昼食。
コムデイア。
午後2時半、再度、フエ中央病院小児科へ。小児白血病病棟視察。
10人の小児白血病患者一人一人の現状と生活の問題点などを
聞く。午後4時半終了。
午後6時より、小児科医長など5人の医師とベトナム事務所員の
懇夕食会。ベトナム事務所側は小山、ミン、ラーム、税田。
投稿者 koyama : 19:20 | コメント (0) | トラックバック
2005年09月12日
宇都宮縫製工業協同組合佐藤理事長フエ訪問
雨・曇り・晴れ。
午前7時半、宇都宮縫製工業協同組合佐藤裕信理事長を
出迎えにフエ空港へ。
午前8時20分、無事フエ空港へ到着。
佐藤理事長は、宇都宮縫製工業組合理事長。
佐藤理事長は「ソーイング山形」、「ソーイング道南」(北海道)
「アパレル能登」(石川)などの縫製工業組合とも協力し
私たちがフエで建築しようとしている縫製工場の支援をして
くれている。具体的には工業用ミシン50台を既に寄贈。
更に50台の寄贈を予定。多額の支援金も決定している。
また、縫製工場建築後の縫製技術の指導も行ってくれることに
なっている。
フエ空港からベトナム事務所へ。
私はベトナム事務所で別れ「子どもの家」へ。
午前10時から午前11時半まで地球の歩き方ツアー(20人)の
皆さんに講演。ストリートチルドレン、世界の南北問題、ボランティア
などについて話す。
昼食は佐藤理事長、ミンさんと。
午後3時、佐藤理事長日本語学校参観。学生に挨拶。
その後、縫製工場建設予定地を視察。
午後6時、佐藤理事長、同行のニューさんと3人で夕食。
今日は1日パソコンがウイルス感染で故障。日記が書けなかった。
写真のアップ機能の調子が悪く今日はアップできず。
現在修理中。
投稿者 koyama : 18:53 | コメント (0) | トラックバック
2005年09月11日
久々の休日
午前中雨。午後晴れる。気候不順。
7月20日にフエへ戻ってから40日目。久しぶりの休みである。
この40日間、ただ毎日を精一杯過ごして来たと言った感じ。
とにかく途中で体が固まり、動けなくなった。つい数日前までは
腰痛、口内炎(3つ)、下痢と「三重苦」状態。やっとこの数日で
ほぼ完治。今日はゆっくりと休む。
午前中は寝ていた。午前中の衆議院選挙投票率が
前回より2%ほど高いという。
午前10時低温浴。軽くフダビール2缶。小樽からもらった大好きな
「鮭とば」をおつまにみ。
午後「ガセネッタ&シモネッタ」(米原万理著:文春文庫)を読む。
日本語の「国際化」を「グローバリゼーション」と訳すのは
誤りである。グローバリゼーションは、「自分たちの基準で
地球を覆い尽くそう」という意味で日本人が考える
国際化(世界にあわせよう)とは、正反対のことばだ、
と書き、日本の国際化の主体性のなさを批判し、
アメリカのグローバリゼーションの独善性を批判している。
卓見である。かつてインターナショナリズムという言葉があった。
今はあまり聞く機会がないが・・・・。
1960年に社会主義チェコにあるロシア人学校に入った
小学生の米原万理は「ピオニール」キャンプに入る。
赤いネッカチーフをした共産主義少年団である。
今はピオニールという言葉すら既に死語となっているが、
ベトナムには厳然と死語となったピオニールが
「ホーチミン少年先鋒隊」という形で残っている。
小学校3年生から順次入隊し、小学5年生までには
全員が入隊する。「子どもの家」の子どもたちも
登校時に赤いネッカチーフをしている。
午後2時半、日本の一色さんから電話。
愛知万博の行事の一環として世界で植樹運動をするそうだ。
ベトナムでも植樹をとのこと。「静岡フエ青年交流会館」
(日本語学校)と隣りのフエ市文化会館の間に子どもたち
と一緒に植樹をすることにした。
午後3時、バオミン・ベトナム事務所長より電話。
明日からの日程と担当者等の最終確認。
バオミン・ベトナム事務所長は日曜でも仕事をしている。
頭が下がる。真面目な人である。
テレビ取材担当者に番組で必要な10年前の写真を探し
送る。
午後4時。ホン日本料理店店長に「米ぬか」を買って来てもらい
ぬか床を作る。日本語教師の原さんに手伝ってもらい
大きなポリバケツ3分の1程度。今回はベトナムでぬか床が
出来るのかどうかを試行してみる。
きゅうり、ニンジン、なすを捨て野菜として入れる。
1週間後にどうなっているか?
