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2013年03月31日

寒い1日

気温10度

昨夜から寒い。湯たんぽを入れる。

3月3日フエに戻り約1ヶ月。本当に疲れた。

昨日と今日の2日間は寝ていた。

いくつかの文章を書く。

バオミンさんと電話で意思統一。

読書「漢文法基礎ー本当にわかる漢文」
(加地伸行著 講談社学術文庫)
日本式「訓読み漢文」「訓点 句読点・返り点・送り仮名」
の歴史が分かる。漢文は外国語である以上、
中国語で読むのが本来なのだが、奈良時代から日本人は
苦労して、訓点を発明し、訓読み漢文を作り、家伝とした。
菅原家・清原家・東大寺派・高野山派などが、家伝・秘伝
として漢文の句読み法を伝える・・・・などの前史。
高校の漢文の先生が漢文を中国語で読んでくれ、
本当は、こういう雰囲気のものなんだ、などと教えて
くれた意味が分かった。

杉花粉症の攻撃。完全に敗北。

夜8時半、リー君から電話。
「先生、元気?帰ってきたら飲みましょう」
との内容。

リー君の幸せな人生を願う。

投稿者 koyama : 20:23 | コメント (0)

2013年03月30日

スギ花粉症で外出できず

午前10時起床

ベトナム事務所・関係者とメールで連絡。

テレビ取材の件、テレビ関係者と電話で話す。

昨日、無防備で外出したため、花粉症の症状が
今日、発症。鼻水と目のかゆみ・痛みがひどい。
今日は、1日中、外出せず。

投稿者 koyama : 19:26 | コメント (0)

2013年03月29日

日本着・ブライセン本社会社説明会参加

午前8時、成田着  機内放送では16度とのこと。


スカイライナーで日暮里→巣鴨→自宅。日本は寒い。
フエは30度以上。東京は寒い。

自宅前の公園は桜が満開。

自宅着。午前11時。妻はヨーロッパ旅行中。
今回の私の帰国は3月29日ブライセン本社の年度納めと
4月1日のブライセン入社式参加のため、突然決まった
もの。

入浴。浴槽に入るのは、1ヶ月ぶり。フエ宿舎はシャワー
しかない。


簡単な朝昼食。

その後、荷物の整理。

午後1時から昼寝。

午後3時頃、加藤さんから電話。

午後5時自宅を出て、五反田へ。

ブライセン本社「2012年度」最終総括会議に
参加。全社員も参加。

3月20日、フエで行われたンブライセンベトナム支社
新事務所開所式の様子、ベトナム支社の実態と
課題なども報告された。

広いオフィス内に数台の大型テレビがおかれ
各部の報告を聞く。


午後7時45分終了。

その後、ベトナム担当K部長と軽く一杯飲む。

帰宅午後10時過ぎ。

投稿者 koyama : 11:22 | コメント (0)

2013年03月28日

日本へ帰国

快晴

午前7時朝食。「チャオ・バイン・カイン」

日本帰国のための荷物整理


バオミンさん・税田さんと電話で打合せ。

バオミンさんと「額入り刺繍」を買いに行く。

午前11時半、昼食。野菜サラダ、魚のフライ・・・・

午後3時半、フエ市内の宿舎を出て、車でダナン空港へ。
(フエ空港は3月20日から11月20日まで工事閉鎖)

約2時間半かけてダナン着。午後6時着。


ダナン空港から ホーチミン市→成田行きを申請する。
荷物だけは、ダナン→ ホーチミン市→成田まで届くとのこと。
少し心配だったが、荷物を ホーチミン市経由成田で
預ける。

午後7時40分ダナン空港発。午後8時50分 ホーチミン市着。
ホーチミン空港で3時間待ち、3月29日0時15分発の
成田行きに乗る。

フエ→ダナン2時間半の車にはさすが疲れる。

明日(3月29日)午前7時45分着をめざす。

投稿者 koyama : 12:13 | コメント (0)

2013年03月27日

「子どもの家」の子どもたちの問題:大極さん帰国

午前6時起床。快晴 真夏日

午前7時朝食。
「ブン・クア」(マニ団子のブン麺」


午前9時、バオミンさんと一緒に「子どもの家」へ。
セン運営委員長と3人の男子問題について協議。

(A君)16歳
・小学校から中学2年生位までは、常に「成績最優秀」
 だった。中二位から「怠学傾向」が現れ、
インターネットカフェーに入りびたりとなる。
 共産党幹部の子弟など「金持ち」仲間にくっつき、
インターネットゲームで「金儲け」を覚える。
 高校入試頃には、ほとんど学習意欲を喪失。
 学校へも行かない日々が続く。「子どもの家」
スタッフには、学校へ行っている「ふり」をして。
 何とか高校入試間際に「発破」をかけて、
 県立高校の最低線で高校に滑り込む。
  姉はフエ最優秀の「フエ師範大生物学科」
 3年生。何度も弟に注意をし、正業に戻るよう
叱咤激励するが、残念ながらA君には通じない。
 高校に通いだして半年。高校への通学を
止めて、ふらふらしている。「子どもの家」スタッフ
が注意し、学校へ謝りに行き、再度通学を始める。
2月のテト正月で姉と一緒にフエ郊外の農村に
ある実家へ帰省。その後、2ヶ月。「子どもの家」へ
帰ってこない。
 セン委員長・寮母さんとA君の姉、母と何度も
話し合うが、Aは何を考えているのか?誰も
分からない。今日まで母親のいる家から
「子どもの家」へ帰らない。母親は道路工事の
作業員。日収も少ない。
 先日も母親とセン運営委員長と話し合う。
母親ー自分が引き取り育てるとの主張
センさんー「子どもの家」で高校卒業まで
頑張ったほうが良いとの主張。
母親には多少知的障害あり。
母親と本人が「子どもの家」を出て、一緒に
住みたいとの希望がある以上、無碍に断る
こともできない。姉は、なんとしても弟は
「子どもの家」で生活すべきとの意見。
姉は、今年の夏から中学校か高校の生物学の
先生になる。

現状では、2012年9月から2013年8月の
1年間の中間テストなどを一切していないので
A君は落第必死。1年間を落第とし、再度
復学するかどうか? 母親・姉・A君を
交えて再度協議することにした。
A君自体は、優秀な能力を持っている。
現在の怠学傾向を何とか克服すれば、
将来への様々な可能性を秘めている。
私たちもあきらめずに、引き続きA君を
説得していくことにし、「しばらく注視する」
ことにした。

B君(17歳)
高校受験に失敗。今年再度挑戦し、
フエ市内の航高校へ入学。
しかし学校での「いたずら」「非行傾向」が強く
何度も職員室に呼ばれ、先生に注意されている。
〔授業中、静かに座っていられず、おしゃべりを
続け、授業を妨害する)こと多々あり。
 学校をサボって「金持ちの息子」たちと遊びに
行き、勉強をしない・・・・・。
セン運営委員長・寮母さんと何度もB君は
話し合いを続けているが、口ばかりで、
常に学校で問題を起こしている。
2月のテト正月帰省。母とB君の2人家族。
父親は不明。
2週間のテト正月が終わってもB君は「子どもの家」
へ帰ってこない。
母親から連絡あり。B君を母親の住んでいる田舎の
高校に転校させたとのこと。
しかし、転校先と称している高校からは、
「転校を受け入れた」との連絡はない。
本当に転校手続きをしたのかどうか?を再度調査し、
B君が本当に母親と同居したという気持ちがあり、
転校手続きが完了していた場合は、退所を容認する
こととした。母親の仕事は、メイドさん。収入は少ない。
B君の将来のことを考え、慎重に対処方針を
考えることにした。

C君。小学校4年生。

テト正月中に帰省。そのまま「子どもの家」へ
戻らない。
小学校に入ってから、近くの市場や「子どもの家」
付近の商店から「万引き」をしたり「ものを盗んだり」
と何度も警察に捕まっている。
そのたびにセン委員長・寮母さん・時には
私やバオミンさんなどが注意してきた。
両親がいなく、田舎の農村に祖母がいるのみ。
2人の姉と3人で入所した、本当に貧しい農村の
子どもたちである。
「子どもの家」のスタッフたちとも話し合い、
様々な問題・警察沙汰・その他諸々の
問題は起こすが、何とか「愛情を持って」
育てていこうとの意思統一をしてきた。
中1・中2の姉は、問題なく真面目に生活している。
C君はなかなか「つわもの」で難しい子どもでは
ある。
母親は死亡。父親は知的障害があり、現在行方不明。
祖母は庭で野菜を作り何とかその日を暮らしている。

C君の家庭を見ると現在のベトナム共産党が
進めている「ドイモイ政策」の本質が浮かび上がって
来る。一部の特権階級の人々は、ベンツに乗り、
子どもたちを海外留学させている。
子どもに3つも4つもの塾にいれ、勉強をさせている。

C君の家庭は高齢の祖母一人。農家の庭で自分の
食べる程度の野菜を作るのが精一杯。
祖母は、C君が祖母と暮らしたいとの希望が
あるので「退所させ、引き取りたい」との希望を
伝えてきた。しかし、現在の祖母の生活能力
からして、C君と二人での生活資金がない。
今後は、「在宅支援」という方向も考えながら、
引き続き、中1・中2の姉は「子どもの家」で
養育し、C君は本人と祖母の希望を生かしなら
「在宅支援」の方向も視野にいれて考えていく
ことにした。


フエ芸術大学5年生のフック君が、卒業制作の
ための絵の具代が欲しいといってくる。
既に2万円の卒業制作代を上げている。
今日は、更に額縁と絵の具代として5万円
欲しいとの話だった。
里親の方からは、年間42000円の里子費用
を頂いている。42000円は、食費等に充当。
フック君の絵の具・卒業作品つくり代は
JASS観光・刺繍みやげ物店・日本料理店
日本語学校などの収入を充当している。
卒業作品に7万円もの金額(日本の価値だと
70万円に相当する)を出すことは、限界と
ベトナムの常識を超えている。
バオミンさん・センさんが、「卒業作品」を
作ることには、全力で応援する。
しかし、7万円もの大金をかけるのは
無理、と話す。絵の具などはフランス製など
最高級のものを使っている。
担当の先生と相談し、絵の具や額縁など
ベトナムの常識的な範囲でやるように
話す。本人は、自分で最高級の絵の具などを
指導教官とも相談せずに、センさんに請求し、
今までは、本人のいうことを聞いて支払って
来たが、7万円という高額の請求を当然の
ように行ってくることに疑義を感ずる。
JASSの支援者・「子どもの家」は大金持ち
ではないので、常識的な範囲で卒業制作を
するよう注意する。
その後、調べてみると同じ絵の具でも
ベトナム製もある。フック君は、外国製なら
何でも良いものと思い込み、値段を考えずに
セン委員長に請求している。
一人1年間42000円で生活している
「子どもの家」で7万円というお金がどんな
意味があるのかを縷々説明する。

本人もセン委員長・バオミンさんの話を聞き、
芸大の指導教官と話し合い、「子どもの家」の
懐具合(ふところぐあい)を考えながら
卒業制作をするということになった。

A君・B君・C君・フック君と少年から青年・
大人になる過程を辿る「男子」の成長は、
女子よりも複雑で「繊細なもの」を持って
いることが分かる。

2時間ほど、「子どもの家」で話し合い。

午前11時半。昼食。
「春雨麺」「マンゴー」


午後1時から2時間程昼寝。

午後4時、日本料理店で大極さん親子と会う。
大極さん親子は、午後5時フエを出て車で
ダナンへ。ダナンからホーチミン→中華航空で
台北→成田。明日の朝、日本へ帰国する。
大極さん親子は、1週間フエに滞在し、
各種医療施設・「子どもの家」・ベトナム事務所
スタッフなどに鍼灸治療をしてくれた。
感謝。無事の帰国を祈る。

大極さん親子の案内を担当したハンさん



日本料理店の子どもたちと

帯広の芳村さんが作っている「暖炉寄金」で10数年間
の支援を受けているA君。
生まれつき、手を足の指の発育が悪く、不自由している
が、明るい前向きな性格で高校へ通っている。
現在、コンピュータの勉強もしている。
将来、コンピュータ関係の仕事をしたいと言っている。



