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2004年02月29日

江平慶司氏を語る②

「ベトナムの医師にお礼を言いたい」との気持ちでベトナムへ行かれてから8年。その後も江平さんは長い間「子どもの家」への支援を続けている。

 旧サイゴンで生まれた内田征子さんは、その後、様々な苦労を重ねやっとご自分の生まれた旧サイゴン(現ホーチミン市)の邸宅を見つけられたのこと。お父さんは、現「コンチネンタルホテル」の1階を仕事場にしていたそうだ。
左(江平ご夫妻と小山)
中(会食中)
右(参加者全員の記念写真)

小山・江平夫妻会食中全員記念写真

その後、内田さんは、8年間「子どもの家」の子どもたちをクリスマス会に招待してくれている。
6年ほど前からは、夏に「バーベキュー大会」も子どもたちにプレゼントしている。「子どもの家」の子どもたちは、夏の「ベーベキュー大会」、冬の「クリスマス会」を楽しみにしている。

こうして内田さんは「ニュースステーション」を見てベトナムガイドブックを買いに江平さんの本屋さんに行き、江平さんと内田さんの添乗員とベトナムツアーを案内した舟山さん。
 舟山さんは太平観光からの派遣職員として「子どもの家」支援活動を4年間続けた。1999年には、数百年に一度という「フエ大洪水」に見舞われるなどフエ滞在中は異文化の中での生活に苦労していた。しかし、その苦労を乗り越え、フエの女性と巡り合い結婚。現在は可愛いお嬢さんの父親として、フエ美人奥さんと一緒に日本で生活している。

 江平さんをクアンビン省のドンホイに2回案内したディーン・ラームさんは、「東京平和産業」という観光会社の社長でもある。
dongkinh@dng.vnn.vn ベトナム旅行をご希望の方は、このメールに日本語で連絡頂ければ、全てセッティング・コーディネートします)
舟山さんはベトナム事務所員をしながら観光会社を立ち上げたディーン・ラームさんに太平観光の社員として、日本の観光業のサービスから企画立案、接客まで指導した。
 ホアン君はそのディーン・ラームさんの弟。
現在、東京の「ブライセン」というコンピュータ会社の支援で「コンピュータ専門学校」へ通学中である。
こうして、小山→内田さん→江平ご夫妻→舟山さん→ホアン君と人間の縁は続いていく。
60億人もいる人間の中で到底出会うことの出来ないはずのこの6人が、不思議な縁で今日、新宿に集い、江平ご夫妻から会席料理をご馳走になっているのである。
 私たちの取り組みは小さなものではあるが、ベトナムの医師へのお礼を通して日本人の心を伝え、「子どもの家」支援の中で日越友好交流・平和な人間交流を行っている。
そして何よりも舟山さんの身体を張っての日越友好は特筆に価する。可愛い愛娘「連ちゃん」が日越友好のシンボルである。
 私はベトナムに10年半住んで「子どもの家」支援活動を行っている。支援をしているというのは、口幅ったいことである。実際には得るものの方が多い。何よりも素晴らしい人間に出会えるということである。日越の心ある素晴らしい人間。肩書きなど関係ない。本当に心のある人は、思想信条に関係なくいるものである。ベトナムでのストリートチルドレン支援活動は、そうした「心ある日越の人間」を私に紹介してくれた。子どもたちに感謝している。
 
(追記)「昨日まで杉花粉症発生」などと大騒ぎしたが、実は、風邪だった。風邪で鼻水がでたのが真相と判明。無実の罪を着せた「杉花粉症様」にお詫びしたい。犯人は風邪だった。今日は声ががらがら。

投稿者 koyama : 20:55 | コメント (0) | トラックバック

江平慶司氏を語る①

午後12時から新宿の料亭で江平夫妻と会食。内田さん、舟山さん、ホアン君と同席。
左(江平氏と小山)
中(内田さん)
右(舟山さんとホアン君)江平・小山内田さん舟山・ホアン

人間の縁(えにし)というものは本当に不思議なものである。今日集まった6人は本来なら生涯出会えない人たちである。運命としか言えない出会いがあった。

 内田さんは、ある商社のサイゴン支店長だったお父さんの仕事の都合で敗戦前のベトナム旧サイゴン市で生を受ける。
 日本の敗戦後、収容所に入れられるなど苦労をして家族と日本へ帰国した方である。その後、何とかしてご自分の生まれたサイゴンに行って見たい、自分の生家を見てみたいとの強い気持ちを持っていた。
1995年、テレビ朝日「久米宏のニュースステーション」で私の活動が報道されるのをご覧になり、会へ連絡する。会として「子どもベトナムツアー」を企画していた。内田さんはその企画に参加しベトナム旅行をするため、お宅の近くの駅前「本屋」さんへベトナムガイドブックを買いに行く。偶然、その本屋のご主人である江平慶司さんとベトナムの話をする。
 すると江平さんも1944年、45年とベトナムに軍人として赴任していたことが分かる。
 江平さんは、現在83歳。1920年(大正9)新潟県のお生まれだそうだ。
 1943年(昭和18年)教育召集を受け衛生兵として入営。その後、1944年3月(昭和19年)本格召集でシンガポール→タイ→プノンペン経由でサイゴンへ渡る。戦争末期である。
 1945年(昭和20年)3月サイゴンから北上し、現在の「クアン・ビン省」にあった「チャンリー」という駅を歩哨として警備していると、米軍の飛行機が飛来する。江平さんは米軍機の機銃掃射で右足に銃弾が貫通し、瀕死の重傷を負う。
 敗戦間近の3月のことである。右足は出血し腐敗してくる。医療の手立てをしないと命にも直結する緊急事態となるが、病院がない。戦友の皆さんが色々と連絡を取ってくれ、現在のクアンビン省にある「国際赤十字」のベトナム人医師と看護師が江平さんを受け入れてくれる。意識を失っている江平さんをベトナム人医師は人道的に扱ってくれ、医薬品など入手困難な中で手術を敢行。右足切断という大手術を行う。江平さんは1945年3月、右足を失うが、その手術のお陰で命だけは助かった。2ヶ月ほど、ベトナムの病院で治療を受け、戦前最後の日本への帰還船が5月に出るとの情報を受けて、最終帰還船で日本へ何とか帰国し、相模原の病院に入院。病院で8月15日の天皇の「玉音放送」を聴く。
 戦後、江平さんは中野区鷺宮駅前で本屋を経営する傍ら、中野区の障害者運動の先頭に立ち、障害者の生活と権利を守る運動を行い、二度の「厚生大臣賞」を受賞されている。
 江平さんは戦後の厳しい経済生活の中でも「ベトナムで自分の命を救ってくれた国際赤十字のベトナム人医師に一言お礼を言いたい」との気持ちを強く持っていたが、ベトナム戦争などもあり、中々ベトナム訪問の機会がなかった。
 江平さんは、偶然「ベトナムガイドブック」を買いに来た内田征子さんの話を聞いて「自分もベトナム人医師を探している。一言手術のお礼を言いたい」との話をする。
 その後、内田さんから江平さんの話を聞き、私は
ベトナム中部にあった「チャンリー駅」を探す。
中部のクアンビン省には、私がフエ師範大学で日本語を教えたホアさんがいた。早速、ホアさんに連絡し「1945年頃クアンビン省の国際赤十字に勤務し、日本人の右足切断手術をした医師を探しているが協力してほしい」との依頼をする。
これも偶然だが、ホアさんの父親がクアンビン省(人口60万人)の教育長という要職に就いていた。また、共産党の幹部でもあり地元に顔が広い事が分かった。早速、父親に詳細な事情を書いた手紙を送り、医師をさがしてくれるよう依頼。
 1996年の8月に私たちの会は子どもベトナム事務所派遣団を組織した。そのツアーに江平さんと数名の戦友が同行。このツアーの添乗員が太平観光の舟山さんだった。
 ツアーはフエに着き、私は江平さんを案内し車で3時間のクアンビン省のドンホイ市へ行き、当時の医師を探すが、残念ながら医師は見つからなかった。太平観光の舟山さんはこのツアー添乗がきっかけでその後4年間、ベトナム事務所の手伝いなどをすることとなる。(不思議な縁ではある)
 1998年、江平さんは再度、ベトナムへ赤十字のベトナム人医師を探しにやってくるという。私は再度、クアンビン省の教育長である教え子のホアさんの父親に医師探しを依頼する。手紙は人づてだと詳細が伝わらないので、私はラームさん(現在ベトナム事務所員兼観光会社社長)と一緒にクアンビン省に行き、ホアンさんの父親に会い、詳細を話す。
 しばらくすると教育長より連絡があり、「医師が見つかった」とのこと。直ぐ江平さんに連絡する。
江平さんはかなり体調を崩していたが、ベトナム旅行を決行。クアンビン省ドンホイ市へ行く。私とラームさんなども同行。江平さんは、右足の義足と足が擦れ合い、出血している。足が棒のように硬直して歩けない。しかし、どうしても「命を救ってくれたベトナム人医師にお礼を言いたい」との気持ちが強く、ドンホイ市へ行く。
 教育長の案内で手術した医師の家へ行く。しかし、残念ながら既に医師は亡くなっていたが、高齢で病床ではあったが、奥さんはまだ存命であった。江平さんは涙を流し53年前の事情を話し御礼を言う。その後、江平さんの手術の助手をした方が分かり、江平さんと一緒に元助手の方のお宅を訪問。助手の方は、日本人の手術を良く覚えていた。戦争末期で毎日負傷者が病院に担ぎ込まれていたそうだ。
「自分は国際赤十字の医療者として、ベトナムを占領していた日本人であったも人道的な立場から手術を行った」との話だった。江平さんも私も改めて50年以上前の戦争中にもこうした「人道的」な気持ちをもったベトナムの方が居た事に感動する。
 江平さんは戦後53年目にして、念願だった「命を救ってくれた手術のお礼を言いたい」という一徹な気持ちが実現した。
 考えてみれば、江平さんが右足の義足に血を滲ませながらベトナムへ行き、「お礼」を言う義務はない。多くの日本人がアジアの人々に迷惑をかけたりお世話になっている。戦後59年。こうしたことを簡単に忘れてしまい、傲慢な態度に終始する日本人も多い。江平さんの一徹な気持ちは人間として本来持っている自然な気持ちなのかもしれない。しかし、53年間もその気持ちを持ち続け、実現した人はいない。私は江平慶司という人間を心から尊敬する。それは、江平さんが何を言ったかではない。江平さんの行動である。お世話になったらお礼を言うという当たり前のことが出来ない今日である。
 何でもお金で解決するご時世である。こんなご時世に江平慶司という人間が、義足の足に血を滲ませながらも、「恩を返し」にわざわざ2回もベトナムへ行ったという事実とその行動力、そしてそれらを支える江平さんの人間精神を尊敬するのである。江平慶司さんは、日本人としての誇りである。私たち、後続の人間が学ぶべき、偉大な人間である。

