« 2012年12月 | メイン | 2013年02月 »
2013年01月31日
平野信子さん告別式
2013年ベトナム事務所のテト休み
2月5日(火)~2月15日(金)
この期間は、ベトナム事務所を閉鎖致します。
皆様方には大変ご迷惑をおかけいたしますが、
ご了承ください。
尚、個々人のベトナム事務所スタッフのメールへの
送信は可能ですので・・・・。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
午前8時半に自宅を出て、西台→巣鴨→西日暮里→西新井
大師西駅」へ。
仲人の平野信子さん(82歳)の告別式に列席。
午前10時から始まる。
禅宗の葬儀。時々「喝」などと導師はいう。
親戚7人、一般参加者13人という少し寂しい告別式であった。
告別式では、喪主(長男・次男の二人)の挨拶があった。
始めに長男の挨拶。
平野信子さんは、文京区動坂の米屋で生まれ、小学校の
教員となる。東京都北区稲田小学校(赤羽付近)の教員と
なる。同じ学校に平野皓二氏も勤務していた。同僚として
尊敬しあい結婚。二人の男の子を儲ける。
次男からは、信子さんの臨終の様子が話された。
足の血管が梗塞しているということで、一週間程度の
入院という話で入院した。しかし、治療をしている間に
軽い脳梗塞を起こす。腎不全を併発。人工透析を行うが
20分程で透析に耐えられず中止。
数日後に再度「人工透析」を行うが5分程で中止し
臨終を迎えたとのこと。
亡くなるまで意識があり、息子さん二人が手を握ると
握り返してきたとのこと。
遺影は最初に教えた子供たち(現在70歳近い)との
同窓会の時の写真とのこと。
私個人として生花を出した。生花を出した人をこのような
看板に表示する方法もあることを知る。
午後12時で告別式終了。
続いて火葬場へ。火葬場へ行く人数が少ないようなので
私も同行させてもらう。
車で20分程の火葬場へ。
約1時間待機。
その後、葬祭場へ再度帰り、精進落としをする。
平野先生の兄弟姉妹も一人を残して既に物故。
奥さんの信子さんの兄弟姉妹も一人を残して物故している。
精進落としの献杯は、信子さんの弟さんの発声。
精進落としの会場には、平野夫妻、特に信子さんの子供時代
からの写真が「大型テレビ」のモニターに映される。
平野ご夫妻の20歳代頃からの人生が良くわかった。
最終的に精進落としの会は午後3時半終了。
午後5時過ぎ、自宅着。
メールを開くと36通。全て開けず、取り急ぎ返事を
送らなければならないメールに限り、返信する。
残りは明日へ。
平野信子さんの人生を考えた。人間の一生は長いのか
短いのか? 私の20歳代の頃には何度となく平野夫妻の
お宅へ伺い、御馳走になった。40年前のことである。
40年、50年という年月は長いようで短いと改めて
思った。
2013年01月30日
平野先生の奥さん信子先生のお通夜
太陽が出てそれなりに暖かいが、やはり寒い。
午前中から午後にかけてフエ市人民委員会訪日団の
東京ー静岡ー京都等のホテルの予約・その他の諸準備を
する。
京都のFさんに電話。いくつかの件で話し合う。
午後、銀行へ。里親会費担当の渡辺さんからメールあり。
里親会費を私の銀行口座に振り込んだとのこと。
この所、忙しくて銀行へ行く時間がなかった。
銀行へ行き、入金を引き出す。行員は、私に
「振り込め詐欺に注意」のチラシをくれる。
私は、「この振り込め詐欺注意のチラシは、全員に渡して
いるのですか?」とお金を渡してくれた女子行員に聞いてみる。
何となく返事が「あいまい」。はっきり言えば良いのにと思った。
「高齢者で騙されそうな抜けた顔をしている感じの人」を中心に
渡しています、と。
夕方家を出て、日暮里経由「舎人ライナー」で西新井大師西」へ。
徒歩数分の葬祭場へ。
JASS第3代目の代表であり、新任教員の私の学校の
先生でもあり、私の仲人でもあった平野皓二先生の
奥さんが亡くなられた。82歳。
長男が喪主。長男は私が昔平野先生のお宅へ遊びに
行っていた頃は、生まれたばかりの子だった。
月日の流れは速いものである。
私が新卒で就職した学校の当時の同僚の先生たちが
来ていた。既に70歳を超えている。
40数年前。私は23歳、ほかの男性の先生は30歳代
だった。
午後9時過ぎ通夜終了。
私は皆さんと20数年ぶりに会った。
久しぶりの邂逅。皆で飲みに行く。結局、午後11時半まで
日暮里の駅前で飲む。
2013年JASSベトナム事務所のテト休み
2月5日(火)から2月15日(金)です。
この期間はベトナム事務所閉鎖をします。
ご迷惑をおかけいたしますが、ご了承ください。
帰宅午前0時半。
明日の告別式は午前10時から。色々とお世話になった
方である。せめて通夜と告別式には参加列したい。
明日も日暮里から舎人ライナーで西新井の葬祭場へ行き
告別式に参加の予定。
2013年01月29日
歯科医院通院
午前中をかけて「歯科総合検査」を行う。
レントゲンを撮り、一本一本の歯の状態をチェックする。
更に「歯垢除去」の施術を行う。
軽い虫歯が4本ほど。
神経を取らないまま奥歯の治療を行った所が、
相当いたんでいるとのこと。
これから2回にわたり、治療をすることになる。
私の時間の都合で2月初旬に2日間通院する。
今回は胃・大腸・心臓。そして、今日、歯の総合検査を
行った。歯は治療が必要とのことなので、今回の
日本の滞在中にしっかりと治療してフエへ帰国したいと
思っている。
午後、高島平団地まで往復1時間のウオーキング。
バオミンさんと2回、電話で当面の課題について打合せを
する。
ブライセン本社から何度かメール。電話で打ち合わせ。
2月16日から訪日する「フエ市人民委員会訪日団(7人)」
の成田空港出迎えから関空から帰国までの全日程の
総合的な調整を行う。
京都市とフエ市との間で「パートナー都市協定」締結式を
行う。
2013年01月28日
ベトナム事務所と連絡
JASS第3代代表 平野皓二先生の奥さんが
お亡くなりになり、その関係で友人等との連絡で一日が
終始した。
夜、バオミンさんと二度ほど電話で重要案件について打合せ。
バオミンさんとブライセンのKさんとの仕事が無事終わり
ほっとしている。ブライセンKさんの仕事には誠意があり
段取りが社会通念に従った順当なものなので安心して
一緒に仕事ができる。
明日は、平野先生の奥さんのお通夜へ。
寒い。
今日は30通のメール受信があり、返信するだけで
半日かかった。
2013年01月27日
静岡→東京→上野
快晴
午前8時半起床。
多数のメール受信・返信。
気が付くと静岡駅前ホテルの朝食期限の午前10時を
過ぎてしまっていた。
朝食を摂らないまま、新幹線(ひかり)で静岡駅から
東京駅へ。午前11時半頃、東京駅着。
途中、富士山がきれいに見えた。珍しく、富士山頂に
雲がかかっていなかった。
その足で上野まで。
先週1週間は、胃や腸などの内視鏡検査、心臓の検査と
結構忙しかった。胃腸関係の検査時はアルコールは禁止。
一応、胃腸・心臓関連の検査では大きな疾病はなかった。
今まで1日3回4錠程の心臓の薬を飲んでいたが、今度の
胃腸関連の検査で更に4つほどの錠剤を常飲することに
なった。胃腸関係の薬は、食前・食後・就寝前というやっかい
もの。心臓の薬と胃腸の薬を正しく飲むのは不可能と思われる
ほど複雑。
という訳で先週の検査明けと静岡出張という仕事を終え、
「快気祝い」「検査ご苦労さん祝い」をしなければならないが
どこからも声がかからないので、「一人」で行う。
上野アメ横の「大統領」へ。大統領では、「くさや」が
食べられる。また、豆腐の煮込みもおいしい。
40年ほど続く大統領という店のオーナー。