日本料理店の子どもたちが、「牛丼」「親子丼」「卵丼」
「中華丼」のミニを試作した。



午後5時半から日本人の夕食会



子どもたちと一緒に夕食を摂る



午後6時頃、日本料理店から宿舎へ
帰ろうとした時、日本料理店の前に
「潜んでいた」リー君に捕縛され、強制連行。

いつもの路上居酒屋へ。

途中でブライセンのチュン君(「子どもの家」の
元生徒会長だが、現在は紛れもなく、
リー君の子分と化した。実際は、生徒会長
の頃、リー君も「子どもの家」にいた。
その頃から事実上生徒会長をその傘下に
おさめていた影の実力者であるリー君だ)
リー君の呼び出しを受ける。


チュン君もブライセンに入社し、きちんとした
給料をもらい、文字とおり「」自立」した。
JASSの自立をめざす取り組みのひとつの
成果ではる。
もう一人のお兄さん、影の実力者は
25歳。なかなか自立が難しい。
何とか「安定した仕事」をみつけたい。
現在、リー君は人生の岐路にある。
警察前のおかれたオートバイの警備
をしているが、収入が安定しない。
テト正月中は約1ヶ月収入がなかった。
そして、仕事をしていた警察分署が
移転する。リー君の仕事場は風前の灯。

リー君は一念発起「ラオス」で一儲けと
考えている。
この間、リー君と飲みながら、何とか
「ラオス行き」を止めさせることに全力を入れてきた。
ラオスでの仕事を覚えると、リー君は、もっとお金に
なる仕事をするようになるのは必定。
ラオスは「麻薬の三角地帯」。
ラオスから地理的には、フエが一番近い。
当然と言っては何だが、リー君は必ず
「麻薬運搬人」に手を染める。
ベトナムでは、ヘロイン200グラムで死刑である。

今、リー君は生活が安定していない。
彼女がいる。いつものことで、フーテンのりーさんに
なるのは必定なのだが・・・・・。

リー君は彼女との結婚も考え、お金がないと
ベトナムの女性は結婚しないという神話を
自分の経験から導いている。
そのため「ラオスでの一儲け」論となるが、
その一儲けが、麻薬運搬人への入り口なのである。
何とかラオス行きを阻止し、正業をみつけてやりたい
と思いながら、氷入りのフダビールを飲むのであった。


午後9時半、リー君の酔っ払い運転
で宿舎まで送ってもらう。

投稿者 koyama : 10:14 | コメント (0)

2013年03月26日

中村友香さん帰国:フエ市『解放』記念日休日

快晴

今日は38年前、1975年3月26日に
北ベトナム軍が南ベトナム・アメリカ軍を
フエ市から追放し、フエ市を「解放」した日である。
フエ市の公的機関・学校・ベトナム事務所などは
休み。

午前6時起床

午前7時朝食。「PHO BO」(牛肉米麺)

午前8時過ぎ、税田さんから電話。

昨夜からA君が発熱。39度2分あったが、少し
熱が下がったとのこと。
税田さんがA君の食事や薬などの世話をして
くれている。


バオミンさんから電話。

中村友香さんとベトナム人スタッフ
との「お茶飲み会」をしているので、
来ないか?とのこと。

宿舎からソン君のオートバイで10分。
小奇麗なオープン喫茶店があった。

ソン君がオートバイで迎えに来てくれる。

中村友香さんは、3月19日にフエへ入り、
8日間滞在。「子どもの家」や各種診療所
などを訪問。
皆さん、とても「甘い」飲み物を飲んでいる。

日本語部長のフーン先生は、12歳のお子さんを
つれてきていた。小学校低学年の頃、日本料理店
で会って以来。随分成長していた。

中村さんの無事帰国を祈る。


午前11時半。昼食。「チャオ・バイン・カイン」

午後1時から1時間ほど昼寝。

その後、読書

「読書「昭和史 戦後編」(半藤一利著・文言春秋社)
600ページ。結構読みでがあるが、私が生まれて
以降の様々な出来事が書かれている。


税田さんから電話。A君の熱が下がり、
パンを夕食にしたいとのことなので
買いに行ってくれる。

午後5時過ぎ、バオミンさんが宿舎に来る。

いくつかの打ち合わせ。

緊急に一時帰国するための航空券を
買ってもらったのだが、MR KOYAMA
をMISSと誤記してあった。バオミンさんが
航空会社まで行き、Eチケット記載をMRに
直してもらい、宿舎まで持って来てくれる。

午後6時過ぎ、リー君から電話。
ベトナム事務所の2軒隣のレストランで飲みましょう
とのお誘い。

オートバイで迎えに来てくれる。

税田さん・リー君とリー君の結婚問題、
今後の仕事の問題などで話し合う。



1時間ほど、色々な話をしていると大極さん親子が
店の前を通る。誘う。


引き続き2時間程、話し合う。


午後9時頃、税田さん・大極さん親子との
懇談会を終わり、帰宅する予定だったが、
リー君の「甘い誘い」に乗り、更にもう一軒
飲みに行く。いつも来ているフオン河の
近くの路上の飲み屋。


更に1時間ほどリー君の結婚問題などを
話し合う。

路上飲み屋のテレビでは、日本とヨルダンとの
サッカーの試合を中継していた。
個人的にはサッカーは好きではないが(ルール
を知らない)、興味を持ってみた。


午後10時、私は徒歩で帰宅。
リー君は引き続き、河の近くの路上で飲んでいた。


投稿者 koyama : 19:12 | コメント (0)

2013年03月25日

大極さん親子より寄金を頂く

快晴

午前6時半起床。

午前7時朝食。「精進麺」
今日は旧暦2月14日。

午前8時半、ベトナム事務所へ。

大極さん親子より友人からの寄金を
含めて4通の寄金を頂く。
大極さんとは大学4年間「同級生」だった。

その後、バオミンさん・税田さんと
いくつかの件を2時間程話し合う。

ベトナム事務所1階では、ブライセン
日本語教室上級の学習。
富岡先生・春口先生指導


午前11時半 昼食。「肉いりおじや」


午後2時間昼寝。ブライセン研修会の
疲れがまだ残っている。

「読書「昭和史 戦後編」(半藤一利著・文言春秋社)

1945年から1947年にかけての「極東軍事裁判」
の日本側の論議の中心は、国民ではなく
「天皇制」をいかに残すか? 天皇の戦争犯罪を
裁かれないようにするにはどうするか?が
当時の国家指導者の最大中心課題だった。
当時の国家指導者の中でも戦前の不戦条約を
援用し、武装放棄を憲法に入れるべきだとの
意見もあったことも知った。

敗戦と多くの犠牲者・困窮した生活の中で
大半の国民は、主権在民・基本的人権の尊重・
戦争放棄を受け入れている。

新日本国憲法は国会で論議され成立。
日本共産党は、日本国憲法に反対した。
天皇制の残滓があること、9条の戦争放棄
条項は、民族の「自衛権をしばるもの」との
理由で。
現在9条を守ろうと主張している日本共産党の
「先祖」は戦争放棄の9条は民族固有の
自衛権を放棄していることを理由に
「日本国憲法」そのものにも9条自体にも反対した
という歴史がある。65・6年前の話ではある。
時代と歴史は皮肉なめぐり合わせを作るものだ。

そうした意味では、現在安部政権の主張している
「集団的自衛権」に反対している日本共産党の
主張は戦後から一貫している。
憲法9条は民族固有の自衛権をも否定するるものと
主張し、今日に至っている。

いくつかのメールあり。返信。

去年12月の衆議院選挙で広島選挙区での
一票の格差が憲法違反として、選挙そのもの
を「無効」とする画期的判決があった。

戦後の歴史を読んでいると「主権在民」という
概念は、戦後改革の中心中の中心である。

今回の広島高裁の判決が、国会と行政、
時に立法府(国会)に対し強烈なパンチを
与えた判決である。

安部首相牛耳る自民党の圧勝も「憲法違反」
の上に成り立った「まがい物政権」となる。

主権在民の根幹を「ごまかして」行った
衆議院選挙の無効は、政治そのものの
でたらめさを厳しく指摘している。


午後9時過ぎ、リー君から電話。
「先生、恋人 きれい・・・・・」などと
かなり酔っ払った電話。

「今誰といるの?」と聞く。「恋人」と
答える。舌がもつれている。

電話の趣旨と目的は不明だが、
リー君のボルテージがかなり昂まったいることは
分かる。

今度も毎回同じパターンで「フーテンのりーさん」
にならないことを祈るのみ。

A君が発熱。税田さんが面倒をみてくれている。

投稿者 koyama : 17:46 | コメント (0)

2013年03月24日

終日寝ていた。大極さん親子・中村さんと懇談会

午前10時、起床

洗濯。

午前11時半、1ヶ月ほど前にリー君が買ってくれた
「チャオバインカイン」(小麦粉手打ちうどん)を
茹でて朝食とする。

その後、2回洗濯をするが洗濯機が故障。

午後3時半まで寝て休養する。

読書「昭和史 戦後編」(半藤一利著・文言春秋社)

8月14日の「ポツダム宣言」受諾。敗戦。
アメリカの占領。天皇の人間宣言。
占領軍にの戦後改革。日本国憲法の制定。

本書は半藤氏の個人的史観による「昭和史」
異論のある部分も多々あるが、一読の
価値のある本ではある。
天皇と側近が「天皇の極東裁判訴追」を
一番怖がっていたことがわかる。
戦争犯罪人に指定された東条英機が
拳銃で自殺をするが未遂。
陸軍大臣・首相の時に「戦陣訓」を作り、
「死して虜囚の辱めを受けず」と軍人に
命令しておきながら、自らは自殺も
出来なかったことに多くの作家などの
日記では「無様(ぶざま)」と書かれていた。

東条英機作の「戦陣訓」で多くの将兵が
捕虜になることを拒否し、自殺したが、
命令した本人が自殺すら出来ない無様な
醜態を晒したことに多くの国民は大きな
違和感を感じていた。


午後5時50分、バオミンさんがオートバイで
迎えに来てくれる。

大極さん親子・中村さん・リー君と夕食懇談会。
主催者バオミンさん・税田さん・小山・大極さんの
息子さん。


中村友香さん・大極さん(私と大学同級生)、
リー君・石井君



ソン君が写真を撮ってくれた。


石井君は未成年なのでコーラ。隣に
少し変なのがいる、が本質的には真面目人間。
リー君は思考的には相当柔軟性を持っている。
どんな団体、どんな集団にも「スート」入っていける。



大極さんの息子さんと。立派な息子さんになった。


石井君もフエ滞在約1ヶ月になり、生活も段々と
慣れれきている。


午後6時から午後8時まで大極さん親子・中村
友香さんの歓迎交流会を行った。

大極さんとは、1997年からの付き合い。
46年間の付き合いとなる。

中村友香さんも10年ほどの付き合いになる。

大極・中村さんの健康と仕事の成功を祈る。

午後8時過ぎ閉会。

宿舎へ帰り、純米吟醸酒と「クサヤ」で軽く
飲み、早めに就寝。

投稿者 koyama : 22:19 | コメント (0)

2013年03月23日

3月21日~23日ブライセンベトナム支社研修会

3月20日にブライセンベトナム支社新事務所
開所式典と祝賀パーティーを終える。

3月21日~3月23日までの3日間、
ブライセン本社社長・部長出席の下
ハノイで「ブライセンベトナム支社社員研修会」
を行う。現在、ブライセンベトナム支社は26人の
社員を抱えている。
私、バオミンさん、ハンさんも加え、29人の
参加で、ブライセン業務・責務・将来の展望等に
ついての研修会をみっちりと行う。

23日ハノイ市内からハノイ空港へ。

午後8時15分ハノイ発でダナへ空港へ。
ダナンから車で2時間半。午前12時少し前に
フエへ到着。

(社長等日本人は、ダナンからホーチミン経由
成田へ)

投稿者 koyama : 13:30 | コメント (0)

