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2015年04月24日

明朝出発、日本へ帰国。ベトナム事務所員の皆さんに挨拶

朝、小雨。昼過ぎから猛暑。気温の変化が大きい。

午前7時朝食。「ブンボー」(牛肉米麺)

午前8時過ぎ、ソン君が「ベトナムコーヒー豆」を持って
来てくれた。バオミンさんの家で焙煎している。美味しいコーヒ豆。

フエ滞在中、最後の「洗濯」。スボンなど大物の洗濯をする。

午後から太陽が出てきたので洗濯に関しては助かった。


午前8時半、ベトナム事務所へ。

明日の朝6時半宿舎発で「ダナン経由成田へ」帰国する。

ベトナム事務所員の皆さんに「一時帰国」の挨拶をする。


同時に翌日の26日(日)に結婚退職で完全帰国する
富岡先生が、帰国の挨拶をする。

しばらくすると15年ほど、帯広の芳村さんが支援している
ドゥック君がベトナム事務所に来る。生得的に両手の先が
ないか、欠損し、物がつかめない。

帯広の芳村さんは、「暖炉基金」という個人的な寄金を
10数年前に設立し、フエの生涯のある子供たちの自立
支援をJASSと行っている。
ドゥオック君は、鉛筆がもてないので、足の親指と
人差し指で鉛筆を持ち文字を書いている。

なかなか賢い子供だった。

今日、現状を聞くと「フエ高等師範大学コンピュータ学科」
に入学し、コンピュータ技師になるとのこと。

帯広の芳村さんやJASSがドゥオック君への支援をしていなければ
今日の彼はないだろうと改めて、芳村さんの特別の支援に感謝
している。


午前11時半、昼食。野菜サラダ(大量)と「ミミガー(ブタの耳)
肉とエビ入りのスープ(量が多すぎて、到底食べきれない)



午後2時間程昼寝。気温と気候の変動が大きいので
常に体がだるい。ベトナム人や日本人スタッフに聞いても
同様の感覚を持っているようだ。

午後2時過ぎ、明日帰国の最終的な荷物整理をする。

今回の帰国では、仙台にある「東北福祉大学」での講演会、
秋田教養大学での講演会などが予定されている。
講演会に必要な資料などを日本へ持ち帰る。

明朝は午前6時半宿舎発の車でダナン空港へ行く。
今夜は早めに寝なければならない。

午後4時過ぎ、早めに今日の火炎樹日記を書き始める。

通常、火炎樹日記は写真等をいれるので、1時間はかかる。

写真等を多く入れたり、長い文章を書くと2時間はかかる。

日本料理店が終わるのが午後9時過ぎ。通常がそれから
1時間半から2時間程度、火炎樹日記を書きあがるのに
時間がかかっている。

火炎樹日記を少し書き、今日撮った写真を添付しようとしたら
写真BOXが満杯となっている。私の力量では、写真BOX
の満杯を直すことは出来ない。ソン君を通して、いつもの
パソコン修理業者に修理を依頼する。彼は現在フエ郊外で
の仕事をしているので、私の宿舎に駆けつけるまでに
1時間半程度かかるとのこと。
私は、火炎樹日記の日記掲載を最優先し、来るまで待っている
から早めに修理に来て欲しいとお願いする。
午後5時、業者の人がわざわざ郊外から駆けつけてくれ、
写真のストックを空いたホルダーに移動してくれる。
業者に直ぐ連絡してくれたソン君にも感謝。

ーーーー
最近「物忘れ」が激しくなり、時々、自分が自分を嫌になる時がある。

一応、物忘れ対策として、常にポケットに小さなノートを入れておき、
忘れそうなこと、大事なことは、メモしておく。

宿舎の仕事机には、5センチ四方の紙を置き、電話等での連絡、
新たな情報で措置が必要なことを「メモ」して、貼っておく。

これで70%程度は何とか大きな障害とならずに済んでいるが、
30%程度は、バオミンさんや富岡先生などに電話で再確認する
ことが増えてきている。これはどんな人間も「通る道」だと思っている。
年齢を重ねた人間が、命を永らえる為に「命と直結していない問題」
から徐々に「捨てていく、人間の延命自己作用」と思っている。

私の母親も60代からもお忘れが始まり、70代では、アルツハイマー
痴呆症になっている。私のその道に入りかけたのか?
それとも「生命保持」のために
不必要な「覚えておく機能」を徐々に減らしてきているのか?

どちらにしろ、年を重ねるということの意味を「物忘れ現象」を
通して、自覚し、考えさせられている。


=============

午後6時、日本料理店の「富岡先生送別会」を行う。
日本料理店の子どもたちが、適当に日本人が好きそうな
料理を作る。


最初に富岡先生が「結婚・退職」の挨拶をする。


子どもたちは、日本料理店で人気の高い、日本人の
お客さんの注文が多い料理をいくつか作る。


コロッケ


ハンバーグ



餃子

かけそば


たまご丼(親子丼?)


味噌汁


味噌田楽




午後8時、閉会。


富岡先生のご多幸を祈る

午後9時過ぎ宿舎へ帰り、明朝午前6時半宿舎
出発での帰国の荷物の最終準備・確認をする。

投稿者 koyama : 17:31 | コメント (0)

高市総務相・山谷国家公安委員長・有村女性活躍担当相の靖国参拝に抗議・反対する

高市早苗総務相は23日午後、春季例大祭に合わせて
東京・九段北の靖国神社を参拝した。
午前に参拝した山谷えり子国家公安委員長、
有村治子女性活躍担当相と合わせて3人。
 高市氏は参拝後、記者団に「国策に殉じた皆さまのみ霊に、
尊崇の念を持って感謝の誠をささげた」と説明しているそうだ。

「国策に殉じた皆さん」が靖国神社に合祀されている訳では
なく、「国策を作成し、指示命令した人たち」(東条英機など
A級戦犯)も合祀されている。ちなみに安倍首相の祖父
岸信介も「A級戦犯容疑で逮捕」されている。

『国策に殉じ』の前に「誤った国策」というべきであり、
国の方針に従った人たちを特別に合祀するという
考え方自体が、異常である。

戦前の誤った「国策」の間違いを指摘し、治安維持法で
逮捕された小林多喜二に至っては、築地警察署で
無法な拷問で虐殺されている。間違った戦争を諌めた
真の愛国者たちでもある
こうした人たちこそ「慰霊」すべきではないのか?

3閣僚は「国策に殉じた人たち」を云々しているが
まずもって戦前の国策の誤りを指摘して、投獄されたり
獄死したり、特高警察などの虐殺で死んだひとたちをこそ
顕彰すべきなのではないだろうか・・・・・。

3女性閣僚の意見や態度は、「国の命令に従って死んだ人
を英霊に仕立て上げる」態度がミエミ。

集団的自衛権・ODAの軍事化、世界のどこででもアメリカの
子分となり、戦争をする日本を作ろうとする安倍首相の
気持ちを代弁したのが、安倍首相の提灯持ち3閣僚だ
と個人的には思っている。

今回の3閣僚の靖国参拝は、国家の指示に従って死んだ皆さんを
慰霊するという言葉の中に、安倍首相グループの進める「戦争の
出来る日本作り』の世論形成の一助となる「3女性閣僚の茶番劇」
と見た。

恐ろしい世の中になって来たものだ。私たちの親や叔父さんたちが
70年前に誤った国策のために死んでいった歴史を『忘れてしまった
政治家』が「強そうな言葉を吐いている」図式も滑稽ではあるが、
恐ろしさも感ずる。

靖国神社は、「天皇のために死んだ人たちを慰霊する」
神社である。西南の役では、「朝敵」となった「西郷隆盛」は
靖国神社に祭られていない。

3閣僚の発想は、間違っても何でも「国の命令・指示」で
誤った戦争を遂行した人たちに「ご苦労様」という
もの。我が兄も中国からの引き上げ中に5歳で肺炎で
亡くなった。この種の人間はたくさんいるのだ。
先日なくなった「船渡与一」の「満州国演義1巻から9巻」を
精読すれば、いかに無謀な戦争を国策で行ったが詳報
されている。5歳で中国との戦争のための逃避行中に
亡くなった我が兄は、「国策に殉じた皆さまのみ霊」には
入らないようだ。勝手に死んだということなのか・・・・・。

高市氏ら3女性閣僚の時代錯誤、人命軽視、特定の
偏向した思想で物事を見る、世界の国々・人々から
批判される行動は、国益を損ずる重大な反国家的行為。

高市氏など3名の閣僚が「戦前の国策のために命を捧げた
皆さんを慰霊する」などというのなら、ガナルカナル島(餓島)
やパラオなど、多くの南太平洋の島々で「誤った国策」で
徴兵され、餓死した多くの人々を「天皇・皇后」のように慰霊に
行ったらどうなのだろうか?