投稿者 koyama : 17:28 | コメント (0) | トラックバック

2004年02月28日

自宅へ戻る

伊豆高原の保養所から徒歩30分、「伊豆高原駅」へ。熱海経由、午後3時過ぎに自宅着。
「伊豆高原保養所 くろしお」は、温泉・料理は最高。私たちだけしか宿泊していないので、静かに療養が出来た。海岸を2時間、駅まで30分の徒歩リハビリにも有用。G君に感謝。
杉花粉症悪化。自宅でメールを開くと87通にメールあり。その後数時間メールの返事に時間を費やす。

投稿者 koyama : 18:25 | コメント (0) | トラックバック

2004年02月27日

麻原死刑判決に想う

朝食後、城ヶ崎海岸へ。城ヶ崎自然研究路ウオーキングコースを歩き、海岸から海洋公園、連着寺を経由して「門脇岬吊橋」へ。徒歩2時間。途中、沈丁花の香りが漂う。
 伊豆高原は椿が満開。連着寺境内には「河津桜」が見事に満開だった。
※ここまで書いて来たがクシャミ連発。鼻たらし状態で
 今日はこれ以上書けない。麻原問題は後刻。


左(伊豆高原中満開の椿)
中(城ヵ崎海岸)
右(満開の河津桜)椿城ヶ崎海岸河津桜

東京地裁は麻原被告に死刑判決を出した。マスコミは朝からセンセーショナルな報道を繰り返している。午後、死刑判決が出ると傍聴していたアナウンサーは、駆け出して廷内から出てきて、中継しているアンカーに体当たりしハーハー言いながら「麻原死刑判決」などと報道していた。多くの報道は麻原の生い立ちから死刑までに焦点を当て報道していた。
麻原に死刑判決が出ても「オウム事件」が提起した問題は何も解決していない。
 私の最大の関心事は、何故最高時1万5千人もの若者がオウムの信者になったのか、ということである。元信者のインタビューや手記などを読むと『みんな真面目な若者』である。人間の生き方、本当の人間の幸せとは何か、お金儲けや名誉・出世が本当の人間の幸せではないし、人生の目標でもないと考えていた若者である。
オウムに集まった若者の問題意識は今の日本の腐りきった現状を的確に分析し、問題を解決しようとする姿勢を持っている。この点では、この10年間近くベトナム事務所や「子どもの家」に毎年やって来る500人~1000人の日本の若者と同一・共通の問題意識を持っていると言える。
 麻原の死刑判決は法制的な面での一つの到達点の過程ではあるが、社会の問題、教育の問題、日本の将来、政治に提起された問題は何も解決されないまま、麻原死刑で問題を糊塗するかのような風潮に疑問を感じる。
 麻原が仮に死刑になっても、若者をめぐる社会・政治・経済情勢は何も変わっていない。若者は本当の生き方と本当の幸せを模索している。こうした若者の提起している問題に政府・政党・宗教団体・社会も大人も何も答えていない。
 このままでは第2・第3の麻原が出てくる客観的な状況は変わっていない。
 今、私たち大人の出来ること、私の出来ることは、若者に「夢のある将来」を語ることである。人間の生き方を身をもって示すことである。若者がこの日本に生まれ生きて良かったという世の中を作ることである。
 これは政治の仕事であると同時に私たち大人一人一人に課せられた課題だと思っている。

投稿者 koyama : 18:58 | コメント (0) | トラックバック

2004年02月26日

城ヶ崎海岸に来ました

 今日は我が夫婦の結婚32周年記念日。1972年2月26日に渋谷の勤労福祉会館で結婚式を行った。:当日は「2・26事件」と同じ雪の日だった。あれから32年経ってしまった。
 妻の療養も兼ねて伊豆高原ー城ヶ崎海岸へやってきた。高校の同級生K君の紹介でK君の会社の保養施設に投宿。
左(桃)
中(早咲き桜)
右(みかん)
 伊豆高原は既に春が始まっていた。桃と早咲きの桜、そしてミカンが咲いていた。回りは杉林が多い。風が強く花粉症で目が痛くくしゃみ連発。桃桜みかん

投稿者 koyama : 17:35 | コメント (0) | トラックバック

2004年02月25日

花はくれない(小説佐藤紅禄)を読む

2月23日放映されたNHK教育テレビ
「世の中なんでも現代社会」http://www.nhk.or.jp/yononaka/
を見た大分の方から支援の申し入れがあった。
再放送は3月1日(月)午後3時半~午後3時50分。

日本へ帰る度にいつも嫌な思いをする。
昨日も日本弁護士連合会に行くため地下鉄に乗った。西台駅ホームで若い女性がマスクをしながら携帯電話をしている。他人事ではあるが、マスクをしてまで(大声になる)携帯電話をしなくても良いのにと思う。地下鉄が入ってくる。そのまま携帯電話をしながら乗車。私の隣に座るも、引き続き「マスク携帯」を続ける。マスクをしているので大声となってしまう。しばらく大声で「マスク電話」をする。しばらくするとおもむろにバッグから「パン」を引き出し、パクつく。車内に肉と何かが入ったパンの匂いが漂う。「ここまでやるか」と思った私が甘かった。
 「携帯・パン女性」は引き続き車内を自室として利用。バッグから化粧セットを取り出し、お化粧を始める。何か顔にペタペタ塗りまくる。まつ毛を変な器具でカールする。
 結局、この女性の隣にいて「大声攻撃」「パンと化粧の異臭攻撃」を受ける羽目になってしまう。
 ご本人はケロッとした顔で下車する。
うーん、日本はどうなったのか? こうしたことがおかしいこと、してはならないことという、規範の気持ちはさらさらない。今更こうした若い女性に「恥を知れ」などと叫んでも、「何言ってるのこの変態おやじ・・」と一喝されておしまい。
この5-6年、この種の「他人のことが頭にない女性」(男性もいるが)が目に付く。少なくともフエではこうしたことは、人間として恥じる行為であるとの良識をベトナム人は持っている。「子どもの家」の子どもたちも同様である。正常なフエ社会に住んでしまうと日本の「携帯・パン・お化粧」人間が異様に見えて仕方がない。腹が立つがどうしようもない我が国ではある。自民党内では教育基本法を「改正」し愛国心をもつよう明記するとの主張があるようだ。愛国心を言う前に、この種のへんてこりんな社会状況を、真っ当にすることが先ではないでしょうか?  どうですか・・・・。
 

 この数日、忙しかった。日本語教師希望者面接、日本事務所会議、総会、歓迎会、K大学との懇談、日本弁護士会での意見発表・懇親。
 今日は帰国して初めて1日の休養をとる。
「花はくれない 小説 佐藤紅禄」(佐藤愛子著:講談社)を読む。 
 この本は同じく佐藤愛子著「血脈」(3冊)(文言春秋)の底本。
 人間というのは、DNAなのかどうかは知らないが、血の繋がりというのがあり、代々受け継がれる「気質」があるものだ。
 江戸時代の終わり弘前う生まれた「佐藤弥六」は喧嘩が好きで、警官を見ると訳もなく腹が立つ性分だったそうだ。県会議員にもなった。福沢諭吉にその学才を認められオランダ公使に推挙されるが、拒否。その弥六の息子が「佐藤紅禄」であった。紅禄も父親弥六と同様、既成のシステムに反抗し、筋の通らないことには、自分が損をしてもけんかをしてしまうという性分。紅禄の子どもが詩人の「佐藤ハチロー」、異母兄弟が著者の佐藤愛子である。
 弥六→紅禄→ハチロー・愛子に流れている「気質」は威張るものや筋の通らないことには、反発すること。そのためにどれだけ損をしても。
何か我が家の気質に通ずるものがあり、「そうだ、そうだ」と思いながら読んだ。上記「血脈」は一読に値する。人間という不思議な生き物を3代に渡って詳細に分析記述している。

 午後NHK国会討論を見る。高校の同級生で一緒に陸上部で活動した生方幸夫君が小泉総理に質問をていた。頭がそうとう薄くなっている。民主党の左派だそうである。「へー。うーん」。思わず唸ってしまう。
 夕方、高島平団地内の商店街へ買い物。1時間半ほど歩く。気温は暖かくなったが、反比例して「杉花粉症」は発症。この日記の読者の方から色々と花粉症対策の助言を頂く。感謝。

投稿者 koyama : 16:47 | コメント (0) | トラックバック

2004年02月24日

日本弁護士連合会へ行く

午前中、歯科医へ。麻酔注射。左半分麻痺。昼食の際、口が麻痺していて食べるのが大変。唇を噛む危険あり。

午後、日本弁護士連合会へ。

左(アナン国連事務総長)
中(日弁連「法教育」委員会会合)
右(日弁連役員:副会長、広報室長、法教育委員長、副委員長)アナン国連事務総長法教育委員会日弁連役員と

西台から内幸町へ。日比谷公園に従って日本弁護士連合会に行く途中に「日本記者クラブ」がある。いやに警官とパトカーが止まっている。センターには、日の丸と国連旗が掲げられていた。私は咄嗟に「これはアナン国連事務総長が来るな」と思い、5分ほど待つ。案の定、アナン事務総長の大型リムジンが止まる。アナン氏と警護のSP、外務省関係者多数が車から降り早足で「日本記者クラブ」に入る。

その足で「日本語弁護士連合会」のある「弁護士会館」へ。
今日は水戸弁護士会の後藤先生の紹介で、日弁連「法教育委員会」に呼ばれ、法教育や学校現場の実態、ベトナムでのボランティアを通して法教育についての意見を20分ほど述べる。
 「法教育」とは、法務省も言っていることだそうだが、日弁連も法教育と通して、民主主義社会の構成員としての市民を育成することを目指している。
 午後5時過ぎ「法教育委員会」(20名ほど出席)が終了した。直ぐに日弁連の種田副会長が会場を訪ねて来た。種田副会長とは、8年ほど前からの知り合いである。種田日弁連副会長もバングタディシュへの支援を10年以上続けている。日弁連の種田副会長も私たちの会の支援者、会員である。
 種田副会長、古井昭男法教育委員長、後藤直樹法教育委員会副委員長、鈴木啓文日弁連広報室長と記念写真。

 その後、弁護士会館の地下で上記の皆さんと根本信義水戸弁護士会副会長を交え、夕食懇親会。
日弁連法教育委員会では、法教育に興味のある先生を募っている。
 午後7時半、池袋で高校同級生の五井君と会う。

