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2005年08月31日

テレビ取材

午前中晴天。午後曇りのち豪雨。

午前8時~午後8時までテレビ取材。

投稿者 koyama : 22:38 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月30日

地球の歩き方ツーアー(25人)「子どもの家」訪問:テレビ取材

曇りのち晴れ。

午前8時半、ベトナム事務所へ。ミンさんなどと打ち合わせ。
午前8時半、「子どもの家」入所希望の母親と懇談。
午前10時、ミン・ソンさんと話し合い。

午後2時半、「子どもの家」へ。地球の歩き方ツアーの
皆さんが「子どもの家」を訪問。


音楽・絵画・日本語などを通して子どもたちと交流。

最後に「子どもの家」の庭で大縄跳び、綱引きをして楽しむ。

地球の歩き方ツアーの皆さんと子どもたちと記念撮影

午後5時。日本語学校訪問。

午後7時、テレビ取材団・ミン・ラームさんと夕食。

テレビ取材の詳細は省くが朝から1日テレビ取材に同行。

投稿者 koyama : 07:47 | コメント (0) | トラックバック

テレビ取材・地球の歩き方ツアー

昨夜から台風・カミナリ・暴風。終日雨。寒い。

午前8時、地球の歩き方ツアーがベトナム事務所を訪問。
ベトナム事務所員紹介。刺繍みやげ物店買い物。

午前8時半、テレビ取材団と日程調整・確認。

午前10時半~午前11時半まで「子どもの家」へ
地球の歩き方ツアー講演。

テレビ取材団・ミンさんと一緒に昼食。ブンボーフエ。

午後4時、日本語学校取材。
午後4時半、フォンzナンホテル喫茶室でテレビ取材団・ミンさん
と懇談。

午後6時過ぎ、日本語学校へ。
税田真理子先生がレセプションクラスの授業をしていた。


午後6時35分、中村友香先生、原かおり先生と生徒の
学習状態問題で懇談。

午後7時、日本語学校取材。ソン君の日本語学習。

午後8時半。テレビ取材団・ミンさんと夕食。
帰宅10時。

今日は終日雨。寒い。喉が痛く、だるい。風邪症状。

投稿者 koyama : 00:04 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月29日

日本語学校生徒面談:テレビ取材団フエ到着

快晴。蒸し暑い。

午前6時起床。
午前7時、NHK日曜討論を見る。

午前8時半、ベトナム事務所で日本語学校生徒と面談。

日本語学校ガイドクラスの生徒で出席率が30%以下、
成績不良の学生が二人いる。日本語学校の先生が
何度も注意し、このままだと退学しかないとの勧告を
何度も行っていたが、一向に態度の変化がないまま
今日に至っている。
ガイドクラスは1年間の基礎教育を終わり、10月からは
2年度の応用編の学習に入る。
2名の生徒の学力は2年目の学習について行けない
現実である。私の方で2名の学生に「退学勧告」を行う。
学生は色々なことを言っていたが、1時間ほどの話し合い
で退学を了承した。

その後、6名の成績不良学生を呼んで、しっかり勉強する
よう話す。

結局2時間ほどの話し合いとなる。
午前110半、トンチンカンホテルに戻りブランチ。

午後、ボランティア貯金の会計報告の資料作りをする。

午後7時にミンさんとフエ空港へ。テレビ取材団の出迎え。
バオミン・ホテルチェックイン。その後、バオミンさん、3人の
取材団と夕食。
帰宅は午後11時。

投稿者 koyama : 00:57 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月27日

ベトナム事務所全員会議

※日記は数時間おきに内容等を訂正・追加しています

晴天。猛暑。

昨夜10時に火炎樹日記アクセス数が14万件に達した。
2002年8月2日に始めた日記だが、3年間で14万件
アクセスして頂いたことに感謝。

朝6時半、JASSツアー団長の森田さんから電話。
成田空港に到着したとのこと。全員無事帰国できて
ほっとした。

全国大学生協ツアーは今日農村のホームステー。

午前8時半、ベトナム事務所刺繍みやげ物店の
先生と日本料理店「のれん」に打ち合わせ。
日本では一言で済むことだが、異文化の中では
そはいかない。何度も何度の打ち合わせをしても
なかなか思うような「のれん」は出来ない。
刺繍の先生も頑張ってくれている。

午前9時半、ベトナム事務所員全員会議。

8月28日から9月20日位までの諸日程と分担の打ち合わせ。

●テレビ東京取材(8月28日~9月7日)
●地球の歩き方ツアーⅡ(8月28日~9月2日)
●福島大学経済学部ゼミ(9月3日~9月7日)
●マブベの会(9月6日~9月10日)
●地球の歩き方Ⅲ(9月11日~16日)
●渡辺さん(9月12日~9月17日)
●法政大学人間環境学科(9月7日)
●独協大学千代浦ゼミ(9月21日~9月22日)
●前田さん(9月9日~9月14日)
●水本さん(9月11日から)

例年の訪問者対応である。既に大きな山を二つばかり
越しているが、更に二つほどの大きな山を超えなければ
ならない。

こうしてわざわざフエの「子どもの家」まで訪ねて来てくれる
方は本当にあり難い人々である。実際に「子どもの家」や
私たちの活動を見て頂くことで更に支援が広がるのである。
私たちはお金もない弱小NGOである。主要新聞に年間
数千万円から億単位の宣伝費を出している大手のNGOも
あるが、私たちは飽くまで草の根の手作りNGOを目指している。

午前10時、静岡市役所職員の山本さんがベトナム事務所を
訪問。応対する。アジアが大好きとのこと。

昼食後、30分ほと昼寝。午後、トンチンカンホテルは停電。
部屋は蒸し風呂。仕方がなく、ベトナム事務所で仕事。
しかし、ベトナム事務所もまた停電。しばらくして電気がつく。
ベトナム事務所でテレビ取材等の諸準備の計画を見直す。

27通のメール受信。17通のメール送信。

明日からテレビの取材。

高野連裁定に疑義あり。
駒大苫小牧の2連覇には盛大な拍手を送りたい。
しかし野球部長の暴力事件が発生。今日、高野連が
裁定をおこなっった。基本的にはお咎めなしである。

私は2点疑義を感じた。
第1は何故暴力を振るった27歳の部長が公開の場に出てきて
釈明をしないのかということである。子どもではあるまいし、
教員である。自分のしたことは自分で始末をつけるべきで
ある。

第2に野球部生徒(被害者ではない生徒)には責任はない、
可愛そうだとの意見がある。
ある母親はテレビのインタビューで「子どもたち(殴られなかった)の
心の傷を学校はケヤーしてくれるのですか?」などと言って
いた。
この程度のことでいちいち「心の傷のケヤー」などと
言っていたのでは、カウンセラーが何人いても足りない。
高野連は「高校野球は教育の一環である」と豪語している。
教育の一環であるのなら、問いたい。
野球部の生徒は、部長が暴力をふるっていることを知って
いた筈である。何故、生徒は暴力部長を告発する勇気を
もたなっかたのか? 「見て見ぬ振り」をすることは、暴力を
振るったことと同罪である。高校野球が教育の一環で
あるのなら、暴力を知っていて黙っていた生徒も同罪でる
という厳しい教育的指導が必要である。親が学校に
心のケヤーを要求する前に自分の子どもが部長の暴力を
知っていながら、告発も出来ない根性なしであるという
ことをこそ問題にしなければならないのである。
親はそのことを恥じるべきである。「うちの子をどうしてくれる」などと
息巻く前に、自分の子どもへの家庭教育が出来ていないこと
知るべきである。

今回の高野連の裁定は、公開の場に出て謝罪すべき暴力部長と
暴力を知っていて告発できなかった生徒の根性のない
精神をこそ問題にすべきだと思うが、間違っているのだろうか?
高野連・学校・親・地元の大人たちがよってたかって子どもたちを
「甘あま」なぬるま湯社会で育てたいように見えた。
ベトナムでこの種の問題が起こったらどう処置したろうかなどと
考えてしまう。高野連・学校が言っている「教育活動の一環」として
の高校野球であるのなら、優勝とか二連覇を言う前に、子どもたちに
社会人になるための責任、不正なこと、理不尽ことには屈さない
という人間として大事な生き方をこそ教えるべきだったのでは
ないだろうか?

投稿者 koyama : 08:53 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月26日

JASSツアー・全教千葉婦人部ツアーフエを発つ

午前5時起床。
昨日の日記の続きを書く。

午前6時半朝食。ブンボー。
午前6時45分フォンザンホテルへ。
全教千葉婦人部の皆さんが5日間の日程を終えて帰国する。
フエ空港まで見送る。ハノイ経由で帰国。

全教千葉婦人部ツアーの添乗員は太平観光のグーさん

フエ空港で記念撮影

同時刻、JASSツアーもホーチミン市経由で帰国のため
フエ空港へ。ミンさんがホーチミン市まで同行案内。

JASSツアーで大活躍をした渡辺君

JASSツアーの記録をとり続けた山田さん

ホーチミン市へ出発の間際、全員で記念写真を撮る。
森田団長、加藤事務局長、参加者の皆さん、
本当にお疲れ様でした。JASS代表としても感謝。

午前9時過ぎベトナム事務所へ戻る。日本料理店ののれん
作成の打ち合わせ。刺繍の先生と。

その後、この1週間ほどのメールをしっかりとチェックする。
必要な返事の一部を書き送信。

昼食後、30分ほど昼寝。

小樽にいる長男と孫から電話。
東京のテレビ取材の担当者から電話。

テレビ取材など8月末から9月20日過ぎまでの日程・
担当者配置案を検討。
メールの返信。

午後3時、ベトナム事務所へ。
日本料理店ののれんについて刺繍の先生と打ち合わせ。

全国大学生協連合会ツアーは「子どもの家」で
音楽、絵画などを通して子どもたちと交流。
ハンさん、サンさん付き添う。
 
「子どもの家」音楽室で交流

午後6時。久しぶりに日本語の先生たちと夕食を共にする。


投稿者 koyama : 18:46 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月25日

JASSツアー「ファンダンルー高校」訪問 

晴天、猛暑。夜雨。

日本事務所長寒河江幸子さんのお父さんの
通夜が昨夜、今日葬儀が執り行われた。
心からのお悔やみを申し上げたい。
関係者の皆さんの様々な努力に感謝。

午前8時、タイさん(ラームさんの兄)に頼み、
日本料理店の「のれん」の文字を拡大してもらう。
その足でベトナム事務所みやげ物店の先生に
のれん用に作り直し、刺繍などをしてもらう。

中村さんと9月3日の日本料理店開店の諸準備
について打ち合わせ。

午前8時半、JASSツアーが郊外の農村にある高校
「ファンダンルー高校」を訪問。

浴衣を着てホテルを出発。

2時間半の交流を行う。

「ファンダンルー高校」小山挨拶

森田団長挨拶

その後、日越両国の若者同士の交流となる。

午前11時まで交流。その後、JASSツアーと一緒に昼食。

午後2時半、ベトナム事務所刺繍みやげ物店の先生とのれん
打ち合わせ。

午後3時、「子どもの家」へ。今日は突然3人の退所、1人の
入所を相談となった。

A君。13歳。中1。祖父(72歳)が寂しくなったと言って
A君を引き取りに来る。
A君の母親はA君が生まれて3日後に死亡。
現在42歳の父親はその後再婚。1児(障害児)をもうける。
現在、祖父母と同居。A君の兄、再婚して生まれた
異父兄弟1人と同居。センさん、私は家庭環境からして
A君が祖父の家へ戻っても再婚した父親、義母の関係、
経済力を考えると、数年後にA君は通学出来なくなることは
必死と考え反対。しかし、祖父は何が何でも孫と住みたい
と言い張り、1時間もの間、論争となる。どうしても「親権」を
主張する祖父。A君の意見を聞くが「祖父と帰りたい」と主張。
結局、1時間以上の話し合いの末、A君の退所を認める。
A君の幸福を祈る。

B君(13歳)は今年の6月に仮入所。母親は「子どもの家」に
いて欲しいと何度も主張するが、B君は寂しいので退所
したいと繰り返す。長時間話すがB君の気持ちは
変わらない。B君は昨日、「子どもの家」を家出し母親いる
家に帰ってしまった。結局、B君の強い意志で退所と
なる。私やセン委員長は賛成できないのだが・・・。

B君


C子さん

今年6月に仮入所。母親死亡。父親は再婚。
祖父は何とか孫を「子どもの家」においておきたいと
孫を説得する。孫はどうしても祖父と生活したいと
主張。私、センさん、ミンさん、ロックさん、祖父と
1時間以上にわたり孫を説得するが、「寂しい」
「家族と一緒にいたい」を繰り返す。
最終的に祖父の意見で退所となる。

今日入所したPさん。12歳。
父親はラオスで森林伐採をしていたが、木が倒れ両足麻痺。
母親は農業。細々と生計を立てている。4人兄弟の2番目。
15歳の姉、7歳の妹、6歳の弟。「子どもの家」では全て
新しいことばかり。Pさんは、戸惑い、新しい出来事と
闘っているように見えた。みんなやさいし仲間なので
早く「子どもの家」に慣れるよう励ます。この寂しさ、孤独感が
Pさんを鍛えることを願う。

