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2014年05月31日
バンベー45号発送作業:静岡の役員懇談
東京は晴れ。
午前5時起床。入浴。
朝食を作る。味噌汁、ご飯、キャベツと卵の炒めもの、
昨日作り始めた「糠漬け」(20%程度の浸かり率)
午前8時半、自宅を出て地下鉄大手町経由東西線で「浦安」へ。
午前10時から「浦安市民センター」バンベー45号の発送作業に
参加。JASS日本委員長福田さん、副代表山西さん・佐藤さん
東京代表中村さんをはじめ、JASS東京の面々が参集。
手分けして1時間半程でバンベー45号を約1000通
会員等へ郵送する。
バンベー45号の郵送作業を終え、引き続き
JASS東京総会を開催。
午後12時過ぎ、総会終了。閉会。
私は引き続き、JASS静岡の会の皆さんとの懇談の
ため、急いで東京駅へ。
午後1時半頃東京駅発の「こだま」で静岡へ。
静岡駅には静岡の会事務局長の笠井先生が
出迎えてくれる。
1時間程、笠井先生のお宅でお茶を頂く。
笠井さんの奥さんが「煎茶」の作法に造詣が深い。
美味しい煎茶を頂く。
午後4時、静の会員の方々と懇談。JASSベトナムの
活動の今後の一層の取り組み強化についてなどを
話し合う。
午後9時過ぎ、閉会。静岡駅付近のホテルに投宿。
2014年05月30日
日本帰国
午前8時(ベトナム時間午前6時)成田着。
刺繍台がターンテーブルから出てこない。
空港スタッフが、持って来てくれる。
スカイライナーで日暮里→巣鴨→自宅。
午前11時自宅着。
妻は海外旅行中。
急いで家の近くのお米屋さんに行き「米ぬか」を買う。
1升で100円。
米ぬかに捨て野菜(キューり・人参)を入れ、
昆布、煮干し、その他の調味料を入れ、
適当な塩を温水に溶かし、米ぬかを混ぜる。
数か月ぶりにお風呂に入る。フエではシャワーのみ。
缶ビールを飲む。
午後1時過ぎから昼寝。
「宅急便」でJASS機関誌「バンベー45号」が届く。
一読する。
今回のバンベー45号は、ベトナム事務所の態勢が作れず
苦労した。
ピースインツアーから電話。
明日は、朝から浦安市民センターへ行き、バンベー45号の
発送作業。その後、新幹線で静岡へ行く予定。
夕方から帰国中の日程の整理。
フエ→ ホーチミン市→成田→自宅との移動は
疲れる。
早目に寝る。
2014年05月29日
フエ市長、ベトナム事務所訪問
快晴
午前7時朝食。今日は旧暦の5月1日。
毎月、旧暦の1日と15日には、精進料理を食べる。
朝食「精進ブン麺」
フエ市人民委員会イックホアン外務部長より
電話あり。タン・フエ市長が「小山先生が
今日日本に帰国することを知り、挨拶に行きたい」
とのこと。
タン市長の家は、我が宿舎の近く。
私の宿舎まで挨拶に来るとのことだったが、
申し訳ないのでベトナム事務所でお会いする。
タン市長・イックホアン外務部長と私の3人。
タン市長より『餞別』に「乾燥海老」を頂く。
バオミンさんは、仕事でダナンにいる。
タン市長と「8月2日」の「子どもの家」創立20周年
記念式典について話し合う。
式典場としてフエ市人民委員会(市役所)を貸して
くれるとのこと。
午前11時半。昼食。「肉のおじや」
食欲なし。
この2ヶ月程、本当に暑い。20年フエに住んでいるが、
こんなに暑い経験は初めて。
疲労と食欲なりの二重の打撃を受ける。
午後4時半、ソン君が宿舎へ迎えに来てくれる。
今回は、刺繍台の荷物が大きいので、ソン君が
心配し、フエ空港まで付き添ってくれるとのこと。
午後5時過ぎ、フエ空港着。
刺繍台が大きく文句を言われる。
午後6時フエ空港発。
午後7時20分、ホーチミン空港国内線着。
ホーチミン空港国際線で約5時間待機。
ホーチミン空港で刺繍台が、「オーバーサイズ」とのことで
ターンテーブルに乗らない。オーバーサイズ置き場に置けという。
その後、どうなるかの説明がない。
5月30日、午前0時20分、ホーチミン空港発。成田へ。
2014年05月28日
元「子どもの家」厨房責任者フオンさんお見舞い
今日も終日猛暑。暑い。
エヤコンを満杯にしても部屋で仕事をすると
体中に汗が流れ出る。疲労困憊。
午前7時食事。
「フォー・ボー」(ハノイ名物牛肉米麺)
6月日本帰国中の諸準備。
荷物の整理。
エヤコンを100%にしても体から汗が出てくる。
午前11時半、昼食。
『海老入りブン麺』
食後1時間程昼寝。暑い。
読書「獄中記」(佐藤優著:岩波書店)
午後3時半、徒歩でベトナム事務所へ。
ベトナム事務所会計部長のハンさんと一緒に
フエ中央病院へ。
1994年から「子どもの家」の厨房責任者を
してくれていた肝っ玉母さんの「フオンさん」が
心臓の病気でフエ中央病院心臓科に入院。
55歳で定年退職した後は、ハノイの
親戚で生活していた。料理のフオンさんは、
独身。私と同い年。67歳。
ハンさんとお見舞いに行く。
高血圧と血液が固まり始め危険な状況になっている
とのこと。
1ヶ月の入院治療費は、20万円とのこと。
公務員の平均的な月給が2万円から3万円の国である。
毎月、年収ほどの治療費を払う「社会主義国」とは
何であろうか? ニセ社会主義と言うしかない。
異常に高額な治療費に言葉が出ない。
バオミンさんの指示でベトナム事務所としては2500円
のお見舞金。私は個人的に5000円のお見舞金を
持って行ったが、全然足りない。
「子どもの家」のために10年もの間、奮闘してくれた
フオンさんへのJASSのお礼の気持ちの表し方に
ついて、個人的に再考しなけらばならないと思った。
午後5時。日本料理店の夕食。
富岡先生は日本語学校の仕事。
日本料理店長のトゥオイさんに
ヤギのミルクの発酵したものを作ってもらう。
半分程度の発酵状態なので、美味しくなかった。
もう少し発酵すると美味しくなる。
午後9時過ぎ。閉店。来客は日本人1人。
こういう日もある。
2014年05月27日
日本帰国荷物・日程整理
快晴 猛暑
午前6時起床
午前7時朝食。
『肉団子・豚肉入りブン麺』
午前8時半、ソン君が洗濯機修理業者を
連れてきてくれる。
色々な所をいじっていたが、最終的には
「回線が湿気で濡れてしまっている」とのこと。
「ヘヤードライヤー」で湿気を取る。
直ぐに直る。
日本では起こらない故障である。
湿度が異常に高い今日この頃である。
午前11時半、昼食。
食後、1時間程昼寝。エヤコンが効かない。
明後日(29日)日本帰国のための荷物の整理。
結構時間がかかる。
午後5時半、徒歩で日本料理店へ。
日本料理店の子どもたち、日本人スタッフの
夕食。アヒルの卵焼き
8月の試験に向けて猛勉強中の石井君
富岡・川原先生が日本語学校から帰ってくる。
午後9時半までに8人の来客あり。
最後の来客は「チェコ共和国」から来た女性2人の
観光客。
午後9時半、閉店。
2014年05月26日
「子どもの家」刺繍みやげ物店へ
快晴・猛暑
午前7時朝食。
「肉団子入りチャオ・バイン・カイン」
午前9時半、ソン君がオートバイで迎えに来てくれる。
「子どもの家」刺繍みやげ物店へ。
北海道石狩で行われる「子どもの家」絵画展に
飾る「刺繍作製台」を「子どもの家」に取りに行く。
午前11時半、昼食。
「肉団子入り春雨麺」
午後3時。ソン君が石狩「子どもの家」絵画展に
私が持っていく「刺繍制作道具」を梱包して
宿舎へ持って来てくれる。5月29日にフエを出て
ホーチミン→成田と運ぶ。
29日フエ出発、日本への帰国の荷物等の整理
午後5時半、宿舎を出て徒歩で日本料理店へ。
日本料理店の夕食。石井君・川原先生・富岡先生
の夕食
河原先生。元気に日本語学校の先生をしている。
感謝。
今日の来客は二人。日本人。
日本料理店スタッフも暑い中、頑張って仕事をしていた。
少しずつ日本料理店の仕事に慣れてきたハーさん
日本料理店の中心としての自覚が出てきて、接客と
調理の二つを頑張ってやっていグエットさん。
午後9時過ぎ閉店
2014年05月25日
終日部屋で仕事
今日は日曜日。
終日休養専念。
午前10時起床。
いくつかの仕事をする。
午後12時過ぎ、電動バイクで「ベトナムほか弁」
を買いに行く。5万ドン(250円)。
フダビールを飲みながら「ほか弁」をおつまみに
ブランチ。
2時間程昼寝。熱暑。
ベトナムのいくつかの問題を文章にして整理する。
午後7時、フダビールを軽くのみ、読書。
「1995年」。
5月29日の夕方フエを発ち、5月30日の朝、成田着の
予定で一時帰国。
5月31日(土)午前10時、浦安で行われる「バンベー45号
発送作業」に参加予定。
6月は、埼玉・栃木・札幌・石狩などで講演会などを
行う。
夜、ベトナムテレビを見る。女子サッカー「アジアカップ」
の決勝戦(日本対オーストラリア)を見ようとしたが
放送されていなかった。ケーブルテレビ(30チャンネル程度)
なのでCNN・BBC・NHKワールドなども放送されてるのだが・・
地元ベトナムテレビもドノチャンネルでも放映されていなかった。
放送権料の問題などがあるのだろうか?
