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2012年07月28日
槌谷「憲一さんの告別式に参列
快晴
午前10時、自宅を出て昨夜の葛飾区金町にある葬祭場へ。
12時から告別式の法要が始まる。
葬儀委員長は、葛飾区長さん。
喪主はご長男。二人の小さなお孫さんが、祖父の死の意味が
分らないのだろうかチョロチョロしていた。こんな
様子を見るにつけ、悲しみが一層増してくる。
葛飾区長が葬儀委員長として、長男が喪主として挨拶。
告別式が終わり、火葬場へ。
火葬場には、やはり槌谷憲一さんと一緒に30年前に同じ職場で
働いていた仲間の女性4人が来ていた。挨拶。
皆さんのー元気そうな様子を見て安心した。
骨上げ式まで参加。
葬祭場へ戻り、簡単な食事。
今日は30年ぶりに会った元の職場の皆さん、初めて
話した方など古い人たちと出会いの場でもあった。
槌谷憲一とインターネットで検索したら、私の火炎樹日記が
出てきた・・・・、と槌谷憲一さんの都立東葛飾高校の
同級生が近寄って話しかけてくれた。
槌谷憲一さんは、都立東葛飾高校時代、新聞部などに入り、
ベトナム戦争反対闘争などを行い、高校生として活発な
政治活動を行っていたとのこと。その後、大学で70安保闘争に
参加し、槌谷さんなりの政治的な信念が、固まってきたとのこと。
葛飾区長の葬儀委員長挨拶では、日本社会党員としてかつどうした
との言葉があった。生花には、「民主 葛飾」があった。
槌谷憲一さんのご冥福をお祈りする。
小型携帯用のパソコンが壊れてしまう。
これから1週間程、火焔樹日記は書き込みができないかも
しれない。
2012年07月27日
ダナン→インチョン(ソウル)→成田:友人葬儀参列
午後6時フエから車で2時間半。午後8時半、ダナン国際空港着。
午後時、ダナン空港発インチョン(ソウル)行きの大韓航空機に
乗る。午前3時半(韓国・日本時間午前5時半)インチョン空港
到着。
インチョン空港にて日本時間の午前9時過ぎまで4時間ほど待つ。
午前9時過ぎの飛行機で成田へ。12時前成田着。
そのまま自宅へ。急いでシャワーを浴び、五反田のブライセン本社へ。
藤木社長・森田総務部長といくつかの問題について協議する。
ブライセン本社では来年春採用予定の新入社員候補者の研修を
行っていた。ベトナム人留学生も一人入っている。
現在ブライセン本社で研修をしているVU君・PHAP君・LINH君
の研修の様子を視察。手ごたえのある研修をしているように
見えた。
その後、ブライセン本社を後にして友人槌谷憲一さんの通夜へ。
午後6時半頃到着。通夜は葛飾区の金町で行われていた。
25年間、会っていなかったのだが、今回の急死に私はかなり
強い衝撃を受ける。年が一緒だということもあるだろう。
30歳代の働き盛りの5年間を一緒の職場で過ごしたという
こともあるだろう。
多くの人々が集まっていた。槌谷さんの高級関係の広さを
物語っている。
自宅着、午後9時半、自宅着。
昨夜から3時間程しか寝ていないので、早く寝ようとしたが
蒸し暑い。我が家はエヤコンがあるのだが、使わず
「節電」に邁進する主義のようだ。トホホ・・・・
2012年07月26日
バオミンさんご生誕40周年記念祝賀会:日本料理店会議
快晴 猛暑
午前5時半起床。
午前7時朝食。チャオバインカイン。
午前9時、ベトナム事務所へ。
後藤先生が、ブライセン社員に日本語を教えていた。
午前9時過ぎ、「バオミンさんご生誕40周年
記念祝賀会」開催。
後藤先生・古賀先生が、ベトナム事務所を代表して
記念品と記念の寄せ書きを贈る。
その後、会議室で記念祝賀会。コーヒーやジュースなどを
飲みご生誕を祝う。
ベトナム事務所員とブライセン・スタッフをあわせると
18人となる。(ブライセン・スタッフ3名は訪日研修中)
30分ほど皆さんで懇親。
その後、バオミンさんと二人で1時間ほど、当面の
諸問題について話し合う。
午前11時半、昼食。春雨麺
午後1時間ほど昼寝。非常に疲れる。暑さのためか?
その後、今夜6時に宿舎を出て緊急帰国する
ための荷物整理。
午後3時過ぎ日本料理店会議。
7月28日結婚するチャンさんが、既に1ヶ月の休暇を
とっている。現在、3人のスタッフで日本料理店の仕事を
している。古賀先生・後藤先生のサポートがなければ
仕事が進まない。
8月、チャンさんは結婚休暇で休むという。この辺の
ベトナム人の思想が理解できないが・・・・・。
8月は多くのスタディーツアーや来客がある。
緊急の助っ人に栃木の佐藤さんに来ていただくことを
日本料理店スタッフに知らせ、協力して8月の難局を
乗り切ろうと話す。
午後6時、宿舎を出てくるまでダナン空港へ。
2時間半。午後8時半にダナン空港へ着く。
チェックイン手続きを終え、待合室でこの日記を
書く。
午後10時50分ダナン発→インチョン(ソウル)行きの
大韓航空機に乗る。
ーーー
2012年07月25日
「子どもの家」入所希望者宅訪問:内田さん帰国
快晴
午前5時半起床。
午前7時朝食。カニ団子入りブン。
血を凝固させたものは、大の苦手なのだが。何とか食べた。
午前9時、バオミンさん・後藤先生・ロック寮長と一緒に
「子どもの家」入所希望の家庭訪問を行う。
この19年間、「子どもの家」入所希望の子どもたちの家庭訪問は
必ず行っている。私がフエにいる時には100%参加している
フエ在住、19年の体験から、「家が貧しい」「家庭が困っている」
という主張で支援を求めてくる人たちの中には、一定程度「うそ」
をいう人たちがいる。私たちは、多くの日本の支援者の支援で
活動が可能となっている。子どもたちへの支援は、確実に
「困っている子どもたち」にすべきだとの確とした考えを持っている。
実際に家に行き、家庭の様子、ご両親などの仕事、生活の
実際を自分の目で見る必要がある。今まで、何度も騙された
経験がある。その上にたっての取り組みである。
フエから車で国道1号線を北上。クアンチ省の近くの農村。
フエを出て1時間15分。
父親(44歳)は病気(腎臓病)。仕事ができない。母親(47歳)
は狭い農地で米を作っている。(家族の食べられる分程度)。
祖母(73歳)は、眼が悪い。
長女(中2:15歳)ー入所希望。
長男(小5)
月収は40万ドン程度(1500円)。自作で米と庭で野菜を作っている
ので何とか家族4人が最低食べていけるといった現状である。
ロック寮長が「戸籍を見せてください」という。
母親が戸籍を出してくるが、古いもので、現状を反映していない。
家庭の状況等を総合的に勘案し、入所を決定。
近くに川があり、洪水が多いという。常時舟を用意している。
長女は夏休み中の8月には、住所を「子どもの家」に移動し、
9月からの新学期から「子どもの家」で生活することとなった。
更に車で20分。
父親(42歳) 母親(35歳) 長女(14歳:中2)
次女(小4 9歳) 長男(小2 7歳)
父親は、家の横で自転車修理工
母親は、路上で「ペットボトル」「空き缶」を拾って生活している。
二人の月収を合わせて5000円程度。
到底、家族5人で生活するのは、難しい。
家の隣の「自転車修理場」
両親は14歳の長女の入所を希望。
ロック寮長、バオミンさんと協議、入所を受け入れる。
今日は長い1日だった。確かに相当疲れた。
しかし、2軒の家庭の皆さんにとっては、子どもの
一生が左右される大事な「面接日」でもある。
私もバオミンさんもロック寮長も後藤先生も「子どもたちに
心を寄せて」親身になって、話を聞き、入所を決定したと
思っている。
私たちはお役人でも公務員でもない。仕事のためにこの活動を
しているわけではない。飽くまで子どもたちの幸せを願っての
