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2013年06月30日
ウオーキング→池袋へ
午前11時、自宅を出て「板橋区立美術館」へ。
途中、徳丸ヶ原の名残のある遊歩道を歩く。
緑に包まれた、遊歩道。江戸時代後期(1841年)、
洋学者「高島秋帆」が日本で初めて「西洋砲術の演習」を
行った場所。高島秋帆(しゅうはん)の名前を取って、
高島平という。この遊歩道は、秋帆が西洋砲術の演習を
行った徳丸ヶ原の森林の一部を現在に残したもの。
ほぼ紫陽花の時期も終わりつつある。
約40分ほど歩き「板橋区立美術館」へ。
「2013 イタリア・ボローニャ 国際絵本原画展」
を観に行く。
イタリア・ボローニャ市で行われ「フック・フェアー」で
行われた「原画展」に入選した絵本の原画77点が
展示されている。
3000点の出品希望の中から選ばれた77点。
日本も含めてヨーロッパ・アジア・アフリカ・南米などの
絵本作家の原画が展示されている。
1時間程、各作品を見て歩く。親子連れの家族が多かった。
ベトナムからの出品はなかった。
印象に残ったこと
①韓国・イランの作品にひかれた。強く訴えるものがあった。
(日本の絵本の大半は、岩崎ちひろ的な水彩画風の
ポアーンとした色調。韓国・イランの作品はかなり強く
刺激のあるもの。
②ドイツの数人の原画は、かなり機械的・写実的な絵本原画
だった。
それぞれの国情・国民性が出ているようだ。
美術館から更に30分程歩き、都営三田線の新高島平駅まで。
都駅三田線で巣鴨乗り換え。池袋の西武に行く。
スポーツ館で「腕に巻く重り」を買う。足は500グラムだった。
既に数日500グラム×2つ=1キロの重りを足につけて
歩いている。これが、相当の「負荷」となる。たった500グラムと
思っていたが、とんでもない効果があることが分かった。
腕に500グラムの負荷をつけたら、多分数日で筋肉が
参ってしまうと判断し、「300グラム」×2つの重りを買う。
小学生の頃、遊びに来ていた池袋の西武や西口などを
散策した。(池袋西武デパートまで歩いて行けた)
今日は、1万歩以上歩いた。
読書「後藤田正晴」(保坂正康著:中公文庫)の続きを
読む。
後藤田が中曽根内閣の官房長官の頃(1981年)の
日本国家の赤字は、10兆円だった。現在はその10倍
以上の120兆円以上だ。財政赤字は、垂れ流しのまま。
この中曽根内閣は、バックに田中角栄がいて、収賄容疑者の
田中角栄の力でできた内閣なので「田中曽根内閣」と揶揄されて
いた。
中曽根は、「戦後政治の総決算」「日本列島不沈空母」化を呼号
していた。現在の安倍首相の叫んでいる「憲法見し・改定」
「戦後政治の見直し路線」の先輩ではある。
しかし、後藤田は官房長官でありながら「僕は憲法を評価している。
日本の社会は全体として良くなっている」「憲法改正を政治日程に
あげ、国論を二分する争いを引き起こすような事態は好ましくない」
と言っている。
平成3年のPKO論議の際も「憲法を守れ。安易に自衛隊を
海外に出すな」と言っている。
戦争を台湾で体験した後藤田と戦争体験のない「おぼちゃん」
である安倍首相の人間の「でき」の違いが、その思想と発言に
あらわれている。
党是として、「押し付け憲法の改正」を掲げている自民党では
あるが、今から20年ほど前までは、自民党の中に戦争を
体験した長老連中がいて、時々起る「右翼バネ」を是正する
程度の良識が自民党内にあったのだ。今は、それらの長老
が引退し、戦争体験のない、おもちゃの戦争しかしらない
安倍・下村文科相など本当の戦争をしらない連中が
自民党の指導部となった。
かつての自民党の「長老たち」は、党外から「戦争おもちゃごっこ
安倍内閣」に対して「批判」をおこなっている。
今日は足に1キロの重りをつけて、1万歩以上歩いた。
相当、足の筋肉がいたいが、良い運動になった。
ベトナム事務所からいくつかのメールあり。
体調が少しずつ回復している。ありがたいことだ。
2013年06月29日
バンベー43号郵送作業
午前8時起床
午前8時半自宅を出て、都営三田線で大手町経由
東西線で浦安まで。1時間強。
午前10時、浦安市民センターへ。
今日はJASS機関紙バンベー43号の会員への郵送作業日。
JASS東京の皆さん10数人の方々の参加で、バンベー43号と
現地報告会・2012年総括・会計報告と2013年活動方針・予算
案を会員等へ郵送する作業。
約1000部の郵送。バンベーと総括・方針案等の文書をまとめ
住所を書いた紙と一緒に封筒へ入れる作業。
数年前まで現地フエで日本語教師をしていたIさんとHさん
神奈川県からも参加。感謝
老若男女の会員・志のある方の力で郵送作業は2時間強で
終了。
JASS東京の会員で最近結婚した「Aさん」と「Bさん」(お二人とも
元ベトナム事務所の日本語教師)のお祝いの金一封と花束
贈呈。
郵送作業終了後、神奈川から来られたKさん手作りの
「パン」と「うめジャム」を頂く。美味しい。
浦安市民センターには、「子どもの家」付属刺繍土産物店
の作品が飾られていた。
私はそのまま地下鉄で自宅まで。午後2時頃着。
久しぶりの「肉体労働」で疲れる。直ぐに横になり休む。
こうして皆さんの見えない努力で「子どもの家」は支えられている
ことを改めて実感した1日(半日)だった。
参加の皆さんに心からのお礼。
2013年06月28日
終日自宅で仕事
ベトナム事務所へのツアーなど関連のメール受信送信。
葉書を何枚か書く。そのうちの数枚投函のため、数日前から
駅前のポストなどを探したが「ポスト」がない。
インターネットのメールができるようになって、
手書きで葉書を書く人がいなくなったと見た。
そのうち、ポスト自体がなくなってしまうのではないか?
