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2015年04月12日

荒川区等東京の元教員一行ダナンヘ

今日は朝から終日雨。午前10時半の室内気温は22度。
湿度90%。寒い。

午前6時、日本料理店のトゥオイ店長・グエット接客主任
ハン調理担当、富岡先生が日本料理店へ結集。

今朝、10時45分フエ駅発→ダナン行きの列車でダナン観光へ
行く荒川区を中心に東京で教員をしていた皆さん11人
の列車内での昼食弁当を作る。(ソン君が引率案内する)




幼児がいる店長のトゥオイさん、調理のハンさんが
日曜日の朝6時に日本料理店へ出勤することは大変なこと。

心から感謝したい。

昼食弁当は「おにぎり」「隠元」などの野菜。



ジャガイモと人参の「キンピラ」

かぼちゃの添え物。


おにぎりは、「梅干」いり




さっぱりした日本料理をと考えている元東京の先生方に
喜んで頂ければ幸いである。

4月10日の夜、日本料理店で皆さんと夕食会を行った。
みなさん、大体私と同年輩か若干年上の女性の皆さん。

色々と話をしてみると1960年代中ごろから1967年頃
東京学芸大に入学し、4年間、武蔵小金井校舎で過ごした
方々だった。私は大半の先生方とは、数年間、同じ大学で
過ごしていたのだった。
更に色々話すと私が「子ども会」などのサークル
活動をしていた頃、「セツルメント活動」をしていた先生もいた。
50年ほど前を思い出すと当時の面影が残っていた。
ほとんどの先生方とは、何年かは東京学芸大で一緒に
過ごし50年後に『再会』したことになる。
色々と話しているうちに1960年代後半の学生時代の
思い出が蘇ってきた。騒然とした4年間であった。
私の入学当時の東京学芸大の学長は「有名」な
「期待される人間像」を書いた「高坂正顕学長」。
私は1967年4月に入学。入学式に列席していたが、
式典の冒頭に「学生集団が式場に乱入」。高坂学長を
取り巻き、体育館の近くの芝生に連行し、もみくちゃになった。
そのうち、高坂学長が「失神」。何故か新入生の私も
そのもみくちゃの輪の中に入っていた。
そんなことで、入学式は開始早々に中止。
1週間後に「学長拉致事件」の指導者として、各学生運動の
グループの責任者7人程に「退学」処分が通告された。
直ぐに「学生大会」が開かれ、1週間程、朝から夜まで
延々と学生運動の各グループの皆さんが発言する。
結論は、「不当処分撤回・無期限スト」。ということで、
7月の夏休みまで授業がなく夏休みに入ったという当時の
「熱気」と「高揚した」気持ちが少し蘇ってきた。
その頃、一緒にあの異常な熱気・興奮の中に
「子どもの家」訪問の東京の小学校の先生だった皆さん
もいたのだと思うと、50年近い年月と時代の流れを感ずる。
皆さん、60代後半から70歳を過ぎても元気溌剌で
ベトナム旅行を満喫している姿に「畏敬の念」(高坂正顕の
好きな言葉)を感ずる。

既に皆さん、60代後半から70代に入っているが、とにかく
良く食事をし、話し、元気溌剌の元女性教師の皆さんで
あった。

皆さんの元気に励まされ、私も何とか、体調を
回復し、子どもたちのために頑張ろうと自分に
「気合い」を入れたのであった・・・・・・・・。

午前10時。フエ駅にいる引率責任者の杉田さんに
電話。フエ・「子どもの家」訪問のお礼を言う。
皆さん、ソン君の引率で元気にダナンヘいくとのこと。
安全・無事な旅行を祈る。


ーーー
今朝起きて2階の仕事部屋を見ると、ビニール袋などが
「引きちぎられて」散乱している。驚く。
細かく調査すると「ネズ公様」が夜中に2階の仕事部屋に
乱入。「おつまみ用」に頂いた「かきのたね」などの
おつまみ類の「貯蔵庫」を破壊し、中にあった「各種おつまみ」
を食いつくし、更にそれらを引きずって、1階の流し場に闖入。

