« 大東文化大生と懇談 体調を崩す | メイン | 終日、宿舎で休息 »

2015年03月05日

S女子大「フエ平和村」へ

快晴

午前6時起床。体がだるく中々起きられない。

午前7時朝食。「フォー・ボー」(牛肉米麺)


食後、料理を作ってくれているセンさんから
「1階のバスルームにネズミが出没」とのこと。
既にセンさんは、バスルームの扉を閉め、施錠。

「夫に来てネズミ捕りを仕掛けてもらう」とのこと。
ネズミが出て、2階に寝ている私のベッド中に入って
来たら恐ろしいこと。
何とかネズミ捕獲をしたもらうことをお願いする。

送信者 15-3月5日②ネズミ

食事をしながら読書。

「それでも 日本人は 戦争を 選んだ」

 (加藤陽子著 朝日出版社)


午前8時過ぎ、電動バイクで「S女子大」投宿のホテルへ。

午前8時半、ピースインツアーの添乗員さんと学生さんが
ホテルロビーへ。


添乗員さんより今日1日の日程説明。

最初は、『フエ平和村』へ支援物資を持っていくとのこと。


中型バスで20分。フエ市郊外にある「フエ平和村」へ。


所長のヒエン先生(医師)の歓迎の言葉。
ヒエン医師は、以前、フエ市立病院の副院長をしていた。

2000年頃に行った「JACA開発福祉プロジェクト」で
ヒエン先生と一緒に障害児支援活動をした旧知の仲。



ヒエン所長から「フエ平和村」の活動概要の説明があった。

学生さんは、積極的に質問をしていた。

フエ平和村は、ベトナム戦争中に当時の「西ドイツ」の支援団体が、
ダナン港の沖に「船上病院」浮かべ、ベトナム戦争で負傷した市民
を助けた伝統を持っている。

40年前の1975年に「ベトナム戦争が終結」。
船上の病院は、陸に上がり、ハノイ・フエ・ホーチミン
などベトナムの大都市に戦争を二度としないとの決意を
こめて「平和村」と言う名の病院を設立した。

フエ平和村は障害児のリハビリを中心とした中部のセンター
として存在する。

平和村と関わって20年近くが経過した。

ヒエン所長の話を聞き、早速、障害児のリハビリセンターへ。
障害児のリハビリと言っても「子どもたち」と遊びながら、
親も一緒にリハビリを覚えるというもの。

沢山の親子が通院や平和村に宿泊してリハビリを
行っていた。

日本からたくさんの子ども用のおもちゃを買ってきた。

平和村の子どもたちと交流する。遊ぶ。



学生さんたちの活動を記録する



重度の脳性麻痺のお子さんの母親も『表面は』明るく
子どもたちの成長のため、おもちゃで子どもたちと遊んでいたい。



脳性麻痺をはじめ様々な障害の子どもたちと主に母親が
きていた。

回復する展望・見通しも厳しい中でも子どもたちへの
愛情を持ち、少しでも子どもたちの手足や脳の機能が
回復することを願い、家族毎日「平和村」へやってきたり、
遠くの人は、泊り込みで子どものリハビリを行っていた。

S女子大の学生の皆さんも「家族・母親」が子どもたちの
成長を願う気持ちを理解したものと思う。

午前11時前に平和を後にし、昼食レストランへ。


フエ伝統料理を食す。



昼食後、私へ宿舎へ帰り、昼寝。体が重くだるい。

午後、日本語教師採用の件で何人かの人と電話。

その後、日本の関係者に「2015年4月から」に
日本語教師採用の件についてのメールを送信する。


午後6時過ぎ、宿舎を出て、日本料理店へ。

S女子大フエ滞在最終日。
日本料理店で会食。

富岡先生の司会で夕食会が始まる。

送信者 15-3月5日②地球の歩き方休職会


グエット接客主任の「今晩の献立」説明


上手に日本語を使って説明する


送信者 15-3月5日②地球の歩き方休職会

フエでの「食に関する研修会」が無事終了したことを祝い
添乗員さんが、学生さん一人ひとりとジュースでお祝いをする。

送信者 15-3月5日②地球の歩き方休職会


今日のメニュー

①白米のご飯と味噌汁

送信者 15-3月5日②地球の歩き方休職会

野菜添えの「ハンバーグ・ステーキ」

送信者 15-3月5日②地球の歩き方休職会

富岡先生を中心に接客・調理・食事の提供等が行われた。

送信者 15-3月5日②地球の歩き方休職会


最後に日本料理店スタッフの自己紹介


・トゥオーイ店長兼厨房主任
・グエット接客主任
・ハン厨房担当

最後に引率のS教授も含めて全員で記念写真

午後8時半、解散。

徒歩で宿舎まで帰る。空には、満月が煌々と輝いていた。


午後9時前宿舎へ。

今日の火炎樹日記を書こうとしたが、パソコンの調子が悪く
書けない。

(2015年3月6日午前8時過ぎにソン君と業者が直してくれた)

投稿者 koyama : 2015年03月05日 18:52

コメント