などと思えた。
宅急便を出しに行く。
午後、高島平団地まで散策。両足に負荷の重りを付けて
1時間程歩く。夜になると腿の筋肉を含め、以前よりも
足の筋肉の若干の痛みを感ずる。
2013年06月27日
JASS関係者と懇談
小雨→真夏
午前8時、自宅を出て、地下鉄三田線で「春日」乗り換え
大江戸線で「都庁前」。
午前10時、心臓の定期検診。
心電図を撮り、医師の診断。前回行った血液採取の
結果を教えてもらう。
赤血球等が低い。
尿酸は適正値に。
何故か中性脂肪は既定の4倍(なぜか?)
7月にベトナムへ「帰り」2ヶ月半ほどベトナムに
滞在する。その間の心臓の薬をもらう。
午後12時半、新宿でJASS支援者3方と会食。
JASSの活動をしててくれて18年ほどになる。
一番最初の支援者の皆さんである。
午後5時頃まで様々な問題を話す。
私は生ビール2杯飲む。枝豆で。
午後7時頃、自宅着。
内田さん・笠井さんと電話で話し合う。
今日は、少し疲れる。
2013年06月26日
ブライセン役員と懇談:日本のマスコミ村の腐敗
大雨
午後、上野のアメ横へ。
両足に負荷をかける重りを買い、そのまま足につける。
この2ヶ月半ほど、ほとんど毎日寝ていた。
体中の筋肉が相当落ちた。
足と手の筋肉をつけるために「負荷」の重りを買いに
行くが、既に全部売り切れ。足の負荷だけ1組残って
いた。
その足で姉の住んでいる根津の家へ。
義兄、姪と懇談。
午後6時半、ブライセン本社付近のブライセン設立
日本料理店「勇山亭」で懇談・打合せ。
ブライセンK部長・ピースインツアースタッフK氏
そして私の3人。今後のブライセンベトナム支社運営、
ブライセン本社からベトナム支社への本社スタッフ
指導のための航空券の件などで打合せ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
体調が回復基調に乗って来た。少しほっとしている。
体調不良中は文字を書いた入り、物事を考えたり
する気力が全くなかった。
数日前、読売テレビ報道局解説委員長の
辛坊治郎氏が太平洋上で「ヨット遭難」した。
テレビは、辛坊氏と全盲のセーラー、岩本光弘さん
の「プロジェクトD2製作委員会」が実施した
世界初の「全盲セラー太平洋横断」になるはず
だったと報道している。
このプロジェクトのヨットは「吉本興業社長」の
所有物。記者会見も吉本興業東京支社で行われている。
一部のマスコミ(日刊ゲンダイ)を除き、ほとんどのマスコミは
「マスコミ村」を決め込み、辛坊遭難問題を簡単に報道し
終わっている。しつこく毎日特定の問題を放送する
朝の番組も全てが「簡単」に報道して終わっている。
何故、日本のマスコミは、「弱い立場」の人間には
厳しい言葉で追及し、強い立場の人間やマスコミ仲間は
「無罪放免」的な態度に出るのか?
福島原発事故では「原子力村」ということばをマスコミは
使っていたが、今回の辛坊ヨット事故では「マスコミ村」
という言葉を使いたい。
マスコミの言論が認められている所以は、まずもって
権力の暴走を阻止すること、社会正義を守ること・・・・・。
マスコミの仲間だと言って、何も言わず、報道も簡単に
終わってしまっては、日本のマスコミ界は「自縄自縛」行為
と言われてしまう。現在の商業マスコミの現実を如実に
表している。
①辛坊氏自身、学生の頃ヨットをやったとはいっても
日本国内周辺だけで、太平洋横断などの技術がなかった
こと。全盲のヨットマンと一緒だったとはいえ、太平洋を
横断するヨット技術は持っていなかったことを厳しく批判
すべきである。
②辛坊氏と岩本氏の太平洋横断ヨットは、「吉本興業」
丸抱えの「商業イベント」と言われてもしかたのない
ものだったこと。一部の噂では、読売テレビの
「24時間テレビ用」との報道もあるくらい、全盲セラー
をサポートした辛坊解説局長という売り出しで、
テレビで大きく報道する意図があったことは、明明白白。
③辛坊氏は、2004年のアメリカの「イラク侵略」の際、
イラクに入った「高遠さん・今井君」に「自己責任論」」から
国のお金で救出・飛行機代支出はおかしいとの
主張をテレビ司会者・解説を通して主張した。
(6月25日付けの日刊ゲンダイ)
今回の辛坊氏の救出も日本の法律に基づき無料で
救出している。一説では吉本提供のヨット代や国費の
自衛隊航空機出動などを含めると2000万円程度の
費用がかかったとも言われている。
人命を救うために、国費・税金を使うことは致し方の
ないこと。
しかし、辛坊氏は、読売テレ日の解説委員長。
テレビの司会、コメンテーターなどを通して、
「高遠・今井ー自己責任論」を一方的に主張できる立場に
いた。高遠・今井氏は、何ら反論ができないという、
批判する辛坊氏の言い放題という両者の力関係の中で
辛坊氏は、当時の政府・自民党の「自己責任コール」に同調し、
「自己責任」「高遠・今井は飛行機代を支払え・・」などの
趣旨の発言を公共電波を使って繰り返していた。
辛坊氏の態度は、人間としてやはり「卑怯な態度」である。
そもそも辛坊氏は、イラク戦略戦争を支持し、権力に
基本的に迎合している人間である。
高遠・今井‐自己責任論を主張した過去については、
公器であるマスコミの幹部としての「自己弁明」「自己批判」
が必要ではある。イラク戦争の際、高遠・今井氏を自己責任
と批判した自分の批判をすべきである。マスコミという
第4の権力と言われる「公器」を使っている人間が、
未だに「高遠・今井問題」での反省と自己批判をしていない
・できないことは、情けないマスコミ人ではある。
人間の生き方を考えさせられる辛坊氏のヨット遭難事件
