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2009年02月28日

地球の歩き方スタディーツアー3班講演会

晴天  午後曇り 少し寒くなる


午前7時朝食。もち米のご飯。硬く冷たいので喉を通らない。
2口食べて「ギブアップ」。朝からの硬いもち米ご飯は
私には無理。


午前8時、ベトナム事務所で地球の歩き方スタディーツアー3班
の皆さんへベトナム事務所員の紹介。

ベトナム事務所の自己紹介の後、ベトナム事務所3階の
刺繍土産門店の視察

専用バスで「子どもの家」へ。
午前9時前「子どもの家」のこどもたちの歓迎。

はじめにセン運営委員長の挨拶。


1997年出版の私の伝記に載っていたターオさん。
当時3歳。今日は、歓迎の踊り。15歳になっていた。
こどもの成長は早い。また、16年間の現地での
活動というものは、こどもたちの成長を見ることが
出来る活動でもある。3年を目処に「現地を自立させた」
と称して移り歩く「渡り鳥」海外ボランティアと私は一線を画して
いる。そう単純に現地の自立などできない。


こどもたちの歓迎の踊り
北海道芸術高校の生徒さんの作った手作りのTシャツ。


地球の歩き方スタディーツアー3班の皆さんの
お返しの出し物


歓迎会終了後、バオミンさんの案内で「子どもの家」の
施設を視察

午後組みの「子どもの家」のこどもたちは「子どもの家」で
勉強。

午前10時、私の講演。

テーマは、「人生は駄目でもともとだからやってみよう」
「人生は人との出会い」

午前11時半、90分の講演会終了。

バオミンさんの案内で昼食会場のレストランへ。

スタディーツアーの参加の皆さんは「カタ焼きそば」。
私は変わったラーメンを注文。


今回の地球の歩き方スタディーツアーの参加者の中に
静岡大学人文学部の学生が2人参加していた。

フエは「ブーゲンビレア」の季節。町中が。ピンクと白の
花で覆われている。

午後12時半「ハイリーホテル」へ帰る。

1時間半ほど昼寝。

読書「東条英機と天皇の時代」

天皇と東条英機のずれは少しずつ表面化する。
1941年12月8日の真珠湾攻撃、東南アジア攻撃の一見
の成功で東条英樹は英雄に祭り上げられ、自分自身も
神格化されることを受け入れる。
各種の客観的資料は日米の資源の対比を絶望的に
報告しているのだが、東条は「皇軍の志気は高い。
寄せ集めのアメリカの軍隊とは志気の高さが違う」とう
主観的な願望で戦争をに突っ走る。

午後5時半、ベトナム事務所へ。夕食。

今日は土曜日。フダ生ビールを飲む。
明日の日曜日、リー君、ハイ君、原田君と午前10時から
朝食に行くことを話し合う。

----

田母神前空幕長は28日名古屋で「自衛隊動かしてでも」
「ぶん殴るぞ」という姿勢を北朝鮮に見せなければ拉致問題は
解決しない。
自衛隊を使っても解決する姿勢を示さないと拉致問題は
解決できない」と講演した。
実に単細胞な頭の人間が、航空幕僚長になったものだ。
私と年齢が同じと知って驚いた。この人はどんな教育を
受けたのか?  アジア太平洋戦争をどう総括すているのか
保阪の「東条英機と天皇時代」(700ページ)を読んで欲しい。
軍事は政治の延長戦上にあるのだ。政治交渉をしっかりと
することが求められている。北朝鮮への経済封鎖をしても
効果はなかった。そろどころではなく、拉致被害者の
意向とは裏腹にブッシュ大統領は、北朝鮮を「テロ国家
指定」から解除してしまった。これが現実の政治である。
日本がどのような政治的な環境を作ろうとしたのか?
G7蔵相会議での中川昭一大臣の酩酊記者会見、
その後のバチカン美術館での美術品の「触りまくり」
不祥事。自ら提出した予算案の衆議院採決に元提案者が
欠席するなどおよそ真っ当な政治が行われていない。
この政治を是正しなければならない。武力で解決するなど
という時代遅れの発想を未だに持っている田母神前空幕長
に憐憫の気持ちしかもてない。

 

投稿者 koyama : 23:32 | コメント (0)

2009年02月27日

通常業務 地球の歩き方3班フエ着

晴天  気温30度

午前7時朝食。春雨麺。


午前8時過ぎから12通の受信メールのチェック。返信。

午前9時。「ハイリーホテル」から川沿いを歩いてベトナム事務所へ。
片道丁度30分。

こどもたちがオオトカゲを取って遊んでいた。私が小学校の頃の
池袋の広場の風景だ。

午前9時半過ぎ、ベトナム事務所到着。暑い中の「散歩」は、
かなり体力を消耗することが分かった。ベトナム事務所に
入り、10分ほどは、言葉が出なかった。

バオミンさんは、ホーチミン空港へ。地球の歩き方3班(18人)
の出迎え。夕方、6時20分にフエ空港到着の予定。
日帰りのホーチミン市行きは大変。

しばらくベトナム事務所で休んで再び、「ハイリーホテル」へ。
午前10時半前に到着。帰りは少しペースが落ちる。

川沿いには朝顔と菊が同居して咲いていた。


ベトナムでは季節感を持つのがなかなか大変だ。

フエに戻って丁度10日間。
2月7日にフエ訪日訪問団(6人)を迎え、東京 →静岡
→京都 →関空と1週間ともに過ごし、東京に戻る。
東京の小学校などでの講演会を終え、2日後には、
再度新幹線で大阪へ。大阪大学関係の講演会を終え、
関空からホーチミン市。そのまま10日間、スタディーツアー
などの対応に追われた。
20日間ほど全く休みなく過ごしている。やはり体力が落ちている
ことは事実だ。休養と程度の運動が必要。

昼食


午後12時半から昼寝。

午後2時から読書「東条英機と天皇の時代」。
日米開戦を目前にし近衛首相が辞任。新たに
東条英樹が首相となる。天皇と側近の要望あり。
東条は自分が天皇から首相を命じられるとは
思ってもいなかった述懐している。
1941年12月8日の日米開戦を前にして、
日本の指導者内での確執。陸軍と参謀本部、海軍。
そして天皇の側近、国民の対米戦争待望の熱狂。

午後4時、メールの送信。

午後5時半、日本料理店へ。夕食。
グエットさんが何も言わないのにフダ生ビールを持ってきてくれた。
私がフダ生ビールを飲まないと生活できないことを熟知している
ようだ。

ほぼ1週間ぶりでこどもたちた夕食。


大塚さんからの差し入れ。宮城の笹かまぼことワサビの粕漬け。


今晩は日本語の先生がお客さんとして来店。

しばらく日本語学校の先生と懇親。


午後9時閉店。リー君の電動バイク運転で「ハイリーホテル」へ
帰宅。

投稿者 koyama : 18:56 | コメント (0)

2009年02月26日

静大留学希望生面談:大学生協夕食会

晴天 快晴  

昨夜飲みすぎ。朝起きられず。

午前7時朝食。

午前8時半、静岡大学留学希望者の訪問を受け、相談に乗る。

JASSベトナム事務所内に「静岡大学フエ事務所」がある。
私たちや税田さん・日本語教師の皆さん、バオミンさんなど
ベトナム人がそれぞれの体験や知識を生かして、フエの
高校生・大学生で静岡大学への留学を希望したり模索している
人たちの相談に乗っている。

午前11時、「ハイリーホテル」へ戻る。
30分ほど横になる。

午前11時半、昼食。

午前12時過ぎ、読書。
「東条英機と天皇の時代」を読む。
東条英機が陸軍大臣となり、専制的な政治体制を
作っていく。陸軍内の批判者を次々と左遷させる。
日独伊防共協定とソ連の4カ国の連合で
英米との戦争を進めようとの「松岡洋介外相」の動き。
陸軍内のソ連との戦いを主戦とするグループと
ソ連はドイツに牽制されているので主敵ではない。
南下政策が必要、シンガポールなど東南アジアへの
侵略が主戦と主張するグループとの抗争。
外務省や海軍などを中心として対米戦争回避グループの
動き。東条は結局、教条主義、理屈と精神論主義者。
陸軍内でまとめた対米戦争における日米の経済・資源等の
比較を見ても、「烏合の衆のアメリカは資源はあっても
皇軍の志気は高く、精神的にはアメリカとの戦争は
五分五分」との判断に傾く。
結果論ではあるが日本は何度か戦争を回避する可能性は
あった。それを実行する「行動力ある人間」がいなかった。
ドイツのクラウゼビッツが言っているが「戦争は政治の延長線上」
ということは、本書を読むと良く分かる。
本来的には、明治憲法下でも軍事は政治に従属するものであった。
天皇の統帥権という「まがい物」の理論が軍事を政治の上において
しまったとも言える。今また、自衛隊の幹部が、政治のコントロール
に従わない事態が起こっている。小さな出来事ではない。
本書を読むと、軍事が政治を制圧し、軍事独裁体制に
移行するまでには時間を要している。小さな出来事の積み重ね
の中で東条の軍事独裁体制は作りあげられていった。

午後1時から昼寝。


午後3時、静岡大学関係者に留学に関するメール送信。

午後5時、ベトナム事務所へ。

ブライセン藤木社長の友人「NPO YSCC」小山次郎様
からサッカーボールが届く。
無事ベトナム事務所まで届いた。感謝。

ハイ君とイン君を呼んで厳重注意。

イン君に恋人が出来た。19歳同士。当然のことでおめでたい。
しかし、日本料理店終了後、デートをしているので
イン君の「ハイリーホテル」帰宅は午前3時とか午前5時となる。
イン君の帰宅時には「ハイリーホテル」の全ての入り口には
鍵がかかっている。イン君はハイ君を脅し、鍵を取ってしまい、
デートで午前様になってもいつでも「ハイリーホテル」に入れる
ように鍵を確保。
警備員のハイ君は鍵を取られてしまい、午後5時半から
日本料理店で夕食を食べに行った後に「ハイリーホテル」に
入れなくなってしまった。ハイ君は仕方がないので、
「ハイリーホテル」の全てのドアの鍵を内側から閉め、
1箇所だけ玄関の隣の窓の入り口の鍵を開けて
日本料理店に夕食を食べに行き、午後6時半ごろ
「ハイリーホテル」に帰った時は、鍵の開いている窓から
「ハイリーホテル」に入っていた。偶然、日本人が
ハイ君の行動を発見。今日二人を呼んで厳重注意となった。
私はハイ君に①警備員は人に鍵を貸してはいけない
②不審者が「ハイリーホテル」の付近に来たら退去させる
③「ハイリーホテル」警備員の勤務時間を守る
以上の3点が出来ない場合は、解雇することを通告。

イン君に対しては、①彼女とのデートは自由な権利。
勤務時間以外にすること ②朝7時の朝食と
夜10時の「ハイリーホテル」の門限は守ること
を話す。それが出来ないのなら日本料理店を解雇する
と話す。
二人とも「今後は気をつける」とは言っていたが・・・・・。

その後、リー君を呼ぶ。

私の日本滞在中に家出をしホーチミン市に行ったことは
大きな問題だ。しかし、フエに戻ってきてからの仕事の
態度は大変立派だ。自分の仕事に責任を持ち、人の仕事
も手伝うという態度は偉いと褒める。これからは給料の
無駄遣いをやめて、少しずつお金を貯めるようにしなさい
と諭す。リー君は「これからは日本料理店やハイリーホテル
からの家出は絶対にしない。日本料理店で頑張って仕事を
して28歳で結婚する」と言っていたい。
信賞必罰。

午後6時半、全国大学生協スタディーツアーの晩餐会。

グエットさんとリー君が今日の献立を発表。

日本全国から参加した16人。半分は成田、半分は関空から
ベトナムへやってきた。

こどもたちの作った家庭料理を堪能。


最後に日本料理店の店員の自己紹介

午後8時半、全国大学生協スタディーツアーは終了。


投稿者 koyama : 18:32 | コメント (0)

2009年02月25日

2人のこどもの退所式:フエ省・フエ市人民委員会との懇談

晴天  気温30度 湿度60%

今日は3つのスタディーツアーがある。

午前7時からほぼ1日「ハイリーホテル」は停電。

午前7時朝食。

午前8時半、ベトナム事務所へ。
大学生協スタディーツアーの参加者の中のお一人の方が
フエの他のNGOを見学したいとの要望があり、フランス、
アメリカのNGOを紹介。ベトナム事務所でベトナムの経済情勢、
こどもたちをめぐる状況を説明。

午前9時、「子どもの家」へ。
今日は、THUYさん(20歳)とTAMさん(19歳)の退所式。
バオミンさん・税田さんのと三人で参加。セン委員長、ロック寮長の
立会いの下で二人の退所式が個別に行われた。

はじめにTHUY(トゥーイ)さん。
THUYさんの両親の所在は不明。「子どもの家」に
入る前に既に両親は行方不明だった。
親戚の家を廻って生活していた。ハノイに住んでいたり
していたが、最終的には、フエに住んでいる叔母さんが
「子どもの家」を紹介。2001年、兄とTHUYさん、妹の3人で
「子どもの家」へ入所。昨年、兄はハノイ叔父さんの工場で
仕事をするために退所している。THUYさんは「子どもの家」で
8年間生活したことになる。長い年月である。
12歳から20歳という人間形成の多感な時期を「子どもの家」で
過ごしたTHUYさんである。中学を卒業した後、ミシンの
研修をしていた。今回、ホーチミン市の南にある「ヴンタオ」にいる
叔父さんの家族と住むことになった。叔父さんの紹介で
ミシン工場で働きながら生活するということである。
今日はフエに住んでいる叔母さんが、退所の保証人となるため
退所式に参加。

