« 2004年02月 | メイン | 2004年04月 »
2004年03月31日
研修生派遣選考試験
午前7時半、研修生派遣支援事業をフエを訪問する「宇都宮縫製共同組合」佐藤理事長を出迎えにフエ空港へ行く。
左(説明する佐藤氏・ミンさん)
中(説明を聞く研修生希望者)
右(ミシン研修試験)
トゥアティエンフエ省立研修生派遣会社と宇都宮の縫製会社「マルサ」との間で行われている縫製研修生派遣事業が行われている。私たちは日本語を教えることで研修生派遣支援事業を行っている。今回は、3回目の研修生選抜が行われた。日本からやってきた佐藤社長が研修生を直接選抜した。
午前9時、70名近くの研修生希望者が集まり、佐藤社長が日本での研修について説明。バオミン・ベトナム事務所長が通訳。その後、実際にどの程度のミシン操作が出来るかを一人一人テストした。
研修生テストには、今後日本語を教える坂本文子先生、橋本美智代先生も朝から最終選考まで参観した。
午後2時から約30名に絞られた研修生候補者に面接。今までの縫製経験など。一定程度の縫製技術を持っていて、現に縫製工場等で仕事をしている経験を日本へ派遣し、日本の進んだ縫製技術、縫製工場の管理体制など学ぶ研修生派遣事業である。派遣の趣旨に合致する研修生を最終選抜。14人の候補者が決まった。午後5時過ぎまで選考が続いた。
午後6時半、トゥアティエンフエ省会社社長・社員、佐藤社長、バオミン・サンさん、私も参加し、夕食交流会を行う。
帰宅午後9時。本当に疲れる。その後、ハノイの日本大使館から緊急に提出を求められている書類を書き上げ送信。
テレビ大阪から「ボランティア21の放送5周年記念特集番組」への出演依頼が来る。役員会の皆さんへ帰国問題について相談。
そんな事情で日記を書くことが出来なかった。
日本語学校関係で若干の問題。もえ子より報告を受ける。
投稿者 koyama : 16:12 | コメント (0) | トラックバック
2004年03月30日
海外青年協力隊員と懇談(3月30日②)
●午前8時30分、セン委員長・ロック寮長とベトナム事務所員スタッフとの定例懇談会。
●午後3時、フエン外務部長と懇談
●午後4時、JICA海外青年協力隊員と懇談
左(セン委員長とロック寮長)
中(セン・ロックさんと打ち合わせ)
右(海外青年協力隊隊員と打ち合わせ)
★午前8時半、定例の「子どもの家」とベトナム事務所の連絡会。セン「子どもの家」委員長、ロック寮長、全ベトナム事務所員、内田さんが参加。
(セン委員長より「子どもの家」の実情報告)
①学校は前期期末試験が終わった。特に高学年は努力し、成績は良かった。一部I君を中心に遊び歩いている状況もあった。今後の課題となっている。
②全体的に女子グループは「子どもの家」のルールをしっかり守り、真面目に生活している。一部、男児グループは「子どもの家」で行っている特別支援教育をサボる傾向がある。
③職業訓練関係は良好に進んでいる。
④「子どもの家」赤旗隊(日本の児童会)は真面目に良く活動している。今後は、問題を起こしているI君を赤旗隊の役員に就任させ、自覚を持たせたい。I君は問題を起こしているが、勉強も良く出来る。絵も上手である。一昨年は神奈川県主催の世界児童がコンクールにベトナムでただ一人入選している。先日は、フエ市主催の「児童絵コンクール」で第1位になった。そうした所を評価し、児童会役員にして自覚を持った生活をさせたい。
⑤P君、T君は中学校をサボり、成績も悪く、先日学校から「退学処分」となってしまった。「子どもの家」とsては、何度もお願いしたが、結局退学となった。更にPH君も入れて、3人を職業訓練コースに入れた。お土産作りの工場で研修をする。
⑥L君は目の病気を持っている。現在オートバイ研修センターにいるが、病院での診断結果でオートバイ研修が無理な場合には、他の研修コースに入れる。
⑦今年は小学校5年生は全員卒業できそう。
中学卒業予定の3人の女子は、成績は優秀だったのに進学への意欲を持たず、職業訓練を希望している。セン委員長としては、最低高校に入った方が良いと指導している。
⑧高校卒業予定者4人
・Mさん(フエ医科大・フエ科学大受験)
・T君(フエ農業大学農業経済学科、土地管理科受験)
・Dさん(フエ師範大・フエ科学大歴史科、フエ師範短大受験)
・Tさん(フエ観光専門学校受験)大学受験も勧めている。
⑨フオンさんの代わりに料理を作っているムオイさんの仮採用期間はいつまでか? また給料はどうなるのか?(仮採用は6ヶ月。その後、他のスタッフと同額の給与とする)
⑩問題のある子どもたち
・N君ー学校へ行かず、「子どもの家」から飛び出し、時々「物乞い」をしている。現在は家に帰り父親と住んでいる。父親はたきぎ拾いで生計を立てている。4月12日午前8時半に筒親とN君が「子どもの家」に来る。ベトナム事務所代表も入り、今後の身の振り方について話し合って欲しい。
・L君ー両親いない。「子どもの家」に入ったが、姉がやってきて、弟は病気だ。家に連れ帰ると言って連れて行ってしまた。ロックさんなどが何度も家に行き、病院へ連れて行くように言っているが、未だに診断書も出さない。姉が一人で家にいるのが、寂しいのかもしれない。今後、引き続き調査がするは。ベトナム事務所の意見を聞きたい。
・B君ー肝炎にかかる。在宅支援に切り替えたい。
・R君ー窓作りの研修に言っているが、ひとり立ちできそだ。退所の方向で検討。
⑪入所希望者
●3人いる。家庭調査に入りたい。ベトナム事務所と一緒に行くことにする。
●クアンチ省から2人の子どもを「子どもの家」に入所させてもらいたいとの要望がある。他の省の子どもたちも入所させて良いか? ベトナム中どこの子どもたちでも入所させる。困っている子どもたちなら誰でもいれたい。
★午後3時、フエ市人民委員会外務部でニエン外務部長、JICA海外青年協力隊員2名と懇談。
ミン・ラームベトナム事務所員も参加。
現在、JICAからフエに8人の海外青年協力隊員は派遣されているが、そのうち、何人かは、適当な仕事がなく、本人もフエ市人民委員会も困っている。(経過上、諸般の事情があるが省略する)
フエ市人民委員会外務部と海外青年協力隊員の希望で今後、1年半、「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校で日本語教えることとなった。身分は、JCAからフエ市人民委員会へ派遣され、フエ市人民委員会よりJASSベトナム事務所(実際には、日本語学校等)へ派遣される形となった。ニエン外務部長立会いの下に、私と海外青年協力隊員と日本語学校の内容、勤務態様などの話し合いを、最終合意を得た。
午後4時、2人の協力隊員がベトナム事務所を訪問。福田副代表、西山・坂本・橋本・サン日本語教師と懇談し、大まかな日本語学校勤務を話し合った。今後、更に仕事内容や勤務時間等を打ち合わせする。基本的には、週4回、JASSベトナム事務所の運営下で「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校の教師をすることになった。今後、ベトナム事務所とも仲良く仕事をしてもらえればありがたい。
投稿者 koyama : 06:30 | コメント (0) | トラックバック
料理のフオンさん「送別会」(3月30日①)
午後6時から「子どもの家」スタッフで料理担当だったフオンさんの定年退職「送別会」。10年間、「子どもの家」に泊り込み「子どもの家」のために3食の食事を作ってくれた。「子どもの家」全スタッフ、ベトナム事務所員全員が参加。
左(送別会の様子)
中(セン委員長より記念品贈呈)
右(日本側美女軍団お祝いの歌)
フオンさん送別会更に続く
左(「子どもの家」スタッフ歌う)
中(フオンさんとベトナム事務所員)
右(全スタッフ記念写真)
送別会には「子どもの家」スタッフ全員とベトナム事務所員全員が参加。ゲストとして日本事務所の内田さんも参加した。
料理のフオンさんは1994年から「子どもの家」に住み込んで料理を作ってくれた。時には子どもたちに厳しく、そして子どもたちに強い愛情を持っていた。「子どもの家」の「肝っ玉母さん」である。10年間と一言で言ってしまえばそれまでだが、この10年間、「子どもの家」でも様々な問題があり、送別会ではその一つ一つのシーンが脳裏によみがえってきた。
「子どもの家」スタッフとしての仕事は終わったが、「子どもの家」やJASSのために誠心誠意努力してくれたフオンさんに対して、今後私たちは出来るだけのことをしたいと思っている。
投稿者 koyama : 05:44 | コメント (0) | トラックバック
2004年03月29日
内田征子さんフエ到着
午前9時、日本事務所の内田征子さんがフエに到着。
左(内田さんと小山)
右(内田さんとトンチンカンで夕食全員)
左(トゥアティエンフエ省観光局長懇談)
中(研修生派遣会社打ち合わせ)
右(ニエン外務部長懇談)
午前8時10分着の予定だった内田さんは、1時間ほど到着が遅れ、午前9時過ぎにホーチミン市からバオミン・ベトナム事務所長経営の「ハンマーホテル」に到着。これから1週間、「子どもの家」やベトナム事務所の支援。トンチンカンホテルで夕食。ベトナム事務所員に様々なお土産を持って来てくれる。
午前9時、トゥアティエンフエ省観光局長と懇談。ミン、ラームベトナム事務所員も同行。
内容は、「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校
でトゥアティエンフエ省観光局・観光学校要請の日本語教育を行う件。
①2年間の日本語ガイド養成コース ②レセプショニスト養成コース(6ヶ月) ③レストラン日本語要員養成コース(6ヶ月)を行うことで最終合意。
日本語ガイド養成コースは7月から。その他は4月から実施。トゥアティエンフエ省観光局公認の日本語学校として、地元の観光産業発展のためにJASSとしても貢献することした。地元の産業の基礎は、「人間を育成」することである。ベトナム政府も地元トゥアティエンフエ省もこれといった産業のないフエを「観光都市」として再生させる政策と方針を持っている。地場産業の発展によって、生活困難な家庭やストリートチルドレンを出さない社会基盤作りの一端を担うことが出来る。こうして私たちの会は地元トゥアティエンフエ省からも大きな信頼を受けて、「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校での各種日本語要員の育成を行うことなった。
午前10時、緊急ベトナム事務所員会議。観光局長との合意内容をベトナム事務所員に伝え、皆さんの意見を聞き、今後の日本語学校運営について協議。日本語学校での具体化は福田副代表を中心に日本語学校教師の皆さんで行うことを確認。
午後3時、トゥアティエンフエ省立研修生派会社社長と懇談。内容は、3月31日から行われる研修生派遣説明会等の最終打ち合わせ。フン社長は昨日、眼科の手術をして退院したばかり。フン社長はベトナム戦争時の解放戦線の「特攻隊長」。右手には銃弾貫通の大きなやけどの傷がある。特攻隊でアメリカ軍に突撃した時に受けた銃弾の破片が目に入ったままだったものを、手術で取り除いたとのこと。ベトナム戦争が終わって29年。未だに戦争の後遺症を引きずっているベトナム人は多い。戦争は終結した時点で終わるものではない。イラク戦争も既に終結宣言をしているが、今後、戦争の後遺症を数十年も引きずることをアメリカは知るべきである。
午後4時、フエ市人民委員会ニエン外務部長と懇談。トゥアティエンフエ省観光局長との懇談内容を伝え、「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校での日本語教育を一層充実させることを確認。
フエ市人民委員会より私が二つの賞を受賞したことを知らされる。一つは、「ベトナム大統領特別表彰」。もう一つは、「トゥアティエンフエ省知事特別表彰」。
「ベトナム大統領特別表彰」は、5年に1回、世界中からベトナムに来て活動しているNGOへ与えられる海外NGO最高の特別表彰である。今回は、5人の個人などが表彰される。私が5人の一人に入っているとのこと。表彰式は首都ハノイで行われる。
もう一つは、地元トゥアティエンフエ省(100万人)の知事より、「10年間地元に多大な貢献をした」ことにたいする表彰である。表彰式は2004年9月に王宮内の「大和殿」で知事より授与される。
今日は朝から寒気がする。最近は気候の変動が激しい。朝から頭痛と体のだるさがあり、1日がちょっと辛かった。夜、のどが痛くなる。風邪の前兆か?