2014年05月24日
日本帰国準備
快晴 猛暑
午前5時起床
午前7時朝食。
午前中、バオミンさんといくつかの問題で
打ち合わせ。
日本帰国の準備。荷物、日程、持ち帰る品物
などの準備。
午前11時半、昼食。
午後1時間ほど昼寝。
その後読書「1995年」
1995年は1月に「阪神淡路大震災」があり、
4月に「地下鉄サリン事件」。
戦後2度目の社会党主が首相(村山富一:自社さ連立)
「ウンドウズ95」が発売され、本宅的なIT社会に突入。
午後5時半、徒歩で日本料理店へ。
日本料理店スタッフ、日本人教師2人、石井君と
全員が夕食中。
富岡日本料理店責任者と3人の
ベトナム人スタッフが、協力して仕事をしていた。
日本料理店責任者として富岡先生も奮闘中。
今日は4人の来客あり。
午後9時過ぎ、閉店。
2014年05月23日
日本料理店会議:フエ市人民委員会外務部訪問
快晴 猛暑 午後、豪雨。
午前6時起床。
午前7時朝食。
「フォー・ボー」(牛肉入り米麺)
午前中、6月日本帰国中の日程調整。
関係者と連絡を取り合う。
洗濯
帰国の荷物整理
午前11時半、昼食
「肉入りおじや」3分の1程食す。
1時間程昼寝。
急に豪雨。大きな雨音で目が覚める。
午後3時。日本料理店会議。
6月、1ヶ月日本へ帰国し講演会などを行う。
私が日本料理店にいない事態に陥る。
日本料理店会議で日本料理店の責任者に
富岡先生に就任してもらうことにした。
私の不在中の6月の日本料理店運営に
ついて話し合う。
今後は、富岡先生を日本料理店の責任者とし、
日本料理店の日常問題の管理を行い(開店・閉店等・・・)
バオミンさんが最高責任者となり、「人事・給料等」
を担当することも話し合う。
新人ハーさんが体調を崩し今日は休むとの連絡あり。
日本料理店スタッフにハーさんの病気を説明し、
みんなでハーさんを応援して、仕事を進めて欲しいと
話す。日本料理店スタッフも了解してくれる。
「子どもの家」卒業生のメンさん(縫製店経営)が
日本料理店へ。ハーさんの日本料理店作業着を
作って持って来てくれる。
午後4時前、フエ市人民委員会国際交流センターへ。
ニエン前外務部長(越日交流委員会委員長)と話し合う。
フエ郊外の農村が疲弊し、子どもたちが多く、学校へ
いけない子どもたちも多い。
「子どもの家」から農村地域まではかなり距離もあり
毎日農村地帯に行くことも出来ない。
フエ市人民委員会と協力し、フエ省全体の農村、
山岳地帯を重点に「」困難を抱えている家庭」との
連絡体制を作ることとする。
都会と農村部の経済格差は増大している。
20年前のようにフエ市内にたくさんの
ストリートチルドレンがいた時代は既に終わっている。
フエ市郊外、更に純農村部・山岳地帯などに
目立たないままに「貧困と経済格差」を甘受せざるを
えない家庭が多い。
こうした子どもたちへの支援を強化する方針を
2月の東京での「現地報告会」で決定した。
その具体化をする。
フエ市国際交流センターのメインに
静岡市議団のフエ訪問の際の写真が大きく
引き伸ばし貼ってあった。
午後4時半、宿舎へ一時帰る。
疲れたので1時間程横になる。
午後5時半、徒歩で日本料理店へ。
石井君とトゥオイさん・グエットさんが
夕食を済ませる。今日は、ハーさんが体調を
崩し休む。
午後6時40分。日本語学校で日本語教育を
終えた富岡先生・川原先生が日本料理店へ
戻り夕食。
今日は午後9時までに4人の来客あり。
午後9時過ぎ閉店。
徒歩で宿舎へ帰る。
2014年05月22日
火炎樹日記アクセス数70万を超える
2002年8月に開始した火炎樹日記。
12年弱、毎日コツコツと日記を書いてきた。
今日、丁度70万アクセスに到達した。
火炎樹日記の読者に感謝したい。
私の拙い日記をお読み頂きありがとう。
『何事も続けることに一つの意味はある』と
思っている。
個人的には、次から次に活動を変えるような
人生は歩きたくない。一つのことを始めたら、
人が何を言おうと、自分が納得できるまで
やってみたいという生き方をしたいものだ。
その時々の「時流に乗って」活動を次から次へと
変えていくような生き方には、馴染めない。
『要領の悪い生き方』をしたいといつも念願している。
人に押し付ける気は全くないが。
=====
今日も朝から35度以上の気温。
終日、熱暑で体と心が動かない。
午前6時起床。
午前7時朝食。
『肉団子・豚肉入りブン麺』
5月30日に日本へ帰国する。6月1ヶ月間
日本で講演会をする。講演会諸準備。
バオミンさんといくつかの問題について
電話で打ち合わせをする。
バオミンさんも5月26日から10日間ほど
ツアーの添乗でダナン方面に行く。
私も不在。
ベトナム事務所運営の責任者を決める。
午前11時半、昼食。
「海老入りブン麺」
昼食後2時間程昼寝。暑い。とにかく暑い。
午後、10通ほどの受信メールに返事を出す。
バオミンさんと私の不在中の問題について
打ち合わせ。
明日、フエ市人民委員会との話し合いをする
段取りを依頼する。
体がだるい。1時間程横になる。
午後5時半、徒歩で日本料理店へ。
石井君と日本料理店のスタッフ3人が夕食。
川原先生・富岡先生は日本語学校で夕食が
遅い。
川原先生は体調を崩している。
夕食に「唐辛子」を入れない食事にする。
富岡先生用の「普通の夕食」。唐辛子満杯。
午後6時40分。富岡先生と川原先生が日本料理店へ
戻り、夕食を摂る。
今日は7人の来客あり。厨房は大忙し。
午後9時半、閉店。
徒歩で宿舎へ帰る。室温35度。
2014年05月21日
日本料理店臨時誕生会
快晴 真夏 猛暑
午前6時起床
午前7時朝食。
「フォー・ボー」(牛肉米麺)
午前中も猛暑でエヤコンを使っても室内は
35度。汗を流しながら仕事をする。
新ベトナム事務所HPの内容について
いくつかの件を訂正。
日本料理店のいくつかの件について、
バオミンさんと話し合う。
午前11時半昼食。暑い。
『肉団子入りチャオ・バイン・カイン』
食後昼寝をしようとしたが、暑くて眠れない。
読書「1995年」(速水健朗著:ちくま新書)
1995年。社会党の村山内閣成立。
淡路大地震。オウム心理教事件・・・・
戦後日本の転換点だとの主張。
午後5時半、徒歩で日本料理店へ。
日本語学校から帰って来た川原先生。
ベトナム語学習の石井君と日本料理店の
スタッフが夕食中。
今晩の夕食は「カエル料理」。