ではある。こうした「体制」と「権力」にすり寄って生きていく
人間が多くなった現代ではある。そして、自己の過去を
簡単に捨て去っても「憚らない」ことも現代を生きる
処世術なのだろうか?・・・・・・
2013年06月21日
北海道の親戚と合流
今日、午後8時頃、北海道の親戚と合流し、会食。
2013年06月20日
久しぶりの休息日
曇り 気温15度。 寒い
6月14日の歯の手術以降、5日間連続の講演会等があり
東京ー京都ー札幌と移動。さすがに疲れる。
今日は1日休息日。
歯の手術で食べ物は、「箸で切れるもの」と言われている。
うどん、パンなど柔らかいものを食べているが力が出ない。
朝、「ススキノ」付近のホテルから徒歩で「狸小路」まで。
「サブ・ウエー」で「野菜サンド」・コーヒーを「ブランチ」とする。
午後2時頃、ホテルへ戻る。1万歩ほど歩く。
ホテルで2時間程昼寝。
6月19日の講演会の写真を関係者から送ってもらう。
写真を貼り付け、火炎樹日記の6月19日分を書く。
ーー
バオミンさんと電話である件について打合せ。
「ある問題」について、メールで関係者に送信。
2013年06月19日
藤女子学園中学・高校講演会:ベトナム青年交流会
2013年6月18日付け「北海道新聞」報道記事
札幌での講演会・ティーチ・インの報道
小雨・曇り
長期講演旅行、今日で5日目。
午前8時、ビジネスホテル付属の温泉に入る。気分良好。
温泉でゆっくりと時間を過ごす。疲れが取れるような
気分になる。
午前中はホテルの部屋の掃除があり、外出を余儀なくされる。
午後2時過ぎ、講演会の準備をして地下鉄南北線を使い
菊先生ご夫妻と合流。
午後3時半過ぎ、「藤女子学園中高」へ。
菊先生(男性)が現在この学校の社会科の教師をしている。
図書室を案内してもらう。ベトナムの特設コーナーが作られ
ていた。司書さんがいるのだろうか? 金の星社の私の伝記
や私の書いた「火炎樹の花」(小学館)なども置かれていた。
久しぶりに私関連の本を見た。
30人強の中高校生が参加。生徒会所属の「ボランティア部」
の皆さん。
テレビ東京の「ドキュメンタリー人間劇場」の冒頭を上映。
その後、私の方で
①ボランティアとは?
②ベトナムでしている活動
等を話す。
その後、生徒さんからと質疑応答。
なかなか進んだ学校運営・教育を進めている
藤女子学園中高等学校の校長先生・教頭先生たちと
記念撮影
この学校の生徒さんの「意識」と「基礎知識」の高さに
驚く。
ベトナムでの活動をいくつかのテレビ局が取材放映したが、
「日本のマスコミ」の現状、問題点を鋭く質問する。
ベトナムで毎年多くの大学生に講演をしているが、
社会・歴史についての「基礎的な知識」が低いことに
驚くことが時々ある。第2次世界大戦・アジア太平洋戦争
の枢軸国は、日本とアメリカと答える大学生、何も答え
られない大学生が結構いる。大学生の責任よりも
日本の教育行政・学校教育の問題がある。
藤女子学園中高の生徒さんと問答をしたが、なかなか
意識が高いのに感心した。
午後6時前に講演を終わり、菊先生ご夫妻とタクシーで
札幌市内の「エル・プラザ」へ。
「日本ベトナム友好40周年記念 ティーチ・イン」。
札幌に留学したり在住しているベトナムの若者
4人と私、コーデネーターのKさんで話し合う。
ベトナム戦争が20代のベトナムの若者に
どのように伝わっているのか?
原発についてどう思っているのか?
など2時間、様々な意見、質問にベトナム青年が
答えながら、会は進行していく。
4人(男女2人ずつ:北大生、研修生、札幌在、IT会社就職)
のベトナム人の若者は、発言できる範囲で最大限「率直な」
意見を言ってくれていた。感謝したい。
その後、札幌市内の大衆食堂で参加者の「ご苦労さん会」。
15人程参加。盛り上がる。ベトナム人も全員参加。
午後11時半まで飲み、話し合っていた。
私はお酒が飲めないので「ウーロン茶」を飲みながら
回りの人と色々な話をする。
午前0時前、地下鉄で一駅の「すすきの」まで乗り、
徒歩でホテルへ。
2013年06月18日
北星学園大学講演会
午前6時起床。
近くのコンビニで「おにぎり」1個と野菜ジュースを買い
朝食とする。
インプランンと手術の縫合した部分が痛む。
あまり食事ができない。
午前9時、ススキノのホテルを出て徒歩、地下鉄「ススキノ」駅へ。
ススキノ駅から大通り駅乗換えで、大谷地駅へ。
大谷地駅から徒歩10分で北星学園大学へ。
「国際交流論」の授業を行う。
90分の授業を行う。
授業内容
北星学園大学講演会
主題「国際交流の実態と課題」
ベトナムの「子どもの家」を支える会(JASS代表)小山道夫
●ビデオ「フエでの活動の実態」
(1)ベトナムでたどり着いたJASSの海外交流・体験の現状
①「自立」の問題 3年で活動を移動する大手NGO・日本政府
②貧しさ・可哀想さを強調する大手のNGO
③JASSのたどり着いた地点
●様々な施設
・「子どもの家」・日本料理店・ベトナム事務所
大学生用の寄宿舎・静岡フエ青年交流会館(日本語学校)
縫製工場・障害児医療センター
●現地主導のNGO・NPO活動(決定権を現地に移行する)
●JASS「3つの自立論」
・子どもたちの自立
・ベトナム事務所の自立(ベトナム人スタッフの自立)
・現地(ベトナム)での財政自立
④ロビー活動の下手な日本のNGO・NPO
・静岡市・京都市とフエ市の「友好都市」「パートナ都市」締結
・札幌市とフエ市の提携模索(現在)
⑤日本の若者の受け入れ
●大学生のボランティア体験(海外体験)
●大学生のインターンシップの受け入れ(1年間の日本語教師体験)
(2)なぜ、私は20年間フエで活動ができたのか?
