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2006年02月28日
3月日程の整理・調整
曇りのち雨。
今日で2月も終わる。早いものである。
フエに戻り2週間以上が経過。
午前8時過ぎ、日本料理店警備員を『家出』していた
リー君が2ヶ月ぶりに仕事に復帰。また、頑張って仕事に
打ち込んで欲しいものである。
午前中、日本語学校主任のフーンさんと打ち合わせ。
フエでの日本語学校をめぐる様々な状況について
意思統一を行う。
午後、3月のスタディーツアー等日程の整理。
3月2日から3月31日まで毎日日程が入っている。
午後7時半、静岡フエ青年交流会館にある日本語学校
を参観。ご家族の葬儀で一時帰国していた石岡先生が
中級クラスの授業を行っていた。今日の生徒は23人。
●元気に日本語学校授業に復帰した石岡先生
●中級クラスの生徒
午後12時45分、昼寝をしながらNHK衛星放送を見ていた。
NHK総合TVをそのまま放映。アナウンサーが
「続いて民主党永田議員の記者会見をお送りします」
という。画面に引き付けられた途端、画面は「氷と雪の世界」
なる教養番組に変わってしまった。画面は白い氷と雪が
延々と続くだけ。あまりに馬鹿にしているので腹が立つ。
NHKは何を考えているんだろう。そのまま「永田議員」の
釈明記者会見を見たいと思った海外住民は多いと思う。
NHK総合TVの放送を続ければよいのだ。
海外のNHK視聴者には、見せたくないとしか思えない
意味のない(意味のある)やり方である。
NHKでは、海外放送にコマーシャルを入れて収益を
あげるとの方針らしい。そうした姑息なやりかたを考える前に
視聴者のニーズが何かを真っ当に考えるべきである。
ベトナムでNHK海外放送を見ようと思ったら、タイから
ホーチミン市に送られたNHK海外放送を我がトンチンカンホテル
の屋上にパラボラを張り受信するのである。
ホーチミン市の会社から年間1000ドルでNHK放送を
買っている。こうして何とか日本のホットな情報を得ようと
している海外在住の日本人もいるのである。
NHK海外放送の担当者はどこまで海外視聴者の要求を
考えて番組編成をしているだろうか?
NHKの親方日の丸、官僚体質が「永田釈明記者会見」
の代わりに真っ白な氷と雪だけを延々と流すという
視聴者を馬鹿にした番組を放送しているところに
現れているように思える。
投稿者 koyama : 21:34 | コメント (0) | トラックバック
2006年02月27日
第2回日本料理店全員会議:リー君との懇談
曇りのち少しの晴れ間。
気候が晴天に向けての変わり目となった。
午前8時半、第2回日本料理店全員会議を実施。
前回は鳥取の徳岡さんからの指導と経験からのご意見を
伺い、具体化することを主な目的とした会議であった。
今日は、徳岡さんのご意見を受けて、更に細かい具体化
を行った。今日の会議には、前回親戚のおばさんの葬儀で
欠席したターオ君も参加。
初めに私からいくつかの提案を行う。
(1)人事問題
①1名の日本人の料理支援者の援助を受けるようにしたい。
②私たちの料理を作っているPHUONGさんを
厨房料理人として採用する。
③「子どもの家」から更に数名の料理人、接客要員を
採用する。
●厨房要員を大人2人+子ども見習い4人程度
接客要員を4人から5人程度とする。
④6月までは昼食のみの業務とする。
7月以降、昼食と夕食を実施する。
⑤営業時間は昼食(午前11時から午後2時)
夕食(午後5時から午後10時)
(2)3月の団体予約状況
・既に団体ツアーからの予約が多数入っている。
3月は13団体の予約が入っている。
総人数120人。
★4月から9月までは団体ツアーの予約が相当数
入る可能性がある。団体予約に対応するよう
厨房と接客の体勢を充実させる必要がある。
次に日本語教師の中村さんからメニューの提案があった。
(1)6月までの昼食のメニュー
①肉の定食(25000ドン:200円)
●日替わり(肉料理+ご飯+味噌汁・小鉢+香の物)
・肉じゃが、トンカツ、豚しょうが焼き、焼肉、から揚げ、
コロッケ
②魚の定食(25000ドン:200円)
●日替わり(魚料理+ご飯+味噌汁+香の物)
・竜田揚げ、魚の煮物、蒲焼、イカフライ、天ぷら
③「子どもの家」定食(30000ドン:230円)
(フライ・串揚げ・混ぜご飯・小鉢・味噌汁・香の物)
④牛丼(25000ドン:200円)
⑤カツカレーライス(25000ドン:200円)サラダつき
⑥各種麺類(15000ドン:115円)
・うどん、そうめん、ラーメン
⑦デザート(5000ドン:40円)
★小鉢類
・おひたし、ごまあえ、白あえ、酢の物、ポテトサラダ、
マカロニサラダ、厚揚げ、煮豆、揚げ出し豆腐、
さといもの煮物、レンコン金平、南蛮漬け、
イカ大根
⑧一品料理
(直ぐ出せる)枝豆、漬物、するめ、干し物、サラダ、佃煮、ナムル
そうめんサラダ
(その日の仕入れで)納豆、さしみ、豚キムチ、玉子焼き
(つくりおき可能)コロッケ、牛すじ煮込み、和え物、魚のマリネ
(その他)揚げ出し豆腐、魚のマリネ、
刺身の盛り合わせ(いか、かわはぎ)
たこ酢、いんげんの胡麻和え、
⑨飲み物
●生ビール
・大生 (40000ドン:300円)
・中生 (30000ドン:230円)
・グラス(20000ドン:150円)
・小グラス (15000ドン:115円)
●生絞りオレンジジュース(15000ドン:115円)
●レモンジュース (8000ドン:60円)
●缶ジュース(コーラ、スプライト・・)(10000ドン:77円)
●アイスクリーム(10000ドン:77円)
●シェイク(トマト・リンゴ・ニンジン・バナナ)
(12000ドン:92円)
●アイスコーヒー(7000ドン:53円)
ホットコーヒー(5000ドン:38円)
⑩その他
・水 食前の水、食後のベトナム緑茶
・ごはんのお代わりは自由
・おしぼり(冷やす。香水なし)
・コースター(「子どもの家」刺繍を使用)
・卓上 醤油、一味、妻楊枝、ティッシュ
(必要な時 ソース、マヨネーズ)
(2)トイレ掃除の重要性について提案
・1日5回のトイレ掃除の励行
・トイレ掃除実施点検表の提案
(3)伝票の提案
・伝票試案を提案する
・基本的に1枚の伝票に全ての料理を書き
提供した時点で記入する
午前11時まで話し合う。徳岡さんの様々な提案を
受けて、その具体化、更に長期的な展望を考えて
の第2回目日本料理店全員会議を終わる。
午前11時半、昼食。チャオバンカン(煮込みうどん)
2005年12月29日以来の料理のPHUONGさんの
作ってくれた昼食だった。
午後1時。2ヶ月前に家出をし、路上生活をしていた
リー君が日本料理店へやってきた。
「子どもの家」関係者に『路上などでリー君を見かけたら、小山が
会いたいと言っていた、日本料理店に来るように言って
欲しい』と頼んであった。何人かの人が、リー君に偶然出会い、
日本料理店に来るよう話していた。今日、やっとやってきた。
ラームさんと私、リー君で話し合う。
(小山)この2ヶ月何をしていたの?
(リー君)路上のシクロなどに寝ながら絵などを売っていた。
★リー君の様子を観察するとかなり疲れているようだ。
衣類はかなり汚れ異臭を放っている。
(小山)シャワーは使っているの?
(リー君)使っていない。
(小山)2ヶ月、家出をし日本料理店の警備員をしないで
過ごしてみてどう思っているの?
(リー君)自分の考えが間違っていることに気づいた。
(小山)リー君がどのような人生を歩むかは自分で
決めることだ。路上生活と物乞いで生活するのも
リー君自身が選ぶこと。リー君も19歳になり
大人になったのだから、自分の人生をどう歩むかは
自分でしっかりと考えて決めるように。
リー君がもし、もう一度日本料理店の警備員と
して仕事をしたいというのなら、最後の機会を
あげる。これは飽くまでリー君自身が自分で考え
決めることだ。
(リー君)2ヶ月の路上生活は大変だった。自分の考えが
間違っていることに気づいた。
もう一度、僕に機会をください。日本料理店の
警備員をしたい。
(小山)リー君は何故、警備員を辞めて路上生活を
し始めたのか、その原因を自分で考えるように。
(リー君)ギャンブルにはまったことが原因だと思う。
ギャンブルのためにお金が必要になり、
つい、色々と悪いことをしてお金を集め、
ギャンブルを楽しんだ。
(小山)ギャンブルは1日いくら位使ったの?
また、儲かったの?
(リー君)1日10000ドン~50000ドン。
ギャンブルはもうからない。いつもお金が必要だった。
★5万ドンは普通の労働者の1日の賃金を超えている。
(小山)リー君の気持ちは分かった。日本料理店でもう一度
働く機会を与えるようにした。条件がある。
①今後、絶対にギャンブルをしないこと
②真面目に働くこと
③悪い友達と付き合わないこと
約束できる?
(リー君)絶対に約束する。僕にもう一度、機会を与えてくれて
ありがとう。警備員の仕事を頑張る。
こんなやりとりを1時間ほどした。
リー君は着るものも1着。頭髪も伸びていた。
2ヶ月前に借りてやった下宿も追い出されている。
泊まる所もない。
早速、お金を上げて床屋に行くように言う。
ラームさんにお願いし、リー君の下宿を探してもらう。
リー君との付き合いは長い。10年ほどの付き合いだ。
この10年間、リー君との間には様々な出来事があった。
何度も裏切られた。また、何度も「子どもの家」や
私のところに戻ってもきた。そのたびに成長してきている。
今は19歳。人生の進路を左右する重要な時である。
この時期を踏み外すと『真っ当な人生』を歩むことが
難しくなる。何とか自分の力で努力して仕事をし、
収入を得て自立する道を歩んで欲しい。広い愛情を持って
厳しく付き合っていく必要がある。
どんなことがあっても「切り捨てない」私たちの姿勢が
問われている。今回の家出騒動を契機になんとか
自立に向けて進んで欲しい。
海外支援、国際協力と言う言葉が氾濫している感の
ある今日この頃の日本である。
この12年間にフエでの体験で学んだ私の海外支援、
国際協力の本義は、「人を育てること」に尽きる。
物の支援は、あくまで手段。物の支援自体を目的とした
支援ではありたくない。物の支援も究極的には
「人を育てる」ための手段、方法のひとつである。
方法・手段は目的とはならない。
人を人間として育てると口で言うのは簡単である。
しかし、実際にやるとなると中々大変なことである。
私たちの『強い忍耐力』と『子どもたちに対する
確固とした広い愛情』がなければ出来ない。
こんな境地にたどり着いたのは、この12年間のフエでの
経験・体験のお陰である。これは飽くまで私の個人的な
国際協力・国際支援であるが・・・。
リー君の成長を心の底から願うものである。
午後5時、日本料理店店長のホンさんに「ぬか床」作り
を教える。
5キロのぬか、塩一袋、水4・5Lを混ぜる。
ぬかを炒った入り、塩を水で煮たりとする人もいるようだが
今回は最低限の原則的な『ぬか床」作りとした。
ぬかに塩水がなじんだら、にんにく、唐辛子、昆布、
鰹節などを入れて、更にぬか床をなじませる。
ぬか床が馴染んだら『捨て野菜』(ニンジン、きゅうり、キャベツ)
をいれる。
毎日2回ほど『かき混ぜ』、酸素を補給することを説明する。
ぬか床を「生き物」と考え、愛情をもって育てていくという
気持ちが大事と店長のホンさんに説明する。
1週間ほどでぬか床が出来上がるはずだが・・・・・・・。
どうなるか?
