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2013年02月28日
会員と懇談会
午後12時、会員の方と懇談会。
午後3時、テレビ取材の電話あり。
明日、打ち合わせ。
税田さん・バオミンさんからメール、電話あり。
40通のメール受信。返信にかなりの時間がかかる。
それぞれのメールが意味のあるものなのでできるだけ
丁寧に返信する。
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今日、朝のテレビ番組を見ていたら66歳で先日亡くなった
市川團十郎の葬儀が行われ、息子の海老蔵が「辞世の句」を
披露していた。
「色は空 空は色との 時なき世へ」
海老蔵は、「いろ」は「そら」、「そら」は「いろ」との・・・
と読んでいた。
息子海老蔵は「空を眺めた時に少しでも父のことを思い出して
いただければ」と参列者にお願いをしていた。
昨日、NHKテレビテキストで「般若心経」の由来と解説を
読んだが般若心経前段に「色即是空」「空即是色」が出てくる。
「宇宙」「世の中」をどう見るのか?という部分で出てくる。
「色」は「この世に実態のあるもの・存在するもの・肉体」
と大乗仏教は、解釈している。「空」という概念は難しので
「存在しない」と仮の理解。
團十郎が読んだ辞世の句は「自分はこの世に肉体を
もち存在したが、死して肉体は滅び、大きな永遠の宇宙へ
行来ます」という趣旨ではないかと勝手に理解したのだが・・。
市川家の誰かが、海老蔵に「いろ」ではなく「しき」と
「そら」ではなく「くう」と紹介しなさいと教えればよかった
のに・・・などと妄想してしまった。
2013年02月27日
11日間不在中の「仕事」を自宅で遂行
午前7時起床 寒い
昨夜、初めて「マウスピース」を上歯にかぶせて寝た。
上の歯に何かがついて、もがいている夢を見た。
ベトナム事務所からいくつかの電話やメールあり。
午前中は、ある件について関係者に電話をしたりし、
問題解決にあたる。
この間、返信できなかったメールへの返信を
1日かけて行う。
頼まれていたボランティア関連の原稿を書く。
葉書を書いたが、切手はいくらのものを貼るのかが
わからなくなっていた。ベトナムに20年住んでしまうと
日本の変化についていけなくなった。ものの値段が
分からなくなった。急速に変わるIT関連の進歩にも
ついていけない。以前、息子が「スイカ」を買ってくれた。
私は切符と同じ機能だと思い、改札口にある切符挿入口に
「スイカ」を」入れてしまう。改札機械は詰まってしまい
私の後についていた人たちはスイカがつかえなくなる。
丁度通勤ラッシュ時。
他のお客さんは「この馬鹿者」と思っているようなそぶりで
となりの改札口に行ったことを思い出す。
今日は1日家の部屋で仕事をした。
12日間のフエ市人民委員会訪日団の案内はさすがに
疲れた。今日は外出せず家で休む。
夜も仕事。
午後7時半、フエの「リー君」から電話。
「小山先生の帰る3月3日の夜、飲みましょう」とのこと。
「いいよ」と返事をした。
沖縄の山田電気で買った「NHKテレビテキスト」
『般若心経」(佐々木閑著」を読む。興味津々の
内容。
ブッダと大乗仏教の関係を詳細に書いてあった。
大乗仏教は、ブッダ死後500年ほどたった新興宗教
であった。ブッダの理論とはだいぶ違うと佐々木先生は
書いている。当時の仏教の新興勢力である大乗仏教は
ブッダの自らの人生と体を投げ捨てて精進する路線を
取ったが、仏教の新興勢力である大乗仏教は
「自分で苦しまないで」あの世に行ける的な宗教を
模索し、仏教旧勢力と闘った。その象徴が「般若心経」
262文字。お題目・お経を読むことで救われるという
ブッダ路線とは違う大衆・安楽路線を取ったと書かれて
いた。なるほどと思う。中国の玄奘三蔵はインド仏教の
新興勢力である「大乗仏教」のみを中国に持ち帰り、
朝鮮・日本に伝える。
2013年02月26日
ブライセン本社打合せ:歯科医へ
寒い
午前8時に自宅を出て、巣鴨経由「五反田」へ。
ブライセン本社でK部長とベトナム支社の
運営等今後の基本方針等を打合せ。
午後12時過ぎ、打ち合わせを終了。
バオミンさん・税田さんから電話がある。
いくつかの件で打合せ。
午後2時半、自宅へ戻る。
11日間のフエ市要人の案内、さすがに疲れる。
今日は1日中、疲労感が残る。
午後3時から多数の受信メールを読み、返信。
午後6時過ぎ、歯科医へ。
マウスピースを作る。
私は「噛む」力が強く、その力の影響で「はぐき」が
低下するとのこと。マウスピースを夜寝ている時に
歯にかぶせることで、「歯茎(はぐき)」の低下を
遅らせることを狙ったもの。
これから毎晩、寝る際に上の歯全体にマウスピースを
噛ませることとなる。
歯の管理は、人間にとって一番大事なことだと
私は思っている。
2013年02月25日
フエ市人民委員会訪日団帰国
午前5時起床。
関空付近のホテルで荷物の整理。
午前7時半、ホテルフロント集合。ホテルのバスで
関空へ。
ベトナム航空のチェックインカウンターは、かなり
混んでいた。
チェックインの手続きを終え、帰国の途に。
一人だけ関空→ハノイ、残りのフエ人は関空→ ホーチミン市
午前9時過ぎ、飛行場ゲートへ。
フエから帰国まで11日間の日本ツアーだった。
東京では「JASS現地報告会」参加。
IT企業ブライセン本社訪問。晩餐交流会
静岡では田辺市長表敬訪問。夜は、小島前市長と懇親会。
静岡市内のIT企業「富士データーシステム」視察。
京都では京都大学の招待で国際関係担当者や環境保全
関係の部長・担当の先生方と懇談。
京都市・フエ市パートナーシティー協定書調印式。
その後調印を祝ってのレセプション。
京都市の計らいで「天竜寺」「竜安寺」の特別拝観
その後、、3日間にわたり沖縄訪問。
沖縄訪問は、フエ市人民委員会代表団の皆さん
全員(バオミンさんを除く)が、1960年代、1970年代
の「アメリカのベトナム侵略戦争」に反対し、ベトナム共産党員
として、地下活動や中部ジャングル地帯での武装抵抗闘争を
行っている。
フエ市人民委員会訪日団の皆さんの強い希望で
ベトナム戦争中の米軍の発進基地だった沖縄を視察したい
との希望から実現した。
同時にアジア・太平洋戦争中の「沖縄戦」の実態を
知りたいとの希望もあり、「がま」視察も行った。
沖縄では、松田先生や新川さんに大変お世話になった。
以上の活動を基本に11日間という長期の日本訪問、
交流を行った。
最終日の関空付近での焼き肉食べ放題店での「訪日
総括会議」では、皆さん「訪日した意味は大きい」「日本と
フエの一層の提携が促進された」「日本人は皆さん
親切で日本滞在は楽しく、思い出深いものになった」
などとの意見があった。
フエ市側の引率責任者のバオミンさんは、相当の
疲労を抱えて帰国した。バオミンさん、お疲れ様。
JASS代表の私はフエ市人民委員会の正式職制である
「越日交流委員会副委員長」。
バオミンJASSベトナム運営委員長は、フエ市人民委員会の
上級スタッフという役職についている。
JASS会則第1条にもあるように「日越友好・交流」の
ためのJASSとしての大きな仕事を果たしたと自負している
所である。
同時に東京ー静岡-京都ー沖縄とJASS各地の会や
関係者のご協力がなければ今回の訪日は成功しなかった。
全ての関係者の皆様方に心から感謝したい。
フエ市人民委員会・フエ市共産党との友好提携は
直接的に「子どもの家」の子どもたち支援につながる
ものであり、最近言われている「ロビーイング」
「ロビー活動」の典型的なものでもある。
午前9時過ぎ、フエ市人民委員会訪日団を関空で見送り、
私の業務を終了。
午後1時から始まる「都立S高校クラス会のような会の分派
会議」参加のため急いで帰京。
関空(はるか)→新大阪(新幹線)→東京→上野
4時間弱で上野へ。
上野の海産物専門店で「分派会議」を開催。
主な議題は、ラオスでの「ラム酒生産販売促進」を
どうすすめるか?