現在、「子どもの家」には高校2年生になる妹が生活している。

●セン「子どもの家」委員長より以下の話があった。
  THUYさんは、北部のタインホア省の行政から特別に入所
  させて欲しいとの依頼があった。8年間「子どもの家」で
  生活し、ミシン研修を3年間行い、自立するまでの力を
  付けることが出来た。JASSや日本の支援者への感謝の
  気持ちを忘れないように。「子どもの家」を出ても「子どもの家」
  の先生が教えたkとを忘れないようにしっかりと生活して
  欲しい。


●叔母さんのお礼の言葉
  私たちの姪に愛情を持って長い間育てて頂いた恩を
  私たちも忘れません。特にJASSには感謝している。
  こどもは社会人になった。JASSの皆さん、「子どもの家」の
  先生にご健康をお祈りしたい。

●THUYさんのお礼の言葉
  先生とスタッフの皆さんが私の面倒を見てくれてありがとう
  ございます。「子どもの家」で学校へ行かせてもらい
  ミシンの研修もさせてもらった。寮母さんにもだいぶ
  注意をされたこともある。。寮母さんたちの注意を生かして
  今後自立していきたい。8年間お世話になりました。
  感謝しています。(このあたりで涙で声がとぎれとぎれになる)


叔母さんの退所のサイン

セン委員長の退所承認のサイン
センさんサインの文書はベトナムでは公文書となる。
「子どもの家」はベトナムでは「公的機関」となっている。


ーーーーーーー
続いてTAM(タム)さんの退所式を行う。

タムさんは19歳。1995年に入所している。「子どもの家」の
第1期生。「子どもの家」に5歳で入所。それから15年間という
長い間を「子どもの家」で過ごした。

事情があり、お父さんが分からないまま私生児として生まれる。
母親には生活力と十分は判断力がない面もあり、タムさんを
育てられず「子どもの家」に入所。私も5歳から19歳までの
タムさんの成長を見続けてきた。良く頑張って「子どもの家」で
生活していたと感心する。ひねくれず、「不良」にもならず・・・。
タムさんは中学校を卒業し、その後、ミシンの研修を3年間
行い、自立するまでの力をつけた。
退所後は叔父さんの経営するミシン店に勤めて給料を
もらい、母親と二人で生活する。
母親はフエ郊外の山の麓に一人で住んでいる。
今回、タムさんの退所に伴って郊外から市内の端に引越し、
小さな部屋を借りてタムさんと同居。お母さんは宝くじを
売って生活していた。1日50円から100円程度の収入。




●(小山)
 今後はお母さんと一緒に生活し、お母さんを助けて仲良く暮らして
  欲しい。

●TAMさんのお礼の言葉
 「子どもの家」が出来た時から14年間、お世話になった。
 学校にも行かせてもらい、ミシンの研修もすることができた。
 これからは、母親と一緒に暮らす。私が責任を持って
 母親との生活をしていく。
  叔父さんのやっているフエ市内のミシン店で仕事をする。
 もらった給料で母親の生活の面倒を見る。
  長い間、「子どもの家」の先生やJASSの皆さん、
 里親の栗原幸子さんにお世話になった。本当に感謝いている。
  (この辺で涙声になり言葉が出なくなった)

退所承諾書にサインする際、母親は文字が読めなかったので
タムさんが読み、母親に伝える。

母親のサイン

セン委員長の承認のサイン

16年間という長い間のフエ滞在であったが、こうして5歳から
「子どもの家」に入所した第1期生が卒業していくことは
嬉しいことではるが、同時に寂しくも思える。「子どもの家」に
行くといつも会える顔が見えなくなるのだから・・・・。
「子どもの家」の宿命である。「子どもの家」の自立を目指し
社会に出て仕事をして生きてくこどもたちの育成を目指してる
からには、どうしても避けられない「別れ」ではあるが、一抹の
寂寥感に襲われる。

午前11時半、昼食。

午後12時半から昼寝。疲れが出て熟睡。
午後2時、英語の電話。フエ駅前の「LA RESIDENCE」ホテル
のマネージャーから。先日、日本料理店に来た方である。
今日の午後2時半にベトナム事務所に来て話し合いをした
とのこと。

急いでベトナム事務所へ。
フランスの経営である「LA RESIDENCE HOTEL」の
食事関連の総合マネージャー来訪。
私、大塚さん(オアシスの会代表:日本料理店支援)
バオミンさん、税田さんで対応。

来訪の趣旨は、「LA RESIDENCE HOTEL」のメニューに
日本料理を入れたい、ついては、家庭料理「子どもの家」
でホテルの料理人に日本料理を教えて欲しいとのこと。
大塚さん、バオミンさん、税田さんと相談し、了解した。
3月の1ヶ月間、毎週2日、1回3時間を目処に
大塚さんが教えることになった。
その代わりにJASS観光と、「LA RESIDENCE HOTEL」
との提携などの話をした。JASSベトナム事務所が
連れて行ったお客さんに対しては、レストランなどでの
特別サービスをお願いした。
早速、3月から、「LA RESIDENCE HOTEL」シェフへの
研修が開始される。
こうしたホテルは世界的に事業を展開しているホテルなので
日本料理についても「いい加減」なものではなく、きちんと
した日本料理を出したいとの気持ちと責任感が強い。
さすがは、世界展開のホテルであり、フランス人の
料理担当のマネージャーである。
ろくすっぽ日本料理も出来ないで、あたかもJASSの
運営している日本料理店であり、貧しいこどもたちを
助けているなどと嘘を言ってお客を騙し、ニセモノ
日本料理店を経営しているベトナム人もいるが、
このフランス人の料理マネージャーを見習うべきである。
日本料理店と称するのなら、嘘の日本料理を欧米系の
お客に出し騙してお金儲けをするという姑息なやり方は
辞めるべきである。嘘はいけない。きちんと日本料理を
勉強して日本料理店を出すべきである。
こんな嘘の日本料理店を見ていると、、「LA RESIDENCE 
HOTEL」のお客に対する責任感と真摯な態度に敬服する。
もっともこれが当たり前なのだが、ベトナムでは、看板だけ
日本料理店と書いてはあるが、内容は怪しいお店が多い。


その後、バオミンさん、税田さんといくつかの重要な問題に
ついて打ち合わせ。

午後6時半、フエ市人民委員会の車でティエンアン山麓に
ある別荘風のレストランでフエ省副知事、フエ市長、
フエ市外務部長などと懇談。2月7日から13日まで
フエ訪日代表団として訪日した皆さんの招待で
訪日のお礼の晩餐会である。フエ省共産党委員長の
マン氏も参加予定だったが、急に用事が入り欠席。

豚肉をレストランの庭に咲いている野菜で巻き、ライスペーパー
に包み、マムトム(えびを発酵させたもの)をつけて食べる。
本当に美味しいのひとことに尽きる。


フエ省副知事とフエ市長

続いて「スッポン鍋」。
これが唐辛子と香菜・香辛料がはいり何とも美味しい。
一番美味しいところはスッポンの足だという。1キロ
3000円。1匹2キロ位のスッポン鍋である。

スッポンの生き血を焼酎で割って飲む。
私は5杯飲んだ。

約2時間ほどの懇談会の中で、今回のフエ訪日団は
大塚合子さんが代表するボランティア団体である
「オアシスの会」の仲介があったこと、「オアシスの会」
は長年、フエの船上生活者へ医療支援を行っていた
実績があることなどを報告する、フエ省・フエ市の
中心となる人々に「オアシスの会」の実績を活動を
知ってもらう。
更に今後、フエ省人民委員会、フエ市人民委員会と
JASSは兄弟の関係になり、一層結びつきを強めることを
確認した。
日越の文化・経済交流・人的交流を一層促進すること、
JASSに何か問題が起こり困ったことがあった場合には
フエ省・フエ市が一体となり、JASSを支援救援することを
再度確認。

午後8時半頃散開。

午後9時過ぎ、日本料理店着。丁度、閉店作業中。
今日は13人の来客あり。

私はビールとスッポンの生き血焼酎、レストラン特性の
薬用酒を多量に飲み、足がふらつく。
リー君に電動バイクを運転してもらい「ハイリーホテル」へ
たどり着く。
午後10時前。その足で5階の部屋へ。
部屋を閉めておいたので「猛暑」状態。
アルコールで体が熱くなっていることも手伝って、
暑い。しばらくタイルの床で横になる。
セルフタイマーで写真を撮っているうちに「熟睡」して
しまう。気がつくと2時間ほど時間がたっていた。

投稿者 koyama : 08:29 | コメント (0)

2009年02月24日

全国大学生協スタディーツアー講演会:地球の歩き方ツアー晩餐会

晴天  気温30度  真夏

午前7時朝食。赤米のおかゆ



午前8時半、ベトナム事務所で「全国大学生協スタディーツアー」
の皆さんにベトナム事務所員を紹介。
バオミンさん・税田さん・ソン君は他のスタディーツアーの案内。
昨日は4つのスタディーツアー、今日は3つのスタディーツアーへの
対応。

午前9時過ぎ、大学生協スタディーツアーの皆さんと「子どもの家」へ。
「子どもの家」の子どもたちは、北海道芸術高校の生徒さんが作った
Tシャツを喜んで着ていた。


初めに私の講演会

続いて「子どもの家」の子どもたちの歓迎会。

「子どもの家」の歓迎の踊り。


最後に全国大学生協スタディーツアーの参加者から寄金を
頂く。感謝。



午前11時半、「子どもの家」を出てフエ市内のレストランへ。
大学生協の皆さんと昼食を摂る。



午後1時半「ハイリーホテル」へ戻る。
急いでベッドに横になる。
熟睡中に日本から電話。

午後いくつの問題で日本の関係者とメールで
意見交換。

午後6時ベトナム事務所。
午後6時半、地球の歩き方スタディーツアーの
皆さんの最後の晩さん会を日本料理店で行う。

最初にバオミンJASSベトナム運営委員長の挨拶。





私の乾杯の音頭で晩さん会は始まる



地球の歩き方スタディーツアーの学生さんと色々と話し合う。
多くの学生さんは優秀であり問題意識を思った人たちであった。




午後9時半、地球の歩き方晩餐会は終了。


午後9時半、地球の歩き方の皆さんを見送り、日本料理店の
清掃。

午後10時、私、原田先生、リー、ハイー、インの5人で
「ハイリーホテル」前の「ヤギ肉屋」で一杯飲む。


ヤギ肉鍋。


私は午後11時に「ハイリーホテル」へ帰る。
原田先生、リー、ハイ、インは午前0時まで
交流。

投稿者 koyama : 18:53 | コメント (0)

2009年02月23日

北海道芸術高校ホーチミン市へ:WING晩餐会

終日晴天  気温32度  湿度 70%

午前5時起床。
読書「東条英機と天皇の時代」

午前7時、朝食。精進ブン麺。80%ほど残す。
食欲なし。


午前7時半北海道芸術高校の皆さんはホーチミン市へ。
フエではハノイの観光会社のような無責任な対応はしない。
全員が無事ホーチミン市へ着けるよう万全の体制で臨む。

私とソン君は皆さんの荷物だけを運ぶ車に乗る。
税田さんは北海道芸術高校の皆さんの投宿しているホテルへ
皆さんを迎えに行く。

午前8時、荷物の車と北海道芸術高校の皆さんは無事
フエ空港へ。ソン君がチェックイン手続きを行う。

簡単にチェックイン手続きが終わる。北海道芸術高校の皆さんと
お別れ。それぞれの生徒さんがフエでの経験や出会いの中で
何かを学んでもらえれば幸いである。4人の生徒さんは
本当に真面目で個性豊かな将来の成長が楽しみな生徒さん
たちであった。皆さんの無事帰国と健康を祈る。

北海道芸術高校の皆さんを空港で見送り、ベトナム事務所へ。
午前9時過ぎ、新任の日本語教師原田先生の誕生祝いを
行う。

フーン日本語部主任から誕生祝のケーキを贈呈する

ベトナム事務所全員の誕生祝の寄せ書きを贈る

原田先生は赴任して20日間ほどしかたっていない。
フエでの生活が健康であること願う。

原田先生のケーキカットでケーキを食べながらしばらく歓談。


今朝は「ハイリーホテル」から荷物を運ぶ車でフエ空港へ行き、
そのままベトナム事務所へ。電動バイクがないので徒歩で
「ハイリーホテル」へ。気温30数度。猛暑の中を30分歩き
「ハイリーホテル」へ戻り、昼食。

読書「東条英機と天皇の時代」。
傀儡政府満州国政府をでっち上げ、更に中国全体へ戦火を
拡大する。東条英機は関東軍参謀長となり、近衛内閣の
「戦争不拡大」声明を無視して、東条英機は関東軍を
満州国から中国全土への侵略へと進める最高責任者の
役割を果たし、中将へと昇進。
当時の陸軍、関東軍の中では、傀儡満州国の経済建設
と国土の充実をはかり、対ソ連戦争に備えるべきだと
主張するグループ(石原莞爾など)とソ連は満州に攻めて
来ることはないので、関東軍は南下し、満州に隣接した
地域の緩衝地帯を作るべきだとして、中国全土に戦火を
拡大すべきと主張するグループがあり、東条は後者。
東条の「果断な作戦」で戦火は満州内から中国全土へ
広がって行った。東条の戦争責任は大である。

午後1時から1時間ほど昼寝。熟睡。昼寝後も体がだるく
眠い。

2月18日にフエに戻ったが、ハノイの観光会社の事件、
ナムドン行きなどスタディーツアーへの対応、
部屋のカビ退治のため都合7回ほどの洗濯など忙しい
毎日を送っていた。部屋の掃除が出来ていない。
1時間ほどかけて掃除機で床のごみを取り、モップで
床を拭く。多少部屋がきれいになったような気もする。