 今日、午前中、「子どもの家」スタッフのフオンさん、キムアンさんは福田副代表、田中ベトナム事務所員と共に成田のホテルへ。明朝10時発の飛行機でホーチミン市へ。

夕刊を読む。今日は都立高校の入試とある。
日比谷高校は3、06倍の競争率だそうだ。
日比谷高校は「東大・東工大・一橋大・京都大の合格者20名以上」「早大・慶大・上智大100名以上」という「マニフェスト」を掲げ募集をかけたそうだ。(2月24日朝日新聞夕刊)
 一瞬、どこかの予備校かと思った。東京の教育もここまで来たか? との絶望感。
 今教育に問われているのは、小中の不登校13万人、高校の年度退学10万人(文部科学省)、引きこもりは一説では100万人もいると言われている。こうしたことにほとんで有効な対策が立てられないまま、都立高校が予備校化していく現実に背筋が寒くなった。これらの都立高校は「有名大学に入る事だけが目的の人間を大量に排出する」ことになるだろう。昔の日比谷高校を懐古趣味的に願ってもそういう時代ではないことを理解していない石原都知事である。
 既に一部の私立高校では「有名大学進学一辺倒路線」を清算し、本当の学力、世界の問題、21世紀の課題、平和と民主主義の問題など多くの「現代の問題」を考えている。「南北問題」「貧困問題」「ボランティア」などを真剣に考える教育を行っている私立学校も出ている。今になって「有名大学進学」を売り物にしる都立高校への改編路線は、時代遅れの感あり。今子どもたちや若者が出遭っている問題は、その「有名大学」に入った後、自分の行き方を見つけられないという問題なのだ。
2月27日に麻原被告に第一審に判決がでる。麻原を死刑にしも「オウム問題」は何も解決しない。
オウム問題に横たわる大きな問題は石原都知事が復活したい「有名大学進学都立高校」が目指す、その「有名大学」へ入った若者が、何故、ニセ宗教のオウムや麻原に引かれたのかという問題である。
日比谷高校が目指す東大や京大の大学院の研究者や医師が何故、麻原に引かれたのか? 
この問題は未だに解明されていない。都立高校が「有名大学進学」を競えべ競うほど、第2第3のオウム信者予備軍を作り出すだけである。
 教育者や行政は小手先の「有名大学進学」などに目を奪われる事なく、現代の若者が何に悩み、何に苦しんでいるのかを知るべきである。

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2004年02月23日

K大学との懇談

午前中、昨日の「第10回総会」「フオンさん・アンさん歓迎会」を日記に書く。5回分。

昼過ぎ自宅を出て、赤坂見附にある「地球の歩き方」本社へ。
K大学関係者と懇談。山西・福田副代表と一緒に。K大学の学生を「子どもの家」等へ派遣し、ボランティア体験をするプログラムの打ち合わせ。

左(K大学打ち合わせ①)
中(同②)
右(大極さんにもらった花粉症のお灸)

 K大学懇談①K大学懇談②杉花粉症

「地球の歩き方」の仲介で実施予定。充実した内容になるよう打ち合わせを行う。

午後6時過ぎ帰宅。昨日の総会で大学同級生の大極さんから杉花粉症に効く「ツボ」を教えてもらい、その上、お灸をもらった。早速、背中のツボにお灸を据える。
全く熱くなかった。今日は風も強く、花粉症の症状が強く出ている。鼻水、喉の痛み、目のかゆみ。

投稿者 koyama : 20:55 | コメント (0) | トラックバック

2004年02月22日

JASS第10回総会⑤(二人の歓迎会)

総会終了後、訪日寮母さんの歓迎会が行われた。
80人ほどの参加者があり、盛大かつ暖かな雰囲気の会となった。

左(二人と中野先生、舟山トゥーイさん)
右(歓迎会参加者全員写真)舟山トゥーイさんと二人二人歓迎会全員写真

歓迎会は柴田副代表と野村、熊崎トリオの司会で始まり、フエ市人民委員会よりの感謝状贈呈が行われた。フエ市人民委員会は、「子どもの家」創設10周年を記念して外国人では初めての感謝状贈呈を行った。私がフエ市人民委員会に代わり以下の方々に贈呈。
①こうばこの会(視覚障害者の語りの会)
②YONAOSHI ボランティア 赤い顔
③太平観光北垣善男会長

以下の諸団体は後日私が直接感謝状をお持ちすることになっている。

④岩辺泰吏様
⑤国際ソロプチミスト東京ー東
⑥国際ソロプチミスト帯広みどり
⑦国際ソロプチミスト京都ー西山


歓迎会の通訳はベトナム事務所で4年間子どもたちやラームさんの観光支援を行っていた舟山裕行さんと結婚したフエのTHUYさん。舟山THUYさんと舟山裕行さんとの間には、9ヶ月の「レンちゃん(蓮ちゃん)がいる。

 多くの支援者が歓迎会には参加していた。
日本のベトナム政治学研究の第一人者である中野亜里先生。
 赤い顔の直井さん、上原さんご一家など多くの方が参加された。
 
 続いてKIM ANHさん、PHUONGさんの挨拶。
 小山よりPHUONGさんへ10年間永続勤務への感謝状の贈呈を行う。PHUONGさんは、「退職はしたくない。これからも引き続き仕事をしたい」との希望を表明した。
 歓迎会は和気藹々、家庭的な雰囲気の中で行われ、午後7時過ぎにお開きとなる。

投稿者 koyama : 10:59 | コメント (0) | トラックバック

JASS第10回総会④

総会議事の最後に寒河江日本事務所より新役員人事が提案され承認される。
左(選出された新役員)
中(古田土満氏への感謝状贈呈)
右(大場先生へラームさんの手紙朗読)


新役員古田土感謝状大場先生ラームさん手紙

(新役員会)
代表     小山道夫
副代表    山西司郎
       柴田広作
       福田もえ子
日本事務所長 寒河江幸子
ベトナム事務所長 バオ・ミン

ーーー
会計監査 杉山七美
会計担当 石田直子

議事終了後、「子どもの家」創設10周年を記念してこの10年間に「子どもの家」へ多大な貢献をされた個人に感謝状を贈呈した。

古田土満氏と同会計事務所への感謝状の贈呈。
古田土さんは、「子どもの家」へも来られ、「子どもの家」に大きな日本太鼓を送ってくれた。70名程の会計事務所員に「残業はしないように。もし残業した場合には罰金を支払う事。罰金は「子どもの家」に寄贈する」との社是を持っている。こうして長期間多額の寄金を頂き、「子どもの家」への支援をしてくれている。
 続いて故大場裕洪先生。大場先生は1年半前にお亡くなりになった。今日は奥様にお越し頂き感謝状を贈呈させて頂いた。
故大場先生は1995年に「子どもの家」関係者(ラームさんなど4人)が訪日した際に1ヶ月もの間お宅にホームステーさせて頂いた。その後、ラームさんの新婚旅行で訪日した際にも自宅へ泊めていただく。更に「子どもの家」のタンさん(現在刺繍みやげ物店勤務で自立)とニーさん(フエ大学英文科)が訪日した際にも長期間のホームステーを受け入れて頂いた。
 今日はラームさんからの感謝の手紙を弟のホアン君(現在、日本留学中)が朗読。また、タンさんの手紙を内田さんが代読した。二人の手紙は大場先生のあたたかな人間性を表現していて、こみ上げるものがあった。
 改めて古田土さんに感謝し、大場先生のご冥福と奥様のご健康をお祈りしたい。

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第10回JASS総会③

続いて柴田副代表より2004年活動方針が、山西副代表より2004年予算の提案があり、承認。

左(柴田副代表)
中(総会参加の石崎・中村さん)
右(総会裏方の皆さん)

柴田方針提案 href="http://www.koyamamichio.com/archives/3724b96a.JPG" target="_blank">総会石崎・中村
総会裏方

   
   総会には10数年前の教え子のお母さんも参加。
石崎さん、中村さん。板橋区立舟渡小学校。お嬢さんが既に大学を卒業し就職したり、引き続き化学の勉強をしたりしているとのこと。23歳になるそうだ。小学校を卒業した後、二人を含め7人の子どもたちをニュージーランドへ連れて行ったことを思い出す。刻の経つのは早いものだ。
 総会の休憩時間にはベトナムコーヒーやお菓子なども販売。総会は多く裏方の方々の目立たない努力で成り立っている。

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JASS第10回総会②

午後1時半からの総会は斉藤議長が選出され開会。
福田副代表より訪日した「子どもの家」スタッフのPHUONGさん、KIM ANHさんを紹介。二人の挨拶。

続いて福田副代表より「2003年の活動を振り返った」(総括案)の提案。
 山西副代表(会計責任者)より2003年会計報告が行われる。

総会には80人以上の方々が参加された。「子どもの家」にも2回来られた江平さんは、体調の悪い中、ざわざわ参加された。感謝。

左(総会挨拶:フオン・キムアンさん)
中(第10回総会会場の様子)
右(総会参加の江平ご夫妻)二人総会で挨拶総会の様子江平さんご夫妻

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JASS総会成功する①

今日は朝から晴天。気温も高い。杉花粉症の危険度も高い。

今日はJASS第10回総会当日。
午前10時、会場の北区教育会館で「日本事務所会議」開催。寒河江日本事務所長の提案で総会の議事進行の確認、山西副代表より会計諸表の説明などの総会最終打ち合わせを行う。午後12時半まで。

午後1時半過ぎ、「JASS第10回総会」開会。

左(総会前の日本事務所会議)
中(総会司会の野村さん、熊崎さん)
右(総会議長に選出された斉藤さん)総会前の日本事務所会議総会司会(熊崎、野村)斉藤総会議長

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2004年02月21日

「子どもの家」スタッフ訪日

今日午前7時過ぎ、「子どもの家」スタッフ料理担当のフオンさん、子ども担当のキムアインさんが福田副代表と成田へ到着。
花博士の高橋夫妻、柴田副代表、田中日本事務所員が出迎え。
 二人とも元気に日本の土を踏む。その足で、高橋花博士の車で高橋邸へ。暫時休息・昼食。

私は午前中、日本教育公務員弘済会機関誌の原稿を仕上げ、送信。

午後、静岡会館付属日本語学校ボランティア教師志望のHさんの面接を福田副代表と行う。

明日、2月22日(日)は午前10時から日本事務所会議、午後1時半から「第10回JASS総会」その後、二人の「子どもの家」スタッフ歓迎会。
詳細は以下のよう。どなたでも参加可能。
--------------------------------------------------------------------------------