3時間ほど、ミンさんの通訳を介して子どもたちの説得、
家族の説得を行う。暑い。室内温度は40度。
座っているだけで体中に汗があふれ出る。
ただいるだけで疲れる。ミンさんや本人の言葉に集中し
神経を張り詰めながらの説得・話し合いは本当に疲れる。
しかし、一人一人の子どもたちにとっては一生の問題である。
最後まで子どもたちのために出来ることはしたいと思う。
午後5時過ぎに全て終了。声もでなくなる。くたくた状態。

「子どもの家」では、JASSツアーが最後の子どもたちとの
交流を行っていた。

JASSツアーと子どもたちとの記念写真


日本にいる長男から電話。

午後6時半。JASSツアーとお別れ夕食会。
始めに森田団長の挨拶。

続いて引率企画主任の渡辺君の挨拶。
渡辺君はこれで3年連続の参加。今年は参加者としてではなく、
ツアーの企画運営の責任者として参加し、ツアーの成功に
大きく貢献した。この4年間の渡辺君の成長は目を見張るものが
ある。

ツアー参加者一人一人の感想を言う。
どの参加者もこのツアーで何かを感じ帰国する。
女子は特注のアオザイを来て最後の晩餐会に
参加。

晩餐会の最後は、誕生祝い。今夜は男子二人の誕生を祝う。
大きな名前入りのケーキに入刀し、12歳、14歳の
誕生をフエで祝う。

午後9時近く、JASSツアーの晩餐会は終了。皆さんは
ミン・ベトナム事務所長の案内でフォンザンホテルへ。

私は手付かずに残った一つの誕生ケーキを「子どもの家」の
子どもたちに食べさそうと思いオートバイで「子どもの家」へ。

子どもたちは夏休みの残り少ない時間を楽しんでいた。

早速、宿直の寮母さんにケーキを切ってもらい子どもたちに
食べさせる。子どもたちは甘いものが好き。

子どもたちの喜ぶ顔を見てトンチンカンホテルへ帰る。
途中、雨となる。トンチンカンホテル着午後10時。

今日一日、暑く、内容の密な活動があり、精神的
肉体的に疲労の極地に達した感あり。

今日はJASSツアーの他に全教千葉ツアーはラームさん
の案内でクアンビン省の「フォンニャー鍾乳洞」へ。
片道4時間。往復400キロ。
大学生協ツアーは、ハンさん、サンさん、ソンさん、税田さんの
案内で「子どもの家」、平和村、オートバイ研修センター
などを参観交流。
日本人教師は日本語学校。
ベトナム事務所員全員で分担しながら活動を進めている。
8月、9月の中旬までは1年間で一番忙しい時である。
もう一息の努力が必要。

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2005年08月24日

バーベキュー大会:大学生協スタディーツアー

晴天。猛暑。蒸し暑い。

東京平和産業1階の日本料理店は少しずつ完成に
近づいてきている。今日は玄関がつけられた。

午前7時半、トンチンカンホテルを出発。大学生協スタディーツアー
6人の出迎え。午前8時20分、フエ空港に到着。
京都、福島、北海道など全国から参加。

ホテルにチェックイン後、「子どもの家」へ。
サンさんの案内で「子どもの家」の諸施設を参観。
午前10時から1時間ほど、「子どもの家」の歴史、ベトナム戦争、
ボランティア、支援などについて話す。

午前11時半、大学生協ツアー皆さん、サンさんと昼食。

30分ほど昼寝。久しぶりに昼寝。
その後、この間に溜まった受信メールを読み返信。
時間がなく急いでメールを読み返信。

9月3日開店する日本料理店のメニュー、内装等を
考える。中村先生が原案を作ってくれる。

午後3時、ベトナム事務所1階の刺繍みやげ物店へ。
刺繍の先生に日本料理店に掲げる「のれん」を依頼する。

午後4時過ぎ、「子どもの家」へ。バーベキュー大会。
10年近いバーベキュー大会は、内田さん、柳沢さん、
高橋さん、景山さんの寄贈によるものである。
いつものことではあるが深く感謝。

開会のことばは私が。「例年行われるバーベキュー大会
は内田さん、柳沢さん、高橋さん、景山さんからの寄贈によるもの。
感謝の気持ちを持ち、大いに楽しんで欲しい」と挨拶。

バーベキュー大会には、「子どもの家」の子どもたち63人、
スタッフ13人、在宅支援20人、JASSツアー14人、
大学生協ツアー6人、ベトナム事務所員など130人程が参加。
子どもたちは年に一度のバーベキュー大会を堪能した。

子どもたちとスタッフの皆さんは、年に一度のバーベキュー大会
を本当に楽しみにしていた。牛肉と豚肉を30キロ~40キロ。
ソフトドリンクを200本。2時間で全て平らげたエネルギーには
感心した。
バーベキュー大会で「子どもの家」もそろそろ新学年の
準備に入る。3ヶ月の夏休みの良い思い出となった。

投稿者 koyama : 22:43 | コメント (0) | トラックバック

JASSツアーとナムドン山岳少数民族との交流へ

晴天。猛暑。

日本事務所長寒河江幸子さんのご尊父寒河江一雄様が
お亡くなりになりました。心から哀悼の意を表します。

午前8時、ラームさんと一緒に「子どもの家」へ。
先日、フエ経済大学に合格し入学予定のメンさんの
今後の身の振り方について懇談。


早期に知り合いの家へホースムテーし、そこから大学へ行くことで
合意。近日中に退所式をし自立することとなった。
今後は「子どもの家」の後輩に勉強を教えたりするとのこと。
大学でしっかりと勉強し、就職することを祈る。

午前9時から10時までベトナム事務所でJASSツアーの皆さんに
講演。

午前10時過ぎ、JASSツアーはバスでナムドン山岳少数民族
訪問ツアーに出かける。

ナムドンは自然豊かな山岳地帯である。

午前11時40分、ナムドン中心部に到着。昼食を摂る。
山の清水で取れた「クレソン」や鹿の肉を食べる。

カトゥー族の子どもたちの歓迎の踊り


JASSツアー参加者の歌(涙そうそう)

高床式の民族家屋で交流

カトゥー族の皆さんが出してくれた「おこわ」を食べる。

カトゥー族の民族衣装を着て。

カトゥー族の子どもたち

カトゥー族との交流を追え、午後5時半にフエ到着。
その足でベトナム事務所の刺繍みやげ物店へ。
たくさんの刺繍を買う。

午後6時半からフォザンホテルでJASSとの夕食会。
午後8時過ぎ、夕食会終了。
今日も朝から1日、活動が続いた。蒸し暑い1日だった。
かなり体が硬直してきているのも事実である。

投稿者 koyama : 00:14 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月22日

全日本教職員組合(全教)千葉女性部ツアー

晴天。猛暑。

午前7時、全教ツアー出迎えのためフエ空港へ行く予定だったが
急に飛行機が遅れるとの連絡があった。当初、午前7時20分
ホーチミン市発→午前6時20分→午前11時20分へと何度も
変更が続いた。

午前8時半、JASSツアーはフエ平和村へ。皆さん、元気に
出発。ミンさん、原さんが案内。

午前10時、立命館大学国際関係学部の桂良太郎教授と懇談。

ベトナム航空は飛行機出発時刻の変更をお客に連絡しない
ので、全教ツアーは午前5時にホテルを出て、ホーチミン空港へ。
そのまま5時間、ホーチミン空港で待たされたのである。
フエ空港へ着いたの午前11時20分。私とラームさんで出迎え。

午後12時、フォンザンホテルに到着。3ヶ月前に予約してあった
リバービューの部屋が道路側の部屋に変わっている。
直ぐに抗議し変更を求める。今日はハノイの観光大臣、警察大臣
がフォンザンホテルに泊まるとのこと。そのため、全教ツアーが
予約していた「川側」の部屋は全て観光大臣、警察大臣
ご一行様に取られてしまった。この国はお客さんへのサービス
よりも「お偉いさん」へのごますりの方が大事な国なのである。
フォンザンホテル側は、当然の措置と言って威張っていた。
こちらは3ヶ月も前から「川側」の部屋を予約してあったのに、
などと言っても埒があかない国なのだ。

フォンザンホテルから直ぐに昼食へ。

昼食後、船上生活者の子弟が多いフールー小学校へ。
先生方15人ほどと交流。

日本の子どもたちの絵をプレゼント

紙粘土、絞り染めなどの教材を日越の先生方が共同で
交流体験する。

フールー小学校の先生方などが作った作品

交流の最後に全員で記念撮影

午後5時からベトナム事務所で1時間ほど全教ツアーの
皆さんに話をする。

午後6時半、全教ツアーの皆さんと夕食会

この日記を書きながら、朝からどんなことをしたのか考えたが
中々出てこなかった。とにかく忙しい1日だった。
朝から夜までトンチンカンホテルに戻れなかった。


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2005年08月21日

神奈川県青少年協会ツアー帰国・JASSツアーフエ到着

晴天。

午前5時起床。

日本料理店工事は徐々に進む。鉄筋の柱が出来た。

午前6時半、ラームさんと一緒にバオミンホテルへ。
神奈川県青少年ツアーが6日間のフエ滞在を終えて帰国の途へ。

青木団長さん以下、参加者全員の皆さんは様々な経験をして
日本へ帰る。「子どもの家」やフエで様々な経験・体験が今後
の人生に役立つことを祈る。

午前7時過ぎ、フエ空港へ到着。私、ラームさん、ソン君が付き添い。
ソン君も少しずつベトナム事務所員としての活動に慣れてきている
ようだ。

ラームさんも連日の仕事の疲れも忘れて一生懸命、ツアーの
お世話。

いよいよホーチミン空港へ出発。皆さん、お疲れ様でした。
無事、日本へ帰国できることを祈る。


しばらく、フエ空港に待機。

JASSツアーの皆さん14人がフエ空港へ到着。
昨夜はホーチミン市に1泊。今朝、4時起き、午前6時半頃の
飛行機でフエへ。
森田団長、加藤事務局長、山田記録・引率員など参加者の
皆さんは元気に到着した。ツアーの皆さんに12本の日本酒
を持ってきてもらう。我が家にあった吟醸酒など美味しい
日本酒。日本料理店で使う予定。重たいお酒を持って来て
もらい感謝。

バスで市内フォンザンホテルへ。
その後、ラームさんの案内で王宮参観、昼食、
「子どもの家」見学、自由交流。

その間、トンチンカンホテルの部屋でテレビ東京の
取材日程の最終仕上げチェック。

午後3時、静岡学園中学・高校校長先生、城南静岡高校
の先生と面会・懇談。
静岡市国際課の紹介。フエの高校生を留学生として
受け容れたいとのこと。1時間半ほど、フエの事情、
教育の実情などの意見交換。お二人とも私と同じ
昭和22年(1947年)生まれの同学年。何となく
「団塊の世代」の臭いがした。相通ずるものあり。

午後6時半、JASSツアーと夕食会。
参加者はしっかりと夕食を摂っていた。

午後9時半、日本事務所の内田さんから電話。

午後10時半、停電。電気とエヤコンが切れる。
真っ暗な部屋で歯を磨く。エヤコンも止まりそれなりに暑い。
バルコニー側のドアを開け、外に出る。町中が停電のようで
真っ暗。満月の月明かりがかすかに町中を照らしている。
この1ヶ月本当に忙しく活動し、月をみる余裕さえなかった。
満月の明るい月を見て、何かほっとし、停電に感謝の気持ちを
持つにいたる。


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2005年08月20日

神奈川県青少年協ツアー最終日・JASSツアー・ホーチミン着

晴天。猛暑。

駒大苫小牧優勝おめでとう。君たちは偉い。
とかく沈みがちな北海道に明るいニュースとなることを祈る。
ーーー私的北海道応援団員よりーーーー

ついでに今日も阪神が勝って、札束球団が負けた。ははは・・・。
ーー昔隠れ阪神応援団。今、巨人同情・哀れみ応援団ーーー

午前中、ボランティア貯金完了報告書の最終点検。
添付写真20枚を舟山さんに託す。舟山さんは
奥さんの実家に宿泊していた。訪ねてみると親戚の
子どもたちがゴチャとたくさんいた。いかにもアジア・
ベトナムの光景である。舟山さんも心の広い人だなあと
改めて感心する。8月24日までに担当者に届けなければ
ならない。明日、舟山さんは日本へ帰国する。成田の郵便局
で投函してくれるとのこと。私たちはこうした形で見えない所で
支援してくれている力に支えられているのである。深謝。

舟山さんの宿泊場所が「子どもの家」の近くなので、
「子どもの家」に寄る。神奈川県青少年ツアーが
「子どもの家」台所の壁塗り作業の最終段階。
作業終了後、「子どもの家」の子どもたちと
昼食の一品に広島風お好み焼きを作っていた。