2階の仕事部屋、2階から1階に下りる階段、1階の流し場に
おつまみ類が散乱していた。命の次に大事な「おつまみ様」を
なんとするのか・・・。怒りの気持ちと恐怖心が湧き上がる。

私が一番「怖く」「嫌いな生き物」の一つが、「ねず公」だ。

ベッドで寝ていて、私の顔の上を「ねず公」が横切っていく
などという「図」を想像するだけで、「身の毛がよだつ」。

既に1階には、「ねずみ取り」を」置いているが、ネズ公は
それを察知し、ネズミ捕りのない「2階」を仕事場に切り替えた
ようだ。

2階にも「ネズミ捕り」が必要である。
とりあえず、「ねず公」の2階の出入り口である「バスルーム」の
水の出入り口を塞ぐ。ペットボトルに水を入れて、応急措置として
水路を塞ぐ。




午後12時過ぎ。朝食を摂らなかったが、全く空腹感はない。

午後、しばらく横になり、読書。「残夢の骸(ざんむのむくろ)」
(船戸与一:新潮社:2200円)

この本は、一度読み始めると、途中で止められなく面白い。

1巻470ページ程の本である。京都の「豊田観光」の豊田さん
からの寄贈。既に8巻を寄贈頂き、直ぐに読み終えてしまった。

「満州国演義1~9」との副題もついている。

今年の8月15日の敗戦記念日に安倍首相がどのような
談話をだすか? が世情では喧しい。「村山談話」の大筋は
継承すると言っている安倍首相ではあるが。
『侵略のお詫び』『近隣諸国への多大な迷惑』などの文言と
精神が入っているのか?
『二度と戦争をしない決意を述べるのか?

本書を読むと「日本軍国主義の侵略」であることは、明白に
分かる。同時にソ連の『南進思想」『海洋進出』『日露戦争敗北
の仕返し思想』が色濃く出ている。米英ソ3カ国の「ヤルタ」から
「ポツダム」までの会談の経過も書かれているが、それぞれの
帝国主義国が自国の伸張のために「下心」を持ちながらも
日本帝国主義の中国・アジア侵略に「反帝国主義戦争」の側面を
持ちながら対処してきたという、複雑な戦争でもあった。

ソ連自体は、日露戦争敗北への復讐との気持ちも強かった
ようだ。同時に「南進」「海洋進出」という野望も強く、
戦争末期には、米英と戦争勝利後の日本統治問題について協議。
ソ連は、北海道の「留萌から釧路」までの北側をソ連領にする
ことを強く主張していた。

アメリカの広島・長崎への原爆投下も「戦後の対ソ連政策」
という側面があったことも事実だ。
アメリカでは、日本の抵抗を根絶する為に、原爆は必要だったとの
主張をしているが、実際には、日本敗戦後の「米ソ対立」という
構図の中でアメリカがいかに優位に立つかという打算の下に
原爆投下が行われたというのが、事実のようだ。

日本の敗北のために「必要だった」との通説があるが、
実際には、「戦後の世界政策でイニシアチブ」を取るための
アメリカの政策だったことが分かる。

日本兵のシベリヤへの抑留も国際法に著しく違反している。

戦争は、「勝てば官軍」という側面を持ちながら、推移する。

お米1合を炊く。「小さいおにぎり」を4つ作る。

朝・昼職兼用に2つを食す。

夕方2つ。

宮沢賢治は『雨にも負けず』の中で
「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」といっている。
当時は、硬い玄米を1日4合もたべていたのだ。

私など、1日1合で十分である。

体調が悪いので食欲がない。特にベトナムの『脂ぎった食事』
は喉を通らない。

おにぎりなどの淡白な食事少量で十分である。

フエに戻って2ヶ月近くなる。どうしても「脂っこい食事』が喉を
通らない。困ったものだ。どうしても「液体食事」に安易に依存
してしまう。そのうち「000-0依存症」になるのだろうか?・・・

ベトナム事務所の若いスタッフの皆さんには、私の「脂っこい
食事拒否」という事態が理解できないとは思う。
私も若い頃、先輩の先生が言っていたことが、当時は
分からなかった。その年になって、理解できるようになった。

投稿者 koyama : 2015年04月12日 11:59

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