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2012年10月31日
自宅から成田空港近郊のホテルへ
午前8時起床
受信メールの整理。返信。
フエ帰国、荷物整理
午後2時、自宅を出て、日暮里。
急行で成田駅へ。
成田駅付近のホテルに前泊。
JASS青少年の会の加藤さんと電話。
バオミンさんと連絡。
ホテルで読書「反ポピュリズム論」(渡辺恒雄著:新潮新書)
小泉・竹中の「構造改革路線」を厳しく批判している。
午後10時就寝。明日は、午前5時半起床の予定。
午前9時半、成田発 ホーチミン市行きの飛行機に
乗る。
ホーチミン市→フエの飛行機が昨日、急に運休になった
その連絡あり。
ピースインツアーから別便(遅い時刻)の予約をしてもらう。
いつものことではあるが、お客が少なくなると飛行機を
中止してしまう「ベトナム航空」は、世界基準の航空会社
とはいえない。
2012年10月30日
高校同級生與芝君から支援物資受領
晴れ
午前中、フエ帰国の荷物整理。
支援者から頂いた支援金(ベトナム事務所宛)の
整理。
JASSへの送金等を確認。
午後2時、西台駅まで高校同級生の與芝君が
来てくれる。
各種支援物資を贈呈してくれる。感謝。
同時に様々な件について話し合う。
明日、フエへ帰るために成田空港付近に
前泊する。
今日中にベトナムへ持って行く荷物の最後の
確認を行わなければならない。
2012年10月29日
根津の姉の家へ:ブライセンベトナム支社員5人訪日
晴れ
昨日の徒歩4時間かけての「上野アメ横」行き。
今日になって足の膝裏が痛くなったが、我慢はできる。
午前中、フエ帰国に向けて資料整理、荷物の整理等・・・・
午後3時半、自宅を出て根津の姉の家へ。
義兄が、先日「石原慎太郎東京都知事」から表彰された
とのこと。長年の青少年健全育成活動が評価されて。
東京都文京区では一人だけだそうだ。
私が一番興味があったのは、この表彰状が、石原都知事(前)
が最後に直筆で署名したものだとおもったからだ。
興味があるので見せてもらった。誰が読んでも「石原慎太郎」
とは読めないほどの「悪筆」。国家・社会を声高にを叫び、
中国を嫌うのもいいが、自分の名前くらい、他人が読める字を
書いて欲しいものだ。表彰状をもらった人は、東京都知事が
くれたのはわかるが、都知事の誰かは、全く分からない。
徹底して「自己中心的」な人間だと感心してしまう。
「1回自分の名前を書くだけで、あとは印刷してしまうのだ」。
1回自分の名前を書くのだから、もう少し丁寧に、人に
分かるような字を書けないものなのだろうか?
5人(THI・HOA・HUNG・NAM・TRUNG)の
ブライセンベトナム支社員が五反田のブライセン
本社で研修をしている。
午後6時半、目黒の和風レストランへ。
ブライセン本社に2013年4月から就職予定者(6人位の日本の
若者と1人のベトナム人女子留学生)との懇親会。
10月27日からブライセン本社で研修している
ベトナム支社員5人も参加。
藤木社長・森田総務部長・本社社員数名・入社予定者・
ブライセンベトナム支社員・私で懇親。
採用予定者と「きさくに」懇談する藤木社長
左端 TRUNG(チュン)君ー「子どもの家」の元生徒会長
真ん中 THI(ティー)君ー数度の訪日経験あり。
バオミンさんと従兄弟
右(NAM:ナム君ー初来日)
左(HUNG:フン君ー初来日)
右のニヤケタ男(HOA君:ホア君)-元JASS在宅支援
午後11時過ぎまで交流。
来春採用予定の日本の若者と話をした。
しっかりと自分の意見を持ち、社会や世界情勢についての
知識と理解をもっている賢い若者たちであった。
大企業に入り、一生安定した生活をしたいと「大企業ー安定」
狙いの若者もいるようだが、ブライセンに入社予定の若者は
自分の能力と力で会社を大きくしたい、チャレンジをしたいという
進取の精神を持っている。「今どきの若者は・・・」などと嘆くような
言葉を発する人もいるが、今日のような日本の情勢の中でも
未来に期待を持って生きていこうとしているブライセン入社希望
の若者に日本の未来をみたような気がする。
その後、目黒から都営地下鉄で西台まで。
自宅着は、午前0時をかなり過ぎていた。
2012年10月28日
上野「アメ横」までウオーキング:3時間45分
終日小雨
11月1日にベトナムへ「帰国」する。
ベトナム・フエ市には、3ヶ月半ほど滞在する。
その間必要なものを上野の「アメ横」へ買い出しに行く。
以前も徒歩で自宅から上野まで歩いて行ったことがあった。
前期高齢者に序列された今日、どの程度「体力」「気力」が
落ちているのかの「人体実験」を行う。
午前9時45分ー自宅を徒歩で出発
途中、高速5号線高架に沿って志村坂上まで歩く
午前10時30分ー志村坂上
志村坂上から国道17号線を池袋方面へ。雨が降ってきた。
志村一里塚(日本橋→本郷森川宿→板橋平尾宿)の次に
ある日本橋から中山道の4つ目の一里塚。
一里は4キロと言われている。
午前10時50分ー国道17号線から板橋清水町
の旧中山道へ入る
10歳から23歳までの13年間、この付近に住んでいた。
父親の叔父さんの家の一間を「間借り」し、家族6人の生活。
40年ぶりに昔住んでいた家の前を通る。
中学の同級生の銭湯がまだ残っていた。50年前の話。
銭湯の入浴料金が大人450円になっていた。
昔我が家が住んでいた家は改築されていた。
近所の表札を見ると50年前の人がまだ「チラホラ」残って
いた。
環状7号線に出る。自宅の近くに私が通っていた
「稲荷台小学校」がある筈と思い、近くを通ってみると
我が母校はなくなっていて「加賀小学校」となっていた。
環状7号線の「姥ヶ橋」を右折。
午前11時10分ーうばが橋を右折し、北区役所方面へ。
JR十条駅踏切りを通る
午前11時40分ー北区役所着
飛鳥山
北区役所
飛鳥山
東京に残っている唯一の「都電荒川線」「飛鳥山駅」
午後12時ー古河庭園・滝野川小を右折し、駒込へ。
本郷通りを歩き、JR駒込駅へ(写真は霜降り橋)
午後12時15分ーJR駒込駅(北区と文京区・豊島区の境)
私は、1971年から1988年までの17年間
駒込付近の小学校に勤めていた。
午後12時35分ー本郷通りを歩き、本郷通りと不忍通りが
交差する「上富士」交差点へ出る。
上富士を左折し、不忍通りへ
この辺の道は、永井荷風の「日和下駄」に書かれている道である。
荷風は散歩が好きで大正・昭和の東京を散歩し、克明な日記を
書いている。駒込から上富士をを左折し不忍通りを上野まで
歩く。途中、昔はたくさんの坂があったことが地名として残っている。
途中、昔は坂だったということを今に残す地名を歩く
「動坂下」
「道灌坂下」
「団子坂下」
日本医科大付属病院前を通り「根津」へ。
根津を超えてしばらくあるくと「池之端」へ。