検査明けなのでほんの「なめる程度」に少し飲んだ。
その後、根津の姉の家へ、久しぶりの挨拶。
夕方まで根津の姉夫婦・娘夫婦と懇談。
無理にビールを飲まされる。何度も断ったのだが
缶ビールを3本ほど飲む。(美味しい)
ーーー
JASSの第3代目代表の「平野皓二先生」の奥さんが
亡くなられた。
1月30日お通夜・31日告別式。
20代の頃、お宅へ遊びに行きお世話になった。
心からお悔やみ申し上げたい。
お通夜(P6)・告別式に出席予定。
式場は 西新井会館(日暮里舎人ライナー
西新井大師」西口徒歩3分。
2013年01月26日
故木村百合子さんのご両親を訪問
午前11時発の新幹線で静岡駅へ。
静岡の会事務局長の笠井夫妻と昼食。
旧東海道(思ったより狭い道だった)に
ある美味しい蕎麦屋さんへ。
笠井さんの車に乗せてもらい笠井夫妻と一緒に
2時間弱で静岡県磐田市にある故木村頼子さん宅へ。
木村百合子さんは、静岡県磐田市立小学校の新任
教員であったが、困難な学級を受け持つ中で
悪戦苦闘。校長・教頭・研修主任などの「心無い暴言」
もあり、新任5ヶ月弱で24年間の短い人生を
自ら断ったという悲しい出来事があった。
ご両親は娘さんの百合子さんの「自死」は教育と
職務を遂行中に起こった「公務災害」であるとの
申請を行ったが、静岡県等の「公務災害基金」側は、
本人の生得的な気質が原因での自死として
「公務災害」であることを拒否・否定。
木村百合子さんのご両親は、不当とのことで裁判に
訴え、昨年東京高等裁判所で「木村百合子さんは
公務が原因での自死」との判決がで、確定。
今回、木村ご夫妻からベトナムの「子どもの家」を支える会
(JASS)へ寄付金をくださるとのことで、お宅まで伺う。
大金をJASSへ寄付していただく。心から感謝。
子どもたちのために使わせていただくことを誓う。
寄金で「フエ市の大学へ通う大学生の寮」を作る。
更に頂いた寄付金で「子どもの家」の子どもたち3人程の
里親として木村百合子さんの名前を残す、ような活動に
寄金を使わせていただくことを説明。ご両親の了解も
頂く。
2時間程木村邸にお邪魔し、笠井さんの運転で
静岡市の私が投宿するホテルへ。
1時間程ホテルで休憩し、午後6時頃から
JASS静岡の会の皆さんと夕食交流会を行う。
2013年01月25日
心臓病院精密検査
寒い
午前6時起床。入浴。
午前8時半自宅を出て、新宿のNSビルへ。
心臓病病院へ。
午前10時過ぎ、昨日、心臓エコー、レントゲン、心電図
などをもとにしての最終検査。
医師は、大きな問題はないとのこと。
安心した。
今日は午前11時に「歯科総合検査」を予定していたが、
心臓を優先した。
歯科医院へ電話。午後、歯科医院へ行けるか聞くが
予約が満杯で無理とのこと。
明日は、静岡の会の笠井さんと一緒に木村百合子さんの
お宅へ行く。
来週、時間を見て、歯科医院へ行くことにした。
今週一週間は、病院で健康診断。胃、大腸、心臓。
どの部位も無理をしているので、問題を抱えてはいるが
何とか「安定」した状態にしたい。
2013年01月24日
心臓病院へ
午前9時自宅を出て地下鉄「春日」→「都庁前」。
NSビルへ。
10時半の予約。10年ほどお付き合い頂いている先生の
診療。フエにいて時々、心臓上部がチクチク痛い。
胸全体が痛くなる、と症状を話す。
心電図、心臓エコー、レントゲン、血液採取を行う。
私jの心臓の「異常」を検分できる専門の医師が
明日来るので、その先生に診てもらった方が良いとのこと。
直ぐにその先生の予約を取ってくれる。
ということで明日、午前10時に再度、都庁前のNSビルにある
クリニックに行く。
午前10時から始まり、午後12時に終わる。
いつもの心臓の薬ももらう。15000円の支払い。
これが高いのか安いのかは、価値観によっても
違うと思う。
地下鉄で自宅へ帰る。午後2時。
4つの検査をするとやはり疲れる。1時間程横になる。
午後3時半、自宅を出て、先日行った「板橋社会保険事務所」へ
年金の申請を行う。申請書には記入要綱を熟読しきちんと記入。
必要な添付書類・身分証明書・戸籍謄本・・・・・なもしっかりと
準備していった。15分程で「申請終了」。
今週は1週間、医者通いだ。
バオミンさんから数通の大事なメールが来る。返事。
税田さんからもメールあり。
今日は疲れた。少し早目に寝る。
2013年01月23日
腸内視鏡検査へ
午前7時起床。
午後3時からの腸内視鏡検査のため、午前8時から10時
までの2時間の間に「下剤」を入れた水2リットルを飲まなけれ
ならない。2リットルの薬液がなかなか飲めない。
苦闘して1リットル程度飲んだ頃に「トイレ」へ。
更に頑張って残りの1リットルを無理して飲む。
午後12時過ぎまでに10回程度トイレに通う。
今日は絶食。
午後2時半、病院へ。
午後3時、検査衣に着替える。
左手に「点滴」、痛み止めも注入。
看護婦さんなど丁寧に検査の準備をしてくれる。
ありがたいことである。
その後、肛門から腸内に小指態度の太さの
カメラを挿入。約40分程度の時間をかけて
腸内を検査。
もしポリープなどがあれば、その場で簡単な手術をし
取ってしまう。その場合には、1日か2日程度入院する。
今日は、万一ポリープなどがあり手術し、取ってしまった場合は
入院する手はずになっていた。
検査技師さんは、一昨日の胃カメラの方。丁寧に説明しながら
腸内の映像を私の目の前にあるテレビモニターに投影し、
説明してくれる。
自分の腸内を見るという機会はなかなかないので、興味深く
我が肛門から腸内各所の様子を見る。
腸内の色は様々な色彩であった。腸内にカメラが挿入され、
進入していく毎に多少の痛みは感ずるが、我慢できない
程ではない。
40分程の検査を終え、特に問題はないとのことで安心した。
検査の際、痛み止め(軽い睡眠薬なのかも知れないが・・)
を点滴に入れて安定を保っていたので、検査終了後、
別室に行き、点滴が終わるまで1時間程ベッドで安静に
した。
21日(月)の胃カメラ、23日(水)の腸内視鏡検査と
大きな問題がなかったので安心した。
胃カメラと腸内視鏡検査のために1月20日から23日の
4日間、食事等でかなり生活に支障があった。
明日は、心臓(狭心症)のチェックのため新宿の病院へ。
明後日は、10年ほど通っている歯科医に行き
歯の総合検査をする。
こうして今回の日本への帰国の冒頭から約1週間は
病院通いをした。異常を感ずる自覚症状があった「胃」
は、想像通り「若干の異常があった」ので、今後の
食生活、特に飲酒・ストレス・唐辛子などについて、
具体的な改善策を立てようと思っている。胃がんではなかった
のでホットしている。
自覚症状のない「大腸がん」が一番怖い。
今日の腸内視鏡検査で特に問題ないとの結論なので
安心。今後3年たったら再度「腸内視鏡検査」をする予定。
私は、この種の検査が一番嫌いなのだ。
私の生き方として「嫌いなことから逃げずに、第1にする」
というポリシーを勝手に確立している。
また、私が病気で入院したり、いなくなった場合、現時点では
ベトナム事務所のみなさん、子どもたちなどに迷惑をかける
という気持ちも大きい。できるだけ他人に迷惑をおかけしたくない。
それでも他人に相当迷惑をかけて生きている自分自身を自覚
している。
胃カメラ・腸内視鏡の検査技師の先生、看護婦さんに感謝している。
明日の心臓病通院もフエで自覚症状があった。
心臓がチクチク痛くなったり、心臓が押されるように
痛いことがフエであった。明日の診断が心配だ。
4日間ほど検査のため、食事をかなり制限された。
今日の夕食。飲酒をする気持ちになれなかった。残念。
食事も通常の半分程度も食べられなかった。
胃が小さくなってしまったのか?
