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2005年05月31日

日本帰国

午前8時過ぎトンチンカンホテル発。
フエ空港で2時間ほど待ち、午前10時20分発ホーチミン行き
でホーチミン市へ。乗客のほとんどはベトナム人。海外の人は
ごく少数。日本人は私一人。

ホーチミン空港からタクシーで市内の定宿へ。タクシーで
350円程度。運転手はいつものように、「メーターに5ドルの
追加が必要」という。3倍近い請求。はじめてきた外国人と
思い吹っかける。「いつものように」携帯電話を取り出し、
「これから警察に行こう」「私はホーチミン市に12年住んでいる
ので市内でいくらか分かる」「いまから警察に電話をする」
と逆脅し。運転手さんは態度豹変。「ソーリー」「ソーリー」を
繰り返す。ホーチミン空港から市内へ行く時、80%程度の
確率でこのような「吹っかけタクシー」に出会う。
多くの日本人が仕方なく支払っているものと思われる。
残念な現象である。

昼過ぎ、宇都宮縫製工業組合の佐藤理事長から電話。
今ホーチミン市にいるので会おうとのこと。私のホテルまで
来てくれる。市内の喫茶店で現在ODA申請中の縫製工場
について細部の打合わせ。今後の支援についての相談を
する。
話し合いの後、佐藤さんに誘われ「フットマッサージ」に行く。
1時間半、足のマッサージをしてくれる。足が楽になる。
佐藤理事長と別れ夕食。「PHO 24」というフォー専門店
へ行く。ハノイ名物米うどん。フエでは数年前まで30円から
40円程度だった。現在ベトナム全体として物価が急上昇。
フエでもフォーが70円~80円と倍加している。
「PHO 24」のフォーは200円。ホーチミン市の物価の
高さと庶民の暮らしぶりの一端を垣間見た。

午後9時半、ホーチミン空港へ。日本行きのお客は少ない。
午後11時40分ホーチミン発の飛行機に乗る。
お客は50人程度。私は3席を寝床に寝て帰国。

投稿者 koyama : 18:32 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月30日

フエ市人民委員会打ち合わせ

午前9時、フエ市人民委員会へ。
税田真理子さんをニエン外務部長へ紹介する。

●手作り名刺を交換するニエン氏と税田さん

その後、当面の子どもたちをめぐる諸問題を話し合う。

午後、あるタレントの写真集撮影の依頼を受け、その打ち合わせ
準備を行う。

夕方までベトナム事務所で里親への手紙、私の不在中の諸準備
などを行う。明日午前8時半にトンチンカンホテルを出て
ホーチミン市へ。午後11時40分ホーチミン市発の飛行機で
6月1日早朝成田着の予定。

午後6時半から「フォンザングループ総支配人」ドン氏と会食。
当面の諸問題について意見交換。

心を病んでいるH君。今朝8時半にフエ中央病院へ行き診断。
明日から入院できることになった。母親も一安心と喜んでいる。
今後、入院費用などバオミンさんがお母さんと常時連絡を取る
ことになっている。

今日の通院はバオミン・ベトナム事務所長がH君のアパートまで
行き、母親にタクシー代を渡しタクシーを呼んだ。
事前にフエ中央病院小児医長から精神科副医長へ話が通して
あったので、診療はスムースに進んだ。
困った時には人間お互い様である。私たちが出来る応援を
するのは人間として当たり前のことである。
H君の病状が回復することを願うのみである。母親の苦悩が
少しでも緩和されればと願っている。

投稿者 koyama : 19:46 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月29日

ピースボート・松尾氏ハノイへ・フールー小終業式

気温36度。終日晴天。
午前中、「子どもの家」へ。ピースボートの皆さん(40人)が
子どもたちと昼食作り。その後、中庭でサッカーや交流。

「子どもの家」で緊急に問題が起こり、セン委員長・私
ミンさん・税田さんとで打ち合わせ。

午前10時半、ミン・ベトナム事務所長とフォンザンホテルへ。
共同通信の松尾氏がハノイへ行くためチェックアウト。
その足でベトナム事務所へ。ベトナム事務所で若干意見交換。
松尾氏はみやげ物店の刺繍を買ってくれる。

ベトナム事務所前で松尾氏と別れる。
トンチンカンホテルで若干休息。午後2時45分、サン・ベトナム
事務所員が迎えに来てくれる。
サンさんのオートバイのうしろに乗り20分。フールー小学校へ。
今日は日曜日だが、フールー小学校の終業式に招待された。
昨日のエリート小学校であるレロイ小学校と違い、実に質素な
終業式だった。しかし、心は籠もっていた。

●フールー小学校の終業式

●国旗掲揚

●参列した小山

●成績最優秀・優秀の子どもたちに賞状と記念品を渡す。


式典は1時間半。午後4時半過ぎに終了。
トンチンカンホテルに戻ったのは、午後5時。
昨日と今日の二日間。確かに疲れた。

夜8時半。フエ中央病院から連絡あり。
心を病んでいるH君の入院が決まった。
明日(5月30日)午前8時半~9時の間に
フエ中央病院精神科に行くことになった。
これでお母さんもひとまずは安心。

投稿者 koyama : 20:12 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月28日

ピースボートをダナンへ出迎え

午前5時、トンチンカンホテルを出てダナンヘ。
ラームさん、税田さんと。ピースボートの出迎え。
700人ほどの乗船者の中で「子どもの家」訪問を希望した
40人の方々を出迎え、フエまで案内する。
今朝は、3時に目が覚めた。しばらく時間があるので
ウトウトしているうちに寝過ごし、午前5時前になってしまい、
ラームさんの電話で急いで外に出る。

フエからダナンまで車で3時間。途中、3つの山を越える。
6月1日に日本のODA援助で「ハイバン峠」トンネル開通式典
が行われる。既にランコービーチからは長い橋が出来ていた。
山に入るトンネルも完成していた。

ハイバン峠を超え、ダナンへ行く途中、山の中腹で
大型トレーラーが横転。そのため、ハイバン峠から
ダナンまでの国道1号線は渋滞。この道路を通る時、
何度も重大な事故を見ている。運転者の無謀運転と
スピードの出しすぎが原因の一つ。