上野公園の「池之端門」へ。
不忍の池
午後1時半、終点の「上野広小路」へ到着
自宅を出て、3時間45分で上野に着く。
前回は、途中20分×2回の休息をとったが、今回は
一切休息をとらず、自宅を出てから上野に着くまで
一気に歩き続けた。
前回は、根津を過ぎたあたりから「右ひざ」が痛くなった。
今回は上富士あたりから、右足の付け根が痛くなった。
いずれにしても江戸時代でいえば4里。約16キロを
歩いた。
上野アメ横の「二木の菓子」でベトナムでの「おつまみ」を
買い込む。
その後、16キロを徒歩であるいた「御褒美」に
アメ横「大統領」で軽く、飲む。
瓶ビール1本・マッコリを飲む
「つまみ」は、煮込み、ムロアジのくさや、焼き鳥
「アメ横」の大衆居酒屋「大統領」は、純粋な大衆酒場。
若い女性が一人で飲んいたり、はやり若い女性が
二人で入って来てビールを飲んでいたり・・・・。
昔の土方のおっさんが飲んでいるような酒場に
若い女性が入って来ている実態を見て、「時代の変化」
を痛感した。
帰りは、JRと都営三田線で自宅へ帰る。
JR上野から6駅の巣鴨でおり、都駅地下鉄9駅の
西台で降りる。交通運賃は410円。
今日は、3時間45分歩き、410円分の運賃を
安くしたのだが、その2倍以上のお酒を飲んだ。
まだ、それほど体力が落ちていないことを
3時間45分かけて実験した次第である。
2012年10月27日
益子一家と昼食交流
晴れ
午前11時半から我が家の近くにある「シャレタ」店で
益子一家と交流昼食会。
30歳代、我が家が住んでいたマンションのすぐ裏に
ある洋食レストラン。お店の広い庭で野菜を
栽培。新鮮な野菜を調理した洋食を頂く。
姉の萌さんは、16歳でしばらくベトナム事務所の
手伝いに来てくれた。その後、カナダの高校に留学。
更にカナダの大学・大学院の修士課程を修了。
ベトナム事務所に来てから10年という年月を
経過。カナダでしっかりと勉強し、立派に成長した
ことを嬉しく思う。
弟の渓君も18歳でしばらくベトナム事務所や
日本料理店の手伝いに来てくれた。
その後、帰国し薬科大学へ入学し、勉強中。
ベトナム事務所に手伝いに来てくれた若者が
こうして立派に成長している姿を見ると
我が子のように嬉しい。
生涯の生きていく道を見つけて、邁進してほしい。
ーーー
読書「ルポ 子どもの貧困連鎖ー教育現場のSOSを追って」
(保坂渉・池谷隆司著:光文社)読了
高校同級生の北田君からの寄贈本。
想像以上に日本の子どもたちの貧困の実態は
すさましいものである。
政府・政治自体の貧困が根本原因。
政治の貧困から親の貧困・家庭の貧困へと
連鎖が広がる。
どの子どもたちも自分の持っている能力を
最大限伸ばす権利を持っている。
三度の食事をきちんとし、親から愛される権利を
持っている。
日本の貧困が子どもたちの人権を根こそぎ
奪い取っている実態を共同通信は、事実に即し
ルポしている。
今の日本は、親の財力と進路が連動している。
鳩山元首相は、母親から毎月1500万円もの
小遣いをもらっている。本書に出てくる子どもたちは、
食事ができず、学校で養護の先生がくれるパンなど
で腹を満たしている。
日本の多くの政治家が、「2世政治家」になっている現実。
親が解雇される、離婚するなど、子どもたちには何も
責任のないことが原因で子どもたちは、貧困のどん底に
落とされてしまい、学校へ行けず、学力がつかず、
きちんとした仕事につけない。そして、結婚し、子供を産み
自分と同じような貧困な人生を歩むー貧困の連鎖。
ーー
『「安南王国」の夢ーベトナム独立を支援した日本人』
(牧 久 著 :ウエッジ)
「京滋YOUの会」に豊田さんから寄贈。
1910年(明治45年)、九州の天草から15歳でベトナム・ハノイへ
旅立った松下光廣の人生。
ーーー
夜、プロ野球・日本シリーズを見る。
私はスポーツはあまり好きではない。
サッカーのルールすら良くわからない。
今年のプロ野球日本シリーズ。日本ハムが出ているので
「応援の気持ち」も込めてテレビ観戦。
北海道に本拠地を置いていることと、
栗山監督が私の大学の後輩であるという2点で
応援している。
しかし、途中であまりに得点差が大きくなり、試合が
面白くなくなったので、CATVの「日本映画専門チャンネル」
を見る。「社長漫遊録」(東宝)が放映されていた。
1960年代。森繁久弥社長・加藤大介部長・三木のり平宴会部長
小林桂樹社長秘書、フランキー堺の変なアジア系外国人。
社長シリーズは33本あったそうだ。
あまりに面白いので、笑いが止まらなかった。
一人一人の演者の力量と芸の深さ、経験が光っている。
昨今の「吉本」系は、「芸人」ではない。笑いの底が浅く、
瞬時に忘れる笑いである。
社長シリーズを見ると文字通り「抱腹絶倒」。
笑いの質も時代によって大きく変わってしまうものだと
改めて感じた。
2012年10月26日
父方・母方叔父・叔母・従弟の墓参り
快晴
午前9時自宅を出て、池袋から特級で1時間、若葉駅。
父方の従兄(いとこ)の武井良友氏の出迎えを受ける。
武井良友氏は、父の妹の次男。
戦後、しばらくこの武井氏の家に我が家は「寄宿」していた。
ということで何年間かは、武井氏と一緒に住んで仲である。
武井氏の母親と我が父親は兄・妹の仲。
その後、池袋の母の弟一家の家に「寄宿」したが、その間も
しょっちゅう、文京区大塚に住んでいた武井氏の家へ泊まりに
行き、一緒に遊んだ仲である。私より1歳年上。
武井氏の両親には、大変お世話になっている。
叔母さんの葬儀には列席できたが、叔父さんの葬儀は
ベトナムにいたので列席できなかった。
我が家が中国から引き揚げて来て、家屋敷がなかった時、数年間、
武井氏の家の部屋を借りて、両親と姉・私が住んでいた。
その後も色々とお世話になった。
私は、この数年間、「大塚」の叔父さん・叔母さんに感謝の気持ちを
なんとか現したいと念願していた。日本へ帰国しても忙しく、なかなか
墓参ができなかった。既に亡くなった人たちは何も言えない。
60年前にお世話になったその「恩」に対するお礼を何とか言いたい
というのが私の長年の気持ちだった。
若葉駅から車で1時間程にる「地産墓地」へ。本当に大きな
墓地である。
墓には、叔母さんの義父・義母・長女・叔父さん・叔母さんが
埋葬されていた。
私より1歳年上の武井良友氏(既にIT会社を退職している)
60数年前にお世話になったことのお礼を改めて申し上げる。
この叔父さん・叔母さんがいたからこそ、今日、私が
ベトナムで活動ができるのである。
心から叔父さん・叔母さんにお礼の言葉を捧げた。
武井家のお墓のすぐ後ろには、我が母の弟のお墓もある。
中国から引き揚げて数年間、大塚の叔母さんの家に
お世話になった。その後、事業が成功し、文京区林町に
家・屋敷を買い生活した。私が、2歳から5歳位だろうか?