衆議院選挙の大勢が決まった。自民党の圧勝。
民主党の惨敗。第1次世界大戦で敗北したドイツで
当時最も民主的なワイマール憲法下でナチスヒトラーが
台頭した歴史を思い出す。今回の選挙の結果は
民意の反映。民意がいつも正しい結果をもらたらすとは
限らない。
ポピュリズムという言葉がある。評論家の山崎正和氏は
次のように述べている。小泉首相が強行した今回の
選挙を見事に暴いている。
■ ポピュリストに共通した政治手法
第1に、彼らは民衆の感情を刺激し、理性よりも情念に訴えるという形をとり、しかも、その情念は反感、あるいは嫉妬という点に絞られ、その対象として敵を必要とする。
第2に、ポピュリストが勝利をおさめていくとナンバーツーたたきという形をとる。そして、ポピュリズムが勝利をおさめたうえで、法的、制度的な改編を行って、勝利の結果を永久化するとファシズムになる。
第3に、ポピュリズムはその形成過程において、その目的を実現するための手続き、過程、制度というものを無視するやり方をとり、あらゆる制度、手続きというものを、むしろ目的の敵として攻撃
第1の情念。国民の将来への不安。現実生活への不安を刺激。
第2に自民党内の半郵政民営化派をナンバーツーにしたてあげ。
第3に全ての手続きなどを無視し単純化する手法。
今回の小泉首相の勝利はマスコミを巻き込んだ「全ての単純化」
「白か黒か」の問題提起が勝利し、マスコミが垂れ流す単純化した
問題提起を国民が支持したということである。政治は本来は
説明が必要である。
「郵政民営化の是非だけが選挙の争点」との単純な小泉首相の
分かりやすい訴えに国民が共感したという事実は否定できない。
民主党の惨敗は第2自民党の本質が露呈したということ。
今後、日本の急速なファシズム化を懸念する。
投稿者 koyama : 16:57 | コメント (0) | トラックバック
2005年09月10日
長野の前田さん懇談:メー前フエ省知事懇談
晴天。蒸し暑い。
「マブベ笑顔の会」大極さん帰国。
「子どもの家」の子どもたち・スタッフ、ベトナム事務所員、
フールー小学校の子どもたちなどの治療に感謝。
午前7時朝食。フォー。
午前8時半、高校同級生/田中紀子さんの紹介で
長野県から前田さんが訪ねてきた。6日間「子どもの家」などの
視察・体験。
午前9時過ぎにミンさんの案内で前田さんは「子どもの家」へ。
札幌の会の鹿又さんに電話。9月17日に「子どもの家」へ
来る打ち合わせ。メールが故障し送信不能のため。
鹿又さんは長年里親をしてくれている。久しぶりに里子の
MENさん(ミシン研修)と対面の予定。
午前10半、「子どもの家」から帰った前田さんと懇談。
午後12時過ぎトンチンカンホテルへ戻り昼食。スパゲティー。
午後2時、前田さんにシクロ紹介。ベトナム事務所で仕事。
午後4時、東京自宅より電話。ベトナムへ視察に来ていた
長男が帰国。東京自宅より帰国報告の電話。妻、次男からも電話。
久しぶりに家族3人集合。
日本の支援者に手紙を書く。
午後6時、メー前フエ省知事(現・国会議員、フエ省共産党副委員長)
と懇談。私、ラームさん、税田さん、メー氏の日本語教師である
松下さん。
明日は衆議院選挙。私は投票できない。投票するには事前に
ハノイ大使館に登録し、往復2万円かけて飛行機でハノイまで
行き投票することになる。
マスコミの報道では自民党が過半数を取る勢いとか?