私は食べられない。
日本人スタッフは、平気で食べている。
素晴らしい。
午後6時半過ぎ、日本語学校から帰ってきた
富岡先生の「誕生会」が始まった。お客さんが
来る開店前に短時間行う。
24歳になった富岡先生
今日は富岡先生の24歳の誕生日。
お祝いに生ビールを飲む。短時間の
誕生祝いをする。
私は、今日が富岡先生の誕生だとは知らなかった。
日本語教師の川原先生
トゥオイ日本料理店長・調理主任
グエット接客主任
日本料理店新人スタッフHAさんと小山
小山とベトナム語研修者 石井君
3人の日本人の常連のお客さんが来店。
午後9時過ぎ閉店。
2014年05月20日
新ベトナム事務所HP打ち合わせ
快晴 猛暑
午前7時。2階から外を見る。既に強い日差し。
エヤコンを100%稼動し、1時間おいても室温は36度。
午前5時半起床。
午前7時朝食。
「チャオ・バイン・カイン」(小麦とキャッサバ芋の麺)
午前8時45分。徒歩でベトナム事務所へ。
途中も強い日差し。
今日は25日。ベトナム事務所は給料日。
ベトナム事務所に入ると何となく「明るい」
部屋の雰囲気だった。
バオミン委員長とハン財政部長。会計問題で
『密談』。
札幌から来ている川原先生。雪国から猛暑のフエでの
生活はかなり大変なようだ。お腹の調子が悪いとのこと。
体もだるい。この数日、部屋で休んでいたい。
夜の日本語学校教師の仕事は頑張っている。感謝。
フェリシモ・刺繍等担当のANHさん。
真面目に良く仕事をしてくれている。
ベトナム事務所の重鎮になっているソン君。
家庭では『座布団の下」なのかどうか?
そうでしょう。
日本語部長のPHUONG先生
日本語教師『今晩は先生』フーン先生
午前9時から10時半位まで「新ベトナム事務所HP」の
内容について、突っ込んで話し合う。
既に分担し以下の
記事の素材は書き上げている。
①JASSの活動について知る
②「子どもの家」
③JASS観光
④日本語学校
⑤日本料理店
⑥刺繍みやげ物店
⑦寄付をする
今日は⑦の「寄付をする」の内容を3人で
時間をかけて話し合う。
午前11時半昼食。
「煮魚」「おじやのようなもの」
魚を少し食べただけ
その後2時間程昼寝。エヤコンを使うが暑くて熟睡できない。
新ベトナム事務所HPの内容いついて検討
夕方、徒歩で日本料理店へ。
午後5時45分。
日本料理店スタッフと石井君が夕食。
今日は来客2人。
午後6時半。富岡先生・川原先生が日本語学校
から帰り、夕食。
糠漬けが美味しくなってきた。
今日来店した日本人に「サービス」としてだす。
午後9時15分、閉店。
午後9時半過ぎ、宿舎へ帰る。
糠漬けと「ヤギのミルク」で作った「チャオ」
に醤油を入れて混ぜると「ビール」のおつまみには
最高。
2014年05月19日
猛暑でベトナム事務所員体調を崩す
午前7時半 気温31度 湿度62%
午前5時起床 床の中で1時間程ボーッとしている。
午前7時朝食。
「ヘオ・ボー」(豚肉入り米麺)
バンベー45号関係の最後の問題の調整をする。
バオミンさんから電話。体調を崩し、休むとのこと。
同時に日本語教師の川原先生も体調を崩し、
バオミン・ホテルで寝ている。
今年は例年以上に猛暑。部屋のエヤコンを満開に
しても室温は、36度である。エヤコンが壊れている
訳ではない。室内での仕事中でも体中に汗が
流れる。何度も水を補給して仕事をする。
こんな暑さはこの20年でも初めての体験。
流石のベトナム人であるバオミンさんも
体調を崩す状態だ。
こうした時は、昼間からギンギンに冷えた生ビールを
飲むのが一番「猛暑対策」にはなるのだが、それは出来ない。
午前11時半、昼食。
「ベトナム風海老入りラーメン風」を3分の1程
食す。暑くて食欲なし。
食後2時間程体を横にする。
6月日本帰国中の講演会日程の調整を行う。
北海道札幌の大学、石狩国際交流協会、
栃木県の大学、埼玉県の公立中学等での
講演会が決まっている。
午後5時半、徒歩で日本料理店へ。
日本料理店スタッフの夕食。
今夜の夕食。竹の子。
川原先生は体調を崩し、ホテルで寝ている。
バオミンさんも体調を崩す。
午後9時15分閉店。6人の来客。
暑い。
徒歩で宿舎へ。
2014年05月18日
1日寝ている
午前9時起床
真夏の太陽。暑い。
午後7時の外気温 32度。暑い。
午前9時半過ぎ、支援者から頂いた
「旭川ラーメン」を温めて食す。
新ベトナム事務所HPの内容を書き足す。
洗濯
部屋の掃除
午後12時過ぎ、フダビールを飲む。
昨夜、日本料理店で店長のTUOIさんから
「唐芙蓉(とうふよう)」の美味しい食べ方を教えてもらった。
豆腐の腐ったような臭いで相当癖のある
たべものだが、きゅうりと醤油をいれると
美味しいとのこと。
今日は、ビールのおつまみに「唐芙蓉(とうふよう)」
に醤油をかけ、糠漬けのきゅうり、人参を入れてみた。
臭いもかなり減り、味がとても美味しくなった。
午後1時過ぎから2時間程昼寝。
夕方まで6月の講演会日程の調整などを行う。
メールの受信・送信。
読書「社会契約論」(ホッブス・ヒューム・ルソー・ロールズ)
非常に興味のある内容。数学の代数を解くようなもの。
バンベー45号編集の有ヶ谷さんから「校正稿ができあがった」
とのこと。わたしの方で更に何箇所かの訂正をお願いする。
明日には、印刷所に入稿する手順。今回は日程も少なく、
有ヶ谷さん、坂本文子さんに大変お世話になった。
改めて感謝したい。こうして見えないところで努力して
いるJASS会員がたくさんいることを理解している。
2014年05月17日
リー君・フック君と昼食会
快晴 真夏の真夏。
午前6時起床
午前7時朝食。
「フォー・ボー」(牛肉米麺)
午前中、バンベー45号の編集。
JASSベトナム新HP原稿を書く
午前11時前。リー君から電話。
宿舎の近くの道路にいるという。
急いで出かける。
リー君と「子どもの家」卒業生で画家のフック君
がいる。フック君は自転車。
3人で「ヤギ肉料理屋」へ。フエ市内の外れ。
昔、住んでいた「ハイリー・ホテル」の近く。
農村地帯だ。
店の前には、『美味しそうな? ヤギさん」がいる。
何となく『目に涙がこぼれている』ように見えなくもなかった。
「ヤギ鍋」をつつきながら、リー君とフック君の
近況を聞く。
個人的には、ヤギ鍋よりも「唐芙蓉」が美味しかった。
野菜は虫に食われている。農薬を使っていない?
