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2015年03月31日

宿舎で終日仕事

晴れ


午前6時起床。

午前7時朝食。「フォー・ガー」(鶏肉米麺)

宿舎で当面の課題を整理し、仕事をする。


今日は、ベトナム事務所の仕事の都合で昼食を
断っておいた。しかし、ベトナム事務所の仕事がなくなった。

国立体育館近くの「大衆食堂」へ、「昼食」を買いに行く。

150円。


午後12時半からしばらく昼寝。

その後、当面の諸課題について整理。

午後3時から1時間程、横になる。

読書「福島に農林漁業を取り戻す」(みずず書房)の
第2章を読む。

今まで知らなかったことが書かれてあり、参考になった。

旧ソ連の方が、原発事故に対する処置がしっかりしていることが
分かる。


午後5時過ぎ、徒歩で日本料理店へ。

日本料理店の子どもたち、日本教師の夕食。
これにご飯がつく。


北浦先生・古竹先生は、訪越して数日。今日で2回目の
夕食となる。今週は、日本語学校の授業参観。


6人の来客。


午後9時過ぎ閉店。


投稿者 koyama : 23:35 | コメント (0)

2015年03月30日

新日本語教師、ベトナム事務所へ:内田さんと懇談

快晴

昨日は雨で寒かったが、今日は朝から暑い。

シャワーを浴び、朝食。

「ブン・クワー・ボー・フエ」(カニ団子・牛肉米麺)

午前8時半、ベトナム事務所へ新日本語教師初出勤。
自己紹介と挨拶

ベトナム事務所員総出で歓迎。


ベトナム事務所スタッフの歓迎の言葉と自己紹介


ソン君は、内田さん一行の案内でホーチミン→フエ


新日本語教師から日本のお土産


その後、会議室で日本語学校・日本語教育について、
日本語部長のフーン先生などからの「ガイダンス」



勤務日程表等の説明



使用する教科書等の説明



しばらく日本語学校お打ち合わせを聞いている。

午前11時、徒歩で宿舎へ。


午前11時半昼食。

「チャオ・バイン・カイン」(小麦粉手打ちうどん)

午後12時半からしばらく横になっている。

「子どもの家」の子どもの件で問題が起こり、バオミンさんと
午前中、協議をした。どのようにしたらうまく解決できるか
様々な方法を考える。頭が痛くなる。

明後日からバオミンさんは、1週間、日本へ行く。

夕方、徒歩で日本料理店へ。

日本語学校の先生、授業参観を終えてベトナム事務所へ
帰る。夕食を摂る。



午後7時半頃、内田さんの同窓の皆さんが来店。


ベトナムの南から中部を通って北部までの旅行。

午後9時半、閉店。10人近くの来客あり。


投稿者 koyama : 17:44 | コメント (0)

2015年03月29日

2人の新日本語教師と懇談・夕食会

午前9時起床。

料理のセンさんが作って冷蔵庫にいれておいてくれた
ラーメンのような麺とスープを温めて朝・昼食とする。

昨夜書いた火炎樹日記に追加の文章を書く。

昨日、京都の豊田さんが持ってきてくれた3冊の本の
中身を概観する。

何から読み始めようかと・・・・・。

満州演義9を読みたい所だが、息子の本を最初に読むのが
「仁義」だと思い、
「福島に農林業を取り戻す」(みすず書房)
を読み始める。

序章の「なりわいの再生」を読む。(濱田武士氏著の部分)

午後6時、宿舎を出て市内の「コードーレストラン」へ。


新日本語教師の古竹先生と北浦先生、富岡先生で
「顔合わせの夕食会」をする。

古竹先生は、佐賀県。北浦先生は、大阪出身。


空芯菜の炒め物


ゆで豚肉と発酵エビの唐辛子入り


午後6時過ぎから8時過ぎまで懇談。


JASSベトナム事務所・日本語学校での仕事、フエでの
生活などを富岡先生・私などが話し、お二人の出身地の
様子などを伺う。これからしばらく、フエでの日本語学校
ベトナム事務所・日本料理店での仕事などに就いて、
簡単な打ち合わせをする。

明日、午前8時半にベトナム事務所員に紹介。
その後、日本語学校の打ち合わせ。

二人の先生の健康を祈る。

午後8時半過ぎ、徒歩で帰宅。

洗濯。

投稿者 koyama : 19:56 | コメント (0)

2015年03月28日

新日本語教師「北浦先生」の出迎え・豊田さん来訪

朝から雨。気温が下がり、寒い。部屋でも長袖を着ている。
気候の変化に体がついて行けない。


午前7時朝食。「フォー・ガー」(鶏肉米麺)


午前中、横になっている。


午前11時半昼食。食欲なし。

「肉団子入り春雨麺」

午後、いくつかの仕事。

4月6日から12日までベトナムに来るSさんからメールが届く。

30歳代からの友人。東京の教職員だった仲間。

ハノイ→ハロン湾→ダナン→ミソン遺跡→ホイアン
→フエ→ダナン→ハノイとベトナム北部・中部を中心とした
ツアーを企画し、11人の元教職員の皆さんと一緒に
ベトナム旅行をする。大体、私と同年齢の皆さんである。

フエ・「子どもの家」・私の話、などの訪問希望などを伺う。

午後5時半直ぐ、雨の中宿舎を出て日本料理店へ。

今日は14人の来客あり。

「京滋YOUの会」・豊田観光の豊田社長が日本料理店へ。

今日から3日間、京都の植木・植物関係の方々を
同伴し、フエへ。

午後9時前に日本料理店へ立ち寄ってくれる。

3冊の本と新聞、薬を持って来てくれた。缶野菜ジュースを
2カートンも持って来てくれる。私の体調が悪いのを日記で
知り、食事が出来ない時でも食事の代わりになるとのこと。深謝。

豊田さんが持って来てくれた本の1冊。

「三国志演義9 残務の骸」(船戸与一著 新潮社)

今、一番読みたい本。

「三国志演義」は平均470ページ程の本である。
既に1巻から8巻までは、豊田さんが持って来てくれたので
読了。ベトナム事務所の日本人スタッフにも読むよう薦め
ている。

これは、安倍首相の祖父岸信介が、事実上の事務局長役
となり、デッチあげられた「ニセ国家」、満州国。
日本の軍部・「革新官僚」(岸信介などを指す)などが、
何を考え、実際にニセ満州国を作り上げて行く過程を
詳述している。作者の船戸与一氏は、10年間かけて
9巻の分厚い本を上梓した。
船戸氏は、新聞のインタヴューで次のように語っている。

はじめは、「満州事変」にに疑問を持ちつつ、満州国の
大使館の責任者のひとりとなる主人公の一人・長男の太郎。
「歴史の荒波を自力で泳ごうと
すれば、価値観の溺死が待っている」と。

====

以下、私見。戦争が進み、満州国が出来つつある時期になると
「高揚感」を感じ、徐々に戦争に積極的に関与していく。
馬賊のリーダーとなり、最後は南方の戦いに参加し、
食糧補給がなく、餓死する次男。餓死する直前「破壊行為が
単なる生活手段と化したのは、いつ頃だろうか」
とつぶやき、失った片目から「うじ虫」が出てくる。
三男は関東軍の憲兵幹部。「匪賊」と称し、国民党軍
共産党軍の討伐を指揮する。
四男は、左翼劇団に入り,検挙。満州鉄道の演芸部に
所属し、満州事変に懐疑的だあったが、徐々に戦争に
飲み込まれ、関東軍のスパイ活動を補佐する仕事をする。
4人の男兄弟の生き方を通して、満州国を建国、その中で
一人ひとりの人間がどう生きてきたかを詳述している。
けして「反戦」の文学・小説ではないが、その奥底に、
戦争になれば、良心も理屈もなく、残虐性と殺戮に
人間は狂奔していくという過程と結果が詳述されている。

新潮社「満州国演義」1巻~9巻をお勧めしたい。
特に20代・30代・40代の皆さんに。

一番薦めたい方は、戦争ごっこ大好きな「安倍首相」
である。
祖父の岸信介氏が満州で何をしたかを知ることで
戦争の実態、残虐性の真実を知ってもらいたい。

原稿用紙で「7500枚」の大作である。

一読の価値は十分ある。

「こんな筈ではなかった」と思いつつ、戦争は進んでいく。
最初は高揚し。しかし、最後は、動物の様に死んでいく、
これが戦争の実態なのだ、と私は1巻~8巻を読んで
感じたのであった。
当時の関東軍の幹部の発言・行動と安倍首相の行動
発言があまりに相似していることに驚き、頷く。
ファシズム・ファシストはいつの時代も本質的に
同じ行動様式を取る。ただ、時代に合わせて、洋服を
着替えるだけである。最終的には、国民が「騙されるか?」
「冷静に分析し、気づき、拒否するか?」にかかっている。

1941年12月7日(日本では8日未明)の
真珠湾攻撃の「勝利」に提灯行列をして熱狂した
日本国民であった。「前者の轍を踏まない」ことを
本書から改めて学んだ。娯楽性もあり、読んで
いて全く飽きない。

満州国演義(船戸与一著)1巻~9巻を強くお奨めしたい。



「福島に農林漁業を取り戻す」(濱田武士・小山良太・早尻正宏著)
みすず書房

・執筆者の一は愚息小山良太(第1章・2章執筆) 


鶴見俊輔 「流れに抗して」(編集グループSURE)



午後9時過ぎ、バオミン・ホテルに着いた新日本語教師
北浦先生」を出迎え、挨拶。今後、1年間の日本語学校
での生活・仕事をお願いする。
1年間、健康に気をつけて、日本語学校で頑張って欲しい。


バオミン・ホテルから日本料理店に戻る。

日本料理店の片づけを3人のスタッフと行い、帰宅。

投稿者 koyama : 18:52 | コメント (0)

2015年03月27日

日本料理店

午前7時前起床。昨夜、ねかなか眠れず、明け方眠りに
ついたため、朝、起きられなかった。

午前7時朝食
「チャオ・バイン・カイン」(小麦粉の手打ちうどん)

午前中、いくつかのスタディーツアーの内容確認。

体がだるく、横になっている。

午前11時半、昼食。食事の量が多すぎるので
困っている。(少なくして欲しいと何度もお願いしているのだが・・・)

野菜サラダ、魚フライ、野菜スープ、ご飯。

野菜スープ・魚のフライは油が多いので喉を通らない。

午後2時間程昼寝。

今日は朝から「雨模様」。このところ、真夏の太陽が出るかと
思うと、雨が降り、寒くなる。気候の変動が大きい。
体が付いてゆけない。

読書「志ん朝の落語 3」(ちくま書房)

最終章。「花見の仇討」を読み始める。

午後6時、小雨の中日本料理店へ。


中国人・日本人など来店。

午後9時過ぎ閉店


投稿者 koyama : 18:51 | コメント (0)

2015年03月26日

フエ「解放」記念日休日

曇り 肌寒い

今日は、40回目の「フエ解放記念日」。
1975年3月26日、北ベトナム軍・解放戦線が
フエを占領・「解放」した。それから約1ヶ月間かかって
南下し、1975年4月30日、旧大統領官邸(現、統一会堂」
に北ベトナム・解放戦線軍が突入し、ベトナム戦争、
アメリカのベトナム侵略戦争は終結した。
あれから40年たった。
既にベトナム戦争後に生まれた子どもが人口の過半数以上
に達し、「戦争を知らない世代」が社会の中心になりつつある。

1975年当時、大学生だったり、南ベトナム軍に徴兵され
軍事活動に参加した人も65歳以上となり、第一線を
退いている。

ベトナム戦争の風化は「ドイモイ政策」の進行と同時に
ベトナム社会と経済を限りなく「資本主義化」「格差社会」
へと導いている。

電動バイクでフエの町を一巡した。町にベトナム戦争勝利、
ベトナム革命万歳などという空気は全くなかった。

「金星紅旗)(ベトナムの国旗)が、ほぼ全ての家庭に
掲げられていた。と言っても元南ベトナムでは、
自主的に「金星紅旗」を掲げる家庭は少ない。

ベトナム共産党の下部組織・統一戦線組織である
「祖国戦線」は、勝手に私たちの事務所に「金星紅旗」
を設置していってしまった。そんなふうな形で
町中に「国旗」が掲げられている。

20年前のように町中で宣伝カーがスピーカを使って
が成り立てたり、様々な行事を行い、「ベトナム革命」を
大きく祝うという雰囲気はなく、静かな無風の3月26日では
あった。

ーーーーーーーー
今日はフエは休日。昨夜、人に頼んで料理のセンさんに
電話をしてもらい、「3月26日の食事は作らないで結構です」
との連絡をしてもらった。
そんなことで今日は安心し朝9時まで寝ていた。9時に起きて
1階の食堂を見ると料理のセンさんが、私が2階から降りて
くるのを待っていた。午前6時半からまっていたのだ。
申し訳なかった。午前9時10分に急いで朝食を摂り、
昼食を断った。