いつの世でも「声高に」「強そうに虚勢を張っている人間」
ほど、責任感がなく、いざという時には、逃げてしまうのだ。

先の戦争を見れば、この種の指揮官・責任者がいかに
多かったことか・・・・・・・・。


投稿者 koyama : 08:42 | コメント (0)

2015年04月23日

日本語教師応募結果と今後の対応:リー君と懇談

気候の変化が大きい。午前中気温が高く、午後雨。
湿度が高く、過ごし難い。

午前7時朝食。「フォー・ボー」(牛肉米麺)


午前9時。ベトナム事務所で日本語教師採用結果の分析と
今後の対応の会議。


日本語教育部主任フーン先生、バオミンさんJASSベトナム委員長
富岡先生、私の4人。

今回、ベトナム事務所のビザ政策変更(ベトナム渡航は3ヶ月までの
ビザしか出さない)により、日本語教師は、3ヶ月毎に代わる
システムを作る。

第1期(4月・5月・6月)は古竹先生。
第2期以降第4期までの日本語教師応募者があり、確定。
一部、3ヶ月の期間できず、2ヶ月という先生もいる。
そうした若干の矛盾をどう解決するのか、協議する。


4月26日(日)結婚のため退職・帰国する富岡先生も
協議に参加してくれる。


ベトナム事務所では、スタッフの皆さんが真面目に仕事中。





午前11時半、昼食。「小麦粉の団子スープ」

午後2時間程昼寝。
午後3時、リー君から電話。色々と相談したいことがある。
午後5時に合いたいとのこと。


午後6時にリー君といつもの路上居酒屋で会う。



冒頭、リー君は結婚する予定だった彼女と「別れた」との
報告。彼女は今、ハノイへ行ってしまったと言う。

フエの「寅さんの面目躍如」。

何故、そうなったのかの「自己反省」と今後の展望に
ついて、つまり自己総括なし。次回も寅さんを繰り返すの
だろうか・・・・。今回の恋愛から何を学んだのであろうか?

弟が「ヘロイン中毒」となり、1年間の「矯正プログラム」に
参加中とのこと。弟が仕事が出来ないので、弟家族の
面倒を見に「ダナン」へ行くという。既に3回か4回、この手で
何がしかの『弟家族支援金』を渡していたのだが、
関係者からの情報によると、一度もダナンヘは行っていない
ことが判明。「弟支援金」は、文字通り「泡と消えて、胃の中へ
入っていった」のだった。

午後7時過ぎ、日本料理店へ。


午後9時過ぎ閉店。7人の来客あり。

投稿者 koyama : 23:43 | コメント (0)

2015年04月22日

里親への手紙:新日本語教師募集の結果:読書

この数日、気候の変動が大きく、常に体がだるい。

午前7時朝食。「チャオ・バイン・カイン」(小麦粉の手打ちうどん)


午前中は、里親への退所等の手紙を書く。


午前11時半、昼食。食欲なし。


しばらく昼寝。体がだるく、直ぐに横になりたくなる。


新日本語教師の件について、関係者に現状といくつかの
問題点を付した文章を送信する。


京都市国際化推進室からフエ市との件でメール受信。

両市の一層の交流を願う立場から、JASSとして、できる限り
の協力をしたい。


洗濯


読書「自分の壁」(養老孟司著:新潮新書)


午後6時前徒歩で日本料理店へ。

新日本語教師のお二人は、既に夕食を終え
食器を洗っていた。



午後9時15分、日本料理店閉店。9人の来客あり。

投稿者 koyama : 19:21 | コメント (0)

ベトナム事務所員会議:ミー・タンさん誕生会

快晴


午前7時朝食。「カニ団子・牛肉入り米麺」


昨夜、1階台所の米びつのプラスティックを「ねず公」が
噛み、歯型がついていた。

料理のセンさんが、「ねずみ獲り」を仕掛けた。


エビを「おとりのえさ」にする。




午前10時、ベトナム事務所へ。スタッフの皆さん、
真面目に仕事をしている。

新任日本語教師「北浦先生」


新任日本語教師「古竹先生」

ベトナム事務所で絶対的な権力を握る(?)会計のハンさん

午前10時半。ブライセンベトナム支社長と懇談



午前11時半。昼食。3分の1程食す。

午後2時半。ベトナム事務所員会議。



バオミン・JASSベトナム委員長より、新提案あり。

①ベトナム事務所の移転→静岡会館
②移転に伴い「日本料理店」の閉鎖。


ベトナム事務所の収入が激減。

原因は、地球の歩き方等のスタディーツアーの激減。
最高時、数百人の訪問者があったが、最近は年間20人程度。

日本料理店は、毎年大赤字。

そうしたことを総合的に勘案。ベトナム事務所の賃貸料が
年間200万円。金額的にベトナム事務所全体の予算の
かなりを占める。

そうした事情を考え、ベトナム事務所を静岡会館へ
移転する。賃貸料無料。200万円の賃貸料が「浮く」。
「子どもの家」の子どもたちのために使えるとの提案。

ベトナム事務所の総意を受けて、5月中旬に静岡会館
へ引越しすることを決定。

同時に現在のベトナム事務所(3階立て)の1階にある
日本料理店は閉鎖せざるを得ない。

多くの支援者の努力で作り上げてきた日本料理店では
あるが、この数年間、数千ドルの赤字が続いている。
他の日本料理店・レストランンなどは午前10時から
午後11時くらいまでの長期営業がフエの常識。
しかし、JASS日本料理店の実際の営業時間は、
午後6時から午後9時まで。たった3時間の営業。
これでは、収入があがるわけがない。
従業員の子どもたちのそれぞれ家庭の事情があり、
日本料理店は「収入増」だけを目的としたものではないので
中々難しい問題なのではあるが、現実にこの数年、数千ドル
の赤字を計上している日本料理店の営業は難しい。
最大の問題は、日本料理店のスタッフは子持ちで、
長時間営業ができないこと。これは、JASSの趣旨からして
致し方のないことである。

5月中旬頃に静岡会館への転居がある。転居に伴って
日本料理店は閉鎖される。

フエ市内のどこかに日本料理店の店舗を借りて、
再開する道もあるのだが、結果的に日本料理店店舗の
賃貸料・スタディーツアーの減少等を考えると、赤字が
更に膨らむことになる。

午後4時半、バオミンさんのオートバイの後ろに乗せてもらった
「子どもの家」へ。

3月31日に誕生会を行う予定だった「TANさん」が
突然いなくなってしまった。ベトナム事務所・「子どもの家」の
スタッフが色々な手づるを使い、この3週間調査した。
その結果、父親の親戚が経営しているホーチミン市の
「ミシン縫製工場」で働いているとの情報が入った。
「子どもの家」委員長やロック寮長を通して、直ぐにフエへ帰り、
事情を説明するよう依頼する。

無断出奔3週間。やっと昨夜、TANさんはフエの父親の家へ
帰って来た。


午後5時。フエへ帰って来た「タンさん」と父親が
「子どもの家」へ来て、私に会いたいとのこと。

3月30日にタンさんは、親戚の経営しているホーチミン市に
ある縫製工場(ミシン)に行ったとのこと。


タンさんは、ミシン研修を「子どもの家」でしていたので、
その経験を使って、親戚経営のミシン縫製工場で仕事を
するつもりだったようだ。

しかし、私たちとしては、3月31日に毎年「タンさん」の
誕生祝いの会をしている。突然、いなくなったので
心配になり、この3週間、各所に連絡し、タンさんの居場所
を探した。

タンさんと連絡がつき、取り急ぎ、タンさんは「子どもの家」に
戻って来た。

早速、「タンさん誕生会」を実施。
里親の海老原さんから、既に誕生祝いのプレゼントが
届いていた。


里親の海老原さんの誕生祝いをタンさんに渡す。
タンさんは、素直にプレゼントを喜んでいた。



タンさんと同室の子どもたちへのプレゼントまで里親の
海老原さんは送ってきてくれていた。

ベトナム事務所の音楽室で公式な「退所式」を行う。
参加者は、「子どもの家」代表のロック寮長。
(セン委員長は、4月30日ベトナム全土「解放記念」の
集会参加でホーチミン市にいる)

バオミンさん・小山。

タンさんとタンさんの父親。


タンさんの退所後の生活を詳細に聞く。

父親の親戚が、ホーチミンで「ミシン縫製工場」をしている。
そこに入って、「子どもの家」で研修したミシンを活かし
自立したいとのこと。


父親も娘の自立には賛成。


主役である「タンさん」の意思を確認。

「里親の海老原さんのお陰で、成長できた。その後、
ミシンの研修もした。日本のお母さんの海老原さんが
いなければ、自分はどうなっていたか分からない。
出来たら里親の海老原さんに直接あって、御礼を言いたい。
突然、ホーチミン市に行ってしまったのは、私の若気の至り。
セン委員長・ロック寮長に相談すべきであった。
しかし、そうしたことが必要だとは思っていなかった。
自分の未熟さを反省し、里親の海老原お母さんに迷惑を
かけたことを反省している。これからは、ホーチミン市の
親戚の縫製工場でミシンの仕事をしっかりやって、自立したい」
と話す。



父親が「子どもの家」退所願いに署名する。




長い間、里子のタンさんに愛情を注ぎ、我が子のように支援し、
育ててくれた里親の海老原さんに心からお礼を言いたい。

たった一人の? という意見もあるのだろうが、
たった一人の子どもの人生に寄り添って10年間、タンさんを
激励し、財政支援も行い、中学校を卒業させ、公民としての
最低の知識・教養を身につけさせ、ミシン工としての『手に職』
もつけるまで支援して頂いた里親の海老原さんに心から
お礼を申し上げたい。
「言うは易し、行うは難し」である。