2013年03月20日

ブライセンベトナム支社新事務所開所式典

快晴 真夏日  夕方、雨。


午前7時朝食 「かに団子ブン麺」

午前中、今日夕方行われる「ブライセンベトナム支社
新事務所開所式典」関連の諸準備


午前10時過ぎ、ベトナム事務所へ。

午前11時、元日本語教師中村友香さん・
税田さん・ソン君と一緒にティエンムー寺
近くの「生春巻き」店へ。



午後3時過ぎ、「静岡・フエ青年交流会館」へ。

今日午後5時半から行われる「ブライセンベトナム支社
新事務所開所式典」の準備。

静岡フエ青年交流会館の1階で行う準備をして
いたが、諸般の事情で急遽2階で式典を行うことと
なる。

急いで「横断幕」「マイク」等を2階に運び、
2階事務所の机の配置換え等を行う。
何とか体裁を整える。

午後5時半、「ブライセンベトナム支社新事務所
開所式典』開催。

司会は、鎌田部長、通訳はバオミンさん

藤木社長夫妻とブライセンベトナム支社女性スタッフ


司会鎌田さんと通訳のバオミンさん


ブライセンベトナム支社員〔新人が多い。)


26人のベトナム支社スタッフ


午後5時半、開会

最初にブライセン藤木社長の挨拶。

ベトナムテレビと地元「トゥア・ティエン・フエ新聞」
の取材。


主な参加者は

フエ市共産党委員長ユン氏、フエ市副市長トアン氏、
元フエ省知事メー氏、
元フエ市長アン氏、フエ市外務部長ニエン氏
同副部長イックホアン氏

続いてフエ市共産党委員長ユン氏の挨拶

そして私の挨拶

ブライセンベトナム支社員


私が1993年9月1日にフエに来た時の
フエ市長だった「メー氏〔その後フエ知事)と
次のフエ市長だったアン氏。



午後6時半から会場を変えて、「ブライセンベトナム
支社新事務所開所記念レセプション」を
センチュリーリバーサイドホテルで挙行


会場に列席したフエ省・フエ市の幹部の方々

JASSベトナム事務所日本語教師の皆さん


今夜のレセプションのホスト役の藤木社長夫妻




JASSベトナム事務所元・現スタッフ
(中村友香さん元日本語教師も)


藤木社長の挨拶


ニエンフエ市人民委員会外務部長の挨拶
と乾杯の音頭



フエ市人民委員会財政担当副市長のトアンさん



JASSベトナム事務所スタッフの一部




主賓とホストのテーブル



アン元市長・藤木社長と


メーフエ省知事〔元)とアンフエ省議会議長〔元フエ市長)



午後8時頃、レセプションを退席

ホテル前の路上のような変な飲み屋で
なぜか「リー君」と飲んだ。


帰宅午後11時過ぎ。

投稿者 koyama : 10:13 | コメント (0)

2013年03月19日

ナムドン山岳地帯へ:ブライセン社長夫妻来訪

快晴 気温32度

午前6時起床

午前7時朝食。
「チャオ・バイン・カイン」(小麦・キャッサバ芋の
手打ちうどん)美味しい。

午前9時45分、宿舎の近くまで車が
迎えに来てくれる。地球の歩き方第4班の
「ナムドン山岳少数民族交流」ツアーへ合流。

国道1号線を走り、途中から右折し「山岳地帯へ」。
この地帯〔ナムドン郡」は、ベトナム戦争中の
『解放戦線」の拠点。
「子どもの家」セン運営委員長は、フエ大学法学部
学生時代共産党に入党し、フエ市内で米軍の
情報等を収集し、このナムドン山岳地帯に
潜伏していた『解放戦線」に情報を提供する
仕事をしていた。

車で2時間。ナムドン郡の中心地に到着。
昼食を摂る。

今まで昼食を摂っていたホテル・レストランが
営業を中止したため、新しいレストランへ。
結果的にはレストランを代えて却って美味しくなった。


気温30度を超え、蒸し暑いレストラン。
ベトナムのスイカが何とも言えない美味であり
清涼感を誘った。

午後1時。ナムドン郡の少数民族「カトゥー族」の
村へ。


高床式の集会所に結集。


村長さん(67歳・子ども8人)の挨拶。


支援物資贈呈

日本からの参加者の皆さん一人ひとりが
各自の支援物資も持ってきてくれる。



多くの村人も参加

村の長老が、カトゥー族伝統の楽器を演奏してくれた。
これは、以前アイヌ人が演奏していた「ムックリ」
やテレビで見たがモンゴルの「ホーミー」という
楽器と同じものである。

糸を口にくわえ、糸を振動させ、口で音階を
変えるという楽器である。
微妙で小さな音の楽器である。
長老の説明では、恋人に恋を打ち明ける時
恥ずかしくていえないので、その代わりに
この楽器を使い、言葉のような音楽を奏でる
とのこと。

モンゴル・ベトナムのカトゥー族、アイヌと
同じ楽器を使っているという事は、
何らかの歴史的なつながりがあるのだろう。



村人と折り紙などで交流



その後、外に出て「縄跳び」や綱引きで
交流。




高床式の集会所には、以前、神奈川県青少年協会
ツアーでナムドンに来た中高生ツアーの出し物
浴衣を着ての「松健サンバー」の写真が飾られて
いた。懐かしく写真を見た。
彼ら・彼女らは今、何歳になり、なにをしているの
だろうか? 元気に成長していることを祈る。


その後、カトゥー族の皆さんのご好意で
カトゥー族の料理をご馳走になる。



午後3時半、ナムドンを出て一路フエ市内へ。

途中、フエ空港に寄ってもらい、私だけ
フエ空港で降りる。

午後6時15分着でブライセン本社社長夫妻
来訪。

そのまま市内のホテルへ。

午後7時半、市内の大きなレストランで
ブライセンベトナム支社員全員で藤木社長夫妻
との夕食交流会。



ベトナム事務所支社員は現在23人。

今後も更に増員する計画。


午後9時半閉会。

大きなレストランのオーナーは、バオミンさんの
弟の「ビー君」。おっさんになった。

午後10時過ぎ、宿舎へ帰る。

ナムドン山岳地帯・フエ空港・夕食晩餐会と
さすがに今日は疲労困憊。

明日は、ブライセンベトナム支社新事務所開所式。

投稿者 koyama : 09:35 | コメント (0)

2013年03月18日

地球の歩き方「ペンキ塗り」・北芸「ナムドン山岳地帯」

快晴

午前7時朝食。「フォーボー・ヘオ」(豚牛肉米麺)


体がだるく午前中1時間ほど横になる。

何人かの人から電話。

3月19日・20日のブライセン関連の日程調整。

「子どもの家」では地球の歩き方スタディーツアー
第4班の皆さんが、「子どもの家」の2階の
手すりのペンキ塗りボランティアをしてくれた。

暑い中、税田さんの指揮で子どもたちと
一緒にペンキ塗りは進行し、きれいに仕上がった。



子どもたちとペンキ塗り完成を祝う。


同時並行的にバオミンさんは、北海道芸術高校
の皆さんと一緒に「ナムドン山岳地帯」へ。

午前11時半、昼食。「春雨麺」

午後1時間ほど昼寝。

読書「日本の近現代史をどうみるか
    シリーズ日本の現近代史⑩」
   (岩波新書 岩波新書編集部編)
を読了。

本書は10巻シリーズの10巻目。
まとめの部分。

1巻目から9巻目を読みたくなった。
1巻目から9巻目の著者が、自分の書いた
本で言いたかったことはなにか?
を要領よくまとめてくれている。
現在の歴史学という学問の到達段階、
問題点などが浮き彫りになていること、
各著者が推薦本を各自3冊程度
あげていることも興味をそそる。

石井君から電話。


午後5時半、宿舎を出て徒歩日本料理店へ。

北海道芸術高校の生徒さん・先生と夕食交流会。

接客主任のグエットさんと新人のヒエップ君の
「今日の献立紹介」


茄子(なす)の煮浸し



料理を運ぶ新婚間近なヒエウさん。



野菜サラダ


コロッケ


バオミンさんと夕食を堪能する北海道芸術高校
の生徒さん



皆さん、真面目で明るく個性的。

会食後、日本料理店スタッフ紹介。



富岡先生の挨拶

最後に全員写真



その後、日本料理店の子どもたち・税田さん
富岡先生で若干の休息。


午後8時半。日本料理店終了。


投稿者 koyama : 18:37 | コメント (0)

2013年03月17日

北海道芸術高校ツアー講演会・矢野先生見送り・リー君と飲食懇談会

快晴  真夏

午前7時起床。
料理のセンさんが作ってくれた「チャオ・バイン・カイン」
(小麦粉の手打ちうどん)を温めて食す。

午前9時、電動バイクで王宮経由「子どもの家」へ。

「子どもの家」には、「子どもの家」卒業生が遊びに
来ていた。

私が「子どもの家」に着く前まで「リー君」が
遊びに来ていたという。

私が着いた時には、「フン27歳」「ハイ25歳」兄弟
が「子どもの家」に遊びに来ていた。
生活は何とか成り立っているとのこと。



午前9時20分から70分、北海道芸術高校の
生徒の皆さん、引率の先生に講演。
「「子どもの家」創設、「子どもの家」のめざすもの、
「人生」・・・、などを話す。

北海道芸術高校は、ユニークな高校である。
「声優科」「音楽科」「アートネール科」「漫画科」など
子どもたち・若者にニーズに合わせた通信制の
通学高校である。札幌・仙台・東京・名古屋など
全国に学校を持っている。


学校で集めた「子どもの家」への寄金を頂く。


続いて「歓迎会」。

セン運営委員長の挨拶

子どもたちの歓迎の踊り




子どもたちの歌。今日は珍しく二人で歌う。


日本料理店で研修を積んでいる「ヒエップ君」




平和のシンボル「鳩」の踊り



北海道芸術高校の自己紹介と歌。
「世界でひとつだけの花」


北海道芸術高校の生徒さんから子どもたちへ
支援物資の贈呈

交流会が終わり、自由交流となる。
子どもたちの子どもたちもしばらく見ない間に
みな成長していた。


午前11時半。北海道芸術高校の生徒さんと
子どもたちとで昼食会。

献立は「アヒルの卵焼き」「野菜炒め」
「野菜スープ」「ご飯(長粒米)




「子どもの家」在籍20年。「子どもの家」の主に
変貌したタン君。なかなか研修が長続きしないが
明るい性格の若者だ。

私はおこげが好きなので、醤油をもらい昼食とする。



中学の化学の先生になったTHUYさん(写真右)

42人の「子どもの家」の子どもたちの中の
少数派に転落している「男性軍」。
覇気がないというのか? やさしい気持ちの
子どもたちが増えたというのか?
昔のような「反抗的な男子」が絶滅してしまった。

「子どもの家」の最古参になった『ハイ君」


地球の歩き方4班は、シクロで昼食会場へ。


電動バイクで20分。宿舎へ戻る。

午後1時近く。

暑さと寝不足・疲労。しばらく横になる。

その前に洗濯。

バオミンさん・税田さんから電話。
いくつかの件を打ち合わせする。

午後4時半。宿舎近くに矢野先生一行の車到着。

同乗する。バオミンさんが天安山中腹の中国茶の
喫茶店へ案内していた。

矢野先生一行(3人)、バオミンさんと一緒に
フエ空港へ。

矢野先生一行を見送る。無事の帰国を祈る。

真面目な先生と学生さんだった。


車でフエ市内に戻り、「古都(コードー)」
食堂へ。

リー君の主催で関係者が「呼び集められる」。
小山・税田さん・富岡先生・石井君。
そして、特別ゲストとしてブライセンの
鎌田部長。


日曜日だけバオミン・ホテルの日本人は
夕食はがないので、リー君が石井君と
富岡先生を誘ったようだ。人選は
「リー大明神」の独断指定である。

石井君は未成年なので「ココナツ」を飲み、
その後食事。

ブライセン本社鎌田部長も参加

20年間付き合っている変な男
問題児ではあっても心の優しい若者である。
現在は仕事がなくるのでラオスで一旗あげたい
との野望を持っている。しかし、ラオス行きの
ビザ規制が厳しくなり、事実上ラオスでの
仕事は厳しくなっている。
何とか、フエでも真っ当な仕事につけるよう
何度もリー君と話し合っている。


午後9時半、交流会終了、徒歩で宿舎へ。

投稿者 koyama : 17:04 | コメント (0)