リー君は27歳。「子どもの家」在籍5年。
フック君は26歳。「子どもの家」在籍14年。
リー君は、警察門前にあるオートバイの
警備員。
フック君は、町の絵画屋さんに勤めている。
絵画屋さんの家に泊まりこんでいる。
絵画屋さんの社長に頼まれた油絵を
描いている。
オープンエアーの庭で軽く一杯飲む。
午後11時過ぎから午後2時まで色々と話し合う。
私は先に帰る。リー君がオートバイで送ってくれる。
その後、リー君・フック組んで再度飲むようだ。
二人の住んでいる家が「子どもの家」の近くの
ようだ。
二人とも真面目に仕事をして生活しているようなので
一安心。
二人の話題は、「中国の侵略」問題。
二人とも色々な情報を知っていた。真実かどうかは
不明だが、二人の若者が真剣に自国のことについて
話す姿は、それなりに立派なことだと思った。
リー君は相当愛国心に燃えていた。反中国なら
命がけでも戦うというような気持ちに燃えていた。
午後2時過ぎ宿舎へ帰る。2時間程昼寝。
午後5時半、徒歩で日本料理店へ。
午後6時過ぎ、日本語学校の先生が戻り
夕食。
今晩は、8人の来客あり。忙しかった。
新人HAさんもかなり日本料理店の仕事になれたようだ。
8人の来客で厨房は大忙し。
午後9時半閉店。
HAさんは、高校3年の妹が電動バイクで
迎えに来ていた。
徒歩で帰宅。
ベトナム政府・公官からメールが2通入る。
中国問題で「軽挙妄動」をしないようにとの
内容だった。一方的に全国民にメールを
送信している。通信の秘密などはどこかに
飛んでいってしまったようだ。
ベトナム政府としては、一部の暴力主義者・
跳ね上がり分子の妄動で中国や国際世論からの
批判を受けたくないとの気持ちがにじみでている。
リー情報通によれば、明日フエでもデモが行われる
とのこと。警察などのコントロールの下でのデモだと
言っていた。こうした際に一部の跳ね上がり分子が
客観的な状況も踏まえずに暴力・過激行動に走る
傾向がある。これは日本でも同じである。
冷静な対応と行動が求められている。
この2週間ほどの異常な暑さでベトナム事務所の
日本人スタッフは、相当参っている。
私がほぼダウン寸前。川原先生も体調を崩し、
今日は富岡先生も体調が悪いとのこと。
異常な猛暑が2週も続いている。エヤコンが効かない。
こんな時は、体調が悪くなったと感じたら、直ぐに
横になること、食事をしっかり取ることと話す。
私自身は、今日朝食を取ったきりで、昼はビールを飲み、
夜は、日本料理店でビールを飲んで1日が終わった。
体にいいのか?悪いのか?
7月24日から8月19日までベトナム事務所・
「子どもの家」等でボランティアをしたいとの申し入れが
あった。この時期、「20周年式典」や式典参加ツアー、
地球の歩き方ツアー、多数の訪問者がある。
関西地方のR大学を卒業した女性のボランティア希望。
ベトナム事務所で私とバオミンさんと何度か相談、
いくつかの会議も開き、受け入れについて話し合い、
日本料理店スタッフへの英会話の指導、「子どもの家」の
子どもたちへの英語の指導などの内容で「受け入れる」旨の
返信をした。
しかし、関西のR大学卒業生の女性からの返事は
「既に違う団体でのボランティアをします」という
あきれ返る内容であった。
JASSベトナム事務所では、その女性のために忙しい中、
何度も会議や打ち合わせを行い、彼女が「子どもの家」に
来てきちんとした支援が出来るよう時間をかけて配慮をした
のだが、この女性は、そうした「現地」での努力や苦労に
心が至らない人間だった。悲しいというのか、可愛そうな方
である。
私は返信で「ストリートチルドレン支援やボランティアを
考える前に、自分の行動が他人にどうのような影響を
与えるのかを考えた方がいいのではないですか?」
とのメールを送った。海外支援・ボランティアなどという
ものは、自分が勝手に自己満足でするものではない。
相手のいることだ。相手の状況・気持ちなどを斟酌して
自らの行動を決めるのは、最低の任務である。
この女性にボランティアなどということばを使う
資格はない。自分中心で、他人の事情や状況・努力など
への想像力を欠いた人間に支援やボランティアなどと
言う言葉を使ってもらいたくない。他人に迷惑をかけるだけの
ことだ。
2014年05月16日
JASSベトナムHP作成委員会
終日 蒸し暑い
午前5時半起床
昨日、下痢と吐き気で体調を崩した。
まだ後遺症が残る。
既に2週間ほどの「熱暑」だ。体がこの
異常な暑さについていけない。
日本語教師の川原先生も同様の症状で
寝込んでいた。
午前7時朝食。
「豚肉の血の固まりとカニ団子入りブン麺」
ブタの血の固まりには、抵抗があるが
多分栄養になるのだろうと推測し食べる。
午前8時過ぎ、徒歩でベトナム事務所へ。
宿舎からベトナム事務所まで徒歩15分ほど。
今日は祝日でもないのに多くの家庭・お店・ホテルに
ベトナム国旗(金星紅旗)が掲げられていた。
「中国問題」の影響と見た。
『愛国心』への刺激は、非常に危険な行為だ。
「歪んだ愛国心」は、暴走し、権力者の予測を
超えて暴走するものだ。異常な愛国心への
刺激は、結局自己矛盾に陥ることを某国政府は
知るべきである。
(ホテル)
(喫茶店)
大衆食堂
金持ちの一般家庭の門
他の金持ち風の家
旅行案内所
その場凌ぎに立てたと思われる国旗
商店の2階の居室
一般家庭の2階
午前8時半、ベトナム事務所へ。
昨日体調を崩した川原先生も復帰。完調ではないと
思われるので、気をつけて欲しい。
午前8時半。
「JASSベトナム事務所HP」作成委員会開催
(バオミンさんはダナン・ホイアンへお客さんを案内)
富岡先生・ソン君・私の3人で協議。
バオミンさんも含めて4人で分担し、原稿を作成した。
全員の原稿・写真などを見る。
いくつかの話し合いをし、早急に『新HP』が
OPENできるようにするとの意思統一。
日本にいる私の教え子が協力にサポートして
くれている。
日本語教育の打ち合わせでTU君がベトナム事務所
に来ていた。
フエ高等師範大学日本語学科の研修生がJASSベトナム事務所
での2週間の実習を今日、終える。
「新ベトナム事務所HP」作成委員会を終え、
宿舎へ帰る。汗を掻き疲れる。
宿舎で30分程、横になる。
「バンベ「45号」の再校正を行う。
午前11時半。昼食。
「春雨麺」「マンゴー」
マンゴは、甘く・よい香り。本当に美味しい。
昼食後1時間半昼寝。
バンベー校正・「新ベトナム事務所HP]の内容を
チェック。
2階の仕事部屋は、西向き。昼過ぎになると
太陽の直射を受ける。部屋の中はエヤコンを
使ってもほとんど影響がないほど暑い。
バンベーの追加校正を日本の有ヶ谷さんに
送る。
新ベトナム事務所HPの内容を熟読する。
午後5時半、徒歩で日本料理店へ。
石井君と日本料理店スタッフが夕食中。
富岡先生・川原先生は日本語学校。
今日の夕食「豚足の唐辛子煮」
午後9時10分閉店。2人の日本人の来店。
日本料理店スタッフは、仲良く仕事をしていた。
午後9時15分、閉店。
帰宅。
この2週間ほどの暑さは大変なものだ。
体がガタガタになってしまった。
帰宅後、いくつかの仕事。
2014年05月15日
終日「バンベー45号編集」「新JASSベトナムHP作成」
終日、真夏の暑さ。
朝6時。既に真夏の青空。
エヤコンを使っても効果なし。
部屋で仕事をするだけで酷い疲労感。
午前6時起床。
午前7時朝食。
「チャオ・バイン・カイン」(小麦粉の手打ちうどん)
朝から「バンベー45号」の校正を行う。
10ページの文章・文字をしっかり読み、
誤字脱字などを見つける。
全体的に見ておかしくない文章に統一する。
バオミンさんといくつかの件で電話で打ち合わせ。
冬物の衣類の洗濯。2回。整理する。
午前11時半。昼食。
マカロニスープ。3分の1程食す。
