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2015年03月24日
日本語学校運営について協議
午前6時起床。
血圧測定。毎日記録しているので余り気にして
いなかったが、2000年7月8日から毎日測定ている。
15年近く、毎日朝起きて排尿して直ぐに血圧を測定し、記録し
している。薬のお陰もあり、常時、安定した『範囲内』の数値で
推移している。日本へ帰り心臓病院へ行く際、印刷して
担当医師に渡している。
火炎樹日記は、2002年8月2日から病気時を除いて
ほぼ毎日書いている。余り内容はないが、何事も
飽きずに続けることも「芸の内」だと思っている。
午前7時、朝食。芸術的且つ天才的ともいえる
「マンネリズムの食事」が毎回・毎週続く。
食べ物に文句を言うと「罰」が当たるので・・・。
ただ、とにかく肉類・脂類など「油脂」が多いので、
体が受け付けないことが多々ある。
さっぱりした「そうめん」などが無性に恋しくなること
が多い。年齢的なこともあるのだろうか・・・?
朝食「チャオ・バイン・カイン」(小麦粉の手打ちうどん)
午前9時過ぎ、徒歩でベトナム事務所へ。
4月から勤務する新日本語教師が来訪する。
3月28日(土)には、北浦君(1年間)
3月29日(日)には、古竹さん(3ヶ月)
新日本語教師のための事前準備をするための
打ち合わせ会議を行う。
・バオミン・JASSベトナム委員長
・フーンJASS日本語部長・
・富岡先生(4年間JASS日本語学校教師経験)
・小山
●二人の「日本語教育ガイダンス」
●バオミン・ホテル等の部屋について
●日本語学校の授業数等
●新日本語教師のベトナム事務所内での机等
●その他
会議の途中から豪雨。
日本語教育会議の後、バオミンさんといくつかの件で
打ち合わせ。
途中で豪雨がやみ、徒歩で宿舎へ。
午前11時半。昼食。「鶏肉入りのおかゆ風汁かけご飯」
食後、インターネットで浪曲を聴く。
二代目広沢虎造の「国定忠治」を聞く。
縄張り争いで相手の親分を切った国定忠治。
子分の板割の浅太郎の叔父で十手持ちの「勘助」が
国定忠治を狙っていると勘違いし、忠治は、板割の
浅太郎に叔父勘助を切るよう命じる。
浅太郎が叔父勘助の所へ行くと、勘助は国定忠治を
応援している、密かに公儀の追っ手から逃してやろうと
思っているという。そして、国定忠治は勘違いをして
自分が『公儀の犬』だと思い、甥の朝太郎に自分を
殺せと命令したと理解し、自刃する。
勘助には、勘太郎という幼子がいる。浅太郎は、
幼子の勘太郎を背負って、赤城山に籠っている国定忠治
のもとへ帰り、叔父を殺したと報告し、叔父が、
「忠治は赤城山を下りろ」と忠告していることを告げる。
忠治は、赤城山を下りる。
明治から大正・昭和にかけて「浪曲」は大流行した。
丁度、その時代を我が父親は過ごしてきた。
向島で過ごしたので、浅草などは近く、浪曲や寄席が
大好きだったようだ。
子どものころ、いつもラジオで浪曲や寄席を父親は
聴いていた。その影響もあり、私も浪曲も好きだし、
落語、講談も大好きだ。
小学校高学年になり、母親から30円から50円程の
小遣いをもらい、板橋区仲宿にある古本屋へ行き、
3日か4日に1冊の割合いで「講談本」を買って読んだ。
講談本は戦前の庶民の娯楽の本。漢字で書いてあるが
難しい漢字でも「ルビ」(ひらがな)がふられていたので
小学校高学年頃には、相当難しい漢字も読めるように
なっていた。「国定忠治」「日光の円蔵」「清水の次郎長」
「猿飛佐助」「真田十勇士」「霧隠才蔵」「忠臣蔵」など
戦前の庶民が読んだ講談本はほとんど小学校高学年頃
には読んでしまった。
午後6時、徒歩で日本料理店へ。
途中、玄米パン売りがいた。薪で火をたき、
スチームで玄米パンを蒸かしている。
私が小学校の頃、東京にも同じように自転車で
玄米パンを売る人がいた。60年近く前だろうか?
午後9時半、閉店。今日は10数人の来客あり。
今日の売り上げの計算をするスタッフ。
午後10時、宿舎へ帰る。
その後、火炎樹日記を書く。
投稿者 koyama : 2015年03月24日 17:31