午前8時頃、ダナンヘ到着。既にピースボートの船は着いていた。


地元の若者の歓迎

昨年、「子どもの家」を訪問したご夫妻と再会

午前9時、40人の「子どもの家」訪問者と一緒にバスに乗り込む。
バスの中で「ベトナムの現状」「子どもの家」、私たちの活動など
を2時間ほど話す。

ラームさんと税田さんも同行。

午後12時、フエ市内到着。市内のレストランで一緒に食事。
昼食後、ホテルへ案内。

ホテルへ案内した後、午後2時、サン・ベトナム事務所員と
一緒にレロイ小学校の終了式に参加。
式典はトゥアティエンフエ省文化会館で盛大に行われる。
ベトナム中部のエリート小学校。

●終業式典会場のフエ省文化会館

会場にはレロイ小学校800人程の児童の中で成績「最優秀」
「優秀」の児童だけが親とともに招待され参加。722人。
式典は午後2時開会の予定が午後2時半となる。初めに
子どもたちの歌と踊りがあった。途中で停電。外気温40度以上。
文化会館の中は722人の子どもたちと親で満席。
暑いのなんの・・・・・。そんな中で10分ほど停電。

フエ市教育委員会小学校部長、地元共産党委員長、
地元人民委員長などともに紹介される。テレビ局の取材がある。

●政治担当副校長と

終業式の挨拶・報告は政治担当副校長が行う。
1年・2年・3年では、441人が最優秀・優秀ー97、3%
5年生 160人が最優秀・優秀。96、3%。

レロイ小学校終業式終了後、ピースボートを案内していた
バオミンさんと一緒にフエ空港へ。ピースボートの案内は
ラームさん、中村、松下さんに任せる。

午後6時40分、ハノイから共同通信の松尾氏が到着。
松尾氏は昨年までの2年間、共同通信のハノイ支局長。
現在は東京本社勤務。

●午後7時、フエ空港にて 松尾氏、バオミンさん、小山

今回、「現代ベトナム入門」(日中出版)を執筆出版。
松尾康憲著:2500円

フエ空港からフォンザンホテルへ案内。
その後、松尾氏、バオミンさんさんと夕食。
トンチンカンホテル帰宅は深夜。

今日は朝5時から深夜まで17時間ほど休みなし。


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2005年05月27日

自転車質入事件 

午前8時過ぎ、ベトナム事務所へ。
バオミンさんと打ち合わせ。
午前8時半、バオミンさんと「子どもの家」へ。
就職のための研修を希望している子どもたちと面接のつもりで
「子どもの家」へ行った。しかし、セン委員長に会った途端に
「研修面接の前に会って欲しい人がいる」と言われ、P君の
母親に会う。P君18歳。8年ほど前に「母親が精神を病んでいる。
母親が何を言っているのか分からず、子どものP君がオロオロ
している」と近所の人が「子どもの家」へ連れてきた。
それから8年。P君は学校へ行ったが、勉強がほとんど理解
出来ず、落第を繰り返し、退学。
数年前からオートバイ研修センターで勉強をしていた。

問題の発端は、「子どもの家」のI君・D君・S君3名の連名で
P君の母親(50歳)へ手紙が送られた。P君のお母さんは、
その手紙を持って今朝、突然「子どもの家」へやって来た
という訳である。

手紙の内容は以下のようである。
P君が自転車を貸して欲しいと言うので貸してやった。
しかし、P君は自転車を1台20万ドン(1400円)
「自転車質屋」に入れてしまいった。P君の問題は
親の責任なので自転車を返して欲しい、というもの
であった。

P君は母親の所にしばらく行くと言って「子どもの家」を
出て2週間帰ってきていない。オートバイ研修センター
にも行っていない。

早速、自転車を貸したと言っているI君を呼ぶ。
I君の弁。P君は自分の自転車を入れて4台の
自転車を「質屋」に入れて65万ドン(4700ドン)借りた。
自転車は「子どもの家」の赤旗隊長のT君が質屋へ
持って言ったとのこと。4台のうち、既に1台は質流れ
となった。3台を請け出すには、利息23ドルを入れて
88万ドン(6300円)が必要とのこと。

P君の母親にP君はどうしているのか?聞く。
母親の弁。
息子のPがオートバイ研修センターの道具を買うと言ったので
280万ドン(2万円)上げた。そこから先は知らない。
私はP君は悪い子なので直ぐに地元の警察に訴えた。
あの子は悪い子だから刑務所に入れてください、という。
私の方で色々と質問してもトンチンカンな答えしか返って
来ない。
帰りにロック寮長が持っている息子P君のIDカードを持って
行ってしまう。「Pは悪い奴だから、地元の警察にPのID
カードを預けるのだ」と。
2時間ほど、関係者を呼んで、センさん・ロックさん、ミンさん
私で事情を調べるが、調べれば調べるほど不可解な
出来事である。

P君が母親から280万ドンも貰ったのか?
P君の母親は仕事をしないで家にいる。僅かな
お金を行政からもらい生活してる。どう考えても
母親が280万ドンをP君にあがられる筈がない。
また、P君が一人で280万ドンもの大金を使える
訳がない。「子どもの家」の生徒会長が何故、
4台の自転車の質入人になっているのか?
次から次へと疑問がわいてくる。
確かなことは、4人の子どもたちの自転車が
確かに「自転車質屋」に入れことだけである。
質入の「質札」をI君がもっていた。
気温37度。室温40度以上の部屋で忍耐強く
母親、子どもたちなどの話を聞く。
結局、セン委員長・ロック寮長が更に詳しく
真相を解明することとし、直ぐに88万ドン出して
自転車を質受けしないこととした。

突然、H子さんが退所することとなり、叔母さんが
やって来た。急遽、退所式を行う。

午前11時半、やっと、研修を希望している子どもたちと
面会。二人の子どもたちが研修をしたいとの希望がることを
確認。セン委員長・バオミンベトナム事務所長が
東京平和産業への研修を確認した。

トンチンカン着。午後12時半。急いで昼食を摂る。
午後2時半、東京平和産業のラームさんと一緒に
「子どもの家」へ。
東京平和産業への研修を希望しているイン君(17歳)と
グエットさん(16歳)とラームさん、センさん、私と話し合い、
改めて東京平和産業での研修の確認を行う。
イン君・グエットサン、センさん、ラームさんとの間で
東京平和産業での研修についても細かい点を確認。