投稿者 koyama : 21:28 | コメント (0) | トラックバック
2004年03月28日
橋本美智代さん歓迎夕食会
午前8時、ドンバ市場
午後、読書。
午後3時、市内散策。
午後6時から橋本美智代さん歓迎夕食会。
左(フエの公園)
中(橋本さん歓迎夕食会)
右(橋本さんとサン日本語担当)a href="http://www.koyamamichio.com/archives/519ce55e.JPG" target="_blank">
この数日、気候の変化が大きい。気温差大。頭痛、倦怠感。
午前8時、ドンバ市場へウオーキング。途中でJICA職員でフエ中央病院改築担当者ご夫妻と立ち話。フエでの生活に苦闘しているとの話、同感。
午後、「ケータイを持ったサル」(正高信男著:中公新書)読了。著者は京都大学霊長類研究所教授。
「歩きながらものを食べる」「電車の中でのべた座り」「車内の化粧」「車内の携帯電話」など若者の『異常現象』をどう考えるかという問題意識で書いた本である。
サルは、仲間と親しくなるための「仲間意識」のことばを持っている。人間は、サルと同様の仲間意識の言葉と「社会的」なことばをもっているとのこと。上記若者の諸現象は、サルと同様の「仲間意識の言葉」のなかだけに生きている。社会的な言葉、つまり、仲間以外に意識を持つということが出来ないことを意味しているとのこと。
車中で化粧をするのも、車中で仲間と大声で話すのも「仲間意識」「仲間ことばの世界」だけに生きている現象だという。引きこもりと車中の化粧は、同根。引きこもりは、仲間意識が自分の部屋だけに限定された現象であり、車中の化粧は、自分の部屋を社会に持ち込んだ現象。その解決には「プチ挫折」が必要と説く。社会的な言葉とは、社会に出て「自立」すること。挫折を恐れる親と子供。出来るだけ挫折をしないように成長する「良い子」こそ問題だと指摘している。著者の意見には傾聴する所大。一読の価値ある書。
午後3時、フエ市内散策。チャンティエン橋近くの公園が整備されていた。10年前には、貧しい人々が「不法住宅」に住んでいた。今は、すっかり整備され花が植えられ、観光都市フエの名に値する公園となっている。10年前、障害児を抱え、ジュースなどの飲み物を売っていた家族はどこへいったのであろうか? 町がきれいに整備されると共に、貧しい家族がどこかへ追いやられる。町がきれいになるたびに、生きた人間がいなくなる。東京の実例が証明している。都市化は、人間を追い出し、無機質な都市を作っていく。六本木ヒルズに行き、その感を強くした。人間が住む場所ではない。
午後6時、新任日本語教師の橋本美智代さんの歓迎夕食会を行う。橋本さんも少し、フエに慣れて来たようだ。ベトナム事務所員全員参加。
六本木ヒルズの回転ドアで6歳の男児が頭を挟まれ死亡した。痛ましいことである。ビルの所有者である森ビルは、開業以来32回もの事故を起こしており、平均すると1週間に1回である。これは事故ではなく、森ビルの無責任体質が起こした殺人事件である。今日のNHKニュースでも取り上げていた。
先日のNHK「プロジェクトX」では、森ビル一族がいかに立派に努力してビル業を起こし、都市開発をしたかを報道していた。この報道が偏っているものであることは、20年以上前に港区にいる友人から森ビルの金儲け第一主義、人間無視、地域無視の金権体質の話を聞いていた。少なくとも報道するのなら、「プロジェクトX」のような「べたほめ」「ご立派路線」の偏った報道はすべきでない。
今回の森ビルの回転ドア32回事故への対応を見ていると「人命」より金儲けという金権体質が如実に現れている。今日、6歳男児の通夜だった。森ビル社長が通夜に参列しようとしたが、遺族に参列を拒まれたという。遺族の気持ちは当然である。単なる事故ではない。殺されたのだ。32回、毎週1回もの事故があったのに対策も立てない森ビルが非難されても仕方がない。
日記読者の方から「誤字脱字が多い」とのご指摘を頂いた。その通りである。今日のように夕食会で飲んだ後に日記を書くときは、ほとんど推敲をしない。一度書いて読み返しはしない。正確には、読み返しの気力がなくなる。時々、誤字脱字となるが、ご勘弁を。
投稿者 koyama : 12:47 | コメント (0) | トラックバック
2004年03月27日
橋本美智代先生初めての授業(27日②)
午後7時から橋本美智代先生が日本語の授業を行った。
左(日本語の授業をする橋本先生)
中(中級クラスの学生)
右(西山優子先生と第1回目の授業)
午後7時からの日本語の授業は「中級クラス」。
西山優子先生の紹介で橋本先生の自己紹介。その後、学生からの質問に答えるコーナー。「先生はベトナム語が話せますか?」から始まり、アメリカで英語を勉強したこと、韓国人に日本語を教えた経験などをゆっくりと学生に話していた。学生は、橋本先生がどんな先生なのか興味津々と言った所で色々と質問をしていた。
これから1年間、体に気をつけて日本語教師を続けてくれることを祈っている。
投稿者 koyama : 22:13 | コメント (0) | トラックバック
フエ にわとり解禁(27日①)
午前中、2通の手紙書き。メール送信等。
午前10時半、ベトナム事務所。東京渋谷の高校の先生「夏目」さんがベトナム事務所訪問の予定であった。午前11時半、ベトナム事務所訪問。
左(夏目先生と「子どもの家」にて)
中(市場で売っているにわとりの卵)
右(生きたにわとりも売っている)
昨日、3月26日は「フエ解放29周年記念日」、「ホーチミン青年同盟」創立73周年記念日でもある。1975年3月26日にフエ市は解放勢力によって「解放」された。私もこれで11回目の「フエ解放記念日」を経験した。20周年、25周年はある程度目だった式典等を行ったが、昨日の「フエ解放記念日」は、全く静かな、市民にはほとんど関係のない日のように見えた。町にスローガンや横断幕が掲げられ、各家庭に「金星紅旗」(国旗)が飾られる位であった。戦後29年。ベトナム戦争も「風化」したことを実感した。
「子どもの家」を訪問した夏目先生は10年間シンガポールで先生をしたいたそうだ。アジアや女性問題に強い興味をもっている先生でもある。
今日は午前10時18分にハノイから列車でフエ駅に到着する予定であったが、列車が遅れベトナム事務所への訪問も遅れた次第である。
バオミン・ベトナム事務所長と私で夏目先生を出迎え、その足で「子どもの家」へ。既に大半の子どもたちは、昼食を終わり、テレビを見ていた。
一部の高校生などが食事をしていた。急いで、夏目先生、バオミンさんと昼食。豚肉と厚揚げの甘辛煮。アヒルの玉子焼き。ミットの唐辛子入りスープ。
既に土曜日の午後なので「児童文化センター」も閉鎖し、スタッフも家へ帰っていた。数人の宿直スタッフが残っている。早速私が「子どもの家」の各部屋などを案内。案内しながら今私たちが目指していることを説明。夏目先生も渋谷の高校で生徒とアジアや貧困、戦争、平和などの問題を勉強しているそうだ。
午後1時半、案内を終わりトンチンカンホテルへ帰宅。
夕方(午後5時)ドンバ市場までウオーキング。
市場には「ニワトリの卵」も「生きたニワトリ」も売られていた。既にトゥアティエンフエ省(人口100万人・省都:フエ市・30万人)では、「ニワトリ安全宣言」が発せられている。
ベトナムで「とりインフルエンザ」で子どもが死んだなどと日本で報道されると、日本人はベトナム全土に「とりインフルエンザ」が蔓延しているように思ってしまう。3月12日、成田からホーチミン市に来たが、飛行機の中、ホーチミン飛行場などで「マスク」をしている日本人旅行客が多数いた。
日本はマスコミが「発達」しているようで実はマスコミに国民が「操られ」「踊らされて」いる社会である。「タマちゃん」が流行ればNHKまでもが連日ニュースで「タマちゃん」、長島監督入院となれば連日全ての局で「長島監督ヨーグルトを食べる」となる。日本のマスコミは真実の報道にはおよそ程遠い現状である。国民はマスコミ報道に振り回され、今日は「タマちゃん」明日は「長島監督」。明後日は「金日正の喜び組」となるのである。昨日、小泉首相の記者会見をテレビ中継で見たが、質問した「記者クラブ」加盟の記者の質問は、あたかも小泉首相が話しやすいようにしてやるための「八百長質問」のようだった。全く権力を批判する気力すら感じられない体たらくの質問ぶりに呆れる。ベトナムはマスコミが「一党独裁」の中で特定の意見しか報道しないが、一般市民は、ベトナムのマスコミ報道を批判的に見ている。けしてマスコミに踊らされることはない。マスコミが「発達」しているから、「世の中の出来事が分かる」というものでもない。最終的には人間の感性である。
投稿者 koyama : 18:13 | コメント (0) | トラックバック
2004年03月26日
日本語学校「初級クラス」卒業式
A7橋本美智代さん、フエ初日の朝食は「ブンボー」。
P3ベトナム事務所で橋本さんとベトナム事務所員の初顔合わせ。
P5「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校卒業式。
左(橋本さん、事務所員と初顔合わせ)
中(日本語学校卒業式。先生へ花束贈呈)
右(卒業生と先生の記念写真)
昨夜午前0時半、トンチンカンホテルに着いた新日本語教師の橋本美智代さん。昨夜はさずがに疲れたようだった。午前7時朝食。5人で。
午前中、メールの返事等。
午後3時、ベトナム事務所で橋本さんを迎えて「初顔あわせ」。ベトナム事務所員全員参加。全員が自己紹介を行い、これから団結して日本語教育を進めることを誓う。私の方からは「一に快食、二に快眠、三、四がなくて、五に快眠」がフエ滞在の鉄則と話す。
午後5時から「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校の「初級クラス」卒業式。今回は33名が卒業する。卒業式は「静岡フエ青年交流会館」で行われた。司会は西山優子日本語教師。
初めにフエ市人民委員会ニエン外務部長の挨拶。続いて、日本語学校校長である私の挨拶があり、卒業証書の授与式となる。ニエン外務部長と私が半分ずつ卒業生に修了証書を手渡す。
卒業生代表のお礼の言葉。卒業生から先生への花束贈呈。坂本文子先生、サン先生の挨拶。最後に全員で記念写真。6ヶ月のコースであるが、卒業生は中々日本語が上手だった。フエへ来る海外観光客の14%が日本人である。卒業生は更に1年間の「中級コース」へ進級するとのこと。こうして日本語を勉強した生徒たちが、今後フエの観光業を担う人材となることを祈る。
坂本文子さん、サンさん、西山優子さん、福田もえ子副代表の努力に改めて感謝する。
午後7時、2004年度ボランティア貯金申請書について、郵政公社から寄せられた9点にわたる質問への回答状を書く。約2時間ほどかけて「懇切丁寧」な回答書を書き山西副代表に送る。
「久米宏のニュ-スステーション」が4795回目の今日、最終回を迎えたとのこと。
私も2回ニュースステーションに出演している。
1回目は1995年、2回目は2000年。
それぞれ10分程ではあったが、それでも反響は大きかった。1回目の放送の後、その夜だけで200件以上の問い合わせがあった。拙著「火炎樹の花」も久米宏さんや女性の渡辺さんにも読んで頂いた。2回目の出演の際、久米さんが拙著「火炎樹の花」を紹介してくてる手はずになっていたのだが、北朝鮮の潜水艦事件があり、久米さんのコメントの時間がなくなり、拙著の紹介はカットされてしまった。
たった10分程度の放送ではあるが、取材には1週間以上もかかり、打ち合わせなどを入れると相当の時間を費やした。ニュースステーションの取材を通して、テレビの見方が変わった。また、2回の出演で当時のテレビ朝日ベトナム支局長の北村元さんと知り合いになり、今でもお付き合いをしている。また、2回目の出演で現在もテレビ朝日のディレクターをしているA氏と知り合い、先日も新たな番組を作ろうとの話し合いをもっている。
18年間、ご苦労様でした。
投稿者 koyama : 23:08 | コメント (0) | トラックバック
2004年03月25日
新日本語教師橋本さんフエ到着
午前9時、ニエン外務部長と懇談
午後3時、ベトナム人日本語学校教師面接
午前0時半、橋本さん(日本語教師)フエ着
左(フエ市人民委員会外務部長と懇談)
中(ベトナム人日本語教師面接)
右(橋本美智代さんトンチンカン着)
午前9時、フエ市人民委員会外務部でニエン外務部長と懇談。バオミン・ベトナム事務所長、ラームベトナム事務所員も同席。日本語学校の改革、運営等詳細の打ち合わせを行う。来週、トゥアティエンフエ省観光局長との懇談も予定されている。
現在、日本語学校の新しいベトナム人教師を募集している。Hさんが応募。午後3時、ベトナム事務所で面接。福田副代表、ミン、ラーム、サン、優子、文子の各ベトナム事務所が参加。Hさんは、現在日本語ガイドを行っている。日本語もなかなか上手だった。現在、サン・ベトナム事務所員が「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校教師をしているが、現在進めている日本語学校改革に伴い、更に1名のベトナム人教師が必要となった。今日の面接を踏まえて、来週中旬に結果を本人に通告する。
先日ベトナム事務所員会議で「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校の改革案が了承され、現在、ベトナムの「子どもの家」を支える会会則に従い、役員会(代表、副代表、日越事務所長)での了承手続きに入っている。
