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2013年09月30日
與芝君と会う
曇り・晴れ
午前中、必要な仕事。
ベトナムの諸問題を検討。
午後読書「ユダヤ人の教養」(大澤武男著:ちくま新書)
ユダヤ人の歴史を知る。
ヒトラーがユダ人絶滅作戦を行った裏には、
そもそも欧州で、反ユダヤ人の感情が底流に
あったことが知られる。
更にさかのぼると宗教改革のマルティン・ルタ^-が
ユダヤ人絶滅の方針を取った事実がある。
ルターは以下の主張をしている。
①ユダヤ人の学校を完全かつ永久に破壊すること
②ユダヤ人の家を打ちこわし、彼らをバラックや馬屋の
のような所へ強制移住させるべきこと
③彼らからすべての聖典や法律書を没収すべきこと
④彼らの全ての財産を没収すべきこと
⑤(強制移住させた)ユダヤ人男女に斧やつるはし、
押し車などを与え、強制労働させるべきこと
午後4時頃、高校同級生與芝君が我が家に来てくれる。
「デコ電」関係の資料を預かる。
2013年09月29日
故木村百合子さんの命日:生家を訪問
静岡市 晴れ
午前9時半、笠井英彦さんの車で静岡市から
磐田市へ。
今日は無念な気持ちで自ら生命を断った
静岡県磐田市の小学校教員木村百合子さんの
命日。
JASS静岡の会事務局長の笠井さんと一緒に
木村百合子さんのご両親の住んでいる静岡県磐田市の
生家を訪問。
フエ市内に作った「木村百合子さん記念寄宿舎」
に飾ってある「木村百合子さんの略歴」の写真を
額に入れご両親に贈呈する。
8月にフエに来られ、木村百合子さん記念寄宿舎
開所式典がフエテレビで放映された。
そのDVDを笠井さんから贈呈。
今日は木村百合子さんの命日。
木村宅を笠井三と訪問し、木村百合子さんの
冥福を祈る。
ーーーーー
ベトナム・フエでは木村百合子さん記念寄宿舎の
1階では、木村百合子さんの略歴・慰霊碑にも
献花。木村百合子さんの冥福を祈る。
ベトナム事務所の税田さんの手配。
2013年09月28日
JASS静岡の会交流
午前中、自宅で仕事。
午後12時半、自宅を出て東京駅へ。
午後3時、新幹線「こだま」各駅停車でで静岡駅へ。
静岡駅前のホテルに投宿。
午後5時、ホテルで静岡の会事務局長の笠井先生と
懇談。
その後、静岡大学に留学していた「TU君」の
帰国送迎会。
TU君は3年間静岡大学に留学し修士号を取得。
今回機会があって帰国する。
JASS静岡の会はTUの入国から帰国まで
お世話をした。
3年間の静岡滞在ですっかり「成長」したTU君。
「JASS静岡の会」TU君送別会の会食
TU君より「次作の記念品」贈呈
TU君贈呈の「自作の記念品」
TU君、カニを食す。
午後9時閉会
「国香」「伝一郎」を飲む
午後9時過ぎ閉会。
JASS静岡の会は色々な問題、攻撃があっても
いつも「子どもの家」の子どもたちに寄り添ってくれていた。
2013年09月27日
映画「言葉のきずな」鑑賞:高校クラス会のような会
曇り・晴れ
午前9時自宅を出て、渋谷へ。渋谷文化村通りへ。
小映画館「アップ・リンク」へ。
以前「子どもの家」のテレビ取材をしてくれたTVデイレクター
構成作家の水越さんからの「お誘い」で、「言葉のきずな」
という失語症・言語構成障害などの方々の「演劇」活動
のドキュメンタリーの映画を見る。1時間半の映画。
脳溢血など様々な病気で言葉が不自由になった皆さんが
演劇を通して、言葉と人間性を回復するドキュメント。
日本に帰国しテレビを見るが、正直「バカバカしい」
番組ばかり。ほとんど日本のテレビをみていない。
この映画は人間の本源的なものを取扱い、
無様だが、人間としていきようとしている人々の
真摯な取り組みが描かれている。
こうした番組は、今の日本社会では、真っ当に鑑賞
されない番組なのだろう。しかし、私個人としては、
素晴らしい映画・ドキュメンタリーだった。
50人程はいれる小さな映画館。
お客は10人。(男性2人、女性8人)
午後3時、池袋へ。
高校のクラス会のような会、に参加。
ラオスのラム酒会社のY君と日本料理店グエットさんの
里親だったS君。
高校級友の「おじさん」「お姉さん」たちは、実の良く飲む。
元気一杯。
高校卒業以来47年。本当に仲の良い
クラスメートではある。
午後9時前、閉会。
2013年09月26日
池袋・上野
雨・寒い
午前中自宅で読書。
「歴史認識を問い直す靖国・慰安婦・領土問題」(東郷和彦著)
あとがきを読む。
元外務省条約局長・欧亜局長。
かつて、鈴木宗男と一緒にロシア問題に取り組み、
事実上失脚した。
意見の違う所もあるが、大局的な見ると「良識的な」
見解を持っている。
安倍首相などに対しては「右からの平和ボケ」と言って
いる。
一見強硬な意見を言うことが、強そうに見えるが、
世界政治を考えると「外交」と「平和主義」が大事だと
言っている。安倍首相の強硬論は、世界に間違った
メッセージを送るとの認識。
今日の日本の状況の中では、良識派と考えても
良いように思う。こうした人物も含めて、日本の
平和と繁栄を世界の中で希求することが必要。
戦後のレジュームを変えることはできない。
既にその戦後システムで世界は70年近く動いてみた。
そして、その上に立って新しい時代に入って来ている。
午後池袋の音楽・楽器店へ。
上野へ。音楽店へ。(音楽のテープ、落語のテープ)
読書「ユダヤ人の教養‐グローバリズム教育3000年)
「大沢武男」ちくま新書」
ユダヤ人とユダヤ教の歴史を知る。何故、ユダヤ人の
ノーベル賞受賞者が一番多いのかがわかる。
ユダヤ教とユダヤ人の歴史。その歴史の中で
ユダヤ人が何を中心に生きてきたのか?
教養・学問・批判・討論など「知的財産」。そして、
金貸しなどの仕事。世界を「放浪してる民族の生きる術」
午後11時45分、ベトナム・フエの「リー君」から電話。
回りが煩いので「どこかで飲んでいる」ようだ。
『色々問題がある。困っている』と言っていた。
ベトナムから東京への電話代は高い。何か問題が
あったら税田さんに連絡するようにと話し、電話を切る。
リー君は孤独なのか? さみしいのか?
2013年09月25日
自宅で休養・仕事
終日曇り・雨
バオミンさんとSKYPEで打合せ。
税田さんと電話で打合せ、フエの状況を聞く。
19日からの静岡行きの荷物・その他の準備
「京滋YOUの会」関係の方と電話で打合せ
2013年09月23日
次男一家と懇談
気温が下がる。肌寒い。
午前11時半、次男家族と懇談。
午後2時帰宅。
読書「歴史認識を問い直す‐靖国・慰安婦・領土問題」
(東郷和彦著 角川ONEテーマ21)
2013年09月22日
青少年教育の会懇談
快晴 真夏に近い暑さ
午前10時、西台駅前の喫茶店で青少年教育の会
加藤さんと懇談。今後の教育の会のスタディーツアー
の報告、運営、活動など多岐にわたって懇談する。
2時間。
午後1時間程昼寝。昼寝は、既に私の日常生活の
一部になっている。20年間のフエでの生活は
日本へ帰っても直らない。
バオミンさん・税田さんにメール。
読書「歴史認識を問い直す-靖国・慰安婦・領土問題」
(東郷和彦著 角川ONEテーマ21)
午後6時、昔からの友人と懇談。
日本社会・政治等の諸問題について話し合う。
午後10時帰宅。
2013年09月20日
成田着
午前8時 成田空港着
その足で、五反田へ。ブライセン社長と懇談。
午後自宅へ。
疲れる。
夕方、横になる。
機内で読書
「世の中ついでにいきてたい」(古今亭志ん朝)河出新社(読了)
志ん朝 1973年から亡くなった2001年までの
各界の落語好きの人たちとの対談集。
山藤章二、金原亭馬生、結城昌治、池波正太郎、
池田弥三郎、中村勘九郎(亡くなった勘三郎)
荻原アンナ、江国滋、中村江里子、林家コブ平(正蔵)
志ん朝は2001年 63歳で亡くなっている。
今生きていれば、間違いなく「古今亭志ん生」を名乗って
いたはず。生きていれば、現在75歳。
志ん朝が稽古をつけてもらった師匠方は、
林家正蔵(先代・稲荷町)、三遊亭円生、桂三木助(前代)など。
私が子ども頃からラジオ、テレビ、成人してテープなどで
何度も聞いた昭和の名人から教えを受けている。
特に父親の志ん生は、次男の志ん生に自分の名を
継がせたいという気持ちがあったようだ。
長男の金原亭馬生(先代)は、弟よりも地味な「玄人好み」
の芸風。
私の中には、小学校の頃の三遊亭金馬(先代)→桂三木助
(先代)→桂文楽(先代)→林家正蔵(先代)の落語が今でも
鮮明に残っている。特に先代「トンガリの正蔵」こと
林家正蔵の最後の上野鈴本の寄席を聞聴きに行った。
既に自分では歩けないのか、「見台」を使っての短い
話しだった。
今でも夜寝る時は、志ん朝の「暁烏」を聞いている。
本書を読むと当然ながら志ん朝も「廓」通いの
経験はない。全くの想像で話しているという。
しかし、聴いていると「何となく当時の吉原」の雰囲気(私も
知らないのだが・・・)が匂って来る。
2013年09月19日
日本へ一時帰国
曇りのち晴れ
午前7時朝食。
「フォー・ボー」(牛肉米麺)
午前中、ベトナム事務所へ。
バオミンさんといくつかの問題で話し合う。
D・B大学で国際関係を勉強している
学生さんが、2週間ほどのJASSでの
体験実習を終え、数日後に帰国する。
真面目に日本語教育や「子どもの家」、
刺繡土産物店などの視察を行い、
帰国後、フェヤートレードのような活動を
したいとのこと。
昼食は摂らなかった。
1時間ほど昼寝。
その後、日本帰国のための荷物整理。
午後4時、フエを出てダナンへ。
9月20日(明日)からは、フエ空港が使えるのだが・・・。
1日、帰国が早かったため、2時間強、車で
ダナンヘ行き、午後8時ダナン発→ホーチミン便に
乗る。
午後9時過ぎ、ホーチミン空港着。
国際線に移動し、9月20日午前0時05分ホーチミン発
便で成田へ。
2013年09月18日
ブライセン打ち合わせ:日本料理店会議:ニエン前外務部長送別会
終日雨。台風が来ているとのこと。
宿舎の前の道路も冠水する。
日本料理店の子どもたちの家の床にも
水が入ったとのこと。
午前7時朝食。
「肉団子入りチャオ・バイン・カイン」
午前8時半、ベトナム事務所でブライセン
K部長と懇談。
その後、バオミンさん・税田さんと
明日私が日本へ帰国するが、その後の
諸問題についての対応策を相談する。
宿舎の洗濯機が故障。ソン君が業者を連れて
きてくれる。
しばらくソン君がつきっきりで故障箇所を
説明する。
しばらくして乾燥機部分の故障が直る。
午前11時半、昼食。
「海老入り春雨麺」 数口食す。
2時間程昼寝。台風が来て気候が変だ。
体が異常にだるい。
午後3時40分、雨の中徒歩でベトナム事務所へ。
D・B大学の学生さんのベトナム事務所実習も
そろそろ終わりの日が近づいて来た。
明日、私が帰国するので、挨拶。
真面目な学生さんだ。担当する先生が立派な方
だと推測する。
日本料理店では、3ヶ月前に3200グラムの女児を
産んだ トゥオイさんが、料理の仕込をしていた。
元気な母親である。
「子どもの家」から出張して日本料理研修を
しているヒエップ君。最近は料理にも関心を持ち
頑張っている。
この半年ほどですっかり成長し、日本料理店
の中心になっているヒエウさん。3歳で「子どもの家」
に入所して以来の付き合い。
接客主任のグエットさん。
世界中のお客さんの言葉を聞き分け、きちんと
注文を取れるようになった。日本料理店の
中心の一人。
午後4時半から日本料理店会議。
日本料理店の4人の子どもたちとバオミンさん、
税田さん、富岡先生。
初めに私が挨拶
・9月19日にフエを出て日本へ一時帰国する。
その間は、税田さんが日本料理店の責任者、
富岡先生が副責任者なので、問題があったら
よく相談するように。
・夏のスタディーツアーが終わった。
皆さんの奮闘で日本料理店での食事は
成功した。皆さんに感謝したい。
子どもたちからの意見発表
(グエットさん)
・生ビールのタンクが15リットルのものが出た。
今までは50リットル弱。
しかし、会社は15リットルのタンクを入れる
なら2本まとめてないと納入しないといっている。
どうしますか?
