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2013年08月31日
地球の歩き方第4班講演会2回
快晴 真夏
午前6時起床。昨夜のニエン外務部長の
退職記念会で飲みすぎた。頭痛。
午前7時朝食。
「肉団子入りチャオバンカン」
午前9時過ぎ、宿舎を出て、電動バイクで
「静岡フエ青年交流会館」1階へ。
地球の歩き方第4班の「ベトナム語講座」が
行われていた。
ベトナム人日本語教師のフオン先生。
よく通る声で地球の歩き方第4班(18人)の皆さんに
ベトナム語を教えていた。
ベトナム語での自己紹介。相手の名前を聞く・・・・・・
地球の歩き方スタディーツアー第4班の皆さんは
非常に真面目にベトナム語を勉強していた。
午前9時半から1時間、私が
「ベトナムの歴史・現状・・・・」などを話す。
概括的にベトナムの2000年の歴史。
日本とベトナムの交流、日本のベトナム侵略史。
ベトナム戦争・ドイモイ政策との現状と課題・・・
1997年に私の伝記『ベトナムの「子どもの家」』
(金の星社)が出版された。この本は、毎日新聞
主催の児童読書感想文コンクールの課題図書に
指定された。地球の歩き方第4班に参加された
静岡県出身の学生さんが、子どもの頃、私の
伝記を読んだと言っていた。有難いことである。
午前10時半、講演会終了。電動バイクで
ベトナム事務所へ。1時間ほど、ベトナム事務所
で休息。今日は非常に暑い。相当体の消耗も
大きい。
午後12時過ぎ、宿舎へ。
暑くて食欲なし。4分の1程、食す。
その後2時間程昼寝。
午後3時時過ぎ、電動バイクで「子どもの家」へ。
午後3時半から1時間、「子どもの家」の創立の
経過・歴史を話す。
始めに1997年放送のテレビ東京の
「ドキュメンタリー人間劇場」の一部をDVDで
見てもらう。
その後、45分ほど、何故、私は45歳でベトナムへ
来て、ストリートチルドレンなどの支援を始めたのか?
「子どもの家」入所の子どもたちの20年間の変化、
「子どもの家」でめざしているもの・・・などを話す。
午後4時半過ぎ、「子どもの家」の子どもたちの
歓迎会
初めに「子どもの家」のセン運営委員長の
歓迎の挨拶(通訳はハンさん)
「子どもの家」でも古株になった「ハイ君」
子どもたちの歓迎の踊り「平和のシンボル 鳩」
「先生の恩に感謝する」 を子どもたちが歌う
「みんなで踊ろう」を踊っていたが、途中で音楽が切れ
再度やり直したが、やはり音楽が切れてしまった。
地球の歩き方スタディーツアーの皆さん18人の
出し物。「何とか」という人の「何とか」という歌と
振り付け。
最後にスタディーツアーの皆さん、一人ひとりが持って
きてくれた支援物資(主に学用品)の贈呈
午後5時過ぎ、子どもたちの歓迎会は終了。
地球の歩き方の皆さんが、ハンさん、アンさんの
案内で夕食へ。
私は少し残り、子どもたちの夕食の様子を観察する。
今日の夕食は
①海老の「甘辛煮」
②野菜スープ
何でもない「質素な食事」ではあるが、毎日
子どもたちに食事を提供するとなるとなると
なかなか大変なことである。
1日3回。1年間で1095回。
20年間で21900回の食事を子どもたちに
提供してきたことになる。「永続」ということこそ
子どもたちを成長させるなによりの秘訣である。
日本の多くの支援者の皆様方に心から
感謝したい。
一時の思いつきや数年の支援では、子どもたち
成長しない。2万回以上の食事を毎回作り、
子どもたちに提供するという気の遠くなる作業を
積み重ねることでこそ、子どもたちは成長する。
「子どもの家」のスタッフ、ベトナム事務所のスタッフ、
そして多くの日本人支援者の皆さんに感謝したい。
「子どもの家」に行き、子どもたちの笑顔を見て、
食事をきちんと摂っているか? 食事の内容などの
チェックをする。
今日でリー君の「警察オートバイ警備員」の
仕事は、完全に終わった。警察署が引越しをした。
明日からリー君はどのように生活していくのか?
結局は、私・バオミンさん・税田さんの3人の肩に
リー君の今後の生活、人生の進路はかかっている
と私は思っている。
夜9時過ぎ、リー君から電話がかかってきた。
「先生は、僕の言っていることがわかるだろう?」
という趣旨のことを繰り返していた。
その意味するところは、ブライセン社員が
退職する日本語教師澤井さんや日本人教師を
招待し、晩餐会を開いた。リー君は、その会に
自分が出席するのは、当然だ、と繰り返し言って
いる。自分は、ブライセン社員ではないが、
ブライセンとは特別な関係があるので「準社員」
との気持ちが強い。この辺に相当の意識のずれがある。
今日で警察署前のオートバイ警備員の仕事も
完全終了。その後の生活への大きな不安がその
裏にはある。何度も繰り返して、上記のような
ことを言っていた。相当、アルコールが入って
いるようだった。なかなか悩ましい問題だが、
誠意を持って接していきたい。
2013年08月30日
ニエン外務部長退職記念パーティー
快晴
午前5時起床。
読書。
午前7時朝食。「カニ団子入りブン麺」
当面のいくつかの件について文章化する。
バオミンさんと電話で話し合う。
その他
午前11時半、昼食。
「牛肉入りのおじや」
午後2時間程昼寝。
読書
いくつかの件について、理論的に整理する。
午後5時過ぎ、バオミンさんが宿舎付近まで
タクシーで迎えに来てくれる。
午後5時半。フエ市人民委員会外務長
ニエン氏の退任パーティーに参加。
私は1993年9月1日にフエ市に来た。
その後、様々は問題(反政府運動嫌疑で国外追放・・)
で困難を抱えた。そうした私を救ってくれたのは
フエ市人民委員会外務部長のニエン氏だった。
今日はニエン氏の60歳定年退職記念パーティー。
ニエン氏は、ベトナム戦争中、フエ大学の法学部
に入学した。
フエ大学は、日本に例えれば京都大学法学部。
優秀な学生だった。アメリカのベトナム侵略に
反対し、ベトナムj共産党に入党。
当時の南ベトナムで共産党員というだけで
「即射殺」の時代だった。
その後、1975年のベトナム全土解放時には
現在のトゥアテイエンフエ省・クアンチ省・
クアンビン省の「ホーチミン青年団」の委員長と
なった。そのまま行けば、出世コースひた走り
だったのだが、ニエン外務部長は、そうした
生き方を取らず、生涯フエ市人民委員会
外務部長で終わった。本来なら、フエ省知事、
フエ省共産党共産党委員長になるコースに
乗っていた人なのである。
私が1993年9月1日にフエに来てフエ師範大学
日本語クラスの主任講師として勤務したが
反政府主義者などのレッテルを貼られ、
フエ師範大学を2年間で解雇されてしまった。
その解雇騒動の際もニエン外務部長は
私を支援する立場に立って、様々な支援をして
くれた。感謝している。
今日は、ニエン外務部長60歳定年の退職記念会
ベトナム在住20年。この20年間で本当に「ずるい」
ベトナム人に遭遇し、騙されたり、施設を取られたり、
反政府主義者だと警察に告訴されたりと様々な
出来事があった。しかし、フエ市人民委員会
外務部長のニエン氏は、全くブレずに一貫して
JASSと私の活動を支援してくれた。
今日は、フエ知事・フエ市長・フエ省公安最高責任者、
フエ省CIAなどフエ市フエ省幹部が全員参加した
盛大な退職記念会だった。
最初に私が指名され、ニエン外務部長の退職に
ついての感想と感謝の気持ちを述べた。
フエ省知事(昔はフエ市長)
カオフエ省知事(元フエr市長)と
フエ省警察責任者とニエン外務部長
以前、フエ省共産党委員長と訪日したAさん。
フランスのNGO代表と懇談
私が1993年9月1日にフエ師範大学日本語クラス
主任としてフエに赴任した。
その時の第1期生。フエ市人民委員会外務部部長や
副部長になった。JASSベトナム代表のバオミンさん
も第1期生。
20年の歳月は、20歳で教えた教え子が、40歳に
なっている、そして、フエ市人民委員会の要職について
いるという時代と年月の流れを感じた。
フエ市・フエ省人民委員会の要人、警察の幹部の
ほとんどの人が参加。
ニエン外務部長の人柄が分かるというものである。
20年間のニエン外務部長とのお付き合いに感謝
している。退職後もJASSとの提携を進め、健康で
長生きして欲しいと祈る。
大きなグラスで何度も文字通り「乾杯」をしたというのか
させられた。これもベトナム(フエ)の伝統なのか?
4時間のパーティー中、何度も文字通りの「乾杯」が続く。
相当飲んだ。今日はフエで一番お世話になったニエン外務
部長の退任記念の式典。一生に一度の会だ。
たまには、文字通りの「乾杯」をすることでニエン外務部長
に感謝の気持ちを表したい。
私のフエ在住20年間の「紆余曲折」を全てを知って
おり、全ての事柄に関与し、私を側面・水面下で
支援し、救ってくれた。本当に「人間」として尊敬
出来る人である。偶然ではあるが、こうした人と
出会えたことに心から感謝している。
午後10時過ぎに散会。
2013年08月29日
リー君と懇談
快晴
午前5時目覚める。
読書。
午前7時朝食。
「フォー・ボー」(牛肉米麺)
午前8時半から午後12時半まで
バオミンさん・税田さんの3人で当面の諸問題を
協議をする。
JASSベトナム事務所では、日本料理店の
Hさん、Nさん、友人の3人が、「デコ電」作成を
行っていた。様子を見ると、小さなビーズのような
玉を一つ一つ「デコ電」に貼り付けていた。
大変な作業だが、意外に涼しい顔で作業を
進めていた。ベトナムの子どもたちの目の
良さには驚く。
午後12時45分、徒歩宿舎へ帰る。
カンカン照りの日差しだった。
午後1時過ぎ、昼食。
「チャオ・バイン・カイン」(小麦粉の手打ちうどん)
疲れた。長時間の論議。
2時間程昼寝。
その後、2時間程読書。
「読むだけですっきり分かる世界史
近代編」
宗教改革・ルター派、カルヴァン派・・。
ヘンリー8世とイギリス国教会で何故
「イギリス国教会」という特異な
カソリック教会が出来たのかが理解できた。
世界史を読むと、アジアも中東も欧州も
戦争と宗教戦争を年中繰り返している
ことが分かる。西欧宗教は「異宗教」に対する
寛容さを欠いている。相手を殺すまで
異教徒を痛めつける。この精神が
自己主張の根源なのか?
とにかく中世・近代まで欧州は
国が侵略され・併合されを繰り返し、
戦争にあけくれている。
オランダとネーザランドとどう違うのか?
日本料理店のお客さんに「イギリス人ですか?」
と聞くと「アイルランドとかウエールズ」などと
答える人がいる。私など単純に「イングリッシュ」
などと言ってしまうが、彼らは、その辺の
感覚が違う。イギリスーUK は「グレートブリテン
および北アイルランド連合王国」だと。
グレートブリテンはウエールズとスコットランドからなる
島。
ということは、イギリスは、ウエールズ、スコットランド
南アイルランドで構成される王国ということ。
北アイルランド闘争があった。アイルランドの北部は
プロテスタンが入植。
イギリス国教は、カソリック。(でもローマ法王の
支配下には入らず、教皇的な存在は、国王)
世界史を読むと「キリスト教」(カソリック・ルター・カルヴァン)
などとイスラム教の闘争殺戮の歴史でもある。
この本は、歴史の流れなどとは別に結構、面白い
「薀蓄(うんちく)」が書かれている。
CHINA(チャイナ)という言葉は、陶器で有名な
景徳鎮の鎮(CHI)から来た、だとか・・・・
満州という言葉は、満州人が文殊菩薩信仰を
していたので、文殊を意味する「曼珠」からマンジュ
という言葉が出てきたとか・・・・。
終いには、満州族はモンゴル系の女真族の
子孫だといい、女真族は「熟女真族」と
「生女真族」に分かれたなどと書かれている。
うんー・・・・。
午後6時過ぎ、日本料理店から電話。
今日、新しい「マグロ」が入った。日本料理店で
捌き、刺身にした、とのこと。
午後8時、日本料理店へ。
確かに捌いたばかりの新鮮なマグロだった。
マグロは、やはり「赤身」が一番美味しい。
最近は、中トロはまだしも大トロは油こっくって
到底食べられない。赤味が一番。
立命館大学の学生さんが日本料理店で食事。
一緒に話をする。なかなか立派な学生さんだ。
午後9時半過ぎ、リー君と近くの路上飲み屋で交流。
相当荒れていた。数日後に仕事がなくなることに
不安を抱いている様子。
人生の不満を色々と言っていた。既にかなり
飲んでいるようだ。生活が荒れている。
毎日飲んでギャンブルをしている。
かなり人生を投げ遣りな気持ちで生きている
ように思えた。
リー君を励まし、何とか仕事を見つけるように
話す。
そもそもは、3週間の臨時雇いで日本料理店
に復帰する予定だったのだが・・・・・。
長時間時間をかけバオミンさん・税田さんと
話し合って計画した「リー君」の3週間臨時
日本料理店復帰。諸般の事情で中止となって
しまった。本当に残念でならない。
午後11時過ぎ、リー君と別れる。
雰囲気的には、どこかへ行ってしまうような
感じを受けた。バオミンさん・税田さんとで
何度もリー君問題は話し合っている。
何とか、フエに繋ぎ止め、新しい人生が
拓けるようにしたいものだ。
リー君は、人生と身の回りのもの全てに
怒りをぶつけるような態度が見えた。
特に「人間」に対しての不信感をあらわに
していた。
リー君とは20年間の長い付き合いだ。
彼の怒りを何とか時間をかけ鎮め、
正業につけるよう説得したい。
2013年08月28日
終日、宿舎で仕事
快晴
午前6時起床。
午前7時、朝食。「肉団子入り手打ちうどん」
ビザ関連の仕事。結構時間がかかる。
バオミンさん・税田さんと何度か電話で
打ち合わせ。
体がだるいので横になる。
昼食は食べる気力なし。
午後2時間程、横になる。
夕方バオミンさん・税田さんと電話。
午後5時半、日本の支援者の方とSKYPEで
話し合う。
2013年08月27日
澤井先生送別会
快晴
明け方「吐き気」あり。朝食を摂らずに
お茶を飲み、午前9時過ぎまで寝ていた。
スタディーツアー等々での疲れが出たもの
と思われる。
午前中、2回停電。