①数度にわたる「国外追放」
②国際化・国際交流=「英語能力論」の誤り
③20年間の複雑で困難なベトナムでの活動を支えたもの
――LIBERAL ARTS-学芸―教養――
(2008年からの「読書録」参照
正午過ぎに講演会を終わり、地下鉄を使い、大通りまで行き、
札幌市役所へ。
札幌市役所地下の食堂で「山菜うどん」を食べる。手術の部分
が痛い。
午後1時半、札幌市役所で「札幌ベトナム交流会」の鹿又さん
と打合せ。
午後2時、鹿又さんと一緒に札幌市役所9階の国際課へ。
国際課長と面会。フエ市長から上田札幌市長への手紙を
手渡す。今後の両市の交流について、課長と懇談する。
午後3時過ぎ、元地元テレビ局スタッフだったKさんと
鹿又さんの3人で明日の「地元講演会」の進め方に
ついて懇談する。札幌に住んだり留学している
ベトナムの若者と「ベトナム戦争と戦争後のベトナム」
というテーマで話をする。
最初に私が「ベトナム在住で経験・考えたベトナム」に
ついて講演。その後、札幌に来ているベトナムの
若者5人程とで「デシカッション」。
更に参加の札幌市民と「ベトナム戦争と戦争後の
ベトナム」について話し合いを行う。
明日の講演・懇談会の進め方について3人で打合せを
する。
帰りは、鹿又さんの車でホテルまで送ってもらう。
相当疲れる。1時間程、ベッドで横になる。
その後、温泉でゆっくりと休む。
2013年06月17日
京都→新札幌空港 札幌泊
午前7時起床。
午前10時京都のホテルを出る。昨日の講演会等で
相当疲労がたまる。
多量の荷物を持ち、JR京都駅へ。
京都から関空までの切符を買う。
1時間半程で関空着。
関空で「うどん」の昼食。
午後2時半関空発のANA機に乗る。
2時間弱で新札幌着。
JRで札幌駅へ。札幌駅からススキノのホテルへ。
温泉付きのビジネスホテル。温泉を満喫する。
疲れが取れる。
ーーーーーーーーーーーーーー
昨日の京都での講演会の様子が、
毎日新聞と京都新聞の掲載される。
①京都新聞
②毎日新聞
2013年06月16日
京都「京滋YOUの会」講演会
午前9時、ホテルへ「京滋YOUの会」の藤井さんが迎えに
来てくれる。
タクシーで京都市国際交流会館へ。
午前10時から京都市国際交流会館館長の柴田さん
「京滋YOUの会」の藤井さんと3人で今日の講演会
の打合せをする。
「京滋YOUの会」主催の「子どもの家」絵画展・ベトナム展が
行われていた。
午後2時から午後4時半まで「京滋YOUの会」主催
「講演会」。
「京滋YOUの会」の藤井さんと京都市国際交流会館長の
柴田さんそして私の3人でベトナム戦争・「子どもの家」
ベトナムなどについて話し合う。
講演会終了後、「京滋YOUの会」の反省会。
東京から参加の通称「村長さん」と「京滋YOUの会」の
大学生。
2013年06月15日
歯科医院通院:東京→京都へ
午前8時、自宅をでて「板橋区役所」へ。
今日から「「都議会議員選挙」「期日前投票」が
始まった。
私は今日から10日間、京都から札幌までの
講演旅行に出る。「都議選」の投票日には、東京にいないの
で選挙ができない。
午前9時、地下鉄板橋区役所前にて下車。
区役所へ行く。地下の出入り口から区役所職員の方が
待ち受けて、9階の投票所まで案内してくれる。
「至れり尽くせり」の応対である。感謝。
投票をする。
地下鉄で自宅まで帰宅。午前10時半、インプラント手術の
術後健診のため、歯科医院に行く。
再度、レントゲンを撮り、歯科医師が手術した部分を検査する。
何針か縫っているので、「痛み」や「腫れ」があるかもしれないい
とのこと。消毒をし、「痛み・腫れ」などがあったら、既に渡してある
痛み止めなどの薬を飲むようにとのこと。
手術から1ヶ月後に『抜糸』をする。3ヶ月後に『本歯』を入れる
とのこと。抜糸は、7月15日とのこと。
私が7月1日にフエへ戻るので、もう少し早く抜糸して欲しいと
お願いする。結局、7月10日に抜糸することになった。
7月1日にフエへ帰る予定で「航空券」も取っていたが、
変更せざるを得ない。
歯科医院から出て、直ぐにバオミンさんに電話。
7月1日フエ帰国の予定が抜糸を7月10日にすることになった。
航空券を7月10日成田→ ホーチミン市→ダナンに変更して
もらうよう話す。
自宅に帰る。手術した奥歯のあたりが「痛い」。
「痛み止めの薬」を飲む。
午前11時過ぎに自宅を出て、東京駅→京都へ
行く。
新幹線車内で「後藤田正晴ー異色官僚政治家の軌跡」
(保坂正康著中公文庫)を読み始める。
最近の政治状況を見ると日本の政治全体が「右傾化」
している。
私が20代、30代の頃の自民党の中心にいた
政治家の一部の人々が、今は「意見は違っても真っ当な
政治家」に見えてくる。後藤田正晴・加藤紘一・野中ひろむ
・河野洋平・・・・・。
それほど、日本の政治家の「劣化」が進行している。
安倍首相とその取り巻き連中(下村文相・・・・・)や
橋下維新の会共同代表などに比べると、政治家としての
最低限度の「良識」「と「知識」を持っていた人々であった。
新幹線の中で後藤田氏の生い立ちの部分を読んだ。
水戸高校出身だということが分かった。「水戸っぽ」精神・
弘道館精神の一端の影響を受けていることが分かる。
午後3時過ぎ京都着。京都駅に「京滋YOUの会」の
藤井さんが待っていてくれた。
私の宿泊予定の駅前のホテルロビーで明日の講演会の
打合せを行う。
2013年06月14日
歯のインプラント手術
午前9時半から午前11時まで。
3本のインプランントを左下奥歯に入れた。
「入れた」と言っても今後約1ヶ月後に中間状況を見て
3ヶ月後に本当に歯を入れるという段取り。
今日は長さ1センチ、太さ0、8ミリのチタンの棒を
下あごの骨に穴をあけ差し込む手術。
3本のチタンは3ヶ月位の間に骨や歯茎の肉に
なじみ、くっつくという。
今日は、3本のチタン棒を入れ、その上に「仮歯」を付けて
終わり。
専門の歯科医師が事前に歯の状況、手術について
