« 各種資料作り | メイン | 静岡から自宅へ »

2012年10月06日

故木村百合子さん公務災害裁判勝訴を祝う会

午前8時過ぎ自宅を出る。
巣鴨駅前のデニーズでメール受信・送信。
バオミンさんといくつかの連絡。

新幹線で浜松へ。巣鴨駅から東京駅へ。
巣鴨駅も東京駅も「人人人・・・・」
3連休の初日。大変な人出。

東京駅で駅弁を買い新幹線に乗る。
12時過ぎ、昼食。

その後、インターネットでメール受信。

午後1時半過ぎ浜松駅着。
駅付近の静岡県西部地域交流プラザへ。

既にたくさんの人たちが集まっていた。

午後2時開会。


故木村百合子さんのご両親と「支援する会」代表の蓮井牧師
この3人の方々が、裁判を勝訴に持ち込んだ中心的な存在。


木村百合子さん裁判の縁の下の力持ち役の蓮井牧師。
私は信仰心はないが、蓮井牧師の誠実な「支援する会」運営
は敬服という言葉が一番適当なことばのように思えるほど
誠実なものだった。

蓮井牧師から開会と会員が285人に達したとの報告あり。

弁護団の中心的存在である小笠原里夏弁護士より
木村裁判勝訴の経過と意義について報告。
一般的には公務災害裁判の勝訴は難しい。

小笠原弁護士の報告の要旨

●まず、勝訴して心から嬉しい
①木村百合子さんの死を公務災害と裁判所が認めたことの
  意義は大きい。
②教師であれば誰でも経験する教師の業務に対して
  精神疾患を生じさせると裁判所が認定した意義は大きい
③支援する会の大きな発展は裁判所も巻き込んだ。
  結果的に地裁・東京高裁の判決は、「人間味」のある」
  判決となった。
④今後の学校改革の出発点に立つ判決だった。
⑤判決後、9月13日 静岡県教育委員会へ「要請書」を
  提出。不定量な超過勤務をなくすよう・・・・・・。


続いて弁護団長の塩沢弁護士より報告

今回の裁判は、木村百合子さんが自死して8年経っての画期的な
判決だった。裁判闘争は本当に大変だった。
204年9月26日に木村百合子さんは自死。
2008年7月4日に静岡地裁に提訴。
裁判は4年かかり勝訴した。

今回の裁判は、依拠する前例の判決がなく、手探りでの
裁判闘争となった。結局、弁護団が依拠したものは、
木村百合子さんが残した「教育実践記録」「日記」
「指導週案簿」など、百合子さん自身が残した直筆の
記録こそ、勝訴する原動力だった。

色々な人たちに意見書などを書いてもらったが、
判決はこれらの意見書に沿ったものだった。

東京高裁の判決は、静岡地裁判決を更に補強する
内容の高い判決だった。


続いて木村百合子さんのご両親から参加者へお礼のことば

・この裁判を通して多くの方々との出会いがあった。
・長い間のご支援に感謝したい
・娘が自死して呆然としていた時に
 最初にベトナムの「子どもの家」を支える会の方が家へ
 来てくれて「裁判」を勧めてくれた時、一つの光が
 見えたような気がした。


最後に本間さんの「支援する会」の会計報告。


支援する会としての報告会が終了

その後、木村ご夫妻の意向もあり「茶話会」という形で
支援する皆さんの交流会。

茶話会の最初に私が指名され、今の私の率直な思いを
述べる。

①裁判闘争に参加された全ての皆さんに感謝したい。
  特に百合子さんのご両親の奮闘には、頭が下がる。
  更に塩沢・小笠原弁護士の粘り強い頑張り、
  蓮井牧師、静岡県磐田市議の」玉田さんの機関紙作り
  そして、東京高裁裁判に移り、「支援する東京の会」を
  友人の佐藤博さん・JASSの元副代表の大谷猛夫さん 
  奮闘・・・・・・・。

