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2013年08月02日

火炎樹日記開始11周年記念日

2002年8月2日からこの火炎樹日記を
書き始めた。それから11年の歳月が経過した。
時々、体調を崩したり、忙しかったり、外国で
インターネットが使えなかったりで、日記が
書けなかったこともあったが、基本的には、
この11年間「毎日」 火炎樹日記を書いてきた。
回数で言えば、4000回弱。

毎日、日記を書くといっても他人様が読むことを
前提とした日記なので、書く内容と領域等には
「書く限界」があるのは致し方ない。
思ったことをそのまま、生に書くことは出来ない。
相当の枚数の「オブラート」に包んで書くこともある。

しかし、出来るだけ「子どもの家」の子どもたちの
様子、海外支援で現地に住んでいる人が、
毎日どんなことをし、何を考え、支援している
子どもたちはどのような生活を営み成長している
のか・・・を記したかった。
当初のもくろみ通り火炎樹日記が書かれているかは
自信はないが、それでも11年間、ほぼ毎日、現地
での活動を書くことには、それなりの「忍耐力」と
大きなエネルギーが必要なことは事実である。

この火炎樹日記は私が 自費で勝手に書いている
ものである。時々、私の政治的主張も書いている。

私の政治的主張の基本は
①平和・戦争絶対反対
②弱い立場の人々の側に立ちたい
③独裁的な組織・団体は嫌い。
④意見が違っても協力できることで共同活動を
 進めたい。
⑤飽くまでも日本と世界の子どもたちの
 幸福のために出来ることを具体的にしていきたい。


時々、火炎樹日記について「お叱りの言葉」を
頂くこともある。「火炎樹日記には、政治的な
ことを書くな・・・・」などなど。

しかし、火炎樹日記は私の個人的な日記なので
「徒然なるままに思ひしこと」を書いているだけである。
JASSの機関誌・HPではないので、勝手なことを
かくこともあるが、ご了解を。

それでも「65万回」ものアクセスがある。
この火炎樹日記を「批判的な目」で読んで頂いて
いる方々がいることに感謝している。

11年間で火炎樹日記を書くことは習慣化したとは
言え、「子どもの家」来訪者の方々との交流が
終わり、夜11時頃帰宅してから、文章と写真を
つけて火炎樹日記を書き終えるまでの「気力」と
「体力」はかなりのものが必要ではある。
私の打ち砕ける心を鞭打ってくれるのは、
私の拙文を待っていてくれる人がいるのかな?
とのかすかな思いからである。
火炎樹日記を書くことで
世の中や世界に何も影響を与えるものではない。
個人の勝手な日記だが、それでも何らかの意味が
あるものと確信して、これからも「だらだら」と書いて
行きたいと思っている。
火炎樹日記は事前に何も考えずに、その場で
思いついたことを書いているだけである。
深夜に書き、翌朝、再度読み直し、書き直すことが
たびたびある。
今後とも時間があったら、「馬鹿馬鹿しい」と思いながら
この火炎樹日記をお読み頂ければ幸いである。


ーー
202年8月2日 第1回目の火炎樹日記


2002年8月2日(金)

 8月1日午後4時、成田からホーチミン市のタンソンニャット空港へ到着。
1992年8月、初めてベトナム・ホーチミン市を訪れて丁度10年が経過した。あれから10年。あっとう間でもあり、長かったような気もする。 10年前のタンソンニャット空港の入管は、エアコンもない掘っ立て小屋のような所だった。 入管の手続きで2時間待たされ、スーツケースを手に入れるのに1時間。汗だくの入管を覚えている。
それから10年。タンソンニャット空港の入管はエアコン完備。エスカレーターもつき、入管業務もかなり迅速になってきた。
今はベトナムブームなのだろうか、入管の部屋は満杯状態。結局入管手続きに1時間かかってしまったが、税関は本当に簡単になった。
空港を出て客引きをしているタクシーをつかまえる。「どこまで?」と聞かれ「オムニサイゴンホテル」と答えると「5ドル」との返事。 既に何回も泊まっているので1ドル~1、5ドル程度の運賃であることを知っている。
ベトナム語で「ダッ・クアー」と言うと、苦笑いをしてタクシーのメーターを倒す。毎回の儀式のようなやり取りである。 年間に10回程度はホーチミン市に来ているがどうしても好きになれない町である。
活気があるという人もいるが、私にはただ「うるさい」だけの町である。 これは、フエ市に住む以前であるなら「活気のある」「人間が生き生き活動している町」と私も思えたであろう。 それほど、フエの町に住んでしまうと、ホーチミン市がただ「うるさく・雑然」とした町のように思えてならない。