この4日間で相当体力が消耗している。診療疲れ。
2013年01月22日
高校のクラス会のような会
寒い
明日、大腸内視鏡検査をする。
大腸を完全に「空」にし、カメラで大腸内を撮影。
ガンやポリープを見つけ、必要な場合は
その場でCUT 摘出する。
大腸を空にするために今日から薬を飲む。
最終の薬は午後10時。就寝前に水を200ML飲む。
朝食・昼食は、少量の「おかゆ」、夕食は「ポテトスープ」。
その間、決められた時間に必要な水を飲む。
午後5時半に夜の「ポテトスープ」を食し、池袋へ。
高校のクラス会のような会。
今回の会も「永世名誉幹事」の五井君が皆さんに連絡し
会合を持つことができた。五井君永世名誉幹事に感謝。
今日は11人の仲間が結集。皆さん既に「爺さん・00さん」に
なっているのに、元気がいい。飲んで食べて、しゃべって・・・・・
私は明日の検査のため食事は一切できない。
水を飲んで「ビール」「焼酎」などを飲んでいる仲間を横目に見な
がら「我慢」した。
帰宅は午後9時半。
空腹。
2013年01月21日
胃カメラ受診
昨日は、今日の「胃カメラ」診断のために食事をかなり
気を付けた。
午前8時半、徒歩5分にある「高島平中央病院」へ。
この病院は、昨年「無資格医師」を採用し、診療させて
いたということで、随分新聞に出ていた。
午前9時過ぎに胃カメラ室へ。
看護婦さんが、喉の麻酔薬ですと言って「甘い薬」を
おちょこ1杯分ほどをくれる。飲む。数分すると
舌の感覚がなくなり、喉全体が無感覚になる。
脱衣せずにそのままの服装で診察ベッドへ。
口にマウスピースが挿入され、歯で噛む。
医療技師が、マウスピースを通して、小指ほどの
小型カメラを喉から胃へ挿入。時々、写真を撮影。
そのうち胃の中に「水」が入ってくる。かなりお腹が
パンパンになる。しばらくすると「空気」が胃だか
十二指腸だかに吹き込まれる。ゲップが出る。
胃や十二指腸などに小型カメラが入り、動いている
ことはわかる。
20分か30分程で終わる。
しばらく待つと「消化器科」医師に呼ばれる。
胃・十二指腸などの写真が示され、問題点を
説明してくれる。
全体的には、胃が老齢化し、硬化しているとのこと。
胃がかなり赤くはれている写真を示す。胃炎ですが、
出血しています、とのこと。更に逆流性食道炎も併発
とのこと。薬で治しましょうとの提案を受け入れる。
「私はベトナムに住んでいるので、薬がなくなると
こまるのですが・・・」というと、病名を英語で書き、
その薬をベトナムでもらうようにとのこと。
ベトナム・フエで手に入るのか?どうかは不明だが、
医師とそれ以上話し合っても仕方がないので、
お礼を言って退室。
今回はフエで自覚症状があり、病院での精密検査を
自ら選択した。一番心配したのは胃がんなどのガン
だったが、ガンはないとのことで安心したが、胃が相当
荒れている、出血もしているとのことなので、多少の
不安を覚える。老化現象と食事(刺激が強いもの・唐辛子)
ストレス、アルコールなどが原因。
明日からは、明後日の「大腸内視鏡検査」のため
腸から便を一層するための流動食(医者指定)と
下剤攻撃の1日である。
バオミンさん・税田さんなどからメールあり。
高校同級生の五井君から電話。明日の高校のクラス会の
ような会の件。
2013年01月20日
明日の「胃カメラ」検査の体の準備
午前8時起床
終日、メールの送受信。
いくつかの問題について長文のメールを
送る。
フエ市人民委員会訪日団の日程調整。
今日の午後8時以降、物を食べてはいけないとのこと。
今日は、お酒も止めている。
明日の胃カメラ検査に「引っかからない」ようにしたものだ。
何故、引っかかるといけないかと言えば、「飲めなくなる」
の一言に尽きる。
今週は、体の大掃除
1月20日(日)午後8時以降、物を食べてはいけない。
21日(月)午前8時45分、病院へ。胃カメラ検査。
22日(火)大腸内視鏡検査のための腸の掃除。
3食、病院からもらった「おかゆ」を食べる。
午後10時、3錠の下剤を飲み、腸を掃除する
23日(水)2リットルの薬入りの水を飲み、更に腸を
空にする。大腸内視鏡検査
24日(木) 心臓病の検査へ。
25日(金)歯医者へ(歯の総合検査)
一時帰国の際にできるだけ体の検査をしておきたい。
病気になり倒れると「子どもの家」、ベトナム事務所
など皆さんに迷惑をかけることになる。
2013年01月19日
終日自宅
寒い
午前中、各種のメール受信。その対応。
ベトナム事務所とメールでいくつかの件について打合せ。
2月17日のJASS現地報告会参加のフエ市人民委員会
訪日団の参加者の変更についてバオミンさんと相談。
沖縄の松田さんからメール。ありがたいことである。
明日1月20日から胃カメラと大腸内視鏡検査の
ための食事制限、食事管理に入る。
今日が飲める最後の日となる。
長い文章を書く。
寒いので終日入浴し、寝ていたい。
アルジェリアでテロリストによる「邦人を含む外国人人質」
事件が起こり、多数の人質が殺害されたとの報道があった。
マスコミは、天然ガスを採掘する立派な「企業戦士」の
活動、という趣旨の報道を行い政府は、邦人救出のための
「努力」をしていると言っている。
もしこの種の人質に「海外ボランティア」の人がなったら
政府・マスコミはどう報道するのだろうか?
高遠・今井イラク人質事件の際には、ボランティアへの
厳しいバッシングがあった。
アルジェリアでは、繰り返しテロリスによる人質事件が
起こっている。非常に危険な地域だ。
高遠・今井人質事件の時には、政府が先頭に立って
ボランティアを非難し、政府が使ったお金を弁済しろと
人質被害者に要求するという事態があった。
企業家なら危険なところへ行って活動することは、
立派なことで、ボランティアは「勝手に行ったのだから
自分で身の処置」をしろという日本社会の情緒的な
物事への対処の仕方に疑義を感ずる。
尚、高遠・今井人質事件の際には、私は私見を
このブログに出している。常識的なボランティア活動家なら
米軍がイラクに侵入している際に現地に入るのは、
素人のボランティアだ、私的には賛同できないが、
政府は「邦人保護」という責任がある、政府が高遠氏などを
批判・攻撃することは、間違っていると。
企業家が危険な場所に行っても「御立派」と報道し、
民間ボランティアが危険な場所に行き、事件に巻き込まれた
場合は、自己責任論で一蹴してしまう日本の世論とマスコミの
問題を深く考えた1日であった。
2013年01月18日
ブライセン社内総括会議(会社説明会)
午前8時起床。とにかく寒い。
我が家の方針(私の方針ではないのだが)で
暖房など「エネルギー」を無駄に使わないようにとの
ご方針で、暖房が炬燵(こたつ)だけという素晴らしい
「省エネ」家族ではある・・・・・・。
とにかく寒い。こうした「素晴らしい」省エネ生活に
適応するためには、朝湯に入り、体自体を温めることが
大事。夕方になったら「暖かい液体エネルギー」を胃に
注入することも暖房効果。私の飲酒は、正当でありかつ
「理」にかなっているのである。
午前中、20通ほどのメールに目を通す。必要な返事。
午後3時、板橋社会保険事務所へ。
65歳になったの年金申請に行く。社会保険事務所に
入る。掲示板があり、各セクションの案内が書いてる。
私は、「申請受付」的な趣旨の掲示を探すが「ない」。
あるのは、「年金申請相談室」とあり、年金相談という
セクションしかない。他のセクションを探すと「国民年金課」
というのが2階のあったので「国民年金申請」を行うので、
国民年金課に行く。趣旨をいうと「貴方は間違っています。
それは、年金申請相談に行くのだ」とのこと。態度も
横柄だ。
私は年金申請の要綱に従って正確に申請書を書いている
ので、「相談」は全く必要ない。申請をしたいのだが、
「板橋年金事務所」は年金の申請を受け付ける場所の
表示が全くない。あるのは「申請相談係り」だけ。
1階の申請相談係りには、20人程の申請希望者が座っている。
「待ち時間」という表示があり、20数人で1時間半、とある。
私は近くにいた係りの人に所長さんを呼んで欲しいという。
「所長は今日はいない」とのこと。それでは副所長を呼んで
欲しいと私。しばらくして「副所長」が来る。
私が「苦情があります」という。副所長は「この人は問題人間
か?」
との反応を示し、「2階に行きましょう」と2階の部屋の隅に
連れていかれる。
私は副所長に「貴方は、板橋年金事務所の責任者ですか?」と
聞く。「はいそうです」との返事。
私「今日は、国民年金の申請をしに来たのですが、申請受付」
という表示も窓口もないのですが、何故ですか?」
副所長は「それは、年金申請相談」窓口に行けばいいのです」
という。
「いや、私は相談をする気はないのです。40年近く支払い
先輩の方々の年金を支援してきて、今回65歳になったので
年金請求権を行使するために来たのです。相談に来たのでは
なのです。年金申請をしたのです」と私。
「いや、年金請求は、年金相談課でやるのです」と副所長。
私「板橋年金事務所の最大の任務は何ですか?」と聞く。
所長は「うん・・・・」と言って返事をしない。
「40年間、年金を支払って来た国民が年金受給をする際の
申請をきちんと受け付けることが一番の任務ではないですか?」
所長「それも任務ですが、相談も大事な仕事です」と。
私「相談は、申請の仕方が複雑でわからない人などに行う
副次的なもので、まずもって申請をし、年金受給をしたい人、
年金受給権が発生しした人を受け付ける場所を明記しないと
年金事務所の意味はないでしょ」と。
副所長は私の言っている意味が分からないようだ。
自分たち年金事務所の任務がまずもって何なのか?