『第10回ベトナムの「子どもの家」を支える会総会』
★会員・支援者、またそれ以外のどなたでも参加できます。
日時 2004年2月22日(日)午後1時半~午後4時半
会場 北区教育会館(03-3940-5764)   東京都北区西ヶ原2-24-8
京浜東北線「王子駅」下車徒歩10分
営団地下鉄南北線「西ヶ原駅」下車徒歩5分

会場の北区教育会館の地図が表示されます。
内容 ●第1部 総会議題(予定)

2003年度 ベトナム活動報告
2003年度 日本事務所活動報告
2003年度 会計報告
2003年度 各地の会の活動報告
2004年度 活動について
2004年度 日本事務所の活動
2004年度 会計計画
2004年度 役員選出 等
●第2部 「子どもの家」寮母 フォンさんキムアンさん歓迎会 午後5時~午後7時

「子どもの家」の父親・母親である寮母さん達ベトナム人スタッフを代表して、フォンさんとキムアンさんが副代表の福田もえ子さんとともに来日します。日頃のご苦労を労い、楽しく交流したいと思います。総会後、同会場で行う予定です。
ぜひ、皆さんご参加ください。
参加費用: 2000円 (高校生以下無料。会場にてお支払いください)

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2004年02月20日

忙しい1日でした。

 午前中、歯医者へ。麻酔をかけての治療を行う。午後4時過ぎまで口の右半分が麻痺していた。ベトナムにいると病院での治療や診断などが出来ない。日本へ帰った時に歯や心臓、健康診断などを行い、ベトナムで健康に子どもたちの支援が出来るよう気をつけている。
 昨年9月から作り始めた「ぬか床」がしっかりとしてきた。かぶやセロリなどを漬ける。
 午後、日本教育公務員弘済会機関紙原稿2000字(2004年5月分)の草稿を書く。明日仕上げ。
2月22日のJASS第10回総会で披露するベトナム事務所活動のビデオの編集。ベトナム事務所が管轄している5つの施設を紹介するビデオを作る。約60分のデジタルテープを8分間のVHSに編集した。かなりの時間を要す。
夕方、食材の買出し。夕食作り。
杉花粉症「発症」。鼻水とくしゃみ、目のかゆみ。歯医者で麻酔をかけた。口と鼻の右半分が麻痺状態。鼻水が垂れても自覚がない。歯の治療中、鼻水が出たようなのだが、自覚がないので「関係者」の皆様に大変ご迷惑をおかけしたようだ。「鼻はだ失礼」。

投稿者 koyama : 18:29 | コメント (0) | トラックバック

2004年02月19日

日本は寒い

昨日は、フエ空港で村山元首相一行(5人)と一緒になり、ハノイ、成田まで一緒だった。

同じベトナムでもハノイとホーチミン市とでは、色々と違う事がある。大きな違いの一つに「サービス」がある。
 午後8時過ぎにハノイ空港(ノイバイ)に着いた。持っていた小さなスーツケースをベトナム航空のカウンターに預けようと持っていくと係員の返事がない。
何度か聞いた結果、9時20分に受付を開始するとのこと。ホーチミンのタンソンニャット空港では、何時発のフライトでも荷物を受け付けてくれる。お客にとっては、大きな荷物を持って数時間待つのは大変である。

ハノイ空港。1時間20分の間スーツケースを持って待った後、カウンターへ。カウンターの係りは、9時40分だ、とぶっきら棒に言う。さっき9時20分と言ったのにと思いつつ、9時40分まで待っていると9時30分頃、ベトナム人が行くと受付を開始してしまう。ハノイは一言で言えば、係りの「恣意的」なことで物事が進んでいる。
ハノイ空港は1年ほど前に立派な近代的な空港となった。しかし、トイレに入ってみると日本の「INAX」のトイレなのだが、悪臭がプンプンしている。日本の空港は幾ら年月がたっていても悪臭はない。結局、係りの人、責任者がトイレ掃除をしっかりしていないという訳だ。
 夕食を食べていないのでレストランに入る。
食べるものは、昔の日本の「チキンラーメン」にお湯を入れたものだけ。全く味気ない。これだけ立派な空港の建物を持っているのに。
 ホーチミンの空港では、「PHO」(フォー:米うどん)や各種の手料理を出している。
 結局、ハノイの空港は従業員中心のシステムになっている。「サービス」という概念がない。「お前らを飛行機に乗せてやる」といった従業員の態度がミエミエ。社会主義社会建設以来、一党独裁が進行する中で、党員や官僚、役人などが「国民に奉仕する」気風を失っている。「人民警察」「人民に奉仕する」などというスローガンが町に掲げれれていることが空しく目に映る。

 午後11時50分、ハノイを出発する。搭乗者は半分ほど。私の席も3席で私一人。搭乗後、3席を倒して寝て帰る。4時間20分で成田へ。ホーチミンから成田へ帰るより1時間ほど早く着く。
 午前6時10分(ベトナム時間午前4時10分)に成田着。京成スカイラーナーは、午前7時以降発券するとのこと。仕方ないので、京成の通勤特急に乗る。
酷い混雑。日暮里からJR山手線に乗るが、ここも通勤で一杯。午前9時前に自宅着。
 午後4時に出て翌朝9時前に家に着いた。長い旅だった。自宅着後、急いでボランティア貯金の領収書(1箱)を山西さんに宅急便で送る。

成田はマイナス2度。東京もとにかく寒い。自宅の部屋ではスキウエヤーを着て縮こまって1日を過ごした。寒い、寒い。明日は、どんな天気か?

 帯広の支援者、芳村さんから電話。支援している障害児のことについて話し合う。
 夕食は家族3人(妻、次男)で。

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2004年02月18日

村山富市元首相が「子どもの家」を訪問

終日晴天。
午前9時、村山富市元総理大臣が「子どもの家」を訪問。
(詳細は「ベトナム国内」をクリック。その後、「続きを読む」をクリック。

左(村山元首相を案内する小山)
中(村山氏と小山)
右(参加者と関係者全員写真)

案内する小山小山・村山村山全員写真

バオミン・ベトナム事務所長と案内。
「子どもの家」のセン委員長、ロック寮長と挨拶。
その後、私が「子どもの家」の各施設などを案内。

村山元首相はあいにく風邪気味で体調を崩されていた。それでも「子どもの家」の全ての施設を参観。台所では料理のフオンさんに話しかけていた。燃料が「練炭」、1日の食事代が50円ほどとの説明に驚いていた。
 村山氏が首相になった丁度そのころ、私はフエにやってきた。10年ほど前になる。村山首相時代にベトナムにJICA事務所を設置したそうで、「子どもの家」もJICA支援で建物の一部を建設したとの説明に感慨深げだった。
 村山元首相が「子どもの家」を訪問された時、ラームさん、もえ子の案内で地球の歩き方ボランティア体験ツアーの学生さんたちは、子どもたちと一緒に市場に食材を買い物に行き、昼食を作っていた。村山氏は地球の歩き方ボランティア体験ツアーに学生さんに「どこの大学生?」「ここで何をしているの?」などと声をかけていた。
 学生の中には5年ほど前に高校の全校集会で私の話を聞いた大学4年生の女子学生もいた。老人養護施設に就職が決まっているとこのこと。
 村山氏は1時間ほどの視察を終え、「子どもの家」に別れを告げた。
 首相時代に比べ、眉毛が真っ白になっていた。10年の年月を感じた。

 午前11時。研修生派遣支援事業問題で派遣会社社長と懇談。

 午後4時、トンチンカンホテルを出て、フエ空港→ハノイ空港(ノイバイ空港)→午後11時50分
ハノイ発→成田へ(2月19日A6:40着)

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2004年02月17日

日本帰国前はいつも忙しい

終日晴天。

 昨日は37通のメールを受信し、20通の返信をした。どういう訳か日本へ帰国する1週間程は、毎回、色々と問題が起こり、急いで処理・解決しなかればならない仕事が入ってしまう。
 2月16日(月)から多田奈央さんがベトナム事務所の手伝いに来ている。今日は午前8時半過ぎから子どもたちと一緒に市場に買出しに行き、昼食を作る。こうした若者がアジアやボランティアに興味を持ち、実際に現地で活動することは素晴らしいことである。

左(子どもと友達になった多田奈央さん)
中・右(グエンフエ高校交流)tadaグエンフエ高校交流全体交流個人

午前8時、バオミン・ベトナム事務所長と共にオートバイ修理・研修工場へ。総会で報告するビデオを撮影。その足で「静岡フエ青年交流会館」へ。
会館では、地球の歩き方ボランティア体験ツアーの皆さんがベトナム語入門講座を受講中。講師は、西山優子・坂本文子・サンベトナム事務所員。それに日本語学校中級の学生。ベトナム語の基礎的な構造、簡単なベトナム語を学習し、午後からフエ省立高校NO1の「グエン・フエ高校}へ行き、高校生と実際にベトナム語で話してみる。
 午前9時、研修生派遣支援事業問題で、派遣会社の責任者を呼び打ち合わせ。
 午前10時半、フエ市人民委員会から贈呈される感謝状の日本語訳作り。

 午後2時、バオミン・ベトナム事務所長と障害児医療センター、オートバイ修理工場へ。総会ビデオ作成のため。
 午後3時、グエン・フエ高校へ行く。地球の歩き方ボランティア体験ツアーの皆さんが、高校生と交流会を開いていた。
 日本側からは、習字の得意な男子学生が習字を披露。ベトナム側高校生から、自分の名前を漢字で書いて欲しいとの依頼が殺到。
 午前中、勉強したベトナム語や英語を駆使してツアー参加者とグエンフエ高校生は会話を弾ませていた。

 午後4時、ハノイの日本大使館と連絡。
2月23日(月)服部大使が「子どもの家」視察に来られる件の打ち合わせ。
明日午後4時にフエを出るが、それまでにしなければならない仕事が山積。

投稿者 koyama : 15:51 | コメント (0) | トラックバック

2004年02月16日

福田もえ子副代表御生誕25周年記念式典開催

午後7時から「静岡青年交流会館」付属日本語学校の授業の様子をビデオ撮影。(2月22日総会で披露)
その後、「子どもの家」で日本語を教えている西山優子の授業風景を撮影。(総会披露)

午後9時過ぎ、福田もえ子副代表の御生誕25周年記念の式典を開催。福田副代表には内緒で、西山優子、坂本文子が企画。生誕記念ケーキは西山優子がわざわざ日本(札幌製)から持ってきた。