活動である。「お役人仕事」を徹底して排除したいと心に誓って
いる。
午後12時半、宿舎に帰る。
簡単な昼食。今日は暑くて食欲ゼロ。
2時間ほど、昼ね。
午後3時半、内田さんが、帰国。丁度、1週間のフエ滞在であった。
日本料理店での食事。バーベキュー大会、象の滝、海鮮料理店、
朝のバイキング料理、すっぽん料理店、共産党委員長との夕食会、
チャオバンカンの昼食・・・・・・、休む暇なく活動された。
内田さんの活動の全てが子どもたちのため か スタッフの
ためになることばかり。1週間のフエ滞在に深謝。
内田さん・ソン君・メンさん・バオ君というソン一家と私で
フエ空港まで見送り。
夕方、荷物の整理。明日は、友人の通夜・告別式参加のため帰国。
2012年07月24日
緊急日本帰国の手続き
午前5時起床。暑い
朝食。「フォー・ボー」(牛肉入り米麺)
洗濯。
日本の山西さんからメール受信。
33歳から38歳までの5年間、仕事をした東京都教職員組合
であるが、その時、一緒に仕事をした書記の槌谷憲一さんが
昨日急逝されたとの報を受ける。大きな衝撃。
私と同じ1947年(昭和22年)生まれ。同じ政治環境の
中で育ち成長した世代だ。意見を異にしたとはいえ、強い衝撃を
受ける。
早速、通夜・葬儀の日程を聞く。7月27日通夜・28日葬儀との
こと。人間としてどうしても彼の通夜と葬儀には参列したい。
バオミンさんにお願いし、何とか緊急の日本帰国の切符を
調べてもらう。
午前11時、内田さん・バオミンさん・古賀先生・後藤先生
ソン君と一緒に「チャオ・バイン・カイン」の専門店へ。
一人2杯食べる。バオミンさん・ソン君は唐辛子を
たくさん入れるので、真っ赤な「チャオ・バイン・カイン」となる。
日本人の麺(少量の唐辛子)
午後12時半、宿舎へ。
2時間ほど昼寝。
その後、ブライセン関連の仕事。
ベトナム事務所関係の仕事などを行う。
何度かバオミンさんと電話で打ち合わせ。
夜7時。次男と電話で打ち合わせ。
午後8時、故槌谷憲一さんを偲んで一人で部屋で
1983年から1988年位の5年間に「どんな体験」
「何が起こったのか?」を思い出しながら
槌谷憲一さんとどんなことがあったのかを思い出し
つつ、フダ缶ビール2本、純米大吟醸「国香」、
そして、愛用のラオディー「ラム酒+チップ」を飲む。
これは、槌谷憲一さんへの「献杯」である。
悲しいことである。近未来、自分自身がこうなるのかと
思っている。30歳代、それぞれの思想を胸に抱き
「ぶつかりあった」仲である。槌谷氏は新左翼の急先鋒。
私は、そうした過激な路線には賛同できなかった。
今は昔。人生と人間の生き方、あり方を槌谷憲一さんの
逝去を契機に改めて考えざるを得ない。
私の人生も既にその晩年。あと、何年「活動が出来るのか?」
「生きていられる」ではない。私は長生きを求めていない。
充実した人生を生きて、早々に父母兄弟のいる世界に生きたい
といつも念願しているのである。
今、個人的に欲しいものは何もない。お金も地位も何も要らない。
何かこの世の中に少しでも役立てる自分でありたいと願うだけで
である。
こうした私の思い、考えを理解していない人もいるようだ。
悲しいことではある。物欲がなくなった人間を責める人間もいる。
私は人を責める気持ちもなくなっている。
どうぞご自由に私を責めてください、という気持ちしかない。
今、私がしたいのは、目の前の困難を抱えた子どもたちの
ために何かできないか?ということだけである。
私は時間がない。今、一応「元気なうち」に、もう少し、リー君や
子どもたちの人生が、「好転するよう」な取り組みをしたいと思っている
だけなのである。
槌谷憲一さんの急逝は、本当に今の私に強い衝撃を与えた。
自分も近いうちに同じことになる・・・・と確信している。
それだからこそ、何とか、元気なうちに本当に自分のしたい
ことをやっておきたい。30歳代の槌谷との間のその様々な軋轢を
今は「思い出」として、自分自身は、昇華している。
槌谷憲一さんに感謝し、どうしても通夜と葬儀には参加する
絶対的な義務があると自覚している。思想・信条は多少違って
いても団塊世代の仲間である。
わが恩師「平野皓二先生」が2008年に亡くなった時に
私の人生の大筋は「終わって」いるのだ。
そして、昨夜、槌谷憲一さんが亡くなった。
悲しいという言葉では言い表せない。悲しいのではなく、
自分が「そうなるのだ」と一層実感したのである。
時間がない。一応、何とか元気なうちにもう少し、
やりたいことがある。頑張らなければならない。
その元気の素は、①フダビール ②純米吟醸「国香」
③ラオディー「ラム酒+チップ」
やっと今の歳になって父親が「飲まないで生きていけるか?」
と毎日キリンビールを朝から1ダースのみ、夜は毎晩宴会
をし、52歳で急死した気持ちが本質的に理解できる。
一番、嫌っていた父親の生き方を踏襲している自分が今いる。
良い、悪いの問題ではない。
今夜は「多少」深酒をして槌谷憲一さんを偲ぶ。
どんな時間的な無理があっても槌谷憲一さんの
通夜と葬儀に参列したい。「ご苦労さん」と言いたい。
ただそれだけである。団塊の世代の同士としての
連帯だと思っている。
2012年07月23日
理髪店:前フエ市共産党人事部長宅へ
午前5時半起床。
今日は終日曇り。しかし、湿度が高い。終日、気分が悪かった。
午前7時朝食。チャオ・バイン・カイン
午前9時、徒歩で「理髪店」へ。途中、地元の警察署前を通ると
リー君が「オートバイ」警備員をしていた。「どうだい、景気は?」
と聞くとポケットから札束を出した。1台見張りすると2000ドン(12円)。
目の子算で見ると10台程度のオートバイが置いてあった。
この時点で2万ドン(120円)の収入という訳だ。1日勤務で5万ドンから
10万ドン程度の収入があると推定される。
ただし、来客ゼロの日もある。リー君は、オートバイ警備員は
「大もうけできる良い仕事」と自慢していたが、こんな不安定・
その日暮らしの生活もない。ストーリートチルドレン時代と
基本的には、「精神」「心」は変わっていないように推測する。
24歳の今が、「人生の分かれ道」。何とか、決まった収入で
生きていけるような生活に慣れるにようになって欲しいと
心から念願している。今後、何らかの方策を考えようと
密かに思っている今日この頃である。
フエ市の要所には、「革命烈士・傷病者の日 65周年」
の大きな看板が設置されている。
以下、看板の内容
革命烈士の日65周年
全人民は革命に貢献し負傷した烈士とその家族のお世話
支援をしよう
JICAと協力して4年間、フエ市・フエ省・山岳少数民族の
障害児支援を行った経験がある。
2000人の障害児(ベトナムでは、近眼も男性包茎も障害児扱い)
の障害児を見つけたことになっているが、各障害児の家庭を訪問し
北ベトナムや解放戦線の子弟で障害児になっている家庭は、
相当立派な家に住み、それなりのケヤーをされていた。
しかし、南ベトナムの人たちは、本当に貧しい生活・家庭の
中でケヤーも手術も出来ずに放置されている実態を見た。
傷病者の日が革命関係者だけでなく、全てのベトナム国民
の障害者を支援する日であって欲しい。どこの地域出身で
あろうと、家庭が、どのような思想であろうと、障害児(者)は
全てベトナム国民である。全ての障害児(者)が、思想信条に
関わりなく、幸せになって欲しいものである。
30分ほどで散髪終了。3万ドン(120円ー現在円高中)
徒歩で30分。宿舎へ帰宅。
いくつかのメールに返信。
午前11時半、昼食。「おじや」
午後1時から2時間半ほど横になる。非常に強い疲労感あり。
暑さと湿度のせいか?