詳細な説明を再度行う。体の調子などのチェック。
専門の麻酔医が、左手に管を差し込み、液体を注入した後、
意識がなくなる。
多分、30分か40分位たった頃だろうか、うっすりと
意識が戻った。手術担当の院長先生の「手術が終わりましたよ」
との声が聞こえ、意識が戻る。
特別痛みもない。
CTスキャンで取った写真を提示しながら、手術の経過と
現状について説明がある。
更に今後のインプラント治療の継続などにつての説明。
明日、もう一度診療。
更にできたら1ヶ月後にもう一度通院して欲しいとのこと。
この件は、ベトナム事務所のバオミンさんなどと相談しないと
フエでの仕事の日程な即答は無理なので返事を保留する。
最終的には、今日から約3ヶ月後に本当の歯を入れる治療を
行い、インプラント歯の手術を終わるとのこと。
手術中、麻酔で寝ていたので気づくと終わっていた。
手術後7時間ほどたっても「痛み」「腫れ」などはほとんどない。
一応、病院から「痛み止め薬」などはもらっている。
これから毎晩、6日ほど決まって薬を飲む。
このまま「痛み」と「腫れ」が出ないことを祈る。
「インプラント手術」を総括的に言えば、想像したよりも
楽なものだった。今後、1週間程度は、「うどん」「パン」
など柔らかい食事にすること。飲酒、喫煙は厳禁と
言われた。(禁酒・禁煙は現在、履行できる。)
明日は、朝、板橋区役所へ行き「期日前投票」。
その後、再度「歯科医」へ行き、今日の術後の状況を
みてもらう。
その後、東京駅から京都へ。10日間の「講演旅行」が
始まる。
午後6時半、「バンベー43号最終稿」が静岡のAさんから
送られてきた。感謝。
これで印刷関連担当のSさんに原稿が送られ、6月末に
JASS会員の手に渡る段取り。
夕方になって手術した場所に痛みが出てきた。
何箇所か「縫合」している。
痛みどめ(6時間持続)を飲む。
ーーーーーーーー
今日付けの「京都新聞」に「京滋YOUの会」主催、
京都市後援の『ベトナム・写真展」「講演会」の
が紹介されていた。
2013年06月13日
心臓病院:高校同級生懇談:バンベー最終校正
終日雨。
午前9時に自宅を出て、地下鉄三田線→大江戸線で
都庁前へ。
都庁の地下には、数十人のホームレスの人たちが横になって
いた。今日は雨なので「居場所」がなかったようだ。
アベノミクス(実際は、アベノリスク)なのだが・・・・)で
浮いている大企業の一方で、雨の中都庁の地下で
午前10時頃、横になっている皆さんがいる我が日本の
現実である。
午前10時半過ぎに「心電図」。
その後診療。血圧が非常に低下していた。
先日の「目くらみ」で昏倒したことを話す。
「心臓」の全体映像を取る必要があるとのこと。
東京駅に良いクリニックがあるので紹介するとのこと。
血圧を毎日計るようにとの忠告を受ける。
血圧計はフエの宿舎においてきた。
東京の自宅にはない。
帰りに血圧計を買うことにする。
午後1時半、高校同級生のK君とY君と巣鴨で会う。
ラ酒の話。その後、「デコ電」についての打合せ。
Y君からフエで使う「デコ電」の材料を預かる。
2時間程話し合う。9月に希望者を募って、ベトナム・ラオスへの
「高校有志旅行」をする話をした。
午後5時過ぎ自宅へ。
ベンベー43号編集のAさんより「最終編集原稿」が届いてた。
昨夜、0時過ぎまで頑張って「最終校正稿」をAさんへ送ったが
早速、今日、編集を済ませ、最終編集原稿を送ってくれる。
パソコン上で校正をしていたが、文字が小さく、30分も
小さい文字を読んでいると「頭が痛くなる」。昨夜は、
相当長時間PC上の小さな文字を読んで校正をした。
今日は目も体も疲労の極致。明日は、歯の手術。
近くのコンビニに行き、編集稿を印刷する。
大きな文字に直す。自宅のプリンターが壊れて印刷が
できないのでコンビニに行く。
きれいに印刷できる。
自宅で印刷した「バンベー43号」を詳細に読み直し、
かなりの「校正」を行い、Aさんに再度送る。
全て終わったのは、午後11時半になる。
2013年06月12日
バンベー校正
昨日と今日の2日間をかけて「バンベー43号」の
校正を行った。
ベトナム事務所で原稿と写真を準備し、静岡のAさんに
送信。
Aさんが、自分の仕事を持ちながらの「ボランティア」
でバンベーを編集してくれている。ありがたいことである。
深謝。
Aさんから送られた編集稿の「誤字脱字」、編集された後
不自然さを感ずる文意、文章表現などを分かり安く直す。
かなり時間と神経を使う。
今回は10ページのバンベーとなる。
日本の支援者の皆様には無理を承知で原稿執筆の依頼を
した。忙しい中原稿寄せて頂いた多くの方々に感謝したい。
一応、この2日間で90%程度の仕上がりとなった。
まだ、いくつかの「写真」「原稿の詳細情報」が不足している。
私的には明日から心臓病院、明後日は歯のインプラント手術、
その翌日から10日間の京都・札幌での講演会となる。
ベンベー校正の時間がない。
バンベー校正は、今日が最後の日となる。
そのため、かなり無理をしてバンベー校正を行った。
ーーーーー
「子どもの家」写真・絵画展が6月12日から16日まで
京都市国際交流会館で開催される。
「京滋YOUの会」の主催。6月16日には、同会館で
小山と会館所長の柴田氏との対談講演会が行われる。
今日の読売新聞に案内が掲載された。
2013年06月10日
終日「バンベー43号」の校正
薄曇り
今日は1日中「バンベー43号」の」校正を行う。
午前7時半から始め、午後10時半まで「校正」に時間が
かかった。
時間がかかった原因の一つは、新しい方式を採用し
写真・文章の「移転」に時間がかかった。
編集をボランティアで担当してくれている静岡市の
Aさんに原稿と写真を数週間前に送った。
昨日、静岡市のAさんから編集を終え、バンベーの
書式に則り、編集をした「原案」が送られてきた。
しかし、今回、写真・文章の「移転」の方法を
変えた(一度に多量の写真・文章を移転でき
非常に便利なシステム)。私のUSB使用のインターネット