ハンさん、ソンさんの二人が担当。
ツアー団長の青木さんが先頭になって炭火で子どもたちのために
お好み焼きを作る。台所では焼ソバを作っていた。

●青木団長自らお好み焼を作る

●ベトナム事務所員のソン君も大活躍

子どもたちと昼食。


トンチンカンホテルで昼寝をし始めたとき、ラームさんから電話。
電話工事のミスで電話が通じなくなった部屋があるとのこと。

そのまま受信メールのチェック。22通の受信。9通の送信。

テレビ東京取材日程等の最終チェック。

午後3時、「子どもの家」へ。「子どもの家」では神奈川ツアーが
子どもたちと交流していた。
ベトナム事務所員のソン君(「子どもの家」卒業生)が
子どもたちとの交流などの活動で積極的に頑張っていた。

午後6時半、神奈川ツアーと最後の夕食会。

午後、ホーチミン市から電話。JASSツアーが無事ホーチミン市に
到着したとのこと。

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2005年08月19日

諸問題の対策・準備、ボランティア貯金完了報告書作成

久しぶりに晴天。猛暑。

午前8時、フエ高等師範大学受験生のYさんをベトナム事務所
に呼ぶ。「子どもの家」のタムさん、ミンさんと20分ほど話す。
その足でフエ高等師範大学へ。受験関連の諸手続き。

ベトナム事務所へ行く途中、午前7時半。日本料理店警備員
リー君と調理人ターオ君が決められた大衆食堂で朝食を
摂っていた。二人とも真面目に日本料理店の建築作業や
日本料理調理実習に励んでいる。この調子で生活を向上させて
くれることを祈る。二人との付き合いは10年になる。
「腐れ縁」。どういう訳かこの二人がどんな問題を起こしても
私はついつい付き合ってしまう。何か人間としての魅力が
あるのかも知れない。二人の自立成長を願っている。

朝から夕方までトンチンカンホテルは停電。と言っても停電の発信人は
日本料理店工事。日本料理店の電気工事のため1日電気を切る。

午前中、ベトナム事務所で「2004年度ボランティア貯金完了
報告書」作成。付属資料等を含め完成。日本事務所関係者に
送信。写真等資料はフエに来ている舟山さんにお願いし
日本へ持って行ってもらう。

日本料理店の厨房で中村先生の指導の下にサンドイッチ、
コロッケなどの調理実習が行われていた。
中村先生、ターオ君・グエットさん・ニーさん・ホンさん(店長)。

ポテトサラダ

玉ネギをおろす

食パンにバターをぬる


玉子サンド

午後、ラームさんといくつかの問題について懇談。
停電が続く。ベトナム事務所へ。ミンさんと諸問題について
懇談。日本語学校主任フーンさんと懇談。

午後、22通のメール受信。12通のメール送信。

ベトナム事務所で仕事。テレビ取材の諸準備。

午後7時から8時、JASSツアーの森田団長より電話。
明日、JASSツアーが成田を出発する。

日本事務所の内田さんから電話。

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2005年08月18日

神奈川県ツアー・大学生協ツアーの諸活動

朝から雨のち曇り。

午前8時からフォンザングループ総支配人と懇談。1時間。
めがねが壊れてしまい物が良く見えない。
午前9時、ラームさんと一緒に近くの大きなめがね屋へ行き、
私のめがねのレンズを使って、新しいフレームに入れられるか
どうか聞いてみる。

出来るとのこと。金属アレルギーなので
チタンのフレームを聞くとそれもあるという。日本製とのこと。
エンペラーという日本製だと自信ありげ。
この辺から多少「まゆつば」になってきたが、それでも
めがねが必要なので作ってもらう。5分で新しいフレームに
私の壊れためがねのレンズを入れてくれる。
45万ドン(3300円)。フレームにレンズをいれる手作業は
見事なものだった。私の額と顔に合わせてめがねを調整
してくれる。本当に助かる。

午前9時半、オートバイで「子どもの家」へ。
「子どもの家」で大学合格の子どもとしばらく身の振り方を
話し合う。

神奈川県青少年ツアーの皆さんが「子どもの家」の厨房の
ペンキ塗りボランティアをしていた。真っ黒なすすの中、
厨房の壁にこびり付いているすすを取る。
食堂では壁の汚れを取りペンキの下塗りをしていた。
団長さん以下、全員が頭・顔体中すすで真っ黒になっての
仕事である。子どもたちのために食堂・厨房のペンキ塗りを
して頂き感謝。

神奈川県青少年スタディーツアー団長さんもすす払い

大学生協ツアーの皆さんは、近くのタイロック市場へ買い物へ。
食堂前の中庭で子どもたちと一緒に昼食作り。

午前11時過ぎ、「子どもの家」音楽室で生協ツアーの
皆さん・子どもたちと一緒に食事。

午後12時半、トンチンカンホテルへ帰宅。

午後1時半、メール受信・返信。

午後4時過ぎ、フエ高等師範学校へ。
学校では合格発表が行われていた。
受験者全員の名前・各教科の得点一覧表が貼られていた。
また特例として革命烈士の家庭、少数民族などの合格点
一覧表も貼ってあった。普通の合格点より2点から3点低い。
30点満点の2点、3点は大きい。
学長と面会。関係する諸問題を話し合う。

午後6時、舟山さん一家の歓迎夕食会。
舟山・THUY一家とベトナム事務所員の懇親会を
行う。数年ぶりにフエへ戻った舟山さんだが
フエの変貌振りい驚いている様子。
可愛いお嬢さん二人(3歳、8ヶ月)。
JASSの存在が日越友好の証であるお子さんを
二人も生み出した。二人のお子さんの健やかな
成長を願う。将来日越、日本とアジアの架け橋と
なって活躍することを祈っている。
ベトナム事務所員、外務部長ニエン氏、外務部員
ホアン氏などが参加。

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投稿者 koyama : 17:15 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月17日

全国大学生協連ツアー(11人)「子どもの家」へ

曇り時々雨。

朝、ボランティア貯金完了報告書付属資料の整理。
午前9時、舟山さん(1996年から5年間ベトナム事務所員)
家族がベトナム事務所を訪問。フエ出身の奥さんと二人の
お子さんに恵まれ、幸せな家庭生活を送っていることが分かる。

舟山さんがベトナム事務所にいた時期は、JASSベトナム事務所
が一番大変な時であった。フエの様々な政治的な軋轢
に翻弄され、「子どもの家」運営も思うようにすすまず、苦闘して
いた。そんな時、私たちの活動を100キロの体力を
生かして支えてくれたのが舟山さんだった。舟山さんの
応援がなけれなどうなっていたか?などと時々考える
ことがある。5年間フエにいて1度しか帰国しなかたのも
強い意志の現れである。舟山さんのJASSや「子どもの家」への
大きな貢献に心から感謝したい。と書きながらフエ美人の奥さんと
結婚できたことで、「子どもの家」支援の苦労も帳消しだ、
などと勝手に解釈している。

その足で「子どもの家」へ。「子どもの家」では全国大学生協
連合会スタディーツアーが来ていた。ラームさん・松下さん
が諸施設を案内していた。

午前10時。「子どもの家」2階でスタディーツアーの皆さんに
ストリートチルドレン・NGO・貧困・戦争問題などを1時間ほど
話す。

二つの大学受験に合格したメンさんと今後の進むべき道に
ついて話し合う。

午後12時。トンチンカンホテルへ帰る。トンチンカンホテル
1階では日本料理店研修生の3人とホン店長が
「だし汁」「肉じゃが」の作り方を勉強していた。
中村日本語教師が教える。

午後、ボランティア貯金完了報告書関連資料・写真等の整理。
9月フエ訪問者の日程調整。

午後4時半、ラームさんと打ち合わせ。
午後5時、ミンさんと一緒に「メガネ屋」へ。
壊れたメガネの修理を頼むが修理不能とのこと。
「修理できない」と言う店主の手には新しいお勧めのめがね
あった。三軒のメガネ屋さんに行ったが、どこも
新品を売りたいという魂胆ミエミエ。結局、メガネ直らなかった。

日本料理店工事は着々と進む。
今日の工事で1階の部屋の窓と入口ドアが取り払われる。
誰でもトンチンカンホテル(東京平和産業)1階に出入りできる
ようになった。夜、物騒なので早速警備員のリー君と
料理研修生のターオ君が泊り込みで「見張り」をすることに
なった。

1週間ほど前から洗濯機が故障。洗濯物が溜まってしまった。
一昨日ラームさんと新しい洗濯機を買いに行ったが、
フエには、乾燥機つき洗濯機はなかった。ダナンのお店に
注文。先週、手洗いで洗濯はしたものの曇りや雨が
多く、生乾き。洗濯機よ早く来い。

投稿者 koyama : 19:46 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月16日

神奈川県青少年ツアー「子どもの家」訪問

曇りのち豪雨。

午前中、ベトナム事務所でボランティア貯金完了報告書作成。
このところ雨か曇りが多く気候の変動が大きい。体がついて
行けないところあり。

1時間ほど昼寝。なかなか起きられず。

静岡市国際課より電話。
静岡学園高校より電話。
ハノイに舟山さん到着。ハノイより電話。

午後3時、「子どもの家」へ。神奈川県青少年ツアー(18人)
が「子どもの家」を訪問。交流。

「子どもの家」の子どもたちによる歓迎の歌と踊り

●ゆかたを着て日本の歌をうたう

●新学期を待つ喜びを歌う

神奈川県青少年ツアーの皆さん(中高大・社会人)は
松健サンバを披露。「子どもの家」の子どもたちには大うけ。

その後、税田さん・サンさんが「子どもの家」の諸施設を案内

午後3時半より私の講演。かなり蒸す暑く、気分を悪くする
人も出る。

その後、子どもたちと遊ぶ。

綱引き、徒競走、縄跳びなどで大いに盛り上がる。

ツアー参加者より「手作り絵本」を頂く。

交流は午後5時半まで続く。
神奈川ツアーと案内のミンさん、サンさん、税田さんは
ツアーと一緒にマイクロバスでホテルへ戻る。
私はオートバイで。ちょうど、帰る頃に豪雨。
セン委員長から薄いレインコートをもらいトンチンカンホテル
まで帰るがずぶぬれ。トンチンカンでびしょぬれ姿のまま
メガネを外す。メガネが壊れレンズを支える合成樹脂の
紐の接着剤が取れてしまう。片方の耳に挟む棒もとこかて
行ってしまう。昨年、札幌で飲んだあと枕元に置いためがねを
踏んでこわしてしまった。とうとうここにきて完全破壊状態。

午後6時半、神奈川県ツアーの皆さんと夕食。
バオミンさんも一緒。

ツアー参加者は「子どもの家」で十分体を動かしたので食欲旺盛。

午後8時過ぎ帰宅。
妻からメールあり。東北地方の大きな地震。
福島にいる長男の様子を知らせてくる。かなり大きな
揺れだったようだ。幸い無事とのこと。

このところ地震も多い。政治的な地震も多発。
小泉首相は猪口氏、ホリエモンを候補者に
擁立するとのこと。ここまでなりふりかまわず
候補者探しをするか・・・・・。
亀井氏・綿貫氏などが新党を作るようだ。

トンチンカンホテルの部屋のパソコン上に貼ってある
日程表を改めて眺めてみる。これから9月20日まで
1ヶ月ほど全く休みがない日程になっている。
多くの訪問者、テレビ取材などがあることはありがたいこと。

夜、日本事務所の内田さんより電話。大学合格した里子の
今後の身の振り方について助言を頂く。

昨日、「子どもの家」で「フエ市越日交流委員会」の
説明を行った。今日の神奈川県ツアーとの交流など
スタッフは一層頑張って子どもたちの面倒をみていたように
思われる。「雨降って地固まる」ことを祈る。

日記を書く。2時間かけて書いた日記がパソコン操作ミスで
全て消える。
メガネがなくテレビがよく見えなくなる。

今日は45通のメール受信。10通の送信。

最近、ベトナム事務所のメールは異常。
事務所宛のメール送受信が出来ない。
プロバイダーで操作しているとしか思えない
メール送受信状況である。詳細は省くが・・。

投稿者 koyama : 04:17 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月15日

「子どもの家」全員集会・愛国人士表彰

終日くもり。
今年のフエは異常気象である。例年は35度から40度と
いう猛暑なのだが、曇りだったり雨だったりと気温も低く
体調を保つのが大変である。

午前9時、ベトナム事務所に在宅支援のH君のお母さんが
訪ねてくる。

H君は現在17歳。幼児の頃高熱を出して
左手足が麻痺。右手も60%程度しか機能しない。
それでもJASSの支援で学校へ行くと成績はいつも
最優秀。母親もH君も勉強に希望を抱いて生活していた。
母親は事情があって夫がいない。H君との一人暮らし。
2005年3月、H君は急に発熱し正常な意識と判断力を
失った。5月に私が家を訪問するとH君はただニヤニヤ笑って
いるだけだった。私やミンさんを認識することも正常な反応を
することも出来なかった。
その後、病院の投薬と治療のかいもあって今日(こんにち)
では人の識別が出来るようになった。また字も読めるようになり
多少は書ける様になった。時刻も分かる。ただ、以前のように
学校へいって勉強をするのは無理なようだ。
1997年から帯広在住の支援者が支援を始めた。
今日、お母さんから生活実態を聞く。お母さんは幼稚園で
給食を作っている。月給は60万ドン(5000円)。
それに里親の支援金を足して食事代はなんとかなるとのこと。
通院投薬治療代は無理。帯広在住の里親から病気通院費用
の追加支援があり、現在は生活と通院は何とかなっている
とのこと。私はお母さんの実情を聞いてみた。