左(御生誕記念ケーキ)
中(御生誕記念ケーキカット) 
右(御生誕記念式典奉仕の「喜び組み」)ロウソクケーキカット誕生会参加者

 福田副代表は、午後9時過ぎまで「静岡青年交流会館」で日本語を教えていた。
 西山優子、ラーム、私がトンチンカンホテルの食堂で「御生誕25周年記念式典」の諸準備を完了し、部屋を暗くして待機。一緒に日本語を教えていた坂本文子が、福田副代表を「それとなく」トンチンカンホテルの食堂へ誘導。
 食堂に入ると真っ暗な部屋にローソクが灯り、西山優子のバイオリンを伴奏に、皆で「HAPPY BIRTHDAY TO MOEKO」を合唱。
 ワインで乾杯。福田副代表のケーキカット。

今日は、北朝鮮の「金正日」将軍様のご生誕記念日でもある。それにあわせ、我がベトナム事務所でも福田もえ子「将軍様」のご生誕25周年記念式典を盛大に挙行した次第。
 優子、文子、ラームのベトナム事務所「喜び組」の饗応接待は深夜まで続く。

 午後10時、フエ市人民委員会外務部長より電話。今日、フエ市人民委員会として、正式に「3施設の統合」(「子どもの家」、オートバイ修理工場、静岡会館)が決定され認証の書類が出来たとの連絡。『今外務部で祝賀会をしているの来てください」とのこと。急いで、ラームさんと出席。午後11時過ぎまで乾杯を繰り返す。
帰宅は午前12時前。
 その後、日記を書くがインターネットが繋がらず日記を書くことが出来なかった。

投稿者 koyama : 08:34 | コメント (0) | トラックバック

地球の歩き方ボランティア体験ツアー第2日目②

「子どもの家」の子どもたちが歓迎の歌と踊りを披露すると、地球の歩き方ツアー参加の学生からは、ギターの演奏が披露された。

左(ギター演奏を披露する学生)
中(子どもたちの歌と踊りを鑑賞)
右(子どもたちと楽しく遊ぶ)

href="http://www.koyamamichio.com/archives/c0381a4b.JPG" target="_blank">ギター歓迎の踊りを見る子どもたち遊ぶ

その後、福田副代表の案内で「子どもの家」の諸施設を参加。
午後5時過ぎまで「子どもの家」で子どもたちと交流をした。

投稿者 koyama : 08:14 | コメント (0) | トラックバック

地球の歩き方ボランティア体験ツアー第2日目①

●昨夜は、インターネットの接続が悪く、日記をアップできなかった。
終日晴天。暑くなる。
午前9時、地球の歩き方ボランティア体験ツアーの大学生『「子どもの家」ボランティア』についての講演。2時間。
始めにベトナム事務所員全員の紹介。その後、講演。
これから1週間、フエで様々なボランティア体験活動を行う。

左(ベトナム事務所員紹介)
中(小山講演)
右(農民踊りを披露する男の子)

href="http://www.koyamamichio.com/archives/1baa28f8.JPG" target="_blank">ベトナム事務所員紹介小山講演歓迎の踊り

午後2時半、地球の歩き方ツアーと一緒に「子どもの家」へ。「子どもの家」で子どもたちと交流。子どもたちは、ベトナム伝統の農民の歌と踊りを披露。

投稿者 koyama : 07:59 | コメント (0) | トラックバック

2004年02月15日

久しぶりの日曜日

 終日晴天。暖かい。2月7日にフエに戻り9日目。やっと休みが取れた。朝7時、NHK日曜討論を聞く。農水大臣出席。BSE(牛海綿状脳症)、
とりインフルエンザ問題。
その後、総会関連の議案、諸準備等のメールを日本事務所長などと交換。

左(フオン川に映える夕日)
中(テレビを楽しむ子どもたち)
右(夜遅くフエに到着「地球の歩き方ツアー」)href="http://www.koyamamichio.com/archives/26b6d416.JPG" target="_blank">フオン川夕日テレビを見る「子どもの家」地球の歩き方

 午前9時、1ヶ月半ぶりにドンバ市場で「チャーゾー」(豚肉のソーセージ)を買う。
 低温で20分ほど入浴。明礬(みょうばん)の湯。このみょうばんの湯が体に何とも言えない温かさとリラックス感をもたらす。
 NHK素人のど自慢を見ながら「フダビール」三缶を空ける。午前11時からしばらく昼寝。
日本教育公務員弘済会の月刊誌へ寄稿する原稿(2004年4月号)2000字を書く。これから1年間、毎月2000字の原稿を書き、1枚か2枚の写真を載せることになる。
 午後5時過ぎ、「子どもの家」へビデオと写真を撮りに行く。途中、フオン川に夕日が映り何とも言えない雰囲気を醸し出していた。
 「子どもの家」では、LY君と弟のIN君が友達と遊んでいた。子どもたちは、食堂にあるテレビを見ていた。
 前期の成績も出た子どもたちであるが、夕食後、もう後期のための勉強をしている子がいた。

午後7時40分頃、地球の歩き方ツアーがフエ空港へ着く予定だった。ラームさん、もえ子が出迎えに行っている。フエのホテルに到着する前に私に電話があるはずだったが、なかなか電話がこない。結局、フエ空港に着いたのが午後8時40分。ホテル着は午後9時20分だった。私は、ホテルで出迎え。11人の大学生。昨年から行っている地球の歩き方ツアーであるが、今回で6回目位か?  男子学生が来たのは初めて。80人目にして初めての男子学生。
 11人のツアー参加者の中に千葉県柏市立柏高校で5年前に全校集会の人権講演会があり私の話を聞いた大学生がいた。
 午後10時近くになってもえ子と一緒にトンチンカンホテルに戻る。部屋に戻ってはたと気づく。
朝10時に缶ビール3本飲んだきりだった。
 おなかがすいたので、夕食分として「フダビール」3本飲む。結局、今日の食事は缶ビール6本。
若者風に言えば「超体に悪い食事」ということになる。いつもだと、日曜日は自分で食事を作っているのだが、今日は作る気力がなかった。まあ、ビールも麦で出来ているから多少は栄養もあるだろう。
ビールを飲みながら2月22日総会の議事日程案について、寒河江日本事務所長から来た原案に目を通す。

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2004年02月14日

「子どもの家」=ベトナム事務所定例連絡会議

 午前7時朝食。久しぶりに朝日を見た。朝、太陽を見ると元気がでる。朝食は「PHO」(フォー)。鶏肉はのっていない。
 午前8時半から定例の「子どもの家」セン運営委員長・ロック寮長とベトナム事務所員との連絡会議。
 
左(久々の朝日)
中(連絡会議参加者)
右(坂本文子日本語教師とセン委員長)朝日セン・ロックとの連絡会議セン・文子

 連絡会議は午前8時半から午前11時半まで3時間に及ぶ。
参加者はセン「子どもの家」委員長、ロック寮長。
ベトナム事務所側は小山、福田、ミン、西山、坂本、サンの各事務所員。

今日の主な議題は、「子どもの家」側からの諸問題の報告とそれに対する関係者の意見。

(セン「子どもの家」委員長の報告)

1月22日のテト正月も終わった。学校は学年「前期」の成績が出た。ベトナムでは一般的には「前期」の成績はかな厳しく付ける傾向がある。
 昨年秋から「子どもの家」に7人の教師を招請し、学習特別教室を始めた。少しずつその成果が出ていている。
(前期成績結果)
 ・成績最優秀(6人)
   小学校 4人
   中学校 1人
   高校  1人
 ・成績優秀(9人)
   小学校 6人
   中学校 1人
   高校  2人
 ・成績通常(16人)
 ・成績不良(12人)
   小学校 1人
   中学校 10人
   高校  1人

(前期の成績結果を通しての問題点)
 ●中学4年(日本の中3)の女子3名は
 自分の能力と成績に自信がなく、最初から
 勉強を努力することを諦め、ダンスや
 フエ伝統音楽に行きたいと行っている。
 セン委員長は、高校入試を受ける前に
 諦めるのはいけない。努力するように
 といっている。
●セン委員長としては、出来るだけ高校までは
 行かせたいとの気持ちをもっている。
●大学受験生が3人いる。3月初旬に受験校
 を学校に申し出る。来週、3人の受験生と
 個別に話し合い、「適正」な受験校を決めたい。

 子どもたちの生活の様子
●テト正月には、親戚などがいる子どもたちは親戚等の家に帰り、お正月を過ごした。家のない子どもたちは寮母さんと一緒にお菓子やご馳走を食べながら「大晦日」を楽しく過ごした。
●例年、親戚等へ帰って「お年玉」をもらって「子どもの家」へ戻ってくる。それらの子どもたちは
もらった「お年玉」を賭けて「子どもの家」で密かにギャンブルに耽っている。今年はそうしたことはなかった。女子2名が密かにギャンブル用のカードを持っていたが、没収した。

「子どもの家」スタッフの件
●10年間「子どもの家」で料理を作ったフオンさん(2月21日訪日)の代わりに新しい料理のスタッフを仮採用しているが、真面目にやっている。
現在は、フオンさんの指導下で料理を覚えているが、早く「一人立ち」して欲しい。
子どもたちの問題
●先日、定期健康診断を行ったが、LONG君は片方の目が白濁し見えないでいた。健康診断で眼科医から手術すれば見えるようになる可能性があるとの意見を聞き、早速「子どもの家」のタム医師がフエ中央病院へ連れて行った。手術可能との診断。早期に手術をしたい。
●N君(14歳)サボって学校へは行かない。父親が自宅で面倒みたいと言っているが、生活力はがないので実際上引取りは難しい。引き続く生活態度を見ていく。
●A君(13歳)肝臓が悪いと言って家に戻っているが、本当に病気なのか不明。両親はいない。22歳の姉が家にいるが病院の診断書等を持ってくるように行っているが、持ってこない。次女と3女は「子どもの家」で生活し成績も最優秀である。A君も成績は優秀なのでこのまま家でくすぶっていては、将来が心配。早急に実情を調査し対策を立てる。
●R君(17歳)窓作りの修行に通っている。かなり経験を積んだので親方からお小遣いをもらっている。もらったお小遣いで「お酒」を飲んで「子どもの家」に帰ってくる。時々、飲みすぎて「戻して」いる。寮母さんが注意しても反抗する。
今後、祖母の家に帰り「自立」することも検討。
●P君(少数民族出身)
 オートバイ修理工場で研修しているが、いくら研修しても覚えない。本人は何もやる気はないと平然と言っている。対策(保留)
●T君
 靴作りの研修をしているが、「仮病」を使って
研修にいかない。掃除当番など「子どもの家」での仕事をさぼる。
●P君
高校受験に失敗した。本人は、ファッションデザイナーになりたいと言い、フエ芸術大学付属専門学校への入学を希望している。現在、専門学校入学のための予備校へ通っている。

