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2011年12月31日
ベトナム事務所員会議
(予告) 2012年1月01日00:01に「新春の挨拶」をアップします。
(但し、飲みすぎて寝ないでいればだが・・・・・・)
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終日雨。
午前7時朝食。ブンボー(牛肉ブン麺)
午前8時過ぎ、徒歩でベトナム事務所へ。
ベトナム事務所には、「ザーホイ高校」の校長先生、
ホーチミン青年同盟指導教員などが、新年の挨拶に。
ザーホイ高校には、現在「子どもの家」の子ども2人
(NGA・ガーさん:THUOYトゥオーイさん)が、通学している。
同時に10数年間継続して奨学金の贈呈を行っている。
校長先生から「奨学金のお礼」「東日本大震災」へのお悔やみ
と励ましの言葉があった。
ザーホイ高校は現在1800人・40クラスの生徒が在籍。
昨年度の大学進学率46%。一昨年は33%、3年前は
23%と年々、大学進学率が上がっている。
大学率進学上昇の理由を尋ねる。
校長先生の回答は以下のよう。
①学生が大学進学を希望するようになった
②フエに大学が増えて、大学生を入学させる可能性が増大。
③高校で大学進学のための授業を進めている。
文科系進学希望者は「文系独自の授業」、理系も同様。
大学進学に特化した授業を進めている。
ベトナムもアジア独特と思える「大学進学競争」が深く・広く
進行していることが分かる。ザーホイ高校は、今まで大学進学は
10%程度だった。
ベトナムでは、県立高校の成績順位、従って入学「難易度」が
市民にも公的にも明確になっている。
全国3つしかない国立高校である「コックホック高校」は別格にして、
第1は「「グエンフエ高校」 第2が「ハイバイーチュン高校」、
第3がザーホイ高校となっている。その他、フエ市内にも
いくつかの「私立高校」ができてる。上記県立高校に入学する
力のない生徒たちの受け皿である。その代わり、高い授業料が
必要となる。
巷間では「共産党幹部の馬鹿息子、馬鹿娘が親の見栄と
金に糸目をつけない財力で入学する高校」と言われている。
本当かどうかは、確認していないが、県立高校に入学する
こと自体、難関なことであるのは、事実である。
午前9時。2011年最後のベトナム事務所員会議。
初めにこの間の個人的な活動を報告
(ソン君)地球の歩き方ミニツアーの案内・内田さんの案内
来年度のツアー日程の作成(バオミンさん少しずつ
ソン君にJASS観光のノウハウを教えている)
一昨日、京都へ送る「竹とんぼ」1300個が出来あがる。
(原田)フエ高等師範大学の授業は試験後の休み
ベトナム事務所訪問者の対応・案内
石狩・函館作品展の手紙の返事
〔富岡) フエ高等師範大学は休み
ブライセン専用日本語教室 初級・中級を教える
静岡青年会館日本語学校中級 13人。更に2名増える。
(古賀)静岡フエ青年会館付属日本語学校中級〔積極的に学ぶ)
ブライセン中級
フエ高等師範大学は1月から教える。
(ハン) 全教千葉女性部ツアー案内
石狩・函館の会関連の仕事
クリスマス会の運営
「京滋YOUの会」へ刺繍を郵送
(アン)地球の歩き方ミニツアーの案内
函館の会のカード
(フオン)静岡会館特進クラス4
ブライセン日本語クラス 初級
バオミンさんから以下の提案説明あり。
①2012年1月から4月までの大雑把な日程
②2012年の地球の歩き方スタディーツアーの一般的な
日程を変更した。天安山での交流、ボランティア活動など
新しい取り組みを入れる。
③当面の課題6点を提案説明
●テト休暇 2012年1月16日から1月27日まで
●バオミンの訪日出張
・2012年1月26日~2月3日
・21012年2月14日~2月20日まで以下3名が参加
東京での「現地報告」〔2月18日)には、
「子どもの家」のニエム寮母さん(1994年から仕事を
している。定年退職)
ハンさん(ニエムさんの通訳)
現地報告をするバオミン
・2012年2月10日頃~2月20日)
ソン・グエット(日本料理店)は静岡市招請の日本語研修生
として静岡市へ行く。2月18日の現地報告会にも参加
●2012年2月10日~2月20日まで日本料理店閉店。
接客主任のグエットさんの訪日のため
●日本人スタッフへ
テト休暇中の「動静」については、旅行先・日本帰国日程等を
バオミンさんに事前に報告して欲しい。
●2011年12月31日のベトナム事務所忘年会はしない。
(先日、内田さんのお陰でホテルへ宿泊したり、海産専門店
での食事会に全員参加しているので、今年の年末の会は中止)
午前11時終了。
「子どもの家」を代表してタム医師が年末の挨拶に来てくれる
午前11時半、バオミンさんと一緒にドンバ市場近くの
眼鏡屋へ。近眼眼鏡があまり鮮明に見えなくなったので、新しい眼鏡
を買う。視力調査5分。フレーム1分で眼鏡が決まる。3500円。
明日、出来上がるという。
午後12時過ぎ、宿舎へ。
料理のセンさんが待っていた。家へ帰ってもらう。
昼食。春雨麺
読書「ヤクザと原発」(鈴木智彦著:文芸春秋)読了。
第1印象。著者は「ヤクザ専門誌」の編集長などを務めた。
本書を読むと、著者自身が「やくざ」ではないか?と思われる
ような行動をしている。
現在は、フリーのライター。主な分野は「ヤクザ」関連の記事を
週刊誌等に書く。
本書は、著者がマスコミ関係者ではあるが、一般労働者と
して福島第1原発に雇われ、1ヶ月程、原発労働者としての
体験と「時計・煙草入れ・携帯」に忍ばせたカメラで写真を
撮り、隠蔽された福島第1原発の実態をレポートしている。
不法・偽装で原発労働者となったのではなく、東芝等の
下請けの孫受けの・・・・・7次ほど下請け会社に採用され
その社員として単純労働に重視した体験。
著者が体験記を書く第1の目標は、「福島原発の作業をしている
のは多くのヤクザ」との噂の真偽を確かめること。
結論は、沢山のヤクザが単純労働に従事していたことが
分かった。写真には、倶利伽羅紋紋(くりからもんもんー竜の
刺青)をした人間の写真が掲載されている。
第2に福島原発労働の実態はどうなのか?
かなりひどい労働条件。各所に東電の隠蔽・嘘の実態が克明に
記されている。「放射線量」が何シーベルトなどと放射線量で
危険を表しているが、これは東電の策略と著者は断定している。
問題は、汚染度である・・・・・・。
著者が「やくざ担当記者」なので、行動もかなりやくざのような
無鉄砲な行動がある。福島原発の初期に「命がけで」原発現場で
働いた「フクシマ50」として、マスコミで絶賛された50人(実際は
70人くらいだそうだが・・・)の中には、やくざが入っていたことも
確認している。「暴力団排除像例が各都道府県で成立している。
暴力団関係者との会食、ゴルフ、旅行など交際を繰り返すことについて、
警察がその人物に対し「密接交際者」と認定するというのが、現状。
その暴力団を使わなければ、原発事故の初期対応も「ニセ安全宣言」
も出来ない、我が日本国政府ではある。
一読の書。本書を寄贈してくれた
京都の豊田氏に深謝。
読書「あの戦争になぜ負けたのか」
(半藤一利、保阪正康、中西輝政、戸高一成、福田和也
加藤陽子著 文芸春秋)
世間では、かなり「右より」といわれる著者、ニュートラルな
立場で発言する学者などの対談。
最近、日本の軍部の研究、ナチス・ヒトラーの研究、スターリン
ソ連の新しい研究が進んでいる。
本書では、戦争末期の近衛文麿内閣の「大政翼賛会」体制の
時、そのブレーンとなった人たちや、軍部の中にもコミンテルン
(世界共産党)の関係者がいたとの研究もなされている。
元共産党議長だった野坂参三が、ソ連共産党のスパイだった
して、100歳近い野坂を日本共産党は除名している。
戦前、日本軍の首脳の中にソ連・コミンテルンの指示で日本が
ヒトラーと組んでソ連を挟み撃ちしないよう、あるいは、
日本を敗戦に導こうとにする動きがあったとの海外での
研究も始まっているとのこと。
戦前ヒトラーの「我が闘争」が日本でも翻訳されていたが、
一部検閲で削除されていた部分があった。それは、ヒトラーが
「黄色人種ー日本人」は劣等民族・大嫌いだ、と発言している部分。
日独同盟の実態はかなりギクシャクしていたようである。途中まで
読んだが、やはり日本人が世界情勢の中での日本の立ち位置、
情報戦での決定的な劣勢などがあったことが分かる。
2011年を総括的に回顧すると次の言葉が出てくる
「隠蔽」「口先だけで行動なし」「国民の底力」
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2011年 読書録
1月
①「竜馬が行く(一)」(司馬遼太郎著:文春文庫)
②「竜馬が行く(二)」(司馬遼太郎著:文春文庫)
③「生きる勉強―軽くして生きるため、上座部仏教長老と精神科医が語り合う」
(アルポムッレ・スマナサーラ、香山リカ著:サンガ新書)
④「茨木のり子集 言の葉 3」(筑摩書房)
2月
⑤「読むだけですっきりわかる世界史 近代編「(後藤武士著:宝島社)
⑥「セカンドバージン」(大石静著:幻冬舎文庫)
⑦「非国民のすすめ」(斉藤貴男著
⑧「生活保障―排除しない社会へ」(宮本太郎著:岩波新書)
3月
⑨「戦争と日本人」(加藤陽子・佐高信著:角川文庫)
⑩「毒になる親・一生苦しむ子供」(スーザン・フォワード著:講談社)
4月
⑪「汚名―検察に人生を奪われた男の告白」(鈴木宗男著:講談社)
⑫「「いわずに おれない」(まど・みちお著:集英社)
⑬「杉浦日向子の江戸塾-笑いと遊びの巻」(杉浦日向子著:PHP文庫)
⑭「雑誌 世界 2011年1月号」(岩波書店)
⑮「ルポ 若者ホームレス」(飯島裕子著:ちくま新書)
⑯「分かち合いの経済学」(神野直彦著:岩波新書)
⑰ 「戦後を点検する」(保阪正康・半藤一利著:講談社現代新書)
⑱「新版 敗戦前後の日本人」(保阪正康著:朝日文庫)
⑲「生き方の不平等ーお互い様の社会に向けて」(白波瀬佐和子著;岩波新書
5月
⑳『昭和天皇・マッカーサー会見」(豊下楢彦著:岩波現代新書)
21 「それは密告から始まった 校長VS東京都教育委員会」
(土肥信雄著:七つ森書館)
22 「命と放射能」(柳沢桂子著:筑摩書房)
23 「ルポ 児童虐待」[朝日新聞大阪本社編集部]朝日新聞出版
24「戦後日本の民主主義と天皇制―国民の天皇」(ケネス・ルオフ著:岩波書店)
6月
25「貧困と愛国 増補版」(左高信・雨宮処凛著:角川文庫)
26「新左翼とロスジェネ」(鈴木英生著:集英社新書)
27「原発労働記」(堀江邦夫著:講談社)
28「ブッダは、なぜ子を捨てたか」(山折哲雄著:集英社)
29「無知の涙 増補新版」(永山則夫著:河出書房新社)
30「社会主義の誤解を解く」(薬師院仁志著:光文社新書)
31「自民党戦国史 上」(伊藤昌哉著:筑摩書房)
7月
32 「自民党戦国史 下」(伊藤昌哉著:筑摩書房)
33 「氷川清話」(付 勝海舟伝) 勝海舟著:角川文庫)
34 「安田講堂 1968―1969」(島泰三著:中央公論新社)
35 「神戸ブンド 藤本敏夫のうた プロレタリア文学万年少年が
たどった軌跡」(和田喜太郎編:出版 アットワークス)
36 「戦後史」(中村政則著:岩波新書)
37 「NGOとは何か?」(伊勢崎賢治著:藤原書店)
8月
38 「原発のウソ」(小出裕章著:扶桑社)
39 「資本主義崩壊の首謀者たち」(広瀬隆著:集英社新書)
40 「母を語る」(石坂啓他著:倫書房)
41 「福島原発メルトダウン」(広瀬隆著:朝日新聞出版)
9月
42 「会津藩はなぜ朝敵か 幕末維新史最大の謎」(星亮一著:ベスト新書
43 「子どもの最貧国・日本―学力・心身・社会におよび諸影響」
(山野良一著:光文社新書)
44 「昭和の芸人 千夜一夜」(矢野誠一著 文春新書)
45 「現代ベトナムの国家と社会」(寺本実編:明石書店)
10月
46 「ナチスの発明」(武田知弘著:彩図社)
47 「読む人間」(大江健三郎著:集英社文庫)
48 「新・堕落論―我欲と天罰」(石原慎太郎著:新潮社)
49 「排除の空気に唾を吐け」(雨宮処凛著:講談社現代新書)
50 「無縁社会―無縁死32000人の衝撃」(NHK取材班:文藝春秋)
51 「官僚の責任」(古賀茂明著:PHP新書)
52 「親鸞 生涯と教え」(真宗大谷派学校連合会教科書編纂委員会著
真宗大谷派宗務所出版部)
11月
47 「私訳 歎異抄」(五木寛之著:東京書籍)
48 『「心」と「国策」の内幕』(斎藤貴男著:筑摩書房)
49 「橋本主義(ハシズム)を許すな」(ビジネス社)
50 「世界12月号」(岩波書店)
51 「井上ひさしの日本語相談」(井上ひさし著:新潮社)
12月
52 「世界を知る力」(寺島実郎著:PHP新書」
53 「私にとっての20世紀」(加藤周一著:岩波現代新書)
54 「革新幻想の戦後史」(竹内洋著:中央公論新社)
55 「ヤクザと原発」(鈴木智彦著:文芸春秋)
2011年12月30日
ベトナム事務所へ
終日雨・時々曇り
午前7時朝食。フォー
ベトナム事務所へ。バオミンさんといくつかの問題で
話し合う。
午前10時半、宿舎へ戻り、訪日関連の日程調整(ホテル・新幹線
・・・・)などの詳細日程を計画する。
昼食 豚肉入りのベトナム風「おじや」
いくつかの問題についての当面の方策を文章化する。
年末年始、2102年1月5日から1月20日までの行動計画の
詳細を文章化する。
訪日する4組のベトナム人グループのそれぞれの詳細日程を
文章化する。
従兄弟の長島弘道氏(元国士舘大学文学部長)から冊子が
届く。農業・農村地理学 の専門研究者。
私の母方の系統を綴った冊子である。
長島姓。長島弘道氏の父親と私の母が兄妹。
冊子は、母方の私の祖父が、いつ生まれ、どんな人生を
歩んだのか? その子どもたちはどんな人生を歩んだのかを
客観的・学問的に記述した著書である。
ベトナムにいる私が、何故、ベトナムにまで来ているのかが
納得できる私の祖父と伯父の人生である。
私の祖父「長島瀧三郎」は、安政4年(1857年3月1日)に
埼玉県北足立郡上日出谷村40番地に生まれている。
現在の埼玉県桶川市である。
祖父の生まれた30日後の3月31日に日米和親条約が結ばれ
この条約によって日本は下田と箱館(現在の函館)を開港し、
鎖国体制は終焉を迎えた。
太平のの「眠りを覚ます」鎖国体制が崩壊した年に
祖父は生まれている。祖父は、日本に大激変が起こり、
大変革期に突入する時に生まれている。
祖父の血筋は、孫の私にも「歴史的な大変革」の時期に
生きる生き方を教えてくれている。
祖父は50代になり、埼玉県の桶川から茨城県の土浦へ農業の
入植をしている。冒険的・革新的な気質がうかがえる。
当時の土浦は、未開の土地であり、「入植者」が開拓した
土地であった。
生涯で3回結婚し、10男、3女を誕生させ育てる。
13人のこどものうち3人は結婚しないで死亡。
2人は「アジア・太平洋戦争」で戦死している。
この精力絶倫は「残念ながら」真似出来ない。
祖父の10人のこどもたちが生んだこどもたちは平均4人として
40人の孫。更に孫が産んだひ孫は、わが母の系列だけで7人。
40人の孫で推定すれば、100人から200人程度のひ孫にはなる。
安政の「鎖国体制崩壊」の年に生まれた祖父・長島瀧三郎
がこの世に生まれたことで、今日(子ども13人は全員死去)
孫・曾孫・玄孫を合わせると推定100人から200人の子孫を
残している。
今、ベトナムで生活している「小山道夫」という人間が
この世に存在することになったことには、祖父の長島瀧三郎
の父(私の曽祖父 長島彦太郎 その父親の長島粂右エ門)
という人々がいることで今日の私がいることを改めて痛感する。
小山(長島家)のフロンティア精神・現状改革・革新精神を
引継ぎ、私の置かれているところで、祖父・曽祖父などの
期待に応え、現在の日本の革新的改革のために奮闘する
ことを改めて心に誓いながら、フダビールを何杯も飲み続ける
のである。
封建的な風習が残る明治時代に50歳になって新しい土地に
入植し、開墾するという「エネルギー」を持っていた祖父の
血を私も多少は引いているようだ。45歳で教職を辞して
ベトナムに来たことは説明できないのだが、祖父の伝えた
血が騒ぐのである。
1929年(昭和4年)73歳でなくなっている。
祖父長島瀧三郎の最初の妻が「はな」という名前だった。
祖母から4代目。私の孫に再び「はな」という名前が復活したのも
何かの縁である。
この精力絶倫・革新的な祖父は、結構「学問」も好きな性分だった
ようだ。
従兄弟の長島弘道氏の作ってくれた冊子を読んで、会った事の
ない祖父母に思いを寄せ、「幕末」の激動の時代に「フロンティア精神」
を持ち、改革・革新路線を進んだ祖父に思いを馳せるひと時を持った
ことに感謝している。
母親が私が子どもの頃、父(長島瀧三郎)は、酒豪だった。
1升酒を飲んでも「足駄」を履いて、家へ帰って来たと言っている。
私も多少は、祖父の「酒豪」を見習いたいとは思っているが
ほんの少しの「見習い」しかできていない現実である。せめて
今日位は祖父の酒豪を見習おうか・・・・・・。
冊子に長島弘道氏の父親長島栄保氏(私の母の兄)が、
弟2人が戦死したことで、戦争は絶対に反対といって
「戦争に反対している社会党に投票している」と話していたと
記されていた。
また、伯父さんは、60歳を過ぎてから様々な老人大学に
入学し学んでいる。
・1975年 茨城大学公開講座「霞ヶ浦の地域性」
・1976年 土浦市教育委員会:郷土史理会歴史講座
・1977年 谷田部岩井方面史跡見学
・1980年 土浦市民憲章推進協議会主催「伊藤左千夫
の野菊の墓の背景と手賀沼の文化人たちを
探る」
・1981年 土浦市教育委員会主催「横瀬夜雨 長塚節」
など1990年まで上記のような学習会に参加している。
60歳、70歳になっても「学ぶ」ということに意欲を持っていた
伯父であった。
瀧三郎祖父と事実上の長男だった伯父の長島栄保氏の
生き方は私の人生に大きな影響を与えている。
祖父の事実上の長男である「長島栄保」は、「ながしま えいやす」と
読む。
祖父は、明治42年(1909年)事実上の長男が生まれた際に
役場に「長島家康」と徳川家康の名前を届けでた。
明治の末期ではあっても「徳川家」は、明治維新の宿敵の
時代である。、「敵国」「仇」である。仇・敵国の親分の名前を
自分の子どもにつければ、当然、役場や社会では非難される
時代にわざと「徳川家康」の」「家康」を我が子の名前につけて
役所に提出。当時の時代を考えれば、当然「拒否」される。
そこで祖父は諦めず「家康」の代わりに「読み方は変わらない」
「栄保」(えいやす)という「洒落をかました」訳である。
私の血筋には、「反権力」と「反骨精神」がDNAで埋め込まれ
ていることが分かる。「家康」がだめなら「栄保」。諧謔精神(シャレ)も
持っている祖父であった。
私の生き方が、二人の子どもと3人の孫に伝わってくれることを
望む。この生き方はけして「出世」する生き方ではないが、人の
ために生きて行きたいという人間の本能に従った人生ではある。
強いもの、威張ったものには、訳もなく反撥する性格は「どうなの
だろうか?」と思っていたが、見事に長男も次男もしっかりと
受けついでいる。祖父のDNAは、母 →私 →長男・次男へ。
3人の孫はどうかな? 私からの希望は最低「社会に反抗的な
精神」だけは、受け継いで欲しいと念願している。
2011年12月29日
2012年1月から2月の取り組みの準備
午前中雲り、午後「少し」太陽が出た。1ヶ月ぶりくらいか?
