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2008年07月31日

支援者などとの懇談

晴天

テレビの天気予報36度。日中は40度をゆうに超えている。

午前5時起床。
読書「正蔵・三木助集」。
正蔵「二十四孝」「紫檀桜古木」「反魂香」。

午前7時、朝食。キャサバ芋の「チャオバンカン」。

「ハイリーホテル」住人、健やかにお目覚め。

子どもたちが今後も入ってくるので、「ハイリーホテル」の
運営もなかなか難しい。子どもたちは様々な問題を起す。
「ハイリーホテル」は子どもたちの「学校」でもある。
「ハイリーホテル」の住人は学校の教師役である。
子どもたちとともに住み、24時間かけて子どもたちを
育てる生活訓練の場でもある。5人の日本人は
「ハイリーホテル」で生活していてもなかなか『気の抜けない』
毎日である。「ハイリーホテル」は第2の「子どもの家」なので
ある。ベトナム事務所員(教師役)しか滞在は出来ない。

午前8時半ベトナム事務所。
午前9時、支援者と懇談。2時間。

午前11時半、昼食。

魚の煮物、ジャガイモ・玉ねぎ・肉の煮物・野菜スープ

午後12時半から1時間昼寝。熟睡。フエに戻って丁度
3週間。かなり疲れが出てきた。昼寝はきちんと取らねば
ならない。

午後1時半読書。引き続き「正蔵・三木助集」
「山崎屋」。40年ほど前の落語の速記本だが、
既に現在使われていないことばが多数出てくる。
時代の変化と言葉の変遷を感ずる。

午後2時半ベトナム事務所。
ベトナム人来訪者と1時間ほど懇談。通訳なしでの
話し合いなので結構疲れる。

午後3時半から関係者へのメール送受信。
インターネットの事情が悪くなかなかつながらない。

バオミンさん・税田さんは「縫製研修センター」へ。
「縫製研修センター」の会計・運営などをベトナム人
スタッフと協議。パソコンでの会計の仕方などを教える。
毎週、3回程度はベトナム事務所から「縫製研修センター」
へ行き、必要なアドバイス、問題などを聞いている。




午後5時半、日本料理店の子どもたちと夕食。

午後7時半。札幌のSさんご一家が日本料理店へ。
一緒に生ビールを飲みながら懇談。


新接客主任となり活躍しているグエットンさん
Sさんの会計を行う。


日本料理店も新体制になり、以前に増して子どもたちが
頑張って仕事をしている。

今日は6人の来客あり。

午後9時、日本料理店終了。
護送船団方式で「ハイリーホテル」へ帰る。

投稿者 koyama : 12:35 | コメント (0)

2008年07月30日

北海道のSさんご家族、「子どもの家」訪問

晴天

午前5時起床。

読書「古典落語 正蔵・三木助集」(ちくま文庫)
正蔵「あたま山」。

午前7時朝食。
フエ名物「ブンボーフエ」。地元の家庭の主婦の
手作り。本物。美味しい。

「ハイリーホテル」の住人も皆さん元気に活躍している。
私も含め、暑さに少々辟易している傾向あり。


午前8時過ぎ、ベトナム事務所へ。
バオミンさん・税田さんと「当面の諸問題」について協議。

午前8時45分、北海道札幌のSさんご家族(3人)が
ベトナム事務所を訪問。Sさんは、4年前に地球の歩き方
スタディーツアーで「子どもの家」を訪問。その後、ご自分の
通っている札幌の大学に私を招請し、講演会を開く。
講演会にご両親も参加してくれる。その際、Sさんご家族と
知り合う。ご両親とも教員。お父さんは、現在校長先生。

1時間半ほど、「子どもの家」の活動、JASSのめざすもの
などを話し合う。

午前10時、Sさんご家族を案内し「縫製研修センター」へ。



その後、「子どもの家」を訪問。各施設を参観し、子どもたちと
交流。

午前11時半、子どもたちと一緒に昼食を摂る。

Sさんご家族と色々と話す。お父さんの校長先生の
人柄が話の端々からにじみ出ている。
こういう校長先生となら一緒に仕事をしたいな、などと
思ってしまう。昔の「金沢嘉一校長先生」を彷彿とさせる。
こういう校長先生が一人、また一人と教育現場から
いなくなっていく時代になってきた。あと1年半で退職だそうだ。

「子どもの家」の子どもたちと一緒に私も昼食を摂る。
海老と豚肉の甘辛煮、野菜スープ、ご飯。

午後12時半から1時間ほど昼寝。実際の気温40度以上の
室外、室内を歩き回ると疲れる。

読書「正蔵・三木助集」。「花見酒」。
本書は8代目林家正蔵(蝶花楼馬楽→正蔵→彦六)
と3代目桂三木助(4代目は私も多少の知り合いだったが
自殺)の1950年、60年代頃の落語の「速記本」である。


午後3時、JICAベトナムの関係者と電話で話し合う。

午後4時、ベトナム事務所へ。バオミンさん・税田さん
当面の諸問題について、話し合う。

午後5時45分、日本料理店の皆さんと夕食。
大塚さん・税田さん・いぶき先生・千草先生・
5人の日本料理店の子どもたち、「ハイリーホテル」の
警備員ハイ君。10人。皆さんそれぞれの分野で活躍。
日本料理店は、リー店長、トゥーイ副店長をはじめ
5人の子どもたちが頑張って仕事をしている。以前よりも
仕事に対して積極的、前向き。


今晩の夕食

午後7時過ぎ、日本人2人来店。欧米系2人。

午後8時半、オーストラリア人の家族3人来店。
英文ガイドブック「ロンリープラネット」を読んだと言って
来店。私に色々と質問をしてくる。子どもたちや貧困の
対して「自説」を持っている家族である。


メルボルンから来たというご家族。ご両親と息子さん。
JASSの活動に感動したとして、オーストラリアドルを
寄付してくれる。

午後9時45分閉店。7人の来客あり。

護送船団方式で「ハイリーホテル」へ。午後10時。


=================
今日、成田でベトナム航空の飛行機が煙を吐き、
その後発火。一部が燃えたとのこと。
ベトナム航空が墜落事故を起こしたのは、10数年前。
ホーチミン市からカンボジアのプノンペンまでの
途中。知り合いの高野道朗さん(元JALホーチミン支店長)が
運悪く乗り合わせて死亡した。現在、高野道朗メモリアル基金
から支援金を頂いている。それから10数年、大きな事故が
おきていない。ベトナムで生活して15年。その国民性と
お役所など関係者の仕事振りをみていると、金権体質、
工事の手抜きなど目に付くところ多数あり。
いつか「大きな航空事故が起こっても不思議ではない」
と個人的には思っていた。今回は、大きな事故に至らず
ほっとする。

以下、新聞の報道


『30日午前7時40分ごろ、成田空港に着陸し、ターミナルへ
移動中のホーチミン発ベトナム航空950便の
ボーイング777―200型機(乗員・乗客277人)右側主翼下
第2エンジン部分から煙が出ているのを、管制官が発見した。

 同機は第2旅客ターミナルビル前で停止。煙はいったん収まりかけ
たが、乗客が降りた後の午前8時半ごろ、同エンジン部分から
炎が出たため、消防車17台が消し止めた。けが人はなかった。

 この影響で、同空港の暫定平行滑走路が、
午前7時46分から約15分間閉鎖された。国土交通省は、
航空事故の恐れがあったと認定。
航空・鉄道事故調査委員会の調査官3人を派遣して原因を調べる。
同省によると、エンジンから少量のオイルが漏れて引火した可能性が
あるという。』

投稿者 koyama : 17:38 | コメント (0)

2008年07月29日

通常のベトナム事務所業務

晴天  終日暑い。生きているだけで体力を消耗する。

午前5時起床。

読書「人生読本 落語版」(矢野誠一著:岩波新書)
演劇・演芸評論家の矢野誠一氏の落語の薀蓄(うんちく)を
活用して『人生論』を語ると言った趣向。
・ 命あっての
・ 渡る世間に
・ 金は天下の
・ 遊びをせんとや

の4章だて。それぞれの章で落語やそれにまつわる話を添えて
人生を語ると言う趣向だが、結論的には面白くない企画となって
しまった。落語と言う演芸を通して少し高尚な人生論を語ろうと
した所に「理屈」が入ってしまい、お説教くさくなってしまった。
矢野誠一氏の本は結構読んでいるが、この本が一番お説教臭い。
 それでも昭和20年・30年代の落語の大御所が出てきたり、
逸話が出てきたりと楽しめるところもあった。

 「江戸っ子の生まれぞこない金をため」という川柳がある。
何となく父親から伝わった心意気である。
「同業に悪く言われて金をため」というのもある。これは古今亭志ん生
が作った川柳だそうだ。私の身の回りにはこの種の人間が出没して
いる。

東京日本橋に生まれ、新内流しの三味線を聴いて育った
谷崎潤一郎が1923年(大正12年)の関東大震災で
関西へ移住。大阪船場や京都王朝文化に入れ込んだ
潤一郎である。
しかし、、大阪の義太夫を聞いて以下のような感想を
書いている。私が現在の吉本の芸を見ていていつも
感じている一種の嫌悪感と同様の感覚を持っていたことを
知る。

『(大阪の)義太夫の語り口には、この東京人の最も嫌う不躾
(ぶしつけ)なところが、露骨に発揮されている。
いかに感情の激越を表現するものでも、ああまで
ぶざまに顔を引き歪めたり、唇を曲げたり、
のけぞったり、もがいたりしないでもいい』。
「もっと淡白に、あっさりと」といっている。
私が大阪・関西の演芸を見ていつも感じ、芸の中に
同化していけない最大の理由を谷崎は義太夫を
通して端的に語っている。

午前6時半、シャワーを浴びる。
午前7時、朝食。フォー。

午前9時、ベトナム事務所へ。バオミンさん・税田さんと
「当面の諸問題」を話し合う。

午前11時半、「ハイリーホテル」で昼食。
カニと野菜のスープ、

午後12時半、昼寝。

午後2時読書「人生読本 落語版」(矢野誠一著:岩波新書)
を読み終える。

午後3時半、ベトナム事務所へ。インターネットが止まっている。
プロバイダーが原因。意図的なのか事故なのかは不明。

縫製研修センター関係者宛メールの下書きを書く。

午後5時半、夕食。



午後7時、来客あり。

午後9時閉店。


投稿者 koyama : 19:22 | コメント (0)

2008年07月28日

停電

終日快晴

午前5時起床。
読書「アジアの聖と賤」(野間宏等著)

午前6時半、シャワーを浴びる。電気湯沸かし器を
止めたので少量だが必ずお湯が出来るようになった。

午前7時朝食。
キャッサバイモを粉にした「チャオバインカイン」。
カニの出汁が効いてうまい。

午前8時半、ベトナム事務所へ。
27日がバオミンさんの誕生日。ベトナム事務所で誕生祝い。

お祝いの品物とベトナム事務所員の寄せ書きを贈る。



今年( )才になったとのこと。二人のお子さんにも恵まれ
元気なご両親とも同居。ますます仕事と家庭で充実した
人生を送ることを願っている。
バオミンさんを中心にベトナム事務所員が一致団結して
子どもたちのために頑張って仕事をしている姿を
見て、私も感無量である。けして、易々とベトナム事務所
の運営が出来るものでもない。一部の心無い人々から
の中傷や攻撃もない訳でもない。そうしたことに
怯まず、バオミンさんを中心にベトナム事務所が
団結して活動を進めていることに感謝している。
オアシスの会の大塚さんもほとんどベトナム事務所員と
同様の位置にいる。

