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2009年02月25日
2人のこどもの退所式:フエ省・フエ市人民委員会との懇談
晴天 気温30度 湿度60%
今日は3つのスタディーツアーがある。
午前7時からほぼ1日「ハイリーホテル」は停電。
午前7時朝食。
午前8時半、ベトナム事務所へ。
大学生協スタディーツアーの参加者の中のお一人の方が
フエの他のNGOを見学したいとの要望があり、フランス、
アメリカのNGOを紹介。ベトナム事務所でベトナムの経済情勢、
こどもたちをめぐる状況を説明。
午前9時、「子どもの家」へ。
今日は、THUYさん(20歳)とTAMさん(19歳)の退所式。
バオミンさん・税田さんのと三人で参加。セン委員長、ロック寮長の
立会いの下で二人の退所式が個別に行われた。
はじめにTHUY(トゥーイ)さん。
THUYさんの両親の所在は不明。「子どもの家」に
入る前に既に両親は行方不明だった。
親戚の家を廻って生活していた。ハノイに住んでいたり
していたが、最終的には、フエに住んでいる叔母さんが
「子どもの家」を紹介。2001年、兄とTHUYさん、妹の3人で
「子どもの家」へ入所。昨年、兄はハノイ叔父さんの工場で
仕事をするために退所している。THUYさんは「子どもの家」で
8年間生活したことになる。長い年月である。
12歳から20歳という人間形成の多感な時期を「子どもの家」で
過ごしたTHUYさんである。中学を卒業した後、ミシンの
研修をしていた。今回、ホーチミン市の南にある「ヴンタオ」にいる
叔父さんの家族と住むことになった。叔父さんの紹介で
ミシン工場で働きながら生活するということである。
今日はフエに住んでいる叔母さんが、退所の保証人となるため
退所式に参加。
現在、「子どもの家」には高校2年生になる妹が生活している。
●セン「子どもの家」委員長より以下の話があった。
THUYさんは、北部のタインホア省の行政から特別に入所
させて欲しいとの依頼があった。8年間「子どもの家」で
生活し、ミシン研修を3年間行い、自立するまでの力を
付けることが出来た。JASSや日本の支援者への感謝の
気持ちを忘れないように。「子どもの家」を出ても「子どもの家」
の先生が教えたkとを忘れないようにしっかりと生活して
欲しい。
●叔母さんのお礼の言葉
私たちの姪に愛情を持って長い間育てて頂いた恩を
私たちも忘れません。特にJASSには感謝している。
こどもは社会人になった。JASSの皆さん、「子どもの家」の
先生にご健康をお祈りしたい。
●THUYさんのお礼の言葉
先生とスタッフの皆さんが私の面倒を見てくれてありがとう
ございます。「子どもの家」で学校へ行かせてもらい
ミシンの研修もさせてもらった。寮母さんにもだいぶ
注意をされたこともある。。寮母さんたちの注意を生かして
今後自立していきたい。8年間お世話になりました。
感謝しています。(このあたりで涙で声がとぎれとぎれになる)
叔母さんの退所のサイン
セン委員長の退所承認のサイン
センさんサインの文書はベトナムでは公文書となる。
「子どもの家」はベトナムでは「公的機関」となっている。
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続いてTAM(タム)さんの退所式を行う。
タムさんは19歳。1995年に入所している。「子どもの家」の
第1期生。「子どもの家」に5歳で入所。それから15年間という
長い間を「子どもの家」で過ごした。
事情があり、お父さんが分からないまま私生児として生まれる。
母親には生活力と十分は判断力がない面もあり、タムさんを
育てられず「子どもの家」に入所。私も5歳から19歳までの
タムさんの成長を見続けてきた。良く頑張って「子どもの家」で
生活していたと感心する。ひねくれず、「不良」にもならず・・・。
タムさんは中学校を卒業し、その後、ミシンの研修を3年間
行い、自立するまでの力をつけた。
退所後は叔父さんの経営するミシン店に勤めて給料を
もらい、母親と二人で生活する。
母親はフエ郊外の山の麓に一人で住んでいる。
今回、タムさんの退所に伴って郊外から市内の端に引越し、
小さな部屋を借りてタムさんと同居。お母さんは宝くじを
売って生活していた。1日50円から100円程度の収入。
●(小山)
今後はお母さんと一緒に生活し、お母さんを助けて仲良く暮らして
欲しい。
●TAMさんのお礼の言葉
「子どもの家」が出来た時から14年間、お世話になった。
学校にも行かせてもらい、ミシンの研修もすることができた。
これからは、母親と一緒に暮らす。私が責任を持って
母親との生活をしていく。
叔父さんのやっているフエ市内のミシン店で仕事をする。
もらった給料で母親の生活の面倒を見る。
長い間、「子どもの家」の先生やJASSの皆さん、
里親の栗原幸子さんにお世話になった。本当に感謝いている。
(この辺で涙声になり言葉が出なくなった)
退所承諾書にサインする際、母親は文字が読めなかったので
タムさんが読み、母親に伝える。
母親のサイン