午前7時、朝食。「小豆」のおかゆと小魚の甘辛煮
温隠元豆
2012年1月・2月の諸行動・諸計画を考え、問題点などを
掘り出す。全体のシュミレーションを行う。
ピースインツアーから電話。いくつかの件について、打ち合わせ。
ホーチミン市の某観光会社から電話。
午前11時半昼食。チャオバインカイン
午後1時間半ほど昼寝。
太陽と青空が「チラッ」と見える。空気が暖かくなる。
上着を1枚脱ぐ。
午後3時、ベトナム事務所へ。
バオミンさんと1月2月の諸計画・諸行動について
長時間打ち合わせをする。
午後5時過ぎまで1年間の総括的な反省と2012年の
新しい課題について突っ込んだ話し合いをする。
海外ボランティアは常に「長期戦略」についての討論が
必要。この種の仕事は、「今、目の前」の課題が多いので
常に目の前の仕事に力が取られてしまう。
私たちは、常に足元の当面の課題と5年・10年・20年先の
展望と見通しにつての討論をしておく必要がある。
常に大局を見ながら、足元の課題に挑んでいく姿勢が
必要である。海外ボランティアの活動家は、「複眼」活動家、
足元と未来を見る目を持っていなければならない、ように思う。
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時事通信
交通警官の全所持金370円? =汚職対策で珍規則―ベトナム
時事通信 12月29日(木)14時39分配信
【ハノイ時事】ベトナム南部のホーチミン市で「交通警察官は10万ドン(約370円)以上所持してはならない」という規則が試験導入された。賄賂防止が目的。北部の首都ハノイでも実施方針が決まり、「非現実的」「人権侵害ではないか」との声が出ている。
ベトナムの警察官は悪評が高く、交通違反者に「袖の下」を要求することが珍しくない。特にテト(旧正月)前は書き入れ時とされる。「10万ドンルール」は窮余の策だが、「所持金をどうチェックするのか」「お昼も食べられない」と導入を疑問視する見方も。これに対しハノイ警察幹部のルー・クアン・ホイ氏は、電子新聞VNエクスプレスに「交通警官の評判が悪過ぎる」と述べ、実施を貫く構えを見せた。
上記のニュースは三つの意味がある。
①ベトナム社会会主義社会の腐敗の現状
警察官が権力を使い、庶民からお金をせしめる
水戸黄門の「悪代官」のような存在であること
②こうした交通警官が常に庶民をいじめ「賄賂」を
要求するのは、その賃金水準が低いからである。
賄賂をもらわなければ、生活出来ない。
ベトナムの警官が賄賂を取るのは、大豪邸を建てて
贅沢な生活をするのではないのだ。
つつましい日常生活をしたいだけなのだ。
交通警察を「締め上げて」も意味はない。
その根源である一部の幹部の豪勢で贅沢な「王様」の
ような生活にこそ「メス」を入れるべきなのである。
③こうした客観的な交通警察の置かれている状況、賄賂要求の
現状のよって出る要因は、政府・共産党の賃金政策にある。
自分たち幹部はのうのうと豪勢な生活をし、こどもたちを
海外に留学させ、交通警察官には低賃金を押し付けている
所に真の原因がある。
私もバオミンさんと一緒にオートバイに乗っていて、何度か
この種の「賄賂」を要求されてことがる。一度は、センターラインを
超えたとの言いがかりをつけられ、賄賂を取られた。
10数年前のホーチミン市での出来事である。
この記事は今のベトナム社会を象徴しているようである。
ドイモイによる生活・賃金格差の増大。
一部の特権階級の贅沢な生活と庶民の窮乏。
時事通信の記者はベトナム社会についての現状認識がないのか?
認識することが怖いのか? なにも論評なしの報道となっているが・・・。
2011年12月28日
いくつかの訪日団の関係書類を作成・整理する
終日雨・曇り
午前7時朝食。「カニ団子のブン麺」
午前9時、徒歩でベトナム事務所へ。
バオミンさんと当面の諸問題を打ち合わせする。
午前11時半、昼食 「ご飯」「魚のフライ」「野菜サラダ」
「肉・大根スープ」
午後2時間ほど昼寝。寒い。
読書「ヤクザと原発ー福島第一潜入記」(鈴木智彦著:文言春秋)
当面すべき仕事の80%程度を何とかやり終える。
12月は訪問者もあり、とにかく忙しかった。訪日団も
4組もある。その日本滞在ホテル、日程確定、ビザ関連作業
などもあり、本当に忙しかった。
午後4時、ベトナム事務所へ。再度、バオミンさんと打ち合わせ。
2011年12月27日
内田さん帰国
雨・時々曇り。 寒い
午前7時、朝食。チャオ・バイン・カイン
たくさんのメール受信。1日中、メールへの応答。
訪日団の関係書類、日本での宿泊ホテル等の予約、
訪日関係書類作成で1日が終わる。
京都市役所・静岡市役所からのメールへの対応。
バオミンさんといくつかの問題について電話で協議。
午前11時半、昼食。春雨麺
午後12時半から昼寝。体が異常にだるい。
1時間半ほど睡眠。
読書「革新幻想の戦後史」(竹内洋著:中央公論新社)読了
いわゆる「右より」の人たちが、戦後をどのように総括しているのか
という点で非常に興味を持って読めた。同時に読み応えの
ある内容だった。一部賛同できる部分もある。
石坂洋次郎の評価には賛同する。
筆者は、1955年共産党第6回全国協議会で極左冒険主義・
火炎瓶闘争・武装闘争をやめた日本共産党は「戦後の革新」
陣営から脱落したとして、記述をしていない。代わって、
岩波書店「世界」が戦後革新の主流派と持ち上げている。
1960年代後半の学園闘争では、小田実の「ベトナムに平和を
市民連合」を革新の中心に描いている。
このあたりは、相当、ピントがボケている。
1960年代後半の70年安保闘争では、丸山など戦後の
「進歩的知識人」の敗北、全共闘の「戦後知識人批判」には
道理があるとの立場。このあたりは、賛同出来ない。
60安保、70安保での日本共産党の位置を全く無視した記述は
学者としての能力の限界を著者自身がもっていることを自己告白
しているようなもの。
午後4時、宿舎の近くへ車が来る。内田さん、ソン君・メンさん
夫妻・バオ君。
一緒に内田さんの帰国の見送りにフエ空港へ。
10日間の内田さんのフエ滞在に感謝したい。
ベトナム事務所スタッフの職員旅行、クリスマス会の実施など
様々なこどもたち・ベトナム事務所スタッフへの支援を行って
頂いた。
午後5時半、宿舎へ戻る。
宿舎に着いて午後9時まで仕事。
疲労困憊。
2011年12月26日
訪日団の関係書類作り:フエ市共産党委員長と懇談
終日雨・時々曇り 寒い
今日は、全教千葉女性部の皆さんがハノイへ。
地球の歩き方ミニツアーの皆さんがホーチミン市へ。
午前8時~10時半。
内田さん、富岡君・原田君・古賀さんとカメリアホテルの
朝食バイキングを堪能する。
「京滋YOUの会」豊田観光の豊田さんから
「ヤクザと原発」(鈴木智彦著:文芸春秋)が届く。
非常に興味ある本だ。今まで原発労働者として
敦賀・福島原発に潜入し、その実体験を書いた
本を何冊か読んでいるが、「ヤクザ」が原発に
どのように絡んでいるのか? 興味をそそらええる。
豊田さんからは、かなりの本がフエに送られてくる。
私の知的興味を刺激してくれる。感謝。
午前中、4つの訪日団の関連書類の整理を行う。
読書「私にとっての20世紀」(加藤周一著:岩波書店)読了。
非常に参考になった。知性と抑制された批判の仕方を学ぶ。
引き続き「革新幻想の戦後史」(竹内洋著:中央公論新社)
を読み始める。上製版で540ページの大著。
多少、読んで行くうちに思想的には「右より」の人と分かる。
右よりの人は、戦後の「革新陣営」「革新運動」をどのように
見ているのか? 参考になる。
バオミンさんと電話で打ち合わせ。
バオミンさんは、全教ツアーの案内中。
午前11時半 昼食「マカロニスープ」
午後2時まで昼寝。
その後、引き続き「訪日団」関連の資料の整理
午後5時半、バオミンさんと内田さんがタクシーで
迎えに来てくれる。
今夜は、フエ市共産党人事部長だったトアンさん、
現フエ市共産党委員長のユンさん、フエ市人民委員会
都市計画部長、副部長、フエ市人民委員会財政部長
との懇談会。
内田さんとフエ市共産党人事部長の奥さんと奥さんの親戚
ラグーン(海と河の水が合流する)で取れる特殊な魚。
美味しい。
参加者写真
フエ市共産党委員長ユン氏とフエ市共産党人事部長だった
トアン氏
フエ市人民委員会都市計画委員会部長・副部長・トアン氏
フエ市人民委員会財政部長、フエ市IT会社社長
フエ市共産党人事部長だったトアンさんと
フエ市共産党委員長ユン氏、内田さん、トアン氏と
午後8時半、交流会は終了。
フエ市共産党・フエ市人民委員会は、「JASSに対する
故なき攻撃に対しては、共産党・人民委員会として、
断固とした措置を取る」との話し合いが成立。
午後9時過ぎ、内田さん・バオミンさんと一緒にタクシーで
宿舎へ。
2011年12月25日
地球の歩き方ミニツアーを案内・講演、全教千葉夕食会
終日雨
連日の疲れが出て、朝起きられない。
午前7時45分、ソン君が迎えに来てくれるのだが、
目覚めは午前7時。朝食を摂る食欲なし。
内田さんから頂いた「飲むヨーグルト」を飲んで、
ソン君と一緒に車で「地球の歩き方ミニツアー」の
皆さんの泊まっているホテルへ。
皆さんと一緒に「子どもの家」へ。A8:30着。
労働組合室でソン君の説明を聞く。
今日は地球の歩き方ツアーの皆さん(4人)と昼食を作る。
既に食事担当のスタッフが、食事用の「練炭」を起こして
準備していた。
約1時間かけてソン君が自ら生活した「子どもの家」の
諸施設を案内。「子どもの家」で小さかったソン君が
ベトナム事務所スタッフとなり成長し、日本語でしっかりと
「子どもの家」を案内できる時代が来るとは思っても
いなかった。「継続は喜びなり」。
里親の川向先生から贈られたクリスマスプレゼントの
「ネックレス」を私に見せて喜んでいるNGAさん。
音楽室では、エヤロビクスの先生を招請し、女子に「エヤロ」教室
を実施していた。しばらく見ていたが、かなり運動量が多い。
また、頭脳明晰でないと複雑なエヤロビクスの運動を覚え
られない。頭と体の総合的な運動と見た。
現在、ベトナムの学校は試験の真っ最中。
フエ師範大生物学科4年生のターオさんは、2012年6月に
大学を卒業し、フエ市内の県立高校の生物の教師を目指している。
他のこどもたち(主に女子・男子は遊び歩いていた)も熱心に
寒い部屋の中で猛勉強。
見るとはなしに雨の「子どもの家」の庭を見た。
大きな「火炎樹の木」。10数年前に茨城県派遣の
青年の翼で「子どもの家」を訪問した若者(JASS茨城の会
を作った皆さん)が記念植樹した高さ1M、太さ1センチほどの
苗木がこんなに大きく成長していた。
何事も時間、忍耐強く待つことが必要なことを改めて実感した。
「子どもの家」の2階からソン君の案内の様子を見ている。
「子どもの家」入り口の門の前をなにやら怪しき人物が
見え隠れしている。良く見るとミタ顔である。
フン君だ。以前住んでいた「ハイリーホテル」の
名前の元になりハイ君の弟だ。「子どもの家」卒業生。
いそいで門に行き「中に入りなさい」と促すも「恥ずかしくて
入れない」という。
小山「今、仕事は何をしているの?」
フン「フエ市内のロマンスホテルの警備員」
小山「給料は?」
フン「1230000ドン(100ドル弱)」。
フン君も良く仕事を変わる男だ。以前は、「子どもの家」の
門前で靴の修理屋をしていた。その後、いくつかの仕事を
経験し、ホテルの警備員に落ち着いたようだ。
今日は日曜日。「子どもの家」の前をうろついている。
フン君も日曜日には、自分の育った「子どもの家」に
来たいのだ。何度も中に入りなさい、と促すが
恥ずかしいと言って入らないのだが、といって、
帰っていくのでもない。門前をフラしている。
きちんとした身なりをしている。生活は安定している
ように見えたので一安心。
午前9時半前、「子どもの家」と「子どもの家」スタッフ、
地球の歩き方参加者と一緒に近くの「タイ・ロック」
市場に昼食の食材を買い物に行く。
「子どもの家」のこどもたちには日本人と買い物に行くことは
強制していない。その時、日本人と市場に行きたいこどもたち
が一緒に行く。
市場で食材の買い物
コラーゲンたっぷりの「豚の耳」。
一説では、顔など皮膚には「外からコラーゲンを塗ったくっても」
皮膚の中には入らないとのこと。食事によって体内に入った
コラーゲンは「威力を発揮する」という。この豚の耳を食べると
顔の皮膚が10歳は若返る、かどうかは分からないが・・・・。
どこかの家のお風呂場に併設されている化粧室に「コラーゲン入り」
何とか・かんとかという「ビン」など何種類もおいてあるが、
「実証科学的」に何ら効果がないことを、私の視覚で確認している。
市場で買い物後、こどもたちと昼食の料理をする
ぶらぶらしていて中学校も中途退学したT君。職業訓練もいくつ
替わったのだろうか? 今は、ラデン細工の彫刻をしてはいるが・・・?