午後9時半、「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校の新しい日本語教師となる大阪出身の橋本さんがフエに到着する予定だったが、フエ空港の上空の天候が悪化し着陸不能となり、ダナン空港着。ダナン空港からバスでハイバン峠を越えて3時間。3月26日午前0時半、無事フエ到着。長時間の旅、お疲れ様でした。これから1年間、「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校の教師として活動する予定であるが、フエ到着初日からトラブルに巻き込まれてしまった。ベトナムの現実を象徴するフエ到着初日である。いずれにしろ、健康に気をつけて、フエでのボランティア日本語教師の仕事を勤めることを祈っている。
投稿者 koyama : 21:57 | コメント (0) | トラックバック
2004年03月24日
小澤征爾・大江健三郎対談
午前9時、トゥアティエンフエ省観光局長との懇談だったが、事情で延期。
午前9時半、緒方萌さんと1時間ほど進路・人生などを話す。
昼寝をせず、「同じ年に生まれてー小澤征爾・大江健三郎ー音楽、文学が僕らをつくった」(中公文庫)を読む。
左(同じ年に生まれて)
右(地球の歩き方ツアー参加のO君)
先日「地球の歩き方ボランティア体験ツアー」でフエを訪問した東京のO君からお礼のメールと写真が送られてきた。年間500人から1000人近くの訪問者を受け入れているが、こうしてお礼を言ってくれる訪問者は必ずしも多くはない。今時の若者と言っては失礼だが、なかなか礼儀のしっかりした学生さんではある。
『小山先生 他、ベトナム事務所スタッフの皆様
今回「地球の歩き方」に参加したOです。覚えておられますでしょうか?
一昨日帰国し、今は普段の生活に戻っております。
ベトナム・フエ滞在の際には大変お世話になりました。
特に小山先生の考え方、姿勢は僕の価値観を大いに揺さぶるものであり、大変考えさせられることの多いものでした。
以前から「ボランティア」と言うものには興味があったのですが、何をすればいいのか分からず、漠然としたまま時間だけが過ぎていました。しかし、今回のベトナム訪問を経て、多少なりとも自分のできる事が見えてきた気がします。このツアーを単なる「体験」に終わらせず、次へのステップとして役立てたいと考えています。機会あればまた、「子供の家」を訪れたいです。次はしっかりとベトナム語を学んでから・・・。僕のカメラで撮った写真を一枚添付いたします。もしよろしければ、写ってる子供達にも見せてあげていただければと思います。最後にもう一度、本当に有難うございました。短いですが、失礼いたします』
こうして一人でもアジア、ベトナム、「子どもの家」での体験で何かを感じてくれれば私たちとしては、本当に嬉しい限りである。O君に感謝。(写真等使用はO君の了解済み)
3月12日にフエへ戻り、毎日訪問者への対応が続き忙しかった。久しぶりに訪問者もない1日だった。
昨夜、目が覚めて読み始め、面白いので今日一気に読んでしまった。小澤征爾と大江健三郎は1935年生まれである。ということは、1945年の敗戦時10歳(小学校4年か5年である)。小澤は中国の奉天で生まれ、大江は愛媛県で生まれている。
この対談は2000年8月と12月に行われた。
対談時には65歳。この世代は、軍国主義の戦争と戦後の民主主義との両極の価値観を体験し、国家というものの本質を体験的に理解している世代でもある。文学と音楽という体験を通して、二人が行き着く先は、21世紀論である。二人の共通した21世紀人間論は、大江が代弁して「インスティトューション(組織)ではなく個、しかも新しい個、個として責任の取れる人、個として誇りの持っている人が多く出ること」を期待している。
二人は、戦争と戦後の体験を通して、国家という幻影を体験し、最終的には「個」の確立、自立した個に辿りついている。組織に縛られない個人、同時に責任をもって行動できる個人。ボランティアやNGOを通してこうした若者が多く育ってきているように思える。
戦後59年。日本の組織、会社、政党、組合などあらゆる組織は「金属疲労」を呈している。組織にしばられ、自分の意見や考えで行動出来ない社会が日本に出来上がってしまっている。今、日本社会、あるいは世界そのものが大きな転換点に立っている。こうした時に一番私たちに求められるのは、一人一人の人間が自分を持つことである。自分の目で見て身分の体で確かめた自分の意見、自分そのものである。組織や会社などに頼らずに生きていける自立した個人こそ21世紀の世界の人間に求められているものではないだろうか?
O君をはじめ、「子どもの家」などを訪問し、ボランティア体験をした若者が、「人の受け売り」ではなく、自分の目と体で確かめた体験・行動を基礎に自分という「個」ををもってもらえれば、私たちが多少なりともお世話をした甲斐があるというものである。
投稿者 koyama : 21:43 | コメント (0) | トラックバック
2004年03月23日
ベトナム事務所員会議
午前8時、ベトナム事務所に2人の大学生がやって来た。仙台から。3月10日に放送されたテレビ大阪「ボランティア21」を見ての来訪。
午前8時過ぎ、ベトナム事務所員会議。
午後3時、セン「子どもの家」運営委員長と懇談
左(2人のベトナム事務所来訪大学生)
中(ベトナム事務所員会議)
右(セン「子どもの家」委員長と懇談)
午後7時、「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校中級コースを視察参観。
左(坂本文子先生)
中(日本語学校中級コース)
右(子どもの家卒業生ハン・タンさん)
午前8時過ぎ、ベトナム事務所員会議。
●主な議題は、日本語学校の改編問題。現在、行われている「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校の内容を若干縮小し、トゥアティエンフエ省付属観光局より依頼されている①日本語ガイド養成コース②レセプショニスト養成コース ③レストラン日本語要員養成コース(②③は今後の話し合い次第)の開設について。関連する様々な問題があり、日本語学校担当の福田もえ子副代表、西山・坂本日本語教師の意見も聞きながら意思統一。こうして新しいことへの挑戦はいつものことではあるが、大変なエネルギーを要する。今後トゥアティエンフエ省観光局長、トゥアティエンフエ省付属観光学校長などとの懇談・打ち合わせ。フエ市人民委員会との打ち合わせ、新規にベトナム人日本語教師の採用、各コースに見合ったカリキュラムの作成、新規日本人教師の手配と配置など多くの準備が必要である。この11年間、私がフエで行ってきたのは、こうした新しい道への挑戦である。現状維持が一番楽である。新しいことへの挑戦は、どんな小さなことでもやってみると大変なことである。私たちベトナム事務所が今フエで行おうとしている日本語学校改編諸準備は、どこの学校をまねることも出来ない課題である。自分たちの目と頭を使い、自分たち自身で作りあげてく作業である。
●3月25日(木)午後8時50分にフエ着の新しい日本語学校の先生である橋本美智代さんの受け入れ諸準備の打ち合わせ。机、パソコン、仕事内容の説明担当、各級機関への紹介担当など。
●当面の訪問者への対応・分担
午後3時、バオミン・ベトナム事務所長と共に「子どもの家」へ。セン運営委員長と懇談打ち合わせ。
午後4時過ぎ、ベトナム事務所で緒方萌さんと大学進学問題で話し合う。
午後7時過ぎ、「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校中級コースの授業を参観。坂本文子先生の指導で授業は進んでいた。昨年4月に初級を開始し、昨年10月から1年間の中級コースに入っている。
生徒の中には、11年前のチーラン通り「子どもの家」から一緒だったハンさん、タンさん姉妹もいる。あれから11年。二人とも刺繍を勉強し、しっかりとした大人に成長した。こうした日本語を勉強している所を見ることはJASS活動の一つの到達点としての記念碑的な意味もあるように思う。
「続 昭和史のおんな」(澤地久枝著:文春文庫)
読了。池袋西口JR構内地下に小さな「古本屋コーナー」がある。1冊100円で叩き売りのように本がおいてあった。その中に上記の本があった。1986年発行。一読の価値のある本だ。
特に「アジア太平洋戦争」で夫を戦地に奪われた妻の記録は圧巻だった。戦後、海外から引き上げてきた日本人は660万人を超す。その中には、我が家も入っている。1950年時点で34万人の兵士などが未帰還となっている。つまり、一銭五厘の「召集令状」で強制的に海外へ送られ死亡したかどうかも不明な人たちである。その多くが日本に妻や子どもたちを残して「徴兵された」兵士だ。1960年、厚生省(当時)は、「戦時死亡宣告申し立ての促進」という通達を出し、海外へ兵隊に取られ未帰還者となった兵士などに「死亡宣告」をするよう促している。1961年、「死亡宣告該当者予定者」とされた留守家庭4000件が「死亡宣告」を拒否し、夫、父親の帰国を待っていたという。
小林多喜二の地下活動を支えて女性たちの記録もある。
岩田義道は34歳で警視庁に捕まり、拷問で虐殺。遺体は口のまわりに6つの釘の痕があり血が滲んでいた。小林多喜二も築地警察署に捕まり拷問によって虐殺。拷問で睾丸が裂け、門歯が2本折られ、のど仏が折れていた。二人とも「戦争反対」を叫んでの拷問虐殺である。
今、私たちは「戦争反対」を叫んでも虐殺されることはない。声を上げるときである。小林多喜二や岩田義道のような時代にならないうちに・・・。
投稿者 koyama : 19:22 | コメント (0) | トラックバック
2004年03月22日
THUYさんベトナム事務所訪問
午前8時、2人の大学生がベトナム事務所を訪問。2時間ほど話す。午前10時、もえ子と日本語学校運営などについて協議。午前11時、5年前、父親に連れられてホーチミン市へ行ってしまったTHUYさんがベトナム事務所を訪ねてくる。
左(大学生の訪問者)
中(THUYさん)
右(THUYさんとTHAOさん)
THUY(トゥーイ)さんはフジテレビ「原田大二郎親子ベトナムを行く」でも紹介された。ホーチミン市にいるお父さんがTHUYさんに会いに来た。THUYさんは別れ際にお父さんに自分の指輪を渡し帰りのバス代にするように言った。
5年前、そのお父さんに呼ばれホーチミン市に行った。しかし、ホーチミン市では不法建築の家に住んでいたTHUYさんの親子は、市の強制撤去で家を追わればらばらとなってしまったそうだ。
その後は、言うにいえない苦労を重ね、昨年、ハノイの料理研修所入り、フランス料理を勉強。
5年ぶりにフエに戻ってきた。10年前に「子どもの家」が出来たときからTHUYさんは「子どもの家」に入っていた。当時10歳の子どもたちだったが、今は20歳。大人になっていた。THUYさんは、フエでレストランのウエートレスをしているとのこと。フエに一人で住んで自立して生活したいと言っていた。ベトナム事務所としても自立に向けた援助をして行こうと思っている。10年間の歳月は、やはり長いものである。10歳の少女が大人になり、自立して生活する姿を見ることが出来る歳月でもある。「子どもの家」へ入ったTHAOさんとTHUYさんは仲の良い友達である。
THUYさんに日本の中野亜里先生の手紙を渡す。
中野亜里先生は、12年前に私にベトナ語を教えてくれた先生でもあり、「子どもの家」での活動を暖かい目で見守ってくれている恩人でもある。また、どうした経過かは分からないが、入所直後から中野亜里先生とTHUYさんは気があったようで、先生が「子どもの家」を訪問する度にTHUYさんと交流し励ましてくれていた。5年前に「子どもの家」を出てホーチミン市に行ったTHUYさんを中野先生はホーチミン市の住所まで探しに行ってくれた。しかし、言われた住所にはいなかった。その後も度々中野先生はTHUYさんのことを気にかけてくれていた。今日、5年振りにベトナム事務所でTHUYさんに会うことが出来て、私たちもほっとしたのと同時に嬉しい思い出一杯である。今後もTHUYさんの人生を見守り続けて行きたいと念願している。改めてTHUYさんを気遣ってくれた中野先生にお礼申し上げたい。
イスラム組織ハマスの精神的指導者のアハメド・ヤシン師がイスラエル軍のミサイル攻撃で殺害さた。
ヤシン師の殺害について欧州連合(EU)外相理事会は以下のようなイスラエル批判の声明を発表した。
「国際法に反する殺害であるばかりでなく、反テロの戦いの重要な要素である法の支配の考えを傷つけるものだ」。
ストロー英外相は「このような不法な殺害を犯す権利をイスラエルは持たない。受け入れがたい」と語った。フランスのドビルパン外相は「中東和平の再建に努めるべき時なのに、このような行為は暴力の連鎖を招くだけだ」と述べた。
EUのソラナ上級代表(外交・安全保障担当)も「この殺人による建設的な貢献は一切ない。和平プロセスにとって、最悪のニュースだ」と語っているそうだ。
こうして国際世論はイスラエルの「国家テロ」を厳しく批判している。所が我が小泉首相は22日夜、「暴力の連鎖、憎しみの連鎖を早く断ち切らないとね。お互い自制心を持って平和的解決に向けて努力していただきたい」と述べたそうだ。何をのんびりしたことを言っているのか? 貴方は「テロとの闘い」のために自衛隊をイラクへ派遣し、テロとの闘いを声高に叫んでいたではないか?