ーーーーーーー
子どもたちは様々な生い立ちを持っている。
「子どもの家」では、それぞれ一人一人の子どもたちの希望と「個性」「特性」を見つけ、将来の自立=自活が出来るよう指導・支援していく必要がある。こうしたことは、『言うのは易し。行うのは難し』である。コツコツと時間をかけての努力が必要である。その原点は、子どもたちへの愛情。
これがなくなったら「お役所仕事」「官僚主義」に陥ってしまう。いつも自らを戒めて活動を進めなければならない。長期間自分の「モティベーション」を保つのは中々大変なことである。
子どもたちを対象としたボランティアは、一時の活動ではない。時間をかけての取り組みが求められる。その際、どのように自分自身の「意欲」を保ち続けるかが最大の自分自身の課題である。

 午後4時、床屋へ。10年間この床屋に通っている。私の櫛も置いてある。担当の理容師もいる。
散髪の途中で横からポンポンと肩を叩かれた。
LYトゥアティエンフエ省副知事だった。気さくにこうした大衆床屋に副知事が来ている。
散髪の座席は満杯。後ろの方の薄汚い椅子に座って待っていた。理容師もお客も全く副知事に無関心。多分、知らないのだろう。そういえば、何人かの知り合いのフエ人に「知事や市長の名前を知っている?」と聞いたことがある。ほとんどの人が知らなかった。政治や「お偉いさん」は別世界の人々なのだろう。
 1万ドン(100円0)払い、ドンバ市場まで散歩。
 途中、バオミン・ベトナム事務所長と何度となく携帯電話で研修生派遣支援事業での若干の問題について連絡を取り合い、解決の努力。

午後8時、寒河江日本事務所長と2月22日総会で贈呈する感謝状の件でメールのやり取り。

日本では今日「春一番」が吹いたとのこと。ということは、「杉花粉症」の本番。2月19日の帰国が恐ろしい。

山西副代表、ホアン君(ラームさんの弟)、次男耕太で先日急死したハノイの近藤コーポレーションの近藤紘一氏宅(東京日野市)を弔問。

NHK衛星放送では、千葉県幕張メッセを借り切って「2・14バレンタインデー特集」のおちゃらけ番組をやっていた。
 「はなわ」「デンディー坂野」「なんだろうか?の二人組み」のどれが今年も生き残れるかなどと
各地を中継してアンケートをとっている。こんな馬鹿らしい番組をNHKが視聴料を取って海外まで放送している痴態に呆れる。日本とNHKのお粗末さと馬鹿さ加減を世界に報道しているようなもの。
かたや、イラクへ陸海空の3軍がいよいよ揃い踏みで出動。「専守防衛」すらかなぐり捨てて、「人道支援」の名の下に海外進出を強行している。
 戦前の日本軍の中国やアジア侵略の時も「エロ・グロ・ナンセンス」が大流行していた。その裏で、「大東亜共栄圏」を呼号してアジア・太平洋侵略が強行された。「大東亜共栄圏」を「人道支援」に置き換えたら、状況は瓜二つ。歴史は繰り返す。
人間の知性は、「温故知新」の精神を持っている。
日本のマスコミが自衛隊のイラク派兵を全く無批判に「垂れ流し」状態で報道している中で、国民の冷静な目と知性が求められている。

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2004年02月13日

LY君が帰って来た

午前中雨。午後晴天。
午前9時、研修生派遣支援事業で日本へ行く縫製研修生に訪日の諸注意を行う。日越間の習慣の違い等。
(左:訪日縫製研修生に話をする)
(中:突然帰って来たLY君)
(右:LY君と一緒に昼食を摂った研修生LY君LYと食事

 1997年に放映されたテレビ東京「ドキュメンタリー人間劇場」で路上生活をしている所を見つけたLY君であった。当時10歳。LY君は3歳の時から諸事情がありフエの公園で生活していた。
「子どもの家」に入所したが、友達とけんかを繰り返し、なかなか「ヤンチャ」な子どもだった。小学校1年生に入学。
しっかりと勉強し成績も段々良くなって来た。4年間「子どもの家」で生活したが、3年前に突然ホーチミン市へ家出してしまった。「子どもの家」でも色々と心配し探したが、本人はどうしてもホーチミン市にいたいと言って帰ってこなかった。
 3日前、テレビ大阪の取材収録中に突然「寅さん」のように黒いバッグを持って「子どもの家」へ戻って来た。しばらく「子どもの家」で生活し、今後の身の振り方を考えることとなった。
 7年前に「子どもの家」へ連れてきた時はまだ子どもだったが、今や立派な「お兄さん」だ。10年間の活動の重みを感じる。

日本教育公務員弘済会機関紙に1年間「ベトナムの教育事情」を連載する。12回。午後、連載の年間計画を立てる。

午後4時、床屋に行くが、いつもの床屋さんがいないので明日に延期。10年間、この人に散髪してもらっている。既に2ヶ月間、床屋に行っていない。

午後4時半、久しぶりに雨が止んだのでドンバ市場まで散歩。フランス人の観光客がたくさん来ていた。

研修生派遣支援事業で若干のトラブルあり。この数日で解決しなければならない。

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2004年02月12日

読売新聞 障害児支援の視察

朝雨。昼から晴天。
今日は昨夜フエに到着した読売新聞社の障害児支援の現状視察があった。

左(写真:フエ平和村所長との懇談)
中(写真:フエ市人民委員会外務部懇談)
右(写真:「子どもの家」定期健康診断)フエ平和村フエ市人民委員会外務部「子どもの家」健康診断

 午前7時半、センチューリーホテルを出て、
フエ省立盲学校で行われているJASS主催
(ボランティア貯金支援)の定期健康診断の
実際を視察した。
 50数名の盲の子どもたちの年4回の
健康診断を既に7年間も続けている。

 続いて「フエ平和村」を視察。ここは
1994年から私たちが支援をしている
フエ省立の障害児リハビリセンター
である。所長よりJICA支援4年間
のリハビリの実際を視察。
 午前11時、「子どもの家」での
定期健康診断の実際を視察。
 「子どもの家」で子どもたちと一緒に
昼食を摂る。
 午後2時からフエ市立病院で行われている
「フエ市障害児父母の会」の総会に出席。
JICA支援を終了した後、障害児の
父母が集まり「悩み」を語り、リハビリ
の研修などをする場として2002年9月に
創設。50数人の父母と障害児が参加。
「障害児の保育園を作って欲しい」など
様々な意見が出た。
 その後、国際ソロプチミスト東京ー東
創設の「障害児医療センター」副所長の
HIEN先生と懇談。JICA4年間の
総合的な活動と成果などを聞く。
 午後3時半、JICA支援を実際に
行ったフエ市内の生活困難地区のひとつ
「フーハウ地区」診療所を訪問し、
JASS-JICA障害児支援の
ウーハウ地区での実際を聞く。
 午後4時半、ベトナム事務所を
訪問。ベトナム事務所で、JASS
としての障害児支援の歴史と実際、
成果、そして障害児支援を行っている
思いなどを話し合う。
 午後6時半から読売新聞高山氏
とバオミン・ベトナム事務所長と
私で「大衆食堂」へ行き夕食懇談。

投稿者 koyama : 19:44 | コメント (0) | トラックバック

2004年02月11日

ベトナム事務所員会議開催

 晴天。昨日までの寒さが夢のよう。
4日間のテレビ大阪(番組名:ボランティア21)の取材関連の仕事が終わり、今日はやっと通常の生活にもどる。朝食は「フォー」。いつもなら鶏肉が乗ってるのだが、今日は牛肉。
 午前8時半からベトナム事務所で「ベトナム事務所員会議」。テト正月あけにベトナム事務所員全員(ラームさんを除く)が集まった。
(写真:ベトナム事務所員会議の様子)
(写真:もえ子、優子)

ベトナム事務所員会議元気なもえ子優子

もえ子、優子は元気溌剌。若さのせいか? それとも急に暖かくなったせいか、真偽のほどは不明。
 

バオミン・ベトナム事務所長の司会で始まる。

会議の内容は概略以下のよう。
①小山報告
  ・日本事務所会議
  ・研修生派遣支援事業の新たな計画
②HPの新たな発展計画(もえ子)
 ・ベトナム通信は今まで通り掲載する(ミン)
 ・新たにベトナム事務所員が心境や思ったことな  どを掲載するコーナーを作る。1週間に1
  回程度。ベトナム事務所員が順番に執筆する。 (掲載担当はサン)
③日本語の新しい教師をHPで公募している。(も え子)
 2月15日締め切り。
④日本語学校について(文子、優子、サン)
 フエ省観光局からの申し入れで、フエ省観光学校 の生徒に日本語を教えるプロジェクトを
 推進る。
⑤新たなボランティア体験ツアー(もえ子)
 「地球の歩き方」から、連休中などを利用して  「社会人」を対象としてボランティア体験ツアー
 実施の申し入れがある。受けたい。4月29日位 から5月9日位までか?
⑥「子どもの家」の問題(ミン)
 1年前に「子どもの家」を家出しラオスに密出国 した男子が帰ってきた。

午前8時半~午前11時までベトナム事務所員会議が続いた。1ヶ月ぶりにベトナム事務所員に会い皆さん元気なので安心した。

昼食は「チャオ・バン・カン」。(小麦粉の煮込みうどん)

午後3時過ぎからフエ市人民委員会外務部で外務部長と懇談。

午後4時過ぎに「子どもの家」へ。セン運営委員長と懇談。

午後7時15分、フエ空港(フーバイ空港)へ「医療功労賞」担当者の高山氏(読売新聞)を出迎えにもえ子と行く。
午後7時50分、高山氏無事到着。挨拶を交わし、フエ市内のホテルへ案内。ホテルで明日からの障害児等支援の実態視察の打ち合わせを行う。
帰宅午後8時40分。