2013年03月16日

地球の歩き方講演会〔2回)、矢野先生夕食会

快晴  真夏日  

午前6時起床。軽く柔軟体操。

午前7時、朝食。
「ブンボー・フエ」(フエ名物。牛肉入り米麺)


午前9時、電動バイクで「静岡フエ青年交流会館」
日本語教室へ。

地球の歩き方4班の皆さんに「ベトナムの歴史と
文化」を話す。



午前9時半から10時半までの1時間。いくつか
質問あり。

その後、電動バイクで宿舎へ。

多数の受信メールを読み、必要な返信。

疲労蓄積。30分ほど横になる。

午前11時半昼食。「肉団子いりおじや」


その後1時間ほど昼寝。

午後3時、電動バイクで「子どもの家」家へ。

午後3時半から午後4時40分まで
地球の歩き方4班の皆さんに「「子どもの家」
の歴史、ボランテイア活動・JASSの目指している
ボレンティア活動(現地の自立化・・・)などを
話す。



その後、「子どもの家」の子どもたちの歓迎会


セン運営委員長(ハンさん通訳)の挨拶




最近の「子どもの家」の男子は相当「小粒」になった。
「曲者」がいなくなった。

歓迎の「少数民族」の踊り



ハンさん・ロック寮長は、1993年9月からの
付き合いである。20年間という長い時間だ。



5歳で入所した「ターオさん」。今年の秋には、
幼稚園の先生になる。今日の歓迎会の
子どもたちのリーダーに成長している。


地球の歩き方4班の皆さんの出し物。

「おもちゃのチェチャチャ」


タン君は1993年10月に作った「チーラン通り
子どもの家」からの付き合い。20年になる。


全体的にエネルギーが抜けている
おとなしい男子軍。


午後6時、矢野先生一行3人とソン君、私で
大衆食堂の家庭料理を食べ交流する。
午後8時過ぎ終了。その後、歩いて日本料理店
へ。

今日新しく「マグロ」「サーモン」が入り、
日本料理店のトゥオイさんたちが「解体」した
とのこと。賞味する。やはり新鮮な刺身は
美味しい。



午後9時、お客さんも帰り子どもたちも帰宅。

今日の日本料理店担当の税田さんと富岡先生
を誘い「刺身」をつまみに「人生」を話し合う。
富岡先生の真面目さ・真摯な生き方に改めて感心
する。

多分、私はグラス10杯程度の生ビールを飲んだ
と思う。
何時に閉会したかは不明だが、多分、午後10時頃。

徒歩、宿舎へ帰る。その後の記憶はない。



投稿者 koyama : 10:14 | コメント (0)

2013年03月15日

JASS大阪の会 矢野先生一行来訪

午後0時 32度 湿度60% 真夏

午前6時起床。

午前7時朝食。「フォー・ガー」(鶏肉入り米麺)

ベトナムの「風土・歴史」原稿の推敲

通販フェリシモ関連の資料提出について
関係部署と打ち合わせ。

税田さん・バオミンさんと何度か電話で
打ち合わせ。

午前11時半、昼食。「ラーメン風麺」


午後12時半から1時間半「昼寝」。

読書「日本の近現代史をどうみるか
    シリーズ日本の現近代史⑩」
   (岩波新書 岩波新書編集部編)

第2章 「なぜ、明治の国家は天皇を必要と
したのか〔牧原憲夫)
 
明治初期、日本の大衆の天皇への認識は
低かった。帝国憲法が出来た1980年
に行われた「内国勧業博覧会」閉館式。
博覧会に出品した当時の日本人を
「朝野新聞」は次のように報道している。
『野芝居または寄席なんどを見物に参りたるごとき
挙動」。
博覧会に出品した人々は、閉館式典に明治天皇が
出席した際『タバコをふかし、焼き芋をかじり、
天皇が姿を現しても騒がしく、式武官が何度も
叫んでようやく脱帽すると言ったありさま・・・」。

尊皇攘夷を旗印に権力を握った明治政府は
「一転し」開国和親・西洋文化輸入路線をとる。
天皇は率先して「断髪・牛乳を飲み、肉食をはじめ
る」、人民に対しても「断髪・洋服姿」を奨励。
県庁などには、断髪・洋服姿の明治天皇の
写真が掲げられる。それ以後、祭司を除けば
天皇の正装は洋服・公式晩餐会はフランス料理
となっている。
こうしたことを捉え永六輔が「天着連(てんちゃくれん)
「天皇に着物を 市民連合」を結成した。
明治天皇は「文明開化」「洋風化」の象徴にもなって
いたのだった。
皇后の服装も「ツーピース型の洋装を取り入れる。
『皇后思召書〔1887年)』には、「衣と裳(もすそ)
に分かれたツーピース型の服装が古代の服制だと
し、和服は日本の伝統に外れるといっている。
こうして明治初期の洋風化政策が進められてきた。


午後3時半、宿舎の近くにバオミンさんが
車で迎えに来てくれる。一緒にフエ空港へ。

JASS大阪の会の矢野先生〔大阪芸術大教授)と
教え子、ベトナム人の3人をフエ空港に出迎えに
行く。
フエ空港で待っている時、前フエ市共産党委員長
のクアン氏と息子さんに出会う。

クアン前フエ市共産党委員長は私と同い年。
ベトナム戦争中、米軍につかまり、酷い拷問を
受けている。息子さんとは、幼稚園の頃、
わが孫と一緒に山に遊びに行ったことがある。
それから何年たったか? 息子さんは13歳に
なっていた。中学2年生だという。

定刻より若干遅れ、矢野先生一行3人が
無事フエ空港へ到着。

バオミンさんとベトナム事務所近くのホテルへ案内。

午後6時、ホテルへ出向かえに行き、
日本料理店で会食。矢野先生一行3人と私、
税田さんで様々な話をする。

食事を注文する前のちょっとした「おつまみ」
を税田さんが用意してくれていた。

大根の梅和え、オクラ。


日本の早稲田大学大学院で博士号を取ったという
ベトナム人女性と欧米系男性が来店。

東日本大震災・福島原発についての激励の
署名をしてくれる。


2時間ほどの会食交流を終わり、矢野先生と
大学の生徒さん、ホーチミンのガイドさんは
日本料理店付近のホテルへ帰る。

私は宿舎へ帰り、残っている仕事をしようと
日本料理店を出る。

日本料理店前にリー君がオートバイで待ち伏せ。

「先生、飲みましょう・・・・」との甘い誘いに
ついつられ、リー君のオートバイに乗り、
バオミンホテル入り口の路上飲み屋へ。

1時間ほど飲んでいるとバオミンホテルへ
戻ってくる日本人が次から次へと
通る。

税田さんを呼び込む。午後9時過ぎ、
富岡先生を呼び込み、午後10時位まで
飲む。


路上飲み屋のオーナーが私のことを良く知っていて
(私は全く面識はないが)一緒に仲間に入り、
20年前からの様々な活動の様子などを
話す、というのかオーナーが詳しく知っていた。
フエの町は、見ていないようで「外国人」、
特にフエに住み着き、様々な活動をし、新聞や
テレビに良く出るJASSのスタッフについては、
色々な所からの「眼」があることが良く分かった。
更にリー君の今後の人生なども話し合う。
色々と自分の人生を真っ当に考えられる
年齢(25歳)になったのだと実感した。
伊達に年は取っていないと感ずる。

午後10時過ぎ、リー君の飲酒運転オートバイ
に乗り、宿舎まで送ってもらう。

投稿者 koyama : 14:00 | コメント (0)

2013年03月14日

終日、部屋で仕事

午前10時半。30度  湿度90%

昨日、ある問題で日本の支援者と長時間
打ち合わせ。

その後、その問題についてメールを送る。

2月のフエ市人民委員会訪日団引率以来の
フエでの継続的な活動が続き、疲労の最高潮
に達し、体と頭が動かなくなっている。

午前七時、朝食。「チャオ・バイン・カイン」(小麦粉と
キャッサバ芋の手打ちうどん)

午前8時過ぎ、税田さんから電話。

昨夕、王宮公園でサッカーをしていたベトナム
事務所員が、滑って転び、頭を打つ。
しばらく気絶状態だったようだ。
その後、日本料理店へ戻るが、途中の
記憶が途絶える症状が出た。
昨夜、バオミンさん・税田さんと
何度か電話で打ち合わせをし、フエの
脳関連では最高の機器を持っている
フエ医科大学付属病院へ行き、診察を受ける
ことにした。
フエ医科大学には、10数年にわたり2000万円
以上の奨学金を寄贈している。
バオミンさんが、奨学金担当の副学長に連絡し、
副学長の案内で、脳外科専門病棟と診療室へ
つれて行ってもらう。ハンさん同行。
診療の結果、「異常ない」とのこと。安心した。
午前10時半、本人からも電話があり、元気な
声で異常がなかったとの報告があった。
滑って転ぶということは、不可抗力の出来事なので
とにかく大事に至らず、元気な声を聞けて良かった。

ベッドに横になり読書。
「現代中国の政治―開発独裁とそのゆくえ」
(唐亮著 岩波新書)読了。

中国人の学者が書いた中国民主化の行方
についての本なので興味があった。
著者は基本的に現中国の一党独裁体制には
批判的であり、いかにして民主化の「軟着陸」
をさせるべきかを研究している。
中国経済の急成長は、同時に一定の
「中間層』を生み出した。また、大学などの
進学率が高まり(現在16%程度)、
国民の中に海外の事情を知る機会も増え
中国の民主化を求める動きは様々な形で
出ているが、共産党政府によるこれも「様々な」
弾圧で1989年の「天安門虐殺」以降の
民主化運動の高揚期を迎えるには至っていない
と論じている。
周新体制が今後どのような政策・方針で臨む
か? 中国国民の格差と共産党指導部・党員
官僚の汚職腐敗は中国以外の社会主義国にも
蔓延している。そうした実態を国民は熟知している。
周新体制は、国民の格差の是正に向けた
「見せかけ」の方針と態度表明をせざるを
得ないと個人的には思っている。

大学のエリート時代は、大学進学率「15%」
を境に「大学の大衆化路線」が進んでいく。
日本も私たち団塊の世代の大学進学率
が15%強の時代。団塊の世代が大学に
入学する頃を契機に大学の大衆化路線が
進んでいく。わが日本は、4年制大学進学率
51%となり、「誰でも大学生」の時代となった。
2分の1+3分の1=5分の2と答える
大学生がいると聞き、驚いたのも昔のこと。
第2次世界大戦が連合国と枢軸国で戦われた
と講演会で話し、枢軸国は「日本とあと2カ国、
どこでしょう」と聞くと、かなりの確率で
「アメリカ」と答える大学生の時代となった。
日独伊3国同盟すら知らない大学生がいることに
以前は、唖然としたが、今は、平然としていられる。
当たり前の現象となったように見えるのだ・・・・・。

今後の中国の動向は世界にも大きな影響を与える。


午前11時半、昼食 大量の生野菜・ご飯・・・・


読書「日本の近現代史をどうみるか
    シリーズ日本の現近代史⑩」
   (岩波新書 岩波新書編集部編)

以下、本書の目次

①幕末、欧米に対し日本の自立はどのように
 守られたか

②なぜ、明治の国家は天皇を必要としたのか
③日清・日露戦争は日本のなにを変えたか
④大正デモクラシーとは、どんなデモクラシー
  だったのか
⑤1930年代の戦争はなにをめぐる闘争だったのか
⑥なぜ開戦を回避できなかったのか
⑦占領政策は日本を変えたのか
⑧なぜ日本は高度成長が出来たのか
⑨歴史はどこへ行くのか
⑩終章 なぜ、近現代日本の通史を学ぶのか

本書の「読み所」は、江戸時代は封建制で
士農工商、徳川幕府は機能麻痺した時代
との学習を私たちはさせられたが、最近の
「江戸学」を読むと、江戸時代は世界一の
安全で識字率の高い、学問の高揚した
時代だったことが分かってきた。
本書も幕末のぺりー来訪で旧来の歴史は
江戸幕府は「タジタジ」で「無能を露呈した」
との歴史的な評価だったが実証的な
研究の結果では、ペリー以上に江戸幕府の
交渉能力と世界情勢把握力が高かったことが
分かったと、具体的な資料を示して証明している。
江戸時代の改めての見直しが必要な時期に
きている。