誕生会の後、バオミンさん、税田さんと「当面の諸問題」
について、突っ込んだ話し合いをする。2時間ほど。

午前11時半、「ハイリーホテル」で昼食。

午後12時半から1時間ほど昼寝。

その後読書「アジアの聖と賤」読了。
インド、中国、朝鮮、日本の被差別の人々の実態と
その歴史を作家の野間宏氏と京都大学の沖浦和光教授が
語ると言う形式で話は進んでいく。
インドと日本の被差別の人を支配している思想的根源は
「清と穢(え)」の思想。中国の律令制度には、「貴と賤」は
あるが、これは人間の身分の上下。
インド・日本の差別の思想的根源は「清浄と穢い(きたない)」という
概念で人間を見る思想にあると二人は話す。
インドのカースト制の「清・穢」思想の根源はヒンズー教に
あると。日本には中国から入った律令制の「貴と賤」思想に
仏教の「清浄と穢い」思想が結びついたと分析。
江戸時代から日本の被差別部落問題は始っている
という見解に対し、その基礎は、律令制とヒンズー教の
影響を受けて仏教が日本に伝来し、「清・穢」思想が
入ったところからその基礎が始ると説く。
清・穢思想は、穢い(きたない)職業と結びつく。
これは、仏教の殺生戒がその思想的根拠になっている
と指摘している。肉の解体処理、墓守、狩猟、漁業などに
従事する人間を「穢い人々」として位置づける支配階級の
政策に言及。アジア的視点で被差別問題を分析している。
日本の文化がこれらの人々に担われきた歴史を解き明かす。
説教節、歌舞伎、猿楽、人形浄瑠璃・・・・・・・・。
被差別問題は、暗く差別の苦しみと同時に日本の文化・
技術を底流から支えてきたことに誇りを持つ必要があるとも
言っている。
インドで野間宏氏が「こじきの老人」の後ろを歩いていたそうだ。
この老人の薄汚れた袋に何がしかのお金を入れるのは
同じように貧しい人たちだった、よろよろとして町を歩いて
いる物乞いの老人が車にぶつかりそうになったら、
ストリートチルドレンが老人を安全な場所へ連れて行った
場面が出てくる。私もこのような図式をベトナムで
何度も目にしている。お年寄りの物乞いの人に
何がしかのお金を上げるのは、自分も貧しい物売りの
おばさんだったりする。けして金持ちではない。
本当に貧しい人々はどこかで「連帯」の気持ちを持っている
のだろうか?
本書は1982年に書かれた。当時は、部落解放同盟と
全解連とが部落解放問題を巡って激烈な闘争をしていた
時期である。
15年前にフエに住み着いた。当時「貧しさ」を恥ずかしい
という気持ちで受け止めていた人はいなかったように
思う。「子どもの家」に「37 ストリートチルドレンの家」
という看板がかかり、貧困家庭証明証が発行され
医療費の軽減なども行われていた。皆が貧しかった
時代である。それから15年。著しい「経済発展」。
今、フエの人々や「子どもの家」の子どもたちの中には
「貧しさ」は『恥ずかしいこと』と思う人々が出て来た。
「子どもの家」から高校へ行っていた男子が、
高校通学を通して、友達などに「子どもの家」の
子どもだということをひた隠しにしていた。
自転車に乗っているのは、貧しい家の子どもと
思われるのが嫌で自転車に乗らない子どもたち
もいる。ベトナム・フエはこうした子どもたちや
大人が多数輩出している。お金があることが
人間の価値を決める唯一の基準と勘違いしている
人間の出現に戸惑っている。


午後3時半、ベトナム事務所へ。
リー君が昨日の日曜日、友達のオートバイに乗り
交通事故をお越し、手と足に怪我をした。

ベトナム事務所で仕事。

午後5時半、夕食。

なすのニンニク・唐辛子煮、人参と豚肉の煮物。
両方とも美味しい。


軽くフダビールを飲む。還暦を迎え、いつ人生が終わりになるかも
しれない時期に入ったことを自覚するようになった。
ということで、やりたいことは、もうしても良い年になったと勝手に
決め込む。1日の仕事が終わった夕食時には、大好きな
フダ生ビールを飲む「年齢的な権利」があると自己決定し、
軽く飲む。4日前に新しい生ビールを入れたとのことだが、
酸っぱくなり、美味しくない。既に発酵が進んでいる。
原因は不明。

午後7時、停電。日本料理店は充電式蛍光灯四灯でかなり明るい。

午後8時。停電が続き、来客もなさそうなので日本料理店を
閉店とし、帰宅する。

「ハイリーホテル」に着き、リー君の交通事故の怪我に
薬(抗生物質)をつけてやる。昨日怪我をして、今日は
「立派なかさぷた」が出来ていた。リー君の回復力に
驚嘆する。

「ハイリーホテル」で必要なメールの送受信。

投稿者 koyama : 07:48 | コメント (0)

2008年07月27日

地球の歩き方スタディーツアー1班帰国

晴天


午前6時半起床。
シャワーを浴びる。

午前7時半、昨夜の地球の歩き方スタディーツアーとの
夕食交流会の残りの食事を朝食にする。

午前11時、「ブンボーフエ」のお店へ。
地球の歩き方第1班の皆さんが今日で帰国。
最後の昼食をフエ名物「ブンボーフエ」のお店で。

フエ空港までの見送りはバオミンさん。
私は近くの「コムディア」(ほか弁)を買いに行く途中で
地球の歩き方の歩き方の皆さんにお別れの挨拶。

昼食はコムディア(100円)。
午後12時半から1時間、昼寝。

読書「アジアの聖と賤」(野間宏等著)
インドのカースと制の分析。ヒンズー教の教義その中に
カースト制度そのものが身分制度として組み込まれている。
5つの階層。1から3までのカースト(ブラーマン・クシャトリア・
ヴァイシャ)は永代家族・個人が引き継ぐ(再生民族)。
4番目のカースト(シュードラー)は1代限りのカースト(1生族)。
5番目に「不可蝕民」。ヒンズー教の基本的な理念は
「清浄と穢れ」の概念である。5番目のカーストは
穢れ(けが)れていると認定。仕事も皮革・清掃・・・・・・。
聖と穢れは食べ物にもある。
聖なる食べ物は、牛、水牛、コブラ、サル、ヤギ
穢れの食べ物は鶏、豚。
5番目の不可蝕民は2500位の「サブカースト」に分かれている。
動物死体処理、芸能、清掃。
マハトマ(聖人)「ガンジー」と呼ばれたガンジーも
カースト制度の徹底的な闘いは回避している。
ヒンズー教の教義中での妥協的な解決路線。
カースト制度そのものの根幹でヒンズー教そのものとの
対決には行かず、妥協をつづけてしまう。
ガンジーと対英独立闘争を戦ったアンベトガルが
独立後の法務大臣を経験したが、ガンジーに対して
カースト制度の徹底的な廃棄を要求したが、
ガンジーは受け入れなかった。
1980年当時でインドに被差別民は1億2千万人いた
という。世界の人口の3%。

中国の律令国家が「良賤制」を生み出した。


午後5時、フエ師範大近くのコムデイア屋へ。
100円のほか弁を買い、「ハイリーホテル」で夕食。
フダ缶ビール3本を飲む。

必要なメールの送受信。
2008年10月講演会日程、2009年テト正月等の
講演会計画・日程調整を行う。


投稿者 koyama : 19:43 | コメント (0)

2008年07月26日

オアシスの会主催「船上生活者医療支援」視察:地球の歩き方1班お別れ会

晴天   気温40度以上


午前5時半起床。血圧測定。かなり高くなっている。
この1週間の平均値で見ると基準値の15%程上回っていた。

午前6時、シャワー。

午前6時40分、1階に。既に大塚さんが待っていた。
大塚さんが主宰しているオアシスの会の
実施している「ビーザ地区」の船上生活者を対象とした
医療支援の実態を視察しに行く。

電動バイクで10分ほど行くとビーザー地区診療所につく。
診療所の医師・看護師など4人が来る。
午前7時前にみんなで一緒にフールー小学校の前を
通って、渡し船まで行く。

渡し船に乗って、フオン川の
中洲にあるフールー小学校の分校である夜間学校へ到着。
ビーザー診療所の医師たちが渡し船で中洲へ上陸。


この夜間学校は1999年のフエ大洪水で流失した後に
JASS静岡の会の滝下さんの紹介で「中部電力平和委員会」が
寄贈したもの。


オアシスの会の船上生活者への医療支援はこの夜間学校を
利用し、毎週1回行われている。


既に何人かの船上生活者の方々が病気の子ども連れて待っていた。

オアシスの会のプロジェクトはフエでも一番生活が厳しい
船上生活者の医療を支援するため、診療費・薬代などを
オアシスの会が全額支援し、地元のビーザー診療所と
提携して行っている支援活動である。

オアシスの会支援の薬


午前7時過ぎから午前10時過ぎまでの3時間強で86人の
患者が夜間学校の臨時診療所を訪問、診察・投薬を受ける。


病気では、お年寄りの「高血圧」、子どもの皮膚病や腸炎。
流行期の「かぜ」。

赤ちゃんの養育がうまくできない母親もいる。乳児の体重測定は
欠かせない。大塚さんが母親と共に乳児の体重を計る。

夜間学校の校舎の窓が仮設薬局となる。必要な薬を患者に
手渡す。全て無料。

診療を受け、薬をもらう患者さん。


お年寄りの血圧などの健康相談をする医師



たくさんの赤ちゃんが来ていた。


1時間半ほどの視察であったが、オアシスの会の医療支援は
確実に船上生活者の命と生活を守る活動をしていることを
実際にこの目で確認した。船上生活者は船の上で日常生活を
しているので、衛生問題、生活問題、収入の問題などを
抱えている。オアシスの会のような形で具体的な支援を
直接行うことは海外支援としては本当に重要なことである。

某国の政府系の若者の海外支援団体がフエに
7人の若者を派遣したことがあった。そのうちの数人は
船上生活者の「生活改善」指導という仕事していたが
私の目から見たら船上生活者の歴史も苦労も何もしらない
20歳代の若者が生活改善指導など出来るわけがない。
船上生活者は子供が多い。子どもを産まなようにと
産児制限指導を23歳・24歳の若い女性が船上生活者
のおじさんに指導する訳である。彼女たちは、医師でも
看護師でもない。素人である。こうした無茶苦茶な
海外支援が今でもまかり通っているのが現実である。
こうした実情を見ている私にとっては、オアシスの会の
船上生活者支援プロジェクトは、地に足のついた本物の
海外支援に見えた。海外支援はこうありたいものである。
オアシスの会の大塚さんが現地に滞在し、直接プロジェクト
を見ていることもこのプロジェクトを成功させている要因である。

視察後、ベトナム事務所へ。
バオミンさん、税田さんと「当面の諸問題」を話し合う。

午前11時半、昼食。朝食を摂っていなかったので昼食は
いつもより美味しく感じた。
豚肉の脂を落としたもの、魚の煮物、もやしの漬物。


午後12時半昼寝。1時間。

午後2時、読書「アジアの聖と賎」(野間宏・沖浦和光著:人文書院)
本書は2年ほど前に神戸で講演会をした際、西宮駅前の
古本屋へ入って買った本である。1983年発行。
1982年から83年にわたって「朝日ジャーナル」に掲載された
ものである。インド、中国、朝鮮、日本の「被差別民族の歴史と
文化」を書き表したもの。

第1部はインドのカースト制の歴史の解明。非常に興味ある
内容である。インド人と言っても単層ではなく
・基層(モンゴロイド・チベット系)人口の2% 山岳少数民族
・古層(トラヴィタ系)20%(色が黒い)インダス文明を担う
・新層(アーリアー人:インド・ヨーロッパ語族)

新層のアーリア人が土俗のバラモン教を摂取し、ヒンズー教
をつくり、ヒンズー教の権力支配者であった聖職者が作り上げた
身分制度がカースト制度と分析している。
この制度を支えている思想が「清浄」と「穢れ」の思想である。

午後3時半、ベトナム事務所へ。必要なメールの送受信。


午後6時、地球の歩き方スタディーツアー1班の皆さん(7人)
とお別れ夕食会。私、バオミンさん、税田さんが参加。






パパイヤサラダ


空芯菜のニンニク炒め


地球の歩き方ツアー参加者の寄せ書き



最後に日本料理店スタッフの自己紹介


8時15分、食事会は終了。
日本料理店スタッフと記念写真


今日は、地球の歩き方(10人)、フランス人1人、
日本人3人、スペイン人4人、イギリス人3人。
合計21人の来店あり。

午後10時、閉店。

長い1日だった。

投稿者 koyama : 18:19 | コメント (0)