今、目の前で明らかに国際法にも違反してイスラエルが「国家テロ」を行っているのに、「お互い自制心をもって」などとボケたことを言っているのだろうか?
小泉首相の「テロとの闘い」が全くのウソだったことが明確な形で露呈してしまった。イラク侵略を強行したイギリスの外相ですら「このような不法な殺害を犯す権利をイスラエルは持たない。受け入れがたい」といっているのに・・・・。口先男の無責任な首相が馬鹿なのか、馬鹿首相を支持している日本国民が馬鹿なのか? アメリカの支持しているイスラエルの「テロ」は非難できない情けない我が首相ではある。
投稿者 koyama : 19:07 | コメント (0) | トラックバック
2004年03月21日
ハンベトナム事務所員産休復帰晩餐会
午前6時半、K大学「子どもの家」視察団を送ってフエ空港へ。
左(ハン京都緒方・ラーム)
中(もえ子・ラーム・緒方)
右(優子・小山・サン)
K大学の二人の先生方もフエでの超過密なスケジュールを終えて無事ホーチミン市へいかれた。
下(緒方萌さんカエルの姿揚げを食す
午前8時、K大学のお二人をフエ空港へお見送し、その足でドンバ市場へ。チャーゾー(豚肉のソーセージ)を買い、入浴後食事。
午後、多くのメールへの返事。
午後6時、ベトナム事務所のハンさんが産休4ヶ月があけて復職。今夜はハンさんの事務所復職をお祝いする晩餐会を開催。ハンさん、もえ子、ミンさん、ラームさん、優子、文子、サンさん、京都の緒方萌さん、私とベトナム事務所員全員が参加。昨夜遅く、フエに戻ったもえ子も参加。文子は体調を崩していたが、何とか晩餐会に参加。
ハンさんの健康を記念し、育児と仕事が両立するよう私たちも努力することを表明。こらからもベトナム事務所員が一丸となって子どもたちのために頑張ろうとと話し合い、カエルの姿揚げを食べる。私は苦手なので遠慮。
投稿者 koyama : 22:07 | コメント (0) | トラックバック
2004年03月20日
アメリカのイラク侵略戦争1周年をベトナムで考える
午前8時、ベトナム事務所へ。事務所前にリー君と母親が待っていた。しばらく話し合う。
左(リー君と母親)
中(茨城大学の学生と伊藤先生)
右(K大学、フエ高等師範大学視察)
午前8時過ぎ、茨城大学伊藤先生と生徒さん17人がベトナム事務所を訪問。西山優子ベトナム事務所員が対応・案内。午前中、市場へ買い物。昼食を作り一緒に食べる。私は伊藤先生、学生さんに簡単に挨拶。その足で「ハンマーホテル」へ。K大学の先生、ラームさんと一緒にフエ市近郊の農村地帯へホームステー先視察。車で30分。3軒程の農家を視察。K大学の学生がホームステーすることが出来るかどうかのチェック。ある農家を視察すると農家で「焼酎」を蒸留していた。
細い管から出るまだ暖かいもち米から出来た焼酎を一杯頂く。甘く、もち米の匂いのする焼酎は何ともいえない「こく」のあるものだった。するめを焼いておつまみにして飲んだら最高。
午前10時、フエ高等師範大学訪問。音楽学科の授業参観。生徒がフエ伝統の歌謡を歌ってくれる。
午前11時過ぎ、2人の先生、ラームさんと「フォーサイゴン」という店でフォーを食べる。
午後2時、グエンフエ高校視察。午後3時半、ヤーホイ高校視察。午後5時、フエ市人民委員会外務部訪問。K大学のフエでの交流活動への協力を依頼。
午後6時夕食。坂本文子と。文子は、体調を崩し寝ている。熱もほぼ下がり、今夜は食堂で「おかゆ」を食べられるまでになった。午後8時45分、福田もえ子副代表が日本での一時休暇が終わりトンチンカンに戻る。3月20日付けの朝日新聞、最高品質の乾麺「ナンバーワンうどん」(日清製粉)をお土産にもらう。社説を読むが、「イラク戦争1周年」には触れていない。この新聞の姿勢が分かるというものだ。
今日、米英軍がイラク侵略を開始して1年目を迎えた。世界中で行われている「3・20平和行動」に連帯し、フエで「米英軍、自衛隊は直ちにイラクから出て行け」と一人部屋で叫んでいる。「テロとの闘い」「大量破壊兵器をなくす」と呼号して開始したイラク侵略戦争は1年を経て、第1に「世界中にテロを拡散」したこと、第2に「侵略の口実となった大量破壊兵器がなかった」こと、従って米英軍のイラク侵略戦争の大義さえなくなったことが明白となった。日本もいまや「イラクでのテロ」を心配するだけでなく、「日本国内」でのテロを心配せざるを得なくなった。小泉首相は昨年10月から「日本国内でのテロ」に備えて「外遊」が出来なくなっている。日本外交にも重大な支障を来たしているという。かえって小泉首相が下手に外交などしない方がいいと穿った見方もあるが。
既に米英軍の忠実な「部下」だったスペインのアスナール政権が崩壊し、新政権の社会労働党は、イラク戦争は間違いだったとして、イラクからの撤退を表明。スペインに次ぐ忠実な部下だったポーランドも「ブッシュ大統領に騙された」として、イラクからの撤兵を表明している。残されたのは、わが小泉首相である。この間、国会をはじめ「論議の場」での論議をきちんとしていない。「意見の相違」「見解の違い」「立場の違い」を連発し、真っ当な論議をしないまま、自衛隊をイラクへ派兵してしまった。
先日「ベトナム症候群」(松岡完著:中公新書)という本を読んだが、アメリカ市民は、ベトナム戦争敗戦の体験から、「米軍の死者」がでるようになると戦争そのものを忌避する傾向があるという。歴代の米大統領は、「ベトナム戦争症候群」に拘束され、湾岸戦争、イラク戦争と地上戦を出来るだけ回避し、「空爆」にたより、米軍の死者を出さないような作戦しかできなくなっているという。
米軍のイラク侵略戦争から1年。戦争終結宣言以降の米軍の死者は「戦前」を遥かに越えている。
アメリカ市民は既に「ベトナム戦争症候群」の発病を来たしている。市民の過半数がブッシュ大統領のイラク戦争に懐疑的な意見を持っている。
アメリカは、30年前のベトナム戦争での教訓を何も学ばないままに、再び「泥沼」のイラク侵略戦争にはまりこんでしまっている。今やアメリカ軍は、イラク人を見たら「テロリスト」と思い疑心暗鬼となっている。ベトナム戦争中「ベトナム人を見れば、ベトコン」と思い虐殺していた歴史を思い出すべきである。ベトナム戦争では、アメリカを支持していた南ベトナム市民でさえ、解放戦線の隠れ兵士と思い込み虐殺を繰り返し、結局、多くのベトナム市民を「敵に回して」闘わざるをえない結果となった。「解放戦線はどこにいるかわからない」「いつ、どこから攻撃されるか分からない」恐怖との闘いにアメリカ軍は疲弊したのである。市民から見放された軍隊を「侵略軍」という。
今、イラクでの戦争はまさにそうした傾向を帯びてきている。アメリカ軍の垂れ流す「大本営発表」では、殺害されたイラク人やイスラム系の人間は全て「テロリスト」である。ブレーキが利かずに米軍のストップ命令に従わなかったイラク市民を虐殺し、アラブ系報道機関の記者を虐殺し、と繰り返し一般市民の虐殺に手を染めている。既に米英軍に殺されたイラクの人々は1万人を超えるという。イラクでもベトナムと同様米英軍は「市民から見放された軍隊」と化している。もはやアメリカ自身もイラク戦争に手を焼き始めている。
こうした中で最も忠実な下僕は我が小泉首相である。未だに世界で最も忠実な下僕としてブッシュ大統領に「色目」を使い、「心中」を図ろうとしている。私たち国民や自衛隊員はたまったものではない。
イラクを侵略し、占領を継続している米英軍は直ちに撤退し、同時に自衛隊も即時撤退すべきである。国連主導での問題解決に委ねるべき時が来た。11月の大統領選挙でブッシュが敗北し、イラク戦争反対を掲げているケリーが当選したら、小泉首相はさっさと元「恋人」を切捨て新恋人「ケリーさん」にしな垂れていくのだろうか? 無節操なのが小泉首相の真骨頂ではあるが・・・。
投稿者 koyama : 19:45 | コメント (0) | トラックバック
2004年03月19日
山岳少数民族訪問交流
午前8時半、K大学の先生方とベトナム事務所へ。刺繍みやげ物店視察。京都からきた緒方萌さんより衣類の支援物資を頂く。
午前9時半、K大学の先生、緒方萌さん、サンさん、私の5人でナムドン郡の山岳少数民族の村を訪問。
左(緒方萌さんより衣類の支援物資寄贈)
中(少数民族の家で交流する緒方さん)
右(少数民族に歌を披露する緒方さん)
フエ市内から車で2時間。山岳地帯を越えると「ナムドン郡」の中心部へ到着する。午前11時半、中心部の食堂で早めの昼食。
12時過ぎに中心部を出て更に山岳の奥へ30分。
「HUONG HU村」(人口353人)に到着。
既に村人は歓迎の準備をしている。この村は、カトゥー族の村である。民族衣装で着飾った村人たちの招きで高床式の村集会所へ入る。集会場では既に歓迎のご馳走が用意されていた。バナナ、キャッサバのいも、もち米のお菓子のようなもの、キャッサバ酒、サトウキビなど。
しばらく集会所の中で村人たちと車座を作り懇談。カトゥー族は独自のカトゥー語で話すが、子どもたちや若者は学校でベトナム語を習っている。
若者を通訳にしベトナム語→カトゥー語→ベトナム語と話をしていく。年齢、家族構成などを話し合う。私の車座にいた方は地元「HUONG HU小学校」の校長先生。校長先生は15歳まで6年間中国にいたそうだ。