女子のPさんは、フエ医科大6年生、。来年6月には、医師になる。
そんな二人ではあるが、いつも仲が良い。T君の「明るい性格」の
せいだろうと思う。T君が忍耐強く職業訓練を進め、自立して
欲しいと願っている。
昼食の調理中、体がだるく、男子の部屋のベッドで横になっていた。
午前10時、「子どもの家」2階の音楽室で講演会。
午前11時過ぎ。食堂でこどもたちと地球の歩き方ミニツアー(4人)
の皆さんが昼食を摂る。私も一膳を食す。
隣りに静大工学部入試に「失敗」するも、2年間日本語を勉強した
ニーさんが座る。日本語で交流・会話、話が進む。
今日の昼食。1食40円ほど。
・米麺の野菜炒め
・アヒルの野菜入り玉子焼き
・野菜と肉のスープ
こどもたち昼食風景
午前中の「子どもの家」での活動が終わり、地球の歩き方ツアーの
皆さんは、セン「子どもの家」委員長にこどもたちへのお土産を
渡す。
雨の中、車でホテルへ。
その後、宿舎へ帰る。
そのままベッドに横になる。気づくと午後3時。2時半ほど
寝た勘定だ。
当面しなければならない沢山の仕事に囲まれている。
ひとつずつ、こなしていかなければならない。
面倒な仕事がたくさん目の前に横たわっている。
仕事の途中、洗濯をする。
午後5時半、徒歩で日本料理店へ。
午後6時、全教千葉女性部の皆さんと夕食懇親会。
私、バオミンさん、富岡君が参加。
全教千葉の皆さんは、今日の日曜日、ナムドンの山岳地帯へ
行き、地元の「トゥオンロー小学校」のこどもたちに奨学金を
渡す。
グエットさん、古賀先生も奮闘
午後9時半、閉会
全教千葉女性部の皆さんのエネルギーには、圧倒される。
明日からハノイへ。皆さんの安全な旅行を祈念する。
同時に全教・千葉の皆さんと共に日本の教育の民主化・反戦平和の
ために闘って行きたい。
2011年12月24日
全教千葉女性部関係者ツアー・地球の歩き方ミニツアー
終日小雨 寒い
昨日、全教千葉女性部関係ツアー(6人)と地球の歩き方
ミニツアー(4人)が夕方、フエに来るはずだった。
しかし、ホーチミン空港で「フエは天候が悪いので飛行出来ない」
とのベトナム航空のお達しで突如フエにこられなくなってしまった。
その上、ホーチミン市でのホテル代、夕食代、移動交通費は
自己負担とのこと。
ベトナム航空の「フエは悪天候」の理由は真っ赤な嘘。フエは
小雨ではあったが、風もなく、この程度の雨では通常飛行していた。
最終的な理由は、ホーチミン市 →フエの飛行機のお客が少なく
儲けが少ないので、飛行を取りやめたということに尽きる。
全教関係者も地球の歩き方関係者もホテル予約など自分で
できない。昨夜のクリスマス会には、私とバオミンさんは
ほとんど出ずに二つのツアーのホテル、移動の件で
奔走した。
午前7時、朝食。精進ブン麺。今日は精進料理の日
午前8時、ベトナム事務所でバオミンさん・ハンさんと
昨日フエ来訪予定の二つのツアーの日程を大幅に
変更せざるイを得ないので、どのように変更したら良いかを
検討する。
午前10時半、バオミンさんと一緒に「子どもの家」へ。
里親の菅野さんの里子ナム君の誕生会を行う。
里親から寄贈の誕生ケーキ
里親からの誕生祝いの手紙(ベトナム語翻訳)とナム君
里親からの上着のプレゼントを渡す。
誕生会が終わり、こどもたちは昼食。
昼食後、こどもたちは誕生ケーキを食べる
「子どもの家」で誕生会を終え、その車でフエ空港へ。
昨日来訪予定だった全教千葉女性部関係者が午後1時過ぎ
フエ空港に到着。
フエ空港で原田先生と出会う。ホーチミン市に友人が
来訪するとのこと。出迎えにいくとの話。
午後1時半、フエ市内のベトナム料理店で遅い昼食。
昼食後、ホテルまで皆さんと一緒。
地球の歩き方ミニツアーが午後3時半にフエ空港着。
30分ほど時間がある。この3週間ほど、仕事ずめで
心身共に疲労の極限。宿舎へ徒歩で帰る。10分間
ベッドで横になり、急いで車に乗りフエ空港へ。
午後3時半過ぎ、地球の歩き方ミニツアーの皆さん
4人が到着。車で投宿するフエ市内のホテルへ案内。
しばらくバオミンさんとホテルで部屋の問題があるか
事情を確認。
午後6時の地球の歩き方の皆さんとの夕食会に
若干の時間があるので、宿舎へ。15分横になる。
午後5時40分、徒歩で日本料理店へ。
しばらくするとベトナム事務所のアンさんが地球の歩き方
ミニツアーの皆さん4人を案内して日本料理店へ来訪。
4人の方とアンさん、私の6人で日本料理店を食しながら
歓談。
午後8時半終了。アンさんが、引率し、ホテルへ。
私は日本料理店に残り接客。今日は20数人の来客あり。
午後8時40分、疲れたので宿谷へ帰り、メール受信、
明日からの仕事の整理、訪日するベトナム人のビザ申請
関連の書類に整理をする。
午後10時過ぎ、就寝。
2011年12月23日
第16回「子どもの家」クリスマス会
午前7時半、カメリアホテルへ。
内田さん、ソン君、古賀先生と「バイキング朝食」
午前中、ベトナム事務所へ。
午前11時半、昼食。チャオ・バイン・カイン
2時間昼寝。
その後、訪日のための資料を作り、バオミンさんの送信。
午後5時、ズイタンホテルへ。今日は内田さん主催の
「第16回子どもの家クリスマス会」。
午後5時半から開会。
司会は日本語教師の古賀先生とベトナム事務所
会計部長のハンさん。
クリスマス会を楽しむこどもたち
クリスマス会主催者であり1994年から16年連続して
クリスマス会をこどもたちにプレゼントしてくれている
現代の女性サンタさんの内田さん
来賓紹介。フエ市人民委員会外務部副部長のイックホアンさん。
1993年から2年間、フエ師範大学で日本語を教えた教え子。
セン「子どもの家」運営委員長
内田さんが準備したこどもたちへのお土産
内田さんの開会の挨拶
セン運営委員長の挨拶
会食を楽しむ「在宅支援」のこどもたち
会食を楽しむ「子どもの家」のこどもたち
新入所のこどもも
「子どもの家」スタッフのニエムさんと一緒に
日本料理店のこどもたちも
ロック寮長と司会のハンさん
「子どもの家」スタッフ
ベトナム事務所スタッフ
メン・ソン夫妻とお子さんのバオ君(6・5ヶ月)
内田さんとベトナム事務所スタッフ
バオミンさん・センさん・イックホアン外務部副部長
会食が終わり「ブンゴゲーム」が始まる
ビンゴを当てたこどもたちに内田さんから賞品贈呈
クリスマスケーキを食べる
いよいよこどもたちの大好きな「カラオケ大会」。
今年は、こどもたちが十分満足するよう時間をかなり取った。
日本料理店のヒエウさんとフエ高等師範大学幼稚園学科に
入学したターオさん
フエ師範大化学学科のトゥーイさん 2012年6月卒業。
高校の先生を志望している。
カラオケ大会の入賞者に内田さんから景品贈呈
クリスマス会終了。出口で内田さんが用意した「お土産」
を渡す
午後9時過ぎ、クリスマス会は終了
その後、近くのレストランでベトナム事務所員の反省会
午後11時過ぎ、宿舎へ帰る
2011年12月22日
ソン君家族と会食
終日雨 寒い
午前7時朝食。ブン・クア(蟹団子のブン麺)
午前中、訪日各団の日程の調整
家族と連絡・打ち合わせ
午前11時。フエ市内の「フエ家庭料理」の専門店へ。
内田さんの招待。原田先生・古賀先生・富岡先生・
フーン先生・今晩は先生。
豚肉と海老の甘辛煮
魚の甘辛煮
クレイで炊いたご飯。頃合良く炊けていて美味しい。
フーン日本語能力試験特級合格者。と今晩は先生
午後1時半、宿舎へ帰る。昼寝。
午後3時、ベトナム事務所へ。里子の件でバオミンさん・
ハンさんと打ち合わせ
午後6時内田さん・ソン・メン夫妻とお子さん
日本料理店で会食
ソン君とメンさんのお子さんバオ君は6ヶ月半になった。
内田お祖母ちゃんの満面の笑顔
メンお母さんとバオ君
なかなか「利発そうに」育っている。
「子どもの家」を作って17年。子どもだったソン君・メンさんも
お父さん・お母さんになった。そして、新しい命を授かった。
素晴らしいことである。私たちの取り組みは本当に小さな
ものであるが、こうして、ソン君・メンさん、そしてお子さんの
バオ君を見ていると17年のフエでの様々な思い出が
走馬灯のとうに頭を過ぎる。「人間を育ている」という
JASSの基本精神は間違っていなかったと改めて
感じた今晩であった。ソン君・メンさん・バオ君一家の
幸せを祈る。
そして、メンさんを17年間支援してくれた内田さんに
心から感謝。口では何でもいえるが、「行動」は出来ない。
JASS精神の真髄は、「言行一致・継続」。
午後8時過ぎ、メン・ソン・バオ君は帰宅。
その後、内田さんと私で9時過ぎまで懇談。
2011年12月21日
12月20日・21日日記
12月20日 終日雨
フエ市郊外の海岸「トゥアンアンビーチ」に最近出来た
新しいホテルに泊まる。事実上のベトナム事務所職員旅行。
内田さんの招待。
夕食風景。
ハンさんが乾杯の挨拶と音頭
美味しい洋食が出た
=============================
12月21日 雨
朝8時半、ホテル出発。
午前9時半、ベトナム事務所。
ハイバーチュン高校の副校長先生が、「新年の挨拶」に
来訪。花籠を持って来てくれる。
今後ともJASSはハイバーチュン高校との提携・交流を
続けて行きたい。
体調不良。
昼から夕方まで寝ていた。
京都からのツアーの日程等の調整。京都の関係者に
送信。
2011年12月19日
内田さんと交流:昼食
曇り・昼過ぎから太陽が少し顔を出す。
朝から体がだるい。顔が火照っている。
午前7時朝食。フォー・ボー(牛肉の米麺)
午前8時半、ベトナム事務所へ。
昨夜、遅くフエに着いた内田さんが、ベトナム事務所を訪問。
ベトナム事務所員と挨拶、色々なお土産を渡す。
私は、体調が優れないので、午前9時半頃、ベトナム事務所
を出て、宿舎で寝ている。
午前11時半頃、電話があり内田さんと一緒に昼食をとの
こと。フエで有名な「バイン・・・」のお店へ。バインは粉。
米粉などを原料にした日本人からすると「おやつ」の
部類に入るのだが、ベトナム人に取っては「昼食」になると
いう。
「バイン・ベオ」。私の一番好きなもの。
米粉をベースに豚皮を香ばしく上げたものをのせる。
豚肉のミンチ
ベトナム事務所員全員参加
フエ風「お好み焼き」
豚肉を少し炙った
午後1時過ぎ、宿舎に帰る。
昼寝のつもりが熟睡。
午後4時頃、バオミンさんから電話。
メールを開くとたくさんの受信あり。
必要な送信。
ーー
金正日が死亡したとのこと。NHKの「ラジオ・ジャパン」で知る。
69歳。あの肥満気味の格好をみると「贅沢病」の成れの果て
とも思える。好悪の感情を除き、哀悼。
今後の日朝関係はどうなっていくのか?
1965年の日韓基本条約で「朝鮮半島を代表する唯一の政権」
として、大韓民国を認めた所から、日朝のねじれた関係が今日まで
続いている。
北朝鮮を批判する日本人は多い。私も批判してる。しかし、
たかだか60数年前の日本は、金正日の代わりに天皇」
をおけば、ほぼおなじ体制であったことは、忘れてはならない。
21世紀の日本の生きる道は、朝鮮半島・中国・アジアとの
共同・連携をなくしては存在出来ない時代に来ている。
体がだるい。早めに寝るつもりだったが、なかなか眠れない。
2011年12月18日
いくつかのグループの訪日の計画:内田さんフエ着
終日雨。
午前7時半起床。
午前8時、センさんが作ってくれた「マカロニスープ」の半分を
温めた食す。
読書「私にとっての20世紀」(加藤周一著:岩波現代文庫)
社会主義を語っている。ソ連が何故崩壊したのか?
中国共産党と日本人はどう付き合っていくべきか?
サルトルの実存主義をどう評価するか?
知的刺激を受ける。加藤周一が提示した本を読みたくなる。
午前中、4つの訪日ビザ申請に関わるベトナム側での資料を
作る。あまりに多量で1日ではとうていできない。
午後12時。朝食の残りの更に半分を温めて食す。
2時間ほど昼寝。
午後3時、雨の中電動バイク(途中で充電電気が切れた)で
ドンバ市場の先にある「チャートゥー」を買いに行く。
豚の頭・顔の「コラーゲン」の部分に塩コショウをしバナナの
皮で包み蒸したもの。
帰りに「コムディア屋」(ビンザン・平民庶民)の店へ行き、
夕食用のほか弁を買う。3万ドン(110円)。円高なので
非常に安い。ご飯と豚肉・アヒルの玉子焼き・野菜炒め・
私の好きな野沢菜のような漬物。
午後4時、帰宅。引き続き、申請ビザのベトナムで作る部分を
作成する。
多数のメール受信。必要なメール送信。
今日は終日雨が降っていて、非常に寒い。
2回洗濯する。1回目の洗濯でズボンを洗う。札のお金と
電動バイクの鍵を入れたまま洗ってしまう。
国際ソロピチミスト東京ー東の一色会長から電話あり。
15年ほど前からのお付き合いである。
フエ市立病院内に「障害児医療センター」を創設して頂いた
会である。2012年3月4日に「国際ソロプチミスト東京ー東」
の創立40周年記念式典がある。是非参加して欲しいとの
こと。皇族の何とかさんも出席とのこと。
一色さんは新宿にある茶道具で有名な「一色」の奥さん。
新宿東口の紀伊国屋書店の隣りにある一色ビル。
本当に国際支援・奉仕に対する「心のある」方である。
この10数年、国際ソロピチミスト東京ー東は、様々な
形でJASSや「子どもの家」、障害児医療センターへの
支援を続けてきてくれた。感謝。
人間は「口」ではない、「行動」である。
読書「私にとっての20世紀」(加藤周一著:岩波現代文庫)
午後8時50分、内田さんがフエ空港着の予定が20分ほど
遅れる。9時半近くになって私に電話あり。
定刻に着いたことのないベトナム航空ではある。
12月23日の「第16回目子どもの家クリスマス会」を
開催してくれる。感謝。12月27日までフエに滞在。
内田さん主催のクリスマス会は、「子どもの家」のこどもたち
の恒例の年中行事になっている。このクリスマス会が
終わらなければ、新暦の新年が迎えられない。
2011年12月17日
終日、部屋で仕事
1日中、雨
午前7時朝食。ブンボー(牛肉入り米麺)」
外は雨。
3つの訪日ツアーの日程、1つの海外ツアーの日程案を
作成。
・2月18日のJASS現地報告会参加JASSスタッフ日程案
・ベトナム・フエ投資セミナー団訪日日程
・静岡市招請日本語研修生訪日「現地報告会」参加日程
国際線航空券・在日中の全ての日程を確定するのは大変
交通手段の確定・ホテルの予約。
手間がかかる仕事である。
日本の関係者にメールを入れ、受け入れ態勢の現状を
確認。
午前11時半昼食。「肉入りおじや」と温キャベツ
午後2時間ほど昼寝。寒い。寒くて眠れない。
午後2時、再度、3つの訪日団のシュミレーションをし、
細かい日程を考える。新幹線・ホテル・その他もろもろ・・・・・。
読書「私にとっての20世紀」(加藤周一著:岩波現代文庫)
医学生だった著者の現実の政治を見る目は透徹した冷静な
科学的な眼である。某政党などが、アジテーションする「お題目」
のような空虚な掛け声を排し、冷静な分析。全てを一色で
塗りたくるという手法を排す態度に共感する。
日本人の知性の代表の一人であることは事実だ。
加藤周一と立川談志の思考の出発点が同じであると
私は思っている。
原点は、1945年8月15日の「日本の敗戦」である。
談志1936年生まれ。敗戦時、9歳。小学校4年生位か?