私は22年間、フエでストリートチルドレンや貧しい家庭の
子どもたちを支援してきた。時々私を、「批判→非難する」
声が耳に入ってくる。悲しいことではあるが、これが人間社会
である。私の信条は「行動」である。「言うは易し、行うは難し」。

海老原さんは、見ず知らずのベトナムの子どものことを想い、
長年支援を続けてくれた。海老原さんの「どこに、どんな思想」
があるのか? いつも考えていた。毎年3月31日には、
必ず、里子「タンさん」の誕生会を贈ってくれていた。
何も言わずに「淡々と」こうした行動を長年続けてこられた
海老原さんの人生を知りたいなどと考えてしまう。
改めて、海老原さんにお礼を申し上げたい。

私たちJASSは、時間をかけても、子どもたちが自立するまで
支援をするという考えを貫いてきた。海外支援NGO[業界」
ではある意味で「異端」な会ではある。普通の海外支援団体では
大体3年間の支援で「自立した」と称して、次の支援国へ行く。
私は「渡り鳥ボランティア」と言っている。
そうした考えからすると10年も20年もフエにいて、自立も出来ない
JASSとのレッテルを貼られたり、直接そうした言説を言われた
こともある。しかし、タンさんを見ても『10年かけたからこそ」
紆余曲折の人生を経験しながらも、ホーチミン市の親戚で
ミシン工として「自立」することが出来たと、「誇りをもって」
いえるのである。
 こうしたJASSの考えに賛同し、長い長い年月ご支援・協力を
して頂いた海老原さんに改めて御礼と感謝を申し上げたい。

先日来られた「上尾の星野理一さん」も同じ考えで行動されている。


退所式を済ませ、「タンさんの誕生祝い」を行う。


誕生祝いのケーキ


大勢の子どもたちが集まって「タンさん」の誕生日を祝う。

同室の女子に「里親の海老原さん」からのお土産を渡す。



海老原さんの思いは、タンさんを通して、同室の子どもたち、
「子どもの家」の子供たちに伝わったようだ。


寮母さんとタンさん



誕生ケーキを持って「ご満悦」なタンさん。



タンさんが誕生ケーキを切って、年下の子どもたちに
渡す。


最近入所した一番年下の女の子。

タンさんのお裾分けのケーキをもらって『ご満悦』



子どもたちは「甘い物」が大好きだ。



箸でケーキを食べるところが、子どもたちの素晴らしいところ。




タンさんの誕生祝い・退所式を終わり、ベトナム事務所へ
帰ろうとしたら、「子どもの家」卒業生の「フン君」が
「子どもの家」へ遊びに来ていた。
現在は、「子どもの家」の前の路上で「オートバイ修理」
をしているとのこと。

午後6時、日本料理店へ。


今夜の日本語教師の夕食。


午後9時20分、日本料理店終了。

長い1日であった。

この間、タンさんの行方が分からず、里親の海老原さんを
はじめ、多くの方々にご迷惑をおかけしたことを、改めて
お詫びしたい。

タンさんに幸せな人生が待っていることを心から願っている。

午後6時過ぎ日本料理店へ。


午後9時過ぎ閉店。6人の来客あり。


投稿者 koyama : 00:05 | コメント (0)

2015年04月20日

日本語教師募集の件・里親への手紙

真夏  室内気温40度。

午前7時朝食。「フォー・ガー」(鶏肉米麺)


1階の台所の「こめびつ」のふたを「ネズ公様」が
食いちぎった。朝、料理のセンさんからの報告で知る。

(プラスティックの米びつ)


「ねず公」は、「げ歯(げっし)類」の生き物。
常に歯を磨く習性がある。

米を食べようとしたのか、プラスチックで歯を研いだのか?


ねず公が『闊歩する』我が家で寝るのが怖い。

午前11時半、昼食。

「チャオバインカイン」(小麦粉手打ちうどん・唐辛子入り)



今日は猛暑。室内の気温は40度。

暑くて体がだるい。

しばらく横になる。


4月18日「二人の子どもたち」が、「子どもの家」を退所した。

里親の皆様に「子どもの家」退所の報告書を書く。
関連写真の整理。


バオミンさんと当面の課題について、電話で打ち合わせ。

明日、午後2時半からベトナム事務所員会議。

午後6時前、徒歩で日本料理店へ。


今夜の日本語教師の夕食


日本語教師の皆さんも日本料理店の仕事を手伝ってくれる。
ありがたいことである。感謝。


午後9時過ぎ閉店。7人の来客。全て欧米系。


投稿者 koyama : 18:59 | コメント (0)

2015年04月19日

上尾市の星野さん「子どもの家」を訪問

午前7時起床。

午前7時半、昨夜作った小型おにぎり2個を食す。

午前10時前、バオミンさんから電話。家の近くまで
里親の星野さんと一緒に来ているとの連絡。

宿舎の近くで合流。タクシーで「子どもの家」へ。

星野さんは、10数年前に
上尾市商工会議の主催で「青少年海外スタディーツアー」
を企画。フエの「子どもの家」へ何度も上尾市の中高大学生
などを連れて、スタディーツアーで支援に来て頂いた。

その間、「子どもの家」の子どもたちの里親も何人も
やって頂いた。長年の里親支援では、里子が成長し、
自立し、社会へ巣立つとまた小さな子どもたちを
支援してくれていた。タイの少数民族の子どもたちへの
支援も長年行っているとのこと。頭が下がる。

今回の里子は、私が1993年にフエ市内「チーラン通り」
に「子どもの家」を作った。諸般事情で「乗っ取られてしまう。

その「子どもの家」にいた子供である。今回、ベトナム政府の
方針で外国人のビザは3ヶ月間だけ。延長は認めない。
更に滞在するには、一度母国へ帰り、再度3ヶ月のビザを
取得するとの方針となった。「チーラン通り」「子どもの家」を
支援していたフランス人は、そうした方針に抗議し、
フランスへ帰国。11人の子どもたちが、「子どもの家」に
取り残された。JASSベトナム事務所は「3ヶ月問題は
不当である」しかし、子どもたちへ打撃を与えるやり方には
賛成できないとの方針を採り、チーラン通り「子どもの家」の
子どもたち11人全員をJASSの「子どもの家」に引き取った。

今回、星野さんの里子になったNOM(ノム)さんは、22歳。
フエ高等技術専門学校に通っている。
2002年からチーラン通りの「子どもの家」に兄弟3人で入所。
今回は、その3人がJASS「子どもの家」へ移ってきた。
父親は子どもたちが小さい時死亡。母親は日雇い労働者をして
何とか生活している。子供が多いので、全ての子供の生活の
面倒がみられない。

新しい里子「ノム」さんと対面。


日本からのお土産にいくつかの衣類をプレゼント


日曜日の「子どもの家」には、赴任したばかりの
北浦先生・古竹先生が、富岡先生の案内で訪問。


12時前。昼食となる。

今日の昼食






黄色いシャツの女児はチーラン通りから移ってきた。
明るい子供。

料理担当のスタッフ「ムイ」さんが体調を崩し退職した。

代わりに新しい調理スタッフ「MINH(ミン)さん」が
調理の仕事をしてくれている。

彼女は、「子どもの家」出身で、長い間、刺繍みやげ物店
に勤務していた。結婚しお子さんも出来、刺繍みやげ物店を
退職していたが、「子どもの家」の方でお願いし、新しい
調理責任者に就任してもらう。


新日本語教師の北浦先生・古竹先生は、子どもたちと
交流。



12時前に「子どもの家」を出て、昔フエもあった「チャイナタウン」
の数少ない「生き残りの店」へ行き、「ワンタンメン」を食べる。


食後、星野さんにしばらくホテルで休憩して頂く。


私は宿舎へ帰り、いくつかのメールへの返信を行い、
昼寝をする。今日は真夏。猛暑。

午後5時45分。徒歩で『家庭料理②』へ行く。


星野さん、バオミンさん、私、リー君で夕食会。


話題は、先日、リー君が結婚すると言って紹介してくれた
女性と現在「けんか中」で交信不能とのこと。

何故、彼女と「喧嘩(けんか」になったのかを問いただす。

リー君の友人の結婚式にリー君が招待された。

リー君はそこで彼女を友達に紹介するつもりで
結婚式に参加したのだが、少し飲んでいるうちに大事な「任務」
を忘れ、知り合いの席にリー君だけで行き、結局、リー君は
酔いつぶれ、彼女は誰にも紹介されず「結婚式」が終わり、
彼女は「怒り心頭に発し」『絶交宣言』を突きつけられた、
とのこと。

星野さん・私・、ミンさんの3人で、リー君に
「彼女に手土産を持って直ぐに謝りに行け」との助言。

リー君はその場で彼女に電話をして、『ごめんなさい』
『ごめんなさい』と謝ってはいたが、彼女が許しているかは、
不明。

星野さん・私、バオミンさんの「体験」から、こういう場合は、
手土産を持って、「自分の行動に大きな誤りがあった」
ことを率直に認め、謝罪することが大事との助言を行う。

リー君は、結構「粋がって」いたが・・・・。今後どうなるのであろうか?