受信方式では、インターネットの力が弱く、受信に
ひどく時間がかかった。1ページ分の写真と文章を開く
のに15分から20分もかかる。
とにかく時間をかけて受信。1ページずつ、「誤字脱字」
文章を何度も読み返し、「意味不明」「読みにくい表現」
などを訂正した。
結局、最後の編集原稿を開き、「校正」を終えたのは、
午後10時半を過ぎていたい。
私のパソコンの「能力」の弱さと、便利なシステムの
逆意味での不便さを感じた。
メールで一度に2ページ程度送信してもらえれば、
ある意味では、簡単に送受信できたのかもしれないが、
新システムは、確かに便利なものなので、今後、
工夫をして使えるようにしたいものだ。
とにかく、第1次「校正」が終了。今後、静岡のAさん
が校正稿を基にバンベー43号を編集しなおし、
再度、私に送信してくれる。その再編集稿を
再再度校正し、最終印刷にいれる。
午後1時から1時間程、近くの高島平団地まで
ウオーキング。2ヶ月程体調を崩し、仕事が
ない時は、「寝ていた」。体中の筋肉が落ちて
しまった。できるだけ体を動かし、筋肉を
復活させないと、6月16日から10日間の
講演旅行に対処できない。東京→京都→札幌と
講演、札幌市役所訪問などを行う。
数日前に「立ちくらみ」で「失神」転倒した。
今日になって後頭部と背中が「痛い」。
バンベー43号の校正を行いながら、札幌の
中学・高校・大学での講演会に合わせた講演原稿を
作成し、学校へ送り、印刷し生徒さんに渡してもらう
ようにした。
講演会で使う「ビデオ」の選択。京都・札幌の講演会では
講演の対象者がちがうので、上映するビデオ(10分程度)
も講演の対象者に合わせて選択した。
6月16日からの京都ー札幌での講演旅行に向けて、
体調回復がどうしても必要だ。
2013年06月09日
講演会予定の中学PTA会長さんと懇談
一時、夏のような暑さ
午前9時過ぎ、コーヒーを飲もうとしたら「コーヒー・ヒルター」
がなくなっていた。家の近くのコンビニに買いに行く。
途中、信号がある。青が点滅している。急いで駆け出した。
ほんの5秒程度だったと思う。向こう側の歩道に出たあたりで
体が沈んで来た。一瞬だが「これは倒れる」と思い、2~3歩
前に進み、歩道脇の街路灯につかまった所までは覚えている
のだが、その次に気づいた時には、回りに人が集まっていた。
立ちくらみのようなものから、一時完全失神し、後頭部から
背中を歩道の石に強く打ってしまった。
何秒か? 何分倒れていたのかは不明だが、しばらく歩道に
「仰向け」におっさんが倒れていたという醜態を晒してしまった。
はっと気づき、一瞬何があったのかはわからなかったが、
後頭部が異常に痛い。若い男性が心配そうに私を起こして
くれた。しばらくその場で休み、コーヒーヒルタ-を買い、
自宅で飲む。
うーん・・・・。前回帰国した時は、地下鉄が発車寸前の
所を見て、階段を掛けあがり列車に近づくと出発して
しまった、と思っているうちに「長湯をして貧血を起こした」
時と同じ感じでホームに倒れてしまった経験がある。
どうしてだろうか? 今後は何があっても「走らない」ように
しなければならない。今でも後頭部に「コブ」ができている。
午後12時半自宅を出て、午後1時半、池袋で従兄弟の
紹介で埼玉県の中学校のPTA会長さんと従兄弟も交えて
懇談。今秋をめどに中学校での私の講演会を企画するとの
話し合い。3時間半程話し合いをする。
私よりはかなり年下のPTA会長さんだったが、真面目な方だった。
また、従兄弟(1947年この従兄弟の文京区大塚の家で私は
生まれた)も私の講演会に協力してくれるということで、
知り合いのPTA会長さんを紹介してくれ、今日の池袋の
話し合いにわざわざ同席してくれた。深謝。
2013年06月07日
インプラント手術のための事前準備
体調は徐々に回復基調にある。
午前11時半、自宅近くの歯科医へ。
6月14日の午前9時半から行う「インプラント手術」
のための事前準備。
全ての歯の「掃除」のようなもの。歯垢・歯石除去。
手術の3日前から飲む薬、手術後3日間飲む薬などを
もらい、再度、手術の手順、術後の生活の注意などの
説明がある。
術後、1ヶ月間は、チタンの棒が下あごの骨になじまない。
その間は、インプラントを入れた「仮歯」は使わないように
とのこと。
6月14日の手術の翌日も通院するようにとのこと。
翌日は、京都講演会のため新幹線に乗って京都へ行く
予定。予定より時間を遅らせて京都へ行くことにした。
今回の帰国で「歯の手入れ」をしておかないと、歯を治す
時間がない。手術の翌日から京都の講演会へ。
そのまま京都から札幌へ飛行機で飛び、札幌の大学、
中高、札幌ベトナム交流会主催の「TEACH IN」など
を行い、10日間ほど、京都・札幌などに滞在する。
札幌の中高での講演会担当者と連絡を取り合う手はずを
する。
読書「白い航跡(上下)」読了。
非常に興味のある内容。
脚気をめぐる明治時代の日本軍創成期。陸軍医官は
ドイツに留学し「コッホ」などから細菌学を学び、
海軍は、イギリスへ留学し、実証主義的な視点から
医学を研究。
日清・日露戦争当時、日本軍内の脚気の罹患率は
異常に高かった。死亡者も多数。
主人公の高木兼寛(薩摩出身)は、戊辰戦争、
会津の戦いに薩摩藩の藩医として参戦。
蘭学からイギリスへ
留学し、海軍の医官の最高責任者(軍医総監)になる。
明治期の日本の軍隊に蔓延した「脚気」の原因究明を
行う物語。
主人公の高木は、海軍。彼は、白米中心の軍隊の
食事に原因があると主張。白米ばかりを食べる軍人と
白米に麦を入れた軍人とに分け、脚気罹患率の
「人体実験」などを行い、『脚気ー白米原因説』を主張。
一方、陸軍は東大医学部を中心にドイツに留学し
細菌学を学び、「脚気ー細菌説」を主張。
明治期の軍隊内では、東大医学部が圧倒的な権威を
持ち、主人公の高木の「白米説」は退けられる。
しかし、海軍は、イギリスの影響を強く受けているので