午後4時過ぎ、ラームさんのオートバイの後ろに乗り
ベトナム事務所へ。途中、王宮前の火炎樹の花が
咲き始めていた。6月入ると、真っ赤なトンネルとなる。

午後7時過ぎ、フエの町の様子を視察。
夜の街の人の流れが数年前と比べると大きく変わる。
レロイ通りから現在はフンボン通りへメイン通りが
変わった。
レロイ通りは薄暗い。フンボン通りは、道の両側に
たくさんのお店が出来、明るく観光客がたくさん
歩いていた。驚いたのはベトナム人観光客の
数が圧倒的に多いことである。数年前、夜の街を
フラフラ歩いているの外国人観光客だった。
今夜は、ベトナム観光客ばかりだった。
ほんの少し、西洋系の観光客。日本人は少なかった。
今は、外国人の観光季節ではない。
日本のマスコミでは、ベトナムのトリインフルエンザ
が大々的に報道されている。町ではゆでた鶏肉が
売られていた。美味しそうだった。

今日は室温40度以上の蒸し暑い部屋で合計5時間以上、
人の話を聞く。結構、疲れるものである。

明日は、午前5時発でダナンへ。ピースボートの出迎え。


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2005年05月26日

人は何を生きがいとするのか?

午前8時半、床屋へ。帰国5日前。今回から120円。
1回の理髪で約2ヶ月。日本へ帰国し2ヶ月程は
床屋へ行かない。高すぎる。
徒歩でベトナム事務所へ。気温36度。外気温は40度以上
はあると思われる。
バオミン・ベトナム事務所が「在宅支援のH君の様子がおかしい。
母親からの連絡」とのこと。急いで、ミンさんと一緒にH君の
アパートへ行く。ミンさんのオートバイの後ろに乗る。暑い。
H君は、10年ほど前から在宅支援をしてる。母親は事情があり
一人でH君を育てている。Hくんは5歳位の頃高熱を出し、
手と足、言語に障害が出る。母親は収入がなく、知り合いの
4畳ほどの物置小屋を無料で借り、母子二人で生活していた。
里親の支援でH君は数年遅れで小学校1年生に入学。
学校へ行ってみると成績も良く、毎年最優秀賞をもらっていた。
母親は、H君に障害があるので学校へ行くのは無理だと思って
いた。初めてH君のいる物置小屋を訪ねたとき、暗くじめじめした
部屋にいた母親はまるで老婆のような感じだった。今から
考ええると39歳位だった。JASSの在宅支援が始まり、
生活できるようになった母親はH君を数年遅れて小学校へ
行かせることが出来るようになった。経済的な環境と
人間の気持ちとは比例する部分がある。
その後のH君は手足の障害と闘い、言語の障害を乗り越え
ようと努力していた。昨年11月のフエ大洪水の時もお見舞いに
行った。H君は、鉄アレーで障害のある腕に筋肉をつける
リハビリを母親と一緒にやっていた。母親にとって、
H君は生きる喜びであり、目標であり、人生そのものであった。
母親は、幼稚園の給食を作る仕事を得て、生き生きとH君の
成長を見守りながら生活していた。
毎年12月に内田征子さんが寄贈してくれるクリスマス会にも
必ず母子で参加していた。明るく顔に張りも出てきたお母さん
であった。
その後、里親の支援もあり、市営住宅に引っ越すことが出来た。
市営住宅と言っても6畳ほどの部屋が一つである。
H君の母親はその部屋の中に中二階を作り、広く使う
工夫もしていた。

さて、今年の3月末、H君が発熱とけいれんを起こした。
母親は普通の風邪だと思い風邪薬を飲ませて5日間
ほど様子を見ていた。しかし、H君の様子が変なので
初めてフエ中央病院へ連れて行った。
医師は結論は出せないが、高熱とケイレンの影響で
神経に何らかの変調をきたしたのではないか?との
説明だったそうだ。当面、ケイレンを鎮める薬を飲むように
言われ2ヶ月近くたったそうだ。しかし、H君の様子が
変なのでベトナム事務所に連絡してきたという訳。

前置きが長くなった。
今日、ミンさんとアパートへ行った。部屋へ入った途端に
「奇声」が聞こえる。そのうち、笑い声。中二階の下の
薄暗いベッドにH君は寝ていた。私とミンさんが声をかける。
ニタニタ笑うかと思えば、ヒーヒーと奇声を発する。
ミンさんが「小山先生だよ。覚えている?」と聞く。
H君の眼差しは天井を見ていた。
母親は私たちの顔を見た途端に涙をこぼし、しばらく
泣き声が収まらなかった。昔の老婆のような形相を
呈していた。
私が事情を聞くが、母親はなくばかり。時間をかけて
上記の事情を聞く。現在は、食事もあまりできない。
硬いものは食べないそうだ。H君は18歳。日本流に
言えば中学3年生。高校受験を控えていた。
母親もH君も高校進学の夢を持って過ごしていた。

母親の様子を見る。本当に落胆すると人間は、
「目が死んで」しまうものだ。母親の顔には、しわが
たくさん出来ていた。49歳になるという。
これからH君の将来を考えると、どうしたら良いのか
分からないという。「H君の成長と未来の展望」を生きがいに
今日まで生きてきたお母さんの様子を見ていると
人生の悲哀を感じる。どうしてこんなに頑張って生きてきた
母と子の貧しい中のほんの「ささやかな幸せ」さえ、
奪い取ってしまうのか?
私たちがどうすることもできない人生の不条理。
誰にもぶつけることのできない怒り。
私は一瞬、自分が母親になったような錯覚に陥った。
自分ではどうすることも出来ない自分の人生。
誰を恨むことも出来ない現実。これから何を頼りに、
何を生きがいに生きてゆくのか?
人間の生きる「生きがい」とは何なのか?