午前11時過ぎ、電動バイクでベトナム事務所へ。
今日は、1年間日本語教師をしてくれていた
澤井先生の送別会。日本への帰国は9月2日。
1年間のご苦労に感謝したい。
送別会場は「フォン川」に浮いている「水上レストラン」
午前11時半より、富岡先生の司会で送別会は
開会された。
始めにJASSを代表して私が澤井先生の1年間の
活躍に感謝の言葉を述べる。
「日本へ帰国後、復学・卒業。その後教職を希望
されているとのことなでの、是非、フエでの活動
経験を生かして、立派な教師になって欲しい・・・」
直ぐにJASSベトナム運営委員長のバオミンさんの
音頭で乾杯
澤井先生と新婚さんいらっしゃいさん
会食をしながら、ベトナム事務所員一人一人が
澤井先生に送別の言葉を送る。
ベトナム語学習中のI君。
日本語教師のG君。
JASS日本語部長00先生
JASSベトナム運営委員長のバオミンさん
JASSベトナム事務所・日本料理店責任者
の税田さん
日本語教師兼日本料理店副責任者の
富岡先生
JASS観光を背負って立つソン君
仕事をしっかりするようになったことと貫禄が出てきた
ことは、比例関係にある。
一番年の若いI]君から送別の記念品贈呈
日本語教師のG先生から「ベトナム事務所員・
ブライセンスタッフ」などの寄せ書き」贈呈
澤井先生より帰国の言葉
(時々、絶句することあり)
午後2時過ぎにお開きとなる。
澤井先生の健康とご多幸をベトナム事務所員全員が
祈っている。
宿舎へ還り、しばらく横になる。
午後6時前、日本料理店へ。
今日、日本料理店の子どもたちが
新しい「カレー」を作った。試食を頼まれる。
想像以上に美味しく出来ていた。
日本料理店で出す価値あり。
「まろみ」があり、あっさりとした上品なできばえ。
午後9時半まで日本料理店に。
来客4人。
午後9時半前にリー君が日本料理店に
来て、「さようなら」と挨拶をして、帰った。
どこかでかなり飲んでいたようだ。
飲んだ帰りに日本料理店まで来て「挨拶をする」
などなかなか律儀な男である。
午後10時過ぎ、宿舎着。
2013年08月26日
D大学生さん来訪・バオミンさん・税田さん打ち合わせ
午前6時起床。終日快晴。一時、にわか雨。
午前7時朝食。
「フォー・ボーガー(牛・豚肉米麺)」
午前中、フエ訪問の大学生のビザ・航空券の
ことで税田さんと打ち合わせ。
読書「読むだけですっきりわかる世界史・中世編)
読了。
実に大雑把な世界史ではあるが、それなりに
参考になる。
イギリスの失地王こと「ジョン王」(1199~
1216)は、そのニックネームのように
イギリスの領地を失っているのだが、
その少し能天気なお陰で「お前は間抜け
だから勝手にさせたらイギリスがどうなるか
分からない。議会の承認が必要」との
「マグナーカルタ(大憲章)」の制定に結びつく。
「馬鹿殿のお陰で、今日の議会の発生を
見ている」。
ヨーロッパの中世史を見ているとイギリスと
フランスは、対立しながらも「国王などの姻戚関係」が
複雑に出来上がっていたことが分かる。
今日のEUの貨幣ユーロをイギリスが使わない
意味も何となく分かる。
午前11時半。昼食
「春雨麺」
その後、2時間程昼寝。
午後2時半、徒歩でベトナム事務所へ。
昨年のJASS現地報告会に参加した
D大学の学生さんに突然司会をお願いした。
突然の司会要請を快諾してくれたSさんが
1ヶ月弱に「子どもの家」参観・日本語学校体験に
来た。
1時間ほど、フエ・ベトナムでの生活のことで
話し合う。
ベトナム事務所にきているI君に課題を出していた。
好きな本を1冊読んで感想文を書くこと。
ベトナム語を学習しているので、ベトナムの新聞を
日本語に翻訳すること。
感想文の本は「我がフーテン人生 渥美清著」
しっかした感想文だった。感想文の形式を
きちんと理解し、内容把握もバッチリ。
ベトナム語の翻訳はベトナムの新聞に掲載された
私に関する記事の翻訳。
これもきちんととしたベトナム語に翻訳できていた。
なかなか賢い若者である。
午後3時半。バオミンさん・税田さんで打ち合わせ。
この1ヶ月近くは、スタディーツアーラッシュで
3人が打ち合わせをする時間が全くなかった。
午後6時過ぎ。日本料理店に新しいサーモンが入った
との緊急情報をキャッチ。お裾分けを頂く。
甘く美味しい。ついでに超微量のフダ生ビールを
毒見役として試飲する。美味しい。
富岡先生と午後9時の閉店まで「人生」を語る。
午後9時過ぎ、日本料理店の前で飲んでいたリー君が
宿舎までオートバイで送ってくれる。
2013年08月25日
久し振りの休日
今日は終日、宿舎に居て仕事。
午前中、成田からフエ「子どもの家」に来るD大学の
学生さんが成田空港で渡航拒否にあっているとの
連絡を受ける。税田さんと協議し、税田さんから
成田にいる学生さんに解決策を伝える。
昨夜、リー君との「人生論」を遅くまでしたので
今朝は起きられない。
昨日の昼食の残りの「おじや」を少し食す。
今日、第1回目の洗濯。
読書『読むだけですっきりわかる世界史(中世編)』
元の統治・・・・。十字軍の7回の遠征の実態。
世界史の西洋版を読む。「陸続きのためか?」、
繰り返し国土の侵略・征服・皆殺し・奴隷化などが
行われている。更に宗教対立と政治、宗教に
よる戦争など、紀元以前から中国を含め、
大陸は民族の闘争・侵略と復讐、自己実現の闘争
の歴史を辿っている。
日本人の辿った歴史とは、かなり異質な歴史を
アジア・ユーラシア・欧州・アフリカは辿っている
ことが分かる。
悲しいことではあるが、こうした侵略と被征服と
表裏一体となり、文化の伝播も進行していると
いう事実がある。
モンゴル系騎馬民族の元とイランの文化の
高さを知る。
昼食は摂らず。
午後第2回目の洗濯。シーツなど・・・・・。
この1ヶ月程は、スタディーツアーが続き
ゆっくりとした生活が出来なかった。
今日は2回洗濯をし、部屋の掃除、整理整頓を
した。
午後5時、バオミンさんが宿舎へ。
短時間、各種問題について意思統一。
午後7時、税田さんから電話。
D大学の学生さんからメールがあり、ベトナムへ
入国できたのかが分からない状況。
学生さんにメールをいれ、現況を確認してもらうよう
お願いする。
今日は、ベトナムの「ヴォー・グエン・ザップ
(武元甲)将軍」の102歳の誕生日。
大変おめでたい。ベトナムで100歳以上の
長寿の人はそれほどいない。
ベトナムの戦後史の生き証人が今も生きている
ことに感動する覚える。
私の母親とほぼ同じ年。大正元年・明治45年生まれ。
ベトナムでは大々的な祝賀会もない。
ボーグエンザップ将軍は私たち団塊の世代の
ベトナム戦争反対派にとっては、まさに
英雄であった。
一時は、副首相兼国防大臣、共産党序列
5番目の大物だった。
ベトナムのカンボジア戦争に反対したことから、
冷遇され今日に至っている。
ボーグエンザップ将軍、ファンバンドン首相、
ホーチミン主席は、フエの名門「コックホック高校」
出身である。ちなみにベトナム事務所の
バオミンさん・日本語主任のフーン先生も
彼らの後輩、コックホック(国学)高校』出身である。
共産党の世界も毀誉褒貶が多くあり、なかなか
生きていくのが大変な世界である。
常に空気を読み、その時々の大勢に順応する人間が
「出世」する世界ではある。本当のことを言う人間は
粛清される運命を持っている世界でもあると
言われている。
ヴォー・グエン・ザップ将軍は今でも国民には
根強い人気がある。将軍の更なる長寿を願う。
2013年08月24日
渡辺さん懇談:夜、リー君と人生を語る
快晴 熱暑
午前6時起床。
午前7時朝食。
「ブン・クア」(カニ団子入りブン麺)
午前8時、電動バイクでベトナム事務所へ。
JASS里親担当・ACCL代表の渡辺さんが
ベトナム事務所へ来訪。里親寄金の一部を
日本から持って来てくれた。
会計担当のハンさんが受け取る。
毎回のことではあるが、渡辺さんには
深く感謝している。
今回の渡辺さんの来訪は、フエ中央病院小児科
と提携し「小児がン」特に小児白血病の治療の
支援。
フエでの白血病の支援がうまくいくよう祈っている。
ベトナム事務所でブライセン支社日本語授業の
授業日程変更の件で、事実の調査を行う。
午前9時半時過ぎ、ベトナム事務所を出る。
ベトナム事務所前にリー君が待っている。
私がベトナム事務所に入った午前8時から
ベトナム事務所を出るまでの3時間ほどの間、
リー君はベトナム事務所前の路上「居酒屋」で
私がベトナム事務所から出るのを待っていたようだ。
「先生、今晩6時位から飲みましょう」とのこと。
先日から毎日一緒に飲んでいるのに・・・・とは
思ったが、リー君の現在の置かれている状況は
「孤独」。リー君との付き合いは「」根気比べ」の
様相を呈している。時間をかけ、丁寧に、リー君の
成長に合わせて、一緒に行動することが肝要
と自戒している。
宿舎へ戻り、ソン君に頼んであった
本箱を持って来てもらう。
シクロさん2人にお願いし、大型の本箱を
3つ持って来てもらう。
この20年間に日本から持ってきた本や
支援者のかたがわざわざフエまで持って来て
くれた本が数百冊ある。
本箱がなかったので宿舎の各所に分散して
おいてあった。
一箇所に集め、整理した。
青少年教育の会の加藤さんから電話。
無事、成田へ着いたとのこと。
ほっとする。加藤さんをはじめ関係者の
皆さんにご苦労様でしたと、お礼を言いたい。
午前11時半昼食。
「豚肉いりおじや」
今日は蒸し暑い。
1時間ほど昼寝。
午後2時半から本箱で汚れた部屋の掃除と
床の汚れのふき取りを行う。
汗だく・・・・・・。
昨日、バオミンさんが「青少年教育の会」の皆さんを
ホーチミン市に送り、今日、ホーチミン→ダナンへ。
ダナン空港からフエまで車で帰る途中ではあったが
電話でいくつかの件を打ち合わせする。
税田さんと明日から来訪する大東文化大学の
学生さんの受け入れ態勢、ビザ等について
打ち合わせ。
午後6時、リー君から電話。宿舎前にいるとのこと。
オートバイで、リー君 御用達の路上居酒屋へ。
100人位入っている居酒屋。
路上には、何列かになりオートバイがすらっと
並んでいる。
この店は海産物と「豚肉」の美味しい店。
豚肉とレモングラス
最新発売された「フダビール・ゴールド」
初めて飲む。美味しい
ラグーンにいる魚ー焼き魚にすると美味しい
リー君の話では、6日後には、現在の
警察署前のオートバイ整理の仕事が
終わってしまうとのこと。警察署が
移転し、新築されるとのこと。
6日後に仕事がなくなって困っているという。
2013年08月23日
宿舎で仕事
曇り時々晴れ
午前7時、朝食。「フォー・ボー(牛肉米麺)」
昨夜、ダナン→ハノイ→名古屋空港経由帰国した
JASS静岡の会の皆さんは、今朝、名古屋空港へ
到着。多分、昼ごろには、静岡の自宅へ到着
のことと思う。
忙しい夏にわざわざフエまでお越し頂き感謝
している。
特に今回は、木村百合子記念寄宿舎開所式
が行われ、木村百合子さんのご両親も
お忙しい中お越し頂いた。
木村百合子さんのご両親には、心から感謝
している。この寄宿舎が、ベトナムの女子学生の
勉学に少しでも役立てば、無念な気持ちで
神に召された百合子さんの気持ちの一端でも
解消されるかと思っている。
JASS静岡の皆様にフエ来訪に感謝している。
今日は、JASS青少年教育の会は、バオミンさん
の引率で午前7時半、フエを出発し、車で
ダナン空港→ホーチミン空港へ。
その後、クーチトンネル参観。深夜、ホーチミン空港
→成田(8月24日)へ帰国する予定。
日本語教育体験の香川県のAさんは、
JASS日本語学校で、日本語教育の実習を行った。
午前8時35分から午前11時10分まで(休憩10分)。
ブライセン社員日本語研修上級クラスを担当。
授業内容は、漢字と読解。
授業終了後、生徒と記念撮影
昨日は、フエ高等師範大学で「敬語」の授業。
昨日、日本料理店を欠勤した「子どもの家」の
ヒエップ君。心配なのでハンさんを通して
欠勤理由を「子どもの家」へ問い合わせる。
今年7月、ヒエップ君は胸が痛いといい、
タム医師同行の下に病院へ行く。
心臓の回りの神経に問題があるとのことで
投薬をうけていたが、その後、痛みも取れ
通常の生活を行っていた。
昨日、再度、心臓の痛みが出て、病院へ行く。
現在は投薬をしながら様子を見ているとのこと。
「子どもの家」のタム医師の見立てでは、
大きな心配はないのではないか?とのこと。
大事に至らなければ良いのだが・・・・・。
午前11時半、昼食。
「マカロニ・スープ」とザボン風のかんきつ類
食欲がなく、1割程度を口にする。
ザボン風の果物は美味しかった。
この1ヶ月近く、休みなく活動した。心身ともに
疲労の極地。特に様々な問題があり、精神的に
かなりのダメージあり。
2時間程昼寝をする。熟睡。
その後、寝ながら読書。
『読むだけですっきりわかる世界史(中世編)』
東ヨーロッパ社会の形成と十字軍
中国の宋の建国と女真族ー満州。
宋の時代、中国で世界3大発明
「活版印刷術・火薬・羅針盤」
午後、ソン君・税田さんから電話。
日本語授業研修を終わった香川のAさんを
送ってダナン空港まで。無事、香川のAさんは
ダナン空港チェックイン終了との連絡。
香川のAさん、ご苦労様でした。
又のご来訪を。
ソン君・税田さんは、午後7時頃フエに到着。
バオミンさんは、青少年教育の会をホーチミンまで
送り、今夜はホーチミン泊。明日の土曜日にフエへ
戻る予定。
JASS里親会費担当で「ACLL:アジア チャイルド
リーグ)代表の渡辺さんから電話。
渡辺さんもダナンからフエへ来る国道1号線を
北上している途中とのこと。
小児白血病の子どもたち支援。
=======
東京オリンピック開催に反対します。
猪瀬都知事などを先頭に東京オリンピック
招致合戦に狂奔していますが、今、
東京でオリンピックをする意味があるのでしょうか?
東京オリンピック招致問題は、どの政党も
反対できない政治的な意味合いもあります。
私は、年収200万円以下の国民が1000万人
もいる我が日本でオリンピックをしている時か?