「脚気ー白米説」に立ち、航海中や日清・日露戦争中の
軍人の食糧に麦や肉、パンなどを入れて、実証的に
脚気患者がほぼゼロになる成果をあげている。
しかし、日本の医学界の中心である東大医学部は
細菌説に固執し、日清・日露の対戦で多数の脚気
による死者や患者を出す。しかし、最後まで東大・
陸軍・ドイツ派は、脚気‐細菌説を曲げなかった。
鈴木梅太郎がビタミンを発見し、最終的に白米には
ビタミンBが不足していることが分かり、高木の
脚気ー白米説が正しかったことが実証される。
脚気細菌説の主導者は、当時の陸軍医官トップー軍医総監の
である「森鴎外」。森鴎外は、異常な執念をもって
高木の「白米説」を攻撃、無視し、細菌説に固執。多くの陸軍軍人を
死へ追いやっている。
高木は、脚気白米説が証明される前に死亡。
南極に「高木岬」がある。これは、イギリスが、高木の
功績を認めて命名したとのこと。
日本人に知られない人物に光を当てた吉村昭の
著述に感謝。本書を寄贈してくれた友人の五井君にも
感謝したい。
体調を崩し1ヶ月半寝ていた際、送ってもらった本を
読んで時間を過ごすことができた。
夕方、筋肉をつけることも考え、徒歩で高島平駅付近の
AUショップに行く。
古い電話が壊れ、半年前に新しい携帯電話を買った。
古い携帯には、電話番号と住所を入力していた。
新しい携帯は、「老人用」の単純なもの。電話とメール
が主な機能。一番安い物を買った。
古い携帯の資料を全て新しい携帯に伝送したもらった。
新しい携帯を使ってみると「住所」が出てこない。
手紙を出そうと思い、住所が出てこないことに気づく。
安く単純な携帯なので「住所」入力機能はないのだと
諦めた。それでも手紙を出す際、住所がわかなく困った。
仕方がないので、池袋のBIC カメラへ行き、古い携帯の
充電器を買おうとしたが、在庫なし。家の近くのAUショップに
行っても「在庫なし」。
今日は、散策も兼ねて地下鉄で一駅先の高島平駅まで
徒歩で行く。高島平のAUショップで古い携帯の充電器を
買いたいという。お店の年輩の男性は、新しい携帯を
色々と触っていたが「お客さんの携帯はカンタンモードに
なっていますよ」と言い、色々といじっている間に
「ほら、住所録が出てきましたよ」とのこと。
私は、「簡単モードになっている」ということすら知らなかった。
そもそも「カンタンモード」という言葉すら知らなかった。
古い携帯から新しい携帯に情報を全て移転してあったので
カンタンモードから普通のモードに変更すると、電話番号と
住所が出てきた。
お店の方にお礼を言い、近くの本屋で「週刊金曜日」を立ち読み。
店員さんに「週刊金曜日などを買う人がいますか?」と聞くと
「たまに・・・・」との返事。
高島平駅前で日本共産党の」人たちが演説とチラシ配り。
60代後半から70代の皆さんが7人程。6月15日(土)
に日本共産党委員長の志位氏と都議会議員選挙候補の
とくとめ道信氏が高島平駅前に来て演説をするとのこと。
しばらく、どんな話をするのか聞いていた。
所が、話すことは、「6月15日に志位委員長ととくとめ
都議候補が来る」ということを『繰り返し』言うだけ。
日本維新の会の橋本氏の「八尾空港オスプレー配備」
発言や、安倍首相の第3の矢の欺瞞性(弱者切り捨て)
アベノミクスの株価上昇は、大企業と金持ちだけが
儲けている実態の暴露。安倍首相の改憲思想、
「戦争をする日本作り」などについての日本共産党
の「政策」を語らなければ意味がない。
6月15日に「志位委員長と徳留都議候補の演説があります」
の繰り返しでは・・・・・。高齢化した皆さんは必死にハンドマイク
で訴えていた。ご苦労様です。でも政策を語らない政党は
死んだ政党のようなもの。
夜、読書「よそ風 ときには つむじ風」(池部 良著:毎日新聞社)
俳優の池部良と画家の岡本太郎が従兄妹だったのは知らな
かった。本書を読んで知った。
2013年06月06日
岩淵先生とお会いする
晴天
体調は回復基調にある。
午前中、バオミンさん・税田さんとSKYPEで2時間程
いくつかの問題を話し、意思統一を行う。
6月14日に歯のインプラントの手術をするための
手術代を銀行を通して振り込む。かなり気の遠くなる
値段。
「介護保険料金」の請求が郵便で来ている。
私の不在中は未払いになる時もあり、いままでは
まとめて支払っていた。
郵便振り込みにしてもらえるか板橋区役所に電話をする。
可能とのこと。
午後、地下鉄で板橋区区役所へ。介護保険料の郵便振り込み
の申請を行う。
この1ヶ月半、体調不良で毎日寝て、体調回復を待った。
そのおかげで、体中の「筋肉」が相当落ちてしまった。
区役所の帰り、地下鉄の駅を3つほど歩こうとと思い、
板橋区役所から板橋本町まで旧中山道を散策しようと
歩き始める。
旧中山道は、小学校5年から大学を出るまでの
私の生活圏だ。いつも遊び歩いた地域。
「その後、40年以上」経っている。旧中山道の
商店街には、小学校、中学校の同級生がたくさんいる。
私が小学校5年生から毎日のように本を買いに行った
「古本屋」などがどうなったかを視察する。
丁度、旧中山道の「板橋」を渡ったところで、見たような
人が歩いてくる。私の恩師でありベトナム事務所のソン君の
里親でも「岩淵房夫先生」だった。長い間ソン君の里親を
してくれ、ソン君の結婚式には、大腸がんの手術直後にも
拘わらずフエでの結婚式にご夫妻で出席頂いた。
その岩淵先生が、前から歩いてくる。「先生」と声をかけ
握手。先生も驚いたようだ。近くに買い物があったようだ。
「うちに寄らないか?」とのお誘いを頂き、先生の自宅へ。
私が小学校5年から中学を卒業するまでの5年間、
先生の家の1階と2階の「塾のようなもの」に通っていた。
団塊の世代のたくさんの子どもたちがいた。
勉強も教えてもらったが、むしろ先生は、子供たちと
色々な遊び(卓球、輪ゴム鉄砲戦争・・・・・・)をしてくれた。
新年会、冬の雲取山登山、五色沼旅行など色々な体験を