午前9時15分朝食。

「ブン・ボー・フエ」(牛肉米麺)

その後、昼過ぎまで当面の諸問題の整理


午後2時、読書「志ん朝の落語 3」
「お茶汲み」。

体がだるいので、横になり、浪曲を聴く。

廣澤虎造。

漫才を聴く。海原お浜、小浜。

午後4時頃、大衆食堂の「コムデイア屋」に夕食を買いに
行くが、どの店も販売を終わっていた。


ベトナム長粒米を炊いて、レトルトカレーをかけて
夕食とする。

投稿者 koyama : 17:51 | コメント (0)

2015年03月25日

宿舎で仕事・休息・日本料理店

午前6時起床 終日曇り・気温30度・湿度80%

血圧測定等。

午前7時朝食。 「フォー・ボー」(牛肉米麺)


いくつかのメールを送信。

体がだるいので横になる。


浪曲「石松三十石船道中」(二代目廣澤虎造)


3月下旬の日程等を整理、確認する。


落語「戸田の渡り」(8代目林家正蔵(彦六)

午前11時半、昼食。

「チャオ・バイン・カイン」(小麦粉の手打ちうどん)


昼から1時間程、昼寝。

午後、いつくかの仕事を進める。

日本からメール受信。

午後6時、徒歩で日本料理店へ。




日本人・欧米人の来客あり。

午後9時過ぎ閉店。

===========================

安倍首相の自衛隊「我が軍」との発言を糾弾する


 安倍総理が先週、参議院の予算委員会で
自衛隊を「我が軍」と呼んだことに、野党側が反撥している。
政府の公式見解で自衛隊は、「通常の観念で考えられる軍隊
とは異なる」とされているからである。

以下、安倍首相の発言と文脈

 「我が軍のですね、透明性を正に一緒に訓練する訳であります
から、(透明性を)上げていくということにおいては
、大きな成果を上げているんだろうと」(安倍首相)

安倍総理は、自衛隊と他国との訓練について尋ねられた際、
このように述べ、自衛隊を「我が軍」と呼んだ。
その上で安倍総理は「自衛隊は規律がしっかりしている。
しっかりとした責任感と規律の下で、平和に貢献していこうと
していることが、多くの国々に理解されているのではないか」
と述べた。

ーーー

菅義偉官房長官は25日午前の記者会見で、
安倍晋三首相が20日の国会質疑で自衛隊を「我が軍」と
答弁したことをめぐり、「自衛隊は我が国の防衛を主たる任務としている
。このような組織を軍隊と呼ぶのであれば、自衛隊も軍隊の一つ
ということだ」と述べた。

====
日本国憲法9条では、以下のように規定されいる。


日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

●2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

=====
上記日本国憲法9条にも明確に規定されているように

●2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない

安倍首相・菅官房長官が個人的にどんな意見を持とうと
自由であるが、現に、国家権力を持っている中枢の人物が、
憲法の規定を無視して、自衛隊を軍隊と公言することは
首相・官房長官という職に在籍することは出来ない。
日本国憲法違反・否定の「非行行為」である。

立憲主義・法治主義は、国家権力をもった人間の
暴走をしばるために、憲法という最高位の法で
権力者をしばるものである。
権力者は、最高位の法に従う義務があり、従えなければ
退職するしかない。

ーーーー
このところ、安倍自民党の暴走は、常軌を逸している。
保守も革新も「戦前の戦争を反省し、二度と戦争をしない」
決意を持って戦後の「復興と平和な民主主義社会を作ろう」と
という共通認識で、70年間かけて今日の日本を
作ってきた。

安倍首相が個人的にどんな意見を持とうが、首相として
日本国憲法を遵守する義務が憲法で義務付けられている。

安倍首相の最近の言動は、憲法や法律を無視しての暴走
であり、「無法内閣」、日本国憲法という「リング」の中での
論争から、勝手に場外に出てしまって、やりたい放題の
暴走をしている。憲法という「リング」内に戻り、その中での
論争をすべきであり、憲法というリングの中では、安倍首相・
菅官房長官など安倍内閣は、無法集団である。
最高位の憲法を無視している安倍首相・菅官房長官は
政治的「テロリスト」(憲法や決まり・ルールを無視する)
といわれても仕方がない。

安倍内閣が早急に「憲法」というリング内に戻り、論争を
することを望む。

投稿者 koyama : 18:11 | コメント (0)

2015年03月24日

日本語学校運営について協議

午前6時起床。

血圧測定。毎日記録しているので余り気にして
いなかったが、2000年7月8日から毎日測定ている。
15年近く、毎日朝起きて排尿して直ぐに血圧を測定し、記録し
している。薬のお陰もあり、常時、安定した『範囲内』の数値で
推移している。日本へ帰り心臓病院へ行く際、印刷して
担当医師に渡している。

火炎樹日記は、2002年8月2日から病気時を除いて
ほぼ毎日書いている。余り内容はないが、何事も
飽きずに続けることも「芸の内」だと思っている。


午前7時、朝食。芸術的且つ天才的ともいえる
「マンネリズムの食事」が毎回・毎週続く。
食べ物に文句を言うと「罰」が当たるので・・・。
ただ、とにかく肉類・脂類など「油脂」が多いので、
体が受け付けないことが多々ある。
さっぱりした「そうめん」などが無性に恋しくなること
が多い。年齢的なこともあるのだろうか・・・?

朝食「チャオ・バイン・カイン」(小麦粉の手打ちうどん)

午前9時過ぎ、徒歩でベトナム事務所へ。

4月から勤務する新日本語教師が来訪する。
3月28日(土)には、北浦君(1年間)
3月29日(日)には、古竹さん(3ヶ月)

新日本語教師のための事前準備をするための
打ち合わせ会議を行う。

・バオミン・JASSベトナム委員長
・フーンJASS日本語部長・
・富岡先生(4年間JASS日本語学校教師経験)
・小山


●二人の「日本語教育ガイダンス」
●バオミン・ホテル等の部屋について
●日本語学校の授業数等
●新日本語教師のベトナム事務所内での机等
●その他


会議の途中から豪雨。

日本語教育会議の後、バオミンさんといくつかの件で
打ち合わせ。

途中で豪雨がやみ、徒歩で宿舎へ。

午前11時半。昼食。「鶏肉入りのおかゆ風汁かけご飯」


食後、インターネットで浪曲を聴く。

二代目広沢虎造の「国定忠治」を聞く。
縄張り争いで相手の親分を切った国定忠治。
子分の板割の浅太郎の叔父で十手持ちの「勘助」が
国定忠治を狙っていると勘違いし、忠治は、板割の
浅太郎に叔父勘助を切るよう命じる。
浅太郎が叔父勘助の所へ行くと、勘助は国定忠治を
応援している、密かに公儀の追っ手から逃してやろうと
思っているという。そして、国定忠治は勘違いをして
自分が『公儀の犬』だと思い、甥の朝太郎に自分を
殺せと命令したと理解し、自刃する。
勘助には、勘太郎という幼子がいる。浅太郎は、
幼子の勘太郎を背負って、赤城山に籠っている国定忠治
のもとへ帰り、叔父を殺したと報告し、叔父が、
「忠治は赤城山を下りろ」と忠告していることを告げる。
忠治は、赤城山を下りる。

明治から大正・昭和にかけて「浪曲」は大流行した。
丁度、その時代を我が父親は過ごしてきた。
向島で過ごしたので、浅草などは近く、浪曲や寄席が
大好きだったようだ。
子どものころ、いつもラジオで浪曲や寄席を父親は
聴いていた。その影響もあり、私も浪曲も好きだし、
落語、講談も大好きだ。
小学校高学年になり、母親から30円から50円程の
小遣いをもらい、板橋区仲宿にある古本屋へ行き、
3日か4日に1冊の割合いで「講談本」を買って読んだ。
講談本は戦前の庶民の娯楽の本。漢字で書いてあるが
難しい漢字でも「ルビ」(ひらがな)がふられていたので
小学校高学年頃には、相当難しい漢字も読めるように
なっていた。「国定忠治」「日光の円蔵」「清水の次郎長」
「猿飛佐助」「真田十勇士」「霧隠才蔵」「忠臣蔵」など
戦前の庶民が読んだ講談本はほとんど小学校高学年頃
には読んでしまった。

午後6時、徒歩で日本料理店へ。

途中、玄米パン売りがいた。薪で火をたき、
スチームで玄米パンを蒸かしている。
私が小学校の頃、東京にも同じように自転車で
玄米パンを売る人がいた。60年近く前だろうか?

午後9時半、閉店。今日は10数人の来客あり。

今日の売り上げの計算をするスタッフ。



午後10時、宿舎へ帰る。

その後、火炎樹日記を書く。


投稿者 koyama : 17:31 | コメント (0)

2015年03月23日

ベトナム事務所の財政状況を論議する

快晴

7時朝食。

「ブン・クアー・ボー」(かに・牛肉米麺)



午前8時45分、徒歩でベトナム事務所へ。






JASSベトナム委員長のバオミンさん、
会計部長のハンさんと現在のJASSベトナム事務所の
財政状況を分析する。

かなりの赤字状態。

①JASS観光の訪問者が激減
  地球の歩き方スタディーツアーの参加者が
  最盛時年間400人。昨年32人、まで減少。

②事務所家賃年額200万円の負担の重さ
③日本料理店の赤字 
 収入は支出の3分の2から半分程度。
 (電気代・ガス水道代・家賃を除いて)
 実質は、収入は支出の半分程度。
  実際の日本料理店の開店時間は3時間程度。
 他の日本料理店は、午前10時か午後11時半まで
 開店している。

④物価が異常に高騰し、現在の里親会費年額42000円、
 協賛会員会費5000円では、現地の運営は難しい。
 物価が2倍、3倍と上がっている現状を踏まえ、
 検討せざるを得ない。

午前11時、会計検討会議を終わり宿舎へ。
途中で「子どもの家」の卒業生「チュック君」が
「先生・先生」とオートバイで呼びかける。

姉のチャンさんと長年「子どもの家」に在籍し、
今は、フエで仕事をしているとのこと。

オートバイの後ろに乗れ、とのことで載せてもらい
宿舎へ帰る。
「子どもの家」へ入所した頃は、小学校の低学年だった。
里親に恵まれ、真面目に成長した。

チュック君の成長を見ると、「私は長い年月をフエで過ごしたな」
との思いが頭を過ぎる。


午前11時半、昼食。


「豚肉と魚入りのブン麺」



昼食後、2時間程昼寝。


富岡先生から電話。日本料理店調理主任が「風邪を引いて、
今日は休む」とのこと。調理が出来るのは、調理主任だけ
なので、今日の日本料理店は休店とする。

午後、日本語教師教師希望者へメール送信。


富岡先生と電話話、新日本語教師2人が3月末に
訪越する。3月29日(日)の夜、顔合わせ会食をする
ことを話し合う。


投稿者 koyama : 20:01 | コメント (0)

2015年03月22日

半日休息・半日仕事

午前9時起床。暑い


昼、大型スーパー近くの「お弁当屋」へ朝・昼兼用弁当を
買いに行く。150円。

午後、当面の訪問者、日本語教師募集、財政問題などに
ついての私見をまとめる。

GMILが「ウイルス感染」したようで、写真用PICASAが使えなくなった。

今日は、ゆっくりと休んだ。

洗濯。

軽く「麦水」を飲む。

午後2時から落語を聴きながら昼寝。

夕方、目を覚まし、当面の問題について意見をまとめる。

投稿者 koyama : 21:10 | コメント (0)

2015年03月21日

ベトナム事務所アンさんの誕生会

午前6時起床

血圧測定。通常。

午前7時朝食

「チャオ・バイン・カイン」(小麦粉の手打ちうどん)

午前8時半過ぎ、宿舎を出てベトナム事務所へ。

今日は、ベトナム事務所員のアンさんの00回目の
誕生日。誕生祝いをする。

富岡先生から誕生ケーキ贈呈



ベトナム事務所員全員の寄せ書き贈呈






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アンさんは、4ヶ月の女児のお母さん。


ベトナム事務所前のビル工事現場。

私が子どもの頃の日本と同様に基本的には、「人力」
を使っての建築工事をしている。


しばらくお茶やジュースを飲みながら、話し合う。

午前11時半、昼食。

「魚いりのおじや」とマンゴー


マンゴーは本当に美味しい。甘く・かすかに酸味もある。

日本で食べるマンゴーは、強いにおいがあり、レモンなどで
臭いを消さないと食べられない時がある。


食後、2時間程昼寝。

その後、横になり読書。

「志ん朝の落語 3」(ちくま文庫)

「五人廻し」
「干物箱」
「付き馬」

当面の諸課題について、様々な角度から考える。

午後3時半、ラジオ短波放送で「ラジオ日本」で
相撲中継を聴く。

午後6時、徒歩で日本料理店へ。



午後9時過ぎまで来客あり。

日本料理店を出て宿舎へ帰る途中、22年前に大学で日本語
を教えた教え子の「チーラン」さんに会う。

更に徒歩で宿舎へ帰る途中、リー君などの
「飲み軍団」に路上で出会う。

20分ほど、お付き合い。

リー君の弁。
「又、新しい恋人が出来た」とのこと。

これで何人目だろうか?

