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2015年04月22日

ベトナム事務所員会議:ミー・タンさん誕生会

快晴


午前7時朝食。「カニ団子・牛肉入り米麺」


昨夜、1階台所の米びつのプラスティックを「ねず公」が
噛み、歯型がついていた。

料理のセンさんが、「ねずみ獲り」を仕掛けた。


エビを「おとりのえさ」にする。




午前10時、ベトナム事務所へ。スタッフの皆さん、
真面目に仕事をしている。

新任日本語教師「北浦先生」


新任日本語教師「古竹先生」

ベトナム事務所で絶対的な権力を握る(?)会計のハンさん

午前10時半。ブライセンベトナム支社長と懇談



午前11時半。昼食。3分の1程食す。

午後2時半。ベトナム事務所員会議。



バオミン・JASSベトナム委員長より、新提案あり。

①ベトナム事務所の移転→静岡会館
②移転に伴い「日本料理店」の閉鎖。


ベトナム事務所の収入が激減。

原因は、地球の歩き方等のスタディーツアーの激減。
最高時、数百人の訪問者があったが、最近は年間20人程度。

日本料理店は、毎年大赤字。

そうしたことを総合的に勘案。ベトナム事務所の賃貸料が
年間200万円。金額的にベトナム事務所全体の予算の
かなりを占める。

そうした事情を考え、ベトナム事務所を静岡会館へ
移転する。賃貸料無料。200万円の賃貸料が「浮く」。
「子どもの家」の子どもたちのために使えるとの提案。

ベトナム事務所の総意を受けて、5月中旬に静岡会館
へ引越しすることを決定。

同時に現在のベトナム事務所(3階立て)の1階にある
日本料理店は閉鎖せざるを得ない。

多くの支援者の努力で作り上げてきた日本料理店では
あるが、この数年間、数千ドルの赤字が続いている。
他の日本料理店・レストランンなどは午前10時から
午後11時くらいまでの長期営業がフエの常識。
しかし、JASS日本料理店の実際の営業時間は、
午後6時から午後9時まで。たった3時間の営業。
これでは、収入があがるわけがない。
従業員の子どもたちのそれぞれ家庭の事情があり、
日本料理店は「収入増」だけを目的としたものではないので
中々難しい問題なのではあるが、現実にこの数年、数千ドル
の赤字を計上している日本料理店の営業は難しい。
最大の問題は、日本料理店のスタッフは子持ちで、
長時間営業ができないこと。これは、JASSの趣旨からして
致し方のないことである。

5月中旬頃に静岡会館への転居がある。転居に伴って
日本料理店は閉鎖される。

フエ市内のどこかに日本料理店の店舗を借りて、
再開する道もあるのだが、結果的に日本料理店店舗の
賃貸料・スタディーツアーの減少等を考えると、赤字が
更に膨らむことになる。

午後4時半、バオミンさんのオートバイの後ろに乗せてもらった
「子どもの家」へ。

3月31日に誕生会を行う予定だった「TANさん」が
突然いなくなってしまった。ベトナム事務所・「子どもの家」の
スタッフが色々な手づるを使い、この3週間調査した。
その結果、父親の親戚が経営しているホーチミン市の
「ミシン縫製工場」で働いているとの情報が入った。
「子どもの家」委員長やロック寮長を通して、直ぐにフエへ帰り、
事情を説明するよう依頼する。

無断出奔3週間。やっと昨夜、TANさんはフエの父親の家へ
帰って来た。


午後5時。フエへ帰って来た「タンさん」と父親が
「子どもの家」へ来て、私に会いたいとのこと。

3月30日にタンさんは、親戚の経営しているホーチミン市に
ある縫製工場(ミシン)に行ったとのこと。


タンさんは、ミシン研修を「子どもの家」でしていたので、
その経験を使って、親戚経営のミシン縫製工場で仕事を
するつもりだったようだ。

しかし、私たちとしては、3月31日に毎年「タンさん」の
誕生祝いの会をしている。突然、いなくなったので
心配になり、この3週間、各所に連絡し、タンさんの居場所
を探した。

タンさんと連絡がつき、取り急ぎ、タンさんは「子どもの家」に
戻って来た。

早速、「タンさん誕生会」を実施。
里親の海老原さんから、既に誕生祝いのプレゼントが
届いていた。


里親の海老原さんの誕生祝いをタンさんに渡す。
タンさんは、素直にプレゼントを喜んでいた。



タンさんと同室の子どもたちへのプレゼントまで里親の
海老原さんは送ってきてくれていた。

ベトナム事務所の音楽室で公式な「退所式」を行う。
参加者は、「子どもの家」代表のロック寮長。
(セン委員長は、4月30日ベトナム全土「解放記念」の
集会参加でホーチミン市にいる)