午後8時45分まで夕食交流会を行い、閉会。

私はリー君のオートバイに乗り宿舎へ。

星野さんは、会場から徒歩5分程度のホテルへ。


日本の男子は「草食男子になった」と言われているが、
まだ日本には星野さん、ベトナムにはバオミンさんの
ような「肉食系男子」が生息していることに安堵の
気持ちを持ち、宿舎へ帰る。

投稿者 koyama : 16:29 | コメント (0)

2015年04月18日

ナム君・ニュンさん退所式:富岡先生送別会:ソン君誕生祝い

快晴 真夏日

午前7時朝食。
「チャオ・バイン・カイン」(小麦粉の手打ちうどん)
統計的には、4日に1回の「確率」で作ってくれる。
唐辛子が強い点だけは困るのだが、美味しくて大好きだ。


午前8時45分、宿舎にバオミンさんがオートバイで迎えに
来てくれる。

今日は、「子どもの家」で2人の子供の退所式。
その後、富岡先生の「退任式」と『ソン君の誕生祝い」の会。


バオミンさんのオートバイの後ろに乗り、「子どもの家」へ
行こうとしたのだが、今日は、4月30日の「ベトナム解放記念」
を祝う「ハノイ→ホーチミン」自転車ツアーがあった。

私たちの住んでいる所は「新市街」。「子どもの家」は旧市街。

その間を「フオン河」が流れている。

どうしても旧市街にある「子どもの家」に行くためには、
「フオン河」を渡らなければならない。

ところが、「サイゴン解放40周年記念自転車体験ツアー」が
行われている。数百台の自転車がハノイを出発し、国道を
南下し、4月30日の「サイゴン『解放』記念日」にホーチミンに
つくサイクリングツアーを行っているので、フォン河に
かかる3つの橋は、数百台の自転車の長い列で一杯。

フエ市民の中心的な橋である「チャン・ティエン橋」は
ハノイ等から自転車で来た「ホーチミン青年団」などに
占拠され、渡れない状況。
バオミンさんと私も一番遠くの「人が行きそうもない橋を
目指して行ったがが、そこもオートバイや車で一杯だった。

個人的には、非常に迷惑な「ハノイ→ホーチミン自転車ツアー隊」
ではあった。

午前9版前、「子どもの家」にやっと到着。

今日は、「子どもの家」に居た「NAM君」の退所式兼在宅支援
移行の式典。

「子どもの家」に3人兄弟・姉妹で入って来た「ニュンさん」の正式な
退所式典を行った。

初めにニュンさん(18歳)。3人兄弟で2005年に入所。
昨年中学を卒業し、JASS刺繍研修所で刺繍を研修していた。

今日は祖父(71歳)が退所の受取人として「子どもの家」へ来てくれる。

父親(41歳)は精神的な病を持っていて仕事が出来ない。
母親は、行方不明。

10年前に3人の兄弟(女子2人・男子1人)を「子どもの家」で
受け入れる。

今回、父親の妹がニャチャン(フエとホーチミンの中間の海岸
にある街)で「缶詰工場」をしているので、そこで叔母さんの
指導を受け、自立することになった。
家庭環境を見ると、できるだけ早く自分で収入を得て自立する
ことが望ましい。ただし、見知らぬ所では、監督が行き届かず
様々な問題に遭遇する可能性がある。
今回は、叔母さん(父親の妹)の経営する缶詰工場での仕事
なので、比較的安心して任せることが出来る。

(71歳の祖父:退所するニュンさん)

71歳の祖父は、諸般の事情で「文字が読めない」ので、代わりに
ニュンさんが「退所宣誓書」を読みあげる。


祖父が退所承諾書(戸籍移転書も兼ねる)に承諾のサイン。


「子どもの家」はフエ市の公的機関なので、戸籍の管理権を
持っている。「子どもの家」で戸籍を抜き、「ニャチャン」の
叔母さんの戸籍にいれる手続きを行う。

「子どもの家」運営委員長のセンさんが、退所と戸籍移動の
合意サインをする。

正式に退所と戸籍移動準備が終わる。

ニュンさんの新しい門出を祝う。幸せな人生が待っていることを
祈る。


ーーーー
NAM(ナム)君の「子どもの家」退所→在宅支援への変更式
を行う。

NAM(ナム)君は2004年に「子どもの家」へ入所。
10年強、「子どもの家」で生活したことになる。
現在15歳である。

中学を卒業。今回、「子どもの家」を退所し、「革靴作りの職人」
の修行のため、祖母の家で生活することになった。

祖母は、70歳。毎日「宝くじ」を売り歩く仕事をしている。
1日の儲けは、250円位とのこと。


祖母は、良くしゃべり、明るい性格の方である。

70歳とのことだが、1日中街を歩き「宝くじ」を売っているので
相当の運動をしている。体が大変丈夫のようだ。
また、良くじゃべる。これも「宝くじ」うりで身につけて人間対処術。

祖母の生活、NAM君の「革靴作りの『丁稚奉公』の実情などを
聴く。3年でほぼ「一人前」。
今は、足型に合わせて「革」を切り、靴底に接着剤で貼る仕事を
しているとのこと。5年ほど修行すれば、一人前の「手作り靴」
職人になれ収入が入るそうだ。「子どもの家」の直ぐ近くの
靴屋さんで仕事をしている。


4歳で入所したころは、本当に赤ん坊・幼児だったが、
15歳の青年になった「ナム君」たくましくなっている。



今後のナム君の「在宅支援」としての諸注意をするセン委員長。



祖母も文字が読めないので、ナム君が「退所・戸籍移動承諾書」
を読みあげる。

親元として祖母が、承諾書にサインが出来ない(無筆)
ので、拇印を押す。


拇印の下にナム君が祖母の名前を書く。


今後は、日本の里親の方に連絡し、ナム君の『在宅支援』を
お願いする予定。

ナム君の人生もなかなか困難が多いが、乗り越えて
成長して行って欲しい。こうした子供こそ、本当に
支援する必要のある子供である。「一度しかない」「貴重な人生」
を無駄にさせたくない。

退所式を終わる。

以前、「子どもの家」にいて「日本料理店スタッフ」として
研修していた「ヒエップ君」が「子どもの家」に遊びに来ている。


「子どもの家」にいた子どもたちはどの子供も、「子どもの家」が
自分の故郷であり、生家でもあるのだ。



背中の方に「青い・いたずら」をしていた。『若気の至り』


「子どもの家」での退所式を終わり、近くの「水上レストラン」へ。

今日は、4年間、日本語教師をしてくれた富岡先生の
『送別会』である。

会場のレストランは、元々はフエ王宮を取り巻く「お堀」
であった。


午前10時過ぎ、「富岡先生送別会」開会。

バオミン委員長が、開会の挨拶



乾杯



小山の「送別の言葉」兼「婚約お祝いの言葉」




富岡先生の「離任のことば」。

2010年8月から足かけ4年、ベトナム事務所で日本語教師や
日本料理店の手伝いをさせてもらった。
色々な経験をさせてもらった。失敗もあったが、今後の人生に
役立つ4年間だった。「不思議な縁」でベトナムに来て、
ベトナムの女性と結婚することになった。

今後は、長野県の小諸市に帰り、「ワイン工場」をやる予定だ。


JASS日本語部長のフーン先生より「4年間の思い出の写真」
贈呈


送別記念品贈呈



昼食を囲んで


ソン君の34回目の誕生日のお祝い

ベトナム事務所スタッフが、各自、ソン君へお祝いの言葉を
言う。

ソン君は1994年、14歳でに「子どもの家」へ入所。
現在34歳。「子どもの家」入所後20年が経過。

現在、4歳の男児「BAO君」のお父さん。

ベトナム事務所の皆さんは、富岡先生の4年間の日本語教師
としての功績と、ソンクンの34回目の誕生日のお祝いを言う。


新日本語教師の古竹先生の言葉

新日本語教師の北浦先生の言葉

バオミンさんが「しめのことば」を言う。

ソン君の誕生祝いの寄せ書き


ソン君のお礼の言葉



お昼過ぎに「富岡先生送別会・ソン君誕生会」を終了。


午後1時から2時間程昼寝。

その後読書。

今後のJASSベトナムの在り方をを考える。


午後5時半、日本料理店へ。


午後9時、閉店。


長い1日だった。

夜7時「ダナン空港」着の飛行機で日本の支援者であり「里親」
である星野さんが、フエに来る。

バオミンさんが、車で2時間半程かけてダナン空港へ出迎え。

フエ到着は午後10時頃になりそう。無事に到着することを願う。

明日から、「子どもの家」訪問、里子との面会などの諸日程が
ある。仕事でお忙しい中でのフエ・「子どもの家」訪問に感謝。

投稿者 koyama : 18:37 | コメント (0)

2015年04月17日

当面の諸課題の整理・調整

真夏 暑い


午前7時朝食。「フォー・ガー」(鶏肉米麺)



午前中、当面するいくつかの大きな問題について
解決策と今後の問題を考え、整理する。

バオミンさんと当面するいくつかの問題についての
具体化を話し合う。


寝起きから体がだるい。何もする気も起こらない。
困ったものだ。

横になり読書。「峠〔慶次郎縁側日記)北原亜以子」新潮社

肩がjこらずに読める。江戸の町が手に取るように判る・


午前11時半、昼食。

毎週1回の定例の「ご飯」とサラダ、魚フライ、スープ。
余りに量が多く、食べきれない。困ったものだ。



食後2時間程、横になる。


その後、2月25日、日本帰国以降の諸問題について整理。


読書「峠〔慶次郎縁側日記)北原亜以子」新潮社

午後5時半、徒歩で日本料理店へ。

日本語教師の夕食 「ブン麺」(米麺)