某日本の観光会社に長文の「意見書」を書き送信。
JASS観光に対する偏見と事実を知らない上に
立った「礼儀を欠いた」メールを送ってきたことに
対する厳重抗議の内容。送ってきた方は、
良心的な方である。

午後5時半、ベトナム事務所へ。ベトナム事務所で
原田先生・石上先生に「フエでのJASSのおかれている
位置」「JASS15年の歩み」などについて話す。

午後6時半、「WING」の皆さんの晩餐会。
ベトナム事務所1階の日本料理店で行われる。

はじめにWINGの代表の方から開会の挨拶。
JASS茨城の会である火炎樹の会代表の
森島氏の結婚を祝う言葉。



WING代表より新婚の森島代表にお祝いの「純粋はちみつ」と
花がプレゼントされる。

続いてWING代表よりJASSへ大金の寄金贈呈あり。
WINGの皆さんに感謝。

茨城県の純米大吟醸酒を頂く。

同時に2月23日の誕生日の方が二人いらっしゃる。
誕生祝の花束贈呈。私と新婚森島さんと4人で記念写真

フダ生ビールで乾杯。
大塚さんは明日フエへ帰国の予定。こどもたちだけで
日本料理店を準備する。
こどもたちの作った日本料理に舌鼓(したつづみ)を打つ。

午後9時半、晩餐会終了。WINGの皆さんから日本料理店の
こどもたち全員にプレゼント。タオル・・・・・。

最後に全員で記念撮影
WINGの皆さん、そして火炎樹の会のお二人の
健康と幸せを祈る。

午後10時、自転車を売ってしまい徒歩で「ハイリーホテル」まで
帰宅しているリー君を電動バイクの後ろに乗せて
「ハイリーホテル」へ帰る。長い一日だった。

投稿者 koyama : 07:26 | コメント (0)

2009年02月22日

WINGスタディーツアー「ナムドン山岳地帯」へ:北海道芸術高校市内見学

晴天

午前5時半起床。
読書「東条英機と天皇の時代」(保阪正康著:筑摩書房)
陸軍内部の派閥抗争。皇道派と統制派。東条は統制派の
永田鉄山の後輩として統制派の中心になる。

午前6時、最後の洗濯。

午前7時朝食。昨夜かったほか弁を冷蔵庫に入れておいた。
部屋に置いたのでは腐ってしまうので・・・。
ほか弁のご飯は固くなっていた。良く噛んでほか弁朝食を
終わる。

北海道芸術高校の皆さんはフエ市内観光。王宮、ティエンムー寺
ドンバ市場、午後は自由行動。


洗濯を屋上に干す。
午前9時半、ベトナム事務所へ。
茨城県のNGO「WING」の皆さんとナムドン山岳地帯へ。
バオミンさん、リー君と一緒。フエ市内から1時間半。
ナムドンの中心街に着く。
午前11時半、昼食。


午後1時20分、ナムドン郡「トゥオンロー村」へ到着。
支援物資を持って交流会場へ。



気温30度を越している。暑い中、火炎樹の会代表の森島さんは
「ひたちなか市バドミントンサークル2」からの支援物資を
持って交流会場へ入場


トゥオンロー村の村長さんから「WING」の代表の
地元名産の純粋蜂蜜のプレゼント。

ラーメンなどの支援物資を贈呈


カトゥー族のこどもたちの歓迎の踊り


●「ナムドン専門家」を自称するリー君。確かに
  ナムドンに来ると生き生きとしている。
  参加者の様子を見ててきぱきと仕事をしていた。
  バオミンさんの忠実な部下の役割をしっかりと
  果たしていた。リー君の潜在的な能力を評価したい。
  但し家出や浪費をしないという条件付だが。


●カトゥー族の皆さん



●WINGの出し物  「幸せなら手を叩こう」


●カトゥー族の皆さんとWINGの皆さんでカトゥー族伝統の
  民族の踊り。


●こどもたちと折り紙を楽しむ

●「ひたちなか市バドミントンサークル2」からの
  支援物資の贈呈を森島氏が行う。

●最後はカトゥー族の宴会
  手作りの米焼酎を飲む


午後3時40分。カトゥー族の皆さんと別れる

●自生のバナナの木の下で


●午後5時半、ナムドンからベトナム事務所へ。
 3階の刺繍みやげ物店で買い物。
 数万円の支援の刺繍の買い物。感謝。

午後6時30分、刺繍の支援買い物を終え、WINGの皆さんは
バオミンさんとリー君と夕食へ。

毎日新聞の2月21日・22日の世論調査によれば
麻生内閣の支持率は11%とのこと。史上3番目に
低い支持率だそうだ。
今日青森県で講演会をして「日教組をつぶす」と演説した
そうだ。時代錯誤も甚だしい。
1994年、社会党の村山首相を担ぎ出しての「自社連立」
の際、日教組と文部大臣は「和解」している。同時に
日教組内の階級的な部分である「全教」系の組合(日教組の
約3分の1)が日教組を抜けて、全教を結成している。
自社連立で日教組と文部省が和解し、左派の全教が
日教組から脱退し、新しい「階級的ナショナルセンター」
を結成している。こうした歴史的事実を少しでも知っていれば、
今頃、「日教組撲滅」などと叫んでいる麻生首相がかわいそう
になる。既に日教組は牙を抜かれ「撲滅されて」いるのである。
無知とは恐ろしいものである。1960年代、70年代の
話を今でも頭に残っている「時代遅れの首相」は即時退陣
し、総選挙をし、民意を問うべきである。
上記の日教組に関する件は、1980年代以降の日本の
労働戦線の再編の具体的事実を知っている学者、関係者
知識人の常識である。無知と時代錯誤首相ではある。

投稿者 koyama : 22:46 | コメント (0)

2009年02月21日

北海道芸術高校「車いす贈呈」「ナムドン山岳地帯訪問」、地球の歩き方スタディーツアー「子どもの家」訪問、WING職業訓練センターへ

終日快晴。気温28度。湿度80%。

朝から第4回目の洗濯。部屋にある全ての衣類にカビ発生、
異臭がする。

午前6時起床。ルーティーンの血圧・体重測定。
午前7時、朝食。
セルフタイマー10秒に間に合わず。足腰の弱さを再確認。
イン君は昨夜帰宅せず。外泊。理由は不明なれど
最近「レコちゃん」ができたとのうわさ。


午前7時40分ベトナム事務所へ。

午前8時半、ベトナム事務所に北海道芸術高校の皆さんが
来る。同時に昨年、病気で右足を切断した女子中学生と
家族がやってくる。

北海道芸術高校の生徒さんは、札幌にあるNPO[飛んでけ
車いす」から3台の車いすを託され、ベトナムに運搬してきてくれた。
昨年の右足切断の手術で行動の自由がなくなった女子中学生。
家族が昨年、ベトナム事務所に「家庭が貧しいので車いすが
買えない。何とか協力してほしい」との申し入れがあった。
女子中学生の叔父さんは以前のベトナム事務所の近くで
シクロの運転手をしていて知り合いになった人である。
北海道芸術高校の生徒さんから女子中学生に車いすが
贈呈された。



その足で北海道芸術高校の皆さんは、フエ郊外の
農村に住んでいる生活困難なお年寄りの女性に車いすを
贈呈。脳梗塞で両足の機能が低下し、歩けない。
今日は、田舎から親戚の住んでいるフエ駅付近に
車いす贈呈を受けるために来ていた。



車椅子を贈呈したおばあさんに歌をプレゼント

午前10時、バオミンさんとリー君の引率でナムドン山岳地帯へ。

午後1時、ナムドン山岳地帯の「トゥオン・トー村」に到着。
村長さんなど村民の歓迎を受ける。



北海道芸術高校の生徒さんの手作りのTシャツの贈呈



カトゥー族のこどもたちの歓迎の踊り

カトゥー族のおばあさんの民族楽器の演奏



北海道芸術高校側のお返しの歌とギターの演奏
「涙そうそう」「バードランドの子守歌」


カトゥー族の民族の踊りを一緒に踊り交流。



カトゥー族の歓迎の食事を一緒に楽しむ。
特にナムドンの「専門家」と自称しているリー君は生き生きと
食事交流の先頭に立って交流を盛り上げていた。


最後に記念写真の撮影



昨夜フエに到着した地球の歩き方スタディーツアー
第1班(18人+添乗員)は、ベトナム事務所へ。
ベトナム事務所員の紹介をする。

バオミンさんは北海道芸術高校、税田さんは「WING」ツアー。



ハンさんからフエ滞在中の諸注意を聞く。
その後、3階の刺繍土産物店見学。

私とハンさんが添乗して地球の歩き方(19人)の皆さんと
一緒に「子どもの家」へ。

「子どもの家」のこどもたちと交流。


セン「子どもの家」運営委員長の歓迎のあいさつ


こどもたちの歓迎の踊り


●「少年先鋒隊は軍隊だ」を踊る



地球の歩き方の参加者(18人)の出し物
ピアノ演奏付きの「幸せなら手をたたこう」。
なかなか元気のある明るい歌と踊りだった。


最後にこどもたちと一緒にもう一度、幸せなら・・・・を歌い
踊る。


その後、ハンさんの案内で施設を見学する。

午後学校へ行くこどもたちは、部屋で自習。良く勉強を
するこどもたちである。右側に写っているAさんは
昨年の9月フエ省のトップ高校である「グエンフエ高校」
に入学した。姉のPさんは、フエ医科大学で勉強している。

ハンさんが30分ほど施設案内をしていた。その間、こどもたち
の部屋で横になっていたら、熟睡してしまった。
ロック寮長に「先生、講演会ですよ」と起こされ目覚める。

午前10時から1時間20分、講演会を行う。
ストリートチルドレンやボランティアの話を通して
「人間が生きるということ」について自説を話す。

午前11時半過ぎ、市内のレストランで地球の歩き方の
皆さんと昼食。



一方、ナムドン山岳地帯で交流を終わった北海道芸術高校
の皆さん。午後6時半、日本料理店で交流晩餐会。

ドンバ市場で作ったアオザイを着て来店。




グエットさんとリー君で今日のメニューを紹介する



大人は「フダ生ビール」、生徒さんは「生ジュース」で乾杯。

日本料理店を食べながら交流。(ハンバーグ)


日本料理店会食の最後に日本料理店店員の自己紹介


午後8時半過ぎ終了。
北海道芸術高校の生徒さんは元気でフエでの生活を
エンジョイしとぃるように思えた。

「ハイリーホテル」へ」帰る途中で「ほか弁」を買う。
明日は日曜日。朝から「WING」の皆さんと
ナムドン山岳地帯に行く予定。明日の朝食の
ほか弁を買っておく。

日本滞在、フエ要人の接待・東京・静岡・京都への
引率、小学校、大阪大講演会、その足で関空から
フエへと忙しい日々を過ごしてきた。
正直、相当・本当に疲れた。「子どもの家」での
講演会前に若干時間に横になっていたら寝てしまった。

足と手、背中にジンマシンが」出てきた。
自分の体と体力に若干自信がなくなってきた感がある。

投稿者 koyama : 19:30 | コメント (0)

2009年02月20日

北海道芸術高校フエ到着

終日曇り。時々小雨


午前5時半、ハノイにいる北海道芸術高校の先生から電話。
いくつかの打ち合わせをする。

午前7時半、「ハイリーホテル」を出てバオミンさんと一緒に
フエ空港へ。昨夜、ハノイの観光会社の重大な過失で
大きなトラブルに巻き込まれた北海道芸術高校の一行
6人が、午前8時15分、フエ空港へ無事到着。



フエ空港から朝食の「フォー」屋さんへ。牛肉と鶏肉の
フォーを食べる。

続いて午前10時、「フエ平和村」へ行き、障害児のリハビリの
様子を見学・交流する。


午前10時半、「子どもの家」へ。こどもたちと文化交流会。


初めにセン「子どもの家」運営委員長の挨拶

続いてこどもたちの歓迎の踊り



続いて北海道芸術高校のピアノとギターの伴奏つきの歌。



初めに「涙そうそう」。沖縄の方言で歌った。

10年近く日本からの訪問者の歌や出し物を見ているが、
今日の歌は、正直「感動」した。私には、歌がうまいかどうかは
分からないが、生徒さんの歌は、私の心の「琴線」に触れるものだった。
生徒さんの気持ち、思いが素直に歌に表れたせいなのだろうか?
彼女の歌を聞いていて、この生徒さんの人生の苦しみと悲しみ、
喜びと言った、「人生」を感じた。人の心に訴える歌を久しぶりに
聞いた思いである。彼女は素晴らしい歌手になると確信した。

こどもたちからの「アンコール」に答えて沖縄の「花」をうたった。
彼女の歌は、既存の歌い手の物マネではない、彼女自身の
人生と思いを歌っているので、人の心を打つのだということに
気づいた。

北海道芸術高校から手作りのTシャツやあめなどの贈呈


手作りのTシャツと一緒に記念写真


午前11半。こどもたちと一緒に昼食。






「子どもの家」での交流会を終えて、北海道芸術高校の皆さんは
ホテルへ。

午後1時半、「ハイリーホテル」へ戻り、1時間ほど昼寝。

午後4時半、北海道芸術高校の先生と昨日のハノイでの
トラブルの実相を教えてもらう。



JASSとハノイの旅行会社との契約では、昨日、ガイドは
朝から夜ハノイ空港までの案内が義務づかれて、
ホテルから専用車で空港までいくことになっていた。

ところが、ハノイのガイドは、午前中と午後の観光を
午前中にまとめて行ってしまい、昼食後、
「午後とハノイ空港までは、自分たちでタクシーを使って行って
欲しい」と言ったそうだ。
午後6時45分発の飛行機なので午後4時半にタクシーを
呼ぶようにすると言って、ガイドは帰ってしまった。