結果がどうなるのか・・・・・。
投稿者 koyama : 18:28 | コメント (0) | トラックバック
2005年09月09日
滞留事務処理:大極さん最後の夕食会
晴天ー曇りー雨ー曇り-雨
気候の変動が激しい。
午前7時、朝食。ブンボー。
午前中、「教育評論」(11月号)の原稿を書く。
必要な写真を見つけるが、なかなか出てこない。
この二週間に溜まった事務処理を行う。
昼食:ベトナム風ラーメン。
午後、引き続き各種事務処理。
午後6時からタッチセラフィーの大極さん帰国前夜の
夕食会。午後8時半まで。
投稿者 koyama : 18:31 | コメント (0) | トラックバック
2005年09月08日
マブベの会・大極さんの「タッチセラフィー」
雨のち曇りのち雨。時々晴れ。
午前8時半、ベトナム事務所へ。ミンさんと打ち合わせ。
午前9時半、「子どもの家」へ。
「マブベ笑顔の会」の大極さんが、「子どもの家」の
保健室で子どもたちにタッチセラフィーを施術していた。
子どもたちは、頭が痛いと言って保健室に入ってきた。
大極さんのタッチセラフィーで気持ちよくなったようだ。
大極さんは何度も「子どもの家」を訪問し子どもたちにタッチセラフィー
を施術したり、タム医師にタッチセラフィーの効力とその方法を教え
たりしている。タム医師はすっかりタッチセラフィーを会得し
子どもたちに実施している。
その後、自室で京都国際センターより寄贈を受けた
「子どもの家」トイレ改装工事や健康診断などの
完了報告書と付随する写真等を探しだし京都の
関係者に送る。
昼食は「冷たいうどん」をそばつゆで食べる。
午後2時、大極さん、ハンさんと一緒にフールー小学校へ。
フールー小学校は650人。半数近くは船上生活者の子弟。
フエでも一番生活困難な地域である。
2年生3クラス、120人にタッチセラフィーをするよう依頼されたが、
結局、1クラス40人に施術。それでも2時間ちょっとかかる。
蒸し暑い教室で2時間以上もかけてタッチセラフィーを行う。
午後6時、新しい日本語教師の石岡さんも交えて初めて6人
で夕食。
投稿者 koyama : 18:53 | コメント (0) | トラックバック
2005年09月07日
テレビ取材最終日ー法政大学人間環境学部懇談
快晴。暑い。
午前8時からテレビの最終取材。
午後2時、法政大学人間環境学部ゼミ生27人が
ベトナム事務所を訪問。ベトナム事務所員紹介後
「子どもの家」へ。
「子どもの家」で学生(飛んでけ車椅子)が手持ちして
運んで来た車椅子を障害児に贈呈。生後6ヶ月で発熱。
能と手足の障害を引き起こす。父親と来訪。
子ども用の車椅子を学生さんが手渡す。
その後、小山・中村・ハン・税田の各ベトナム事務所員と
大学生との対話懇談会。ボランティア、支援、「子どもの家」
NGOなど様々な質疑と応答を行う。
午後3時半、テレビ取材団・ミンさんと一緒に
フエ空港へ。
テレビ取材は11日間。朝早くから夜遅くまでの
超過密な取材日程を頑張りぬいた取材団の皆さんに脱帽、
感謝。良い番組が出来ることを祈っている。
フエ空港には福島大学経済学部のアジア経済ゼミの一行
8人も到着。ホーチミン市でもNGOなどの調査を行い、数日後に
帰国。
午後6時、11日ぶりに日本人スタッフと一緒に夕食。
投稿者 koyama : 18:56 | コメント (0) | トラックバック
2005年09月06日
福島大ゼミーナムドン山岳少数民族と交流
晴天。豪雨。
午前7時半、福島大ゼミ一行(8人)とナムドン山岳地帯へ。
午前9時。ナムドン郡中心地へ。更にTHUONG LO 小学校へ。
THUONG LO 小学校の子どもたちへ奨学金を贈呈する。
児童数140人。今回は60人の子どもたちへ奨学金を贈呈した。
校長先生と懇談。
校庭で一人一人の子どもたちに直接奨学金を贈呈する。
その後、ナムドン郡庁舎へ行き、郡長と面会。
山岳少数民族の生活・経済の実情などを聞く。
ナムドンからフエ市内へ戻り昼食。
チャオバンカン(米とキャサバ芋の煮込みうどん)を食べる。
チャオバンカン店の近くに退職した「子どもの家」の料理担当寮母の
フオンさんを訪ね久しぶりに懇談。
午後3時から日本語学校・日本語ガイドコースを参観。
数人のグループと日本語で懇談。
午後4時半~5時半まで福島大ゼミ生と懇談。ボランティア・NGO
「子どもの家」などについて。ベトナム事務所にて。
午後5時半から8時まで夕食。福島大ゼミは明日ホーチミン市へ。
その後、テレビ取材団(ミンさん・・)と大学時代の同級生の
大極安子さんと一緒に夕食懇談。
大極さんは子どもたちやスタッフに針灸・タッチセラフィーの
治療をしにフエを訪問。
帰宅時には豪雨。市内の道路が冠水。
投稿者 koyama : 07:09 | コメント (0) | トラックバック
2005年09月05日
新年度始業式・入学式
晴天・猛暑。