投稿者 koyama : 00:26 | コメント (0) | トラックバック
2006年02月26日
日曜日の「子どもの家」と子どもたち
曇り。時々小雨。まだ寒い。
昨夜、ハノイからの帰りに11時間ほどかかり体力を
かなり消耗した。
フエに戻って17日目。やっと少しゆっくり出来る。
午前6時起床。2月23日から25日までの日記を書く。
フエ不在中の119通のメールの返事16通を書く。
これだけでほぼ1日を費やす。
午前8時、NHK衛星放送で『日曜討論』を見る。
民主党のメール問題。民主党前原党首の言い訳を
聞いていると政治家としての訓練がされていないことを
感じる。先日の党首討論を聞いたが、前原党首は
「堀江メールに確かな証拠がある。確証がある」との
発言を繰り返していた。確証ということばは「うそ」だった。
国会議員は嘘をついてはいけない。いくら武部氏を
追求するからと言って、嘘をついてはいけない。
結局確証はなかったのに「大見得を切った」訳である。
この程度の政党党首が野党第一党の党首であると
言うところに日本の悲しさがあるのだ。
これは民主党の多くの若手議員にも共通する
感触である。永田議員にいたっては、国会であれだけ
武部氏への追求をしたのに、確証がないとなった途端に
休養だそうだ。情けない議員ではある。
与党も野党第一党も「なれあい」である。
昨年9月11日の総選挙の際、自民党本部でホリエモンと
武部幹事長が記者会見をしたり、武部幹事長が
ホリエモンの選挙応援などをしてる「実績」を見れば
ホリエモンから武部幹事長へお金が渡っていると
推測することはあながち間違ってはいないと思う。
元自民党国会議員だった糸山英太郎氏が
語っている言葉には、現実味がある。
『結論なら私が言ってあげよう「金はもらっているに決まっている、しかし振込みでもらう馬鹿な議員はいない」これですべてだ。
私はホリエモンが無所属であるにも関わらず自民党幹事長室で会見を行っているのを見て確信した。そして国会議員は銀行振込をしない、金銭のやり取りはすべて現金なのだ。20年近く永田町にいたこの私が言うのだから間違いは無い。』
午前10時、ラームさんと話し合い。
午前10時半、「子どもの家」へ。「子どもの家」を退所した
大学生のメンさんのラームさんの実家への引越しの具体化
について本人と打ち合わせ。
今週中に引っ越すことになる。同時に今週中にオートバイの
免許を取得することとなった。
「子どもの家」では、先日入所した二人の男の子が
「子どもの家」にも慣れ、庭でサッカーに興じていた。
子どもたちは新しい環境に適応するのが早い。
2月24日、ハノイの日本大使館で行われた
『ODA縫製研修工場』プロジェクトの記事が
「ニャンザン」(共産党中央機関氏)と」英字新聞
「ベトナムニュース」に載っていた。
投稿者 koyama : 23:33 | コメント (0) | トラックバック
2006年02月25日
ハノイからフエへ。飛行機がストップし大混乱
ハノイ 曇り。気温14度
3月3日フエに来る静岡市ラジオ体操連盟の
件。昨年11月、静岡市長と懇談。
小嶋静岡市長が会長をしている静岡市ラジオ体操連盟が
フエを訪問する。フエ市長への表敬訪問などのお世話を
して欲しいとの依頼を受ける。
その後、静岡市ラジオ体操連盟理事長さんや観光を
担当するD観光の担当者とも懇談・打ち合わせを
し、朝6時から王宮前でのラジオ体操、午前9時から
フエ市長への表敬訪問、午前10時からの「子どもの家」
訪問という日程を確認。
2月10日にフエへ戻り、フエ市人民委員会外務部長と
懇談。朝6時の王宮前でのラジオ体操の許可(警察)申請、
午前9時のフエ市長への表敬訪問、「子どもの家」訪問だと
の日程を確認した。
朝8時半、ベトナム事務所の税田さんより電話。
日本のS観光ホーチミン支店から
ラジオ体操連盟のフエ市長表敬訪問中止との
メールが入ったとのこと。理由は、現地の人(私のこと)
がフエ市長への表敬訪問の予約が取れなかったので
フエ市長への表敬訪問が出来ないとのこと。
全く馬鹿な話である。
既にフエ市人民委員会は3月3日午前9時にフエ市長の
日程を確保している。昨夜もODA支援決定の後、
ニエン外務部長、イックホアン外務部員と祝杯をあげたが、
その際、改めて3月3日午前9時のフエ市長の日程の
確保を確認している。
今までもこの種の問題は何度もあった。
静岡市のD観光がツアーを受けていたが、
実際にD観光はベトナムツアーはできない。
日本のベトナムツアー専門観光会社に「ツアー委託」する。
今回S観光という会社に委託。
S観光は、ホーチミン市の支店に連絡。
S観光ホーチミン支店が今回のラジオ体操連盟ツアー
の取り仕切りを行うという図式である。
実際にはホーチミン市のS観光にもフエに支店がないので
ダナンのA観光会社に手配を委託するという
複雑な構図がある。
一種の「伝言ゲーム」のようなものである。
静岡市のD観光からの指示が複雑な途中経過を
経て、最終的には180度違う指示へと変質する典型的な
例である。
午前8時半から2時間ほど、この問題のために時間を
使う。飛行場へ行くまでの数時間、ハノイ市内を散策しようと
していたが計画は全ておじゃん。
ホーチミン市のS観光の日本人駐在員と何度も電話で
話をする。
3月3日のフエ市長問題は何とか解決。
S観光自体がしっかりとした連絡体制を持っていない。
日本とホーチミン支店との間の意思疎通がきちんとしていない
のである。会社組織としては失格。これではお客さんの
希望する仕事は出来ない。
S観光ホーチミン支店の日本人担当者の横柄な態度に辟易
する。彼は常日頃、この調子でベトナム人に接しているのだろう。
電話の声ではまだ若いようだ。自らの会社の無能力を棚に上げて
偉そうな電話の態度。私が電話で彼の態度を厳しく注意する。
すると急「すみません。すみません」と謝ってくる。
黙っていれば横柄な態度を取り、厳しく指弾すれば平身低頭。
若いのにこんな生き方をしていてはいけない。
仕事をするときは、相手が誰であれ真摯な態度で臨まなければ
ならない。相手が弱ければ威張り、強ければペコペコする
ような生き方をこんな若いうちに身につけてしまってはいけない。
悲しい日本の若者の現実である。
*夜帰ってメールを開けると同様のメールがS観光日本本部の
担当者からもきていた。あて先も書かない失礼な
メールを送るこの観光会社に社会的常識はない。
非常識なのはホーチミン支店の若者だけではなく
S観光日本本社の担当者も同様だった。
この観光会社はこうした体質の会社なのだ。
更に問題が起こる。
10日ほど前にS観光ホーチミン支店に『「子どもの家」へ
大型バスで来るのは警察で禁止されている。30人以下の
車で来て欲しい』と電話してあった。
今日再度、電話で確認すると「45人乗りの大型バス2台」
で来ると言う。
『フエの警察に大型バスで世界文化遺産に入る許可を取ろうと
したが取れない。小山さんの方で何とか許可を取って欲しい』
とのこと。この種の許可を取る業務こそ、そもそも観光会社
の仕事なのである。私たちはNGOである。何のための
観光会社なのか?
静岡市長から宜しくと頼まれている経過もあり、しかたなく
フエのラームさんに電話。直ぐに警察に行き、許可申請出来るか
聞いて欲しいと。
ラームさんがフエ警察に行き確認。大型バス運転手の
免許書の写し、大型バスの車検証の写しを添付し、申請すれば
何とか特例で許可するとのこと。警察は昨年12月に一切の
大型バスの侵入を禁止している。何とか、特例として大型バスで
「子どもの家」へこられるように手配をする。
直ぐにホーチミン市のS観光支店へ電話。しばらくして
S観光から電話があり「免許証や車検証の写しを
ダナンの会社からもらうのは困難。35人乗りのバス2台に変更」
との連絡。ラジオ体操連盟の皆さんがベトナムに来るのは
5日後である。今頃、バスの問題でこんなことをしているのは
情けない実情である。仕事というものに責任をもたない
日本の世情が海外にも伝播しているのも悲しいことである。
再度、ハノイからラームさんに電話をし、35人は大型バスに
なると思うので一応、警察に確認して欲しいと頼む。
警察に確認した結果、やはり31人以上のバスは大型。
35人乗りも45人乗りも同じ。
再度、ホーチミン市のS観光に電話。30人以下の
車に変更しないとだめと知らせる。
結局、ハノイ空港へ出発するまでS観光のするべき
仕事を私が代行してしまう。本来はこれら全ての仕事を
してこそS観光はお客さんからお金がもらえるという
ものなのだが・・・・。お金はもらうが、責任をもった仕事は
しないというのでは・・・。ラームさんなどベトナム人スタッフ
も「恥ずかしい会社です」と失笑していた。
これもS観光へのボランティアと割り切る。このまま放置して
置けば、結局ラジオ体操連盟はフエに来て、フエ市長訪問も
「子どもの家」訪問も出来ないままで帰国することになる。
黙って放置はできない。何とか、問題を解決。
今日は午後3時から「子どもの家」卒業生のニーさんの
結婚式。親代わりに私が挨拶するよう頼まれている。
どうしても参加しなければならない。
ハノイ空港(ノイバイ空港)発午後12時40分。
何とか結婚式に間に合うようハノイのホテルを出て
午前11時にハノイ空港へ到着。搭乗手続きをする。
搭乗手続きをしに行ったバオミンさんが青い顔をして
戻ってくる。「午後12時半発の飛行機が午後7時発に
変更されている」とのこと。
ニエンさんなど4人はびっくりする。1時間ほどの遅延は
いつものことなので驚かないが、これから8時間も
空港で待たされるのは困る。ニエンさんも午後仕事が
あるそうだ。ミンさん・イックホアンさんが再度空港
カウンターへ掛け合いに行く。午後7時までの遅延理由は
何も教えないとのこと。ダナン経由も調べたが、午後5時まで
はないとのこと。パシフィック航空と言う小さな航空会社
がある。聞きに行く。ダナンまで1日1便。既に出てしまっいた。
結局、理由も示さず、代替交通機関もないままで
空港に放置されることになった。午後7時まで待つしかない。
諦めの気持ちである。午前11時にダナン行きがあった。
ベトナム航空が早く私たちに連絡を入れてくれれば
もっと早く空港へ来てダナン行きに乗ればフエに戻れたのだ。
時間の変更は昨日決まっていたはず。何のための航空券を
買った時に連絡先の電話を聞いたのだ。こうしたときの
連絡のためなのに・・・・・・。
4人は暫く呆然として空港待合室で待つ。
1時間ほどすると「フエ行き12時40分のお客は今からバスで
ハノイ市内のホテルに案内し、午後5時まで待機する」との
場内アナウンスがあった。ベトナム空港手配の大型バスに
4人で乗る。既にフランス人のツアー客の一団が乗っていた。
バスが走り出す。バオミンさんが乗客を数える。24人。
私たち4人。合計28人。
午後12時40分のフエ行きに乗る予定のお客は28人しか
いなかったのが分かった。
28人で250人乗りのジェット機を飛ばすのは損をする
とのベトナム航空のいつもの「拝金主義」「無責任体質」が
ミエミエ。
同行のベトナム人は「12時40分以降のフエ行き3便の
お客をひとまとめにして午後7時にフエへいくのだ」との
噂話。
30分ほどバスに乗り、「ホータイ湖」という湖の中に
キューバの支援で作った共産党幹部の保養所がある。
現在は改修しホテルとなっている。
ホテルで午後5時まで待つよう指示される。
湖の中に作った保養所ということもあり、部屋から
湖の眺めが素晴らしかった。
もうこの際、諦観し、ホータイ湖を楽しもうということになった。
ミンさんたちの話では「ホータイ湖」はタニシのような貝が
美味しいとのこと。ホテルでくすぶっていてもしょうがいない
ので「美味しいタニシ」を食べに行く。
ホータイ湖の近くに仏閣があり、門前町が出来上がって
いた。今日は縁日。多くの参拝客があった。
仏閣の両側には様々な食堂やみやげ物店が並んで
いた。
ひとつの食堂に入り「タニシ」を注文。私の口には合わなかった。
店先を見るとエビの揚げ物があったので注文。「チャートム」
醤油に唐辛子を入れて「チャートム」をつけて食べると美味しい。
●タニシのような貝
●エビの揚げ物(チャートム)
暫く食堂で雑談。その後、せっかく来たので仏閣にお参りに
行こうと提案。4人で参拝。仏教のお寺のようだった。
午後4時頃、ホテルへ戻り一休み。
午後5時、予定通りバスでハノイ空港へ戻る。