午後4時、バオミンさんと地球の歩き方スタディーツアーについて
打ち合わせ。
今回からスタディーツアーの一部を変更。
私の講演会(2時間)を午前と午後、それぞれ1時間ずつに分けた。
午前中は、ベトナムの歴史と風土。午後は、海外支援・ボランティア。
午後5時、内田さんとバオミンさんが宿舎の近くへ来てくれる。
車で20分。前フエ市共産党人事部長トアンさんのお宅へ
招待される。
フエ市共産党ユン委員長、フエ市人民委員会ニエン外務部長
も同席。
久しぶりに内田さん・私・バオミンさんと会食する。
すずめの「姿焼き」
ユンフエ市共産党委員長・トアン前フエ市共産党人事部長
右端 イックホアン・フエ市人民委員会外務部副部長(私の教え子)
左 JASS運営委員長 バオミンさん
右 フエ市民委員会外務部長 ニエンさん
内田さんと前フエ市共産党人事部長トアンさんの奥さん
19年間、フエ市人民委員会外務部長としてJASSを支えて
くれている「ニエン・外務部長」
トアン前人事部長の娘さんと内田さん
トアンさん一家と小山・内田さん
右からトアンさん ユンフエ市共産党委員長
しめに トアンさんに奥さん手作りの「チャオ・バイン・カイン」
美味しい
午後8時半、閉会。
2012年07月22日
内田さん:ソン君家族:日本人教師と昼食会
午前5時起床
猛暑
午前7時、センさんが昨日作っておいてくれた「春雨麺」を
半分食す。
午前中、受信メールなどの確認、必要な送信。
昼前、ソン君家族と内田さんが、宿舎の近くに迎えに来てくれる。
内田さんとソン君家族(メンさん・バオ君)、古賀先生・後藤先生
で天安山中腹にある「スッポン料理」専門店へ。
この店はフエでは高給料理店なのだが、結構多くのお客が
来ていた。フエの経済発展の一端を物語っている。
ソン君・メンさん・バオ君
スッポン料理
午後3時半までスッポン料理などを食べながら、世間話をする。
その後、近くにある「ウーロン茶」専門店へ。
フージー茶・鉄観音茶を飲む。香りと味が良い。気持ちが
落ち着く。
古賀先生とバオ君
午後4時半、中国茶専門店を出て、市内へ戻る。
午後5時過ぎ、宿舎着。
当面のいくつかの課題についての対策と計画を考える。
1992年8月にホーチミン市を訪ねてベトナムを知った。
ストーリートチルドレンを知った。
それから20年。フエに19年滞在。ソン君やメンさん、
子供のバオ君、更にソン君家族を長年支援してくれている
内田さんなどと知り合えるというのも「人生の何かの縁」
だと思っている。
更に古賀先生・後藤先生との出会いも人生の縁である。
夜7時。フダビール2本。
ラオス「ラム酒+ウイスキーチップ」。
これは本当においしい。味は高給ラム酒の甘さ。
香りは、ウイスキーの木のチップの香り。
これ以上の美味しいお酒はないと実感している。
こうした美味しいお酒を考えたのは、だれなのだろうか?
相当「のんべいか、賢い人間」である。
2012年07月21日
カメリアホテルで「バイキング朝食」-ベトナム事務所員会議
朝から湿度が高い。生きているだけで「立派」と思っている。
午前6時半起床。
午前7時過ぎ、電動バイクで10分程の「カメリアホテル」へ。
しばらく待つと内田さん・古賀先生・後藤先生・ソン君来訪。
5人でカメリアホテル屋上へ。朝食バイキング。
野菜・肉・麺類・米類・ヨーグルト・チーズなど多彩な朝食。
一人85000ドン(350円程)
5人で1時間ほど雑談をし朝食、お茶を堪能する。
雲ひとつない快晴の真夏の青空。
その後、ベトナム事務所へ。
午前9時半からベトナム事務所員会議。
1ヶ月半ぶりのベトナム事務所員会議への参加
ベトナム事務所員の皆さんも暑い中、頑張って仕事をしている。
感謝
以下、バオミンさんからの報告
日本料理店のチャンさんが7月28日に結婚式をする。
招待状をもらった人(全員)は7月28日午前7時半に
ベトナム事務所へ集合とのこと。
7月31日から8月29日まで栃木の会の佐藤さんが
ベトナム事務所・日本料理店へ手伝いに来てくれる。感謝。
チャンさんが、結婚のため一昨日から1ヶ月間日本料理店
を休む。その間、調理の手が圧倒的に足りない。
佐藤さんの「助っ人」に期待している。
日本料理店の子どもたちへの佐藤さんの来訪についての
説明会を行うこととする。
JASS静岡の会事務局長の笠井先生の教え子で現在東京
の大学生のFさんが主導し、7人の大学生が「子どもの家」等に
くる。8月30日・31日、9月1日の3日間。その日程等を相談する。
その他、いくつかの件で協議をする。
午前10時半頃ベトナム事務所員会議終了。
炎天下、宿舎へ帰る。途中、例の幼稚園前の路上の「居酒屋」に
リー君がいた。(私は気づかなかったが・・)リー君が路上居酒屋から
飛び出してきて、「先生、今度のチャンさんの結婚式には、自分も
出たい。ベトナム事務所が用意する車で一緒に行きたいが、
いいですか?」とのこと。「いいよ」と話す。
「リー君、午前中からお酒を飲んではだめだよ」と注意する。
「今日は仕事がないから大丈夫です」とのこと。
現在、一人で「自由気ままな生活」を『堪能』しているようだ。
午前11時半、昼食。マカロニ・スープ
午後1時から2時間ほど昼寝。
7月16日の夜、フエに戻ってから1週間。部屋でゆっくり仕事する
時間はなかった。日本滞在中にたまっていたたくさんの仕事を
こなした。暑く、湿度が高い中での活動なので、相当、体力が
消耗している。
フエ帰国一週間、さすがに疲労困憊。
午後4時、から溜まっていた仕事に手をつける。
午後5時の室温40度。(エヤコンをつけて)
室外の日陰で45度。
室内でも暑くて仕事ができない。
汗が噴き出来る。
2012年07月20日
「子どもの家」象の滝ツアー
午前5時半起床。
午前7時朝食。フォー。
午前8時過ぎ徒歩でベトナム事務所へ。
ベトナム事務所からバスで「子どもの家」へ。
(以下、写真撮影は、ベトナム事務所のソン君)
午前9時、「子どもの家」から子どもたち・寮母さん・ベトナム事務所
スタッフ・内田さんとフエ省とダナン市の境に近い「象の滝」に
夏の避暑と観光を兼ねていく。
ベトナム事務所スタッフ
「子どもの家から車で2時間程で「象の滝」に到着。
この「象の滝」ツアーは、内田さんの寄贈によるもの。感謝。