3時間程「ラム酒販売促進会議」を開催。
その後、引き続き「大統領」でそれぞれの身体的な
老化の現状の発表会を行う。彼らと付き合って50年に
なる。16歳の若者も65歳。長い付き合いではあるが、
50年間たった今でも「仲良く」付き合える仲間が
いることに誇りを感じる。
前期高齢者になった今でも私はベトナム、二人はラオス、
一人は作家、一人は東大で活動・仕事をしている。
我が分派会議の最後は上野アメ横の「大統領」で〆められる。
心地よい酔いの中で帰宅。11日間のフエ市人民委員会訪日団
の案内の疲れも吹っ飛んでしまった、とはならなかったが、
精神的な緊張を解きほぐしてもらった「分派会議」であった。
高校同級生に感謝したい。
2013年02月24日
沖縄最終日 「沖縄戦争ガマ」視察
午前9時朝食。
松田先生と新川さんの案内で「ヤマダ電機」で買い物。
その後、国際通りにある「公設市場」へ。
1階の市場で大きな魚と大きな貝を買い、2階で
刺身などの料理にしてもらう。
午後12時過ぎ。沖縄訪問最終日。反省会を行う。
訪日の目的を達成したことを祝い乾杯
オリオンビールは特に美味しい。
大変良い雰囲気の二人
魚と貝の刺し盛り
昼食後糸数アブチラガマを視察。
1945年5月、米軍が沖縄戦に突入。
沖縄の人々は「ガマ」という鍾乳洞に逃げるが、
日本軍も「ガマ」に逃げ、多くの朝鮮人、
沖縄人が「皇軍」と称する日本軍に殺される。
ガマでの3ヶ月の生活の実態をガマに270M
の長さのガマの地下道に入り、実態を見る。
真っ暗な中で食料もなく、多くの沖縄の
人々が死んでいく様子を聞く。
沖縄の人々は日本軍という殺人集団と
米軍という軍隊の二つの攻撃を受けた
実態を詳細に説明してもらう。
ガマ視察後、那覇空港へ。
松田先生の協力には頭が下がる。
改めて感謝とお礼を言いたい。
午後8時過ぎ関空着。
直ぐにフエ市人民委員会訪日団の活動終了と
大きな成果を確認する反省会を「焼き肉食べ放題」
の店で開催。一人1500円。
午後11時終了。
(お詫び)毎日30通ほどのメールを頂いいております。
2月15日から2月25日までの間は、
火炎樹日記にありますように朝から夜遅くまで
フエ市人民委員会訪日団のお世話をしています。
メールへの返信ができずご迷惑をおかけしております。
2月26日から返信させていただきます。
2013年02月23日
沖縄2日目 首里城ー今帰仁城→沖縄美ら水族館
快晴 気温20度。
半袖でも寒くない気候。
ほとんどフエと同じ気候と雰囲気。
フエ市からの皆さんとのお付き合いは、今日で9日目。
朝食後、午前9時、松田さん(元JASS日本語教師)と
友人の新川さんがホテルへ迎えに来てくれる。
お二人の案内で首里城を参観。
琉球王国が中国、アジアの強い影響を受けていたことが
分かる。
琉球王朝は南部(南山)・中部(中山)・北部(北山)
と3つの強い指導者の
時代が続く。最終的に中部(中山)の王朝が
琉球王朝を作る。
首里城はその王宮。ベトナムの王朝とも共通するところが多い。
首里城の歴史と特徴の説明を受ける
フエ市人民委員会訪日団は本当に真面目に視察をしている。
今日で9日目の日本滞在。相当疲れが出ているであろう
訪日団の皆さんであるが、熱心に首里城や沖縄について
知ろうという態度でる。
2時間程首里城を参観し、北山の今帰仁(なきじん)方向へ。
途中で沖縄そば(ソーキそば)を食べる。
お店の前の海は、エメラルドグリーの本当にきれいな海であった。
松田さん・新川さんと「地元の人」の案内があるので、
安心して視察ができた。
今帰仁(なきじん)城址へ。ここは、北山政権のお城のあと。
琉球中部の「中山(ちゅうざん)政権に滅ぼされた「ほくざん
北山)政権。
沖縄は既に「春」が終わっている。半袖でも寒くない季節。
これもフエと同じだ。
桜も散り青葉が繁茂している。
ガイドの方の「熱心すぎる」説明を聞く。
北山(ほくざん)政権城址
更に車で30分。海洋博公園にある「沖縄美ら(ちゅら)海(うみ)
水族館」へ。
水族館の周りは春の花で埋め尽くされていた。
サンゴやジンベエザメなど素晴らしい水族館。
夕方、那覇市内にもどり、松田先生紹介の沖縄料理屋へ。
海のもの(刺身類)は本当においしい。
ニエン外務部長と
バオミンさんと沖縄最後の日を楽しむ
沖縄でのすべての案内をしてくれた松田先生と新川さん
(来年、高校の先生になる予定)
なかなか良い雰囲気のお二人ではある。
「芳醇 浪漫」という泡盛を飲む。特別美味しい。
フエ市人民委員会訪日団の皆さんも沖縄料理(ベトナム料理と
多くの共通項を持っていた)に『舌つづみ』を打っていた。
宴たけなわになると、松田先生と新川さんが、「サンシン」
を弾き、「ユンタ」を歌ってくれた。
「ユイユイ」という掛け声をかけ、何度も「サンシン」と歌を
歌って歓迎してくれた。
感謝している。
午後10時、沖縄最後の夜を歌と美味しい沖縄料理と
泡盛で終わる。
私以外の訪日団は、その後、ホテルで更に沖縄最後の
宴を開いたようだ。
私は2月15日の成田前泊から9日間のツアーの
疲労が出て、夜眠れなくなってしまった。
あと2日間、何とか頑張る決意を再度固める。
2013年02月22日
京都から沖縄
午前9時45分、ホテルを出て、京都駅へ。
京都市国際化推進室の皆さん、「京滋YOUの会」の
藤井さんたちが見送りに来てくれた。お忙しい中、
関係の皆さんに心から感謝したい。
京都市役所の皆さんの献身的なご支援には、
共産党委員長をはじめベトナム人の皆さんは、本当に
感謝し、喜んでいた。
京都駅のホームまで見送り頂き、恐縮している。
京都駅から「特急はるか」で1時間半程。関西空港へ到着。
おおきな荷物は、コインロッカーや荷物預かり所に預ける。
関空から那覇空港まで2時間。
沖縄に到着。暖かい。雨が降ってはいたが、東京・静岡・京都に
比べるとさすがに「南国」。
那覇空港には、元ベトナム事務所の日本語教師「松田先生」の
大学同級生の方が出迎えに来てくれる。
その方がの案内でホテルへ。
2時間程ホテルで休息。午後6時から「波照間」沖縄料理店へ。
沖縄料理を堪能する。泡盛と「オリオンビール」を飲む。
ベトナム側は、全ての沖縄料理に「唐辛子」を振りかけていた。
ベトナムの皆さんは、「沖縄はベトナムに似ている」と何度も
言っていた。
ベトナムにもある「豆腐」を発酵させた「豆腐よう」が
沖縄にもあった。
沖縄の豆腐ようは、観光客用にだろうか? 改良され
腐った匂いがほとんどなくなっていた。
ベトナムの豆腐ようは、昔のまま。腐った豆腐の匂い。
沖縄の歌や踊りも食事をしながら鑑賞できた。
沖縄の古歌だけではまく「花」や「涙そうそう」なども
歌ってくれた。
フエ市外国語センター所長。
ベトナム事務所の元日本語教師だった「松田先生」は教師の仕事を
していて、なかなか仕事場から離れられず、午後10時半頃、合流
してくれた。
市長さんたちは途中でホテルへ帰り、バオミンさん・松田先生、