チェックイン。午後7時発の飛行機を待つ。
午後6時50分になっても何ら連絡がない。
午後7時過ぎになって「午後7時発のフエ行きは
午後8時過ぎに変更されました」との簡単なアナウンス。
それだけ。更に1時間待つ、やっと午後8時10分に
ハノイ空港を飛び立つ。大型ジェット機。250人乗りの
飛行機は満席だった。
やはり私たちの想像は的中していた。ベトナム航空の
営利第一主義。午後12時40分便は28人しかお客が
いない。その後午後5時過ぎの便と午後7時頃の便の
3つのお客をまとめて、この便でフエに連れて行くという
「大胆な」戦略。午後12時40分予定のフランス人ツアー
などはフエでの午後の観光と宮廷料理の夕食が出来なかった。
私は結婚式に参加できず(ラームさんに依頼し、新婦ニーさん
に事情を伝えてもらう)、ニエンさんも外務部の大事な仕事が
出来なかった。客の犠牲の上に膨大な利益をえている
ベトナム航空の腐敗体質に厳重抗議したいが、
今のベトナムではこの種の出来事は日常茶飯事。
抗議をするべき責任者がいないのである。無責任国家。
カウンタースタッフは「私は何も知らない」を繰り返すだけ。
マネージャーなど責任者はついぞ姿を見せない。
結局8時間以上も人の時間を取ったということへの
責任や謝罪の気持ちがない。それも自然災害や
飛行機の機械の故障などアクシデントが理由なら
多少は溜飲も下がるのだが、金儲けのために
お客に「嘘をついて」、正確には何ら説明もしないまま
赤字での飛行をやめて、金儲けになる飛行だけをするという
およそ企業倫理も社会倫理も喪失した腐敗堕落した
共産党幹部(ベトナム航空は国営。役員や幹部は全員
共産党員)の一党独裁から生まれる利権体質、金権体質
の実態を見た思いである。
先日のベトナム国会でベトナム航空の遅延・欠航問題が
取り上げられた。国会議員が運輸大臣に質問をした。
「ベトナム航空は理由も示さずに欠航・遅延が多発している。
あなたたち運輸省がベトナム航空の運営が出来ないのなら
外国の航空会社に運営を任せるべきだ。遅延・欠航の理由は
何なのだ?」。
運輸大臣の回答「遅延・欠航の理由は政治的なものなので
答えられない」とのことだったそうだ。結局、運輸大臣も
まとまな回答は出来ないのである。
昨年、ベトナム航空中部責任者が「焼身自殺」した。
多額の公金横領が発覚。ハノイから調査団がダナンの
ベトナム航空中部地域支店長の取調べを行った。
その日の夜焼身自殺をした。
従業員のボーナスを掠め取り、別荘や高級外車など
個人資産を買いあさり、家族と親族のために私腹を
肥やしていた。この焼身自殺など氷山の一角。
「小者が狙い打ちされた感」がある。大物は
ハノイでゆっくりと安穏をむさぼっているのである。
犠牲者は私たち何も知らないお客である。
ベトナムが豊かになったと言う声も聞くが、社会の
表面を撫でるだけではその国は分からない。
社会の深層で何が起こっているのは、マスコミなどが
報道しないところにに社会の実相があるように思われる。
今日の8時間ほどはベトナム航空の金儲け(実際には一部の
共産党幹部の私腹を肥やすため)に協力した無意味な
時間だった。
午後9時過ぎフエ空港に到着。自宅着午後10時。
部屋に戻ったらどっと疲れが出た。
メールを開く。3日間で119通のメール受信があった。
今日は読むだけにして、明日の日曜日に返信を書こう。
疲れたので午後11時50分に就寝。
2006年02月24日
ODA縫製研修工場認可調印式
曇り時々雨。
寒い。気温14度。
午後2時、私たち4人とフエ出身でハノイに在住している
人たとち日本大使館へ。
午後3時、ハノイの日本大使館でODA調印式が行われた。
総額85000ドル(約1000万円)のプロジェクト。
日本側:服部大使、日本大使館スタッフ。
ベトナム側:「越日交流委員会」(4人)、ハノイ在住フエ人。
マスコミ:ベトナム共産党中央機関紙「ニャンザン」(人民)
ベトナム・ニュース(国営英字新聞)
*私の立場はベトナム側。今回のODA支援はベトナムの
公的機関であるフエ市「越日交流委員会」に対して
日本政府より行われた。私はベトナムの
公的機関である「越日交流委員会」副委員長として参加。
●司会はフエ側。
ベトナム語をイックホアン(「越日交流委員会」委員)
日本語通訳はバオミン・ベトナム事務所長
初めに調印式。
日本政府を代表して服部大使、「越日交流委員会」を代表して
ニエン委員長が調印書に署名。
●服部大使署名
●フエ市「越日交流委員会」ニエン委員長署名
●調印書交換
●服部大使挨拶
このプロジェクトがJASSとフエ市人民委員会で協力して
実施しているストリートチルドレンや生活困難な子どもたちの
自立に向けての職業訓練に役立つことを願っている。
現地の皆さんの奮闘を期待したい。
●フエ市「越日交流委員会」ニエン委員長挨拶
今日、日本政府よりODA支援を頂き感謝したい。
私たちはJASSと協力してフエ市「越日交流委員会」を
設立した。現在、「子どもの家」、オートバイ修理研修センター、
静岡・フエ青年交流会館(日本語学校を実施)の3つの
施設の運営を行っている。これからベトナム側で自立して
これら施設を運営していきたい。また、子どもたちの
自立を促進していきたい。このプロジェクトはそのために
大いに役立つものと思う。これからもJASSと協力・共同
しながら子どもたちや施設の自立に向けて頑張りたい。
支援頂いた縫製研修工場は計画通りに建設・運営し
子どもたちのために役立てるよう約束したい。
●ニエン委員長より服部大使へお礼の花束贈呈
調印式終了後、ワインで乾杯し、参加者全員でしばらく懇談。
最後に記念撮影。
こうして1年間近くかけてやっとODA支援が決定した。
長い道のりであった。膨大な申請書と関係書類の作成。
設計図作成、地元の建築会社三社に「三社見積もり」
の作成を要請。
その後、何度かハノイ大使館へ通い、服部大使や
ODA草の根担当の吉田書記官など関係者にも
要請。ベトナム全土で200件ほどの案件が申請された
とのこと。そのうち支援実施案件は15件ほど。
支援決定を受けるのは相当困難な状況だった。
申請書と付属書類を作るだけでも大変な労力を
要する作業であった。
何とか私たちのプロジェクトへの支援を
決めてもらうためにこの1年近く、様々な要請行動を
行った。霞ヶ関の外務省へも要請行動に行った。
何とか今日、決定に至った。
「ODA支援決定」といえばそれだけのことではるが、
実際に決定までこぎ着けるためには、大変な労力を
要するのである。同時に本当に大変なのはこれからで
ある。計画通りの縫製研修工場を建築するという
日本では簡単とも思えることが、ベトナムでは
大変な困難を伴う。
今まで「子どもの家」で5回、オートバイ修理研修センター、
障害児医療センター(2回)、静岡フエ青年交流会館、
フールー小学校(3回)の工事をおこなってきたが、
すんなりと建築できた工事は一度もなかった。
半年で建築が完了するはずの工事が2年半もかかったこと
もあった。
また、フエ市人民委員会財政部が利息をもうけるために
工事費用を勝手に銀行に預金してしまい、工事費用が
払えずに工事が長期中断したりしたこともある。
今まで11回の工事を行っているが、これらの工事費用は
全てフエ現地で直接支援を申請したりお願いに回ったりして
工面したものである。
ODA支援申請(JICAも含む)3回、国際ソロプチミスト支援申請3回、
ライオンズクラブ申請2回、JASS会員ではない個人の支援3回。
これらの支援金をもらうためこの12年間、ラームさん、ミンさんなどと
現地フエで様々な工夫をし申請したものである。
そうした現地での長年の経験が「現地自立」の力の源だと
思っている。
こうした活動を支援してくれた日本の関係者に感謝したい。
これから縫製研修工場の建築という難関が横たわっている。
バオミン・ベトナム事務所長を中心に現地で最大限の努力を
したいと思っている。
今日は、とにかく長年の願いだった縫製工場建築が決まって
嬉しい。
この縫製工場と日本料理店は「現地の財政自立」の両輪である。
今日を出発点にして、現地の財政自立を一層進めたいと
決意した1日でもあった。
深夜まで「越日交流委員会」4人で祝杯をあげた。
投稿者 koyama : 08:03 | コメント (0) | トラックバック
2006年02月23日
ODA縫製工場認可調印式のためハノイへ
フエは曇り22度。
2月13日からフエで日本料理店の応援をしてくれていた
鳥取の徳岡さんが帰国。10日間のフエ滞在に感謝。
日本料理店スタッフ、とりわけ店長のホンさんは
徳岡さんから様々な料理と料理のコツを学んだ。
徳岡さんが教えてくれた日本料理を今後の日本料理店
のメニューに生かして行きたい。長い間のフエ滞在
本当にお疲れ様でした。
ハノイ曇り15度。
昨年5月、ハノイの日本大使館に申請していた
縫製研修・工場建築の認可がおり明日ハノイの
日本大使館で服部大使と調印式を行う。そのため
「フエ市越日交流委員会」メンバーでハノイへ。
「越日交流委員会」のニエン委員長、バオミンさん、
イックホアン委員(ミンさんと同級生。私の12年前の教え子)。
ニエンさんはフエ市人民委員会外務部長、イックホアンさんは
フエ市人民委員会外務部員。
ハノイは15度。とにかく寒い。
ハノイは大観光ブームでホテルの空きがない。
やっとさがして「サニーホテル」に宿泊。
大変なホテルだった。従業員のサービスの悪さは
我慢するとして、ホテルの設備・備品などが整備されていない。
特にエレベーターの押しボタンのパネルが取れている。
怖くてエレベーターに乗れない。これにはニエンさんたちも
苦笑い。
ミンさん・イックホアンさんのベッドにはムカデが
でたそうだ。
私の部屋のテレビ・電気等つかなかったり、消せなかったり。
部屋の隅々にごみ・・・。
値段だけが高い。ホテルの誰一人として「責任」をもって
仕事をしているとは思えない。
●エレベーターの押しボタンパネルが外れたまま
運転されている。
夕方、一行4人で「チャーカー」(魚の鍋物)を食べに行く。
その後、ニエン氏の部屋で午後11時まで、ベトナム人は
午前1時まで「もろもろの」話をする。フエの諸事情を知る上では
大いに参考になることがあった。
投稿者 koyama : 07:47 | コメント (0) | トラックバック
2006年02月22日
「子どもの家」二人の入所者。
終日曇り。
午前中、フエ滞在者の下宿をミンさんと見に行く。
適当な物件を見つける。
午前9時、「子どもの家」に二人の入所者があった。
先日、バオミン・ベトナム事務所長、ソン・ベトナム事務所員
で家を調査に行った3人のうちの2人。
●サウ君(12歳)小学校4年生。4人家族の3番目。
父親死亡、母親は病気で仕事が出来ない。
将来は医師になりたいとのこと。
●ヒエウ君(12歳)小学校4年生。姉と二人兄弟。
父親は死亡。母親は脊髄カリエスで仕事ができない。
将来は学校の先生になりたいとのこと。
1階の部屋に入る。持ってきた荷物はカバンとビニール
袋などに入った衣類のみ。人間は若干の衣類と書物
があれば生きて行けるのだ。
入所後、最初の昼食を摂る。
サウ君もヒエン君も早く「子どもの家」に慣れて元気に
生活してほらいたいものである。
「子どもの家」の子どもたちの食欲は旺盛。
3杯から5杯程度、ご飯を食べると言う。
「子どもの家」の図書室では子どもたちが読書を楽しんでいた。
日本料理店では徳岡さんの指導もありお客さんの来店で
忙しく仕事に明け暮れている。
午後2時半、静岡からの訪問者があり2時間ほど懇談。
明日からハノイで行われる
「ODA縫製工場プロジェクト調印式」に参加のため
出張する。
投稿者 koyama : 00:27 | コメント (0) | トラックバック
2006年02月21日
鳥取徳岡和枝さん還暦・誕生祝い
終日曇り。肌寒い。
今日は鳥取から日本料理店の料理ボランティア
で来られている徳岡和枝さんの誕生日。同時に還暦のお祝い。
2月13日から2月23日までの10日間、日本料理店で
様々な日本料理を教えてくれた。人生の偶然で今日2月21日、
ベトナムで第60回目の誕生日をも迎えられた。還暦である。
ご本人も還暦を喜ばれていた。ささやかな集いではあるが
還暦祝いを兼ねた誕生会を催した。
朝から日本料理店ではお祝いの料理作りに精を出していた。
●ベトナム事務所のサンさんも配膳の手伝い。税田さんと