と詰問したい気持ちが強いです。
戦前の「大政翼賛会」「国家総動員法」の下で
異論を言う雰囲気のない我が日本がありました。
昨今の日本もそんな雰囲気が出ています。
異論を排除する異常な社会風潮があります。
私は、敢て私論を展開したいです。
この問題は、今始まった問題ではなく1964年に
さかのぼります。1961年。私が東京板橋区立加賀中
中学2年生の時です。
当時、私は学級委員をしていました。クラス討論の
司会をしました。議題は「1964年東京オリンピック
開催賛成か? 反対か?」でした。
私は学級委員なので議長をしていました。
意見は、両論出ました。
議長としての私の意見も言いました。
「今、東京を含め、日本中に貧しい人がたくさん
いる。私もその一人だ。東京オリンピックに
いくらお金がかかるのか? 土木建築など
オリンピックを開催することで儲ける人がいる。
その人たちのために国家財政を支出するのは
反対だ。そのお金は、貧しい人に支出すべきだ」
との意見を述べました。若気の至りではありますが・・。
社会事情も知らない中学2年生の単細胞な
意見です。
しかし、今回の猪瀬都知事など財界・建築業界
などが主導する「2回目の東京オリンピック開催」
は大金の無駄遣い(既に前回の招致失敗で
東京都は多額の税金を捨てている)。
そんなお金があるのなら、独居老人が
アパートでひっそりと死亡し、2ヶ月も
3ヶ月も人に知られずにいる東京という社会を
変えるお金に使って欲しいものです。
東京オリンピック開催反対、などどと言うと
「非国民」的な非難を受ける昨今の日本の
政治風土です。しかし、敢て、私見を開陳。
第2回目の東京オリンピックは、トルコで
開催すべきです。イスラーム圏で最初の
オリンピックは、イスラムとキリスト教・仏教
などの交流。イスラム社会と言ってもトルコは
政教分離を原則にはしていますが・・・・・
イスラムの国で行い、全ての宗教の和解、
人種と思想の和解の祭典にして欲しいものです。
2013年08月22日
青少年教育の会ー最後の反省会
快晴 一時雨
午前6時起床。洗濯。
午前7時、朝食。
「肉団子入りチャオ・バイン・カイン」
午前8時過ぎ、ベトナム事務所へ。
帯広の芳村さん運営の「暖炉寄金」
で10数年間、支援をしているフック君。
生まれつき、両手の指がくっつき、
足の指も不自由な障がいを持っている。
しかし、なかなか利発な若者である。
帯広の芳村さんが「暖炉寄金」を発足させ、
フエ市内の障がいの子どもたちへの奨学金を
発足させた。10人ほどの障がいの子どもたち
を自立するまで支援するという寄金。
9人が看護婦さんになったりして自立。
最年少だったフック君も今年高校を卒業し、
フエ高等工業学校のコンピュータ科に
見事合格した。
小学校の頃、ベトナム事務所に来て、
足の指で文字を書いていたフック君である。
ご両親の愛情と芳村さんの財政支援、
ベトナム事務所スタッフの励ましがあり、
手と足の不自由さを乗りこえて、
見事に希望する「コンピュータ」の
専門大学へ入学することが出来た。
午前8時半、ホイアンから来たという女性を
「子どもの家」へ案内する。
午後12時過ぎ、宿舎へ。
昼食は菓子パン2個、牛乳。
1時間ほど昼寝をする。
午後2時、内田さんといくつかの件に
付いて話し合う。
その後、「子どもの家」で活動している
青少年教育の会の添乗をしている
バオミンさんと電話でいくつかの件を
話し合う。
午後5時半過ぎ、日本料理店へ。
午後6時、青少年教育の会の皆さんが
日本料理店へ。
8月20日から日本料理店に出勤したTUOIさん。
お母さんになって一層、仕事に対する意欲が
出てきた。
「子どもの家」から通っている「ヒエップ君」。
「子どもの家」で急に心臓の痛みを感じ、緊急に
病院へ行き検査。今日の日本料理店は休みにした。
心配である。
午後6時、青少年教育の会スタディーツアー
の皆さんが日本料理店へ。
メニュー(接客係りのグエットさんが書く)」
団長のKさんと青少年教育の会スタディーツアー
に何度も参加しているI君(現在、ベトナム語学習中)
青少年スタディーツアーに参加した皆さん
接客主任のグエットさんのメキュー紹介。
今日はお刺身が出た。
皆さんしっかりと食事を摂った。
食事が終わった後、一人ひとりの参加者の
感想発表。
皆さん、しっかりとした感想を述べていた。
K団長さんの感想発表とまとめ
明日誕生日の子がいた。一日早い誕生会を
行う。
午後8時過ぎ、青少年教育の会の
夕食・反省会は終了
その足で宿舎へ帰る。
宿舎へ徒歩で帰る途中の路上で飲んでいる
集団を発見。リー君やブライセン社員。
私を除く4人のうち「3人」は「子どもの家」の
卒業生。5歳、7歳、と小さな頃からの
お付き合いだ。そのうち2人は複雑な人生に
翻弄されながら「子どもの家」で育ち
今は、ブライセンでしっかりと給料をもらい
自立している。『リー君』は、未だに
フラフラしている。20年間の付き合いである。
「 肉食系男子リー君」。彼の今と行く末を
時間をかけ、寄り添いながら一緒に人生を
苦しみ、生きて行きたいと思っている。
「肉食系男子リー君」は、頭がよく、
気が利きくが、なかなか扱いが難しい。
20年間も付き合っている私でさえも
時に「操縦が難しい」若者との認識を持っている。
20年前に5歳で付き合ってからの縁である。
私の「生が続く限り」、私の人生をかけて、この
「肉食系男子」と付き合って行きたいと
決意しながら、飲酒注意のイエローカードを
突きつけられてはいるが、ビールを飲むので
あった。
隣りにオーストラリア人がいた。
かの女は、中国系の医師(国籍は豪州)
英字観光ガイド「ロンリー・プラネット」を読んで
私のことを知っていた。
医師なので「フエではどんな病気が流行るのか?」
など質問される。
リー君も私もかなり酔ってきた。
リー君には、「人生、色々なことがあるが、
直ぐに怒って出て行ってしまうという生き方は、
子どものすること。25歳になったのだから、
腹が立つことがあっても、少し我慢するということも
覚えるように」と話す。彼は、気持ちが落ち着いて
居るときは、冷静に人の話を聞くのだが、
血が頭に上った時は、暴力などの実力行使か
お金や甘い言葉に直ぐに乗せられてしまう
性向・悪癖がある。20年間の付き合いで
彼の様々な性向も理解している。そうしたことの
理解の上(長い歴史の中で苦い思いをして
私が、知りえたもの)に立って、リー君という
肉食系男子との付き合いが必要である。
リー君との付き合いの最大のポイントは、
「時間をかけて、忍耐強く、何度も繰り返し」という
ことに尽きる。20年前にリー君と5歳で会い、
怪我をしていたので薬をつけてやったのが
彼との出会いであった。
その当時は、フエ師範大学内の外人教員の
宿舎に私は住んでいた。
薬をつけてあげたことがきっかけで、その後、
何度も私の宿舎に来るようになり、食べ物を
あげたり、衣類を上げたりしていた。
それでもリー君は路上生活を「謳歌」していた。
その後、1997年テレビ東京「ドキュメンタリー
人間劇場」で紹介されたように、路上生活の
リー君を何とか「子どもの家」に入れた。
それからが、リー君との長い長い、闘争の歴史でも
あった。
私は子どもたちと付き合うときの鉄則を持っている。
1917年のロシア革命の後、ロシアは荒廃し
都市には、ストリートチルドレンがあふれていた。
マカレンコという教育者が「子どもの家」のような
施設を作り「荒くれた子どもたち」の養育をおこなった。
大学時代「マカレンコ全集」を読んだ。
その中でマコアレンコは「愛と規律」という言葉を
使っていた。
愛情を持ちながらも「いけないことはいけない」との
厳しさを持つことを訴えていた。
(注:1970年代、私は、「マカレンコとスターリン主義」
という文章を同人雑誌に掲載し、マカレンコの
ファシズム的な集団主義教育を厳しく批判した。)
現在の「子どもの家」の子どもたちへの私の姿勢は
子どもたちに心からの愛情を持つことを基本にしながら
同時に「厳しさ」も必要である、と考え実践してきた。
愛情と厳しさの両刀を使いこなす能力が
「子どもの家」関係者には、強く求められている。
午後11時過ぎ終了。
リー君のオートバイに乗せてもらい
宿舎へ帰る。午後11時半。
リー君の人生に幸多からんことを
念じ、宿舎へ入る。
2013年08月21日
日本語を教えるツアー参加者と懇談・交流
終日、快晴
終日、体がだるい。暑さのためか?
昨夜、就寝が遅かったので朝起きられず。
今日は旧暦7月15日。フエでは、旧暦の1日と
15日には「精進料理」を食べている。
午前7時朝食。「精進ブン麺」
午前7時45分、電動バイクで「子どもの家」へ。
8時半。ハンさんが香川県高松市にある公営の
国際交流関係の担当責任者を引率し「子どもの家」
へ。
その後、ハンさんとバトンタッチし、私が、「子どもの家」
の各施設を案内する。30分。
午前9時過ぎから2時間半ほど、図書室で香川県の
Aさんと「ボランティア」「外国人子女・日系人子女」も
日本語教育・日本での成長問題について話し合う。
ほぼ私と同い年。在日の日系・外国籍等の
子弟の日本語教育・生活等に非常に強い関心と
改善のへの情熱をもっている方である。
以前はこうしたかたもチラホラお会いしたが、
最近では、ほぼ「絶滅危惧種」になっている
感が否めない。
これからの10年後・20年後の日本社会の
状況。日本への国際的な人間の流入・・・を
考えると、上記問題は、近未来の大きな問題
である。
午前11時半から香川県のAさん・ハンさんと
一緒に子どもたちと昼食。
魚の煮物
豆腐と厚揚げの煮物(精進料理の日)
空芯菜のスープ
子どもたちと昼食を楽しむ香川県の方
午後12時半、「子どもの家」から電動バイクで自宅へ。
その後、1時間半ほど横になる。
税田さん・バオミンさんと電話でいくつかの問題を
打ち合わせする。
今日(21日)、明日(22日)、明後日(23日)の
日程の調整。
静岡の会の方からホイアンで「子どもの家」を
紹介されたという女性から電話あり。
8月23日午前8時半から「子どもの家」を
案内することになる。
午後6時過ぎ、電動バイクで香川県の方の
宿泊しているホテルへ。
車で近くのベトナム料理屋へ。
二人でベトナム情勢・国際支援などの
話をしながら、フエ料理を堪能する。
午後9時前、香川県の方はホテルへ帰る。
その後、リー君と税田さんの3人で軽く打ち合わせ。
8月22日午前0時20分に自宅着。
リー君が心配し、宿舎まで付いてきてくれた。
2013年08月20日
青少年教育の会講演会:地球の歩き方3班夕食会
快晴
昨夜、火炎樹日記を書くのに時間がかかり
就寝は、深夜に。
朝起きられず。
午前7時朝食。「フォー・ガー(鶏肉米麺)
急いで朝食を摂り、電動バイクで「子どもの家」へ。
日本料理店のヒエップ君が音楽室で遊んでいた。
日本料理店での仕事のことなどを話す。
午前8時半から1時間強、「青少年教育の会ツアー」
の中学1年生・2年生5人に話をする。
私の話のテーマは二つ。
①「子どもの家」を始めた「訳」と「歴史」
②「人生」
2時間強の話が終わった後、引率責任者である
「JASS青少年教育の会」の加藤さんの指導で
一人ひとり生徒さんの感想発表があった。
5人は、神奈川県のA中学校の1年生と2年生
とのこと。
5人の中学生の話を聞く。生徒さんたちは、
自分の生活体験などをバックにして、私の話を
聞いていたことが分かる。一人ひとりの生徒さんの
感想発表はそれぞれ「独自性」「個性」があった。
家庭での教育とトレーニングがきちんとなされ
ていることが、生徒さんの感想発表を聞いて
分かる。きちんとしたご家庭の子弟と私は見た。
5人の中学生の感想発表が終わり、次の
活動に移ろうとした時、フエ高等師範大学
ベトナム語コースで勉強をしているI君が
自分も感想を言いたいとフエ長期滞在者と
しての体験を生かした感想を述べていた。
I君もなかなか聡明な若者である。
その後、「子どもの家」の庭で子どもたち
と遊ぶ。既にフエの小中高校は学校が
始まっている。とはいっても勉強ではなく
少年先鉾隊訓練、ホーチミン青年団の
活動・・・・・。
長期滞在・ベトナム学習のI君は、フエ・ベトナム・
「子どもの家」にもすっかり慣れている。
ベトナム語もとても上手になった。
フエ芸術大学を卒業したフック君と
子どもたちとサッカーをして遊ぶ
日本料理店のヒエップ君が旺盛な活動力を示す。
午前10時。「子どもの家」歓迎会
始めにセン運営委員長の歓迎の挨拶
通訳はハンさん
左(フエ師範大生物学科を卒業したターオさん
中学・高校の生物教師を目指している)
「子どもの家」草食系男子の代表2名。
心優しく、暴力など絶対に振るわない。
いつも礼儀正しい。最近の「子どもの家」は
この種の男の子が大勢を占めるようになった。
昔のように「万引き常習」「寮母さんをぶん殴る」
「警察に逮捕される」などなどの「武勇」で名を
あげる男子は「絶滅」した。わすかに日本料理店
近辺を流浪している25歳になった暴力系・刺青
男子が往時の雰囲気を今に伝えている。
日本料理店で研修を始めた当時、笑顔がなかった
ヒエップ君だが、最近は、いつもニコニコしている。
日本料理店の仕事が気性にあっているようだ。
フエ観光大学に昨年合格し、勉学に励んでいるNさん。
1993年10月から今日まで私と一緒に「子どもの家」を
支えてくれているキム・アイン寮母さん。
子どもたちの出し物
白鳥
歌
青少年教育の会ツアー側の出し物
私の全く聞いたこともない最近の日本の歌を
3曲歌う。
ベトナム語学習I君がベトナム語で1曲披露。
子どもたちに支援物資贈呈
午前11時半過ぎ、交流会終了。
青少年教育の会の子どもたち6人と引率責任者の
加藤さんは、車で昼食会場へ。
私は電動バイクで宿舎へ。
途中でパンとヨーグルトを買っていく。
昼食は「菓子パン2個」とヨーグルト。
スタディーツアー案内の疲れが出てきた。
2時間程昼寝をする。
バオミンさんは地球の歩き方スタディーツアーの
皆さんと「ナムドン山岳地帯」へ。
税田さんとフーン先生は、日本語研修体験の方を
出迎えにダナン空港へ。
日本料理店では、今夜午後6時半からの
地球の歩き方スタディーツアー(21人)晩餐会の
食事の準備。
結婚・出産・育児と長期の出産・育児休暇を
取っていた日本料理店長のTUOI(トゥオイ)さんが
今日から仕事を再開した。まだ、授乳などが
あるので、午後2時半から午後6時前程度の
勤務となるが、日本料理店の大きな戦力が
還って来たのだ「一安心」と言ったところ。
少し痩せたようだが元気なTUOIさんを
見て安堵。小学校高学年位からの付き合いだ。
4ヶ月間の産休中の日本料理店の様子などを
グエットさんなどから聴く。
今夜の地球の歩き方スタディーツアーの
日本料理店での晩餐会の料理を作る
現在日本料理店の中心になって頑張っているヒエウさんに
取っては、TUOIさんは、日本料理の先生。
また4人で頑張って日本料理店を繁盛させて欲しい。
一人居ないのが、少し寂しくはあるが・・・・・
メニューのチェックを細かくしてくれていた
これから子育てをし、母親の面倒をみながら
日本料理店で仕事をするようになる。
ベトナムの女性はしっかりとしている。
子どもが生まれたらTUOIさんは、一回り
人間としての「貫禄」がでてきたようだ。
日本料理店を3週間臨時出勤の契約をした
リー君は、「気に入らないこと」があり、
2度にわたり、勤務中途中退勤。
先日、日本料理店の3週間の臨時勤務を
辞めるとの電話とメールをバオミンさんに
送ってきた。
私のメールには、ローマ字で「ありがとう・さようなら」
と書いて送信してきた。
なかなか、落ち着いて仕事の出来ない若者
ではある。20年間の付き合いだ。
日本料理店を辞めて2年半になる。
その間、税田さん・バオミンさんと細かく話し合い
リー君が『悪の道』に走らないようにサポートして
来た。一時は、ラオスに行き仕事をすると言っていた。
ラオスはフエへの「麻薬の補給基地」。
間違いなくリー君はラオスとフエの山岳を越えて
麻薬を運ぶ仕事をやりそうだ。ベトナムでは、
麻薬5グラムで死刑である。
そうした背景もあり、バオミンさん・税田さんと
協力してこの2年半、本当にリー君と小さなつながりを
作りながら、慎重に日本料理店への復帰を『誘導』
してきた。
何が、原因で日本料理店を辞めていったのか?