を理解していない年金事務所副所長。
彼らの最大の任務は、年金受給申請者の受付を
きちんとすることなのだ。相談は、受給申請の仕方が
分からない人が行くところ。私など単純な仕事の経歴なので
相談もヘチマもない。簡単に申請書に必要事項を書き、
必要な書類を添付しているのだ。年金事務所に入ったら
「年金申請受付」を作らなければならないが、それがない
年金事務所。年金相談しかないのだ。
年金が大量に消えてしまった張本人たちの「お役人意識」は
年金機構に変わっても全く変化していないことが分かる。
貴方たちは、だれから給料をもらっているのですか?と
質問する。「私たちは、社会保険庁の職員ではない。
公務員ではな」とトンチンカンな返答をする。
貴方たちの給料は税金でしょ?と聞く。「ハイそうです」。
貴方は日本国憲法を読んだだことがありますか?と聞く。
返事なし。税金を給料としてもらっている人は公務員に
準ずるでしょう。公務員は国民全体の 奉仕者ですよ。
銀行だって、預金、引き出しなど、お客さんがお金を
下ろしたい場合は、「お金をおろす」という受付があるでしょ?
何故、年金事務所に「年金申請受付」がないのか?
とうとう最後まで年金事務所の副所長は私の言っている
趣旨が理解できないままだった。
年金機構管理職はお金は取るが、支払う際には、支払受付を
作っていないということの「異常さ」に全く気付いていない。
指摘されてもその意味が理解できないほど「病んでいる」
ように思えた。
受付を1時間半も待たせて何も感じない年金事務所も
呆れてしまう。その点の質したら「今日が偶然人数が多いのです」
と「言い訳だけ」は上手な管理職ではあった。
年金事務所副所長に「国民年金の加入率は何パーセントですか?」
と聞くが、しばらく返事がない。「50パーセントを割っている現状を
貴方はどう思っているのですか?」
年金受給申請希望者(40年もお金を拠出している大事なお客さん)
に全く不親切な連中。既に年金は加入者が5割を程度。破たんして
いるのだ。年金事務所の管理職は「全く危機感をもっていない」。
あと数年で退職するので、退職金をしっかりもらい辞めればいいと
いう匂いが「プンプン」とする。
午後5時から五反田のブライセン本社で打合せをするので
時間がない。急いで五反田へ行く。
午後5時、ブライセン本社で鎌田部長と懇談。
鎌田部長は1月21日からフエのブライセン支社へ行く。
事前にフエでの活動が円滑に進むよう打合せを
行う。ブライセン支社員を増強するため20人の
現地入社希望者の面接をする。その他の打合せ。
6時前、鎌田部長と一緒に有楽町へ。
東京国際フォーラムで「ブライセン会社説明会」。
会社説明会とは、ブライセン本社の各部の取り組みと
結果、今後の課題を全社員(100数十人)が共有する
ための会議。今回からベトナム支社員にもテレビ中継された。
今日の会社説明会のM事務局長
午後6時半から午後7時半まで。各部10分程度での活動報告。
この数か月の間に入社した「途中入社員」の自己紹介。
最後に藤木社長の挨拶。「みなさんで協力して社員も2倍に
し、大きな仕事を進めよう。今日の各部の報告は大変よい
」との励ましと激が飛ぶ。
閉会後は、社員が好きな人たちとどこかで「飲んで」も良い。
領収書は会社が清算するという楽しい会社である。
「今日は花の金曜日。明日は休み」。粋な計らいをする
会社ではある。
閉会後、私と社長、鎌田部長の3人は、銀座で食事。
今後のブライセン支社の運営、方向・方針などを話し合う。
自宅着午前2時。相当深い打合せをしたのだろうが、
記憶が不鮮明ではある。
2013年01月17日
従兄弟の告別式に参加
日本へ帰ったが、とにかく寒い。
ベトナムでは20度で寒く、湯たんぽを入れた経験もある。
東京は1度から3度程度。
午前8時自宅を出て、西台→巣鴨→池袋→坂戸
自宅から2時間かかる。
午前10時からの告別式に姉と参列。
午後12時まで。その後、親族30人程で火葬場へ。
1時間程待ち、お骨となる。
更に葬儀場に戻り、お経をあげる。日蓮宗の信徒
だったようで、日蓮宗の信徒の仲間の方も参列し
お坊さんと一緒にお経をあげる。日蓮宗は、やけに
「陽気」なお経で、音楽入りの聞いていて「楽しい」
お経である。
その後、精進落としを行う。
父親の兄弟8人。今日の葬儀は、長女の長男でる。
私とは従兄妹。
今回、父親8人兄弟姉妹の子供たち(私とはいとこ)
も何人か参加。初めてあった従兄妹もいた。
従兄弟は、かなりの人数んで「団塊の世代」正確には
1947年生まれの人がいる。
今日の告別式・その後の精進落としで、初めて一人の
従兄弟に会う。私と同じ年。埼玉県朝霞市役所に勤めて
いたとのこと。8人兄弟姉妹の父親なので、従兄妹も
40人程度はいる。母親関係は12人兄弟姉妹なので
60人以上の従兄妹がいる。両親の従兄妹・従姉妹
関係は、総勢100人程いる。そのうちあったことのある
従兄弟関係者は半数ほど。
午後5時、精進落としの会を終わり閉会。
東武東上線の「坂戸駅」へ行く途中、郵便局により、
昨日逝去された「今本顕依子さん」の葬儀への
弔電を送る。
自宅到着午後8時。
1月14日の朝、帰国し、休む時間がないまま4日間を
過ごしてしまう。
明日は、ブライセン本社関連の仕事
夜、バオミンさんと電話で緊急問題を打合せ。
2013年01月16日
病院へ
昨日は、昼前に家へ着き、夕方まで寝る。
夕方から更に今日午前8時まで熟睡してしまう。
今日は午前10時、病院へ。胃の不具合を訴える。
1月21日(月)胃カメラ、1月23日(水)腸内視鏡検査
をすることになる。
1月22日は、高校クラス会のような会がある。
23日の内視鏡検査の前日22日は、午後8時以降
絶食。クラス会のような会で「飲めるのか?飲めないのか
今晩は、不安で眠れない。
午後3時自宅を出て池袋へ。
東武東上線池袋駅から特急で約1時間。埼玉県坂戸駅へ。
午後6時、坂戸駅で姉と落ち合い、従兄弟の通夜へ。
我が家が中国から引き揚げて来て、最初に住んだのが
この従兄妹の家。亡くなった武井清司氏とは私が生まれて
1年くらいは一緒に住んでいたことになる。父の妹の長男。
歴史書専門の出版社「吉川弘文館」に勤めていた。
私が大学生の頃、何度も「アルバイト」として
使ってくれた。また、彼に頼むとどの出版社の本も10%引きで
買ってもらえた。結構、たくさんの本を学生時代お願いした
記憶がある。74歳。
姉と焼香をその逝去を悼む。
叔父伯母(叔父・叔母)の死去が続いた。
父親(8人兄弟)、母親(12人兄弟)のほとんが既に
この世にいなくなった。
こうしていよいよ「従兄妹」が亡くなる年になってきた。
といことは、私自身が、その年に入ったことを意味する。
感慨無量。
午後8時過ぎ、池袋へ。
明日は、午前10時から告別式。姉と相談し、告別式にも
列席する。
バオミンさんからメールあり。
夜、「京滋YOUの会」の藤井さんから電話あり。
「京滋YOUの会」会員で服飾会社の社長を
され、「子どもの家」への支援を長い間続けて
来てくれた「今本顕依子」さんが、急逝された。
心から哀悼の誠を捧げ、長期間の子どもたち
へのご支援に感謝の気持ちを表したい。
1月17日がお通夜、18日午後1時から告別式
御冥福をお祈りする。
2013年01月15日
成田到着
昨日午後3時半に宿舎を出て、9時間半。
やっと1日(1月15日)の午前7時45分、成田着。
成田空港は1度との機内放送あり。
成田第1ターミナルからスカイライナーを使い、
午前10時過ぎ、自宅に着く。
あまり寒いのでお風呂を沸かし、体を温める。
昨夜はほとんで寝ていない。
午後12時過ぎから半日睡眠。
2013年01月14日
日本へ帰国
午前9時、ベトナム事務所へ。
バオミンさん、税田さんと私の帰国中の諸問題・諸課題を
逐次協議する。かなり「重い課題」から当面の日程まで。
3時間ほど話し合う。
午後12時過ぎに宿舎へ。
宿舎のドアを開けようとした時、バオミンさんが
オートバイで追いかけてくる。
午後12時半、昼食を摂る。チャオ・バイン・カイン。
その後、1時間ほど昼寝。
日本のニュースを聞く。関東地方は大雪で列車の遅延、
高速道路の不通、飛行機の運休などが出ているとの事。
明日(15日)朝の成田までホーチミン空港から無事
つけるのもなのだろうか?