この頃の記憶は鮮明に残っている。
その後、父親の事業が失敗し、倒産。家屋敷全てを
失う。
今後は、母親の弟が池袋に住んでいたので、その一間を
借りて、5歳から小学校5年まで生活した。
通称「池袋の長島の叔父さん」の家には、私より2歳年下の
男の子と5歳ほど年下の女の子がいた。
既に長島の叔父さん・叔母さん・2歳年下の従弟(いとこ)も
この世にはいない。
武井氏と同様に非常にお世話になった「長島の叔父さん・叔母さん」
にもお礼の気持ちを捧げる。
その後、武井氏と2時間程昼食を共にし、小山一族の現状、
従兄妹(いとこ)たちの「今」などの情報を教えてもらう。
半日、お墓参りにお付き合い頂いた従兄(いとこ)の
武井氏に改めて感謝を申し上げる。
ーーー
半日、父親の妹のお墓と、母親の弟のお墓そして従弟
と3人の血縁者に哀悼に気持ちを現した。
3人とも私は数年間ではあるが、家の一隅を借りて
同居した仲である。60年も前の話ではあるが、
今日、私が生きていられるのは、これらの親戚の
叔父さん・叔母さん・従兄弟のお陰であることを
私は常に感謝の気持ちを持ちながら、心の中に
大事にしまっているのである。
2012年10月25日
通院
寒くなった。
昨日、飲みすぎ。
午前8時過ぎ、自宅を出て都営地下鉄で「西台」→「春日」→
「都庁前」へ。
NSビルにある「榊原記念病院」へ。
午前10時過ぎ、診療。前回、採血したので、その結果が
出た。30種類程の数値結果とこの数年の数値の変化
一覧表を見せながら、詳しく説明してくれる。
心筋の機能が異常に活性化しているので、それを抑える
薬を飲んでいるのだが、数値的には、問題ありとのこと。
悪玉コレステロールが高すぎるとのこと。その他日常生活
についての諸注意あり。
今日の診療と諸注意の結論は、「お酒の飲みすぎを厳しく
抑制せよ」に尽きる。
私が心配していたのは「痛風」になるのでは?ということだったが、
これは、全く正常値。安心。足の指などが痛くなったら困ると
思っていたのだ。これで安心して飲酒ができる「保障」をもらった
と自認している。
新宿の京王デパートへ。明日の叔父・叔母のお墓参りの
進物を買う。
午後、帰宅。
テレビで石原慎太郎都知事の「本日都知事辞任」
「国政へ進出する」との記者会見を見る。
やはり年齢がいっている事もあり、自分の気持ちの
昂まりを抑えられず、同じようなことを「タラタラ」と
話していた。
石原氏の話の現状認識には、一理あることが多々あった。
東京にあるアメリカ軍基地に対する批判。
日本政府批判、外務省、文部省など日本の
中央官僚に対する痛烈な批判は、ある点で
当たっている。
同時に憲法改悪を主張している。
結局、石原慎太郎氏は、現状の堕落している政治、
明治以来の中央集権体制に乗っかり、驕り高ぶっている
中央官僚への国民の批判を取り込みながら、
現状の矛盾を「右から」改革しようとするものである。
現状の国民の不満は正当なものであるが、その不満を
ファッショ的な方向で解決しようとする石原氏の「最後の
御奉公」と言える。
石原氏の単細胞的「中国政策」一つ見ても、石原氏が
複雑な国政を制御できないことは自明である。
同時に東京都政で行った差別的・抑圧的な行政を国レベルで
行うものでもある。
1934年にヒトラーが政権を取った。
第1次世界大戦で敗北したドイツ。賠償など国民の
不満が蔓延してた。同時に当時、世界で一番進歩的な
「ワイマール憲法」下でのドイツでもあった。
1932年のドイツの国会の議席は
・ドイツ共産党 100人
・ドイツ社会民主党 121人
・カソリック系 90人
・ナチス党 196人
この時点で「ナチス」に反対する「統一戦線」を結成すれば、
ナチスに政権をわたさないという選択肢があったのだが・・・・。
ファシズムははじめは「耳あたり」の良い言葉を多発する。
今の日本は、歴史的にみてみ大きな転換点に立っている
ことは事実である。
民主主義徹底と不公平・格差をなくし、平和であることを中心に
した政治的な大きな輪ができることを祈っている。
自分だけが立派だなどと思っている政党は、消滅する。
西で橋下氏が、東で石原氏が動き出し、日本の国政も
怪しい時代に入りつつある。
どんな政治を選ぶかは国民の権利であり、その結果は
国民が負うことになる。
2012年10月24日
都立S高校3年8組クラス会のような会の分派フラクション会議
快晴
午前11時半、大田区O駅付近のS屋に結集。
クラス会のような会の分派フラクション会議を開催。
参加者は5名。
S屋は、「シルバー料金」というシステムがあり、かなり割安料金で
交流ができる。
左S君はラオス。右K君は、物書き
左Y君は、ラオスでラム酒作り。右G君は東大先端研究所
午前11時半から午後2時位まで大田区O駅付近で
フラクション会議。
その後、山手線で上野「アメ横」へ。
引き続き、クラクション会議で解明できなかった
諸問題を論議。
以前、バオミンさんやフエ市のお偉いさんを
招待した大衆会議所
夕方、分派会議を見事に成功させ、ご満悦の分派会議参加者
上野アメ横入口にて
非常に重要な内容の会議であり、大きな成果を
勝ち取った会議でもあった。
いつまでこうした飲み会分派会議が続けられるのか?