内田さんと日本人スタッフ(日本語教師)
滝の休憩所に着くと直ぐに男子は、トランプを始めた。
休憩所で
「子どもの家」専属医師のタムさんと
右側ーフエ高等師範大学幼稚園科学生のターオさん
フエ芸大4年生のフック君とフエ観光大学を受験し
数日後に出る合否結果を待っているガーさん
いよいよ象の滝に入る
ロック寮長とこどもたち
昼食となる
寮母のキムアンさんの代わりの臨時の先生
バオミンさんと後藤先生
(バオミンさんが水着を着ていない理由がある。泳げない)
ベトナム事務所スタッフ
象の滝ツアーの3大責任者
午後5時、「子どもの家」着。
その後、象の滝ツアーの大成功を記念し
ベトナム事務所・「子どもの家」スタッフ合同反省会を行う。
子どもたちと警備員さんを残して、全スタッフで海鮮料理屋へ。
象の滝・反省会寄贈者の内田さんの開会の挨拶
乾杯
「子どもの家」セン委員長・ニエム寮母さん
1杯目は文字通り「完全に飲み干す」
近くの海で取れた貝。おつまみに最高。
隣のおっさんは「チト酔っ払っている」
後藤先生は色白のせいか? 顔が日に焼けている。
JASS代表とベトナム運営委員長で「飲酒の健康への
重大な影響」を話し合いながら、数回完全な「乾杯」
をする。
この海鮮料理屋の最大の売り物「カニ」。
午後8時ころ閉会となる。
「子どもの家」のこどもたちは、様々な理由で
親に捨てられたり、家庭に居場所がなかったり
両親が死亡したりと
ひとりぼっち で「子どもの家」での生活をしている。
1年に1回、内田さんの御好意でこうした楽しい
経験・体験をすることができる。卒業試験・入試など
こどもたちはこの数カ月本当に大変だった。
今日の滝での楽しい1日は、一生の思い出に
なることと思う。
また、ベトナム事務所スタッフ・「子どもの家」スタッフが一致協力し
仕事をなし終えたという充実感を皆さんもち、明日からの仕事を
更によりよいものにしようとの決意を新たにし、再度、乾杯を
行ったのである。
2012年07月19日
来客対応:恒例のバーベキュー大会
快晴 湿度が異常に高い。
ほとんどエヤコンが利かない。
午前5時起床。
午前7時朝食。今日は旧暦の6月1日。精進料理の日
メール受信・送信。
午前8時半、徒歩でベトナム事務所へ。灼熱の太陽に晒される。
午前9時、日本からのお客さんと懇談。バオミンさんと1時間ほど
懇談する。
その後、日本料理店のチャンさんがベトナム事務所を訪ねて来る。
7月28日午前11時から結婚式をするので是非参加して欲しい。
結婚する相手は、33歳。窓枠作りをしている人とのこと。
小学校を出て、そのまま窓作りをしているという。
結婚式とその後、若干の時間「休暇」が欲しいとのこと。
了承する。
こうしてきちんと結婚の報告と招待状、結婚相手の様子などを
ベトナム事務所に報告することは、「子どもの家」などでお世話になった
子どもたちの最低の礼儀だと思っている。JASSや「子どもの家」を
利用する時は利用し、知らない間に結婚し「子どもの家」を退所してしまう
子供もいる。これは、子供次第である。
チャンさんのように結婚の情報をきちんと伝えてくれて、この間の支援に
感謝するとの仁義を切ってくれる子どもがいることがうれしい。
幸せな結婚を祈る。
午前11時半、昼食。チャオ・バイン・カイン
午後12時半から1時間半ほど昼寝をする。
メールを開くと静岡の笠井先生からメール。
木村百合子さん裁判の控訴審(東京高裁)の
判決が出たとのこと。木村百合子さん「勝訴」とのこと。
うれしい。
滋賀県大津市で中学生が「いじめ」で自殺をしたことが
大きな問題になっている。
木村百合子さんは、静岡県磐田市東部小学校の
新採教員として、指導困難な子どもたちを抱え、
悪戦苦闘。しかし、校長、教頭、研修主任は、木村百合子さんに
「アルバイトじゃないんだ」とか「いつもお前は問題ばかり起こして」
などと暴言を吐き、学校幹部による新任教員「いじめ」とも言える
非道な行いを継続し、4月に新任教師として着任した木村百合子
さんは、9月に自殺するに至った。
ご両親は「わが子が自殺したのは、教育という公務による
死である」との裁判をおこした。静岡地裁は、木村百合子さんの
死を教職という「公務」による自殺と認定。
地方公務員災害補償基金静岡支部は、静岡地裁判決を不当として
東京高裁に控訴。今日の判決で、地方公務員災害補償基金静岡支部
の不当な主張が認められず、木村百合子さん側の勝訴となった。
当然の結果である。
引き続き、地方公務員災害補償基金静岡支部が最高裁に
裁判を持ち込まないよう運動を続けて行きたい。
私が自殺した木村百合子さんの裁判を支援する会の
呼びかけ人になった気持ちの根本は、「木村百合子さんの
無念な自死のあだ討ちをしたい」という気持ちである。
この裁判を通して日本の学校を良くしようなどという以前に
不当に「殺された」といえる木村百合子さんの無念な気持ちの
あだ討ちをしたいという気持ちである。
東京高裁の判決内容の詳細がわからないので、これ以上の
意見は言えない。
午後3時過ぎベトナム事務所へ。午後3時半、ベトナム事務所員の
皆さんと「子どもの家」へ。
今日は、「子どもの家」の恒例のバーベキュー大会。
16回目である。
このベーベキュー大会は、日本の柳沢さん・景山さん・高橋さん・
内田さんの寄付で16年間、毎年行われている。
「子どもの家」の子どもたちも「例年夏に行われる最大の楽しみ」
と位置づけている。鶏肉、牛肉・豚肉をおなか一杯食べられる
機会である。
子供の家のタン君。1993年、4歳で旧「チーラン通り」子供の家に
入所。私がフエに来て最初に作った「子どもの家」の最初の
こどもだった。現在の「子どもの家」まで19年間継続して
生活してる数少ないこどもである。
炭火で焼く「焼肉パーティー」である。
今日のバーベキュー大会寄贈者を代表して内田さんが挨拶。
「子どもの家」在所が長いハイ君。
ベトナム事務所・「子どもの家」スタッフ
鶏肉・牛肉・豚肉
ある意味で贅沢な「炭火焼」。
「子どもの家」の芸術家 フック君
ベトナム事務所スタッフ
「子どもの家」セン委員長と小山
セン委員長と主催者の内田さん
バオミンさんと小山
真ん中は病気療養中のキムアンさんの代理スタッフ。
こどもたちは「物を食べる時の笑顔」が最高