とりあえず、午後3時半に宿舎を出てフエ空港へ。
午後5時フエ空港発→ホーチミン(午後6時10分)着。
1月15日(火)午前0時15分、ホーチミン発→
成田着(午前7時45分)で無事、帰国できるのか?
ホーチミン空港で6時間「待機」する。長い時間だ。
2013年01月13日
日本へ帰国するための掃除・洗濯・荷物整理
明日、日本へ臨時帰国する。
終日、荷物整理、洗濯、掃除などを行う。
午後5時、リー君と税田さんの3人で飲む。
リー君の人生を話し合う。
日本のニュースだと明日、関東地方は「大雪」とのこと。
成田に到着できるのか?
父方の従兄弟 武井清司氏急逝の報が伝わる。哀悼。
2013年01月12日
2月17日「現地報告会」議案論議
終日小雨。
午前6時 外気温(15度) 湿度(90%)
午前7時朝食。精進麺
午前8時半過ぎ、徒歩でベトナム事務所へ。
バオミンさんといくつかの問題で協議。
その後、小山・バオミンさん・税田さん「私の不在中」
のベトナム事務所運営・テト休暇中の体勢などを
話し合う。
その後、上記3人に財政部長のハンさんを加え、
2013年2月17日(日)午後1時から東京で行われる
JASS「現地報告会」の2012年決算報告・2013年予算案
について、詳細に間違いを調査し、正確に報告が出来るよう
4人で長時間話し合う。
全体的には、2011年に比べ、昨年は30%ほど収入が減る。
理由は、日本からの送金の減少、JASS観光への参加者の
減退、日本料理店への来客等の減少など・・・・・。
これまでの備蓄を取り崩す。
4人で今後のベトナム事務所・「子どもの家」等の財政運営に
ついて突っ込んだ話し合いをする。引き続き、子どもたち・
「子どもの家」スタッフ、ベトナム事務所員などが安心して
子どもたちの支援に打ち込める財政的な裏づけを確立する
ための方策を考える。
午後12時過ぎ、ベトナム事務所を出て、宿舎へ。
午後12時半、昼食。野菜サラダと魚のフライ・ご飯。
久しぶりに「白米」を食べる。最近は、長粒米にも慣れて
来た。私は料理のセンさんが作ってくれる食事はそのまま
口にし、特にこれを・・・などということを言わないようにしている。
だされた食事(ベトナムの農民の食事)を食べている。
困るのは量が多いこと、メニューが、極端にワンパターンな
ことであるが、まずくはない。私がお願いしたのは
心臓病院の医師に言われている「野菜中心の食事」を
実践するため「毎日野菜を多くして欲しい」と。
それ以外には、にんじん等の煮たものと「根菜類」(イモ類)
の蒸かしたものを1週間に2回ほど作ってもらっている。
午後1時半から1時間ほど昼寝。寒い。
その後、2時間ほど読書。「老兵は死なず」(野中広努著)
色々と意見の違う点はあるが、戦争は絶対にいけないとの
野中氏の姿勢には、同感する。
日本帰国のための荷物整理を行う。
今日は2回、洗濯を行う。
午後7時、税田から以下の電話あり。
日本料理店前に置いてあったHIEP君の自転車の
チェーン式の鍵を切り、自転車を盗もうとした犯人を
リー君が発見。
リー君は、日本料理店前の路上で飲んでいたそうだ。
目の前で「自転車泥棒」が、日本料理店員の自転車の
チャーン式の鍵をきり盗んでいる状況を目撃。
泥棒は、リー君に発見されて、逃走。リー君が
オートバイで犯人を追跡、しかし、取り逃がす。
リー君と電話で話す。「ご苦労さん。良く、自転車泥棒
を見つけて、盗難を防止ししてくれた」と。
リー君は多少興奮気味。
この種の問題の「専門家」であるリー君は自転車泥棒
の雰囲気で犯罪が起こることを予知。
その道の犯罪には、「研ぎ澄まされた感性」を持っている。
「餅は餅屋」だ。リー君が犯罪を防ぎ、犯人を捕まえようと
したことは、大変立派なことである。何らかの形で
リー君に「謝意」を伝えなければならない。
最近は、日本料理店前の路上で「日本料理店」の様子を
見ながら飲む機会が多いようだ。
2013年01月11日
ブライセン・ベトナム支社入社希望者面接
終日小雨。
体がだるい。
午前7時朝食。フォー・ボー(牛肉入り米麺)
午前8時から午後12時まで、ブライセン・ベトナム支社入社
希望者の仮面接。15人。
15人の面接は本当に疲れる。運悪くベトナム事務所一体が
午前中停電。面接会場のベトナム事務所2階の会議室の
ドアをあけて「明かりを取り」面接をおこなった。
外から「寒い風」が吹き付ける中での3時間の面接。
かなりきつかった。体力を消耗した。
午後12時半、昼食。チャオ・バイン・カイン(小麦粉手打ちうどん)
その後、2時間ほどかけてブライセン・ベトナム本社へ
今日の面接の状況を文章にまとめ報告。
午後3時から1時間ほどベッドで横になる。
その後、ストレス解消のため読書
「オウム事件・17年の告白」(上祐史浩著:有田芳生検証)
読了
父親は九州大を卒業し、東京へ出てきた。
上祐は、早稲田学院高校から早稲田理工学部宇宙工学科へ
入学し、大学院へ行く。その途中で「オウム神仙の会」に
入会。ヨガーや超能力に興味を持っていての入会だという。
オウム真理教では、麻原の男性の一番弟子となり、
麻原に可愛がられるが、麻原に率直な意見を言う
面も持ていたと告白している。
上祐の説では、麻原は熊本県八代市生まれで、
水俣病の汚染地域で生まれている。
兄は全盲、麻原は、全盲ではなく多少は目が見えたが
全寮制の盲学校へ「入れられた」(と自分は親への
被害者意識・親に捨てられたとの恨みを持っている)
全盲の兄は、手がしびれたりする「水俣病」の症状を呈し、
兄と弟の麻原は、水俣病の患者申請をするが、却下される
という経験を持っている。上祐は、麻原は水俣病の被害者
であるかも知れないとの認識を持っている。
麻原の「狂気」の原点は「親に捨てられた」との思いだと
上祐は分析している。
同時に上祐は麻原を「人格障害者」と言っている。
「誇大自己症候群」と。
裁判で異常な行動を取ったことについて、色々な説が
あるが、あるいは、もともと精神の異常をきたして
いたことによる異常な法廷での態度だったのかも
知れない。
上祐自身は自己総括でオウムに引かれた自分を分析し、
自分の親子問題を取り上げている。
東京に出てきた上祐家族ではあったが、上祐が
子どもの頃、父親が違う女性の下へ走り、母子家庭となった
ことで、失った父性を「麻原」に求めたと。
その後、「オウム真理教」は分裂し、麻原の妻と子どもたちが
裏で操る(上祐は言う)「アレフ」と、麻原の犯罪を総括・決別し
「光の輪」の代表となり「宗教を超えた「新しい精神的な
智恵の学びの場」を作ったと称し、オウム被害者に毎月
300万円の弁償金を支払い、オウム事件の「反省」をしている
と書いてる。頷ける面もあるし、まだ「光の輪」などという
怪しげな世界に入っているのには、頷けない。
夕方、ハンさんから送られて来た2012年度の会計決算報告
を詳細に読む。明日、2013年度予算案も含めて、間違いが
ないか、ハンさん、バオミンさん、税田さんの4人でチェックを
する。財政的なかなり厳しい現実を改めて知る。
午後7時からバオミンさんと日本帰国前の最後の二人だけの
「一杯会」をする。
フエは、デング熱が大流行。特に「出血性デング熱」は、
死亡率50%とも言われている。
バオミンさんの話しでは、町中に宣伝広報車が出て
「デング熱・蚊」に気をつけるようにと注意喚起を
行っているという。
税田さんに電話をし、バオミン・ホテルにいる4人の日本人に
蚊に刺されないよう気をつける、素足のサンダルはやめること、
出来るだけ肌を露出しないこと、蚊取り線香、殺虫剤等を
使って、蚊に食われないようにするよう伝えてもらう。
