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2008年07月14日

北海道芸術高校関係者案内・交流

晴天

最高気温40度を超す

午前6時半起床。腹痛・下痢・7度5分。
昨日のおかゆの残りを朝食にする。
まだ、体がだるい。2日間の下痢で体力を消耗。

しばらくメールの送受信。

午前9時半ベトナム事務所へ。
日本料理店店員の父親が来ていた。30分ほど話し合う。

午前10時過ぎ、大塚さん・ミンさん・税田さんと 一緒に
日本料理店の子供たち3人と話し合う。

昼食は、大塚さんが作ってくれた「おかゆ」。

20分ほど休み、午後12時半、ミンさんとフエ空港へ。

午後1時過ぎ、
北海道芸術高校の坂井理事長・植田教諭を出迎える。
北海道芸術高校は広域通信制・単位制・普通科の高校である。
十勝清水にキャンパスを持ち、札幌・仙台・東京池袋・名古屋
にサテライトキャンパスを持っている。「まんが・イラストコース」
「ビューティーコース」「美容師コース」「アニメーションコース」
「ミュージックコース」「ゲームコース」「声優コース」
「ダンスコース」などを設置し、若者のニーズと個性・将来を
見通した高校生コースを作っている。創立3年目。
10月7日は札幌で北海道芸術高校主催の私の講演会があり、
来年は、スタディーツアーも予定している。今回は、その下見
も兼ねている。

途中、軽くフォーを食べてベトナム事務所へ。
その足で静岡会館日本語学校を視察。いぶき先生の授業。

続いて「縫製研修センター」視察。「縫製研修センター」では既に
研修が大掛かりに行なわれており、製品も出来上がっている。



「縫製研修センター」の看板


最後に「子どもの家」を訪問。セン委員長と挨拶。
その後、各施設などを視察する。

午後4時半、ベトナム事務所へ。1時間ほど話し合い。
北海道芸術高校の目指している道、めざしている教育などを
理事長さんから伺う。

午後5時半、日本料理店で夕食。



午後7時には日本料理店を出てフエ空港へ行かなければ
ならない。最後に関係者全員で記念写真


日本料理店の子どもたちも元気に仕事に励んでいたい。

私は下痢と体調不良のためそのまま「ハイリーホテル」へ
帰る。数時間睡眠。夜中に目が覚める。

「トロッキー永続革命論」読了。

『物語 戦後文学史(上)』(本多秋五著:岩波書店)
を読む。

1945年8月15日の日本軍国主義の敗戦後、
日本文学界はどのような動きがあったのか?
本多秋五氏の個人的な体験も交えて、戦後文学の
各種論争などを紹介したとても読みやすい本である。

敗戦直後の文学・文化界の動き。基本的には
戦前に新しい衣を装ったものだった。

1946年「近代文学」創刊の頃の文学界の出来事。
宮本百合子と中野重治の論争・
「政治と文学」の関係をめぐる論争。小林多喜二の
「党生活者」の評価をめぐる論争。文学者の戦争責任を
の問題。小田切秀雄など「文学時標」が高村光太郎、
火野葦平、亀井勝一郎、吉川英冶、横光利一、船橋聖一、
石川達三、丹羽文雄、青野季吉、中野好夫、斉藤茂吉、
などが戦争責任の追及を受けている。
1946年6月には「新日本文学」で小田切秀雄がさらに
厳しい戦争責任の追及を行なっている。
菊池寛、久米正雄、高村光太郎、西条八十、斉藤茂吉、
火野葦平、横光利一、川上徹太郎、小林秀雄、
亀井勝一郎、林房雄、尾崎士郎、佐藤春夫、武者小路実篤、
吉川英冶・・・・・。
さらに「太陽のない町」の徳永直の「転向」問題などにも
話は波及していく。

石川淳の評価、坂口安吾、織田作之助の評価。
そして、野間宏の仕事について。

夜中も下痢と腹痛で悩む。

投稿者 koyama : 2008年07月14日 09:36

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