その友人(案内してくれた二人)と12時頃まで交流。
2013年02月21日
天竜寺・竜安寺参観・神戸製鋼関連会社訪問
寒い 少し雪が降ったようだ
午前6時起床。
昨夜のフエ市・京都市の「協定書調印式」関係の
記事が新聞に掲載されていた。
午前後8時、京都市の手配してくれたマイクロバスで
市内見学。
天竜寺を訪問。京都市からの特別要請もあり、
天竜寺の責任者が直接案内してくれる。
雪の竜安寺の庭は素晴らしかった。
通常の参観者は入れない所もへも案内してくれる。
山茶花(さざんか)がちょうど見ごろだった
天竜寺を終え、続いて「竜安寺」を訪問する。
雪の竜安寺も素晴らしかった。
今まで何度もベトナム人の京都案内を行ったが、
金閣寺とか清水寺などだけだった。
今回は私の趣味も交えて、日本人の精神的
抽象性を示す禅宗の天竜寺の庭と抽象的・精神的な
竜安寺の石庭を案内。 ベトナム人の反応に興味が
あった。
天竜寺の庭には、ベトナム人訪日団の皆さんも
興味をもったが、竜安寺石庭は、さすがにというのか
想像通りというのは、ほとんど興味を示さなかった。
午後12時。京都市長主催の昼食会。
天ぷらの「天喜」にて
「京滋YOUの会」藤井事務局長と門川市長
ヴィン市長の挨拶
柴田氏の乾杯の音頭
昼食会を終え、最終的に京都市との交流日程を全て終了する
午後3時、京都駅から新幹線で新神戸へ。
神戸製鋼の子会社「KOBELCO」(水処理・ごみ処理の会社)
を訪問。
フエ市の水処理等の関連で訪問。
神鋼環境ソリューション本社
神鋼環境ソリューション本社で会社の概要・ベトナムでの仕事の
実態等の説明会。
フエ市人民委員会は、JICAとの提携で「下水道工事」等の
プロジェクトを行う。
会社側の活動説明を受けた後、ユン共産党委員長の
挨拶。
1時間半ほどの意見交換を終える
フエ市は少しの豪雨でも下水道が氾濫し、洪水となる。
何とか早急に下水道工事を実施してほしいものだ。
午後6時半から神戸港で夕食交流会。
神鋼環境ソリューション側役員の皆さん
ディーナーのメニュー
夕食会を終え、神戸港を背景に記念撮影
午後9時過ぎ。新幹線「新神戸駅ホーム」にて
2月15日の成田前泊から今日で丁度1週間。
疲労の限界。種々の出来事があり、本当に疲れ切った。
東京での現地報告会、静岡・京都での公式行事などが
あり、失敗が許されない環境を何とか乗り越え疲れが
どっとでた。
明日は、沖縄へ行く。
静岡→京都 両市協定調印式
晴れ(静岡)
午前9時半、ホテルを出て静岡駅へ。
午前10時過ぎの新幹線で京都へ。(約1時間半)
ユン共産党委員長とヨアンフエ市外国語センター所長
バオミン・JASSベトナム運営委員長とハノイの人
午前11時47分、京都駅着。
京都市国際化推進室課長さんをはじめ、「京滋YOUの会」の
仁枝代表、藤井事務局長など関係者の出迎えを受ける。
感謝。
午後2時。京都大学から招待を受け訪問。
「京滋YOUの会」の仁枝代表、藤井事務局長も参加
京都大学側とフエ市人民委員会との間で種々話し合う。
今後の協力、提携・・・・・。
午後6時。京都市内で「フエ市・京都市ペートナー都市協定」
締結式典が行われた。
フエ市側はヴィンフエ市長・ユンフエ市共産党委員長。
京都市側は、門川大作市長。
両市長の協定書調印
NHKTV・京都新聞などマスコミの取材もあった。
長身式を終え、フエ市人民委員会を代表し、ヴィン市長が
お祝いの挨拶。
バオミンさんが日本語で通訳
両市でお祝い品の贈呈
フエ市からは、陶板の王宮。京都市側からは人形。
調印式後多くの市民・関係者が参加した「調印祝賀式典」
京都市議会議長の乾杯の音頭
ベトナム人留学生など多くの関係者が参加。
10数年にわたり「子どもの家」を支援してくれている
「国際ソロプミスト京都ー西山」の皆さんも参加。
祝賀会の後半から両市と両国の歌の紹介
日新電機の宮崎さん(長年奨学金を支援)、ソロプチミスト
京都ー西山の皆さん、京都市国際交流会館館長の
柴田さん、「京滋YOUの会」藤井事務局長・・・
2013年02月19日
久能山東照宮参拝
終日雨(静岡市)
ホテルでサンドイッチの朝食。
昨日の田辺静岡市長表敬訪問の記事が静岡新聞に
掲載されていた。内容も正確に詳しく書かれていた。
また、昨日午後訪問したIT企業「富士データーシステム」訪問の
内容も日本経済新聞に掲載されていた。
午前10時、車で日本平へ。
雪を冠した富士山を見る予定だったが、あいにくの雨。
視界も悪い。全く富士山などは見えなかった。海が
薄らと見えるだけ。
本来ならこん富士山が見えるはずだった。
日本平からロープウエーで久能山東照宮へ。
本来なら1550段程度の石段をあがるはず。
雨中の寒桜
東照宮で「おみくじ」を買う。
皆さんの家族の病気、金運、などを占い、一喜一憂していた。
その後、JASS静岡の会の知り合いのお宅を訪問。
そのお宅個人で食べるための名実ともに『石垣』に
植えてある「石垣イチゴ」狩りを楽しむ。
コンデンスミルクなどつけない方が甘く・美味しい
イチゴだった。
その後、昼食を摂り、各自自由行動。
私とバオミンさんは、私の部屋でベトナム事務所の様々な活動
の方針等について突っ込んだ話し合いを行う。
夜は、ベトナム人の皆さんと大衆酒場に行き、気勢を上げる。
個人的には2月15日から5日間の活動が続き、相当疲れた。
やるべき仕事があまりにも多すぎる。
フエ要人の案内をしながら、ベトナム事務所のことなど
諸々の仕事を処理している。これから1週間。体がもつか
個人的には不安ではある。
2013年02月18日
静岡市長表敬訪問
東京は寒い。
午前9時に上野のビジネスホテルを出る。
沢山の荷物。
上野→東京。
東京駅にて
煙中毒男
新幹線で静岡市へ。午前11時。
JASS静岡の会の方が新幹線の駅に迎えに来てくれる。
その足で静岡駅構内で昼食。ベトナム人のリクエストで
「激辛ラーメン」。私は普通の醤油ラーメン。
午後1時、静岡市役所で田辺新市長と懇談。
静岡市役所に飾ってあるお雛様
市長室の隣の待合室には、歴代市長の肖像画飾ってあった。
小島前市長の肖像画
田辺静岡市長と懇談
田辺静岡市長
静岡市長との懇談を終え、「富士データーシステム社」を訪問。
介護施設の各活動をコンピュータで管理するシステムを
開発。20年後のベトナムの「高齢化社会」の研究材料となる。
午後6時、小島前市長夫妻との懇親会
JASS静岡の会事務局長笠井さんの司会
ユンフエ市共産党委員長のお礼の挨拶。
「10年間にわたりフエ市と静岡市との」交流を進めて頂いた
ことに感謝している」。
JASS静岡の会代表の挨拶
午後8時懇親会終了
2013年02月17日
JASS現地報告会
強風
午前5時起床。昨日の火炎樹日記を書く。
11日間フエ市人民委員会訪日団と行動を共にする。
そのため11日間分の衣類などを用意してきた。
今日は、午後1時から「JASS現地報告会」がある。
パブリック場なのでスーツを着なければいけないのだが、
うっかり自宅にスーツを置いてきてしまった。