今回はフーテンの寅さんにならないことを祈る。


午後10時、宿谷へ到着。

宿舎で今日の飲酒学習の不足分の補習兼復習をする。


投稿者 koyama : 18:08 | コメント (0)

2015年03月20日

日本語教師募集の現状と今後の進め方会議

午前5時、目覚める。  

午後3時、室内気温35度(エヤコンを使っても)

このところ、とにかく暑く、湿度が高いので気分が悪く・だるくなり
困っている。

午前7時朝食。「精進ブン麺」

今日は「旧暦」の2月1日。ベトナムでは、旧暦の1日と
15日は、「精進料理」を食べる。

右まぶたの上が、原因不明で「腫れる」。困ったものだ。

午前9時、徒歩でベトナム事務所へ。朝から30度を超える。
とにかく「暑く」「蒸し暑い」。体力を消耗する。

ベトナム事務所前で「包丁」や「はさみ」研ぎ屋さんが
仕事をしていた。私などが子どもの頃の池袋にも
同じ「はさみ研ぎ屋さん」が町を巡回していた。

ベトナム事務所近くの路上の「研ぎ屋」さんに
「1つのハサミを研ぐのに何分位かかりますか?」と聞く。
「40分」とのこと。1つのハサミを研ぐのいくらになりますか?
「50円位」とのこと。

フエでのこの種の路上での仕事も「近々」になくなってしまう
のだろう。フエも資本主義が浸透し、「大量生産」「大量消費」。
コンビニ・スーパーで物を買う時代にはいりつつある。

包丁研ぎ師、玄米パン売り家、路上の「時計修理人」
『路上の自転車・オートバイ修理人』などが、なくなっていく
ものと思う。


ベトナム共産党の主張する「近代化」「現代化」は必然的に
この種の「手仕事の丁寧な仕事」を放逐し、同一規格の
大量商品を購入し、使い捨て時代に入ってきたのだ。
日本の辿って来た道でもある。

近々にフエの町から「丁寧な手仕事」が消えていく。

ベトナム事務所へ。

スタッフの皆さんは真面目に仕事をしている。感謝。



日本語教師募集の現状と今後の取り組みについて、
バオミンさん・日本語部長のフーン先生、
日本語教師募集担当の富岡先生と打ち合わせ。

①1年間通して日本語教師をしてくれる「K君」が名乗りを上げ、
 3月28日フエに赴任する。2016年3月末まで。
 途中7月、11月の2回日本へ帰り、3ヶ月のビザを取得し、ベトナム
 へ戻る。

②1年間を4つに分け、日本語教師を募集している。(一人3ヶ月)

 ●第1期(2015年4月・5月・6月)教師決定
 ●第2期(      7月・8月・9月) 未定
 ●第3期(      10月・11月・12月)希望者あり・未定
 ●第4期(2016年1月・2月・3月) 未定

午前11時半、昼食。

大量の野菜サラダ、イカ煮、スープ。長粒米

寮が多いので、3分の1程食し、もったいないので冷凍する。


最近、体中に「赤い湿疹」が出て、困っている。
体力・抵抗力が相当低下していることの証と思う。

食後、読書。

「志ん朝の落語3ー遊び色々」

「居残り左平次」を読む。

テープでは何十回と聞いている噺である。言葉も聴きなれている。

廓噺は、既にその種の場所がなくなっている上、100年以上前の
話である。

お客さんが、言葉の理解が出来ない現状では、同じことを
別の言葉で説明するという少し、間が抜ける噺となってしまう。

昔なら吉原へ行こうという時には、「中(なかへ行こう)」といい、
品川は「南」へ遊びに行こうと言ったそうだ。
今、『中」も「南」も分からないので、
「おい、中へ行こう、吉原にな」とか「南にあすびにいこう」品川にな、
などと2度同じ言葉を使わないと落語が通じなくなってしまう時代
ではある。人によっては、「だれてしまう」という人もいるし、
多くの人に落語を知ってもらいたいという人もいる。

文章にするとその意味がわかるものもあれば、文章にしても
意味の分からないことも多い。江戸、明治、大正の頃のはなしなので。

居残り左平次のテープは「眠り薬」のように寝る時に何度も聞いて
いるが、意味の分からない言葉があった。

「夕方、4時、5時、6時。あたりが小暗くなると、方々の妓楼(みせ)で
下足札を撒いたり、羽目板を叩いたり、チュウチュウ鼠鳴きなんかが
始まるよ」という言葉が出てくるのだが、妓楼が夕方開店する頃、
何故、下足札を撒くのか? 羽目板を叩いたり、鼠鳴きが
聞こえるのか? 

今回この本を読んでその意味が初めて分かった、と言っても
昔の妓楼がどうだったかを知るだけのことなのだが・・・・
何の意味もないことではあるが・・・。

昔の妓楼(吉原・品川・・)は、夕方、開店する時の儀式として
行っていたことだそうだ。100年も前のことなので、体験者も
ほぼ絶滅している古典ではあるが。

「紐をつけて束ねた大量の下足札を撒き、それをたぐりよせ
る時に羽目板を叩いて、鼠の鳴き声を真似したそうだ。
「チュウ・チュウ」と。鼠が餌を引くように、大勢のお客さんを
妓楼に引き入れるための妓楼の開店行事だったそうだ。
この40年近く、何故との疑問を持っていたが、意味がわかった。
噺家は意味なくしゃべっていないことが理解できる。

左平次という言葉も人形浄瑠璃や歌舞伎・寄席の符牒で
「左平次をあがく」と言う言葉があるそうだ。「魂胆を持って口車
回す」という意味。はじめから騙そうとして、適当にうまいことを
言うことを「左平次をあがく」といっていたそうだ。

居残り左平次の噺は、正に「口先男」が妓楼で口先だけで
「無銭飲食」する噺である。


午後5時半、徒歩で日本料理店へ。

途中、その一族の廟があるのだが、旧暦の1日は
一族の祖先に感謝するお供えをする。

故人の家庭でも祖先への感謝の気持ちを表す。

最近は、日本では絶滅に近い慣習ではある。


日本料理店では、スタッフの夕食の準備。


店長のトゥオイさん



調理のハンさん


接客主任のグエットさん



午後9時閉店。一定の来客あり。

投稿者 koyama : 10:11 | コメント (0)

2015年03月19日

日本語教師募集打ち合わせ

午前6時半起床

午前7時朝食
チャオ・バイン・カイン(小麦粉の手打ちうどん)


午前9時ベトナム事務所へ。富岡先生と打ち合わせ


午前中、横になっている。


午前11時半、昼食。食欲なし。

「らー麺風の細い麺」

午前中から水が酷く「にごって」いる。


バオミンさんに聞くと「今日は、水道会社が水道に「圧力をかけて」
水道管の中のゴミ・汚れを取る作業をしているとのこと。

どんぶりに『汚い水道水』取って見る。

午後4時、ベトナム事務所へ。ハンさん、ミンさんと会計の話。

その後、バオミンさん・富岡先生と新日本語教師募集についの
打ち合わせ。

午後5時前、宿舎へ。

バオミンさんの話では、ハノイからダナンまで猛暑とのこと。
とにかく例年になく暑い。短時間しごとをすると「体がだるく」なる。

桂米朝の死去を悼む。

投稿者 koyama : 21:09 | コメント (0)

2015年03月18日

日本語教師来訪についての意思統一


午前6時半起床

朝食「フォー・ガー」(鶏肉米麺)



午前中、ドンバー市場付近の電気街に電灯を買いに行くが
適当なものがない。

午前9時、ベトナム事務所で日本語学校・日本語教師の
件で打ち合わせ。
小山・バオミンさん・フーン日本語主任・富岡先生


2015年1月1日から外国人のベトナム渡航は3ヶ月までしか
ビザが出ない。長く日本語教師をする場合は、3ヶ月で一度
日本へ帰国し、在日ベトナム大使館か総領事館で新たに3ヶ月の
ビザを取得し、新しい航空券を購入し、ベトナム事へ行くという
システムに変わった。

1年間、フエで日本語教師をする場合には、3回3ヶ月間の
ベトナム入国ビザを在日ベトナム大使館で取らなければならない。
その度に日本へ帰国する。

2015年4月~2015年3月までの1年間、フエで日本語教える
日本人日本語教師の訪越問題を協議。

3月末に新しい日本人の日本語教師が赴任する。
1年間、フエで日本語を教える予定である。

新しい先生と更にもう一人は、3ヶ月1回のビザで
入国する日本人教師の二人体制で日本語学校を
運営することとし、早速ン3月28日には、新日本語教師
の第1陣が訪越する。

今後の日本語学校の運営方針等をフーン日本語部長
富岡先生、バオミン・JASSベトナム委員長と私で
意思統一する。


午前111時半、昼食。

「肉入りいじや」「茹でキャベツ」



疲れる。夕方まで横になっている。

読書『志ん朝の落語」。古今亭志ん朝の高座を忠実に
文章に起こしたもの。

・愛宕山
・寝床
・三枚起請
・佐々木政談
・居残り佐平次
・蔵前駕籠
・五人廻し
・干物箱
・付き馬
・羽織の遊び
・お茶汲み
・花見の仇討ち

「羽織の遊び」だけは、テープ等で聞いたことがない。

午後4時、ソン君が「切れてしまった宿舎の電灯」を
5つ買って来てくれる。感謝。

電球がないと夜、部屋が真っ暗になり、薄気味悪い。

P6:30 富岡先生と電話で日本語教師歓迎・打ち合わせ
の件で相談。


午後7時、リー君から電話。「今から飲みに行きましょう」との
お誘い。「体調不良で行けないと断る。「お金を少しください」
とのこと。理由は、いつもの「弟の家族の支援」とのこと。
既に2回、刑務所に居る弟の家族の支援金は上げている。
「飲み代」がないので、頂戴いと言うことだろうが、同じ手を
3回も使うのは、上手ではない。

体調不良。

投稿者 koyama : 17:20 | コメント (0)

2015年03月17日

体調を崩し、終日寝ている

今日は、朝食と昼食を断る。
センさんの作る「脂っ濃い」ベトナム料理は食べられない。
食欲なし。


午前11時頃、1合のベトナム米を炊飯器で炊く。

3つの「おにぎり」を作り、中に支援者から頂いた「梅干」
を入れる。

昼に1つ、お茶で食す。

以後、体がだるく夕方まで寝ている。今日の気温は30度を
ゆうに超えていた。暑い。エヤコンが余り利かない。

夕方、おにぎりを1つ食す。

そのまま、横になり「落語」聴く。今日は、故立川談志を聴く。
東京の談志と関西の故桂枝雀は「アクが強く」嫌いだ。

一応、談志の落語の主なものを聴く。
廓話など、良く勉強している。江戸時代、蔵前から吉原まで
行く町並み、舟で吉原付近まで行く道中と付近の風景、
大名の屋敷などを知っている。他の噺家の同じ話を
聞いても談志ほど詳しく、話していない。

故桂枝太郎に若い頃の談志が明治時代の頃の東京、
吉原などの話を聞くコーナーもあったが、当時の
東京駅が出来る前の丸の内あたりは、草っ原だったそうだ。

夕方になっても体が動かない、食欲なし。困ったものだ。

新日本語教師は少しずつ決まってくる。

関係者にメールで現状報告をする。

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安倍自民党はここまで来たか・・・・・・・

「無知蒙昧・国会議員として恥かしい『無知・無能』を
露呈した、自民党三原じゅん子」


自民党三原じゅん子氏は16日、多国籍企業の課税回避の問題に
関する質問で、以下のように述べた。


「日本が建国以来、大切にしてきた価値観『八紘一宇』。八紘一宇の理念のもとに、世界が一つの家族のように、むつみ合い、助け合えるように、そんな経済及び、税の仕組みを運用していくことを確認する崇高な政治的合意文書のようなものを、安倍総理こそがイニシアチブを取って、世界中に提案していくべきだ」(自民党・三原じゅん子参院議員)

 

『「八紘一宇」は、戦前、天皇の大きな屋根の下に国民は
天皇の庇護を受け、忠誠を近い、アジア侵略を進める』
という合言葉、スローガンとして掲げられた文言である、

時代錯誤・無知蒙昧という言葉があるが、「八紘一宇」
という言葉がアジア・太平洋戦争で、中国・朝鮮・ベトナム
など日本軍国主義の海外侵略の「合言葉」だった汚辱と
鮮血にまみれた言葉だったと言うことを「三原じゅン子」
はご存じないようだ。


アジアで2000万人、日本300万人以上がなくなたアジア・太平洋
戦争。侵略戦争のスローガンが、「八紘一宇」だったことを
三原じゅん子は、しっかりと学ぶべきだ。

安倍政権は、グローバル化を呼号しているが、
今の時代、「八紘一宇」などいう時代錯誤の言葉を
使うこと自体、三原じゅん子の無知蒙昧を
公言していることを自身が知るべきである。

八紘一宇という天皇を大きな屋根にして、アジア諸国は
その軒下に入る、という海外侵略に使われた「汚れきった」
言葉を無知な三原じゅん子が使うのは、いかがなものか?