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2004年02月10日

テレビ大阪取材終了②

38d1e355.JPG写真右(インタビューを受けるフエ師範短大のSON君)
写真左(石橋キャスター兼スポンサー社長の社員の皆さんとの記念写真)ソン君

今日1日で約30通のメーるがあった。夕食後、メールへの返事。
この3日間、ほとんどテレビを見る時間がなかった。ニュースを見ていない。

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テレビ大阪取材終了①

(写真をクリックすると大きくなります) 朝7時、約1ヶ月ぶりにトンチンカンでベトナム事務所日本人4人での朝食を摂った。久々に食べるブンボーは美味しかった。3人とも元気な様子にほっとする。(写真左) 
 朝8時からテレビ大阪取材開始。王宮前。「子どもの家」で石橋キャスターを迎えてのインタビュー等(写真右)。オートバイ修理工場で自立へ向けてオートバイ修理研修に励む子どもたちを取材。
 昼食は、取材団とフエ名物「バインコアイ」(フエ風お好み焼き)を食べる。
 午後1時45分、再度「子どもの家」へ。子どもたちの踊りの練習、コンピュータ教室等取材。
 取材中、3年前に「家出」をしたLY君がホーチミン市から帰ってきた。1997年、LY君はドキュメンタリー人間劇場の取材でチャンティエン橋から「子どもの家」へ連れてきた子だった。現在17歳。4人食事石橋キャスターと

 ホーチミン市で鋳物工場に勤めていたという。弟の誘いもあり「子どもの家」へ戻ってきた。しばらく「子どもの家」にいつこととになった。
 今回の取材にはスポンサー兼キャスターの石橋社長の会社の社員の方30人も視察になってきた。
「子どもの家」での取材などテレビ取材の様子を視察。「子どもの家」で子どもたちと記念写真。
 午後5時過ぎ、すべての取材を終了。明朝ホーチミン市へ。
 テレビ大阪「ボランティア21」として3月初旬に30分番組として放映される予定である。機会があったらご覧頂きたい。
 朝早くから夜遅くまでのテレビ取材は正直相当疲れた。今は、3日間の取材が終わりほっとしている所である。また、明日からの仕事に向けて今日は早めに寝る。

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2004年02月09日

テレビ大阪取材2日目 その2

午後5時半からフエの隠れ名物料理店へ。今日近くの海でとれた蟹、烏賊、魚の専門料理店。どの料理も美味しい。テレビ大阪取材団と私、ミンベトナム事務所長とで海産物料理を堪能する。夕食会1夕食会2

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テレビ大阪取材第2日目

 朝4時半起床。午前6時、ラームさんとフランスパンを頬張りセンチュリーホテルへ。
 今日は「子どもの家」でフエ芸術大学音楽専門学校へ行っているDUOC君の取材。朝7時に学校へ行く所から取材が始まった。
「子どもの家」フエ芸大

 DUOC君は「子どもの家」から音楽専門学校へ雨の中、自転車で通学する。学校では、音楽の授業の様子を取材。DUOC君がオルガンを上手に弾いていた。
 続いて「子どもの家」の卒業生でフエ師範短大のコンピュータ科に通学しているSON君の大学での授業風景、寄宿舎での生活、大学食堂での様子などを取材。
 昼食は、ベトナム事務所員とテレビ大阪取材団と一緒に「チャオバンカン」(小麦煮込みうどん)を食べに行く。
 その足で「子どもの家」への入所を希望している子どもの家へ行く。ミンベトナム事務所長、ロック寮長と一緒に。フエ市内から1時間ほどのフーロック郡にある農村の家庭。父親はいない。母親は3ヶ月に1回位帰宅する。家には93歳の曾祖母がいるのみ。入所希望の子どもは8歳の男子。今日は母親にも帰って来てもらい、自宅で入所手続きをする。
 最後のお別れになると曾祖母も子どもも母親も泣いていた。悲しい別れである。家族で一緒に生活をさせてやりたい。しかし、母親はダナンで住み込みの仕事をしていると言っていたが、会ってみるとどう見ても水商売かそれ以上の仕事をしているように見えた。子どもはほったらかされている状況。母親と曾祖母に任せていては、8歳の男児の将来はない。「子どもの家」で通学させ、しっかりとした生活をさせる必要がる。今回は母も曾祖母も「子どもの家」への入所を強く希望していた。
 曾祖母と母親との別れの時、8歳の男児も別れがつらく泣いていた。私もついもらい泣きしてしまった。こんな時が一番つらい。しかし、目先の辛さに負けては駄目である。8歳の男児の将来を考えると、誰かが男児のために「一肌ぬがなかれば」ならない。「子どもの家」で男児は自立して生きていく可能性を得たのである。私たちの仕事はこうした1人の人間を人間として成長させる仕事である。支援はそのためのものである。支援が目的ではない。
 午後5時半からテレビ大阪取材団と夕食。蟹と烏賊料理の専門店へ。美味しい。
 朝早くからとにかく疲れた1日だった。

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2004年02月08日

テレビ大阪取材開始

 午前6時半、ラームさんと一緒に「フォー」(米のうどん)を食べに行く。いつもの「フォーガー」(鶏肉入りうどん)を頼むが、鶏肉は一切使用禁止とのこと。販売も移動も一切禁止措置が出ていた。道々で警察が鶏肉を運んでいるかチェックしている。ということで、レストラン、大衆食堂のメニューから鶏肉は一切消えていた。
 仕方がないので牛肉入りフォーを食べて、テレビ大阪取材団が泊まっているホテルヘ。「続きを読む」場合は、「ベトナム国内」をクリック。
フォーテレビ大阪1テレビ大阪2

 午前7時、センチュリーホテルでテレビ大阪取材団と合流。テレビ大阪役員、ディレクター、カメラマン、レポーターという陣容。
 その足でフエ最大の「ドンバ市場」へ。市場では鶏肉もましてや生きたニワトリは一切売られていなかった。続いて王宮、フォン川、チャンティエン橋などを撮影し、「子どもの家」へ。子どもたちの様子、昼食などを取材。セン運営委員長、ロック寮長が日曜日にもかかわらず諸準備のため出勤していた。ありがたいことである。
あまりに寒いので毛布に包まって寝ている子どもたちもいた。気温は12度位。
 昼は、取材団と一緒に鍋料理を食べる。
 午後2時から「子どもの家」で絵画教室の取材。
続いて「子どもの家」からフエ芸術大学音楽専門学校へ通っているDUOC君の実家へ。フエ郊外フーバン郡の純農村地帯。実家には78歳の祖母が寒さの中で震えながら1人で生活していた。
 午後5時過ぎに取材を終了。午後6時半からベトナム事務所員と取材団合同の夕食会。

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2004年02月07日

ベトナムに着く

 朝6時自宅を出る。満月が西の空にきれいに見える。寒い。スーツケースを持つ手が凍える。
西台→巣鴨→日暮里と乗り継ぎ、京成スカイライナーで成田空港へ。満月テレビ大阪テレビ大阪

「とりインフルエンザ」の影響で海外旅行へ行く人が減っているとの報道があったが、空港はかなり混雑している。
 搭乗券の手続きを済ませ、両替へ。両替所は長蛇の列。結局、両替に40分ほどかかってしまう。
「子どもの家」への支援金や現地生活費などを米ドルに両替。
 午前9時半にベトナム航空とJAL共同運航便の待合所へ。着いたら直ぐに登場開始。午前10時発なのに。いつもは出発の10分位前から登場開始なのだが、今日はどうしてだろう。ベトナム事務所の西山優子も一緒の便で行くはずなのだがまだいない。
 急いで先日急死したハノイ近藤紘一さんの奥さんに葬儀等の日程を伺おうと電話をするが、不在。
 次男の耕太に連絡を頼む。現地ベトナム事務所では近藤紘一さんに一方ならぬお世話になっている。
私はどうしても通夜か葬儀に出席したかったのだが、2月8日朝からテレビ大阪の現地取材が入っているため、今日フエヘ戻っていなければならない。日本事務所の山西さんに「花輪等」のお願いをしてある。
 10時過ぎにベトナム航空機は離陸。昨夜12時近くまで仕事をしていたので、急に眠気を催す。
 気が付くと1時間ほど寝ている。持っている朝日新聞とベトナム「青年新聞」を読む。朝日新聞には、イラクの日本大使館員がテロの危機を感じてどこかへ「雲隠れ」しているとのこと。日本と同じサマワに軍を展開しているオランダ大使館がテロ攻撃を受けてのことのようだ。大使館員が逃げなければならないイラクの現状。こうした所に自衛隊を派兵し、安全を確保すると詭弁を弄している小泉首相の「改革」のペンキは既にハゲハゲ状態。
 ベトナム共産青年同盟機関紙「青年」は1面、2面で「とりインフルエンザ」の特集。
 午前11時半昼食。軽く缶ビールを1缶飲む。
テープで「テレサテン」「松山千春」を聞く。
 結局6時間20分位かかってホーチミンの「タンソンニャット空港」へ着く。ホーシミン市の気温は32度。うーん、暑い。一昨日までマイナス4度の札幌で雪祭りを見学し、10度の東京で寒さを感じ、一気に20度から30度も気温が上がった32度のホーチミン市へ。
飛行機はほぼ満席に近かった。既にマスクをしている人もいる。ほとんど意味のないマスクだが・・。
 バスで入国管理へ。大勢の日本人が入管まではやって来たが半数程は、その足でカンボジアや他国へ行くための「トランジット」。ベトナム入国者はかなり少ない。私はトップで入管を通過。その足でターンテーブルへ荷物を取りにいく。
 ターンテーブルで西山優子と出会う。3週間ぶり。優子はテト休暇を利用して大学院の入試に臨んだ。大学院入試の状況を聞きながら荷物が出てくるのを待つ。
 荷物は優子と隣り合わせに出てきた。その足で税関の検査。10秒。
 午後3時半。(日本時間午後5時半)
フエ行きの飛行機は午後6時40分。3時間ほど時間がある。
 優子と一緒にタクシーでホーチミン市内へ。優子はアオザイ屋へ。私は行きつけの「インターネットカフェ」へ。そこでこの新火焔樹日記を書いているわけである。午後5時、レックスホテルで優子と待ち合わせをし、再度「タンソンニャット空港」へ。
空港でテレビ大阪「ボランティア21」取材スタッフと合流。
 午後7時40分、フエ空港着。雨。寒い。13度。
今日は朝東京で1度。ホーチミン市で32度、そしてフエで13度と気温の変化に振り回された。
 午後8時半にトンチンカンホテル着。
朝5時起き。とにかく疲れた。明日は6時半にディーンラームさんと合流し、朝食を摂り、午前7時にテレビ大阪の取材チームと一緒に1日行動の予定。

トンチンカンホテルの部屋のメールには248通のメールが入っていた。

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2004年02月06日

日本滞在最終日

 明朝6時発でフエへ戻る。約3週間の日本滞在だった。
 今日は1日忙しく過ごした。北海道から帰ったら途端に「スギ花粉症」発症。病院へ薬をもらいにいく。病院がやたら混んでいる。数時間かかりやっと薬を手に入れる。「杉花粉道」40年のベテランである。
2週間札幌にいる間に「211通」のメールが入っていた。21通のメールを送信する。