3人の日本語教師の皆さん。真面目にしっかりと
日本語教育をしてくれている。感謝。


午後9時45分閉店。ドイツ人が最後まで食事をする。

今日は9人の来店あり。

投稿者 koyama : 00:00 | コメント (0)

2015年04月16日

 7月・8月・9月の日本語教師募集中

快晴 猛暑 真夏

2015年7月8月9月「3ヶ月間」の日本語教師募集中。

年齢・男女不問。日本語教師資格・経験必要なし。
フエ滞在中のホテル・食事等は全てJASSが用意。

詳細、問い合わせ先は

 E‐mail:vanphongjassvn@gmail.com 

 FAX:001-010-84-54-3828087

午前7時朝食。

「ブン・ボー・フエ」(牛肉米麺・カニ団子入り)

今日は、いつもの「ブンボー」以上に牛肉が大きい。

有難いことではあるが、今、この量の牛肉を食べきることは
出来ない。

食後、当面のいくつかの課題を整理し、問題解決案を
考える。

午前9時、ベトナム事務所の富岡先生より電話あり。
日本人の訪問者がお二人ベトナム事務所にお越しとのこと。

急いで電動バイクでベトナム事務所へ。


私とほぼ同い年の方だが、1ヶ月間、ベトナムを回るとの
こと。既に世界中を旅していると話されていた。
お元気な方である。埼玉県在住とのこと。

1時間半程、主にお客さんの話を伺う。

まだしばらくベトナムを旅行されるとのこと。
体に気をつけてベトナム旅行を満喫して欲しい。

ベトナム事務所では、みなさん、真面目にそれぞれの担当の
仕事をしていた。

3月から4月にかけての長期のスタディーツアーを
担当し、大活躍してくれたソン君。

日本語教育主任のフーン先生


4月から1年間日本語教師をする「北浦先生」
(ベトナム政府の3ヶ月ビザ政策のため、3ヶ月毎に
 日本へ帰り、3ヶ月ビザを取るという何とも申し訳ない
 形になってしまっている。しかし、1年間の日本語教師
勤務はありがたいことである。感謝している。大学生)


お母さんになり貫禄がついて来たANH(アイン)さん
ベトナム事務所員。


新日本語教師の古竹先生 
お姉さんが、以前、日本語教師をしてくれていた。
4月・5月6月の三ヶ月間の勤務予定。

新しい2人の日本語の先生は、真面目に熱心に
日本語教育を進めてくれている。本当に助かっている。


JASSベトナム事務所の「金庫番」(在庫の少ない金庫だが)
ハンさん。1993年からのお付き合い。私が日本語を教えた
第1期生。バオミンさんと同級生。22年間のお付き合いである。
真面目に財政担当を進めているので安心して財政管理を
任せることが出来る。



バオミン・JASSベトナム委員長は仕事で外出中。


2人の日本人来客の方と話を終え、急いで宿舎へ。


午前11時半、昼食。

「チャオ・バイン・カイン」(小麦粉の手打ちうどん)

食後、2時間程横になる。今日は真夏のような暑さ。

室内の温度 32度。湿度50%。


読書『峠(慶次郎縁側日記』(北原亜以子著:新潮文庫)

午後5時半、徒歩で日本料理店へ。


今晩の日本語教師の「おかず」と「スープ」

イカとトマトの煮物



日本料理店店長のトウォイさん・一児の母親



調理担当のハンさん。男児の母親



接客主任のグエットさん。何語でも理解できる



今日は7人の来客あり



日本語教師の夕食



午後9時過ぎ、閉店。7人の来客。


投稿者 koyama : 17:06 | コメント (0)

2015年04月15日

宿舎で仕事:日本料理店

今日は気温が上がり、夏のような暑さになった。


朝食・昼食を断った。

昨夜、疲れていたので今日は、午前10時まで
寝ていた。


バオミンさんからいくつかのメールあり。


午前11時過ぎ、炊飯器で1合のお米を炊く。

4つのおにぎりを作り、2つ食べる。

塩で握り、中に「味噌漬け」を入れた。
こうした「淡白な」「油気のない」物が無性に食べたい。

豚肉だとか牛肉を入れた「脂だらけ」の食事は、
本当に食べられない。困ったものだ。


午後当面のいくつかの問題を整理する。

バオミンさんとメールで当面の諸問題を打ち合わせ。

午後3時、2個の「おにぎり」を食す。


午後6時、徒歩で日本料理店。

日本語教師の夕食。



来客を待っている厨房スタッフ。



接客のグエットさん



午後9時過ぎ閉店。4人の来客あり。


『残夢の骸・満州演義9』(船戸与一著:新潮社)読了。

著者は、満州への入植・満州『経営』などを通して、

日本の軍国主義、満州・中国侵略の実態を詳述している。

戦争の最終段階では、偉そうに「命令していた」関東軍の
将校が、率先して、朝鮮経由で日本へ帰り、満蒙開拓団
の農民の皆さんなどが、集団自決をするなど、偉そうに
言っていた人たちが、一番最初に敗戦に近づいたとの
情報を掴み、日本へ逃げている実態を詳報している。

満州が中国共産党「八路軍」と国民党軍との内戦に入り、
日中、両国の人民が亡くなっている。

著者は、大著(1冊470ページ)の本9冊で何を言いたかった
のか?

9冊の本を読んでも正確には言えないが、少なくとも
この戦争が意味のない、無駄な戦争だった。
そうした戦争を指揮した責任者が、一番最初に
満州から逃げていったという事実は明らかになった。

今、戦争好きな」お坊ちゃん首相」が『戦争法制』を作り、
憲法9条改悪のための国民投票に持ち込もうと
しているが、本書を読むと、結局のこの種の人間〔安倍氏・・)
は、調子のよい時は、元気なのだが、一端調子が狂うと
「自己保全に奔り」自分と家族・仲間だけがよければ良いとの
生き方をする人間の本質がある、と著者はいいたいのでは
ないかと推測する。

そして『満州」で『棄民』された子どもたちを
「中国残留孤児」と言う日本政府の責任感の欠如には
あきれ返る。

本書を9巻をわざわざベトナムまで持って来てくれた
京都の「豊田さん」に心から感謝したい。
1巻~8巻までは、ベトナム事務所員の富岡先生にも
手渡してある。


投稿者 koyama : 23:23 | コメント (0)

バオミンさんと打ち合わせ

今日は、急に太陽が出て、気温が高くなる。暑い。
気候の変動が大きいので、体がついて行けない。

午前7時朝食。

「チャオ・バイン・カイン」(小麦粉の手打ちうどん)


午前中、里親への手紙、里親への連絡などの
文章を書く。


バオミンさんと電話で打ち合わせ。


午前11時半。昼食。

「豚肉入りの春雨麺」


午後2時間程昼寝。体がだるい。

いくつかのJASSの今後の諸課題について文章を書く。


バオミンさんと打ち合わせ。ベトナム事務所の件、その他。

インターネットで2代目「広沢虎造」の「清水の次郎長伝」
を聴く。

戦前の浪曲師。一世を風靡した。

「寒い」→「さぶい」
「たばこ」→「たぼこ」
「「きまりがわるい」
「少ない」→「すけない」(少ないの意味)

私の父親は、こんな言葉を使っていた。
私は子供の頃、非常に抵抗感があった言葉だった。

しかし、広沢寅造の浪曲を聴くと、私が子供の頃の
父親の言葉が、「モロ」に出てきたので驚いた。


「タバコ」を「タボコ」などという人は私の子供時代には
周りにいなかった。

しかし広沢寅造〔2代目)の浪曲を聴くと、私の小学生の頃
父親が使っていた「変な東京語」を廣澤虎造が使って
いるのである。父親の東京の言葉は、東京の下町の
言葉だということが分かった。浅草や向島などに若い頃
住んでいた父親のことばは、今から考えると当時の
東京の下町の言葉だったのだ。

私は子供の頃は、「布団をひく」と言っていた。
学校に行って教科書を読むと「布団をしく」と書いてあるので、
自分の言葉は、「方言」だと思い、無理をして、直したものである。
「とうちゃん、しゃくえん ちょうだい」と言っていたことを思い出す。

2代目廣澤虎造の浪曲「清水次郎中伝」を聞くと、父親が
日常話していた言葉遣いが、出てきてとても「懐かしく
おもった。昔の東京の下町では、父親の話していた言葉が
使われていたことが改めて分かった。

午後5時半、徒歩でベトナム事務所へ。

午後6時半、日本語教師が帰ってくる。

夕食。「チャオ・バイン・カイン」〔小麦粉の手打ちうどん)



来客5人。

午後9時半過ぎ閉店。


投稿者 koyama : 00:02 | コメント (0)

2015年04月13日

春のスタディーツアー受け入れ、ほぼ終わる

小雨  気温21度 湿度90%

終日、寒い。

午前7時朝食。「フォー・ボー」(牛肉米麺)