・満州事変・日中戦争・第2次世界大戦・アジア太平洋戦争で
「八紘一宇」という
言葉が「海外侵略」の合言葉として使われてきたを
三原じゅん子は学習すべきである。
多少、知性のある人間なら恥かしくて使えない
汚辱にまみれた言葉である。
自分の無知蒙昧を国会で露呈しても、その意味さえ
分からない、三原じゅん子さんは、可愛そうではある。
安倍首相が目指す「自主憲法制定」「集団的自衛権」
の内実は、実は、こうした戦前回帰、「八紘一宇」精神
であることが分かる。海外では全く通用しない言葉。

アジア・太平洋戦争を反省して成り立った戦後の
我が日本国であり、日本国憲法を制定した。
そのわが国の国会で「八紘一宇」という穢れきった
言葉を意味も知らずに使う自民党の国会議員が
現れたことは、恥かしさを知らない以前に安倍首相の
取り巻きの中では、通じる言葉になっているのあろう。
安倍内閣の目指す方向を知った思いである。


======

「日刊ゲンダイ」によれば、

『一昔前なら大問題となったはずの暴言だが、16日の参院予算委で三原議員の発言をとがめる議員はゼロ。共産党も社民党も黙って聞き流していた。この国はもはや行き着くところまで来てしまったのか』だそうだ。

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国会議員が若くなり、「八紘一宇」という言葉の意味が十分分からず
社民党・共産党の議員ですら、三原議員の「八紘一宇発言」にその場で
抗議しなければならないのだが、出来なかったということか・・・・。
情けない野党ではある。

八紘一宇など、日本国憲法の平和主義をを真っ向から否定する
過去の汚辱が染み付いた言葉である。国会で、口にすべきではない
言葉だ。三原じゅん子も三原じゅん子だが、野党も野党だ。
抗議すら出来ず、「聞き流したボンクラ野党」の政治責任大きい。


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それにくらべ、天皇・皇太子の発言の方が参議院予算委員会
でのボンクラ国会議員よりよほど立派である。
それを報道せず、隠している日本のマスコミの体たらく。


天皇誕生日の天皇の記者会見で、天皇は以下のような
発言をしている。

「日本は平和と民主主義を守るべき大切なものとして日本国憲法をつくった」と憲法への思いと評価を語ったが、NHKはここを流さなかった。

安倍首相の子分「籾井NHK会長」の威光を受けた
NHK幹部の意向であろう。

こういして安倍政権は、『日本国憲法』に異常な憎悪を
持っているいることが分かる。


===================
引き続き皇太子発言


「池上彰の新聞ななめ読み」(2月27日付朝刊)で取り上げた。皇太子さまが「我が国は戦争の惨禍を経て、戦後、日本国憲法を基礎として築き上げられ、平和と繁栄を享受しています」と語った部分が記事になかったことについて、「朝日新聞の判断は、果たしてどんなものなのでしょうか」と批判した。
池上氏の批判は真っ当なものである。皇太子が記者会見を
したのなら、全文を流すべきである。どうしても字数制限が
あるのなら、朝日新聞がカットした部分こそ、掲載すべき
言葉であった。朝日新聞幹部の腐敗堕落は頂点に達している。


====================

こうして日本のマスコミ幹部は、都合よく、安倍政権に擦り寄り

安倍首相との飲食・会食を続け、「懇ろの仲』になっている。
政府批判など出来ない一般新聞となっている事実を
私たちは知るべきである。

天皇・皇太子の方が、朝日新聞やNHKよりよほど
ましな発言をしてる。朝日、NHKは真実を
国民に伝えていない。

投稿者 koyama : 20:15 | コメント (0)

2015年03月16日

体調を崩すー終日寝ている:富岡先生と婚約者懇談夕食会

昨夜から体調を崩す。
昨夜、バオミンさんに電話をし、今日、料理のセンさんの
料理は作らないよう電話をしてもらう。

昨夜から今日の昼まで横になっている。
咳が気管支のほうから出て、止まらない。
体がだるく、おきていられない。

朝食を摂らず、午後1時頃、土曜日に料理のセンさんが
作って冷蔵庫に入れておいてくれた日曜日分の
食事(小麦粉の手打ちうどん)を『そばつゆ』に入れて
食べる。食欲なし。脂物は全く体が受け付けない。

午後も夕方5時頃まで横になっている。

午後6時前、宿舎を出て、日本料理店へ。

今夜は、昨日婚約式を行った富岡先生一家が
女性婚約者一家を招待して、日本料理店で顔合わせ
夕食会を行う予定。

日本料理店に行く途中で富岡先生から電話。

女性婚約者の妹さんが、来るのが遅れるので、
開会を30分遅くして欲しいとのこと。

途中から宿舎へ戻る。

午後7時過ぎ、日本料理店で両家の交流夕食会が始まる。

開会にあたり富岡先生が、昨日の婚約式のお礼を言う。


今夜は富岡家と女性婚約者家の夕食懇談会。
JASS日本料理店で行う。

富岡家側


女性婚約者家側

妹・弟・ご両親



各自日本料理を注文する。

日本側は日本料理が分かるが、ベトナム人側は、良く分からない。

今日はハンさんも出勤し、メニューにあるどんな料理でも
作ろうという意欲に燃えていた。
しかし、女性婚約者のベトナム人側が、日本料理を知らないため
注文が出来ない。

富岡先生側家族


女性婚約者側家族

午後10時前。富岡先生の閉会の言葉で両家の会食は
終了。



左側から女性婚約者の父親・母親・弟・妹・本人



最後に女性婚約者側を代表して父親がお礼と
今後末永くお付き合いをしたい、との意思を表明。

午後10時前、関係者が帰宅。

改めて日本料理店の門前を見ると「ベトナム国旗」が
勝手に掲げられている。

関係者に聞いて見ると「ベトナム祖国戦線」(統一選組織)が
勝手にテト前に国旗を日本料理店の壁につけて行ってしまった
そうだ。

恐るべき、行動。

日本料理店側の意見も聞かないまま、一方的に
国旗を設置するベトナム共産党の支配下にある
「祖国戦線」の実態ではある。

誰も異議申し立てが出来ない「ベトナム社会主義」の
現実。

午後10時過ぎ、日本料理店の店内の片付けを
グエットさんと一緒にして帰宅。

体がクタクタに疲れる。疲労が蓄積している。

やはりまだ体調は不完全な状態であることがわかる。

時間がある時は、部屋で横になっているのが一番良いと
思った。

明日は午前中、横になっているつもり。バオミンさんに
頼んで、料理のセンさんに電話をしてもらい「朝食・昼食」
の中止をお願いする。

徒歩で宿舎まで。午後10時半。


投稿者 koyama : 18:37 | コメント (0)

2015年03月15日

ベトナム事務所日本語教師「富岡先生」婚約式

快晴 猛暑

午前7時起床

シャワー。


午前8時半、徒歩で「バオミン・ホテル」へ。

今日は、「JASSベトナム」日本語教師の富岡先生
の婚約式。

お相手は「バオミン・ホテル」のレセプションで働いている
女性。

結婚式参加前私の宿舎近くで時々あった84歳のお爺さんが
なくなった。時々、すれ違う際に声をかけてくれて、話した仲
であった。お焼香をする。

午前9時、『バオミン・ホテル」へ。

既に富岡先生のご両親、二人のお兄さんが来ていた。
関係者も集合。



長野県の小諸から来られた富岡一家の皆さん(2人の兄を含む)


今日は、富岡先生とフロントの女性の婚約式。

形式的には、富岡一家がお嫁さんを「もらい」に行くという
形になる。「金銀財宝等」を持って、婚約者の女性の家に
行き、祖先に婚約を報告するという形式の婚約式である。


生きた子豚の丸焼きも贈呈


富岡一家の「嫁もらい・婚約行列」。

男女の子どもたちを先頭に20人弱の「金銀財宝」を持った
富岡家側の行列。


車に分乗し、ドンバ市場前の「自転車屋さんへ到着。


富岡先生のご家族の皆さんが、「みやげ物9指輪等・・・)」
を持って、女性婚約者の家へ入場。


女性婚約者の家では、家族、親類一同が、やはりみやげ物を
持って待っている。


富岡先生一家側は、ご両親と二人の兄とバオミンさん夫妻、
そして私。


女性婚約者側は、親類一同「総出」で待っている。



右(叔父さん)、左女性(婚約者の母親)

両家が、女性婚約者の祖先に「婚約をする」ことを報告する。



婚約者二人が女性婚約者の祖先へ「婚約をしました」との
報告をする。



女性婚約者の前で婚約リング贈呈。

祖先への婚約報告を終え、ほっとしている「幸せ」な二人。


祖先に婚約を報告した後、女性婚約者は、「富岡家」側に
入る。

婚約式の最後に両家の男性が「固めの杯」を酌み交わす。

三国志や水滸伝、日本のヤーさんもする「固めの杯」というものか?

息子に母親から婚約指輪贈呈


無事祖先の前で婚約が成立した。


男女婚約者とご両親


引き続き、フエ市内・JASSベトナム事務所付近の
レストランで「婚約記念」パーティーを行う。
多くの女性婚約者の親戚・友人・知人が参加。

富岡先生側は、ご両親、2人の兄、バオミンさん夫妻と
私。

会場レストラン前で



富岡先生の母親と女性婚約者


婚約記念パーティーの冒頭、女性婚約者の父親が挨拶。


続いて富岡先生の父親が参加者に挨拶


富岡先生のご両親が『婚約式記念パティー』参加者に
挨拶。

女性婚約者のご両親も富岡先生のご両親と一緒に
参加者に挨拶




料理・会食・カラオケが進行。午後12時過ぎに終了。

ご両家・ご両親


フエ名物の「海産鍋料理」

富岡先生の末永いご多幸をお祈りする。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

午後12時45分、宿舎へ徒歩で帰る。

飲んで疲れたので横になろうとしたら「停電」。

結局、夕方まで、30数度の室内に「軟禁状態」。
「停電攻撃」。

ボーッとしたまま猛暑のベッドで寝られないまま過ごす。


夕方までボーッとしていた。

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今日、東京の専修大学で「9条の会」の会合があり、
大江健三郎・澤地久枝さんなど400人が参加し、
安倍首相と公明党がすすめている「集団的自衛権」
安保法制に反対する集会を開いた。

私も福島県二本松市の「奥の松」を飲み、福島支援を
しながら、日本が「戦争をする国家になる」ことを阻止する
運動を一層進めたいと思っている。若者が、死地に行くような
戦争に日本の若者を派遣したくない。
集団的自衛権を推進したい人たちは、自分は「安全な所」
にいて、徴兵されない人間である。日本の若者が戦争で
死んでいくことは無駄死にである。外交努力をすべきであるが
日本は世界でも名だたる「外交下手」国家である。

どんな理由があろうとも「外交を優先し」外交で解決する
英知を日本国身は持っている。持っていないのは、安倍首相
と彼を取り囲む一部、「戦争好き集団」である。

何度も繰り返すが、ドイツの軍学者である「クラウゼビッツ」は
戦争は政治・外交の延長である、と言っている。
第一次世界大戦を研究しての結論である。

外交と政治がしっかりしていない国が戦争をするのである。

外交と政治がしっかりとした、わが祖国日本にしたいものである。

「戦争ごっこ」が好きな、お坊ちゃんに任せていたら、戦争ごっこ
が本当の戦争になってしまう。
今、国民が先の戦争の実態を熟知し、二度と戦争をしない
日本国を作る為に努力をすべきである。私もその一人として
生涯を「二度と戦争をしない日本国家を継続する』活動に
邁進したいと思っている。

投稿者 koyama : 20:08 | コメント (0)