勤皇の「鞍馬天狗」は善人で、「新撰組の
近藤勇などは頑迷固陋の封建主義者」と
描かれた明治維新の「薩長土肥」史観を
改めて考え直す時期に来ている。

江戸・東京人は戦後まで「薩長土肥」に
対する敵愾心を持っていた。
私の小学校の頃、女の子の「まりつき」の歌は、
長州(山口県)支配に反対した西郷隆盛を
賛美する歌で鞠(まり)やお手玉をしていた。

「いち かけ に かけ さん かけて
しかけて ごかけて 橋をかけ 橋の欄干
手を腰に 遥か彼方を 眺がむれば
17 ・8 の姉さんが、花と線香を手に持って
姉さん 姉さん どこ行くの 
私は九州鹿児島へ 切腹なされた父さんの
お墓参りに参ります。

お墓の前で手を合わせ、南無阿弥陀仏と拝みます
拝んだ後から魂が、ふうわりふわりと「じゃん
けんぽい」

でジャンケンをしていた。
この歌詞を熟読すると明治の西南戦争
で死んだ西郷隆盛を東京人は賛美して
いたことが分かる。裏を返せば、
長州閥の横暴に東京人は腹を立てている
ともいえる歌が、1950年代までは
東京の子どもたちが歌っていたのも
事実である。

日本人からベトナム事務所へ電話。
私の方から日本へ電話をし、話をする。

地球の歩き方スタディーツアーで
ベトナム事務所の「風土・歴史」を講演する。
既に昨年夏から始めているのだが、
講演の原稿をなくしてしまった。
パソコンに入れてあったのだが、先日、
ウインドウズの新しいバージョンを入れた際、
保存が消去されてしまった。

1時間ほど、かけて新しい講演原稿を作り上げる。

午後8時、夕食の代わりに昨日買った
「サッポロビール」を飲む。

仕上げに「福島支援」の気持ちを込めて
福島二本松市の「大七酒造」
「純米大吟醸 大七生翫 箕輪門」
(だいしち きもと)(みのわもん」を試飲。

甘い香りと甘い舌触り。
大七生翫(だいしち きもと)は、
日本一うまい(誰がいったか知らないが)
「梅酒」を作る。結構いい値段だが、
確かに美味しい梅酒。一飲の価値のある
梅酒ではあるが、今夜は、純米大吟醸。
美味しい。

特に純米吟醸酒は、「魚」をおつまみにして
飲むように出来ている。

今日は、「焼きあご」(飛び魚の子ども)と
東京都新島村の「くさや」をおつまみに
日本酒を飲んだ。

安部首相や日本の右翼は単細胞に
「愛国心」の高揚を主張している。

私見では、本当の愛国主義は、
「くさや」で「日本酒」を飲むところから
出発するべきだと思っている。
帝国ホテルで高級ワインを飲むのも
よいが・・・・・・。

美味しい日本酒と魚のつまみは、
最高。日本人であって良かったと思う。
そういう意味では、私は「日本愛国主義者」
である。ベトナムで食べる「くさや」はまた、
乙なものである。

私は東京農大の小泉氏のように「発酵食品」
が大好きだ。

私が「くさや」を好きになったのは、
1980年代の三宅島の大噴火の
支援に三宅島に行った時だ。

朝ごはんの時、半生の「青ムロあじ」の
クサヤを焼き、あったかいご飯に細かくちぎり
乗せ、醤油をかけて食べた味は、今でも
忘れられない。
東京などの都会では、「くさや」を焼くことが
出来なくなった。あまりに「臭い」においが強い
から。しかし、美味しいものはおいしい。
時々、地下鉄都庁前地下の「伊豆七島」の
アンテナショップで「瓶詰め」のクサヤを買う。
クサイ「くさや」万歳。人間くさい人間万歳。

午後8時半、リー君から電話あり。
毎日火炎樹日記を見ているとのこと。
昨日、メールを送ったが返事がないと。

3月17日の夜「飲みましょう」とのこと。
5時半か6時までは仕事なので、その後なら
空いていると話す。リー君が人選と場所を
決めることになる。


投稿者 koyama : 12:23 | コメント (0)

2013年03月13日

ブライセン本社取締役案内

午前6時起床

午前7時朝食。「ブン・クーア」(蟹団子のブン麺)



8時半過ぎ、車でセンチュリーホテルへ。

ブライセン本社の取締役F氏とK部長、ソン君の
4人が合流。

ブライセンベトナム支社第1事務所視察。

ベトナム事務所1階では澤井先生がブライセン
中級日本語教育を実施中。


ベトナム事務所3階にあるブライセンベトナム支社
第1事務所では、地図関係の仕事をしていた。
F取締役の視察。



新入の女子社員も地図関連の仕事を3日位で
習得したとのこと。



F取締役とベトナム支社員


続いて「ブライセンベトナム支社第2事務所」を視察

JASS支援卒業生のVU君などが仕事をしている。


30人から40人は仕事が出来る大きな事務所での
仕事。



ブライセンベトナム支社の二つの事務所を視察した
取締役は、王宮を参観。普段一般の観光では
行かない王宮の「後宮」も視察。


その後、「子どもの家」を査察。

セン運営委員長の歓迎の言葉を聴く

しばらく「子どもの家」を視察。


午前11時半昼食。フエ名物「ブンボー・フエ」
の専門店へ行く。



その後、天安山中腹にある中国茶専門店へ。
美味しい「ウーロン茶」を飲みながら、今後の
ブライセンという会社の発展について話し合う。


その後、ラストエンペラー「バオダイ」の
お父さんである「カイディン帝廟」を視察。

その後、BIC C という大型スーパーを視察。
私はサッポロビール缶ビールを1ケース買った。

午後5時、フエ空港着。F取締役は1泊2日という
強行軍日程を頑張ってこなし、機上の人となった。

帰宅後、バオミンさんと電話である問題について
話し合う。

内容を日本の関係者に送る。

今日は朝8時半から午後5時過ぎまでの
仕事ではあったが、F取締役・K部長・ソン君との
行動は楽しかった。ソン君が立派なベトナム事務所
スタッフに成長したことが最大の収穫であった。


投稿者 koyama : 21:26 | コメント (0)

2013年03月12日

ブライセン役員出迎え:ブライセン全社員夕食会

午前6時 25度 90%

午前6時起床。簡単な柔軟体操

午前7時朝食。「フォー・ボー」(牛肉入り米麺)



3月4月のスタディーツアー・来訪者日程の
整理。担当者の「重なり」「不備」等の確認。


午前11時半昼食。

「豚肉入り おじや」


午後2時間ほど昼寝。熟睡。

バオミンさん(ダナンにいる)から電話。
ブライセン役員の方2人と一緒にホイアンにいる。
これからフエへ戻るとのこと。今夜、6時半から
ブライセンベトナム支社員全員と夕食会の予定
なので、交通事故等なく、無事フエ到着を祈る。

読書「現代中国の政治ー開発独裁とそのゆくえ」
(唐 亮 著 岩波新書)

著者は、割合と客観的に中国の政治、特に
民主化について記述している。現状の
客観的な把握はなかなか難しいようだ。
中国共産党一党独裁の支配体制の構造を
示し、「経済発展」を進める中で徐々に
政治的な民主化も進めるとの中国共産党
中央の考え方を批判する。
と同時に「経済発展」の中で、統治形態
(村段階の議員の選挙、マスコミの一定の
自由化・・・)などが、ある程度「民主化」傾向に
あることも指摘している。
中国共産党の基本姿勢は、欧米型の民主主義
社会ではなく「中国社会主義型の独自の
民主主義社会」と自国を規定している。
今後、一定の「中間層」が定着し、その層が
厚くなる段階で社会の変革が更に進む可能性を
示唆している。同時に社会改革がどんなに進んでも
結局、中国共産党一党独裁という統治システムが
あるかぎり、中国の根本矛盾は解決しないとも
示唆している。

尖閣諸島問題での中国側の対応を「日本側の視点」
で私たちは見ているが、中国側の諸事情も考慮する
必要がある。

共産党一党独裁から来る膨大な「汚職・腐敗」現状、
人民解放軍という武装暴力装置が共産党の
指揮下にある問題と危険さ・・・・・。

中国社会ではこんなことが言われているそうだ。

『腐敗の取締りをしなければ、国が滅びる。
しかし、腐敗を取り締まれば、共産党が
滅びる』と。

13億人の人口の中国でツイッターを持っている
人口は3億6千万人。
インターネットの普及率は、5億1千3百万人。
(人口の38.3%)

政府・共産党がどんなにマスコミを統制しても
国民の目・耳を隠すことは出来ないところに
来ている。
本書を読むと「中国共産党の指導部」が
時代の大きな変化(経済発展・インターネットの普及
などなど)にどのように対処し「共産党一党独裁」を
延命・維持していくかに腐心していることが
よく分かる。尖閣問題も石原慎太郎氏や安部首相
のように軍事力をつけて・・・・などと単細胞な
考えでは、到底「相手に出来る人々・国」では
ないことが分かる。
中国人は、基本的に民主主義社会に生き、
生活した経験のない人々である。

辛亥革命で清王朝を打倒したが、欧米列強・
日本などの侵略・植民地化の中で、
きちんとした民主主義社会を構成することなく
1945年8月15日を迎え、その後「国民党」
と」「共産党」の内戦。1949年「共産主義革命
の成功」で社会主義という一種の「独裁」「暴力」
社会におかれてきている。
世界第2位の経済成長を遂げた中国は、これから
民主主義・民主化という「歴史的な課題」を
乗り越えなければならない。
私たち日本は、1945年8月15日の敗戦で
『曲りなりにも」『主権在民』『戦争放棄』『基本的
人権の尊重』などという「民主主義を原則とした
社会に生きることができている。
この有難さを分からなくなったわが日本人でも
ある。総選挙の投票率が、50%をやっと超える
日本国だ。

中国は、民主主義と民主化という大きな
爆弾を抱えている。へたをすると大爆発する。
中国共産党が今後、どのような路線をとるのか?
はたまた、国民がどんな行動をとるのか?
私的には、最終的には、反民主主義的制度
である「中国共産党一党独裁制度」は、いつか
破棄され時期が来るとは思っているのだが・・・。

東アジア情勢は、難しさを一層増している。


洗濯(洗濯機が自然に直る)をする。

午後6時過ぎ、バオミンさんから電話。
ブライセン本社取締役と部長がホテルに着き、
これからブライセンベトナム支社員全員との
会食会行くとのこと。

午後6時過ぎ、フエ市内のレストランで
ブライセンベトナム支社員23人と
本社技術指導員2人、そして本日来訪された
本社取締役・部長の2人。合計29人で
交流会を行う。

およそ午後10時まで「和気藹々(わきあいあい)」の
交流会となった。

投稿者 koyama : 17:44 | コメント (0)

2013年03月11日

今週から3週間の日程打ち合わせ:東北大震災・福島原発事故2周年

午前6時 外気温 24度 湿度90%

2月からの日本での活動の疲労が残留。
朝から頭痛と倦怠感。

午前7時朝食。「精進ブン麺」。今日は旧暦の
1日か15日。

午前8時半、徒歩でベトナム事務所へ。

ブライセン本社から2人の技術指導員が来訪。
私の隣りA技術指導員。


私の右隣りは、ブライセン本社からのB技術指導員。

新しく採用した新人のブライセンベトナム支社員。

現在、ブライセンベトナム支社員は、23名に
上っている。


3月1ヶ月間のフエ訪問者の訪問日程の確認。
各スタディーツアー、訪問者の案内等の担当者の
確定などについて、バオミンさん・税田さんと私の
3人で話し合う。



3月の3週間に「9つ」のスタディーツアーが来訪する。
大半が5日から1週間のフエ滞在。


2時間半、3人で細部まで話し合う。

3月20日から数ヶ月間フエ空港が工事で閉鎖される。

フエにくる場合には、ハノイ→ダナンかホーチミン→
ダナン。ダナンからフエまでは車で2時間半の
時間がかかる。

既にフエ来訪を決めているスタディーツアーなど全ての
日程を変更する。

午前11時半頃、ベトナム事務所を出て宿舎へ
帰る途中、ベトナム事務所の前にリー君がいた。
ベトナム風「ほか弁」を食べていた。


午前11時50分昼食。

3時間近くの話し合いは、本当に疲れた。

1時間ほど横になるが、起きられない。
しばらく横になり、2月から今日までの諸行動を
考えてみる。

読書「現代中国の政治」(開発独裁とそのゆくえ)
唐 亮亮著:岩波新書)
ニセ社会主義中国共産党の苦悩を見る。
幹部の公金横領と農民の極端な貧困。
共産党員の独善と賄賂にまみれた生活向上。
こうした社会の中で、庶民が少しずつ立ち
あがってきている現状が報告されている。
日本の某革新政党と名乗る人々も
こうした中国の人権抑圧、一党独裁に
対して厳しい批判をすべきなのだが・・・・
黙して語らず。チリの「ピンチェット軍事独裁政権」
に厳しい批判を浴びせた日本の某革新政党が
「お仲間の政党」には批判をしないというのは、
腰砕け政党といわれてもしかたがない。
日和見政党でもある。