朝8時。急いで自宅へ取りに帰る。
午後1時、東京駅八重洲口付近の会場で
「JASS現地報告会」が開催される。
司会は、元ベトナム事務所日本語教師の坂本さん
、同じく日本語教師で一児の母親になった森さん。
フエ市人民委員会訪日代表団紹介と挨拶
左から
①JASSベトナム運営委員長(フエ市人民委員会特別スタッフ)
バオミンさん
②中 DUNG(ズン)フエ市共産党委員長
フエ市議会議長
③右 VINH(フエ市人民委員会主席:フエ市長)
フエ市人民委員会訪日代表団を代表して
DUNGフエ市共産党委員長の挨拶
JASS日本代表委員会委員長の稲垣さんの
開会挨拶 稲垣さんも10数年間にベトナム事務所で
日本語教師・ベトナム事務所員として活躍し、
日本へ帰国しても日本サイドから支援を続けてくれている。
会員等の参加者は最終的には50名を超える
この10年間、毎回の受付を引き受けてくれている
原田君。感謝
JASSを代表して私が現地報告会参加者の皆さんにお礼の
挨拶。「子どもの家」等の現状を報告。
続いて、JASSベトナムを代表して運営委員長の
バオミンさんがベトナム事務所での活動、「子どもの家」の
様子など本日の「主題」であるベトナム現地の状況と
課題を報告。20012年年活動報告、2013年活動計画、
2012年の会計報告・予算等のポイントを報告。
今日の「現地報告会」は、総会ではないので、討論や決定を
する場ではない。(JASS会則11条)。
JASSベトナムが現地の状況、活動等を報告し、日本の
支援者の皆さんに知って頂くという「報告会」である。
バオミンさんの「現地報告」の後、「質問・疑問」のある方が
質問や疑問をバオミンさん等「現地」関係者に聞く。
現地の自立の現状、今後の展望、静岡大学との
提携解消に関する私個人に対する批判的な質問など
があり、会場には、私を批判する文書も配布された。
JASSは開かれた会なので会や役員への批判は
大事なこと。
批判的な質疑をしてくれた方、今後のJASSのあり方を
心配してくれている方など、質疑応答に協力して
頂いた方々に心からお礼を申し上げたい。深謝
質疑応答終了後、暫時休憩。
再開後、ベトナム事務所で日本語教師として長年活躍して
くれれていた原田先生の「現地体験報告」。
長い間、ベトナム事務所で活動して頂いたことに心から
感謝している。
続いて各地の会の活動報告
東京の会:バオミンさんに寄金を贈呈
「京滋YOUの会」(京都中心)の報告
ベトナム事務所に寄金の贈呈
栃木の会
昨年の8月に日本料理店支援をした体験を報告
火炎樹の会(茨城の会)
青少年教育の会
現地報告会に続き、JASS日本の役員選出。全員賛成で
役員を選出。
JASS日本の副代表に選出された栃木の会の佐藤先生の
就任あいさつ
ベトナム事務所で日本語教師として活躍した古賀先生と
静岡の中学生時代から「子どもの家」を支援してくれている
Aさん。
午後5時から東京駅八重洲口付近で「懇親会」が
行われた。
司会は、ベトナム事務所で日本語教師として活躍してくれた
石上先生。
従兄弟の武井氏。東京大塚の彼の家で私は生まれた。
東京の会の田中さん・稲垣さん・・・・
長年「子どもの家」を支えてくれているJASS3人娘
ヴィン市長・フエ外国語センター所長と参加者との懇談
午後7時交流会終了。
フエ市人民委員会訪日団と一緒にJRで上野まで。
長い1日が終わる。
今日の「現地報告会」の全ての参加者に感謝したい。
明日は、午前10時発の新幹線で静岡へ。
2013年02月16日
フエ市人民委員会訪日団来日
午前5時起床。
成田空港付近のホテルにて。
昨夜コンビニで買った「おにぎり」1つを食す。
午前7時、ホテルの送迎バスで成田空港第1ターミナルへ。
JASS日本の中村さんと合流。
7時45分着のベトナム機の到着を待つ。
空港には、全教千葉女性部関係の皆さんが
歓迎の出迎えに来てくれていた。
全教千葉女性部関係の皆さんは、10年以上に
わたり毎年「子どもの家」を訪問。子どもたちを
励まし、様々なお楽しみ会」を企画実行してくれている。
ナムドン山岳民族の小学校にも多額の奨学金を
支給してくれている。
全教千葉女性部の皆さんは歓迎の「横断幕」を
ざわざわ作り用紙してくれていた。深謝。
中村友香さんも全教千葉婦人部の皆さんの本当に心の
ある人たちである。寒い朝、遠い成田空港までざわざわ
歓迎の横断幕を用意して出迎えてくれる。
口では何でも言えるが、こうした行動をすることができる
人間に私なりたいものである。
「言うは易し、行うは難し」である。
スカイイライナーで上野まで行くのだが40分程待ち時間が
あったので、空港内の喫茶店で一休み。
気温20度から25度のフエから気温3度程度の成田へやって
来たフエ市人民委員会の皆さんは、さすがに「寒い」と言って
いた。
成田から京成上野まで1時間。午前11時前に京成上野駅へ
到着。投宿するホテルへ行くが、チェックインが午後3時。
中村友香さんの引率で広小路にあるレーメン店へ行き
昼食。その足で、秋葉原の電気街へ。
いくつかのお店を視察し、秋葉原から歩いて上野広小路
まで。30分程かかった。
午後2時前にチェックインをさせてくれたので、訪日さんの
皆さんは、暫時昼寝。私と中村さんは、喫茶店で世間話。
午後4時半。JRで五反田へ。IT企業「ブライセン」本社へ。
ブライセン本社を視察。藤木社長をはじめ幹部のみなさんから
ブライセンの業務内容を詳細に説明してもらう。
ブライセン藤木社長よりフエ市訪問団へ記念品贈呈。
フエ市人民委員会より「フエ焼き」の王宮陶器を贈呈
午後6時半、ブライセン主催の歓迎晩さん会。品川プリンスホテル
にて。
長い1日が終わる。
今日の訪日初日を朝から夜遅くまでお付き合い頂いた
中村さんに感謝。
明日は、現地報告会。多くの会員の方々の参加を
期待している。
就寝は深夜、フエ市人民委員会訪日団と一緒に
上野広小路のビジネスホテルの泊まる。
2013年02月15日
後藤先生と懇談
寒い
午前10時、JR水道橋駅で日本語教師の後藤先生と
落ち合う。
フエ・ベトナム事務所に持って行ってもらいたいいくつかの
物を手渡す。関連する事項について説明する。
後藤先生も元気な様子。
2月15日にフエへ「帰国」する。
その足で地下鉄丸ノ内線に乗り、池袋へ。
ビックカメラへ。携帯電話の充電部分が壊れてしまい、
充電ができない。新しい携帯を買う。子供の持つ
小さい携帯を買おうと思ったが、店員さんから
「それは子供用ですからやめた方がよい」との助言。
陳列されている携帯電話で一番機能がないもの
(電話とメールだけ・・)を中心にさがしてもらい
購入。古い携帯電話内にある電話帳を「移転」した」
もらおうとしたが、古い携帯電話に電気がないと
新しい携帯に電話帳などは、「移転できない」という。
古い携帯に充電する機械があるという。
「AUショッのどこかで持っている」という。
豊島区内・その他を調べても、どこも持っていない。
