« 2012年1月から2月の取り組みの準備 | メイン | ベトナム事務所員会議 »

2011年12月30日

ベトナム事務所へ

終日雨・時々曇り

午前7時朝食。フォー

ベトナム事務所へ。バオミンさんといくつかの問題で
話し合う。


午前10時半、宿舎へ戻り、訪日関連の日程調整(ホテル・新幹線
・・・・)などの詳細日程を計画する。


昼食  豚肉入りのベトナム風「おじや」


いくつかの問題についての当面の方策を文章化する。

年末年始、2102年1月5日から1月20日までの行動計画の
詳細を文章化する。

訪日する4組のベトナム人グループのそれぞれの詳細日程を
文章化する。

従兄弟の長島弘道氏(元国士舘大学文学部長)から冊子が
届く。農業・農村地理学 の専門研究者。

私の母方の系統を綴った冊子である。
長島姓。長島弘道氏の父親と私の母が兄妹。

冊子は、母方の私の祖父が、いつ生まれ、どんな人生を
歩んだのか? その子どもたちはどんな人生を歩んだのかを
客観的・学問的に記述した著書である。

ベトナムにいる私が、何故、ベトナムにまで来ているのかが
納得できる私の祖父と伯父の人生である。

私の祖父「長島瀧三郎」は、安政4年(1857年3月1日)に
埼玉県北足立郡上日出谷村40番地に生まれている。
現在の埼玉県桶川市である。
祖父の生まれた30日後の3月31日に日米和親条約が結ばれ
この条約によって日本は下田と箱館(現在の函館)を開港し、
鎖国体制は終焉を迎えた。

太平のの「眠りを覚ます」鎖国体制が崩壊した年に
祖父は生まれている。祖父は、日本に大激変が起こり、
大変革期に突入する時に生まれている。
祖父の血筋は、孫の私にも「歴史的な大変革」の時期に
生きる生き方を教えてくれている。

祖父は50代になり、埼玉県の桶川から茨城県の土浦へ農業の
入植をしている。冒険的・革新的な気質がうかがえる。
当時の土浦は、未開の土地であり、「入植者」が開拓した
土地であった。

生涯で3回結婚し、10男、3女を誕生させ育てる。
13人のこどものうち3人は結婚しないで死亡。
2人は「アジア・太平洋戦争」で戦死している。

この精力絶倫は「残念ながら」真似出来ない。

祖父の10人のこどもたちが生んだこどもたちは平均4人として
40人の孫。更に孫が産んだひ孫は、わが母の系列だけで7人。
40人の孫で推定すれば、100人から200人程度のひ孫にはなる。

安政の「鎖国体制崩壊」の年に生まれた祖父・長島瀧三郎
がこの世に生まれたことで、今日(子ども13人は全員死去)
孫・曾孫・玄孫を合わせると推定100人から200人の子孫を
残している。

今、ベトナムで生活している「小山道夫」という人間が
この世に存在することになったことには、祖父の長島瀧三郎
の父(私の曽祖父 長島彦太郎 その父親の長島粂右エ門)
という人々がいることで今日の私がいることを改めて痛感する。

小山(長島家)のフロンティア精神・現状改革・革新精神を
引継ぎ、私の置かれているところで、祖父・曽祖父などの
期待に応え、現在の日本の革新的改革のために奮闘する
ことを改めて心に誓いながら、フダビールを何杯も飲み続ける
のである。


封建的な風習が残る明治時代に50歳になって新しい土地に
入植し、開墾するという「エネルギー」を持っていた祖父の
血を私も多少は引いているようだ。45歳で教職を辞して
ベトナムに来たことは説明できないのだが、祖父の伝えた
血が騒ぐのである。

1929年(昭和4年)73歳でなくなっている。
祖父長島瀧三郎の最初の妻が「はな」という名前だった。
祖母から4代目。私の孫に再び「はな」という名前が復活したのも
何かの縁である。

この精力絶倫・革新的な祖父は、結構「学問」も好きな性分だった
ようだ。

従兄弟の長島弘道氏の作ってくれた冊子を読んで、会った事の
ない祖父母に思いを寄せ、「幕末」の激動の時代に「フロンティア精神」
を持ち、改革・革新路線を進んだ祖父に思いを馳せるひと時を持った
ことに感謝している。

母親が私が子どもの頃、父(長島瀧三郎)は、酒豪だった。
1升酒を飲んでも「足駄」を履いて、家へ帰って来たと言っている。
私も多少は、祖父の「酒豪」を見習いたいとは思っているが
ほんの少しの「見習い」しかできていない現実である。せめて
今日位は祖父の酒豪を見習おうか・・・・・・。

冊子に長島弘道氏の父親長島栄保氏(私の母の兄)が、
弟2人が戦死したことで、戦争は絶対に反対といって
「戦争に反対している社会党に投票している」と話していたと
記されていた。
また、伯父さんは、60歳を過ぎてから様々な老人大学に
入学し学んでいる。

・1975年 茨城大学公開講座「霞ヶ浦の地域性」
・1976年 土浦市教育委員会:郷土史理会歴史講座
・1977年 谷田部岩井方面史跡見学
・1980年 土浦市民憲章推進協議会主催「伊藤左千夫
        の野菊の墓の背景と手賀沼の文化人たちを
        探る」
・1981年  土浦市教育委員会主催「横瀬夜雨 長塚節」
など1990年まで上記のような学習会に参加している。

60歳、70歳になっても「学ぶ」ということに意欲を持っていた
伯父であった。

瀧三郎祖父と事実上の長男だった伯父の長島栄保氏の
生き方は私の人生に大きな影響を与えている。

祖父の事実上の長男である「長島栄保」は、「ながしま えいやす」と
読む。

祖父は、明治42年(1909年)事実上の長男が生まれた際に
役場に「長島家康」と徳川家康の名前を届けでた。
明治の末期ではあっても「徳川家」は、明治維新の宿敵の
時代である。、「敵国」「仇」である。仇・敵国の親分の名前を
自分の子どもにつければ、当然、役場や社会では非難される
時代にわざと「徳川家康」の」「家康」を我が子の名前につけて
役所に提出。当時の時代を考えれば、当然「拒否」される。
そこで祖父は諦めず「家康」の代わりに「読み方は変わらない」
「栄保」(えいやす)という「洒落をかました」訳である。
私の血筋には、「反権力」と「反骨精神」がDNAで埋め込まれ
ていることが分かる。「家康」がだめなら「栄保」。諧謔精神(シャレ)も
持っている祖父であった。

私の生き方が、二人の子どもと3人の孫に伝わってくれることを
望む。この生き方はけして「出世」する生き方ではないが、人の
ために生きて行きたいという人間の本能に従った人生ではある。
強いもの、威張ったものには、訳もなく反撥する性格は「どうなの
だろうか?」と思っていたが、見事に長男も次男もしっかりと
受けついでいる。祖父のDNAは、母 →私 →長男・次男へ。
3人の孫はどうかな?  私からの希望は最低「社会に反抗的な
精神」だけは、受け継いで欲しいと念願している。

投稿者 koyama : 2011年12月30日 21:02

コメント