2008年07月25日

地球の歩き方ツアー「ナムドン山岳地帯」へ 停電

晴天

テレビの天気予報では36度。
午前2時に目が覚めた。エヤコンは使っていない。
エヤコンのリモコンには、温度計が付いている。32度を示していた。
フエは24時間、30度以上の日々が続いている。

午前6時起床。血圧・体重計測。記録。
シャワーを浴びる。昨日、電気湯沸し式シャワーを取り替えた。
タンク式のシャワーは、相変わらず水量は少ないが、お湯が出た。

午前7時、朝食。ブンボー。牛肉が生のままでた。次回から
少し熱湯にさらしてもらうように言う。

午前8時半ベトナム事務所へ。訪問者と懇談。

午後9時半、ベトナム事務所は停電となる。
パソコンが使えなくなったので、「ハイリーホテル」へ戻り
仕事をする。

午前11時半昼食。

魚のスープ、厚揚げ、野菜炒め、ご飯。



午後12時半から30分昼寝。

読書「物語 戦後、文学史(下)」読了

ベトナム事務所へ。
日本料理店の充電蛍光灯の本格的取り付けが行われて
いた。業者を呼んで壁に穴を開け、充電式蛍光灯を
取り付ける。リー店長が大活躍。



日本料理店厨房では大塚さんの指導で新しい日本料理の
研究中。



パソコンに何枚かの歌のCDを取り込む。

午後5時、地球の歩き方ツアーの皆さんがナムドン山岳地帯
から帰り、5階の刺繍みやげ物店で買い物をしてくれる。
バオミンさんとクアンさんが付き添い。


午後5時半、子どもたち・大塚さん・税田さんたちの
皆さんと夕食。


午後7時半、アメリカ・カルフォルニア在住の
ベトナム系米国人来店。ガイドブック「ロンリープラネット」を
見て来たと言う。日本料理店の玄関で一緒に写真を撮る。

その後、日本人とベトナム人4人グループ。
午後9時近く、オランダ人家族4人来店。
食事後、刺繍みやげ物店で刺繍を買ってくれる。

今日の来店は9人。

「子どもの家」の子どもたち3人は9時過ぎに帰宅させる。

午後10時、護送船団方式で「ハイリーホテル」へ帰る。

投稿者 koyama : 17:25 | コメント (0)

2008年07月24日

停電

晴天


午前5時半起床。
午前6時半、「ハイリーホテル」停電。

午前7時朝食。

午前8時、電気湯沸かし器修理業者が来室。
電気湯沸かし器を止め、電気温水器(タンクにお湯を貯める)
に交換する。
午前11時半まで部屋の洗面所で工事。
その間、リー君が「護衛」のため(?)なのか、私の部屋に
椅子を持ち込み、座っていた。時々、2人の工事業者に
何かを指示していた。工事終了後、雑巾で工事の汚れを
拭いていた。

午前11時半、昼食。
空芯菜のニンニク炒め、豚肉と海老の甘辛煮、野菜スープ。



1時間ほど昼寝。
読書「物語 戦後文学史(下)」。椎名麟三、梅崎春生、
武田泰淳。1950年を過ぎると「戦後文学」は衰退・変化してきた
と著者は言う。

午後3時、ベトナム事務所へ行くため「ハイリーホテル」を
出ようとした時、1階台所付近に子どもが入っていたとの
情報あり。
直ぐに近くを探すと中学生位の男子が隣り塀の付近に
隠れていた。

今まで何度も付近の子どもたちや見知らぬ人間が
「ハイリーホテル」に勝手入って来ている。
中には、「ハイリーホテル」1階の台所で料理を作って
いたこともある。警備員のハイ君がこうした問題を
きちんと処理できないでいる。
1日中、日本人は「ハイリーホテル」にいない。
日本人不在の時に勝手に子どもたちや知らない人間が
「ハイリーホテル」に入ってくることが常態化することは
物騒なことである。
子どもたちや大人の一部には、外国人は何も知らない、
勝手に家に入って、勝手にものを使ってもいいと
思っている人たちがいる。

この際、外国人の「怖さ」をしっかりと知らせておく必要あり
と判断。今後の防犯対策にため。

私はその男子を捕まえ、「ハイリーホテル」に入れる。
名前、住所、何をしに来たのかを聞くが、なめた態度。
名前も住所も知らないと言う。
近所のおばさんや子どもたち20人ほどが、「ハイリーホテル」
の台所近くで「野次馬」状態で見ている。そのうち、一人の
おばさんが「勘弁してやってください」などといいに来る。
私は、「勝手に人の家に入ったのは絶対に許せない。
警察に連絡する」と野次馬連中に言う。
直ぐにミンさんに連絡し、警察に連絡。「ハイリーホテル」の
裏には、県警本部情報局がある。局長が部下を連れて
5分後にやってくる。10年前からの知り合いの局長さん
である。近所の人や子どもたちは、日本人が本当に警察を
呼んだことにも驚いたが、県警本部局長という要職の
人が部下を引き連れて数分後にやって来たことに更に驚く。

局長が男子を取調べ、厳重注意し、解放。

今回警察を呼んだのは、男子の取り調べのためではなく、
近所の人たち、子どもたち、「ハイリーホテル」を狙っている
泥棒さんなどへの事前注意行動である。
隣りのおばさんなどは、「ハイリーホテル」の庭にある
水道から何度も水を汲んで自分の家へ持って行っている
のである。警備員のハイ君に注意を促しても彼は何も
しない。警備員の仕事を果たしているとはいえない。
こうした近所の人たちに「一発パンチ」を加えておく
必要があると考えての行動。今回の警察騒動の一部始終を
見ていた近所のおばさんや子どもたちなどは、直ぐに口コミで
「ハイリーホテル」の日本人は何かあると県警本部の「お偉いさん」
を呼ぶとの噂が広がる。犯罪の抑止になる。

午後4時半、ベトナム事務所へ。
停電。一昨日買って来た充電「蛍光灯」2本では日本料理店
は暗い。更に2本の充電式「蛍光灯」が必要。
早速、リー君と私でフエの「秋葉原」へ買いに行く。
一昨日蛍光灯を買った際、店の主人は「この種の蛍光灯は
たくさん店においてある」と言っていたのだが、その店に
行くと「1本もない」とのこと。
リー君と違う店を探し2本の充電蛍光灯を買う。

日本料理店の壁に釘を打ち1本の蛍光灯をつける。
もう1本の蛍光灯は、壁が固く釘がはいらない。針金で
つるす。4本の蛍光灯になると日本料理店はかなり
明るくなった。お客さんが入ってもそれほど暗く感じない。

午後6時から子どもたちと夕食。今日、生ビールを新しい
ものに代えたという。停電になって数時間。生ビールは
温かくなっているのか? それとも引き続き冷たいのか?
停電中の生ビールの温度の調査のため、飲んでみる。
冷たいままの生ビールだった。


日本人2人、フランス人1人の来客。
フランス人のお客さんは、日本料理店に飾ってある子どもたち
の写真を見て、何の写真なのか?と質問してきた。
簡単にJASSの活動を説明する。

午後9時閉店。

護送船団方式で「ハイリーホテル」へ帰る。


投稿者 koyama : 08:40 | コメント (0)

2008年07月23日

地球の歩き方スタディーツアー1班「子どもの家」訪問

晴天

雲一つない「青空」を見ると一層暑さを感じる。

午前5時半起床。昨日の日記を書く。
午前6時半、シャワー。相変わらず「低位置温水シャワー」。

午前7時朝食。ブンボーフエ。
リー君が起きてこない。ハイ君が起こしに行く。

午前7時40分、「ハイリーホテル」を出てベトナム事務所へ。
午前8時過ぎ、地球の歩き方スタディーツアー1班(7人)が
ベトナム事務所を訪問。ベトナム事務所員全員を紹介する。

ベトナム事務所員各自の自己紹介。
その後、税田さんからフエ滞在中の生活上の諸注意を行う。

ベトナム事務所員紹介の後、ベトナム事務所3階にある
刺繍みやげ物店を視察。

バオミンさんと私がスタディーツアーの皆さんと一緒に
「子どもの家」へ。

初めにスタディーツアー参加者と「子どもの家」の
子どもたちとの交流会。

セン運営委員長の歓迎の挨拶。

子どもたちは、3ヶ月の夏休みを十分堪能している。

11年前に「原田大二郎親子ベトナムを行く」で「子どもの家」
でテレビの取材をした際、原田虎太郎君が抱っこしていた
ヒー君もいまや『茶髪男』と化した。



子どもたちの踊りの歓迎


地球の歩き方の皆さん


その後、子どもたちと地球の歩き方の皆さんと交流。


最近3人の子どもたちが「子どもの家」に入所してきた。
3人とも様々な事情を抱えている。
ベトナム社会の諸矛盾を小さな体一身に受け止めて
入所してきた子どもたちの幸せな成長を願うだけである。



交流会終了後、バオミンさんが「子どもの家」の各施設を案内する。

午前10時から11時半までの90分間、私が話をする。
「子どもの家」創設の経過、海外支援についての私の
考えの変遷。「物の支援」→「人間を育てる」→「自立」

外の気温はゆうに40度を超える。90分の話は
さずがに疲れる。


講演会終了、食堂に行く。子どもたちは昼食中。

日本の里親Dさんより里子のチュック君への誕生祝の
シャツを贈呈する。



午前11時半過ぎ、「子どもの家」を後にし昼食レストランへ。

あげ焼きそば。

午後12時半過ぎ、「ハイリーホテル」へ戻る。
1時間ほど昼寝。

読書「本多秋五 物語 戦後文学史(下)」。
野間宏論。「真空地帯」の評価を巡って。
大西巨人が痛烈な批判を書く。軍隊を真空地帯
ということ自体、作者野間宏の思想的な弱点を
露呈していると。戦前の日本自体が異常な社会・
国家であり、軍隊を特別「真空地帯」として別世界
扱いすること自体が戦前の日本社会を見誤っている
という趣旨の批判。それに対し、宮本顕治が、
野間宏の真空地帯を高く評価する論文を書くなど
戦後、数年の間の作家や批評家の批判は手厳しい
ものがある。私も「真空地帯」を読み強い衝撃と
感銘を受けた一人なので、かなり硬直した大西巨人の
批判には驚くばかり。
大西巨人・野間宏・宮本顕治などの
批判・評価の裏には、コミンフォルム批判を受けて
分裂した日本共産党の国際派と所感派の争いも
あったようだ。新日本文学会と人民文学との対立抗争が。
大西巨人の批判はそうした分派闘争の当てこすりとも
思える。

午後5時半、ベトナム人の友人の家に招待され、
飲食を共にする。痛飲。

日本料理店来客6人。

投稿者 koyama : 17:48 | コメント (0)

2008年07月22日

停電

晴天

午前5時半起床。血圧/体重測定等。
シャワーを浴びる。シャワーのとってをバスタブ近くに下げると
電気湯沸かし器の電気がつく。

午前7時朝食。フォー。美味しい。


「ハイリーホテル」の住人は「擬似家族」。1日一度か二度は
擬似家族全員で顔を合わせ食事をする必要がある。
皆さんの顔色や様子を見て体調が悪くないかなど
フエでの海外活動が出来るかどうかをお互いがチェックする
ことが出来、助け合って子どもたちの支援活動が遂行できる。


午前中は、関係者に長文のメールを送る。
部屋の荷物の整理。灰谷健次郎と一緒に写った写真が
2枚出てきた。小さな額に入れて部屋に飾っておく。
灰谷健次郎も既に鬼籍に入ってしまった。

リー店長。「ハイリーホテル」の5階から1階までの
階段の掃除を復活。「いつまで続くか?」などと
醒めた目で見てはいけないと思いつつ、醒めて目で
見てしまう。それだけ、何度もこの階段掃除では、
開始ー断念を繰り返している。