鬼畜米英と呼号していた「大人」が8月15日を過ぎると
「アメリカ万歳」となる。こうした世間の極端な変身が
松岡少年(談志)に「世の中のいい加減さ」への反撥を生んだと
私は思っている。人間は「時代に規定」される。
談志の「奇行」とも思える行動の原点は、8月15日だと
思っている。「お前ら、立派なことを言っても結局、世の中が
変わればそれに追随するのだろ」ということを、奇行で
抗議したと私は思っている。
加藤周一は、東大医学部出身の医学博士。
戦時中から「この戦争は負ける」と思いながら、何も出来ず、
源実朝「金塊和歌集」を読んでいる。実朝は、暗殺されることを
覚悟して生きていた、その立場で作った和歌集は、
加藤周一が死地にいつ駆り出されるか分からない自分の
立場と思いながら読んでいる。加藤周一の原点も「出方は違う」
が談志と同じなのである。
私は談志より11歳若い。しかし、私の思考・行動の原点も
「アジア・太平洋戦争」である。私は戦前生まれていなかった
が(戦後2年目にして生まれた)、兄が中国から引き上げ中に
栄養失調で死に、我が家が貧しい暮らしをしたことも戦争に
1930年から1945年まで15年間参加した父親とそれに
追随した母親の人生の結末が、戦後2年にして生まれた
私の人生に大きく影響を与えている。というよりも戦争そのものが
私の人生の出発点でもある。
談志少年、加藤医師が戦争を体験したのに対し、私たち
「団塊の世代」は直接の体験はないが、親が「軍人精神」の
持ち主であり、戦争の反省もしていない・・・という環境で
育った。こうして、加藤周一が戦争と平和にこだわり、談志が
奇行をしながら、「戦後急変した」大人への反撥を屈折して現して
いるのに対し、戦後の「団塊の世代」はどんな表現・生き方
をすればいいのだろうか?
加藤周一も談志も屈折している。私たち団塊の世代も
屈折しているのが、「正常」な人間だと思っている。
団塊の世代は今こそ一層屈折しなければならない。
「団塊の世代」と言わずに「屈折の世代」と呼ぶべきなの
である。私と一緒に学生運動をし、その後労働組合運動を
平和運動をした「団塊の世代」が別荘を買い、夫妻で海外旅行を
している。悪いことではない。
しかし、20代の若者が仕事がなく「生活保護」を受けて生きている
現在に何も反応しない「マイホーム」に埋没した「意識だけ」の
平和・民主主義者があまりに多い。家庭と夫婦「相和し」は
「ご立派なこと」であるが・・・・・。
私は有能な若者が、今の社会から排除されている現状に
非常に強い怒りを感じている。と言って私一人が「決起」しても
世の中が変わる訳ではない。しかし、世の中が変わろうと
変わるまいと「自分という一人の人間として」、何かをしたい。
世の中に何も影響がなくても・・・・・・・。
2011年12月16日
臨時ベトナム事務所員会議
終日雨
午前7時朝食。「フォー・ガー」(鶏肉入りのフォー米麺)
午前8時、雨の中徒歩でベトナム事務所へ。
ベトナム事務所では、事務所員が非常に真面目に仕事をしていた。
富岡先生
古賀先生・フーン日本語部長(N1取得先生)
ミス「フェリシモ」のアンさん
ソン君と原田先生
バオミンさんトハン会計部長
その後、ブライセンベトナム支社の勤務の様子を視察
新入社員
午前9時。臨時ベトナム事務所員会議。
議題は、12月のスタディーツアーの担当分担。
12月23日のクリスマス会の計画・担当
バオミンさんの提案で12月のスタディーツアーなどの
担当分担を確認する。
その後、クリスマス会の担当分担。
12月18日に内田さんが来訪。
その後、
12月20日にベトナム事務所員全員でフエ市内の
ミーアン温泉へ行き、更に新しく「トウオンアン海岸」に出来た
4つ星ホテル「アン・マンダラホテル」に宿泊。
12月23日クリスマス会の日程確認などを行う。
雨の中、徒歩で宿舎へ帰る。
11時半、昼食。「チャオ・バイン・カイン」(小麦粉の手打ちうどん)
午後12時から2時間昼寝。
その後、午後10時までメール受信。送信。
午後11時半、就寝。
2011年12月15日
ニエン外務部長などと懇談:木村百合子さん裁判勝訴
終日雨
これで2週間ほど雨が続いている。
午前7時朝食。「チャオ・バイン・カイン」(小麦粉の手打ちうどん)
雨の中、バオミンさんがオートバイでフエ市人民委員会外務部へ
連れて行ってくれる。
ニエン外務部長とその友人と懇談。様々な問題を話し合う。
今後の一層の協力を約束する。
午前11時半、昼食。
温野菜・魚のフライ・野菜サラダ・肉団子のスープ
午後12時過ぎ。2時間ほど昼寝。体がだるい。
午後7時まで、訪日する「子どもの家」関係者などの書類を
大量に書く。
日本の支援者に長文の文書を書く。
午後6時過ぎ、バオミンさんと仕事の件で電話で打ち合わせ。
静岡市役所と連絡。日本語研修生の件
読書「私にとっての20世紀」(加藤周一著:岩波現代文庫)
非常に興味のある内容。現在の政治的混迷を「現状追随主義」
の日本人と喝破している。
===========
静岡大学学生の頃からJASS会員であり、JASS静岡の会
で活動をしていた静岡県磐田市の教員木村百合子さんの
自殺裁判で、静岡地裁は、木村百合子さんのご両親が
訴えていた「公務災害」を認め、勝訴した。
木村百合子さんは静岡大学学生時代から「子どもの家」へ
何度も来てこどもたちへの支援をしてくれていた。
静岡県磐田市の教員になり、新任教員でありながら
指導が難しい多動性のこどもたちなどの担任となり、
うつ病を発症。校長や教頭、研究主任などに「指導が難しい
助けて欲しい」と何度も訴えたが、校長・教頭は「お前は給料を
もらってるのだろう」などといい、新任の木村百合子先生への
援助を放棄。4月に就職し、9月に車の中でガソリンをかぶり
自死した。両親が校長など管理職が適切な援助をしなかった
ことにより娘は自死したとして、静岡県の公務災害基金に
「公務災害を適用するように」との裁判を起こした。
12月15日、静岡地裁は、木村百合子さんのご両親の訴え
を認め、「公務災害を適用せよ」との判決を出した。
うれしいことである。
私も裁判闘争に参加し、裁判の証人として出廷するための
意見書原案を作成した。
第1 はじめに
1 現在のご職業,活動内容
・ JASSの活動内容
(職業)
NPO ベトナムの「子どもの家」を支える会(JASS)代表
1993年、東京都公立小学校教諭を退職し、ベトナム社会主義共和国フエへ渡り
ストリートチルドレンや生活困難なこどもたち、障害児の救済を行っている。
① ストリートチルドレンの家
・この15年間で450人以上の路上のこどもたちや貧しいこどもたちを
収容し、衣食住、通学を保障。こどもたちは職業訓練などを行い、社会に巣立って行った。
・現在は58人のこどもたちがストリートチルドレンの家で10人のスタッフのお世話で生活し、通学したり職業訓練を受けている。
② 障害児医療センター
フエ市内に障害児医療センターを設立し、障害児の診断、リハビリ、生活支援などを行っている。また、フエ市内25箇所にある診療所に「障害児父母の会」を設立し、障害児と親・家族の心のケヤー、リハビリ指導などを行っている。
③ 奨学金の贈呈
この10年間で延べ2000人の小中高大学生に奨学金を贈呈している。
生活困難な家庭の師弟に奨学金を支給し、フエ医科大・フエ教育大・フエの
高校、中学校、船上生活者や山岳少数民族の多い小学校に支給。
④ 日本語学校の運営
フエ市内に日本語学校を設立し、日本人教師を招請し、毎年200人の
地元の若者に日本語を教えている。また、フエ教育大日本語学科の顧問に就任し、地元の公立小中学校での日本語教員の養成活動も行っている。
⑤ 日本の若者の招請
現在年間1000人ほどの高校生・大学生が「子どもの家」や私の現地での
ボランティア活動を視察にしている。これらの高校・大学生にベトナムで年
間50回以上の講演会を行っている。
・ 国内外の評価
16年にわたる上記のボランティア活動が評価され多くの賞を受賞している。
以下はその一部。
① ベトナム国内
・2001年 フエ市名誉市民賞受賞
・2004年 フエ省知事特別表彰
・2004年 ベトナム政府より「友好勲章」受章
(外国人に与えられる最高勲章)
② 日本国内
・2001年「2001プロジェクトオブザイヤー賞」受賞(外務省・JICA)
・2002年 東京弁護士会人権賞受賞
・2002年 社会貢献支援財団「社会貢献賞」受賞(日本財団)
・2004年 外務大臣表彰受賞(川口順子大臣)
・2007年 第35回読売医療功労賞受賞(読売新聞社)
厚生労働大臣賞受賞(柳沢伯夫大臣)
医療功労賞受賞(新聞記事を添付していただけますか?)
・その他
この16年間、ベトナムに8ヶ月、日本に帰り3ヶ月の生活をしている。
日本へ帰国し、3ヶ月で多い時には100回の講演会を行っている。
多くは北海道から沖縄までの小中学校、高校、大学である。こうした講演会を
通して、全国各地のこどもたちの様子を知り、多くの先生方と話を行ってきた。
現在の日本中の小中高校大学の実態を講演会・懇談などを通して体験している。
現在、静岡大学非常勤講師、福島大学非常勤講師。ボランティア・NGO、ストリートチルドレン、世界の貧困問題などについて、一時帰国時に教えている。
2 教員としての職歴
・1971年3月東京学芸大出身
・1971年4月 東京都北区立滝野川第7小学校教諭として勤務
・ 1983年3月まで上記小学校に勤務。小学校1年生から6年生までを担任。
学年主任、体育主任、視聴覚主任等を歴任。
・1988年4月 東京都板橋区立舟渡小学校教諭として勤務。
学年主任、研究主任、家庭科主任等を歴任
・ 1993年8月 ベトナムのストリートチルドレン支援を決意し上記小学校を
退職(東京都公立学校職員を退職)
4 現在の公立学校の教職員の職場環境に対する意見
・ 精神疾患による休職者が増加の一途をたどっていることへのコメント
既に1980年代から学校に大きな変化が現われてきた。これには様々な原因が考えられる。1985年から1990年にかけての「バブル」がこどもたちの意識と行動に大きな影響を与えた。消費とお金・出世が人生の物差しと考える親とこどもたちが激増した。また、家庭が人間の基礎組織としての機能を失いつつあった。家庭でこどもたちを「しつけ」て成長させるという昔からあった家庭の教育機能の劣化も始まっていた。また、地域社会の教育機能も事実上崩壊していた。
同時に文部省からの管理締め付け方針も一層強化された。
1970年代前半までには、学校の職階は、校長と教諭のみであった。教頭職は出来たが、教諭の仲間ら選ばれ、指導権はなかった。1994年頃の田中首相の主導した「人材確保法」の成立により、学校に校長→教頭→主任→平教諭という職務職階制度が確立し、それまで学校でどの教員も平等に発言し、教育を行っていた現場に大企業の「経営理論」が持ち込まれ、校長からの指示命令で学校が動くような組織の改変が強行された。
その後、2000年代に入り、「学力低下」問題が遡上にのぼり、学校が予備校張りのテストと点数でこどもたちを評価する体制に一層深まり、多くの教員が学力向上運動に動員され、神経と体力をすり減らへらしている。
同時に学校教育に「新自由主義」路線が導入されだした。それは企業で行われている「成果主義」「結果主義」「数値主義」という方式の人事考査への導入である。
教職員は、「努力」するだけでは評価されず、常に具体的な見える「成果」を上げなければならず、成果は数字で確認できるものでなければならないという風潮である。数年前に都立のA商業高校へ講演会に行った。以下都立A商業高校の先生の話。
「当校では、教育委員会・校長の指示で年度当初、全ての教職員が年間の目標を数値で出さなければならない。たとえば、簿記3級合格者を50名出すとの目標を設定した場合、校長からは、簿記3級に合格しそうもない生徒は、特訓に入れず、合格しそうな生徒だけに絞って特訓し、数字として結果を出すようにとの指導を受け、
ある教諭は、53歳だが、退職するといっていた。」
こうして現在、全国の多くの教員は、成果主義・結果主義という人事考課システムの中で翻弄され、疲労が極度に蓄積されているというのが実態である。
更に東京都の石原知事の提唱した卒業式に「国旗」「国家」を掲揚・斉唱しない教員は処分され、今日では、こどもたちまで指導されるという強権的な教育行政が
行われ、全国に普及している。最近では、職員会議での教員の発言そのものを禁止する通達さえ出されている。職員会議は、校長の一方的な伝達機関と化している。
家庭での教育力が減退し、地域での子育てと教育力もなくなり、
「モンスターペアレンツ」の出現も教員への大きな精神的なストレスとなっている。(注:法外な要求を学校にしてくる親。学芸会で何故うちの子を主役にしない。遠足の写真で何故うちの子を真ん中にしない。から始まり、運動会・卒業式では、行事を妨害してでもわが子のビデオ撮影をする親。給食費を出さず、注意すると義務教育だから無料だといい支払いを拒否する親・・・・・)
更に最近の学校は本来家庭や地域で教えられていたことや社会の発展で誰かが教えなければならない(交通安全・パソコン・投資教育・環境教育・国際理解教育・・・)多くの分野と領域を「学校が背負う」ようになり、異常な忙しさの中におかれている。
特に1980年代から顕著になった「学級崩壊」現象は、多くの教員を悩ましている。文部省も言っているように「学級崩壊」は一部の力不足の教員のクラスで起こるものではなく、いつでもどの教諭にも起こる社会現象である。
学級が崩壊することは、教員としてのプライドとアイデンディティーそのものを
否定されることになる。平たく言えば「無能教諭」という烙印を押されるように本人は思ってしまう。
以上、最近の学校現場は①文部省などの「学力低下」の掛け声で「学力増進運動」にかりたてられ ②モンスターペアレントの常識外の要求に翻弄され ③今まで学校教育では扱わなかった多くの分野・領域が学校に持ち込まれ、異常な多忙化の中に置かれ、④文部省や教育委員会からの命令・指示などの締め付けと規制が増え、
⑤成果主義・結果主義・数値主義という評価システムに教職員はおかれ、精神的、肉体的な疲労が最高に蓄積する基盤が出来てしまっている。
こうした中で多く教員は精神疾患になり、一部は退職し、一部は長期療養を
せざるを得ない現実がある。現在大都市を中心に教員のなり手が激減し、東京都教育委員会では大阪・京都にまで出張所を設け、教員採用試験を行っている現状である。教員へのなり手が激減している。
・その他
第2 百合子との関係
1 生前の百合子との交流
木村百合子さんと私の出会いは、百合子さんが静岡大学教育学部学生の時、
私の活動をテーマにした授業があり、百合子さんは私の存在を知った。
私の主催している『ベトナムの「子どもの家」を支える会(JASS)』静岡支部の代表を務めていたのが、静岡大学教育学部のA教授だった。百合子さんはA教授にJASS静岡支部への入会を相談し、会員となった。その後、JASS静岡支部主催のバザー、
ストリートチルドレンの勉強会などに積極的に参加するようになった。
百合子さんが大学2年生の頃、JASS静岡支部主催のベトナムスタディーツアーが
企画され、百合子さんそのスタディーツアーの世話役となり、中学生や高校生などを連れて私の主催するベトナムフエ市にあるストリートチルドレン保護施設「子どもの家」を訪問した。その後、百合子さんは夏休みなどを利用して、「子どもの家」に来て、路上生活をしていたストリートチルドレンへの「心のケヤー」などを行ってくれていた。
静岡県磐田市の教員になってからも私が静岡市で行う講演会に参加し、JASS静岡支部の活動に参加してくれていた。
百合子さんが亡くなる少し前、2004年7月9日に私は静岡市内で講演会を行い、その後市内の割烹料理店で関係者の反省会を行ったが、百合子さんはわざわざ磐田市から静岡市まで出てきて反省会に参加。私が「学校はどうですか?」と聞くと「大変ですが、頑張っています」と言っていたが、「激やせ」しているのに私は驚いてしまった。何か学校であったのではと思った。
2 百合子の死を知った経緯
百合子さんが亡くなる少し前の9月になって、百合子さんからベトナムの私にメールが届いた。
内容は「JASSがフエで運営している日本語学校は、誰でも教師になれるんですか?」とのことだった。私は、4月に教員になったばかりの百合子さんがどうして半年もしないうちに「私が校長をしているフエの日本語学校の教員募集」について、問い合わせをするのか不思議に思った。私は学校で何か問題があり、学校を辞めたいとの気持ちがあるのではなないかと察し、JASS静岡支部の関係者にその旨連絡をした。静岡市内に住むJASS関係者が木村百合子さんに問い合わせたところ「疲れているが」との返事だった。更に百合子さんと話し合いをする予定だったが、その前に百合子さんは亡くなってしまった。
その後、JASS静岡支部の事務局長からメールが入り、木村百合子さんが亡くなったとの情報をベトナムで聞いた。
私は11月に日本へ一時帰国。磐田市の木村百合子さんのお宅へお線香を上げに行き、
ご両親が木村百合子さんの自死・憤死の無念さを涙ながらに語り、百合子さんの日記や
「週案簿」、その他の資料を見せてくれた。内容を熟読して私は驚いた。
今日の学校現場でこんな異常なことが起こっていることへの怒りである。それは、管理職などの怠慢と『いじめ』とも言える所業、また、百合子さんのクラスが明らかに多動性の児童によってかき回され、更にそれに同調する児童たちによって「学級崩壊」といえる状態にあったことである。これに対する管理職の「無能」ともいえる対応に驚いたのであった。百合子さんの残した日記や週案簿などを読むと、百合子さんの自死は形の上では自殺でも実質的には「死に追い込まれた」自死と直感した。
少しでも学校現場にいた人間であるなら、百合子さんの日記や週案簿などを見て
そこにかかれている「悲痛な叫び」「助けと応援を求めている訴え」の声に
心が張り裂ける程の悲しみと、職場の管理職などが、何故救いの手を差し伸べなかったのかとの怒りを感じる。
敬虔なクリスチャンである百合子さんは、信仰上の教義からしても「自死」はしない。もし、「自死」をしたとしたら、よほど追い込まれたのだと確信した次第である。
私の心の中に「世の中にこんな理不尽なことがあって良いのか」との気持ちが起こった。
第3 本件の問題点及び意見~記録を踏まえて~
1 4年2組の混乱の程度についての意見
・ 「学級がうまく機能しない状況」(子どもたちが教室内で勝手な行動をして教師の指導に従わず,授業が成立しないなど,集団教育という学校の機能が成立しない学級の状態が一定期間継続し,学級担任による通常の手法では問題解決ができない状態に立ち至っている場合)という文科省の定義に照らして,4年2組の状況はどうだといえるか?