今、その原因究明が求められている。
つい先日まで、JASSベトナム事務所・日本料理店
のスタッフとは、うまく言っていたのだが・・・・・。
午後6時半、地球の歩き方の皆さん21人が
来店。
富岡先生の司会で地球の歩き方晩餐会開始。
グエットさんの今日のメニュー紹介
地球の歩き方スタディーツアー全員で「乾杯」
バオミンさんは今日、ナムドン山岳地帯へ
地球の歩き方スタディーツアーの皆さんを
案内した。
午後9時前、晩餐会終了。
日本料理店スタッフの自己紹介。
最後に全参加者で記念写真
その後、日本料理店の後片付け。
富岡先生、税田さん、日本料理店スタッフで
行う。
日本料理店の全ての片付けが終わり、
日本料理店スタッフも帰宅。
税田さん・富岡君・私の3人で日本料理店
にて反省会。
午後10時頃、リー君が日本料理店の近くで
ウロウロしている。日本料理店に誘う。
富岡先生・税田さん・リー君・私の4人で
久し振りで交流。
3週間の約束で日本料理店の手伝いに来る予定
だったが、3日間で「ぶんむくれて」日本料理店を
辞めてしまった。
今日、再度、リー君と飲みながら、様々な問題を
話し合う。
午後11時40分までリー君・富岡先生・税田さん
私の4人で親交を深める。
2013年08月19日
木村百合子さん記念寄宿舎開所式
午前6時起床。 快晴
午前7時朝食。
ブンボー(牛肉米麺)
午前8時半。「木村百合子さん記念寄宿舎」開所式。
2004年9月29日、校長など管理職の
心無い「パワハラ」などのむごい仕打ちで
自死に追い込まれた故木村百合子さんを
記念して、フエ市内に「木村百合子さん記念
寄宿舎」を建設した。資金は、木村百合子さんの
ご両親からの寄金による。
フエ市人民委員会・JASSベトナム事務所・
JASS静岡の会の皆さんの参加。
司会は、フエ市人民委員会外務副部長
イック・ホアン、JASSベトナム運営委員長の
バオミンさん。
故木村百合子さんのご両親も出席。
隣りはフエ市副市長のトアン氏。
フエ市人民委員会外務部長ニエン氏
JASS静岡の会フエ訪問団
ベトナム事務所スタッフも参加。
初めにフエ市人民委員会(フエ市)を代表して、
トアン副市長の挨拶。
フエ市は静岡市と友好都市提携をし、今日まで
様々な交流をしている。
今回、木村百合子の自死という悲しい出来事があり
心からお悔やみ申し上げたい。
木村百合子さんを記念して寄宿舎を建築
してくれることになり、ベトナムの若者、特に
フエの大学に通う学生には朗報である。
木村百合子さんのご両親に感謝する。
これを機会に一層フエ市と静岡市の交流が
深まることを期待している。
最後に木村百合子のご冥福をお祈りする。
続いてJASS静岡の会代表の牧田先生の
挨拶。
木村百合子さんは、静岡県磐田市の小学校の
教員として就職し、真面目に教職活動に励んでいた。
校長や教頭・研修主任などの「ハワハラ」の
ひどい仕打ちを受け、木村百合子さんは24歳という
若さで自死するという悲しい出来事が起こった。
JASS静岡の会は、協力して、ご両親が「公務災害」
認定を訴えた裁判に協力してきた。
全国の皆さんの応援もあり、東京高等裁判所で
「勝訴」の判決を受け、判決は確定した。
今後、こうした出来ことが二度と起こらないことを
望んでいる。全国の皆さんのご支援に感謝している。
最後に木村百合子さんのお父さんの挨拶。
娘の自死は、本当に悲しい出来事だった。
しかし、JASS静岡の会の皆さんをはじめ
全国の皆さんのご支援で公務災害認定
裁判を勝訴することができた。
心から感謝している。
特にJASS静岡の会の皆さんのご支援・
ご協力に関している。
木村百合子記念寄宿舎開所式が終わり、
フエ市副市長のトアンさんの激励を受ける
木村御夫妻。
その後、ハノイ中央テレビの取材を受ける。
ベトナム事務所員の皆さんも式典に参加
木村百合子さん記念寄宿舎の入り口に
木村百合子の略歴を記す
式典が終わり、参加者の記念撮影
閉会後、木村百合子さんの略歴石碑を見る。
寄宿舎の入り口にあるので、大学登校時には、
学生が必ず目にする。
参加者の寄宿舎参観。テレビ局の撮影・・・
寄宿舎のベッド(木組みの枠)
各室一つのシャワー
廊下の両側に7室。合計14室、合計28人の
寄宿舎となる。
各室に電気使用計算器が付いている。
この大きな建物の1階が、木村百合子記念寄宿舎と
なっている。
開所式典終了後、一度ホテルへ戻り、着替えをし
「子どもの家」へ。
子どもたちと一緒に近くの「タイロック市場」へ
昼食の買い物
子どもたちと一緒に昼食作り
1993年10月から最初の「子どもの家」での
付き合いが始まったタン君(手前)
午前11時半、子どもたちと一緒に昼食。
午後6時半、日本料理店で夕食会
日本料理店の副責任者の富岡先生が
歓迎の挨拶
日本料理店接客主任のグエットさんが
今日のメニューを紹介
訪越団長の牧田先生の発声で「乾杯」
日本料理店の子どもたちが自己紹介
JASS静岡の会を代表して笠井事務局長から
お土産贈呈
静岡名産のお茶など
午後9時、JASS静岡の夕食会終了
2013年08月18日
JASS静岡の会フエ訪問団
午前6時起床
料理のセンさんが昨日作っておいてくれた
「マカロニスープ」を3分1程食す。
午前7時45分、電動バイクでJASS静岡の会
投宿のホテルへ。
静岡の会の皆さんも昨夜10時過ぎにホテルへ
到着。朝早く静岡を出て、飛行機・バスで
名古屋空港→ホーチミン空港→ダナン空港
→(車)フエと長時間の旅行だった。
午前8時、静岡の会の皆さんと合流し、
車で「子どもの家」へ。
午前8時過ぎ、「子どもの家」で子どもたちの
歓迎会。
初めにセン委員長の歓迎の言葉
続いて子どもたちの歓迎の歌と踊り
日本料理店で研修をして半年経った「ヒエップ君」
ずいぶん明るくなった。
成長したタンさん。いつも明るく子どもたちの
中心にいる。
子どもたちの歓迎の踊り「白鳥」
子どもたち代表の「歌」
『先生の恩は忘れない』
「先生の白髪を見ると昔、私を教えていた頃、
のチョウークを思い出す。先生は私たちの
ために一生懸命、チョークで勉強を教えてくれた。
時々、チョークの白い粉が、先生の頭に降りかり
白髪に見えた。
それから幾星霜。先生はお年を召され、
白髪になられた。先生の白髪を見ると
昔、先生が熱心に私たちをおしえてくれた
頃を思い出し、先生への恩を改めて思い出す」。
静岡の会歓迎会に参加している子どもたち
子どもたちが振り付けをした「みんなで踊ろう」
歓迎会の最後にJASS静岡の会代表の牧田先生
の挨拶
静岡の会から子どもたちへプレゼント
「子どもの家」交流会場には、牧田先生の顕彰碑が
飾られていた。
「子どもの家」にプレゼント贈呈
続いて、「子どもの家」の先生たちへのプレゼント
「子どもの家」での交流を終わり、フエ最大の市場
「ドンバ市場」へ
フエ名物の「メイスン」を買う
バオミンさん宅経営の「アオザイ屋」で
アオザイを作る。
その後、11時半過ぎまで「天安山中腹」にある
中国茶の喫茶店へ行きウーロン茶を飲みながら
暑さを避け、「子どもの家」のことなどを話し合う。
午後1時半、昼食。ベトナム料理。
徒歩で投宿しているホテルへ。
私は宿舎へ戻り、1時間ほど昼寝。
午後5時20分、フエ市人民委員会の
車が迎えに来る。
笠井先生夫妻・巣山先生・バオミンさん
たちと車で合流。
フエ市や共産党幹部の皆さんとの
交流会へ。
午後6時前、フエ市共産党幹部の家で
交流会。
日本の大学へ留学しているベトナム青年を
笠井さん・巣山さんたちが長年支援している。
今日は、その家庭のご両親が笠井さん夫妻・
巣山さんを招待してお礼の祝宴を開いて
くれた。
宴会開催前の休息時間
フエ市共産党委員長・フエ市共産党人事部長(前)
などフエ市の要人との懇談会。
フエ市共産党人事部長(前)の家族の皆さん
の作ってくれた家庭料理を堪能する。
私の大好きなソフトするめ
フエ市共産党人事部長(前)の挨拶。
JASS静岡の会事務局長の笠井先生夫妻から
フエ市共産党人事部長(前)に日本のお土産贈呈
参加者にJASS静岡の会からのお土産
フエ市共産党人事部長からJASS静岡の会へ
お土産の返礼
こうしたやり取りを見ているとJASS静岡の会が
明確な「市民外交」を行っていることがわかる。
外務省など一部の人たちは、外交は「自分たちの
専決」などと思い上がった考えを持っているが、
JASS静岡の会は、民間レベルでの市民外交を
見事に果たしてる。
フエ市共産党委員長・フエ市人民委員会外務部長・
同副委員長なども参加。
フエ市共産党人事部長(前)から日本から参加した
皆さんへ土産贈呈。こうしたやりかたは、外交の
基本の基本。
フエ市共産党前人事部長から」お土産を頂く。
静岡の会の女性陣には、フエ特産の薄いライスペーパー
の贈呈
午後8時過ぎに閉会。
======
地球の歩き方スタディーツアーは、
午前8時半から「子どもの家」で交流。
ミニ運動会を行う。
「子どもの家」スタッフも参加して熱が入る。
ミニ運動会後、子どもたちと一緒に昼食を作る。
午後2時。フエ近郊の「天安山」へ子どもたちと
一緒に行き、ベトナムの伝統的な遊びなどで
交流する。
2013年08月17日
地球の歩き方講演(2回)・税田さんフエへ帰国・JASS静岡の会来訪
快晴
午前7時朝食。
「フォー・ボー」(牛肉米麺)
食後、午前9時半からの講演(ベトナムの歴史・風土)
の内容を再考する。「世界の構造」「歴史の見方」の
ようなことを中心に話すことにする。
ベトナム人が学校で「アジア・太平洋戦争」を
どう教えれれているのか?を実際の社会科・歴史
教科書に沿って話す。200万餓死事件も
中学校社会・歴史の国定教科書に載っている。
午前9時過ぎ、電動バイクで「静岡フエ青年交流会館」
へ。
日本語教師のフオン先生(通称「今晩は先生)」が
ベトナム語講座をしている真っ最中。
午前9時45分から1時間強、話をする。
今回の地球の歩き方スタディーツアーの
参加者は20人。
私と同い年の男性も参加。素晴らしい。
午前11時半、宿舎へ帰る。
昼食。チャオバインカイン(小麦粉の手打ちうどん)
今日は相当暑い。暑さで疲れる。
食後、1時間ほど昼寝。
その後、受信メールへの返信等。
午後3時。電動バイクで「子どもの家」へ。
フエ芸術大学油絵科を卒業したフック君。
タン君(左)とは、20年の付き合いだ。
1999年のフエ大洪水で父親がなくなり、
「子どもの家」へ入所してきた姉妹。
姉(左)は、フエ市内の小学校の先生になった。
妹は、昨年、ダナン法科大学へ入学。
午後3時半から1時間強、『「子どもの家」の歴史』
を話す。
その後、歓迎会。
最初に「子どもの家」セン運営委員長の歓迎の
挨拶。通訳は、ベトナム事務所のハンさん。
子どもたちの歓迎の「少数民族の踊り」。
子どもたちの新作の踊り
地球の歩き方スタディーツアー参加者の出し物
歌「さんぽ」
支援物資(学用品)の贈呈
地球の歩き方スタディーツアー参加者一人ひとりが
持って来てくれる
参加者最年長(鹿児島;会社会長)の方と。
元気がいい。
交流が終わり、「子どもの家」の庭で遊ぶ子どもたち
午後5時過ぎ、電動バイクで宿舎へ帰る。
午後5時半宿舎着。
午後7時、ダナン空港へ静岡の会の皆さんを
出迎えに行っているソン君から電話あり。
予定では、午後7時半には、フエ市内の
レストランで食事をするはずだったが、
現在、フエ省に入った所。更に2時間程度は
かかるとのこと。この調子では、午後10時
頃、フエ市内に入るのではないだろうか?