今日は、東日本大震災・福島原発事故があって
2年目にあたる。死傷者・被災者の皆さんに
改めてお見舞いとお悔やみを申し上げたい。

午後3時過ぎ、税田さんから電話がある。

徒歩、ベトナム事務所へ。

日本料理店のヒエウさんが結婚するとの報告。

ヒエウさんは、3歳で「子どもの家」に入所。それから
17年の月日が経過した。現在20歳。
お相手は、フエ人で26歳の工事関係の男性。
お相手の実家は農民。7月23日に結婚式を
したいとのこと。
日本料理店は、旦那と旦那の両親の意見を聞いて
「辞めるか」「続けるか」を決めるという。
自分としては、日本料理店の仕事を続けたい、
と言っていた。

私のほうからはお祝いをいい、結婚式が出来るお金が
あるのか? 相手の家庭はどんな家庭なのか?
などヒエウさんが、結婚する男性の家庭状況を聞く。
困ったこと、問題があったら税田さん・バオミンさん
を通して、私の言うよう話す。

続いて、

日本料理店店長のトゥオイさんが妊娠し、
お腹が大きくなっている。毎日、仕込みようの
食材を市場に買いに行っている。
妊娠6ヶ月位だろうか? 肩で息をしている時もある。
いつまで毎朝市場で買い物を続けられるのか?
無理をしないように、代わりの買い物をする人を
見付かるからと話す。

トゥオイさんは、しばらくは市場での買い物をする。
その後は、他のスタッフに代わってもらいたいとの
こと。

トゥオイさんに元気で丈夫なお子さんを生むよう
栄養と休養をしっかり摂るよう話す。

続いて、接客主任のグエットさんを呼び、
トゥオイさんがしていた市場の買出しを代わりに
してもらえないか? 相談する。快く、私がやります、
との返事。安心した。


トゥオイさんが、無理になった時点でグエットさんに
市場での買出しを頼む道筋が出来た。


午後5時。石井君がフエ高等師範大学
ベトナム語コースの初日の授業が終わり帰ってくる。
初日なのでソン君が一緒に大学まで行き、
授業にもでた。

授業の様子、学校の学友の様子などを石井君から
聞く。授業はかなり「チオンプンカンプン」だった
ようだが、教科書があり、ベトナム→英語の訳が
あるので、多少が授業が理解できたようだ。


今日の授業を細かく説明・報告する石井君。


石井君が早くフエでの生活になれることを祈っている。

午後8時、フダ缶ビール1本。日本酒(純米大吟醸)を
飲む。

仕上げにラオス「ラオディー社」の「ラム酒・ブラウン」
を飲み、今日の飲酒の仕上げ。
午後9時。

ラオス・ラオディー社のラム酒は本当にうまい。
ラム酒・ブラウンは、一風変わった味ではあるが、
一味違うラム酒。美味しい。お酒は文化である。
こうした美味しいお酒を造っているラオスラオディー社の
與芝君・清水君たち高校の同級生は、ある意味で
「文化人」でもある。ただし、かなり怪しい文化人では
あるが・・・・・・。


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東日本大震災・福島原発事故2周年。

この2年間で私は何を考えたか?・・・

結論を先に。

「国家は信用できない。庶民は信用に値する」
という当然の公理を再度確認した。

第1回目の確認は、「アジア・太平洋戦争」だった。
『終戦』という言葉に表されているように
全ての責任と物事を「曖昧に」したまま
1945年8月15日以降の日本は過ぎ去って行った。
A級戦犯容疑者の岸信介は逮捕されたが、満州国を
事実上作った責任は問われないまま終わった。
その後、アジア太平洋戦争のきちんとした総括を
しないまま、東京オリンピック・高度成長・バブル
へと邁進。世界第2位の経済大国となる。

結局、アジア太平洋戦争でなくなった200万人
の日本人、2000万人のアジアの人々の
死はなんだったのか? が解明されないまま
戦後67年が経過した。
今また、再軍備・戦争の出来る国家つくりを
呼号している「戦犯容疑者の孫」が首相に
なっている。

福島第1原発で何が起こったのか?
震災後2年もたつのに何も国民には
知らされていない。政府と東電の馴れ合いの
中で、国民は何も知らされないまま、避難生活を
強いられている。あろうことか、福島原発事故
以後、ベトナムに2基の原発を販売している。

今日、東日本大震災・福島原発事故2周年を
迎え、改めて、「何も総括できないわが日本」
を改めて確認した次第であり、「日本国家」は信用
ならざる存在であることを再確認した。
わが日本は一部の財界人と特定の政治家集団
との馴れ合い国家である。テレビ・新聞などの
マスコミも彼らの手先に堕している。
本当の意味で福島原発の真犯人を追及する
意欲と気迫が大手のマスコミにはない。
社会の最底辺で呻吟している人間の気持ち
を理解しようとする人間は本当に「庶民」である、
ということを1945年8月15日・2011年3月11日
に私は学んだ。

1945年8月15日の敗戦の責任を誰が取ったのか?
A・B・C級戦犯だけなのか?

福島原発の責任を政府・東電の誰が取ったというのか?

幻想・幻影社会の日本ではある。私もその一員である
ことの自覚をしっかりともたなければならない。

投稿者 koyama : 09:38 | コメント (0)

2013年03月10日

久々の休息日:「子どもの家」へ:リー君、石井君と夕食

午前6時起床  快晴 真夏日 朝から汗が出てくる

午前7時、センさんが昨日作り冷蔵庫に入れておいて
くれた「ラーメンのような」麺を温めて食す。

メール受信・送信

午前9時半、宿舎を出て電動バイクで「子どもの家」へ。

「子どもの家」には、税田さん・石井君・後藤君・健人君
の4人が来ていた。

3月3日に私とフエに来た石井君は、子どもたちと
一緒に昼食用の魚の処理をしていた。

後藤君・健人君(名古屋)は子どもたちとサッカー


そこに「超人 リー君」が登場。
最近は良く「子どもの家」へ来ているようだ。
100CCのオートバイに乗り。先日オートバイの
免許を取ったので堂々とやってきた。



30度以上ある真夏日の庭では、男子のサッカー。
かなり「暴力的」なカッサーではある。負けたチームは
勝ったチームのボールを背中やお尻にぶつけられる。


石井君もかなりサッカーが上手なようだ。

暑いので男子は上半身裸。
16歳のH君の背中には、「花」の刺青があった。
若気のいたりか? 馬鹿者・・・・・。


フエ芸大5年生のフック君は注文のあった刺繍の
原画を描いていた。


寮母のキム・アインさんと立ち話。

午前11時過ぎに「子どもの家」を後にする。

昼食は、ベトナム茶と少量の「おかき」。

1時間ほど昼寝。

午後2時半から3時間ほど当面の活動の
総合的な進め方について考える。
なかなか複雑な問題が横たわっている。
子どもたちを支援するということからは
遥かにかけ離れた課題がある。

午後5時半、徒歩で「家庭料理2号店」へ。

リー君・石井君・健人君・税田さんと5人で
夕食飲み会を行う。

石井君はベトナム事務所が買った新しい自転車で
登場。


午後8時過ぎまで3時間、5人で様々な話をして
過ごす。

健人君も石井君も真面目な人。リー君も根本的には
真面目な人間だ。



午後8時過ぎ、16本のフダビールと数本のコカコーラ
(石井君用)を飲んで散会。
私はリー君の怪しいオートバイの後ろに
「ノーヘル・飲酒運転」で乗せてもらい宿舎まで
たどり着く。

宿舎へ帰り、引き続き「国香・大吟醸」を冷やして
飲む。おいしい。おつまみは「スルメの醤油焼き」。

20年間フエに住んでしまうとフエの「落ち着いた」
「汚く・臭い」都市の実態に『異常な落ち着き』を
感ずる。困ったものだ。東京での生活不能者に
なりかけている。

石井君がフエでの生活に落ち着き、リー君が
新しい人生に向けて進もうとしていることに
感謝している。

私たちの活動は、けして「ハデ」なものではないが、
一人ひとりの子どもたちの人生と成長・幸せを
願って、「地道な・目立たない」活動を進めている。
こうした活動を支えてくれている日本の支援者も
同時に「地道な・目立たない」支援をしてくれている。
「大声を張り上げ、他人を罵る(ののしる)」ような
はしたない活動は、そもそもJASSに参加した
人たちの本意ではない。この20年間、そうした
活動をしたJASSの会員は一人もいないので
私も現地で活動しやすい。
JASS会員の知性と教養の高さいに感謝している。

などと考えている間に「国香」がなくなってしまった。
引き続き「浦霞 山田錦 純米大吟醸」を飲む。
 「浦霞」は宮城県塩釜市の「株 佐浦」生産。

明日の東日本大震災2周年にあわせて、
「浦霞」を飲んで、何も出来ない支援を
ベトナムでしているところである。


投稿者 koyama : 13:24 | コメント (0)

2013年03月09日

インターネット故障・修理

昨夜、痛飲。
今朝4時頃目覚める。部屋のタイルの床(ゆか)で
寝ていた。

ソン君が送ってくれて、宿舎に入ったことは
記憶にあるのだが。歯を磨き・・・・・、その後の
記憶が途絶える。午後10時位から午前4時まで
タイルの床に寝てしまったのだ。失態。


正午の気温 30度  湿度 50%

朝なかなか起きられない。午前7時起床。
そのまま朝食。
「チャオ・バイン・カイン」(小麦粉とキャッサバ芋麺)

バオミンさん・税田さんから何回か電話。

午前9時、バオミンさんが手配してくれて
パソコン修理人が来る。
インターネットが繋がらなくなってしまった。
プロバイダーに問題あり。

ソン君がパソコン修理業者を連れてきてくれる。
1時間ほど修理し何とかインターネットは繋がる。

昨日の火炎樹日記を書く。

多数の受信メールを読み、返信。

インターネットプロバイダー本社の社員が突然
訪ねてくる。このプロバイダーは、軍隊が経営している。
私の部屋に入り、色々と見ていく。

午前11時半昼食。「肉団子のおじや」。

頭痛と倦怠感・寝不足感あり。

午後12時半から1時間ほど昼寝。

読書「現代中国の政治ー開発独裁とそのゆくえ」
(唐 亮 著:岩波新書)

中国ニセ社会主義の歴史を振り返り、
一党独裁の下でどのように社会を変革させて
来たのかを振り返る。1949年の「中国革命」。
大躍進運動の失敗、人民公社の失敗、
1966年からの「文化大革命」という名の
毛沢東派の奪権「クーデター」。
鄧小平の「白猫黒猫論」、4つの近代化。
共産党一党独裁が行政組織、司法・立法の
三権の中でどのように位置付き、機能してきたか
を概括している。
韓国・台湾などの開発独裁との違いを考察。


インターネットの力が弱い。

今日は洗濯を2回した。

昨日からの晴天で雨は終わり、これからは夏。
長袖の衣類を全て洗濯し、箪笥にしまう。

箪笥の半袖を出し、これも『かび臭い』ので
全て洗濯する作業に入る。

途中で洗濯機が故障してしまう。

夕方、バオミンさんとブライセン新事務所
開所式関連の打ち合わせをする。


===========

3月10日(日)、午前11時から日比谷公園で
行われる「東日本大震災復興と原発ゼロの
実現めざす3・10東京集会」にベトナムから連帯し、
その成功を祈る。

投稿者 koyama : 13:56 | コメント (0)