木村百合子さんの担任学級の場合、一般的な教員の感覚からすれば明らかに「学級崩壊」と断言できる。
最大の理由は、教師の指導が個々のこどもたちに貫徹していないこと、学級集団の秩序が保てていないこと、そして、正常な授業が成立していないこと。
年度当初、学習指導要領に準拠し年度の授業計画(カリキュラム)を立てる。それに従った授業割り振りを授業計画に従って毎週「週案」という1週間の授業計画を立てる。時々は計画通りに行かないこともあるが、一般的にはおおよそ「週案」の計画に従って1週間、1ヶ月、1学期、そして年間の授業が行われる。
木村百合子さん学級の場合は、こうした授業を進めることが困難であると推定できる。
・ 一般的に,「学級がうまく機能しない状況」はどのように生じうるか
① クラスに何人かの「家庭の事情・問題を持った児童」がいる場合。
この場合には、家庭での躾、養育・教育が真っ当に行われず、家族が極端に甘やかした場合、逆に極端に厳しくした場合、暴力、育児放棄などの親からの虐待などを受けた経験のある場合、両親が離婚問題でもめていて、毎日子どもの前で夫婦喧嘩を繰り返している家庭の師弟などがいる場合等々、子どもたちの心の中にストレスが鬱積している場合。そうした場合、おおおにして、子どもたちは、若い先生や女性など「優しそう」な先生と思える教師に「自分勝手な行動」をして自分を主張し、ストレスを晴らす場合が多い。こどもたちは心の中に鬱屈した不満とエネルギーを秘めている。そうした不満をやさしそうな教師にぶつけてくる。
そうした一部の行動にクラスの一部のこどもたちが追随し、最終的にはクラス全体に教師の指導が貫徹できなくなる場合である。
② 特に家庭での躾や養育に著しい問題がない場合
現在の社会全体が「利己的」「自分中心」的な傾向を持っている。父親は会社の仕事で忙しく、母親もパートや母親同士の付き合いなどで家庭を十分に振り向かない傾向が一般的にある。こどもたちは、今まで社会の常識と考えられていた行動様式を教えられていない。入学式の初日の授業で机の上を渡り歩く子ども、それを後ろで見ている母親がこどもを全く注意もしないという現象は各所で見られる。
こどもたちが特におかしいのでなく、親の一般的な躾・養育能力の低下が原因で
こどもたち自身の行動と思考が劣化している傾向がある。一般的に社会規範が低下していることは否めない。
こうした傾向は全国の多くの学校にみられる。従って、学級崩壊は都会だけでなく、漁村・農村・離島・山間壁地など全国どこの学校・学級でも見られる現象である。これらのこどもたちが「学級崩壊」をその周辺から支えるこどもたちである。
中心となり「騒ぐこども」が出てくると同調する傾向がある。
③ 多動性の性向を強く持った子ども、知能に多少の低さが見られるこども、
重度の精神疾患の子どもなどがいる場合。これらのこどもたちの中には、
授業中、一貫して「奇声を発する」「動き回る」ということがある。これは
本人の意図するところではない場合がある。何らかの知的障害などがその原因と考えられる。同時にこれらのこどもたちが、授業時間中「奇声を発し」「動き回って」いると、クラス全体がざわざわとし、落ち着きのないクラスの雰囲気が出来上がってしまう。授業は、落ち着いて物事を考えるクラス環境が整わないとなかなか成立が難しい。学年の当初は、奇声を発し、動き回る子どもがいても、他の子どもは、無視をして授業に専念しようとする傾向もあるが、一般的には、2週間ほどそうした状況が続くと、少しずつ他の子どもたちも追随し、最終的には正常な学級としての活動が阻害される状況に至ってしまう。
・ 「学級がうまく機能しない状況」に陥った場合の担任教諭の負担について
① 小学校は明治以来一般的には「個人担任」制度を採っている。
この制度の良いところは、力量のある教員の場合には、教師と児童が一体となって素晴らしい成果を上げることが出来ることである。戦後の「やまびこ学級」などのような事例。
同時に教師の経験や力量などが低い場合には教育の成果もあまりあがらない傾向がでてしまう。
小学校の担任制度は、教室の入り口に「小山学級」などとかかれるいることに象徴されるように、個人請負制のように、至って個人の能力と力量が試される場所でもあるのだ。
個人担任制を取っている小学校では授業だけでなく、給食、掃除当番、
班グループ活動、学級図書、係り活動など多くのいわゆる「教科授業」以外の
教育がある。更に運動会、学芸会、水泳記録会、展覧会、遠足などの諸行事もある。クラスがうまくいかないと、「担任の力量がない」と言われる風潮は昔から小学校現場には根強い。クラスが学級崩壊したり「うまく機能しない場合」学級担任はどうしても「自分の能力、力のなさ」を責める傾向がある。
こうした状態に陥った担任教師の場合、多くの教員は何らかの形で精神的な強い負担、ストレスを感じることは事実である。これは給料の問題ではなく、自分という人間を否定されているものと感じ、自分自身の人生そのものを左右するほど大きな問題と自覚してしまうことが多い。つまり教員としての「アイデンティティー」を失うことを意味するほど、教員人生にとって重大な出来事となってしまう。精神疾患で休職する教師の多くは40代以上のベテラン教師である。学級崩壊はいつでも誰でも起こる可能性を持っている現状であることが分かる。
(資料)精神疾患の休職教員、過去最多の4995人
(サンケイ新聞 2008年12月25日)
鬱(うつ)病などの精神疾患で平成19年度に休職した全国の公立学校の教員は、前年度より320人増の4995人にのぼり、15年連続で過去最多を更新したことが25日、文部科学省のまとめでわかった。文科省では「子供や保護者との人間関係で自信を失い、ストレスをため込んでいる」と分析している。(途中略)
19年度1年間で病気休職した教員は、全教員の0・88%の8069人。このうち、鬱病やパニック障害、統合失調症といった精神疾患を理由に休職した教員が、病気休職者全体で占める割合は61・9%と前年に引き続き6割を超えた。 精神疾患による休職者の内訳は、小学校教員が2118人(42・4%)、中学校で1516人(30・4%)と全体を7割を超えた。年代別では、40代1872人(37・5%)、50代以上1756人(35・2%)-と中高年の教員に多くみられた。
1980年代には、学級崩壊や「クラスがうまく機能しない場合」に陥った場合「自分だけで背負い込み、他のクラス担任や学年主任、校長などの管理職」にも相談せずに秘匿し、悩んでいるケースが続出した。当時の文部省や教育委員会は、学級崩壊的な傾向は「どこでも、誰にも起こること」という趣旨の指導を行い、クラスがうまく機能しなくなった場合には、校長や同僚教員、先輩などに相談し、クラスの現状をオープン化し、学校全体で解決するよう呼びかけている。
・ それが新採教諭であった場合の負担について
初めに私的なことで恐縮ではあるが、私が東京駒込の小学校へ新任教師として赴任した際、多くの年配の先生たちは「小山さん、本当の教師になるためには、10年かかる。それまでは、様々なこどもたちとの触れ合いの経験を積み、こどもたちの心の掴み方の要領を会得し、こどもたちの興味をひきつける授業の工夫をするなど勉強と成功と失敗の体験、経験が必要だ。私たち先輩が応援するから頑張りなさい」と言われたことが今でも鮮烈に思い出される。1070年代までは、学校全体が若い教師を「育てよう」という風潮があった。教師は一種のプロの「職人」という考え方が、小学校現場の底流には流れていた。
実際、新任教師はこれら一つ一つの体験を積んではじめて「教師」となるのであるが、現実には、新任教員は大学3年生と4年生で短期間の「教育実習」をする程度で、本格的な学級担任の経験がほとんどないまま教育現場に出ることが多い。小学校の担任は広範な教育分野を一人でこなし、それ以外の様々な仕事にも追われとにかく忙しい。
そうした中で学級崩壊や「クラスがうまく機能しない」クラスの問題が起こった場合、
経験不足のため、その対処の仕方が分からないのが通例である。
そのため時には、パニックに陥ったり、こどもたちを感情的に怒ったり、甘やかしすぎたりと試行錯誤をするのは、未経験なためにおこる当然の行動である。自分としては、様々な努力をしても効果が出ない場合、通常の学校では、校長なり副校長、教頭なりが学級に朝から放課後まで付きっ切りで張り付き、こどもたちの様子を観察し、時には、暴走するこどもたちに校長や副校長、教頭などの「威厳」でこどもたちの暴走を抑えるつけたりし、
クラスの秩序回復の努力をしている。
万一、そうした先輩や管理職などの支援がない場合、孤立無援となり万策尽きて精神的に
強度のストレスが溜まることは容易に推定できる。新任教師が学級崩壊等の現実に直面した場合、想像以上のストレスと「自己否定」「自己喪失」「自己自信の崩壊」へ通じていく。
・その他
2 児童Nの指導の困難さの程度についての意見
・ Nの多動性についての意見
私の個人的な見解ではN君は「AD/HD」の特徴的な症状を持っているように思われる。①不注意(集中できない・・)②他動性(落ちついていられない)③衝動性 これらの状況から見て、N君が「AD/HD」かそれにかなり近い特徴の児童であると思われる。
百合子さんの観察記録を具体的に見ると、集中できない事例や動き回ったり、落ち着かず、衝動的に発言や行動を行っている。
「第2準備書面」34ページから34ページ上段までに詳述されている具体的な行動事例君のAD/HDが強く疑われる。複数の医師の診断(診断基準としては、WHO(世界保健機関)の国際疾病分類である「ICD-10」と、米国精神医学会の「DSM-IV」の2つがあり、これらを基準にした専門医師の診断が必要)並びに専門家のサポート、
AD・HDなどの児童を専門に担当する教師がいる。
こうした教師の経験と専門知識も生かしながらのN君への指導が必要だった。
旧「障害児学級」や「学校」などの教師はその経験と知識を一定程度もっている。
N君も教育を受ける権利を有する。従って、AD/HDかそれにかなり近いと思われる「不注意・他動性・衝動性」に強い子どもの教育を新任教師が受け持つことは、
一般的な小学校現場ではありえないことである。少なくとも経験豊富な教師か
N君を担任した教師など、N君の特性を熟知している教師の指導と担任が必要と思
われる。
・ Nのような児童が一人でもいることによる学級担任,とりわけ新採で学級担任になっ た場合の負担について
AD・HDやその境界線上にいる児童、あるいはそれに近いと思われる児童が何故そうした行動を起こすのかなど現在でも医学的に様々な論争もあり、医学的にその原因と指導法が確立しているとも言えない現状がある。現場のベテラン教師ですらAD・HDやそれに近い児童への知識と対処方法を熟知していない。旧障害児学級・学校などの教師が現実の児童・生徒への対応の必要性からその対策と教育方法が進みだしているのが現状である。そんな中で新任教師はなお更、指導は難しく、N君一人だけでも手に余る状況であることは、容易に想像できる。新任教師はやることなすことが全てはじめての経験に近い。通常の教育業務を遂行するだけでも相当の困難と心労が溜まるものである。ましてやN君が1人いることで、何十倍もの心理的・物理的・肉体的な負担がかかり、その上、クラスの正常な授業を妨げる諸行動があり、その対処に孤軍奮闘している新任教師の心の中を考えると「やるせない」気持ちになり、百合子先生をこうした中に放置していた教育委員会や管理職等など雇用者の無責任さへの怒りさえ感じてくる。
・ Nのような児童は他のクラスにもいる(言外に,この程度の児童は他の教諭であれば指導可能だという発想)という,基金(学校)側の弁解について
多少、落ち着きのない児童、手のかかる児童がいるが、N君のような児童は一般的にはクラスにいない。「第2準備書面」34ページから34ページ上段にあるような具体的行動を見ると、他のクラスにはいないか、いた場合には、教育委員会や学校が特別の支援体制を組んでいるはずである。
・その他
3 管理職の管理能力の問題
・ 「学級がうまく機能しない状況」に陥った場合に,通常,管理職がとるべき対応について
学校教育法37条4項で「校長は公務をつかさどり、所属職員を監督する」義務を負っている。
百合子さんは、週案簿にN君や学級の状態を克明に記述している。週案簿は校長が読み、確認印を押しているものである。当然、校長は4年2組の百合子学級が
学級崩壊かそれに近い状態に陥っている実態を認識していた。「第2準備書面34ページから36ページにかけての具体的な4年2組の実態」を知れば、文部省や各都道府県などからの指導にある「学級崩壊」あるいはほぼそれに近い学級状態にあることは、教育関係者であれは誰でも客観的に理解でできる状況であった。
通常、こうした場合には、校長のイニシアティブで教頭・生活指導主任・学年主任、百合子先生も含めて「対策会議」が開かれ職員会議での討議の対象となる。それ以前に「学年会」等での論議が行われ、学年主任から校長などへの報告相談が行われる。管理職等が百合子先生から事情を聴取し、学級の実態と問題点を関係者が「共有」することが第一である。
続いて、当面の対応、抜本的な解決策などを考えるのが普通である。
当面の対応については、担任を持っていない教頭・鈴木教諭等が「張り付く」ことは百合子さんが亡くなった2004年当時の教育の世界では「常識」の部類に入ることである。張り付くという意味は、ほぼ終日クラスにつき、問題行動を起こす児童への指導助言等を行い、教室に秩序を確立する手助けをする仕事である。
また、場合によっては、父母の参観を呼びかけ、毎日交代で数名のクラスの父母が学級を見ているという形で学級崩壊へ傾斜するこどもたちに父母の暗黙の力で一部のこどもたちの「挑発に乗らない」よう監視活動も2000年代では一般に各学校で行われていた。
抜本的な対策としては、教育委員会からN君担当のスタッフを派遣してもらうこと、N君の診断を促進し、障害児学級などへの専門の学校への転入をすすめることなど、N君の発達と成長・人権を守る立場での抜本対策を協議するのが普通である。
★ 私的なことではあるが、私・妻・妻の姉、私の妹、妹の夫と私の親族は5人が
小学校の教員をしていたり、長年教員を送り定年退職したりしている。これら5人はこの種の経験をたくさんもっているが、百合子さんのようなクラスが自分の学校で発生すれば、直ぐにこどもたちの噂や話で分かる。当然ながら、上記のように校長が主導し、関係者による「対策会議」を作り、対策を立て、問題を出来るだけ減少させる措置をとっているという点では意見は同じである。
★ 私は年間3ヶ月ほど日本に帰国し全国の学校での講演会をしている。
2009年2月にある小学校6年生の学年に講演会を頼まれていった。
4クラス150人ほどの学年だった。事前に学校側からは、6年1組が「学級崩壊」状態だが、卒業の最後に「人間の生き方・進路」についてこどもたちへの教育をしたいので、是非、学校で私のベトナムでの経験を話してほしいと言われ講演を受けた。
当日、学校へつき、大きな教室へ行った。2組3組4組のこどもたちは静かに
座って私の話を聞く態勢に入っていた。しかし、6年1組は立ち歩き、半数はすわり、半数は動き回っていた。
後に校長先生に話を伺ったら、担任の教師は40歳代の女性教師。2名ほどの児童が「他動性・衝動性・落ち着きがなく」、授業中フラフラ教室を徘徊し、教師がいくら注意してもいうことを聞かず、却って「口応え」し、先生をおちゃらかし、授業妨害を専らしていた。そのうち、その周辺の児童も同調し、ついには、授業が全く成立しない状況になってしまった。
校長先生が主導し、副校長、学年教師全員、図工・音楽・養護教諭など専科教員等で話し合いを持ったり、職員会議で話し合ったり、保護者会を開き、親に実情を伝え、保護者の協力(親が交代で学級補助)をする体制などを作ったそうだ。
また、色々な先生が授業に入りこどもたちへの指導をし、副校長がが副担任となり、
常時張り付いていたそうだ。区に依頼し、スクールカウンセラーに来てもらい、学級崩壊対策への意見を聞いたり、
40人のクラスを3つに分け、それぞれに一人の教員を貼り付けるという対策を採っていた。副校長、理科専科が1日中張り付いていた。
講演会は定刻30分遅れて開始された。60分の講演会の予定だったが、6年1組が静かににならないため、30分待たされた格好になった。それでも定刻より30分遅れて6年1組は3人の先生の奮闘で静かに座り私の講演となった。数分話をするとと問題の中心的男児二人が立ち歩き始めた。直ぐに副校長など貼り付けの先生二人が、二人の男児を制し、座らせた。私はこどもたちが飽きてきてはいけないと思い、ストリートチルドレンのビデオを5分ほど上映した。6年1組も静かに見ていた。また私の話になると数人の男児が後ろを向いたり、声を出して話し出した。そのたびに、各グループ担当の副校長や理科専科、クラス担任が男児のところへ急いで行き、注意をしていた。
こうして、60分の予定の講演会は6年1組が着席しないために30分遅れての講演会とはなったが、講演会は短時間だが出来た。2組から4組のこどもたちも6年1組の4人の先生が奮闘している状況を見て、私の講演会に協力してくれた。
6年1組の学級崩壊の実態の一部を講演会という形で垣間見た私だが、それでも
学校が校長以下、一致協力してこどもたちに対処している事実に対して、多くの児童は安心感をもち、けして一部の男児の行動に共感をもたない雰囲気と空気が講演会を通して感じられた。
学級崩壊を阻止することは難しいことではあるが、その後の対策で「学級崩壊」から、限りなく普通のクラスへ近づける努力をすることは出来るし、この小学校のように管理職を中心に学校全体で「学級崩壊」クラスの実態を共有し、対策を組み、対応すれば出来ることであることを、体験した。
・ 本件で,管理職,同僚教諭らがとるべきだったフォローとは?