午後7時半、税田さんから電話。
税田さんは関空からホーチミン→ダナンへ。
ダナン空港からフエ空港の付近まで
来ているとのこと。
午後8時には、フエ市内に着くとの連絡。
午後8時半、日本料理店へ。
日本料理店で税田さんと軽く飲み、
日本の「政治状況」をつぶさに聞く。
午後9時、富岡先生も加えて、3人で
当面のスタディーツアー(3つ)の進め方を
話す。
午後10時半、日本料理店を出て、日本料理店
近くの大きなホテルへ。
静岡の会の笠井先生・牧田先生とお会いする。
日本からフエまでの旅行の様子を伺う。
明日からのJASS静岡の会の日程等を確認。
静岡の会の皆さんは元気にフエに到着したとのこと。
午後11時過ぎ、宿舎へ帰る。
2013年08月16日
各種文書作成;日本の大学生と懇談
快晴
室内でエヤコンを使っても35度。
午前6時起床。
午前7時朝食。「小麦粉の手打ちうどん」
関係者に2種類の長文のメール送る。
半日かかる。
キューバ在住の高校同級生にメール。
午前11時半 昼食。「春雨麺」
ほとんど喉を通らず。
午後12時半から1時間ほど、昼寝。
その度、横になり読書。
「読むだけですっきり分かる世界史 古代編」読了。
関係者と電話でいくつかの問題を打ち合わせ。
10月の計画を詳細に立て、問題を考える。
午後6時前、宿舎を出て日本料理店へ。
静岡の会の笠井先生の教え子の高校同級生が
フエへ。日本料理店で会食しながら話す。
途中で知り合った日本人若者を連れてくる。
一緒に日本料理をご馳走する。
二人ともなかなかの好青年。
しっかりした意見を持っている。
こうした若者に「未来」を託したい。
戦争などで命を失わせたたくないとつくづく
思った。
午後10時閉店
グエットさん、お金の整理
「子どもの家」のヒエップ君は、午後9時半に
「子どもの家」へ帰る。
最近、非常によく仕事をするヒエウさん。
助かっている。
今日は12人の来客あり。
2013年08月15日
ベトナム事務所でバオミンさんと打ち合わせ
快晴 気温40度以上
外出すると肌が太陽に焼かれ「ピリピリ」する。
午前5時起床。読書
午前7時朝食。
フォー・ガー(鶏肉米麺)
午前8時半、徒歩でベトナム事務所へ。
強い太陽の光で肌が痛い。
ベトナム事務所
バオミンさんといくつかの大事な問題を
協議する。
午前11時過ぎ、徒歩で宿舎へ。
昼食。ご飯、野菜サラダ、スープ、厚揚げと
豚肉の煮物
量が多く、4分の1程度食す。
午後12時過ぎから1時間ほど昼寝。
その後、いくつかの件でメールを書く。
午後5時45分、徒歩で日本料理店へ。
日本料理店の子どもたちも真面目に
仕事をしている。
午後9時半帰宅。
帰宅後、「敗戦記念日」の感想を
書こうとしたが、疲れて寝てしまう。
2013年08月14日
H大学ベトナムスタディーツアーの案内
午前6時起床
終日猛暑。
午前7時朝食。
「カニ団子入りブン麺」
急いで朝食を摂り、7時35分に宿舎を出て、
大通りで迎えの車を待つ。
ソン君と迎えの車が来る。
今日は、H大学ベトナムスタディーツアーの
学生さん7人を1日案内する予定。
学生さんたちが泊まっているホテルは、
私の宿舎の近くにあるようだ。(詳細不明)
ソン君と探しながら細い道に入る。
H大学の学生さんと出会う。皆さんと
挨拶し、車でベトナム事務所へ。
午前8時前だったので出勤しているスタッフは
バオミン・ベトナム運営委員長のみ。
バオミンさんの挨拶
その後、8時過ぎにベトナム事務所員が揃う。
午前8時半、車で「子どもの家」へ。
セン委員長の歓迎の挨拶。
観光ガイドのソン君がしっかりとリードしてくれている。
安心して見ていられる。
午前8時。音楽室で「「子どもの家」」の歴史、
子どもたちへの私たちスタッフの姿勢などを
話す。
JASS会報「バンベー」を読みながら、私の話を
聞く学生さんたち
約1時間、話をする。その後、質疑応答。
午前11時半。子どもたちと一緒に昼食を摂る。
野菜スープ、野菜炒め、魚の煮物。
どれも美味しい。ご飯
フエ高等師範大学の幼稚園科を卒業する
ターオさん。3歳で「子どもの家」に入所した。
しっかりとした大人に成長し、先生になるとの
ことで私としては、本当にうれしい。
H大学の学生さんと「子どもの家」の子どもたち
は楽しく会話をしながら昼食を楽しむ。
子どもたちもお客さんとの会食は楽しいようだ。
化学教師の就職活動中のTさん(左)
昨年大学受験に失敗したPHUONGさん。
今日「今年の受験はどうだった?」と聞くと
「合格しました」とのこと。
フエ高等師範大学物理学科に見事合格した。
おめでとう。1年間、必死の努力をしている様子を
みていたので私たちも嬉しい。
将来、中学か高校の物理の先生になるコースに
入ったようだ。生きがいのある人生を歩んで欲しい。
午後12時。「子どもの家」を後にして、王宮へ。
観光ガイドライセンスを取ったソン君。
王宮案内のガイドを聞いていたが、なかなか
上手に説明していた。詳しい、グエン王朝の
歴史を日本語でしっかりと暗記していた。
努力のあとが見える。
王宮・午門は現在 改修中。
1時間ほどで王宮の案内を終え、続いて、
ドンバ市場へ。バオミンさんの姉の経営している
アオザイ店を訪問。
午後2時過ぎ、「子どもの家」の子どもたちの
昼寝が終わったので、子どもたちと交流。
東京の大学生M君が短期滞在。ベトナム事務所
活動の一環として、「子どもの家」を訪問。
H大学生でホーチミン市近郊の少数民族支援を
行っているBさん。
ベトナム事務所に長期滞在中のI君。
子どもたちと楽しく遊んでいたい。
フエ高等師範大学でベトナム語を勉強しているので
子どもたちとのベトナム語での交流はバッチリ。
フエにすっかり慣れているようだ。
子どもたちとサッカーで交流
午後4時、「子どもの家」での交流を終え、
フエ駅から列車でダナンへ。
今日は朝から気温40度以上。湿度も高い。
カンカンの日照り。
慣れているとは言え、はやり終日、この気温下で
の活動は体にこたえる。
午後4時半、宿舎へ着く。
しばらく横になる。
途中、何件かの電話があり、慎重に話の内容を
聴く。
2013年08月13日
当面の訪問者対応の見直し:日本料理店
午前6時起床
今日は台風一過。快晴。猛暑。
午前7時朝食。「キャッサバ麺」
午前中、いくつかのメールへの返信。
8月14日、広島大学学生ツアーの準備
8月17日からの3つのスタディーツアーの
整理。
午前11時半昼食。
「牛肉のおじや」(数口食す)
残念ながら食べられない。
体がだるい。1時間ほど昼寝。
バオミンさんの電話で起こされる。
午後2時過ぎに打ち合わせを予定していたが、
ブライセン関連の仕事があり、打ち合わせは何時に
なるか分からないとのこと。
バオミンさんからの「ブライセンの仕事終了」の連絡
があるまで、宿舎で待つ。
8月17日から3つのスタディーツアーが重なる。
改めて3つのスタディーツアーのベトナム事務所員
配置を確認する。いくつか問題があることが分かる。
日本料理店の件などいくつかの課題を整理する。
午後4時半、バオミンさんから「ブライセンの
仕事終了」の連絡。
午後6時、日本料理店へ。
子どもたちが、日本料理店の準備をしっかりと
していた。
日本料理店にも慣れてきた「真面目な」ヒエップ君。
当面の日本料理店の責任者としてきちんと
責任を果たしている富岡先生。
安心して仕事を任せることが出来る。
誠心誠意、仕事をする姿勢に信頼感が一層膨らむ。
ちょっと前までは、見習い調理師だったヒエウさん。
すっかり厨房主任としての貫禄が出てきた。
午後6時に日本料理店に行ったが、直ぐに
来店者あり。厨房は「臨戦態勢」に入った。
今日は9人の来客あり。日本人4人、スペイン人4人
など・・・。
午後9時半閉店。
2013年08月12日
8月・9月スタディーツアー等打ち合わせ
午前中雨(北部タインホア省台風)の影響
午前5時目覚める。
読書「読むだけですっきり分かる世界史 古代編」
(宝島社)
午前7時朝食。「フォー・ボー」(牛肉米麺)
午前9時、ベトナム事務所へ。
バオミンさんと8月・9月のスタディーツアー等
いくつかの件について打ち合わせ
打ち合わせ中、「京滋YOUの会」から
全員無事帰国したとの電話連絡がバオミンさんに
あり、ほっと一安心。
午前11時40分までバオミンさんと打ち合わせ。
10月末位までの日程、木村百合子さん
顕彰碑記念式典式次第等の打ち合わせをした。
12時前にベトナム事務所を出帰宅。
昼食 「マカロニとスープ」
生野菜とマカロニを「二口・三口程」食べたが
食欲なし。
午後1時から1時間ほど昼寝。
その後、読書
読書「読むだけですっきり分かる世界史 古代編」
(宝島社)
ペルシャ(イラン)、ギリシャ・ローマ。
アレキサンダー大王遠征・・・・
いくつかの受信メールに返信。
8月17日から3つのスタディーツアーが
来訪する。
3つのスタディーツアーの分担について
バオミンさんと電話で打ち合わせをし、
一部、担当者を入れ替えたりする。
8月14日の広島大学スタディーツアーの
内容と案内等について、バオミンさんと
最終意思統一をする。
広島大学生さんは、既に日本を発っているので
連絡が出来ず。帰りのフエ駅からの列車の時刻が
不明なため、午後何時まで「子どもの家」で交流
するのかが、不明。14日を待つしかない。
午後6時、日本料理店へ。
厨房では夕食の片付けや日本料理店の
準備
既に2人のお客さん。太巻きの注文
日本料理店の責任者として頑張ってくれている
富岡先生
神奈川県から日大の学生さん。
ベトナムを南北に縦断するという。
なかなか真面目な学生さんだ。
数週間のベトナム旅行が無事であることを祈る。
午後9時半までに12人の来客あり。
接客のグエットさん・調理のヒエップ君も
大入りのお客さんに満足顔
富岡先生の指示で子どもたちは、仕事に
邁進している。
午後9時半、閉店。
富岡先生・子どもたちの努力に感謝。
12人の来客のうち3人は、日本人。
スペイン人・・・・・・。
午後10時宿舎へ帰り、いくつかの仕事をする。
2013年08月11日
1日中、寝ている
午前8時、目覚める。
そのまま午前11時まで寝ている。
この3週間ほどは、活動が多く、疲れた。
昨日のナムドン山岳地帯での活動は暑く、
横にもなれずに1日活動したので、疲労が溜まる。
今日は1日、横になり体を休める。
午後1時、数日前に買った「菓子パン」2個を
ロングライフミルクで食す。
午後2時頃、ソン君から電話。
携帯電話の「ベルの音」が、何故か切れていて
電話が入ったのが、分からなかった。
「京滋YOUの会」の藤井さんから電話。
無事、ホイアンに到着したとのこと。
その後読書
「読むだけですっきり分かる世界史 古代編」
(宝島社)
8月14日、広島大学学生への講演の
内容整理・準備。
洗濯。
今後、9月末までのスタディーツアー日程を
検討する。
2013年08月10日
「京滋YOUの会」ナムドン山岳地帯へ
午前6時起床
午前7時朝食。
「ブンボー・フエ」(フエ名物牛肉米麺)
午前10時、「京滋YOUの会」の車に乗り
ナムドン山岳地帯へ。
バオミンさん・リー君も一緒。
昨夜は日本料理店の手伝い、今日はナムドン山岳
地帯スタディーツアーの手伝いをしてくれている
リー君。リー君の心の中の何かに灯が点いたのか?
点かなかったのか? 点いて直ぐ消えるのか?
午前11時半過ぎ、ナムドン郡の中心地に
到着。
昼食。
バオミンさんも疲れを見せず、スタディーツアーの
案内。
午後12時半、ナムドン郡「トゥオンロー村」に
到着。
支援物資・子どもたちとの遊び道具を持って
高床式の集会所へ。
今日は村長さんがいないので、代理の方が
ナムドン郡トゥオンロー村の説明をしてくれる。
支援物資の贈呈
カトゥー族の伝統的な踊りで歓迎してくれる
カトゥー族の伝統的な楽器を長老が演奏してくれた。
これは、日本のアイヌ民族の伝統楽器
「ムックリ」(口琴)と同じ原理。
糸を振動させ、口腔の変化で音程を変える
楽器。小さな音であるが、口腔の中から
音楽が聞こえてくる。
たくさんのカトゥー族の皆さんが参加
カトゥー族の皆さん(大人・子ども・・・)と一緒に踊る。
午後2時半。カトゥー族伝統の食事で交流
リー君とカトウー族文化部長の二人は、
地酒を飲み、深く交流。
午後3時過ぎ、トゥオンロー村を後にする。
午後5時前、フエ市内へ。
私は疲れたのでそのまま宿舎へ帰り、横になる。
最近は半日仕事をしたら1時間から2時間程
横にならないと体がもたない。残念だが現実である。
午後9時半、バオミンさんと電話で協議。
2013年08月09日
朝食バイキング・短期研修生懇談・フエ市共産党委員長昼食会;夏祭り
快晴
この10日間ほど、あまりに忙しく、
かなり疲れる。
午前7時、フエ師範大学前の「ムンタン」ホテル
最上階で、朝食バイキング。
「京滋YOUの会」主催。ベトナム事務所の
日本人スタッフも招待される。
フエ市内にある「朝食バイキング」では、
この「ムンタン」が一番良い。
先日、内田さんの招待で経験済み。
午前8時15分、ムンタンホテルでの朝食会を
終了し、ベトナム事務所へ。
午前8時半。今日から1週間程度の日程で
東京の大学生M君が、ベトナム事務所での
研修に入る。「子どもの家」・日本語学校など
での研修を行う。
お母さんが、昔、JASSの会員で、子どもの頃
JASS機関誌「バンベー」を見ていたとのこと。
3時間ほど、世界の政治のレジーム、「子どもの家」
の発足と理念・現状と今後の展望などを話す。
Mさんは、大学で「リベラルアート」(学芸・教養」を
学んでいるとのこと。今後の日本の大学・学問は
個別の狭い範囲の学問から「教養」「リベラルアート」
が一番求められている昨今である。
M君と挨拶するバオミンさん
午前11時過ぎ、バオミンさんのオートバイで
フオン河に係留されている「船上レストラン」へ。
フエ市共産党委員長のユン氏主催の
「京滋YOUの会」歓迎昼食会。
ユン共産党委員長、フエ市共産党副事務局長
フエ市人民委員会外務部副部長の3人が主催
初めにフエ市共産党委員長ユン氏の挨拶
今年の2月、京都市で「フエ市・京都市パートナー
シティー協定調印式」に参加した。
京都市の門川市長さんを始め、「京滋YOUの会」の
皆さんにも色々とお世話様になった。
門川市長さん・柴田事務局長さんたちにも
宜しくお伝えいただきたい。
今後フエ市と京都市は、市民レベルでの交流を
通じて、古都としの様々な経験を交流し、
一層の友好・交流を進めたい。
その後、ユン共産党委員長と「京滋YOUの会」の
皆さんと和気藹々の雰囲気の中で昼食交流会