余りに暑いので食欲なし。
午後2時間程昼寝。
暑過ぎて体がボーッとしている。だるい。
バンベー45号の校正と「新ベトナムHP」作成の
原稿を作るという困難な仕事に挑戦。
昼過ぎから「吐き気」と「下痢」
今日中に「新JASSベトナム事務所HP」の原稿提出
締め切り。
バンベー45号の校正(1ページずつ詳細に文字の誤字脱字
全体の感じ)などを調整する。結構、神経を使う。
日本から送られた「バンベー45号」の原稿を
私のパソコンでは開けなかった。
午前中、パソコン技師とソン君が私の部屋に来て、
日本の有ヶ谷さんから送られたバンベー45号が
開けない原因を調査し、設定やパソコンそのもの
を直してくれた。1時間半程、時間がかかった。
午後5時半、徒歩で日本料理店へ行こうとした途中。
吐き気と下痢症状が酷く、TUOI店長に電話をし、
今日は部屋で休養すると話す。
TUOI店長、グエット接客主任、HA新任日本料理店員の
3人では日本料理店の運営は難しい。今日は、3人に
任せる。
5月末に私は日本へ帰国し講演会を行う。
その間の日本料理店の責任者は今のままで
行けば「TUOI日本料理店長」が責任を持つことに
なるが、実際的には難しい。この辺の問題を
どう処理するのか? は今月中に結論を出す
私の当面の大きな課題だ。
強烈な暑さと多量な仕事の集中で疲労困憊。
体力が相当落ちている。
午後8時半過ぎまで「バンベー45号の校正」を
行った。
午後9時前、心配なので電動バイクで
日本料理店へ。
今日は7人の来客。4人は、フエ在住の常連のお客さん。
3人が日本人旅行者。7人とも日本人そのこと。
新人ハーさんは、厨房主任のトゥオイさんから少しずつ
日本料理を教えてもらっているようだ。
閉店間際、今日の会計を整理するグエットさん。
TUOI,グエット、HAさんの3人に感謝意したい。
急いで帰宅し、バンベー45号の最終校正を行う。
======
安部首相の記者会見を見た。
日本国憲法の精神では、憲法の解釈権は
裁判所にある。三権分立の精神である。
憲法の解釈・判断は、内閣にはなく、
裁判所にある。
安部首相が勝手に憲法解釈をすることは立憲主義的に
も権限はない。
集団的自衛権は、j結局、海外に日本軍を派遣する
方針である。アメリカが世界で行う戦争の「補完物」として
今回の集団的自衛権の行使は、日本が本格的に海外に
出て行き、アメリカの手下としての戦争を補完する
ということだと思う。その後には、明らかに「徴兵制」が
出てくる。今回の集団的自衛権問題は、「戦争が出来る
日本』を作ることだといえる。傍観している日本の若者
が一番狙われているという事実を知るべきである。
集団的自衛権の本質は「日本が再び海外で戦争をする」
ということである。その時々の内閣が閣議決定で決める法的
根拠はない。
安部首相の説明では、海外でボランティア活動をしている
人たちに何か問題あった場合、現行制度では助けることが
出来ない、と説明していた。噴飯ものだ。
1993年9月1日にフエに来た。外務省設置法で
『ベトナム居留届け」を外務省機関に提出しようと
したが、ハノイの大使館とホーチミンの総領事館の
間で「フエをどちらが、管轄するか?」で意見が一致せず
3年間、ベトナム在留届が出せなかった。
安部首相の日本のボランティアを守るなどと言う言い方は
ペテンそのもの。この20年間、日本国家・大使館等に
守ってもらえたことはない。
鳥インフルエンザの際も「タミフル」をフエでもらう場合、
どうづればいいですか?との質問に大使館の医官は
分からないとの返事だった。大使館のあるハノイ、
総領事館のあるホーチミンでは、何らかの支援が
あるが、日本の公館がないフエでは、自己防衛が
基本だ。ベトナムで20年間生活したが、国家権力は
信用ならない。
内閣が憲法解釈を勝手にすることは、三権分立の
基本原則を否定する暴挙である。
1930年からの日本の軍部の進めた「満州事変」
「日中戦争」の経験を再度思い出すべきである。
もっとも安部首相の祖父は、満州国建設の立役者であり、
A級戦犯として逮捕された祖父(岸信介)を持っていることを
恥として肝に銘じるべきである。
2014年05月14日
ベトナム事務所HP作成準備
真夏 一日中、ボーッとしてダルい。
午前6時起床。
午前7時朝食。
「フォー・ボー」(ハノイ名物牛肉米麺)
急いで朝食を摂りベトナム事務所へ。
午前8時45分。ACCL代表・JASS里親担当の
渡辺さんと懇談。
渡辺さんは、里親寄金をベトナム事務所まで
持って来てくれる。
1994年から里親寄金の担当を続けてくれている。
感謝している。
フエで行われる『ベトナム小児科学会」に出席する
とのこと。小児白血病支援を行っているが、残念ながら
治療のかいなく亡くなった子どもたちの合同供養をする
とのこと。
午前11時半。昼食。
サラダ・スープ・ブタの耳の料理・・・・・
気温が40度近い。
エヤコンが効かないくらい暑い。
午後2時間程昼寝。
新ベトナム事務所HP関連の原稿を書く。
頭が回らない。
バオミンさんと電話打ち合わせ。
ホーチミン市の南部「ビンズオン省」の
工業団地に「中国によるベトナムの排他的経済水域侵略」
に抗議するベトナム人デモ隊が入り、中国企業、
台湾企業、そして日本企業(多分看板に漢字があった)
を襲撃し破壊した、との報道あり。
ベトナム人デモ隊の抗議対象は中国だけだった
のだろうが、漢字を使う台湾と日系企業が襲撃破壊
され、明日からホーチミン市の日本人学校は休校に
なるという。
中国によるベトナムの「排他的経済水域」への侵略は
国際法に基づいても許されるものではない。
中国の大国主義と横暴な態度とベトナム政府の
冷静な姿勢を私たちは、しっかりと見ておく必要が
ある。
既にハノイでも『中国の侵略』に対するデモが起こっている。
フエでも18日の日曜日に『中国の西沙諸島への侵略』に
反対するデモが行われている。
ベトナム事務所の日本人が、「中国人」と間違えられ」
危害を加えられないようにしなければならない。
1994年、私がフエ師範大で日本語を教えていた頃、
朝、散歩をしていると「中国人は出て行け」などと
叫び、20センチほどの「大型安全ピン」で刺してくる
若い女性がいた。部屋まで逃げたが、部屋の戸に
体当たりをし、室内に入る寸前に朝食を作るベトナム人
シェフさんに取り押さえられ、警察に引き渡されたという
事件があった。この女性も私を中国人と勘違いし、
大型安全ピンで私の胸を何度も刺そうとした。
というような事件の経験もあり、ベトナム事務所に
いる3人の日本人の若者に「夜、一人で町をフラフラ
しないよう」注意を喚起する。
午後4時過ぎ、リー君から電話。
「俺は、中国のベトナム領土侵略に怒っている。
軍隊に入って中国と戦いたい」と言う趣旨の
話をしていた。リー君も愛国心に燃えているようだ。
新聞をよく読んでいるリー君は、政治問題・国際関係
については、博識である。リー君の「偏狭な愛国心」に
火が点いたようだ。
トゥオイ調理主任から日本風のカレーの
作り方を教えてもらうHAさん。
簡単な日本料理をトゥオイ調理主任から手ほどきを
受けるHAさん
午後9時過ぎ閉店。今日は、街の人通りがほとんどない。
来客は1人。
片付けも手伝うHAさん。
午後9時半、姉(元在宅支援)がオートバイで
HAさんを迎えに来る。
午後10時前に宿舎に着く。
暑い1日だった。しなければならない仕事が
たくさんあり、かなり頭が混乱している。
2014年05月13日
猛暑:HAさん日本料理店初出勤
快晴 真夏。猛暑。
午前5時半起床。
午前7時朝食。
今日は「旧暦の4月15日」。
ベトナムでは、精進料理を食す日。
朝食も精進料理。
午前中は、「新ベトナム事務所HP」作成。
JASSとは何か? 「子どもの家」とは?