お母さんはクアンビン省から1980年にフエへ来たとのこと。
クアンビン省はベトナム戦争中は北ベトナム。
家族は?との質問に「父親は15歳で抗仏戦争に参加。
その後対米戦争にも参加した」とのことだった。
50年共産党員の表彰も受けた。ベトナム共産党
機関紙「ニャンザン」(人民)の記者となり活動していた
そうだ。1975年の対米戦争が終了したあと、父親は
死亡。一家は2度の「英雄勲章」をもらった父親の死を悼んだ。
共産党・政府から弔慰金として200万ドン(15000円)、
机、タンス、ベッドをもらったそうだ。
政府や共産党からの支援はそれだけだった。
お母さん(50歳)の父親は革命の第2世代。ホーチミン主席
の次の世代で抗仏・抗米戦争の中心世代である。今の
ベトナムを作り上げた世代とも言える。
現在ベトナムの政治の中心になっている世代はベトナム戦争中
学生か若者だった世代である。革命の第3世代。
今、この第3世代が知事や共産党委員長などの特権を利用し、
子どもを海外へ留学させたりワイロや公金を横領したりして蓄財、
家族親戚の繁栄を謳歌したいる。
それに比べ、命をかけて抗仏、抗米闘争を闘った革命第2世代は、
2万円弱の弔慰金といくつかの家具で終わりである。
本当に今のベトナムを作った革命第2世代(70歳、80歳)
はベトナムでは不遇である。50歳代の第3世代が一番
「景気が良い」のはどうしてだろうか? 
などと母親の境遇を聞きながら考えてしまった。
いつの時代もどこの国にも甘い汁を吸って生きている
ような人間がいる。真っ当に行動した人間は
いつも馬鹿をみるのも世界共通。

午前9時から東京平和産業1階では日本料理店の
調理研修が行われていた。ニー、グエット、ターオ、
税田・松下・中村さんが「てんぷら」作りを指導して
いた。店長のホンさんも参加。どういう訳か
警備員のリー君も参加していた。

今日の天ぷらは、なす、いか、えび、かぼちゃなど。
エビの腸(ワタ)の取り方、小麦粉のつけ方、えびの
しっぽの処理などを教えた。

ドンバ市場で「たこ」が手に入った。
刺身にしたらうまい。早速冷凍にして保存。


最後にみんなでお楽しみの試食会。
「子どもの家」の子どもたちは上手にてんぷらを作っていた。
日本料理店開店への見通しが出てきた。
2人の「子どもの家」の子どもと卒業生のターオ君が
多くの経験をしながら立派に成長し自立してくれることを願っている。

午後4時、「子どもの家」でスタッフ全員会議。
主催は「フエ市越日交流委員会」(委員長ニエン、副委員長
小山)
今日の全員集会の目的は、副市長が出した通達・児童保護委員会
が「子どもの家」を管理しようとする動きをけん制し、「子どもの家」は
法制的にJASSを中心に「フエ市越日交流委員会」という公的機関
が管理運営するものであることを「子どもの家」内外に表明する
ことである。


ミンベトナム事務所長の司会で始まる。


①初めにニエン「フエ市越日交流委員会」委員長の報告。

・JASSはフエ市人民委員会と共同プロジェクトを行って
 10年になる。2002年、今後更に10年間の活動を
 展望し、フエ市長と小山JASS代表が新しいプロジェクト
 契約書にサインした。
・この契約を有効に実施するためにフエ市長・JASS代表
 フエ市共産党委員長が「フエ市越日交流委員会」の
 設立で合意した。この合意はフエ省知事の認可も受けた。
・「フエ市越日交流委員会」は「子どもの家」、静岡会館、
 オートバイ研修センター・工場を直接管理するものである。
 ベトナムの公的機関である。
・「フエ市越日交流委員会」の役員は以下の4人で構成する。
 委員長:ニエンフエ市人民委員会外務部長 
 副委員長:小山JASS代表
 委員:セン「子どもの家」委員長 
 委員:イックホアン(小山の教え子)
・今後、「子どもの家」は「フエ市越日交流委員会」の
 直属組織となる。
・何故、今こうしたことを発表するのかというと、
 今までフエ市人民委員会外務部の移転など多忙で
 具体化できなかった。
・「子どもの家」の活動は今までと同じだが、児童保護委員会
 などの指導下には入らない。直接、「フエ市越日交流委員会」
 の指導下に入るものである。

②イックホアン委員の「フエ市越日交流委員会」設置決定書朗読

 フエ市人民委員会、トゥアティエンフエ省人民委員会が
 「フエ市越日交流委員会」の設置を決定した文書を朗読し
 「子どもの家」スタッフに周知徹底する。
イックホアンは12年前に私が日本語を教えた学生。
 ラームさんとミンさんと同級生。現在はフエ市人民委員会
 外務部員。

③「フエ市越日交流委員会」副委員長小山挨拶

 ・1993年10月からチーラン「子どもの家」を作り
  ストリートチルドレン支援をはじめた。その時、一緒に
  活動したスタッフがこの中にもいる。ロック寮長、キムアン
  寮母、ニエム寮母。それから12年になる。
 ・グエンチャイ「子どもの家」が今日のように大きな活動が
  出来るようになったのはスタッフの皆さんのお陰と思い
  心から感謝している。
 ・今回、「フエ市越日交流委員会」の指導下に「子どもの家」
  も入ったが、今後、一層子どもたちのために活動を進めて
  欲しい。

③セン「子どもの家」委員長挨拶

 ・私は「子どもの家」のスタッフになって嬉しく思っている。 
 ・皆さんと一緒に子どもたちのための頑張りたい。
 ・「子どもの家」スタッフの仕事は単純労働ではない。
  子どもたちに愛情をもって、育てるという難しい仕事である。
 ・「子どもの家」はこの10年間の活動を通して高い評価を
  受けている。これから組織・システムを変えて一層、 
  子どもたちのために頑張ろう。

④「子どもの家」スタッフとの質疑

「子どもの家」労働組合委員長ロック寮長からの質問

 ・給料は誰から出るのか?
  (答え)JASSを通して「フエ市越日交流委員会」から
      支給される。
 ・印鑑・銀行の通帳は誰が持つのか
  (答え)「フエ市越日交流委員会」。つまり決定権と
      財政権は「フエ市越日交流委員会」は持つ。
 ・「子どもの家」労働組合は今後どこに所属するのか?
 (答え)「フエ市越日交流委員会」労働組合と称して欲しい。
     「子どもの家」、オートバイ研修センター、静岡会館の
     労働者が「フエ市越日交流委員会」労働組合を
     作って欲しい。

●午後5時、トゥアティエンフエ省人民委員会から連絡。
私にトゥアティエンフエ省人民委員会が「愛国人士表彰」
を授与するとのこと。表彰状と記念品を持ってくる。


今日は8月15日。日本では「終戦記念日」であるが、
ベトナムでは、日本軍国主義敗北記念日である。
60年前の8月15日。日本軍国主義の敗北は
ベトナムの独立と革命の始まりを意味した。
1945年8月15日。ベトナムを占領していたのは、
日本軍国主義。植民地支配者であったフランスは
ドイツに占領され、数ヶ月前にやっと連合軍に
解放されたばかり。8月15日、日本軍国主義の
敗北をきっかけに全土で革命運動が起こり、
グエン王朝のラストエンペラーであるバオダイ皇帝
が退位。1945年9月2日、ハノイでホーチミンが
独立宣言を発したのである。独立宣言には
ベトナムの独立は日本軍国主義とフランス植民地主義
からの独立解放であると明記されている。
今日のベトナムテレビでは「8月革命記念集会」
が各地で行われたことが報道されている。
8月15日はベトナムにとっては独立と8月革命
社会主義革命始まりの日である。

8月15日を記念し「2001年から2005年までの間で
ベトナムの愛国運動を推進した特筆すべき人士」に
愛国人士表彰を行う。今回外国人は私一人だった。
明日、トゥアティエンフエ省文化会館で表彰式。
表彰式は欠席する。
私以外に「愛国人士」表彰をもらう人の多くは、
抗仏戦争に参加したり、抗米救国戦争に参加した
「古参の共産党員」である。現在、各地人民委員会の
仕事していたり、国営大企業の社長をしたいたりしている。

日本では8月15日をめぐり靖国神社参拝をする閣僚が
いたり、CNNに東条英機の娘さんが出演し、アジア太平洋戦争
は「自存自衛の戦争」「アジアを欧米の侵略から守る戦争」
「アジア独立の戦争」だと話していた。
そんな時、アジアの一国ベトナムでの日本軍国主義の敗戦を祝い、
ベトナムの愛国運動に顕著な功績ありとして「愛国人士」表彰
をもらうというのも不思議なめぐり合わせである。


投稿者 koyama : 22:33 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月14日

久しぶりの休日

晴天のち曇りのち雨。

7月20日にフエへ戻って26日目にして初めての休日。
午前7時、NHK日曜討論。
当初、党首討論だったようだが、自民党は安倍副幹事長、
民主岡田党首、公明神崎代表、共産志井委員長、民主福島党首。
自民は「郵政・ガリレオ解散」だそうだ。民主は「政権交代選挙」。
公明は小泉首相の靖国参拝には賛成できないと主張。
共産志井委員長は、「郵政解散には正面から対決する」と。
社民福島党首は「郵政解散は間違っている」と。

夏の暑い最中の選挙運動は大変だろうな、などと同情して
しまう。

午前8時過ぎ、ドンバ市場までウオーキング。
小麦うどん「チャオバンカン」700グラム(60円)と
ねぎ(7円)を買う。

午前9時半、ぬるま湯に20分ほど入浴。
フエに戻って初めてゆっくりと入浴する。
フダビール2本。純米吟醸「浦霞禅」をほんのちょっと舐める。
NHK素人のど自慢を見る。
チャオバンカンを茹でて昼食とする。

午後12時過ぎ、昼寝。
午後1時半、「2004年ボランティア貯金完了報告書」作成。
実際に行った事実を細かく記載。

午後3時過ぎ、「子どもの家」へ。大学に合格したメンさんに
インタビュー。

メンさんはフエ経済大学経営学部、フエ科学大学生物学科に
合格。フエ経済大学に入学したいとの意向をもっている。
昨年は、受験に失敗。1年間の浪人生活の後、今回の
合格となった。ベトナムの大学進学率は5%とのこと。
フエ経済大学はベトナム中部では難関大学。
本人の努力とメンさんを側面から支援した里親の
内田さんの応援が功を奏したものと思う。
メンさんの大学入学を祝福したい。
昨日紹介したカイン君。そしてメンさん。
大学に入ることで自立してもらいたいと思っている。

「子どもの家」では北海道・函館の菊先生と川人さん
から依頼された函館での「子どもの家」の展覧会用の
絵を描いていた。税田さんが指導していた。

7月に早稲田大学の国際協力論の授業をした。
授業に参加した学生の安田君が「子どもの家」に来ている。

安田君と1時間程話す。

午後5時、トンチンカンへ戻る。
ボランティア貯金完了報告書の作成を続ける。

16通のメール受信。8通送信。

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2005年08月13日

日本語学校打ち合わせ、ティン君誕生会、メンさん・カイン君大学合格

曇り・時々雨

午前8時過ぎ、日本語教師の中村さんと懇談。
午前8時半、日本語学校打ち合わせ。
一般コース、ガイドコースなどコースごとに担当の先生
から前進面や問題点、悩みなどが出され、みんなで
話し合う。学生の成績・出席率・授業態度など色々な
問題、今後の課題が明らかになった。


午前10時、ミンさんと「子どもの家」へ。
上原祥子さんの里子「ティン君」の誕生会。
8月14日はティン君9歳の誕生日。里親の
上原さんがティン君だけではなく、「子どもの家」の
子どもたち全員に誕生ケーキをプレゼント。

2階音楽室で簡単な誕生祝を行う。
ロック寮長の司会で始まる。始めに里親からの
プレゼントであるTシャツなどを贈呈する。

続いて誕生ケーキの点火とカット。

ティン君がお祝いの歌をうたう。

みんなのお祝いに笑顔のティン君。
たまにはこうして「スポットライト」を浴びる日があっても良い。
友達のL君も大人の恋愛の歌を歌い、大うけ。

L君がお祝いの歌をプレゼント

午前11時過ぎに誕生会終了。
直ぐに昼食。

先日、「子どもの家」内の暴力で打撲を負ったL君。
昼食は5杯も食べた。元気溌剌。

昼食後、3つの誕生ケーキを60等分し全員で食べる。
子どもたち全員にケーキを寄付してくれた上原さんに感謝。
それにしても子どもたちは「甘いもの」が大好きなようだ。

午後12時過ぎ、トンチンカンホテルに戻り昼寝をするが、
日本料理店の工事がうるさくて眠れない。

久しぶりで妻と電話で話す。あまり体調は良くないようだ。
学校の様子、親戚などの様々な出来事を聞く。
東京は昼間も夜も猛暑とのこと。暑くて大変そう。

昨日、発表される予定だった大学入試の発表は午後になって
もない。この間、セン委員長、ラームさん、その他関係者が
何度もフエ大学本部掲示板を見に行ったが、掲示されていない。