●皆さんの意見
50リットルのタンクに入った生ビールは、
常時水素ガスで冷やしているので、発酵
が遅い。しかし、15リットルのタンクを
2本セットで持ってこられては、1本は
水素ガスで冷やして発酵を遅らせられるが
置いたままの1本は、冷やさないので
直ぐに発酵してしまう。意味のない
納入方法だ。今まで通り50リットルの
タンク入りの生ビールにし、水素ガスで
冷やしながら、販売したほうが効率的。
・小さい生ビール用のグラスが足りなくなった。
かって欲しい。
●1ダース購入する。
・調理場のガス台を買い換えることになって
いたが、忘れていた。明日、新しいガス台
を購入したい。
(トゥオイさん)
・先日「とうふステーキ」を試作した。
きのこを入れたいのだが、いいか?
●試食したが美味しかった。色付きの
きのこをいれたらどうか?
(ヒエウ)
・冷凍庫の調子が悪い。直して貰いたい。
●業者を呼んで調子を調べてもらう。
ーー
3ヶ月前に「女児」を出産したTUOIさん。
すっかりお母さんになっている。
3200グラムで生まれた女児の名前は
「はりねずみ」ちゃん
ベトナムでは本名と通称の二つの名前を
つける。通常は通称(愛称)で呼ぶ。
あまり立派な名前をつけてしまうと
悪魔だか鬼だかに「さらわれてしまう」と
いう話があり、通常、生まれた子どどもの愛称は
「悪い子ども」的な名前をつける。
「はりねずみ」ちゃんもその一つ。
バオミンさんのお子さんの愛称は
「アルファー」と「ベーター」。
本火炎樹日記に日常的に登場する
LY君は「わがまま」という意味。
LY(りー)君などは、愛称の通り育って
しまっている。
日本料理店会議終了後、急いで
宿舎へ帰る。荷物の整理。
日本とベトナムを年間2回から3回「移動」する。
大事なものは、全て持ち歩く。
日本での生活全体を推定し、必要なものを
日本へ持ち帰る。
午後5時前、バオミンさんがタクシーで迎えに
きてくれる。
今夜は、フエ市人民委員会前外務部長の
「ニエンさん後援会主催」送別会。
参加者はフエ市人民委員会外部員。
その他、本当に近しい人の私的会合。
主催は、「ニエン氏後援会」。
新フエ市人民委員会外務部長のイクホアン氏の開会
挨拶。
1993年に私が大学でバオミンさんと一緒に
日本語を教えた教え子第1期生。
今日はフエ市人民委員会外務部員の他に
前フエ省共産共産党委員長のマン氏も参加。
今晩のパーティーで私が食べて美味しかった
料理。
猪の肉。コリコリして本当に美味しい。
フエで始めた食べたソーセージ。
豚の内臓をミックスし、豚の腸に入れたもの。
ニエンさんの奥さん。フランス語の先生。
ニエん氏とはフエ師範大学の学友。
全員ベトナム共産党員の会合の中でたった一人
共産党員ではないバオミンさん。
フエ省の実質的な最高実力者マン氏。
1993年9月1日からフエ師範大で日本語を教えた
第一期生のイック・ホアンさん。今回、ニエンさんの
退任に伴って後継のフエ市人民委員会外務部長に
就任。ベトナム事務所のバオミンさん・会計のハンさん
と一緒に私の教え子。
数年前にマン・フエ省共産党委員長と
訪日した企業家。今日の会の
事実上の発起人。
フエフーズの「越の一」という」日本酒を特別に
オーダーし、参加者全員の美味しい日本酒を
堪能してもらう。
左から「新フエ市人民委員会外務長」
左二番「前フエ市人民委員会外務部長」
小山
右端「フエ省共産党委員長」
ニエン外務長、マンフエ省共産党委員長
バオミンさんJASSベトナム運営委員長との
付き合いは、20年になる。
一番信頼できる人間である。
第1にずるいことをしない。第2に貧しい
子どもたちに愛情を持っている。
第3に頭が良い。私がしたいことを直ぐに察知し
行動してくれる。
第4に良家の育ち。育ちは、その人間の生き方も
左右ことがある。
午後5時から午後8時半まで送別会は
続いた。
2013年09月17日
バオミンさんたちと打ち合わせ;地球の歩き方5班夕食会
終日豪雨
午前7時朝食。「ブンボー」(牛肉入り米麺)
午前8時半からバオミンさん・税田さんと
打ち合わせ。
私は9月19日の午後フエを出て、ダナンへ。
ダナン→ホーチミン→成田と帰国する。
そのため不在中のいくつかの問題について
3人で意思統一を行う。
午前11時15分、雨中・徒歩で宿舎へ。
午前11時半、昼食。
「海老・魚いりのおじや」。3分の1食す。
食後2時間程昼寝。外は台風並みの豪雨。
読書「大正デモクラシー」
美濃部達吉の「天皇機関説」の成立過程を
詳述し、学会等での主導的な地位を占めるにいたる。
その後、9月19日帰国の荷物の準備。
日本で会う方々へ渡す必要な品物等を揃える。
午後6時過ぎ、雨の中、徒歩で日本料理店へ。
地球の歩き方5班(5人)の晩餐会。
日本料理を堪能する。
接客主任のグエットさんのメニュー紹介
富岡先生がアシスト
午後8時半、夕食会閉会に近づく。
日本料理店の子どもたちの自己紹介
最後に全員で記念写真
地球の歩き方スタディーツアーに参加された
5人の皆さんは、非常に真面目な方々だった。
日本での活躍を期待している。
午後10時過ぎ、ものすごい「豪雨。
フエも雨季に入ったのか?
ーーーー
台風18号の被災者の皆様に遠くベトナムから
心からの連帯の気持ちを伝えたい。
京都の渡月橋。私は嵐山へ行き近のお店で
豆腐料理を食べるがのが好きで、京都に行くと
時々、渡月橋へ行っていた。
その渡月橋が冠水したとのインターネットの
報道には驚いた。自然の力は、私たち人間の
力を超えたものがあることは事実だ。
自然に対する畏敬の気持ちを持つことも
必要である。
原子力発電を「科学の進歩」「原子力の平和利用」
と捉え、推進してきた勢力がある。原発ゼロは、
原子力発電所をゼロにすることではあっても
その根本思想である「原子力の平和利用」を
推進するのか、原子力自体を封印するのか?