セン委員長の承認のサイン
16年間という長い間のフエ滞在であったが、こうして5歳から
「子どもの家」に入所した第1期生が卒業していくことは
嬉しいことではるが、同時に寂しくも思える。「子どもの家」に
行くといつも会える顔が見えなくなるのだから・・・・。
「子どもの家」の宿命である。「子どもの家」の自立を目指し
社会に出て仕事をして生きてくこどもたちの育成を目指してる
からには、どうしても避けられない「別れ」ではあるが、一抹の
寂寥感に襲われる。
午前11時半、昼食。
午後12時半から昼寝。疲れが出て熟睡。
午後2時、英語の電話。フエ駅前の「LA RESIDENCE」ホテル
のマネージャーから。先日、日本料理店に来た方である。
今日の午後2時半にベトナム事務所に来て話し合いをした
とのこと。
急いでベトナム事務所へ。
フランスの経営である「LA RESIDENCE HOTEL」の
食事関連の総合マネージャー来訪。
私、大塚さん(オアシスの会代表:日本料理店支援)
バオミンさん、税田さんで対応。
来訪の趣旨は、「LA RESIDENCE HOTEL」のメニューに
日本料理を入れたい、ついては、家庭料理「子どもの家」
でホテルの料理人に日本料理を教えて欲しいとのこと。
大塚さん、バオミンさん、税田さんと相談し、了解した。
3月の1ヶ月間、毎週2日、1回3時間を目処に
大塚さんが教えることになった。
その代わりにJASS観光と、「LA RESIDENCE HOTEL」
との提携などの話をした。JASSベトナム事務所が
連れて行ったお客さんに対しては、レストランなどでの
特別サービスをお願いした。
早速、3月から、「LA RESIDENCE HOTEL」シェフへの
研修が開始される。
こうしたホテルは世界的に事業を展開しているホテルなので
日本料理についても「いい加減」なものではなく、きちんと
した日本料理を出したいとの気持ちと責任感が強い。
さすがは、世界展開のホテルであり、フランス人の
料理担当のマネージャーである。
ろくすっぽ日本料理も出来ないで、あたかもJASSの
運営している日本料理店であり、貧しいこどもたちを
助けているなどと嘘を言ってお客を騙し、ニセモノ
日本料理店を経営しているベトナム人もいるが、
このフランス人の料理マネージャーを見習うべきである。
日本料理店と称するのなら、嘘の日本料理を欧米系の
お客に出し騙してお金儲けをするという姑息なやり方は
辞めるべきである。嘘はいけない。きちんと日本料理を
勉強して日本料理店を出すべきである。
こんな嘘の日本料理店を見ていると、、「LA RESIDENCE
HOTEL」のお客に対する責任感と真摯な態度に敬服する。
もっともこれが当たり前なのだが、ベトナムでは、看板だけ
日本料理店と書いてはあるが、内容は怪しいお店が多い。
その後、バオミンさん、税田さんといくつかの重要な問題に
ついて打ち合わせ。
午後6時半、フエ市人民委員会の車でティエンアン山麓に
ある別荘風のレストランでフエ省副知事、フエ市長、
フエ市外務部長などと懇談。2月7日から13日まで
フエ訪日代表団として訪日した皆さんの招待で
訪日のお礼の晩餐会である。フエ省共産党委員長の
マン氏も参加予定だったが、急に用事が入り欠席。
豚肉をレストランの庭に咲いている野菜で巻き、ライスペーパー
に包み、マムトム(えびを発酵させたもの)をつけて食べる。
本当に美味しいのひとことに尽きる。
フエ省副知事とフエ市長
続いて「スッポン鍋」。
これが唐辛子と香菜・香辛料がはいり何とも美味しい。
一番美味しいところはスッポンの足だという。1キロ
3000円。1匹2キロ位のスッポン鍋である。
スッポンの生き血を焼酎で割って飲む。
私は5杯飲んだ。
約2時間ほどの懇談会の中で、今回のフエ訪日団は
大塚合子さんが代表するボランティア団体である
「オアシスの会」の仲介があったこと、「オアシスの会」
は長年、フエの船上生活者へ医療支援を行っていた
実績があることなどを報告する、フエ省・フエ市の
中心となる人々に「オアシスの会」の実績を活動を
知ってもらう。
更に今後、フエ省人民委員会、フエ市人民委員会と
JASSは兄弟の関係になり、一層結びつきを強めることを
確認した。
日越の文化・経済交流・人的交流を一層促進すること、
JASSに何か問題が起こり困ったことがあった場合には
フエ省・フエ市が一体となり、JASSを支援救援することを
再度確認。
午後8時半頃散開。
午後9時過ぎ、日本料理店着。丁度、閉店作業中。
今日は13人の来客あり。
私はビールとスッポンの生き血焼酎、レストラン特性の
薬用酒を多量に飲み、足がふらつく。
リー君に電動バイクを運転してもらい「ハイリーホテル」へ
たどり着く。
午後10時前。その足で5階の部屋へ。
部屋を閉めておいたので「猛暑」状態。
アルコールで体が熱くなっていることも手伝って、
暑い。しばらくタイルの床で横になる。
セルフタイマーで写真を撮っているうちに「熟睡」して
しまう。気がつくと2時間ほど時間がたっていた。
投稿者 koyama : 2009年02月25日 08:29