午後4時半になってもタクシーが来ない。仕方がないので
北海道芸術高校の先生がフロントに言ってタクシーを呼んで
もらう。結局、ホテルを出たのは5時過ぎ。タクシーを飛ばして
ハノイ空港へ行く。午後6時23分に空港着。所が、出発カウンターが
何階にあるのかわからず探しているうちに午後6時半になる。
チェックインカウンターに行ったが、出発20分前になっているので
乗せらえれないと搭乗を拒否される。
しかたなく、ハノイの観光会社に電話をする。
ハノイの観光会社は、「自分でホテルを取りなさい、明日の朝の
切符も自分で新しく買うように」とのことだった。

仕方がないのでハノイのホテルを探しているうちに午後10時になる。
その時点でやっと私と連絡がつく。

こうした経過をたどった問題である。
問題の本質は、ハノイの観光会社とガイドが、仕事を放棄し
金儲けだけに走ったというところにある。

今日、北海道芸術高校の先生から直接いきさつを伺ったので
ハノイの観光会社に謝罪と賠償請求をする方針。


午後9時、地球の歩き方スタディーツアー(19人)を
フエ空港へ出迎えに行っていたバオミンさんとリー君が
日本料理店に戻ってくる。午後9時閉店。
バオミンさん、リー君、日本語教師の皆さんと「軽く飲む」。


帰宅、午後10時前。

投稿者 koyama : 00:12 | コメント (0)

2009年02月19日

打ち合せ・懇談、北海道芸術高校研修ツアー

終日晴天。


午前6時起床。部屋中、カビの異臭。

午前7時朝食。リー君、ハイ君は元気に朝食を


昨夜から何回かに分けて洗たく。洗濯機の調子が悪く乾燥しない。


今日は晴天。乾燥機を使わず、屋上に干す。



掛け布団も洗濯機で洗い、屋上に干す。


午前9時、ベトナム事務所へ。
昨年、「子どもの家」から自立したミシン縫製店に勤めている
ヒエウさんが来ている。今後のことについて話し合う。


その後、ハンさんを交えて、日本から持ち帰った里親寄金、
寄付金、刺繍等の代金をバオミンさん・税田さんも交えて
ハンさんに渡す。



午前11時半、昼食。



午後1時から1時間ほど昼寝


午後3時、福岡から青年がベトナム事務所へ来る。
4月から東京の大学で勉強するとのこと。
ACCLの渡辺さんの紹介。1時間ほど話し合う。
なかなか意識の高い若者である。将来が楽しみ。

午後4時半から午後7時までバオミンさん・税田さんとベトナム事務所
運営、今後の方針などについて深く話し合う。



午後7時半、北海道芸術高校ベトナム研修ツアーの
皆さんを出迎えにフエ空港へ行く。

午後7時55分着。欧米系の旅行者がいっぱいだった。
しかし、北海道芸術高校の皆さんは現れなかった。
何か事故か問題が起こったこと察知した私とバオミンさんは
直ぐに業務を委託しているハノイの旅行会社に連絡。

旅行会社の説明では、北海道芸術高校の皆さんが
昼食後、「あとは自分たちでするからガイドさんは帰って良い」
と言ったとのこと。「自分たちはタクシーで夕方、ハノイの
飛行場に行くから」と。しかし、ハノイ飛行場への到着が
遅れ、飛行機に乗り遅れてしまった、との説明。

私とバオミンさんはハノイの観光会社の説明を聞いて
「これは怪しい」と直感した。

JASS観光とハノイの観光会社との契約は、今日1日、
ハノイの観光会社の日本語ガイドが付き、夕方ハノイの
飛行場まで送り、チェックイン手続きを終えて見送りを
するというもの。同時に専用の車も用意する約束だった。

北海道芸術高校の先生方が、ガイドにお昼で帰って良い
と言う訳がないと察知した。
午後8時過ぎの時点でハノイの観光会社は飛行機に
乗り遅れた日本人は、現在ハノイの観光会社が
とったホテルにいると私たちに説明した。

私たちは、ハノイの観光会社に何度も騙された苦い経験が
あるので、ハノイの観光会社を信用していない。

札幌の北海道芸術高校と連絡。すると、午後10時の
時点で皆さんは、まだハノイ空港にいることが分かった。
急いで引率の先生に電話。観光会社からは、
「明朝8時の飛行機の予約を自分でしろ、ホテルも自分で
見つけ」ろと電話で言われたが、ホテルが分からず、いまだに
ハノイ空港内にいるということが分かった。
急いで、ハノイのホテルを予約。タクシーでホテルに行くよう
引率の先生に連絡。そのころになって昼で姿を消したベトナム人
ガイドが空港に現れる。ガイドは夜までのガイド料と空港までの
車代を着服している悪事が露見したことに気づいた。
観光会社からガイドに連絡が入り、「日本人がハノイ空港で
立ち往生している、お前は何をしているのだ・・」との指摘を
受け、自らの悪事が露見したことを知ったのである。

午後11時前、日本人の皆さんは無事ハノイ市内のホテルに
入り、就寝。

北海道芸術高校の一連の問題を見ていると、腐りきった
ベトナム社会の現実を見る思いがする。
責任のひとかけらも持たないベトナム人ガイドと責任感の
ない観光会社は、「金権主義」に侵された金の亡者の
典型。ずるをしてもお金さえ手に入れば良いとする
ベトナム拝金主義社会のサンプルと言える人間群である。
フエにもこの種の人間はいる。お金のためなら恩も義理も
かなぐり捨ててしまうひとたちである。

何とか、ベトナム事務所の対応で北海道芸術高校の
皆さんは、無事ホテルに戻り、休息。

明日、午前8時15分の飛行機でフエ着。私とバオミンさんが
出迎え。北海道芸術高校の皆さんには心からのお詫びをしたい。

この問題は、この研修ツアーが終わった後で、ハノイの観光会社、
ガイドとの激烈な闘争をするつもりである。絶対に許せない。
金権主義・拝金主義との闘い。今まで多くの外国人がこの
拝金主義ガイドとと会社に騙され、文句も言えずに帰国している
と予想される。私たちがハノイの観光会社とガイドと闘うのは
「私憤」ではない。今後騙されるであろう多くの外国人のために
である。

投稿者 koyama : 01:30 | コメント (0)

2009年02月18日

フエへ帰国

関空  寒い

午前7時半、関空付近のホテルの2j階にあるコンビニで
おにぎり一つを買い、心臓の薬を飲む。

午前8時半、ホテルから関空までのシャトルバスに乗る。
15分程で関空へ。東京から宅急便で送ってあった
スーツケースなどを受け取る。チェックイン。

午前11時、関空発。

午後2時半(ベトナム時間:日本時間午後4時半)
ホーチミン市の「タンソンニャット空港」着。気温32度。

国際線の空港からこ国内線へ。2時間ほど国内線で
待機。

午後5時、ホーチミン発フエ行きのVN機に搭乗。
午後6時15分フエ(フーバイ空港)着。気温23度。

飛行場に10数年前から付き合っている運転手の
トアンさんが待っている。30分ほどかけて「ハイリーホテル」へ。
「ハイリーホテル」の5階の自室に入る。部屋中が「カビ」の異臭
にまみれている。全ての衣類にカビが発生。臭いにおいを
発している。
日本から持ってきたスーツケース、布団乾燥機(静岡のTさん
寄贈)を部屋に置き、トアンさんの車で日本料理店へ。

日本料理店では、リー君が待っていた。5ヵ月ぶりの「対面」。



リー君の人生は本当に「紆余曲折」のある子だ。色々なことが
あって、最終的に帰る場所はJASSなのである。

ホーチミン市での3ヵ月の生活を聞く。

日本料理店では税田さん、石上さん、中島さん、
そして新しく赴任した原田さんと軽くフダビールを
飲んで近況などを聞く。皆さん、元気そうにしているので
ひと安心。

午後9時、写真や映像専門家の方が訪ねて来る。
「子どもの家」に関心があるとのこと。
色々な話をする。



フエ駅近くのフランス経営のホテル「ラ・レジデンス」の責任者が
がやってくる。日本料理をホテルで出したいので教えてほしい
とのこと。大塚さんが帰国したあと来るように話す。

午後9時半、日本料理店閉店。

「ハイリーホテル」へ戻る。
その後、ハイ君も呼んで、リー君、原田君と「ヤギ肉屋」で
軽く一杯のむ。



午後11時、「ハイリーホテル」へもどる。
部屋中がカビの異臭。若干の衣類を洗濯する。

就寝午前0時半。


「日本共産党研究(3)」(立花隆著:講談社)読了。


引き続き「東條英機と天皇の時代」(保阪正康著:筑摩書房)
を読み始める。

日本共産党の研究は戦前の日本の革命運動とそれを
弾圧する権力者との闘い。
その時代、東條英機が首相・陸相・参謀総長を兼任していた。
最近、東條英機やアジア・太平洋戦争を見直すとの
口実で、日本の侵略戦争を肯定し、東條英機英雄論まで
出て来ているようだ。改めて東條英機の生い立ちを追跡し、
何故、日本に軍国主義・侵略主義がはびこったのかを
検証することに意義があると思い、本書を読みだす。
700ページの大著である。

投稿者 koyama : 01:34 | コメント (0)

2009年02月17日

大阪大学アイセック「COLORS 2009」講演会 

晴天  寒い


杉花粉症の症状がひどい。昨夜から鼻がつまり
目が真っ赤になる。

大阪は「あられ」が降る。

午前6時起床。今日の大阪大学アイセック主催講演会の
話の準備。ビデオの準備をする。

10通のメール受信。必要な返事を出す。

午前9時、自宅を出て東京駅へ。
のぞみ 新大阪駅へ。改札口で大阪大のHさんが
待っていてくれる。

新大阪からJICA大阪まで案内してもらう。

アイセックの学習合宿は今日と明日の2日間、JICA大阪
で宿泊で行われる。

午後3時から午後5時半まで講演会と質疑応答を
行う。

大阪大学、滋賀大学、摂南大学、龍谷大、関西学院大、京都大、
大阪商業大、立命館大、などから30人弱の学生さんが参加。

私の方で1時間半ほどビデオを使い話をする。
その後、学生さんからの質問。なかなかポイントをついた質問が
多く出た。意識の高い学生さんとみた。

午後6時頃、JICA大阪を出て「JR茨木駅」へ。
茨木駅から新大阪へ。新大阪から関空へ。午後8時過ぎ
関空着。
関空からホテルまでのシャトルバスは1時間待つことになり
タクシーでホテルへ。

午後9時、ホテルへ到着。
ホテルからスーツなどを自宅へ宅急便で送る。

新幹線の中で読書。
「日本共産党研究(3)」立花隆著:講談社)
大泉・小畑スパイ査問事件の場面。
結果的に小畑が死亡。査問をした家の縁の下に
埋める。かなりひどい暴力と脅迫をしたことだけは
事実。それは、特高警察の小林多喜二などへの
拷問の反撃でもあり、当時の日本共産党の
最高指導者大泉が特高警察のスパイだったり、
共産党内に多くの警察のスパイが潜入していたと
いう事情もある。しかし、宮本顕治や袴田里見などの行った
大泉、小畑などへの査問暴力が相当凄惨なものだった
ようだ。焼けや炭火を足に押し付けたり・・・・・・と。
当時(1930年代)の時代背景を理解しないと当時の状況は
分からない。

投稿者 koyama : 21:46 | コメント (0)

2009年02月16日

新党日本副代表有田芳生さんと会う:練馬区立大泉東小講演会

朝曇り、途中で晴天。

朝からくしゃみの連発。杉花粉症がひどくなる。鼻水が
止まらない。

昨夜、間違って眼鏡を踏んでしまい、留め金が壊れてしまった。

午前8時半、西台駅から新宿都庁前の病院に薬をもらいに行く。
西台駅前で「新党日本」の有田芳生(ありたよしふ)さんが
街頭演説をしていた。「毎日、ブログをみていますよ。
選挙、頑張ってください」と激励の声をかける。
有田さんは新党日本(田中康夫代表)から板橋区を選挙区に
衆議院選挙に立候補する瀬踏み中である。
有田氏の当選を祈る。
新党日本の政策。
①無駄な公共事業をやめよ
②消費税率アップをやめて大企業から税金を
③年金問題の解決
④選挙に行こう

新党日本 連絡先  03-5213-0333  

「有田芳生さんと一緒に日本を変えよう」

その足で新宿都庁前へ。心臓病院へ。
明後日からフエへ戻る。フエ滞在中の心臓の薬をもらう。

新宿の眼鏡屋さんで壊れた眼鏡を直してもらう。

新宿から東西線で早稲田へ。次男の会社へ。若干の
立ち話でいくつかの打ち合わせをする。

午後1時、西武西武池袋線で大泉学園下車。
午後1時50分から練馬区立大泉東小で講演会。
6年生4クラス。135人。
大泉東小には、私の最後の職場だった小学校で
同僚だったI先生と私の受け持ったクラスを引き継いでくれた
先生がいる。




午後3時半、大泉東小から帰宅。

明日は大阪大学の講演会。大阪大学での講演会を
終えて、関空からフエに帰る。

夜、明日持っていくいくつかの品物の準備。

「日本共産党研究(2)」(立花隆著:講談社)読了。
1983年執筆。既に25年が経過しているが
ソ連の崩壊を経て、本書が指摘しているいくつかの
命題が正しかったことも証明されている。