が今問われている。自然界に存在しないものを
作り出す「原子力平和利用論者」に厳しい
批判の言葉を与えたい。自然の力は人間の
能力を超えていることを、自覚すべきである。
原子力を人間が統御できると思い上がる思想でも
ある。
2013年09月16日
フエ市立病院訪問:「子どもの家」中秋祭り
快晴:夕方「子どもの家」付近降雨
午前7時朝食
「フォー・ガー」(鶏肉入り米麺)
10数年前、「国際ソロプチミスト東京ー東」の
皆様がフエ市立病院内に「障害児支援医療センター」
を設立してくれた。
それから10数年。猛暑の夏、降雨の秋と季節と
気候の変化の多いフエ市。
障害児医療センターの損傷の実態を調査する。
10数年の熱暑と風雨の強さは、石版を破壊する。
フエ市立病院院長(寄贈時は部長)の案内で
障害児医療センターの損傷の実態を調査する。
壁には、黒かびがは張り付いている。
各所の「ひび割れ」がひどい。
壁の剥落も多い
天井が壊れているので、雨漏りもひどい。
壁に雨漏りが染み出ている。
屋根が壊れてしまい、雨漏りがひどい
フエ市立病院院長と懇談し、改修のための
見積もりを取ってもらうよう依頼する。
午前11時過ぎ、宿舎へ戻る。
午前11時半、昼食。「チャオ・バイン・カイン」
(小麦粉の手打ちうどん)
1時間程昼寝。
その後読書。「大正デモクラシーの群像」
一読の書。
午後5時過ぎ、電動バイクで「子どもの家」へ。
今日は「子どもの家」の「中秋祭り」。
ベトナムでは、中秋祭りは、子どもたちの
お祝いのお祭りと化している。
日本では、「ススキ」に「おはぎ」と月見
とかなり「枯れている」が、ベトナムでは
太鼓と銅鑼(どら)と獅子舞で大騒ぎ。
石井君とD・B大学の学生さんが「子どもの家」
中秋祭りの準備を手伝ってくれる。
「子どもの家」の子どもたちにあげる「くだもの」や
「おかし」「ケーキ」などを準備する。
「中秋祭り おめでとう(うれしい)」と書かれた
ケーキ
「グエンチャイ通り37番地ーストリートチルドレンの家」
と書かれたケーキ
子どもたち用のケーキを用意する
子どもたちのための果物
お菓子
小分けにした子どもたち全員のお菓子
「子どもの家」・ベトナム事務所のスタッフの皆さんが
準備をする
「2013年 中秋祭り 万歳(うれしい) JASS」
と書かれた横断幕
子どもたちは「中秋祭り」の前に地球の歩き方の
皆さんと夕食を摂る。お菓子と夕食は「別腹」。
夕方、高校から帰って来た子どもたち
いよいよ「中秋祭り」の準備が出来上がり開会
地球の歩き方スタディーツアーの皆さんもすっかり
中秋祭りに溶け込んでいる。
中秋祭りは、日本の子どもの日。
日本から来た石井君もすっかり子どもたちと
仲良くなった。
フエ観光大学へ入ったNさん。
セン「子どもの家」運営委員長、ベトナム事務所スタッフ
も参加
「子どもの家」ロック寮長の司会で開会
バオミンさんがロック寮長の司会を通訳
冒頭、中秋祭り名物の「獅子舞」
銅鑼(どら)と太鼓で拍子を取る。「うるさい」
「子どもの家」セン運営委員長が開会の挨拶
続いて、私が「中秋祭りおめでとう」と言う
地球の歩き方スタディーツアー参加の皆さん、
「子どもの家」スタッフ、ベトナム事務所スタッフ
の皆さんが子どもたちにお菓子や果物を上げる
子どもたちは持ちきれない程のお菓子や果物を
もらう
フック画伯もお菓子を堪能している。
1年に1度の「中秋祭り」。子どもたちも
楽しんでいた。
なかなか「家族」での楽しみがない子どもたちで
ある。
恒例の夏の「バーベキュー大会」「象の滝」
冬の「クリスマス会」と共に「中秋祭り」は
子どもたちの楽しみの一つだ。
一度しかない子どもたちの貴重な人生。
楽しい思い出をたくさん残してやりたいものだ。
子どもたちのお祝いの踊り
石井君がベトナム語で素晴らしい歌を歌う
子どもたちの少数民族の踊り
地球の歩き方参加者の皆さんから子どもたちへの
贈り物
1時間半ほどの「中秋祭り」を堪能した子どもたち
最後に全員写真撮影
午後8時頃、中秋祭り閉幕。
私は電動バイクで日本料理店へ。
生ビールを軽く飲む。
午後9時、日本料理店閉店。
午後9時、ヒエップ君が自転車で「子どもの家」へ
帰る。
何故か「日本料理店閉店」となったら、「変なの」が
現れる。
しかたなく、いつもの路上居酒屋で軽く飲む。
午後9時半。
長い1日が終わる。
日本に台風がきているようだ。被害がなければ
良いのだが・・・・・。
火炎樹日記記載終了 午後11時半過ぎ。
2013年09月15日
終日、秋以降のJASS活動の計画
午前10時起床。
昨夜、飲みすぎた。
昼食を摂らず(摂れず)、午後2時まで
JASS関連の仕事。
午後2時から1時間昼寝。
読書「大正デモクラシーの群像」(岩波書店)
石橋湛山。自民党総裁。首相も歴任。
戦時中、今日の日本国憲法の基本的な
問題について主張している。
石橋湛山は、①主権在民 ②対外侵略・帝国主義侵略
に反対していた。自ら発行している「東洋経済新報」で
上記の私論を展開。日本がアジア・太平洋戦争に
突入した時点で「徹底した個人主義」「平和主義」
「反帝国主義」「反戦主義」の主張を行っている。
戦後も日本共産党委員長野坂参三が中国から帰国した
際の歓迎実行委員会に名を連ねている。
自民党総裁となり首相になった直後に死亡。
日本国憲法がアメリカの押し付けと主張する
論議もあるが、石橋湛山のように戦時中から
今日の日本国憲法の基本的原則については
主張している保守派の人間がいたことは
心にとどめて置く価値のある事実である。
。戦後、戦争犯罪人に指定される。
今日の安部首相・下村文科相などを見ている
と、基礎的な知識・教養の欠如を痛感する。
ふた昔程前の自民党には、石橋湛山を彷彿と
させる一グループがあった。松村謙三、
松田竹千代、宇都宮篤馬・・・・。
今の自民党は二世議員が多いのか?
戦争体験がないのか? 金太郎飴議員
ばかり。骨のある人物がいなくなった。
古賀誠、野中務、河野洋平、加藤紘一など
政治的立場は違うが、平和という一つの共通項を
共有していた人々もいたが、最近相次いで引退
してしまった。安部・下村などは単細胞的に
「中国封じ込め」に狂奔している。
国民の反中国感情を一層刺激し、紛争を拡大する
路線は、非常に危険である。
この1年間ほどで世界史通史の2種類の本を
読んでみたが、世界史上の紛争は、基本的には
「外交」が基礎になり、その延長線上に軍備が
存在している。しっかりした外交が出来ないまま
「集団的自衛権 云々・・・・」などと言っても
噴飯物である。
第2次大戦で『犬猿の仲』であった、ドイツとソ連が
不可侵条約を結ぶなど、外交は不可思議な面を
包含しつつ、日夜「水面下」で進んでいる。
世論は、危険なものを含みつつ存在する。
アジア・太平洋戦争の発火点であった、日本の
シンガポール侵略。日本国民は、「提灯行列」
をしてシンガポール陥落を祝っている。
国民の「熱狂」も怖いものである。
最近では、「小泉郵政改革・構造改革」への
熱狂。
夕方以降、今後のJASSのあり方等を
私的に検討。
2013年09月14日
地球の歩き方5班講演:日本料理店;りー、ハイ君
午前5時起床。
読書。
午前7時朝食。
「カニ団子入りブンボー」
午前7時40分、ベトナム事務所。
静岡大学ニフィー担当の松本教授来訪。
静岡大学フエ連絡事務所だった当事の
「静大備品等」を静大に引き渡す。
松本先生としばらく懇談。
ニフィープログラムで静大に留学した
学生の近況を伺う。概ね頑張っている
そうだ。
松本教授等が静大備品のチェック。
ベトナム事務所側(小山・バオミン・税田)と
静大側(松本教授・山林担当)としばらく
懇談・協議。
JASSベトナム事務所が静大フエ連絡事務所を
していた際、静大から貸与されていた備品類等を
全て清算したことを示す文章を静大側に手渡す。
午前9時半、静岡青年会館で地球の歩き方5班
の参加者の皆さんにベトナムの「文化・伝統」
を話す。
1時間の講演の後、参加者の皆さんと記念撮影
静岡会館から宿舎へ帰る途中で「菓子パン」2個を
買い、牛乳で昼食。
疲れた。2時間ほど昼寝。
午後3時、宿舎を出て、「子どもの家」へ。
午後3時半から1時間、「子どもの家」設立の
経過・現状・今後の方針などを話す。
「3つの自立」
今日は声がかすれて出ない。
その後、子どもたちの歓迎会。
初めにセン運営委員長の歓迎の挨拶。
子どもたちの歓迎の踊り
歓迎の歌
歓迎の踊り「平和のシンボル鳩」
日本側の返礼の出し物「ドラエモン」の歌
午後5時過ぎ、「子どもの家」では子どもたちと
近所の若者がサッカーで楽しんでいたい。
用事で夕食が遅れた子どもたちが
遅めの夕食を摂っていた。
午後6時過ぎ、日本料理店へ。
冷たい生ビールを飲む。
しばらくするとフエに進出している企業の責任者の
方が来店。フエでの活動、仕事について、お互いの
情報交換をする。
日本料理店の外では、リー君が「見え隠れ」している。
午後9時半、閉店。
日本料理店の片づけを終わり、リー君が飲もうと
言うので、いつもの路上の店で飲もうと日本料理店
を出ると、日本料理店の前にもう一人懐かしい
人物が待っていた。ハイ君である。
5年ほど前、5階建てのビルを借り、私、大塚さん
税田さん、日本料理店の子どもたちと一緒に住んで
いた時期があった。そのビルを「ハイ・リーホテル」
と名づけていた。リーはご存知のリー君。もう一人は
日本料理店の前で待っていたハイ君。
リー君25歳、ハイ君27歳。
ハイ君は、午後7時から午後9時までホテルか
なにかの「警備員」をし、5万ドン(250円)の
収入で生活しているという。
「どうして日本料理店の前にいたのか?」を
尋ねる。日本料理店で働いている「子どもの家」
出身のGさんが好きなので顔を見ていたとのこと。
午後10時半まで近況を聞く。
ハイ君もそれなりに生活しているようなので
安心した。
リー君は今日で4日間連続、オートバイ代の
返済(1日2万ドン・100円)をきちんとしている。
400円の返還済み。
リー君は一時は「ラオスへ行き、一攫千金(麻薬)」
を夢見ていた。何とか、麻薬運搬人→逮捕→死刑
という危ない夢を断ちきり、こつこつと毎日仕事をする
道を選んでくれた。
一人の人間を育てるということは、並大抵の
ことではできないとを改めて悟る。
長い時間と忍耐、先の見通し、厳しさと愛情・・・・
様々な能力と日常の小さな努力の積み重ねが
子どもたちを育てることにつながる。