私はミンさんと相談し、とりあえず、今、私たちが出来ることを
最大限しようと話し合った。
母親に聞いた。病院へH君を連れて行くお金がない。
H君の世話は24時間かかる。この1ヶ月間、仕事に行って
いない。JASS里親支援金だけで細々と生活していた。
H君がいつどんな発作を起こし、重症になるかを考えると
不安で眠れない、出来たら病院へ入院させたい、とのことだった。

私は母親に「病院など医療費はJASSが支援するので
安心してください」と話した。
早速、フエ中央病院小児科医長に連絡し、精神科の医師に
話をつけてもらい、H君をフエ中央病院へ入院させてもらえる
よう手を打った。

とりあえず、当面の支援として生活費・医療費・入院と3つの
方策を行った。
帰り際、私は母親の顔見た。母親が自殺するのではとの
疑念を抱いた。私の杞憂であって欲しい。
バオミン・ベトナム事務所長に「私の日本帰国中、時々、
母親の様子を見に行って欲しい」と頼む。

アパートを出た。外は40度の真夏。近くの川は静かに
流れ、雑草は何もなかったかのように真夏の暑さの中を
力強く夏草の臭いを発散させていた。しかし、私の
心は重かった。どうしようもない人生があるのだ・・・・と。
私が出来ることは周辺支援のみ。母親の心の中の本当の
苦しみを癒すことはできない。不条理な現実と不条理な
社会。

午後2時半、「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校参観。
その後、ベトナム事務所でメールの返事、日教組機関紙
「教育評論」8月号の原稿草案。

午後7時、日本語学校へ。原先生の写真を撮る。
税田さんも授業を参観。70数名の生徒が小テストをしていた。

午後8時、「子どもの家」へ。松下先生の写真を撮る。
「子どもの家」の様子を見る。

音楽室の前を通ると暗い廊下で柱にもたれて、小さな女の子が
泣いていた。「どうして泣いているの?」と聞く。
「家を思い出して悲しい」と泣きながら言う。
暗い廊下の柱にもたれ、女の子は人知れず泣いていた。
涙を拭いてやる。頭をなぜてやった。家にお母さんがいるとのこと。
私の出来ることはその位であった。女の子自身が
この不安と辛さと闘うしかないのだ。辛いことではある。
この苦しみ・辛さが将来の糧になって欲しいと願うのみである。
昼間明るく元気そうに見える子どもたちの心の
奥底には、家族を思い、辛い気持ちになる時があるのだ、
と改めて思った。

昨日参加したグエンフエ高校終業式。2年生で成績最優秀賞をもらった
フオンさん。

今日は、暑さの疲れと精神的な疲れが集中し、心身ともに
本当に疲れた。
午後9時過ぎに「子どもの家」からトンチンカンホテルへ
戻る。飲まない訳にはいかない客観的事情がある。
自ら納得し、吟醸酒を飲みながら日記を書く。
いくら飲んでも社会の不条理、暗い廊下で柱に寄りかかり
人知れず泣いていた子どもを忘れることは出来ない。
私の出来ることは、悲しいかな、ほんの少しなのだと
感じた1日だった。

投稿者 koyama : 22:35 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月25日

ピースボート打ち合わせ。フエ高等師範学校訪問

気温35度。
午前8時半、ベトナム事務所で打ち合わせ。
5月28日から29日までピースボートの皆さん40人が
フエに来る。
5月28日は朝5時にフエを出て、私、ラームさん、税田さんの
3人でダナンまで出迎え。フエまでのバスの中でJASS活動の
説明。午後2時半、日本語学校訪問。
29日朝から「子どもの家」訪問、交流、昼食作り。
それぞれの担当者を決める。

刺繍関係の皆さんの打ち合わせ

日本語関係者の打ち合わせ


ベトナム事務所で日本帰国までの仕事の整理と準備、計画を
立てる。

函館の菊先生へ送る刺繍の全ての作品の一覧を作る。
刺繍みやげ物店にある全ての刺繍のデジカメ写真を撮る。

JASS創作「ブックカバー」

午後2時半、バオミン・ベトナム事務所長と「フエ高等師範学校」。
学長先生と懇談。広範囲の問題を話し合う。ほぼ合意に達する。
娘さんが東大理学部3年に留学中とのことで、日本へ帰ったら
電話して欲しいと頼まれる。今後、様々な分野での交流を約す。

その足で「子どもの家」へ。セン委員長と子どもたちの
高校・大学進学問題でかなり突っ込んだ打ち合わせをする。
また、昨年高校受験に失敗した4人の今後の進路について
具体的に打ち合わせをする。

午後4時半、グエンフエ高校の終了式に参加。

グエンフエ高校も国歌はテープを流し聴くだけだった。
国歌静聴。

今日は1日、子どもたちの自立への進路を決めるための
打ち合わせに精力を使った。

投稿者 koyama : 23:10 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月24日

税田さん、「子どもの家」などを訪問

午前9時、徒歩でベトナム事務所へ。
バオミン・ベトナム事務所といつくかの問題で打ち合わせ。
午後2時半、税田新ベトナム事務所員と一緒に
フエ市人民委員会外務部へ。バオミン・ベトナム事務所長も
同行。税田さんを外務部副部長に紹介。

●クン外務部副部長に税田ベトナム事務所員を紹介

その後、「子どもの家」へ。
「子どもの家」ではセン委員長をはじめ全スタッフに税田さんを
紹介。

●「子どもの家」スタッフに挨拶する税田さん

●セン委員長の挨拶

「子どもの家」は既に事実上の夏休みとなり、暑い午後だったが
子どもたちは、近畿青年会議所が作ってくれた中庭で
元気良く遊んでいたい。

気温36度。暑いがのんびりとした午後だった。チュン君。
彼の澄んだ目は「未来への希望」に満たされているように見えた。
10年後、20年後、どんな人間に成長するのだろうか?
私たちの支援は、10年後、20年後に視点をおきながら
今の子どもたちの生活を充実したものにしたいと念願している。
チュン君の里親の方には健康で長く支援をして頂ければ
ありがたいと思っている。5000キロ離れたフエで、日本の
支援者の支援が、このチュン君の瞳に届いているように
思えた暑い午後だった。


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2005年05月23日

税田真理子さん歓迎会

午前8時半、ベトナム事務所へ。
バオミン・ベトナム事務所長と当面の諸問題について意思統一。
その後、税田さんとベトナム事務所での活動について話し合う。
ピースボートツアー(40人)が5月28日、29日に「子どもの家」や
日本語学校を訪問する。ピースボート担当の多賀さんが
ベトナム事務所を訪問。ラームさん、ミンさんが対応し、
「子どもの家」や日本語学校などを案内する。

午後3時40分、ベトナム事務所のサンさんと一緒に
ハイバーチュン中・高校の終業式に参加。

ハイバーチュン中・高校は来年で中学を廃止し高校だけと
なる。今年は中学4年生t高校生の終業式となる。
中学4年生と高校生を合わせて2010人。
終業式は午後4時開会ということになっていたが、
実際には30分ほど遅れて開会。
始めに女子生徒4人のカラオケ。歌は「夏の歌」。