午前11時半昼食。天気予報では36度言っていたが、
外の気温はゆうに40度を超えている。暑い。


イカの煮物、魚の煮物、青菜のスープ、ご飯。

午後12時半から1時間昼寝。

バオミンさんは、地球の歩き方スタディーツアー第1班の
出迎えのため早朝から ホーチミン空港へ行っている。
ご苦労様。

読書「物語 戦後文学史(中)読了。
1945年から50年。「国民文学論」をめぐる論争。
竹内好の「魯迅論」。1950年のコミンフォルムの日本共産党
批判以前の竹内好による日本共産党批判。
朝鮮戦争勃発とその原因。本書は1966年に書かれた。
その時点では、朝鮮戦争を北朝鮮がしかけたのか、
韓国・米軍がしかけたのか分からなかった。本書の
本多秋五氏も「どちらにも戦争をしかける可能性と必然性が
ある」と言うような論評をしていた。
現在では、北朝鮮の金日成が仕掛けた戦争であることが、
歴史的事実として確定している。
安部公房の登場とその難解さ。そして安部文学の
変転。安部の共産党入党。

午後3時、ベトナム事務所へ、停電。
この調子では夜の日本料理店開店時まで停電は続きそう。
大塚さんから「今日は、夜停電になっても日本料理店を
続けたい。日本料理店内と厨房に蛍光灯を買って欲しい」
との要望を受ける。ソン君・リー君と一緒にドンバ市場
近くの「フエの秋葉原」へ行き、日本料理店内用の
蛍光灯と厨房の蛍光灯を各1台ずつ買う。
この蛍光灯は24時間「充電」すると5時間ほどは、電気が点くと言う
代物。

日本料理店で大塚さんに見てもらう。こんな蛍光灯で良いとの
こと。ソン君とリー君に再度「フエの秋葉原」へ言って、更に
1台ずつ買って来てもらう。

充電をしていない。ソン君・リー君と私で「ハイリーホテル」まで
蛍光灯4台を持って行き、充電する。

私はそのまま「ハイリーホテル」に残り、午後5時15分に
充電途中の小型の蛍光灯1台を持って日本料理店へ
戻る。
午後5時半、日本料理店の夕食。小型蛍光灯1つで
食事。その途中、停電が解除され電気がつく。
当面、7月27日までは停電が続くとの「噂」あり。
多分、電気をたくさん使う9月一杯までは、停電が
断続的に続くものと思われる。今後、14組の
スタディーツアーの皆さん全員が一度は日本料理店で
食事をする。その際、停電になり真っ暗な中での食事では
申し訳ない。今日買った蛍光灯を今後の停電の際、活用する
予定。更に日本料理店内には2台ほど蛍光灯の追加が必要
ということが分かった。

数時間の停電で「フダ生ビール」は温かくなってしまったのか?
テストのため「試飲」。冷たい生ビールのままだった。
そのまま試飲が続く。

午後8時半、東京荒川区の教職員の仲間Sさんが突然
日本料理店を訪問。旧交を温める。東京の教育現場の話など
意見交換をする。

フランス人グループも来店。

午後10時前閉店。

護送船団方式で「ハイリーホテル」へ帰る。

午後8時過ぎ、バオミンさんは地球の歩き方スタディーツアー
第1班を引率し、夕食を摂りホテルへ到着とのこと。

明日から地球の歩き方の皆さんとの活動が始まる。

投稿者 koyama : 07:08 | コメント (0)

2008年07月21日

フエ高等師範大訪問

晴天  日中の気温40度以上。
     夕方、小雨

午前5時半、起床。
シャワーを浴びる。相変わらず電気がつかない。
シャワーを湯沸かし器よりも低くして持ってみる。
すると電気が点いた。水圧の加減で電気が点くように
なっていることがわかる。水圧が一定の圧力以上の
場合、湯沸し器の電気が作動するように設定されている
ことがわかった。体を引くし、シャワーの取っ手をバスタブの
近くに持っていき、久しぶりに温水シャワーを浴びる。

午前7時、朝食。マカロニスープ。
先週から日本料理店の店長に就任したリー君の日常生活が
見違えるように変わった。仕事に積極的になり、全体の
様子を的確に把握し、自分のすべき仕事を察知し、行動している。
今朝も台所でおばさんが朝食を作る度に食堂にいる私たちに
運んでくれた。

大塚さんは7時前から障害児支援施設の手伝いへ。

急いで朝食を摂る。午前8時ベトナム事務所へ。
バオミンさん・税田さんと当面の諸問題について話し合う。

午前9時、フエ高等師範大を訪問。学長と懇談。
完全な意見の一致を見る。

フエ高等師範大からベトナム事務所へ戻り、「子どもの家」の
卒業生メンさん(フエ経済大学在学中)と生活のこと、学業のこと、
その他この夏休み中のことなどを打ち合わせする。
メンさんが、元気に学業に励んでいることを確認する。

午前11時半、昼食。

鶏肉の煮物、空芯菜のニンニク炒め、油揚げ。


税田さんは事務所で仕事。若干遅れる。

午後12時過ぎから1時間ほど昼寝。
とにかく気温が40度以上が毎日続くと、本当に体力を
消耗する。しっかりと昼寝を取らないと体がもたない。
明日から夏のスタディーツアーが始る。10月1日までの
2ヶ月半の「長期ロード」になる。体の保全がなによりも
大切である。そのためには、「計画的」に生活し、
無理をしないこと、3食の食事をしっかりと摂るという
当たり前の生活が大事。

午後1時半過ぎ、シャワーを修理する業者がやってくる。
1時間ほど修理したが、結局「直らない」と言って帰った。

午後3時、ベトナム事務所に「ある関係者」がやってくる。
この間の様々な件について聞く。

バオミンさんたちと上記訪問者の話し合いの結果に
ついて総括的な話し合い、分析を行う。

大塚さんとオアシスの会など当面の活動について
進捗状況などを話し合う。

午後5時半、夕食。

今日は1日あまりに暑く、よく仕事をしたので「自分に褒美」
を出す。軽く生ビール。大塚さんが手作りのおつまみを
作ってくれる。イカの和え物

夕食のおかずをおつまみに生ビール4杯。

今日はお客さんがぞくぞくとやってくる。午後6時半になると
同時にデンマーク人家族3人。フダビールはデンマークと
フエの合弁で出来たことを話す。早速、お父さんが生ビールを注文。
日本人を含め、午後9時までに合計13人の来客。欧米系の
来客が主流。多くのお客さんが「お寿司」を注文。

子どもたちは、お寿司作りに精を出していた。
私は生ビールを飲みながら目の前でカッパ巻き、
マグロの握り、軍艦巻きなど手早く作っている子どもたちを
見て、この3年間、子どもたちが学んで来た道程がけして
無駄でなかったことを改めて確認した。
松下先生の日本語、中村友香先生・石岡先生の料理指導、
鳥取の徳岡さん、筑波の中村さん、支援の久保田さんなど
多くの人々の指導・支援があっての今日である。
何事もそうであるが、毎日のコツコツとした努力の積み重ね
がいつか「大成」へと導くということである。
「時間と手間隙をかける」と良くいうが、確かに
ひとつのことを成し遂げようとすると、そうした姿勢が必要である。
誰かにそうしたことはしてもらって、その「上前」だけをはねようと
いう「狡すっからい(こすっからい)」やり方は、結局はうまく
いかないといことを先人は教えてくれているのである。

美味しそうな「握り寿司」1人前が出来上がる
(副店長兼調理主任THUYさんの作った「握りずし1人前)

リー店長は13人の来客の接待と料理の運搬に八面六臂の
大活躍。彼は仕事があること、自分が生かされる「場所」が
あることで生き甲斐を感じているように私には、思えるので
ある。

接客主任のグエットさんもしっかりと接客と会計の責任を
果たしている。

調理の子どもたちも13人の注文に「こまねずみ」のように
働いていた。


13人の来客はそれぞれ「勝手な」注文をする。
一つ一つの注文をしっかりと聞き取り、「注文を受ける」
接客は大事な仕事。ここで違う注文を取ってしまったら
大変な事態になる。
注文を受けたあと、出来るだけ短時間で注文を作り上げる
ことも大事なこと。10分程度が限度。こどもたちの
仕事の様子を見ているとこの3年間でこうした日本料理店
の「鉄則」をキチンと身に付けているようだ。

午後9時、13人の来客が帰り閉店。
日本料理店の皆さん、大塚さん、税田さん、ご苦労様。

「ハイリーホテル」へ護送船団方式で帰る。
長い1日ではあった。これからの2ヶ月半、このまま体が
もつのかどうか、一抹の不安はあるが、頑張ろう。

投稿者 koyama : 07:25 | コメント (0)

2008年07月20日

休日

晴天  気温40度以上

午前5時、起床。昨夜からの洗濯が洗い上がり
午前2時半、「ピーピー」と洗濯機が終了の音を出す。
起床後、洗濯物を取り出す。パンツを1枚、洗濯機か中に
忘れてしまう。数時間後、通りかかったら私のパンツ1枚が
きちんと畳んで洗濯機の上においてあった。
「ハイリーホテル」のどなたか、失礼。ありがとう。

シャワーを浴びる。引き続きお湯が出ない。水シャワー。
気温40度以上が続く毎日である。水道の水も相当
暖かくなっている。10月から2月までなら寒くて
水風呂は無理だが、夏場は許容の範囲。

午前8時、昨日の日記を書く。

午前9時、数日前に買った「チャオバンカン」(小麦手打ちうどん)
の残りを茹でて朝食にする。昨夜、THUYさんが作ってくれた
料理をおかずに。


午前10時、メールの送受信をしようとしたが、
パソコンが作動しない。何度か試したが、
パソコンのトップ画面が出ない。またもやウイルスの侵入か?

読書「物語 戦後文学史(中)。
1950年、コミンフォルムの日本共産党批判。
日本共産党の分裂。所感派と国際派へ。
事実上国際派の拠点となたった新日本文学会の分裂、
人民文学創立。戦後、民主主義文学運動の分裂と
その対立の経過、内実。宮本百合子への人民文学派
からに強烈な批判。宮本顕治の秘書との付き合いと
苦悩する宮本百合子など著書の体験を通して
1945年から1950年前後の政治と文学の動きを
詳細に記述している。
井上陽水のCDを効きながら。「少年時代」、「心もよう」が良い。

福島の孫に電話。一昨日、小学校1年生の1学期が終わった
ことを知る。電話で学校に慣れたか?学校は楽しいか?
などなどを聞く。
楽しそうに学校に行っているようで一安心。

午後1時過ぎ、「ハイリーホテル」のパソコンが
壊れて使えないので、
ベトナム事務所に行き、メールの送受信。
いくつか大事なメール文章を書き送る。税田さんも日曜日
なのにベトナム事務所で仕事をしていた。ご苦労さん。

午後4時前、ベトナム事務所を出て、近くの「ほか弁屋」
へ行き、15000ドン(100円)のほか弁を買う。

午後6時、フダビールを飲みながら昨夜THUYさんが
作ってくれた小魚のマリネと糠漬けをおつまみを食べる。
一晩冷蔵庫でマリネを寝かせておくと味が滲みて美味しい。
松山千春のCDを聞きながら。
「大空と大地の中で」「旅立ち」「銀の雨」「人生の空」が良い。
足寄の青空と広い台地が目に浮かぶ。
読書「物語 戦後文学史(中)」。

午後6時半頃、黒雲が出たと思ったら、強風。雷。
豪雨。直ぐに窓の鴨居にタオルを置いた。
2時間ほど豪雨。案の定、窓ガラス越に雨水が室内に
「乱入」。床が水だらけとなる。防水を考えて窓を作っていない。

投稿者 koyama : 21:45 | コメント (0)