2013年09月13日
石井君誕生会
午前中雨。
午前5時起床。
読書。
午前7時朝食。
「カニ団子入りブンボー」
午前中、当面の諸課題の整理。方針と対策を
考える。
疲れたので1時間ほど横になる。
午前11時半、昼食。
野菜サラダ、揚げ魚。
午後2時間昼寝。気候が急変し、体がだるい。
雨季の入り口に入った。
午後5時、日本料理店で「石井君の17歳の
誕生会」を行う。
石井君はベトナム事務所員ではない。
強いて言えば「食客」。
ほぼ同年齢の日本料理店のヒエップ君から
誕生ケーキの贈呈。
ベトナム事務所員も参加し、ささやかではあるが
石井君の17歳の誕生会を祝う。
(バオミンさんは、ダナンへ)
誕生ケーキ贈呈。
17歳と石井君の名前が入ったケーキ。
フエに来て一回り成長した石井君。
誕生会開催のお礼の言葉を言う。
しっかりとした言葉だった。
日本料理店の子どもたち、ベトナム事務所員
の皆さんの祝福を受けて17回目の誕生日を
迎えた石井君の幸せな人生を祈る。
石井君と私は何かの縁があって、こうして
遠いベトナムのフエ市で一緒に生活している。
私の出来る支援は最大限して行きたい。
根本は、石井君への愛情だ。
火炎樹日記の写真を撮ってくれたいたソン君と
石井君。
10個分にケーキカット
日本料理店4人組が揃った
ヒエンさんが手伝って日本料理店の子どもたちの
ケーキを分ける。
何故か知らないが、ケーキの匂いを嗅ぎつけたのが
一人「変なの」が颯爽と闖入。
税田さんに「オートバイ借金」2万ドン(100円)
を返済する。これで3日目。300円の返済。
1日で辞めてしまうかと思っていたが、3日間も
借金返済が続いている。
日本料理店・日本人ベトナム事務所員の
夕食。
石井君の誕生日を祝って、簡単な誕生会を
開く。日本料理店の子どもたちのリクエスト。
石井君の健やかな成長を祈るのみ。
祈りながら、ちょっと『生ビール」を舐める。
子どもを産んで日本料理店へ復帰した
TUOIさん。
接客主任として欧米系・日本人の注文を
しっかりととっているグエットさん。
今日の主役 石井君
午後9時閉店。「子どもの家」から通っている
ヒエップ君が自転車で帰る。
午後9時過ぎ、日本料理店の閉店を確認し、
宿舎へ帰る。
途中でリー君とブライセンのスタッフは
サッカーの練習をし、一杯飲んでいるところに
出くわす。
誘われて一杯飲む。
こうしてサッカーなどのスポーツをすることは
良いことだ。
午後10時過ぎ、宿舎へ。
2013年09月12日
ベトナム事務所で打ち合わせ
午前中、薄曇・午後快晴
午前7時朝食。「フォー・ボー」(牛肉米麺)
実に「ワンパターン」な毎日・毎週の食事ではある。
好き嫌いなく美味しく食べているが、小食になり
昼食時には、半分も食べられなくなった。残念。
ーー
午前9時過ぎ、徒歩でベトナム事務所へ。
ベトナム事務所のスタッフの皆さんは
いつもながら、真面目に仕事をしている。
感謝。
D・B大学の学生さん。ベトナム事務所体験中。
日本語を教え、1週間程度ではあるが、ベトナム事務所
員体験もしている。真面目に仕事をしてくれている。
一人の学生さんは、昨年のJASS現地報告会
で突然、司会を「させられた」学生さん。
日本料理店副責任者兼日本語教師のTOMY先生
今朝、私の部屋のパソコンが使えなくなった。
大学でITを専攻したソン君が直ぐに部屋に来てくれて
直してくれた。感謝
ジョー先生 真面目にサッカーをしている。
ベトナム事務所内で一番「真面目?」に仕事
をしている最高責任者の運営委員長さん。
日本語部長のP先生
日本語部員には、やさしく日本語の教え方を
教えている。バオミンさんと高校の同級生。
今晩は先生(何故、今晩は か?の説明は長くなる)
現在、急いで処理しなければならない3つの
課題がある。
1番目は、リー君問題だったが、この1ヶ月半
ほど、バオミンさん・税田さんと苦労したが、
何とか「最悪」の事態に至る前に、正常な
路線に乗ったか? に見える。
このまま、しばらくの間は、建築塗装業を
続け、毎日15万ドン(750円)の給料をもらい
3食、家賃、諸生活、夜の一杯位は出せる
給料なので、頑張って欲しい。
この1ヶ月程は、リー君の件でエネルギーを
使いきってしまった感がある。
2番目、3遍目の課題について、
午前9時半過ぎからベトナム事務所で
バオミンさん・税田さんと協議をする。
午前11時半、宿舎へ。
昼食は、「チャオ・バイン・カイン」
(小麦粉の手打ちうどん)
食後、2時間程熟睡。昨夜のリー君との
一杯会で疲れた。
午後2時から1時間半、読書。
「大正デモクラシーの群像」(松尾尊よし著:岩波書店)
大正デモクラシーといわれる現象を日本歴史の
中にどのように位置づけるのかという総説があり、
その後、以下の人たちの「個人分析・業績」の記述。
・夏目漱石
・三浦鉄太郎
・石橋湛山
・美濃部達吉
・吉野作造
・佐々木惣一
・山本宣治
ーー
キューバの高校同級生「宮本さん」に
メールを送る。便利な時代になったものだ。
ベトナムから急用があって、キューバに直ぐに
連絡できる時代になった。
といいつつも、その便利な利器を、馬鹿馬鹿しい
ことに使っている大学生(コンビにのアイス保存器
に入って、写真を写し、公開する・・・・・・)などの
急増には、言葉が出ない。
ブライセンK部長より電話。「デコ電」用の材料を
ベトナムに持ってきてもらうよう依頼した。
デコ電関係の高校同級生のY君がK部長の
自宅に届いたとのこと。9月17日に
フエまで「材料」を持って来てくれる。
バオミンさん・税田さん打ち合わせ
午前5時起床。
午前7時朝食。「ブンボーフエ(牛肉米麺)」
唐辛子の量を極端に減らしてもらっている。
胃への刺激を減らすため。
午前中、徒歩30分、散髪屋へ。3万ドン(150円)
午前11時半、昼食。
「マカロニスープ」。3分の1程食す。
その後2時間程昼寝。
午後2時、ベトナム事務所で
バオミンさん・税田さんと重要な問題
2点について、突っ込んだ話し合いを行う。
午後6時、日本料理店で軽く生ビールを
飲む。マグロの佃煮などをおつまみに。
日本料理店には、今日、「フエ・フーズ・カンパニー」
(福岡県)の製造したお酒・焼酎の看板をつける。
なかなか美味しいお酒・焼酎を造る。
午後9時、日本料理店閉店。10数人の来客あり。
リー君から電話。昨日のことでお礼を言いたいとのこと。
近くの路上飲み屋で話を聞く。
『昨日から建築塗装の仕事に行っている。
1日15万ドン(750円)の収入がある。
昨日、先生にオートバイを買ってもらい、お金を
もらったので、大量の借金の70%を返済できた。
家に来て「大声で金を返せ」などと叫ぶ
借金取りも多く、困っていた。借金が返せたので
これから毎日真面目に建築塗装の仕事をする。
ギャンブルとけんかは、絶対にしない、
と話していた。早速、今日、オートバイー借金の
お金「2万ドン(100円)」を税田さんに返済した。
(私が175ドルでオートバイを買い取り、
リー君が毎日仕事をし、1万ドンでも2万ドンでも
いいから、私に返済することを約束していた。
毎日少しでも返済している間は、オートバイを
リー君に貸してあげる、との約束をしている。
今日からリー君はその約束を実行し始めた。
金額の問題ではなく、真面目にコツコツと
仕事をすること、ギャンブルで大もうけをしよう
などという根性をなくすことが大事。)
今日は私と一緒で、「散髪屋」へ行き、
丸坊主にしてきた。心機一転の再出発の
決意なのか? どうかは不明。
リー君との縁も20年。
紆余曲折がありすぎる。何とか、真面目に仕事を
して、生計を立てて欲しいものだ。
「真面目に仕事をして、結婚したい」と言っていた。
午後10時過ぎ、閉会。
2013年09月10日
終日雨 リー君、仕事を始める
午前5時起床。
豪雨。今日は午前中豪雨。午後も雨。
夕方、雨がやむが曇り。
午前7時朝食。「肉団子入りチャオ・バイン・カイン」
午前9時、豪雨の中、徒歩でベトナム事務所へ。
会議室の一角では、日本料理店の子どもたちが
「デコレーション電話」のケースを装飾する
アルバイト(内職)をしている。日本料理店の
収入に更に「デコ電」の内職で貯金をして、
結婚に備えるという。
泥棒や賄賂をもらって「金持ち」になるより
日本料理店の子どもたちの方が余程
立派である。自分の力と努力で収入を得て、
将来に備えようというのであるから・・・。
バオミンさん・税田さんの3人で「重要な問題」に
ついて協議する。フエ市人民委員会とも相談。
近日中に結論を出す予定。
今日からリーは、仕事に行き(建築業)、毎日
15万ドン(650円)の日当をもらう約束を
私、バオミンさん、税田さんとしている。
約束通り、今日から仕事に行き、自分で自分の
生活を立ちあげる努力をするのなら、リーの
オートバイを私が買ってやり、そのお金で
ギャンブルの借金取りに追われてている毎日
から解放されるよう「借金の返済』をすればよい。
午後12時過ぎ、豪雨の中徒歩で宿舎へ。
「アヒルの肉入り、おじや」。半分ほどしか
食べられない。
午後2時間程昼寝。
読書。第1次世界大戦。
ヨーロッパの複雑な国名と国境の変動を知る。
戦後賠償でドイツのインフレは「1億の1」に
下がったそうだ。中学の歴史の授業で
「りんご1個を買うのにスーツケース1杯の
札束」が必要と習ったことがある。
その後、イタリアのムッソリーニの登場。
イタリア社会党員。ソ連のレーニンとも知り合い
だったそうだ。
夕方、税田さんから電話あり。
「リーが昨日の私、バオミンさん、税田さん
との約束通り、建築業の仕事に行った」
とのことだった。
昨日の私、バオミンさん、税田さんとの
約束を履行したことを確認し、午後7時
リーと税田さんと私の3人で、リーの
オートバイを私が1万7千円で買収する
契約書に両者がサインをする。
これでリーのオートバイの所有権は
私に移行した。
リーには、毎日、コツコツと努力をして仕事をし、
小額でもいいから私にお金を入れるなら、
オートバイを貸してやるとの話をする。
これで一応、リーのラオス行きは阻止することが
出来たかと思う。危機一髪だった。
ラオスに行ってしまえば、私たちの手の届かない
所へ行ってしまう。何が起こっても助けようがない。
リーの金遣いが荒くなり、JASSに対して尊大な
態度に出てきたいたこの数週間。
彼の心の中には、どんな「鬼」が巣食っていた
のだろうか?