① クラス編成上の重大なミス
通常、クラス編成をする場合、次年度の担任がおよそ分かった時点で行う。
その場合、新任教諭が就任する場合には、どこの学校でも「特別の配慮」を行っている。当然ながら新任教員は学校現場そのものに未熟であり、これから種々経験をし成長を期待される存在であるからだ。一般的には、学年全員の教師でクラス編成案を作り、最終的には校長は校長が承認する。その際、
「問題行動を起こしやすい児童」「家庭に問題のある児童」「障害か病気にかかている児童」「学力が著しく低い児童―特別の指導が必要な児童」・・・をピックアップし、
次年度の担任の特性と能力等を勘案し、クラス編成を行っている。
本件の場合、元担任の鈴木教諭は児童Nの問題行動を知っていたはずである。
児童Nの行動は、4年2組になってから急に粗暴になり、いうことをきかなくなったとは思われず、前担任の鈴木教諭の時代にもその「萌芽」は必ずあったはずである。真っ当な教師ならそうした「萌芽」を持ったか、あるいは既に鈴木学級時代に問題を起こしていた可能性も推定できる児童Nを新任教諭のクラスにいれるということは一般の学校ではありえないことである。
まず、手のかかる「大変な児童」をベテラン教諭が引き受け、新任教諭のクラスには、できるだけやりやすい児童を配置するのが一般的である。
私も1991年、5年生を担任したが、二クラスのうち一クラスが、人事異動の関係でどうしても新任の女性教師になった。4年の学年末に4年の同僚教諭と何度も話し合いをし、学年で手の焼ける問題行動の児童5人を全て私のクラスで引き受け、新任女性教諭のクラスはできるだけ指導しやすい児童を配置した経験がある。5年生・6年生と2年間5人の問題行続発のこどもたち(N君と似ている男児・父子家庭で家庭のしつけができずいつも暴力を振るう男児・兄が中学生で地元の不良グループに所属しその影響を受けている男児・授業中立ち歩き、授業を妨害する男児)と悪戦苦闘したが、新任の先生と何とか卒業式を迎えることができた。
4年2組の学級編成にあたり、前任のS教師を中心に3年生の担任教師集団の無責任さが指弾されても仕方がない状況である。4年2組のクラス編成は通常の学校のクラス編成とは異質と思える。
非常に機械的な学級編成を行っていると思われる。
② 学年会がどう行われたのかが大きな問題
学校には校長の指名で学年主任がいる。通常、学年会を行っている。4クラスある学年では4クラスの担任が集まり、学年の行事、集会等々の打ち合わせを行う。通常、学年会では、クラスのこどもたちの問題点などを出し合い、先輩教諭が自分の経験を話したりし、お互いの経験を教えあったりしている。
4年の学年の先生方は、当然、4年2組に「大きな問題があること」は、たとえ、百合子先生の口から出なかったとしても、こどもたちからの報告等で知りうる状況にあった。
学年主任や同僚教諭は新任の百合子先生にクラスの実情を話すそう督促し、学年全体で4年2組の教育を進める体勢を作るのが一般的な学校での実情である。
百合子先生の勤務する学校では学年会が機能していないように思われる。学年でのフォーロー体制が極端に弱いか、皆無に等しいように思われる。
③ 学年主任、教務主任、生活指導主任等が4年2組の問題点の深刻さを理解していないか無視しているか、いずれにしても4年2組の学級崩壊かそれに近い深刻な実態に目をそむけている実態があった。
一般的な学校では、こうしたクラスが学校に出現した場合には、それを知った担当教員(学年主任、生活指導主任・教務主任・・・)が、校長や副校長・教頭などに報告し、
緊急にしかるべき方策を採るよう進言している。学年主任、生活指導主任・教務主任・研修主任などは主任としての手当てを受領し、こうした問題に対する一定の解決義務を負っている。
この学校では、最終責任者である校長の問題以前に、中間にいる各分野の責任者全てが責任の自覚がなく、校長に意見を具申せず、校長と一体となって対策を講ずるという姿勢になかった。4年2組担任任せとなっていた。
④ 最終的には学校教育法37条4項で「校長は公務をつかさどり、所属職員を監督する」義務を負っている。校長や副校長などが、4年2組担任からの「危険信号」(週案簿等)を受けていたことは事実であり、学級崩壊、あるいはそれに近似してる状態に4年2組があったことは認識していたはずである。もし、4年2組の学級状態を校長が学級崩壊かそれに近い状態と認識していないとすれば、文部科学省・各都道府県教育委員会、磐田市教育委員会等からの指導文書を読んでおらず、県教委・市教委主催の各種会議の内容を理解していないか理解する能力がないことを意味している。
いずれにしても、本来管理職の採るべき方策は、対策会議を開き、緊急対応策として、4年2組に「貼り付け教員」を配置すること、担任の木村百合子先生の心のケヤー
、父母等への告知と父母の力も借りて、一刻も早く4年2組の学級秩序の回復のための
万全の努力をする義務を負っていたことは事実である。しかし、校長はそうした義務があることの自覚もなかったかに思われ、これといった真っ当な対策すら立てずに、木村百合子さんの自死に至るまで4年2組を放置したといわれても仕方がないように思われる。
・ 「4年2組の動静については,全職員で見守った」「度々フォローに入った」「なるべく4年2組の前を通るようにした」との基金(学校))側の弁解について
4年2組の状態は、ただ単に「見守る」「クラスの前を通る」などで解決する状態ではなかった。基金側の主張であれば、4年2組は学級崩壊かそれに近似した状態ではなかったとの認識に立っていることになり、当時の文部科学省・各都道府県教委の指示・見解にも
反する誤った認識であるといわざるを得ない。
基金側が4年2組の現状認識に対して誤った理解をもって認定処分を行ったことは重大な誤りである。
2004年当時の全国的・一般的傾向は、学級がこの種の状況に立ち至ったら、直ちに
「貼り付け教諭」(副校長・教頭等を常時クラスへの貼り付ける)の措置を採ること、担任の心のケヤーをすること、父母の学級の実態を率直に知らせ、父母の力も借りて、学級の建て直しに入ることであった。
結果的には、管理職側はこれといった効果のある対策を何も採らずに4年2組を放置したことになり、校長・副校長等は、地方公務員法29条2項違反、同、30条違反の恐れもある。
・ 百合子の健康状態の把握,措置に関する学校側の対応の不充分さについて
① 学年主任の怠慢
学校教育法施行規則44条5項で学年主任は「校長の監督を受け、当該学年の教育活動に関する事項について連絡調整及び指導、助言に当たる。」と明記されている。
4年学年主任は、4年2組での問題について、連絡調整および指導・助言の任にあった。当然、学年主任は百合子先生の問題と苦しみを日々直近でにいて認識していたはずである。
学級崩壊あるいはそれに近似じた状態に学級が陥り、苦悩している百合子先生に対して、
精神的なケヤーや通院などの助言をする法制上の義務があったが履行していなかった。
本来は親身になって新任教員で悪戦苦闘している百合子先生へのバックアップをする立場にあり、百合子先生の日常生活を観察していれば、通院など精神的な面でのケヤーの助言をすべきであった。また、百合子の家庭とも連絡を取り合い、家庭でどんな状況かを知ることも必要事項であったように思われる。
校長等管理職は、百合子先生が 市か県の教職員健康相談所(?)へ行き、精神的なうつ状態を訴えたことを知っていたはずである。
その時点で、管理職としての職務上の義務としても一同僚として、新任の百合子先生の精神的苦悩と苦しみを解決する何らかの方策を採る法制上の義務と人間的な倫理上の
義務があったが、何ら措置を講じなかったことは、職務怠慢、人間としての倫理観の
喪失ともいえる。つまり、百合子先生が「健康相談所」に行ったという時点
で問題の重要性を把握できなかった管理職に重大な落ち度があった。
健康相談所へ百合子先生が行ったという時点で、4年2組問題が悩んでいることは分かったはずであり、何らかの4年2組への対応をすべきだあった。管理職が
通院に近い状態に百合子先生が陥った時に適切な対応をとっていれば、百合子先生の
自死は防げてかもしれない。
③通常、新任教員が学級崩壊や近似した状態に陥り、苦悩し、健康相談所まで行っている事態に陥った時には、学校中の同僚の先生が「何とかしなければ」との気持ちになる。百合子先生の学校にそうした動きがなかったことは、学校としていう組織体としての正常な機能を欠いた学校運営が行われていたことが推察される。
・その他
4 クラス編成の問題
・ 本件で,管理職,同僚教諭らがとるべきだったフォローとは?
⑤ クラス編成上の重大なミスで詳述。
5 パワハラ(という表現が適切か否かも含めてご意見を)
(1)研修主任(Nの前担任)によるパワハラ
・教室内から廊下に呼び出して,「アルバイトじゃないんだぞ,しっかり働け」との叱責したことの問題点
パワハラに該当すると思う。百合子先生に対して研修主任は指導助言権をもっている。
同時に「指揮命令監督権」は有さない。
静岡県教育委員会の規定では「研修主任」は手当て主任となっており、法制上指導助言権を有している。
一般的な小学校現場で校長であろうと教育長であろうと、この種の言葉を吐くことは明らかに「人権侵害」に当たることは明らかである。研修主任に「指導助言権」があった上で「給料もらっているんだろう、アルバイトじゃないんだぞ,しっかり働け」などという暴言は、明らかに「パワハラ」といえる。指導助言とは相容れない暴言である。指導助言権を有している研修主任による、指導助言権を濫用しての百合子先生に対する精神的な虐待と言える。この場合は明らかに「指導助言権」というパワーを使ってのハラスメントである。
指導助言をする場合であれば、こどもたちのいない場所で、百合子先生の心が休まる雰囲気の中で、どのようにクラスを立て直すのか、N君に対してどのように接するべきか、研修主任は前担任でN君の実態に詳しい人間であり、研修主任として学校全体の研修を統括している訳であるから、教育学的・臨床的・学問的・経験的な立場からの科学的な助言をしなければならない。
しかも事実上、4年2組のこどもたちに聞こえるような廊下での発言は絶対にしてはならないことである。既に男児Nを始めこどもたちが百合子先生の指示に従わず、学級崩壊かそれに近似している状態になっている時に、研修主任がこどもたちにも聞こえるような廊下で「給料もらっているんだろう、アルバイトじゃないんだぞ,しっかり働け」などといってしまっては、Nを中心にした学級崩壊か近似状態にあるクラスの「崩壊現象」に更に「火を注ぐような」ものである。これは指導でも助言でも同僚としての忠告でもなく、百合子先生への侮辱と人権侵害、パワハラそのものである。百合子先生自死の遠因になったと推測してもおかしくない。
・ 「お前の授業が悪いから,Nが荒れる」との発言(ただし,この発言をしたこと自体,研修主任は否定している。)の問題点
研修主任に指導助言権があったとしても、「お前の授業が悪いから,Nが荒れる」という発言は、私の教員暦の中で一度もきいたことのない、粗野なやくざと同じような暴言である。授業が良いか悪いかは、誰が決めるものなのか?
いち研修主任(職階は百合子先生と同様の教諭である)が、一方的にいち教員に向かって「お前の授業が悪い」と決め付けることはできない。
教育界には、各種の研究会があり、学校は地区、市・県、全国レベルで「公開授業」を行っている。公開授業では、その先生の授業についての「賛否両論」が出され、
学問としての教育が科学的に検証されていく。そこには、多くの批判と検討という過程があってはじめて「良い授業」とか「悪い授業」とかの評価が出てくるのである。そこから導き出された成果は多くの教員の参考となる。これほど、教育というものの評価は難しいものである。いち小学校の研修主任なる教諭が百合子先生の授業そのものを「総体として、悪い授業」と否定することは許されるものではない。
これも明らかに人権侵害であり、研修主任の権限外の暴言としか言えない。
もし、授業が悪いというのであれば、授業のどこがどのように悪いのか?