などの原稿を書く。結構時間がかかる、
暑くて頭が集中できない。1時間原稿を書くと
30分程横になる。
午前11時半、昼食。
「海老入りブン麺」
昼食後、2時間程昼寝。
午後2時半、日本料理店に新人のHAさんが
初出勤。
トゥオイ店長、グエット接客主任にHAさんを
紹介する。
3人で仲良く日本料理店の仕事をして欲しい。
HAさんの体の問題、日本料理店の現状、
HAさんの当面の仕事などについて、
話し合う。
HAさんは、毎年の「クリスマス会」に母親・姉妹
と参加している。トゥオイさん・グエットさんとも
顔見知り。
トゥオイ店長・グエット接客主任には、
HAさんの障害の実情を話し、疲れやすい体質
なども理解してもらう。3人で協力して、日本料理店の
発展のために頑張るよう話す。
今日は旧暦4月15日。ベトナムでは精進料理を
食べる日。日本料理店の隣りの精進料理屋には
沢山のお客が集中。
午後5時半。日本料理店の夕食。
富岡先生・北原先生は日本語学校の授業。
若い4人。仲良くして欲しい。
午後9時過ぎまで4人の日本人の来客あり。
HAさんは、積極的に自分の仕事を見つけ、
皿洗いなどの仕事していた。今後、トゥオイ店長
から少しずつ調理を教えてもらうよう段取りをする。
午後9時前。トゥオイ店長の夫と娘さんが
日本料理店に迎えに来ていた。
午後9時15分、閉店。
午後9時半過ぎ徒歩で宿舎へ帰る。
その後、いくつかの仕事。
2014年05月12日
「子どもの家」医師タム氏父親葬儀
正午 日陰 気温36度 湿度60%
終日、強い日差しと蒸し暑さ。
午前5時半起床。
午前7時朝食。
「チャオ・バイン・カイン」(キャッサバ芋入りうどん)
午前8時から午前10時半まで「新HP」の
JASS・「子どもの家」紹介記事を書き始める。
バオミンさんと「バンベー45号」の原稿の件で
打ち合わせ。
午前10時半、バオミンさん・ハンさん・ソン君が
車で迎えに来てくれる。
「子どもの家」タム医師の父親が79歳で亡くなり
葬儀に参加。死因は、「肺」関連の疾病。
葬儀は自宅で行われた。
JASSからの弔意の花輪
セン・「子どもの家」運営委員長
弔意を表す 小山
バオミンさん
ハン・ベトナム事務所会計部長
ハン・「子どもの家」会計担当
ロアン・「子どもの家」刺繍みやげ物店店長
ホア・刺繍みやげ物店刺繍作成者(「子どもの家」出身)
「子どもの家」ロック寮長
安置してある遺体を一回りし、哀悼の意を表す。
午後12時過ぎ 昼食
「肉入りおじや」
猛暑の中の葬儀。かなりの疲労。
食後、2時間程昼寝。
長袖の「冬服」を全て洗濯する。
3回の洗濯。ダウンは、乾燥機を使わず、
部屋干しにする。大量の衣類の洗濯となる。
その後、引き続き「新HP]の原稿を書く。
JASSの紹介、「子どもの家」の紹介の原稿を書く。
暑くて頭が働かない。文章がなかなか書けない。
午後5時半過ぎ、徒歩で日本料理店へ。
調理主任のトゥオイさんが、発熱・腹痛で
体調が悪いとのこと。家へ帰って休みたいとのこと。
直ぐに帰宅することにする。
トゥオイ調理主任とグエット接客主任だけでの
日本料理店運営はやはり無理である。
午後6時閉店。トゥオイ・グエット帰宅。
私は、「ぬか漬け」(きゅうり・人参)をもらい
帰宅。
宿舎へ帰る。隣家の人が、私の宿舎の門の前
で「仏教」関連の紙を燃やしている。
私の宿舎の中には、紙の燃えカスで一杯。
理解できないベトナム人の行動ではあるが、
20年間、色々と体験している「一つの出来事」
ではある。
午後6時半。宿舎で「糠漬け」をおつまみに
フダ缶ビールを飲む。
2014年05月11日
終日仕事・休息
午前10時起床。
バナナを1本食す。
この間の疲れが出る。今日はゆっくりと
寝ていた。
午前中、「JASSベトナム事務所HP」関連の
原稿を書く。
洗濯。
昼過ぎ、疲れたので「フダビール」を飲む。
私は飲酒は基本的に「暗くなってから」と
の考えを持っているが、時々、ストレスが
溜まると昼間から飲みたい。
本を読みながら午後3時位まで「フダビール」を
飲む。
その後、午睡。
午後7時頃、目が覚める。
多少の空腹を感じる。
1週間前から作っている「ぬか漬け」の
きゅうりと人参をおつまみに「ほんの少し」
フダビールを飲む。
料理のセンさんが作っておいてくれた
「春雨麺」(私は一番嫌い)のスープの
豚肉だけを取り出し食す。
この数ヶ月、仕事がありすぎて、精神的に
疲労困憊。今日は、全ての仕事を忘れて
休息。
6月は『「子どもの家」創立記念講演会月間』
をすることにした。
埼玉県の中学校での講演会、小樽商科大学での
講演会などの依頼があった。
6月一ヶ月日本へ帰る。全国での講演会を
する予定。講演会依頼は、
koyama1947@yahoo.co.jp まで。
2014年05月10日
日本料理店新人採用
午前5時半起床。
午前6時半。フエの空は既に真夏。
午前7時、朝食。
「ブン・ボー・フエ」(牛肉米麺)
しなければならない仕事が多数あり、頭がグルグル
と回る。時々、気力を失うことがある。
午前9時40分、徒歩で日本料理店へ。
2001年から14年間「在宅支援」をしている
HA(ハー)さんと母親がベトナム事務所へ。
HAさんの日本料理店採用の件について
バオミンさん・本人・母親と話し合う。
HAさんの父親は死亡。4人姉妹の2番目。22歳。
生まれながらに「甲状腺」の疾病があり、身長の
発育が遅れ、130センチ程の身長。
オートバイ、自転車などには身長等の関係で乗れない。
フエの幼稚園教員養成所(2年)を卒業した。いくつかの
幼稚園へ就職を依頼したが、全て断られる。
母親は、小学校前に天秤を担いで出かけ、
登下校の子どもたちに「駄菓子」を売って、
生計の足しにしている。
一番の心配は、HAさんの「健康問題」。
日本料理店の仕事に耐えられるか?