段々「体力」が落ちてきた。この先、どうなるのか・・・・
2012年10月22日
旧友夫妻と懇談
晴天 夕方曇り
午前中、1時間半程、ウオーキング。
午後、読書「ルポ・子どもの貧困連鎖」
夕方、志村坂上へ。
1972年からの友人佐藤博さん夫妻と懇談。
佐藤さんは、1992年から東京都北区の教員仲間で
共に教育の民主化運動などを行った。
JASS会員だった木村百合子さん公務災害認定裁判
では、裁判が2審に進み、東京高裁での争いになったが、
木村百合子さん裁判を支援する東京の会を作ってくれ、
自ら事務局長になり、裁判闘争を支援してくれた。
同時に一橋大学名誉教授の久富善之先生と共著で
木村百合子裁判を学問的に検証する本を出版し、
裁判闘争を推進してくれた。
午後6時から午後10時頃まで、様々な問題を
話し合った。
楽しく・有意義な会合だった。佐藤夫妻に感謝する。
2012年10月21日
京都から東京へ帰京
午前8時、ホテルで朝食。
いくつかのメール送受信。
入浴。ゆっくりと入浴する。
午前11時、ホテルをチェックアウト。
京都駅で新幹線切符を購入。
新幹線車内で読書。
「ルポ 子どもの貧困連鎖ー教育現場のSOSを追って」
(保坂渉・池谷孝司著:光文社)
2010年4月から2011年2月まで共同通信社が
配信した記事をまとめたもの。二人の著者も
共同通信社の記者。
高校ー中学校ー小学校ー保育の現場・子どもたちに
拡がっている「貧困」の実態をルポしたもの。
壮絶な我が日本の子どもたちをめぐる貧困の実態に
慄然とする。
自宅着。
夕食を早く済ませて、寝る。
2012年10月20日
「京滋YOUの会」ー京都講演会
京都は晴れ
午前11時、「京滋YOUの会」事務局長の藤井さんたちが
京都駅前のホテルへ来てくれる。
皆さんで京都駅のレストランで昼食
その足で京都駅隣接のビル内にある講演会場である
京都の公的施設へ。
講演会場は、公式な国際会議などもできる立派な会議場
「京滋YOUの会」の皆さんが、講演会の準備
「子どもの家」付属刺繍土産物店で作製した
刺繍作品を展示(販売用)
最新製品(「京滋YOUの会」特注のハンカチーJASSの
ゴロマーク)
今年の夏の地球のありき方スタディーツアーに
参加した教員志望のAさん。わざわざ講演会に
来てくれた。
午後2時。講演会開会。
「京滋YOUの会」仁枝代表の開会挨拶
「京滋YOUの会」会員のBさんの上手な司会で会は始まる
約30人の方々の参加
国際ソロプチミスト京都ー西山のみなさん
15年近く支援を続けてきてくれている。感謝
1995年に放送された「久米宏のニュースステーション」で
放映された私のフエでのストリートチルドレン支援活動
のビデオを放映。リー君が路上で寝ている様子が分かる。
その後18年ほどたったリー君の様子のビデオも放映。
JASS20年近くの活動の到達点を中心に話をする。
その後、参加者からの質問に答える
講演会の最後に寄付金を頂く
株式会社「アデッソ・スフィーダ」と「京滋YOUの会」から。
アデッソ・スフィーダ」代表から支援金を頂く。
講演会終了後、午後5時頃から参加の皆さんと交流会
日本料理店で仕事を初めたHIEP君の里親
Uさんと新婚の旧姓Uさんも参加
JASSベトナム事務所員の税田さんや
京都市国際交流協会専務理事の柴田さんも
お忙し中、交流会へ。
今年の夏の「京滋YOUの会」のスタディーツアーに
参加した大学生のTさん
「京滋YOUの会」事務局長の藤井さんと
京都市国際交流協会の柴田専務理事
豊田観光の豊田陽さんと藤井事務局長
交流会参加者全員写真
その後、今日の「京滋YOUの会」主催
講演会の深い反省を行う。
推定終了時刻午後10時頃
2012年10月19日
京都へ 支援者と懇談
午前中、いくつかの仕事をやり終える。
昼前自宅を出て東京駅へ。新幹線で京都へ。
新幹線車内で「創氏改名」を読了。
日本軍国主義者が、単純に創氏改名を遂行できた
訳ではないことが分かる。朝鮮総督府」(南次郎)の
中でも「警察関係者」は、創氏改名に賛成していなかった。
日本人と同じ名前を朝鮮人が持ってしまうと、朝鮮人の
管理ができないというのが主な事情。
更に創氏は法律上で強制されていたが、改名は法制上では
強制ではなかった。
また、在日朝鮮人の創氏改名は、難しかった。
戸籍が朝鮮にあり、朝鮮の戸主がどんな氏をつけてか?
また、満州にいる朝鮮人の創氏改名問題、中国北部に
いる朝鮮人の創氏改名・・・・・。
朝鮮人の中でも創氏改名に積極的に協力していく人たちと
創氏改名に抗議し、創氏改名をしなかった官選知事が2名
いたこと。創氏改名に抗議して自殺をしているひとなど・・・・・。
それでも70パーセント程度は創氏改名をさせられている。
多くの宗家(本貫が共通の一族)は、宗家会議を開き、
金が本貫なら、「金田」「金本」「金原」など自分の宗家の
本貫を使って日本風の2字の氏、2字の名を作っている。
午後3時半、京都着。
京都駅でJASS支援者とお会いし、懇談。
京都駅構内の京(日本料理)店で。
京都伏見の「桃の滴」(大吟醸 松本酒造 一合)
を飲む。
少し甘口だが美味しい。
午後七時過ぎ、支援者との話を終わり、駅前のホテルへ。
友人と電話で話をする。
明日は、昼過ぎから「京滋YOUの会」主催の講演会
2012年10月18日
京都講演会の準備
終日、曇り
午前中、1時間半、ウオーキング。
すっかり秋らしい街並みになって来たように思える。
明日から京都へ行く。京都での講演会の個人レジュメを
作る。ビデオや話す内容を検討。
「京滋YOUの会」の藤井事務局長からおおよその
話をメールで受けているので、話す内容とその後の
質疑応答を総合して、JASSの活動を話したい。
午後、10数通のメール受信。色々と調査し返信。
バオミンさんと11月1日フエ帰国航空券の件で
電話打合せ。
夕方、里親の件でバオミンさんと電話で打合せ。
2012年10月17日
休息:通院
昼間から寒い。夕方、雨。
昨夜、飲みすぎ。昼間で寝ている。
午後、多数のメール受信。必要な送信。
ラオス行の話しがあり、與芝君と電話で話す。
午後1時から1時間ほど昼寝。
雨が降って来た。
いくつかの問題についてメールでベトナム事務所と
打合せ。
午後5時過ぎ、右手中指の治療で病院へ。
午後6時頃、診療。右手は中指はほぼ完治。
同時に左手の中指がおなじように化膿し始める。
その治療。
何故、右手が治ったら左手中指が同じようになったのか
不明。
高校クラス会のようなもの参加
かなり寒くなった。
ベトナム事務所といくつかの件で連絡。
メールがうまく届かず、税田さんを中継してのやり取りと
となる。
2013年2月の「現地報告会」の日程を決める。
JASS日本代表委員会委員長の稲垣さんや
副委員長の山西さん、JASS東京代表の松下さんなどに
連絡。会場確保をお願いする。
11月1日にフエへ帰るが、その際ベトナム事務所へ持ち帰る
お金の一覧表をバオミンさんや会計部長のハンさんに連絡する。
11月に訪越する静岡市長のフエ滞在日程について、
フエ市人民委員会と打合せ。
午後5時、自宅を出て池袋へ。高校のクラス会のような会に
参加。高校クラス会は正式な幹事がいて開会される。
先日20年振りに行われた。