させてもらった。私が教師になってからの行動は、
岩淵先生の「真似事」でもある。私の恩師は岩淵先生と
言うのは、そうした事情がある。
先生は、がんの手術もし、健康が心配であるが、元気な
様子を目にしほっとした。
先生のお宅で数時間、色々なことを話し、楽しい時間を
過ごした。岩淵先生の長寿を心から祈る。
岩淵先生から小学校などで「戦争の語り部」をしているとの話を
伺った。頭が下がる活動である。小学校で「集団疎開」を経験し、
板橋区内への米軍の「空襲」の実態を調査し、子どもたちに
話しているとのこと。本当に立派な活動である。
先生の世代が実際の戦争(空襲・・・・)を体験した最後の世代
である。私達団塊の世代は「戦争を体験した親を持つ世代」であり
戦後の貧しさ、戦争が残したものを見聞し体験した世代である。
それぞれの世代体験を生かしながら、戦争は、どんな理屈と
理由を付けても阻止したいものである。
もっと早く体調の回復を望むが、時間はかかる。
それだけ加齢が進み、今までのような回復力がなくなった
ことを意味している。時間をかけて、我慢しながら体調の
回復をめざしている。
2013年06月01日
6月1日「国際子どもデー」祝賀会
今日は、国際子どもデー。
旧社会主義国を中心に、世界20数か国がお祝いをしている。
午前中、「子どもの家」でも祝賀会を挙行する。
初めに「SEN:セン」 子どもの家運営委員長の挨拶。
●セン委員長の挨拶
「「子どもの家」の皆さん、JASSの皆様」
「子どもたちは皆平等」というスローガン
に基づき、今日6月1日「子どもの家」にて、こどもの日式典
を行い、同時に2012-2013年の成績最優秀と優秀受賞式
を行うことができ、大変うれしいです。
2012-2013年、「子どもの家」には小学校から高校まで
25人の学校へ行っている子どもたちがいます。
小学校2名、中学校20名、高校3名。
2012年ー2013年の年度で9人の皆さんが優秀と最優秀賞を
受賞しました。この結果はまだまだ高いものではありません。
来年度は、もっと良い結果が出るよう皆さんの奮起を期待します。
2012年一2013年の1年間勉強をし、いよいよこれから夏休み
に入ります。像の滝やバーベキューなど楽しい夏休みを過ごし
てください。また、、今年度の勉強の結果を直視し、弱い科目を
重点に、来年度は良い結果が出るよう頑張って下さい。
「子どもの家」のみなさんが、良い成績を残せるのは、
皆さん一人一人のの努力の結果でもあり、また、寮母さんたち
のお世話とJASSの皆様のご支援のお陰でもあります。
皆さんをお世話しているJASSの皆さん、「子どもの家」スタッフ、
ベトナム事務所のスタッフなどの皆さんに感謝の気持ちを
持ってください。
JASSの皆様のご支援に感謝致しします。
皆さんの健康を祈っています。良い夏休みを過ごしください。
ありがとうございました。
TRAN THI SEN
「子どもの家」2階の祝賀会会場には、お祝いの記念品などが
置かれている。
続いて、JASS代表小山道夫のメッセージをロック寮長が
代読。
世界子供の日、おめでとうございます。
今から88年前にスイスのジュネーブで6月1日を「世界子供の日」
とすることが決まりました。現在、世界中の20%の子どもたちが、
今日の6月1日をお祝いしています。
皆さん、毎日元気に生活していますか? 私は今、日本にいます。
皆さんに直接お祝いを言えなくて残念です。
今から20年前の1993年に私はフエに来て、子どもたちを支援する
活動をはじめました。
THANH(タン)君、ロック先生、キムアイン先生、ニエム先生、
刺繍のロアン先生はその時からのお付き合いです。
私は「子どもの家」の皆さんが、幸せな人生を送って欲しいという
願いを持っています。
「子どもの家」の皆さんの持っている「能力」が大きく開き
、一人一人の子どもたちが自分の納得できる進路を決め、
大人になっていって欲しいと願っています。
セン委員長・ロックさんやたくさんの先生たち、JASSベトナム事務所
のスタッフの皆さん、そして,多くの日本の支援者の皆さんと協力して、
「子どもの家」の皆さんの生活を支援しています。
ベトナムでは、38年前まで長い間戦争がありました。
今は、戦争はありません。
皆さんは、しっかり勉強をし、運動をし、たくさんの友達と遊び、
平和な世の中で生活することができます。
私は、一人一人の皆さんが、戦争のない平和なベトナムで
幸せな人生を送ってもらいたいと願っています。
皆さんが自分の力を信じ、途中であきらめずに勉強や研修に
向かって行ってくれることを祈っています。
6月1日 世界子供の日 おめでとうございます
ベトナムの「子どもの家」を支える会(JASS)代表 小山道夫
成績最優秀賞を受賞
●小学生
●高校生
優秀賞と「 ホーチミン共産青年団」で優秀な成績を
収めたとして特別表彰を受ける
成績「優秀賞」を受賞した子どもたち
子どもたち全員にJASSから「お祝いのお菓子」を贈呈
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5月初めから体調を崩し、今でもグズグズとしている。
特にフエの宿舎でひどい下痢と倦怠感、無理をして
仕事を進めていた頃、時間があればほとんどベッドで
横になっていた。「孤独感」を強く感じていた。
このままこのベッドで死んでしまったらどうなるのか?
などという思いがかすかに頭を過(よ)ぎった。
そんな時冗談で、尾崎放哉の自由律俳句をもじって
「下痢をしても一人」と詠んでみた。
(本当は、咳をしても一人、なのだが・・・・・)
吉村昭の「尾崎放哉の伝記を以前読んだ。
東大を出て一流企業の部長になり、40歳で
仕事も辞め、家出をして、60歳代でなくなるまで
全国を放浪していた。小豆島での生活は、狂気と
異常性を感ずるものだった(伝記を読んでだが・・・)
何となく尾崎放哉の気持ちの「ある部分」に近づいたいる
ような気持ちにもなったフエでの「下痢」騒動時であった。