が行われた。フエの特産(蓮のみ)などを使った
美味しい料理だった。
バオミンさんと豊田観光社長の豊田氏
「京滋YOUの会」スタディーツアー藤井団長
「京滋YOUの会」ツアー藤井団長より
昼食会答礼の挨拶。バオミンさんの名通訳。
その後、「京滋YOUの会」ツアー参加者の自己紹介
参加者最高齢76歳のAさん。元気溌剌。
神奈川県から参加したBさん
ICAタイ派遣団員もされていたCさん
京都の若者
同京都の若者
私的な海外旅行は始めての参加者
フエ旅行は、10回目(?)を数えるXさん
豊田観光社長の豊田さん。今回のツアーを
担当した会社の社長さん
蓮の花に包まれた上品な「蓮の実ご飯」
最後に「京滋YOUの会」からのお土産贈呈
フォン河に浮かんだ船の上での昼食交流会は終了
午後1時過ぎ、今日は「真夏日」。
炎天下、暑い道を宿舎へ帰る。
2時間程昼寝。疲労が最高ランクに「溜まる」。
午後4時半、電動バイクで「子どもの家」へ。
今日は「京滋YOUの会」主催「夏祭り」。
午後6時。夏祭り開始。
「子どもの家」の子どもたちの一部は、
夏休みのために親戚などへ、帰省している。
「子どもの家」ロック寮長の諸注意
「京滋YOUの会」を代表して男性参加者が
「開会宣言」
ベトナム事務所スタッフ・日本人スタッフも
参加・協力
最近とみに「小粒になった」といわれている
「子どもの家」の男子諸君。
昔のような「豪傑男子」は死滅している。
多少、昔の男子の香りを残すH君。
先頭のタン君。1993年10月に作った
最初の「子どもの家」からの付き合い。
丁度、今年で20年間の付き合いになる。
5歳で山岳地帯の少数民族から諸事情で
「子どもの家」に入所し、25歳になる。
タム医師とニエム寮母さん(ニエンムさんも
「子どもの家」創設時からのスタッフ)
小学校入学前に入所し、重症の心臓病で
苦労し、手術に成功。今は元気に勉強・生活
しているターオさん。妹のチョウさんも元気。
「子どもの家」スタッフになって15年ほどになる
フオンさん。
子どもたちの一番好きな「ソースせんべい」
今日からベトナム事務所・「子どもの家」で
研修を開始した東京のK君。
長崎の大学生S先生と関東のベトナム語研修生I君。
20年前から一緒に「子どもの家」の子どもたちの
お世話をしてくれているキム・アイン(金英)先生。
20年間のお付き合いだ。昨年、大きな病気を
した。復帰してくれて本当に感謝している。
これからも健康に気をつけて欲しい。
輪投げ。今年は、珍しく、「輪投げ」の線を乗り越える
子どもたちがいなかった。
年々、成長する子どもたち
フエ師範大生物学科を卒業し、高校の生物の
先生をまざしているターオさん(左)
夏祭りに積極的に協力してくれた
ベトナム語学習のI君。
真面目に分担の仕事をしてくれた。
全部のゲームを終了したという印鑑をもらうと
最後のたくさんの「お菓子一式」がもらえる。
20年前から一緒に仕事をしてくれているロック先生
寮母さんと子どもたち
ヨーヨーつり
25歳になったT君。この間、いくつもの研修に飽きて
しまい、研修が定まらないまま現在に至っている。
現在、「子どもの家」の「ぬし」でもある。
ベトナム事務所スタッフのソン君(元「子どもの家」
生徒会長)もJASS観光の中核として活躍して
いる。
東京の会のAさん。今日の夏祭りのゲームを
板で作成してくれた。
「子どもの家」女性陣に囲まれるI君。
楽しいそうだ。
夏祭りのメインイヴェント 「スイカ割り」
見事にスイカをわったTさん。
ベトナム語学習のI君も挑戦
最後は「大花火大会」
「京滋YOUの会」ツアー団長の藤井さんの
里子だったヒエウさん。結婚し、夫と長女を
連れて参加。
ヒエウさんの娘さん
何故か「子どもの家」にいた「ハイ君」が
いた。数年間、「ハイリーホテル」で一緒に
住んでいた。
午後9時、夏祭り終了。
午後9時半、日本料理店で反省会。
今夜のメニュー
富岡先生(日本料理店副責任者)の司会で
開会。
参加者は、「京滋YOUの会」ツアー参加者
ベトナム事務所員
数日前から3週間の期限付き採用のリー君。
すっかり日本料理店の店員風になっていた。
グエットさんが、今晩のメニュー紹介
20数人の参加で、日本料理店は満席
リー君とグエットさんで「飲み物の注文」をとる。
0000を飲む人との質問に手を上げる
日本料理店勤務3日目。既にトラブルを
起こしてはいるが、真面目に仕事をしている。
25歳・やはり成長している。
生ビールを入れる専門家に成長したグエットさん。
料理を手際よくお客さんに提供するリー君。
今日は、マリア様も最後まで参加
神奈川県から参加したBさんと日本語教師じょう先生
交流反省会は午後10時半過ぎまで続く
最後に日本料理店スタッフ紹介
「子どもの家」在籍のH君(16歳)
「京滋YOUの会」参加者から「お土産」贈呈
午後11時頃閉会。
その後、火炎樹日記を書く。
今日は、たくさんの行事があり、記載事項多し。
完成は、8月10日をゆうに超えていた。
暑さとスタディーツアー等の疲れもあり、
体調がかなり厳しい。何とか無理をして
頑張っているが・・・・・。
この数ヶ月間で約5キロも体重が減少。
奥歯3本が使えなく、使えるほうの歯が痛く、
食事が思うようにできないもの原因の一つかと
思われる。暑さ等で食欲がないのが、最大の原因と
も思われる。
2013年08月08日
「京滋YOUの会」活動開始:フエ市人民委員会訪問
終日曇り 怪しい天気
午前6時起床。
朝食「フォー・ガー」(ハノイ名物・鶏肉米麺)
午前9時頃、富岡先生から電話。
明日から日本語研修の日本人が来るので
自転車を返して欲しいとのこと。
自転車をAさんに貸したのだが、
鍵を返してもらうのを忘れた。
仕方がないので、富岡君と一緒に
Bホテルへ行く。途中で警察のオートバイ警備を
しているリー君と会う。「リー君説」では
「ペンチとハンマーで鍵を切ってしまうのが一番良い」
とのことで、直ぐにどこかからペンチとハンマーを
持って来てくれる。
早速、富岡先生と一緒にBホテルへ行き、
ハンマーとペンチで自転車の「チェーン式」の鍵を
叩き切る作業に入る。しかし、なかなか進捗しない。
そばで見ていたホテルの警備員が、
「それではチェーンは切れないよ。ドンバ市場
入り口にある『鍵屋さん』に行き、鍵を開けてもらった
方が早い」との助言を受け、それもそうだな、と
思う。富岡先生にシクロに乗ってもらい、自転車を
かかえ、ドンバ市場の「合鍵屋」まで行く。
ドンバー市場入り口にいる「合鍵屋」へ。
ハリガネ1本、数秒で鍵をあけてくれる。
とんだ騒動だった。1時間ほど時間を費やす。
富岡先生の協力にお礼を言う。
その後、バオミンさんから電話あり。
今日の午後2時。フエ市人民委員会への表敬訪問。
集合時刻の確認の電話。
明朝のバイキング朝食の件。
バオミンさんからの電話の際、自転車騒動の
一幕を話す。
バオミンさん「その鍵は、僕がAさんから返してもらい
持っています」とのこと。
私はてっきり、Aさんから返してもらうのを私が忘れた
と思っていたが、バオミンさんが返してもらい、
鍵も持っていたのだった。
この種の行き違いが、この20年間、何度あったことか?
とにかく、明日来る日本人の日本語研修生が自転車を
使えるようになったので、問題解決。
富岡先生・リー君・ベトナム事務所のアンさんたちに
色々と迷惑をおかけしてしまった。
空は、どんよりとした「鈍色(にびいろ)」。
頭が重く、痛い。台風の影響のようだ。
午前11時半昼食。
「豚肉団子入りおじや」
食後、午後1時半まで読書。
「ハプスブル家」
日本で言えば、鎌倉前から明治初期までの
ヨーロッパの歴史と政治の概略が理解できる。
フランス革命で断頭台の露と消えた
マリーアントワネットも「ハクスブル家」の娘。
ハクスブルク家は、武力よりも「結婚」という
手段を通じて、欧州の聖俗の権力を手に入れた。
ハクスブルク家は、多産の系統で16人も子どもを
生む女帝がいた。生まれた子どもたちを
欧州の帝室に嫁がせたりして、政治的な
基盤を作っていった。
午後1時半、電動バイクで「ムンタンホテル」へ。
バオミンさんのオートバイに乗り、フエ市人民委員会へ。
最近、フエ市人民委員会は新築・移転した。
欧米王室の宮殿様の市役所に驚く。
「京滋YOUの会」スタディーツアーの皆さんとVINH(ヴィン)
フエ市長と懇談。
「京滋YOUの会」代表の藤井さんとVINH市長
VINH・フエ市長は、「今年2月に京都市を訪問した。
フエ市・京都市パートナーシティー協定を調印した。
こうして、京都市の市民の皆さんが、フエ市を訪問
してくれて感謝している。両市の協定の精神は、
市民の交流、科学・教育・文化の交流、企業家の
交流など多方面での両市の交流が進むことを
願っている。
京都市の門川市長様にも宜しくお伝えください」
藤井志保子「京滋YOUの会」代表
「2月の両市の協定書調印後初めての市民
レベルの訪問団を組織できてうれしい。
今回は大学生から各層の京都市民の
皆さんが参加している。こうした交流を
通じて、両市の「パートナーCITY協定調印」の
実質が更に深まっていくことを願っている。」
京都からのお土産として「祇園祭」の様子の
飾りをお送りします、と藤井志保子代表。
千数百年の間、京都の市民による「疫病退治・幸福を
祈るお祭り」との説明あり。
京都市長からが参加者全員に「フエシルク」で
出来たネクタイの贈呈あり。
「京滋YOUの会」の表敬訪問後、新フエ市役所前で
記念撮影
フエ市役所訪問後、「京滋YOUの会」の皆さんと別れ
宿舎へ。
読書「パフスブルク家」(江村洋 講談社現代親書)
読了。
紀元1200年位から第1次世界大戦まで700年程
ヨーロッパを統治した「ハプスブルク家」。
その解体は同時に民族国家の成立につながり、
更に民族主義と争い・戦争へと繋がっていく。
午後6時半、フエ郊外の「南州会館」でフエ市人民委員会
主催の「歓迎晩餐会」が開催された。
フエ市側から「タンフエ市副市長」「ホアン外務部副部長」
その他外務部員が参加。
初めに歓迎晩餐会の招待者であるフエ市副市長の
タン氏が歓迎の挨拶。
日本語通訳は「ホアン外務部副部長」(私の教え子)
料理は、純粋なフエ料理
フエ市人民委員会外務部を代表してホアン副部長
の自己紹介。
会食
「京滋YOUの会」側の通訳はバオミンさん
タン副市長の温度で「乾杯」
歓迎晩餐会の答礼
藤井志保子さん(「京滋YOUの会」代表)
日越交流
「京滋YOUの会」側からフエ市人民委員会へ
記念品の贈呈。
歓談は続く
JASSベトナム運営委員長の通訳
「京滋YOUの会」藤井志保子代表より
フエ市副市長へ京都のお土産贈呈
午後8時半前に閉会
その後、日本料理店へ。
今日は2人の来客。
その後、午後10時半まで日本料理店に
2013年08月07日
與芝君ホーチミンへ:「京滋YOUの会」来訪
終日曇り・高湿度
今日は料理のセンさんの朝食・昼食を断った。
昨夜、與芝君たち夕食を摂った『家庭料理2」の
近くにあるパン屋で菓子パンを買う。
今日のブランチは、菓子パンと牛乳。
午前9時、宿舎を出て、與芝君の投宿している
ホテルへ。
既にホテルには、ベトナム事務所のソン君が
来ていて「チェック・アウト」の手続きが終わっていた。
4日間のフエ滞在。色々な人との出会いがあり、
子どもたちとの「デコ電関係の打ち合わせ」も
うまいった。JASS側としては、大きな成果のあった
フエ来訪であった、
今日はフエからダナン空港へ行き、更に飛行機で
ホーチミン市へ行くとのこと。
與芝君の無事な旅行を祈る。
曇りで高湿度なので、多くのフエ人も体がだるい。
私も起きているのがつらく、横になっていた。
頭が痛い。
バオミンさん、富岡先生と電話で話す。
午後7時、バオミンさんがオートバイで宿舎へ
迎えに来てくれる、はずだったが、
「京滋YOUの会」のダナン空港到着が1時間
以上遅れる。ダナン空港到着が午後4時半
だったのだが、実際の到着は午後5時半頃。
午後4時半ダナン空港到着を前提に
「京滋YOUの会」ツアーの皆さんと
私とバオミンさんの日程を組んでいたので、
急いで計画を変更する。
日本料理店へ。日本料理店では、ヒエウさんが
「プリン」の試食品を作ったとのことで
午後7時過ぎに試食に行く予定を、午後8時半
試食と変更。日本料理店担当の富岡先生に
連絡する。
午後8時半。バオミンさんが宿舎にオートバイで
迎えに来てくれる。
そのまま日本料理店へ。
リー君が真面目に仕事をしていた。午後8時半
時点で来客7人とのこと。
日本料理店のヒエンさんが作った
「プリン」を試食させておらう。
バオミンさんと二人で食べたが本当に「美味しい」。
この夏の各種スタディーツアーの「デザート」として
出してもらう。
「子どもの家」では「プリン」などは出ないので
自分で研究・工夫したようだ。ヒエンさんは、
最近、仕事に積極的になってきた。
年齢のせいもあるのだろう。ありがたいことである。
婚約者の祖母がなくなり、1年間「喪に服する」
という習慣があるようで、7月に結婚式をする
予定だったヒエウさんの結婚式は、無期限延長
状態だ。この辺のフエの社会状況・生活習慣が
未だに理解できない所がある。
フエでの人間の生活や社会環境は以前に比べ
短期間に急速に変化している。
しかし、伝統的な社会習慣は根強く残っている。
もちろん良いものがあるが、現実のフエの社会に
合わないものも多い。
結婚式などはその最適な例である。
祈祷師の祈祷で結婚式や葬儀の日時を決める
風習が色濃く残っている。
午後3時からの結婚式、午前11時から・・・・・
結婚式一つとっても現実の仕事・フエの社会運営に
合わなくなっている。
最近では、フエ市内の「上流階級」(共産党幹部や
金持ち)では、午前11時くらいから1時間か1時間半の
昼休み中に結婚式をし、「仕事」に差し支えないよう
工夫する一群の人たちも現れている。
しかし、依然として、昔の農村時代の風習を色濃く残し、
平日に延々と長時間の結婚披露宴をする家も多い。
祖母の死で「1年間の喪に服する・結婚式もできない」
という風習も、ベトナム全体・特に都市部での
急速な社会の資本主義化は、「仕事」ができないような
時間帯での結婚披露宴を社会から放逐しつつある。
フエに20年間住んでいるが、この数年のフエの
急速な資本主義化には、驚くこともある。
「良い伝統を残し、新しい社会に変わる」という
戦後の日本人がめざした社会変化の道も
行き過ぎや今でも遅れている部分を内包しながら
社会は変化している。
フエ社会が今後どう変わっていくのか?