「高校クラス会のような会」は、その間を繋ぐ会である。
級友のG君が中心になり、呼びかけ、参加希望者の
(我儘な)日程を忍耐強く調整してくれるので、
「高校のクラス会のような会」が持てるのである。
午後6時、会合開始。
11人参加。女子4人、男子7人。
ラオス在住3人、キューバ在住1人、ベトナム在住1名(私)
など参加者の半分は、海外在住者。
海外在住者の在日日程を調整し、この種の会合を開けるのは
G君のお陰である。感謝。
私の隣のT君は、同じ陸上部員。現在、ラオスでラム酒を
作っている。
真ん中の男子1名の目が異常に怪しい。
65歳集団とは思えないほど「元気」がいい。
相当量の生ビール、焼酎が瞬く間に消えていく。
ラオス在住の2名の「非行男子」がサッポロ・ライオン店の
女性店員さんと写真を撮りたいとの無理難題を吹っ掛ける。
女性店員は「嫌いやながら」写真札撮影に参加してくれる。
その後、河岸を代えて、引き続き池袋の洋風レストラン風飲み屋
へ。
午後10時過ぎ閉会。
楽しい時間を持つことができた。
私たちの出会いは1963年。約50年間の付き合いである。
2012年10月15日
家ダニのアレルギー発症
朝から鼻水と「くしゃみ」が多発する。
家ダニのアレルギーが発症。医者からもらっている
薬を使用。こまった体質である。家ダニ、ハウスダスト、
杉花粉・・・、時々レバーもジンマシンが出る。
体力が落ち、免疫力が弱くなっている時にでるようだ。
右手中指の爪を切りすぎ、化膿。治るまで1ヶ月程かかるという。
あと一週間ほどの時間が必要だ。右手の中指の先が使えないと
パソコンのキーボートが打てない。時間がかかる。
抗生物質を塗布しているので、お風呂に入った時に体を
洗うのも不便である。食器を洗う・・・・・、結構、右手の中指
は人間が日常生活をするのには、重要な部位だということが
分かった。
午前中1時間半程ウオーキング。
高島平団地を一周する。多い時は人口3万人の
大団地である。
団地の中にある商店街を散策。
午後、「昼寝」をしようとしたら私を指名で「勧誘の電話」
がかかって来た。コピー機を買えという。
時間があるので、1時間ほど「様々な質問」をする。
いつも忙しいと時に勝手に電話をしてくるので、
今日は1時間ほど「電話代」を使ってもらった。
読書「創氏改名」
バオミンさんと何度かメールの送受信。
私のパソコンの調子が悪いのか、理由は不明だが
私からバオミンさんへのメールが届かない。
税田さんに中継してもらい、小山→税田→バオミン
とメールの送受信をしている。
2013年2月、東京で行う「現地報告会」の日程調整、
ブライセンベトナム支社員の訪日ビザ取得の件・・・・
2012年10月14日
ウオーキング:休養 少し仕事
午前中、徒歩40分程にある「ヤマダ電器」へウオーキング
も兼ねていく。
7年ほど前に買ったブラウンのシェーバーの「網」が破れて
しまい、皮膚を傷つける。
刃と網の買い替えに行った。4000円近い。4000円出すと
新しいブラウンのシェーバーそのものを買えるのだが、シェーバー
本体が壊れていないので、「もったいな」く思い、刃と網だけ
を買う。
町は既に秋の気配が漂っていた。
往復で1時間半。適度の運動となる。
午後、板橋区役所からきた「65歳からの元気力チェックシート」
を記入する。質問に答え、区役所へ返送するようにとのこと。
こんな質問状をもらう年齢になったのかと、改めて実感した
次第である。
質問は以下のようなもの
・バスや電車を使って一人で外出していますか (はい いいえ)
・日用品の買い物をしていますか
・預貯金の出し入れをしていますか
(この質問は、老化の具合いを調べるものなのだろうが
預貯金のない人は、「いいえ」と答えるしかない。不適当な質問)
・階段や手すりや壁をつたわらずに昇っていますか
・15分位続けてあるけますか
・この1年間に転んだことがありますか
・お茶や汁物でむせることがありますか
・今日が何月何日かわからない時がありますか
・毎日の生活に充実感がない
・自分が役に立つ人間だと思えない
・あなたは財布や鍵など、物を置いた場所がわからなくなることが
ありますか(この回答は、時々ある に○をした)
・あなたは、道に迷って家に帰ってこれなくなることがありますか
(この文書は若い人が書いた文書だとわかる。「これなくなくなる」
という言葉には、ひどく抵抗感がある)
ありがたいことではある。こうして65歳以上の区民の「痴呆度」等
を調べてくれるということは・・・・。日本が世界1の長寿国になって
いるのも、こうした取り組みがあるからだろう。
この「チェックシート」の結果を見て、私の今後の生活課題、
健康作りの指針などを作り、送ってくれるとのこと。
私的には、こうした調査をもらうようになった自分自身に
驚きを感じている。ベトナムで20年間、無我夢中で
活動している間に「元気力(生活機能)」チェックシートを
書くような年齢になるとは思っていなかった。
このチェックシートを書きながら、いつまでいまの健康が
続くのか?が不安になったのも事実である。
健康を害したり「痴呆」が出てきたり(多少出てきている可能性
あり)したら、「子どもの家」やベトナム事務所などの活動は
どうなるのかを考えると「春日一球」のように「夜も眠れなく」
なってしまう。
JASS機関紙42号の内容を考える。
2013年2月の「現地報告会」日程などを考える。
11月1日ベトナム帰国までの日程を調整、確認する。
メールの受信・送信。
読書「創氏改名」
2012年10月13日
バオミンさんと電話連絡:ブライセン関係
朝、寒くなった。
昨夜、午前様。
今日は午前中は寝ていた。
正午に食事。
午後、バオミンさんと何度か電話連絡。
ブライセン関連の資料。
午後2時過ぎに解決。すべての資料が完成。
バオミンさんと再び電話で話し合う。
ベトナム事務所、日本料理店関連の件で打合せ。
2013年2月、東京で行われる「現地報告会」についての
日程、2013年2月10日からの「テト正月」の日程等を
打合せする。
原田虎太郎君から電話。10月25日の昼に会う約束を
する。
2012年10月12日
ももの木鍼灸院訪問:ブライセン本社四半期会社説明会
快晴 少し肌寒くなる
12時前に自宅を出て、都営三田線で水道橋下車。
徒歩でJR水道橋へ。総武線で千葉県市川市へ。
大学同級生の大極さんが経営する鍼灸院「モモの木」へ。
元ベトナム事務所員・日本語教師だったNさんも一緒に。
その後、私の体調不良改善のため、「針」と「お灸」を
施術してくれる。
針が痛いような気がしていたので、今まで針灸はお断りしていた。
初めて「針」をしてみたが、全く痛くないことが分かった。
お灸は、ポカポカと気持ち良くなり、眠くなってしまった。
その後、午後5時頃品川へ行く。品川でJASS日本代表の
稲垣もえ子さんと会い、2013年2月に「「現地報告会」の
日程などを打合せする。
稲垣さんも忙しいようだ。週の半分は、出張するとのこと。
体に気を付けて欲しいと痛感した。
午後6時半、品川から2駅目の五反田へ。
ブライセン本社へ。今日は四半期(3ヶ月)ごとの
各部の業務遂行状況の報告会。
ブライセン本社員全員参加。全社員で四半期ごとの