私は20年間フエに住んで「フエの風土病」にかかり、
コレラ、フェラリア寄生虫による「象皮病」、デング熱、
腸チフスなどの流行の時期を何度も体験している。
日本に住んでいるとこの種の病気に対する警戒心が
ほとんど「ゼロ」になる。
私がこの種の伝染病を警戒するように話しても
多くの日本人観光客や若い訪問者などは、信用しないのが
現実である。
病気になってからでは遅い。多くのベトナム人に迷惑を
かけることになる。
2013年01月10日
フーン先生の00回目の誕生日
時々小雨。非常に寒い
午前7時朝食。「ブンボー・フエ」(フエ名物牛肉入り米麺)
午前8時半、徒歩でベトナム事務所へ。
バオミンさん・フーン先生とブライセン・ベトナム支社新採用
社員面接資料検討。
午前9時、JASS日本語部長フーン先生の00回目の
誕生祝い。
フーン先生とバオミンさんは、コック高校で同級生。
澤井先生から誕生ケーキの贈呈
澤井先生・春口先生からベトナム事務所員の寄せ書きを
贈呈
フーン先生が00本のローソクを吹き消す
ブライセン・ベトナム支社員からお祝いの花束贈呈
フーン先生と旦那さんの馴れ初めを聞く。
旦那さんは、コックホック高校の体育の先生だった
そうだ。高校時代に知り合ったとのこと。
素晴らしい出会いである。
旦那さんは、フエでもベトナムでも有名なサッカーの
選手。フエ省代表のサッカーチームの監督もしている。
ブライセンベトナム支社員とJASSベトナム事務所員は
一心同体の仲。
誕生会の最後にフーン先生からお礼の言葉
ベトナム事務所員の寄せ書き
午後12時 昼食。春雨麺
食後、寒いので寝ながら3時間ほど読書。
「オウム事件ー17年目の告白」を読む。
非常に興味のある内容。半分ほど読む
上祐は、麻原に洗脳されてはいたが、
常に「批判的な分析」能力も持っていたことが
わかる。
夕方、バオミンさんからメールを送った電話が
あったが届いていない。
ある方法で受信。
明日の朝8時半からのブライセン支社入社希望者
15人の面接用の履歴書。
15人の履歴書を熟読する。
2013年01月09日
渡辺和代さんと懇談
終日雨。寒い。
午前7時、外気温18度 湿度99%
午前7時朝食。「チャオ・バイン・カイン」
午前8時半、JASS里親会費担当の渡辺さんから電話。
今、フエに来ている、ベトナム事務所へ行くとのこと。
急いでベトナム事務所へ。渡辺さんは「ACCL」(アジア・
チャイルド・ケヤー・リーグを主宰、ベトナム中部フエで
小児ガンの子どもたちの支援を行っている。
午前8時半、小雨の中、ベトナム事務所へ。
渡辺さんからバオミンさんへ年賀。
渡辺さんとしばらく懇談。
その後、昨夜遅くフエへ戻った税田さんとバオミンさんとで
2時間半ほど、当面のベトナム事務所の活動、2月17日の
現地報告会までの取り組みなどの打ち合わせをする。
午前11時半。魚入りの「おじや」。半分残す。
気候の急激な変化の影響で体がだるい。
1時間半ほど昼寝をする。
読書「オウム事件17年目の告白」(上祐史浩著:有田芳生検証
ー扶桑社)
を読み始める。
有田芳生氏の巻頭の言葉で、①カルト教団に何故、日本の
若者が入信するのか、その社会的・個人史的土壌は何か?
が明らかになった、②裁判でも明かされなかったオウム内部の
生々しい証言を上祐氏が行った、ので上祐氏との対談などを
行ったといっている。
午後5時頃、リー君から電話。「今日、午後6時から00で
飲みましょう」との『お誘い』を受ける。
午後6時前、再度リー君から電話。オートバイで宿舎まで
迎えに来る。
リー君のオートバイの後ろに乗り、リー君「御用達」の
安価な大衆居酒屋へ。
大衆酒場には、税田さんも。
寒いのでフエ名物の「海産鍋料理」を頼む。
リー君・税田さんと色々な世間話をする。
リー君が世界政治・国際情勢に精通しているのに驚く。
良く、新聞を読んでいる証拠である。へな猪口(ちょこ)な
日本の大学生よりよほど良く物を知っている。
しばらく話しをしていると、リー君がブライセンのチュン君を
電話で呼び出す。チュン君もブライセンでITの仕事をし、
生活が安定し自立している。
チュン君は「子どもの家」の元生徒会長。
リー君もその時期、一緒に「子どもの家」で生活していた。
午後8時40分まで一緒に飲み、リー君がオートバイで
送ると言うので「後ろ」に乗せてもらい帰宅。
2013年01月08日
フエ省厚生局長と懇談
小雨・曇り
午前5時起床
午前7時朝食。「ブン・クア」(カニ団子入りブン麺)
午前9時、雨の中徒歩で散髪屋へ。
20年間通っている散髪屋である。いつもはオーナーが散髪
してくれるのだが、今日は息子が散髪をする。
いい加減な散髪。わたしはあまり髪型など興味がないので
適当に短くしてくれればいいのでお金を支払う。
父親のオーナーは、時間をかけて丁寧に散髪し
3万ドン。息子は、親父の半分程度の時間で、いい加減な
散髪をして「4万ドン」という。
150円程度のなので4万ドンでも満足する。
徒歩で宿舎へ帰り、訪日する「フエ市人民委員会代表団」の
日程、ホテル、国内移動などの日程の整理をする。
午前11時半、昼食。ラーメン風ベトナムうどん。
その後、1時間ほど昼寝。寒い。
午後2時半過ぎ、バオミンさんがオートバイで迎えに来てくれる。
小雨の中、フエ省厚生局へ。
厚生局長と当面の医療問題等について懇談。
現在の局長は20年前からの知り合い。私は1993年9月から
フエ師範大日本語クラス主任として日本語を教え始めた。
第一期生の中に現在の厚生局長の妹さんがいた。
そうした関係でその後、局長と交流を持っていた。
記念にフエ名物「チャンティエン橋」の銅版の飾り物を
頂いた。
1時間ほど意見交換を行う。
その後、ベトナム事務所で若干バオミンさんと打ち合わせ。
税田さんがハノイ空港から電話をくれる。ハノイ空港へ
到着したとのこと。
お父さんの法事関係でどうしても日本へ帰国しなければ
ならない。何度か、大変な移動をしなければならない。
ご苦労様。
午後7時、リー君から電話。
ベトナム語で「日本料理店の電気が消えている。どうのこうの」
と多少、酔っ払った感じで訴ええてきている。
詳細不明のため、バオミンさんに電話をし、リー君が何か
言っているので聞いて欲しいとお願いする。
バオミンさんは、直ぐにリー君に電話。
私にリー君の電話内容を伝えてくれる。
リー君の言い分。
「今、日本料理店の前の路上で飲んでいる。日本料理店の
象徴である『赤提灯』が点いていない。電気を点けるべきだ」
との話しだった。
バオミンさんが、グエットさんに電話をする。
グエットさんの意見。
「今日は小雨なので、赤提灯が雨で濡れてしまっては困るので
電気を切り、赤提灯をしまっておいた」とのこと。
グエットさんの言い分も正しい。
リー君は、暴言を吐いて日本料理店を退職していったのだが、
それでも「俺は、日本料理店の店長だ、接客は俺が専門家だ」
とのプライドがあったのだ。ありがたいことではある。
リー君は多少見当はずれではあるが、日本料理店のことを
気にかけてくれていることには感謝している。
今のリー君の友達は、「お酒ービール」だ。
と言うことは、私と全く同じ境遇にあるということだ。
リー君は「アルコール依存症予備軍の仲間」だった。
20年近く付き合っているが、本当に人間的に魅力のある
人間だ。今の日本にはいないキャラクターを持っている。
何とかしたいと日々考えている今日この頃である。
ひどい口内炎で苦慮している。
午後8時、再びリー君から電話。
今日の日本料理店のお客はたった二人だ。
日本料理店のスタッフの接客態度はなっていない、
とのお見立て。
リー元店長、接客主任としては、日本料理店の