私たちはリーに「現実を直視せよ。悪魔のささやきに
耳を塞げ」といい続けてきた。やっと、今日から
建築業に行きだしたことで、「悪魔の甘い囁き」の呪縛
から少し解き放たれたのか? と思えるようになった。
が、りーもしたたかな人間。いつ、どこで「変身するか?」
は分からない。常に緊張した心を持ってリーに接しな
ければならない。
リー君と飲みながら話したことは
①ギャンブルは絶対にいけない
②「ケンカ」はいけない。
③真面目に毎日働くこと
この3つ。
リー君もこの間の自分の「異常な行動」に
ついて反省をしているようではあった。
リー君は、自分が結婚できないのは、
①仕事が安定していない
②金銭的なことで問題を起こす。
③体中に「刺青(いれずみ)」をしている
ということで、彼女が出来ても「彼女の親」
から反対され、なかなか結婚できないと
言っていた。
今日は、リー君が約束通り、建築業の仕事を
始めた。このことは評価すべきことであり、
リー君を評価した。
オートバイは私が175ドルで買った。
売買契約書をバオミンさんが作ってくれた。
リー君と私が署名した。
何とか、この1ヶ月近くの間に異常行動を
繰り返したリー君の行動が安定する
方向に行きだしたと実感した。
帰りは、「私のオートバイ」でリー君が
私の宿舎まで送ってくれた。
リー君は「恐ろしい謝金取り」に返済する
お金が出来て、上機嫌だった。
二度と「ギャンブルに溺れ、借金取りに
追い回される生活をしない」ことを願う。
午後9時半、宿舎着。
2013年09月09日
リー君と話し合い:D大学生さんとうちあわせ
午前6時半、起床 快晴
午前7時朝食。「フォー・ガー(鶏肉米麺)
午前9時前、電動バイクでベトナム事務所へ。
ベトナム事務所ではスタッフの皆さんが
真面目に仕事をしている。ご苦労様。
日本のD大学で国際関係を学んでいる学生さんも
ベトナム事務所スタッフ体験をしている。
日本語教師の「今晩は」先生
ベトナム事務所の重鎮(体重だが)になりつつある
ソン君。
会計部長(家庭でもベトナム事務所でも)
昨日の結婚式のカラオケで疲れたのだろうか?
TOMY先生。隣りは、D大学の事務所体験の
S君。
当面の重要問題について、集中的に論議。
方針を出す。
続いて、リー君問題について3人で話し合う。
リー君はこの1ヶ月程の間に「ギャンブル」に入れ込み、
バオミンさんやJASSスタッフに対して「横柄な態度」
を取るようになった。
昨夜、私に電話をしてきた。
「俺はラオスに行く。借金取りに追われ、当面
120万ドン(60ドル)を支払わなければならない。」
と言ってきた。
バオミンさん・税田さんと相談し、このまま放置して
おいては、ラオスに行き、「麻薬の運び人」となり、
捕まり死刑判決が出る可能性もある。
何としてもラオス行きを止めたいとの話をする。
具体的には、リー君が、オートバイを売り、
そのお金で「ギャンブルの借金」を返すと言っている。
しかし、オートバイを売ってしまったら、リー君は
フエでは生活できない。移動ができない。
そこで、私がリー君からオートバイを買う。
条件として、毎日コツコツと仕事をし、少しずつ返す
ようになったら、オートバイを「リー君に貸す。
完済したら「返還」する、という方法を3人で協議し
決める。
警察が移転し、この1週間、生活費が入らないので
私が毎日15万ドン(750円)をリー君に上げている・・・。
リー君の新警察でのオートバイ警備の仕事が出来る
ように「政治工作」をする、などを3人で協議。
リーを呼び、リーが上記の条件を飲めば、
リーを引き続き支援するとの方針を決定。
午前10時、リーをベトナム事務所へ呼ぶ。
リー君に先ほど小山・バオミン・税田の3人で協議した
内容での今後の生活についての提案をする。
リーは、内容を受諾する。
午前11時から午後1時過ぎまでD大学の
学生さん2人と懇談。
大学に「フフェアー・トレード会」のような
ボランティア団体を作り、「子どもの家」の
刺繡等を買って、販売したいとのこと。
協力することを約束する。
D大学の学生さんは、大変真面目な学生さんだ。
出来るだけ協力したい。
午後1時半、宿舎着。途中で「菓子パン2個」と
ロングライフミルクを買い昼食とする。
午後3時過ぎまで昼寝。長時間の話し合いでかなり
疲れる。
読書。「第1次世界大戦」について。
「イスラエル・パレスチナ問題」の歴史的な
意味を理解する。最高責任者はイギリス。
イギリスの「二枚舌・三枚舌」が遠因。イギリスの
責任は重大だが、帝国主義国は、その責任感は
ない。
午後5時過ぎ、税田さんから電話。
リーが「明日から仕事をすると言っていたが、仕事は
しない」と言っているとのこと。
「早く、オートバイを買って欲しい。小山先生が
買わなければ他の人に売ってしまう」と言っている
との連絡あり。
ばか者。自分を何様だと思っているのだ。
この1ヶ月間、リーは、相当自分が「お偉いさん」に
なったと思いあがるようになってしまった。
私がリーのオートバイを買ってあげるというのは、
事実上、預かってやり、『真面目に仕事をして
毎月・毎日でも少しずつ返済するようになりだしたら、
オートバイをリーが自由に使っていいよ』という意味
であり、朝のバオミンさん・税田さんとの話し合いの
際もその点は理解させていたのだ。ただ、リーの
オートバイを私が買うという前提は、「毎日仕事を
真面目にして、収入を得ること」だけである。
バオミンさん・税田さん・私の前でリーは上記の
約束を「守ります」と断言した。
しかし、夕方になったら「借金取りが多く、
明日、仕事に行っても電話が多くかかり、仕事が
出来ない。家にまで借金取りが押しかけてくる」と
言っている。
税田さんは「明日から仕事をきちんとするという約束で
小山先生は、リーのオートバイを買うといったのだ。
明日仕事もしないで、オートバイを小山先生に
売ってお金をもらい、また、ギャンブルや、訳の
分からない方向にお金を使うのは駄目」という。
リーは、「それなら、オートバイの業者に売る」と
言って、交流会話は終わる。非常に挑戦的な
態度である。
税田さんからの電話で「リーの高飛車な態度」
「自分の客観的に置かれている位置への無理解」が
良く分かる。
事情は不明だが、この1ヶ月間にリーには、多額の
お金が入っている。リーは、そのお金でギャンブルをし
全て「すって」しまっただけではなく、お金があるとの
強気の気持ちで、背の高さ以上の大金をかけた
ギャンブルをするに至る。その背景には、事情は
不明だが、「自分は、その辺の人間と違って、
特別な、えらい人間だ」との潜在意識がある。
そうしたことが背景にあり、リーは、「身の丈」を
超えた異常な掛け金のギャンブルにはまり込み、
敗北し、借金取りに毎日追われる身の上となって
しまった。毎日電話が多数かかってくる、家まで
借金取りが押しかけてくるという生活になってしまった。
1ヶ月前までは、普通の庶民の生活に満足して
いたリーが何故、こんなに「贅沢で、自分の生活水準
も理解せずに大金の借金をしてしまったのか?」
私もバオミンさん・税田さんも理解できない。
この1ヶ月程の間にリーの生活に何があったのか?
明日からフエにいる伯母さんの家の建築業を手伝う
という約束で、私はオートバイを買ってやる(実際は
日常的にはリーがオーバイを使い、毎日・毎月
少しずつ返済する)ということを考え、リーにも
言ってあった。
現状では、JASSは打つ手はない。リーは、このまま
行くとお金がなくなり、「ラオス」に逃げていく。
その後は、お決まりの麻薬運搬」-逮捕ー死刑の
道が待ち構えている。
私たちベトナム事務所は、20年間もリーに対して
丁寧に対応してきた。現在のリーのJASSに対する
非礼な態度にもあきれるが、リーがJASSに対して
非礼な態度になれる理由は?