午後4時過ぎになってやっと発表があったとのこと。

今年は4人大学を受験したが、メンさん、カイン君の2人が
見事に合格した。

●メンさんは以下の大学に見事合格
 ・フエ経済大学経営学科
 ・フエ科学大学生物科

●カイン君は
 ・フエ師範大学数学科に見事合格。

午後5時前に「子どもの家」へ。
残念ながらメンさんがどこかに出かけていて不在。
カイン君の大学合格のインタビューをする。


(小山) 今の気持ちは?
(カイン) とてもうれしい。
(小山) 受験勉強はどのくらいしたの?
(カイン) 学校から帰って毎日6時間位。
(小山)大学で4年間勉強した後、何になりたいの?
(カイン)高校の数学教師になりたい。

カイン君は両親がいない。7年前に「子どもの家」へ入所。
大学でしっかりと勉強し、未来のベトナムの子どもたちを
育てる立派な数学教師になって欲しい。
これでカイン君の自立への道は大きく開けることになる。

私たちは今、一人一人の子どもたちに寄り添い、自立へ
向けて一歩一歩歩んでゆけるよう援助している。

大学に行く子もいれば、日本料理店で研修する子もいる。
職業訓練や得意な能力を伸ばして音楽、美術などの
勉強に励んでいる子どももいる。
様々なコースを辿りながらも「自立に向けて」確実な一歩を
歩んで欲しいものである。
「子どもの家」にいる子どもたちの命は小さなものではある。
60数人の子どもたちの小さな命と人生を何よりも大事に
したい。戦後60年。戦争は最も人間を粗末にする。
人間を物とし、人間の命を虫けらのように扱う。
人間の命と存在、そして人間性を否定されるものが戦争である。
戦争反対を声高に叫ぶ代わりに、私は子どもたちの小さな命を
何よりも大切にし、立派な大人にすることで、今行われている
アフガン、イラクなどの戦争と暴力へ抗議し、そして平和を
希求したいものである。

午後5時過ぎ、フォンザングループのドン社長と懇談。
様々問題について話し合う。

夕食。松下先生、原先生は「子どもの家」と静岡会館の
日本語学校へ。ラームさんと日本料理店建築の進捗状況を
話し合う。
税田さん、中村さんとしばらく世間話。

日本料理店で出す納豆を試作する。これで3回目。今までの
2回はねばりが出ずに失敗。今回は圧力鍋を買い、大豆を
柔らかく煮る。今まで2回の試作の失敗は、納豆菌がしっかりと
成長していないこと。その原因は不明。今回は、納豆菌を
水に溶かずに直接煮た大豆にふりかけかき混ぜた。
明日の午前8時頃、24時間(28度の保温)が経過し
出来上がる予定ではあるが・・・・・。
何とか早く手作り納豆のノーハウを確立し、「子どもの家」の
子どもたち研修生に教えたい。引き続き「豆腐」作り。
その後、時間があれば農家に行き「ぬか」を見つけ
「ぬか床」を作り、ぬか漬けにもチャレンジしたい。

投稿者 koyama : 23:25 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月12日

フエ副市長通達問題解決

終日雨。

日航ジャンボ機墜落から20年。
20年前のあの日、私はパリにいた。
パリのテレビで日航機の墜落を知った。
それから飛行機に乗るのが怖くなったことを
覚えている。
日航(JAL)はこの墜落を反省し教訓を学んで
きたのだろうか。この間、度重なる事故が起こっている。
今日も福岡空港・ホノルル行き日航機のエンジンが
燃えたとのこと。

午前9時、フエ市人民委員会外務部で懇談。
外務部長・副部長・部員。小山・ミン・ラーム。
午後10時半まで1時間半の懇談となった。
結論として、副市長通達問題は解決した。

昼食はそうめんの精進料理。

東京平和産業(トンチンカンホテル)では、日本料理店の
工事が急ピッチで進められている。
「子どもの家」卒業生のリー君、日本料理店研修生の
ターオ君の二人は、日本料理店工事の手伝いをしていた。
毎日朝7時半~午後5時まで。(途中2時間の昼寝)


日本料理店は店内の壁が取り払われた。

午後はテレビ取材の日程表等の計画。
奨学金支援者へのお礼状などを書く。

今日はベトナムの大学の合格発表の日と言われていたが、
夜になっても正式な発表がない。
「子どもの家」では4人の受験生がいるのだが、いつまで
たっても最終的な合否が分からない。
今日はハノイの文部省(教育訓練省)で大学入試の
特別枠の%が決められる日である。
特別枠とは、ベトナム戦争で解放戦線の兵士として
戦い戦死した烈士の子どもたちのための合格枠。
成績は悪くても、親がベトナム戦争で解放戦線側の
戦闘員などで戦死したり功績をあげた人の子どもたち
のための「特別枠」があり、別枠で大学に入学できる。
少数民族のための特別枠もわる。
「子どもの家」などの子どもたちは、そうした関係者が
いないので一所懸命勉強し、良い成績をあげるしか
ないのだが・・・・・・。
ベトナムでは特別枠という「裏口入学」のような
邪道な制度がある。真面目に勉強するのが
馬鹿らしくなる制度ではある。受験生と親の
功績とは別物である。結局、今日は合否がわからない
まま終わった。

8月4日付けで出された副市長通達問題をフエ市人民委員会
外務部と協議。
副市長通達は、今後、フエ市内の「子どもの家」には
フエ市内の子どもたちだけ入所させること。郊外の
子どもたちの入所は原則的に出来ないというものである。
現在、私たちの「子どもの家」にいる子どもたちの大半は
フエ郊外の貧しい農村やフエ省の隣りのクアンチ省・クアンビン
省・ゲアン省などの子どもたちである。
この副市長通達では、これら本当に困っている子どもたちを
私たちの「子どもの家」では助けることが出来なくなって
しまう。到底、私たちが納得できるものではない。

様々な情報を探って以下のようなことが判明。

この通達を実際に書いたのは児童保護委員会のT氏であった。
T氏はこの12年間、繰り返し「子どもの家」の乗っ取りを
画策してきた。1994年に「子どもの家」を建設したが
5年間、T氏を責任者とする児童保護委員会は
「子どもの家」の一番良い部屋を自分たちの事務所と
して使っていた。いくら抗議をしても「権力」を盾に子どもたちの
部屋を返してくれなかった。そればかりではない。
「子どもの家」の正門の敷地を肥料会社に賃貸し賃貸料を
せしめていた。夏の暑さの時は肥料が腐敗し臭く、風が吹くと
子どもたちは生活出来ないほどであった。しかし、
T氏を先頭とするフエ市児童保護員会は、あくまで
「子どもの家」に居座っていた。
子どもたちのことなど全く頭にないことが実際の行動で
分かるというものである。

今回、我が「子どもの家」に困った子どもたちを入所させない
ようにすることで、JASSのストリートチルドレン支援活動を
止めさせ、JASS関連諸施設を乗っ取ろうと再度のたくらみ
に出たというのが真相である。
この12年間、こうしたことが繰り返された。

私たちはそうした攻撃から多くの教訓を得ている。
2001年には、「フエ市越日交流委員会」を設立した。
フエ市児童保護委員会などの介入を排して「子どもの家」
運営活動が出来るようにするための機関である。
フエ市議会で可決され、トゥアティエンフエ省知事の
最終認可を得た「公的機関」である。ニエン外務部長を
委員長に私が副委員長となっている。

数日前、フエ市人民委員会の会議があり、副市長通達
問題では、「子どもの家」は「フエ市越日交流委員会」の
指導の下に、今までと変わらない活動をすることが
出来ることを確認したとのこと。
「フエ市越日交流委員会」はフエ市人民委員会外務部、
フエ市児童保護委員会などと同列の公的機関である。

結局、通達を事実上「デッチあげた」ものの、私たちの
強い抗議で全くの骨抜き、事実上の通達無効という
結果となった。
これで一応、一安心である。フエでのストリートチルドレン
支援活動はいつもこの種の「支援を食い物」にしようとする
権力者とその子分どもとの闘いであった。今もその戦いは
続いている。私たちが少しでも隙をみせれば、足をさらわれる
というのが、フエでの支援の実情である。

投稿者 koyama : 21:33 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月11日

日本料理店研修始まる

終日雨。

27通のメール受信。17通のメール送信。

テレビ取材の詳細日程について文書化。
ボランティア貯金完了報告書作成。
8月14日頃完成させたい。

午前9時、雨の中、ベトナム事務所へ。
ベトナム事務所で仕事。

午後2時半。日本料理店の料理研修。
「子どもの家」のニー、グエット、ターオの3人
に料理の基礎から教える。9月3日の開店を目指し、
包丁の使い方、野菜の切り方、魚のさばき方などを
教える。

今日は包丁の持ち方、包丁の使い方の基礎訓練。
キャベツ、なす、ニンジン、玉ネギ、レンコンなどの
きり方を3人の子どもたちに教える。
税田・松下・原・中村の皆さんが直接、手を取って
教える。

店長のホンさん(ラームさんの奥さん)

ニーさん

ターオ君


グエットさん

これから3週間ほどの間に出来るだけ多くの日本料理を
教えたいと思っている。既に研修日程プログラムは完成。

日本料理店の工事は着々と進んでいる。今日は、
東京平和産業の1階の廊下と部屋の壁を打ち抜き
広い日本料理店の室内が出来上がった。
壁の打ち抜きは大きなハンマーで「ガンガン」と
たたき、打ち抜いた。日本料理店の工事は全て
人力である。

今後は、カウンター、内装、玄関、厨房などを作り、
9月3日の開店を迎えるという日程である。
「子どもの家」の子どもたちの就職に受け皿としての
日本料理店は「子どもたちの自立」という
2005年度、JASS総会方針の具体化でもある。

投稿者 koyama : 22:46 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月10日

訪問者への対応:諸文書の作成・・・・・

終日、雨。

急に気温がさがりフエの人は頭が痛い・体調が悪いと
言っている。

午前7時半、昨日「子どもの家」を退所したA君が
東京平和産業1階に建築中の日本料理店の建築工事
の手伝いを始めた。朝7時半~午後5時まで。
こうして体を動かして仕事をすることで人生の何かを
掴んで欲しい。A君の心の闇が何なのかを知りたい。
体を動かして仕事をする中で、心が癒されることを願う。

午前8時半、ベトナム事務所へ。新潟の鈴木さん親子が
ベトナム事務所を訪問。娘さん(高校の先生)が大学生の
頃、私の活動をテレビで見たとのこと。それから一度
「子どもの家」を訪問してみたいと思っていたらしい。
今回、ツアーに参加したが、今日は自由時間だったそうで
「子どもの家」訪問を実現した。

また、6月に早稲田大学で国際協力論の授業をしたが、
その授業が終わったあと、私のところに来て
「子どもの家」を訪問したいと言って来た安田さんと友人。
30分ほど話をし、税田さんが各施設を案内した。

私は午前9時から10時半まで静岡の「静岡インターナショナル
スクール」の川島教頭先生と懇談。
日本語学校の運営、静岡の学校の現状などを意見交換する。

午後2時過ぎ、川島教頭先生、鈴木さん、安田さんは
日本語学校を参観。

午後2時から「2004年度ボランティア貯金完了報告書」
の作成に入る。
福島大学佐野ゼミ受け入れけ計画を作成し送る。
日本料理店に勤める「子どもの家」の子どもたち3人の
料理研修計画を立てる。

8月28日から取材に来るテレビ東京の取材日程の調整
計画を立てる。

ベトナム事務所に5年間勤めた舟山裕行さんから電話。
8月16日から21日までフエに来るとのこと。
ベトナム事務所で活動し、地元の女性と結婚。2人の
お子さんがいる。舟山夫妻・お子さんと会えるのを
楽しみにしている。

1年間、「アトピー友の会」機関紙「あとぴナビ」に
連載を書いた。1年間の連載を小冊子にしてくれるとの
こと。そのために写真が必要とのことで「火炎樹」「フォン川」
「ドンバ市場」「子どもの家」「子どもたち」などの写真を
ファイル・CDから探し送信。

夕食後、「子どもの家」へ。
A君の暴行を受けたL君の様子を見に行く。
精神的に打撃を受けていないか? 打撲の状況は
どうなているのか? どんな生活の様子か?
いたって元気だった。寮母さんの話では、夕食も
4杯食べたそうだ。

6歳児の心の傷がどの程度なのかはもう少し時間をかけて
観察の必要がある。宿直の寮母さんにも6歳児の観察を
頼む。6歳児は2階の女子の部屋に寝ているそうだ。
20分ほど、6歳児と話をする。予想外に元気だった。
顔の傷も大分薄らぐ。元気に廊下で暴れまわっていた。

2年前に「子どもの家」を退所したフック君(20歳)が
遊びに来ていた。フック君は現在理髪店で働いている。

朝8時から午後5時。月から日まで毎日仕事だとのこと。
月給は50万ドン(5000円程度)。下宿をかり3食と
お小遣い程度にはなる金額である。
「子どもの家」で生活し、職業訓練を行い、こうした
形で自立する子どもを見るのは、支援冥利に尽きる。