会社全体の仕事遂行の状況、目標達成の実状、
会社の問題点などを「共有」する」システムは
なかなか良いシステムである。
中途採用者の紹介
午後9時頃から社員懇親会
ブライセンの平均年齢は32歳・33歳位だとのこと。
若者の多い会社である。
ブライセン社内には、こんな掲示があった。
組織運営のためには最低限」必要な原則である。
その後、藤木社長、2人の部長さんと一緒に河岸を変えて
飲み直す。
日本酒や焼酎の美味しい銘柄がたくさんある店。
刺身もおいしい。
自宅着。午前0時頃 だと思う。
2012年10月11日
心臓病通院:お墓参り
快晴
午前8時半、自宅を出て地下鉄で新宿都庁前へ。
10数年かかりつけの心臓専門病院へ。
心電図をとる。
その後、診療。血圧測定、体の触診。
過去5回採取した血液検査の一覧表を比較し、問題点を
指摘してくれる。中性脂肪が高いとのこと。過度の飲酒に
厳重注意。
その後、血液採取。10月25日に再度通院し、
血圧検査の結果を聞くことになる。
10数年同じ医師が担当してくれているので私の事情も
良く理解してくれている。ベトナムでも心臓の薬が
切れないように配慮してくれる。ありがたい。
3ヶ月分の薬をもらう。改めて4種類飲む薬の
効能書きを読む。2種類が副作用で「めまい」がある
と書かれていた。
この数年の間に時々、頭がふらつき、倒れてしまい、
短時間だが意識がなくなることがあった。
病院で頭の検査もしたが異常がなかったが、この
薬のせいかもしれない。
今日も地下鉄に乗るため階段を駆け上がったが、
少し、頭がボーッとし、意識がなくなりかけたので
直ぐにホームに手をつき時間を待った。
昼前に全ての診療と投薬が終わる。
病院のある「NSビル」から歩いて新宿駅へ。
JR新宿駅改札付近で「福島県会津」支援の
物産展が行われていた。
「福島復興支援」と思い、「純米吟醸 男山」(開当男山酒造)
と「きゃらぶき」の佃煮を買う。
新宿からJRで池袋へ。池袋から東部東上線で1時間。
森林公園へ。両親・兄弟のお墓参りに行く。
春秋・命日のお墓参りに行けないので、日本へ帰国した
際にはできるだけ、墓参りに行っている。
兄や弟などは、既にこの世で二人を知っている人が
いなくなっている。特に兄は、1945年12月14日、
中国で引上げ中に栄養失調で死んでいる。
我が家族で亡くなった人たちを誰かが少しでも
心の中で思い出してやることが、今、この世に生きている
私の義務だと思っている。意味のないことと思う人も
いるかも知れないが・・・・・。
お墓を掃除し、雑草などを処理する。
お供えに「会津のお酒」を。
1945年12月(兄 5歳:栄養失調による肺炎 中国)
1964年7月(父:54歳 脳溢血ー推定原因お酒の飲みすぎ)
1966年11月(弟:16歳 白血病)
2012年8月(母:99歳 老衰)
この世の中で家族の私一人でも、これら故人を思い出すことも
意味のあることかと思っている。
再び東部東上線で池袋まで。午後4時過ぎ池袋着。
「精進落とし」が必要。池袋の大衆酒場へ。
秋刀魚の塩焼きで軽く一杯。
バオミンさんからのメールが私のパソコンに届かない。
税田さんを経由していくつかのメールを読む。
お墓参りの往復(2時間)で「創氏改名」(日本の朝鮮支配の中で)
「水野直樹著:岩波新書」を読む。
本書で改めて「姓」と「氏」の違いを理解しないと、創氏改名の
意味が分からないことを知る。同時にベトナム人の名前が
NGUYEN THI HANH など3つの部分に分かれてることも
理解できた。
朝鮮の名前は、 李や朴などは、「本貫」と言って、ある地域に
生まれた血族(宗家)の人が、冒頭につけるもの。
同じ李でも場所によって違うので「密陽 李」などと区別する。
ベトナムで「NGUYEN」(グエン)が多いのもこの「本貫」
と言える。これは中国の影響である。
英語で表記すると FAMILY NAME:MIDDLE NAME:
GIVEN MANE と表記するが、NGUYENも家族名では
なく「本貫」」という血族一党のシンボル名である。
当時の朝鮮は「家族制度」「家」という概念ではなく、
自分の血筋の出所である「宗家」主義である。
姓を使い、氏は使っていなかった。
当時の日本は、天皇に直結し、「家」があった。
家には家長がいて、家長が天皇に従うという
日本の制度を「植民地朝鮮」に押し付けようとした
事が、創氏改名の本質である。
家という概念がない朝鮮に無理をして家の象徴である
「氏」(小山家・中村家・・・)を押し付けたのである。
朝鮮は出身血族である「本貫」(宗家)主義なので、
名前の冒頭に出身同族である「本貫」(李・朴・金・・)
などはつくのである。
本貫は、苗字(氏)ではない。
ベトナムで「グエンさん」と言えば、国民の半分が「はい」と
返事をすると言われている「グエン・NGUYEN」の意味が
分かった。GUYEN(グエン)も本貫なのだ。
本貫制度の基礎は、家族制度ではなく、宗家・一党主義。
ベトナム事務所の「BAO MINH」さんが、NGUYENとか
TRANなどの本貫がないのは、皇帝一族なので
「どの地域のどんな宗家か」を示す必要がないからだと
ということも分かった。
2012年10月10日
依頼された原稿完成 講演会の準備
●私の使っているYAHOOのメールが送信できなかったり
受信できなかったりしている。関係者の皆様にご迷惑を
おかけして、申し訳なく思っている。
原因は、YAHOO側にあった。以下のような「お詫び」の
文書がYAHOOから送信されてきた。
一部のお客様においてメールが表示できないなどの事象が
発生しており、現在調査中です。ご迷惑をおかけしますが、
なにとぞご了承ください。
午前中、通販フェリシモから依頼された原稿を書き上げ、
必要な写真を探し送信する。
昼、徒歩で西台駅まで。買い物
午後3時、ゆっくりお風呂に入りたくなり、お風呂を沸かし
30分ほど入浴する。その後、昼寝。
講演会で使うビデオを探し、映してみる。
1995年のビデオが見つかる。京都の講演会で使う予定。
20本ほどのビデオを見て、京都講演会で使うのに適している
ビデオを4本ほど選ぶ。
JASS会員の方と電話。
鍼灸医院をしているDさんと電話で話す。
11月1日にフエへ帰るまでの日程を整理する。
日本へ帰国して1ヶ月弱。連日、殺人事件の報道を
見る。隣近所での諍い(いさかい)での殺人事件などを
みると日本人の「劣化」現象が顕著になったように
思う。政治の劣化現象は既に明明白白な現状だが。
隣近所の諍いなどは、お互い「知恵」を使って争いに
ならないような「大人」の対応が求められる。
相手を一方的に攻撃し、殺害するまでに至った
元警官の意識は、自分は絶対に正しい、相手が
100%間違い、との思いあがった気持ちがある。
隣近所の争いなどの場合は、どちらかが「冷静」に
対応すれば、殺人にまで進まずにすむのだが・・・。
相手を一方的に日本刀で殺すなど、一番卑怯な
やり方だ。相手が、何も武器を持っていないのに
一方的に攻撃する「大人」の幼児化ともいえる。
今日、この種の人たちが増えてきているように
思える。一方的に相手を責める「その自分自身」
の幼児性を考えることも必要なのではないだろうか?