昔取った杵柄か? 空き缶、空きペットボトルをつぶし、
売る態勢に入った。ひとつ 500ドン。
何故かバーベキュー大会の最後に「ロック寮長と古賀先生が
ブランコ」で遊んでいた。
午後5時過ぎ、バーベキュー大会は終了
寄贈者の柳沢さん・景山さん・高橋さん、そして内田さんに感謝。
2012年07月18日
ベトナム事務所会計打ち合わせ:内田さん・ソンーメン家族と夕食会
午前5時起床
朝から非常に蒸し暑い。
午前7時朝食。
チャオ・バイン・カイン(小麦粉のうどん) 唐辛子が強く非常に辛い。
部屋の整理。仕事の整理。
午前9時半。ベトナム事務所へ。日本滞在中に各地の会などを
訪問したが、その際、直接もらったり、銀行振り込みで頂いた
里親基金・「子どもの家」・ベトナム事務所への寄付金などを
バオミンさん・ハンさんに渡す。
同時に現在のベトナム事務所の財政状況の概略報告を聞く。
3人で現在の「子どもの家」・ベトナム事務所の財政問題に
ついて、突っ込んで討論する。
ブライセン日本語学校では、古賀先生が教育中。
午前11時半昼食。野菜サラダ、魚の油炒め、野菜スープ、ご飯
午後12時半から2時間ほど昼寝。
今回は日本から40キロほどの荷物を持ってきた。結構、筋肉に
きている。体中(特に腕の筋肉が痛い)。
ゆっくりと休む。
その後、受信メールへの返信・・・・・。
午後6時過ぎ、徒歩で日本料理店へ。
内田さん・ソン君・メンさん・バオ君(1歳)と日本料理店で食事。
ソン君もメンさんも10年以上、「子どもの家」で生活をし、
大学を卒業。現在、ソン君はJASSベトナム事務所員、
メンさんはフエ市人民委員会外務部員。1歳のバオ君も元気に
生活している。
JASSのj海外支援の基本理念である「子どもたちの自立」には、
時間と手間隙がかかる。ミエミエの」「海外支援」のような派手な
活動は出来ないが、子どもたちに寄り添い、常に子どもたちの
心の痛み、苦しみを共感しながら20年間活動してきた。
こうしたJASSの皆さんの努力の結果が、今日の夕食会と理解している。
こうして、小学校・中学校から育ててきた子どもたちが、自立し、父親・
母親になり、その子供と一緒に食事をするというような事を体験
出来るとは、夢にも思っていなかった。
ソン君と息子のバオ君(1歳)
お母さんのメンさんと息子
お父さんのソン君は8人兄弟でお父さんが亡くなり、「子どもの家」へ
お母さんのメンさんは、御両親が農民だったが、船の事故で
亡くなり、「子どもの家」へ。
お母さんのメンさんの里親を10数年している内田さん。
2年か3年で「自立した」として他国に移る海外支援が
主流の我が国である。20年も「だらだらと支援を続けている」との
JASSへの批判もある。しかし、一時の支援で移り変わる
海外支援に疑義を感ずる。内田さんのように10数年間
続けての支援があったからこそ、今日、ソン・メンの子供と
会うことができたのである。
滋賀県大津市の中学生の自殺問題の経過を見ていると、
教育委員会も校長も「無様な醜態」をさらしている。
出世主義者の実態を露呈している。私は子どもたちや人間の尊厳を
捨ててしまった一部教員の実態の中で23年間教員をしていた。
大津市教育委員会の体質は日本中の教育委員委員会の
体質でもある。現場の学校の先生たちの中には、そうした教育委員会
に迎合し「出世」していくと言うのが、今日のほとんどの日本の
学校現場の実態である。出世のためには、子どもたちまでも犠牲に
している教師群をいやなほど見ている。
教育委員会が本来の役割を果たさなくなった最大の原因は、
教育委員の公選制を止めてしまったことだ。1990年代までは
東京中野区の教育委員は区民の選挙で選び、それを参考に
区長が決定した「教育委員準公選制」が残っていた。
区民の選挙で選べば、市民・区民の常識的な感覚がまだ
生かされる可能性が大きかった。
現在の議会多数の会派が教育委員を
選べば、当然、大勢順応な「大過なく過ごしたい」人間が教育委員に
なってしまう。
大津市の自殺した中学校が文部省の「道徳教育の指定校」だという
ことが、今回の事件の全ての問題を象徴している。
文部省・教育委員会主催の「研究」なるものが、
いかに「イカサマ」かは、大津市の中学校の実態・経過を見れば
判ると言うものである。
学校は、一人一人の子供たちのために必要なら文部省とも
教育委員会とも「闘う」勇気をもった人間がいなければ、
成り立たない。最近、こうした教員が激減していることは
残念である。
学校は、子どもたちを「生きるように教育」する場であり、
どんな子供たちも「生きる権利」があり、幸せな人生を
歩む資格があると言うことを教師・学校が自分の人生を
賭けて実践しなければならない。自分の出世のためには
平気で嘘をつくような人間が闊歩している現在の教育の
世界には、吐き気を模様す。そうした中で、良心的に
頑張っている教職員に敬意を表しい。
午後6時半、内田さん、ソン君、メンさん、長男のバオ君と
日本料理店で会食。
午後9時過ぎ散会。
宿舎への帰途、例の幼稚園の前の路上で「リー君」と
ブライセンのホア君(在宅支援だった)が、二人で飲んで
いる。
お付き合いをする。リー君は相変わらず「政治」に精通している。
「先生、中国の侵略主義的な現状をどう思いますか?」との
質問。中国の前に自分の不安定・その日暮らしの生活をこそ
改善すべきなのだ、などと思ってしまう。
現在、警察にくる人のオートバイを「自主的」に警備する
ことで何がしかのお金をもらっている。収入の見通しがなく、
毎日収入が変わると言う非常に不安定な生活である。
リー君の現状の生活に「苦言」を呈した。
リー君との付き合いは長い。19年になる。
リー君が6歳で路上生活をしている時からの付き合いである。
現在のような「その日暮らし」の生活から脱して欲しい。
今後、リー君の生活、人生について、更に寄り添って
行きたいと決意した次第である。
日本の教育委員会や学校のように「屁理屈をこね回し」
結局、子どもたちを救わないという「逃げ」を決め込むような
ことは」あってはならない。
宿舎着 午後11時。
その後、若干、飲酒の復習。與芝君からもらった
「ラム酒+ウイスキーチップ酒」を本当に軽く「仕上げ」に
復習酒として飲む。おいしい。