投稿者 koyama : 19:42 | コメント (0) | トラックバック

「子どもの家」暴力事件の対応に奔走

晴天。

午前8時半、「子どもの家」へ。暴力支配の17歳男子(A君)
の退所問題いついて、A君の父親を呼んで話し合う。

セン委員長・ロック寮長・ミンベトナム事務所長・小山。
セン委員長がA君の「子どもの家」での暴力支配の実態、
その解決方法について詳細に話す。
父親(52歳)は、冒頭から大声で怒鳴りながら、
「俺にAをおっつけても
受け取らない。無理に押し付ければ捨ててやる」との
暴言を繰り返す。
父親はA君が3歳の時に事件を起こし刑務所へ。
母親は違う男性と蒸発。
A君は一つ年上の兄と一緒にフエ市人民委員会の
隣りにある公園で路上生活。
1997年に私たちと出会い「子どもの家」へ入所。
心の優しい、勉強や絵画などにも才能のある
子どもだった。
父親は数年前に出所。新しい女性と結婚。
その後女性は妊娠したが、現在はけんか別れし
父親は別居している。

センさん・ミンさんなどが丁寧に話をしたのだが、
父親は大声で訳の分からないことを口走る。
質問するが、真っ当な答えが出来ない。
1時間半ほどすると父親は席を立って帰って
しまう。

今朝、暴行を受けた6歳男児の祖母が警察に
告訴した。「子どもの家」で孫が暴行を受けている、
助けて欲しいと。
A君の父親と話し合いをしている最中、昨日とは
管轄を異にする警察が「子どもの家」に来て
暴力事件の事情調査をする。

フエ市人民委員会とも連絡相談。
情報ではかなり政治的動きがあるとのこと。
JASSの活動を邪魔しようとしている一部勢力が動き出して
いる、「子どもの家」の暴力支配問題を解決しないと、
一部勢力が「指導」と称して「子どもの家」への介入を図ろう
としているとのこと。
とにかく、「子どもの家」の暴力支配をきちんと
決着させたという形を作る必要があるとの助言。

関係者と打ち合わせをし、急いでラームさんを呼ぶ。
フエ市人民委員会とも連絡を取り合いながら、
諸般の政治的な動きを封殺するためにも
急いでA君を「子どもの家」から退所させ、「子どもの家」の
子どもたちの安全を守る緊急措置を取る必要がある。
そうしてはじめて一部勢力の「子どもの家」への介入を阻止
できる。

ラームさんを呼んで打ち合わせ。小山・セン・ロック・
ミン・ラーム。

A君を「子どもの家」から退所させ、子どもたちの安全を
確保する。同時にA君の将来の自立のための方策を
考える。
今回の「子どもの家」でのA君の暴力支配をどう考えるか
という本質問題を考える必要がある。単純にA君を
「子どもの家」から追い出せば全てが解決するという
問題でもない。
A君の暴力、しかも一番弱い6歳男児への執拗な
暴力・暴行が絶対に許すことのできないことである。
犯罪行為であることは事実である。
同時にA君が何故こうした暴行・暴力支配を繰り返したのか?
何がA君を暴力支配へ追い込んだのか?を考える必要が
あると思う。
A君の暴力行為を断罪・告発することは出来る。しかし、
それだけで良いのだろうかとの疑問が残る。
それは、私たちが何故ベトナムに常駐しているのかという
本質問題にも関わることでもある。
私たちは6歳の暴行被害者を守り、「子どもの家」の
子どもたちを暴力支配から守る責務がある。同時に
暴力でしか自分を表現できなかったA君もまた守らな
ければならないのである。A君は加害者であるとともに
広い意味で被害者でもあるのだ。

ラームさんも交えた話し合いで私の方から具体的な提案を
行う。
A君を「子どもの家」から退所させ、他の子どもたちの
安全を確保する。同時にA君と東京平和産業とJASS
で引き取り、日本料理店で研修させるという案である。
幸い、私の意向を皆さんが理解してくれ同意を得る。

午後12時半。ハノイに来ている静岡市の日本語学校
副校長先生から電話。「今、私はハノイにいる。予定の
飛行機のリコンファームもしていたのだが、オーバー
ブッキングで予定の飛行機に乗れない。午後7時半
ころフエに着く飛行機で行く」とのことだった。
予定が全く変わってしまった。

午後3時、ベトナム事務所で仕事。

午後4時、「子どもの家」でA君の退所式。

フエ市人民委員会・「子どもの家」・JASSの合意で
A君は「子どもの家」を退所し、東京平和産業とJASSの
支援で東京平和産業にて職業訓練を行うという文書を作成。
これでA君は公式に「子どもの家」を退所することが出来た。

A君は「8年間、子どもの家で生活できたことに感謝したい」
とセン委員長に言う。
これでA君は「子どもの家」を退所、東京平和産業での
研修生生活が始まる。

バッグ一つで退所するA君。

ラームさんのオートバイでとりあえずトンチンカンホテルへ。

午後6時、A君と兄、小山、ラームで今後のA君の研修と
生活について相談する。

私の方からA君に「この東京平和産業での研修が
A君の最後のチャンスだから頑張って欲しい」と。
その後、A君、兄、ラームさん、私の4人で大衆食堂へ行き
夕食。A君と兄に東京平和産業での研修中にも苦しいことが
あるかも知れないが、頑張るよう食事をしながら励ます。
兄は、「自分が弟の面倒を見る。弟は若い。まだ経験が
少ないのでこうした問題を起こす」、自分が責任をもって
A君と一緒に生活しながら、横道にそれないようにする、と
話していた。言った通りに行動できると嬉しいのだが・・・。

これからのA君は東京平和産業の警備員である兄と
同宿し、私たちが決めた大衆食堂で3食食事を取りながら
日本料理店の料理人としての研修をすることになった。

「子どもの家」の子どもたちを守り、A君も守る、同時に
JASSから「子どもの家」を乗っ取りたい不正勢力から
「子どもの家」を守る闘い。中々難題である。神経と
総合的・政治判断と確かな情報、そして決断が必要である。

午後3時、ベトナム事務所員全員に「子どもの家」での
暴力問題について報告。今後の措置・A君の処遇などに
ついて説明。ベトナム事務所も一丸となって、子どもたちのため
努力するとの雰囲気あり。

ベトナムでの活動は「即断即決」が肝要である。
ぐずぐずしていると状況は直ぐに悪化し、思わぬ方向に
いってしまう。フエ滞在12年の苦い経験がたくさんある。
今回はフエ市人民委員会・「子どもの家」・JASS三者の
連携と協力で素早く対応できた。

フエ市児童保護委員会より緊急通達。昨日、セン委員長に
届く。
内容は、フエ市内にある「子どもの家」は
市内の子どもしか入所させてはならない、と。
明らかに私たちの「子どもの家」を狙ったもの。
この数年、「子どもの家」に入所する子どもたちの大半が
フエ市外の農村の子どもたちである。
フエ市児童保護委員会の通達通りだと、フエ郊外の
生活困難な子どもたち、親のいない子どもたちなどを
「子どもの家」へ入所させることはできなくなる。
事実上の我が「子どもの家」の閉鎖を意味する。
悪質かつ政治的な攻撃。「子どもの家」暴力問題と
軌を一にして児童保護委員会が乗り出し、「子どもの家」
の運営に手を出してきた。この12年間、この連中との
闘いでもあった。通達問題は早急に解決しなかれば
ならない。悩ましい問題が起こった。

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2005年08月08日

郵政法案否決を喜ぶ

晴天。猛暑。

午前8時半、日本料理店関係者第1回目打ち合わせ。
小山・ラーム・ホン(店長:ラームの奥さん)ホンニー・
グエット(「子どもの家」の子どもたち)、税田・松下。
日本料理店の目的・組織・オーナー・今後の日程等を
打ち合わせる。
(目的)「子どもの家」の子どもたちの就職研修の場
(組織)店長はホンさん(ラームさんの奥さん)
(店員)グエット・ホンニー
(警備員)りー
(今後の日程)松下先生のボランティアで接客用の
         日本語を教えてもらう。
         9月3日に仮開店の予定


午前11時50分。参議院本会議で郵政法案が否決された。
賛成 108票 反対125票。

喜ばしいことである。340兆円もの大金をアメリカ資本と
日本の大資本に引き渡す必要はない。現在、郵政公社が
独立採算制でしっかりと機能しているのに、完全民営化
の意味はない。小泉自爆首相の個人的な「趣味」
でこうした政治ゲームが行われることこそファシズムである。
小泉自爆首相だけが「郵政民営化」を主張し、自民党執行部
でさえ、今、郵政民営化をする必要はないと思っているので
ある。一個人の趣味的政策で国会ばかりでなく、国民・日本
そのものが大混乱している。外務省が好きな言葉で言えば
「国益」が大幅に損なわれているのである。
北京の六者協議では日本は霞んでしまった。全く存在感がない。
国連の安保常任理事国入りも挫折。
大増税・年金削減など庶民の生活が大きく変わろうとている、
こうした大きな課題はどこかに飛んで行ってしまった。

このニュースはCNNで同時中継されていた。
ベトナム事務所のミンさんもベトナム時間で午前11時50分
にCNNの同時中継を見ていてそうだ。
郵政法案否決は世界中に同時中継された。

午後6時、ベトナム事務所から帰りテレビを見ると
国会は解散されていた。八つ当たり・自爆解散である。
道理と大義なき解散。郵政法案の賛否を問うための
解散など道理がない。
この際、小泉自爆自民党に懲罰を加える必要がある。
9月11日投票とのこと。

日本料理店の話し合いをしている時、「子どもの家」の
セン委員長から緊急連絡。「子どもの家」で大問題が
起こっているので直ぐ来て欲しいとのこと。
ミン・ベトナム事務所と急いで「子どもの家」へ。
「子どもの家」で大きな暴力事件が発生。
17歳の男子が6歳の男児に暴力を加え、大怪我を
させた。毛布で6歳男児をす巻きにし棒で殴ったり
頭を水につけたりと暴行を繰り返した。
地元警察も来ていた。男児は緊急に病院で治療。
体中にあざができ、怯えていた。

セン委員長・ロック寮長・小山・ミン・フエ市人民委員会、
警察で問題の対応策を協議。警察が17歳の男子を
事情聴取。
情報を集めると、以前から17歳男子は「子どもの家」で
暴力を支配を行っていたことがわかった。
子どもたちは17歳男子が怖くて言いなりになっていた模様。
更に詳しく調べると、20歳の男子など年上の男子も
17歳男子の暴力支配に怯え、使い走りをしていたことが
分かった。
とりあえず、「子どもの家」での暴力支配体制を崩壊
させ、子どもたちが安心して生活できる「子どもの家」を
取り戻す必要がある。17歳男子の一時「子どもの家」
からの分離が必要である。

フエ市人民委員会

午後2時半からミン・ベトナム事務所長、税田さんと
当面の諸問題(「子どもの家」暴力事件等)について
午後5時まで協議。

投稿者 koyama : 13:12 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月07日

京滋YOUの会帰国:田中さんータンさん結婚披露宴

晴天。暑い。

暦の上では「立秋」。

さすがに今日は疲れて朝起きられなかった。
うつらうつらしながらNHK日曜討論を見る。
●自民党与謝野氏。自爆首相への苦悩が顔に
 染み出ていた。お疲れ様。
●公明党も困惑の色あり。権力にありつく秘策を模索中と見た。
●民主岡田氏。小泉自爆解散の可能性については
 慎重な態度。
●共産党志井氏は、解散は不当だと言いつつ、かなり積極的に
 解散を受けて立つ構え。増税・外交問題を争点に民意を総選挙
 で示そうと。
●社民福島氏。発言に元気があった。総選挙になれば、増税と
 平和問題で闘うと。いつものようにカラ元気でないことを祈る。

午前中、バオミンさんから電話。
日本の加藤さんから電話。
平和村に行っている京滋YOUの会の山本さんから
電話あり。平和村への支援金を預かって欲しいとの
こと。ありがたく話を受ける。
京滋YOUの会中村代表の息子さんから連絡。
ラームさんと電話で打ち合わせ。

朝食の食料がない。外に買い物に行く元気もでない。
頭痛と倦怠・疲労感あり。
室内物色。古いカップめんが一つ出てきた。午前10時。
賞味期限の切れたカップめんをかき込み、メール送受信。

午後1時から熟睡。午後3時半まで。
午後4時、京滋YOUの会の帰国を見送る。

京滋YOUの会は「子どもの家」での縁日、交流・・・・と
なかなか個性的な活動をする会である。
参加者も活動的且つ個性の強い方々である。
とにかく京滋YOUの会の活動は楽しかった。良く考えられ、
事前の準備をしったりとしたものなので、子どもたちや
私たちも楽しかったのである。この会は若い人を全面に
立てて活動をしている。
中村代表、藤井事務局長の努力に敬服。若い人を
育てるのがうまい。