午後4時頃、青少年教育の会のKさんから電話。
午後6時過ぎ、ベトナム事務所に来ているI君と電話
で1時間ほど話す。頑張って勉強するように言う。
ーーー
リー君という一人の若者と20年間付き合ってきた。
5歳から25歳の現在まで。
彼の態度が急変したのは、この1ヶ月程前からだ。
原因は不明。
しかし、リー君は「金」と『自分は偉い』という
気持ちにさせる何かがあったのだ・・・・・・。
今後もリーの動向を追い、リーの最悪の事態を
何として避けるよう最大限の努力をしたい。
=====================
9月8日(日)午前3時前(ベトナム時間)の
IOC総会の安部演説やその前後の発言を聞いた。
以下の安部首相・竹田招致委員会理事長の発言は、
福島で被災し、3年半経っても未だに家に帰れない
数十万人の被災者を冒涜するものであった。
『福島第一原発での汚染水漏れに対して、「状況はコントロールされている。決して東京にダメージを与えるようなことを許したりはしない」と安部首相は発言し、
4日の会見で招致委員会の竹田恒和理事長が「東京は水、食物、空気についても非常に安全なレベル」「福島とは250キロ離 れている」。
これらの発言に驚く。
第1に安部氏の発言の「状況はコントロールされている
」のは、全くの嘘である。コントロールされていない。
未だに原子炉の破壊の原因は、地震の影響なのか
津波のせいなのか分かっていない。原子炉の中は
誰も見ていない。3年半経っても福島原発は
「収束宣言」以前の「大事故発生」から何も
分かっていないのだ。だた、毎日大量の水を注ぎ
原子炉を冷やしているだけである。
地下水を通して汚染水が海に流れ、タンクに貯めて
いた汚染水が流出する。こんな状態で安部氏は
よくも「コントロールされている」などと、被災者を
馬鹿にしたことがいえたものだ。
コントロールされているのは、阿部氏が
「原発村の利益集団」にコントロールされているだけ
なのだ。知的水準を疑う。
安部・竹田発言は、「福島は危ないが、
250キロ離れた東京」は全く問題がない。「安全だ」と
言っている。逆に言えば、福島は今でも危ないと
言っているようなものだ。
東京オリンピックを開催するためには、福島は
「ダメ」だが、250キロ離れた東京は安全です、
との説明をした安部・竹田の知性の低さを
悲しみたい。東京でオリンピックが出来るなら
福島は「危ない」と事実上言ってしまう、安部氏と
竹田氏の人間性と知性を知ってしまう。
この種の人間が日本のリーダ層にいる日本の
知的退廃を嗤う。
竹田理事長の差別発言は、マスコミがもっと厳しく
追求すべきである。
東京と福島は250キロ離れているので、福島は
汚染しても東京は大丈夫、という発言は、これほど
福島の被災者を馬鹿にしたものはない。
自分たち東京に住んでいる猪瀬都知事や竹田氏は、
福島から250キロ離れているので、福島は
汚染で苦労していても、東京には影響がない
との馬鹿げた差別発言である。
竹田氏が元何とかの宮の子孫だか知らないが、
天皇・皇后の方が余程、心底から福島の被災者への
思いやりがあるように思えてならない。
東京五輪は決定したが、一体誰が一番得を
するのか? 福島復興は、間違いなく
東京五輪の後方へ追いやられる。既に後方へ
追いやられているのだが・・・・・・
東京オリンピックにかける莫大な費用を
福島原発の被災者に等分して支給して欲しい。
福島の悲劇を今でも忘れない、などと口では
言っても、東京から福島は250キロも離れて
いるので、福島は放射能がひどくても、
東京は大丈夫です、という言葉が何故、竹田氏
から出てくるのか? 根本的な人間性を疑う。
東京オリンピックを推進しようという人間の
知的水準が分かるというものだ。
今、第1にすべきは東日本地震の復興である。
その視点を欠いたオリンピックは欺瞞である。
2013年09月08日
「子どもの家」警備員さんの娘さんの結婚式
午前8時起床
昨日の「春雨麺」の残りを少し食す。
午前10時40分、徒歩でベトナム事務所へ。
ベトナム事務所には、ベトナム事務所員の
皆さんが参集。
今日は「子どもの家」の警備員VUIさん(55歳)
の娘さんの結婚式。
「子どもの家」警備員のVUIさんは、1980年代
ベトナム人民軍の軍人だった。
現在、中国に「略奪されている」南沙列島の
守備隊の軍人。
中国側の襲撃で怪我をし、軍務につけず、
その後、「子どもの家」の警備員となる。
この種の「名誉の負傷」を負った軍人には
ベトナム政府も手厚く処遇する。
日本風に言えば「傷痍軍人」。
午前11時過ぎ、「子どもの家」の直ぐ近く
の自宅の庭を開放し、結婚式を行う。
参加者は350人。
新郎新婦は、20代前半の初々しいカップル
だった。
新郎新婦と両家の母親
式場(VUIさん自宅)にはベトナム事務所の
日本人、ベトナム人、「子どもの家」の寮母さん
などが結集。
開会セレモニーの前に既に各テーブルでは
独自に自主的に「宴会」が始まっている。
「子どもの家」スタッフの皆さんのテーブル。
「子どもの家」委員長センさん、バオミンさん、
税田さん、ジョー先生・TOMY先生
左から「新婚さんいらっしゃい」さん
「子どもの家」会計担当のHさん
セン「子どもの家」委員長
新婦の自宅の庭での結婚式。
ベトナム風でたくさんの親戚の人が農村から
やってきている。立錐の余地もない。
開会(写真右端が「子どもの家」警備員VUIさん夫妻)
ケーキカット
その後、ワインをグラスの山へ注ぐ儀式あり。
フエに20年すんでいる。その間に
数々の結婚式に参加したが、年々「派手になって」
きている。
「子どもの家」セン委員長と乾杯
食事
エントリーに出た牛肉の味付け薄切りは
美味しかった。ビールの「おつまみ」には最高
新郎新婦と両親御さんが各テーブルの参加者
をめぐり、挨拶
「子どもの家」スタッフへの挨拶
宴会が始まった途端に「カラオケ大会」。
既に参加者には、大量の「フダビール」が
入っている。
親戚の農村の親戚の方々は、うれしくて
カラオケを歌うのだが、「変な長調」。
カラオケの音が異常に大きく、騒音で頭が痛く
なる。
途中でJASSを代表して富岡先生が
ベトナム語の歌を歌う。一番拍手が多かった。
ベトナム事務所の「新婚さんいらっしゃい」さんから
バラの花の贈り物
人生と「当面の諸課題」を深刻に考えている時、
知らない間に後ろに新郎新婦が登場・撮影と
なった。写真の表題「考える人」と『新郎新婦』
我に返り、写真撮影
午前11時半開会。午後2時閉会。
先日、交通事故で顔を負傷したホアさん(中)。
現在は「子どもの家」にある刺繡みやげ物店で
仕事をし、家を借りて自立している。
ホアさんとの出会いは、1996年頃だった。
私が毎朝5時に起き、「レロイ通り」をフエ駅まで
往復1時間歩いていた。その間、たくさんの
路上の子どもたちを見付け、「子どもの家」に
入所させた。
ホアさんは、レロイ通りに面している「公園」
で寝ていた。私が公園前を通る通る午前5時20分
頃、公園から起きだし、レロイ通りの横で、
ペットボトルから手に水を受けて、顔を洗っていた。
小学校低学年くらいだったろうか?
私は何度も「子どもの家」に入るよう勧めたが
断られた。1年間ほど、繰り返し「子どもの家」入手を
進め、やっと「子どもの家」へ入所させることができた。
小学校低学年で「子どもの家」に入ってくれて本当
良かったと思う。もう少し、年齢が行っていたら
どんなことが起こったことやら・・・・。
「子どもの家」に入所し、小学校・中学校を
卒業。。高校には行かず、中学校位から
「子どもの家」内にあった刺繡研修センターで
刺繡を学んでいた。
中学を卒業した段階で、刺繡研修センター
付属の「刺繡みやげ物店」に就職。
給料をもらいながら、家を借り自立するように
なった。
ホアンさんがもし、「子どもの家」に入所
していなかったら、今、どうなっていたのだろうか?
写真左は ホアンさんの刺繡のロアン先生
(現在、「子どもの家」刺繡みやげ物店の主任)
午後2時閉会し、バオミンさんと日本人スタッフは
タクシーで、ベトナム人スタッフは各自のオートバイで
帰宅。
午後3時前に宿舎へ帰る。
その後2時間程休養・遅い昼寝。
午後5時半頃、リー君から電話。今、近くで飲んでいる、
一緒に飲もうとのこと。
オートバイで私の宿舎まで迎えに来る。
いつもの大衆酒場へ。税田さんも来ている。
3人で今後のリー君の「行く末」を話し合う。
リー君は現在推定百数十ドル近くの「借金」を抱えている。
借金の大半は、ギャンブルだと推定する。
警察前のオートバイ警備員の仕事は既に終了。
新しい仕事はない。親戚のお姉さんの家庭が
日本流に言えば「左官業」をしているとのこと。
ベトナムの家はレンガをセメントつなぎながら
作っていく。レンガなどをセメントでつなぐ仕事を
するような、しないような不確かな話をしていた。
明日から直ぐに仕事があるかも不明。
現在、200ドルで買ったオートバイを120ドルで
売って「借金」を返すという。
途中で若い男がやってくる。
1時間ほどリー君・税田さんとリー君の行く末を
話し合い、私は疲れたので先に失礼する。
リー君はオートバイで私の宿舎まで送ってくれる。
しばらくするとリー君から電話。
「俺は、フエにいないでラオスに行く」との内容。
ラオスに行けば、間違いなく「麻薬の運び人」となり、
フエーラオス国境の山を越えて麻薬を運び、山岳警察
につかまる可能性大。ベトナムでは5グラムの麻薬所持
で「死刑」。リー君のラオス行きは、命にかかわる
重大な問題。
リー君とまだ一緒に飲んでいる税田さんに電話をし、
明日、午前9時半にリー君と話しをするので、
そのことを伝えてくれるようお願いする。
リー君は、この数週間『何かに取り付かれた』ように
『異常な行動』に出ている。自分の身の丈に合わない
言動が多い。自分がかなり偉くなったような意識と
行動が目立つ。金遣いが荒くなり、生活もかなり
荒んできていた。原因は不明。
まじめにこつこつと仕事をすることを馬鹿にし、
『お金があるのだ』という風なそぶりを見せるように
なった。しかし、実態は、警察のオートバイ警備の
仕事が終わり、次の仕事がないまま、現在、毎日
私が15万ドン(750円)をリー君に上げて、何とか
その日の生活が成り立っている状態だ。
意識ばかりが「えらくなり」、その生活実態は