「お客さんの携帯は古いので、どこにもないです」
とのこと。古いと言っても3年前に買ったもの。
IT業界では「3年」という期間は「過去」のものに
なってしまっているのだ。
「埼玉県でもいいから、充電器をもっているAUショップを
調べてほしい」とお願いする。
2時間程、その場所で立って待つ。既に午後2時過ぎ。
しばらくして店員さんが「すみません、ビックカメラ池袋店
(自分の店)にありました」との何とも間の抜けた返事。
自分の店にどんな機械があるかを店員が知らないとう
。「貴方が自分で充電する部署に行って、充電してください」
とのこと。私が3年前にAUと携帯電話契約をした際、安心
携帯サポートという特約に入っている。毎月400円弱の
支払いをしている。こういう時こそAUの「安心携帯サポート
特約」が生きる時なのだが、全く「AU特約」は意味がなかった。
自分で充電ブースに行き、担当者に充電をお願い。
30分程で充電完了。また、携帯電話売り場に行き、
壊れた携帯の電話帳を新携帯に移転してもらった。
結局、3時間かかってしまった。
こうした体験をしてみて、科学の進歩は人間の退歩に
比例することが分かった。
万一、古い携帯の電話帳が新携帯に移転できない
場合は、私は誰の電話番号も分からないのだ。
JASS日代表も副代表の電話番号も。
申請、息子たちの電話番号も覚えていない。
自分の携帯の電話番号すら知らない。
100%携帯電話の機器に頼っている自分自身の危機を
感じてしまった。
恐ろしいことだ。携帯が壊れたら誰にも電話することができない。
新しい携帯を持っていても「電話番号を1つも知らないのだ」。
情けない現実に直面し、唖然とした。
こうして人間は一層「便利な利器」に頼った生活の大きな波に
飲み込まれていく。そうして本来人間がもっている能力を
ひとつふとお
2013年02月13日
フエ市人民委員会訪日団各種準備
13日未明、東京は雪が降ったようだ。
終日、2月16日朝成田に着くフエ市人民委員会訪日団関連の
諸準備をする。
2013年02月12日
ブライセン関連・歯科医へ
寒い
午前9時から午後2時過ぎまでブライセン関連の
仕事。結構神経を使った。
途中で2月17日の「JASS現地報告会」資料作り等
午後2時半。徒歩で歯科医。
午後3時から1時間超。右下奥歯の詰め物とかぶせ物
を行う。
その他、4か所の軽い虫歯の治療(キーンという削り)
一応、今日で私の口腔の全体的な問題を治療した。
更に問題は、歯茎(はぐき)の低下。
私の歯は、力がありすぎて、硬い物を噛みすぎるので
歯茎などの低下があるという。
確かに堅い「スルメ」「鮭トバ」や「せんべい」などが
大好き。
夜、歯ぎしりが強く「歯茎(はぐき)」を低下させるとのこと。
解決策は夜寝るとき「マウスピース」をした方がいいという。」
早速、「夜寝る時のマウスピース」の型どりをしてもらう。
マウスピースは2月末に出来上がるとのこと。
再度、歯科に行くことになった。
今回の帰国で歯科全体の治療をし、心臓の総合点検、
胃カメラをし、胃の出血が判明(投薬を受ける)、
大腸内視鏡検査を行う。
歯と胃と大腸と心臓。前期高齢者となった人間は、
最低この程度の検診は必要である。
総額8万円程度の費用がかかった。2ヶ月分の給料。
同時に考え方によっては、2ヶ月分の給料で今後更に
何年かは、フエで「子どもの家」や子どもたち、ベトナム事務所
のために「微力」を発揮できるのであれば、幸せなこと。
「物は考え方次第だ」。お金に執着する人生だけは歩みたくない。
胃の出血が判明。辛い物はいけないとの注意を
医師から受ける。ベトナムへ帰ってからは、唐辛子を
止めなければならない。
父親が54歳で脳溢血で亡くなった。朝から1ダースの
ビールを飲んでいた。高血圧で医師からは、脳溢血の
可能性ありとの忠告を受けていたが、「バカ者、飲まないで
何で生きている意味があるか?」などと「暴言」を吐き、
54歳で突然あの世へ行ってしまった。
その後の我が家の苦労は想像できるというもの。
私は父親が残した「死」というものから多くの事を
学んだ。努力して防げる死は防ぎたい。
もう少しベトナムの子どもたちのために生きている
必要がある。
ーー
北朝鮮が核実験を強行した。
アメリカなど核保有国が北朝鮮を非難する資格はない。
北朝鮮の核を雛するのであれば、まずず自らの核を
放棄すべきだ。核保有国が北朝鮮を非難するのは
戦前の「説教強盗」と同じだ。「強盗が強盗にお説教」
をするがごとくだ。全ての国の核兵器保有に反対すべきだ。
我が日本こそ北朝鮮の核実験を非難し、非核の世界を
作る資格を持っている。今こそ、核を持たない国が
核保有国全体に対して核廃絶を言うべきだ、などと
思ってしまう。
北朝鮮は「自分の置かれた位置」が理解できていない。
自分の世界だけで生きている国家だ。
世界の常識を理解できず、世界の人民が北朝鮮を
どう思っているのかも理解できない「金王朝」独裁国家。
これは人間にも当てはまる。自分が見えない人間ほど
みじめな存在はない。自分は当然と思っていることが
北朝鮮と同じで世界の常識からは異常にかけ離れている
という現実を理解できないこの世の人間もいる。
そういう人間にはなりたくなと日頃おもっているが、
私もその一人かも知れない。常時自分自身を点検する
必要があると自戒する毎日である。
2013年02月11日
2月17日現地報告会総括・方針・会計報告
1日かけて「2012年活動の総括」「2013年活動の方針」
2012年・13年会計報告」の総仕上げをして、山西さんに
送る。
途中、何度かフエのバオミンさんに電話をして、会計報告の
数字等を確認してもらう。フエは「テト正月」の真っただ中。
バオミンさんもお正月なのだが、現地報告会へ提案する
総括・方針・会計報告はベトナム事務所の仕事。
申し訳ないが、正月中ではあったが、バオミンさんといくつかの
財政問題で電話で話し合う。
午後、携帯電話が故障したのでAUのお店へ。
今日は、1日、2012年活動の総括、2013年活動方針
(この二つはバオミンさんが原案を書)、財政報告(ハンさん)の
書式、文体などを統一する作業に追われた。
2013年02月10日
2月17日JASS[現地報告会」準備
寒し
終日、2月17日JASS[現地報告会」の諸準備。
午後1時から東京駅八重洲口徒歩数分「あすか会議室」
で行われる。
この19年間のストリートチルドレン・子どもたちへの支援が
どうなっているのかを検証する。
午後3時。NHK教育テレビで「歌舞伎」を見る。
成田屋團十郎の18番「勧進帳」「暫」を見る。
このように様式化してしまうと「歌舞伎」(傾く・かぶく)の
本質からはずれているようには思う。
勧進帳も暫(しばらく)も庶民の勧善懲悪を求める気持ちに
忠実に合致している。強気をくじき、弱気を助ける。
仮名手本忠臣蔵とも一致する思想である。
本来は江戸の庶民の芸だったはずなのだが、現在は
一部の「有閑マダム」の占有物になってしまった。