午後5時、田中さんとタンさんの結婚披露宴。
30分ほど開会が遅れる。

披露宴会場前で。ベトナム事務所員


披露宴会場前の新郎・新婦

午後5時半開会。参加者は70名ほど。
ベトナム事務所スタッフ、「子どもの家」スタッフ、日本語学校生徒、
刺繍みやげ物店スタッフ、そしてタンさんの親戚。

タンさんお色直し

披露宴はカラオケ大会に終止した観がある。
日本人・日本語学校生徒の歌

私は1993年9月にフエに来た。フエ師範大学日本語クラスの
教師として。10月にはチーラン通りに「子どもの家」を作った。
タンさんはその時に姉のハンさんと一緒にチーラン通り
「子どもの家」に入ってきた子である。当時10歳位だろうか。
それからグエンチャイ通りの「子どもの家」を創設し、タンさんも
入所。チーラン通り「子どもの家」時代から刺繍研修を行い
グエンチャイ「子どもの家」に移っても刺繍研修を続けた。
途中、日本にも連れてきた。
「子どもの家」を卒業した後は、ベトナム事務所の刺繍みやげ物店
で刺繍をし、収入を得て自立していった。
タンさんの面倒を見て12年。こうして結婚し新たな人生の出発
をしたことを祝福したい。幸せになって欲しい。

田中さん・タンさんの幸せをお祈りする。

投稿者 koyama : 13:44 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月06日

京滋YOUの会ナムドン山岳地帯へ カトゥー族との交流

晴天・猛暑。

今朝、フエの大学受験生個々人の点数が大学校門に
掲示された。また、新聞にも発表されたとのこと。
「子どもの家」の受験者4人が30点満点で何点取れたかが
分かった。1週間後に何点以上が合格かが発表される。

①Aさん  
●フエ経済大      19点
●フエ科学大 生物科 19.5点 (昨年は16点で合格)
         
②Bさん
●フエ師範大文学科  10点
    
③Cさん
●フエ師範大数学科  10点

④Dさん 
●フエ師範大数学科  24.5点

まわりの噂ではAさんのフエ科学大は合格の可能性あり、
Dさんのフエ師範大数学科は合格確実とのこと。
ベトナム中部の理科系では、フエ師範大学数学科と
フエ医科大が最難関の大学だそうだ。
文系では、フエ師範大文学科や新しく出来たフエ経済大学
が最難関。
1週間後の合格発表では全員が合格することを祈っている。

午前8時から9時半までメール受信・返信。

午前10時、京滋YOUの会と共にナムドン山岳少数民族
との交流に出かける。京滋YOUの会、小山、ラーム、税田、
原、ソン。
午前11時半過ぎ、ナムドン郡庁舎のある中心部に到着。

今回は京滋YOUの会ツアー案内とは別にJASSとしてナムドン
の小学生60人に奨学金(北垣善男さん寄贈)を贈呈する話を
郡長とした。今回交流するカトゥー族の小学校(100人)の
60%が貧困家庭で通学がままならないとのこと。
今回、60人の子どもたちに通学のための奨学金を贈呈する
計画を郡長と相談した。

京滋YOUの会ツアー参加者と昼食を摂る

更に車で20分ほどの所にカトゥー族の村と集会場がある。
集会場前庭では歓迎の村人が待っていた。

集会場内でカトゥー族の皆さんに支援物資の贈呈を行う。
インスタントラーメン、衣類など

村長さんから記念のはちみつが団長さんに贈られる。
団長さんは立命館大学の4年生。立命館慶祥高校の時、
「子どもの家」へ修学旅行で来訪している。

村人の歓迎の歌と踊り(民族伝統)

村人の歓迎の歌と踊りに応える京滋YOUの会の歌

集会場に集まり、交流をする多くの村人

村人と京滋YOUの会の交流。一緒に伝統踊りをおどる。

車座になり集会場で交流する。
カトゥー族の伝統料理・お酒などで交流。

カトゥー族の子どもたちの笑顔は素晴らしかった。
60年前の日本の子どもたちと同じ瞳のように思えた。
資本主義・物質文明に晒されれば晒されるほど、
人間の感性は衰退するものなのだろうか?
カトゥー族の子どもたちの澄んだ瞳を見ると
資本主義文明がもたらす「物の豊かさ」が人間に
どんな結果をもたらすのか、その実例を突きつけられた
ような気がした。毎回のことではあるが、山岳少数民族
の皆さんとの生活や交流の様子を見ていると、
「人間の究極の幸せ」とは何かを深く考えさせられる。
「物の豊かさ」しかとりえのない(今やそれさえも怪しいが・)
国の行き着く先は? などと考えてしまう。

子どもたちの清く澄んだ瞳と我が日本道路公団の
嘘つき内田道雄副総裁の目をつい比較してしまう。
高級な衣服に身を包んだ「たぬきやきつね}「妖怪」の
くすんだ・ずる賢い目つきを思い出す。

村人と京滋YOUの会の記念撮影をする。

その後、村人と一緒に近くの滝に行き、涼しい山岳の
滝で暫時涼をととる。

午後5時、フエ市内へ戻る。

トンチンカンホテルへ戻り、15通のメール受信を読み10通の
返事を出す。

午後7時、フェスティバルレストランで京滋YOUの会との
最後の夕食交流会を行う。ベトナム事務所員も全員参加。

中村巧・京滋YOUの会代表の挨拶

中村代表の発声で乾杯

京滋YOUの会の参加者

JASSベトナム事務所員

午後10時前、夕食会は終了。
一部ベトナム事務所員はバオミン・ベトナム事務所長の
新スクーターに乗り帰宅か?

今日は朝から夜まで濃厚な日程であった。
例年のことではあるが、8月はたくさんの支援者の方々が
フエを訪れる。私たちはこうした訪問者に誠心誠意の対応
をしたいと思っている。

NHK衛星放送では、8月8日の参議院本会議で郵政法案が
否決される可能性が高いとのこと。
そうすると小泉首相の「八つ当たり・自爆解散」という
政治的自爆テロ、しかも国会を巻き込んだ壮絶な「自爆テロ」を
行う可能性が強いのか?
テロに反対すると豪語していた小泉首相だが、最後は自らが
政治的な自爆テロで自滅するのか? 自民党内のごたごたで
血税を浪費する愚を止めることは出来ないようだ。
小泉首相の親分である森・元失言首相もさすがに
「首相は変人以上だ。おれはさじを投げた」と言わざるを
得ないところに来たようである。

明日は、京滋YOUの会が帰国する。
田中さん・タンさんの結婚披露宴。


      

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2005年08月05日

京滋YOUの会「縁日」大会

晴天。猛暑。

午前8時から10時までいくつかの問題について
メールを書く。
午前9時、ラームさんさんといくつかの重要問題に
ついて懇談。
バオミン・ベトナム事務所長と電話でいくつかの問題に
付いて打ち合わせ。

午前10時から40分ほど、フォンザングループ総支配人
のドン氏と懇談。

昼食は焼きそば。
午後1時間ほど昼寝。7月20日から16日間休みがない。
かなり疲労が溜まっている。様々な問題があり、精神的に
相当の緊張状態。ベトナムでの私の仕事は、理屈を
こねまわすのではなく、起こった問題を具体的に解決
することである。具体的な解決とは、結局、100%
満足な解決は出来ない。時には、私自身の
名誉すら毀損された形での解決ということになる。
ボランティアとは自分自身の名誉すら守られない形で
問題を「解決」することになる時もあるのだ。
理不尽な世界でもある。
こうした時は、子どもたちの笑顔を見るのが一番の
疲労回復薬である。

午後、いくつかの問題解決のための方策を考える。
午後1時半頃、帯広のYさんから電話。里子の病状
を気遣ってのものだった。ありがたいことである。
私たちが支援している子どもたちへの里親の愛情
というものは、時には我が子以上のものがある。

午後5時半、オートバイで「子どもの家」へ。
途中で里子のVU君とすれ違う。
早速、VU君を「子どもの家」へ誘い、生活の現状を
聞く。
V君は私が1993年9月にフエに来て最初に作った
チーラン通り「子どもの家」で受け入れた子どもだった。
それから12年。VU君は成績優秀でベトナム屈指の
名門高校「コック・ホック」で学び、現在はフエ科学大学
コンピュータ科の3年生。9月から4年生になる。
先日、母親がなくなり、天涯孤独の身の上となる。
VU君に現在の生活を聞く。
里親から毎月30万ドル(3000円)の支援をもらい
日常生活を賄っている。朝食は10円のパン、昼食・
夕食は30円の定食。1日の食事代は70円。
学費は日本の高橋・内田・柳沢さんからの支援。
家庭教師のアルバイトをしているので、最低限度の
生活はできているとのこと。
来年8がつには大学を卒業する。コンピュータ関連の
会社に就職し自立したいと話していた。
私は、里親や学費を支援してくれている高橋・柳沢・
内田諸氏に感謝の気持ちを持つよう助言をする。
この12年の経験では、とかく成績の良い子どもたちは
自分の能力で自立したなどと思い、長い間の里親や
支援者への感謝の気持ちを忘れることも多々あるからだ。

●VU君と小山

午後6時、京滋YOUの会の夏祭り「縁日大会」が始まる。
始めに京滋YOUの会の開会挨拶。


京滋YOUの会の「夏祭り縁日大会」はダーツ、スーパーボール
つり、輪投げ、ミルクせんべい、お土産コーナーなどがあり
楽しい縁日である。子どもたちは異常な興奮状態で
各コーナーを回る。

スーパーボールすくい

よーよーすくい

ミルクせんべい

子どもたちは超ハイトーンで縁日大会を楽しんだ。

縁日には景品も。

縁日のあと、みんなでフォークダンス、ジェンカを踊る。

その後、花火大会


午後8時、全てが終了した。

自民党亀井派の中曽根元文部大臣が郵政法案に反対する
ことを表明した。
報道では、8月8日参議院本会議で郵政法案は否決される
公算が大きくなったとのこと。
小泉首相は郵政法案が参議院で否決されたら国会を
解散すると言明している。
中曽根参議院議員の記者会見をテレビで見た。
法案の内容とは別に「賛成しなければ国会を解散する
と脅して法案を成立させるやり方は間違っている」(趣旨)
と話していたが、その点は同感である。

新聞なども自民党の「内紛」を大きく扱い、国民とマスコミも
賛成派と反対派の「対決」に目が向けられている。
しかし、良く考えてみると自民党という政党の醜態を白日の下
に晒しているだけのことである。自民党が政党としてその態を
なしていないだけのことである。
「自民党の長期低落傾向」という言葉は、1970年代から
言われていた。それから30年以上たった今、長期低落傾向
の最終段階に達した観がある。

小泉首相という「ヒトラー以上にファッショ首相」(亀井氏か野中氏が
テレビで言っていた)と言われる小泉氏しか首相に出来なくなった
、それほど人材と能力のなくなった自民党の末路である。
今や、公明党の支援なくしては存立できない政党でもある。
まさに郵政法案をめぐり、長期低落の最終段階、その結末
死滅を迎えようとしているのである。

政権政党の自民党のこの体たらくを傍観している日本の
野党のまた体たらくも情けない。今こそ政権奪取のチャンス
である。しかし、民主など自民党の片割れとくっつくことを
夢想しているかに見える節がある。公明党の冬柴幹事長は
自民党が下野したら場合には、民主党とくっつくとの発言さえ
している無節操さである。

自民党内の郵政反対派・賛成派に目が行っている間に
我が日本の政治が総体として低落していくことになる。
日本の政党政治が死滅しつつあるように思われてならない。

こうして内紛と体たらくに明け暮れる政党政治に嫌気を
さした国民の気分に乗じて、戦前のファシズム独裁体制は
成立してきた。選んだの「被害者」の国民である。
今、日本は政党政治への不信感が大きくなってきている。
こうした時に強力な独裁を求める声が強まるのである。
今の日本は、戦後60年間営々と積み上げて来た
民主主義が音を立てて崩されている時でもある。
民主主義とファシズム・新保守主義(ネオコン)との
新たな闘いの時でもある。戦後、私たちが築き上げてきた
民主主義をしっかりと守り、ファシズムと闘う一人一人の
国民の決意が必要である。

投稿者 koyama : 22:33 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月04日

京滋YOUの会フエ到着。ベトナムニュースでJASS報道

晴天・暑い。37度。湿度高い。

午前7時半、トンチンカンホテル発。ラームさん・税田さんと。
8時10分、京滋YOUの会(11人)がフエ空港へ到着。


一行はフエ空港から市内のフォンザンホテルへ。
午前9時過ぎ、3グループに分かれた自由行動。
ファンボイチャウの史跡探訪・観光・自由行動。
私は自由行動グループに同行。
フエ市ないから車で20分。ティエンアン山・中腹にある
広大な中国茶を出す庭園で休息。
ウーロン茶を飲む。台湾で飲んだウーロン茶と全く
同じ味と香り。美味しい。ついでにバックタイ茶(ベトナム茶)
も飲む。これはウーロン茶と日本の緑茶の中間の味と
香り。ベトナムのバックタイ茶は渋みと苦味がウーロン
より強い。2時間ほど庭園でお茶を飲みながら歓談。