かたや社会主義を標榜しつつ、実態社会は
既に資本主義化しているという「戦後の日本」
とも違った複雑な社会構造を持っている。
午後8時30分過ぎ、フエ市内の「フオーサイゴン」
レストランへ。「京滋YOUの会」のツアー。
予定より、相当遅れる。
バオミンさん・ソンさんと私がJASS側から参加。
「京滋YOUの会」責任者の藤井さんから
フエ到着の挨拶。
「京滋YOUの会」の皆さんが、それぞれお好みの
麺類やベトナムチャーハンなどを食す。
関空からの長旅の疲れもみせない
「京滋YOUの会」の皆さん。
参加者一人ずつの自己紹介
これからの5日間のフエ滞在が有意義な
ものであること、健康で過ごされることを
祈る。
バオミンさんの電話で、今日からフエは
台風の影響下に入ったとのこと。
これからの2日ほど台風の影響が出てくるという。
8月9日の夕方行われる「京滋YOUの会」
恒例の「夏祭り」の際、雨になった場合を
想定し、「子どもの家」1階の各部屋を
使えるよう事前に「子どもの家」側と
調整するようにバオミンさんと話す。
朝から頭が痛く、食欲もなく、体がだるかった
のだが、その事情が分かった。気圧の変化だ。
2013年08月06日
與芝君と行動
午前6時起床。
非常に蒸し暑い。
午前7時朝食。
「肉団子入りチャオバインカイン(煮込みうどん)」
午前8時過ぎ、ベトナム事務所へ。
ベトナム事務所通常勤務。
明日からの「京滋YOUの会」来訪、準備。
ベトナム事務所で與芝君・バオミンさん・
日本料理店の子どもたちと「デコ電」関連の
仕事。ハンさんも手伝ってくれる。
携帯カバーに小さなビーズなどの飾りを
付けるという実に細かく・手のかかる仕事。
與芝君自らが、子どもたちに様々なことを
教えてくれていた。
日本料理店のヒエウさんは、手先が器用で
デコ電作りが好きなようだ。率先して、
ビーズなどの仕分けをしていた。
今日は、デコ電飾りの「サンプル一覧表」を作り、
相当精密な根気の要る作業。
與芝君・バオミンさん・ハンさんも協力して
お昼まで作業と子どもたちに手順、心構え
などを與芝君がおしえてくれた。
子どもたちは、やる気満々。
20数種類のデコ電サンプルが出来上がる。
午後12時過ぎ。リー君の「警察の仕事」の昼休みを
利用し、與芝君と「海鮮料理専門店」へ。
バオミンさんは、甲殻類アレルギーなので
参加不能。
子持ちの蟹、新鮮なイカなどを食べる。
今回の與芝君のフエ来訪では、リー君が
積極的に案内を買って出てくれた。
與芝君の気持ちに合わせて、各種料理を
適宜、注文してくれた。
フダビールをほんの少し「試飲」した。
午後1時半、ベトナム事務所へ帰る。
その後、與芝君はホテルへ。
リー君は警察のオートバイ警備の仕事へ。
私は宿舎へ帰り昼寝。
午後4時から2時間程読書。
「ハプスブル家」(江村洋著;講談社現代親書)
スイス地方の『豪族的な』存在だった
ハプスブルク家が、婚姻という形を通して、
ヨーロッパ最大の王国を作る過程。
午後6時前、レストラン「家庭料理2」へ。
昼の海鮮・甲殻類が食べられないバオミンさん
のこともあり、「ザ・フエ大衆料理」を食べる。
與芝君・バオミンさん・私の3人。
今晩が與芝君ノフエ滞在の最終日。
午後8時半、古都を出て、日本料理店へ。
日本料理店では、子どもたちがしっかりと
仕事をしていた。
ベトナム事務所では、石井君がベトナム語の
勉強中。
午後9時過ぎ、日本料理店閉店。
その後、與芝君を中心に簡単な会合。
グエットさんなど日本料理店員は帰宅。
午後10時半。閉会。
明日、與芝君は午前10時頃、フエを出てダナン空港へ。
2013年08月05日
與芝君と1日仕事
午前7時起床。
今日は、料理のセンさんの朝食を断っておいた。
午前8時半、一昨日買った「パン2個」と牛乳。
午前8時半、電動バイクでベトナム事務所へ。
午前9時、與芝君がベトナム事務所へ。
ベトナム事務所の皆さんと挨拶。
来訪者の與芝という人間は「怪しい人かどうか?」
をじっくりと観察する富岡先生。
じっくり観察しなくても「怪しい」のだが・・・・・・。
ベトナム事務所応接室で與芝君・バオミンさん
と当面の様々な課題について話し合う。
午後12時過ぎ、リー君の案内で、「ブンボーフエ」
(フエ名物牛肉米麺)専門店へ。
何故か、黄色く冷たい水を飲む。この水を飲む時が
私・與芝君・リー君の最高の至福のひと時だ。
怪しい人間は、その匂いでお互いが分かり
仲良くなる。
リー君がビール・おつまみから「ブンボーフエ」
まで全て手配をしてくれる。
なかなか気の付く子だ。
フエ名物「ブンボーフエ」
20年前に私が来た頃とは、大分味も内容も変わった。
昔のほうが断然美味しかった。
午後6時。今日から3週間、リー君が日本料理店の
臨時スタッフとなる。
リー君は3年3ヶ月ぶりの日本料理店に復帰。
午後6時過ぎ、與芝君と日本料理店で会食。
着任するに当たって「接客スタッフとしての
常識的な服装をしてくるように」と厳命した。
リー君は、白いシャツで来た。物事が
しっかり分かっている子だ。
午後9時半、5人の来客の接待を終えて
閉店。
2013年08月04日
高校級友與芝君フエ来訪
午前9時起床。
昨日、調理のセンさんが作り冷蔵庫に入れてある
『麺類』の朝食。油と量が多いので、食欲を喚起せず。
税田さんの教えてくれた「新しいパン屋」へ行き、
チーズ入りパン、ゴマつき丸パンなどを買う。
宿舎までの帰りに「ロングライフミルク」を買う。
午前10時朝食。パン2個と180MLの牛乳。
生野菜。
外気温は40度。暑い。
ベッドで休養。
読書「イスラームの心」(黒田壽郎著:中公新書)
午後4時半まで読書。読了。
本書は古本屋で買ったので1880年出版。
ちょうど、イランの「シャー王政」が打倒された
時代。
ユダヤ教→キリスト教→イスラム教
の歴史。その上に立って、イスラム『コーラン』
(本書では、クルアーン)の解説。
日本で言えば、聖徳太子の時代。
ムハンマド(マモメット)が、作り上げた
イスラム教。著者は、ムハンマドの作った
初期イスラム教は、フランス革命の
「自由・平等・博愛」の精神を1500年も
前にイスラム教として確立したと言っている。
イスラム教の特徴は、全員「在家主義」。
僧侶が山にこもって特別な存在にならず
信者全員が「在家」で信心する。
アッラーと信者が仲介者なしで直接つながる。
基本的な考えは、信者同士の「相互扶助;助け合い」。
午後4時半、富岡先生に電話。
高校級友與芝君の使う自転車を午後9時半に
ホテルまで持ってきてもらうようお願いする。
バオミンさんと電話でいくつかの打ち合わせ。
午後7時。食欲なし。今日は午前10時頃食した
菓子パン2個・牛乳で十分。
読書「ハプスブルク家」(江村洋著:講談社現代親書)
この数年の間に読んだヨーロッパ関連の本には、
「ハプスブルグ家」が頻繁に登場する。
興味があり、その発生と歴史上の位置を知りたくなり
古本屋で300円で買った。
午後7時、リー君から電話。
「今日は午後9時ですか?」と酔っ払った声で。
「午後9時半だよ。大丈夫?」と聞くと
「大丈夫」との返事。午後9時半に與芝君が
ホテルに着き、リー君に案内してもらい
近くの大衆食堂で「飲みながら軽食」という
計画だったが、リー君が、既にかなり飲んでいる。
9時半まで「持つのか?」。
「大衆食堂に案内できるか?」
いつも「ハラハラさせる男」ではある。
午後8時。與芝君から電話あり。
「ダナン空港を車で出て10分位の所にいる」との
こと。無事ダナンに着き、フエから迎えに行った
車に乗れてホットした。この調子では、フエ到着は
午後10時頃になる見通しだ。
午後9時15分、宿舎を電動バイクで出発。
高校級友與芝君の投宿する「Dホテル」へ。
既にリー君と富岡先生が到着。
富岡先生が、與芝君がフエ滞在中に使用する
JASSの自転車をホテルまで持ってきてくれた。
リー君に頼み、富岡君をバオミン・ホテルまで
オートバイで送ってもらう。
午後10時半、ダナン空港から2時間ちょっとを
かけて與芝君がフエ市内の「Dホテル」に到着。
このホテルは、地球の歩き方スタディーツアーの
定宿。チェックイン。
その後、與芝君と私、リー君で近くの
路上の飲み屋で軽く飲む。
フエ市内中心部は、午後9時になると大手の
レストラン、食堂などは、閉店してしまう。
午後10時過ぎまでやっている大衆食堂は、
私もバオミンさんも「品行方正」な生活を送って
いるので知らない。
こんな場合、その道の専門家であるリー君に
ひと肌脱いでもらいたい。
先日事情を話し、「日曜日の午後10時過ぎに
Dホテル付近でまだやっている大衆食堂を
しらないか?」
と聞いて見る。「大丈夫、知っている」とのこと。
さすが、20年以上、フエの町をさ迷い、良いことも
悪いこともし尽くしているリー君である。
Dホテルから徒歩2分の路上の飲み屋へ。
豚肉のハム、豚肉と海老の塩辛などを
事前にリー君が買って置いてくれた。
午後11時45分まで3人で飲み、話す。
1962年に同じ「迷門都立高校」の同級生になり
3年間同じクラスで過ごし、51年経過している。
今日、一緒に飲んで見て、與芝君のお父さんも
戦時中、中国からアジア各地を転戦した
世代だった。我が家も1930年から1045年の
敗戦まで中国にいた。
51年間こうした付き合いが出来ることに
感謝している。これも高校クラス会の
ような会・更にはその分派会議を
主催してくれている分派会議主催者である
五井君のお陰と感謝している。
與芝君16歳。和製「ビートルズ」だった。
與芝君・リー君・私の3人でフダビールに
氷をいれてかなり飲む。
午前0時に近づいたので、明日の日程を
確認し、宿舎へ帰る。午前0時宿舎着。
その後、火炎樹日記を書く。
午前1時就寝。
2013年08月03日
日本料理店会議
午前6時起床
午前7時、朝食。「ブンボー(牛肉米麺)」
この数日、異常に体がだるい。
昨日は、バオミンさんが、昼ごろから体調を崩し
帰宅・自宅休養している。
3人の日本語教師とベトナム語学習の若者
4人も今週は体調を崩し、発熱や倦怠感があり
バオミン・ホテルで寝ている状況だった。
私も宿舎に居る時は、かなりの時間
ベッドで横になり本を読んで過ごした。
食欲なし。
どうも北の方に台風が来ていて、フエのあたりの
「気圧」がかなり変化している模様。
人間は、気圧の変化に敏感に反応する。
体がだるいということは、「体の変調」の
合図と見た。
日本人スタッフ・ベトナム人スタッフに
体調が悪い時は休むように話す。
午前11時半、昼食。
「チャオ・バイン・カイン(小麦粉の手打ちうどん)」
食後、1時間ほど横になる。
かなりのメール受信。スタディーツアー等・・・・。
返信。
午後2時半、日本料理店へ。
日本料理店のスタッフ、バオミンさん、
富岡先生と夏のスタディーツアーの
お客さんが日本料理店で食事をする際の
メニュー確定の話し合い。
富岡先生と子どもたち3人とで
事前に打ち合わせをし、計画を立てておいてくれた。
特に重要な8月中に日本料理店使用のツアーの
献立メニューを打ち合わせ。
私の方から「8月は主に4つの大きなツアーが来る。」
①8月7日からの「京滋YOUの会」スタディーツアー
②8月16日からの「地球の歩き方スタディーツアー」
③8月17日からの「JASS静岡の会スタディーツアー」
④8月18日からの「JASS青少年教育の会ツアー」
それぞれ参加者の年齢が違う。
高校生中心のツアーもあれば、前期高齢者から
後期高齢者を含むツアー、前期高齢者+若者ツアー
など・・・・・。
それぞれのスタディーツアーの参加者にあうような
夕食メニューを考える。
富岡先生と子どもたちで原案を考え発表。
私とバオミンさんで原案についての意見を言う。
年齢的に合わないメニュー、食べられない食物などの
細かい点検を行い、全員一致で最終メニューを確定する。
続いて日本料理店店長のTUOIさんの勤務復帰に
ついて日本料理店スタッフに報告する。
8月20日から復帰する。
復帰後は、育児時間の保障を行う。
貸切ツアーの場合は、事前に料理の準備が出来る
ので、午後6時頃には、帰宅し「授乳」「育児」が
出来るようにする。
通常の勤務の場合は、午後7時半頃には
退勤し「授乳時間」を確保するようにした、
と報告。
8月の繁忙期、特別に元日本料理店店長だった
リー君を臨時採用する。
8月5日~8月24日までの3週間。
リー君は、接客係りをする。グエットさんは、
厨房に入り、料理を作って欲しい。
TUOIさんが復帰するが、育児時間確保のために
早めに帰宅するので、リー君と協力して8月の
繁忙期を乗り越えたい。
調理の中心になっているヒエウさんから、
団体ツアーのデザートに「プリン」を出したいが
良いかとの意見。昨日、練習に作ったそうだ。
富岡先生の試食では少し甘いが美味しいとの
ことなので、「是非、得意のプリンを作って欲しい」
と話す。
子どもたちは、日本料理店の「に」の字も分からずに
日本料理店に来る。初めはやる気があるのかどうか
疑義を感ずるシーンも数々あった。
しかし、年月と成長・大人になるにつれて、子どもたち
は確実に成長する。ヒエウさんが自分から「プリン」
を試作し、お客に出したいなどいう提案をするように
なったことに驚く。
日本料理店会議後。宿舎に一度帰る。
いくつかの受信メールへの返信。
ベッドに横になり体力温存。
読書「イスラームの心」(黒田壽郎著:中公新書)
初めに三兄弟の「ユダヤ経・キリスト教・イスラム教」
の違い。
午後6時、再度日本料理店へ。
午後9時40分まで。
今日は11人の来客あり。
午後10時、宿舎へ帰る。
2013年08月02日
火炎樹日記開始11周年記念日
2002年8月2日からこの火炎樹日記を
書き始めた。それから11年の歳月が経過した。
時々、体調を崩したり、忙しかったり、外国で
インターネットが使えなかったりで、日記が
書けなかったこともあったが、基本的には、
この11年間「毎日」 火炎樹日記を書いてきた。
回数で言えば、4000回弱。
毎日、日記を書くといっても他人様が読むことを
前提とした日記なので、書く内容と領域等には
「書く限界」があるのは致し方ない。
思ったことをそのまま、生に書くことは出来ない。
相当の枚数の「オブラート」に包んで書くこともある。
しかし、出来るだけ「子どもの家」の子どもたちの
様子、海外支援で現地に住んでいる人が、
毎日どんなことをし、何を考え、支援している
子どもたちはどのような生活を営み成長している
のか・・・を記したかった。
当初のもくろみ通り火炎樹日記が書かれているかは
自信はないが、それでも11年間、ほぼ毎日、現地
での活動を書くことには、それなりの「忍耐力」と
大きなエネルギーが必要なことは事実である。
この火炎樹日記は私が 自費で勝手に書いている
ものである。時々、私の政治的主張も書いている。
私の政治的主張の基本は
①平和・戦争絶対反対
②弱い立場の人々の側に立ちたい
③独裁的な組織・団体は嫌い。
④意見が違っても協力できることで共同活動を
進めたい。
⑤飽くまでも日本と世界の子どもたちの
幸福のために出来ることを具体的にしていきたい。
時々、火炎樹日記について「お叱りの言葉」を
頂くこともある。「火炎樹日記には、政治的な
ことを書くな・・・・」などなど。
しかし、火炎樹日記は私の個人的な日記なので
「徒然なるままに思ひしこと」を書いているだけである。
JASSの機関誌・HPではないので、勝手なことを
かくこともあるが、ご了解を。
それでも「65万回」ものアクセスがある。
この火炎樹日記を「批判的な目」で読んで頂いて
いる方々がいることに感謝している。
11年間で火炎樹日記を書くことは習慣化したとは
言え、「子どもの家」来訪者の方々との交流が
終わり、夜11時頃帰宅してから、文章と写真を
つけて火炎樹日記を書き終えるまでの「気力」と
「体力」はかなりのものが必要ではある。
私の打ち砕ける心を鞭打ってくれるのは、
私の拙文を待っていてくれる人がいるのかな?