転向論が面白い。吉本隆明の「転向者も非転向者も
転向という概念に包摂される。それは、大衆・民衆と
遊離し、現実を知らないインテリの空想という意味で」
との指摘にはかんがえさせられるものあり。

投稿者 koyama : 19:18 | コメント (0)

2009年02月15日

次男家族と会食:新しいHPを作る

晴天

杉花粉症の症状が相当程度発症。

午前10時半、宅急便業者が荷物を取りに来る。
関空まで帰国のスーツケース、布団乾燥機を送る。
スーツケースはかなりの量。

午前11時、次男家族と会食。

午後4時、教え子の手島守君の自宅を訪問。
「小山個人HP]作成を行う。

私が手島君を教えたのは彼が小4(10歳)の時である。
あれから20年。今では、「手島先生」からITを教えて
もらっているのである。感謝。

体中にジンマシン。

投稿者 koyama : 21:23 | コメント (0)

2009年02月14日

フエ帰国準備

晴天  5月の気候 暑い位

明後日、大阪大学の講演会。その足で関空から
フエ帰国。

フエ帰国の荷物を関空に送らなくてはならない。
明朝、宅急便が荷物を取りに来る。
この間、忙しくてフエ帰国の荷物整理が全くできていない。
支援者から依頼された里子へのお土産などを整理する。


今日は終日、フエでこれから5ヵ月程滞在するのに必要な
物資を整理し何とか荷物をまとめる。

杉の花粉症の症状が出る。

読書「日本共産党の研究(2)」(立花隆著:講談社)
第2巻を熟読する。「反共文書」と簡単にレッテルを張ることは
出来ない。

投稿者 koyama : 20:20 | コメント (0)

2009年02月13日

フエ訪日団関空から帰国:京都の支援者と懇談

関空付近  昨夜雨。

午前6時起床。昨日の火炎樹日記の清書。
入浴。

荷物の整理。バオミンさんに伝える最後の内容などをまとめる。

2月7日に訪日したフエ訪日団(6人)は、今日午前11時の
飛行機でホーチミン市へ帰国する。

午前8時15分、ホテルフロントに集合。
昨日はKさんに「痛風」の症状が発生。1日ホテルで待機。
今朝は6人、全員が元気にロビーに集合。

この1週間、6人の訪日団は大きな外交活動を行った。
2月8日には「JASS日本」主催の「子どもの家」創立15周年記念
現地報告会に参加し、フエでのJASSの大きな役割を報告して
くれる。
2月9日には静岡大学を訪問し、学長や幹部スタッフの皆さんと
交流。静岡大学興学長へ「フエ名誉市民賞」を贈呈した。
この内容は翌日の静岡新聞でも報道された。
小嶋善吉静岡市長とも懇談。両市はJASSの仲介で
「友好都市」になっている。両市長は一層絆を深めた。
夜は静岡大学主催の歓迎晩さん会。小島静岡市長も
特別参加。両市と静大も含めて友好交流を一層進める
ことを話し合う。
2月10日は、富士山視察。夜はJASS静岡の会主催の
晩餐会。

2月11日は、「京滋YOUの会」の案内で金閣寺などの
視察。夜は、「京滋YOUの会」主催の晩餐会。

2月12日は、京都市長と友好都市提携の話し合い。
かなりハードな日程であった。高級役人の大名旅行視察
と違い、本当に内容のある日本訪問であった。

●関空近くのホテル前にて。フエ訪日団の皆さん

ホテルのシャトルバスに乗り10分で関空。

午前9時過ぎ関空のベトナム航空チェックインカウンターで
手続き。


全員「VIP]と「PRIORITY」のタグが貼られる。
カウンターの係の人に「どうしてVIP」などのタグが付くの?
と聞く。ベトナム航空の規定で知事など「公用パスポート」
所持者は「VIP」とし最優先するとのこと。今回の6人の
訪日団のうち4人は、公用パスポートの所持者。
日本への入国の際、ビザはいらない。外交官特権を所持。

午前9時半、関空の出国カウンターで6人の一人一人と
お別れの挨拶。マンフエ省共産党委員長・副知事・市長
などの皆さんは、「今後、フエでJASSをいじめるような
ことがあったら、厳しく取り締まる」との話をしていた。

2月7日の朝4時に起きて成田へ出迎えをした。それから
1週間、ほぼ24時間、フエ訪日団と行動を共にする。
様々な感想を持った。それぞれ真面目な方々である。
これからJASSがフエで活動し、「子どもの家」やこどもたちを
助ける活動・自立への取り組みを進める場合には全面的に
協力するとの力強い話があった。
昨年は2回にわたり、私の火炎樹日記を取り上げ、
「反政府主義者」「反社会主義者」との密告を警察に行い、
告訴した私の身近にいた人間がいる。今後、そうした心ない
人々が、JASSや私に「理由なき」告訴や攻撃をした場合、
その人自身が警察に逮捕・捜索されることをこの火炎樹日記で
明らかにし警告しておきたい。

●マンフエ省共産党委員長(ベトナム共産党中央委員)

●ヴィンフエ市長


●カオフ・エ省副知事

●ニエン・フエ市国際交流センター所長

●ホン・フエ省立会社社長


訪日団と別れる。


関空でおにぎりを一つ買い、食べ、心臓の薬を飲む。

関空からはるかで京都へ。午前11時半頃京都着。

午後12時過ぎ、10数年前から「子どもの家」を支援してくれている
元国際ソロプチミスト京都ー西山のKさんとIさんと懇談。


京料理を御馳走になる。
お二人は、「子どもの家」C棟を寄贈された時のソロプチミスト京都
ー西山の役員の方々だった。それから10数年。個人的にも
様々な支援をしてくれている。人間の出会いとお付き合いの
大事さを改めて感じた。

午後3時半、京都から新幹線で帰京。

自宅着午後6時。

直ぐに湯に入いり、1週間の疲れをとるが取れない。
ホッピーを飲む。

メールチェック。15通。

自宅に着いた時には体が疲れで固まっていた。

投稿者 koyama : 20:03 | コメント (0)

2009年02月12日

京都市長と懇談

京都 晴天


午前8時半、ホテルをチェックアウトし、フエ代表団は
「二条城」へ。

二条城では、1867年に第15代将軍徳川慶喜が
大政奉還を行った場所である。
今回のフエ訪日団は、静岡市では徳川慶喜の
住まいでしょくじをした。浮月楼。
今日は慶喜が大政奉還を行った二条城を視察。
うぐいす張りの廊下を歩く。

1603年、徳川家康の居城とし建築。




抱く

二条城で抹茶をいただく。

午前11時半、京都市役所へ。京都市長と懇談。

●京都市長のあいさつ



●ビンフエ市長のあいさつ


今回のフエ市と京都しの懇談の仲介をしてくれた「オアシスの会」
の大塚さんの挨拶


今後、両市で可能な交流を模索することを確認。



両市長懇談後、大塚さんたちと中華料理で昼食。

午後1時過ぎ「京滋YOUの会」の藤井事務局長、
三津川さんが日団を市内案内。
私は「痛風」が出た副知事とホテルのロビーで
待機。

午後3時半、京都駅へ。あすかで関空へ。
京都駅には「京滋YOUの会」代表の
中村さんが見送りに来てくれる。感謝。

午後五時半、関空着。40分ほど関空で待機し、
関空付近のホテルへ。

午後7時半、焼肉屋へ。

投稿者 koyama : 21:23 | コメント (0)

2009年02月11日

「京滋YOUの会」主催歓迎会

晴天 夕方雨。

午前静岡のホテルで朝食。
午前9時半、ホテルの車で静岡駅へ。
静岡の会の笠井さん夫妻が見送りに来てくれる。感謝。



私も入れて7人で静岡から新幹線に乗り京都へ。
午前12時前、京都着。

「京滋YOUの会」の中村代表、藤井事務局長の皆さんを
始め、「京滋YOUの会」の皆さんの出迎えを受ける。


京都駅付近のホテルへ投宿。ホテル内のレストランで
「京滋YOUの会」の皆さんと昼食。



午後2時から「京滋YOUの会」の皆さんの案内で「金閣寺」を
参観。




午後5時半から「京滋YOUの会」主催の交流晩餐会。
昔は角倉了以の家であり、明治になり山県有朋の
居宅だった料亭である。

「京滋YOUの会」藤井事務局長の司会で交流会は始まる。


続いて中村代表の挨拶


●国際ソロプチミスト京都ー西山の皆さんも駆けつけてくれる。
  京都ー西山は「子どもの家」C棟1階の建築費を寄贈して
  くれた。また、里子奨学金も継続して支援してくれている。
  長いおつきあいです。10数年。感謝。



マン共産党委員長の挨拶



ヴィンフエ市長より中村代表へ記念品の贈呈



小山の一言挨拶



カオ副知事挨拶



ニエン国際交流センター所長挨拶



午後8時、交流会終了。

フエ訪日団の皆さんは「京滋YOUの会」の歓迎が心がこもっている
と関心していた。

★ブログに写真をアップする機能が故障。写真が載せられなく
  なってしまう。

投稿者 koyama : 20:55 | コメント (0)

2009年02月10日

富士山観光:JASS静岡の会歓迎交流会

晴天

午前7時、ホテルで朝食。昨夜から体中にジンマシンが発生。
体中かゆくてしかたがない。


午前9時、JASS静岡の会副代表の滝下さんの車で富士山へ。

富士山2合目に到着。雪を「視察」「満喫」する。残念ながら
富士山は、雲がかかり全体像は見えなかった。


JASSベトナム運営委員長のバオミンさんは、マン共産党委員長、
ニエン外務部長と「ツーカー」の仲になっている。

富士山2合目の雪をバックに

キャンプ富士を視察。
1960年代、キャンプ富士から米軍がベトナムに派遣された。
キャンプ富士にあった戦車の型番号や駐在している軍隊の
所属などを調査し、ベトナム解放戦線に知らせる活動を
していたことを知らせる。


午後1時、富士山の裾野にある「裾野市」のバイキングへ。



午後4時半、静岡市内のホテルへ。暫時休息。

午後6時半、JASS静岡の皆さんと交流会



牧田代表の歓迎のあいさつ



ビンフエ市長からJASS静岡へ記念品の贈呈。笠井事務局長が
受け取る



滝下副代表の娘さんが夫と来臨。
娘さんは中学3年生の時に静岡の会のスタディーツアーで
「子どもの家」に来ている。その際、小島静岡市長から
フエ市長への手紙を帯同してフエへ。
フエ市と静岡市との交流は、滝下さんの娘さんが
中学時代に来たフエスタディーツアーがその切っ掛けに
なっている。



午後9時、交流会は終了。



今日は、終日体調が悪かった。疲れもでたのか、ジンマシンが
体中にでている。


投稿者 koyama : 21:24 | コメント (0)

2009年02月09日

静岡大学訪問:静岡市長訪問

晴天

午前6時起床。
昨日の「子どもの家」創立15周年記念現地報告会を
火炎樹日記に書く。

午前8時、自宅を出て、日暮里へ。フエ訪日団の投宿している
ホテルへ。今日は東京駅から静岡へ行く。
ホテルフロント9時半集合。いざ、出発となったら2人が
急に宅急便で荷物を在日ベトナム人に贈りたいと言い出す。
仕方がないので近くのコンビニに行き、発送。20分ほどかかる。

かなり遅れて日暮里から東京へ。新幹線で静岡駅へ。
静岡駅では静岡大学課長の滝下さんが出迎え。
静大のマイクロバスで大学へ。
大学では興学長以下、工学部長、教育学部長、人文学部長
理事の皆さんと懇談。



フエ市側から興学長へ「フエ市名誉市民賞」の贈呈。


午後1時半から静岡市役所訪問。
小嶋善吉静岡市長と懇談。



フエ市から静岡市へ記念品贈呈





静岡市役所からホテルへ行き、静岡大学主催の晩さん会へ。

晩餐会には小嶋静岡市長も参加。

会場は第15代将軍「徳川慶喜」の居宅跡。さすが将軍の居宅。
素晴らしいもの。「浮月楼」。



マンフエ省共産党委員長の挨拶






午後8時過ぎ、静大主催の晩さん会は終了。
ホテルへ戻る。ホテルの従業員の中に昨年「子どもの家」へ
来た静大の学生さんがいた。人間の縁とは不思議なものである。


今日は、頭の中が疲労で固まってしまった。日記を書こうと
思ってもなかなか書けない。

夜、背中と首のジンマシンが出る。

投稿者 koyama : 20:53 | コメント (0)

2009年02月08日

「子どもの家」創立15周年記念現地報告会

晴天


午前8時半自宅を出て、新宿東口アルタ前で静岡の会の
滝下正敏さんと合流、その足で紀伊国屋書店へ行く。
静岡大学フエ事務所に置く留学生用の書籍・DVDなど
40冊ほど買う。午前11時半まで。
二人で北区王子にある「北区教育会館」へ。


午後1時半、「子どもの家創立15周年記念・現地報告会が
開かれる。


司会の二人


JASS日本代表委員会委員長福田もえ子さんの開会挨拶

フエ省・フエ市代表団を代表してマンフエ省共産党委員長の
挨拶。「JASSはフエ省・フエ市に大きな貢献をしている。
今後、JASSと協力して様々な問題を解決していきたい」。