懇談の後、カトゥー族の皆さんによる歌と踊りの歓迎を受ける。子どもたちから老人まで歌ったり踊ったりの歓迎。
今日は金曜日だが、353人の村人のほとんど全員が集まっていた。少数民族の生活は、農業を基本にしている。こうしていつも家族と村人が一緒に生活をし、喜びも悲しみも共有している。
お返しの日本側の歌を披露。その後、カトゥー族の踊りの輪に日本人も入り、踊りを通して友好交流を深める。
少数民族を「貧しい」と一色に塗ってしまい、「支援の対象」としか考えない海外ボランティア団体の根本的な間違いは、少数民族の「幸福感」は「先進国」の何倍もあるという事実をしらないことでる。いつも家族と一緒に生活し、村人と共に暮らし、喜びも悲しみも人間として常に共有できる生活の中でこそ、人間の幸福感は増幅する。先進資本主義国の人間関係の希薄さは驚くべきほどに深刻である。物は豊かでも「心の幸福感の欠乏」は甚だしい。少数民族の村を訪問するたびに、彼等から学ばなければならないのは、「先進国」などど気取っている我々である。交流会が終わり、帰る時も少数民族の人たちは最後まで心から別れを惜しんでくれた。午後5時、フエに到着。
それにしても疲れた一日ではあった。京都から昨夜フエにやって来た高校を卒業したばかりの緒方萌さんも参加したが、どんな印象をもったのであろうか?興味のあるところである。
投稿者 koyama : 19:35 | コメント (0) | トラックバック
2004年03月18日
K大学視察、地球の歩き方ツアー5日目
K大学視察。朝、「子どもの家」から近くの市場へ子どもたちと一緒に食材買い物。昼食作り。途中、オートバイ修理工場視察。午前11時半、「子どもの家」で子どもたちと昼食。
左(K大タイロック市場で買い物)
中(地球の歩き方・リハビリセンター)
右(京都緒方萌さんフエ到着)
午後2時、地球の歩き方ツアーとベトナム中部唯一のリハビリセンターである「フエ平和村」視察。
フエ平和村所長から活動概略をの説明を受け、質疑応答。その後、リハビリの現場を視察し、障害児と交流。
午後3時半、フエ中央病院小児科視察。副医長の医療活動の説明の後、小児病院を視察。
午後10時、京都の緒方萌さんがフエに到着。西山優子が空港まで出迎えに行く。飛行機の到着が30分以上遅れる。緒方萌さんは、3月1日に高校を卒業し、一人で「子どもの家」でのボランティア体験をしたいとやって来た。中々、しっかりとしたお嬢さんである。日本からの空の旅も特別問題もなく元気にフエに到着。私も一安心。バオミン・ベトナム事務所長の「ハンマーホテル」に着いたのが午後10時ちょっと前。ホテルで記念写真。西山優子ベトナム事務所員、バオミン・ベトナム事務所長、小山、ソン「子どもの家」卒業生がホテルで出迎え。明日は、K大学の先生方、私、サンベトナム事務所員、緒方さんの5人でフエから車で2時間程の山岳少数民族の村を訪問の予定。
投稿者 koyama : 22:00 | コメント (0) | トラックバック
2004年03月17日
K大学「子どもの家」視察団
午前中、ボランティア貯金申請書の書き直し。
12通のメールへの返事。
午後12時過ぎ、ベトナム事務所員のサンさんと一緒にフエ空港へ。
左(K大学、子どもの家視察団、フエ空港
中(地球の歩き方ツアー子どもと交流)
右(地球の歩き方ツアー日本語を教える)
K大学は来年の2月頃を目処に大学として「子どもの家」を中心にフエへ学生を派遣し、ボランティア体験を行う計画である。今日はその視察のため2人の先生方が来られた。フエ空港へ出迎え。
空港から「ハンマーホテル」(バオミンベトナム事務所長のホテル)へ直行。「ハンマーホテル」は今年の2月に新築された20人収容の立派なホテル。
バスタブもお湯がふんだんに出る。近日中にNHK,CNNなどの衛星放送も入る予定。フエに来られる方は格安の「ハンマーホテル」へ是非どうぞ。
TWINで1室朝食付きで25ドルから30ドル。
連絡先は koyamavn@dng.vnn.vn まで。
午後3時、両先生と「子どもの家」を視察。地球の歩き方ツアーの学生の皆さんが、子どもたちと音楽、絵画、日本語などを通して交流している様子を視察。午後5時過ぎ、静岡ーフエ青年交流会館付属日本語学校を視察。坂本文子先生が初級の学生に日本語を教えている。
午後6時から両先生、サンベトナム事務所員と共に夕食。睡眠不足のためかなり疲れ気味。「子どもの家」で1時間ほど休む。
投稿者 koyama : 21:38 | コメント (0) | トラックバック
2004年03月16日
地球の歩き方ボランティア体験ツアー3日目
午前8時15分、地球の歩き方ツアーのホテルへ。静岡ーフエ青年交流会館でベトナム語講座。今日の先生は、坂本文子、サン先生。日本語学校中級の生徒も6人参加し、ベトナム語を教える。
左(ベトナム語講座)
中(トリ肉入りフォーを満喫)
右(グエンフエ高校で交流)
ベトナム語講座終了後、昼食。鶏肉入りのフォーを食べる。鳥スープに米のうどんが入り、カボスと唐辛子で食べる。美味。
昼。受信メールを読み、返事を出す。その足で、
グエンフエ高校での交流会へ。地球の歩き方ツアーの9人は、グエンフエ高校でホーチミン青年団の高校生と交流。歌の紹介、隣同士で会話。午前中習いたてのベトナム語を駆使して。ベトナムの少数民族の「バンブーダンス」に興じる。
午後5時前、ホテルへ戻る。ラームさんが高熱を出して休んでいる。昨日は9度以上。今日病院へ行く。しばらく休むよう電話する。
フエに戻って初めてトンチンカンホテルで夕食。
投稿者 koyama : 22:55 | コメント (0) | トラックバック
2004年03月15日
地球の歩き方ボランティア体験ツアー2日目(3月15日②)
午前8時半、地球の歩き方ボランティア体験ツアーの皆さんに「子どもの家」、ボランティア、NGOなどについての講演。
左(ベトナム事務所員自己紹介)
中(地球の歩き方ツアー参加者への講演)
右(子どもたちの歓迎の踊り)
午前9時からホテル会議室で講演会を行う。1997年に放映された「ドキュメンタリー人間劇場」の一部、3月10日テレビ大阪で放映された「ボランティア21」を上映。
昼食はフエ名物「ブンボーフエ」を参加者、ミンベトナム事務所長と一緒に食す。
昼寝を止めてメールの返事、草の根基金申請のし直しなど、仕事継続。
午後2時半、「子どもの家」で地球の歩き方ボランティア体験ツアーの皆さんと子どもたちとの交流会。ミンベトナム事務所長、西山優子と。
子どもたちは農民伝統踊りを紹介。トゥアティエンフエ省立芸術学院で勉強しているドゥオック君の歌。オルガンの演奏。
その間に上原祥子さん、内田征子さん、一色典子さんからの支援品を子どもたちに渡す。
交流会後は自由時間。参加者は子どもたちとサッカーをしたり部屋で遊ぶ。
その間にセン運営委員長と「子どもの家」の諸問題について協議。
大学進学問題。3人が進学希望。フエ医科大学、フエ師範大学歴史科、フエ農業大学農業経済学部への進学を希望している。
既に本人たちとの話し合いも終わり、受験校は確定。これから受験までの3ヶ月間、どのような進路指導・受験指導をするのかを話し合う。私の方から、既に受験校が決まった以上、結果はついてくるので、最善の努力をしたい。3人の特別受験体制を作るよう話し合う。既に3人とも月から土曜までの午後5時から午後9時までの受験教科(学校によて2教科、3教科)を重点的に学習するようしているとのこと。
高校受験は3人。3人とも受験に対して自信をもっていないとのこと。
2004年3月末で「子どもの家」を退職するフオンさんのその後の進路について話し合う。
午後6時半、地球の歩き方ボランティア体験ツアーの夕食の同行。
午後8時半から午後10時までミンベトナム事務所長と一緒にニエンフエ市人民委員会外務部長宅訪問。各種問題についての懇談。基本的に問題解決。
NHKの衛星放送を見る。テレビのトップニュースが「高橋オリンピック落選」とあった。がっかり。
どうでもいい。私は、スペインの社会労働党が政権を取ったことこそトップニュースにすべきだと思った。社会労働党はアメリカのイラク侵略に反対していた。旧政権は小泉政権と共にブッシュ政権に最も
擦り寄った政権だった。
社会労働党は6月末にイラクへ派兵しているスペインの軍隊を撤退することを表明している。
投稿者 koyama : 19:00 | コメント (0) | トラックバック
支援物資贈呈(3月15日①)
日本でお預かりした支援物資を「子どもの家」で子どもたちに渡す。
左(上原祥子さんより写真とアルバム)
中(内田征子さんよりサッカーボール等)
右(一色典子さんより里子アンちゃんへ)
上原祥子さんは昨年「子どもの家」でピアノコンサートをされた音楽家。その際、「子どもの家」の子どもたちの写真をたくさん撮って頂いたが、今回、一人一人にアルバムを作り、写真を入れて子どもたちに贈呈して頂いた。アルバムと写真を見せると、子どもたちは大騒ぎで一時「子どもの家」は騒然となった。多くの子どもたちは、生まれて「子どもの家」へ来るまでの写真をもっていない。こうして写した写真をアルバムで持っているいるということは、将来、子どもたちの大きな記念となる。「子どもの家」で生活した証にもなる。上原さんに感謝。
内田征子さんは、ホーチミン市生まれ。生年月日不明。多分40代か?