●「子どもの家」のニーさんもすっかり配膳の要領を覚えたようだ。
●ベトナム事務所のハンさん、サンさんも手伝う
●連日奮闘するホン店長
●マヨネーズの使い方をトゥーイさんに教える徳岡さん
●厨房で調理をする「子どもの家」のグエットさんとニーさん
●徳岡さんの誕生ケーキの買出しに行ったソン君
午前11時半過ぎ、バオミン・ベトナム事務所長の司会で開会。
初めに私から徳岡さんへのお礼と還暦・誕生日のお祝いを
申し上げる。
徳岡さんの話に続き、中村さんより誕生ケーキプレゼント。
参会者全員の「HAPPY BIRTHDAY」の歌にあわせ徳岡さんの
手でケーキカット。
京都産業大学の学生さん二人も飛び入り参加。
今日は午前中、松下先生の案内で「子どもの家」を参観した。
その帰りである。
徳岡さんのケーキカットの後、日本料理店の試食も兼ねて
会食会が始まる。今日はベトナム事務所員全員。
日本料理店関係者など21名の参加。
今日のメニューは
・トリから上げ ・牛すじ煮込み ・炊き込み風ごはん
・天ぷら ・味噌汁 ・和え物 ・そうめんサラダ
●トリから上げ
●牛すじ煮込み
●炊き込み風ご飯
●天ぷら
●味噌汁
●和え物
●そうめんサラダ
2月15日に開店して以来、様々な取り組みをしている。
こうした実体験・経験を通して関係者の力量が付いて
行くことと思う。焦らずに時間をかけて進めるという
方針である。関係者の皆さんの努力と進歩は大きなもの
がある。全員が素人の中で日本料理店を開店しようと
いうのである。3月には7つほどのツアーが日本料理店
での昼食などの予約をしている。今後、日本人ツアーの
予約などを積極的に受け入れていく計画を立てている。
投稿者 koyama : 20:11 | コメント (0) | トラックバック
日本料理店開店1週間の反省会
曇り。時々小雨。寒い
午前8時半、日本料理店の全員反省会。
2月15日に開店し丁度1週間。実際にフリーのお客さんを
受け入れてみて様々な問題点が見えてきた。今後の更なる
発展のために「率直な」反省会を行う。お茶を飲みながら。
参加者が料理指導でフエに来ている徳岡さん、オーナーの
小山・ラームさん、店長のホンさん、「子どもの家」の3人娘
ニーさん・グエットさん・トゥーイさん、ベトナム事務所員の
税田さん、日本語教師の松下さん・中村さん
(石岡さんは、昨日東京のお祖母さんが亡くなられ緊急帰国中)
(料理について)
・白米以外に炊き込みご飯も作りたい。煮物などを辛めに作り
白米とはらめた擬似炊き込みご飯も美味しい。
・鶏肉の炊き込みご飯
・魚の切り方は、真ん中の美味しい部分は多少短めに、
しっぽの方は長めに切ると良い。
・「子どもの家」定食はご飯、味噌汁、魚など、おかず2点と
ベトナムの他の日本料理店よりも内容が豊か。
また、一般の来客からの意見では美味しいとのこと。
値段が25000ドン(200円)ではかなり安いと思うが、
しばらくは日本料理店の「宣伝」もありこの値段でやっていく。
・冷凍の枝豆がフエのスーパーにあるので、生ビールのおつまみ
としたい。
・かつをの刺身を店で出したい。漁師から直接買い付けする
業者に知り合いがあるので頼んで見る。そのた、さわらなど
の魚料理も出来る。
・トンカツ用の豚肉が日本と若干違って赤みだけだ。
霜降りが入っている豚肉が欲しい。
(店内装飾・サービース関係)
・生ビールを出すときには、「子どもの家」のコースターを
使う。
・個室で追加注文したい時に連絡が出来ないので
呼び鈴などを付けたい。
・トイレの掃除の件。始業前、午後2時過ぎ、閉店後と
1日3回のトイレ掃除をする。トイレの臭いが絶対に
しないよう掃除を徹底する。
・トイレの入り口の前にのれんをかけたい。
・トイレの中に化粧用の棚、石鹸、紙タオル等を置きたい。
また、トイレの中の装飾をしたい。
・ウエイトレスが常時店内にいて、お客さんの様子を
見ているようにする。
(食器関係)
・食器全体が少し中途半端だ。これから工夫したい。
・洗いおけをもう少し多く買って欲しい。
・水切りももっとあった方がよい。
・うどん、そばをあげるざるのようなものが欲しい。
・冷凍保存用のタッパーが5つ位あるとよい。
(台所)
・カウンターにも小台所が欲しい。
・大きな冷蔵庫が欲しい。
・冷凍庫を買って欲しい。
(開店時間)
・当面は午前11時から午後2時の昼だけとする。
店の運営が慣れてきたら午後5時から午後10時まで
の夜の部も始めたい。その際は、従業員の人数も
増やしたい。
・日本人の料理を作ってくれているフオンさんにも
日本料理店のスタッフになってもらうようにしたい。
(「子どもの家」3人娘)
・ニーさん(これからも日本料理店をやって行きたい。
自己評価80点)
・グエットさん(日本料理店は楽しい。)
・トゥーイさん(日本料理店楽しい。これからもやって行きたい)
午後3時半。京都産業大学の学生さんと懇談。
昨年の「京都産業大学スタディーツアー」に参加した
学生さんたち。今年もスタディーツアーを実施するとの
大学側の話があったのに、説明もなく今年の
スタディーツアーを中止した学長に説明を求める
メールを出したとのこと。しかし、明確な返事がなかった
そうだ。どうしてももう一度フエに来たいとのことで
今回のフエ訪問となった。現在の若者はしっかりしている。
「来年も実施する」との約束を反故にした大学に
直接説明を求める学生さんの態度に好感を持つ。
学長側の説明は説明になっていない。
大学側にも色々と問題があるのだろうが、こうした純真な
学生にきちんと説明できない大学当局の無策ぶりには
憤りを感じる。昨年は私も京都産業大学まで直接行き
スタディーツアーの説明会にも参加した。
大学側はこれからしばらくスタディーツアーを実施したいと
の意向をJASSに表明していた。今まで私たちにも
何ら連絡や説明すらない。大変失礼な態度ではある。
学生さんたちが「来年も実施する言っていた大学側が
何故今年、中止したのか」をしっかりと私たちや学生さんに
説明する社会的な義務があるといえる。
ーーーーーーーーーーー
フエに帰ってから8日目。日本では武部幹事長の次男に
ホリエモンが3000万円振り込んだとか振り込まなかった
とかが問題になっている。
民主党のやり方はあまりに「赤ちゃん」である。
メールなどどう考えても証拠にはならない。この程度の
追求の姿勢では自民党を追い詰めることはできない。
追求に腰が入っていないのである。
これでは、逆に自民党から追及されてしまう。
既に自民党からもっと証拠を出せと逆追求を受けて
窮地に追い込まれている。けんかの仕方すら
知らない「素人集団」の民主党では野党第一党の
名前が泣くというものである。
何となくホリエモンが武部幹事長の息子に
3000万円振り込んでいるのではなどと勘ぐってしまうが、
それならそれでしっかりと証拠が固まった時点で断固とした
追求をしなければ「けんか」にならない。
赤ちゃん政党の民主党。野党でない。第二自民党。
与党第3党。
トリノオリンピック。あまり成績はよくないようだが、
選手は全力で頑張っている。マスコミは相変わらず
持ち上げて、だめなら叩き落すという姿勢。
マスコミの報道に惑わされず選手にご苦労様と
言いたい。ベトナムのNHK衛星放送ではトリノオリンピック
の中継報道が出来ない。時々結果を報道する程度。
国連加盟国200カ国程度のうち、トリノオリンピックに
参加している国は世界の3分の1程度の60カ国程。
多くの発展途上国は参加すらしていない、出来ない。
こうしたことももっと報道して欲しいものである。
トリノは「先進国」のオリンピックとなっている。
投稿者 koyama : 08:40 | コメント (0) | トラックバック
2006年02月19日
クアン共産党委員長と懇談 :徳岡さん「子どもの家」で踊り披露
終日雨。寒い。
今日は日曜日。
午前8時半、先日までフエ市共産党委員長だったクアン氏の
家族と一緒に史跡訪問と昼食交流を行う。
フエ市郊外にベトナム戦争中の「南ベトナム」ご・ディン・ジェム
大統領の弟の別荘がある。弟の名前はゴ・ディン・カム。
この別荘は表面は別荘ということになっていたが、南ベトナム
秘密諜報機関の打ち合わせの場所でもあった。
フエや中部に潜伏している秘密共産党員を調査し検挙する
秘密基地でもあった。現在は朽ち果てているが、
トゥア・ティエン・フエ省が観光のスポットとして再建工事を
おこなっていた。
この別荘の近くにやはりベトナム戦争中、南ベトナムに潜伏していた
秘密ベトナム労働党員(共産党員)を収容、尋問し、銃殺して
刑務所が9箇所ある。現在、その再建と壮大な慰霊碑の
建築工事が行われていた。
これらもフエに観光客を集めるための観光スポットの
ひとつとして建築を進めているものと思われる。
この刑務所はもともとは1941年にフランスによって
作られたものである。当初はフランス侵略軍の
武器庫として建築された。1954年、ジュネーブ協定
が締結され、本格的な南北ベトナムの分裂状況が
固定されようとしてた時期、南ベトナム大統領の
弟ご・ディン・カンは、この武器庫を改装し、
秘密共産党員を収容する刑務所とした。
刑務所は100人ほど収容するものが9こつ
作られた。現在はほとんど朽ち果てている。
この刑務所は1954年から1963年まで
使われ、多くの共産党員やそのシンパと
思われる人々が虐殺されている。
刑務所の高さは1メートルほどのもの。狭い敷地に100人
もの人々が収容された。一人分の占有地は畳半分。
1メートルの高さなので立つこともできない。
ここに収容され殺された人たちは、南ベトナムの重要な役人や
大学教授、校長など要職に就いていた共産党員と思われる
人々であった。この刑務所に収容され、「北ベトナムの情勢、
軍事情報」などを聞かれ、応えないと銃殺されたとのこと。
一度に1万人ほどの収容が可能。数千人の人々が
殺されたとの話。
40年ぶりに殺された解放戦線・共産党員などの墓が
作られ慰霊されていた。
今は全ての刑務所が朽ち果てている。刑務所のあった場所は
森林と化していた。現在、40年前の9つの刑務所を当時の
ままに再建する工事が行われていた。
ベトナム政府・トゥア・ティエン・フエ省の観光事業の一環でも
ある。40年前の大量の虐殺、アメリカと中国・ソ連の国益に
翻弄されベトナム人同士で殺し合いをしたベトナムの苦悩。
それを40年ぶりに再建し、観光スポットとして活用しようと
するベトナムのしたたかさ。複雑な気持ちで参観した。
この場所は今まで未公開の場所だった。
午前11時、山の中腹にある「野生動物の肉」を
食べさせる専門店へ。
鹿、いのしし、いたちの肉を食べる。
●前クアン共産党委員長一家とミンさん
●鹿の肉
●鹿肉の鉄板焼き
●いのししの肉
●いたちを捌く
●いたちの肉
これらの肉と一緒に生のこしょうを食べると味が引き立つ。
午後5時45分、鳥取の徳岡さん、ソン君と一緒に
「子どもの家」へ。
今日は日曜でので午後7時から「子どもの家」の
赤旗隊(子どもたちの自治組織)の週間反省会の日。
反省会の前に徳岡さんから「日本舞踊」のプレゼント
があった。2階音楽室の集まった子どもたちに
3曲の踊りを披露してくれた。「津和野川」「あの人」
「まつり」。
わざわざ鳥取県からやって来て子どもたちに
日本の伝統舞踊を披露してくれた徳岡さんに感謝。
子どもたちは和服と日本舞踊の艶やかなしぐさを見て
日本文化を知ったようだ。踊り披露の後、部屋に戻り
日本舞踊の真似事をしている女の子たちが何人もいた。
徳岡さんの日本舞踊を見る子どもたち
●昨年10月のテレビ東京「ダ・ドキュメンタリー」取材の際
入所した子も今ではすっかり「子どもの家」に慣れていた。
笑顔で日本舞踊を鑑賞。
投稿者 koyama : 07:45 | コメント (0) | トラックバック
2006年02月18日
ベトナム事務所員会議
昨夜からの豪雨。
中部から北部にかけて熱帯低気圧が通過中とのこと。
朝から強風と雨。
トンチンカンホテル前のフンボン通りは20センチ冠水。
近くのグエンチフン中学は冠水のため休校。
終日雨で急に気温が下がりセーター、ジャンバーの冬支度。
午前8時半よりベトナム事務所員会議。
1月29日のテト以来始めての全員顔合わせ。
皆さんそれぞれのテト正月を過ごし充電し仕事を再開。
(バオミン・ベトナム事務所長)
・長いテト休みでした。皆さんどのように過ごしましたか?