グラスに氷を入れ「お酒」を注ぐ。なんとも言えない香りと味。
午前0時、就寝。
2012年07月17日
ベトナム事務所:フエ市人民委員会外務部:「子どもの家」
午前5時起床
室外気温 35度 湿度70%
午前7時朝食。1ヶ月ぶりにセンさんの食事を食す。
「フォーボー」(牛肉の米麺)
午前9時、徒歩でベトナム事務所へ。
バンベー41号を持って。ベトナム事務所員の1枚ずつ配布。
ベトナム事務所の皆さんもも元気に仕事をしている。感謝。
ベトナム事務所には、内田さんが来て挨拶・懇親。
ミス「フェリシモ」のアンさん。
お子さんが1歳になったソン君。すっかりお父さんの貫禄が
出てきた。
ベトナム事務所の仕事に慣れた後藤先生。
安心して財政を任せられるハンさん
(古賀先生はブライセンスタッフの日本語教育中)
その後、バオミンさん・内田さんといくつかの件について
意見交換。
内田さんがホテルへ戻る。
引き続きバオミンさんと「子どもの家」の子どもたちの
自立について協議。
この夏に大学を卒業する「子どもの家」の子どもたちの
その後の進路・就職口について、私たちの出来ることを
相談する。子どもたちの希望を良く聞き、その希望にあうような
就職先を「様々な人脈」を使い、実現するよう努力することで
意見一致。
午前11時半昼食。おじや
1時間ほど昼寝。
午後2時過ぎ、ベトナム事務所へ。
バオミンさん・内田さんと一緒にフエ市人民委員会外務部へ。
外務部長のニエン氏といくつかの問題を話し合う。
その後、バオミンさんと一緒に「子どもの家」へ。
「子どもの家」の子どもたち「一人一人」の自立・進路について
セン運営委員長と話し合う。
不明な子どもは呼んで直接本人の気持ちを聞く。
午後3時。フエの一番暑い時刻。
男子は、暑さと高湿度と闘い「床で寝て」いた。正しい態度。
ミンさんとベトナム事務所へ戻る。
ブライセンのセキュリティー問題について突っ込んだ
意見交換をする。
午後5時過ぎ、帰宅しようとしたが、電動自転車の
ロックがかかってしまい、動かなくなる。
バオミンさんに電動自転車を買った店に持って行ってもらう。
私は、パソコンの充電器が壊れてしまい、パソコンが使えなく
なったので業者を呼んで充電器を買い換える。
午後7時過ぎ、何故か「のどが渇く」。
軽く缶ビールを飲む。本当に・本当においしい。生きている「実存感」
を感じる。
その後、與芝君(ラオディー)からもらった「ラム酒」と
「ウイスキー・チップの香り」のお酒に氷を入れて本当に
「軽く」「軽く」少し飲む。
何しろベトナムへ帰ると「ストッパー」が居ないので
どんなお酒でも自由に勝手にどれだけでも飲める。
そうした環境の中で「冷静に」「自律し」お酒を
「適量飲む」技術をしっかりと身につけた、身につけつつある、
みにつけそうな現状にある、身につけたかもかもしれ
身につけることを無視して飲んでいるのどれかは、知らないが
適量のラム酒を最後の仕上げに飲む。
個人的な嗜好で言えば、日本酒は、静岡の「国香」。
洋酒では、ラオディーの「ウイスキーチップ入りラム酒」が
一番好きである。
2012年07月16日
成田→ホーチミン→フエ
午前10時発の飛行機に乗りフエへ「帰国」。
バンベー41号を200数十部持って帰るので
荷物の総重量36キロ。
スーツケースとキャリーバッグそして手荷物に
分けて空港へ。
何とか36キロの荷物をチェックインカウンターで受け付けてもらう。
午前10時成田発。午後2時過ぎ、ホーチミン市着。
ホーチミン市は34度。
午後4時10分、ホーチミン市からフエへ。
機内からのフエ市の様子を撮影。
フエ着午後5時半。機内放送では、36度とのこと。
車で宿舎へ。体中、汗まみれ。
午後6時半。日本料理店で内田さんと日本料理を
堪能する。内田さんは、今日の午前中にフエ着とのこと。
午後9時半、日本料理店を出て、宿舎へ。
1ヵ月ぶりの宿舎生活。
2012年07月15日
高校同級生とJASS支援の話し合い
午後3時。東京池袋の「例のライオン」で高校同級生の
五井君・與芝君・福田さん北田君と「子どもの家」支援ついての
話し合い。
與芝君たちから、フエのリー君などの支援の具体的な
提案があった。ありがたいことである。
直接JASSに関係ない高校同級生3人ではあるが、
「子どもの家」に2回来てくれている。どういうわけか
分からないが、リー君の「行く末」を心配してくれている。
今回は、具体的なリー君の再起・支援案を提起してくれた。
與芝君は、私の生まれた大塚の家の近くに住んでいる。
その後、私が大塚→林町→池袋→板橋大和町に引っ越したが、
五井君は板橋区大和町の近くに住んでいたせいもあり、高校時代
から五井君の家に良く遊びに行った。初めてウイスキーをコーラで
割って飲んだのも五井君の家だった。
福田さんは、私が池袋に住んでいた時、豊島区立文成小
低学年で同級生であった。その後私は板橋に引っ越したが
高校でまた同じクラスになり、3年間一緒に勉強した中である。
與芝君・五井君・福田さんとは、それぞれに何かの縁が
あることも事実である。
ラオスでラム酒を作っている與芝君から新しいラム酒を
もらう。ラム酒に「ウイスキー」の樽のチップを入れて、
香りをつけた特殊なラム酒。ウイスキーの木の香りと
ラオディー「ラム酒」の甘みがマッチしている。
フエでかなり強い「ラム酒・ウイスキー」をたのしもう。
2012年07月14日
故木村百合子さんのお母さんと懇談
自死した故木村百合子さんのお母さんと東京で裁判について
協議。
2004年4月に新規採用された木村百合子さん。
静岡県磐田市立東部小教諭として。
新規採用以降、校長・教頭・研修主任などからの
度重なる「パワハラまがい」の仕打ち、指導困難な
こどもたちを抱え苦闘した上の自死だった。
木村百合子さんは、静岡大学教育学部学生の頃、
授業で私のフエのでストリートチルドレン支援活動を
学習し、JASS静岡の会に入り、ストリートチルドレン
支援活動を行って来ました。フエの「子どもの家」にも
何度か来て、こどもたちのお世話などもしていました。
とても心のある有能な人物だった。
2004年4月に待望の教職につき、9月に自死した
木村百合子さん。なぜ、あれだけ教師になることを
希望していた木村百合子さんが自死したのか?