必要ならば研修主任が「見本の授業」をして見せてやるのが、教育界の慣わしである。全国の多くの学校で校内研究授業を行っている。同僚が授業を行い、学校の全教師がその授業を見て、授業後「合評会」を行う。そうして、お互いの教育への技量を高めていくのが、学校現場の現実である。もし、研修主任が本当の意味で研修主任であるのなら、科学的に百合子先生の授業の問題点、改善点を指摘し、百合子先生の力量の範囲内で適用できる指導や助言、同僚としてのアドバイスをすべきである。
教師に「お前の授業が悪い」といわれるのは、「死んでしまえ」といわれる位
精神的な打撃を受けるものである。
・その他
(2)教頭によるパワハラ
・9月,Nと他の児童がチャンバラごっこをしていて,相手の児童の差し歯が欠けたとき,「同じ教室にいて何をみていたんだ,お前は問題ばっかり起こしやがって」と叱責したことの問題点
教頭の「同じ教室にいて何をみていたんだ,お前は問題ばっかり起こしやがって」
という暴言は「思わず出てきてしまった本音」の発言と思える。
その裏には、4年2組の学級崩壊的な実態への教頭の「腹立ち」が込められている。
学校(校庭・教室その他)でのこどもたちの怪我は避けることのできないものである。
こどもたちが動かないでいれば怪我も起こらないだろうが、4年生は「ギャングエイジ」といわれ、一番動き盛りのこどもたちである。ぶつかったり、転んだり、けんかを
して相手を殴ったりと様々な行動をとる。そのたびに軽い傷を負ったり、大きな怪我をしたりする。当然、教師はこどもたちの怪我を最大限防止する義務を負っているが、教師が100%こどもたちを見張っていることができない以上、怪我がおこるのは不可抗力といっても差し支えない。
問題を起こしたのは、こどもたちであった百合子先生ではない。教頭は、差し歯を欠いた出来事の事後処理を百合子先生と相談し、保護者同士でもめごとにならないよう百合子先生を指導助言する義務が法制上あるのであって、自己の感情丸出しの「同じ教室にいて何をみていたんだ,お前は問題ばっかり起こしやがって」などという暴言を吐くなど
教頭としての職務を全うする能力のないことを自ら示すものとしか思えない。
・その他
6 Nの母親からの手紙の内容について
・ 百合子にどういうダメージを与えたと考えられるか
申し訳ないですが、手紙で母親がかなり百合子先生を責めているような感じをうけましたが、ベトナムに手紙のコピーが入っている「厚い資料」がないため正確な感想はいえません。
・「百合子を一方的に非難する内容ではない」との基金側の認識について
・その他
7 百合子の新採教諭としての能力についての意見
・真面目でしっかりとこどもたちを受け止め、どんなこどもたちにも目を向けようと
している様子が、週案簿や裁判の資料などから読み取れる。
こどもたちの行動などをしっかりとメモをし、実践記録を書いている。まめな細かいことに気づく教師と見た。
・ 授業に対しても新任教師としてきちんと準備している様子が窺える。
・ こどもたちや授業に対して情熱をもっていたと思える。
・ 相対的に「素晴らしい教師になる」新任教師という印象をもった。
・ ただ、少し真面目すぎる性格もあったように思える。クラスのこどもたちの中には色々なこどもたちがいる。それらのこどもたちは、時間をかけて教導していくべき対象であるが、経験不足もあり、少し焦っていたのかとも思えるようなところがある。これは多くの真面目な新任教師の共通して特徴でもある。
だからこそ、まわりの経験豊かな教師の心温まるサポートが必要なのである。
・ ベトナムのストリートチルドレンにも関心を寄せ、何度かストリートチルドレンの家まで来て、親から捨てられたこどもたちは心が傷ついているといい、こどもたちの心のケヤーをしていたことが思い出される。こどもたちの手を握り、抱っこしてやったり、一緒に遊んだりと・・・・。
第4 まとめ
・ 本件は,防ぎうる事故であったこと
・ 本件は、明らかに防ぐことのできた事象である。
その理由は、第1に管理職などに度々百合子先生は「クラスの苦境」を訴えている。そうした訴えに管理職等は文部科学省・教育委員会の指導方針に従い対処していれば明らかに防止でき出来事である。
第2に管理職等は消極的指導回避ではなく、積極的に苦境に立っている百合子先生に対する非難攻撃を行っている。教頭の「お前は問題ばっかり起こしやがって」発言、研修主任の「アルバイトじゃないんだぞ」発言などが学級崩壊かそれに近似する学級状態に苦しんでいる百合子先生に対して、暴言を吐き、却って死へ追い込むかとも思える対応をしている。
第3に学校全体が自由に物が言えない学校だったように思える。通常学級崩壊やそれに近似するクラスが発生した場合には、職員会議等で全教員で協議し、校長を先頭に全教教職員が一致して対応している。しかし、本件の学校では、職員会議での全教員の意思統一などができていない。校長を先頭に全教職員がしっかりと意思統一し、
4年2組の問題に対処していたら、百合子先生の自死はなかったと推定される。
・その他,ご意見全般
①木村百合子さんの自死は、けして例外的な出来事ではない。全国いたるところで
精神的に追い詰められている教員が続出している。
05年度にうつ病など精神性疾患による病気休職をした公立小中高校などの教員数が過去最高の4178人に上ることが2009年3月15日、文部科学省の調査で分かったそうだ。
病気休職7017人のうち、精神性疾患を理由に休職した教員の割合(59.5%)も過去最高だった。精神性疾患を理由に休職した教員は前年度比619人増で、13年連続の増加となった。在職者に占める割合も0.45%となり、ここ10年間は連続して増えているという。
それだけが学校現場は社会の変化に伴い 諸矛盾が集中していることが分かる。
木村百合子さんの自死は、日本の会社が大きく変化していく過程にある中で起こっている社会変化が学校教育の現場に持ち込まれ、それに対し、新任教員である木村百合子さんが悪戦苦闘しつつ、解決の責任者である管理職の無能・無作為な行動が結果的に孤軍奮闘していた木村百合子さんを死に追い込んだとも思えるものである。今後、第2、第3の木村百合子さんを出さないためにも、木村百合子さんの自死を公務と認定することによって、教育現場でのの教職員の精神的な負担を軽減する措置が進むことを願っている。
以上
2011年12月14日
フエ市人民委員会外務部長懇談
午前6時起床。雨 寒い
午前7時朝食。「蟹ブン麺」
今日は兄「小山一義」の命日
1945年12月14日2歳で死去。敗戦後中国からの
「引き上げの途中」で栄養失調もあり急性肺炎で死亡。
今年で66回忌。
兄の死は永遠に「日本の敗戦」の年とともにあり、年忌は、
常に日本の敗戦・日本のアジア・太平洋侵略戦争と連結している。
生きていれば、68歳になる。既に兄のことを思い出す
人間はほとんどいなくなった。両親や両親の兄弟・姉妹も
ほぼ全員死亡している。せめて、この世の中で私一人でも
兄の「想定外」の死を思い出し、慰霊の気持ちだけは持ち続けたい
ものである。そうでなければ、兄は浮かばれない。
私は兄の死という事実をこどもの頃から考えていた。
結局、国家は信用ならぬ存在という結論に達していた。
今回の福島原発問題の経過を見ると再び、兄と同じような
こどもたちの犠牲者が出ている。
国家が「大丈夫」と言ったときは、「眉毛に唾をつける」必要あり。
午前9時45分、雨の中、バオミンさんがオートバイで迎えに
来てくれる。
午前10時、フエ市人民委員会外務部長ニエン氏と懇談。
当面の諸問題について協議。
午前11時半、昼食 「マカロニスープ」
午後2時間ほど昼寝。
その後、大量の文書を作成する。
2011年12月13日
当面の日程調整
午前中雨。午後曇り 寒い。 気温16度。湿度80%
午前7時朝食。
小豆のおかゆ。隠元豆と大根の温野菜・小魚の甘辛煮
午前中、当面の諸課題の資料つくり。
いたずら電話あり。1本の電話が10回も電話をしてくる。
他の携帯、プリペイド携帯など3機種でそれぞれ10回ほど
の電話。意図的な嫌がらせと思われる。卑劣な人間だ。
午前11時半昼食。海老・豚肉入りの春雨麺
午後2時間ほど昼寝。寒い。
バオミンさんと電話で何度も意思統一。
JASSベトナム事務所関係者のベースアップを決める。
実施は2012年1月から。
ベトナムは「狂乱物価」の真っ只中。
「子どもの家」スタッフ平均ベア15%。
ベトナム事務所スタッフ(ベトナム人のみ)は15%~20%の
ベースアップ。
私とバオミンさんは、ベースアップの対象から除外した。
「子どもの家」のこどもたちの高校受験・大学受験のための
塾通学費用の増額。
全体的な狂乱物価の中で、こどもたち・スタッフという
JASS活動の基本になる「人間」にきちんと手当てをすることに
した。安心して「子どもの家」支援活動ができるような態勢を
取った。私やバオミンさんの責任である。
ベトナム事務所の収入が厳しい中であるが、人間こそ
JASSの宝である。JASSベトナムのスタッフが、生き生きと
仕事ができなければ、こどもたちも救われない。
読書「世界を知る力」(寺島実郎著:PHP新書」読了
読書「私にとっての20世紀」(加藤周一著:岩波書店)
ソン君・グエットさんが静岡市の招待で日本語研修のため
訪日する。
静岡市役所国際課にメール送信。
ーーー
女子フィギアスケートの浅田真央(21=中京大)の
母親・匡子さん(48)が9日早朝亡くなった。
謹んで哀悼の意を表する。
浅田真央のコメントが発表された。
その中で自分の母親を「お母さん・お母さん」と呼んでいる。
非常に強い違和感を感じる。「母」というべきである。
21才にもなって、自分の母親を対外的に「お母さん」などと
呼ぶ人間は、小学生と同等と思える。
何故、事務所の「大人」が直さなかったのだろうか?
恥ずかしいコメントである。
浅田真央の姉(23歳)のコメントは、きちんと「母」と言っていた。
改めて考えると最近のテレビに出ている若い女性は
恥ずかしさもなく「お母さん・お母さん」と自分の母親を
他人の前で言っている。知的退廃だ。
こうした人間は、会社に入ったら、外からかかってきた電話に
「うちの社長様は」などと答えても平然として居られる類の
無知集団の一員といえる。スケートがうまいかどうかは知らないが、
21歳にもなって自分の母親を他人に「お母さん」などといえる感覚に
唖然とした。
何故、回りの大人は注意しないのだろうか?と思ったが、
回りの大人も「お母さん」が変ではないと思っている人たちなのだ。
井上ひさしの本では、日本語は変化するのだそうだ。
そのうち、自分の子どもを「賢児」、「賢妻」などと呼ぶ時代が
来るのであろう。そう言えば、ニュージーランド・オーストラリア、
ベトナムでは、我が子を「賢い、頭のいい子」と他人に平然と
紹介していた。ということは、浅田真央は、国際化した若者と
いうことになるのであろうか? トホホ・・・・。
2011年12月12日
「子どもの家」大学卒業生の進路について懇談
午前6時 気温16度 湿度90% とにかく寒い。
昨夜午前2時頃目覚める。JASSや日本料理店の今後の
あり方について色々と考える。
午前4時頃再度眠りに入る。午前6時半目覚める。
午前7時半と「勘違い」し、午前7時の朝食に遅れたと思い、
急いで朝食を食べに行く。食事を作るセンさんに「まだ、6時半ですよ」
と言われ、慌てて部屋に戻る。「老化現象」の典型的な現れ。
どうしようもない。現実を淡々と受け入れるしかない。
次回は、時計を見て、しばらく時間を置き、熟考する「間」が
必要と見た。
午前7時朝食。「フォー・ボー」(牛肉の米うどん)
午前中、12月、1月、2月、3月までの諸行事、諸活動、
スタディーツアー、訪日者のビザ作成計画、2012年2月18日
の「現地報告会」、静岡市役所招請の日本語研修生として
静岡市へ行く2名のベトナム人の在日行動計画などを考える。
昨夜、あまりに寒いので「フトン乾燥機」の熱風で「暖を取ろうと」
した。仕事の部屋にフトン乾燥機を持ってきてソケットに入れる。
数秒後に「異臭」。そのうち、電源が切れる。
そうだフトン乾燥機は100Vだったのだ。ベトナムは240V。
電圧が強く数秒で電熱線が焼けて切れてしまう。異臭が
室内に漂う。
今日、ソン君を呼んで修理に持って行ってもらう。業者は
修理ができると言う。ありがたい。ソン君は、富に私の
日常生活を「支えよう」という気持ちも持ってくれて、
私が出来ない日常生活のサポートをしてくれる。
ありがたいことである。
この18年。多くのこどもたちの支援をして来た。
感謝の気持ちを持った子どももいるし、支援をただ「利用」
するだけのこどもたちもいる。こどもたちそれぞれである。
私はこどもたちに何も「見返り」を期待していない。
期待するものは、こどもたちの『自立』のみ。真面目に一生を
送るような人生を歩んでくれればそれでいい。
午前11時半。昼食。チャオ・バイン・カイン(小麦粉の手打ちうどん)
美味しい。
2時間ほど昼寝。
午後2時半、徒歩でベトナム事務所へ。
バオミンさんと当面の諸問題・諸活動の政治的な重要な意義を
話し合う。
午後3時半、フエ医科大学6年生のフオンさんがベトナム事務所へ
来訪。2012年6月に卒業した後の進路について話し合う。
現在、フエ医科大学で歯学を学んで6年。2012年6月に
卒業する。そのご、どこに就職したいのかを聞く。
第1希望 フエ中央病院歯科
第2希望 フエ省立病院歯科
第3希望 フエ市内の「私立病院の歯科」
来年7月にどこかの病院に勤めた場合の給料は推定150ドル
(12000円程度) 家を借りて、自立することは何とかできる。
ついでに妹(静大工学部ニフィーを受験し不合格)の大学入学
のための塾の値段を聞く。
理系の場合、数学(週4回)、生物(週3回)、化学(週3日)。
数学:1ヶ月15万ドン(600円)
生物:1ヶ月12万ドン(450円)
化学:1ヶ月12万ドン(450円) 合計1ヶ月 1500円
日本料理店や縫製工場では、1ヶ月100万ドンから150万ドン。
(3700円~5500円程度)である。
結構、進学のための塾は高額な授業料を取られている。
その後、午後5時過ぎまでバオミンさんと当面の諸課題に
ついて話し合う。
バオミンさんは、2週間、ポルトガルへ行き、その後、前静岡市長
前静岡大学長のツアーでホイアンへ2日間同行している。
当面の打ち合わせをする時間がなかった。
2011年12月11日
「子どもの家」のこどもの誕生会
終日雨。非常に寒い。 室内気温17度 湿度90%
午前6時起床。
午前8時、朝食。センさんが作っておいてくれた「マカロニスープ」
の半分を温めて食す。
部屋の整理。
洗濯。(全自動洗濯機:韓国製:に衣類を放り込む)
1月以降の日程を整理し、計画を立てる。
午前10時半、雨の中、電動自転車で「子どもの家」へ。
電動自転車は3年か4年前に購入したもの。車体は錆びてしまい、
電源コートもかなり危ない状況。充電が、なかなかできず、
「子どもの家」へ行くには、前日に「FULL 充電」をして何とか
往復できる。大塚さんと税田さんが使っていた新しい電動自転車
を預かっていたが、2台とも夜中に盗まれてしまう。
午前11時前「子どもの家」へ。
今日は「子どもの家」のNGAさんの誕生日。17歳。
高校3年。来年大学を受験する。
里親のK先生からお祝いが届く。
午前11時。「子どもの家」では、昼食の時間。40人の
こどもたちのうち32人が結集していた。
[NGA]は、ベトナム語で「ロシア」。ハノイ近郊から事情が
あって「子どもの家」に入所。
先日までベトナム研究者集団の「ベトナム国家と社会」
という本を読み直していた。これらの研究者の一部の
人を除き、ベトナム社会を「一つの社会」と見て、「研究
分析」している。北と南は歴史と1975年のベトナム戦争
終結の形態が違う。
北は1945年9月2日から「社会主義」。南は、1975年まで
資本主義。
1975年のベトナム戦争終結は、同時に北の南への併合
でもあった。
現在のベトナムを一つの同一社会と認識して研究を
進めている現実に唖然とする。
NGAさんに、何故「ロシア」という名前が付いたのか?
北ベトナムでは、ソ連(ロシア)は、憧れの国だったのだ。
南はけしてソ連やロシアを憧れの国とは認識していなかった。
NGAさんが、「子どもの家」に入所した当時、「子どもの家」の
こどもたち(ほとんどのこどもたちは南のこどもたち)は、
NGAさんの「ハノイ弁」を異質に感じていた。
ベトナム社会は今でもその深層では、統一国家ではない。
統一国家の振りをした偽装国家である。
そのNGAさん。家庭の諸事情があって、「子どもの家」に
入所。現在、省立ザーホイ高校3年生。来年の6月卒業。
フエ観光大学・フエ経済大学を受験したいと言っている。
誕生ケーキに点火
17本のローソクをつけた3つの誕生祝いケーキ。
17本のろうそくに点火
こどもたち全員で「HAPPY RIRTHDAY 」の歌を贈る。
里親のK先生からの誕生祝いカード(ハンさんがベトナム語に翻訳)
誕生祝いの衣類
こどもたちが昼食を始める。
「子どもの家」の食事の風景を見ていた。改めて「継続」という
言葉が頭を過ぎった。一時、その気になって、直ぐに気持ちが
覚めるという傾向が一般的にある。我がJASSは17年間
継続して「子どもの家」にこどもたちに毎日3回の食事を
提供して来た。18600回以上。海外支援を3年で「自立した」
と称する海外ボランティアもあるが、それはそれ。
JASSは、こどもたちが人間として自立し、長い将来を
充実して生きていけるように育てたい。大手NGOや
JICA・外務省などからは、「長い支援」との批判はあるが
全く気にしていない。
ケーキを子どもの数に切ってくれるスタッフの「キムアンさん」。
私は1993年8月にフエに来た。フエ師範大学日本語クラスの
主任になった。その1ヵ月後1993年10月に「チーラン子どもの家」
を作った。キムアンさんとは、その時からの付き合いである。18年に
なる。寮長のロックさん、スタッフのニエムさんも18年の付き合いで
ある。
昼食を十分摂った後、誕生祝いのケーキを食べる。
12時過ぎに「子どもの家」を後にしようとしたら、「子どもの家」を
退所し、自立した「チュック君」が遊びに来ていた。
今や私よりも背が高くなっている。
午後1時前、宿舎へ。朝の残りの「マカロニスープ」の半分を
温めて食す。
寒い。2時間ほど昼寝。
読書。読書「世界を知る力」(寺島実郎著:PHP新書)
寺島氏の主張は以下の通り。
日本人は6世紀位から中国の文化を採り入れて来た。
日清戦争までは、中国文化は日本人に取っては
尊敬に値するものであった。戦前までは、漢文を
読みこなすことは、文化人・教養人の素養であった。
日清戦争以後、中国人を「馬鹿にする風潮」が出てきた。
2000年にわたり日本は、アジアを中心にやヨーロッパなどからの
文化を吸収し、交流を深めてきた。
1945年8月15日の日本の敗戦。アメリカの単独占領
という事態は、たかだか66年。
しかし、戦後、66年、アメリカと言う国の視点を通してしか
日本人・日本国家は物事を考えなくなった。
TPP問題もそうだ、急にアメリカがTPPに加入するというと
急に日本も加入しだす。
しかし、中国・アセアン・韓国・インドは21世紀の世界経済の
中心となる。そうした方向に目を向けないままに、アメリカ
追随の姿勢は「戦後60年の誤った視点」を今でも継続して
いるものである。
部屋の掃除。
12月末までのベトナム事務所・「子どもの家」の諸日程
をシュミレーションする。
東日本大震災で親を亡くしたこどもたちが1500人も
いるという。両親が亡くなったこどもたちは240人にも
のぼるという。
今、どんな気持ちで、どんな生活をしているのだろうか?