接客の仕方に不満があるようだ。
大分酔っ払っているようで、多少「呂律(ろれつ)が回らない」
様子。
日本料理店にこれだけ関心を持っているベトナム人もいない。
その20分後。再度リー君から電話あり。
日本料理店のスタッフが英語が出来ないので4人の外国人が
来たのに帰ってしまった。「今日のお勧め」も紹介できないの
では、日本料理店としてはだめだ、などと言っている。
更に10分後に電話あり。「明日、午後6時から先生飲みましょう」
と。既に完全な「親父酔っ払い」になっていた。
リー君もなんだかんだ言ってもJASSや「子どもの家」との
付き合いは長いのだ。20年間の付き合い。現在25歳。
5歳から付き合っているのだ。リー君の父親よりも
親密で長い付き合いではある。魅力の若者であり、
日本の若者より社会や人との付き合い、他人の気持ちを
推測する能力も遥かに高いが、かなり一人合点な所もある
不思議なベトナムの若者である。
最終的には何をしても「憎めない」人間ではあるが、かなり
ズレてはいる。
2013年01月07日
「子どもの家」スタッフ・キムアインさんの息子さん結婚式
午前5時起床 雨 非常に寒い 16度
午前7時朝食。「フォー」
午前9時、ソン君がパソコン修理業者を連れてきてくれる。
宿舎のパソコンが印刷できなくなった。
直してもらう。
毎回、忙しい中でも必ず私の生活上のことで困難が起こった
時にはソン君が手伝ってくれる。感謝している。
午前中、バオミンさんといくつかの件で打ち合わせ。
2月16日から訪日する「フエ市人民委員会訪日団」の
スケジュール調整を行う。
午前11時過ぎ、車で「子どもの家」寮母さんのキムアインさん
の息子さんの結婚式に行く。
午前11時半開会。100人程の友人・知人が参加。
主催はキムアインさん家。
キムアインさんと旦那さん。
キムアインさんは、私がフエに来た1993年9月の1ヶ月後の
10月から一緒に「子どもの家」の活動をしてくれている。
20年近くのお付き合いである。
新婦のご両親
10分ほどのセレモニーがあった後は、大音響のカラオケと
会食のみ。日本のように「たらたら」とした挨拶はゼロ。
問題は大音響の素人カラオケを延々と1時間半ほど聴かされる
という点。隣の人とも話しが出来ないほどの大音響。
私はしばらくすると頭が痛くなった。
JASSグループのテーブル
JASSグループを何人かずつ撮影したら、バオミンさんだけ
残ってしまった。柱と撮影。
鳳凰の料理
新郎・新婦、ご両親と挨拶。
「子どもの家」スタッフのテーブルには、今年大学を卒業した
フオンさん(フエ医科大研修)、トゥーイさん(高校化学教師予定)
セン「子どもの家」運営委員長など「子どもの家」スタッフ
ロックさんなど「子どもの家」で子どもたちを世話するスタッフは、
参加していない。
カラオケ大会には、ベトナム事務所を代表して
富岡先生とアンベトナム事務所員が参加。
ベトナム語で見事なヂュエットを聞かせてくれ
大喝采だった。田舎の農村風景を歌った。
なかなか「息の合った二人ではあった」。
午後2時前、散会。私は体調不良と口内炎の大きなものが
出来ているので食事が出来なかった。
何度もベトナムの結婚披露宴に参加しているが、
どこでも「実質的」に参加者の喜んでもらえるよう、
儀式ばったことは一切なし。以前、市長が参加した
結婚式にも参加したことがあるが、席順は、
早く来た人が好きな場所を取るという形式。
ただただ、参加者に美味しいものをたくさん食べて
もらい、お酒を飲んでもらい、大音響のカラオケを
楽しんでもらうという形式を一切取っ払った実質
重視の「開けっ広げな」結婚披露宴であった。
「大音響」とタバコの煙だけがひどく嫌だった。
午後1時間ほど昼寝。
その後、フエ市訪日団の詳細日程を作り(一部未定)
シュミレーションをしてみる。いくつか問題あり。
夕方、バオミンさんから電話。日本の友人から
頼まれている仕事についての打ち合わせ。
大学を卒業して最終就職が未定の二人の「子どもの家」
の子どもたちの就職先確定について、打ち合わせをする。
2013年01月06日
12月25日・26日・・・の火炎樹日記を書く
終日雨。
午前9時起床。洗濯。
昨日の昼食の残りを食す。
昨年の12月25日の「クリスマス会」、
12月26日の「全教千葉女性部関係者」等の
火炎樹日記を半日かけて書きあげる。
2013年01月05日
バオミンさんと打ち合わせ・リー君と出会う
2012年12月25日の「クリスマス会」をアップしました。
この画面トップ右下の「2012年12月」をクリックしてください。
12月25日(クリスマス会)、12月26日(全教ツアー)
を掲載しました。
午前8時 外気温21度 湿度75%
北(中国)から冷たい風が吹いてきた。
今日は異常に寒くなった。
今日から通常の日常生活が始まった。
午前7時半朝食。 ブンボー・フエ
バオミンさんと打ち合わせ。当面の諸問題
2月16日に訪日するフエ市人民委員会
訪日代表団の旅程の確認。飛行機の切符取得、
ビザ取得などについて協議
打ち合わせを終わり、午前10時45分頃
ベトナム事務所を出る。
ベトナム事務所から10分ほど歩いた路上飲み屋で
リー君とオートバイタクシーの仲間が飲んでいた。
「先生も飲んで・・・・」と誘われるが断る。
何度も言われるので、一口飲んだところで
ベトナム事務所から電話。
リー君の他の男性は、「私は小山先生を良く知っている」
という。詳しく話を聞くと、リー君が6歳の頃、路上を
ほっつき歩いている頃、一緒に路上生活をしていた
子どもだった。そういわれれば、良く路上であった子だ。
リー君と一緒に「子どもの家」に連れて行ったことも
ある。現在、30歳ちょっと。結婚をして2児の父親
とのこと。オートバイタクシーで生計を立てている
という。18年ほど前の話である。
すぐに引き返す。
ベトナム事務所の仕事を終え、宿舎へ。
午前11時半昼食。豚肉のおじや。
午後2時間ほど昼寝。
その後、当面のいくつかの仕事をする。
リー君から電話。「先生、夜飲みましょう」とのこと。
午後5時から「古都(コードー)」で飲む。
しばらく飲んでいるとブライセンのホアン君を
電話で呼び出す。
午後9時まで飲む。色々なフエの様子、リー君の
思い(今後の人生)などを聞く。
2013年01月02日
「子どもの家」卒業生ユオンさんの結婚披露宴
午前10時半、ベトナム事務所前に集合し、ユオンさんの
結婚披露宴に参加する。
ユオンさんは、妹のグエットさん(日本料理店接客主任)
と一緒に10年以上「子どもの家」に在籍していた。
ユオンさんは、現在、フエ市内の「フールー小学校」
の教師をしている。
JASSベトナム事務所から車で40分。
フエ郊外の純農村地区。
ユオンさん・グエットさんの家族は複雑な事情があるが、
この際省略。
ベトナムの結婚披露宴は、「新郎主催」と「新婦主催」の
2種類がある。
今日は、ユオンさん側「新婦」主催の披露宴である。
ホストは、当然、ユオンさんのご両親ということになるが、
複雑な事情があり、ユオンさんの実母ではないお母さんが
とお父さんがホストを勤めた。
純農村地区に入る。農村の庭に設えた会場で披露宴は
行われた。
会場入り口で新郎新婦が出向かえ。
新郎とユオンさは、フエ高等師範大学時代に知り合い
今回結婚した。新郎新婦とも小学校の教員。
披露宴には、ベトナム事務所員、日本料理店、
「子どもの家」スタッフと子どもたち、「子どもの家」の
卒業生などが招待されていた。
「子どもの家」スタッフ、ベトナム事務所スタッフ
会場入り口に飾ってあった「ベスト・ショット」
新郎ユオンさんの妹のグエットさん(日本料理店接客主任)