2015年03月14日

夕方まで宿舎で仕事:午後6時、フエ市共産党委員長宅

午前6時起床。シャワーを浴びる。

午前7時朝食。「チャオ・バイン・カイン」(小麦粉の手打ちうどん)


午前中、日本語教師募集の件でいくつかの受信メール
への返信。

体がだるいので横になっている。咳が止まらず、痰がでる。

ベッドで横になり落語を聴く。古今亭志ん朝の「愛宕山}。
「巣豆腐」、「明烏」を聴く。この3つは、何度聴いたか
分からない。

3つとも先代の桂文楽の十八番。

徒歩でフエ市最大のスーパ「ビックC」へ。
バスタオルと石鹸を買う。

午前11時半昼食。『エビ入りのおじや』


2時間程、昼寝。

その後、ベトナム事務所の今後の問題について、いくつかの
文章を書く。

午後5時50分、バオミンさんがオートバイで迎えに
来てくれる。

フエ市共産党ユン委員長の自宅で夕食交流会に招待される。

ユン委員長の奥さん手作りの春巻きなどの料理が出る。
その料理も美味しい。

フエの山岳地帯「ナムドン」の清水で取れた「クレッソン」
美味しい。肉よりも野菜の本当の味が出ていた美味しかった。



イノシシの肉。油気がなく、さっぱりして美味しかった。


第2次大戦前に親がフランス人と結婚して生まれた84歳の
男性とその息子も参加。85才さんは、フランス語はうまいが
ベトナム語は、余り出来ない。息子はベトナム語は全く
出来ない。フエ市人民委員会外務部長。

それでも3時間ほど、楽しく過ごす。

フエ市共産党委員長ユン夫妻。フランス人とベトナム人のハーフ
のフランス人と。

今後の日越交流を一層進めることを話し合い、散会。

午後9時15分、バオミンさんのオートバイで宿舎へ。

投稿者 koyama : 23:09 | コメント (0)

2015年03月13日

秋田国際教養大学「子どもの家」訪問

午前6時起床

血圧測定等ルーティーンをこなす。

午前7時朝食。
「ブン・クアー・ボー」(牛肉・カニ入り米麺)

午前8時過ぎ電動バイクで「子どもの家」へ。
「子どもの家」の寮母さんと「子どもの家」の様子、
問題点などを話す。

午前9時半、ソン君が『秋田国際教養大学』等の
学生さんを引率して「子どもの家」へ。

「子どもの家」の施設案内。



こうしてソン君もJASSベトナム事務所・JASS観光の
立派なスタッフとして成長した。
訪問者の案内は、自分が嘗て住んでいた場所でもあるので
詳しく説明している。


午前10時、私の講演。

22年間の活動内容。JASSの海外ボランティア観の特徴など
を話す。
同時に教養がイコール「英語・外国語を話すこと」になっている
日本の「国際人・グローバルな人間を育てる大学」などと
銘打った日本の実情を厳しく批判する。外国語を話すことは、
飽くまで「道具としての外国語」であり、本当に大事なことは
その国の歴史、文化、伝統、国際的な政治情勢の中で
どんな位置にいるのか?などの実態・本質をしることこそ
国際化なのだ・・・と強調。

ベトナムに関して言えば、ベトナム語が話せるかどうかは
二次的な問題である。バオミンさんなどに通訳をしてもらえば
解決できる技術的な問題。
本質は、ベトナムの歴史、ベトナム共産党の歴史と共産主義
社会主義の本質を研究・熟知することで、一党独裁の
ベトナム社会主義国家でボランティア活動が出来るのだ、
との話をする。外国語を話すことは,飽くまで「ツール」として
道具としての補助手段であり、本質はその国を知ることである。

何故、22年間、「子どもの家」・子どもたちと付き合ってきたのか?
東京の教員時代の不満はなんだったのか? などを話す。

午前11時半。子どもたちと一緒に昼食。
『左の男子』は、チーラン通りの子どもの家から来た。


左の女児もチーラン「子どもの家」から来た。
両親はいない。人懐っこい子どもである。




国際教養大の「フェヤートレード」をして、海外支援を行っている
サークルの皆さんである。
中々、礼儀正しく、真面目な学生さんたちであった。

「自分たちが大学で出来ることは?」との質問があった。


昼食を終え、電動バイクで宿舎へ帰った。疲れた。

気候が蒸し暑い。気候の変動も大きい。

宿舎に帰り、直ぐに横になる。

しばらく休み、日本語教師就任・着任するとの
メールあり。

返信をする。

午後5時半、徒歩で日本料理店へ。

途中でチャーゾー(豚肉のハム)と「うずらのゆで卵」を買う。


午後6時時過ぎ、秋田国際教養大学の皆さんが日本料理店
へ来店。一緒に夕食を摂る。


午後9時半、閉店

今日も調理のハンさんは休む。今日はお客さんが多く
調理のトゥオイさんを中心に接客のグエットさんも調理も
手伝い、何とかこなす。

長い1日だった。疲労が溜まる。

投稿者 koyama : 17:29 | コメント (0)

2015年03月12日

「子どもの家」関係・財政関係打ち合わせ:秋田国際教養大来訪

午前6時起床

午前7時朝食

「フォー・ボー」(牛肉米麺)

食後、午前9時半までいくつかのメール送信。


午前9時半過ぎ、徒歩でベトナム事務所へ。

バオミンさん・ハンさんと「子どもの家」の子どもたち
一人ひとりの在籍、今後の進路の見通しなどを話し合う。

一人ひとりの生い立ちと家庭環境が違い、ベトナム経済の
急激な変化でなかなか就職が難しくなっている。

ベトナム事務所の総合的な財政の現状と今後の見通しに
ついて、かなり「ジビア」な分析を行った。

資料等が多少不十分な面があったので、今回は第1回目の
話し合いということにし、早急に次回、第2回目のベトナム事務所
総合財政計画を討議することになった。

ベトナムの異常な物価高騰の現実は、想像を絶するものだった。

10年前に「フォー」(米麺)は、1杯25円から35円程度)だったが、
今日では、3万ドン~4万ドン(150円~200円)にあがっている。

物価の上昇率は、ゆうに「5倍から10倍近い」ものがある。

しかし、JASSの現状はこの10年基本的に「物価上昇に対応せず」
に進めてきた。
個々の領域・様々な分野で物価高騰と現実の収入との間の
乖離問題が、露顕してきた。
早急に抜本的な対策を講じないと大きな問題になることは
明らかである。

次回、更に時間を取って、抜本的な財政対策を協議することと
する。共通の問題意識は共有した。

午前12時過ぎ、宿舎へ帰る。

昼食「写真の如し」 量が多く、食べきれない。3分の1程食し、
残す。(野菜は、頑張って食す)

体がだるいので1時間程昼寝をする。

午後、今日の夕方からフエ訪問ツアーする「国際教養大学」
の学生さんのフエ滞在日程の最終検討を行う。

午後4時、バオミン・ホテルへ。

秋田国際教養大学生4人、明治大1人、計5人の学生さん来訪。

明日からのフエでの諸活動の日程を示し、活動の希望を聞き
打ち合わせを行う。ソンン君と一緒に行動する。



バオミン・ホテルで学生さんと打ち合わせした後、日本料理店へ。

日本料理店前には、近くの保育園で日中生活している
ソン君の奥さんメンさんと息子のバオ君が、ソン君と
一緒に帰宅するのを待っていた。
しばらく見ないうちに随分成長したバオ君。

午後5時半、宿舎へ。

今日は疲れた。JASSベトナムの財政問題の討議、
「子どもの家」の子どもたちの退所等の問題、
明日から「子どもの家」で活動する秋田国際教養大学生との
打ち合わせなど。

午後8時まで横になる。
その後、少し「麦類の液体」を胃に流し込む。

「子どもの家」のA子さん。大学入試に失敗したら、
支援を途中で打ち切った里親の方がいた。
翌年大学の物理学科に合格した。里親の方にも
色々と思いがあったのだろうと推測する。
それから2年間、Aさんの支援金はベトナム事務所で
出していた。

改めて日本の方にA子さん『21歳』の里親になってもらう
長文の手紙を書く。A子さんの写真を、今までの写真ストックの
中から探す。


====================

政府は12日、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設先とする同県名護市辺野古で、埋め立ての前提となる海底ボーリング調査を半年ぶりに再開した。今夏に目指す本体工事の着工に向け、作業を加速させる方針だ。辺野古移設に反対する翁長雄志知事は作業の停止要求が無視された形となり、強く反発。仲井真弘多前知事による埋め立て許可の取り消しも視野に、徹底抗戦の構えだ。

と報道されている。

先の総選挙で沖縄県民の意思は明確に示された。

知事・那覇市長・衆議院の選挙区候補すべてが、辺野古埋め立て
反対派が勝利した。

こうした地元住民の保守派も革新も一致協力し、
安倍政権の沖縄切り捨て路線に「反対」の意思を表した。

安倍政権は、沖縄県民の意思を無視し、辺野古ボーリングを
強行した。

こんなことをしていれば、安倍首相が「琉球王国独立」へ沖縄県民を
追いやることになると懸念している。

投稿者 koyama : 16:58 | コメント (0)

2015年03月11日

5人の子どもたちの退所式:ユンフエ市共産党委員長来訪

快晴

午前6時起床。体がだるい。咳と痰がひどい。
体中に小さい赤い発疹が出ている。

午前7時朝食。「チャオ・バイン・カイン」(小麦粉麺)


午前8時半、バオミンさんが宿舎までオートバイで
迎えに来てくれる。

「子どもの家」で5人の子どもたちの退所式を行う。

5人とも既に大学を卒業したりし、年齢的には
自立する年である。そうした理由があり、5人とも
里親からの里親寄金を頂かず、JASSベトナム事務所
の費用で「子どもの家」や在宅支援を行っていた。


ハーさん 14年間「在宅支援」をしていた。
生得的な発育不全の障害がある。
フエ高等師範大を卒業した時点で、自立する年齢という
ことで里親寄金を終了し、就職活動にはいる。
しかし、どの幼稚園でも「発育障害」を理由に採用をして
くれない。23歳になる。今日、正式に在宅支援の終了式を
行い、早急に幼稚園への就職が出来るよう今後も支援を
続けるという話を行う。

14年間の「在宅支援」に対するお礼を言う。


障害があってもその障害に立ち向かい、大学を卒業し、
幼稚園の先生を目指しているHAさんの立派な姿に
14年間の支援の意味を実感した。

今日から自宅で母親と一緒に就職活動を続けることになっている。
幼稚園への就職が出来ることを心から祈る。

ーーーー
ターオさん

2004年に「子どもの家」へ入所。10年間「子どもの家」に
在籍している。
家庭の事情で弟と二人で2004年に「子どもの家」に
入所し11年間。現在23歳。

優秀な子でフエ師範大学生物学科(ベトナム中部で最難関校)
を卒業。中・高の生物の先生の就職口を探しているが
フエの教員採用事情は非常に厳しい。


現在は、小学生ー週4回、中学生ー週2回の家庭教師をして
生計を立てている。


1ヶ月7000円程度の収入となる。
フエ郊外の農村の実家に帰っている。弟も一緒に帰ってしまった。

今日は戸籍を「子どもの家」から田舎の実家に移す。

突然見たこともない「叔父さん」が出て来た。
叔父さんがいるのなら、11年前に何故、出てこない?
などと思ってしまうが、色々と事情があったのだろう。

叔父さんが、ターオさんの戸籍を「子どもの家」から
田舎の実家に移すことに同意する文書に署名。

「子どもの家」は公的機関である。
「子どもの家」で戸籍を作ることが出来る。

「子どもの家」委員長のセンさんが、戸籍の農村の実家への
移転を許可する文書に署名。

ターオさん(23歳)


20年前、3歳で入所。母親とフエの橋の下で寝泊りをしている
所に私が出くわし、「子どもの家」に入所させる。20年前である。
1994年のこと。「子どもの家」第1期生である。
20年間の付き合いである。ある意味で「子どもの家」の象徴でも
ある。

フエ高等師範大学幼児教育学科を卒業。
幼稚園への就職をあたっているが、なかなか就職が出来ない。
母親が数年目になくなり、家族がいない。

現在、幼稚園で実習中。毎月70万ドン(3500円)もらっている。

私は20年前にターオさんが「子どもの家」に入所した
初日の出来事を覚えている。

夕方、「子どもの家」の裏庭で夕食が始まろうとしていた。
一番最初に大きな「ドンブリ」を持って夕食会場で待っていたのが
3歳のターオさんだった。その後、沢山のお兄さん・お姉さんが
夕食を食べ終わり部へ戻った。。最後まで夕食場に居たのが
ターオさんだった。3歳の頃、親子で路上生活をしていたので
十分食事をしていないことが分かり、「ホッロ」としたした思い出が
ある。