静岡市関連のメールを送る。

部屋の掃除と整理。

「子どもの家」・子どもたち関係の諸問題について私見をまとめる。

午前11時半昼食。


「魚いりのおじや」



午後、しばらく横になる。

読書「残夢の骸ー満州演義9」(船戸与一著:新潮社)

一気に読み切るのがもったいないので、少しずつ
区切って読んでいる。

午後5時半、徒歩で日本料理店へ。


魚の煮物と野菜スープ


日本料理店の来客、多し。厨房は忙しい。



午後6時近く、日本語教師の皆さんが授業を終えて
日本料理店へへ。



オーストラリア人の団体が来店。

英語版の「ロンリー・プラネット」を読んで来店。

「子どもの家」のこと、子どもたちのこと、
何故、「子どもの家」を始めたのか? などの
質問をし、しばらく「質疑応答」となる。

今日は11人の来客あり。

午後9時過ぎ閉店。

投稿者 koyama : 17:55 | コメント (0)

2015年04月12日

荒川区等東京の元教員一行ダナンヘ

今日は朝から終日雨。午前10時半の室内気温は22度。
湿度90%。寒い。

午前6時、日本料理店のトゥオイ店長・グエット接客主任
ハン調理担当、富岡先生が日本料理店へ結集。

今朝、10時45分フエ駅発→ダナン行きの列車でダナン観光へ
行く荒川区を中心に東京で教員をしていた皆さん11人
の列車内での昼食弁当を作る。(ソン君が引率案内する)




幼児がいる店長のトゥオイさん、調理のハンさんが
日曜日の朝6時に日本料理店へ出勤することは大変なこと。

心から感謝したい。

昼食弁当は「おにぎり」「隠元」などの野菜。



ジャガイモと人参の「キンピラ」

かぼちゃの添え物。


おにぎりは、「梅干」いり




さっぱりした日本料理をと考えている元東京の先生方に
喜んで頂ければ幸いである。

4月10日の夜、日本料理店で皆さんと夕食会を行った。
みなさん、大体私と同年輩か若干年上の女性の皆さん。

色々と話をしてみると1960年代中ごろから1967年頃
東京学芸大に入学し、4年間、武蔵小金井校舎で過ごした
方々だった。私は大半の先生方とは、数年間、同じ大学で
過ごしていたのだった。
更に色々話すと私が「子ども会」などのサークル
活動をしていた頃、「セツルメント活動」をしていた先生もいた。
50年ほど前を思い出すと当時の面影が残っていた。
ほとんどの先生方とは、何年かは東京学芸大で一緒に
過ごし50年後に『再会』したことになる。
色々と話しているうちに1960年代後半の学生時代の
思い出が蘇ってきた。騒然とした4年間であった。
私の入学当時の東京学芸大の学長は「有名」な
「期待される人間像」を書いた「高坂正顕学長」。
私は1967年4月に入学。入学式に列席していたが、
式典の冒頭に「学生集団が式場に乱入」。高坂学長を
取り巻き、体育館の近くの芝生に連行し、もみくちゃになった。
そのうち、高坂学長が「失神」。何故か新入生の私も
そのもみくちゃの輪の中に入っていた。
そんなことで、入学式は開始早々に中止。
1週間後に「学長拉致事件」の指導者として、各学生運動の
グループの責任者7人程に「退学」処分が通告された。
直ぐに「学生大会」が開かれ、1週間程、朝から夜まで
延々と学生運動の各グループの皆さんが発言する。
結論は、「不当処分撤回・無期限スト」。ということで、
7月の夏休みまで授業がなく夏休みに入ったという当時の
「熱気」と「高揚した」気持ちが少し蘇ってきた。
その頃、一緒にあの異常な熱気・興奮の中に
「子どもの家」訪問の東京の小学校の先生だった皆さん
もいたのだと思うと、50年近い年月と時代の流れを感ずる。
皆さん、60代後半から70歳を過ぎても元気溌剌で
ベトナム旅行を満喫している姿に「畏敬の念」(高坂正顕の
好きな言葉)を感ずる。

既に皆さん、60代後半から70代に入っているが、とにかく
良く食事をし、話し、元気溌剌の元女性教師の皆さんで
あった。

皆さんの元気に励まされ、私も何とか、体調を
回復し、子どもたちのために頑張ろうと自分に
「気合い」を入れたのであった・・・・・・・・。

午前10時。フエ駅にいる引率責任者の杉田さんに
電話。フエ・「子どもの家」訪問のお礼を言う。
皆さん、ソン君の引率で元気にダナンヘいくとのこと。
安全・無事な旅行を祈る。


ーーー
今朝起きて2階の仕事部屋を見ると、ビニール袋などが
「引きちぎられて」散乱している。驚く。
細かく調査すると「ネズ公様」が夜中に2階の仕事部屋に
乱入。「おつまみ用」に頂いた「かきのたね」などの
おつまみ類の「貯蔵庫」を破壊し、中にあった「各種おつまみ」
を食いつくし、更にそれらを引きずって、1階の流し場に闖入。

2階の仕事部屋、2階から1階に下りる階段、1階の流し場に
おつまみ類が散乱していた。命の次に大事な「おつまみ様」を
なんとするのか・・・。怒りの気持ちと恐怖心が湧き上がる。

私が一番「怖く」「嫌いな生き物」の一つが、「ねず公」だ。

ベッドで寝ていて、私の顔の上を「ねず公」が横切っていく
などという「図」を想像するだけで、「身の毛がよだつ」。

既に1階には、「ねずみ取り」を」置いているが、ネズ公は
それを察知し、ネズミ捕りのない「2階」を仕事場に切り替えた
ようだ。

2階にも「ネズミ捕り」が必要である。
とりあえず、「ねず公」の2階の出入り口である「バスルーム」の
水の出入り口を塞ぐ。ペットボトルに水を入れて、応急措置として
水路を塞ぐ。




午後12時過ぎ。朝食を摂らなかったが、全く空腹感はない。

午後、しばらく横になり、読書。「残夢の骸(ざんむのむくろ)」
(船戸与一:新潮社:2200円)

この本は、一度読み始めると、途中で止められなく面白い。

1巻470ページ程の本である。京都の「豊田観光」の豊田さん
からの寄贈。既に8巻を寄贈頂き、直ぐに読み終えてしまった。

「満州国演義1~9」との副題もついている。

今年の8月15日の敗戦記念日に安倍首相がどのような
談話をだすか? が世情では喧しい。「村山談話」の大筋は
継承すると言っている安倍首相ではあるが。
『侵略のお詫び』『近隣諸国への多大な迷惑』などの文言と
精神が入っているのか?
『二度と戦争をしない決意を述べるのか?

本書を読むと「日本軍国主義の侵略」であることは、明白に
分かる。同時にソ連の『南進思想」『海洋進出』『日露戦争敗北
の仕返し思想』が色濃く出ている。米英ソ3カ国の「ヤルタ」から
「ポツダム」までの会談の経過も書かれているが、それぞれの
帝国主義国が自国の伸張のために「下心」を持ちながらも
日本帝国主義の中国・アジア侵略に「反帝国主義戦争」の側面を
持ちながら対処してきたという、複雑な戦争でもあった。

ソ連自体は、日露戦争敗北への復讐との気持ちも強かった
ようだ。同時に「南進」「海洋進出」という野望も強く、
戦争末期には、米英と戦争勝利後の日本統治問題について協議。
ソ連は、北海道の「留萌から釧路」までの北側をソ連領にする
ことを強く主張していた。

アメリカの広島・長崎への原爆投下も「戦後の対ソ連政策」
という側面があったことも事実だ。
アメリカでは、日本の抵抗を根絶する為に、原爆は必要だったとの
主張をしているが、実際には、日本敗戦後の「米ソ対立」という
構図の中でアメリカがいかに優位に立つかという打算の下に
原爆投下が行われたというのが、事実のようだ。

日本の敗北のために「必要だった」との通説があるが、
実際には、「戦後の世界政策でイニシアチブ」を取るための
アメリカの政策だったことが分かる。

日本兵のシベリヤへの抑留も国際法に著しく違反している。

戦争は、「勝てば官軍」という側面を持ちながら、推移する。

お米1合を炊く。「小さいおにぎり」を4つ作る。

朝・昼職兼用に2つを食す。

夕方2つ。

宮沢賢治は『雨にも負けず』の中で
「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」といっている。
当時は、硬い玄米を1日4合もたべていたのだ。

私など、1日1合で十分である。

体調が悪いので食欲がない。特にベトナムの『脂ぎった食事』
は喉を通らない。

おにぎりなどの淡白な食事少量で十分である。

フエに戻って2ヶ月近くなる。どうしても「脂っこい食事』が喉を
通らない。困ったものだ。どうしても「液体食事」に安易に依存
してしまう。そのうち「000-0依存症」になるのだろうか?・・・

ベトナム事務所の若いスタッフの皆さんには、私の「脂っこい
食事拒否」という事態が理解できないとは思う。
私も若い頃、先輩の先生が言っていたことが、当時は
分からなかった。その年になって、理解できるようになった。

投稿者 koyama : 11:59 | コメント (0)

