« 終日、部屋で仕事 | メイン | 地球の歩き方講演会〔2回)、矢野先生夕食会 »

2013年03月15日

JASS大阪の会 矢野先生一行来訪

午後0時 32度 湿度60% 真夏

午前6時起床。

午前7時朝食。「フォー・ガー」(鶏肉入り米麺)

ベトナムの「風土・歴史」原稿の推敲

通販フェリシモ関連の資料提出について
関係部署と打ち合わせ。

税田さん・バオミンさんと何度か電話で
打ち合わせ。

午前11時半、昼食。「ラーメン風麺」


午後12時半から1時間半「昼寝」。

読書「日本の近現代史をどうみるか
    シリーズ日本の現近代史⑩」
   (岩波新書 岩波新書編集部編)

第2章 「なぜ、明治の国家は天皇を必要と
したのか〔牧原憲夫)
 
明治初期、日本の大衆の天皇への認識は
低かった。帝国憲法が出来た1980年
に行われた「内国勧業博覧会」閉館式。
博覧会に出品した当時の日本人を
「朝野新聞」は次のように報道している。
『野芝居または寄席なんどを見物に参りたるごとき
挙動」。
博覧会に出品した人々は、閉館式典に明治天皇が
出席した際『タバコをふかし、焼き芋をかじり、
天皇が姿を現しても騒がしく、式武官が何度も
叫んでようやく脱帽すると言ったありさま・・・」。

尊皇攘夷を旗印に権力を握った明治政府は
「一転し」開国和親・西洋文化輸入路線をとる。
天皇は率先して「断髪・牛乳を飲み、肉食をはじめ
る」、人民に対しても「断髪・洋服姿」を奨励。
県庁などには、断髪・洋服姿の明治天皇の
写真が掲げられる。それ以後、祭司を除けば
天皇の正装は洋服・公式晩餐会はフランス料理
となっている。
こうしたことを捉え永六輔が「天着連(てんちゃくれん)
「天皇に着物を 市民連合」を結成した。
明治天皇は「文明開化」「洋風化」の象徴にもなって
いたのだった。
皇后の服装も「ツーピース型の洋装を取り入れる。
『皇后思召書〔1887年)』には、「衣と裳(もすそ)
に分かれたツーピース型の服装が古代の服制だと
し、和服は日本の伝統に外れるといっている。
こうして明治初期の洋風化政策が進められてきた。


午後3時半、宿舎の近くにバオミンさんが
車で迎えに来てくれる。一緒にフエ空港へ。

JASS大阪の会の矢野先生〔大阪芸術大教授)と
教え子、ベトナム人の3人をフエ空港に出迎えに
行く。
フエ空港で待っている時、前フエ市共産党委員長
のクアン氏と息子さんに出会う。

クアン前フエ市共産党委員長は私と同い年。
ベトナム戦争中、米軍につかまり、酷い拷問を
受けている。息子さんとは、幼稚園の頃、
わが孫と一緒に山に遊びに行ったことがある。
それから何年たったか? 息子さんは13歳に
なっていた。中学2年生だという。

定刻より若干遅れ、矢野先生一行3人が
無事フエ空港へ到着。

バオミンさんとベトナム事務所近くのホテルへ案内。

午後6時、ホテルへ出向かえに行き、
日本料理店で会食。矢野先生一行3人と私、
税田さんで様々な話をする。

食事を注文する前のちょっとした「おつまみ」
を税田さんが用意してくれていた。

大根の梅和え、オクラ。


日本の早稲田大学大学院で博士号を取ったという
ベトナム人女性と欧米系男性が来店。

東日本大震災・福島原発についての激励の
署名をしてくれる。


2時間ほどの会食交流を終わり、矢野先生と
大学の生徒さん、ホーチミンのガイドさんは
日本料理店付近のホテルへ帰る。

私は宿舎へ帰り、残っている仕事をしようと
日本料理店を出る。

日本料理店前にリー君がオートバイで待ち伏せ。

「先生、飲みましょう・・・・」との甘い誘いに
ついつられ、リー君のオートバイに乗り、
バオミンホテル入り口の路上飲み屋へ。

1時間ほど飲んでいるとバオミンホテルへ
戻ってくる日本人が次から次へと
通る。

税田さんを呼び込む。午後9時過ぎ、
富岡先生を呼び込み、午後10時位まで
飲む。


路上飲み屋のオーナーが私のことを良く知っていて
(私は全く面識はないが)一緒に仲間に入り、
20年前からの様々な活動の様子などを
話す、というのかオーナーが詳しく知っていた。
フエの町は、見ていないようで「外国人」、
特にフエに住み着き、様々な活動をし、新聞や
テレビに良く出るJASSのスタッフについては、
色々な所からの「眼」があることが良く分かった。
更にリー君の今後の人生なども話し合う。
色々と自分の人生を真っ当に考えられる
年齢(25歳)になったのだと実感した。
伊達に年は取っていないと感ずる。

午後10時過ぎ、リー君の飲酒運転オートバイ
に乗り、宿舎まで送ってもらう。

投稿者 koyama : 2013年03月15日 14:00

コメント