ビンフエ市長のあいさつ。
「JASSの15年間の活動に感謝している。これからも協力して
行きたい」。


フエ市からJASSへ記念品の贈呈


カオフエ省副知事の紹介

ニエンフエ市国際交流センター所長の紹介


続いて、バオミンさんから「2008年の活動の総括・会計報告」
「2009年活動の進め方・会計予算」の報告があった。

私の方から、JASS15年の到達点を報告する。


初代JASS代表の岩辺泰吏さんからJASS活動初期のことの
思い出などが披露される。

更に2代目代表上田耕治さんよりJASS活動「中期」の頃の
思い出話を披露してもらう。




オアシスの会、大塚さんの挨拶


各地の会の活動報告



茨城・火炎樹の会


JASS東京の会

JASS静岡の会



「京滋YOUの会」の報告



最後にJASS日本代表委員会の役員を選出。
福田もえ子さんが委員長、山西司郎さんが副委員長に就任。




岩辺さんと小山


小山一族

左から小山、 従兄、姉、次男



初代JASS事務局長の大西さん・会計部長の船埼さん夫妻と
二人のお子さん


10年近く前、ベトナム事務所に手伝いに来てくれた斉藤夫妻


江平さん夫妻


報告会終了後、王子駅前で「歓迎交流会」。


JASSからフエからの訪問団へ記念品贈呈



津軽三味線の山本竹勇さんとフエ訪日団


マン共産党委員長・ビン市長と


ベトナム事務所でかつて活動した皆さん



歓迎交流会の席上、JASS日本代表委員長に就任した
福田もえ子さんが来週結婚することが発表された。
バオミンさんからお祝いの花束贈呈



午後8時過ぎに閉会。

その後、上田さん、大西さん、金刺さんと「町屋」で飲む。

自宅着。午前0時。

投稿者 koyama : 07:16 | コメント (0)

2009年02月07日

マンフエ省共産党委員長など訪日:全教千葉女性部講演会

晴天

午前4時起床。午前5時自宅を出て、巣鴨経由日暮里。
午前6時半のスカイライナーで成田空港へ。

午前7時過ぎにフエ訪日団成田へ到着。
午前8時半過ぎ、空港2階の出口出てくる。

福田勝夫氏、JASS日本代表委員長福田もえ子さん、
原かおりさんの3人が既に歓迎の準備をしていた。



今回の訪日は、以下の人たちである。JASSの招待で訪日。

①マン氏(ベトナム共産党中央委員・フエ省共産党委員長)
②カオ氏(フエ省知事)-元フエ市長
③ビン氏(フエ市長)
④ニエン氏(フエ市国際交流センター所長ーフエ市外務部長職)
⑤バオミン氏(JASSベトナム運営委員長)
⑥ホア氏(フエ省立総合商社社長ー自費参加)




●マン・フエ省共産党委員長とバオミンさん・小山。
  今後、しっかりt協力していくことを話し合う。


●マン共産党委員長・カオ・フエ省知事とバオミンさん・小山
 フエ省とJASSとの協力を一層強めることを確認



●ビン・フエ視市長、ニエン・フエ市国際センター所長と
 バオミンさん・小山。
  引き続き、フエ市とJASSとの友好・交流・協力関係を
  維持することを確認。


私は、全教千葉女性部講演会があるので、福田委員長、
原さんが都内のホテルへ案内。その後、都内視察へ。

午前11時50分頃、京成船橋駅で全教女性部代表の
方と合流。講演会場へ。

午後1時、船橋市民センターで講演会。
全教千葉女性部「早春のつどい」。
全教千葉女性部は今年で創立20周年。
今日はそのお祝いも兼ねている。

全教千葉女性部長の開会のあいさつ


10年間続けてフエ・「子どもの家」訪問スタディーツアーの
歴史を松原先生が報告




60人ほどの参加者。
最初に「津軽三味線」の山本竹勇さんの演奏
何度聞いても心の奥底に眠っている人間の悲しみや
激しさなどが刺激される演奏である。


山本竹勇さんの演奏後、竹勇さんから支援金の贈呈。
栃木県のジャムジャムで3回演奏会を行い、
「子どもの家」への支援を呼びかけ集まった支援金を
頂く。


その後、2時半から4時前まで「ベトナムから見た
日本の教育」をテーマに話をする。
要点は、「こどもたちをトータルな生きた人間として
見よう」に尽きる。


午後5時前、近くの居酒屋で反省会。


自宅着、午後10時近く。

長い1日であった。全教千葉女性部の皆さん、
山本竹勇さん、マン共産党委員長などとの
お付き合いは、楽しいものでもあった。
今後、更に協力しながらこどもたちのために頑張って
行く決意を改めて深めた。JASSや「子どもの家」を攻撃
しようとする一部の人々とは断固闘う決意も新たにする。

投稿者 koyama : 06:27 | コメント (0)

2009年02月06日

フエ訪日団受け入れ準備

晴天

午前7時起床。

フエ訪日団受け入れ準備。
静岡大とベトナム事務所との「現地事務所契約書」
印刷。その他数種類の契約書を印刷する。
合計30枚ほど。

ベトナム事務所などへメール送信。
今日、JASSベトナム運営委員長のバオミンさんなど
フエ要人がフエを出てホーチミン市へ。7日午前0時05分
ホーチミン発のVN機で成田へ。


ガス湯沸かし器の交換。既に30年近く使っている
ガス湯沸かし器。ガスの点火の調子が悪いので
先日業者を呼んで見てもらう。鉛のくだを使っている
湯沸かし器は30年ほど前のもの。鉛が少しずつ溶けて
湯沸かし器に入り、詰まってしまうそうだ。
また、水圧が低いので点火が悪くなる。「この機械は
古すぎるので水圧を高くする部品が既になくなている」
とのこと。

今日、新しいガス湯沸かし器を買う。ついでにガス台に
ある二つのガスバーナーの掃除をしてもらう。
ガスは危ないのでしっかりとチェックすることが必要。

午前10時半、突然来客のチャイムがなる。玄関に
出ると「みずほ銀行蓮根支店長」など2人の人が
玄関前に立っている。私は、「すでに頭取に手紙を
出している、頭取の返事をもらうという順番。
支店長との話し合いの時期は既に終わっている」
と返事をし、お引き取りを願う。
支店長は「問題が起こったら、全部支店が解決することに
なっている」という。「支店では解決できなくなったから
仕方なく頭取に手紙を書いているのだから、その辺の
ことはしっかりと理解してほしい」「人の家に突然訪ねて
来るのは失礼ですよ。事前に電話で相手の事情を
聞いてから来るものですよ」と注意をする。
みずほ銀行蓮根支店は、徹底した「自己中心的」な
支店ではある。相手がどう思い、どんな事情があるのか
すら「推察できない」。
支店長に「みずほ銀行との交渉は全てブログで公開して
いますから」という。「見ています」とのこと。


明日の全教千葉講演会の準備。
明後日、「子どもの家」創立15周年記念現地報告会の
報告内容の準備。

読書「日本共産党の研究(1)」(立花隆著)第1巻の3分の2
を読み切る。なかなか興味のある内容である。
戦前の共産党の幹部は全員ピストルを持っていたことが
明らかになっている。本人たちは特高警察と命をかけた
闘いをしているという意識である。
逮捕されたほとんどの共産党員は自白しているということも
官憲の資料から明らかになっている。これは当時の共産党
がほとんど知的エリート集団からできていたことに関係する。
労働者あがりの共産党は極少数だった。
同時に日本共産党の設立、1928年の3・15弾圧、
29年の4・16弾圧で共産党組織はほとんど壊滅した。
戦前の日本共産党語るためには、コミンテルン(第3インター
ナショナル)とソ連共産党内のトロッキーとスターリンとの
抗争、その後のスターリンの独裁体制の確立という
世界共産党内の政治的な動きと力関係を知らなければ
ならない。それにしてもコミンテルンから当時の日本支部
へ送られたお金は大変な高額なものであった。今では
億単位のお金を一部の共産党幹部が持っていた。
かなり豪勢な遊興に使っている。

東京医科歯科大から電話。フエ滞在中、フエ市長と会いたい
とのこと。

明日は、朝5時半に自宅を出て成田へ(午前7時半ミンさんたち着)
その後、午後12時に船橋で全教の方と落ち合い、講演会。

早めに寝ることにする。

投稿者 koyama : 10:29 | コメント (0)

2009年02月05日

ブレラ花田さんと懇談 新任日本語教師原田さん着任

晴天

午前中、メール受信・送信。
静岡大と電話連絡。
ベトナム事務所のバオミンさん・税田さんと電話で連絡。
2月9日、静岡大学と覚書を結ぶ。その内容を
静岡大学と詰める。バオミンさんと電話で詳細な打ち合わせ。

午前10時半に自宅を出て水道橋経由浅草橋へ。
「アクセサリー研修センター」を応援してくれている株式会社
「ブレラ」の社長花田さんが駅まで迎えに来てくれる。
駅から徒歩5分。ブレラ本社へ。本社の隣は隅田川。
隅田川の向こう側は墨田区。少し行くと浅草の駒形へ。
かっぱ橋商店街も近く。
ブレラ本社でフエに作った「アクセサリー研修センター」
の一層の拡充について協議。3月には更に2名の
指導員が現地に来てくれて「アクセサリー研修センター」
の指導をしてくれることになった。
午後1時過ぎ、近くのうなぎ屋で鰻を御馳走になる。
目の前で生きたウナギを捌いてくれる。一度茹でて
油を落としたうなぎは、香りと柔らかさがあり美味しい。

午後4時半、自宅着。

明後日の朝7時半頃成田に来る「フエ訪日団」の
出迎えの準備をする。

今日は、ベトナム事務所に新任の日本語教師である
原田先生が初出勤。ベトナム事務所員と対面。
(写真中央のハンサム男性)



健康に気をつけてこれからの1年間を過ごしてもらいた。
原田先生の奮闘を祈る。

投稿者 koyama : 18:21 | コメント (0)

読書録

読書録

投稿者 koyama : 15:56 | コメント (0)

2009年02月04日

内田さんたちと懇談 みずほ銀行頭取に謝罪要求の手紙を出す

曇り

午前中、みずほ銀行蓮根支店長から電話。私の家へ謝罪に
行きたいとのこと。断る。本社に電話。

ベトナム事務所とメールでいくつかの連絡。

午後、みずほ銀行頭取に手紙を書き郵送。

午後4時半、自宅を出て新宿へ。小田急の13階で内田さん、
高橋さん、景山さん、柳沢さんと会食懇談。
「子どもの家」のこと、里子のこと、今後のベトナム事務所の
発展方向などについて意見交換。ふぐのひれ酒を御馳走になる。
2杯。美味しい。

午後11時過ぎに帰宅。

一昨日から「みずほ銀行蓮根支店」との間の問題で
みずほ銀行の頭取に手紙をだす。

この問題は、顧客が自分の預金を下ろしにいったら、嘘や難癖を
つけて、預金を下ろさせなかったという問題である。

以下、みずほ銀行 杉山清次頭取に出した私の手紙の全文である。
(一部、語句修正)

2月5日の午前中には頭取に手紙が届くはずである。
みずほ銀行はどういう態度をとるのだろうか?
全く無視するのか? 何らかの対応をするのか?
みずほ銀行の反応は、この火炎樹日記で逐一、全てを
公表する予定である。みすほ銀行は日本で最大の銀行の
一つである。そうした銀行の一支店での不祥事。
たった一人の顧客からの訴えをみずほ銀行はどう捉え
どう対応するのかは、みずほ銀行の体質と能力そのものを
示すものでもある。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


株式会社みずほ銀行
取締役頭取 杉山 清次様


前略にて失礼致します。私は貴行蓮根支店に普通口座をもっております顧客の小山道夫と申します。この手紙の趣旨は貴行蓮根支店の窓口の店員、お客様サービス課長Y氏、支店長K氏の銀行員としてあるまじき行為によって、精神的な苦痛と「無駄な時間」を浪費せざるを得なかった事実を報告し、貴職から誠意ある謝罪と二度とこのような「不祥事」が起こらないよう行内で対策を立てて頂き、顧客が再び嫌な思いや被害を受けないよう社内教育を徹底して頂けるようお願いすることです。