 日本滞在3週間。この3週間は後世の歴史家からすると「戦後日本の曲がり角」「日本の戦前・戦中の始まり」との評価が下されるかもしれない。私が一番こだわるのは自衛隊のイラク派兵が「人道支援」と言われていることである。
 自衛隊がサマワで武力行使をしてでも行おうとしている人道支援とは、「給水活動」である。汚れた水を浄水し市民の提供するそうだ。だから人道支援なのだそうだ。しかし、サマワには、浄水場があり破壊されているとのこと。この浄水場を修理し給水できるようにするためには1億円程度のお金がかかるそうだ。自衛隊は、サマワで給水するために、まず基地を作る。基地を作るのに部族長から土地を借りるそうだ。部族の人たちは年間の土地賃貸料を2億円と言っているそうだが、オランダがその100分の一で借りているとのこと。2億円の土地賃貸料を払い、その上自衛隊の駐屯費用が350億円かかる。350億円ものお金をかけて給水しか出来ない支援をするのなら、1億円かけて壊れている浄水場を再建すればよい、という意見が出ている。当然である。自衛隊は浄水場を修復する能力はもっていなそうだ。飽くまで自衛隊がいる間だけ、川の水を飲めるようにするだかである。
 私は、「支援は利権」との考えを持っている。これは、10年間ベトナムで活動をしてみての確信である。支援する方は支援だと思っているが、受けての方は、法外な利権、金儲けの対象なのである。
 イラクと日本の物価の差は100倍程度あるそうだ。日本から100万円もっていけば、現地では1億円の価値となる。自衛隊駐屯地を借りる土地代として2億円もの法外な金額を請求しているサマワの部族のリーダーは、明らかに自衛隊が来る事で「多額の利権が入る」と思っている。サマワの部族長は自衛隊をガードするからとの理由で「100億円」のガード料を請求したとの報道もある。
 人道支援などというのなら、既に海外の民間NGOが始めている浄水場の再建を支援すればいいのである。1億円ですむ。わざわざ自衛隊が行く必要はないのである。
 この3週間の政治の動きを見ていると、はじめに「自衛隊のイラク派兵ありき」なのである。
 憲法、自衛隊法、イラク特別措置法にすら明らかに違反している(これは自民党の加藤・古賀氏や蓑輪元運輸大臣が言っていること)自衛隊の派兵を「人道支援」などと言わないで欲しい。

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2004年02月05日

札幌から東京へ帰る

今日から「札幌雪祭り」が始まる。
昨夜、家族で開会前の大通り公園へ行ってみた。
開会前だが多くの観光客で賑わっていた。ライトアップされた雪像。日ハムの新庄像も登場。家族でアンパンマンの前で記念撮影。

 今日は、昼前に長男宅を出て、札幌カレーを食べる。観光客の札幌人気メニューのNO1は「お寿司など海産物」、NO2は「ラーメン」、NO3は「ジンギスカン」、NO4は「カレー」。その中で実際に食べてみての満足度のトップは「カレー」である。そんな訳で最終日カレー屋に行く。札幌雪祭り新じょうも登場雪祭り会場で家族の記念写真

札幌カレーはスープカレー。私は角煮と野菜カレー。スープの入れ物にご飯を入れて「ぶっかけカレー」にして食べた。しっかりと出汁をとり煮込んであるカレーはこくがあり美味。カレーの辛さも1から4まで。私は2。2でも結構辛い。ベトナム事務所長のミンさんなら迷わず4を頼むと思う。
 2週間の札幌滞在であったが、雪の町であり外出がままならない。結局、美味しいものを食べる「札幌」の旅となった。
 カレーを食した後、優美さん(長男の伴侶)の運転で新千歳空港まで。空港ではな譲との別れ。
 午後2時45分発のJALで羽田へ。到着が遅れ午後4時20分に羽田着。その後、午後5時15分に奨学金支給を検討されている方との懇談が予定されていた。急いでモノレールに乗り東京駅へ。
結局10分ほど遅れ東京駅着。駅には太平観光の北垣会長、そして奨学金支給を検討している大阪の株式会社「シムラ」の志村社長、ユナイテッド投信社長の泉氏と合流。東京駅のレストランでベトナムの事情、JASSが目指しているボランティア(人間を育てる事)などを話す。志村社長は社員などにも呼びかけてフエの子どもたちや学生に奨学金を支給したいとの話だった。
 

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2004年02月04日

はな嬢に友達が・・・・・

昨日は、国際ロソプチミスト帯広ーみどりに電話。長年の支援に感謝の電話。香川の西森さんに研修生派遣事業関連で電話。急死されたハノイの近藤さんの奥さんへお悔やみの電話。
 今日は札幌滞在最終日。昼から再度札幌ビール園へ。
ビール園には明日から開催される「第55回札幌雪祭り」へのお客さんがかなり来ていた。国外からも多くの観光客がいた。かまくら前で全員写真ストリートオルガン横浜の朋ちゃんとはな嬢

2月1日から「かまくら」の中でジンギスカンを食べる催しも行われている。かまくらの前で家族全員で記念写真。
 昨日のハノイ・近藤紘一氏の急逝のショックからなかなか立ち直れないでいる。やはり昨年末急逝したフリー映像の宮内一徳カメラマンも黄泉の世界に行ってしまった。お二人とはベトナムで政治と人を語り、ベトナムを話し、一緒に美味しいベトナム料理を食べ、飲んだものである。こんなにも人の命がはかないものであるとは・・・。
 結局、人は食べて、飲んで、家族との交流の中で生きる事で一生を終わるのである。人間の幸福はお金でも出世でも名誉でもない。健康に食べて飲んで、家族とゴチャゴチャしながら生きている時こそ、一番幸せなのかも知れない。人は悲しい生き物である。一番幸せな時に幸せを感じない動物である。人の命と人生は「一寸先は闇」。生きている間に何か自分で自分の人生に満足するような生き方をしたいものである。などと考えていると急に生きている実存感を確認したくなり、「サッポロビール園」へ家族で出かけ、「幸福感の確認」に行く。
 長男夫婦、孫と一緒に昼食。ビール園の中に昔の「ストリートオルガン」がおいてある。演奏を頼む。
孫のはな嬢が聞いていると横浜から来ていた「朋ちゃん」(3歳)と仲良くなる。しばらく遊ぶ。2歳5ヶ月になると人間関係をつくるようになるのだ。朋ちゃんは、やさしいお兄さんだった。
 夕方日本教育公務員弘済会から電話。4月から弘済会機関誌に1年間「ベトナム教育事情」を掲載する。その打ち合わせ。
 札幌は大雪。
 明日の昼には東京羽田に帰り、午後5時半に大阪からの教育奨学金支援希望者と東京駅で待ち合わせし、打ち合わせの予定。
 ベトナム事務所は2月2日から正規の業務を再開。バオミンベトナム事務所長、福田もえ子副代表以下ベトナム事務所員が当面の仕事の準備に忙しい。
 2月7日から11日までテレビ大阪「ボランティア21」の現地取材があり、その準備。2月12日には、
読売新聞主催、厚生省等後援の「医療功労賞」の現地視察が入る。テト正月もあけ、日本語学校も再開。
 いよいよ2004年度の仕事が始まった。私も今日を最後に「仕事モード」にスイッチを入れ替える。

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2004年02月03日

ハノイの近藤さんが亡くなる

フエのラームさんから携帯にメール。ハノイ近藤コーポレーション社長の近藤紘一さんが2月2日に急逝されたとの連絡。衝撃を受ける。つい先日、電話で話をした。
近藤社長は現在ベトナムに住んでいる日本人では一番古くからハノイに住んでいた方。

1993年に私がフエに住んでからちょっとしたきっかけで知り合い、それ以来「馬が合って」面倒を見ていただいていた。
 まだ60歳。若い。近藤さんのハノイでの「武勇伝」は切りなくある。ハノイで最初に出来た日本料理屋「ラン」の事実上のオーナーでもある。「子どもの家」には毎年数十万円の寄金を頂いていた。また、ハノイのビジネスクラブに「子どもの家」を紹介してくれたりと、心のある方だった。福岡出身の福岡男児。今日、奥さんと電話で話をした。悲しくて涙が出た。人生の悲哀を感じた。生きている間は、充実した生き方をしたいと実感した。近藤紘一氏のご冥福を心からお祈りしたい。

 午後、登別温泉から札幌の長男宅へ帰る。
今日、2月3日は妻の00度目の誕生日。長男の嫁さんが極秘で誕生会を企画してくれた。夕食は妻の00歳の誕生会。孫のはな嬢が「HAPPY BIRTHDAY」を歌う。ケーキのろうそく消し。

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2004年02月02日

登別温泉に行った

2月1日の午後、私たち夫婦、長男夫婦、孫の5人で登別温泉へ療養へ行く。
札幌市内から車で1時間半ほどの近距離にある。
インターネットで検索したら1泊6000円強で泊まれるホテルがあった。
「ホテルゆもと登別」http://www.kurinet.co.jp/yumoto/

2泊したが、食事は美味しいく適量、スタッフは親切、温泉は湯量が豊富で大満足だった。href="http://www.koyamamichio.com/archives/5f2b3249.JPG" target="_blank">孫と浴衣で寝る地獄谷

夕方、長男が発熱。腹痛。急いで薬局へ行き解熱剤、風邪薬を買う。結局、楽しみにしていた夕食は十分堪能するという訳には行かなかった。
 翌朝、長男は仕事があると言ってホテルを出る。
4人で登別温泉の「地獄谷」へ。

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2004年02月01日

桂文治が死んだ・加藤道子が死んだ

桂文治が死んだ。1960年代、桂伸治としてテレビの「お笑いタッグマッチ」という番組に出ていた。春風亭柳昇が死に、今生きているのは、夢楽位か?
文治は落語芸術協会に所属していた。池袋演芸場は落語協会と交互出演をしていたのでよく聞いたものである。
私は文治の語り口調が大好きだった。下町の職人を彷彿させた。段々とこうした本当の噺家が消えていく。悲しい。後に残るのは、積み上げのない一過性「お笑い」芸人のみ。淋しい時代になってきた。

10年前にベトナムへ渡った。日本からの連絡が一切ない中で、一人孤独の毎日を送っていた。とにかく日本語が聞きたかった。唯一つ日本語を聞く手段は、短波放送の「ラジオ日本」だけだった。ザーザーという超雑音の中で、毎週日曜日の夜「日曜名作座」を楽しみに聞いていた。森繁久弥と加藤道子の二人だけのラジオドラマ。
落ち着いた口調の二人の日本語を聞いて日本を懐かしんだものだった。

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