毎年夏の「バーベキュー大会」、冬の「クリスマス会」を高橋花博士、柳沢幸子女史と寄贈している。今回は、男子が大好きなサッカーボールと空気入れセットを寄贈。早速男子は「子どもの家」の庭でサッカーに興じていた。
6年程前、アンちゃん(当時5歳)の心臓病が悪化し、死の寸前となった。緊急の心臓病手術が必要となった。費用は数十万円。一色典子さんたち国際ソロプチミスト東京ー東の皆さんが手術代を寄贈。
アンちゃんはホーチミン市の心臓専門病院へ行き手術を実施。手術は無事成功した。手術後、一色典子さんが里親となりアンちゃんの家庭の生活を支えてきた。それから6年。現在11歳のアンちゃんは、5年生となり、9月からは中学に進級するという。手術後は、普通の子どもたちと同じように駆け出したり、スポーツも自由に出来るようになった。成績は最優秀(昔の日本流に言えばオール5)。父親はオートバイタクシーに運転手。こうして国際ソロプチミスト東京ー東、一色典子さんの支援で一人の女の子の命が救われた。そして、アンちゃんの希望豊かな将来を開くことが出来たのである。素晴らしい。一色さん、国際ソロプチミスト東京ー東の皆様に感謝。今回は2月22日の総会に出席された里親の一色典子さんからアンちゃんへのお土産を預かる。小さなタオルとシャンプー・リンスセットなど。
投稿者 koyama : 18:22 | コメント (0) | トラックバック
2004年03月14日
K大学学生ホームステー先視察
朝6時起床。7時、NHK国会討論会を見る。
その後、ドンバ市場まで散歩。豚肉ソーセージ(チャーゾー)を買う。
左(総選挙の看板)
中(農村のトイレ)
右(地球の歩き方ボランティアツアー)
ドンバ市場へ行く途中、フエ師範大学の塀に「2004年4月25日、各級議会議員選挙を熱烈に祝賀する」との看板が出ていた。4月25日に国会、県議会、市議会等の選挙がある。
しかし、実際には既にトゥアティエンフエ省知事もフエ市長も決まっていて、仕事もしている。
昨夜、緒方貞子さんの歓迎晩餐会には、新フエ市長が参加。名刺ももらっている。しかし、選挙は4月25日である。ベトナムの一党独裁の実態をみる思いである。見せかけだけの嘘の選挙である。ベトナムが民主主義国家だと豪語する人に聞きたい。選挙をする前に既に新市長が名刺をもって活動している国が民主主義国家なのですか?と。
午後3時、ラームさんと車で20分ほどのフエ郊外の農村に行く。来年の春先にフエで2週間ボランティア体験授業をするK大学の学生の農村ホームステー先の視察である。THUY THANH村(人口7000人)の純農村である。1700戸、小学校が2校、中学校1校。高校はない。村中が緑色の稲。農村特有の稲の何ともいえない「芳香」がする。新鮮な田舎のにおい。
約20人の学生が10戸に分かれて宿泊する。
衛生状態、治安状態などを考慮し視察。このホームステーで日本の学生がベトナムの農村の生活の一端でも知ってもらえればと企画した。
ベトナムの農村に日本人がホームステーするのは、フエ市人民委員会、地元人民委員会、公安などの承認が必要である。その上、現地を視察し、トイレ、寝室、シャワーなどの諸施設を確認。出来るだけ地元の一般農民の生活を体験できるようホームステー先を選定。最終的に問題になったことは、シャワーである。水シャウーしかない。来年の春先だと地元は寒い。水シャワーでは日本の学生は無理である。結局、お湯を沸かし体を拭くこととした。これも体験である。食事は、3食家族と一緒に食べることとする。午後5時まで視察。
午後8時半近く、地球の歩き方ボランティア体験ツアーがホテルへ到着。出迎える。ラームさん、ヒーさん、優子が空港まで行く。明日から1週間、「子どもの家」や少数民族などとの交流を行う。
投稿者 koyama : 21:41 | コメント (0) | トラックバック
2004年03月13日
緒方貞子さんを迎える
昨夜は結局4時間ほどしか眠れなかった。今日は、少し睡眠不足。午前9時から11時まで訪問者と懇談。
午後5時過ぎ、JICA理事長緒方貞子さんを迎えて王宮視察、その後の晩餐会に出席、懇談。
左(大阪外大清水さんや山脇さんと懇談)
中(上原さんの子どもへのアルバム届く)
右(緒方貞子さんと。王宮・午門前)
朝7時、トンチンカンホテルで西山優子、坂本文子と顔を合わせる。昨夜は午前12時過ぎにトンチンカンに着いたので会わずじまい。
二人の元気そうな顔を見て一安心。朝食は「ブンボー」。これを食べると本当に落ち着く。美味しい。
料理のPHUONGさん、掃除のMYさんも元気。午前9時、ベトナム事務所で大阪外大の学生清水君・福岡の英語教師山脇さんと2時間半程懇談。ボランティア、支援、NGOなどについて話し合う。途中でLY君(ドキュメンタリー人間劇場で「子どもの家」に入った男子)がベトナム事務所へやって来た。LY君は4年間「子どもの家」にいたが、突然ホーチミン市へ家出してしまった。3年間ほどホーチミン市にいたが、今年2月のテレビ大阪取材中にひょっこりと「子どもの家」へ帰って来た。
現在17歳。センさん、ミンベトナム事務所長などと話し合い、オートバイ研修センターで1年間オートバイ修理の研修をすることとなった。
母親は所在不明。父親は事情でLY君と同居できない。現在、LY君は知り合いの叔父さんの家に寄宿している。おじさんが、食事代位は出して欲しいといっているそうだ。1ヶ月1000円程度の食事代を支援して欲しいとの話。私は「オートバイ研修センターで1年間、本当に真面目に研修をするのなら、食事代の支援をする」との話をする。
本当に支援金1000円が知り合いの叔父さんに支払われるのか、明日、午後2時半からミンベトナム事務所長とロック寮長で視察に行くこととなった。
ミンさんもロックさんも明日日曜日というのに、LY君自立のために叔父さんの家を見に行ってくれるという。こうしたベトナム人スタッフに出会ったことを感謝する。得がたい人材である。
支援者上原祥子さんから預かった「子どもの家」の子どもたち一人一人への写真を入れたアルバム(70冊位)をベトナム事務所に届ける。国際ソロプチミスト東京ー東の一色典子さんから預かった里子アンちゃんへのお土産も。3月15日(月)に「子どもの家」で渡すことになった。
また、日本事務所の内田征子さんから預かったサッカーボール2つと空気入れも3月15日に子どもたちに渡す予定。
昼食は1時間ほど遅れ「チャオ・バン・カン」(フエ風煮込みうどん)を食べる。かなりのびてしまったが私の大好物。1時間ほど受信メールの整理と返事の送信。
午後1時から2時半まで昼寝。
午後2時半から午後4時まで「生活クラブ生活共同組合・草の根基金」の申請書を書く。3月20日締め切り。
午後5時、急にラームさんから電話。ラームさんは、フエに来ているJICA(国際協力機構)の緒方貞子理事長を接待しているMEトゥアティエンフエ省知事の通訳として、今日の昼から同行している。
緒方さんの日程が早くなり、午後5時20分頃、王宮に行くとのこと。急いでミンさんと王宮へ。
パトカーのサイレンを先導にME知事、市長と一緒に緒方貞子さんが王宮に到着。緒方さんと名刺交換、挨拶。JICA開発福祉支援プロジェクトの報告書等を手渡し自己紹介。
緒方さんは現在76歳だそうだ。体調を崩されているとのこと。今日はハノイを出て午後12時半にフエ着。その後、緒方さんが支援して建設した施設(200万円相当)の落成式典に参加。
続いて王宮視察。その後、王宮の中でME知事主催の歓迎レセプションに参加。王宮の踊りなどを見学し、午後8時50分の飛行機でフエを発ちホーチミン市(または、ハノイ)へ。結局半日ちょっとのフエ滞在であった。午後8時半王宮発。ラームさんは緒方さんと一緒にフエ空港へ。私とミン・ベトナム事務所長はミンさんが作ったホテル「バオミン・ハンマーホテル」を視察。素晴らしいホテルである。詳細は明日。
投稿者 koyama : 23:53 | コメント (0) | トラックバック
2004年03月12日
サイゴンは32度
朝5時起床。6時過ぎ家を出て京成スカイラーナーで成田へ。空港カウンター、出入管でも待たずに午前10時成田発。午後4時半(日本時間)ホーチミン市着。お客は定員の3分の1程度。
左(ホーチミン空港内で)
中(ホーチミン空港の外で)
右(キャラベルホテル外観)
成田→ホーチミン間のベトナム航空機内は、閑散としていた。私は、3つの座席に寝ていた。
ホーチミン市内は32度の猛暑。やっと私の好きな気候にめぐり合える。とにかく日本は寒い。こうして黙っていても汗をかくような気候が一番好きだ。何とはなしに落ち着く。
ホーチミン空港の外に出たのは午後3時半(日本時間午後5時半)。これからフエまで飛行機を乗り継いで行く。フエ行きは午後6時40分。まだ3時間程時間がある。さっそく、国内線に行きチェックイン。2月17日にハノイで同じように3時間ほど早くチャックインをしようとしたら、手で追っ払らわれた。
同じ国であってもハノイとホーチミンとではこんなことまで違う。とにかくハノイは「威張って」いる。ホーチミン市は「お金儲け」なら、何でも頭を下げる式のところがある。よく言えば、ホーチミン市はサービス精神があり、ハノイはお役人根性丸出し、サービス精神のないところである。
ホーチミン空港(タンソンチャット空港)から市内へタクシーで移動。45000ドン(450年程度)。
早速、行きつけのインタネットカフェでこの日記を書いている次第である。
12年前の1992年8月に初めてホーチミン市に来た時に泊まった「キャラベルホテル」が改装新築されていた。
午後5時過ぎホーチミン空港へ戻る。
午後6時40分発のフエ行きの飛行機だが6時30
分頃出発。午後8時過ぎにフエ空港の上空まで達するが、雨雲で視界不良とのことで、数回着陸を試みるも失敗。急降下を重ねる。結局、フエ空港着陸を断念し、ダナン空港へ着陸。しばらく、ダナン空港でフエ空港の上空の雨雲の様子を見るが、それも断念。最終的にダナンからバスでハイバン峠を超えてフエへ行くことになった。午後9時過ぎダナンを出た。フエ着午後11時半。日本時間の午前1時半。
今日は朝6時に家を出て、フエに着いたのが午前1時半と言うことになる。19時間の旅だった。フエは小雨が降っている。
トンチンカンホテルの部屋に入るが、「カビ」臭い。眠いのと疲れたので頭がボーッとしている。
急いで日記の続きを書く。
投稿者 koyama : 17:55 | コメント (0) | トラックバック
2004年03月11日
日本滞在最終日
午前中、新宿都庁前の「榊原記念クリニック」へ定期心臓検診。
午後、国際ソロプチミスト東京ー東にフエ市長からの感謝状を渡すため「ホテルニューオータニ」へ。
左(威圧するかのように聳えるな都庁)
右(明日から全面禁煙になる新宿駅)
午前10時頃榊原記念クリニックに到着。クリニックは「NSビル」の4階。その前に東京都庁が威圧感を持って聳えていた。東京の教育は大きく「右旋回」している。3月の卒業式で起立し「君が代」を歌わないと懲戒処分をするとの通達が出ている。
榊原クリニックで受診を待つ。今日はどういう訳か私の主治医の隣の部屋が小児心臓病の権威の先生のようで10人位の幼児が親と一緒に受診を待っていた。見るとはなしに幼児と親を見ていると、どの親も子どもたちに「お菓子」「スナック」などを食べさせていた。中には、親自身がお菓子を食べている。子どもたちは、受診を待つ長椅子の前を駆け出して大騒ぎしている。どの親も「ニコニコ」して、「自分の子どもは本当に良い子だ」と言った顔をしている。どこか変だ。子どもたちに規範意識がないというが、規範意識がないのは、大人だ。
心電図を取り受診。心臓の薬をもらう。1ヶ月分しか出ないのでフエでの長期滞在は心臓の薬の問題も
ある。NSビルから歩いてJR新宿駅へ。ホームに着いた時、「本日を最後に新宿駅ホームの喫煙コーナーを撤去します。明日からは、全面禁煙を致します」との場内放送が流れる。見るとははしに「喫煙コーナー」を見る。10人近くの人が喫煙中。喫煙している人の顔を凝視する。丁度、阿片を吸引しているかのような「中毒患者」の空ろな顔つき。視点は定まらない様子でタバコを吸っていた。
国際ソロプチミスト東京ー東に対しフエ市長から出た感謝状を預かっている。今日午後2時に「ホテルニューオータニ」で関係者にお会いすることになっていた。定刻にニューオータニの指定された場所に行ったが、うまく連絡が取れない。30分待ったが駄目だった。次回、6月の帰国時に再度訪問。
