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2011年12月17日

終日、部屋で仕事

1日中、雨

午前7時朝食。ブンボー(牛肉入り米麺)」

外は雨。

3つの訪日ツアーの日程、1つの海外ツアーの日程案を
作成。

・2月18日のJASS現地報告会参加JASSスタッフ日程案
・ベトナム・フエ投資セミナー団訪日日程
・静岡市招請日本語研修生訪日「現地報告会」参加日程

国際線航空券・在日中の全ての日程を確定するのは大変
交通手段の確定・ホテルの予約。

手間がかかる仕事である。

日本の関係者にメールを入れ、受け入れ態勢の現状を
確認。


午前11時半昼食。「肉入りおじや」と温キャベツ

午後2時間ほど昼寝。寒い。寒くて眠れない。

午後2時、再度、3つの訪日団のシュミレーションをし、
細かい日程を考える。新幹線・ホテル・その他もろもろ・・・・・。

読書「私にとっての20世紀」(加藤周一著:岩波現代文庫)

医学生だった著者の現実の政治を見る目は透徹した冷静な
科学的な眼である。某政党などが、アジテーションする「お題目」
のような空虚な掛け声を排し、冷静な分析。全てを一色で
塗りたくるという手法を排す態度に共感する。

日本人の知性の代表の一人であることは事実だ。
加藤周一と立川談志の思考の出発点が同じであると
私は思っている。

原点は、1945年8月15日の「日本の敗戦」である。

談志1936年生まれ。敗戦時、9歳。小学校4年生位か?
鬼畜米英と呼号していた「大人」が8月15日を過ぎると
「アメリカ万歳」となる。こうした世間の極端な変身が
松岡少年(談志)に「世の中のいい加減さ」への反撥を生んだと
私は思っている。人間は「時代に規定」される。
談志の「奇行」とも思える行動の原点は、8月15日だと
思っている。「お前ら、立派なことを言っても結局、世の中が
変わればそれに追随するのだろ」ということを、奇行で
抗議したと私は思っている。

加藤周一は、東大医学部出身の医学博士。
戦時中から「この戦争は負ける」と思いながら、何も出来ず、
源実朝「金塊和歌集」を読んでいる。実朝は、暗殺されることを
覚悟して生きていた、その立場で作った和歌集は、
加藤周一が死地にいつ駆り出されるか分からない自分の
立場と思いながら読んでいる。加藤周一の原点も「出方は違う」
が談志と同じなのである。

私は談志より11歳若い。しかし、私の思考・行動の原点も
「アジア・太平洋戦争」である。私は戦前生まれていなかった
が(戦後2年目にして生まれた)、兄が中国から引き上げ中に
栄養失調で死に、我が家が貧しい暮らしをしたことも戦争に
1930年から1945年まで15年間参加した父親とそれに
追随した母親の人生の結末が、戦後2年にして生まれた
私の人生に大きく影響を与えている。というよりも戦争そのものが
私の人生の出発点でもある。
談志少年、加藤医師が戦争を体験したのに対し、私たち
「団塊の世代」は直接の体験はないが、親が「軍人精神」の
持ち主であり、戦争の反省もしていない・・・という環境で
育った。こうして、加藤周一が戦争と平和にこだわり、談志が
奇行をしながら、「戦後急変した」大人への反撥を屈折して現して
いるのに対し、戦後の「団塊の世代」はどんな表現・生き方
をすればいいのだろうか?

加藤周一も談志も屈折している。私たち団塊の世代も
屈折しているのが、「正常」な人間だと思っている。
団塊の世代は今こそ一層屈折しなければならない。
「団塊の世代」と言わずに「屈折の世代」と呼ぶべきなの
である。私と一緒に学生運動をし、その後労働組合運動を
平和運動をした「団塊の世代」が別荘を買い、夫妻で海外旅行を
している。悪いことではない。
しかし、20代の若者が仕事がなく「生活保護」を受けて生きている
現在に何も反応しない「マイホーム」に埋没した「意識だけ」の
平和・民主主義者があまりに多い。家庭と夫婦「相和し」は
「ご立派なこと」であるが・・・・・。
私は有能な若者が、今の社会から排除されている現状に
非常に強い怒りを感じている。と言って私一人が「決起」しても
世の中が変わる訳ではない。しかし、世の中が変わろうと
変わるまいと「自分という一人の人間として」、何かをしたい。
世の中に何も影響がなくても・・・・・・・。


投稿者 koyama : 2011年12月17日 21:01

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