今日のベトナム事務所員会議はこの間の各自の活動報告、
小山代表のJASS第12回総会報告を中心に進めます。
(サン日本語教師)
・テトは家族と過ごし楽しかった。来週日本語学校中級テスト
があり現在その準備で忙しい。
(税田ベトナム事務所員)
・日本へ私的に一時帰国した。父親の面倒を見てきた。
2月5日東京のJASS総会に参加した。
現在、ベトナム事務所刺繍みやげ物店の刺繍在庫の
調査を行っている。刺繍みやげ物店の活動を強化したい。
(ラームベトナム事務所員・東京平和産業社長)
・テト期間中も観光客の案内があり、2日間しか家族と
過ごせなかった。2月、3月、4月も来客が多い。
フエは観光のブームとなっている。
(フーン日本語学校主任)
・日本語学校の内容充実のための準備
(ハンベトナム事務所会計担当)
・2月から刺繍みやげ物店で働いている刺繍の針子さんの
労賃を17%値上げし、針子さんたちの労働意欲を引き上げ
たい。針子さんは「子どもの家」の卒業生を中心に現在、
6人。普通に働いて1ヶ月50万ドン以上の給料になるように
した。基本給25万ドン。あとは出来高制。2月より出来高
の労賃を17%引き上げた。頑張る針子さんは90万ドン
程度の収入となる。これからも日本の支援者と協力して
良い刺繍の仕事をしていきたい。
(石岡日本語教師)
・テト中はラオス旅行をした。
(中村日本語教師)
・テト中、ラオスからタイ旅行
日本語学校は特に問題ない。日本料理店が2月15日開店した。
今後も日本料理店に協力していきたい。
3月中旬から家族がフエ訪問。
(松下「子どもの家」日本語教師)
・テト中はバンコク旅行。
日本語学校は来週初級のテスト。「子どもの家」のD君が
音楽の勉強のためにCDを買って欲しいといっている。
3月3日、日本語学校の「お楽しみ会」をするので、
出来るだけ多くの人に参加して欲しい。
3月中旬頃、家族がフエに来る。
日本語学校生徒が地球の歩き方ツアーの日本人に
「日本語学校参観」を勝手に誘ってしまった。
今後の課題としたい。
(ソン君)
・テト中は田舎に帰り10日間母親など家族と生活してきた。
良い経験が出来た。テト後は地球の歩き方ツアーなど
と一緒にバインロックを作ったりし、訪問者の案内をした。
(ミン・ベトナム事務所長)
・セン「子どもの家」委員長より話があった。
大学などに入学した4人の子どもたちの今後の身の振り方
を本人たちと相談し決めたい。
★メン(フエ経済大学入学:既に退所式を行う)
★チュン(専門学校入学:本人の希望は「子どもの家」にいたい)
★カン(フエ師範大入学:大学の寮に入りたい)
★ユオン(フエ師範短大入学:「子どもの家」にいたい)
近日中にバオミン・小山とセン委員長で話し合い、
本人たちとも相談し、身の振り方を決めたい。
・先日4人の入所希望の子どもたちの家を訪問し実態を
調査して来た。3人は入所必要と判断した。近々に
入所させたい。
・オートバイ修理研修センターへの入所希望者が減っている。
これはフエ市内にあるいくつかのオートバイ修理研修センター
も同様の状況である。フランス支援のオートバイ修理研修
センターでは、研修生に毎月10万ドンの支援金まで
支給しているが研修希望者がいない。今後何とか改革
改善していかないとならない。問題提起としたい。
・地球の歩き方ツアーが帰国した。関係者皆さんに感謝。
・3月4月は「子どもの家」などの訪問者が多い。宜しく。
●その後、私の方で2006年2月5日に行われた
JASS第12回総会の概要を報告。2007年総会時には
JASSの終結を行い、日本事務所は「東京の会」として
独立することなど説明。今後、みんなの努力で
「現地の自立」とりわけ、現地の財政自立のため頑張ろう
と話す。2月24日、ハノイ日本大使館でODA縫製工場
プロジェクトの調印式を行う。正式に縫製工場建築が
始まる。日本料理店・縫製工場を『現地自立』の
車の両輪として育てて行きたい。
午前10時、日本料理店では徳岡さんをはじめ
「子どもの家」3人娘など皆さんが開店準備。
●徳岡さん・ホン店長・中村さん
仕事の合間、お菓子で一休み
「京滋YOUの会」の水本さんより寄贈された「招き猫」を
店頭に飾り「千客万来」を期す
午後3時、トンチンカンホテルでラームさんと2時間懇談。
この間のフエの情勢、今後の課題などを話し合う。
午後5時、バオミンさんの家族と夕食会。
近くの海鮮料理専門店。
来年からベトナム事務所の活動がより一層大切に
なってくる。バオミン・ベトナム事務所長の役割が決定的に
重要となる。奥さんをはじめ家族の皆さんの協力も必要。
家族との懇親を行い、JASS現地自立の展望、バオミンさん
の役割、今後の協力などを話す。
●取れたてのイカ
●寒いので「海鮮ナベ」を食べる
投稿者 koyama : 08:08 | コメント (0) | トラックバック
2006年02月17日
ODA草の根支援(縫製工場)決定
晴天:夕方より小雨:深夜より豪雨
ハノイの日本大使館より連絡があり
昨年より申請していた「縫製工場」建築のための諸費用
の決定通知があった。
2月24日(金)午後3時からハノイの日本大使館で
服部大使とニエン「越日交流委員会」委員長、私、ミンさんなどが
立会いプロジェクト「署名式」が行われる。
プロジェクト総額は950万円程。
約1年間の申請活動であった。膨大な申請書の作成。
地元の建築会社3社と長時間打ち合わせをし「三社見積もり」
も作成した。必要な資料等も作成。大変な申請作業だった。
ハノイの大使館に何度も足を運んだり、霞ヶ関の外務省に
要請をしたりもした。
建築予定の縫製工場に工業用ミシンを寄贈し、
技術指導のボランティアもしてくれる予定の宇都宮縫製工業組合
佐藤理事長などの助力もあった。
この縫製工場は、「子どもの家」の卒業生や地元の生活困難な
子どもたちの就職の受け皿であり、同時に現地自立のための
財政基盤を作る収益をあげる工場でもある。
縫製工場には、刺繍加工工場、衣料アクセサリー工場なども
併設し、数年後には収益があがるよう頑張るつもりである。
日本料理店の開店、縫製工場の建築と「現地自立」の両輪が
揃った訳である。こうした形で現地ベトナム人が働き収益を上げ、
ベトナムの子どもたちを支援するという「現地の自立」達成への
大きな一歩が踏み出されたと思っている。
ODA草の根支援に関係したハノイ大使館の関係者の皆さんに
心より感謝したい。また、この1年間ODA申請に奮闘した
バオミン・ベトナム事務所長の地道な活動に深謝。
2007年の「現地自立化」へ向けて多くの皆様のご支援を
お願いしたい。
なお、縫製工場の今後の日程は以下。
2006年3月から4月に縫製工場工事開始。
2007年3月縫製工場工事完了。2007年4月より
縫製工場の操業開始。
午前8時、縫製研修生問題で人材派遣会社社長と
懇談。
午前9時、「京滋YOUの会」の古山さんと1時間ほど
懇談。
午前中、「子どもの家」へ。子どもたちはテト正月が
終わり、第2学期も始まり新しい気持ちで元気に
生活している。
午前12時過ぎ、日本料理店へ。
日本語教師の皆さんが「子どもの家定食」の試食中。
日本料理店開店以来、毎日日本料理を作ったり、
日本料理店運営について研究している。
厨房では徳岡さん、「子どもの家」のトゥーイさんたちが
忙しく「子どもの家定食」の準備をしていた。
午後12半頃、突然9人の来客あり。地球の歩き方ツアーの
皆さん。今日は「自由時間」。
厨房では6人分の「子どもの家定食」しか残っていない。
急いで「そうめん」やいくつかの料理を作る。
9人からの注文のあった「オレンジジュース」は
オレンジが足りなくなり、松下先生が近所の市場に
買出しに出か何とか間に合わせる。
来客から日本料理店の味や日本料理店の雰囲気などを
聞き取る松下先生。
今日の「子どもの家定食」(3000ドン:230円)
●急遽調理した「そうめん」。好評だった。
●肉じゃが
●イカの手まり寿司
●小魚と豆の煮物
●揚げ春巻き
毎日、何人の来客がるのかが不明なため、何人分の
料理を用意して置けばよいのかが分からず悪戦苦闘中。
これも1年ほど経験を積み上げないと要領がつかめないものと
思う。何事も経験と時間が必要。
突然の9人の来客にも関係者全員の団結して努力で
上手に対応することが出来た。スタッフの皆さんの
協力の力に脱帽。
午後2時、東京からの訪問者2人と1時間ほど懇談。
杉並区の教師養成塾に入っているとのこと。
灰谷健次郎の「アメリカきらい」という単行本に
私のことが書かれている。訪問者はこの本を読んで
「子どもの家」を訪ねてきたとのこと。
灰谷健次郎が大好きとの話だった。こうした若者が
是非立派な先生になって欲しい。
投稿者 koyama : 07:28 | コメント (0) | トラックバック
2006年02月16日
日本料理店第2日目:地球の歩き方ツアー最終日
晴天
午前中、日本料理店の料理などについての若干の打ち合わせ。
日本語教師の皆さん、徳岡さん、フン店長、「子どもの家」3人娘
など、皆さんで開店の準備。
石岡先生はテーブル敷きの準備。
松下先生は、「子どもの家」3人娘に直筆で今日の「お品書き」
を書くよう指導。
徳岡さんは、天ぷらの衣の作り方を中村先生や
ホン店長に実技指導。
福島大ゼミ生徒ホーチミン市へ。
午前11時に日本料理店開店。
午後1時半閉店。来客は4人。日本人日本事務所員4人。
フリーで「日本料理店ですか?」と問い合わせで入店した人
1名。
今日のメニューは「子どもの家」定食のみ。25000ドン。
魚の煮付け、お浸し、ゴマの白和え、魚と野菜の天ぷら、
ジャガイモとたまねぎの味噌汁、日本米。
●日本料理店の特製「子どもの家定食」(日替わり定食)
●お浸し(もやしなどフエにある野菜中心)
●ゴマの白和え(日本料理ボランティア・徳岡さんの指導)
●天ぷら
午後2時閉店。
午後6時、トンチンカンホテルで夕食。
日本料理店に入れた「生ビール」(50リットル)は1週間程で
飲み干さないと味が落ちる。熱処理していないため
雑菌の繁殖もあるという。中ビンで150本分。
開店と昨日で70本分ほど飲んだ。しかし、まだ80本分
残っている。夕食を摂る日本語教師の皆さんに「無理」に
生ビールを飲んでもらう。「子どもの家」の日本語学校
がある松下先生は残念ながら飲めなかったが・・。
美味しい生ビールの作り方を実習してもらう。
泡とビールの割合。美味しい泡の作り方。生ビールの温度
管理・・・・。こればかりは体験し、賞味しないと子どもたちに
教えることは出来ない。日本語教師の皆さんの生ビール飲酒
に感謝。
午後6時半、地球の歩き方ツアー(9人)最終日。
皆さんと一緒に夕食を摂り歓談する。バオミンさんも
一緒。
フースアン橋の近くの「フェスティバルレストラン」で
晩餐会。何人かの参加者がフエで民族衣装の
アオザイを作り着てくる。
フエに戻って1週間。疲れがかなり溜まってきた。
毎日、様々な問題が起こる。
投稿者 koyama : 22:30 | コメント (0) | トラックバック
2006年02月15日
日本料理店『正式』開店
晴天
気温30度。かなり汗ばむ。とても過ごしやすい気候。
今日は日本料理店の正式開店日。
昨年9月に仮開店した日本料理店だったが、トンチンカンホテル
全体改装のため正式開店が遅れていた。数日前に
トンチンカンホテル全体の増築改装が終了し、既に出来上がった
いた日本料理店も公式開店の運びとなった。
お陰様でこの5ヶ月の間に各種日本料理の講習も行い、
内田さん、徳岡さんなど多くの「ボランティア」日本料理講習会
が行われ、ホン店長をはじめ「子どもの家」のイン君、