病院で待っている間に「昭和史」(著:半藤一利ー平凡社)を読了。明治維新以後、昭和20年8月の敗戦までの間、どのように戦争に入っていったのかを検証している。半藤氏の歴史観には必ずしも同意できない部分がある。半藤氏は、天皇は戦争に一貫して反対していた平和主義者との前提で論述している。詳細は省くが、本の最後に昭和史を振り返り、戦争を防止・阻止するための「5つの教訓」を記述している。大いに学ぶべき点があるので紹介したい。
①国民的熱狂を作ってはいけない。時の勢いに駆り立てられてはいけないということです。熱狂は理性的なものではなく、感情的な産物ですが、昭和史全体をみてきますと、何と日本人は熱狂したことか。マスコミにあおられ、いったん燃え上がってしまうと熱狂そのものが権威をもちはじめ、不動のもののように人々引っ張って行き、流してしまう。
②最大の危機において日本人は抽象的な観念論を非常に好み、具体的な理性的な方法論を全く検討しないということです。
③日本型のタコツボ社会における小集団主義の弊害があるかと思います。陸軍大学校優等卒の集まった参謀本部作戦課が絶対的な権威をもち。そのほかの部署でどんな貴重な情報を得てこようが一切認めないのです。
④⑤割愛。
①②③は今の日本にそのまま当てはまるように思う。
今回2月の帰国中の行動結果は以下のようである。
19(木)帰国療養
20(金)帰国療養
21(土)P4 日本語教師面接(寮母さん訪日~25日迄)
22(日)A10日本事務所会議 P1第10回総会 P5:寮母さん歓迎会
23(月)P2地球の歩き方(K大学ツアー打ち合わせ)
24(火)A10歯科医 P4霞ヶ関日弁連(法教育委員会)
25(水)自宅
26(木)伊豆高原
27(金)伊豆高原
28(土)伊豆高原
29(日)P12 江平様面談 新宿
3/ 1 (月) 自宅
2(火)自宅
3(水)P6茨城法教育研究会教員懇談会(後藤弁護士等)
4(木)P5:30静岡の会
5(金)A10静岡市立長田西小講演会(120名) P12・静岡市長等懇談
6(土)A11神奈川県県民部青少年課面談(池袋)P2:30支援者懇談
P5岩辺泰吏様退職祝賀会
7(日)A11「週刊金曜日」インタビュー P1日本事務所会議
8(月)自宅
9(火)P12清水ロータリークラブ「卓話」(日本語学校お礼)
P7:30ピースボート講演会
10(水)P2テレビ朝日林ディレクター懇談
11(木)A10:30榊原記念病院 P1:30ソロプチミスト東京
12(金)A10成田発 P8フエ着
投稿者 koyama : 17:20 | コメント (0) | トラックバック
2004年03月10日
テレビ朝日打ち合わせ
午前中、メールなどの返事。
午後2時、六本木ヒルズにあるテレビ朝日でKディレクターと番組作りの打ち合わせ。今年の秋頃に「子どもの家」関係の何らかの番組を作れればとの話。写真を撮ったが間違って全て消去してしまった。
数年前にフエで3ヶ月生活したM・Mさん(18歳)がカナダから一時帰国。今朝電話あり。元気に生活している様子が分かる。頭の良いお嬢さんだ。
大成して欲しい。また、その可能性と潜在能力を十分持っている。頑張れ「M・M]さん。
夜、M・Mさんの小学校時代の担任のT先生から電話。M・Mさんが元気に一時帰国しているとの報告。T先生も今年で「再雇用」も終了するそうだ。
小学校は、都教育委員会からの異常な「締め付け」で自由がなくなり、先生方は「当面の仕事にしか目がいかない」「若い先生は、現在の学校が普通の学校と思っているのも悲しい」とのことだった。こうした良心的な先生が学校から消えていく。
投稿者 koyama : 19:45 | コメント (0) | トラックバック
2004年03月09日
清水ロータリークラブ、ピースボートで講演会
午前8時に自宅を出て、午後12時に藤田栄氏と合流。静岡県の旧清水市へ。現在は静岡市と合併し静岡市となっているが。清水ロータリクラブで講話。
左(清水ロータリークラブ講話)
中(ピースボート講演①)
右(ピースボート講演②)
清水ロータリークラブは、清水北ロータリークラブと一緒に「静岡ーフエ青年交流会館」付属日本語学校日本人教師の月給を支援してくれている。
会員57人、創立1952年。今日で2530回目の例会である。午後1時から30分間、「子どもの家」、ストリートチルドレン、日本語学校などの話をする。
会終了後、関係者の皆さんとの懇談。午後3時過ぎ、清水から静岡へ。更に新幹線で東京。池袋経由、高田の馬場へ。午後7時過ぎ、ピースボート事務所へ。ピースボートは今年の4月、7月と「子どもの家」を訪問する。今日は、UPA(人間同士つながり委員会)主催の学習会。午後7時半から午後8時過ぎまでUPAの打ち合わせ会。午後8時半から午後9時40分まで「子どもの家」の話、質疑応答など。帰宅は午後10時半。
投稿者 koyama : 23:41 | コメント (0) | トラックバック
2004年03月08日
自宅で仕事
昨日1日でこの日記へのアクセスが270通程あった。多くの皆さんに読んで頂けるのは、ありがたいことである。
午前中20通のメールへの返事。
昼、歯医者へ。今日で4回目。歯の総合的点検。
北海道置戸(おけと)の菊さんから網走流氷の写真が届く。しばらく写真を見ている。ボーッとしてるといつのまにか網走流氷の前にいるような錯覚に陥る。
左(網走流氷①)
右(網走流氷②)
この間、仕事も多く正直かなり疲れた。今日は1日ゆっくり休むつもりだったが、なかなかそうもいかない。
ボランティア貯金申請書、日本語学校、17通のメールの返事を書く。結構忙しい。
歯医者の後、区役所出張所へ。ボランティア貯金申請の印鑑証明取得。引き続き買い物。往復1時間。
高島平団地内の市場へ。
ベトナム事務所は気候の変動が大きく体調を崩している。優子が体調を崩したようだが、さすが「若い」。直ぐに回復したようだ。バオ・ミン・ベトナム事務所長が体調を崩し休んでいる。中々フエに住むということは大変なことだ。私が10年間フエに住んでの教訓。「1に睡眠、2に睡眠。3・4がなくて5に快食」。
帯広の芳村さんから電話。芳村さんは、「暖炉基金」という障害児支援の基金を作っている。家庭の貧しい障害児を通学させる基金である。今日、支援している5人の障害児からお礼の手紙が届いたとのこと。
テレビ・新聞は長島監督の病状報告ばかり。昭和天皇の報道に酷似。長島監督よりも西武鉄道堤会長の問題の方がより大きな問題なのに。堤氏はJOC(日本オリンピック委員会)の会長だ。自分の会社が総会屋に8800万もの事実上のお金を上げ、会社の幹部が逮捕されている。日経連の役員を辞めるだけで「お茶を濁そう」としている。社会的な責任感がゼロ。若者の規範意識が問題になっているが、本当の問題は西武の堤氏や民主党の佐藤元議員など大人社会の問題。
投稿者 koyama : 19:25 | コメント (0) | トラックバック
2004年03月07日
「子どもの家」取材の「ボランティア21」放映日程
2月にテレビ大阪が取材に来た。「子どもの家」や私の取り組み、自立に向けた姿勢などを取材。
以下の日程で全国放映される。機会があったらご覧頂きたい。
番組名「石橋勝のボランティア21」
●3月8日(月)
・テレビ愛知 10:30~11:00
・福井テレビ 9:55~10:25
・とちぎテレビ 10:00~10:30
・北日本放送 10:55~11:25
・石川テレビ 10:30~11:00
・奈良テレビ 9:30~10:00
・山陰放送 10:00~10:30
・TVQ九州放送 8:30~9:00
・青森テレビ 10:00~10:30
●3月9日(火)
・新潟放送 10:35~11:05
●3月10日(水)
・テレビせとうち 8:05~8:35
・テレビ北海道 10:00~10:30
・BSジャパン 9:30~10:00
●3月11日(木)
・テレビ和歌山 8:30~9:00
・東日本放送 11:00~11:30
●3月12日(金)
・びわ湖放送 8:30~9:00
・沖縄テレビ 10:25~10:55
・中国放送 10:30~11:00
・熊本朝日放送 10:15~10:45
・テレビ静岡 9:55~10:25
●3月15日(月)
・千葉テレビ 10:30~11:00
●3月20日(土)
・三重テレビ 8:30~9:00
・岐阜放送 9:30~10:00
投稿者 koyama : 18:12 | コメント (0) | トラックバック
日本事務所会議
昨夜は午前様。帰宅後日記を書き就寝は午前2時半。午前7時起床。
午前10時前に自宅を出て王子駅前で「週刊・金曜日」取材。
午後1時から日本事務所会議。
左(日本事務所会議全景)
中(手島君と東工大留学のベトナム学生)
右(八街高校渡辺君、加藤さん、山田君)
日本事務所会議には20人が参加。新しい参加者もある。
司会は柴田副代表。
①総会・寮母さん訪日総括(寒河江)
②福田副代表一時休暇帰国の報告(寒河江)
③バオ・ミンベトナム事務所報告(小山)
④2004年日本事務所活動(寒河江)
●今年は日本事務所会議を以下の日程で行う。
・1月ー総会準備① ※現地報告
・2月ー総会準備②
・3月ー年間活動の具体的役割分担 ※現地報告
・6月ーバンベ25号発送 ※現地報告
・9月ープロジェクト全体企画打ち合わせ
・12月ーバンベ26号・プチバンベ3号発送
●日本事務所はイベントやプロジェクトを中心に多くの参加型の運営を行う。以下、プロジェクト名
・NPO法事化
・千葉県立八街高校授業
・プチバンベ3号発刊
・リーフレット作成
・JASSスタディーツアー
・日比谷フェスティバル
・JASS紹介ビデオ作成
(上記のプロジェクトへの参加希望の方はどなたでも参加可能。日本事務所へ連絡を)
●「子どもの家」創立10周年記念イベント計画
・外に開かれた行事にする。高校生、大学生を中心に実行委員会を作る。今後、HP等で参加を呼びかける。
⑤その他
・ボランティア貯金新規申請
・静岡ーフエ友好の件
午後4時過ぎ日本事務所会議が終了。
私は昨夜の会で睡眠時間が少なかったのが響き、直ぐに帰宅。食欲がなく頭が痛い。
投稿者 koyama : 17:44 | コメント (0) | トラックバック
岩辺泰吏さん退職激励会へ。
午前中、野暮用で池袋へ。
午後、支援者と懇談。午後5時から葛飾区金町で「岩辺泰吏さんの退職を激励する会」参加。
岩辺泰吏さんは1994年のベトナムの「子どもの家」を支える会創立者で初代の代表。激励会には250人ほどの関係者が参加。
左(フエ市長よりの感謝状を贈呈)
中(金刺岳人君と岩辺さん、小山)
右(川田龍平さん、佐藤洋作さんと小山)
岩辺泰吏初代代表は2004年3月31日に教職を退職する。今日は、JASS副代表だった大谷さん、笠井などが実行委員会を作り「退職激励会」を開催。
JASSからも含め多くの関係者が参加。JASSからも上田前代表、大西前事務局長、船崎前会計部長、西村さん、馬渕さん、高田さん、若林さんなど。
私はフエ市長より岩辺さんへの感謝状を手渡す。
岩辺さんを記念する石版を「子どもの家」に掲示した。その写真を拡大し手渡す。
会場で以前「子どもの家」を訪問した川田龍平さん、不登校の「居場所・フリースペース」運営の佐藤洋作さんと再会。中学1年生の時からJASS日本事務局の副事務局長をしていた金刺岳人も網走の大学3年生となり久しぶりの再会。
「退職激励会」は午後7時に終了。その後、関係者が岩辺さん行きつけの「蕎麦屋」に行き二次会。午後11時過ぎまで。自宅着午前12時半過ぎ。
投稿者 koyama : 00:31 | コメント (0) | トラックバック
2004年03月05日
静岡市で学校講演、市長・市議の皆さんと懇談。
午前中、静岡市立長田西小で講演。6年生、4クラス120人。
昼、静岡市から旧清水市役所に移り、小島静岡市長、超党派の「子どもの家」静岡市議視察団の皆さんと懇談。
左(静岡市立長田西小講演会①)
中(同上②)
右(小島静岡市長、市議団との懇談)
午前9時半から10時半まで静岡市立長田西小学校6年生にストリートチルドレンやアジア、ボランティアなどを話す。1996年にJASS静岡の会で「子どもの家」スタディーツアーを実施。当時中学3年生だった滝下一歩さん(現在大学4年)もツアーに参加した。その滝下一歩さんも一緒に講演会へ。写真などを撮ってくれる。120人の子どもたちは、本当に真剣に話を聞いてくれた。
既に総合学習(国際理解)の一環として6時間の学習をしている。
第1時間目(あなたは幸せですか?)