(1) 具体的事実

①2009年2月2日午前11時半~1時半までの出来事

・2009年2月2日午前11時半、私は、東京都板橋区にあります貴行蓮根支店へ預金を下ろしに行きました。行内入口に「払い戻し申請書」がありました。「太線の中をお書き下さい」とありました。氏名、支店番号、口座番号などを記入し、順番を待つ番号をもらい、待合室で待っていました。番号を呼ばれたので窓口へ行きました。20歳代の女性でした。私は銀行入口で書いた「払い戻し請求書」と運転免許証と待ち番号を出しました。運転免許証を出したのは、最近「振り込め詐欺」などが流行っているようなので、言われる前に身分を証明するものを出した方が、銀行に対して親切だと思い出したのです。ところが、窓口の女性は「払い戻し請求書」の余白に「住所と電話番号」を書いてくださいというのです。私は一瞬「あれ」と思いました。
運転免許証には、住所だけではなく、顔写真と本籍まで書いてあるのです。今さら、住所と電話を書いて「身分を調査」しなくても、運転免許証と払い戻し請求書(登録の印鑑捺印済み)があれば十分だと思いました。
実は、その15分前に都営西台駅前にある三井住友銀行でも同様に払い戻しをしました。その際は、コンピュータの端末のような小さな機械に「暗証番号を入力してください」と言われ、暗証番号を入力しただけで、払い戻しができました。運転免許証などの提示も必要ありませんでした。みずほ銀行はシステムが違うのかとも思いながらも、疑義を感じていました。私は窓口の女性に「指定されたように太文字の中に必要事項をかいた。登録していた印鑑も押した、その上、運転免許証も提示している。なぜ、その上に余白に住所と電話番号をかかなければならないのですか?」と質問しました。
「15分間待合室で待っている間に免許証を出した人などいなかったですよ、私は、免許証を出してもまだ、不審な人物なのですか? 信用できないのですか?」と聞きました。 窓口の女性は「銀行の決まりです」というのです。私は「銀行の決まりなら、どうして入口とか、申請書を書く際に「その旨」を掲示しておかないのですか?」 「人物証明のために運転免許証か健康保険証などを提示させて頂くことがあります」という掲示はあったが、「余白に住所と電話番号を書くように」などということは掲示してないですよ。」窓口の女性は「銀行の決まりです」という。決まりなら、どうして「払い戻し請求書に余白など作らずに、住所・電話番号記入欄を作らないのか?と聞きました。窓口の女性は、「今までそうした申請書だったのだが、今、丁度切らしている。臨時に余白のある申請書を使っている」と答えました。私は指示されたように「払い戻し申請書」を書き、その上に自主的に運転免許証を提示しているのに、なぜ、その上に住所と電話までかかされるのか?疑問に思いました。私が相当信用ならぬ「怪しい人物」と受付の女性がみたのでしょう。しかし、銀行は社会的な業務です。顧客には事前に払い戻しのための手続きについて「公正」「公平」に明らかにしておかなければなりません。人によって恣意的な扱いをするのは、明らかに「差別」であり、「人権侵害」です。私は納得できないので窓口の女性に「上司を呼んで欲しい」とお願いしました。しばらく待つと上司のお客様サービス課長の「Y氏」が出てきました。私は一連の出来事を説明し、指示されたように「請求書」を書き、運転免許証を提示しているのになぜ、住所と電話を更に書かなければならないのか? 住所は運転免許書に既に書かれている。その上、本籍まで書いてあると言いました。私に何か不信があるのですか? 普通預金で少額のお金を出す人皆に同様のこと(申請書記入、運転免許証提示、住所電話)をするのですか? と聞きました。Y課長は、「これは銀行の決まりです」の一点張りで、私の質問に何も答えてくれません。仕方がないので、支店長を呼んで欲しいとお願いしました。しばらくするとK支店長が出てきました。行内の狭い一室で、Y課長に話したことと同様の話をしました。K支店長は「それは銀行の決まりです」との答えでした。
窓口の女性が「住所・電話番号も記入する「払い戻し請求書があるのだが、現在、それが切れているので余白に書いてもらっている、と言っているが、それは本当なのですか?」と質問。K支店長は、「そうです。事実です」と答える。私は、「それではサンプル位はあるでしょから見せてください」という。K支店長は「あります」と言って出て行く。しばらくすると「申し訳ありません。そうした用紙はそもそもありません」。私は驚愕するする。支店長ともあろう人が、そもそもお店にない用紙をあたかもあったようにいうことに驚いた。私は「K支店長、あなたは私に嘘を言ったのですね。また、窓口の女性もそもそもない用紙をあたかもあるように言ったのは、嘘ですね」と確認しました。K支店長は「その通りです。嘘でした」と謝罪しました。
私は、なぜ、私だけ必要な事項を記入した申請書を書き、その上に自主的に運転免許証まで提示してもまだ、住所と電話をかけと言われるのですか? 他の人にはしていませんよ。と支店長に聞く。支店長はそれは人によって違います。そうしたことをすることもあります、と答える。私は「なぜ、私には、運転免許証提示の上に更に住所・電話番号を書くようにいうのですか?その理由を教えてほしいと聞きましたが、支店長は、「銀行の決まり」というばかりでした。
仕方がないので、本社の「苦情受付係」に電話をする。「E」さんという方が出られる。事情を説明。問題解決は支店の責任という。
とうとう埒が明かないまま、私は夕方友人と北千住で会う約束をしていたので帰宅する。結局、お金を下ろせないまま。
私は、みずほ銀行蓮根支店に行く15分ほど前に三井住友銀行で同じように「払い戻し」を行っていました。三井住友銀行では、コンピュータの端末に「暗証番号」を入力し「本人確認」していたが、みずほ銀行はそうしたことはしないのか? と不思議に思ったが、結局、みずほ銀行蓮根支店では2時間かけて、話し合いましたが「払い戻し請求書(登録印捺印)、運転免許証、更に余白に住所・電話」をかかなければ払い戻しができませんでした。
私にしてみれば、自分で預金したお金です。貴行から借金をしようというのではありません。自分のお金を下ろすだけなのです。本当に少額です。自分の預金したお金を、みずほ銀行が「公開して」指示しているように請求して払い戻しができなかったことに不当な「人間差別」「人権侵害」を受けたと強く思った次第です。しかし、みずほ銀行蓮根支店長のK氏は払い戻しは余白に住所・電話番号を書かなければならないといい、私は運転免許証も提出しているのに、それ以上、自分の預金を引き出すのに手続きは必要ない、他の人たち同じような扱いにして欲しいとの強い気持があったので、帰宅した次第です。


そろそろ友人と会う約束の時間になったので、家を出ようとしたら、みずほ銀行のK支店長から電話があり、「今日の出来事は私たちが全面的に間違っていました。許してください。今から小山さんのお宅へ伺います」との電話がありました。私は今から北千住で友人に会うので家に来て頂く時間はない、地下鉄に乗るので駅の近くにあるみずほ蓮根支店に私が行きますと答えて、急いで、蓮根支店へ行きました。
今度は、2階の広くきれいな支店長室なのでしょうか、立派な部屋に案内されました。昼間は2畳ほどの狭い部屋でしたが・・・・・。
K支店長、Y課長が「今日の出来事は全て私たちが間違っていた。全面的に謝罪します。許してください。そもそも本人確認はコンピュータの端末に暗証番号を入力してもらうことで確認している」とのこと。私は、他の人と違う扱いを受けたことで、自分が不審人物と思われ、心が痛んだ。人間として大きな侮辱を受けた。また、1円でも間違ってはいけない銀行で、窓口の女性、課長、支店長が「住所・電話を記入するよう印刷された用紙がある」と嘘をついたことは、絶対に許されるものではない。銀行は信用で成り立っている企業である。嘘をいったら、全ての信頼はなくなる。私よりも年上の方々が同様のことを言われたら、信用してしまう。これでは、みなさんが嘘を言って、顧客のお金を適当に操作してもだれも分からないといわれてしまう。私の後ろには「物を言わない多くの顧客がいることを頭に入れておいてほしい。そもそも豫金払い戻しの手続きを私だけはコンピュータの端末に暗証番号を入力して確認する方法を取らないのは、明らかな差別だ」。「私はクレーマーではないので、皆さんが間違いを認め謝罪をするのならこれ以上何もいわない」と言って、北千住に行った次第です。

② 209年2月3日午後6時半の出来事

前日の支店長などの嘘と差別的な扱いがあり結局、払い戻しができないでいた、2月3日の夜6時半。みずほ銀行蓮根支店の「「T」さんから電話が入る。「小山Mさんいらっしゃいますか?」とのこと。私は「どちら様ですか?」と聞く。「みずほ銀行蓮根支店の者ですが、小山Mさんに話がしたいのです」とのこと。「小山Mは妻だが、今外出中。宣伝ですか? それとも本人の口座などに関する業務上の重要なことですか? 宣伝なら今、夕食の準備中なので今日は止めてほしい。本人の預金関係でどうしても必要な業務上の連絡事項なら聞きます」と返答。Tさんは、「業務上の重要なことです」との回答。それではと私は夕食料理のガスを止めて話を聞く。結局、新しい銀行商品が出たとの「宣伝」だった。私はT氏を注意した。宣伝なら止めてほしいと言ったはずだ。銀行の業務上のことで本人が不利益を蒙る業務上の連絡というから時間を取って出たのに、T氏は「嘘を言って宣伝」をした。私は、まだ銀行にいるであろう「T氏」の上司に注意を喚起しようと思い、蓮根支店の連絡できる電話番号を教えてほしいという。T氏は、「蓮根支店の電話は教えられない」とのこと。T氏は「宣伝ではない」と言いながら宣伝をするという「嘘」をついた。顧客が連絡したいので電話を教えてほしいと言っても「教えられない」と返事をする。こんな銀行がどこにあるのでしょうか?  午後6時半。銀行の一般的な電話受け付けは終わっていることは十分承知しています。しかし、銀行側から一方的に電話をしてきたのです、そのことにつて、責任者に電話をする顧客の権利はあります。それをみずほ銀行蓮根支店は、一方的に拒否したのです。

③ 009年2月4日午前9時10分


みずほ蓮根支店長のK氏から電話。今から一昨日、昨夕の謝罪に拙宅へ来られるとのこと。私は一昨日あれだけの話をして、昨夕、同様の問題が起こっている。K支店長の力では解決できない。本社の担当者を入れて、私、K支店長、本社の担当者の3人で話をし、決着をつけたいという。K支店長は、「本社の人を呼ぶのはやめてほしい」というばかり。話し合いにならない。

④ 2009年2月4日午前9時半

みずほ銀行HPにある本社に電話。「苦情」担当(正式な名称は不明)の「E」さんが出る。昨日、蓮根支店から電話をして話をした方である。 改めて①②の経過を話す。K支店長では問題解決ができない、ぜひ本社のどなたかが間に入り、この問題を解決したいと話す。「E」氏は、それはできない。本社からはいけない。問題は全て支店で解決するのがみずほ銀行のやり方だ、とのこと。私は「みずほ銀行のやり方がどうかは知らないが、支店長だけでは、解決能力がないから、本社のどなたかが間にはいり解決した方が良いと提案しているのです」というが、本社の「E」氏はみずほ銀行はそうしたことはできないと、冷たい返事。

以上、①②③④の具体的な事象を列挙しました。
こうした経過を辿り、仕方なく頭取の杉山様に直接手紙を出すという失礼な方法をとることになってしまいました。おゆるし下さい。


(2) 問題の本質


① 蓮根支店では、本社の指示・方針に従わず、勝手な支店運営をしています。貴社HPのトップに杉山頭取の2009年の年頭にあたっての挨拶が記載されています。以下の表題がついています。


3) お客さまから「最高のパートナー」と思っていただける銀行を目指して
当行は、2008年度より、"我が国最強のリテール・バンク"の確立に向けて、ますます多様化・高度化するお客さまのニーズに対して、グループ連携を強化しながら、きめ細かくスピーディーにお応えするとともに、一層のサービスの向上に取り組んでおります。
(途中略)
また、以上の3つの経営基盤の大前提として、コンプライアンス・お客さま保護の実践を引き続き徹底していくことに加え、CSR活動にも積極的に取り組んでおります。


貴職は2009年1月に貴行のHPのトップに上記のように「お客様が最高のパートナーと思って頂ける銀行を目指して」いるいとお書きになっています。
また、コンプライアンス、お客様の保護の実践を引き続き徹底していく、と書かれています。
冒頭から縷々書かせて頂いた蓮根支店での出来事は、貴職が2009年1月にHPで世間に公表したことと矛盾しておりませんか?


問題の本質は

第1に蓮根支店は、会社の方針を理解していないということです。第2に蓮根支店の支店長、課長、窓口の女性は顧客に「嘘」を言いました。これは信用第一の銀行にとっては、致命的な問題です。第3に問題が起こった時に解決・対処法が確立していません。顧客からの苦情があった場合、きちんと処理し、信頼を獲得する努力をするのは企業の社会的な役割であり使命です。私が2月4日に本社の「苦情担当」と思われす「E」氏に電話をし、私の方からこの問題をきちんと解決する方法を提起しました。(本社の担当者、支店長、私に三者で話し合い解決する)しかし、本社の「E」氏は私の提案を拒否しました。致し方なく杉山頭取に手紙を書き、ことの一部始終を私のホームページに記載することに至った次第です。


第2、蓮根支店の方々は、「顧客第一」という思想にかけます。2月3日蓮根支店で2時間ほど話しましたが、課長も支店長も「私を馬鹿にした態度」に終始しました。誠実に私の意見を聞こうとせず、社員の窓口の女性をかばおうとすることに懸命になっていました。本部に連絡するというと「それはやめてほしい」「本社から誰か来て三者で話し合いをしたいとの申し出でに、それだけはやめてほしい」と言いました。顧客が預金を引き出せずに困っているのに、蓮根支店の皆さんは、「自己保身」に走り、みずほ銀行の名誉と栄誉を守るという立場に立っていません。自分で言うのも変ですが、私はこうした手紙を書いたり、支店長などと話すことで何ら利益はありません。ただ、みずほ銀行にとっては、耳の痛いことですが貴重な助言だと自負しているところです。


(4) 私のお願い


① 今回の支店長、課長、窓口担当者が私に「嘘」を言ったことをみずほ銀行の責任者として謝罪してください。
② 本社「E」氏、K支店長、Y課長、窓口の女性、「T」氏たちが私に謝罪することを求めます。
③ 結果的に預金の払い戻しという顧客の権利が行使できなかったことについて謝罪してください。
④ 本社の担当者とK支店長、私でこの問題を解決するようお計らいをお願いします。
⑤ 二度とこのような問題が起こらないよう社内で検討し、対策を立て、再発防止のための施策を講じるようお願いします。また、その結果をおしらせください。
以上、色々と書き連ねましたが、上記の経過とお願いをお読み頂き、適正な処置を心よりお願いする次第です。

文末になりましたが、杉山頭取様をはじめ、社員の皆様がたのご健康とご多幸を心よりお祈り致します。


                草々

            2009年2月4日
               小山道夫
            以下住所、電話番号

投稿者 koyama : 00:02 | コメント (0)