午後12時。車で市内のフーハウ地区にあるチャオバンカン
(米とキャッサバの煮込みうどん)を食べに。
1杯30円。一人3杯のチャオバンカンを食べる。

午後1時半から1時間ほど休憩。
午後3時、日本料理店のメニュー、作業着などを考える。
開店までのタイムスケジュールを計画する。

午後6時半、地球の歩き方ツアー最後の晩餐。
ところがワゴン車の運転手が約束の時刻にこない。
結局30分程度遅刻してやっとワゴン車が到着。
運転手は何も問題がないような顔をしている。
「異文化体験」。
私は直接会場へ行ったので結局40分ほど
待たされた。その間、会場レストランから見た
「フースアン橋」は、夕闇が迫っていて、何か
物悲しい夜景となっていた。

ミンさん・サンさん・地球の歩き方ツアーの皆さんと
一緒に夕食を摂る。明日はMさんの誕生日。
みんなで1日早い誕生祝いをする。

地球の歩き方ツアーの晩餐会は午後9時近くまで続く。

8月2日、ベトナム唯一の英字新聞の全国紙「VIETNAM NEWS」
に「子どもの家」や私の活動の特集が載る。
この新聞はベトナムの主なホテル、空港・飛行機内に置いてある
英字新聞である。この12年間の活動、現在の自立への取り組み、
私が何故フエでストリートチルドレン支援を始めたのかなどを
詳細に記述している。



VIETNAM NEWS の記事の要約

翻訳:小山

(見出し)
日本のNGOーストリートチルドレンの総合的支援

LE HUNG VONG(レ・フン・ヴォン)署名記事

トゥアティエンフエ省発

日本のNGO(非政府組織)がベトナム中部
トゥアティエンフエ省の300人の恵まれない子どもたち
を地域で総合的な支援を行っている。
1993年からベトナムの「子どもの家」を支える会(JASS)
は37グエンチャイ「子どもの家」を運営し、住居・食事・小学校
と中等教育そして職業訓練などを行い、子どもたちが地域で
生活できるようなプロジェクトを行っている。

JASSの効果的な支援でストリートチルドレンや生活困難
な子どもたちは、エンジニア、教員・工場労働者・レストランの
シェフ、ウエイトレス、刺繍、オートバイ修理、その他の
職業訓練を受け、自立への努力を行っている。

HO KHAC THANH SON(ホ・カック・タイン・ソン)君
24歳は「子どもの家」で生活し、2004年9月
フエ高等師範大学を卒業した。
現在、ソン君は自立しJASSベトナム事務所で仕事を
している。

また、JASSの「子どもの家」は子どもたちに食事と
安心して暮らせる家を用意すると共に
NGUYEN THANH DUOC君20歳の能力を
見出し、フエ芸術大学音楽科付属高校への
進学をもたらした。
既に9年間「子どもの家」に住んでいるDUOC君は
もし里親などからの支援があれば来年、フエ芸術大学に
入学したいという夢を持っている。
「僕は出来れば音楽の先生になりたい。そして
ストリートチルドレンの家の子どもたちに音楽を
教えたい」と先週ベトナムニュースの記者に語った。

日本政府の支援も得て、「子どもの家」は子どもたちの
自立への取り組みを進めている。
「ここにいる子どもたちの多くはストリートチルドレンや
親に捨てられた子どもたち、虐待を受けた子どもたちです」と
語るのはJASSの責任者である小山道夫氏。

職業訓練センターや保健室・食堂・寝室を持つ「子どもの家」は
現在64人の子どもたちを受け入れ生活などの面倒を見ている。
また、「子どもの家」は職業訓練センターだけでなく
図書室・音楽室・絵画教室・コンピュータ教室などの
「児童文化センター」を持っている。

そして小山氏は「これらの文化的支援は恵まれない子どもたち
を人間的に育て社会の悪影響から子どもたちを守るためのもの
です」と述べている。また小山氏は「私たちの目指しているものは
子どもたちの社会での自立です」と語っている。
「どうして私たちが職業訓練を行うのかと言えば、社会に出る前
に職業訓練を行い、自分の仕事を持つことが大事だと考える
からだ」と小山氏は語っている。

「子どもの家」の子どもたちは3つのカテゴリーの選択を
することが出来る。
第1の選択は大学まで進学したい子どもたちの選択肢である。
第2の選択肢は音楽や絵画、舞踊などの能力の伸ばすための
高等学校への進学のコースである。そして職業訓練のコース
であると小山氏は話している。

「子どもの家」の卒業生の80%は自立し、自活している」と
小山氏は述べている。

小山道夫氏は1967年、東京学芸大学の学生時代に
ベトナム戦争反対の学生運動を行った。そして1992年に
ベトナムを初めて訪問し、多くの物乞いの子どもたち
を見て強いショックを受け、1993年8月、小山氏は東京の
小学校の先生を辞めてベトナムでのボランティア活動を行う
決心をした。
1ヶ月後、小山氏はフエ師範大学の日本語講師となり
フエ市のチーラン「子どもの家」を開設した。

1994年2月、小山氏は日本でJASSを設立し、その
9ヶ月後にグエンチャイ「子どもの家」の建築を始めた。

ストリートチルドレン支援活動に加えてJASSは
障害児支援、日越友好交流推進活動も始めた。
これらの活動はJICA(当時の国際協力事業団)との
提携による障害児支援や日本の慈善団体との共同に
よるキムロン病院内に設立した障害児支援センター
、高校・大学生への奨学金、1999年のフエ大洪水
の際の救援などを含んでいる。

JASSの12年間のトゥアティエンフエ省への
総合的支援の総額は3億3千万円にも上る。
これらの支援は1400人のJASS会員、日本人の
支援者、そして日本政府などからのものである、
と小山氏は語っている。

これらの大きな支援とベトナム社会・トゥアティエンフエ省
への貢献は多くのベトナム市民から高い評価を受けている。
「子どもの家」の子どもたちはみんな「小山先生」と彼を
呼んでいる。

2001年、小山氏はフエ市人民委員会から「フエ市名誉市民」の
称号を受けた。そして3年後、小山氏の貢献を賞賛し、
TRAN DUC LUONベトナム大統領はハノイで
小山氏に「友好勲章」を贈呈した。


投稿者 koyama : 19:51 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月03日

地球の歩き方ツアーグエンフエ高校へ

終日晴天。35度。

1日中蒸し暑い。何もしなくても相当体力を消耗する。
午前中、いくつかの重要問題についてメール送信。
ベトナム事務所へ徒歩。バオミン・ベトナム事務所と
いくつかの問題を話し合う。

その後、ドンバ市場近くの「フエの秋葉原」で
圧力鍋を買う。納豆作りのため。

昼食は「冷麦」(ベトナム製小麦細うどん)。
1時間ほど昼寝。
フエに戻って15日目。かなり体力が消耗。
足にお灸を据える。

午後1時15分。バオミンホテルへ。地球の歩き方ツアーと
ともにグエンフエ高校との交流。
グエンフエ高校は夏休み。10数人の生徒と副校長先生
の歓迎を受ける。グエンフエ高校生が「世界は一つ」という
歌を披露。日本側は「大きな古時計」を手話を入れて歌う。
グエンフエ高校生にも手話を教える。

しばらく交流を進めたあと、カップルを作りシクロに乗り
フエ名物の「バインベオ」(米のお菓子)を食べに行く。


午後4時過ぎ、全員でドンバ市場へ買い物。
私は日本料理店で使う食器類の下見。適当なものが
いくつかあった。
午後5時過ぎ、グエンフエ高校へ戻り全員で記念写真

日本から電話。JASSツアー責任者の一人加藤氏から
JASSツアーについて。

ハノイを旅行中の日本人N先生から電話。私のベトナム語の先生。
体調を崩し、ハノイの病院へ入院とのこと。
フエに来られなくなったとの話。はやく病状が回復することを
祈る。旅行中の病気は一番つらいものである。
ベトナム研究者でベトナムには慣れきっているN先生でも
こうして入院する程の病気になることを肝に銘じておく
必要がある。一部の無知な若者のような無軌道な
ベトナム旅行は本当に危険そのものである。
知れば知るほど、慎重さが必要。無知と半可通ほど
怖いものはない。

投稿者 koyama : 22:00 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月02日

祝 火炎樹日記3周年記念

早いもので、この日記を書き始めて今日で丁度3年目になる。
2002年8月2日に第1回の日記を書いた。
基本的にはこの3年間毎日書いて来た。病気でどうしても
書けなかった時や出張先で書けなかった時が若干あった。
ニューージーランド・オーストラシア・シンガポール・ラオス
などでもインンターネットカフェを見つけて何とか書いたことを
記憶している。1000回もの日記を読んで頂いた皆様に
改めて感謝したい。この間、様々なコメントをお寄せ頂いた。
また、叱責や励ましも頂いた。これらの全てに感謝したい。
今後、いつまで続くかは自分でも分からないが、私の
独り言を聞いて頂ければ幸いである。

●詳細は日記右の「2002年8月2日からの火炎樹日記」
 をクリック。

以下は2002年8月2日の火炎樹日記第1日目である。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以前から海外ボランティア活動をしている人が「何にぶつかり」「どんなことに悩み」「毎日どんな生活をして」いるのかを書き留め、『現地報告』のようなものを発信したいと考えていました。
 しかし、いざこの種の日記などを書くとなるとなかなか精神的な負担も多く、実際に始める事が出来ないまま、今日までズルズルと来てしまいました。
 40日間の日本での講演会等が終わり、今日8月2日、フエ市へ『帰国』したのを機会に念願のベトナム日記を一念発起し始める事にしました。いつまで続くか自分でも見物です。興味のある方はお読みください。(2002年8月2日)
また、何かご意見等ありましたらベトナム事務所 小山道夫 (koyamavn@dng.vnn.vn)までお知らせ頂ければ幸いです。


投稿者 koyama : 23:55 | コメント (0) | トラックバック

地球の歩き方ツアー「子どもの家」へ

晴天。猛暑。

午前7時半、パソコンが故障する。仕事が出来ない。
数日前から原稿を書いていた。素案から何度か書き直し
80%程度仕上げた。今日書き上げる予定だったが
パソコンに入っているので、原稿書きの仕事が出来ない。
パソコンは便利で不便なものである。
急いで修理を頼む。午前8時過ぎに修理人が来て
パソコンデスクを持っていく。1時間ほどで修理完成。

トンチンカンホテル1階2階では日本料理店の建築が
進行している。リー君も日曜日もつぶして建築の
手伝いをしている。建築を見ていると基本的に全て
手作業である。1階においてある砂利とセメントを
バケツに綱をつけて2階に上げている。

午前中、「教育評論」10月号の原稿(1600字)を
書き、「教育評論」へ送る。写真2枚添付。

23通のメール受信。12通メール送信。

料理のフオンさんに「カタクリ粉」があったら買って来てと
頼む。コーンスターチとタピオカスターチ(キャッサバ芋澱粉
を買って来てくれた。タピオカ澱粉でカタクリ粉のフライを
試作する予定。いわしを生姜醤油に30分ほど漬けて
タピオカ粉をまぶしフライにする。

午後、徒歩でベトナム事務所へ。里親からの手紙をベトナム語に
翻訳してもらう。

オートバイで「子どもの家」へ行こうと思ったが、オートバイが
故障。タイさん(ラームさんの兄)とレー君が直そうと努力して
くれたが直らなかった。結局オートバイ修理工場へ。

午後4時、「子どもの家」へ。地球の歩き方ツアーは
子どもたちと遊び・交流していた。
松下さん・ハンさん・ソン君が担当。

●子どもたちと二重縄跳び

地球の歩き方ツアーの学生が「さくら」など日本の歌を披露。

日本の歌を聞く子どもたち

投稿者 koyama : 23:51 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月01日

内田さん帰国・地球の歩き方ツアー・オアシスの会

晴天。久しぶりの猛暑。真夏が蘇る。
フエに戻り12日目。10日間ほど雨と曇りで太陽を見なかった。
今年は異常気象。

午前7時半、バオミン・ホテルへ。日本事務所の内田さんが
日本へ帰国。フエ空港まで見送り。午前9時過ぎのホーチミン市
行きの飛行機に乗る。
タンタン温泉や「子どもの家」の子どもたちへの支援、
ベトナム事務所への支援などを頂く。深謝。無事の帰国を願う。


午前10時。フエ空港から「子どもの家」へ。
地球の歩き方スタディーツアーの学生の皆さんに講演。
ボランティア・支援・ストリートチルドレン・ベトナムの歴史
などを1時間ほど話す。

「子どもの家」では子どもたちが昼食の準備中。
「ザオムン」(空芯菜)を短くちぎっていた。
こうして家事労働をみんなでする中で、子どもたちは
様々なことを学んで行く。日本ではなくなった光景ではある。

午前11時過ぎ、「オアシスの会」の大塚さんたちと昼食を
しながら懇談。フエでの支援について話し合う。

午後1時半帰宅。1時間ほど昼寝。

午後2時半から31通のメール受信。11通の送信。
各団体・行政・個人から様々な問い合わせがあった。
出来るだけ丁寧に答える。

午後6時、再度「オアシスの会」と夕食を摂りながら
支援について懇談。
オアシズの会はキリスト教の大塚さんを中心に
その支援者が作った海外支援団体。
これからフエでの支援をしたいとのこと。
私の方でフエの実情、支援の実態、支援の仕方など
の経験を話す。今後、JASSと提携してフエでの
支援を進めるとのこと。午後9時前終了。

投稿者 koyama : 22:47 | コメント (0) | トラックバック