始めに国歌。テープを流し聴くだけ。
国歌の歌い方も国によって各種各様である。
東京都では、歌わない先生は処分される。
どこかの県では子どもたちの声を3段階に
分けて、小さな声で歌った場合には、先生を
処分するとのこと。
国歌を歌うか歌わないかと「愛国心」とは
別物である。社会主義国のベトナムでは
愛国心教育を徹底しているが、国歌を歌うか
テープで流すかは、本質的な問題でない
ことを知っている。日本の教育執行者や
文部科学省の役人・お偉いさんの心が
いかに硬直し病んでいるかがわかる。

続いて来賓紹介。
父母会長、小山と紹介される。

続いて校長先生の話。

話の途中で卒業する高校3年生のあたりが
うるさくなる。校長先生は「3年A・B・C組がうるさい。
貴方たちが静かになるまで私は話をしない」と
怒ってしまった。
高校3年生は校長先生の話を無視して話し続ける。
しばらく校長先生の無言の挨拶が続く。
校長先生はもう一度、高校3年生を注意する。
やっと少し静かになる。後で聞くと、高校3年生は
今日で学校が終わるので、少し調子に乗っていた
とのこと。

続いて、体育や道徳、成績などで優秀な生徒の
表彰式に入る。
丁度、午後5時過ぎとなったため退席。

その足でサンさんと一緒に「税田真理子さん歓迎会」」へ。

ベトナム事務所員11人全員が揃う。(写真撮影はソン君)
12年前、私一人で始めたストリートチルドレン支援活動
がこうして11人のスタッフと一緒に仕事が出来るようになった
ことに感謝している。
税田さんが、健康で意義あるフエでの生活が出来ることを
ベトナム事務所員全員が祈っている。
私からは、「みんな仲良く仕事をして欲しい」と話す。
午後7時前、日本語学校に行く先生が途中退席。
その後、しばらく交流し、解散。
解散後、隣りの机でベトナム事務所のある「フーハウ地区」の
警察と人民委員会の幹部の交流会が行われていた。
私とミンさんが交流。しばらく交流する。またベトナム伝統の
「一気飲み」。

こうしてベトナム事務所の地元の役員と仲良くすることは
フエに住むためには重要なことである。
海外ボランティアは「泥臭い」草の根の活動資質がないと
勤まらない。海外ボランティアは理屈ではない。
人と人とのつながりである。フエに来ている海外NGOで
3年以上続いているボランティア団体はない。
「理屈でボランティア」をする団体は敗退する。
ボランティアは理屈ではない、心である。

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2005年05月22日

休日

午前7時起床。
NHK「郵政民営化・憲法改正」の政治討論を見る。
入浴。
午前10時、ドンバ市場で買った「小麦粉うどん」を作る。

日本事務所長の寒河江さんからメールあり。
5月21日(土)千葉県新浦安のフリーマーケットで物品販売と
JASSの宣伝を行ったとのこと。

若林さん提供のおもちゃ、福田もえ子さんと友達Kさん提供の
家庭用品&アオザイ、西山優子さんのおばさん提供の
世界のおみやげシリーズ、寒河江さん提供の雑貨関係などを出品。
種類も数も豊富に揃い、2万円位の売り上げを考えていたようだが、
41.430円の売り上げ。若林さんをはじめ参加の皆さんに感謝。
送られた写真を見て、黄色とピンクの衣類着用の人物に見覚えあり。
フエの異臭漂う。

12時から2時まで昼寝。
午後「汚辱の近現代史ー今、克服のとき」(藤岡信勝著:徳間文庫)
を読む。
右翼の「大東亜戦争全面肯定論』にも立たず、「左翼・コミンテル史観」
(藤岡氏の主張)にも立たない、第3の道として「自由主義史観」の
立場を作り上げたと主張。しかし、藤岡氏などが先導する
新しい教科書を作る会の教科書内容を見ると、
「大東亜戦争全面肯定論」に立ち、
アジア・太平洋戦争を侵略戦争と認めず、「祖国防衛戦争」と
位置づけ、アジア・太平洋への侵略の事実を後世に伝えることを
「自虐史観」と嘲笑しているところに、藤岡氏の主張の本質がある。
この本でも告白しているように自らマルクス主義の信奉者であり
北大時代左翼学者だったそうだが、ここまで見事に180度
転換の出来る『才能』というのは、機を見て転身する素晴らしい
才能の持ち主とみた。この種の人間は、また、時代が変われば
その時代の潮流に合わせて、カメレオンの如く変色していく
人であろう。

フエでの健康法は特にないが、毎日の血圧測定、体重計量。
1日最低40分歩くようにしている。
通常はトンチンカンホテルからベトナム事務所まで徒歩で15分。
午前中と午後2往復するので大体50分から60分の徒歩となる。
特別の事情がない限り、必ず徒歩でベトナム事務所へ通う。
昨日と今日は涼しくなった午後、夕方散歩。

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2005年05月21日

久々の休日・花祭(潅仏会)

終日晴天。
久しぶりの休日。昨夜は痛飲し、今日は午前中寝ていた。
午後、メールの返事、以前のベトナム事務所員だった人
から来た手紙の返事を書く。

ドンバ市場へ。真っ赤な火炎樹の花が咲き始めた。
6月が最盛期。5月は黄色の火炎樹が最盛期。


フエの町はお釈迦様の誕生日である旧暦4月8日のお祝い
(花祭・かんぶつえ)が大々的に行われていた。

特にチュオンティエン橋(通称:チャンティエイン橋)の前に
ある大きな石塔の前には、たくさんの仏教信者などが
集まりお経を上げていた。

この石塔は、1963年に当時の「南ベトナム大統領」であった
ゴ・ディン・ジェムがフエの仏教徒や学生を大量に殺した場所
で、慰霊碑が立ててある。
ゴ・ディン・ジェム大統領の兄がカトリックの司教だった。
ゴ大統領は兄をバチカンの枢機卿にする工作をしていた。
『ベトナム国民の70%がカトリックです』との証明を
するため、バチカンから調査団を招請した。調査団は
お釈迦様の誕生日前後にベトナムへ来ることになった。
お釈迦様の誕生日には、各お寺、家庭で旗を飾り、
盛大なお祭りをする。
バチカン調査団が来た時に盛大な仏教のお祝いを
国中でされては困るので、1963年は、特別の
布令を出して、お釈迦様の誕生日のお祝いをしては
いけないとの命令を発した。
これに反撥した多くの仏教徒やフエ大学の学生などが
大きな反対運動を展開した。ゴ大統領は、この運動を
弾圧し、多数の死者がでたのである。特にモーリンホテル
とチュオンティエン橋の袂(たもと)で多くの死者が出た。