9月に自死した後、御両親は、教育という「公務」
に就いていることによる死であるとの裁判を
起こした。地方公務員災害補償基金側は、
「木村百合子さん自身が持っていた気質が自死の
原因」と主張。
木村百合子さんの御両親は、「学校側のクラス担任配置、
指導困難なこどもたちの担任にしたこと、何度も苦しみを
校長・教頭などに訴えたが、管理職は、木村百合子さんの
悲痛な訴えに耳をかさず、却って度重なる暴言・侮辱の
言葉を木村百合子さんに浴びせたこと」が自死の原因と
主張。
静岡地裁は、木村百合子さん側の主張を認め、
「公務災害」と認定。しかし、地方公務員災害補償基金側
東京高裁に控訴。
2012年5月10日、東京高裁に移された裁判の初公判が
行われた。
裁判長は、5月10日の1度の公判で結審。7月19日に
判決を言い渡すことで閉廷。
通常、高裁で実質審議をしないままで結審した場合は
一審の判決が覆ることはないとのこと。
何とか、木村百合子さんの無念な気持ちを晴らすためにも
二審勝利を期待したい。
2012年07月13日
ベトナム帰国諸準備
今回の日本滞在は40日間。
その間、3分の2はJASS関係の諸活動をしていた。
今日は、必要な物資の調達、里親会費担当の渡辺さんから
振り込まれた里親会費を銀行へ行き下ろす。
バンベー41号 200枚をフエへ持って帰るのだが、
スーツケースに入りきれない。色々と工夫をする。
2012年07月12日
札幌から東京へ
札幌は雨。
午前9時半、ホテルをチェックアウトし、札幌から
新千歳空港へ。
少し出発が遅れたが、午後4時過ぎ無事羽田着。
4日間の札幌滞在だった。池戸さん、札幌の会員の
皆さん、ベトナム人、シンガポール人などと交流。
特に札幌・ベトナムの会の皆さんは、18年ものお付き合いで
ある。
皆さんに深謝。
夕方、自宅へ。青少年・教育の会の加藤さんから電話。
2012年07月11日
札幌東急「アジアン・フェスタ」:札幌・ベトナムの会懇談会
札幌は快晴
午前8時、コンビニおにぎり2個食す。
その後、札幌駅前の東急百貨店でおこなわれている
「アジアン・フェスタ」会場を視察。
この「アジアン・フェスタ」に参加しているベトナムサンダル・バッグ
の専門店「シクロ」経営者の池戸さんが出店している。
池戸さんは、今年の2月初旬に来日したベトナム共産党幹部
フエ行政幹部による「フエ投資セミナー」に参加された。
その後、池戸さんご自身がフエを視察され、「子どもの家」
刺繍土産物店からシュシュ・巾着などの刺繍を買って
頂き、御自分のお店や今回の「アジアン・フェスタ」に
出品・販売。
「子どもの家」刺繍土産物店から出荷した製品を
日本人は評価し、買うのか? 買わないのか?の実情
視察。同時に池戸さんのご意見なども伺う。
1週間の「フェスタ」中、600人程の来店があったそうだ。
特に7日(土)・8日(日)には、たくさんの来客があり
「子どもの家」刺繍土産物店から納品したシュシュなどの
全ての製品は売り切れてしまったとのこと。
全体の売れ筋は、「巾着」「ポーチ」・・・・。
今回は札幌駅前の「高級感」がある「東急」での販売なので
多少「高級感」のある製品を陳列したとのこと。
サンダルよりも「雑貨」や「高級衣料」などが
売れているとのこと。
「シクロ」の池戸さんたちと
「アジアン・フェスタ」には、ベトナム以外のアジア諸国からも
出店があった。
2時間程、「シクロ」の店を視察した。今日の午後5時に
「アジアン・フェスタ」は閉会する。
その後、ホテルに戻り、休息。
ベトナム事務所・その他、関係者とメール送受信。
午後7時、ホテルにベトナム・札幌の会の鹿又さんが
迎えに来てくれる。
近くの居酒屋で懇親会。今回は、ベトナム雑貨店を経営している
Vさん親子、シンガポール人で日本の観光会社の札幌支店に
勤務しているAさんが参加。Nさん、Kさん夫妻は、10数年前に
札幌の会が出来たあと、直ぐにJASSの活動に参加した皆さん
である。長いお付き合いである。
鹿又代表。1967年からサイゴンに住んで日本のテレビ製造
会社の社員としてテレビを修理していた。
K先生とベトナム人でベトナム雑貨店を北海道で経営している
Vさん。
午後10時まで懇親会は続く。
2012年07月10日
北海道芸術高校酒井理事長と懇談
午前中、ホテルで仕事。
午前11時、ホテルをチェックアウト。
フロントへ行くと菊先生がいる。
詳しく話を伺うと私が泊まった小樽駅前のホテルの
隣に住んでいるとのこと。
しばらく話をする。
午後1時、札幌で北海道芸術高校の坂井事長と
今春スタディーツアーでフエに来られた阿部先生と
懇談。
北海道芸術高校は仙台にも校舎を持っている。
2011年3月11日東日本大震の際には、
仙台で卒業式をしていたとのこと。大変な
体験をされている。日本のこどもたちを本当に
心配し憂慮しいるのは、坂井理事長のような
ひとたち。
今の日本の教育情勢などを話し合う。
今後とも「子どもの家」へのスタディーツアー実施に
ついて話し合う。
午前中テレビで国会中継をみた。うんざり。意見の違いも
あるが、基本的には「知性と人間性の欠如」。
2012年07月09日
北海道へ
昼過ぎ自宅を出て、羽田へ。
飛行機が30分程遅延。
新千歳から列車が1時間以上遅れ車内で待機させられ、
小樽に着いたのが、夜の8時過ぎ。
途中の「平和駅」で線路に人が出たとの情報があり、
1時間以上も車内にいるはめになってしまった。
運の悪い1日だったが、何とか小樽に着く。
2012年07月08日
明日からの北海道行きの準備
終日、雨、曇り。夕方太陽が出る。
北海道行きとベトナム「帰国」のための買い物、荷物の整理、
準備を行う。
多数のメール受信・送信。
2012年07月07日
JASS栃木の会代表の佐藤さんと懇談
JASS小山代表ベトナム渡航20年記念特別ツアー
(来年は「子供の家設立20周年」。
渡航20周年を記念したツアーを企画し、現在募集中
8月16日(木)~8月23日(木)
締め切りは7/12(木)。その後は要相談。
・フエ(「子どもの家」・王宮・・・・)
・ハノイ(ハロン湾)
・ラオス・ルアンパバーン、と世界遺産を
私と関係者同行で周遊しながら、本当のボランティアについて
語り合う内容。
問い合わせ先
株式会社ピース・イン・ツアー
担当:小山耕太
電話: 03-3207-3690
ーーーーーーーーーーーーーーー
午後4時。JASSと栃木の佐藤代表と懇談。
栃木の会の今後の活動方針、内容などを
話し合う。
2012年07月06日
ラオスラム酒販売促進会議
蒸し暑い。時々小雨
午前中、仕事の整理。
多数のメール受信。返信。
フエ帰国の準備。荷物整理。
午後自宅を出て、大塚へ。
大塚は、私の生まれた所。
夕方からのラオスラム酒販売促進会議の
待ち合わせ場所が、地下鉄丸ノ内線の
新大塚。
私の生家から徒歩5分。
10年ぶり位だろうか? 久しぶりに生家を
訪ねてみる。全く変わってしまっていた。
生家は大塚公園の脇の「旧第百銀行」の隣にあった。
生家は春日通りに面していた。昔は都電が走っていたっけ。
私の生家も含めて春日通りに面した家はほとんどが
高層マンションに変じていた。
わずかに4軒ほど昔のままの家が残っていた。
生家の前に「帽子屋」があった。生家の目印。
しかし、帽子屋もなくなっていた。
大塚公園からの距離で生家は分かった。
今は、10階建のマンションになっていた。
ふっと、子供の頃を思い出した。
(写真左側が生家)
新大塚にあるベトナム料理店で「ラム酒販売促進会議」
お店には、フエにあるフエフーズの「焼酎」が置いてあった。
懐かしく思い注文。気がつくと1本は、直ぐに空になっていた。
今後のラオスとフエでの業務提携、「子どもの家」や
貧しいこどもたちの支援などについても話し合う。
今後ともフエの「子どもの家」支援のために様々な
形で応援を続けてくれるとの話であった。
與芝君も五井君も16歳からの高校の同級生。
50年もたってから高校同級生から、フエでの
活動支援の話をももらえるのは、ありがたいことで
ある。
3人とも「前期高齢者」に突入。もう元気に活動