落語もそうした道を一路邁進している。小さんが
人間国宝になった時点で、落語も歌舞伎・能狂言と同様に
「博物館」に入ってしまった。
非常に忙しい。
フエ市人民委員会訪日団受け入れ準備(日程・ホテル・交通・
静岡市や京都市との連絡・会計・・・)
2月17日現地報告会報告内容の整理
ブライセン関連の準備
その他
この数日は、1日中部屋で文書を読んだり、書いたりの毎日。
2013年02月09日
與芝君・ベトナム事務所後藤先生と会う
晴れ・曇り 非常に寒い。
午前10時、高校同級生でラオスでラム酒を作っている
與芝君が我が家の近くまで車で来てくれる。
西台駅前の喫茶店で2時間程打合せ。
「子どもの家」の職業訓練・日本料理店の自立した子どもたち
のため簡単な仕事を紹介してくれる。
細かい打合せをする。
自宅へ戻り、2月17日「現地報告会」の報告内容の最終チェックを
する。バオミンさん作成の「総括案」「方針案」を精読する。
午後6時前、JASS日本語教師の後藤先生と水道橋駅で会う。
日本料理店の子どもたちの簡単な仕事の材料等を
2月15日のフエ帰国の際にベトナム事務所まで持って行って
もらう。
後藤先生は、東京で高校のクラス会があるという。
偶然だが東京に来ていたので会うことができた。
一時帰国をしていた後藤先生だが、元気な様子を
見て安心。2月26日に再度、フエへ戻り「テト正月」あけの
日本語教師の仕事に復帰する。
改札口の内側(後藤先生)、外側(小山)なので
長い時間話すことはできなかったが、数週間振りに
後藤先生の元気な顔を見て一安心。また、フエで
頑張ってもらいたい。
2013年02月08日
2月17日「現地報告会」の諸準備
寒い
午前中、20通の受信メールへの返信。
午後、2月17日「現地報告会」に提案する議案の
整理。今年から「総括」と「方針」の原案は、
バオミン・JASSベトナム運営委員長が起案。
バオミンさんと2回、税田さんと1回電話で打合せ。
今後のベトナムでの諸活動について。
一時帰国している日本人スタッフのベトナム再入国
ビザの件で本人と電話。引き続きバオミンさんと電話、
ピースインツアーと電話、
その他、いくつかの仕事を行う。
ニュージーランドのREDDYさんと電話で話す。
90歳近くになるが元気な声を聞けて安心した。
私と話ができて嬉し、泣けてきたと言って
しばらく泣いていた。
REDDYさんとの付き合いは、1987年10月に
新幹線で隣り合わせになったのが出会い。
その後、次男の高校時代2年間、REDDYさんが
親になり地元のBOYS COLLEGEに留学。
長男・次男もREDDYさん主催でニュージランドで
結婚式をした。
私がベトナムに行った動機の一つを作ってくれたのも
REDDYさんであった。長生きしてほしい。
孫から電話。人生を語り合う。
2013年02月07日
池袋へ新幹線等の切符を買いに行く
今日は、そんなに寒くはなかった。
2月16日から訪日するフエ市人民委員会訪日団の
受け入れ準備が最終章に近づいて来た。
ホテル・飛行機などの準備を終え、今日は、新幹線などの
切符をかった。
東京→静岡→京都→関西空港
ベトナムの皆さんは大きなスーツケースを持っている
いるので、新幹線等の座席を「一番前」か「一番後ろ」
にしてもらった。座席の後ろに大きなスーツケースが
おけるように。全ての切符を買う。15万円。
その後、いくつかの仕事で関係者に電話。
読書「アメリカ黒人の歴史」(本田創造著:岩波新書)
1964年出版。しかし、古さを感じない内容。
イギリスとアメリカがどのような趣旨と手段で
アフリカの黒人(奴隷)を連れてきたか?
奴隷の生活と歴史、奴隷解放闘争の歴史を
追う。今まで知らなかったことがたくさんあった。
明治維新の少し前位から「奴隷解放闘争」
が始まる。
黒人(ニグロ)の定義は、一滴でも黒人の血が
混じっているいると「黒人」と認定するとあり、
驚いた。
2013年02月06日
ブライセン本社訪問
早朝雪 終日非常に寒い
乾燥肌のため、体中がかゆくてしかたがない。
午前中、2月17日「現地報告会」提案の総括・方針原案
(バオミンさん作成)を仕上げる。
午後、現地報告会関連の諸文書を作成。
午後4時、自宅を出て山手線で五反田へ。
ブライセン本社。
ベトナム担当部長のKさんと懇談。
社長は、親戚の方の急病で欠席。
2時間程、ブライセン・ベトナム支社の運営等を話し合う。
具体的な当面の諸問題だけではなく、近未来に向けた
構想についても懇談する。私の方からは、特に「ベトナム人の
気質」「ベトナム社会主義社会の中での活動の留意点」など
を具体的に話す。「子どもの家」出身の子どもたちが3人
働いているブライセンである。ブライセン支援も「子どもの家」・
子どもたち支援というJASSの目標を具体化する活動である。
その後、Kさん行きつけの「日本酒専門」の民家風居酒屋へ。
K部長は私の息子より少し年下。しかし、なかなか人間の
できている人である。とかく「IT会社」のスタッフは、
機械好き人間が多いようだが、K部長は人間と人間との
複雑な関係をうまく調整る力を持っている。今日の
日本という社会では、必要な人材である。
今の日本社会は人間の精神的な「ゆとり」をなくし、
自分が気に入らないと直ぐに喧嘩腰で相手をなじる傾向が
ある。相手をなじる前に「自分を冷静に分析する」精神的な
余裕を持手ばよいのになどと常日頃思っていた。
K部長は、そんな日本社会の中では、柔軟な思考を持ち、
複雑かつ扱いにくい「人間」というものを良く理解している。
複雑な人間関係をうまく「解きほぐしていく」稀な力を持っている
ように感じた。
日本酒居酒屋で何種類かの純米大吟醸などを飲んだが、
どの銘柄もおいしかった。店主の方も脱サラし、自分で
毎朝河岸に鮮魚を買出しに行っているとのこと。
しめサバとさし盛りを食べたが、しめ鯖が本当に上手に
〆てあった。美味しい生ものをつまみに飲む日本酒は
最高である。良い一晩を過ごさせてもらった痛飲。
2013年02月05日
高校クラス会のような会の「分派会議」
晴れ。寒い。
朝から10時位まで火炎樹日記記載。多数のメールへの
返信。
午前11時、自宅を出て巣鴨へ。巣鴨の某店で
ラオスでラム酒を作っているY君・S君・東大G君・
文筆業K君と「人生を語り合う会」を行う。
来し方・行く末について皆さんと話し合う。
某君が今朝、「前立腺肥大」の治療を受けた話を
皆で聞く。切実身のある話である。
午後2時半まで様々な話をする。
何も気兼ねをしないこの種の会合は本当に楽しい。
同じ高校・同じクラスで3年間を過ごし、同時代の
空気を吸って今日まで生きてきた仲間。
細かい説明をしなくて全てが分かり合える人間関係は
本当に楽である。
その後、巣鴨のお地蔵さん(年寄りの原宿)にある
台湾料屋へ。紹興酒を温めて飲む。皮蛋(ピータン)
と豆腐の料理が美味しかった。
午後3時半過ぎ、近くの巣鴨のお地蔵さんへ。
2名は何かお祈りをしていた。何を願掛けしていたのか?