元警官の日本刀での「問答無用」な行動は、自分だけが
唯一正しいという思考が背景にある。殺された女性にも
それなりの言い分はあった筈だ。大人が子供になった
わが日本国ではある。
2012年10月09日
板橋区役所へ
午前8時半、徒歩で板橋区役所へ。
都営地下鉄で7駅。運賃で210円分。
西台から首都高速の下を通り、志村坂上へ。
坂上から国道17号(新中山道)を通り、
板橋区の清水町から「旧中山道」に入る。
清水町から板橋本町(岩の坂)、仲宿を歩き、
板橋区役所へ。
清水町から板橋区役所への道は、小学校5年生から
大学を終えるまで過ごした地域である。
自宅から板橋区役所まで徒歩で2時間半。
町の様子を楽しみながら歩いた。
午前11時半。板橋区役所へ。
国民年金申請に関する資料を区役所へもらいに
行く。
戸籍登記簿謄本、住民票の全員記載。
申請書に「年金で申請する場合は、年金と書く」
とあったので「年金」と書いたら、区役所職員は
「年金という記載ではだめです。国民年金と書きなさい」
との態度。私は、記入注意事項に年金申請に使う
場合は、年金と書く、書いてあったから年金とかいたのだ。
年金の種別も書くのなら、記入注意書にその旨をなぜ書かない
のか?と区役所職員に問い質す。
板橋区区役所職員は、「そうですね?」いうだけで、
問題の本質を理解していない。
公務員は、国民の奉仕者だ。国民・区民が分かりやすい
ように、申請をしやすいように工夫するのは最低限度の
義務である。市民が区役所職員に奉仕するようなシステムは
おかしい。
自分たちしか分からないような申請書を作り、区役所
職員の誰も疑問に思っていないのも変な話である。
帰りは、さすがに疲れて地下鉄で帰る。
午後2時過ぎ、JASS支援者のKさんから電話。
先日、心臓大静脈剥離という緊急事態に陥り、救急車で
榊原記念病院に入院。大手術をしたとのこと。
幸い、術後の経過は良好だとのこと。
Kさんは、
長年出している奨学金を緊急入院で拠出できて
いないので気になったとのことでわざわざ電話を
してきてくれた。
退院した際には、私の方でお宅へ伺うとの話を
する。心臓の緊急事態を無事解決できたとのことで
安心した。
JASS会員から電話あり。
静岡市役所から電話。
静岡市長がフエ訪問をするのでその日程調整を
しいたとのこと。
JASS支援者から電話。
日本料理店の事などを話す。
2012年10月08日
高島平団地散策
午前8時起床
朝は寒かった。
午前10時から12時まで徒歩で高島平団地へ行く。
100円ショップで買い物をしようと思ったが、つぶれていた。
西台駅前のいくつかの店も閉店していた。
日本の経済事情を反映している。
2時間程昼寝。これはベトナム在住20年で身につけた
素晴らしい習慣である。
午後、何箇所かから依頼された原稿を書く。
風邪を引いたようだ。鼻水が出て困る。
あるいは、風邪ではないかもしれない。
ハウスダストか家ダニのアレルギーの可能性も強い。
2012年10月07日
静岡から自宅へ
午前9時、静岡のホテルを出る。
静岡駅で新幹線の切符を買おうと自動販売機に行く。
静岡→東京の新幹線の禁煙指定席は全て満席。
喫煙席は、すべて「空席あり」となっている。
自由席のホームで新幹線を待つ。自由席は、たった5両しか
ない。1号車から5号車の待ちホームは、長蛇の列。
3連休中の人出は本当に凄い。
関西方面からやってくる新幹線はどの列車も満席。
仕方がないので自由席に並んで乗る。
偶然1席空いていたので座る。
相当多数の人が、立って東京まで行く。
自宅へ帰り、昨日の木村百合子さんの会の
様子を火炎樹日記にアップする。
インターネットの力が弱く、写真がきちんと乗らない。
3時間程かけて不十分だが、アップする。
新幹線内で「創氏改名」(水野直樹著:岩波新書)を
読む。日本が1910年李氏朝鮮を植民地にし、
創氏改名を行う過程、狙いなど。
一般的に教科書などにかかれている「皇民化」政策
の一環というとらえ方よりも複雑な内容であることが
わかる。朝鮮の家族制度を変えるという内容。
韓国が竹島問題で燃える背景を知りたいのも
本書を読む目的の一つ。
2012年10月06日
故木村百合子さん公務災害裁判勝訴を祝う会
午前8時過ぎ自宅を出る。
巣鴨駅前のデニーズでメール受信・送信。
バオミンさんといくつかの連絡。
新幹線で浜松へ。巣鴨駅から東京駅へ。
巣鴨駅も東京駅も「人人人・・・・」
3連休の初日。大変な人出。
東京駅で駅弁を買い新幹線に乗る。
12時過ぎ、昼食。
その後、インターネットでメール受信。
午後1時半過ぎ浜松駅着。
駅付近の静岡県西部地域交流プラザへ。
既にたくさんの人たちが集まっていた。
午後2時開会。
故木村百合子さんのご両親と「支援する会」代表の蓮井牧師
この3人の方々が、裁判を勝訴に持ち込んだ中心的な存在。
木村百合子さん裁判の縁の下の力持ち役の蓮井牧師。
私は信仰心はないが、蓮井牧師の誠実な「支援する会」運営
は敬服という言葉が一番適当なことばのように思えるほど
誠実なものだった。
蓮井牧師から開会と会員が285人に達したとの報告あり。
弁護団の中心的存在である小笠原里夏弁護士より
木村裁判勝訴の経過と意義について報告。
一般的には公務災害裁判の勝訴は難しい。
小笠原弁護士の報告の要旨
●まず、勝訴して心から嬉しい
①木村百合子さんの死を公務災害と裁判所が認めたことの
意義は大きい。
②教師であれば誰でも経験する教師の業務に対して
精神疾患を生じさせると裁判所が認定した意義は大きい
③支援する会の大きな発展は裁判所も巻き込んだ。
結果的に地裁・東京高裁の判決は、「人間味」のある」
判決となった。
④今後の学校改革の出発点に立つ判決だった。
⑤判決後、9月13日 静岡県教育委員会へ「要請書」を
提出。不定量な超過勤務をなくすよう・・・・・・。
続いて弁護団長の塩沢弁護士より報告
今回の裁判は、木村百合子さんが自死して8年経っての画期的な
判決だった。裁判闘争は本当に大変だった。
204年9月26日に木村百合子さんは自死。
2008年7月4日に静岡地裁に提訴。
裁判は4年かかり勝訴した。
今回の裁判は、依拠する前例の判決がなく、手探りでの
裁判闘争となった。結局、弁護団が依拠したものは、
木村百合子さんが残した「教育実践記録」「日記」
「指導週案簿」など、百合子さん自身が残した直筆の
記録こそ、勝訴する原動力だった。
色々な人たちに意見書などを書いてもらったが、
判決はこれらの意見書に沿ったものだった。
東京高裁の判決は、静岡地裁判決を更に補強する
内容の高い判決だった。
続いて木村百合子さんのご両親から参加者へお礼のことば
・この裁判を通して多くの方々との出会いがあった。
・長い間のご支援に感謝したい
・娘が自死して呆然としていた時に
最初にベトナムの「子どもの家」を支える会の方が家へ
来てくれて「裁判」を勧めてくれた時、一つの光が
見えたような気がした。
最後に本間さんの「支援する会」の会計報告。
支援する会としての報告会が終了
その後、木村ご夫妻の意向もあり「茶話会」という形で
支援する皆さんの交流会。
茶話会の最初に私が指名され、今の私の率直な思いを
述べる。
①裁判闘争に参加された全ての皆さんに感謝したい。
特に百合子さんのご両親の奮闘には、頭が下がる。
更に塩沢・小笠原弁護士の粘り強い頑張り、
蓮井牧師、静岡県磐田市議の」玉田さんの機関紙作り
そして、東京高裁裁判に移り、「支援する東京の会」を
友人の佐藤博さん・JASSの元副代表の大谷猛夫さん