フエ市訪日団の皆さんと「訪日総括会議」

午前6時起床。 晴天。日本の春のような気候。

午前7時朝食。「ブンボー・フエ(牛肉入り米麺)」

午前中、フエ訪問予定者の日程調整。
来週から3週間は、毎日連続してのスタディーツアー
などがある。フエに戻ってもゆっくり休むことは
出来ない。バオミンさん・税田さんなどベトナム事務所
の皆さんが中心で仕事をしていて、私など、「添え者」
のような存在だが、それでもこれから3週間の「連続
闘争」があると思うと「気が引き締まる」ようになら
ならなければいけないのだが、「気が引き締まらない」
状況。

昼食。大量の野菜サラダ。魚のフライ・・・・・。


昼食後、1時間ほど昼寝。

その後、読書
「茜色の空ー哲人政治家・大平正芳の生涯」
(辻井 喬著 文芸春秋)  読了。

外から見ていると自民党は一色に見える時も
あるが、本書を読むと「吉田茂系」(国際協調路線)
と「岸信介系」(戦前回帰・軍事武装化路線)との
基本的な路線の闘いが自民党の中にもある。
吉田茂系は池田勇人→大平正芳→宏池会へと
発展。加藤紘一の乱で事実上破綻・沈没。
現在の安部政権の基本路線は、「岸路線」。
戦前回帰・日本の武装化路線と見た。
国際協調路線を志向していた「宏池会」は
分裂し、力を落としているわが日本であることが
分かる。著者の辻井喬氏の丹念な調査の跡が
窺える。著者に漢文の素養あり。一読の価値あり。

午後3時半、徒歩ベトナム事務所へ。

春口さんの任期終了・帰国日程を打ち合わせする。

午後5時半。フエ市人民委員会の車が迎えに
来てくれる。

ベトナム事務所に寄る。
ソン君のお兄さん(元「子どもの家」)とお母さんが
ベトナム事務所にきていた。

フエ市内から20分。天安山の中腹にある
ベトナムレストランへ。

今日は、フエ市人民委員会訪日団の「総括会議」。

フエ市長はフランスの大臣が来訪しているの
でその接待で欠席。

フエ市共産党DUNG(ズン)委員長
フエ市人民委員会NHIEN(ニエン)外務部長・・・・・・。

ベトナム事務所側は、小山・バオミンさん・税田さん
ソン君。

ビールから直ぐに「シーバイス」ウイスキーへと。
ベトナム側はウイスキーの一気飲み。
当方も『大和魂』の持ち主。
挑戦されて、こそこそと逃げることも出来ない。
「飲めません」とは言えないので、お付き合い。


午後9時半位まで日越「飲み比べ」は続く。

フエ市人民委員会の車で宿舎近くまで送ってもらう。
ソン君が心配して、宿舎まで付いてきてくれる。

投稿者 koyama : 12:46 | コメント (0)

2013年03月07日

いくつかの仕事

快晴  気温30度

今日から急に快晴となり暑くなる。

午前6時起床。疲れが残り、朝起きられなかった。
何とか無理をして起きる。

午前7時朝食。フォー・ガー(鶏肉入り米麺)


午前中、昨日の火炎樹日記を書く。
デスクトップのパソコンがウイルスで壊れてしまう。
ノートパソコンを使うが、「あ」のキーを打っても文字が出ない。

数時間「苦闘」して何とか昨日の火炎樹日記を書く。

バオミンさんは、ブライセン社長一行とランコー(フエ省最北)
にあるゴルフ場へ。

午前中、洗濯。ズボンを洗い、日向に干す。
久しぶりの晴天。寝具を干す。

沢山のメール受信。

午前11時半、昼食。「春雨面」

1時間程昼寝。

午後受信メールへの返信。

疲れたのでベッドに横になり読書。

「茜色の空ー哲人政治家・大平正芳の生涯」(辻井喬著)

1950年代から60年・70年代の出来事。
私の小学生から大学、教員になった初期のころまでの
自民党内の抗争を描写しながら、保守の立場にありながら
良心をもちながら生きようとした人間として、著者は
大平正芳首相を描いている。実際の人物がどうであったか
どうかは、分からないが人間としての生き方として、思想信条
は違っても「人間として」共感できる部分が多々ある。

午後3時過ぎ、ベトナム事務所へ。
石井君の「フエ師範大学ベトナム語学習コース」の時間割が
決まった。ソン君と一緒に石井君に来週月曜日からの
フエ師範大学でのベトナム語学習の計画と具体的な行動に
ついて打合せをする。基本的には。、月から金までの朝7時半
から夕方までベトナム語の授業。


ベトナム語の勉強の仕方など細かいことを石井君の教える。
ソン君(フエ高等師範大卒業生)も一緒に石井君に助言を
する。石井君の疑問を一つ一つ解決する。


午後5時半、リー君の誘いの電話と昨日の電話のこともあり
一緒に飲む。

昨夜、3回あったリー君からの「悲痛な電話」の意味を聞く。

リー君が仕事をしていた警察が1ヶ月後に移転する。
オートバイの警備の仕事がなくなる。自分は生きていくのが
大変になる。ラオスに出稼ぎにいかなければならない・・・・
など色々なことを考え、飲んでいるうちに「興奮し」
昨夜のような電話になったことが分かった。

仕事と収入が突然なくなることになる「不安」と「恐怖」
から昨夜の電話になったことが分かった。
本人は、ラオスに出稼ぎに行き、大儲けをするような気持ち
になっていた。私としては、フエに適当な仕事を見つけて
やって何とか自立できるようにしてやりたいと思っている。

午後8時半、飲み会を中座し、宿舎へ戻る。

とにかく疲れた。頭が働かない。

投稿者 koyama : 22:35 | コメント (0)

2013年03月06日

ブライセン藤木社長一行案内

終日曇り  寒い

午前5時起床。洗濯

午前7時朝食。チャオ・バンカン


午前8時、藤木社長一行の投宿しているホテルへ。
バオミンさんと合流。

藤木社長とポールトウウイン・ヒットクルーホールディングス
会長・社長一行とブライセンベトナム支社第1事務所参観。
JASSベトナム事務所3階。


ブライセンベトナム支社では、現在23人の若者スタッフが
仕事をしている。スタッフを増員したため、新しい事務所を
作った。JASSベトナム事務所3階と日本語学校2階とに
分散しブライセンの仕事をすすめることとなった。

ブライセンベトナム支社第1事務所を参観。
日本料理店の1室では、澤井先生がブライセンスタッフに
日本語教育を行っていた。澤井先生に感謝。

その後、フエ市越日交流委員会管理の「静岡フエ青年交流
会館2階の「ブライセンベトナム支社第2事務所」を参観。

50人程仕事ができる広い新事務所で新採用のスタッフ
も交えて、仕事をしていた。

ブライセンベトナム支社第2事務所で仕事をしているスタッフに
挨拶する藤木社長



ブライセンと交流会社の社長・会長


ブライセンベトナム支社スタッフ



その後、王宮案内


王宮参観の後は、「子どもの家」視察。


昼食は「チャオ・バイン・カイン」


その後、フエ市最大の市場「ドンバ市場」視察。

この種の市場がいつまで残っているのか?
ドンバ市場を視察し・案内しながらふっと考えてしまった。
フエに住んで20年。ドンバ市場があるのは当たり前と思って
いたが、その「当たり前のもの」が、次ぎから次へと消えていく。

午後6時過ぎ、市内のレストランで「ブライセンベトナム支社員
総決起集会」を行う。23人のベトナム支社員、藤木社長と幹部
社員、同行視察の2人の他社(一部上場)会長、社長、
バオミンさん、私と29人の参加で交流会を行う。

藤木社長の「総決起酒会」の挨拶


藤木社長の「激」に聞き入るブライセンベトナム支社員
や酒会参者


ブライセンベトナム支社には3人の「子どもの家」の
子どもたちも入っている。それぞれのポジションで
頑張り、一人は既に結婚し、お子さんもいる。


今回大量の女子社員を採用した。
大半は、フエ高等師範大学日本語学科の卒業生。
JASSベトナム事務所の日本語教師の皆さんの
教え子。


藤木社長の音頭で乾杯  酒会は本格的に始まる。



酒会は徐々に「シュプレヒコール」に入る。
一人一人が、積極的にベトナムの歌を披露。
携帯にある「歌詞」を見ながらベトナムの歌を歌ってくれる。


JASSが10数年支援し、フエ科学大コンピュータ学科を
卒業し、ブライセンベトナム支社に入社した「ホア君」も
歌を披露。チン・コン・ソンの歌。



「子どもの家」・JASS出身三羽烏(ただし、約1名は雀)


誰一人「恥ずかしがらず、堂々」と歌を披露する「自信満々」
な態度に『感銘』する人も。


午後10時過ぎ、「総決起酒会」終了。

その後、皆さんは、更に第2次総決起酒会へ移行するが、
私は日本滞在の疲れ・フエ帰国後の過剰な仕事で披露困憊。
宿舎へ帰る。

火炎樹日記やメール受信のチェックもできないまま直ぐに
ベッドに横たわる。熟睡。

午後11時頃、枕もとの携帯電話が鳴る。出ると「リー君」
からの電話。

「僕はこれからフエを出て、ラオスに行く。友達に誘われた。
フエは寂しい。友達がいない。一人で寂しい」という趣旨の
ことを繰り返し言う。
私は「事情は分かった。明日、詳しく話をしよう」という。
暫く、「言語不明瞭」なことを言っていたが電話が切れる。

私は本当に疲れ切って「熟睡」していたのだが・・・・。

数分後にまた、リー君から電話。同じようなことを繰り返し言う。

お酒を飲んで酔っぱらっているのは、わかるのだが、更に
何か薬物でも飲んでいるのだろうか? と思われるような
「ろれつ」の回らなさ。私は更に心配になり、「リー君の
言っていることは良くわかる。明日、会って詳しく話そう」という。
しばらく何か言っていたのだが、電話が切れる。

私は再度「深い眠り」にはいろうすると、またまた、リー君から
電話。「僕は寂しい」と繰り返し言う。
暫く話を聞いていたが、電話が切れる。

リー君が自殺でもするのではと、心配になり、午後11時半頃
だったが、「第2次総決起酒会」に参加しているバオミンさんに
電話。事情を話す。バオミンさんが直ぐにリー君に電話を
するが、リー君の携帯電話に挿入されたカードの金額を
オーバーしているようで電話がつながらなかったとのこと。
そうこうしているうちに午前0時を過ぎる。

明日、急いでリー君の消息を調べよう。

投稿者 koyama : 12:34 | コメント (0)

2013年03月05日

ベトナム事務所手伝いの若者と懇談:ブライセン社長来訪

午前5時起床。 小雨  寒い


午前7時朝食。「ブン・クア」(かに団子のブン麺)


午前8時半、小雨の中、徒歩でベトナム事務所へ。

石井君や名古屋からきているA君などと話し合う



ベトナム事務所会議室では、携帯電話カバー関係の
準備。



日本料理店のグエットさんが携帯カバーを作って来た。



午前11時過ぎ、 徒歩宿舎へ。

途中、リー君と会う。今日、オートバイの免許を取った
とのこと。免許証を見せてくれる。ということは、
今まで無免許運転だったのか?  免許証をきちんと
取ってオートバイを運転する「遵法精神」が身について
来たことに立派だ。「先生、また、日曜日に飲みましょう」
と言っていた。


午前11時半、昼食。魚入りの「おじや」



午後12時半から1時間程昼寝。

午後2時から部屋で仕事。3月日程の調整。
今日からブライセン社長一行が来訪。
地球のありき方スタディーツアー4班、5班、
北海道芸術高校スタディーツアー、
ブライセンベトナム支社新事務所開設記念式典と
祝賀パーティーの計画。
ブライセンベトナム支社員全員(20数名)の
職員旅行(ハノイのハロン湾)の計画と複雑な
日程をバオミンさんと電話で相談しながら決める。

午後6時過ぎまでかかる。

午後6時40分、バオミンさんが車で迎えに来てくれる。
ブライセン社長一行をフエ空港へ出迎えへ。

午後7時20分着の予定だったが、1時間半遅れて
到着。


フエ空港からフエ市内ホテルへ。

ホテルで午後11時半まで軽く飲みながら
懇談。

投稿者 koyama : 18:56 | コメント (0)