本人、母親と時間をかけて話し合う。
本人・母親の強い希望で5月13日(火)から
日本料理店員として勤務することになる。
仕事の中心は、「厨房」での調理。
これで厨房2名、接客1名の体制が出来た。
以前は、厨房4名、接客1名だった。
店長兼調理主任のTUOIさんには4ヶ月の
女児がいる。風邪を引いたり、体調が悪かったり
すると日本料理店を休む。これは致し方の
ないこと。そうしたことを考えると、4人ほどの
日本料理店スタッフが必要である。
在宅支援として14年間支援してきたHAさん
が日本料理店に就職することは大変嬉しい
ことである。障害はあっても頑張って自分の
力で生きていって欲しい。
午後12時過ぎ、宿舎へ帰る。
昼食。「小麦粉の手打ちうどん」
午後2時間程昼寝。
体がだるい。仕事への意欲がかなり減退しているが、
当面の諸課題があり、何とか頑張る。
午後、昨年12月29日に放映された日本料理店関連
のテレビ番組を見た方から手紙が届く。北海道の
大学の先生。なかなか熱い気持ちを持っている
先生である。時間をかけて返事の手紙を書く。
午後5時半、徒歩で日本料理店へ。
日本料理店のTUOI店長、グエット接客主任に
5月13日からHAさんが出勤することを話す。
5月13日に初顔合わせをするが、二人で
HAさんの面倒を見て欲しいと頼む。
日本語教師の富岡先生・川原先生、そして
留学生の石井君の3人と日本料理店スタッフが夕食。
今日は4人の来客あり。日本人3人。欧米系1名。
午後9時半閉店。
5月4日に作った「ぬか漬け」がやっと美味しく
なった。
午後9時45分、宿舎に到着。
先週、フエに来訪した6人の子どもなどを含めた
団体と一緒に飲んだ「ワイン」が半分ほど残って
いた。
残っていたワインを飲む。美味しい。
糠漬けとワインは、親和性がある。
ぬか漬けがあるとワインがすすむ。
本当は、フエフーズの「嬢薫」(大吟醸)が
一番飲みたいのだが・・・・・。
2014年05月09日
鍼灸治療:HP立ち上げ打ち合わせ
午前6時起床。
真夏。
午前7時朝食。
「フォー・ガー」(鶏肉入り米麺)
午前9時過ぎ、徒歩でベトナム事務所へ。
ベトナム事務所では、鍼灸師の大極さん
親子が、事務所員に針・灸治療。
相当不満とストレス・疲労が溜まっている
バオミンさんを大極さんが針治療
顔面「針男」となった川原先生
肩が凝っているソン君が、大極さんの
息子さんから施術を受ける。
日本の静岡大学大学院に留学・卒業し
フエへ帰国した「TU君」。国立「コックホック高校」の
化学の先生をしながら、JASS日本語学校の教師
として、JASS活動に協力してくれている。
川原先生とTU君。フエ高等師範日本語学科の
研修生の学生さんと。
大極さん親子と今後の諸活動について
話し合う。
午後12時半、徒歩で宿舎へ。
昼食。「肉団子入りおじや」
今日は非常に蒸し暑い。午前中の打合せ等で
かなり体力を消耗する。
体がだるく立っていられない。
2時間程昼寝。
午後3時、徒歩でベトナム事務所へ。
バオミンさん・富岡先生・ソン君と私の
4人で「新JASSベトナム」HP立ち上げの
打ち合わせ。
ベトナム事務所員全員が参加するHPつくりを
方針とする。私の教え子の手島君がHPの
作成と運営を支援してくれる。感謝。
手島 http://www.tejimaya.com/history/
終了後、徒歩で宿舎へ帰る。
30分程横になる。体力がかなり消耗している。
午後5時半過ぎ、徒歩で日本料理店へ。
午後6時半、日本語学校から富岡先生・川原先生が
帰ってくる。石井君と3人で夕食。
川原先生も大分フエでの生活に慣れてきたようだ。
今夜の夕食は、「唐辛子入りの小麦粉手打ちうどん」
新鮮なサーモン二尾入荷。
トゥオイ調理主任が、解体。
今夜は5人の来客。
途中で大極親子が来店。明日帰国する。
今夜がフエ滞在最終日。
大極親子と私で日本料理店
終了後「最後の晩餐ー飲酒」を楽しむ。
大極親子のベトナム事務所・「子どもの家」・地域の
診療所等での鍼灸施術に感謝。
徒歩で帰宅。午後11時半。
========
現在の日本料理店の問題を深刻に考える。
調理人1人、接客1人のたった2人で
日本料理店を運営するのは、不可能である。
調理のTUOIさんは4ヶ月の女児の母親。
娘さんが風邪を引けば、日本料理店を休む。
その時点で日本料理店は休店。
先日は、接客主任のグエットさんが風邪を引き
休む。調理人のトウオイさんだけの日本料理店となり
やはり休店。と言うわけで、調理人1人、接客1人と
私(ほとんど何も出来ない)では、日本料理店の
運営は不可能である。日本料理店は、JASS関連
企業の中では最大の収益を上げている。
「子どもの家」のスタッフの給料、ベトナム事務所
スタッフの給料などの源泉である。
毎晩、午後9時半過ぎまで日本料理店出勤は
私にもかなり過酷な日程となっている。
朝から夕方まで様々な仕事をこなし、午後5時半から
午後9時半まで日本料理店にいる。
午前9時から午後9時半まで毎日仕事をする今の
体制では、体が「金属疲労」をおこしてしまう。
早急に日本料理店の再建と強化の対策を立てなければ
ならない。
午後11時半過ぎ帰宅後
日記を書くが、途中で疲れてしまい就寝。
長い1日であった。
2014年05月08日
「子どもの家」訪問・鍼灸大極さん親子と懇親
午前6時起床。
気温30度。湿度70%。
午前7時朝食。
「小麦粉のチャオ・バイン・カイン」
朝食の途中で「停電」。
午後1時過ぎまで停電が続く。
午前9時、電動バイクで「子どもの家」へ。
「子どもの家」の子どもたちの通学等の
様子を視察。
涼しい2階の廊下でターオ姉妹が勉強を
していた。
昨年12月に農村から入所した女子も
勉強をしていた。
子どもたちはしっかりと勉強をしていた。
昼食の準備
午前10時は過ぎ、男子が中学校から
帰って来た。
昼食作り
午前11時半昼食。
ラーメン風のスープ。
昼食後「昼寝」に入るが、暑くて眠れない。
停電が続く。
午後1時。停電が回復。
通販大手の「フェリシモ」から寄金を頂く。
寄金の使用の報告書と写真添付をして
送信。
読書「社会契約論」(重田園江著)
午後5時半、徒歩で日本料理店へ。
日本料理店のスタッフと石井君が夕食。
午後6時半、日本語学校の富岡先生・川原先生が
帰ってくる。夕食。
日本料理店は8人の来客あり。
午後9時半まだ大学時代の同級生大極親子と
日本料理店で懇談。最後に帰った来客に写真撮影を
依頼。
午後10時15分、帰宅。
2014年05月07日
日本の大学生2人と懇談:日本料理店大繁盛
快晴 夕方曇り。
気温の変化が大きい。1日中、体がだるい。
午前6時起床。
午前7時朝食。
「カニ団子入りブン麺」
午前8時45分、徒歩でベトナム事務所へ。
発熱し体調を崩していた川原先生が、体調を
回復したかに見えたが・・・・・?