午前5時半からテレビ取材。終日。(詳細省略)
午前6時、「子どもの家」へ。
今日からベトナムの学校は2005年ー2006年の新年度が
始まる。始業式・入学式。
「子どもの家」の子どもたちは新しい通学服に着替え
フランスパンの朝食を食べていた。
午前6時半、子どもたちは学校へ。
高校新入生が二人、小学校1年入学児童4人。
午前7時前に小学校1年生になる4人の子どもたちと一緒に
グエンチャイ小学校の入学式へ。寮母のキムアンさんと。
4人の子どもたちは1年3組に入学。
始業式。3ヶ月ぶりに担任の先生と顔を合わせる「子どもの家」の
子どもたち。
1年3組に入学した4人の新入生・先生と記念写真
最後にグエンチャイ小学校の全教職員と一緒に記念撮影
その後、夕方までテレビ取材。
午後6時。テレビ取材チームとベトナム事務所員との
夕食会。
8月28日~今日9月5日までテレビ東京の取材があった。
かなりハードな日程ではあったが、テレビ取材チームの
皆さんの熱心な取材姿勢に押され、9日間の取材を
終える。あと2日間フエに滞在し、取材団は9月7日に
帰国する。
この9日間、帰宅も遅く、疲労と睡眠不足で体が棒状と
なる。良い番組が放映されることを祈る。
投稿者 koyama : 06:44 | コメント (0) | トラックバック
2005年09月04日
福島大アジア経済ゼミ「子どもの家」訪問
晴天・猛暑
朝5時半から午後7時までテレビ取材。(詳細割愛)
午前8時半、福島大アジア経済ゼミ8人(先生二人:学生6人)
は「子どもの家」へ。
子どもたちと一緒に近所のタイロック市場へ。
子どもたちと一緒に食事を作り昼食を共にする。
午後5時半よりベトナム事務所員ソン君の「ベトナム事務所
就職1周年お祝い会」を行う。
ベトナム事務所員全員・「子どもの家」セン・ロック・キムアン
ニエムさん、そしてソン君のお母さんが参加。
午後7時、ミンさん、税田さんと新日本語教師石岡さんを
出迎えにフエ空港へ。
到着予定より30分早く飛行機が着いてしまい、石岡さんは
空港出口でしばらくの間、一人で待っていた。
1年間、健康に気をつけて活躍してほしい。
午後8時半、宿泊ホテルへ到着。手荷物をホテルに置き、
石岡さんはトンチンカンホテルの1階にある日本料理店へ。
ちょうど「子どもの家」を訪問している福島大学ゼミの
皆さんと交流会。午後11時まで。ビール30本、吟醸酒数本を
飲み干し楽しい歓談交流会となる。
投稿者 koyama : 19:34 | コメント (0) | トラックバック
2005年09月03日
日本料理店仮開店:福島大ゼミ
晴天。猛暑。
午前6時半、日本料理店開店準備。
ベトナム事務所員・日本語学校の先生たちは
早朝から日本料理店の準備を始める。食事、飾りつけ・・・・。
午前11時前後からお祝いに訪れるベトナム人多数。合計30人。
11種類の和食を提供する。
インゲンのごま和え
肉じゃが
串揚げ
「子どもの家」の子どもたちも料理・接客に大活躍
警備員リー君
午後1時半、開店祝い終了。その後、ベトナム事務所員・関係者
一同で昼食反省会。
午後2時半。日本料理店開店の1日は終わる。
午後5時から福島大学経済学部ゼミに話をする予定だったが
行き違いで午後6時から午後7時半まで話をする。
その後、ミン・ベトナム事務所長も交えて福島大学ゼミと
夕食会。帰宅は午後10時。
福島大アジア経済ぜみ日本料理店訪問
福島大ゼミ生に話をする。
明日は午前5時半からテレビ取材。
投稿者 koyama : 00:20 | コメント (0) | トラックバック
2005年09月02日
終日テレビ取材:ベトナム独立記念日
晴天。猛暑。夕方一時雨。
午前6時15分から午後9時半までテレビ取材。
明日の日本料理店開店の最終準備。
投稿者 koyama : 00:10 | コメント (0) | トラックバック
2005年09月01日
テレビ取材:地球の歩き方ツアー晩餐会
晴天・猛暑。夕方から雨。
今日は午前6時過ぎから午後6時過ぎまでテレビ取材。
午前6時過ぎにトンチンカンホテルを出発し、王宮へ。
午前6時45分、ベトナム独立60周年記念式典に参加。
王宮前の大広場には数千人の人々で溢れていた。
30分ほど、文化活動。ワンパターンの歌と踊り。
労働者・農民・学生などが出てきて踊り、赤旗を振り回すという
何とも無粋なもの。高校程度の文化祭の出しものと見た。
トゥアティエンフエ省知事の挨拶。40分。暑い中、数千人の
参加者は立って知事の話を拝聴。私は来賓の椅子で。
午前9時、トンチンカンホテルへ。日本料理店の建築工事進捗
状況はかなり厳しい。
今日は9月3日の開店に向けて最後の料理と接客の練習。
「子どもの家」の子どもたちが作った「串揚げ定食」を食べる。
美味しい。とても上手に出来ている。浅漬けとおすまし付き。
昼寝なしで午後1時半、テレビ取材。午後6時過ぎまで。
帰宅午後9時45分。