は不明。
私は家族の健康と某孫のスキーと健康、学習の向上を
祈る。
2013年02月04日
フエ市人民委員会訪日団日程等精査
少し風邪気味
終日、フエ市人民委員会訪日団(8名)の東京→静岡→
京都等への新幹線等の切符の手配、ホテルの手配などを
行う。
全体的な日程がうまく進むか「シュミレーション」をしてみる。
いくつか無理な点、不明な点、未計画な点があり、更に
詰めることにする。
約10日間の日本滞在中、訪問団が安心して過ごせるよう
細かい点をチェックする。
今後、訪問団の計画が未定(訪問団が決めていない)の
部分を早急に決めてもらうことにする。
ブライセン本社と何度か電話で打合せ。
午後4時、「歯科医」へ。右下奥歯の「銀のかぶせもの」を取り、
奥歯の中の「詰め物」を取り除き、仮の「詰め物」を入れ、
仮の「かぶせもの」を作り、1週間後に正式な詰め物と
かぶせものを詰めることになっている。
今日の治療は1時間半。結構長かった。
2013年02月03日
元日本料理店長 リー君、泥棒を捕まえる(注)リー君が逮捕されたのではない)
フエ・インターネット新聞に掲載されたリー君の記事
バンド演奏者がバイクのサドル下の物入れをこじ開ける
2013年1月31日
フエ市の警察によると、1月30日、ティエウ・フォン、クアン・チー省、ティエウ・フオン地区、ティエウ・ロン村に住んでいるドー・ティエン・バオ(1987年生れ)を逮捕。現在、強盗容疑を認め、自供を始めている。
1月29日にバオ容疑者はクアンチ省からバイクでフエに遊びに来た。11時ごろフエ市のファム・ヴアン・ドン通りにあるトゥア・ティエン・フエ省立建設会社に侵入、だれもいないことを見届け、たくさんのバイクの物入れ(鍵がかかっている椅子の部分)をこじ開け、現金300万ドンや銀行の通帳、キャッシュカードを盗む。また、グエン・ティー・トゥイ・フンさんの財布も盗んだ。
バオ容疑者の行動の一部始終は、会社の防犯カメラに鮮明に残っていた。その日の午後、フエ市民のフンさんがバー・チエウ通りを歩いている時にバオ容疑者をみつけ、大声で叫び、近くにいた人たち(これがリー君)と協力をしてバオ容疑者を捕まえ、警察が逮捕した。バオ容疑者は現在、警察で強盗をした事実を供述している。
タイ・ビン記者
以下、リー君の言
『自分たちが犯人を捕まえ、警察に電話をした』
『その間、犯人は「どうして?どうして?」と言っていた』
ーーーーー
リー君とは1993年9月からの付き合い。約20年の
付き合いである。現在25歳。5歳の頃は、弟と一緒に
路上で寝ていた。「泥棒」「かっぱらい」「盗み」「脅し」
「放火」「麻薬の運び人」などなど、「悪いに悪いを
重ねて」来た人間である。8歳か9歳で「子どもの家」へ
入所。6年ほど「子どもの家」へ在籍し小学校へ通う。
小学校の成績は、日本流に言えば「オール5」。
頭の回転が速い。その後、「子どもの家」を勝手に
退所し ホーチミン市でやくざの手先になり、様々な
「仕事」をした。
その後、フエに帰り、日本料理店店長として活躍したが
数年前に突然退職を通告してくる。
最近は、また、日本料理店で働きたい、小山先生と
一緒に仕事をしたいと言って来ている。
こうした人生を過ごしたリー君が、泥棒を捕まえ、
警察に連絡。警察署長から表彰状と金一封(約1万3千円)
をもらうとのこと。
こうしてJASSと20年間付き合い、「悪に悪を重ねた」
人間が、警察署長に表彰され、金一封をもらうという
ようになったことを喜びたい。
これで人間が変わったなどと単純には思えないが、
それでも「良いこと」をしていこう、真面目に働こうとの
気持ちが強くなってきたことも事実である。
昨年の11月頃からは、毎週日曜や空いている時には
リー君から「先生飲みましょう」との電話がかかり、
最近は良く飲んでいた。
その際、私は繰り返しリー君に次のようなことを
言っていた。
小山
「リー君は良く彼女を連れてくるが、いつも結婚までは
いかない。その理由をどう思っているの?」
リー君
「わからない」
小山
「女性は、将来の生活を考えるよ。リー君の今の生活は
その日暮らしの生活。ある日はお金がたくさん入るが
ある日は一銭も入らない。非常に不安定な生活だ。
女性は、不安定な生活をする男性とは、結婚しないよ。
今のオートバイの警備は収入が不安定。2月は1か月間
お金が入らない。そんな生活を改め、給料は安くても良いから
決まった収入の生活をするように」
リー君は昨年から徐々に「決まった収入の生活をしたい」
という気持ちになって来たようだ。
日本料理店のスタッフに、「俺は、日本料理店で仕事をする」
と話しているようだ。諸事情でそう簡単に日本料理店で仕事は
できないのだが・・・・・。
毎日のように日本料理店前の昼「喫茶店」、夜「大衆酒場」
に来ている。そこで日本料理店のスタッフの仕事ぶりを
つぶさに観察しているようだ。
先日は、日本料理店唯一の男性スタッフ「HIEP君」
(「子どもの家」在住)が日本料理店前に自転車を置いていた。
泥棒がHIEP君の自転車の鍵を器具で壊し、自転車を
盗もうとしたところをを見つけ、泥棒は逃げていった。
25歳になり、リー君は「大きな人生の転機」を迎えている
ようだ。
なんとか真っ当な仕事をし、幸せな家庭を築いて欲しい。
HIEP君の自転車泥棒を見つけたり、インターネット新聞
に泥棒捕縛で警察署長から表彰と「善行」を重ねるように
なった。20年前とは大きく「様変わり」をした。
近いうちにリー君の人生に大きな転機が来るように
JASSとしても支援をしていきたい。
子どもたちを育てるということは、本当に「忍耐」と
「長い年月」が必要なのである。リー君というたった
一人の人間を一人前に育てるのにも、私たちは
20年という長い長い年月を過ごしてきた。
リー君が幸せな人生を迎えられるように、リー君や
「子どもの家」の子どもたちに親身に「寄り添い」
本当の自立に向けて更に微力を尽くして行きたい。
=======================
終日、2月17日「現地報告会」の提案内容(バオミンさん素案)
を検討する。
「現地報告会」
(日時)2013年2月17日(日)午後1時~午後5時
(場所)「あすか会議室」(東京駅八重洲口)
ダイヤ八重洲口ビル3階、303号室
(電話)03-3233-1207
(行き方)JR「東京駅」八重洲中央口 徒歩2分
(内容)2012年活動の総括
2013年活動方針
会計報告
JASS日本役員選出
2013年02月02日
久しぶりに自宅で仕事
寒い
今日は40通ほどのメールが来ている。
1日かけて返信をする。
1月15日に帰国し、体の精密検査を1週間ほど行う。
2回の葬儀(通夜・告別式)に参列。
久しぶりに自宅で仕事。
寒いので「朝風呂」に入る。体を温めないと寒くて
部屋にいられない。
様々な方々から大量のメールが来る。一人一人のメールを
読ませて頂き、丁寧に(自分としては)返事を書く。
バオミンさんと電話。
夜、税田さんと電話でいくつかの打合せ。
テレビ関係者から取材の電話。その後、メールあり。
郵便局から郵便物が届くが、家族不在だったため
再度持って行くとの紙が置いてあった。
郵便局に電話をし、申し訳ないので私が郵便局の
本局まで取りに行きますと打合せをする。
自宅を出て往復1時間をかけて高島平郵便局の
本局へ行き、郵便物をもらう。
自宅へ帰ると「洟水(はなみず)」が出る。体がだるい。