ベトナム事務所近くのお寺でもお祝いの飾りをしていた。

午後6時・NHKTV「道中でござる」を見ながら軽く一杯。
フダビール2本。その後、頂いた島根の純米吟醸酒「花かんざし」
を飲む。甘口。小樽の拝田家からもらった私の一番大好きな
「鮭トバ」とフエ市長から貰ったするめを軽くあぶった醤油付けと
静岡の巣山先生から頂いた「ユタ州の岩塩」をおつまみに
ほんの少し飲む。


「道中でござる」の制作方針が変更になった。
今までのような東京北区十条の「篠原演芸場」(中学生の頃
よく行った)のような大衆演芸の雰囲気がなくなった。
何となく「芸術的」な加工がされ始めた。ディレクターの
嗜好か?。制作費をチョロまかすNHKディレクターはいるが、
視聴者の本当の希望を受け止める能力のある
ディレクターがどれだけいるのか?・・・・・
上田早苗アナが和服で出て、お説教を始めるように
なってから「篠原演芸場」の雰囲気がなくなった。
上田アナのお説教を視聴者が聞きたいのではない。
たわいのない「大衆演劇」を見たいのだ。
「江戸でござる」からの熱心な視聴者である私からすると
上田アナさん、あなたは場違いです。退場してください。
大衆演芸に理屈はいらない。笑い、泣いて楽しめば
いいのです。あなたのピント外れの解説が全てを
台無しにしていることに気が付いていませんね。
悲しいことです。江戸の信条は「単純・シンプル」です。
あなたのごちゃごちゃ言うことの一言一言は
江戸でござる、道中でござるを腐食させています。

NHKスタジオパーク以来のフアンだったので、厳しい
注文となる。

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2005年05月20日

フエ祖国戦線議長などと懇談

終日晴天。猛暑。
午前8時半、新任ベトナム事務所員・税田真理子さんを
紹介するベトナム事務所員会議開催。
日本テレビ取材が急遽入り、税田さんとベトナム事務所員との
公式な初顔あわせが遅れてしまい、今日行うこととなった。

バオミン・ベトナム事務所長の司会で始まる。
①JASS小山代表挨拶
  ●税田新ベトナム事務所員の基本的任務。
   ・正式にベトナム事務所員として活動する。
   ・バオミン・ベトナム事務所と協力してベトナム事務所
    活動の全般を援助する。
   ・小山不在の場合には、日本人の代表として
    バオミン・ベトナム事務所長と共に活動する。
   ・週に2時間ほど、日本語学校の教師も行う。
  ●11人のベトナム事務所員全員で仲良く仕事を
   進めて欲しい。
②バオミン・ベトナム事務所長
  ●施設設備等の説明(紙上)
  ●各関連機関への紹介をする。現在日程調整中。
    ・5月23日(月)午後5時 ベトナム事務所主催歓迎会
    ・5月24日(火)A9「子どもの家」全スタッフへの紹介
    ・5月24日(火)時刻未定 フエ市人民委員へ紹介
    ・その他:キムロン障害児医療センター、フエ平和村
          オートバイ研修センターなど訪問
  ●6月より「中級レセプションコース」の担当を週2回お願い。
    ・詳細はフーン日本語学校主任を中心に日本語学校
     担当者会議で話し合って欲しい。
③各ベトナム事務所員の自己紹介
④新日本語教師「石岡寛子さん」の紹介をする。
  訪越時期は未定。

その後、いくつかの文書原案を作成。

午後3時、「静岡フエ青年交流会館」へ。
今日は「日本語ガイドコース」のテスト。
1階ではペーパーテスト。
2階では中村さん、税田さん、青木さん(静岡のボランティア
体験希望者)の3人が日本語で質問する『会話』のテスト。

(先生)「どうしてこのイスに座らないんですか?」(壊れたイスを
     指して)
(先生)「教室のまどは開いていますか?」
(先生)「あなたは今度の日曜日、ないをするつもりですか?」
(先生)『日本語学校を卒業しても日本語の勉強を続けますか?」

10ヶ月の日本語の勉強にしては上出来での答え・応答だった。

●日本語ガイドクラスの筆記試験

●中村先生の会話テスト

●静岡からの訪問者 青木さんの会話テスト

●税田先生の会話テスト

●筆記試験を監督する原先生・フーン先生

日本語学校試験終了後、税田さんと今後の活動について懇談。
ベトナム事務所では、税田新事務所員が赴任し、新たな雰囲気で
仕事が始まっていた。

●ベトナム事務所で仕事をする松下先生

●ベトナム事務所で仕事をする中村先生

●ベトナム事務所で仕事をする税田ベトナム事務所員

午後5時、フエ祖国戦線議長・フエ省警察副本部長
フエ市外務部長、ラームさんなど静岡市を訪問した
一行とのご苦労さん会。
(ミンさん、サンさんは、日本テレビの翻訳)

祖国戦線とは、ベトナム共産党を中心に労働総同盟、
婦人同盟、青年同盟、各種宗教団体、ジャナリスト団体など
ベトナムの各政治・宗教・文化団体など約30団体が加盟した
「統一戦線組織」である。
『ベトナム独立同盟会」(ベトミン)とその後身である
ベトナム国民連合戦線を継承し、1955年に創設された。
1975年以降は「南ベトナム解放民族戦線」を吸収合併
し今日に至っている。
組織は中央から町内会まで網の目のような組織を作っている。
ベトナム憲法では、祖国戦線は国会への法律草案上程権
を認めている。また、ベトナム政府が行政を執行する場合には
祖国戦線と協調すると、祖国戦線が効果的に活動できる
よう条件を整えることも規定されている。
また、各地方の人民委員会などは、関連する問題を
祖国戦線と協議することが義務付けられている。
1999年には「祖国戦線法」が国会で可決された。
「祖国戦線は共産党に領導され、ベトナム社会主義
共和国の政治システムの一部であり、人民政権の政治的
基礎である」と規定されている。
(「ベトナムの国家機構」白石昌也著:明石書房)より)