バオミンさん・小山。

タンさんとタンさんの父親。


タンさんの退所後の生活を詳細に聞く。

父親の親戚が、ホーチミンで「ミシン縫製工場」をしている。
そこに入って、「子どもの家」で研修したミシンを活かし
自立したいとのこと。


父親も娘の自立には賛成。


主役である「タンさん」の意思を確認。

「里親の海老原さんのお陰で、成長できた。その後、
ミシンの研修もした。日本のお母さんの海老原さんが
いなければ、自分はどうなっていたか分からない。
出来たら里親の海老原さんに直接あって、御礼を言いたい。
突然、ホーチミン市に行ってしまったのは、私の若気の至り。
セン委員長・ロック寮長に相談すべきであった。
しかし、そうしたことが必要だとは思っていなかった。
自分の未熟さを反省し、里親の海老原お母さんに迷惑を
かけたことを反省している。これからは、ホーチミン市の
親戚の縫製工場でミシンの仕事をしっかりやって、自立したい」
と話す。



父親が「子どもの家」退所願いに署名する。




長い間、里子のタンさんに愛情を注ぎ、我が子のように支援し、
育ててくれた里親の海老原さんに心からお礼を言いたい。

たった一人の? という意見もあるのだろうが、
たった一人の子どもの人生に寄り添って10年間、タンさんを
激励し、財政支援も行い、中学校を卒業させ、公民としての
最低の知識・教養を身につけさせ、ミシン工としての『手に職』
もつけるまで支援して頂いた里親の海老原さんに心から
お礼を申し上げたい。
「言うは易し、行うは難し」である。

私は22年間、フエでストリートチルドレンや貧しい家庭の
子どもたちを支援してきた。時々私を、「批判→非難する」
声が耳に入ってくる。悲しいことではあるが、これが人間社会
である。私の信条は「行動」である。「言うは易し、行うは難し」。

海老原さんは、見ず知らずのベトナムの子どものことを想い、
長年支援を続けてくれた。海老原さんの「どこに、どんな思想」
があるのか? いつも考えていた。毎年3月31日には、
必ず、里子「タンさん」の誕生会を贈ってくれていた。
何も言わずに「淡々と」こうした行動を長年続けてこられた
海老原さんの人生を知りたいなどと考えてしまう。
改めて、海老原さんにお礼を申し上げたい。

私たちJASSは、時間をかけても、子どもたちが自立するまで
支援をするという考えを貫いてきた。海外支援NGO[業界」
ではある意味で「異端」な会ではある。普通の海外支援団体では
大体3年間の支援で「自立した」と称して、次の支援国へ行く。
私は「渡り鳥ボランティア」と言っている。
そうした考えからすると10年も20年もフエにいて、自立も出来ない
JASSとのレッテルを貼られたり、直接そうした言説を言われた
こともある。しかし、タンさんを見ても『10年かけたからこそ」
紆余曲折の人生を経験しながらも、ホーチミン市の親戚で
ミシン工として「自立」することが出来たと、「誇りをもって」
いえるのである。
 こうしたJASSの考えに賛同し、長い長い年月ご支援・協力を
して頂いた海老原さんに改めて御礼と感謝を申し上げたい。

先日来られた「上尾の星野理一さん」も同じ考えで行動されている。


退所式を済ませ、「タンさんの誕生祝い」を行う。


誕生祝いのケーキ


大勢の子どもたちが集まって「タンさん」の誕生日を祝う。

同室の女子に「里親の海老原さん」からのお土産を渡す。



海老原さんの思いは、タンさんを通して、同室の子どもたち、
「子どもの家」の子供たちに伝わったようだ。


寮母さんとタンさん



誕生ケーキを持って「ご満悦」なタンさん。



タンさんが誕生ケーキを切って、年下の子どもたちに
渡す。


最近入所した一番年下の女の子。

タンさんのお裾分けのケーキをもらって『ご満悦』



子どもたちは「甘い物」が大好きだ。



箸でケーキを食べるところが、子どもたちの素晴らしいところ。




タンさんの誕生祝い・退所式を終わり、ベトナム事務所へ
帰ろうとしたら、「子どもの家」卒業生の「フン君」が
「子どもの家」へ遊びに来ていた。
現在は、「子どもの家」の前の路上で「オートバイ修理」
をしているとのこと。

午後6時、日本料理店へ。


今夜の日本語教師の夕食。


午後9時20分、日本料理店終了。

長い1日であった。

この間、タンさんの行方が分からず、里親の海老原さんを
はじめ、多くの方々にご迷惑をおかけしたことを、改めて
お詫びしたい。

タンさんに幸せな人生が待っていることを心から願っている。

午後6時過ぎ日本料理店へ。


午後9時過ぎ閉店。6人の来客あり。


投稿者 koyama : 2015年04月22日 00:05

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