2009年02月03日

通院

晴天  

午前中、新宿の心臓病院へ。フエ在住中の薬をもらう。
私の主治医が病気になり入院。臨時に代わりの
先生に診てもらう。新宿往復。

午後、読書「日本共産党の研究(1)」(立花隆著:講談社)
30年前大きな論議になった本である。私はこの本に
対する批判はたくさん読んだ記憶がある。
第1巻目は1945年以前の日本共産党についての
記述。特にソ連・コミンテルン(第3インターナショナル)
日本支部としての日本共産党の創立。綱領から規約、
方針までコミンテルンの指示で決めて行き、必要
経費もコミンテルンから出ていた。
福本イズムと山川イズムの詳細。


午後6時半ごろ、「みずほ銀行」蓮根支店から電話。
妻あての電話だった。「今出かけています。電話の
内容は宣伝のことですか、それとも妻の銀行口座など
に関する連絡ですか? 重要な連絡なら聞きます」と
返事をする。みずほ銀行の人は「重要な話ですという。
仕方がないので話を聞く。すると結局は「新しい銀行
商品が出た。それに変えないか」とのこと。宣伝である。
私は電話をして来た男性を注意する。
「最初に宣伝なら忙しいのでやめて欲しい。妻の銀行口座
に関する手続きミスとか印鑑もれなどの話なら聞きますと
言ったのに宣伝ではないか・・・・・午後6時半の夕食準備
の時に顧客のプライバシーの一つである電話を銀行預金
という形で知っている立場を使って、嘘を言って宣伝を
してくるなど非常識。最初に宣伝ですが、電話をしても
よろしいでしょうか?と聞くべき。みずほ銀行の蓮根支店
のあなたが私にかけている電話の番号を教えてほしい」
という。みずほ銀行の担当者は「蓮根支店の電話番号は
教えられない」との返事。「あなたは私の電話を業務上
知り得ている。それを使って宣伝の電話をしてきて、私が
口座を持っているみずほ銀行蓮根支店の電話を教えて
欲しい、今、貴方が電話をしているその番号でもいいから
教えてほしい」という。みずほ銀行担当者は
「電話番号は教えられない」とのこと。

昨日のみずほ銀行蓮根支店の窓口の女性、課長、
支店長の対応と言い、今夜の宣伝電話、銀行の
電話番号は教えないなどと言い、非常識な銀行である。
みずほ銀行は一体どんな社員教育をしているのだろうか?
みずほ銀行のHPを見ると社長は「顧客第一」と言っている。
しかし、その実態は顧客を顧客と思わないものである。
非常に腹立たしい銀行ではある。

投稿者 koyama : 11:21 | コメント (0)

2009年02月02日

岩辺さん・大谷さん懇談

晴天  

午前中、ジンマシンがでる。

メール送受信。

日本で刺繍などを買ってくれた方が私の銀行口座に入金。
そろそろフエへ帰国するので、忙しくなる前にベトナム事務所へ
届ける刺繍代等を下ろしに行く。

最近はおれおれ詐欺などもあるので「身分証明が必要」と
思い、運転免許証を持参。
みずほ銀行に入る。入口で「払い戻し請求書」に必要事項を
書く。「太線の中に必要事項をお書き下さい」とあるので
指示通り書く。

15分ほど待たされて番号を呼ばれる。
払い戻し請求書、免許証を出す。すると受けつけの女性が
「払い戻し請求書の余白に住所と電話番号を書くように」という。
私は、「太線の中に必要事項を記入」とあるのだからそれだけで
請求書記入は良いはず。その上、身分確認で顔写真付きの
運転免許証を出しているのだから、それ以上、なぜ、余白に
住所と電話番号を書くのか? と質問。
受付の女性は「決まりですから」という。私「決まりならなぜ、
請求用紙記入の際にその旨を顧客に告げるような記述が
ないのか?」。女性、「銀行の決まりです」。
私「そんなことを言っても、私が待っているいる間に免許証などを
提示している人もいない。何故、私だけ免許証を見せて上で
更に住所や電話を書かされるのか? 何か怪しいところがあれば
言ってほしい。他の顧客等同等の扱いをしてほしい。住所をかけと
言うが、運転免許証に住所だけでなく本籍までかいてあるよ」。
係の女性「本当は、住所も電話も書く欄のある用紙があったのだが、
今、切らしているので、余白に書いてもらった」」。
こんなやり取りがあった。私は15分程の待ち時間に身分確認
のために運転免許証を提示した人すらいないのに、私だけ
何故、こんなにしつこく、身分確認をされる必要があるのか
不思議に思った。よほど、怪しい人間とみられたのであろう。

「責任者を呼んで欲しい」という。しばらくすると40歳代の
課長となのる男性が来る。別室に呼ばれる。
私「なぜ、私だけ、運転免許証を提示した上、住所・電話を
余白に書かされるのか? 運転免許証に本籍も住所も
顔写真も出ている。これ以上の身分確認はないでしょう?」

男性課長「銀行の決まりですから」を繰り返し埒が明かない。
仕方がないので「支店長を出しなさい」という。
しばらくすると支店長が来る。
今までの経過を説明し、他の顧客には運転免許証の提示
を要求していないのに、なぜ自主的に運転免許証を
提示し、自分をか明らかにしている人間に、更に
住所をと電話を書かせるのか? 本人確認は免許証で
十分なはずと私は主張。
支店長は「銀行の決まりです」という。
「決まりならば、銀行内に掲示し、顧客に周知徹底しない
ければだめではないか?」「銀行内に掲示されているのは
運転免許証や健康保険証を提示し、本人確認して
もらうことがあります」という文書だけですよ」と私は言う。
他の顧客と明らかに違う扱いをするからにはそれなりの
理由があるのだろうから、その理由を教えてほしい」と
言う。支店長は「住所・電話を書いてもらうのは、決まりです」と
繰り返す。
「それでは、なぜ、払い戻し用紙にそれを書いておかないのか?」
「受付の女性にそう質問したら、そういう用紙はあるのだが、
今、切らしていて臨時に余白のある用紙にしているのだ」と
言っていたが、本当にそうした用紙があるのか?」と聞く。
支店長・課長はかなり興奮している。「支店長はあります」
という。「それでは、見せて欲しい」と私。
支店長は部屋を出ていく。しばらくして戻ってくる。
「申し訳ありません。そうした用紙はありません」とのこと。
「最初から住所や電話を書くようにと言った用紙もないのに
私にだけは受付の女性も支店長もあると断言したことに
ついて、どう釈明するのか?」と質問。
「誠に申し訳ありません。」と支店長。「それは私に嘘を
言ったことになりますよ。銀行は1円のお金も間違っては
いけない職業。顧客に嘘をいうなど持ってのほか?」と
私は叱責する。

みずほ銀行蓮根支店は、窓口業務の女性も支店長も
「嘘」を言った。支店長は「嘘を言ったこと」を認める。
本来は、住所や名前を書くのではなく、コンピュータの端末に私の
口座の暗証番号を入力して、「本人確認」をするのである。
窓口の女性はそうした銀行業務の初歩的な仕事を
身につけていないまま窓口業務にでていたのである。
私が「なぜ、私だけ必要以上に本人本人確認をするのか?
との質問に、住所や電話書く用紙があったが、今は
切れているので・・・と嘘を言ってしまい、支店長は、
社員をかばうために、顧客にさらに嘘の上塗りを
した」というのが実情である。
結局、11時半に銀行に行き、少額にのお金をおろそうと
思ったのだが、2時間、課長、支店長と話し、埒が明かない
のである。お金を下ろすことができずにいた。
仕方がないのでみずほ銀行本社の顧客相談担当者に
電話。帰宅。自宅から東京都(板橋区)の消費者センターに
電話。苦情を話す。

今日は午後5時半から北千住で岩辺さんと懇談の予定。
午後4時頃、みずほ蓮根支店長から電話。自分たちが全面的に
間違っていた。今からお宅へ謝りに行きたいとのこと。
私は岩辺さんと会う時間になったので、北千住に行く途中なので
私の方から蓮根支店に出向くと答える。
支店長室に通され、支店長と課長が謝罪。

住所、電話を書くようにとの用紙があると言ったのは「嘘だった」
そもそも本人確認は、三井住友銀行でやっているのと同じように
口座の暗証番号を電卓のような端末に入力して確認するもので
住所や電話書くように言ったのは、間違いだったと謝罪。
私は「どんなに少額なお客であっても、必要事項を全て書き込み
その上、運転免許証まで提示してもまだ本人確認のために
住所と電話をかけなどと、私だけに言うのは明らかに人間差別で
ある。人権侵害である。自分の預金したお金を下ろすのに
なぜ窓口の女性や課長や支店長に頭を下げて、自分の
プライバシーをこれほどまでに開示し、2時間かけても
自分の預金したお金がもらえないのか? これは、
私ひとりの問題ではない。あなた方は、お客が分からないと
思って、言いたい放題の嘘を言っている。お年寄りは、貴方たち
から何を言われても信じてしまう。銀行で私のようにクレームを
つける人は少ないのかも知れないが、これは正当な当然の
クレームだ。みずほ銀行は、自分から顧客に示した預金の
引き出し方法を勝手に嘘をつて、引き出させないように
したことは、重大問題。私は今後、こうしたことで人格が
傷つけられたり、人権が侵されたりする人がでないよう
多くの何も言わない人たちの代わりに言っているのだ」
と言い、蓮根支店を後にした。
恐ろしい銀行である。自分の預金を下ろせないのだ。
勝手に決まりもないことを言って「難癖をつけ」る銀行など
聞いたことがない。社会の崩壊現象はこうしたところにも
出ているのだ。

午後5時半、北千住駅までJASS初代代表岩辺さんと
副代表だった大谷さんと合流。
ベトナムでの活動の進捗状況、JASSの発展段階などに
ついて報告。お二人の意見などを聞きながら、生ビール、
焼酎、吟醸酒などを飲む。2軒。自宅着。午後11時。
岩辺さんも「アニマシオン」運動で全国を回っている。
大谷さんは、大東文化大学、法政大学の先生をしている。
二人とも退職後、元気に活動している。また、フエに
来る計画を相談した。楽しいひと時を過ごした。

投稿者 koyama : 17:56 | コメント (0)

2009年02月01日

顔にジンマシン

晴天 風が強い。

午前7時起床。

朝から顔にジンマシンができて、目が腫れる。
頭の中も赤くなる。人前に出られない。
体中にジンマシンが出る。かゆい。



午前中、何人かの会員から電話。

メール送受信。

昨夜の朝日新聞の夕刊を読む。

ノーベル賞を受賞した「益川敏英博士(68歳)」のインタビュー
記事が出ていた。
何故、ノーベル賞授賞式で「自国が引き起こした無謀で
悲惨な戦争」に言及したのか、をインタビューした記事である。
家具職人の父親と5歳の時名古屋空襲を体験。
小学校3年の時に担任の先生が「レッドパージ」で突然
いなくなった。戦争につながるもので利益を得るのは
許せないと思っていた。
名古屋大の物理学部に入学し、湯川秀樹博士の弟子で
坂田昌一教授に学んだ。坂田教授は反核平和運動に
熱心に取り組んでいた。「素粒子論の研究も平和運動も
同じレベルで大事だ」と言われたそうだ。

1967年、名古屋大理学部助手。ベトナム反戦運動に参加。
デモにも参加。市民集会に講師としても参加。
最近は大江健三郎さんなどが設立した「9条の会」に賛同し
2005年、「『9条の会』のアピールを広げる科学者・研究者
の会」が発足すると呼びかけ人になっている。
日本を戦争のできる国に戻したい人たちが改憲の動きを
強めているのに、ほっとけない。色々な理由を
つけて自衛隊がイラクへ派遣されたが、海外協力は
自衛隊でなくてもできる。まだ、おしりに火がついている
状態とは思えないが、本当に9条が危ないという
状況になれば、軸足を研究から運動に移す。

今回のノーベル賞受賞対象の研究「CP対称性の破れ」を
手がけていた時、京都大学教職員組合書記長だった。
非常勤職員の解雇撤回に取り組んだ。
アメリカでオバマ氏が黒人初の大統領になった。
人間の歴史には楽観論を持っている。黒人差別が当然と
された国で黒人のオバマ大統領が誕生するなんて
誰が信じたろう。能天気といわれるかも知れないが
戦争だってあと200年位でなくせる、と言っている。

勇気のある生き方と発言である。多くの学者が
「タコつぼ」に入ってしまい、社会的発言をしなくなった。
だらしのない研究者の世界となったが、益川先生の
ような人がいることに救われる気持ちになる。


朝日夕刊の隣のページに「私立中受験、身の丈志向」
という記事が出ていた。
最近は難関中学を受験する傾向がヘリ、「ガツガツ勉強を
やらせたくない。中くらいの学校へ入って」。
栄光ゼミナールの広報部長は「保護者のほどほど志向」
について「落ちる体験をさせたくない」「ギリギリで入っても
苦労する」として親がこどもたちに挑戦させない傾向が
強いという。首都圏の6年生の2割は私立中を受験する。
一人6校が平均とのこと。受験料だけで10万円。
中高6年間の授業料だけで500万円だという。
特定の階層しか受験できなき私立中受験。
しかも「ほどほど志向」。挑戦すらしなくなった子どもたちに
益川先生のような「根性」を持つことはできなくなるだろう。


終日、自宅。新聞を読み、読書。

読書「日本共産党の研究(1)」(立花隆著:講談社)
昨年ベトナムに来たツアーの方からの差し入れ。
1970年代、共産党と立花隆との間でどのような論争が
あったのか? 当時の論争では明確ではななかったいくつかの
論点が1991年のソ連邦の崩壊によって明らかになったこともある。

投稿者 koyama : 13:15 | コメント (0)