とのかすかな思いからである。
火炎樹日記を書くことで
世の中や世界に何も影響を与えるものではない。
個人の勝手な日記だが、それでも何らかの意味が
あるものと確信して、これからも「だらだら」と書いて
行きたいと思っている。
火炎樹日記は事前に何も考えずに、その場で
思いついたことを書いているだけである。
深夜に書き、翌朝、再度読み直し、書き直すことが
たびたびある。
今後とも時間があったら、「馬鹿馬鹿しい」と思いながら
この火炎樹日記をお読み頂ければ幸いである。
ーー
202年8月2日 第1回目の火炎樹日記
2002年8月2日(金)
8月1日午後4時、成田からホーチミン市のタンソンニャット空港へ到着。
1992年8月、初めてベトナム・ホーチミン市を訪れて丁度10年が経過した。あれから10年。あっとう間でもあり、長かったような気もする。 10年前のタンソンニャット空港の入管は、エアコンもない掘っ立て小屋のような所だった。 入管の手続きで2時間待たされ、スーツケースを手に入れるのに1時間。汗だくの入管を覚えている。
それから10年。タンソンニャット空港の入管はエアコン完備。エスカレーターもつき、入管業務もかなり迅速になってきた。
今はベトナムブームなのだろうか、入管の部屋は満杯状態。結局入管手続きに1時間かかってしまったが、税関は本当に簡単になった。
空港を出て客引きをしているタクシーをつかまえる。「どこまで?」と聞かれ「オムニサイゴンホテル」と答えると「5ドル」との返事。 既に何回も泊まっているので1ドル~1、5ドル程度の運賃であることを知っている。
ベトナム語で「ダッ・クアー」と言うと、苦笑いをしてタクシーのメーターを倒す。毎回の儀式のようなやり取りである。 年間に10回程度はホーチミン市に来ているがどうしても好きになれない町である。
活気があるという人もいるが、私にはただ「うるさい」だけの町である。 これは、フエ市に住む以前であるなら「活気のある」「人間が生き生き活動している町」と私も思えたであろう。 それほど、フエの町に住んでしまうと、ホーチミン市がただ「うるさく・雑然」とした町のように思えてならない。
40日ぶりにフエの町に戻った。何か落ち着いてしまう。これは、多分、「住めば都」というのであろう。
12時にトンチンカンホテルに着く。トンチンカンホテルは、私が付けた適当な名前であるが、いまやこのミニホテルの通称となっている。
既に7年間も私の食事を作ってくれているフオンさんが、私の大好物の「チャオバンカン」(小麦粉で作ったフエ風煮こみうどん) を作って待ってくれている。
食事をして自室に入る。早速パソコンを立ち上げメールをチェック。40日間で864通のメールが入っているのに驚く。 平均1日20通のメールが来ている。 結局、864通のメールを全て受信するのに2時間かかる。
午後2時、静岡市国際交流協会スタディーツアーが「子どもの家」での数日間の活動を終え帰国する。 フエ空港まで見送り。高校生、大学生10数名の参加。皆さん、「子どもの家」やグエンフエ高校生との交流で多くのものを学んだようだ。 帰りの空港には、グエンフエ高校生3人もみ送りに来ている。ベトナムの高校生との別れを惜しみ、涙を流している静岡の高校生もいた。
午後4時からベトナム事務所で、8月中の「子どもの家」やベトナム事務所訪問者の日程などの打ち合わせを行う。 8月一杯、ほとんど休みなくベトナム事務所等への訪問者への対応がある。
私が不在だった40日間の「子どもの家」やベトナム事務所の抱えている問題などの報告を福田もえ子事務所長代理から受ける。 午後6時から夕食。福田もえ子、西山優子(日本語教師)と3人で。 午後7時から862通の受信メールへの返事を書く。勿論全ての返事を書くことは出来ないが、最低必要な返事を出す。 その後、この日記を書く。就寝は午後11時過ぎ。
フエ帰国初日の午後から夜の活動はこんな所である。
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2013年8月2日の火炎樹日記
午前6時起床。雨
午前7時朝食。「カニ団子入りブン麺」
アヒルの血の塊は何度食べても苦手だ。
午前中、体がだるいので横になり、読書
『「南進」の系譜』(矢野 暢 著:中公新書)
午前11時半昼食。
久し振りの「お米のご飯」
量が多すぎ、食べきれない。
2時間程熟睡。
その後、読書「南進の系譜」
午後6時日本料理店へ。
富岡先生・杖先生が夕食。
寿司用のマグロがなくなった。
ホーチミン市の日本食材店へ注文。
ホーチミン→ダナンと空輸。その後、ダナンから
オートバイで日本料理店までは運んでくれる。
午後6時半、ホーチミンからのマグロが届く。
4キロで「2万円」と高価なもの。
しかし、お寿司には、なくてはならない「まぐろ」
ヒエンさんが捌き、ピエップ君が助手をする。
ヒエウさんは、上手に「マグロ」を捌いている。
かつて大塚さんがTUOIに教え、TUOIさんが
捌くのを見ていたヒエウさんが捌く。
こうして技術は見事に伝承されている。
ピンクのきれいな色の新鮮なマグロ。
刺身にして食べさせてもらう。
美味。やはり「赤味」が一番美味しい。
大トロは、下司。中トロは一時成金。
今日は6人の来客。そのうち半分の3人が
寿司盛り合わせだった。新鮮なマグロが
食べられた幸運なお客さん。
午後9時過ぎ、閉店。
富岡先生が最後まで責任を持って日本料理店
の仕事してくれている。感謝。
今日は1日体調が悪かった。だるくてベッドで
休みながら読書。日本人教師の皆さんも、体調不良。
雨が降り、湿度が高い。気分の悪い1日だった。
読書「南進の系譜」(矢野 暢著:中公新書)
鎖国後の明治初期、アジアに足跡を最初に残した
人は、「からゆき」さんだった。
シンガポールに1000人もいたそうだ。
次に東南アジアに住み着き、現地の人と友好関係
を結び、定住した人たちは、アジアが好きで
自分の意思で移住し、現地の人と人間の強い
つながりを作った日本人。
そうして多くの日本人がアジアに住むようになり
領事館などが出来、本土の「エリート役人」や
商社のエリート支店長などが東南アジアに
住み着くようになった。
当然、地元では、先住の一般庶民や貧しい家庭
出身で現地の人たちと友好関係を結んだ日本人
と領事館や商社のお偉いさんとの間の「大きな溝」
駕でき始める。
1930年代に入ると「大東亜共栄圏」(オーストラリア・
ニュージーランドまで入る)建設のためと称し、
東南アジアを日本の属国と見る「尊大な見方」
でアジアをみるようになる。
戦後は、サンフランシスコ講和条約以降、
日本とアジアの戦後賠償で、多くの企業・商社
がアジアに進出し、金儲けの対象としての
アジアとなる。こんな歴史を明治以降、日本は
辿っている。
==========================
(参考資料)
麻生副総理が29日、東京都内でのシンポジウムでナチス政権を引き合いにした発言は次の通り。
僕は今、(憲法改正案の発議要件の衆参)3分の2(議席)という話がよく出ていますが、ドイツはヒトラーは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきたんですよ。ヒトラーはいかにも軍事力で(政権を)とったように思われる。全然違いますよ。ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。間違わないでください。
そして、彼はワイマール憲法という、当時ヨーロッパでもっとも進んだ憲法下にあって、ヒトラーが出てきた。常に、憲法はよくても、そういうことはありうるということですよ。ここはよくよく頭に入れておかないといけないところであって、私どもは、憲法はきちんと改正すべきだとずっと言い続けていますが、その上で、どう運営していくかは、かかって皆さん方が投票する議員の行動であったり、その人たちがもっている見識であったり、矜持(きょうじ)であったり、そうしたものが最終的に決めていく。
私どもは、周りに置かれている状況は、極めて厳しい状況になっていると認識していますから、それなりに予算で対応しておりますし、事実、若い人の意識は、今回の世論調査でも、20代、30代の方が、極めて前向き。一番足りないのは50代、60代。ここに一番多いけど。ここが一番問題なんです。私らから言ったら。なんとなくいい思いをした世代。バブルの時代でいい思いをした世代が、ところが、今の20代、30代は、バブルでいい思いなんて一つもしていないですから。記憶あるときから就職難。記憶のあるときから不況ですよ。
この人たちの方が、よほどしゃべっていて現実的。50代、60代、一番頼りないと思う。しゃべっていて。おれたちの世代になると、戦前、戦後の不況を知っているから、結構しゃべる。しかし、そうじゃない。
しつこく言いますけど、そういった意味で、憲法改正は静かに、みんなでもう一度考えてください。どこが問題なのか。きちっと、書いて、おれたちは(自民党憲法改正草案を)作ったよ。べちゃべちゃ、べちゃべちゃ、いろんな意見を何十時間もかけて、作り上げた。そういった思いが、我々にある。
そのときに喧々諤々(けんけんがくがく)、やりあった。30人いようと、40人いようと、極めて静かに対応してきた。自民党の部会で怒鳴りあいもなく。『ちょっと待ってください、違うんじゃないですか』と言うと、『そうか』と。偉い人が『ちょっと待て』と。『しかし、君ね』と、偉かったというべきか、元大臣が、30代の若い当選2回ぐらいの若い国会議員に、『そうか、そういう考え方もあるんだな』ということを聞けるところが、自民党のすごいところだなと。何回か参加してそう思いました。
ぜひ、そういう中で作られた。ぜひ、今回の憲法の話も、私どもは狂騒の中、わーっとなったときの中でやってほしくない。
靖国神社の話にしても、静かに参拝すべきなんですよ。騒ぎにするのがおかしいんだって。静かに、お国のために命を投げ出してくれた人に対して、敬意と感謝の念を払わない方がおかしい。静かに、きちっとお参りすればいい。
何も、戦争に負けた日だけ行くことはない。いろんな日がある。大祭の日だってある。8月15日だけに限っていくから、また話が込み入る。日露戦争に勝った日でも行けって。といったおかげで、えらい物議をかもしたこともありますが。
僕は4月28日、昭和27年、その日から、今日は日本が独立した日だからと、靖国神社に連れて行かれた。それが、初めて靖国神社に参拝した記憶です。それから今日まで、毎年1回、必ず行っていますが、わーわー騒ぎになったのは、いつからですか。
昔は静かに行っておられました。各総理も行っておられた。いつから騒ぎにした。マスコミですよ。いつのときからか、騒ぎになった。騒がれたら、中国も騒がざるをえない。韓国も騒ぎますよ。だから、静かにやろうやと。憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。
わーわー騒がないで。本当に、みんないい憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね。ぜひ、そういった意味で、僕は民主主義を否定するつもりはまったくありませんが、しかし、私どもは重ねて言いますが、喧噪(けんそう)のなかで決めてほしくない。
2013年08月01日
日本料理店関係者と懇談
午前5時起床。
読読書「花柳風俗」(三田村鳶魚著)読了
午前7時朝食。
「フォーボー」(牛肉入り米麺)
午前中、「子どもの家」訪問希望者への
返信等。
午前11時半 昼食
「海鮮おじや」。半分残す。
その後、1時間半ほど昼寝。
気候のせいで何となく「だるい」。この間の
疲れも出た。
午後2時半、宿舎を出て、電動バイクで
ベトナム事務所へ。
先日女の子を出産した日本料理店長の
TUOIさんと懇談。
ベトナムの法律で産休は16週間。
TUOIさんは、産後を長く取っているが
8月20日で4ヶ月の産休期限がきれる。
育児・新婚家庭の状況などを聞く。
お子さんは女児。「CAさん(歌)」と名付けたそうだ。
3200グラムで生まれたとのこと。
出産後の体調、実家や家庭の状況を聞き、
出来るだけ育児に協力できる態勢を
作るようにした。
現在は、実家の母親のところにいる。
夫は、フエ近郊の新婚家庭に一人で
住んでいる。
TUOIさんの母親は61歳。今でも
天秤棒を担いで、行商をしている、
弟が高校1年生。生活が苦しい。
夫の給料は夫が使い、育児やTUOIさんの
実家へは入れないとのこと。
TUOIさんの意見・希望を十分聞き、
以下のような結論になった。
①8月20日から店長として出勤する。
②通常の業務中は、午後8時前には帰宅する。
(乳児の育児や授乳の関係で)
③スタディーツアーなど日本料理店が貸切りの
場合には、会食料理の準備が出来た頃
(概略午後6時過ぎ)に帰宅。
以上の①②③を通して、授乳や育児時間を
保障。同時にTUOIさんと実家にお金が
入るようにした。
TUOIさんが健康な女児を産み、頑張っている
様子を見て安心した。JASSとしては、出来るだけの
育児・母親への支援をして行きたい。
午後4時前、日本料理店接客主任グエットさんの
姉ユオンさん夫妻と懇談。
ユオンさんも「子どもの家」卒業生。現在、フエ市内の
小学校の先生。旦那も小学校の先生。
いくつかの問題を話し合う。出来るだけの支援を
行うことを話す。
午後5時過ぎ、一時、宿舎へ帰る。疲れが出て
しばらく横になっている。
読書「南進の系譜」(矢野暢著:中公新書)を
読み始める。
明治以降の日本人の「アジア」へのかかわりの
歴史的考察。
午後6時、日本料理店へ。
日本料理店・ベトナム事務所スタッフは
既に夕食を終了していた。
今日は、新しい「サーモン」が入ったとのこと。
新鮮なサーモンの刺身を作ったので・・・
とのこと。
生ビールと新鮮なサーモン。美味しい。
新鮮な鮭を日本料理店でさばいたので
臭みが全くない。
大量のサーモンの刺身をひとつ一つラップし
冷凍する。お寿司用のサーモン。
来客があるまで、富岡君の夕食に付き合い、
軽く生ビールとサーモン刺で喉を潤す。
午後9時過ぎ閉店。
今日は3人の来客。日本人1人。フランス人2人。
売り上げを正確に処理するグエット接客主任。
日本料理店に段々慣れてきた「子どもの家」
在住のヒエップ君。
閉店後、厨房の床などの掃除
体調を崩していた富岡先生たち3人の
若者男性が復調してきた。
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基礎学力不足の麻生副総理の解任を求める。
国政にかかわる資質がない人間は退場しかない。
麻生太郎副総理兼財務相は1日、憲法改正に関連しドイツのナチス政権を引き合いに「あの手口、学んだらどうかね」と講演で述べたことについて「誤解を招く結果となった」として撤回した。
と報道されている。世界各国からも厳しい批判が
起こっている。
当時世界一進んだ憲法と言われた「ワイマール憲法」
下で、ヒトラーファシズムの憲法が出来たことを学べ
といったのである。
ワイマール憲法下で「ファシスト・ヒトラー」が
政権をとり、ファシズムに入っていった背景には、
当時のドイツ共産党への徹底的な暴力による
弾圧など「選挙」の背景に既にファシズムが
暴力によって、民主主義を破壊していた事実が
あることを忘れてはならない。
ドイツ共産党が国会に放火したという事件を
でっち上げ、ヒトラーユーゲントなどを組織、
批判勢力を暴力で脅しての政権奪取である。
それを学べという麻生氏の頭の中は、どうなっている
のだろう。
麻生氏の講演会の発言は、現在の日本国憲法を
ファシズム憲法に変えるのなら、共産党や
麻生氏に批判的な勢力を暴力でなぐりかかり、
殲滅することで、新しい戦争遂行・海外侵略の
ファシズム日本国憲法を作ろうと言っているの
と同じである。
麻生副総理は、日本国憲法を「うんぬん」する前に
自らその総統になっている「麻生財閥」が
どれだけの朝鮮人労働者の死と虐待、強制連行など
血と汗と人間の死によって形成されたかの事実を
知るべきである。
同時に小学校へ再入学して基礎学力を学ぶべきで
ある。
麻生氏の読めなかった漢字一覧
1.踏襲 2.措置 3.有無 4.詳細 5.前場
6.未曽有 7.頻繁 8.実体経済 9.思惑 10.低迷
11.順風満帆 12.破綻 13.焦眉 14.完遂 15.詰めて
16.怪我 17.参画 18.偽装請負 19.御祈り
麻生氏の暴言・妄言は、世界中に発信された。
「アルカポネ」風の怪しげな服装程度は日本国民
も許容するが、ドイツヒトラーの勃興を許した
暴力と迫害、脅迫の上に成り立った選挙での
政権奪取を学べとは、いくらなんでも
世界に出たら、口に出来ない言葉だ。
試しにベトナムの中学校の社会科・歴史教科書を
少しでも読めば、麻生氏の妄言がいかに知識の
ない人間の恥ずかしい発言かが分かる。
麻生氏は、政界から退場するときである。