2008年07月19日

訪問者案内

晴天  気温40度以上


午前5時起床。
午前6時、シャワーを浴びるがまたまた電気がつかない。
結局、今日も「水風呂」。

午前7時朝食。ブンボー。量が多い。美味しい。やはり
地元の主婦の家庭料理は本物。

午前8時まで日本語の先生と世間話。

午前8時から静岡大学関係の文書つくり。
関係者へのメール送信(受信)。

読書「物語 戦後文学史(中)」
武田泰淳。北大の助教授をしていたことは知らなかった。

午前11時半、昼食。「ハイリーホテル」関係者全員で
食事をするとやはり美味しい。ご飯、スープ、野菜など
フエの家庭料理。地元の気候と風土にあった料理。

午後12時半から30分ほど昼寝。
午後1時半、「ハイリーホテル」を出てベトナム事務所へ。
午後2時、宇都宮縫製工業組合理事長・マルサ社長の
佐藤さんの紹介で知り合いの縫製関係の方、お二人が
ベトナム事務所を訪問。お二人とも某大手の縫製関係の
中国工場の責任者を20年ほどされていたとのこと。

しばらく懇談。ハノイから着いたばかり。
午後3時半からは観光が入っているという。急いで
縫製研修センターを案内する。
研修センターは土曜日も午後5時まで研修を行っている。
現在、50人以上の研修生がかなり質の高い研修を
行っている。既に研修して仕上がった縫製作品は
販売用のサンプルとしてホーチミン市や日本での
販売活動に入っている。女性用のブラウス。




再度の来訪をお願いしてお二人と別れる。
「子どもの家」へ寄り、バオミンさんとタクシーでベトナム事務所へ。

午後3時半過ぎ、ベトナム人と日本人がベトナム事務所へ
やってくる。JASS栃木の会の佐藤さんの紹介で
ベトナム人のブー君が知り合いの日本人と親戚の
若者を連れてやってくる。
午前中、ベトナム事務所に来る予定だったが、事情で
来られなかったとのこと。明日は午前6時の列車で
ホーチミン市にいく。時間がないので急いで
「子どもの家」だけ案内する。
日本料理店のリー店長たちと記念写真を撮る。

タクシーで「子どもの家」へ案内。1時間ほど、「子どもの家」の
歴史と各施設を案内する。まだ、夕食の前だったので
子どもたちは、夏休みと言うこともあり、外に遊びに行って
いた。

午後5時半、ベトナム事務所へ戻る。
日本料理店では店長のリー君が人が変わったかの
如く、真面目に責任を持って仕事をしていた。
身なりも清潔にし、日本料理店全体の仕事に気を遣って
いた。厨房で料理の手伝いもしていた。
子どもたちは、どう変わっていくのか? はたまた
変わらないのか? 「子どもたちが成長する」ということを
大人は信じてやることが、大人の最大の役割りだと
思う。そのために子どもたちが変わり・成長する
機会を作ってやることが、大人の最大の務めである。
子どもたちや若者が「なっていない」といくら叫んでも
現実は変わらない。大人の仕事は、現実への
評論家のような高尚な批判ではなく、具体的に
できることを少しでも「実践する」ことにあると見た。
リー店長は諸般の事情で急遽、ピンチピッター的な
店長となったが、この店長就任が「吉とでるか凶と
でるか?」、こればかりは、誰も先が読めない。
しかし、吉と出ることを信じていくことだけが、
「子どもの家」の子どもたちへの最大の支援なので
ある。

午後5時半過ぎ、夕食。今日は土曜日ということもあり、
日本人の大人は軽くビールを飲む。
気温40度の町で仕事をするのは、相当体力を消耗する。
時には、ストレス解消も必要、といいながら、毎日の
ようにストレス解消液を飲んでいるのである。


午後6時半、ベトナム人の来客あり。
お寿司の注文。子どもたちは手早くお寿司を握る。


午後9時、閉店。護送船団方式で「ハイリーホテル」へ
帰る。今日も長く・暑い1日だった。体力の消耗だけを
強く感じる今日この頃である。

投稿者 koyama : 09:01 | コメント (0)

2008年07月18日

長時間の停電

晴天

連日、気温40度を越え猛暑。

午前5時起床。読書「物語 戦後文学史(上)」読了。
花田清輝、竹山道雄、2、1ゼネスト前後の文学界の状況。
田中英光、太宰治。

1945年8月15日以降、1947年2月1日のゼネストの挫折
前後の戦後初期の文学界の様子を本多秋五氏の個人的体験や
感想から綴った私的戦後文学史((上)。
戦後初期の文学界はマルクス主義・共産党・戦前のプロレタリア
文学になんらかの形で関係していた人々が中心となっていた。
賛同する立場だけでなく、竹山道雄(ビルマの竪琴)などのように
反共産主義の立場にたった作家などなど。しかし、その物差しは
マルクス主義であったようだ。
私が生まれた1947年(昭和22年)と言う時代が文学史を
通して概観できた。

午前6時シャワーを浴びようとしたが、電気シャワーが
作動しない。結局、水シャワーで体を洗う。

朝食。食事を作ってくれる人を雇ったのでベトナム事務所員の
健康をしっかりと保証するものとなった。朝食は「フォー」。


朝食後、ベトナム事務所へ。
日本語学校関係者と懇談。

日本料理店のTHUYさんが新しいオートバイを買った。
「ハイリーホテル」から実家に帰り、母親、病気の弟の面倒を
見るため。日本料理店からオートバイで15分程度の農村に
実家はある。1999年のフエ大洪水で父親を亡くし、
母親と祖母、弟たちの生活の面倒を見ながら日本料理店
の仕事をする。実家から通うためオートバイを買う。
日本料理店で代金を貸してやる。月賦で返済する。

メールの送受信。

午前11時半、昼食。
「ハイリーホテル」は午前8時から午後7時まで停電。
ベトナム事務所は、午後3時から午後9時半まで停電。
結局、午後は「ハイリーホテル」でもベトナム事務所でも
仕事ができなかった。

昼食はご飯、スープ、豚肉と唐辛子入り海老の塩辛、もやし野菜。
リー君は髪を角刈りにしてくる。さっぱりした髪型になった。
「ハイリーホテル」は停電なので扇風機も動かない。
外は40度以上。風がない。汗が吹き出てくる。

食後、5階の部屋に戻り、昼寝をするが蒸し暑くて眠れない。
窓を全て開けて横になる。

読書「物語 戦後文学史(中)」(岩波書店)
この本は1966年に本多秋五氏によって出版。
本多氏は2001年になくなる。
「俘虜記」の大岡昇平の評論。武田泰淳論。
武田泰淳が中国文学の研究者だったことは知らなかった。
戦前、中国の行き、上海で敗戦を迎え引き上げる。

午後3時過ぎベトナム事務所へ。停電。暑い。
1階日本料理店の外の机で読書。

午後4時、日本料理店会議。

2名の店員が退職届を出し一方的に退職。
2名(店長と厨房)の退職を受けて新たな組織つくりを行なう。

店長にはリー君(接客と警備員も兼務)、副店長には
THUYさん(厨房主任)も兼ねる。接客主任には
グエットさん。ヒエンさん、チャンさんは厨房とする。
全員で新たな気持ちで出発を誓う。
昨夜は16人の来客を5人のスタッフでしっかりとこなし、対応
することができた。雨降って地固まるである。
今日は月給日。諸物価高騰のベトナムである。基本給を
10万ドンアップする。その他、店長・副店長・調理主任・
接客主任手当てをつける。全体的に日本料理店員の給与水準を
アップさせる。5人店員、大塚さん、税田さんと夏のスタディーツアー
の皆さんの夕食、昼食会など多数あることを確認し、成功の
ため頑張ろうと話し合う。
大塚さんは厨房スタッフに新しい日本料理を教えている。既に
いくつかの新しい日本料理がメニューに追加された。

午後5時半、停電の中夕食会。今夜は情報で8時半か9時までは
停電が続くとのこと。日本料理店を閉店とする。
みんなで夕食を摂る。「子どもの家」の店員は夕食後、帰宅。
自宅から通うスタッフも帰る。
日本人スタッフとリー店長、ハー警備員でフダ生ビールを飲む。
2週間で発酵してします。最近のように停電が続くと発酵が
加速し2週間を待たずに飲めなくなってしまう。飲めなくなって
捨てるのももったいないので、飲めるうちに飲んでおこうと
いうことに衆議一致。7杯ほど生ビールを飲む。かなり酔う。

午後7時過ぎ、護送船団方式で「ハイリーホテル」へ帰る。
私は痛飲のため、就寝。夜中に何度か目を覚ます。

目覚める度に「睡眠薬代わりに」落語のCDを聞く。
軽いもの。「先代 三遊亭金馬 居酒屋・小言念仏・佃祭」。
「柳家小三冶 湯屋番」。「古今亭志ん朝 代脈・蔵前駕籠」。

気温が40度以上の日々が続くと、存在するだけで疲れる
ことが分かる。

今日は、「ハイリーホテル」・ベトナム事務所とも1日停電の
ためメールの送受信が充分には出来なかった。

投稿者 koyama : 11:20 | コメント (0)

2008年07月17日

停電:日本料理店大繁盛

晴天

午前6時起床。
午前6時半シャワーを浴びている途中、電気が切れて水風呂
となる。

午前7時、1階食堂で久しぶりにみんなで朝食を摂る。
今日から朝食を作ってくれるベトナムの女性を採用。

朝食はフエ伝統の「ブンボーフエ」。さすがに地元の
家庭の主婦が作ってくれてブンボー。美味しい。
かにをミンチにした「かに団子」入り。

諸般事情があり、この3週間ほど食事は各自でするようになっていた。
私がフエに帰国し、個人の食事は自分で買い物をしたりと、私自身が
大変なので急遽、食事を作る人の採用に踏み切った。
これで安心して3食を摂ることが出来るようになった。
海外NGOは何と言っても体力が勝負。3食をきちんととることが
何よりも最優先の課題である。

午前中、ベトナム事務所は停電。
「ハイリーホテル」で仕事。

静岡大学留学の件、アクア奨学金の件などに関する
返信。

午前11時半、昼食。

イカの煮物、空芯菜のニンニク炒め、豚肉と海老の甘辛煮
豚肉のスープ、ご飯。

豪華な昼食となった。

午後12時半から30分程昼寝。
午後1時半頃、電気湯沸かし器の修理人がやってくる。
部屋で仕事をしながら修理人の仕事を見ている。
何度か部品を取りに行ったりしながら修理をしていた。
午後3時頃、停電となる。停電となったら修理人は部屋を出て行った。
これで修理は終わりなのか? はたまた継続なのか不明。
「ハイリーホテル」の1階に下りて修理人のオートバイを探すがない。
警備員のハイ君も不明。台所のシャッターは空きっぱなし。
「泥棒さん」にお入りと言っているようなもの。
近所を探してもハイ君はどこかへ行ってしまった。
昨日は、午後3時から近所の友達と勤務時間中に
トゥアンアン海岸へ遊びに行ってしまい、夕食にも戻って
こなかった。
今日も勤務をほったらかしてどこかに遊びに行ってしまった模様。

午後4時過ぎ、「ハイリーホテル」を出てベトナム事務所へ。

日本料理店では大塚さんを中心に新しいメニューの開発の
ための会議を行なっていた。

午後5時半、ハイ君が夕食を食べに日本料理店へやってきた。
ハイ君を「捕らえて」ベトナム事務所の2階会議室へ。

バオミンさんの通訳。大塚さん・税田さん・リー店長の参加で
ハイ君に注意をする。仕事をしたくないのなら、やめて欲しい。
仕事をしたいのならきちんとやりなさい、と言う趣旨の話をする。
小さな声で「仕事をします」と言う。

ハイ君は「甘い」考えを持っている。JASSは何をしても助けてくれる
と思っているふしがある。給料をもらうということは、きちんと
仕事をすることが前提でなりたっている「契約」であることを知らせる。

店長のリー君はハイ君の反省の態度をしっかりと見ていた。

午後6時半日本料理店開店。次々と来客あり。



厨房では大塚さんを先頭に子どもたちが大活躍


新たに店長になったリー君は心も新しい仕事にまい進していた。

近くのホテルからお寿司のデリバリーの注文もあり、
日本料理店は16人の来客でごった返す。
子どもたちと大塚さん、税田さんで全ての業務を難なくこなす。

お寿司のデリバリーをする店長のリー君。
店長になってからやる気も充実し、真面目に仕事をしている。



午後9時40分、日本料理店閉店。本日の来客16人。
大塚さん・税田さんをはじめ、子どもたちが大活躍。
16人の注文を全て完璧に作り上げた。
フランス人家族、ポーランド人、日本人など多くの
来客。帰りには「おいしかった」と言ってくれた。
子どもたちの活躍に感謝する。