2015年04月11日

当面のいくつかの課題の整理:日本料理店

午前6時半起床

寒い。気温22度・湿度90%。小雨


午前7時朝食。

「チャオ・バイン・カイン」(小麦粉の手打ちうどん)


先日まで30度を越えていた気温が今日は急に20度台。

とても寒い。1日中、気温の急激な変化に体がついて行けない。

午前中、いくつかのJASSの課題の整理。

静岡市関係者にメール送信。

午前11時半、昼食。

「骨付き豚肉入りのブン麺」



1割程度しか喉に入らない。

午後2時間程横になる。眠れないが・・・・。

日本語教師の富岡先生が、4月22日で退職し、その日
日本へ帰国する。帰国まで10日間ほどとなった。

里子の問題を考える。

午後6時、徒歩で日本料理店へ。

午後9時閉店。4人の来客あり。


帰宅時には、雨。


今日は終日雨で寒い。数日前の猛暑との対比。
体がもたない。日本のように温暖な気候は、
ありがたいものである。

投稿者 koyama : 17:44 | コメント (0)

2015年04月10日

元荒川区等教職員「子どもの家」来訪

午前7時朝食。

「ブン・ぼー・フエ」(牛肉米麺)



午前中、いくつかの仕事。日本語教師募集関連、静岡市
関連、その他。

洗濯。


午前11時半昼食。

「アヒル肉入りの春雨麺」


午後1時15分、宿舎を出て「子どもの家」へ。

今日は、荒川区を中心にした元東京の教職員11人の
ツアーが「子どもの家」を訪問する。

午後2時、ソン君が案内して「荒川区を中心にした教職員」
の皆さんが「子どもの家」へ。


セン「子どもの家」運営委員長が歓迎の挨拶

その後、私が「子どもの家」を案内する。

その後、「子どもの家」2階の集会室で1時間ちょっと、
「子どもの家」の歴史などを話す。



訪問者の皆さんから「子どもの家」へ寄金の贈呈


講演会終了後、「子どもの家」付属刺繍みやげ物店
で子どもたちが作った刺繍作品を買ってくれる。



最近は、フエの小中高校では「2部授業」を止めて、
朝からお昼、更に夕方まで授業をするようになった。

午後4時過ぎ、学校から子どもたちが帰ってくる。



茶髪のすこし「とんがった」子どもも。


一度、皆さんはホテルへ戻り休息。


午後6時半~日本料理店で夕食会。

夕食会の司会をする富岡先生




会食が始まる。平均年齢は、日本の戦後00年と一致する。



今日は、特別な「コース日本料理」

午後9時前夕食会終了。

調理・接客担当のスタッフの自己紹介。


午後9時過ぎ散会。


明日は、フエのティエンムー寺・王宮・皇帝廟などの参観。

午後9時半、宿舎へ戻る。


投稿者 koyama : 23:06 | コメント (0)

2015年04月09日

里子に関する諸問題を検討

午前7時 朝食。「フン・ボー・フエ」(牛肉米麺)


午前中、ハンさんと電話で里子の諸問題について
打ち合わせをする。

バオミンさんと電話で当面の諸課題の実施について
話し合う。


午前11時半、昼食。

「エビいりおじや」

2時間程休息。


読書「残夢の骸・満州国演義9」(船戸与一著)

JASSベトナム事務所の当面の諸課題について整理し
意見をまとめる。


午後5時半、徒歩で日本料理店へ。

日本語教師の夕食




午後9時閉店。4人の来客あり。


投稿者 koyama : 23:18 | コメント (0)

2015年04月08日

支援の子どもたちの件を検討:バオミンさん訪日から帰国

午前6時起床。

午前7時朝食。

「チャオ・バイン・カイン」(小麦粉手打ちうどん)



「子どもの家」在籍の子どもたちの退所等について
一人ひとり確認する。


バオミンさんから電話。4月1日から7日まで訪日していた
バオミンさんが、ベトナムへ帰国。

午前中、帰国したとの電話連絡あり。

ベトナム事務所のいくつかの課題を打ち合わせ。


午前11時半、昼食。

「エビ入りラーメン風麺」


午後、読書。「残夢の骸(満州国演義9)」船戸与一著

アジア・太平洋戦争、特に満州国をめぐる戦争。

ヤルタ会議が開かれるが、軍部は、陸軍と海軍の
争い、高級将校の出世主義などで一般兵士が
いかに「無駄死に」したかを詳細に描いている。

政府・軍部は、ソ連に仲介してもらい「和平」に持ち込もうと
の思惑があったが、「見事に」裏切られる。

日本自身、ソ満国境で70万人の兵士を動員し
「関東軍特殊演習」(関特演)を行い、ソ連への
挑発行為を行っていながら、ソ連に停戦の仲介を
頼もうなどと考えている軍部の考えが、偏向していた
ことが分かる。


今日、天皇・皇后は、パラオ群島を訪問し約1万人の
戦死者の慰霊を行った。

パラオでは、私の伯父さんが戦死している。
パラオのペリリュー島には、「水戸歩兵第2連隊」が派遣されて
いた。母親の弟である。20歳程度ので戦死している。
既に母親の兄弟12人は、全員(あの世)に行ってしまった。
この叔父さんは、病死ではなく戦争で亡くなっている。

もう一人の母親の弟も「パレンバン」で戦死している。
パレンバンは、インドネシアのスマトラ島。
戦争末期、大量の徴兵があり、20歳程度の若者が
徴兵され、死んでいる。

今、この二人の叔父さんの戦死を知っている人は、
ほとんどいない。せめて私が慰霊をしたい。
そして、日本が二度と戦争しないに国になることが
最大の慰霊だと思っている。

理屈ではなく、戦争は絶対にしてはいけない。

安倍首相の「集団的自衛権」「安保法制」は、
「かつて来た道」に戻る「恐るべき」方向である。
全国民が反対し、「外交と政治」で国際問題を
解決する国民的世論を作って行きたい。

今の安倍政権の方向では、「気付いた時には
手も足も出ない」状況になっている。

天皇・皇后のパラオ群島慰霊は、こうした安倍首相の
暴走への警告とも思える。


午後6時、日本料理店へ。


午後6時半、日本語学校の先生が帰ってくる。

夕食。



午後9時過ぎ閉店。7人の来客あり。

投稿者 koyama : 19:28 | コメント (0)

2015年04月07日

子どもたちのことで打ち合わせ::リー君の婚約者と会う

終日、曇り。湿度が高い。

午前7時朝食「フォー・ボー」(牛肉・米麺)


午前中、「子どもの家」の子どもたちの退所問題に
ついて「ハンさん」などと電話で打ち合わせ。

今後の「子どもの家」の子どもたちのいくつかの
問題について、整理する。

午前11時半。昼食

ご飯、スープ、煮魚、大量の野菜サラダ

量が多く、3分の2は食べられなかった。


体がだるい。午後2時間程横になる。

その後、読書

「満州国演義9」(完結編ー残夢の骸(ざんむのむくろ)
船戸与一著 新潮社

いくつかのメールに返信。


午後5時半、徒歩で日本料理店へ。


日本語教師の今日の夕食

午後6時頃、リー君から電話。

「今度結婚する。彼女にあって欲しい」とのこと。

また、いつもの「寅さん」振られるパターンと思いつつ、
リー君の指定した路上飲み屋へ行く。

ちゃんと婚約者がきていた。

25歳。5歳の女児の母親。

小さな食堂を経営しているという。



何十回と繰り返した「過去の失敗」を糧に、今度は
成功して欲しい。

既にリー君は、彼女の家で同居しているとのこと。

リー君と彼女の幸せな人生を祈る。

リー君は29歳になると言う。1993年に私はリー君と
出会う。当時、リー君は7歳。私は45歳だった。


午後7時過ぎ、日本料理店へ。

今日は2人の来客あり。

午後9時過ぎ閉店。


投稿者 koyama : 18:55 | コメント (0)

2015年04月06日

里親の件でハンさんと打ち合わせ 日本料理店

午前6時半起床。

午前7時朝食。

「ブン・ボー)(牛肉米麺)

午前中、里子に関するいくつかの問題を調査する。
ハンさんと打ち合わせ。複雑な問題がある。


疲れると横になる。何度か繰り返す。

湿度が高く蒸し暑い。今の体でフエでの生活は難しい。


午前11時半、昼食。・

「チャオ・バイン・カイン」(小麦粉の手打ちうどん)


食後、体がだるいので2時間程昼寝をする。

午後横になりながら読書。

「満州国演義9」(完結編ー残夢の骸(ざんむのむくろ)
船戸与一著 新潮社


午後6時日本料理店へ。

午後6時15分、日本語教師が帰ってくる。

先週は、日本語学校の見学。今日から授業を担当する。

夕食を摂る。


食後の食器を洗う日本語教師。

接客主任のグエットさんが体調を崩し早退する。
ベトナム人も気候の変化についていけないようだ。

午後8時過ぎで日本料理店を閉店する。

2名の来客あり。

投稿者 koyama : 22:16 | コメント (0)