ニーさん、グエットさん、トゥーイさんたちの日本料理店への
理解が深まった。
同時に日本語教師の松下さんが日本語の接客指導を、
中村さん・石岡さん・税田さんたちが、調理実習、
台所整備などを手伝ってくれた。
日本料理店建築、経営の方針、開店へ向けての諸準備、
料理の講習、料理内容の選定など、開店へ向けて、
様々な準備が必要だった。
日本料理店開店にあたり、関係者が全て「素人」というのも
なかなか大変なことである。日本料理店について
何一つ知識のない人間がとにかく開店に漕ぎ着けたという
ことは立派なことである。関係者の皆さんに心から感謝したい。
これで「子どもの家」の子どもたちの自立と財政自立に向けて
また一歩近づいたと自負している。
朝7時過ぎから開店の準備に入る。
●開店準備:日本料理の仕込みをするイン君
●食材買い込みなど全体の運営に腐心しているホン店長
●「子どもの家」の子どもたち『3人娘』
調理・接客担当
●今日は終日、子どもたちの接客マナー・ことばなど細かい
所まで付きっ切りで指導していた松下先生
●裏方として活躍したソン君。
ソン君に生ビールの注ぎ方を教える徳岡さん
●台所で食事を作る税田さんと徳岡さん
●昨年8月から日本料理の作り方、食材選び、食器買い付け
日本料理店内装飾などに活躍した中村先生・石岡先生
午前11時の開店を前に日本料理店内は「戦争状態」。
料理の仕込み、店内の整理、食器の準備など・・・。
日本語教師やベトナム事務所、子どもたちの協力体制
がしっかり出来ている。あれよあれよと言う間に
準備が整う。この5ヶ月間、中村先生や松下先生などの
見えない準備の賜物。
午前11時に開店合図のために『のれん』『提灯』を
店頭に掲げる。
日本料理店正式開店第一号のお客様は
平本兄弟ご夫妻4人。平本さんはこの火焔樹日記を
ご覧になり支援者になってくれた方。2月5日の
JASS第12回総会にも来られている。
●日本料理店第1号の記念すべきお客様
午前11時入店。早速7人がけの出来る「堀ごたつ」式
の個室へ案内。
生ビールといくつかのおつまみ。著蕎麦サラダなど。
午前11時半頃には、地球の歩き方ツアー(9人)が来店。
一気に忙しくなる。台所も接客係りも注文を聞き、急いで
準備をはじめる。接客係りは水をだしたりと忙しい。
●地球の歩き方ツアー来店
●ホン・ニーさんも一生懸命接客の努力。お客さんの注文を
しっかりと聞き、水や食器などを配膳する。
●お客さんの注文を聞き、配膳するグエットさん
今日のメーニュー
●豚肉と上げ春巻きの前菜
●なすの煮物
●小口トンカツのおろし和え
●茶蕎麦サラダ(鳥取の徳岡さんの指導)
●白菜とエビの炒め物
●お袋の味「カレー」
午後12時20分に福島大学ゼミ生関係者8人が
来店。
午後2時頃、全てのお客さんがいなくなる。日本料理店関係者は
遅い昼食。その後、片付け。反省。全ての作業が終了したのは
午後5時過ぎ。
今日は21人の来客。
初めてお金を頂く仕事をした。これから「実践」しながら
少しずつ「手順」を学んでいくことになる。
昨夜、フエで始めてのフダビールの「生ビール」をセットした。
これは私の長年の念願でもあった。昨年の夏から
フダビールと交渉しやっと開店前日に設備することが
出来た。今まではビンビールか缶ビールしかなかった。
これで我が日本料理店で、本物の生ビールを
飲むことが出来る。
1杯いくらにするのか、諸説乱れ飛び決まらず。
最終的に平本さんたちが帰られる時点で2万ドン(150円)
という暫定値段を設定した。
とにかく長年の念願だった日本料理店が正式に開店した。
ここまで作り上げた多くの関係者に皆さんに心から
感謝したい。
私のモットーは「百の理屈よりひとつに小さな実践」である。
とにかく百万遍のお説教を繰り返しても何も生まれない。
実際に行動するということは本当に勇気がいることである。
未知の分野への挑戦へ情熱をもつこと、同時に
情熱そのものを持続する気力が必要である。
何度も起こる困難を必ず解決する気力と体力も必要で
ある。ベトナム事務所関係者の皆さんがそうした見えない
努力をした結果の開店だと思っている。
今後も経営がうまくいくのか心配ではある。
1ヶ月後にはトンチンカンホテル前に5つ星の高級ホテルが
完成する。そのホテルの中に京懐石料理店が出来ると言う。
この高級日本料理店とどう付き合い、我が日本料理店を押し
出していくのか、お客さんにのニーズに応えた料理をどう作って
いくのか、子どもたちにどうのようにして力を付けてゆくのか・・・・・
日本料理店だけでも課題は山積している。
ベトナム事務所スタッフと協力して難題に立ち向かって
行く決意である。
火焔樹日記読者の皆さんでフエへお越しになる際には
お立ち寄り頂ければ幸いである。
住所 34 TRAN CAO VAN HUE
★ チャン・ティエン橋、モーリンサイゴンホテルの
近く。3月15日に落成する17階建ての高級ホテルの
まん前。フンボン通り。
投稿者 koyama : 09:36 | コメント (0) | トラックバック
2006年02月14日
鳥取徳岡さん日本料理店へ。福島大生日本語学校へ
晴天
暑からず、寒からず。1年間の中でフエの一番良い季節。
午前7時、4人の日本人の皆さんと朝食。ブンボー。
気候も良いせいか、皆さん元気に生活している。
午前中、鳥取の徳岡さんは日本料理店へ。
明日日本料理店は正式開店の予定。今日はその準備で
おおわらわ。
徳岡さんより各種日本料理を教えてもらう。
ホン店長、「子どもの家」の子どもたち。
揚げだし豆腐
午後3時。福島大学経済学部地域経済ゼミ生5人は、
日本語学校を訪問。ガイドコースの学生と交流。
流暢な「福島弁」の会話を披露してくれる。
福島弁を披露する福島大生
日本語ガイド養成コース
3時間程、ミンさんと当面の問題について協議。
ラームさんといくつかの問題について話し合う。
投稿者 koyama : 10:03 | コメント (0) | トラックバック
2006年02月13日
パソコン故障ー今日修理完了
この数日、パソコンにウイルスが侵入。パソコン使用不能となる。
今日やっと修理が完了し、日記可能となる。
この数日、フエは「暑からず、寒からず」丁度良い気候。
今日は鳥取県大栄町の徳岡さんがフエを訪問。
私とミンさんで出迎え。一緒に福島大学の学生5人も。
日本語教師、ベトナム事務所スタッフも全員元気に仕事を
開始。
投稿者 koyama : 01:13 | コメント (0) | トラックバック
2006年02月09日
東京東村山市民講座講演会
晴天。風強し。寒い。
午前7時過ぎ自宅を出て東京東村山市の講演会へ。
西台から巣鴨。JRに乗り換え高田馬場。高田馬場で
JRから西武新宿線で八坂駅へ行く予定だったが
高田馬場で問題。JRから西武新宿線に乗り換える改札口。
看板を見ると「JRと西武新宿線は重ねて2枚入れて
ください」と書いてある。JRのスイカとパスネットを重ねて
改札口に入れるのかな? スイカは自動改札口に入れるの
ではなく、上に乗せるだけのはずだが? でも「間違いなく
2枚重ねて入れてください」と書いてある。何度も改札口の
看板を読み直すが、そうかいてある。自動改札口に
スイカとパスネットを重ねて入れる。案の定、自動改札に
詰まってしまう。重ねるのは切符。乗り換えは3分しかない。
改札口に駅員は誰もいない。大変な人数の乗客である。
西武鉄道の人員削減、営利第一主義はこうしたところに
表れている。仕方ないのでJRの窓口に行く。
「西武新宿線の改札口の近くにインタホーンがある」との
こと。インターホンで西武の駅員を呼び出す。
スイカとパスネットを取り出してもらうが、八坂駅までの
直通電車には乗り遅れる。高田の馬場から久留米駅まで
行き、久留米駅からタクシーで富士見公民館まで。
何とか午前9時半の約束の時間に間に合う。
今回の講演会東村山市教育委員会主催の「市民講座」。
日本事務所の内田征子さんの紹介で講演会が実現した。
参加者は事前に教育委員会に申請し3回の講座を聞くことに
なる。今回はその第1回目。
参加者は一般市民20人。
紹介の内田さんもわざわざ中野区から来てくれる。
ビデオを使いながら2時間の講演会。午後12時過ぎに
終了。
今日の講演会には地元の東村山0中から職場体験実習と
して中学生のAさんが参加。公民館職員の仕事を2日間に
わたり体験するという授業を行っていた。
私の方で記録用のデジカメ写真を撮ってもらうようにお願い。
中学生のA子さんに撮ってもらった写真がこのブログの
写真となっている。
内田さんと小山、職場体験のA子さん
講演会終了後、公民館所長・スタッフ、地元の世話役Iさん、
内田さんと懇談。
20人ほどの参加者だったが、熱心に話をきいてくれた。
また、こうした講演会が可能になったのは、
内田さんと地元のIさんとが知り合いで、内田さん、Iさんの
紹介のおかげである。人間の不思議な縁である。感謝。
風邪を引いて喉が痛い。何とか無事、講演会を終える。
八坂駅から帰る。明日は朝10時成田発でフエへ帰国の
予定。
小山2006年1月~2月帰国日程 2006年2月9日現在
12/29(木)午前7時半成田着
30(金)年末休暇
31(土)年末休暇
1/01(日)正月
2(月祝)正月休暇
03(火)正月休暇
04(水)正月休暇
05(木)P1:20新英語研究会関東大会記念講演/那須塩原(60名)
06(金)
07(土)P4宇都宮縫製工業組合佐藤理事長懇談
08(日)A10役員会(総会議案検討)
P1:30オアシスの会懇談
9(月祝)
10(火)P1静岡市役所国際課 ラジオ体操連盟 邦楽の会
P8 京都・紫野ローターアクト講演会(50名)
11(水)A11 香川県丸亀市(西成さん)
12(木)福島
13(金)叔母葬儀(埼玉県)
14(土)福島
15(日)福島
16(月)福島
17(火)福島
18(水)P6:30ベトナム大使館新年会
19(木)
20(金A10:30豊島区豊成小講演会(80人)
21(土)P2渡辺和代さん懇談 P5高校クラス会 巣鴨トフロ
22(日)
23(月) P5京都綾部市
24(火)A10:45京都府綾部市立綾部小学校講演会(370人)
P6時 日新電機宮崎さん 東横イン四条烏丸ホテル
25(水) 京都→東京
26(木) A10心臓通院 P5上田さん懇談(我孫子)
27(金)
28(土)P1日本事務所会議(総会議案検討)
29(日)親戚結婚式(横浜泊)
30(月)P1:15高田の馬場改札口 宇都宮佐藤理事長とVIC久野社長懇談
P1オアシスの会(大塚さん)懇談
31(火)
2/01(水)A10ブレラ花田社長 浅草橋 P1中野亜里先生懇談
P4 江戸川区議会議員懇談
02(木)A10心臓通院 P12:30エドウイン與芝氏懇談
03(金)
04(土)
05(日)A10日本事務所会議(総会議案最終検討)
P1ベトナムの「子どもの家」を支える会総会
P5懇親会 P9京滋YOUの会中村代表懇親
06(月)
07(火)
08(水)
09(木)A9:30東村山市民講座 (20人)
10(金)ベトナム帰国
★ 講演会 5回
★ 参加者 580人
● 個人懇談 16回
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2006年02月08日
風邪を引く
午後まで晴天。気温も高く暖かい。
数日前からの風邪症状が治らず、終日薬を飲んで寝ていた。
気管支まで炎症が行ったようで、咳が出る。発熱。食欲不振
と言った症状。のどが痛くて・・・。
フエの日本語教師N先生も私と同じ症状で3日間寝ているようだ。
フエは寒暖の差が激しく、体調を崩す人が多い。
明日は東村山市で講演会がある。それまでに何とか体調を