第2時間目(ユニセフから世界を見よう)
第3時間目(どうすれば平和にくらせるか?)
第4時間目(世界がもし100人の村だったらのビデオを見る)
第5時間目(調べ学習の仕方)
第6時間目(調べ学習 自分の考えをのまとめ)
第7時間目(小山道夫の講演会)今日の講演会
こうして静岡市立長田西小学校では、体系的に「世界の貧困問題」「平和の問題」「戦争の問題」などを自分の頭で考え、自分で資料などを調べて学習してきた。子どもたちはボランティアや世界の貧困などの知識を十分持っていた。
私は、何故、私が教職を辞してベトナムに行ったのかを中心に話をする。
3月1日に「NHK教育TV」で放映された私のことを紹介した番組「世界で活躍する日本人」(内田征子さん寄贈のビデオ)を上映。
長田西小講演が終わった時点で、滝下正敏さん(JASS静岡の会副事務局長)が車で迎えに来てくれる。
車で1時間ちょっと。旧清水市役所へ。
旧清水市役所で笠井英彦さん(JASS静岡の会事務局長)と藤田栄氏と合流。その足で静岡市長室へ。
市長室では議会が休憩中の小島静岡市長と先日、静岡市の超党派のベトナム視察団として「子どもの家」を訪問された市議の皆さん(14人)と懇談。
これからもフエ市と静岡市の友好交流を強めようとの話をする。
新幹線で帰宅。家に着いたのは午後6時。
長島元巨人監督が脳梗塞になったとのこと。早期回復を祈る。テレビ・新聞等が大騒ぎ。うーん、そうなのかな? それほど騒ぐ問題なのかな? もっと大事なことをマスコミは取り上げなきゃいけないんじゃないの? と思うのは私一人だろうか?
3月13日にJICA総裁の緒方貞子さんが「子どもの家」を訪問されるとのこと。
投稿者 koyama : 20:34 | コメント (0) | トラックバック
2004年03月04日
静岡の会へ
午前中、手紙、メール等の整理。
午後、静岡駅へ。静岡の会の笠井さんと駅前で落ち合う。
夕方、静岡市内で静岡の会の懇談会。1999年まで3年間、ベトナム事務所で仕事をしその後神戸大学に入学した西谷今日子さんが一時帰省していた。久しぶりに会う。今年大学4年生になるという。元気な様子だった。
静岡の会会長の静岡大学の山崎教授の参加。1996年、静岡の会で初めてベトナムスタディーツアーを行った。静岡市長のメッセージを持ってベトナムへ来た当時中3だった滝下一歩さんが大学を卒業し、地元に就職するという。年月の経過を感ずる。
左(西谷今日子さん)
中(静岡の会会長静大山崎教授)
右(静岡の会記念写真)
今日は静岡に泊まる。明日は、小学校での講演会。
その後、清水市に行き静岡市議会議員との懇談会。
投稿者 koyama : 22:26 | コメント (0) | トラックバック
2004年03月03日
水戸市へ。「法教育」の懇談会出席
午前中「歯科医」へ。現在歯の総合点検中。今日で3回目。歯周病にならないため。麻酔をかけ歯のチェック。ベトナムで更に10年活動するためには、歯の健康を保つ事は大事なことである。日本にいる間に心臓、歯などの健康をチェックしたい。私は努力してできることは努力し、後は「運を天」に任せる主義である。健康維持の努力をしないのは、命を大事にしないことに通ずる。
雑誌「世界」3月号(岩波書店)を読む。
①~⑤まで読み応えのある内容。
①辺見庸「抵抗はなぜ壮大なる反動につりあわないのか
・同感の部分あり。これほど大きな反動化の中でなぜ大きな国民運動が起こらないのか?辺見氏の絶望的な気持ちが読み取れる。
②高村薫「あれかこれかではなく第3の道を」
・作家として文章を書くことを通してで今の日本の変質・反動化と対峙すると。
③鷲頭幹夫「小泉首相をなぜ提訴するのか蓑輪登元郵政相の決断」
・自民党防衛族のドンである蓑輪氏のある意味で命を賭けた小泉首相への挑戦状。
④犬養道子「話せばわかる・言論不自由」
・犬養氏の文章は歯に絹着せぬ小泉路線への痛烈な批判。5・15事件で射殺された政友会総裁犬養首相の孫として、小泉首相の問答無用の姿勢を批判。
⑤北沢洋子「世界は地の底から揺れている」
・2004年1月16日から21日までインドのムンバイで行われた「反グローバリゼーション」の集会には世界中から10万人もの人が集まったそうだ。この短文は一読に値する。特に「大企業主導のグローバリゼーション」の歴史とそれに反対する運動の歴史を学べる。北沢氏は最後に「私は70年代以降、日本の市民社会が自ら考え、論議し、行動することを止めた」ことが日本の反動化を阻止する大きな運動が起こらない原因と分析。「論議をおこすこと」が今、一番必要と訴えている。辺見氏の絶望的な現状認識と対象的だ。
夕方、水戸市へ。長年の「子どもの家」の支援者である後藤弁護士(日弁連法教育委員会副委員長)の呼びかけで、茨城の高校の先生、2人の司法修習生と懇談。「アンコウ鍋」をご馳走になる。水戸は寒い。午後9時頃には雪がちらついて来た。上野駅に午後10時頃着いたが、朝のラッシュ並みの混雑に驚く。フエでは午後10時になれば人通りは極少なくなる。帰宅は午後11時。
投稿者 koyama : 08:01 | コメント (0) | トラックバック
2004年03月02日
「昭和史の決定的瞬間」を読む
午前中から午後にかけて「ボランティア貯金」申請書の原案作成。
2004年6月で現在もらっているボランティア貯金の交付は完全に終了する。
2004年7月から新たなプロジェクトを考え申請しなければならない。
何とか申請書の原案の主要部分を書き、役員会など関係者に送付。
午後2時過ぎ、杉花粉症の薬をもらいに通院。
買い物。
「昭和史の決定的瞬間」(坂野潤治著:ちくま新書)
読了。
人は今自分が歴史的にどのような位置にいるのかが分かりにくい。
2004年3月のこの時点を、後世の歴史家はどのように評価するのか?
ソ連が崩壊し米ソ対立の図式がなくなり、9・11テロ以降、ブッシュの先制攻撃論に基づく「反テロ」に名を借りた世界制覇の侵略戦争が続けられている。 小泉首相と連立政権は、解釈改憲の域を大きく超えて、イラクへ自衛隊3軍を派兵してしまった。憲法・教育基本法の「改正」も政治的日程に上っている。こうした状況に対する大きな国民的な運動や論議は起こっていない。静々と物事が進んでいくかに見える。
日本は政治・経済だけでなく、社会そのもの、日本人そのものが、溶解過程にあるように思われる。
こうした「今」とはいったいどんな未来に続いていくのか? 人は誰も未来は分からない。しかし、過去を振り返ることは出来る。
この本は、昭和11年・12年(1936年・37年)の2年間の日本の政治・軍事状況を詳細に分析し、日中全面戦争に突入する時代ですらまだ戦争を回避することができる可能性があったことを論証している。 現在の日本を後世の歴史家が「戦前の始まり」と定義付けないようにするための一助としたい。
投稿者 koyama : 16:51 | コメント (0) | トラックバック
2004年03月01日
風邪を引いた
数日前から鼻水が出ていたが、風邪だった。
今日は1日自宅で仕事をしながら休息。
「三寒四温」というが、本当である。昨日と今日は10度もの温度差。今日はみぞれも降っていた。
気温の変化に体調がついていけないようだ。これは人間様だけでなく「ぬか漬け様」も同様。10度も温度差があると、ぬか漬けの食べごろが微妙に違ってくる。夏は朝つけると昼過ぎには食べごろになる。冬は1日半。三寒四温の今頃が一番難しい。昨日だと1日で良いが、今日のように寒くなるとぬか漬けの細菌様が眠ってしまう。かぶ、セロリ、大根などのぬか漬けを作り楽しんでいる。
昨日は人間の先輩として尊敬している江平さんのことを日記に書いたが、今日の新聞を読んで、「江平さんの爪の垢でも煎じて飲め」と言いたいことが続出。無責任人間と無責任社会と会社。
大量の「とりインフルエンザ」を出した京都の養鶏場である。この養鶏場は大手だそうだ。日本養鶏場協会だかなんだかの副会長でもある。どんな馬鹿な人間でも今のご時世、鳥が少しでも大量に死ねば、「とりインフルエンザ」を疑うのは当たり前である。この会社の会長、社長は養鶏の専門家だ。
素人の私でも鶏が死ねば「インフルエンザかな?」と思うものである。社長は「大量に鶏が死んだが、眠るように死んだので何だか分からなかった」と言い訳をし、大量の鶏が死んでいる中で、生きた鶏を販売していたのである。一種の殺人行為である。こうして大量のとりインフルエンザが流行する中で「突然変異」で人間にも感染する「とりインフルエンザ」が発生することが一番怖いのである。
どう見ても「トリインフルエンザらしいが、分からないうちに残りの鶏を売ってしまおう」との打算で動いたとしか思えない。
社会的道義や正義、責任という言葉は、これらの人々には、死語である。金儲けになれな、何でもするという人間としか思えない。
京都府から兵庫県へ「京都府の鶏はインフルエンザにかかっている」との連絡FAXを入れたが20時間も放置されていたとのこと。その間にインフルエンザに感染した疑いのある鶏肉が市場に出回ってしまった。70度で加熱すれば問題はないとWHOは言っているそうだが。
それにしても京都と兵庫のお役人の立派な「お役人仕事」には、脱帽する。FAXを送った京都の役人は何故電話ででも確認しないのか? 兵庫の役人はどうして机の上にあったFAXを読まないのか?
こうした「公務員の信用失墜行為」を行っても上司や関係者は処分すらされない無責任社会がある。
今、サーズ以上に強力な感染力を持っているトリインフルエンザが変異して人間に感染しないようアジアをはじめ、世界中で努力している中、このお役人の体たらくである。
京都の鶏業者もお役人も「言い訳」だけは見事に上手である。「口よりも行動だ」と言いたい。
西武鉄道の専務など6人が総会屋に8800万円もの利益を供与したとして逮捕された。
西武鉄道の社是は「感謝 奉仕」だそうだ。
総会屋に感謝し奉仕した訳である。取締役会長の堤義明氏はどう責任を取るのだろうか? ちょっとしたミスとは違う。一日あたりの輸送人員が165万人だそうだ。西武ライオンズ、プリンスホテル、コクド、西武不動産などの総師でもある堤氏の責任の取り方に注目している。
いずれにしても、7日間もの間、鶏の大量死を放置し、20時間も人命に関わる重大な情報を放置し、総会屋に大金を上げるという、社会的道義、道徳が崩壊した社会が目の前にある。
江平さんのような真っ当な人間が段々いなくなって行く日本はどこへ行くのだろうか?
言い訳上手と口先人間ばかりがはびこる日本にさせてはならない。