「ハイリーホテル」帰宅午後10時。

投稿者 koyama : 19:16 | コメント (0)

2008年07月16日

ベトナム事務所員会議・訪問者懇談

晴天  真夏  気温40度を越す

午前5時起床。読書。「本多秋五 物語 戦後文学史(上)」

午前5時半から午前6時半まで停電。丁度、朝のシャワーを
浴びようとしていた時だった。

午前6時半、「ハイリーホテル」2階のリー君・ハイ君の
部屋に行く。ハイ君は寝ていたが、リー君がいない。
1階の食堂に行くとリー君が食堂のテーブルに寝ていた。


二人を起こし、朝食に行く。

朝食は、「ハイリーホテル」近くの「ブンカー」の店。
ブンは、米の麺、カーは魚。
米の麺の上にさつま揚げや人参、パイナップルなどの
野菜が乗っている麺。1杯1万ドン。リー君の話では
半年前の2倍に値上がりしているという。


午前8時、「ハイリーホテル」を出てベトナム事務所へ。
午前8時半ベトナム事務所員会議。バオミンさん主催で
7月8月9月のスタディーツアーの計画、分担等の
打ち合わせ。現時点で14スタディーツアーの受け入れ
計画がある。今後、更に増える予定です。1つのスタディーツアー
が5日から1週間フエに滞在する。

午後12時過ぎ、昼食。近くの路上の市場で「チャオバンカン」
を買う。5000ドン。30円。つけ麺にして食べる。

午後1時半、名古屋タイムズへ電話。
私のフエでの活動を記事にしてくれるとのこと。
30分ほど、活動に関するインタビューを受ける。

午後2時、ベトナム事務所へ。
「ハイリーホテル」で食事を作る方と面談。
明日から朝食と昼食を作ってもらうことにする。
当面は5人の日本人と2人のベトナム人。

午後4時、個人訪問者の方と懇談。筑波大の3年生とのこと。
1年間、休学し、タイ・ラオス・ベトナムなどを回っているとのこと。
こうした学生さんを私は評価する。自分の目と足と頭で現地を
体験するということがいかに大事なことか。
大学の中で理屈だけ学んでも現実を変えることはできない。
「現実」「事実」「社会」「世の中」「世界」を見て・体験して、
「知ること」がいかに大事なことか・・・・。
こうした積極的で優秀な若者が海外に出て行くことを
高く評価したい。


午後5時半。夕食。今日は、午後2時半から大塚さんが
厨房の子供たちに新しい料理を教える。

●オムライス


●エビフライ


●揚げ餃子

●スープ餃子


この種の料理は、日本人から教えてもらわなければ
作れない。いくら「まね」をしても日本料理にはならない。


午後5時40分、突然停電。
真っ暗な中で食事をする。


日曜日以来、久しぶりにフダ生ビールを飲む。
結局1時間半たっても停電は回復しない。
日本料理店を閉店とし、皆で「ハイリーホテル」へ戻る。

投稿者 koyama : 21:42 | コメント (0)

2008年07月15日

日本語学校等打ち合わせ

晴天


気温40度以上。

午前6時半起床。ヨーグルトを1つ朝食。心臓等の薬を飲む。
まだ下痢と体調不良は完治していないが徐々に回復している。

昨日の日記を書き始める。

午前9時、ベトナム事務所へ。
日本語学校関係者と1時間半ほど打ち合わせ。

「ハイリーホテル」へ。コムディア(ほか弁)。

1時間半ほど昼寝。

読書「本多秋五 物語 戦後文学史(上)

午後3時、ベトナム事務所へ。バオミンさんと当面の
諸問題を協議。

その後、大塚さん・税田さんと当面の諸問題を協議。

午後5時半、子どもたちと夕食。


夕食後、体調不良のため「ハイリーホテル」に戻る。

パソコンがウイルスに侵され修理をしてもらったのだが、
今度は、パソコンに入れてあった各種資料などが、全て
廃棄されててしまっていた。パソコンが使えるように
なったのは有難いことなのだが、2000年から毎日
記録していた血圧の記録が全て消されてしまっていた。
この7年間ほどのデジカメ写真を保存しておいたが、
それらの大半がなくなっていた。
べトナムの修理は、要望したことは直すのだが、
代わりの他の部分が壊れているということが多い。

読売新聞の取材を受けた。障害児支援関連の
記事が8月末に載る予定だが、新聞社から
障害児支援関連の写真を送って欲しいと頼まれて
いた。写真は「ハイリーホテル」にあるパソコンに保存
してあるので、フエに戻ったら送信する約束になっていた。
保存写真が消えうせてしまったので、各種CDや記録用の
スティックなどを全て点検し、4時間ほどかけてやっと
10枚ほどの写真を見つける。
就寝 午後11時半。

投稿者 koyama : 21:36 | コメント (0)

2008年07月14日

北海道芸術高校関係者案内・交流

晴天

最高気温40度を超す

午前6時半起床。腹痛・下痢・7度5分。
昨日のおかゆの残りを朝食にする。
まだ、体がだるい。2日間の下痢で体力を消耗。

しばらくメールの送受信。

午前9時半ベトナム事務所へ。
日本料理店店員の父親が来ていた。30分ほど話し合う。

午前10時過ぎ、大塚さん・ミンさん・税田さんと 一緒に
日本料理店の子供たち3人と話し合う。

昼食は、大塚さんが作ってくれた「おかゆ」。

20分ほど休み、午後12時半、ミンさんとフエ空港へ。

午後1時過ぎ、
北海道芸術高校の坂井理事長・植田教諭を出迎える。
北海道芸術高校は広域通信制・単位制・普通科の高校である。
十勝清水にキャンパスを持ち、札幌・仙台・東京池袋・名古屋
にサテライトキャンパスを持っている。「まんが・イラストコース」
「ビューティーコース」「美容師コース」「アニメーションコース」
「ミュージックコース」「ゲームコース」「声優コース」
「ダンスコース」などを設置し、若者のニーズと個性・将来を
見通した高校生コースを作っている。創立3年目。
10月7日は札幌で北海道芸術高校主催の私の講演会があり、
来年は、スタディーツアーも予定している。今回は、その下見
も兼ねている。

途中、軽くフォーを食べてベトナム事務所へ。
その足で静岡会館日本語学校を視察。いぶき先生の授業。

続いて「縫製研修センター」視察。「縫製研修センター」では既に
研修が大掛かりに行なわれており、製品も出来上がっている。



「縫製研修センター」の看板


最後に「子どもの家」を訪問。セン委員長と挨拶。
その後、各施設などを視察する。

午後4時半、ベトナム事務所へ。1時間ほど話し合い。
北海道芸術高校の目指している道、めざしている教育などを
理事長さんから伺う。

午後5時半、日本料理店で夕食。



午後7時には日本料理店を出てフエ空港へ行かなければ
ならない。最後に関係者全員で記念写真


日本料理店の子どもたちも元気に仕事に励んでいたい。

私は下痢と体調不良のためそのまま「ハイリーホテル」へ
帰る。数時間睡眠。夜中に目が覚める。

「トロッキー永続革命論」読了。

『物語 戦後文学史(上)』(本多秋五著:岩波書店)
を読む。

1945年8月15日の日本軍国主義の敗戦後、
日本文学界はどのような動きがあったのか?
本多秋五氏の個人的な体験も交えて、戦後文学の
各種論争などを紹介したとても読みやすい本である。

敗戦直後の文学・文化界の動き。基本的には
戦前に新しい衣を装ったものだった。

1946年「近代文学」創刊の頃の文学界の出来事。
宮本百合子と中野重治の論争・
「政治と文学」の関係をめぐる論争。小林多喜二の
「党生活者」の評価をめぐる論争。文学者の戦争責任を
の問題。小田切秀雄など「文学時標」が高村光太郎、
火野葦平、亀井勝一郎、吉川英冶、横光利一、船橋聖一、
石川達三、丹羽文雄、青野季吉、中野好夫、斉藤茂吉、
などが戦争責任の追及を受けている。
1946年6月には「新日本文学」で小田切秀雄がさらに
厳しい戦争責任の追及を行なっている。
菊池寛、久米正雄、高村光太郎、西条八十、斉藤茂吉、
火野葦平、横光利一、川上徹太郎、小林秀雄、
亀井勝一郎、林房雄、尾崎士郎、佐藤春夫、武者小路実篤、
吉川英冶・・・・・。
さらに「太陽のない町」の徳永直の「転向」問題などにも
話は波及していく。

石川淳の評価、坂口安吾、織田作之助の評価。
そして、野間宏の仕事について。

夜中も下痢と腹痛で悩む。

投稿者 koyama : 09:36 | コメント (0)

2008年07月13日

夏風邪を引く

晴天

午前9時、「ハイリーホテル」5階の日陰の気温38度。

明け方からお腹を壊す。昨夜の食べ物に何か問題がと
考えたが問題は見つからない。
体がだるい。午前7時過ぎに検温。38度。気温と同じ体温。
夢遊病者のような感覚である。下痢の原因は「夏風邪」と断定。
ベトナム事務所員の皆さんが順番に夏風邪を引いているとのこと。

お昼まで寝る。正確には起きられなかった。
昨夜、日本料理店でもらった朝食用のご飯に醤油をかけて
数口食べる。持っていた風邪薬を飲む。冷房を止めて
いる。熱いのか熱くないのか?
再度検温。やはり38度。食欲なし。ボーッとしている自分の
体をもてあましている。やらなければならない仕事がたくさんあるが、
この際、体力温存が至上課題と考え、1日寝ていることにする。
1ヶ月間、部屋をするにしていたのでかなりほこりもある。今日は
部屋の掃除、洗濯、明日からの仕事の計画表作りなど、私の夏の
スタディーツアー体制を作る予定だったが、全て取りやめる。

午後3時まで眠り続ける。

関係者に長文のメールを送る。


午後5時、夕食と水を買いに行く。
ヨーグルト、水、ご飯と野菜のほか弁を買う。
リー君が1階で警備員のように仕事をしていた。
私たちの出入りの手助け。ハイ君は?と聞くと
インターネットカフェでチャットをしているとのこと。
急にリー君に自覚が出てきたのか?
ハイ君の仕事を日曜日なのに代行している。

「ハイリーホテル」の部屋のパソコンが壊れる。
ウイルスの侵入と思われる。

午後7時。ヨーグルト1つとほか弁3分の1程を口にいれる。
梅干をいくつか食べる。風邪薬を飲む。

投稿者 koyama : 20:48 | コメント (0)

2008年07月12日

ベトナム事務所・「子どもの家」で活動

晴天

午前7時の気温38度。
日中は40度を越える。

午前7時、リー君・ハイ君と近くのブンボーの店で
朝食。

数ヶ月前まではブンボーは5000ドン。今日は1万ドン。
数ヶ月で庶民の食べ物が2倍に急騰している。
ベトナムの経済の異常さと混乱ぶりをブンボーを食べて実感する。
異常な「バブル」が収束期に入っていることは確かである。未だに
フエのバブルに踊っている悲しき踊り子たちがいる。
私たち日本人は1991年のバブル崩壊で「バブルはいつかは
崩壊すること」を体感した。ベトナムでははじめてのバブルの
体験である。この異常な成金体質・拝金主義がいつまでも
続くと思っている一部の人間に近未来に痛烈なしっぺ返しが
くることは明らかである。バブル崩壊を夢にも思っていない
無知なフエの人間を何人か知っているが、義理も恩義を
かなぐり捨てて、「金・金・金」に走っても羞恥心すら持たない
人間に成り下がっている。悲しい現実ではあるがこれも
ベトナムの現実である。