人から生活費をもらわないと生活できないという
現実である。
「命よりも大事」なオートバイを売って、借金を
返すということは、相当の借金があることが
想像される。この数週間程でかなりのお金が
手に入り、「自分は偉い」との間違った
認識を持つに至り、しかし、客観的な自分は
「収入もない」人間であるという「自己矛盾」
にいらだっているのである。
私たちベトナム事務所では、リー君に
客観的な自らの置かれている社会的な
位置、収入状況などを自覚させ、その身の丈に
あった生活と暮らしをするよう厳しく言って来たが
この数週間のリー君の変貌に唖然としている。
結局、大金の借金(ギャンブル原因)と自分の
おかれている位置すら分からず、イライラと荒れて
いるリー君が残っただけであった。
その挙句、一番心配をしていた「ラオス行き」を
言い出す始末。リー君の最終転落の一歩手前である。
これ以上、リー君の暴走を見過ごすことは出来ない。
明日、午前9時半に会って、厳しく彼のこの数週間
の生活を批判し、自己総括させ、ラオス行きを取りやめ
させ、自分の身の丈にあった日常生活に戻るよう
説得するつもり。
リー君とは、1993年9月から付き合っている。
リー君5歳の時から20年。現在のリー君は
何か自分自身の置かれている位置を全く勘違いして
しまっている。
午後8時から午後10まで停電。
部屋は、サウナのような暑さ。
静岡の会の方から頂いた「小型電池式扇風機」
を使い何とか暑さを凌ぎ、停電回復を待つ。
2013年09月07日
バオミンさん・税田さんと懇談
午前6時起床。
朝の空気はかなり涼しくなってきている。
午前7時朝食。「カニ団子入りブン麺」
アヒルの血の塊も入っている。鼻をつまんで
頑張って食べる。
宿舎で長文の手紙を書く。
午前9時、徒歩でベトナム事務所へ。
バオミンさん・税田さんといくつかの問題で
打ち合わせ。
ベトナム事務所は、「問題がないことがない」
否定の否定で肯定。いつも問題がある。
しかも、解決困難な問題のオンパレード。
それを何とかやりくりして、「解決」するのが
私たちの役目。
午後12時まで3時間話し合う。
午後12時過ぎ、リー君がベトナム事務所に来る。
今日、アヒルの父親(アヒルを2000羽飼っている)
の所へ行く。今日の生活費(15万ドン;750円0
をください、とのこと。
警察に来る人たちのオートバイ警備員をしていたが、
先日、警察署が移転し、現在失業中。
お金がないと「何をするか分からない性癖あり」。
当面、新しい仕事が見付かるまで、毎日
15万ドンの生活費を私が上げることにした。
ただし、ギャンブルと「けんか」をしたら、
支給停止との約束をしている。先日も
かなり飲んで夜中に電話をしてきたが、
「ギャンブル だめ」「けんか だめ」と
日本語で言っていたので、その自覚は
あるようだ。
リーの自立のためのプログラムをバオミンさん・
税田さんの3人で相談し、この数年、着々と
進め、良い方向に来ていたのだが、8月に
なってリー君の「調子が狂って」きてしまった。
バオミンさんに暴言を吐き、日本料理店での
仕事も辞めてしまった・・・・。色々な意味で残念
ではあるが、ベトナム事務所としては、粘り強く
リー君と付き合って行きたい。「愛情と厳しさ」が
リー君との付き合いの原則である。
午後12時半宿舎へ。途中、雨が降ってくる。
昼食。「春雨麺」。1人前は食べられず、
3分の1程食す。
その後、2時間程昼寝。
読書「読むだけですっきりわかる世界史 現代編」
著者の後藤武士氏は、思想的には「右より」と
思える。当時の世界ではとの注釈を付けながら、
韓国併合も中国侵略も「他の国もしている」との
理由で「肯定」している。
しかし、こんなことも言っている。
清の1890年代の記述でこんなことを言っている。
『いつ時代も改革というのは、既得権益者には
嫌われるもの。そして、既得権益者とは、
権力者に他ならない。
ちなみに だからこそ権力者が改革を叫んだら
疑ったほうが良い。改革という名のもとに骨抜き
の改訂でガス抜きを巣角が目的か、または
改革は改革でもさらに反動的前近代的な改革
を行うのかのどちらかだと思っていれば
まず間違いない。』
小泉改革の内容のない「構造改革」そして
「郵政改革」のその後を見れば、貧富の格差
の一層の増大など、まさに反動的改革だ
である。
本書は、大学受験「世界史用」の受験本の
一種ともいえる。
世界史の概観を知りたいのには、本書は
手軽な読みもの。
私は本書を読みながら、辞典を横に置き、
更に詳しい内容を理解している。
夕方、バオミンさんと電話打ち合わせ。
ビザ取得関連の詳細な打ち合わせ。
午後9時、豪雨。
フエの気候も定まらない。
2013年09月06日
日本大使館→ハノイ空港→ダナン空港→フエ
ハノイは、今日も雨。
ハノイ滞在中は、毎日雨。外出が出来なかった。
午前6時起床。
午前8時、ホテルのバイキングの朝食。
日本人が結構来ていた。
午前9時前、ホテルをチェックアウトし、
タクシーで日本大使館へ。私のパスポート
の10年更新を行い、パスポートをもらう。
手数料等2万円。
日本大使館の担当のスタッフの皆さんに感謝。
そのままタクシーでノイバイ飛行場へ。
午前10時着。私の航空券は、午後3時発。
チェックインカウンターへ行く。午後3時発の
飛行機では待ち時間が長いので、2便前の
飛行機に変えてくれる。
午前11時ハノイ発のVN機に搭乗。
午後12時過ぎにダナン空港着。
ダナン→フエ出迎えの車は午後4時を
予定していた。ハノイを出る時バオミンさんに
連絡し、午後12時過ぎに迎えに来てくれるように
頼む。
ダナンに着くが出迎えの電話がないので、
ダナン空港にある喫茶店で「ホットミルク」
を飲む。1時間待つが出迎えの車が来ない。
バオミンさんから電話。「車は来ましたか?」
との問い合わせ。「まだ来ない」という。
既にかなり早くから車は出迎えに来ていたようだ。
私が車はまだ来ていないと喫茶店に入って
しまったので、ダナン空港で待っていたとのこと。
申し訳ないことをした。
車でフエへ。午後4時過ぎフエ到着。
宿舎で昨日の火炎樹日記を補強。いくつかの
受信メールを読み、返信。
午後6時、宿舎を出て日本料理店へ。
税田さんと私の不在中の日本料理店
のことなどを話す。
午後9時閉店。
税田さんを中心に日本料理店の子どもたち
も元気に仕事をしていた。
午後9時過ぎ、日本料理店を出て、徒歩で
宿舎へ。
宿舎へ行く途中の「居酒屋」にリー君と日本語教師
の杖君、ブライセンのホア君が、サッカーの試合か
練習の後、一杯飲んでいる図式。
リー君は、警察のオートバイの警備員の仕事が
終了し、現在無職・無収入。
バオミンさん・税田さんと協議し、1日15万ドン
(750円)を生活費として、毎日私があげることに
した。実際は、税田さんが毎日リー君と会って、
生活上の諸注意をしながら、渡している。
生活費が入らないと、リー君はどこへ飛んで行って
しまうか分からない。20年間の付き合いである。
これも何かの「縁(えにし)」だ。
リー君の自立と真面目な生活を祈っている。
午後9時半、宿舎着。洗濯・部屋の掃除をする。
明日からの日程の整理。
9月8日(日)は、「子どもの家」警備員さんの
お子さんの結婚式参加。
同時にこの日は、オリンピック開催国が決定される。
イスタンブールに決まって欲しい。
寝る前に最後の「投薬」。
静岡県袋井市の「国香」(純米大吟醸)を飲む。
JASS静岡の会の笠井さんから頂く。
この日本酒が好きなのは単純な理由。
お酒を飲んだ後に口にベタベタ「甘さ」が
残らず、さっぱり、すっきりとした、非常に
淡白な酒であるが、飲んでみると「コク」
があるのだ・・・・。
私は個人的には、この「国香」が一番好きだ。
今日は、ハノイからダナン→フエと疲れたが、
国香を飲んで、疲れが取れはしないが、
今日1日を満足して終わることが出来る。
日本酒万歳。
日本万歳。オリンピックは、イスタンブールで。
2013年09月05日
ハノイのホテルで終日読書
雨
午前6時起床。窓外で雨の音。
午前7時、フエへ帰る準備。
勘違いしていたというのか、正確には老人性健忘症で
フエへ帰る日を1日間違っていた。今日、ハノイ大使館へ
行き、パスポートをもらい、ハノイ空港からダナン→フエ
へ帰る日だと思い込んでいた。
午前8時、ホテルのバイキング朝食。
その後、大使館へ行く予定だった。
バオミンさんにある問題で午前8時半頃電話をして
私がフエへ帰る日にちが明日であることが分かった。
今日は朝から雨。
1日ホテルの部屋で本を読みたいと思った。
1日かけて「読むだけですっきりわかる世界史 近代編」
を読了続いて、第4巻の「現代編」を半分読む。
昼食を摂る意欲なし。
バオミンさん・税田さんと電話でいくつかの重要事項を
相談。
夕方も雨。ホテルからタクシーでレストランへ。
食事をして、再度、レストランからホテルへ。
ホテル着。タクシーの運転手は、42万ドン(2100円)という。
どう考えても200円程度。一方「サバを読ん」で請求してくる。
私は警察を呼ぶ、という。ホテルの警備員を呼ぶ。
タクシーのメーターを見せて、確認。警備員が、運転手を
怒る。私は警察を呼ぶよう警備員に言う。
タクシー運転手は、「XIN LOI」「XIN LOI](すみませ)
を繰り返し謝る。こんなことで時間を取るのもバカバカしい
ので4万2千ドン(210円)のタクシー代を支払下車。
ベトナムを知らない人なら、多分、4200円を支払って
板のだと思う。タクシー運転手は、推定ではあるが、何度も
外国人をその手で騙して、10倍のタクシー代をせしめて
いるのだろう。
ベトナムはどこへ行っても「賄賂」「値段のふっかけ」が
蔓延している現状がある。ドイモイ政策の「素晴らしい成果」
ともいえる。この20年間で「金・金・金」の社会に大変貌した
ことだけは、事実である。
2013年09月04日
在越大使館へ
午前7時、起床。
午前8時、ホテルのバイキングで朝食。
手作りヨーグルトがおいしかった。
午前9時、タクシーで在越日本大使館へ。
今日は、バオミンさんたちが2日間日本に滞在する
日本入国ビザ取得に行く。
午前9時半に大使館に着き、ビザ取得の建物に行くと
2つのドアを超えて、玄関入口まで40人程のベトナム人が
ビザ申請で待っている。
私も1時間以上、待たされた。