②木村百合子さんの自死について、私自身が止められなかった
  ことへの贖罪意識が払拭できない


  2004年7月にJASS静岡の会主催で講演会をした。
  百合子さんは、講演会には参加できなかったが、
  その後の「反省会」には浜松から静岡まで来てくれた。 
   10人近くで懇親会をしたが、百合子さんの「激やせ」
  驚いた。「私の学校でストリートチルドレンやボランティヤ
  の話をしてほしい」と百合子さんから依頼され、10月頃
  百合子さんの小学校に行きましょう、という約束をした。

   8月になり百合子さんからメールがある。
   JASSの日本語学校の先生になるのには
   どんな資格と手続きが必要かとの問い合わせ。
   私は、4月に待望の小学校に先生になった百合子さんが
   なぜ、フエのJASS日本語学校に先生になりたい、などと
   問い合わせをするのか? 疑問に思った。
     「激やせ」の事もあり、これは百合子さんに何か
   問題が起こったのかも知れない、と思った。
    直ぐに静岡の会の関係者に連絡をし、「百合子さんの
    様子がおかしい、百合子さんに直接連絡を取ってほしい」
   依頼。静岡の会の人は、直ぐに百合子さんに連絡をしてくれた。
   しかし「なんでもないです」との返事があり、それ以上は
   誰も何にも言えない。
    そのうち自死してしまうという経過を辿った。

    私たちはどうしようもなかったのではあるが、それでも
   何もできなかった「自分自身」の不甲斐なさと悔しさが
   今でも心の奥底に残っている。

  ③この裁判は、あくまで木村百合子さんの自死は
    教員という「公務」をしていたことによっておこった
    自死かどうか?を判定するものであり、勝訴し、
    「公務」であることが認定された。
     しかし、個人的には、木村百合子さんが何度も
    苦境を訴え、助けを求めた校長・教頭・研修主任などは
    何度も新任教員の」木村百合子さんを「罵倒し」
    援助どころか「給料泥棒的」な」暴言を百合子さんに
    浴びせている。
      百合子さん自死の本当の関係者は校長・教頭・  
    研修主任などだと思っている。
     これらも人間は、謝罪をするでもなく、今もシャーシャー
    と生活している。
     研修主任に至っては、大学の教員になり、教員志望学生
    を教えているという何とも情けない現状がある。
     社会正義が」全うされていない日本社会である。
     これらの真実の責任者と思われる人間への社会的な
     糾弾が必要だ。

    こんな話をした。



その後、関係者の皆さんが思い出や感想を発表する。


裁判が東京高裁に移り、東京にも支援する会ができる。

旧友の佐藤博さん、元JASS副代表の大谷猛夫さん、
そして一橋大学名誉教授の久富先生などがその中心に
なり木村百合子さん裁判支援を行ってくれた。

左から 大谷・久富・小山・佐藤


JASS静岡の会事務局長の笠井先生

木村百合子裁判の最初から裁判闘争に参加。


茶話会の最後に木村一家の皆さんから
私と塩沢・小笠原弁護士にお礼の花束贈呈が
あった。

私など本当に何もできなかったのだが。



茶話会閉会の言葉は、静岡県磐田市議会副議長
の玉田市議(百合子さんの勤務していた磐田市)
  


木村夫妻と小山・笠井先生

(手に持っている写真は2004年7月の
私の講演会後の反省懇談会に参加した木村
百合子さん)


午後4時過ぎ解散。

新幹線で静岡へ。

駅前のホテルへ笠井さんと行き、私は一休み。

午後6時半から「JASS静岡の会」の皆さんと
懇談会。


2時間程、JASS関連の話をする。

最後にJASS静岡の会の牧田先生から
「静岡県藤枝市」の青島酒造の「喜久酔(きくよい)」
の純米吟醸酒を頂く。


懇談会後、ホテルで休む。


投稿者 koyama : 2012年10月06日 12:42

コメント