午前9時半過ぎ、「ハイリーホテル」を出て、「子どもの家」へ。
「子どもの家」でセン委員長と懇談。大塚さん、税田さん、
バオミンさん、私。話し合いの内容は、「当面の重要問題」。
話し合いは2時間に及ぶ。両者の完全な意見の一致を見る。


「子どもの家」では従兄弟の長島弘道・和子夫妻の支援で
子どもたちの部屋の大改修が行われていた。子どもたちの
部屋のペンキの塗り替え、ベッド等の作り変え、「子どもの家」の
回りの壁のペンキの塗り替えなどが行われていた。
もうしばらくたつと、「子どもの家」のA棟の子どもたちの部屋の
壁がきれいに塗り替えられ、ベッド等も新しいものに代えられる。
長島夫妻に心から感謝したい。今回、「子どもの家」の周囲の
壁、子どもたちの部屋の改修、トイレの回改修、子どもたちの
部屋の外壁のペンキ塗り等で100万円の寄付を頂いた。

http://www.kokushikan.ac.jp/newsevent/2007/071222.html



午後12時。大塚さん、税田さんと「コードー」レストランで食事。
私は鶏肉と野菜ご飯を食べる。
大塚さんにご馳走になる。

「ハイリーホテル」へ戻り、30分程仮眠。気温は
既に40度を超えている。

午後2時、「ハイリーホテル」を出てベトナム事務所へ。
日本料理店の厨房主任THUY(トゥイ)さんと懇談。
今後の日本料理店の件について突っ込んだ話し合いをする。


午後3時半、リー君を呼んで今後の日本料理店問題について
話し合う。

様々な問題をもっているリー君ではあるが、日本料理店の現在の
緊急な事態に対しては一番前向きな姿勢を示している。
15年間、リー君と付き合ってきた。様々な問題を包含している。
しかし、煎じ詰めれば「真面目」人間である。


午後5時半、リー君・ハイ君・大塚さん・税田さん・いぶきさん・
私で夕食。

午後9時まで会食と諸問題についての討議が続く。

読書「トロッキー永続革命論」(文光社)
非常に興味ある内容。3分の2ほど読みきる。
明日、日曜日読了の予定。

トロッキーという名前を聞くとある年代の人たちは
それぞれに強い反応を示す。
共産党系の皆さんは、「トロッキスト・トロッキー主義者」と
非難の気持ちをこめて呼称し、「新左翼」など中核派・
カクマル派、第四インター派などは、尊敬の気持ちを
込めてトロッキーを読み取る。
「トロッキー」と言う名前は、どうしても中核派・革マル派など
「極左暴力集団」を連想させてしまう。トロッキーがソ連のどのような
時期に何を言ったのかという歴史的事実を知ろうとはしていない
ように思われる。トロツキスト・スターリニストとの「レッテル貼り」
に終始している感が強い。

「永続革命論」は、1020年代に書かれたものである。
90年ほど前の文献であるが、内容は新鮮である。
トロッキーは、1905年の第1次ロシア革命、1917年の
ロシア社会主義革命の際には、レーニンとともに革命の
中心的な役割を果たした。しかし、1924年、レーニンの死後、
スターリンとの確執、権力闘争の中で、失脚し、「反革命分子」
のレッテルを貼られ、メキシコに亡命し、スターリンの刺客に
刺殺されたという経歴である。
今回、90年前のトロッキーの著作を読んで、第1に学んだことは
「論争」という名の「喧嘩」の仕方である。著者は、具体的な
文献・資料を丹念に提示し、批判する相手の書いた文章の
中の矛盾を指摘するという実に冷静な理論的な論争をしている。

スターリンは、トロッキーを反革命分子と断定し、その排除に
乗り出す。最大の焦点は「一国社会主義建設」の是非論である。
トロッキーは、当面の情勢の中(ヨーロッパでの社会主義革命
ができない中で、当面、一国社会主義はありうることを認めつつ、
大局的には、ヨーロッパでの社会主義革命の達成なくして、
一国での社会主義の建設は不可能)との立場をとっていた。
それに対し、スターリンは、一国社会主義建設の完了は可能
との立場に立ち、反対派を粛清し始めていた。こうした情勢の
中でトロッキーの考えに賛同していたロシア共産党ボルシェビキ派
の中でもスターリンからの粛清を恐れ、突然、トロッキー批判の
論文を書き出すという党員が続出。
トロッキーは、ラデックというトロッキーの永続革命論を支持して
いたロシア共産党ボルシェビキ派の論客が、突然、トロッキー
を批判したことに対し、詳細な批判論文を書いたのが、本書
「永続革命論」である。
本書を読んで、論争の仕方の核心は」「問題の本質を
どうつかむか」とうことであることが分かる。
長々と話しても問題の本質を理解していない論客の
文章は意味がない。そうした意味では、トロッキーは、
永続革命論がいかに「誤解」されているか?
いかに捻じ曲げられて論評されているかを具体的に
論評している。論争の基本的なし方がよく分かる。
トロッキーは1920年代に既にソ連の崩壊を予測していた。
その最大の理由は、「社会主義」を名乗りながら、共産党の
幹部か一部の官僚が特権を得て、労働者・農民(中農・貧農)
が貧しい生活を強いられているソ連の現状である。
スターリンがトロッキーは労働者・農民の同盟を否定している
との見解を明らかにした際、「私は労働者を中心に農民の
力を借りたプロレタリア革命を支持してる」と反論している。
私にとって、90年も前のスターリン派とトロッキーの論争ではあるが、
同時に私の今住んでいる某社会主義を名乗る国の実態は、まさに
トロッキーが90年前に指摘していた実態であり、その行く末すら
想像してしまうのである。

投稿者 koyama : 22:49 | コメント (0)

2008年07月11日

フエ到着

晴天

午前11時、ホーチミンのホテルを出発し、ホーチミン空港へ。
午後1時15分発のフエ行きだったが、事情説明なく、1時間
以上遅れて出発。午後4時フエ空港到着。
空港から車で「ハイリーホテル」へ。
「ハイリーホテル」からベトナム事務所へ。バオミンさん・
税田さんと当面の諸問題を協議。

午後6時半から日本料理店で夕食。今夜は大塚さんが
中心となり夕食を作ってくれる。

午後9時過ぎまで私の不在中の様々な問題について飲みながら
話し合う。

小山道夫 2008年6月帰国活動

6月
  12日(木)成田着
  13日(金)
  14日(土)福島
  15日(日)福島            
  16日(月)P12:30 栃木県小山市西高等学校講演会(700人)  
  17日(火)福島
  18日(水)福島
  19日(木)福島
  20日(金)A10 栃木県小山市立城南小学校」講演 (110人)
  21日(土)P1:30木村百合子さんを支援する会(静岡県磐田市)
  22日(日)家族と「岳温泉」福島
  23日(月)家族と「岳温泉」福島
  24日(火)P2 読売本社社会部取材 
  25日(水)通院
  26日(木)P1新宿南口 原田虎太郎君懇談  
        P5:30東京学芸大講演会(11人)
  27日(金)P12:45 横浜市立並木中学校講演会(300人)  
  28日(土)
  29日(日)A11JASSスタディーツアー懇談(森田・加藤・山田氏)
  30日(月)
 
7月01日(火)静岡大学学長等懇談打ち合わせ(静岡にて)
  02日(水)P6 新宿にて支援者と懇談
  03日(木)A10:30心臓病院
  04日(金)P6水戸後藤弁護士懇談(勝田市泊)
  05日(土)火炎樹の会講演会(30人
  06日(日)成田発→ ホーチミン市
  07日(月)ホーチミン市
  ~
  10日(木)ホーチミン市
  11日(金)ホーチミン→フエ

 ●講演会 5回 1151人

投稿者 koyama : 00:37 | コメント (0)

2008年07月10日

「縫製研修センター」関連の打ち合わせ

晴天

午前5時半起床。

この数日をいくつかの仕事のためホーチミン市で過ごす。

午後5時半、オムニサイゴンホテルで宇都宮縫製工業組合理事長
(マルサ社長)佐藤さんと待ち合わせ。
佐藤さんのホーチミン市にある事務所へ行き、今後の
「縫製研修センター」の運営等の打ち合わせを行う。

既に「縫製研修センター」では、婦人服を中心に研修を
はじめている。立派な製品も出来上がっている。
今回は、「縫製研修センター」で出来上がった製品の
売り込み。
ホーチミン市にある日系の縫製工場に行き、売り込み。
日本では1着1万円以上はする製品。
売り込み先の反応も上々。
何とか、販路が見つかり、「縫製研修センター」の研修製品が
売れるようにしたい。
佐藤社長も一生懸命、子どもたちのために「縫製研修センター」
への支援を続けてくれている。感謝。




午後6時半から午後10時過ぎまでホーチミン市内の日本料理店
「赤太陽」で会食。佐藤さん、米倉さん(FNハンドクラフト工房
工場長)などと今後の「縫製研修センター」の進め方、
研修製品の販売の仕方などを飲みながら打ち合わせる。


この数日で
「経済物理学の発見」(高安秀樹著:光文社新書)を読了。

非常に興味ある本であった。経済学と物理学がどこで交差しているか?
本の題名を見て興味を感じ読んでみる。文科系と理科系に分かれて高校では
勉強をする。私は、中学までは数学が一番好きだったが、高校2年になり文系と理系に勉強の内容が分かれる際、文型を選んだため当時の言い方では「数ⅡB」までしか数学は勉強していない。物理も同程度のもの。
 著者は元々は名古屋大理学部卒の理学博士。物理学者である。
1980年代に入り物理学に新しい潮流が生まれてくる。コンピューターの発達がその基礎にある。今まで手計算の方程式で物理学の計算は行われていた。
手計算方程式は事実上、線形な方程式に限定されていた。直線的なものを想定し、
方程式を作り、その延長線を想定し解を求めていた。この方程式では自然現象(非線形)の解析は難しかった。

ローレンツという学者がアトランダムに起こる自然現象などの非線形の方程式を
コンピューターで解析した結果、「初期条件のわずかな違いで結果が全く違う性質を持っている」ことを突き止めた。こうした性質を「カオス」と呼んでいるそうだ。カオスは
混沌という意味になる。数学的には「ほんのわずかな違いが拡大されて全く異なる結果を生み出す」という意味になる。
こうした手法で方程式を作っていくと、アトランダムに起こる事象にもある程度の特徴と法則があることがわかって来た。ガラスのコップを床に落として割れる割れ方をカオスの理論で見るといつくかの特徴が見出される。
こうしてユークリット幾何学を更に発展させるような理論が生まれてきた。
クークリット幾何学は、キリスト教の影響を強く受けている。
この世界は神が作り、全てが完全・完璧なものとの前提で成り立って
いるユークリット幾何学。カオスの理論は、直線や円だけではない
アトランダムなガラスコップの割れた破片にも一つの法則と傾向が
あることを発見し、数学と物理学を更に発展させつつあるという。
1980年代・1990年代に始まった新しい学問である。
 本書は為替市場を経済物理学で分析し、その変動の未来予測ができないとされていた国際為替市場をコンピュータで分析し、ある程度の分析見通し・予測ができることうことを主張している。
 経済物理学は物理学の手法と概念を使ってデーターに基づき実証的に現実の経済現象を解明する学問だそうだ。
それは、アトランダムに起こる物理現象を分析する「フラクタル」という理論を経済学の現象に応用するという手法である。
この理論にはノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎の「くりこみ理論」が応用されている。くりこみ理論は、アトランダムにおこる現象を大局的に見て一つの大きな現象と把握する考えである。これは一種の哲学的な思考方法である。
 こうして1990年代に経済物理学はかなりの発展をし、予測が難しい株式市場、外国為替市場などの分析を行えるようになってきたという。物理や経済学には素人の私にとっては読みやすく、物理学の歴史から始まり、経済物理学の現状までを解説している本書は、素人でも興味のもてるものであった。
 高安氏は「今後の展望」の中で基礎学問の重要性を強調している。すぐに成果が出て、「役立つもの」だけを学問が進めていくと、発展はないと断言している。
「電磁気学」が確立された19世紀初頭、それが何に役立つか誰もわからなかった。しかし、今日「電磁気学」がなければ、現在の生活を維持することができないほどの重要な学問になっている言い、基礎学問を重視しない社会は間違っていると強調している。また、間違いや失敗の報告こそ重要な科学の進歩なのだとも言っている。研究の間違いや失敗を学会や研究誌等で世間に発表することで、他の学者がその失敗を繰り返さないという大きな意味があると指摘している。現在、日本で「流行」している「成果主義」「結果主義」「数値主義」がいかに現実を前進させないものかを明らかいにしている。特に教育の世界を席巻しているかに見える「成果主義」「数値主義」への間接的ながら学者からの強い批判である。すぐに成果が出るものだけを評価する方法は、結果的に衰退を生むという。これは会社などでの研究でのことであるが、教育は10年後、20年後に結果が出るかでないかという分野である。今の教育界を悩ませている成果主義への物理学者からの批判の意味は大きい。