========
リーさんは、「子どもの家」退所の今日の打ち合わせの
最初から「泣いて」いた。23歳である。

家庭の複雑な親の問題があり、2007年、7年前に「子どもの家」
に入所。

フエ高等看護学校に入学し、看護婦の資格を取る。

「長い間、お世話様になりました。現在、看護婦の実習を
しています。今後、どこかの病院に勤務し、財政的にも
自立します」との挨拶があった。


===========

THUY(トゥイー)さん

フエ師範大化学学科を卒業し、中・高の化学の先生を
目指している。就職難で、現在就活中。

小学校低学年時代のTHUYさん


送信者 15-3月12日②

「子どもの家」を出て、姉夫妻の家の一部屋に引っ越す。
姉も「子どもの家」出身。現在、フエ市役所外務部員。
姉の夫も「子どもの家」出身。現在、jJASSベトナム事務所員。

午前10時半、「子どもの家」での退所式を終える。

JASSベトナム事務所へ。

バオミンさんと打ち合わせをしていると、フエ市共産党委員長の
ユン氏が、私の健康の「お見舞い」にわざわざベトナム事務所
まで来てくれる。

午前11時半、昼食。「エビ入りブン麺」


食後、洗濯。

2時間程横になる。体がだるくつらい。咳と痰が出て
体調不良。

午後は夕方まで「子どもの家」を退所した「子どもの家」の
元里親への手紙を書く。

書きあがるのは、午後8時。

その後、火炎樹日記を書く。


3月13日から秋田県立「国際教養大学」の学生さん8人が
3日間来訪。

投稿者 koyama : 20:58 | コメント (0)

2015年03月10日

終日各種業務

午前6時起床

地域一体が「霧」に覆われていた。
今日は、日中、猛暑になるな?と推測した。


送信者 15-3月10日①

午前7時朝食 「ブン・ボー・フエ」(フエ名物牛肉入り米麺)


午前中、バオミンさんや富岡先生と連絡しながら
日本語教師教師の応募者の確認を行う。


読書

「読書「それでも 日本人は 戦争を選んだ」(加藤陽子著)

満州事変ーリットン卿調査団


午前11時半、昼食。

「うなぎの様な魚入りの汁かけご飯」



午後2時間程「昼寝」

咳と痰が出る。体がだるい。困ったものだ。


今後の日本語教師・ベトナム事務所・日本語学校・
日本料理店体制の確立について、種々考える。


午後2時過ぎ、NHKラジオで「福島原発」3・11を
前にしての「安倍首相」の記者会見を聞く。

安倍首相は、こんなに素晴らしい復興を行っていると
震災地の女子小学生を2人を話題にし、自分は毎月1回
震災被災地に行っているが、これらの女子小学生が
元気になっていると自信を見せている。

しかし、実際には、不登校になっている子どもたちも
多い。PTSDになっている子どもたちも多い。

復興が「素晴らしく進んでいる」と高い自己評価をしている
安倍首相ではあるが、原発の中がどうなっているのか?
4年も経っているのに「何も分かっていない」福島原発。

多くの被災者が今でも家へ帰れないで居る。
明日は、福島原発事故4周年。


ーーー
東京大空襲70周年でもある。

1945年3月10日東京下町を中心に300機の米軍戦闘機が
爆弾と焼夷弾で一般市民を攻撃。10万人の方々が亡くなっている。

米軍は関東大震災を研究し、1945年3月10日の東京下町の
天候や風向きを考え、大量の焼夷弾で「東京下町を焼けつくす」
作戦を展開した。

「戦争が出来る国作り」を「着々」と進めている安倍首相ではあるが
戦争がどんな結果をもたらすのか、を改めて私たちは学んでいく
必要がある。どんな時代でも戦争をする上層部の人々は、痛くも
痒くもないのだ。死んでいくのは一般市民である。
現在既に自衛隊の高齢化が進み、指揮官など指導者階層の
自衛隊員が多いそうだ。実際に戦争で戦う若者が自衛隊は
少なくなっている。「集団的自衛権」を閣議で決定し、自衛隊の
文民統制という枠を外し、中東やイラクなどアメリカが展開する
戦争に自衛隊が参加することが『可能』になりつつある今日で
ある。安倍首相はそのうち、「徴兵制」を呼号し始めるのでは
ないのか? との具体的な危惧を持つ。

戦争を体験した世代は居なくなりつつある今日、改めて
アジア・太平洋戦争で何があったのか? を学ばねばならない
と覚悟をした。

午後6時過ぎ、日本料理店へ。

調理のハンさんの旦那が「肝臓」を悪くし入院。
看病が必要とのことで今日は休み。

調理はトゥオイさん一人。接客グエットさんの2人体制。


送信者 15-3月10日②

午後9時まで5人の来客あり。

投稿者 koyama : 19:22 | コメント (0)

2015年03月09日

日本語教師採用関連

晴れ 高湿度

午前6時起床

午前7時朝食。「フォー・ガー」(鶏肉米麺)


午前中、日本語教師募集の件で関係者と連絡、意思統一。

いくつかの件でバオミンさんと電話で長時間打ち合わせ。

体が「だるい」。しばら横になる。


午前11時半 昼食。「チャオ・バイン・カイン」(小麦粉手打ちうどん)

午後2時間程昼寝。


読書「それでも 日本人は 戦争を選んだ」(加藤陽子著)

本書は、日清・日露・第一次・第2次大戦を中高生と
東大の歴史研究の加藤教授が討論し、授業をする
形式。実際は、あまり生徒からの発言はなく、加藤先生が
自らの見解を生徒たちに示すものとなっている。

一番の疑問は、日清・日露・第一次世界大戦などの授業では、
戦争の侵略性、残虐性など「死者数100万人」などと一言で
済ませ、日本が戦争した「正当性」を生徒たちに考えさせる
発問だけしかしない授業である。
これでは、日本が戦争に勝つためには、どのようにしたら
良いのかという発想に生徒はなってしまう。

国際関係の中に日清・日露戦争など位置づけると言う
試みは歓迎するが、その根底にある「人間」というものを
日露戦争の死者「何十万人」の一言で片付けていることに
強い違和感を感じる。

午後5時半、徒歩で日本料理店へ。

3人の日本料理店スタッフは、それなりに頑張っていた。

調理見習いのハンさん


送信者 15-3月9日


店長兼調理主任 トゥオイさん

送信者 15-3月9日


接客主任グエットさん


送信者 15-3月9日


午後9時15分までに14人の来客あり。

富岡先生と人生を語る。

午後9時15分過ぎ、徒歩で宿舎へ。


投稿者 koyama : 17:40 | コメント (0)

2015年03月08日

終日、休養

午前8時起床。

シャワーを浴びる。

日本の情報が入らないので、短波放送でNHK海外放送を
聞けるようインターネットで「周波数」を調べる。


午前11時、電動バイクで「昼食」を大衆食堂へ買いに行く。

ご飯と卵焼き・豚肉・野菜炒め3種類など・スープ。

2万ドン(100円)。安い。

午後12時半、軽く「麦関係の液体」を飲みながら昼食。

その後、少し昼寝。


読書

今日は、火炎樹日記が日曜日どのように「クリック」されているのか?
を調査した。
(時刻はベトナム時間 11:00の日本時間は午後1時。時差2時間)

A10:05  35 クリック増える  (昨晩寝る時と比べて)
 10:15   2
 11:00   3
 12:00   4
 12:20   4
 13:00  10
 15:30  12
 16:00   2
 16:30   7
 19:00  18
 19:45  11
 20:10   5


ベトナムのビザ問題(3ヶ月のビザ1回しか発行しない)で
ベトナム滞在は3ヶ月しかできなくなった。

日本の皆さんに「窮状」を訴えた。多くの関係者の
皆さんが、自分の問題として、積極的に「3ヶ月間」
の日本語教師を見つけてくれている。感謝。

JASS[解散』と言う言葉が独り歩きしている傾向がある。

本質は、「子どもの家」支援活動をベトナムに移行する、
ベトナム人中心の支援活動を可能な限り日本からも
支援する、と言う内容。

今回の日本語教師問題は、大きな問題である。
ベトナム事務所と日本の皆さんの協力の力で
何とか当面の問題を解決していきたい。

多くの皆さんから日本教師に関する情報を頂いたり、
日本語教師募集の「サイト」に掲載したりと、活動を進めて
くれている。


投稿者 koyama : 20:57 | コメント (0)

2015年03月07日

日本語教師関連の打ち合わせ:リー君と人生を語る

午前6時起床  快晴

血圧測定


午前7時朝食。2階の部屋に「異臭」がする。

1階に降りていくと食事を作るセンさんが、「ネズミを捕まえた」
という。

急いでバスルームのドアを開けてみると「ネズ公」は逃走。
バスルームに「ネズ公の血とフン」があった。


異臭はネズ公のものと分かった。

色々と聞いて見ると「ネズミ捕り」が古くさび付いていた。
ネズミ捕りの中で「ネズ公」は相当あばれたようで、ネズミ捕りの
針金に体を刺し、血が床に流れていた。

ネズ公に取って幸いだったのは、ネズミ捕りが相当古いもので
さび付いていた。ネズ公が暴れたので、パッキンが『甘くなり』
「ふた」が開いてしまい、ネズ公の一命を救ったという次第である。

ネズ公に取ってみれば「死ぬかどうかの分かれ道」。
ネズミ捕りの金網の中を「暴走し」「暴れまわった」のだろう。


「奮闘したネズ公」の置き土産は、水をいくら流しても消えない
「異臭」である。2階の部屋まで1日中、漂っていた。

私など、夜中に2階の寝室のベッドの毛布の中に「ネズ公」が
入り込んできたらどうしよう、と考えるだけで「虫唾が走る」。

早速、料理のセンさんの旦那さんに新しい「ネズミ捕り」を
買ってきてもらう。


今度は、ネズ公を撃滅・撃沈してやる。ネズ公には可愛そう
そうだが・・・。ネズ公はいくつもの怖い「伝染病」を持っている。

ネズ公の異臭と血を確認した後、朝食。今日は運が悪く、大きな
豚肉が乗っていた。ネズ公の異臭をかぎながら、大きな豚肉の
塊を食べる気持ちにはなれなかった。
しかし、せっかく朝食を作ってくれたセンさんの手前もあり
残したら「私の作った食事が美味しくないのかしら?」などど
考えさせてしまうのも失礼なので、何とか喉に半分位押し込んだ。

「豚肉の塊とブン麺」

食後、日本語教師募集の件でいくつかのメールを受信。

午前9時過ぎ、徒歩でベトナム事務所へ。

ベトナム事務所の皆さんは、真面目に仕事をしている。

出産し、出勤し始めたアンさん。お子さんは4ヶ月の女児。

朝、会っても「今晩は先生」

バオミンさん・富岡先生と今後の日本語教師募集について
突っ込んだ話し合いをする。
私がフエに戻ってから1週間程、バオミンさんが他のお客さんの
案内をしてベトナム事務所を不在にしたので、日本語教師募集
について話し合いが十分のできていない。

午前11時過ぎ、リー君から電話。今から宿舎へ行くとのこと。
宿舎に着くと「これから飲みに行きましょう」と門前で待っていた。


フエ郊外の、昔日本人スタッフや日本料理店の
子どもたちと一緒に住んでいた「ハイ・リーホテル」
の前にあるいつもの「ヤギ肉屋」へ行く。

ヤギ肉鍋

本当の「とうふよう」

午前11時から1時間、色々な話をしながら昼食兼飲み会。

弟のイン君は、「ヘロイン」を使ったことで懲役3年の刑となったが、
関係者に「まいない」を使って、懲役1年になったとのこと。
現在服役中。奥さんと2人の子どもの生活が心配だと言って
いた。


テレビ東京の人間劇場に出て来た2人の男児も短期間
「子どもの家」にいたが、現在兄は、やはり麻薬で懲役刑
(7年)を受けて服役しているとのこと。

リー君とは、5歳位から付き合っているが、まかり間違えば
「臭い飯」を食っていた可能性は充分あった。

リー君の場合、小学校で学校は辞めてしまったが、
今日まで何だかんだと言っても「JASS」の周りをうろうろ
している。JASSの影響下にあるのは事実だ。
JASSの関係者と付き合うことで「臭い飯を食う」ことからは
何とか逃れていると言える。現在は、真っ当な仕事をしている。
フエ警察に来るお客さん・市民のオートバイの番人で
日銭をもらって暮らしている。日銭なのでその日に使って
しまう。本人曰く「現在、3人の恋人がいる」とのこと。
フーテンの寅さんではないが、本人は恋人だと思っているが
相手は、ただの普通の人と思っている」という図式が当たって
いるようだ。性格はいい男である。
1993年9月1日にフエに来て1週間後位に知り
合った初めてのストリートチルドレンだったリー君である。
当時、6歳だった。
22年間と言う長い付き合いだ。色々と意見を言う人もいるが
(小山さんは、リー君ばかり可愛がっている・・・・)とにかく
同時期、一緒に路上で生活していた子どもたちが
刑務所に入っていることを考えると、自立し、自分で仕事を
し収入を得て生活しているリー君は、それなりに立派に
成長したともいえるのではないだろうか?