と「子どもの家」スタッフ
ご両親はいないと思っていたのだが・・・・・。
はじめに主催者の挨拶。
父親と私が挨拶をする。
父親の挨拶
私の挨拶
ケーキカットの代わりにワインを流す
開会セレモニーを終わり、次は、ほとんど「騒音」としかいえない
「カラオケ大会」が延々と続く。隣の人とも話ができないほど
うるさい。騒音になるほどの大音響にすることで、お祝いの
気持ちを表わしているといえる。
ユオンさんの結婚式は、非常に「シンプル」なものだった。
キャンドルサービスもなし。新郎新婦と新婦の両親が
各テーブルを回るだけ。後藤杖先生と
「子どもの家」の子どもたちは、食べて、飲んで、カラオケにと
大活躍。
右側の女子二人は大学生になったが、左の二人は
就職し自立。同時期、「子どもの家」で一緒に過ごした
仲間である。
右から 歌の「ドゥオック」、中「ヒエウ」、左芸大の「フック」
「子どもの家」スタッフ
右のキムアインさんと真ん中のロアン刺繍の先生は
1993年10月から私と一緒に「子どもの家」支援活動を
してくれている。長い付き合いである。
ベトナム人の日本語教師・日本語能力は特級。
警備員さんとチュン君(「子どもの家」時代は生徒会長・現在は
IT会社ブライセンベトナム支社員)
ロックさんとキムアンインさん
二人とも1993年10月に作った「チーラン通り・子どもの家」
から今日まで20年近く、私と一緒に仕事をして来た仲間である。
こうしたベトナム人スタッフに助けられ、共同して、今日の
ベトナム事務所や「子どもの家」があることを私たちは
忘れてはならないと改めて思った次第である。
キムアインさんは、昨年「大病」をした。何とか回復して
一安心。
ベトナム事務所スタッフも二人の結婚を祝福
「先生・・・」と言って私の手を取った若者がいたが、誰だか
わからなかった。色々と話しをしていてわかった。
髪型と大人の顔になったので、誰だかわからなかった。
現在は、仕事をして自立しているとのこと。
歌のうまかったドゥオック君。現在は結婚し、1児か2児の
父親だといっていた。生活はきちんと出来ているようなので
安心。
ユオンさんの親戚の農民のミンさんが「大音響」のカラオケを
している。ベトナム事務所代表として富岡先生がベトナム語
で歌う。大喝采だった。
歌のうまいドゥオック君も歌う
私の隣にいる女性は誰だか全くわからなかった。
「子どもの家」時代にメンさん(ソン君夫人)とユオンさんと
3人娘だった「THAO ターオさん」だった。
現在は美容師をしているとのことで、すっかり髪型も変わり
お化粧もしている。大変身の子どもたちであった。
子どももでき、幸せに暮らしているといい、「子どもの家」で
お世話になったと感謝の言葉を言っていた。
こうして小学生位だった子どもたちが次々に「自立」し自活
していく。フエに住んで20年、様々なことがあったが、
子どもたちが実際に成長し、自立し家庭をもち、子どもが
出来た様子をみていると、JASSのして来た活動も
意味のあることだと改めて感じた次第である。
2013年01月01日
2013年の新春を迎えて
明けまして おめでとうございます
2013年の新春を寿ぎ、JASSベトナム事務所員一同
一致団結して、「子どもの家」の子どもたちと
世界の子どもたちの平和と安寧を願い、
子どもたちへの不当な抑圧、虐待、放置、
政府による無策・無能な政策に反対します。
2013年は「子どもの家」創立19周年。
引き続き子どもたちに寄り添い、子どもたちの
立場に立って、子どもたちの自立・自活へ向けて
一層奮闘致します。
2013年は日越国交樹立40周年の節目の年です。
微力ではありますが、引き続き日越友好交流の
「民間大使」として、アジアの平和・安定の一翼を
担って活動していく決意です。
日本の支援者の皆様の一層のご協力をお願いする
次第です。
2013年を迎えて
ベトナムの「子どもの家」を支える会
代表 小山道夫
ベトナムの「子どもの家」を支える会
ベトナム事務所員一同
-------------------------------------------
2012年度の読書録
(総評) 惨敗
.この10数年、年間80冊程度の読書をしていたが、
2012年度は30冊。目標(100冊)の33%。
今年は非常に忙しく、体調もあまりよくなかった。
本来読書に当てる時間に「横になる」ことが多かった。
2012年 読書録
1月
①あの戦争はなぜ負けたのか(半藤一利・保阪正康・中西輝政
戸高一成・福田和也・加藤陽子著
文春新書)
②ホーチミンルート従軍記(レ・カオ・ダイ著古川久雄訳:岩波書店)
③数学物語(矢野健太郎著:角川文庫)
④官邸崩壊―日本政治混迷の謎(上杉隆著:幻冬舎文庫)
2月
⑤「生首―詩文集」(辺見庸著:毎日新聞社)
⑥「観月観世」(曽野綾子著:集英社)
⑦「不破哲三 時代の証言」(中央公論新社)
3月
⑧「資本主義以後の世界―日本は文明の転換を主導できるか」
(中谷巌著:徳間書店)
⑨「東アジアの未来―安定的な発展と日本の役割り」
(一ツ橋大学東アジア政策研究プロジェクト編)
東洋経済新報社)
4月
⑩「世界史 上」(ウイリアム・H・マムニール著:中公新社)
⑪「世界史 下」(同上)
5月
⑫ 「遊牧民から見た世界史」(杉山正明著:日経ビジネス人文庫)
⑬ 「20世紀を作った経済学」(シュンペーター・ハイエク・ケインズ)
根井雅弘著:筑摩プリマー新書)
7月
⑭「死と滅亡のパンセ」(辺見庸著:毎日新聞社)
8月
⑮ 「マルティン・ルター」(徳善義和著:岩波新書)
⑯ 「イギリス帝国の歴史―アジアから考える」(秋田茂著:中公新社)
⑰ 「聴衆の誕生ーポスト・モダンの音楽文化」(渡辺裕著:中公新社)
9月
10月
⑱「独裁入門」(香山リカ:集英社新書)
⑲「反ポピュリズム論」(渡辺恒雄著 新潮新書)
11月
⑳「ルポ 子どもの貧困連鎖―教育現場のSOSを追って」(保坂渉
池谷隆著:光文社)
21 「創氏改名―日本の朝鮮支配の中で」(水野直樹著:岩波新書)
22 「団塊の世代は何だったのか」(由紀草一著:洋泉社)
23 「江戸語・東京語・標準語」(水原明人著:講談社)
24 「大奥の奥」(鈴木由紀子著:新潮新書)
25 「安心のファシズムー支配されたがる人々」(斉藤貴男著:岩波新書)
26 「一度も植民地になったことがない日本」(デユラン・れい子著;講談社)
27 「メディチ家」(森田義之著:講談社現代新書)
12月
28 「丸山眞男―リベラリストの肖像」(苅部直著:岩波新書)
29 「安南王国の夢―ベトナム独立を支援した日本人」(牧久著:ウエッジ)
30 「利他学」(小田 亮著:新潮選書)
============================
NHK紅白歌合戦を見た。
美輪明宏の「よいとまけの歌」を聞いて
とめどなく涙が流れてきた。
歌でこれほど感動したことはない。
素晴らしい。
民放が「ヨイトマメの歌」を放送禁止にしていた全民放
関係者に強く抗議したい。
1960年代、牛乳屋の寮に住んでいた。長崎県の諫早市
から中卒の同年代の若者がたくさん同居していた。
これらの集団就職の若者が、「ヨイトマメの歌」をレコード
で聞いていた。私は隣で「ヨイトマケの歌」を聞き自室で
感動して密かに涙を流していた。その後、民放では
「差別の歌」として、この素晴らしい歌を54年間近く
「封印」していた。嫌いなNHKの今回の措置に
心から感謝したい。私は1960年代の高校時代の
苦しい生活が一瞬にして頭によみがえった。
紅白歌合戦で涙を流したことはないが、美輪明宏
の「ヨイトマケの歌」に不覚にも涙を流してしまった。