 40日ぶりにフエの町に戻った。何か落ち着いてしまう。これは、多分、「住めば都」というのであろう。
12時にトンチンカンホテルに着く。トンチンカンホテルは、私が付けた適当な名前であるが、いまやこのミニホテルの通称となっている。
既に7年間も私の食事を作ってくれているフオンさんが、私の大好物の「チャオバンカン」(小麦粉で作ったフエ風煮こみうどん) を作って待ってくれている。
食事をして自室に入る。早速パソコンを立ち上げメールをチェック。40日間で864通のメールが入っているのに驚く。 平均1日20通のメールが来ている。 結局、864通のメールを全て受信するのに2時間かかる。
午後2時、静岡市国際交流協会スタディーツアーが「子どもの家」での数日間の活動を終え帰国する。 フエ空港まで見送り。高校生、大学生10数名の参加。皆さん、「子どもの家」やグエンフエ高校生との交流で多くのものを学んだようだ。 帰りの空港には、グエンフエ高校生3人もみ送りに来ている。ベトナムの高校生との別れを惜しみ、涙を流している静岡の高校生もいた。
午後4時からベトナム事務所で、8月中の「子どもの家」やベトナム事務所訪問者の日程などの打ち合わせを行う。 8月一杯、ほとんど休みなくベトナム事務所等への訪問者への対応がある。

私が不在だった40日間の「子どもの家」やベトナム事務所の抱えている問題などの報告を福田もえ子事務所長代理から受ける。 午後6時から夕食。福田もえ子、西山優子(日本語教師)と3人で。 午後7時から862通の受信メールへの返事を書く。勿論全ての返事を書くことは出来ないが、最低必要な返事を出す。 その後、この日記を書く。就寝は午後11時過ぎ。
フエ帰国初日の午後から夜の活動はこんな所である。


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2013年8月2日の火炎樹日記

午前6時起床。雨

午前7時朝食。「カニ団子入りブン麺」
アヒルの血の塊は何度食べても苦手だ。


午前中、体がだるいので横になり、読書
『「南進」の系譜』(矢野 暢 著:中公新書)

午前11時半昼食。

久し振りの「お米のご飯」
量が多すぎ、食べきれない。


2時間程熟睡。

その後、読書「南進の系譜」


午後6時日本料理店へ。

富岡先生・杖先生が夕食。


寿司用のマグロがなくなった。
ホーチミン市の日本食材店へ注文。
ホーチミン→ダナンと空輸。その後、ダナンから
オートバイで日本料理店までは運んでくれる。

午後6時半、ホーチミンからのマグロが届く。

4キロで「2万円」と高価なもの。
しかし、お寿司には、なくてはならない「まぐろ」

ヒエンさんが捌き、ピエップ君が助手をする。

ヒエウさんは、上手に「マグロ」を捌いている。

かつて大塚さんがTUOIに教え、TUOIさんが
捌くのを見ていたヒエウさんが捌く。

こうして技術は見事に伝承されている。

ピンクのきれいな色の新鮮なマグロ。


刺身にして食べさせてもらう。

美味。やはり「赤味」が一番美味しい。
大トロは、下司。中トロは一時成金。


今日は6人の来客。そのうち半分の3人が
寿司盛り合わせだった。新鮮なマグロが
食べられた幸運なお客さん。

午後9時過ぎ、閉店。


富岡先生が最後まで責任を持って日本料理店
の仕事してくれている。感謝。


今日は1日体調が悪かった。だるくてベッドで
休みながら読書。日本人教師の皆さんも、体調不良。
雨が降り、湿度が高い。気分の悪い1日だった。

読書「南進の系譜」(矢野 暢著:中公新書)

鎖国後の明治初期、アジアに足跡を最初に残した
人は、「からゆき」さんだった。

シンガポールに1000人もいたそうだ。
次に東南アジアに住み着き、現地の人と友好関係
を結び、定住した人たちは、アジアが好きで
自分の意思で移住し、現地の人と人間の強い
つながりを作った日本人。
そうして多くの日本人がアジアに住むようになり
領事館などが出来、本土の「エリート役人」や
商社のエリート支店長などが東南アジアに
住み着くようになった。

当然、地元では、先住の一般庶民や貧しい家庭
出身で現地の人たちと友好関係を結んだ日本人
と領事館や商社のお偉いさんとの間の「大きな溝」
駕でき始める。

1930年代に入ると「大東亜共栄圏」(オーストラリア・
ニュージーランドまで入る)建設のためと称し、
東南アジアを日本の属国と見る「尊大な見方」
でアジアをみるようになる。