風邪(インフエンザ)を引いたようだ。
午後、布団に入り横になり、しばらく寝る。
妻は、障害児施設の仕事に出かけている。
週に数回。
ベトナム事務所・バオミンさん・税田さん・ブライセン・
昔の職場の人・・・・・・、様々なみなさんからの
メール等の連絡はありがたい。人との結びつきが
あることを改めて感ずる。
ーーー
日本へ帰国し、テレビ・新聞を読む。
「体罰」問題が大きな問題になっている。
体罰というから何か教育的なもののように思われるが、
「暴力・暴行」とはっきり言うべきだ。
学校関係者や親の中には、暴行である「体罰」を容認する
風潮がある。
体罰を行った教師は、「暴行罪」で直ちに拘束すべきである。
一般社会で人を殴ったり、人を押したおしたり、蹴飛ばしたり
したら、暴行罪で直ぐに逮捕されるのに学校の中では
日本国憲法も刑事訴訟法も通用しないという異常な
日本国である。
マスコミに出る「コメンテーター」の能力も低い。
大半のコメンテーターは「行き過ぎた指導」と言っていた。
行き過ぎた指導ではけしてない。明白な「暴行」なのだ。
人間を家畜のように扱う「スポーツ系」の人間の知的水準に
唖然とする。
私が「スポーツ」の世界が大嫌いになったのは、高校時代だった。
中学の時、板橋区中学校連合陸上大会に参加した。
400メートルのリレーのアンカーだった。
私の中学校は、陸上部の選手を優先させて「連合陸上記録会」に
出させることはしなかった。
全校生徒を対象に「予選会」を行った。何故か知らないが、
我がクラスで「小山は予選会にでろ」との推薦を学級会で
決められてしまい、嫌々ながら予選会にでた。
そしてなぜか予選会で一番早かったので、中学代表の
リレーのアンカーになり、板橋区で2位の成績となった。
高校に入り、自然に都立S高校という変わった高校の
陸上部に入った。
都立S高校は多分、当時の都立高校では一番民主的な
高校の一つだったと」思う。
陸上部にはいったのだが、何故か1年8組(我がクラス)の
級友が5人程陸上部に入部した。
我が陸上部は顧問の先生はいるのだが、一切、校庭に
出て来ての指導はしない。練習は、自分で考え、自分で
計画を立てて、行うという方式だった。練習での様々な
問題は、陸上部先輩や同級生が直してくれたりした。
先輩・後輩という関係もなかった。みんな平等。先輩は
威張るなどということもなく、先輩が経験を持っていたら
「ここはこうした方が良い」などと口や行動で見本を見せて
くれた。
私は短距離をしていたが、途中で先輩が「砲丸投げを
しないか?」と声をかけてくれた。砲丸投げなどしたことは
一度もないが、面白うそうなので砲丸投げに挑戦した
のだが、砲丸投げを経験した人が誰もいない。
先輩に相談したら「図書館に行き、何かの本に砲丸投げの
事が書かれているものがあるかもしれないので、本を
読んで自分で勉強したら…・」と言われる。
こんなことを書くと「お前の高校の陸上部は遊びクラブだろう?」
などと思われるが、3年生には、東京都の100メートル高校
記録(11秒1)をもっている人もいた。
中学時代中距離の「放送陸上」で東京都のトップクラスに
いたクラブ仲間もいた。決して陸上を単なる遊びにしてた
陸上部でもなかった。
学校全体・先生・先輩も含め、「自分の練習は自分で考え
工夫して練習する」という基本的な考え方だった。
1年生で高体連の東京都予選にでた。
この予選会には、東京の私立・公立高校の陸上部の
ほとんが参加した。
私立の高校は全国から陸上の記録の良い選手を集めて
いた。
大会が始まり、自分の出場種目に出るために「待合場所」に
行った。6人1組に並んで座り、待っている。
所が「高体連」の役員の先生たちが、かたっぱしから
並んでいる高校を「ぶんなぐる」のだ。私は驚いた。
何も悪いことをしていない人間を平然と殴る「強豪高校
陸上部の監督・指導者の先生たち」に憎悪を感じた。
その頃「真空地帯」(野間宏著)を読んでいた。
高体連東京都予選会の役員の先生たちの暴力行為は
「真空地帯」にある「新兵教育」や理不尽な暴力が横行した
軍隊と全く同じだった。
それ以来、私はスポーツの社会そのものを嫌悪するように
なった。どんなスポーツ(野球は好きだった)も一切しない
という態度を今日まで貫いている。根性という言葉も
嫌いだ。知性と理屈でスポーツは行うものだ。
日本のスポーツの社会に色濃く残っている「暴力」体質は
戦前の教育を清算していない学校分野の残滓だ。
戦後になっても学校には「日直」「週番」などということばが
残っていた。野間宏の「真空地帯」を読むと「週番士官」
とか「日直当番」という言葉が出てくる。新兵教育の兵舎の
中で使われた「軍隊用語」だ。そうしたことばを色濃く残した
日本の戦後教育は、未だに軍隊教育をそのスポーツ界に
残している。「殴れば人間は良くなる、理解する」という
軍隊精神が残っているともいえる。
テレビのインタヴューなどでは、親や子どもたちまでが
「体罰(暴行)」を「必要悪」として認める発言をしている。
一般会社で営業のノルマが上がらない社員に「体罰」と
して、ビンタを食らわせたら、直ちに暴行罪で逮捕される。
何故、学校だけが「暴力の聖域」なのだろうか?
現在の学校は
①成績至上主義(全国大会にでるなどは成績が良いことになる)
②結果主義(努力は認められず、結果ですべてを判断する)
③実績主義
の「3主義」が、学校を席巻している。これは文部省・教育委員会
などが指導しているのである。
板橋区出身の下村文部大臣は、他人事のように「成績至上主義」
「優勝至上主義」などを批判するかのような発言をしているが、
今の学校の校長も教員も「3主義」という「悪魔」に悩まされて
いるのだ。発祥地は文部省・文部大臣だ。
教育は結果ではなく「過程」が大事な営みである。
様々な失敗・努力を重ねることが、大人になってからの
生きる糧になるのだ。優勝や全国大会にでることを
至上命題にする「結果主義」は、学校を荒廃させる。
学校から体罰(暴行)が消えないのは、行政(文部省)が
そうせざるをえなう指導を繰り返している結果でもある。
学校の中で「たった一人の先生でもいいから、暴力はいけない」
と立ち上がる先生はいないのか?
JOCも柔道連盟も文部省も一連托生の「暴力容認」グループだ。
体罰(暴行)は教育と相反する蛮行だということを理解しなければ
いけないと思っている。
ベトナムでストリートチルドレンを受け入れ、育てる過程は
まさに教育の原点でもある。忍耐強く子どもたちに接し、
暴力ではけして子どもたちは育たないことを教えている。
ストリートチルドレンを暴力で指導した途端に彼等は
どこかへ逃げていってしまう。「愛情」と「粘り強さ」が
必要であり、それらは指導者の人間性を高める所から
始まるのだ。指導者の人間性が高まらずに
指導するからこそ、「暴力・暴行」「パワハラ」に頼らざるを
得ないのである。
日本の柔道界を含めたスポーツ界の指導者の
知的水準が低い所を改め、スポーツとは何であるのか?
を改めて学ぶ必要がある。
暴力からは何も生まれない。指導者自身の「無能」を露呈する
だけだ。暴力で人間を育てようとする指導者は人間を
家畜としか見ていない。愛のむちなどというものではない。
「行き過ぎた指導」ではなく、「暴行指導」「教育とは相いれない
もの」との国民的な合意が必要である。
などと考えているうちに「眠く」なってしまった。