ハンさんたちは、大極さん一行を案内し
フエ市内地区診療所へ行き、鍼灸治療を行う。
ベトナム事務所には、静岡大学大学院に
留学していたT君も来ていたい。
午前9時、ハノイに1年間滞在し、
日本語学校などでのボランティアを行っている
男女の大学生と懇談。
ハノイボランティアネットとの交流もあるとのこと、
1年間のハノイ滞在が有意義なものであることを
祈っている。真面目な大学生だった。
午後12時20分、宿舎へ。
昼食を少し口にし、昼寝。
午後、当面のいくつかの課題をこなす。
読書「社会契約論」(重田園江著 ちくま新書)
午後5時半、徒歩で日本料理店へ。
TUOI店長・NGUYET接客主任・石井君の
3人で夕食。
富岡先生は、日本語学校。川原先生は
再度体調を崩し、寝込む。石井君が
おかゆをホテルまで持っていく。
バオミン・ベトナム運営委員長も体調を崩し
午後、欠勤。
私も朝から体がだるく、仕事への意欲が減退する。
疲労が蓄積。
午後6時前から来客あり。
午後9時過ぎまで合計「13人」の
来客。
13人の来客で厨房は大忙し。
午後6時から午後9時まで3時間、一息もつかず
調理・接客を続ける。
調理1人、接客1人では、13人の来客の
対応は無理である。
これから夏にかけて来客が更に増える。
何らかの対策を立てないと日本料理店の
運営は不可能。
午後9時過ぎ、閉店。
外は、雨。
雨の中徒歩で宿舎へ帰る。疲労感だけが残る。
朝から午後9時過ぎまで1日中の仕事は
年齢的にかなり無理になってきたことは
事実である。
2014年05月06日
JASSベトナム事務所HP作成打ち合わせ
曇り 寒い
午前6時起床。
午前7時朝食。
「フォー・ヘオ」(豚肉米麺)
午前8時45分ベトナム事務所へ。
川原君が発熱・下痢その他の症状。
気温の変化が急激なので、体調を崩す人が多い。
この間、おかゆ等の手当てをしている。
必要な薬を飲む。
早期の回復を祈る。
午前9時。バオミンさん・富岡先生・ソン君と
私の4人で「ベトナム事務所専用・発信」のHPを
作成する相談をする。
早期に『ベトナム事務所HP』を立ち上げ、
バンベー45号には、掲載できるようにしたい。
私の教え子の手島君が、「JASSベトナム事務所HP」
立ち上げを支援してくれている。感謝。
午前11時半、昼食。
「チャオ・バイン・カイン」(小麦粉の手打ちうどん)
この4日間、仕事で忙しく火炎樹日記が書けなかった。
4日間受信した多数のメールへの送信で数時間かかる。
その間、バオミンさんと何度も電話で連絡し合う。
午後5時半、徒歩で日本料理店へ。
==================
5月3日を前後して「あたらしい憲法のはなし」
(他二編:高見勝利編 岩波書店)を読む。
①新しい憲法・明るい生活
(憲法普及会編)
1947年5月3日発行 2000万部が
全国の家庭に配布された。
芦田均が中心となって、憲法普及会が
組織され、新憲法の普及に努めた。
当時の総人口は7862万人。
2000万部家庭に配布するということは、
当時の有権者2人か3人に配布したことになる。
「新しい日本のために」(発刊のことば)
『新憲法はが大胆率直に「われわては、
もう戦争をしない」と宣言したことは、
人類の高い理想を言い表し・・・・・』と
宣言している。
②「あたらしい憲法のはなし」
(1947年8月2日、中学1年生用の教材として
文部省発行)
『そこでこんどの憲法では、日本の国が、けして二度と
戦争をしないように、二つのことを決めました。
一つは兵隊も軍艦も飛行機も、およそ
戦争をするためのものはいっさいもたないことです。
もうひとつは、よその国と争うごとがおこった時は
決して戦争によって、相手を負かして、自分の
言い分を通そうとしないことです。
③最後に「新憲法の解説」 内閣発行
1946年11月3日発行
改めて1945年の敗戦を経て、日本国憲法を
制定した当時の時代と国民の思い、願い、決意を
感ずる。「解釈改憲」を急速に進めようとする
安部内閣の危険性を改めて感ずる。
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読書『社会契約論ーホップ図、ヒューム・ルソー
ロールズ」(重田園江著 ちくま新書』
午後5時半、日本料理店へ。
グエットさん、トゥオイさんが元気に仕事を
している。
TUOIさんは、カレールーを作る。
午後9時10分閉店。7人の来客。
徒歩で帰宅。午後9時半。
2014年05月01日
終日横になっている
今日はメーデー。祝日
午前中、晴れ。
午後、小雨から豪雨。
午前10時起床。
支援者に頂いた「ラーメン」を食べる。
野菜など具材がないので、素材のみ使用。
「ぬか床」をかき回し酸素を入れる。
少しずつ水を増やす。昆布などを追加。
明日、日本人が来るのでの「煮干」を
頼んでおいた。
メールの受信・送信。
掃除。洗濯
夕方まで横になり、読書。
読書「中国民主改革派の主張ー中国共産党私史」
李鋭著(岩波新書)
現在の改革解放路線を主導した一人が
著者。文化大革命をどのように清算したのか?
文革で3000万人が亡くなったと本書に記されている。
4人組、文革推進派、その後、更に鄧小平の
胡耀邦総書記などの切捨て、「天安門事件」への
経過などが詳細に書かれている。
1989年の天安門事件当時の中国は、現在の
ような経済至上主義路線を「右派修正主義路線」
として排撃する空気ももあった。
現在の中国は、どんな方向に行くのか
胡耀邦総書記など「天安門事件」前後に
抹殺された指導者の主張は、「人権と法治主義」だった。
現在の中国が、天安門事件以後、経済一辺倒に傾斜し、
人権と法治主義は文字通り「放置」されてきている。
胡耀邦総書記など中国改革派の総括と主張は、
中国共産党の歴史は、「皇帝専制」が中国共産党
毛沢東の専制に代わっただけだとの認識を持っていた。
再度、「ぬか床」をかき回す。
明日から「食べるための野菜」を入れても
大丈夫な状況と見た。
美味しい「ぬか漬け」をつまみに
一杯飲みたい。
午後5時、ご飯を1合炊く。
麦製炭酸飲料と最後の「くさや」で軽く
メーデーを祝う。
私がメーデーに始めて参加したのは、
高校生の時だった。
20歳代、30歳代、40代前半までは
全ての東京中央メーデーに参加した。
新宿コースが多かったので、デモの解散地点
新宿で、職場の仲間とビヤガーデンに行ったことが
楽しい思い出として、今でも私の心の隅に残って
いる。楽しい時代だった。
今はメーデーも3つに分裂してしまった。
連合のメーデーは「お祭り」と化し、資本家・首相など
権力の中枢が参加する「労働者」のお祭りとなった。
労使一体もここまで来てしまったのか?と感慨深い。
午後8時、
支援者から頂いた味噌漬け」とインスタント味噌汁で
1合の4分の1のご飯を食す。
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安部内閣の「ODA]の軍事活用に反対する。
ODA(政府開発援助)は、民生の安定などを
中心とした日本政府の国際支援である。
JASSも「子どもの家」の建物建築支援、
障害児開発支援などのプロジェクトに
支援金を頂き、ストリートチルドレンや貧しい
家庭の子弟、障害児の発見・支援・手術活動などを
ODAを使って支援を行って来た。
地元のフエ省・フエ市も「福祉・教育」に関する
支援に十分な理解をもち、協力してプロジェクトを
推進し、大きな成果を挙げている。
安部首相になり、ODAを東アジア諸国への
「中国の侵略」に対応する事実上の「軍事支援的」
な支援に移行させつつある。巡視船の支援など
中国の他国への海洋進出、他国の島などへの
侵略行為を阻止するための「支援」にODAを
使い始めた。安部政権のODA活用路線は
ODAの「軍事活用路線」に傾斜している。
ODAは飽くまで「民生の安定」という基本方針が
あるからこそ、被支援国や国際社会で歓迎されているの
である。
安部政権のODA「軍事傾斜」路線は、日本の支援が
政治的・軍事的な一方への支援とみなされ、
今までのODAの「福祉教育・民生安定」支援から
大きく逸脱してしまう。
安部内閣のODAの「軍事化利用路線」は、結局日本の
海外ボランティアが、戦争と争いの一方への支援の手先
となりかねない。安部首相は海外支援・海外ボランティア
で活動している民間のボランティア活動に一層の危険な
問題を投げかける危険な政権である。