1時間弱で私は疲れたので宿舎へ帰る。

「ヤギ屋」から宿舎まで徒歩15分。
途中、「フオン河」の支流に架かる橋を歩く。
穏やかな水の流れ。澄んだ水。フエ人が
誇る風景だ。



その後、2時間程昼寝。

ベッドで読書。

「それでも 日本人は 戦争を選んだ」(加藤陽子著)

午後6時過ぎ、徒歩で日本料理店へ。

午後10時までに「14人」の来客あり。

日本人のKさんと意見交換

午後10時閉店。

投稿者 koyama : 18:09 | コメント (0)

2015年03月06日

終日、宿舎で休息

午前6時起床

ルーティーンの血圧測定・火炎樹日記チェック

記録を見ると2000年から毎朝血圧測定をし記録している。
15年弱。この間の血圧の動向を見ると2000年頃に比べると
血圧が下がり120・75位で推移している。
毎日、薬を飲んでいるので下がっているので、「失っている」
ものも多い。脳溢血・心筋梗塞等の血管系の病気は命に
直結するので、失うものがあったとしても薬を飲み続けなければ
ならない。


午前7時朝食。

「チャオ・バイン・カイン」(唐辛子入り小麦うどん)

昨日、料理のセンさんの旦那がバスルームに
ネズミ捕りを仕掛けてくれた。何とか今夜、捕獲したい。


午前中は、ピースインツアーの添乗員さんと今後の
スタディーツアーの進め方などについて電話で話し合った。

その後、バオミンさんと日本語教師採用の件で打ち合わせ。


日本語教師採用申込書等の種類が手元にないので
バオミンさんに探してもらい、受信。

必要部分の文書を改訂し「新日本語教師採用要綱」
を作成する。

体がだるいのでベッドで横になり読書。

「それでも 日本人は 戦争を選んだ」(加藤陽子著)

神奈川県の栄光学園の中高生男子を相手に
日清戦争・日露戦争・アジア太平洋戦争について
話し合い、授業をした記録である。

歴史は「暗記教科」と捉える傾向が強いようだが
歴史は「科学」だと著者は中高生の授業で話している。

アメリカ16代大統領のリンカーンが何故「人民の 人民による
人民のための』と言う演説をしたのか? から、中高生と
一緒に考える授業を行っている。

この原理が、日本国憲法に明確に投影されているという。

日本国憲法前文
「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって
その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表が
これを行使し、その福利は国民がこれを享受する」と。

朝からインターネットが繋がったり、切れて李を繰り返す。

仕事が出来ない。

午前中、日本語教師採用について、バオミンさんと
打ち合わせ。


昼食「写真の如く」


あまりに量が多く、到底食べきれない。

野菜を頑張って食べ、魚を半分。残りは、タッパーに
入れて、夕食用にとっておく。


午後1時間ほど昼寝。


洗濯機の調子が悪く、2時間程作動させたのだが、
乾燥しない。

午後、日本語教師教師関連の資料整理。


バオミンさんと連絡。明日、午前9時半から富岡先生を
交えて、3人で日本語教師関連の打ち合わせをすることに
なった。

私がフエへ帰った2月25日~昨日までの約10日間、
バオミンさんは、日本人の案内を行っていた。
ホーチミン・ホイアン・フエ。それらの仕事が終わり
今日からベトナム事務所勤務となる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
安倍内閣の「自衛隊文官統制」廃止に強く抗議する


安倍内閣は、防衛省の「背広組」と呼ばれる官僚と「制服組」と
呼ばれる自衛官とを対等に位置づける防衛省設置法
の改正案を6日朝の閣議で決定した。

防衛省の「背広組(文官)が制服組(武官)を統制する
システムがこわされ、軍人(制服組)と文官(背広組)を
対等にするとの閣議決定をしたと言う。

恐るべき内閣である。

日本のアジア・太平洋戦争で何故、あそこまで日本が暴走した
のか?
を考えると、東条英機(武官)が、首相になり、軍人(武官)が
政治を行ったことにその原因の一つえであることは明白である。

「文民統制(ジビリアン・コントロール)」という概念がある。
これは、武人(軍人)が政治を主導すると直ぐに暴力に走り、
武力に頼る政治になるということで、中国・ベトナムなども
含めて、古くから「文官(非軍人)」が『軍人』に優先する
という思想を確立し、政治・外交を武力を使わないで
進めていくという近代合理的なシステムなのである。

中国では科挙制度があり、文官(勉強の出来る人)を
皇帝が採用するシステムが確立していた。

「蒼穹の甍」(浅田次郎著)に文官試験(科挙試験)と
中国皇帝の政治システムが詳細に記されている。

ベトナムでも同様で『科挙試験』があり、ホーチミン主席の
父親は、科挙試験に合格し、地方の知事になっている。

軍人が政治に口を出せば、ろくなことはない。
暴走するのみ。軍人の暴走を防ぐための近代的なシステムが
「文民統制(シビリアン・コントロール)である。

安倍内閣が、文民統制を止めて、軍人の台頭を許す
システムを作ろうとしていることに心からの抗議をし、
撤回を求めたい。

安倍内閣は、一つずつ戦後の民主的なシステムを
壊していく。日本を戦争の出来る国家にするとしか
思えない。自分は絶対に戦争にいかない立場にある
安倍首相ではある。

文民統制をやめるなどと言う前に自分の内閣の中川政務官
の不倫問題を解決したらどうなのだろうか。
2週間の入院で中川政務官は、同僚自民党議員との
不倫騒動から逃げてしまった。
政治家として正々堂々とマスコミや国民の前で自らの
行動を説明する義務がある。私的な問題ではない。
安倍首相の任命責任と国民に対する説明責任が必要。


投稿者 koyama : 19:37 | コメント (0)

2015年03月05日

S女子大「フエ平和村」へ

快晴

午前6時起床。体がだるく中々起きられない。

午前7時朝食。「フォー・ボー」(牛肉米麺)


食後、料理を作ってくれているセンさんから
「1階のバスルームにネズミが出没」とのこと。
既にセンさんは、バスルームの扉を閉め、施錠。

「夫に来てネズミ捕りを仕掛けてもらう」とのこと。
ネズミが出て、2階に寝ている私のベッド中に入って
来たら恐ろしいこと。
何とかネズミ捕獲をしたもらうことをお願いする。

送信者 15-3月5日②ネズミ

食事をしながら読書。

「それでも 日本人は 戦争を 選んだ」

 (加藤陽子著 朝日出版社)


午前8時過ぎ、電動バイクで「S女子大」投宿のホテルへ。

午前8時半、ピースインツアーの添乗員さんと学生さんが
ホテルロビーへ。


添乗員さんより今日1日の日程説明。

最初は、『フエ平和村』へ支援物資を持っていくとのこと。


中型バスで20分。フエ市郊外にある「フエ平和村」へ。


所長のヒエン先生(医師)の歓迎の言葉。
ヒエン医師は、以前、フエ市立病院の副院長をしていた。

2000年頃に行った「JACA開発福祉プロジェクト」で
ヒエン先生と一緒に障害児支援活動をした旧知の仲。



ヒエン所長から「フエ平和村」の活動概要の説明があった。

学生さんは、積極的に質問をしていた。

フエ平和村は、ベトナム戦争中に当時の「西ドイツ」の支援団体が、
ダナン港の沖に「船上病院」浮かべ、ベトナム戦争で負傷した市民
を助けた伝統を持っている。

40年前の1975年に「ベトナム戦争が終結」。
船上の病院は、陸に上がり、ハノイ・フエ・ホーチミン
などベトナムの大都市に戦争を二度としないとの決意を
こめて「平和村」と言う名の病院を設立した。

フエ平和村は障害児のリハビリを中心とした中部のセンター
として存在する。

平和村と関わって20年近くが経過した。

ヒエン所長の話を聞き、早速、障害児のリハビリセンターへ。
障害児のリハビリと言っても「子どもたち」と遊びながら、
親も一緒にリハビリを覚えるというもの。

沢山の親子が通院や平和村に宿泊してリハビリを
行っていた。

日本からたくさんの子ども用のおもちゃを買ってきた。

平和村の子どもたちと交流する。遊ぶ。



学生さんたちの活動を記録する



重度の脳性麻痺のお子さんの母親も『表面は』明るく
子どもたちの成長のため、おもちゃで子どもたちと遊んでいたい。



脳性麻痺をはじめ様々な障害の子どもたちと主に母親が
きていた。

回復する展望・見通しも厳しい中でも子どもたちへの
愛情を持ち、少しでも子どもたちの手足や脳の機能が
回復することを願い、家族毎日「平和村」へやってきたり、
遠くの人は、泊り込みで子どものリハビリを行っていた。

S女子大の学生の皆さんも「家族・母親」が子どもたちの
成長を願う気持ちを理解したものと思う。

午前11時前に平和を後にし、昼食レストランへ。


フエ伝統料理を食す。



昼食後、私へ宿舎へ帰り、昼寝。体が重くだるい。

午後、日本語教師採用の件で何人かの人と電話。

その後、日本の関係者に「2015年4月から」に
日本語教師採用の件についてのメールを送信する。


午後6時過ぎ、宿舎を出て、日本料理店へ。

S女子大フエ滞在最終日。
日本料理店で会食。

富岡先生の司会で夕食会が始まる。

送信者 15-3月5日②地球の歩き方休職会


グエット接客主任の「今晩の献立」説明


上手に日本語を使って説明する


送信者 15-3月5日②地球の歩き方休職会

フエでの「食に関する研修会」が無事終了したことを祝い
添乗員さんが、学生さん一人ひとりとジュースでお祝いをする。

送信者 15-3月5日②地球の歩き方休職会


今日のメニュー

①白米のご飯と味噌汁

送信者 15-3月5日②地球の歩き方休職会

野菜添えの「ハンバーグ・ステーキ」

送信者 15-3月5日②地球の歩き方休職会

富岡先生を中心に接客・調理・食事の提供等が行われた。

送信者 15-3月5日②地球の歩き方休職会


最後に日本料理店スタッフの自己紹介


・トゥオーイ店長兼厨房主任
・グエット接客主任
・ハン厨房担当

最後に引率のS教授も含めて全員で記念写真

午後8時半、解散。

徒歩で宿舎まで帰る。空には、満月が煌々と輝いていた。


午後9時前宿舎へ。

今日の火炎樹日記を書こうとしたが、パソコンの調子が悪く
書けない。

(2015年3月6日午前8時過ぎにソン君と業者が直してくれた)

投稿者 koyama : 18:52 | コメント (0)

2015年03月04日

大東文化大生と懇談 体調を崩す

快晴

午前6時起床。真夏の予感


午前7時朝食。

精進料理(精進ブン麺)

今日は旧暦の1月14日

送信者 15-3月4日大東文化大生徒懇談


午前9時から2時間、大東文化大学の学生さんと懇談。

懇談した学生さんたちは、大東文化大学で「フェヤートレート」
をし、ベトナムの「子どもの家』を支援してくれている。
今回は、現状視察。

2時間程、ベトナムの実情、支援への感謝などを話す。
合わせて、2015年4月から2016年3月までの
日本語教師募集の件を話す。

送信者 15-3月4日大東文化大生徒懇談

午前11時、昼食。

チャオ・バイン・カイン(小麦粉の手打ちうどん)

送信者 15-3月4日大東文化大生徒懇談

2月25日に約3ヶ月ぶりにフエへ戻って来た。

2月27日から今日までスタディーツアー等のサポートが
続き、体力を消耗。疲労の限界点まで達する。

昼食後、横になり午睡。その後、横になりながら、
「捏造の科学者 スタップ細胞事件」(須田桃子著 文春)
を読了する。

色々と考えさせられるものがある。

小保方氏自身がかなり「いい加減」な論文・博士論文などを
書いていたが、早稲田大学理工学部の教授たちが、それらの
でたらめな学位論文を詳細に検討することなく、「博士号」を授与
している事実に唖然とした。

理研の科学者たちも小保方氏の「スタップ細胞」について
疑義をもっている人がかなりいたようだが、野依理事長以下、
理研の執行部の「速く成果をあげたい」との『野望』に抗しきれず
秘密裏に「スタップ細胞」の発表→ノーベル賞の山中教授を超える
研究して『売り出す』野望がミエミエ。その後も、多くの学者・研究者が
疑問を持っていながら、大きな問題にならず、小保方氏は
理研の「花形研究者」として祭り上げられてしまった。

