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2012年07月24日

緊急日本帰国の手続き

午前5時起床。暑い

朝食。「フォー・ボー」(牛肉入り米麺)

洗濯。

日本の山西さんからメール受信。

33歳から38歳までの5年間、仕事をした東京都教職員組合
であるが、その時、一緒に仕事をした書記の槌谷憲一さんが
昨日急逝されたとの報を受ける。大きな衝撃。
私と同じ1947年(昭和22年)生まれ。同じ政治環境の
中で育ち成長した世代だ。意見を異にしたとはいえ、強い衝撃を
受ける。

早速、通夜・葬儀の日程を聞く。7月27日通夜・28日葬儀との
こと。人間としてどうしても彼の通夜と葬儀には参列したい。

バオミンさんにお願いし、何とか緊急の日本帰国の切符を
調べてもらう。


午前11時、内田さん・バオミンさん・古賀先生・後藤先生
ソン君と一緒に「チャオ・バイン・カイン」の専門店へ。

一人2杯食べる。バオミンさん・ソン君は唐辛子を
たくさん入れるので、真っ赤な「チャオ・バイン・カイン」となる。




日本人の麺(少量の唐辛子)

午後12時半、宿舎へ。

2時間ほど昼寝。

その後、ブライセン関連の仕事。
ベトナム事務所関係の仕事などを行う。

何度かバオミンさんと電話で打ち合わせ。


夜7時。次男と電話で打ち合わせ。

午後8時、故槌谷憲一さんを偲んで一人で部屋で
1983年から1988年位の5年間に「どんな体験」
「何が起こったのか?」を思い出しながら
槌谷憲一さんとどんなことがあったのかを思い出し
つつ、フダ缶ビール2本、純米大吟醸「国香」、
そして、愛用のラオディー「ラム酒+チップ」を飲む。
これは、槌谷憲一さんへの「献杯」である。
悲しいことである。近未来、自分自身がこうなるのかと
思っている。30歳代、それぞれの思想を胸に抱き
「ぶつかりあった」仲である。槌谷氏は新左翼の急先鋒。
私は、そうした過激な路線には賛同できなかった。
今は昔。人生と人間の生き方、あり方を槌谷憲一さんの
逝去を契機に改めて考えざるを得ない。

私の人生も既にその晩年。あと、何年「活動が出来るのか?」
「生きていられる」ではない。私は長生きを求めていない。
充実した人生を生きて、早々に父母兄弟のいる世界に生きたい
といつも念願しているのである。
今、個人的に欲しいものは何もない。お金も地位も何も要らない。
何かこの世の中に少しでも役立てる自分でありたいと願うだけで
である。
こうした私の思い、考えを理解していない人もいるようだ。
悲しいことではある。物欲がなくなった人間を責める人間もいる。
私は人を責める気持ちもなくなっている。
どうぞご自由に私を責めてください、という気持ちしかない。
今、私がしたいのは、目の前の困難を抱えた子どもたちの
ために何かできないか?ということだけである。

私は時間がない。今、一応「元気なうち」に、もう少し、リー君や
子どもたちの人生が、「好転するよう」な取り組みをしたいと思っている
だけなのである。
槌谷憲一さんの急逝は、本当に今の私に強い衝撃を与えた。
自分も近いうちに同じことになる・・・・と確信している。
それだからこそ、何とか、元気なうちに本当に自分のしたい
ことをやっておきたい。30歳代の槌谷との間のその様々な軋轢を
今は「思い出」として、自分自身は、昇華している。
槌谷憲一さんに感謝し、どうしても通夜と葬儀には参加する
絶対的な義務があると自覚している。思想・信条は多少違って
いても団塊世代の仲間である。

わが恩師「平野皓二先生」が2008年に亡くなった時に
私の人生の大筋は「終わって」いるのだ。
そして、昨夜、槌谷憲一さんが亡くなった。
悲しいという言葉では言い表せない。悲しいのではなく、
自分が「そうなるのだ」と一層実感したのである。
時間がない。一応、何とか元気なうちにもう少し、
やりたいことがある。頑張らなければならない。
その元気の素は、①フダビール  ②純米吟醸「国香」
③ラオディー「ラム酒+チップ」


やっと今の歳になって父親が「飲まないで生きていけるか?」
と毎日キリンビールを朝から1ダースのみ、夜は毎晩宴会
をし、52歳で急死した気持ちが本質的に理解できる。
一番、嫌っていた父親の生き方を踏襲している自分が今いる。

良い、悪いの問題ではない。

今夜は「多少」深酒をして槌谷憲一さんを偲ぶ。
どんな時間的な無理があっても槌谷憲一さんの
通夜と葬儀に参列したい。「ご苦労さん」と言いたい。
ただそれだけである。団塊の世代の同士としての
連帯だと思っている。


投稿者 koyama : 2012年07月24日 20:41

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