戦後は、サンフランシスコ講和条約以降、
日本とアジアの戦後賠償で、多くの企業・商社
がアジアに進出し、金儲けの対象としての
アジアとなる。こんな歴史を明治以降、日本は
辿っている。


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(参考資料)


麻生副総理が29日、東京都内でのシンポジウムでナチス政権を引き合いにした発言は次の通り。

 僕は今、(憲法改正案の発議要件の衆参)3分の2(議席)という話がよく出ていますが、ドイツはヒトラーは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきたんですよ。ヒトラーはいかにも軍事力で(政権を)とったように思われる。全然違いますよ。ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。間違わないでください。

 そして、彼はワイマール憲法という、当時ヨーロッパでもっとも進んだ憲法下にあって、ヒトラーが出てきた。常に、憲法はよくても、そういうことはありうるということですよ。ここはよくよく頭に入れておかないといけないところであって、私どもは、憲法はきちんと改正すべきだとずっと言い続けていますが、その上で、どう運営していくかは、かかって皆さん方が投票する議員の行動であったり、その人たちがもっている見識であったり、矜持(きょうじ)であったり、そうしたものが最終的に決めていく。

 私どもは、周りに置かれている状況は、極めて厳しい状況になっていると認識していますから、それなりに予算で対応しておりますし、事実、若い人の意識は、今回の世論調査でも、20代、30代の方が、極めて前向き。一番足りないのは50代、60代。ここに一番多いけど。ここが一番問題なんです。私らから言ったら。なんとなくいい思いをした世代。バブルの時代でいい思いをした世代が、ところが、今の20代、30代は、バブルでいい思いなんて一つもしていないですから。記憶あるときから就職難。記憶のあるときから不況ですよ。

 この人たちの方が、よほどしゃべっていて現実的。50代、60代、一番頼りないと思う。しゃべっていて。おれたちの世代になると、戦前、戦後の不況を知っているから、結構しゃべる。しかし、そうじゃない。

 しつこく言いますけど、そういった意味で、憲法改正は静かに、みんなでもう一度考えてください。どこが問題なのか。きちっと、書いて、おれたちは(自民党憲法改正草案を)作ったよ。べちゃべちゃ、べちゃべちゃ、いろんな意見を何十時間もかけて、作り上げた。そういった思いが、我々にある。

 そのときに喧々諤々(けんけんがくがく)、やりあった。30人いようと、40人いようと、極めて静かに対応してきた。自民党の部会で怒鳴りあいもなく。『ちょっと待ってください、違うんじゃないですか』と言うと、『そうか』と。偉い人が『ちょっと待て』と。『しかし、君ね』と、偉かったというべきか、元大臣が、30代の若い当選2回ぐらいの若い国会議員に、『そうか、そういう考え方もあるんだな』ということを聞けるところが、自民党のすごいところだなと。何回か参加してそう思いました。

 ぜひ、そういう中で作られた。ぜひ、今回の憲法の話も、私どもは狂騒の中、わーっとなったときの中でやってほしくない。

 靖国神社の話にしても、静かに参拝すべきなんですよ。騒ぎにするのがおかしいんだって。静かに、お国のために命を投げ出してくれた人に対して、敬意と感謝の念を払わない方がおかしい。静かに、きちっとお参りすればいい。

 何も、戦争に負けた日だけ行くことはない。いろんな日がある。大祭の日だってある。8月15日だけに限っていくから、また話が込み入る。日露戦争に勝った日でも行けって。といったおかげで、えらい物議をかもしたこともありますが。

 僕は4月28日、昭和27年、その日から、今日は日本が独立した日だからと、靖国神社に連れて行かれた。それが、初めて靖国神社に参拝した記憶です。それから今日まで、毎年1回、必ず行っていますが、わーわー騒ぎになったのは、いつからですか。

 昔は静かに行っておられました。各総理も行っておられた。いつから騒ぎにした。マスコミですよ。いつのときからか、騒ぎになった。騒がれたら、中国も騒がざるをえない。韓国も騒ぎますよ。だから、静かにやろうやと。憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。

 わーわー騒がないで。本当に、みんないい憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね。ぜひ、そういった意味で、僕は民主主義を否定するつもりはまったくありませんが、しかし、私どもは重ねて言いますが、喧噪(けんそう)のなかで決めてほしくない。

投稿者 koyama : 2013年08月02日 09:22

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