町内会や街の隅々まで組織され、事実上、町内の
「不穏分子」摘発の急先鋒の役割をも担っている。

午後5時、ある ホテルの中庭の芝生。既に五グループ
程のひとたちが飲んでいた。
隣りのグループは、ホーチミン警察大学の副学長一行。
県警察副本部長やフエ市外務部長の友人。
警察大学の一行とも合流し飲む。ベトナムの「悪しき伝統」
ともいえる「大人の一気飲み」を強要。
10数回も飲まされてしまう。トンチンカンホテルに戻った
時点で胃が喉まで上がってきていた。
     

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2005年05月19日

「子どもの家」日本語クラス。試験が終わりリラックスする子どもたち

晴天。
午前7時、朝食。新事務所員の税田さんが
赴任して初めての朝食。5人。

午前8時半、ベトナム事務所へ。
ベトナム事務所では日本テレビの翻訳作業が続いていた。

ミンさんは1日休暇。
ハンさん、税田さんと刺繍の件で打ち合わせ。
ベトナム事務所でメールの受信チェック。返信。

午後、バンベーの原稿整理。関連写真を探す。

午後7時半、「子どもの家」へ。
松下先生が熱心に授業を行っていた。
一人一人の子どもたちに合わせて丁寧に
教えていた。こうしたところに人柄が出ると言うもの。
子どもたちも先生になつき「楽しみながら」日本語を
勉強していた。

「子どもの家」には数年前に退所したLONG君が遊びに
来ていた。「子どもの家」では、かなり暴れん坊だった。
現在23歳。ペンキ塗りの仕事をしている。月給60万ドン。
(4500円程度)。家賃が17万ドン(1000円)、その他
食事代などで生活は何とかできるという。
「子どもの家」にいた子どもたちは、いくつになっても
「子どもの家」が『実家』なのである。
小さな子だったのだが、いまや私より背が高くなっていた。

高校3年生のカン君と高校2年生のフオンさんは
進学のための特別塾に通っている。
午後8時に「子どもの家」へ帰り、それから夕食。

大学受験のカン君はフエ師範大数学科、フエ農業大学の
受験をめざしている。

メンさん、ユオンさんも7月の大学入試に向けて最後の
勉強をしていた。

既に期末試験の終わった子どもたちは、リラックスして
ゲームなどを楽しんでいた。
小学生・中学1・2・3年生は、6月からの夏休みを楽しみに待っていた。
中学4年生と高校3年生は6月初旬の卒業試験のための準備を
していた。

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2005年05月18日

日本テレビ取材第3日目

昨夜、午後10時過ぎに日記を書いていたら停電。
10分ほどで電気がつくと思い、あまりに疲れていたので
ついベッドに横になる。気が付くと午前4時半。
部屋は煌々(こうこう)と電灯が点いていた。

午前4時半起床。血圧測定・心臓の薬を飲む。
日記を点検・追加。
その後、目覚ましに入浴。多少熱めのお湯に
入る。目覚める。

午前6時前にディンラームさんと一緒にブンボーを
食べる。この1年間ほどで物価が大幅に上がっている。
以前はブンボー1杯が4000ドン(30円)程度だったが、
今は7000ドン(50円)。60%もの値上がり。
庶民の食べ物が60%も上がると貧しい人への
打撃は大きい。

午前6時半、日本テレビクルー(3人+ハノイ情報文化省)と
一緒にレロイ小学校へ。
登校時風景。体育の授業を取材。

●体育の先生にインタビュー

●たち幅跳びの授業(5年生)普段着で体育

●子どもたちにインタビュー

ベトナム事務所では、バオミン・ベトナム事務所長をチーフに
サン先生、ホアンフエ市人民委員会外務部員、
ソン・ベトナム事務所員が映像の翻訳作業を続けていた。
撮影されたビデオをレロイ小学校に取りに来たりと
翻訳作業は急ピッチで進められた。早朝から午後10時過ぎまで
延々と作業は続いた。

●ソン・ベトナム事務所員がレロイ小学校にビデオを取りに

小学校1年生から勉強している英語の授業を取材。
英語の先生にインタビュー

校庭では5年生の卒業記念写真の撮影が行われていた。

今日も暑かった。湿度も高い。立っているだけで
汗がじわじわと吹き出てくる。日のあたる場所の気温はゆうに
40度を超えている。暑い中、トイレの隅に小さな花が
涼しそうに咲いていた。

●校長先生にインタビュー

午前11時、最終取材が終了。
●レロイ小学校の校長・副校長先生と取材団記念写真

ホテルに戻り荷物の整理。
午後12時、ホテルをチェックアウトし、昼食。
バオミンさんも合流。ラームさん・ミンさん、
取材団(5人)。サッカー場近くのフォー屋さんへ行き、
ハノイ・フォーを食べる。

午後1時、フエ空港へ。2時40分発の飛行機だったが、
飛行場テレビの画面には1時50分発となっていた。
急いでチェックインをしようとしたが、係員は誰も出てこない。
しばらくすると発進のテレビ画面が消える。訳のわからない
飛行場である。色々と尋ねるとやはり2時40分発とのこと。

チェックインを済ませハノイへ。
●フエ空港で記念写真

3泊4日の取材だった。私たちは出来るだけの協力をしたつもり
である。直接取材に同行した私やラームさんだけでなく、
ビデオを日越語に翻訳したミンさん、サンさん、ホアンさん、
事前のアンケートを集計したハンさん、原・松下・中村さんなど
ベトナム事務所を上げての取材協力だった。
ベトナムの小学校は今、丁度学年末試験の真っ最中。
レロイ小学校でも取材当日は、4年、5年の試験日。
試験問題はトゥアティエンフエ省教育委員会が作成した
県統一試験である。
県統一試験が入ったために時間割が大幅に変更される。
毎日、どこのクラスで何の授業が行われるのかが
最後までわからないという状況だった。予定の立たない
悪い条件の中で取材団の3人は、必死で取材を続けた。
23歳から35歳までの若者の仕事振りをみていて
日本の若者がしっかりしていることに自信と安心、
日本の未来への希望をもらったような気がした。

今回の取材では、レロイ小学校は全面協力してくれた。
絶対に取材を許可しない統一試験の取材も出来た。
全てのクラスでの取材も出来た。
今までのJASSとの長い付き合いと信頼の結果でもある。

日本テレビ取材団はフエを発ち、夕方からハロン湾へ。
その後ハノイ市内での取材を続け、28日に帰国の予定。
今回の取材は正直、この12年間のフエ滞在で一番疲れた
日々ではあった。
良い番組が出来ることを祈る。