できる時間も短くなった。
『無駄なことに時間を使いたくない』と言う気持ち
は一致していた。
お互いの仕事をサポートしながら、人生の後半部を
社会的に意義のある仕事をしていきたいと話し合った。
そうこうしているうちに午後11時となる。
帰宅。
2012年07月05日
心臓病院通院
蒸し暑い
午前9時、自宅を出て新宿都庁前へ。
午前10時半過ぎ、先日行った狭心症精密検査
の結果を専門医から説明を受ける。
心電図の結果綴り等を示しながらの説明は、患者を
納得させるに十分なものであった。
心電図に異常あり。心臓の筋肉の活動が弱い
という心電図上の徴候はみられる。
この検査だけで結論を出すのは、早いので
もう少し状況を観察したほうが良い。心臓の
痛みなどを感じる場合は直ぐに受診してほしい、
との説明。納得する。
福島原発当初の「原発村」の学者の
「直ちに影響はない」との説明のような、
何となく、「直ち」を過ぎたら、異常が現れるのか
などと考えてしまう。いずれにしろ、年齢的なこと、
20年近く狭心症の治療うけていること、狭心症
治療の薬を飲んでいることなどを総合的に
勘案すると「注意」「イエローカード」であることは
事実だ。過労・心労・ストレス、そして「飲酒」に
注意。
2012年07月04日
ブライセン本社へ
真夏日
午前10時半、電話でベトナム事務所の古賀先生・後藤先生
と話をする。
午後1時過ぎに五反田にあるブライセン本社へ。
総務部長さんや総務などの担当者と打ち合わせ。
ブライセンベトナム支社の「セキュリティー確保」について
具体的な打ち合わせをする。
盗難からベトナム支社を守るための各種の施策。
パソコン関連のセキュリティーの確保についての
具体的な方策を話し合う。ウインドウズ7の設定、
ウイスル対策・・・・・・・。
途中で藤木社長も顔を見せる。
===============
今日(7月4日)朝日新聞 32面の作家「藤原新也」の
『私たちは国土と民を失った」は、全国民の気持ちを
代弁している論文である。
副題「水俣病、そして原発事故」。
福島原発と水俣病は類似している。企業のずさんな
安全管理による破たんと有毒物質の放出。生物濃縮。
危機にさらされる国民の生活と命。罪なき動物の犠牲。
海の汚染。企業のウソとそれに追随する官僚・政府・・・
チッソと東電の居直り。
水俣病では土地と家、家族は残った。
しかし、福島では、国土を失った。そして、その国土
に住む国民から土地や家を奪い、流浪の民に
追いやった。
石原都知事が守ろうとしている尖閣諸島・魚釣島
の面積は3,8平方キロ。福島原発事故で失った
国土は飯館村だけでも230平方キロ。
飯館村だけでも尖閣諸島の100倍。
こんな第一級の緊急時にドジョウの誠実を
騙った野田さん、あなたは消費税法案成立に
政治生命をかけると言った。
大飯原発の再稼働にも政治生命をかけていた
らしい。
しかし、いま一国の長が政治生命をかけるべき
ことは明白だ。この広大な国土の喪失に対し
どう対処するかであり、日本を破壊に導くかも
知れない福島第一原発4号機の倒壊阻止、そして
路頭に迷う国民をどう救済するかである。
(途中、一部略)
2012年07月03日
狭心症精密検査
曇り・小雨
午前8時半、自宅を出て新宿へ。
心臓病病院へ。しばらく待たされ、午前11時に
狭心症の精密検査。20年前から虚血性心疾患との
病名で治療を続けている。
昨年から2回ほど地下鉄の階段を駆け上った後、
数分間、気絶する経験あり。最近、心臓全体に
痛みを感ずる、こんな症状を感じたので、
精密検査を行った。
回転するベルトコンベアーの速さを調節しながら
その上を歩くのだが、スピードが出てくるとかなり
きつい。15分程。体に10数個の電極を付け、
血圧計も付けての計測。
結果は、明後日わかる。再度、明後日、通院し
結果を聞く。
ーー
多数のメール受信。
税田さんと電話で話す。
夕方、バオミンさんと電話で打ち合わせ
2012年07月02日
区役所へ
快晴
午前中、バオミンさん・税田さんと電話で話す。
午後、板橋区役所へ。区民税・都民税申請へ。
午前10時頃。シャワーを浴びていると玄関の
チャイムが「ピンポン」となる。困った。仕方がない。
石鹸だらけの体を急いで拭いて玄関へ。
若い女性。東京ガスから来ました、とのこと。
宣伝で来られるのは迷惑なので、若い女性に
「宣伝ですか? それとも東京ガスの公的な件ですか?」
と聞く。公的な件とは、ガス代未納・ガス漏れ点検・・・の
ような話。
若い女性は「公的な件です』と答える。
それではと話を聞くと「東京ガスから来ました。
家のリフォームをしませか?」とのこと。
この時点で「頭に多少血が上る。
東京ガスを名乗って、結局は「家のリフォームの
宣伝」。
若い女性は事実上「嘘を言った」訳だ。
若い女性を注意する。ピンポンと玄関の
チャイムがなると「強制的」に玄関に行かざるを
得ない。そういう意味では、玄関のチャイムは、
家人に強制力をもっているのだ。
若い女性は、私が言っている意味がわからない
ようだ。
直ぐに若い女性の所属する「東京ガスライフバル」
の某支店に電話をする。担当者は私のいっていること
理解できない。
私の言っていることは①東京ガスを名乗って「嘘」を
言ってはいけない ②こうした各戸訪問は、近所の
迷惑。
仕方がないので東京ガスのコールセンターに電話。
コールセンターの係りの人は、「御意見を伺いました」
という趣旨でそのままおかまいなし。
しかたがないのでコールセンターの責任者をだして
もらう。コールセンターも下請会社。
責任者は私の言うことを理解し、地域の東京ガスの
支店のような所に連絡指導するとのこと。
夕方、地域の東京ガスの責任者から電話。
「気分を悪くさせて申し訳ない」とのこと。
わたしは、気分を悪くしていない。嘘を言ったり
責任を感じていないことに苦情を言ったのだ」というのだ
が・・・・。
地域の責任者に「コールセンターからの問題提起を
聞いていますか?」と質問。
地域の責任者は、「社員のだれかが、コールセンター
からの話を聞いたが、私は知らない」とのこと。
地域の責任者は、何が問題となっているのかを全く
知らずに、表面的に「ごめんなさい」と言って、
一件落着にしたいとの思いはミエミエ。
誠意のない会社である。
日本社会の「劣化」がいわれているが、こうした
現実を体験してみると確かに「日本人自身が劣化
していること」は事実であると実感した。
誰も責任を持たない社会が出来上がっている。
2012年07月01日
栃木県小山市日本語学校へ
晴れ 午後雨
午前8時、自宅を出て池袋へ。湘南新宿ラインで栃木県
小山市へいく予定だった。しかし、新宿湘南ラインは
2系統あり、池袋駅2番線と3番線。その区別が分からず、
2番線で待っていたが、逗子に行くライン。
結局1時間遅れて、11時半頃、小山駅へ。
駅では、坂本文子さんが、待っていてくれた。
坂本文子さんの車で市内のTBC国際外語学院本部へ。
所長さんと日本語教育の主任の方と懇談。
栃木県には外国人在住者が多数いる。
外国人や日本人移住者の近親者などを雇用する工場・会社などが
多数ある。
2012年の外国人在住者統計
宇都宮市 7288人
小山市 4918人
真岡市 3343人
足利市 3117人
那須塩原 2058人
佐野市 2048人
栃木市 1844人
大田原市 1250人
鹿沼市 1012人
日光市 610人
想像以上に多くの外国人が栃木県に在住していることが
分かる。
しかし、日本語があまりできない外国人が子供を産み、
その子供も更に日本語ができない現状である。
しかもこどもたちは、母国語もできず、日本語もできないという
現状がある。人間は言語が話せることで「思考」が可能となる。
公立学校の現状は、こうした外国人の子弟に有効な手だてを
打てていない。
今日の話し合いは、これらの多数の外国人子弟の日本語
教育(既に母国語もできない、日本生まれのこどもが多い)
もうまくできていない。
私たちで何かできないか? をテーマに話し合う
3時間程の話し合い。
坂本文子さんの車で小山駅まで送ってもらう。
夕方、池袋着。