本書を読むと「万能性をもった「スタップ細胞」は、『ES細胞」を
姑息にも利用した「まがい物」であった可能性が大きいことが
分かった。

しかし、最大の問題は、何故「小保方スタップ細胞事件」が
起こってしまったのか? を学問的に追求する姿勢に根本的に
欠ける日本の科学者の現実である。

夕方まで横になっている。体がだるく、食欲がない。

この1週間の連続的な仕事に体が参ってしまっているのだ。


今日は、午後からはほとんど横になっていた。

明日は1日、スタディーツアーの案内がある。

11月18日に入院し、1月初旬までは終日寝ていた。
完全に足も含めた筋肉が退化・落ちてしまっている。
1日、真夏のフエでの仕事は、かなりきついものがある。

正直、いつまで今のペース(今までのメース)での活動が
続くのかは分からない。出来るだけ、時間を取って横に
なりながらスタディーツアー等の対応を続けて行きたい。

この時期のスタディーツアーは、JASSの収入の最大の
ものである。頑張ってスタディーツアーの受け入れを行う
ことで「子どもの家」やベトナム事務所の運営が出来る
ということになる。

「言うは易し、行うは難し」である。

投稿者 koyama : 21:39 | コメント (0)

2015年03月03日

S女子大「子どもの家」で鶏を捌く(さばく)

午前6時起床。

1週間程前にフエに到着して以降、両足に「水疱」が出来、破水。
その後、膿んで痛い。抗生物質の軟膏を塗り、救急絆創膏を
はっている。これ以上、水疱が出来ないことを祈る。

午前7時朝食。

午前9時過ぎ、電動バイクで「S女子大」の皆さんが投宿している
ホテルへ。既にベトナム事務所のハンさんが来ていた。
ピースインツアーの添乗員さん、引率の先生と一緒に
「子どもの家」へ。

ハンさんの引率で「子どもの家」を視察。

続いて私の方から1時間程「「子どもの家」歴史などを
話す。



今日の外気温35度。真夏。

学生さんは、「子どもの家」の歴史、子どもたちの様子などを
真剣に聞く。


話が終わり、厨房前の庭で「ブタの丸焼き」と鶏を捌く授業を
行う。


ブタは既に業者が内臓等を摘出し、丸焼き用に仕立ててあった。



近くの市場で買って来た6~7羽の生きた鶏。

生きた鶏を捌いた経験のない学生さんが多い。

「子どもの家」のタム医師が「裁き方(殺し方)の実演」をする。

今回の「S女子大スタディーツアー」のテーマは、「食」について。

タムさんが、鶏の首根っこを掴まえ、首近の毛をむしりとる。

むしり取った毛の部分に包丁を当て、一気に「殺処分」する。


学生さんもタム医師の指導で首周りの毛を引き抜き、切りやすくし、
包丁で一気に殺する。

鶏を殺するのは初めてという学生さんが圧倒的なので
かなり勇気を要したと思う。

全員の学生さんは鶏を捌く授業に参加。


殺処分の場面は、私でも『目を背けたく』なる。女子学生なので
なおさら、見るのもつらいのかも知れない。

今回のスタディーツアーの一つの眼目は、アジアの食を通して、
「命と人間の大切さを知る」というもの。

残酷に見える「殺処分』と言う行為を通して、1羽の鶏の命を
奪ってしまう人間。人間は、そうしなければ生きていけない。
殺処分した鶏に感謝の気持ちを持ち、端から端まで「食べる」
ことは、人間の責務である、ということを実地で学習している。

S女子大と担当教授の考えたかに共感した。

最後の一羽


女子学生さんが「勇気を振り絞って」殺処分


一方子豚の丸焼きの方は、炭火で2時間かけてゆっくりと
回しながら焼くのである。



殺処分が終わった鶏は、熱湯に入れられ、毛を抜く


学生さんたちがきれいに毛を抜き、丸裸のニワトリとなる。


ニワトリを捌く授業が終わり、学生さんたちの感想を聞く。

多くの学生さんたちが、「今までスーパーで鶏肉としてきれいに
捌かれ、食べやすく小口に切られたニワトリしかしらなかった」
「今回、ニワトリを殺処分してみて、一つの生命を絶つことで、
私たちは自らの命を永らえているのだ、ということを実体験
した」などの感想が出ていた。


ニワトリの殺処分の授業が終わった頃、子どもたちが学校から
帰って来た。

「子どもの家」の歓迎会。

始めにセン「子どもの家」委員長が歓迎の挨拶。

初めに子どもたちの歓迎の歌と踊り

子どもたちが考えた「中国風」の衣装での踊り


子どもたちの歌


続いてS女子大答礼の歌「ちびまるこちゃん」の「踊るポンポコリン」


「ちびまるこちゃん」はベトナムのTVでも放映されているので
子どもたちも歌える。学生さんたちと一緒に歌う。


テト正月明けの訪問者との交流を楽しむ子どもたち



一方、2時間、ゆっくりと回しながら焼き続けた子豚の丸焼きが完成


こんがりと焼けている




みんなで捌いたニワトリを含め、「子どもの家」の普通の
昼食を摂る。



捌きたての鶏肉料理がテーブルに並ぶ


私など『ニワトリを捌いている』段階から『吐き気』をもよおす。

正直、昼食の食欲なし。


学生さんは「子どもの家」の子どもたちと交流しながら
美味しそうに捌いたニワトリを食べていた。
大学でしっかりとした食教育をしているものと思われる。


学生さんと子どもたちが「和気藹々」の雰囲気の中で昼食を摂る。


こんがりと焼けた『子豚』の肉



午後12時過ぎ、「子どもの家」を後にする。


私は宿舎へ帰り、昼寝。


午後2時過ぎからいくつかの仕事。

午後2時半。バオミンさんがフエにお客さんを案内し、ダナンから
戻る。

15分ほど私の宿舎に来て「当面のいくつかの意思統一」を
行う。

午後6時過ぎ、徒歩で日本料理店へ。

午後6時半。日本料理店で地球の歩き方スタディーツアーの
皆さん8人と夕食会。


富岡先生の司会で地球の歩き方ツアー夕食会は始まる。


本日の献立紹介  グエット・接客主任



午後9時日本料理店での交流会を終了する


徒歩で宿舎へ帰る。

投稿者 koyama : 18:15 | コメント (0)

2015年03月02日

S女子大王宮等参観:ベトナム戦争を聞く

快晴 真夏

午前6時半起床。疲れて起きられない。

午前7時朝食。「フォー・ボー」(牛肉米麺)


送信者 15-3月2日学習院女子大ニエン講演

8時過ぎ、S女子大投宿のZホテルへ。

添乗員とベトナム事務所のハンさんと一緒に
15人の皆さんの市内(ティエンムー寺・王宮)案内へ。


元気に学生さんは集合
ピースインツアーの添乗員さんからの「本日の日程報告」
を受け、バスへ。


送信者 15-3月2日学習院女子大ニエン講演


ソン君がJASS引率責任者として添乗。

送信者 15-3月2日学習院女子大ニエン講演


送信者 15-3月2日学習院女子大ニエン講演


ベトナムの「清水寺」である「ティエンムー寺」参観

ティエンムー寺から見る「フオン河」は美しい。



ソン君はガイドブックなどをしっかりと暗記し、
正確なガイドを行っていた。大きな進歩あり。




続いて王宮見学。



王宮前にて


王宮参観後、フエ名物の「ブンボー・フエ」を昼食とする。



午後1時半、投宿ホテルにフエ市前外務部長のニエン氏
到着。今日は、S女子大の学生さんたちにベトナム戦争中に
どんな活動をしたのか?を話してもらう予定。



フエ郊外の「天安山」にある中国茶専門店へ。
『鉄観音茶』を飲みながら、ベトナム戦争の話を聞く。


米軍占領下での解放戦線の学生であったニエン前外務部長が
どのような秘密活動を行ったかを詳しく説明してくれる。



講演後、学生さんから数多くの質問がある。
ベトナム戦争というものが、アメリカ兵にもベトナム人にも
多くの被害と悲しみがあったことを知る。
改めて「ベトナム戦争終結40年」の今年、二度と戦争をしては
いけないとの決意を固めた。

アメリカやその提灯持ちの安部首相などが、再び「イスラム国」
「イスラム過激派討伐」と称して、軍事活動を活発化している。

アメリカは「無人飛行機」をアメリカ国内から
操縦し、アフガニスタンで一般市民・一般住宅に対する
事実上の「無差別爆撃」を行っている。「イスラム過激派撲滅」
という名の下に。アメリカや西欧諸国は改めてベトナム戦争の
教訓を考えるべきである。

ニエン前フエ市外務部長を中心に記念撮影


ニエン前外務部長の講演が終わり、一休みし、夕食会へ。

夕食はフエ市内最大のスーパーへ。

スーパーの食堂で各自夕食を摂る。


S女子大の担当教官とピースインツアーの添乗員さんと
夕食を摂る。


午後9時半、スーパーでの夕食を会え、宿泊ホテルへ。

私は徒歩でスーパーを出て宿舎へ。午後9時40分着。

火炎樹日記を書き上げ就寝は、午後11時。


明日は、午前8時、「子どもの家」へ行く。

投稿者 koyama : 23:58 | コメント (0)

2015年03月01日

S女子大ナムドン山岳地帯へ

午前6時起床。

体がだるく、引き続き1時間程横になる。

朝食を摂る時間がなく、午前9時45分、ソン君が
宿舎までオートバイで迎えに来てくれる。

S女子大ナムドン山岳地帯訪問の添乗。
S女子大宿泊先のホテルへ。

午前10時。昨夜、ダナンから呼び出し、協力してもらう
ことになったリー君が時間通りホテルに来ていた。

15人のS女子大関係者とバスでナムドン山岳地帯へ。


引率責任者のソン君は、堂々した構えだった。
仕事に慣れてきたのだろう。うれしいことである。

バスで約2時間。ナムドン山岳地帯に到着。
地元のレストランでベトナム料理の昼食を摂る。



昔なじみのリー君とピースインツアー添乗員さんと



引率の先生の発案で食後『ベトナムコーヒー』を飲む。

午後1時。支援物資を持ってナムドン山岳地帯の
「カトゥー族」の「トゥオン・ロー」村へ。
指導教官の先生を先頭に村の集会場へ。

学生さんもそれぞれに支援物資を持って集会場へ。



今日は日曜日なので子どもたちが、添乗員さんに付きまとって
集会場入り。

村の長老がカトゥー族伝統の民族音楽で歓迎

村長さんと村の文化部長さんの歓迎の挨拶

S女子大側から支援物資の贈呈


20箱近いインスタントラーメンの贈呈。


村の娘さんたちの歓迎の伝統舞踊


村の子どもたち


S女子大の学生さんと村の人たちが一緒に民族舞踊を
踊る

山岳地帯の盆地は一面の米作。

米作の稲を通して集会場にたどり着く風は「滑らか」で心地よい。


熱心、かつ 丁寧な添乗をしているK添乗員さん。

集会場の庭で子どもたちと遊ぶ


その後、カトゥー族の皆さんと一緒に「トゥオンロー村」を
散策する。

私は体調不良で集会場で横になっている。非常に疲れる。

村の散策から帰り、村人と交流会。


日本とカトゥー族の「歌合戦」をする。

それぞれの国の歌を歌いあう。

引率の先生も東北の民謡を歌う。

交流の中心は歌と「村で作った地酒」。

地酒の部分は、ほとんどリー君が担当してくれた。

飲めば飲むほど「明るくなる」リー君の性格。

交流会に花が咲いた。

送信者 2015年3月01日学習院女子大ナムドン

午後4時前、トゥオンロー村を後にする。

フエ市内着は5時半。


その後、S大学の皆さんは、夕食に行くが、私は疲れたので
宿舎へ帰り横になる。

ソン君がツアーガイドの役割りをしっかりと果たしたことが
何よりも嬉しい。

更に手が足りないのでダナンにいるリー君に「助っ人」を頼むと
その日の夜のバスでダナン→フエへ。今日は朝からナムドンツアー
を手伝ってくれた。有難いことである。

体に「水泡」が出来、つぶれる。その後膿むという症状が
2箇所(左右の両足)に現れている。

水泡は「ヘルペス」やいくつかの感染症の「兆候」でもある。
急いでフエの病院へ行きたいのだが、現在2つの
スタディーツアーが来訪し、バオミンさんはダナンという
状況なので病院へいけない。何らかの感染症に罹患している
のではとの心配がある。肺炎を罹患し、体力が落ちているので
感染症にかかる可能性はある。

今出来ることは、体を休めることだけ。

投稿者 koyama : 20:19 | コメント (0)