2015年04月05日

新日本語教師と朝食会

午前7時起床

午前8時15分電動バイクでフエ市内の「カメリアホテル」へ。

3月28日フエに来た北浦先生・29日フエ着任の古竹先生。
赴任して丁度1週間経つ。

1週間の息抜きにフエ市内の「カメリアホテル」の朝食バイキングに
誘う。

半年ほど前に行ったのが最後だったようにも思うのだが、
大分「模様替え」されていた。バイキングの食品が置かれて
いるテーブルが、大分縮小され、品目も減った。
入場料が一人500円と昔の5倍ほどの高値になった。
朝食バイキング場の経営者が代わったようだ。それでも
知っている従業員はいた。

9階から見るフエの町は、「きれい」に見えた。

新任の両先生は、外国であり、新しい環境にまだ慣れて
いないかも知れない。給料も出ない日本語教師に就任
してもらい、感謝している。

少しでもフエや日本語教師の仕事に慣れて欲しい。
同時に健康に気をつけ、過ごして欲しい。

真面目な両先生の赴任に心から感謝している。


ーーー
日本語教師(3ヶ月間)」募集

●日本語教師の経験、資格がなくてもいいです。
 年齢制限なし。男女不問。
 (健康な方)

●期間

 ・2015年7月・8月・9月(1人)
 ・2015年10月・11月・12月(1人)

現地の滞在費(ホテル代)・食事代等はJASSベトナムより支給。
1ヶ月100ドルの手当て。

日本語教師の負担は、日本ーベトナム往復航空券代、
3ヶ月ビザ取得代。

問合せ先、vanphongjassvn@gmail.com

ベトナム政府は、2015年1月1日より
ベトナム滞在ビザは3ヶ月までと決定した。

それに伴い、日本語教師の皆さんのベトナム滞在も
3ヶ月までしか許されない。3ヶ月以上日本語教師を
する場合は、一度日本へ帰国し、新たに3ヶ月のビザを
取り、1ヶ月間は訪越できないので、日本に1ヶ月待機し、
再度ベトナムへ来るという異常なビザ制度となってしまった。

3ヶ月間の日本語教師を募集している。

既に2人の日本語教師の赴任希望があり決定した。

現在、3ヶ月間の日本語教師を2人募集している。

投稿者 koyama : 18:27 | コメント (0)

2015年04月04日

終日-真夏

午前4時頃、目が覚める。部屋の気温が高く、
暑いので・・・・。
その後、眠れず、読書「福島に農林漁業を取り戻す」

午前7時朝食。

「チャオ・バイン・カイン」(小麦粉の手打ちうどん)
唐辛子が入り、辛い。



午前中、今後のJASSベトナムの活動について色々と考える。

受信メールへの返信。


午前11時半。昼食 「魚入りおかゆ」。スイカ。

スイカは、甘くて美味しかった。

午後2時間程昼寝。

その語、読書

午後5時45分、徒歩で日本料理店へ。

今日は富岡先生が「風邪」で体調を崩し、ホテルで休息。

日本料理店へ行ったが、既に二人の日本語教師は
夕食を摂って、バオミン・ホテルへ帰っていたい。



午後9時閉店。若干名の来客あり。

日本人の団体旅行者の何人かが、日本料理店に来て
メニューを見ていた。色々と話をする。


午後9時過ぎ、閉店。


投稿者 koyama : 23:14 | コメント (0)

2015年04月03日

日中、いくつかの仕事、夕方日本料理店

猛暑。高湿度。居るだけで体がだるい。


午前7時朝食

「フォー・ボー」(牛肉米麺)

午前中、当面のいくつかの課題を整理する。


午前11時半、昼食。

ペンネ風団子スープ・骨付き豚肉入り」


午後2時間程昼寝。暑い。


午後、読書「福島に農林漁業を取り戻す」
(濱田武士・小山良太・早尻正宏著:みずす書房)

第1章・第2章の「農業関連」読了。続いて、「林業」に
入る。

テレビ・新聞等で報道されていない、福島原発被爆・被災
問題の歴史的考察、一般マスコミで報道されている
表面的出来事報道の本質をえぐり、問題の本質は
どこにあるかを考察している。
第1章・第2章の特徴は、①福島原発被災の農業問題
を考察しているが、実際に被災から立ち上がり、復旧活動を
したのは、農民・農協・地区住民など地元の人々だったことが
克明に記述されている。逆に国家・政府の怠慢、いい加減さが
際立っている事実を冷静に記述している。
「風評問題」も論じているが、本質的な加害者は、国家権力・
日本政府であること、「風評被害」を亡くす為に農民・農協などが
具体的な除染、米の全袋検査などを自主的に行っている
現実を詳細に報告している。テレビ・新聞等のマスコミ関係者
の「原発被害」への理解が低いことは分かる。


午後4時。直ぐに疲れる。横になる。

午後6時徒歩で日本料理店へ。

今日は15人の来客があり、厨房・接客は、大忙し。
忙しくてもお客さんが沢山来ると子どもたちは
ニコニコしている。一番忙しかったのは
富岡先生。

厨房に接客のグエットさんが入り、3人体制の厨房にした。
15人の来客だと注文の品数が多く、トゥオイさん・ハンさんの
二人では、捌きいれない。そこで接客注文係りのグエットさんも
厨房に入り、調理をした。
接客・注文取りは、富岡先生が行う。

午後6時半前、日本語教育の参観を終えて日本料理店に
帰り、夕食を摂る「北浦先生」「古竹先生」


富岡先生は接客で夕食を摂る時間がなく、閉店間際に
夕食を摂る。

今日は15人の来客あり。

午後9時半前に宿舎へ帰る。

火炎樹日記を書こうとしたが、パソコンが壊れてしまい
書けなかった。


投稿者 koyama : 23:34 | コメント (0)

2015年04月02日

猛暑ー真夏

室内気温38度  湿度50%

午前6時起床。

午前7時朝食。「精進麺」

今日は旧暦の2月14日。精進料理を食べる日は
毎月1日と15日。
今日は14日なのだが精進料理が出た。理由は不明なるも
明日15日が「仏滅」なので、前日にしたのかも知れない。
根拠はないが・・・・・・。

午前中、当面のいくつかの件について、検討。

しばらく「横」になる。

午前11時半昼食。

「ベトナム風ラーメン」のようなもの。量が多すぎて食べ切れない。


午後2時間程、横になる。体がだるい。猛暑のせいもあろう。


午後6時、徒歩で日本料理店へ。

日本語教師の夕食(魚・もやし・竹の子)、卵・トマトスープ、ご飯


午後9時閉店。来客あり。


投稿者 koyama : 19:36 | コメント (0)

2015年04月01日

当面の諸活動の調整

午前6時起床。

朝から暑い。

今日から1週間、バオミンさんは日本へ行く。

午前7時朝食。
「チャオ・バイン・カイン」(小麦粉の手打ちうどん)
唐辛子が入り、辛い。

午前中、体がだるいので横になり、浪曲を聴く。

清水次郎長伝。(連続5時間ものの一部を聴く)

聴きながら寝てしまう。体の全体的なバランスが悪いのか?
声が出にく。食欲がない。机で仕事をすると、だるくなり
直ぐに横になる。

昼食。「豚肉入りおかゆ」

引き続き、横になり読書。

「福島に農林漁業を取り戻す」(みずす書房)

第2章の半分まで読む。

新聞・テレビ報道にはない東電福島原発事故の
農業に与える諸問題を解明している。

特に農業の場合、「除染」だけではなく「放射能の農作物へ移転」
の問題などの調査が必要。

(風評被害)問題の責任者は政府であることを明確に証明している。

改めて地域農協の果たす役割りが分かった。

福島の農家が「米の全袋検査)をし、基準値以下になっても
近隣の県が、全袋検査をせず、放射能の数値が高くなると
「福島も同じだろう」との推測が「風評被害」を生む。
風評被害の責任は生産者でもなく、消費者でもない。
政府が全体的な方針を出さないまま、福島県の農協などが
各種検査機器を導入して、放射能基準値以下という努力を
しても、政府の無策で、近隣県が米の全袋県債をせず、
一部放射能が検出されると、福島米が買われなくなる、
などの実例を示しての記述は分かりやすい。

午後6時、徒歩、日本料理店へ。

日本語教師の夕食。新日本語教師は、日本語学校の
参観をしている。午後6時過ぎ、日本料理店へ。


体調を崩さないようにゆっくりとフエ・ベトナムの生活に
馴染んで行って欲しい。

4人の来客あり。午後9時過ぎ閉店。

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「つけ麺」発祥の店として知られる人気ラーメン店「大勝軒」
(東京・豊島区東池袋)の創業者・山岸一雄
(やまぎし・かずお)さんが1日、死去した。80歳だった。


いとこの男性と共に、1951年に中野で独立したのをはじまりに、
61年に東池袋店を開店。
以降、「つけ麺の元祖」と呼ばれ、人気を博した。
後進の育成にも力を注ぎ、弟子を100人以上輩出
。のれんわけした店舗は、全国各地でファンの舌を楽しませている。

との報道あり。

私の住んでいた板橋区西台駅前にも「大勝軒」で修行した
ご主人の「つけ麺)店がある。私が30歳代の頃から
食べていたが、「とにかく美味しい」。
以前、東池袋店にも行ってみたが、「甘ったるくて」美味しくない。

都営地下鉄西台駅前の「大勝軒」のつけ麺が一番美味しい。
北海道から飛行機を使って食べに来ても
「損をしたような気にならない」美味しさである。

投稿者 koyama : 23:10 | コメント (0)