投稿者 koyama : 07:47 | コメント (0)

2008年07月06日

ベトナムへ帰国

晴天

午前5時、ひたちなか市のホテルを出発。
福田勝夫氏、森島博氏、S氏など4人がひたちなか市の
ホテルへ同宿。今日は洞爺湖でのG8サミット。
成田空港の警備も厳しくなるとの予測もあり、午前5時に
ホテルを出る。しかし、予想以上の警備も厳しくなく、
2時間ほどで成田空港へ到着。

見送りの皆さんにお礼をいい、入管へ。


午後3時、ホーチミン市へ。

投稿者 koyama : 00:06 | コメント (0)

2008年07月05日

火炎樹の会講演会

晴天

勝田駅近くのビジネスホテルに泊まる。
午前中、メールの送受信。

午前11時、火炎樹の会代表の森嶋さんが
ホテルまで迎えに来てくれる。
ひたちなか市の公的機関で「ベトナム料理教室」が
行われている。

NGO「WING」のみなさんをはじめ、20数名の方が参加。
べトナム料理作りを楽しむ。


今日のメニューは「ベトナム風春巻き」「フォー」。

昼食は春巻きとフォーを食べる。なかなか美味しい。




午後1時半~午後3時過ぎまで私の講演会。
その後質疑応答。



新しい参会者が多かった。

その後、一度ホテルへ戻り、着替え、懇親会場へ。

午後5時半から午後8時半まで懇親会。

福田勝夫氏の乾杯の挨拶



火炎樹の会より寄金


贈呈。


その後、ひたちなか市の七夕祭りを参観。

午後10時、ホテルへ戻る。

明日は午前5時ホテルを出発。サミットのため
成田空港は警備が厳重とのこと。時間がかかると想定し
早めにホテルを出発することにする。
福田勝夫氏、森嶋代表、仙田さんなどが見送りに
来てくれるとのこと。ありがたいことである。

投稿者 koyama : 22:00 | コメント (0)

2008年07月04日

水戸の後藤弁護士と懇談

晴天


午前中、必要なメールをベトナム事務所とやり取りをする。

午前11時過ぎ自宅を出て、上野駅へ。

上野から水戸の隣の勝田駅へ。

読書「少年A 矯正2500日全記録」(草薙厚子著:文藝春秋)
を読了する。

読んで多くのものを得た。少年Aは母親との葛藤が
生育に強い影響を与えていたという。厳しくしつけることが
長男の教育と思っていた母親は、殴られたら殴りかえせと
いう指導をしている。少年Aは母親を豚と呼んでいる。
少年Aは心の中に自分と違う自分が巣食っていることに
気づく。人殺し、その肉を食べたり、血をすすることで
性的な興奮を感じる違う自分を「酒鬼薔薇聖斗」と命名し、
本当の自分と区別している。「親の愛情をいままで感じたことが
ない。誰からも愛されない、自分は異常で世の中で意味の
ない人間、魔物である」と感じていた。

次男が生まれた後、母親は二男の育児に専念し、少年Aは
祖母の手に預けられるようなる。少年Aと母親との「母子一体」
の期間がごく短かったことも指摘されている。教育熱心な母親は
少年Aが幼稚園で恥をかかないよう、団体生活に必要な
生活習慣や能力をしっかり見つけさせようと排尿、排便、食事、
着替え、玩具の後片付けなど、普通の子どもよりも早めに
厳しく躾をしたという。

その後三男が生まれると少年Aは突然「足が痛い」と言い出す。
医者はレントゲンを撮るが問題なし。「少年Aをもっとかまって
上げてください。おそらく精神面から来る症状でしょう」との
医師の助言を受ける。
幼稚園当時、少年Aはある意味で早熟な子であった。
友達と玩具をの奪い合いをすれば、いつも我慢して相手に
譲る。幼稚園側は「母親が家庭でしっかり躾けている」と
見ていた。「明るくて理解力がある。絵本を好み、内容も
よく知っている」と幼稚園側は評価していた。
「砂場で遊んでいて友達に玩具を取られモジモジ
していて何も言い返せなかった少年Aに対し、母親は
取られたら取り返しなさい」と強く叱ったという。

このころ、少年Aは将来なりたいものとして「ボクシングの選手」
を挙げている。「強ければ人にいじめられなくなる。母親にも
怒られなくてすむ」と。
少年Aは幼稚園時代、自分より強い者すべてを仮想敵として
いた。幼稚園という集団生活の場では表面的には、理想的な
子どもを演じながら、心の奥底では強くなって母親に思い知らせ
てやるという思いを抱きるづけていたという。
小学校5年の時、少年Aを一番可愛がっていた祖母が死亡。
少年Aは生き物の体を切ったり裂いたり内臓をみるのが楽しくなる。
同じころ、ヒトラーの「わが闘争」を読みたいと言って母親に買って
もらう。少年Aは「この世は劣るものは死に、優秀な者は支配する
という争いの世界である」との認識をもつようになる。
その後、万引きを繰り返す。
カエルを解剖し、猫の首を絞め、口から脳へナイフを突き刺し
腹を裂き腸を出し、首を切り落とす。20匹ほど猫を殺す。
こうして猫を殺し虐待している時に初めて射精を経験する。
性衝動と動物殺しとの関係を自覚し始める。
そうした成育歴をたどり、二人の子どもを殺し、首をきり、
その口にメッセージを食わせさせ、中学校の校門の置くと
いう異常な行動に走り逮捕された。
医療壮年鑑別所で「性的サディズム」「対人障害」との診断を
受ける。4年半の医療少年院の生活で少しずつ心を開く
ようになるといった概要である。

この本を読んで「子どもの家」の子供たちの乳幼児期の
生活を思いやった。乳幼児期の生活・環境がその後の
子どもたちの性格とに大きな影響を与えているのは
事実である。

午後6時、水戸地裁そばの「みとみらい法律事務所」へ。
この付近は「水戸城」があったところ。アジア太平洋戦争
の空襲で焼失し今はお堀のあとが残っている。

13年前から「子どもの家」を支援してくれている後藤弁護士
と懇談。
後藤弁護士は13年前、偶然フエのフォンザンホテルに投宿。
朝、散歩をしてホテル前にあった私たちのベトナム事務所の
日本語の看板を見て来訪。1時間ほど私たちの活動を
話す。そのことがきっかけで、茨城にJASS支援の会を
作ってくれる。今日の火炎樹の会の基を作った方である。
日弁連の法教育の中心者として多くの本を執筆し
活躍している。子どもの自立の問題などを反し合う。
その後、付近の日本料亭に行き、ダチョウの刺身、握り、
しゃも肉などを御馳走になる。

だちょうの握り寿司(臭いもなくまぐろの赤身を少し固くした感触)
おいしい。低カロリー、低コレストロールとのこと。茨城県で飼育
されているそうだ。

だちょうの「カルパッチョ」


軍鶏(しゃも)肉


午後9時半に会食懇談を終了。
水戸駅から勝田駅へ戻る。

明日は勝田駅付近で火炎樹の会の講演会。

投稿者 koyama : 22:32 | コメント (0)

2008年07月03日

通院

晴天

午前8時半、自宅を出て春日経由新宿都庁前。
NSビルの心臓クリニックへ。3週間ほど前に
血液採取の検査を実施していた。結果。
痛風に近し、肝臓は問題ない。中性脂肪はかなり高い。
いくつか問題はあったが受け入れて、今後の治療を進める
ことにした。2ヶ月分の薬をもらう。

NSビルの1階の某観光会社に「子どもの家」に来たことのある
スタッフはいるとの話を内田さんから聞いた。診療が終わった
後、寄って見たがまだ開店していなかった。

午後、読書「少年A 矯正2500日全記録」(草薙厚子著:文藝春秋)
1997年5月24日神戸市で土師淳君(11歳)を殺し、2ヶ月前に
山下彩花ちゃん(4年生)ハンマーで殴り殺し、塩川ひとみちゃん
(3年生)の腹部をナイフで刺し重症を負わせた少年Aの事件の
全経過を記した記録である。本書は、著者の草薙氏が
医師の鑑定書を本書に載せるなど子どものプライバシー問題など
で社会的な批判を浴びてもいる。
淡々とした筆致で書かれた本書は、少年Aの生い立ち、母親の
しつけ、第2次性徴期に正常な成長が出来ず、性的サディジズム
の傾向を強めたA君。いまだかつて日本だけでなく世界でも
経験していない「異常」な殺人事件を犯したA君の矯正の記録である。
読み出してどんどん引き込まれた。今日は半分ほど読む。

夜、たくさんのメールが入る。返事を出すのに4時間ほどかかる。
午前0時過ぎ就寝。

投稿者 koyama : 20:41 | コメント (0)

2008年07月02日

「子どもの家」支援者・JASS会員との懇談

晴天

午前中、フエ帰国の諸準備。
フエでのいくつかの出来事についてベトナム事務所へ
メール送信。


午後4時過ぎ、自宅を出て新宿へ。

新宿西口。小田急から

午後6時。JASS会員のUさん、Tさん、Kさん、Yさんと懇談。

「子どもの家」支援問題など多岐にわたって懇談する。
支援の難しさ、本当の国際支援は?などの話し合いをする。

帰宅午後11時。

その後、フエでの出来事についてのメールを書く。

読書「教師格差」(尾木直樹著)読了。
今日の教育問題の基本的な問題についての指摘は同感。
しかし、深い追求がない。ほどほどの所で『お茶を濁す』
態度は「教育評論家」であり大学に教員という肩書きを
持っているのなら、はっきりと自説を展開すべきである。
教育についての自公政権・教育委員会、教育再生会議の
問題について整理して指摘しているのだが、問題点の
表題を列記する程度で内容に乏しい。

就寝午前2時。

投稿者 koyama : 00:59 | コメント (0)

2008年07月01日

静岡大学留学生打ち合わせ

晴天

午前8時過ぎ自宅を出て、新幹線で東京から静岡へ。

静岡駅でJASS静岡の会の滝下さん(静岡大学学生課長)と
落ち合い、静岡大学へ。今日は、静岡大学へベトナム中部の
高校生などの留学について、大学側と詳細な打ち合わせをする
予定。


静岡大学キャンパス

昼食後、学長・副学長と懇談。

その後、工学部・教育学部関係の先生・事務方の皆さんと
話し合う。

ニフィープログラムでの留学、特別枠での留学、大学院への
留学、大学間交流問題など多岐にわたって話し合いは
続く。

午後5時過ぎ、打ち合わせを終わり、静岡駅付近へ。
関係の先生方と軽く喉を潤す。

午後8時半過ぎ新幹線で静岡駅を出る。
午後10時、東京駅着。

自宅へは午後11時過ぎにつく。

今日は朝から夜まで東京駅や新幹線には多くの
警察官がうろついていたい。
厳戒態勢。洞爺湖サミットにたいするテロ攻撃への警戒
のようだ。あまりに新幹線の駅に新幹線内の通路に
警察官がウロウロする様子は、気になる。

往復の新幹線車内で読書「教師格差」(尾木直樹著)
3分の2ほどを読む。なかなか内容のある本とみた。

投稿者 koyama : 13:53 | コメント (0)