奮闘・・・・・・・。
②木村百合子さんの自死について、私自身が止められなかった
ことへの贖罪意識が払拭できない
2004年7月にJASS静岡の会主催で講演会をした。
百合子さんは、講演会には参加できなかったが、
その後の「反省会」には浜松から静岡まで来てくれた。
10人近くで懇親会をしたが、百合子さんの「激やせ」
驚いた。「私の学校でストリートチルドレンやボランティヤ
の話をしてほしい」と百合子さんから依頼され、10月頃
百合子さんの小学校に行きましょう、という約束をした。
8月になり百合子さんからメールがある。
JASSの日本語学校の先生になるのには
どんな資格と手続きが必要かとの問い合わせ。
私は、4月に待望の小学校に先生になった百合子さんが
なぜ、フエのJASS日本語学校に先生になりたい、などと
問い合わせをするのか? 疑問に思った。
「激やせ」の事もあり、これは百合子さんに何か
問題が起こったのかも知れない、と思った。
直ぐに静岡の会の関係者に連絡をし、「百合子さんの
様子がおかしい、百合子さんに直接連絡を取ってほしい」
依頼。静岡の会の人は、直ぐに百合子さんに連絡をしてくれた。
しかし「なんでもないです」との返事があり、それ以上は
誰も何にも言えない。
そのうち自死してしまうという経過を辿った。
私たちはどうしようもなかったのではあるが、それでも
何もできなかった「自分自身」の不甲斐なさと悔しさが
今でも心の奥底に残っている。
③この裁判は、あくまで木村百合子さんの自死は
教員という「公務」をしていたことによっておこった
自死かどうか?を判定するものであり、勝訴し、
「公務」であることが認定された。
しかし、個人的には、木村百合子さんが何度も
苦境を訴え、助けを求めた校長・教頭・研修主任などは
何度も新任教員の」木村百合子さんを「罵倒し」
援助どころか「給料泥棒的」な」暴言を百合子さんに
浴びせている。
百合子さん自死の本当の関係者は校長・教頭・
研修主任などだと思っている。
これらも人間は、謝罪をするでもなく、今もシャーシャー
と生活している。
研修主任に至っては、大学の教員になり、教員志望学生
を教えているという何とも情けない現状がある。
社会正義が」全うされていない日本社会である。
これらの真実の責任者と思われる人間への社会的な
糾弾が必要だ。
こんな話をした。
その後、関係者の皆さんが思い出や感想を発表する。
裁判が東京高裁に移り、東京にも支援する会ができる。
旧友の佐藤博さん、元JASS副代表の大谷猛夫さん、
そして一橋大学名誉教授の久富先生などがその中心に
なり木村百合子さん裁判支援を行ってくれた。
左から 大谷・久富・小山・佐藤
JASS静岡の会事務局長の笠井先生
木村百合子裁判の最初から裁判闘争に参加。
茶話会の最後に木村一家の皆さんから
私と塩沢・小笠原弁護士にお礼の花束贈呈が
あった。
私など本当に何もできなかったのだが。
茶話会閉会の言葉は、静岡県磐田市議会副議長
の玉田市議(百合子さんの勤務していた磐田市)
木村夫妻と小山・笠井先生
(手に持っている写真は2004年7月の
私の講演会後の反省懇談会に参加した木村
百合子さん)
午後4時過ぎ解散。
新幹線で静岡へ。
駅前のホテルへ笠井さんと行き、私は一休み。
午後6時半から「JASS静岡の会」の皆さんと
懇談会。
2時間程、JASS関連の話をする。
最後にJASS静岡の会の牧田先生から
「静岡県藤枝市」の青島酒造の「喜久酔(きくよい)」
の純米吟醸酒を頂く。
懇談会後、ホテルで休む。
2012年10月05日
各種資料作り
朝起きられない。
午前中、ある資料作り。
午後、バオミンさんと電話で打合せ。
日本料理店の店長TUOIさんが、妊娠し休暇に入る。
今後の日本料理店の運営についてバオミンさんと
打合せをする。
明日は、浜松へ。木村百合子さん「公務災害認定訴訟」
勝訴を祝う会に参加の予定。
空いている時間は、横になっていた。
疲労感が取れない。
2012年10月04日
ブライセン本社中途採用者懇談会
午前中、依頼された原稿を書く。
午後、日本不在中に提出しなければならない
たくさんの書類に必要事項を記入する。
不明な事項は担当官庁、基金等に連絡し詳細を聞き
書類を仕上げる。
今日は、終日体調不良。
8月からの疲労がたまっている。体の抵抗力・免疫力が
相当低下している。
右手の爪の間に黴菌がはいり化膿。戦術簡単な切開を
し、快方に向かっているが、中指が使えないと仕事ができない。
顔に赤い発疹ができ、薬を塗り、抗生物質を飲んでいる。
午後3時過ぎ巣鴨へ。巣鴨のデニーズでお茶を飲みながら
バオミンさんにいくつかのメールを送信。
ブライセンベトナム支社関連の資料を作成。
原田虎太郎君から電話。20年近くの支援者のKさんの
奥さんから電話。Kさんが心臓発作。救急車で緊急入院。
手術。現在は安定しているとのこと。びっくりする。
午後6時半・。目黒駅近くのレストランを貸切り、ブライセン
本社に今年途中採用された社員10数人と本社部長との
懇親会に参加。
ブライセン本社は規模が大きいので違うセクションの新採者
はわからない傾向がある。社長の発案ですべての部長と
新採者の顔合わせ懇談を行う。私も誘われ参加。
副社長と新採者
全景 交流が深まる
ざっくばらんな社長にして「ザックバラン」な社員と社風あり。
途中、外は豪雨。
午後10時半過ぎ、私は退席。
自宅着午後11時半
2012年10月03日
再度通院
午前中、銀行、買い物
午後、近くの総合病院へ。
皮膚科へ行く。昨日は、皮膚科が受診ができず、応急措置として
外科に行った。
今日、改めて皮膚科へ。
中指の爪が相当腫れ膿んでいた。皮膚科の医師が、
ニッパーで爪の端を1センチほど切る。相当痛い。
その後、冷凍した気体のようなもので「患部」を焼く。
生爪を切ってので出血。薬をつけ治療終了。
次に鼻にできた皮膚病のような吹出物のような患部を
治療。
爪を切り、患部を根本的に治療したので、しばらくすると
指の痛みがかなり緩和された。
まだ1週間ほどはかかるととのこと。
薬局で投薬。
ブライセンから電話。いくつかの件を話し合う。
バオミンさんにメール。
2012年10月02日
通院
右手の中指の爪に細菌が入り、腫れて膿んで
しまう。
家の近くの「総合病院」へ。
爪を切った際に皮膚も切ってしまい、そこから
細菌が入ったとのこと。
抗生薬と抗生物質入りの塗り薬をもらう。
箸やペンが持てず、パソコンのキーが
打てない。困ったものだ。
この間、3冊の本を読む
・団塊の世代とは何だったのか(由紀草一著:洋泉社)
団塊世代より7年遅い世代。
団塊世代を「逃げ切り世代」であり、破壊はしたが
何も残さず、結局体制に飲み込まれた世代と
かなり厳しく批判している。
・江戸語・東京語・標準語(水原明人著:講談社現代新書)
江戸語の形成過程では三河など家康譜代の武士や
商人などの影響を受けている。
標準語の基準を「東京山の手の中流階級の言葉」
と規定しているが、厳密にそのような人間はあまり
いないとのこと。
母→(おっかあ:江戸下町)(おっかさん:武士)
(ははさま:武士女子)→かあちゃん(下町)
→おかあさん(山の手中流)→ママ(現代)
こんな流れになるようだ。私の子供の頃は
「とうちゃん・かあちゃん」と言っていた。
・「大奥の奥」(鈴木由紀子著:新潮新書)
大奥には、2000人以上の女性がいた。
結構、庶民(町を歩いている農民や商家の
美女などが、武家や公家の養女となり
大奥へ。
なかなか興味のなる内容満載。