整えておかなければ・・・・・。
また、フエ帰国の準備もあるのだが・・。
投稿者 koyama : 14:26 | コメント (0) | トラックバック
2006年02月07日
風邪を引く---横浜市立鴨居中学校でフォーを作る
曇り。
天気予報では昼から15度と言っていたが、結局1日中
寒かった。
5日の総会後、風邪を引く。咳と発熱、倦怠。
終日寝ている。食欲なし。
先日、JASS日本事務所教育担当の加藤さんたちが
横浜市立鴨居中学校でベトナム・ハノイ名物「PHO」(フォー)
を作り200人の生徒に振舞った。
PHO(フォー)は米粉をうどん状にし、鶏スープで食べる
ハノイ名物の食べ物。
昨年JASS日本事務所は「JASSスタディーツアー」を企画。
10数人の参加者があり、1週間ほど「子どもの家」や
少数民族、高校での交流などを体験し、日越子ども交流を
行った。そのスタディーツアーに参加した中2の鴻池君が
「ベトナム訪問」を短いビデオに編集し在籍している鴨居中学校
の給食中に全校放送で流した。鴻池君は生徒会の副会長をし
ボランティアや海外での活動に興味があり、JASSのスタディー
ツアーに参加したとのこと。
ところがこのビデオが大変よく出来ていて、ビデオを見た
学校の先生方から「道徳」の教材にしたいとの話があり
鴻池君は再度「道徳教材」用にビデオを編集し200人の
生徒に見せることになった。
鴻池君の学校での活動を知ったJASSスタディーツアーの
参加者が道徳の時間に学校を訪問し、授業とあわせて
ベトナム料理の「PHO」(フォー)を作り、生徒に振舞った
ということである。
当日は日比谷国際ボランティアフェスティバルで何度も
「PHO」(フォー)を作っている「ベトナム料理の専門家」
高橋さんも助っ人で参加。昨年のスタディーツアー
の団長だった渡辺君やツアーに参加した高校生、大学生も
アルバイトの時間をあけてフォー作りの駆けつける。
フォー作りの準備をする「JASSスタディーツアー」参加者と
フォー作りのプロ高橋ますみさん
7人の助っ人が行くことになったので十分時間があると
思っていたが、実際にはかなり時間がかかり、200人
全員が食べ終わるまでにかなりの時間を要したようだ。
教室でボランティアやフォーを紹介する佐藤さん(大学生)
高橋ますみさんの説明でフォーを食べる鴨居中の生徒さんたち
昨年中高大学生のスタディーツアーを実施したが、
そのスタディーツアーに参加した若者が中学生に直接
自分たちの経験を話し、ベトナム料理を作ってベトナムや
ボランティアを紹介したということは、素晴らしいことである。
ただ理屈をこねまわすだけでなく、実際に行動に移したことは
本当に賞賛に値する。
「いまどきの若者は・・・」などと言う人もいるが、これらの
若者を見ると却って「大人が学ぶべき」素晴らしい若者である。
ホリエモン、東横インの西田社長、ヒューザーの小嶋社長、
防衛施設庁の幹部など「金もうけ」と「自分の安楽を
追求するだけ」の腐りきった大人社会の中でも
こうした若者が育っていることに何か嬉しさを感じる。
子供たちや庶民の方がいつの時代でも「健全」なのだと
改めて感じた次第である。
また、横浜市立鴨居中学校の校長先生をはじめ先生方の
「勇気」のある英断に拍手を送りたい。とかく無難に生きて
いこうとする学校教育の世界である。食中毒になったらどうする、
知らない外部の人間を入れて何か問題が起こったらどうする、
などという意見がでて、結局「何もしない」というのが、今の
教育界の傾向である。そうした中で横浜市立鴨居中学校の
校長先生をはじめ先生方が私たちのベトナムのでボランティア
活動を評価し、自校の生徒にも聞かせたいという姿勢をもって
くれたことはこれも素晴らしい英断である。
JASSスタディーツアー担当の森田さん、加藤さん、山田さん
の努力と高橋さんをはじめ、スタディーツアーに参加した
高校生、大学生の皆さんの行動力に感謝したい。
投稿者 koyama : 13:22 | コメント (0) | トラックバック
2006年02月06日
休養
寒い。
メール受信。送信。
総会日記を書く。
寒くてどうしようもない。
早くフエに帰りたい。
疲労回復のため休養。
「開発援助の社会学」(佐藤寛著 世界思想社)
を3分の1ほど読む。
現場でのNGO・ボランティア活動の参考になる
名著。
投稿者 koyama : 18:22 | コメント (0) | トラックバック
2006年02月05日
読書録
読書録
第12回JASS総会
風が強く寒い1日だった。
今日は12回目のJASS総会。
午前9時自宅を出て西巣鴨経由・都電で飛鳥山へ。
午前10時、会場の北区教育会館へ。
日本事務所の皆さんと会場準備。
午前11時、日本事務所会議。総会の最終準備。
寒河江日本事務所長より議案確認。山西副代表より
会計関連資料の説明。各分担を最終確認する。
高校3年生の日本事務所員おそのさんよりご家族からの寄金を
もらう。寒河江日本事務所長。
総会には昨年・一昨年までベトナム事務所で仕事をした
元ベトナム事務所員4人も参加。総会の準備・提案などを
行う。坂本・西山・原・福田の皆さん。
総会受付は原田虎太郎さんと元ベトナム事務所員(日本語教師)
の原かおりさん。
午後1時40分。元日本語教師の坂本文子さんの司会で
総会は開会。60人の会員などが参加。
初めにJASS代表挨拶。私の方でJASSの現地支援活動が
新たな段階に入ってきた。第1段階は日本事務局が現地の全て
の支援を行った。現在は第2段階で現地に力点を置きながら
日本事務所として現地をサポートする。そして、2007年から
は支援の第3段階に入る。日本事務所を廃止し、JASSそのもの
を終結する。日本事務所はJASS東京の会として再編し、
京滋YOUの会や火炎樹の会、静岡の会、札幌の会など
各地の会や個人が直接現地ベトナム事務所を支援する
ようにしたいと「子どもの家」支援の現状を報告する。
2006年はそのために最終準備の年にしよう。
2005年5月よりベトナム事務所員として活動している
税田真理子さんの紹介・挨拶
昨年日本語教師を終わり帰国した原かおりさんの挨拶。
ご苦労様でした。
続いて司会の坂本さんより「議長選出」の呼びかけがあり
火炎樹の会(茨城県)の斉藤さんが議長に選出。議事が
始まる。
議事の最初に「2005年を振り返って」として、
私の方からベトナム事務所の活動総括、寒河江日本事務所長
より日本事務所の活動総括の提案があった。
引き続いて山西副代表より会計報告。帯グラフなどを用いて
財政収支の変遷と現状の説明があった。財政収入がかなり
厳しくなってきたとの指摘があった。
杉山会計監査(公認会計士)より会計監査の結果「特に
問題はなかった」との報告。
北垣会計監査より監査報告。
続いて質疑・意見交換となる。
全日本教職員組合千葉(全教千葉)の松原先生より
「子どもの家」やフエ、少数民族などへのスタディーツアー
の経験報告があった。ベトナム事務所付属刺繍みやげ物店
で特注した刺繍作品を販売し「子どもの家」支援に役立ている
との話があった。
京滋YOUの会の中村巧会長より京滋YOUの会活動報告。
バサーをして28万円を「子どもの家」に寄付したり、多くの
若者が会に参加し、若者の懇談会も開催したとの報告。
火炎樹の会(茨城県)森島会長が活動を報告し意見発表。
マブベ笑顔の会代表の大極安子さんの「タッチセラフィー」の
報告。「子どもの家」やフールー小学校で子どもたちに小児針の
タッチセラフィーを施術し、ストレスや病気の予防などの取り組み
を報告。スマトラ津波支援でスリランカに行った経験を話し、
JASSの支援がしっかりとしたものだとの意見を発表する。
JASS主催のスタディーツアーの経験を佐藤さんが報告。
火炎樹の会、前代表の古谷氏がJASSの今後のについて、
無理なく進めるよう質問と意見。
ベトナム事務所員ラームさんの弟のホアン君と奥さん、その下の
弟のトアン君の紹介と活動紹介。
ホアン君はIT企業「ブライセン」社長藤木さんの招待で3年間
日本語学校やIT専門学校へ通い、現在がIT企業ブライセンで
研修・実習中。昨年、フエの女性と結婚。弟のトアン君は
私たちのフエの日本語学校で日本語の基礎を勉強。
ブライセンの藤木社長の招待で2006年1月の初めに来日。
現在日本語学校で勉強中。ホアン君・トアン君とも日本で
ITを勉強をし、フエに帰国後、「子どもの家」への支援のための
仕事を行う予定。『人間を育てて「子どもの家」を支援したい』
というブライセン藤木社長の強い希望でもある。
採決の結果、満場一致で「2005年を振り返って」「会計報告」
「会計監査報告」が承認された。
10分ほどの休憩。会場でベトナムコーヒー、揚げせんべいなどが
販売され「子どもの家」への寄金となった。
柳沢さん、影山さん、高橋さん、内田など、例年の
ベトナムコーヒーショップ開店。
京滋YOUの会より子どもたちの健康診断費用の
寄贈。中村代表、藤井事務局長より。
再開された総会は2006年活動方針を福田もえ子副代表が
提案。
・2007年より活動の拠点を完全にベトナムへ移行します。
・日本事務所をなくし、各地の会・個人が直接「子どもの家」を
支援する活動に移行します。
・「ベトナムの子どもの家を支える会」は1994年の設立総会で
決めた「10年をメドに活動を現地に移行します」との方針に
基づき活動を終結し、各地の会・個人が現地ベトナム事務所
を直接支援する「新たな最終段階」の支援活動へ移行します。
山西副代表が総額約1800万円の会計方針を提案。
挙手採決の結果、満場一意で採択された。
記録撮影係りの山田さん
総会の最後に若林節子副代表より2006年新役員の提案があり、
承認された。
・代表 小山道夫(留任)
・副代表 福田もえ子(留任)
若林節子(留任)
山西司郎(留任)
西山優子(留任)
・日本事務所長 寒河江幸子(留任)
・ベトナム事務所長 バオミン(留任)
・会計監査 杉山七美(留任)
北垣善男(留任)
ーーーーーーーーーーーーーー
ベトナム事務所スタッフ
・会計責任者 ファン・ティー・ゴック・ハン
・事務所員 チュオン・ディン・ラーム
・事務所員 タイ・クアン・サン(日本語教師)
・日本語教師 チャン・ティー・ミン・フーン(事務所員)
・事務所員 ホー・カック・タン・ソン
・事務所員 税田真理子
・日本語教師 松下安希子(ボランティアスタッフ)
・日本語教師 中村友香(ボランティアスタッフ)
・日本語教師 石岡寛子(ボランティアスタッフ)
新役員を代表して西山優子副代表が決意表明。
午後5時前に終了。
その後、JR王子駅前で反省会。
20人ほどが参加。
その後、京滋YOUの会中村会長、高校同級生の
五井君・北田君、NHKカメラマンのSさん(里親)
の5人で王子駅前の半平で引き続き交流。
自宅着午後11時過ぎ。
投稿者 koyama : 16:22 | コメント (0) | トラックバック
自宅休養
晴天。
東京も朝は零下。極端に寒い。
13通のメール送信。
明日の総会に向けての準備。総会で披露するベトナム事務所
からのビデオレターの編集。撮影時のベトナム事務所員インタ
ビューの音声が小さかった。7分程度に編集。
明日会場で音声問題を山田君と打ち合わせしなければならない。
午後1時間ほど散歩。寒い街中だったが、しばらく歩くと暖かく
なる。
「私の死亡記事」(文藝春秋社)を読む。
西台駅前の古本屋で150円だった。非常に面白い。
102人の著名人に「自分の死亡記事」を自分で書いて欲しい
との依頼で出来上がった本。
その著名人が自分自身の人生をどう見ていたのか、または
自分の人生を他人にどう言いたいのか?