その間、10数人のベトナム人が、並ばずに前に行き、
10分程でビザ申請を終わらせている現状を目撃した。
こんな不平等はない。ずるいことをした人間が
甘い汁を吸い、真面目に並んだ人が「バカをみる」ような
事はいけない。
直ぐに大使館の日本人スタッフを探す。、改善依頼する。
直ぐに警備員が来て「ずる入り」のベトナムを厳しく注意する。
ずる入りはなくなる。壁をみたら「警備待機場所」との掲示が
ある。本来、ビザ取得申請者の行列を整理する警備員が
一人、そこに常駐ぢていなければ、ならなかったのだ。
「怠慢」「監督不足」の非難を免れることはできない。
私の受付が終わり、書類を審査している間、受付前に
待っていた。椅子があるのだが、満席。私が立って
書類審査が終わるを待っていた。すると男性ベトナム人が
来て、「ベトナム語ですみません。私の席に座ってください。
先ほどのあなたの行動を見ていました。偉いです。
良く言ってくれました。感謝しています」と言って席を譲って
くれた。
私の列の後ろに15人程のベトナム人がいたが、
全員「ずる入りのベトナム人」の行動を苦々しく
思っていたことが分かった。ベトナム人は、こういう場での
「争い」は好きではないようだ。自分の代わりに言ってくれた
日本人に感謝の気持ちがあって、席を譲ったようだ。
午後1時、ホテルへ帰る。疲れた。どこかの食堂へ行く
気力がない。ホテルの隣お店でベトナム風「カップ麺」
を買って食す。
その後、2時間程昼寝。
午後5時、ホテルを出て、知り合いのベトナム人の
経営している「洋風レストラン」へ。
100人を収容する大きな3階建てのレストランの特別室で
オーナーと会食。
午後9時半ホテルへ帰る。
2013年09月03日
直井さん一行とフエ→ダナンへ。私はハノイへ
快晴
午前7時朝食。
午前8時半、D大学の学生さんがしばらくベトナム事務所
で活動する。その学生さんと1時間程、ベトナム・フエ・
ボランティア活動なとについて話し合う。
D大学では、ベトナムなどについてN先生から学んでいる
とのこと。
その後、東京の直井さん(フェリシモを紹介)一行が
帰国するので、一緒にダナンまで車で同行。
バオミンさんの見送り
午前10時フエを車で出発。
約2時間後にダナン空港へ到着。
直井さん一行4人は、ダナン→ ホーチミン市
私はダナン→ハノイ。パスポートの更新。
午後12時過ぎに直井さん一行と別れ、午後12時55分
ダナン発の飛行機でハノイへ。
ハノイ空港からそのまま、市内の日本大使館へ。
10年のパスポート更新の手続きをする。
大使館入口に着く。大使館の門番・警備員が
英語を話せるか?と英語で聞く。 ベトナム語を
話せるかと聞く。ジェスチャーで英語もベトナム語も
話せないと知らせる。
門番の警備員は、「問題日本人」と思ったのか
どうかは知らないが、嫌な顔をする。
私は、何度かハノイの大使館に来て、この種の
行動を取ってる。その理由は以下。
日本の大使館へ日本人が来て、なぜ、英語や
ベトナム語で話すのか?ということが基本的な
疑問なのである。
日本の在外公館は、「治外法権」である。
日本人が「お客さん」。英語やベトナム語を
話す必要がない。
10年近く前からハノイの日本大使館に
「大使館入口の受付で日本語が話せるようにして
欲しい」との要望を何度も出しているが、10年以上
一向に改善されない。
外相設置法でも在外公館(大使館等)は、在留邦人
保護は、大きな任務だ。
大使館に駆け込んでも「英語かベトナムができない」と
現在の在越日本大使館では、日本の問題を訴える
事が出来ない。ハノの在越大使館は、在留邦人保護
という在外公館の最大の任務である日本人保護が
入口からできない「システム」になっている。
こうしたことを改め、大使館入口の受付には、日本語の
できるベトナム人か日本人を配置すべきとの意見を
何度も大使館に言っているいるが無視されている。
今回も同様の事態になった。
仕方がないので、大使館内にいる日本人スタッフを
呼ぶ。
「なぜ、日本大使館に来て、英語やベトナム語で話すのか?」
英語やベトナム語ができない人は、受付で、「排除」されてしまう。
日本国民は日本国憲法に基づき、主権者である。
在外公館のスタッフは「公僕」であり、主権者の国民に
奉仕する義務がある。
これでは、ハノイ日本大使館があっても、パスポートを
落とした農協のおじいさんや団体ツアーでハノイに来た
お年寄りが「迷子」になって大使館に来ても、
受付で「自分の困ったことを英語かベトナム語」で訴えなければ
主権者としての権利が行使できないと訴える。
ホテルに着いたのは、午後9時半。
ホテルで簡単にビールを飲み、軽食を摂る。
寝たのは午後11時。今日は非常に疲れた。
午後6時からハノイの友人のベトナム人と
一緒に夕食をする予定だったが不可能になった。
同時に携帯電話が壊れ、友人やバオミンさんに
電話ができなかった。
マルタカ関係者の皆さんと終日ともにする
快晴
午前6時起床
午前7時朝食。「フォー・ガー(鶏肉米麺)
マルタカ関係の皆さん、バオミンさんと
一緒に「韓国経営の刺繡工場」視察。
素晴らしい虎の刺繡。
マルタカ社長と韓国刺繡工場社長
刺繡用の糸の倉庫
刺繡工場
韓国刺繡についての質疑応答
その後、韓国刺繡工場視察から
「子どもの家」へ。
「子どもの家」セン委員長の挨拶
「子どもの家」視察
「子どもの家」視察を終了し、子どもたちと一緒に
昼食を摂る。
「子どもの家」視察後、ホテルへ帰り暫時休憩。
午後2時過ぎ、ドンバ市場視察。
更にフエ最大のスーパーマーケット
「BIG C」を参観。
空模様が怪しくなった。
午後5時半から日本料理店で、直井さん一行の
夕食会。
グエットさん、ヒエウ君が実に良く働いた。
午後10時、マルタカ・直井さん一行の
夕食会終了。
日本料理店の外には、リー君が待っていた。
2013年09月01日
地球の歩き方4班ミニ運動会:マルタカ社長一行5人来訪
快晴・午後4時豪雨。
午前9時起床。
料理のセンさんが昨日作っておいてくれた
「マカロニスープ」を3分の1程食す。
8月、1ヶ月の活動の総括を行う。
1ヶ月間、休みがなかった。1年で一番忙しい
時期を終えた。
「子どもの家」の子どもたちの大学卒業後
の就職問題、「子どもの家」中途退学のリー君への
対応・今後の対策などを考える。
8月のカレンダーを見ると『何が何だか分からない』
位の書き込みがあった。臨時・緊急に追加日程等が
入った。
============
(以下、ベトナム事務所の税田特派員報告)
午前中、地球の歩き方4班(18人)の皆さんは
ホテルからシクロに乗って「子どもの家」へ。
「子どもの家」で子どもたちと「ミニ運動会」
昼食作り、子どもたちと一緒に昼食を摂った。
ミニ運動会の始まり。
地球の歩き方グループ対「子どもの家」グループ
の対抗綱引き。
「子どもの家」の子どもたちは、この種の競争競技に
なると「何故か燃える」。ベトナム人気質か?
子どもたちと一緒に昼食を作る。
午後11時過ぎ、子どもたちと一緒に作った
昼食を堪能する。
日本の若者と「子どもの家」の子どもたちとどちらが
包丁や調理が上手だっかは、ご想像にお任せする。
昼食を終わり、シクロでホテルへ。
フエはオートバイと車でかなり「排気ガス量」が多い。
フエの多くの女性は、外出時、マスクをしている。
=========================
(蛇足)フエのシクロ事情(小山記)
フエのシクロさんは、いくつかの「親分」の下で
グループを作っている。その親分の更に親分が
いる。
シクロの運転手さんの生活などを調査した
ことがある。日本のガイドブックなどでは、
「シクロは危険だ」と書いてある。さもヤクザか
強盗のような記述もみられる。
しかし、フエのシクロさんの多くは、郊外の
農村から「食べていけない」で都会のフエに
やってきた人たちである。又は、船上生活者
が陸に上がり、仕事がないのでシクロの運転手
をしていると言った事情がある。
シクロさんたちは、一種の「ギルド的同業組合」
的意識が強く、常時連絡を取り合っている。
親分からの連絡は携帯電話で末端のシクロ
さんに直ぐに伝わる。
以前、ツアーで来られた方が、迷子に
なってしまったことがあった。
直ぐにシクロの親分に連絡し「その人の特徴」
を教えると「15分位」で直ぐに居場所が分かり
探すことが出来た。
下手に警察などへ言うよりも、よっぽど
シクロさんたちの「網の目」のような連絡網の
方が正確である。
シクロさんの中には、シクロ(サイクルー自転車)
を自分のお金で買うことが出来ず、親分などから
「借りている」ことが多い。お客さんが「ゼロ」でも
借り代は支払わなければならない。そんな状況に
追い込まれたシクロさんが、「法外な値段を請求する」
事件を巻き起こすことがある。
60歳になってもシクロさんをしている人を良く
見かける。頭が下がる。私など、体力と筋肉が
なく、シクロを動かすことも出来ない。
基本的には、ベトナムのドイモイ政策の中で
方や「ベンツ」に乗った官僚がいて、方や
シクロの運転手さんしか仕事のない人たちの
群れがいる。シクロさんの出身は、労働者と
農民。某政党の党旗も「鎌と金槌」。
労働者・農民の政党であり、その政党一党
が政治を行っている国で「労働者・農民が
貧しい」というのも皮肉なことではある。
===============
午後2時。地球の歩き方の皆さんは
天安山で子どもたちと交流
途中で「一転にわかに掻き曇り、降雨寸前」の空模様
雨が降って来たので地球の歩き方参加の皆さんの
意見を伺い、「子どもの家」での交流に変更。
「子どもの家」では、明日9月2日ベトナムの独立記念日
を祝賀する国旗を「子どもの家」に立てていた。
午後4時半、ダナン空港に「5人の来客」を
出迎えに行っているバオミンさんから電話。
ダナン空港の電光掲示板に「30分遅れる」
との表示がでているので、フエ着は午後8時
位になりそう、とのこと。
午後8時にホテルにチェックインし、その後
レストランで食事.。
5人の会社の社長さん。2人は、中国でも
仕事をしている。
午後11時まで交流は続く。
午後6時半、リー君から電話。
ベトナム事務所付近の居酒屋で飲んでいるとのこと。
余り深酒をしなように話す。その言葉は、そのまま
「自分自身に降りかかってくる言葉」でもあるのだが・・。