2013年03月04日

JASSベトナム事務所へ

午前5時半 雨  気温18度 湿度90%。

(乾燥肌で体中が痒かったが、1日でほぼ治る程の高湿度)

午前7時、朝食。料理を作ってくれるセンさんの初日の
第1回目の料理は、決まっている。地元名物「ブンボーフエ」
(米麺の牛肉入り)


午前9時雨の中、傘をさしてベトナム事務所へ。フエで
傘を指している人は外国人。地元の人はぬれたままか、
フエ風「ポンチョ」。

11日間のフエ市人民委員会訪日団の活動の概要を
話す。

昨日、日本から一緒にフエへ来た石井君をベトナム事務所員
に紹介。これから数年間ベトナム事務所にいること、
当面は、ベトナム語の勉強をすることなどを話す。

石井君が自己紹介

「16歳です。青少年教育の会で4回フエに来ています。
 今回で5回目です。長期滞在するのでよろしく」と言った
趣旨の挨拶をする。きちんと挨拶の出来る礼儀正しい
若者と見た。

富岡先生・春口先生・ハン会計部長

後藤先生・今晩は先生・アンフェリシモさん・澤井先生


JASSベトナムの最高責任者バオミンさんも温かい気持ちで
石井君の挨拶を聞いていた。

真ん中税田さん

その後、日本滞在中に支援者からお預かりしたお金を
関係者に直接渡す。


バオミンさん、税田さんと「3月ツアー」受け入れ
日程の調整。3月は、気の遠くなるほどたくさんの
方々を受け入れる。毎日、いくつかの日程が重なる。

3人で各日程の担当者を調整する。




午前11時半、ベトナム事務所を出て、雨の中徒歩で
宿舎へ。

昼食は、「チャオバインカイン」(小麦粉の煮込みうどん)

午後1時から1時間ほど昼寝。
この1ヶ月間の疲労がどっとでた。

うとうとしていると午後3時。

バオミンさんがオートバイで迎えに来てくれる。

フエ市人民委員会外務部へ。

2月16日から25日までのフエ市人民委員会訪日団
の日本での活動についての総括を行う。


ニエン外務部長・イックホアン副部長(私の教え子)
バオミンさん。

丁度話し合いが始まった時、フエ市共産党委員長の
ユンさんが外務部長室を訪問。

ユンフエ市共産党委員長も入れての総括会議となる。


ユンフエ市共産党委員長からは、JASSのおかげでフエ市と
京都市との「パートナ都市協定締結」が出来た。感謝している
との言葉があった。
そのほか、色々な話があり、今後ともフエ市人民委員会・
フエ市共産党とJASSは一心同体で日越友好のために
活動しようとの話しになった。

更に3月20日午前8時半から開催される
「ブライセンベトナム支社新事務所開所記念式典」
の式次第・出席者などの打ち合わせを行う。

フエ市共産党・フエ市人民委員会から委員長・市長など
主な方々が出席するとの話しになった。


バオミンさんのオートバイでベトナム事務所へ戻る。

日本から持ってきたJASS関連のお金をハンさんに
渡す。

日本料理店の子どもたちを集め、これから石井君が
夕食を日本料理店で食べることを話す。

日本料理店長のトゥオイさんの妊娠の状況を
本人から聞く。妊娠7ヶ月。出産間際まで仕事を
していたい、産後4ヶ月の休暇をとりたいとのこと。
子どもは、女児でうれしい。
旦那は、オートバイ修理の仕事しかしない。
出産や家事は何もしない。
出産は、実家でするとのこと。

妊娠中に問題や困ったことがあったら、
バオミンさんか税田さんに言うようにと念を押した。
丈夫な赤ちゃんが生まれることを祈っている。

税田さんから日本料理店の生ビールが発酵し過ぎている
ようだ。新しいのに換えようと思うとの話しを聞く。
「私が実際に飲んで発酵度合いを調査する」と言い、
「業務上の任務で生ビール」の試飲をする。確かに発酵が
進み過ぎ、すっぱくて美味しくない。
新しい生ビールに換える事にしたようだ。

朝から雨。終日寒い。バオミンさんの話しでは、
私がフエに戻る前までは、青空で暑かったとのこと。
この寒さと雨の原因は何か?

午後7時半、フダビールを飲む。

支援者のKさんから頂いた「焼きあご」をつまみにのむ。

仕上げは、「大吟醸 国香」(国香酒造株式会社・静岡県
袋井市)

国香は「淡白」で「上品な香り」がする。

1ヶ月ちょっとの日本での活動であったが、本当に
疲れた。昨日フエに戻り、精神的に「ほっと」した。

3月は多くのツアーがあり、ブライセンの
新事務所開所式典など諸行事も多い。体調をきちんと
管理し、全ての仕事を成功させたいと「国香」を飲みながら
硬く決意をしたつもりだったが、更に「仕上げの仕上げ」に
まで進みラオス・ラオディーの「ラム酒」をほんの少し飲み
飲酒の諸行事を終了する。

=====

昨日の成田→フエ間の機中で読書

「昭和のエートス」(内田樹著:文芸春秋)読了。
著者は私より3歳若い。1950年生まれ。
いわゆる「団塊の世代」最後尾についていた世代。
神戸女学院大学文学部名誉教授という肩書き。

その時々に感じた時評のようなエッセイ。興味深く読んだ。
内田樹氏がどのような人間かは全く知らなかったが、
読んでいて95%程度の意見に賛同した。
戦後民主主義教育の一つの知的到達点かもしれない。
一つの意見に必ずしも拘泥せず、出来るだけ客観的な
立場を摂りつつ、「平和」「民主主義」「人権」などについては、
しっかりとした意見を持っている。一読の価値のある書と見たい。

「茜色の空ー哲人政治家・大平正芳の生涯」
(辻井喬著:文芸春秋)を読む。

著者の辻井は西部・セゾングループ代表の堤清二氏。
東大時代は日本共産党員として活動していた。
その著者が保守の自民党の首相の伝記を書くことに
興味を覚え読んでみた。
内容のある本だった。大平正芳首相が選挙中に急死した
出来事は私が大学生の頃だろうか?
テレビのインタヴューでは、「あー、うー」と言って
何を言っているのかわからず、目の細い首相という
イメージがあった。
この伝記を読んでみるとかなり苦労をして一橋大学を
出る。大学時代(戦時中)は、かなり左よりの教授の
薫陶を受け、キリスト教の洗礼を受けている。

本書は戦後の日本政治史の一場面をも語っている。
吉田内閣から自由民主党成立・「55年体制」の確立。
本書を読むと保守であっても知性と良心をもった保守
政治家という人間であったことがわかる。
人間を見る時、その人の思想だけで人間を決め付ける
人がいるが、大間違いだと言うことがわかる。
民主社会は様々な主義主張の人々で成り立ている。
意見や主義主張の違う人を排除しない社会であって欲しい
ものである。大平正芳は、保守ではあるが、民主主義についは
かなり頑固な気持ちを持っていたことが伺える。

投稿者 koyama : 10:35 | コメント (0)

成田空港からホーチミン市経由フエへ「帰国」

午前5時起床。

昨夜は杉花粉の影響で、鼻がつまり熟睡できなかった。

朝風呂に入り、荷物の最終整理をし、午前7時、ホテルの
マイクロバスで成田第1ターミナルの北ウイングへ。

午前8時過ぎ、ベトナム航空チェックインカウンター付近で
青少年教育の会の加藤さんと昨年の8月に「子どもの家」
を訪問し、交流した石井君、A君と合流。
今回はしばらくの間、石井君がフエに滞在することになったので
一緒にフエへ帰ることになった。

石井君と出国手続きへ


寒い中、前日から見送りのために成田空港付近のホテルに
泊まってくれた加藤さんに感謝。


午前9時半成田空港を出発。7時間弱かかってホーチミン空港へ。
(ベトナム時間の午後2時25分)。
ホーチミン市の気温34度。真夏。

国際線から国内線へ移動。国内線でフエ行きのチケットを
手に入れる。

大型掲示板にフエ行きは「7番ゲート」と表示されていた。
ボーディングパスにも「7番ゲート」と記載されている。
石井君と二人で7番ゲート前で待つが、一向に
搭乗受付の気配がない。いつものことなので
空港中のゲートを一つずつ見て歩く。
一番はずれの14番ゲートで「フエ行き」の受付を
行っていた。急いで石井君を誘い、14番ゲートへ。

私たちが一番最後の搭乗者だったようだ。

午後4時35分、ホーチミン空港を出発。
午後6時過ぎにフエ空港到着。

空港には、富岡先生が待っていてくれた。
フエは雨。気温23度。少し寒い。

車でバオミンホーチミンホテルへ。

石井君は疲れも見せず、元気にバオミンホテルに
投宿した。富岡先生は細かい面倒を見てくれた。

その後、私は宿舎へ。荷物の整理を始めた。

午後8時前、リー君から電話。先生飲みましょう・・・

そのまま荷物の整理をやめて雨の中、指定された
大衆居酒屋へ。途中、雨の中、リー君が傘を差して
迎えに来てくれた。

税田さんも合流。今日は税田さんの誕生日。
誕生祝いとリー君が「オートバイ泥棒」を捕まえた
ことなども含めて乾杯をし、2時間ほど飲んだ。

午後10時過ぎ、帰宅。

既に日本の時計では、午前0時を過ぎている。
そのまま、荷物の整理もせずに横になる。

日本滞在中、多くの支援者の皆様にお世話になった。
改めて御礼申し上げたい。

投稿者 koyama : 00:05 | コメント (0)

2013年03月02日

従兄弟の納骨式ー成田空港前泊

午前5時起床

昨日の日記、必要なメールの送受信。

朝風呂に入る。

午前8時、ベトナム「帰国」の荷物を持って、
地下鉄→JR巣鴨→日暮里へ。

日暮里駅の京成線近くのコインロッカーに
ベトナム行きのスーツケース、リュックなどを預ける。

その足で巣鴨にもどり、午前9時から高校級友のY君と
1時間程懇談。体調の話、携帯電話の話などをする。

午前10時15分、Y君と別れ池袋駅東部東上線で
姉と待ち合わせ。東上線で1時間強、越生駅へ。
タクシーで「越生の地産霊園」へ。

越生は「梅」の名所。梅の花の最盛期だった。

-

父方の従兄妹の「納骨式」に参加。

70歳ちょっとで先日亡くなった。室内で納骨の
読経。日蓮宗なのでやたら派手で騒々しい。

その後、墓石の前で再度読経。


従兄弟と従兄弟の娘婿


この従兄妹の墓の隣に母方の従兄妹・叔父の
墓石もある。合わせて花を手向けて合わせた。


この日は、強風と近くに「杉林」があったため、
スギ花粉が大量に飛散。

目が痛く・かゆくなり、鼻水が出て、鼻がつまり
大変な事態に。

精進落としの会食をし、午後4時頃散会。

東武東上線で1時間。池袋へ。

その足で日暮里駅から京成線の各駅停車で成田駅まで。

成田駅付近のビジネスホテルに前泊。

越生で飛散したスギ花粉を浴びて、目と鼻が異常事態と
なってしまった。

明日は、朝が早い。

投稿者 koyama : 19:12 | コメント (0)

2013年03月01日

テレビ関係者と懇談:ブライセン本社へ

午前6時起床。

午前中、フエへ帰国する荷物の整理。

午後2時自宅を出て、池袋へ。午後3時、池袋でテレビ関係者と
懇談。3時間程、フエでの活動などを話す。

その足で五反田のブライセン本社へ。午後6時半過ぎ到着。
ブライセン総務部長と話し、必要な「ある書類」をもらう。

午後8時まで、自宅着。明日は、成田空港付近へ前泊。

40通のメール受信。全てのメールに返信できず。

ブライセン関連の書類を作る。


今日の春一番(?)の強風で、一気に「杉花粉症」に火がついた。
目がかゆく、花が出る。喉が痛く、声が出にくい。
体が異常にだるい。早く、フエへ「避難」しなければ。

投稿者 koyama : 23:24 | コメント (0)