自分がどのように死んで行きたいか? という点を中心に
書かれた「自分の死亡記事」。ある意味で「遺書」ともいえる。
阿川弘之、田辺聖子、鶴見俊輔、野中広努、米原万理、
渡辺恒雄、ガッツ石松、児玉清、小林カツ子、金田一春彦、
早坂茂三、安部譲二、池辺良、小沢昭一、落合恵子、
澤地久枝、高野孟、渡辺えり子・・・・。
自分で書いた「死亡記事」で共通しているものは、
①野垂れ死に
②行方不明
③男性は飲んだくれ、認知症になって野垂れ死に
④誰も知らないところで死んで行く
⑤葬式はしない
⑥墓は作らない
(落合恵子)
「デモの最中、おむすびを頬張ったまま」
1945年1月15日、栃木県宇都宮市生まれ。作家。
「媚びず、甘えず、すり寄らず」をテーマに女性問題を
はじめ、社会構造的に声のちいさい側の声を軸に
活動をしていた落合恵子さんが先日10日に亡くなり
親しかった人々でお別れ会をすませていたことがわかった。
友人たちの言葉によれば、異議申し立てのデモの最中、
差し入れのおむすびを頬張っている時、梅干の種を
喉に詰まらせて亡くなったという・・・・・・・
投稿者 koyama : 07:09 | コメント (0) | トラックバック
2006年02月03日
妻の誕生祝いー湯島天神参詣
晴天。
夕方まで気温が高かった。
午前中10通のメール受信。8通のメール送信。
今日は妻の00回目の誕生日。
昨夜、『妻の誕生日は2月3日かな3月3日かな?』と考えて
いるうちに寝入ってしまい、誕生日を確定できなかった。
朝、孫から「ばーば誕生日おめでとう」と「HAPPY BIRTDAY」
の歌付きお祝いの電話があった。なかなか気の利く孫である。
やっぱり今日が誕生日だったんだと確認。
誕生プレゼントを色々考えた末、美味しい昼食を摂り、「梅の花」
を見に行くことにした。
巣鴨経由上野へ。広小路前にあるレストランで誕生祝の昼食。
どういう訳かビール専門店だった。各種ビールとおつまみ。
妻はお酒を飲まないが、美味しい昼食に舌鼓を打つ。
●旬のカキフライ
●誕生祝いのビール
昼食を楽しんだ後、池之端・不忍池を散策し、湯島天神へ梅を
見に行く。妻の病気の全快を願い二人で参拝。
湯島天神は学問の神様。多くの受験生の絵馬がたくさん
飾ってあった。どれだけ効果があるのか、などと考える
のは野暮というもの。
今年は寒さも強く未だ多くの梅はつぼみだった。
一部、白梅が咲いていた。
湯島天神の境内では紅梅などの盆栽を売っていた。
妻の病気全快を願って紅梅の盆栽を買った。
湯島天神から春日通り沿いに歩き、池之端文化センター
を通って「旧岩崎邸」を散策した。岩崎邸は明治29年に
三菱財閥の創始者岩崎弥太郎の本邸として建てられた
洋館である。
1万5千坪という大邸宅。建築時には20棟もの建物が
あったそうだ。
岩崎邸を囲んでグレープが歌った「無縁坂」がある。
午後4時過ぎ自宅へ。気温13度の日中から夕方は気温4度と
急激に気温が下がった。
午後8時、與芝君にもらった「久保田」試飲。
寒いので煮込みうどんを作る。美味しい。これも誕生祝い。
投稿者 koyama : 18:31 | コメント (0) | トラックバック
2006年02月02日
通院ー高校友人と懇親
晴天。
午前9時前自宅を出て都営地下鉄春日経由で都庁前へ。
榊原クリニックへ。心臓の薬と先日の検査の結果を聞きに
行く。ベトナム滞在中の薬をもらう。一度の通院でもらえる
薬の量は決まっている。ベトナム滞在中、薬がなくなる。
今日はベトナム滞在を勘案し、必要量を2度の通院で
確保するための通院。
午後12時、日暮里駅前で高校同級生の與芝君と会う。
近くのレストランで昼食をご馳走になる。スパゲティーセット。
與芝君はジーンズの「エドウイン」勤務。ベトナム事務所付属の
刺繍みやげ物店にエドウインの刺繍Tシャツを依頼している。
今日は今までの刺繍についての総括と新たな刺繍作りに
ついての打合わせをする。
有難いことである。高校3年間一緒の教室で勉強した仲で
はあるが、高校時代あまり交流はなかった。
卒業して40年。人間の縁とは不思議なものである。
こうして私のベトナムでの活動を応援してくれている。
同級生とはありがたいものである。家族のこと、今後の人生
などについて話し合った。意味の深い1時間半であった。
帰りに「久保田 万寿」(1升ビン)をもらう。
久保田万寿を飲んで「子どもの家」支援を一層頑張れと言う
意味なのか? それともただの「のん兵衛」へのプレゼントか?
いずれにしろ高価な久保田を頂き、早速今夜「與芝君」の期待
に応えなければならない。
午後2時過ぎ、自宅着。妻も通院。
「赤い月(下)」(なかにし礼)を読み終える。
上下2巻を読んでの感想。
なかにし礼の実体験を基礎に書かれた話なので説得力が
ある。なかにし礼の人生への基本的な姿勢は「国家は信用
ならない」というものである。本書でなかにし礼はこんなことを
登場人物に言わせている。
『ソ連軍が参戦するや、居留民を置き去りにしていち早く
逃げ出した関東軍と軍属や満鉄。敗戦後、外地の居留民
は現地に定着せしめるべしと言った外務省。引き上げ費用
を出さなかった日本政府・・・。残留孤児・・。日本という国は
国家自体がすでに悲しむ心を失ってしまっているのではない
だろうかと公平は思った。』
中国から引き上げて来た主人公の一人が中国残留孤児の
国籍を取得する会のボランティア活動をする。また、もう一人の
帰国した主人公をベトナム戦争や湾岸戦争の報道カメラマン
と設定し、中国での出来事がベトナム戦争、湾岸戦争へと
つながるよう描いている。
読み始めると引き込まれる本である。個々の描写は優れて
いるが、全体の筋立てにかなり無理なところがあるように
思えた。不自然な筋だてや話の展開が随所にあるように
思われた。
夕方、宇都宮縫製工業組合佐藤理事長の経営する
「マルサ」社員の上野さんから電話。
JASSへ5万円の寄金をしたとのこと。佐藤社長の
紹介とのことだった。ありがたいことである。
ホリエモンやヒューザー小嶋社長のように30億円の
自家用機に乗っている「勝ち組」の人もいる。
マルサの佐藤社長や社員の上野さんのように
自分には直接利益のない「子どもの家」への寄金を
くれる人もいる。世の中様々である。
日本社会は支配層の腐敗が深く進行している。
同時に社会の目立たない所にいる多くの庶民は真面目に
世の中を生き、支えている。
昨日の国会答弁で格差社会を認めている我が首相ではあるが
マルサの皆さんを見ていると、これからの日本社会が
本来目指すものが何なのかを考えを考えさせられた。
夜、與芝君にもらった「久保田万寿」を『試飲』する。
これから毎日試飲の予定。美味しい。淡白でアルコール
くささがない。
投稿者 koyama : 14:31 | コメント (0) | トラックバック
2006年02月01日
アクセサリー会社訪問ー中野先生懇談ー江戸川区議会関係者懇談
終日雨。
かなりの豪雨。
午前8時に自宅を出て水道橋経由浅草橋へ。
アクセサリー会社「ブレラ」を訪問。社長の花田氏と懇談。
花田氏は昨年10月に放送されたテレビ東京の
「ザ・ドキュメンタリー」(JASSの現地活動が報道された)
をご覧になって支援を申し出てくれた。
花田氏の会社で支援の内容を話し合う。具体的には
花田氏の仕事である婦人用アクセサリーをフエで
組み立てられないか、簡単な工具でできると。
フエに小さな工場を作り、現地でこうしたアクセサリーを作れない
かとの相談。今後の検討と交流を約束する。
「子どもの家」の卒業生や地域の貧しい家庭の若者などへの
雇用先として大きな意味のある仕事ではある。
今後、関係者と話し合うこととした。花田社長は私と同年代。
団塊の世代。アジアや世界の貧しい子供たちへの支援を
したいと思っていた。お金をあげるという形の支援では
なく、仕事と雇用を支援することで「自ら働き生きて行く」という
私たちの考え方に賛同したとのこと。昨年10月放映にテレビで
日本料理店や縫製工場建築の場面を見て連絡をしたと話され
ていた。ありがたい話である。1時間ほどの話し合いであったが
花田社長の人柄がわかるような気がした。
浅草橋から急いで東京駅へ。八重洲口近くのブックセンターへ。
午後1時からベトナム研究者の中野亜里先生と懇談。
ベトナム関係の諸問題について話し合う。午後3時まで2時間。
東京駅から丸の内線経由で都営新宿線の船堀へ。豪雨の中を
江戸川区役所へ。午後4時、元江戸川区議会議長の大場さんや
現議長さんなどと懇談。3月26日からのベトナム旅行の
打ち合わせ。大場さんは7年前から「子どもの家」を支援して
くれている。何度か「子どもの家」訪問も行っている。
また定期的にJASSへ寄金をしてくれてもいる。
知り合いの方々にJASSへの支援を呼びかけてくれてもいる。
今回は区議会議長や議員、監査委員などの私的な
ベトナム旅行について懇談。「子どもの家」やフエでの私たち
の活動を視察したいとのこと。
1時間ほど区役所で懇談し、その後会食。帰宅午後10時。
行き帰りの地下鉄・JRの中で「赤い月」を読む。
実質7時間の話し合いは流石に疲れたが、それぞれ意味のある
楽しい懇談ではあった。