どのこどもたちも今回の「出来事」を『糧』にして、生きていって
欲しいものである。『大きな悲しみは大きな成長の栄養になる』と
私は思っている。
寺島氏は、保守系の論者であるが、「現実主義者」である。
聞くべき論点と意見を持っている。一読の価値あり。
2011年12月10日
当面の諸問題を打ち合わせ
終日雨
ベトナムでも皆既月食が見られるのだが、残念ながらフエは
終日雨のため、見られなかった。日本よりも2時間早く皆既月食
が見られるはずだった。
日本 ベトナム
部分食の始まり 21時45分 19時45分
皆既食の始まり 23時05分 21時06分
皆既食の最大 23時31分 21時33分
皆既食の終わり 23時58分 21時57分
======================
午前6時起床。
1日中寒い。朝から室内気温20度。セーターと上着を着る。
午前7時朝食。ブンボー・フエ
その後、バオミンさんと何度か電話で、当面の課題に
ついて打ち合わせをする。
バンベー40号印刷中との連絡あり。一部、原稿に誤字が
あったが、印刷所の方で訂正してくれたとのこと。
午前11時半、昼食 「魚など入りのベトナム風おじや」と
「ゆでた空芯菜」
明日、「子どもの家」の子どもの誕生会。里親から誕生祝いが
届く。私が明日、誕生会に参加。誕生祝を持っていく。
雨の中、バオミンさんが誕生祝いを持って来てくれる。
午後2時間ほど昼寝。
読書「世界を知る力」(寺島実郎著:PHP新書)
著者は私と同年齢。
世界の状況を今までの固定されて視点で見るのではない。
①ロシアがこの200年ほどの間、どのようなアジア政策を持って
いたのかという視点
②大中華圏ネットワーク(中華人民共和国・台湾・香港・シンガポール。
世界中の華僑)
③ユニオンジャックの矢(ロンドン →ドバイ →インド・バンガロール
→シンガポール →シドニー)の戦略
④ユダヤネットワーク
⑤IT革命の意義 →分散型社会の到来
ここまで3分の2を読む。
残り、戦後60年の日本人の固定化された視点からの脱皮
を明日読む。
色々な点から世界の動き、今日の私たちのおかれている世界、
今後の世界の進展などを予測するいくつかのアイディアが
見える。
2011年12月09日
終日、部屋で仕事
終日雨。
昨夜、午前1時頃目が覚めてしまい、色々と考えることが
あり、眠れなかった。結局。午前6時まで眠れずにいた。
午前7時朝食。フォー。
午前中、当面必要な書類などを作る。
ハンさんと打ち合わせ、里子の誕生会の準備
午前11時半昼食。生野菜・海老のスープ・魚のフライ・ご飯
朝から1日、下痢状態。原因不明。吐き気あり。
午後は、メール受信。必要なメール送信。
バオミンさんは小嶋前市長・興前学長と一緒にホイアンから
夕方、ダナン空港へ。午後10時過ぎ位にフエへ帰って来る。
ポルトガル2週間の後のホイアン・ダナンとかなり厳しい日程である。
午後6時、バオミンさんから電話。ダナン空港。
小嶋前静岡市長・興前静岡大学長一行のダラット行きを
見送ったとのこと。
これからフエに帰る途上。ご苦労様。
2011年12月08日
小嶋前市長一行ホイアンへ
終日雨
午前6時起床。さすがに疲労で起きられない。
午前7時、朝食。小豆のおかゆ・小魚の甘辛煮・キャベツと
人参の茹でたもの
午前9時、フォンザンホテルへ。小嶋前市長一行がフエでの活動を
終え、ホイアンへ。バオミンさんが案内。
小嶋前市長、興前学長御夫妻のフエ市との友好交流活動に
敬意を表したい。疲れたことと思う。
ベトナム事務所でスタッフの皆さんといくつかの話をする。
午前11時半昼食。チャオ・バイン・カイン(小麦粉の手打ちうどん)
この数日の疲れが出て、2時間ほど昼寝をする。
洗濯。ユニクロでかったダウンの上着を洗濯。
陰干しにする。
午後3時から関西地方の方々のベトナム・カンボジアツアーの
見積もりを作り上げる。バオミンさんがポルトガルへ2週間行き、
また今日から2日間ホイアンへいくので、JASS観光の見積もりを
作る時間がないので、代わりに私が作成。
バンベー40号の最終校正が終わり、印刷に入っている。
バンベー40号作成には、宇都宮のSさん、静岡のAさん
を始め、JASS日本・東京の皆さんの大きな協力がなければ
完成しなかった。12月17日には、印刷が出来上がり、東京で
関係者が集り、JASS会員・関係者への発送作業がある。
バンベー40号作成に関わってくれた多くの人々に感謝したい。
この1ヶ月間、バンベー作成、ブライセン訪日ビザ作成、
2012年2月18日の「JASS現地報告会」関連の準備
ツアーの見積もり・・・・、たくさんの「するべき仕事」があり、
かなり疲労が溜まっている。ゆっくり休みたい。
午後7時過ぎ、いくつかのメールを送信。
2011年12月07日
小嶋前市長・興前学長一行フエ市長表敬訪問・「子どもの家」視察:フエ市人民委員会主催晩餐会
曇り・時々雨。
午前6時起床。
午前7時朝食。「ブン・クア」(カニ団子入りブン麺)
午前8時、宿舎を出て、フォンザンホテルへ。
小嶋前静岡市長、興前静岡大学学長夫妻と一緒に
フエ市人民委員会へ。フエ市長への表敬訪問。
フエ市と静岡市は「友好都市」になっている。
ヴィン・フエ市長と旧交を温める小島前静岡市長
ヴィン市長は数回にわたり静岡市を表敬訪問している。
バオミン・JASSベトナム運営委員長の通訳で
ヴィンフエ市長・小嶋前市長・興前学長はしばしの
懇談を行う。
日越市長・学長同士のお土産交換
続いてバオミンさんの案内で「グエン朝王宮」を参観。
現在のベトナムでフエ王宮を日本語で案内するには
第1人者・最適の人物であるバオミンさんが案内する。
バオミンさんは、グンエン王朝の皇族。今の日本の
女帝・女性宮家問題に関して言えば、バオミンさんは
グエン王朝の「男系男子ー皇位継承権保持者」である。
良くベトナム事務所に挨拶に来る日本人が「私の
日本語ガイドはグエン王朝の皇族でした」などという
話を聞くが、詳しく話を聞いてみると「苗字に皇族の印の名前が
入っているとガイドさんは言っていた」という。
「尊室(トン・タット」という称号。これは、明治維新後で言えば、
伊藤博文など民間人に天皇が与える「侯爵・子爵・・・」などの
爵位としての「尊称」であり、この種の人たちは、あくまで「民間人」。
バオミンさんはグエン王朝の6代目の直系子孫である。
毎年、グエン王家直系子孫だけ(約100人)が、2時間だけの
時間を共産党から許され、王宮への一般参観を取りやめ
本当の祖先へ祭祀が行われている。
という訳で、自分の家を当主が直接案内するという意味で、
バオミンさんは、日本語案内では王宮案内の最適任者と
いえる。時代が代わったのである。世が世なら・・・・・。
その後、ティエンムー寺へ。
午後12時過ぎ。ティエンムー寺の近くのキムロン地区にある
「生春巻き」の美味しいお店へ。
一度、宿舎へ。帰り休息。メールの受信あり。かなり疲れる。
午後2時過ぎ、「静岡・フエ青年交流会館」付属JASS日本語学校
を参観。
この会館は、10年前に小嶋前市長を中心に静岡ライオンズクラブ
などの皆さんが建設寄贈してくれたもの。
小嶋前市長・興前学長へフエ市人民委員会
より「名誉市民賞」の称号が贈られている。
静岡会館内に両市の「名誉市民賞」の石版が飾られている。
小嶋前静岡市長名誉市民賞
興前静岡大学学長名誉市民賞
今日は静大工学部入学希望者・IT企業ブライセン社員(日本語中級)
が合同で日本語学習を行っていた。先生は、通称「今晩は先生」こと
「フオン先生」。フオン先生も小嶋元静岡市長の招待で静岡市にて
日本語研修を行っている。
静岡フエ青年交流会館で日本語学習者に挨拶をする小嶋元市長
静岡会館日本語学校生徒と日本からの訪問者との日本語を
使っての懇談
参加者全員で記念写真
続いて午後3時過ぎ、「子どもの家」訪問。
セン運営委員長と懇談。
私が「子どもの家」の諸施設を案内
「子どもの家」訪問後、フエ市最大の市場「ドンバ市場へ」
午後6時半。フエ市キムロン地区にあるフエ市人民委員会
所有のレストランで「小嶋元市長・興元学長夫妻の歓迎晩餐会」
。フエ市人民委員会主催。
参加者は、フエ省知事・フエ市長・フエ市共産党委員長・フエ大学
副学長、フエ高等師範大学学長・JASSベトナム事務所員一同
フエ市人民委員会外務部員。
ベトナム事務所員 フオン先生・ソン君・富岡先生
ヴィンフエ市長・ユンフエ市共産党委員長・カオフエ省知事(元フエ市長)
原田先生・古賀先生・ハン財政部長
今晩は先生・ミス「フェリシモ」IN HUE(アンさん)
フーンJASS日本語部長(NI取得、日本語流暢先生)
ソンベトナム事務所員
フエ高等師範大学クイ学長
小嶋前静岡市長冒頭の挨拶
小嶋前市長よりカオフエ省知事へお土産贈呈
参会者に挨拶をする興前静岡大学長
右端 フエ大学副学長
午後8時半頃、晩餐会終了
ベトナム事務所員全員で記念写真
2011年12月06日
日本語教育関連の打ち合わせ:前静岡市長・前静大学長御夫妻来訪
気温20度 終日雨。
午前7時朝食。チャオバインカイン
午前8時半、雨の中徒歩でベトナム事務所へ。
ベトナム事務所では、皆さん真面目に仕事をしている。
2週間ぶりにベトナム事務所で仕事を再開。
ベトナム事務所も「ピリッ」と緊張する。かに見えたが、
いつもと変わらないリラックスぶり。
お金を握っているハンさん
いわゆる世間でいう「幸せ000」というやつ。
日本語教育の事前準備に専念する古賀先生
既に日本語教育の専門家になっている富岡先生
こんばんは・おはよう先生
ミス「フェリシモ」IN HUE
午前9時過ぎからバオミンさん・原田先生と日本語教育関連の
打ち合わせをする。午前11時過ぎまで
午前11時半昼食。 フォー
1時間ほど昼寝
午後3時。バオミンさんと一緒にフエ空港へ。
午後4時過ぎ、前静岡市長御夫妻・前静岡大学長御夫妻が
フエ空港へ到着。一緒に静大留学生だったAさん、ホーチミン市の
の日本人Bさんも同行。
車でフォンザンホテルへ。
1時間ほど休憩。
日本料理店では、スタッフが夕食。
午後6時、フエ市内の庶民の食堂
「家庭」料理店へ。
2時間ほど、フエの庶民の家庭料理を堪能する。
午後8時15分、フォンザンホテルへ。
2011年12月05日
バオミンさんと懇談
終日雨 寒い
朝起きられなかった。午前6時半起床。
体調は少し回復基調にはあるが、以前に比べると回復の
テンポが遅い。気力と体のだるさ、食欲減退は回復せず。
無理をしないで少しずつ仕事をしながら回復を期す。
空いている時間は「横になって」いる。
午前7時朝食。ブンボー・フエ(牛肉と米麺)
いくつかのメールの受信・送信。
午前9時。雨の中徒歩でベトナム事務所へ。
2週間ぶりにバオミンさんに会う。
ポルトガルでの会議の様子や生活を聞く。
当面するいくつかの問題について協議・打ち合わせ。
午前11時過ぎまで話し合う。
午前11時半、昼食。
「マカロニスープ」
午後12時から2時間昼寝。
メール送受信。
午後4時、徒歩でベトナム事務所へ。
日本料理店の件でグエットさんと懇談
続いて日本料理店副店長のトゥオイさんと懇談
午後5時半。日本料理店・日本人の夕食。
古賀先生は日本語学校授業で遅れる。
ベトナム事務所・日本料理店での打ち合わせを終わり、
宿舎へ帰る。
途中の路上で「リー君」とブライセンの「ホアさん」が
雨の中飲んでいた。リー君が私に気づき「先生・先生」と
声をかけ、私もリー君に気づく。
「先生も一緒に飲もう」と誘われるが、断る。
「元気にやってるの?」と聞く。
「何とかやっている」とのこと。
雨季に入っているが「オートバイ警備の収入は?」
「まあまあ。先生、飲みましょう」と再度誘われるが、断る。
私は「根無し草」の今のオートバイ警備の仕事を認めていない。
もっと収入が安定し、一生できる仕事に就くべきなのだ、との
思いが強い。私が適当に妥協し、「頑張って仕事をしなさい」
といえば、今のリー君には喜ばれるかも知れないが、
この世の中で誰か一人でもいいから本当に「リー君の人生を
考えている人間がいること」も必要である。
私はリー君の今の生き方には、絶対に妥協しない。
「その日暮らしの根無し草」の生き方を変えるべきだ。収入は
少なくても、一生自分の人生を打ち込んでも良い仕事を
見つけて欲しいものである。リー君に妥協、迎合することは
簡単であるが、リー君の長い人生を考えたら、今の生き方は
根無し草。
ブライセンのホア君がリー君と知り合いだったのを初めて知った。
リー君の幸せな長い人生を期待している。
午後8時過ぎ、バンベー40号の最終校正を完了。
元都労連副委員長、東京都学校生協理事長の鹿山秀佳氏が
亡くなられた。私が30代に一番お世話になった仲人の平野皓二氏
が亡くなられ、今回、鹿山秀佳氏が亡くなられた。
鹿山氏の葬儀は本日。次男を通して「生花」を送った。
詳細は言えないが、わたしが30代から40代で一番人生の
困難・挫折した時、鹿山氏は、何度も私のところへ来て、
話し合ってくれた。平野氏と鹿山氏は、私の人生の恩人である。
急逝されたことに衝撃を受け、通夜・葬儀に参加できなかったことを
申し訳なく思っている。
鹿山氏の逝去を教えて頂いた星野理一氏に心からお礼を
申し上げたい。星野氏から鹿山氏の急逝の連絡がなければ
私は人間としての大事なお礼の機会を失っていたのだ。
改めて星野理一氏にお礼を申し上げたい。
鹿山秀佳氏の急逝に心からお悔やみを申し上げる。
2011年12月04日
休養
終日曇り 時々晴れ
終日、何もしないで寝ている。
2011年12月03日
午前中・地球ミニツアー講演会:夕方ミニツアー夕食会
終日 雨 寒い。
午前6時半、気温20度。 湿度90%。
体がだるい。
午前7時、朝食。ブンボー・フエ。
あまり食欲なし。
午前9時半、「子どもの家」へ。
昨夜から地球の歩き方ミニスタディーツアーの皆さんが
来ている。
「子どもの家」ではミニスタディーツアーの皆さん(3人)が、
近くの市場で食材を買い、こどもたちと調理中。
午前10時から午前11時過ぎまで「子どもの家」で講演会。
風邪を引いているのか「声がでない」。マイクを使う。
午前11時15分。スタディーツアーの皆さん、ソン君、こどもたち
と昼食。
私はすごく寒いのだが、男子は元気が良い。
エネルギーが余っているようだ。余ったエネルギーを
研修や勉強の方にまわしたらどうなのか? などと思うが
こどもたちの笑顔を見たら、嬉しくなった。
午後12時半。宿舎へ。
直ぐに寝る。
1時間ほど昼寝をし、バンベーの最終校正に入る。
午後6時まで仕事を続け、校正最終稿を書き上げる。
午後6時15分、徒歩で日本料理店へ。
地球の歩き方ミニスタディーツアーの皆さん、アンさんと
一緒に夕食交流会に出席。
日本とベトナムとの関係。参加者のお二人は教員志望の大学生。
教員になったらどんな教員になるのか? 私の意見を言う。
午後8時半。閉会。
厨房のこどもたちが挨拶。チャンさんは体調を崩し今日は休み。
午後8時過ぎ、宿舎へ。
バンベ校正の最終稿を静岡のAさんへ送信。
2011年12月02日
体調不良
終日雨 午後1時 気温20度。湿度90%
数日前は気温30度。急激に10度も気温が下がった。
気温の変化に体がついていけない。
今日も、1日中、寝ていたい。
発熱・倦怠感・食欲なし。
とにかく寝ているだけ。
2011年12月01日
体調不良
終日雨 寒い
1日中、寝ている。
体温37度3分。
倦怠感あり。
今日は大事な仕事だけして、後は寝ていた。
海外にいて体調を崩し、一人ベッドで寝ているという図は
なかなか孤独なものである。
食事を作ってくれるセンさんが、宿舎の入り口で滑って転び
あごを大怪我する。
食事を作るを適当にして、帰宅するように言う。
雨なので滑りやすい。
ソン君・ハンさんから電話あり。