これで4月18日に帰国し、近畿JC(84人)、静岡市長一行
フエ訪問、日本テレビ取材という大きなプロジェクトが
終わった。これらの大きなプロジェクトは、必ず「子どもの家」の
子どもたちの生活などに直結する結果をもたらすものである。
4月18日にフエへ戻り今日まで休みなしで働いた。
かなり疲労が蓄積していることは事実である。

投稿者 koyama : 21:48 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月17日

日本テレビ取材2日目

午前中晴天。外気温40度。午後、雷。
午前5時起床。午前6時、ラームさんと屋台でブンボーを
食べる。昨日は朝食を摂る時間がなかった。
朝食を摂らないとこの暑さと長時間労働には耐えられない。

午前6時半、日本テレビ取材団と一緒にレロイ小学校。
登校の様子を取材

5年生に「得意なことは?」と聞く。子どもたちは
「伝統踊りが出来る」という。その場で披露してもらう。

数年前に日本からの支援品にピアニカ(鍵盤ハーモニカ)が
あった。レロイ小学校に数十台寄贈した。
音楽の授業を参観すると、そのピアニカを使って先生が
授業をしていた。こうした形で寄贈品が使われているのを
見ると嬉しい。

午前10時半から給食。デイレクターのO氏は
子どもたちと一緒に給食を食べながら取材。

給食はご飯、野菜スープ、野菜と豚肉の煮物。
「子どもの家」の昼食の方が質量とも豊富。

午前11時から午後1時半まで子どもたちは昼寝。
私たちは。チャーハン・ラーメンを食べに行く、20分。
その後、取材団は1時間ほど休憩。

皆さんの休憩中に
私とミンさんとカメラマンはフエの風景を取材に。
王宮、ティエンムー寺、フエの町並みを俯瞰する。
8階建てのホテルの屋上の更に上に登り取材。

子どもたちは休み時間にドーナツを食べていた。

今日は午前6時半から午後5時までラームさんと休みなく
立ち仕事をした。
午後6時半から夕食。午後8時半終了。

午後8時半、ベトナム事務所では、ミンさん、
イックホアンさん(私の第一期生)サンさんの3人は朝から
午後10時過ぎまで取材したビデオの翻訳。

日本テレビ取材団と打ち合わせをするミン・サン・イックホンアン。

私とラームさんは15時間。
ミンさんたち翻訳班も15時間の仕事を2日間続けている。
日本テレビ取材団(35歳、28歳、23歳)の真摯な取材態度に
感銘する。特に23歳のアシスタント・ディレクター(AD)の
方が体を粉にして必死に仕事をしている様子を見ると、
JR西日本列車事故の23歳の運転手と重なり、
出来るだけ応援しようという気持ちになってしまう。
かなり無理な話も多いのだが、23歳の若者が
必死に動き回り仕事をしているのを何とか助けたいという
気持ちになる。若者をつぶしてはいけない。
大人の仕事は、若者を「恐怖」と「脅し」「処分」で
しばってはならない。成功失敗の体験を積みあげる中で
時間をかけて成長して行って欲しいと念願している。
出来る範囲で協力しようと想う。
と言いながらも私の体は、ほとんど凝固状態。

明日は朝6時半から午後12時まで取材。午後2時、フエ
空港からハノイへ。

投稿者 koyama : 23:21 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月16日

日本テレビ取材第1日目

午前4時起床。
午前5時半過ぎ、トンチンカンホテルでラームさんと
待ち合わせフォンザンホテルへ。日本テレビ取材団4人と合流。
午前6時過ぎ、レロイ小学校へ。校門で登校する子どもたちを
撮影。一番早い子どもは6時前に登校している。
6時半頃になると多くの子どもたちが、親のオートバイに
乗せられて登校。

●校長先生に挨拶

午前7時過ぎから4年生の学期末試験があった。
試験問題はトゥアティエンフエ省教育委員会が作成。
全県統一の試験問題である。試験を何分でするかも
分かっていない。7時少し前に副校長室で関係者が
集まり、県教育委員会から届いた「統一試験問題」の
袋を開封する。40分の時間内でのベトナム語の試験をする
ことが分かる。
試験問題を見ると大きなテーマがあり、全て論文形式の
だった。日本の4年生よりもはるかに水準の高い問題である。

試験終了後、4年生に試験についてのインタビューなどを行う。
続いて1年から3年生の教室に入り授業風景や子どもたち・
先生へのインタビュー。

午前11時からの給食、その後午後1時までの昼寝などを取材。
午後1時過ぎ、フォーサイゴンへ食事に行く。
今日は朝食を摂る時間がなく午後1時までの間、飲まず食わずで
取材。

午後5時まで各教室などの取材を行う。結局11時間の取材
となり、その間、立ちっぱなし。最高気温37度。外気は40度以上。
高湿度の中での取材は極端に体を消耗するものだった。

トンチンカンホテルでは、昨日フエに到着した税田真理子さんと
原・中村・松下さんが初めての夕食を摂っていたい。


ベトナム事務所ではバオミン・ベトナム事務所長が中心となり
翻訳団を組織。取材したテープをベトナム語と日本語に直す
作業を進めていた。ミンさん、サンさん、外務部イックホアンの
3人の影の仕事に感謝。
午後5時過ぎに今日の取材を終了。その後、取材したテープの
整理。午後7時、明日の打ち合わせを兼ねて夕食。
バオミンさんは、ビデオ翻訳の仕事を請けて
ベトナム事務所サンさんたちと4時間の
テープの日本語・ベトナム語の翻訳を行う。
午後9時、ベトナム事務所ではバオミンさん・
サンさん・外務部イックホアンさんの3人が翻訳を続けていた。

明日は午前6時半にレロイ小学校へ行く。
今日は、とにかく蒸し暑く、なかなか大変な取材だった。
レロイ小学校は全面協力態勢をとってくれた。

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2005年05月15日

日本テレビ取材団フエ到着

午前6時起床。
午前7時、NHK「日曜討論」を見る。
人間には器というものがある。自民党の武部幹事長は
質問に的確な言葉で答えられない。公明党の冬柴氏や
司会の山本氏の助け舟で何とか格好をつけたといった
所。見ていて「可愛そう」に思えてくるのも不思議なものである。

午前8時、朝食の買出し。食料が全くなくなったので
米を買う。一番高い米1キロで40円。
炊飯器で炊く。

午前中は、ベンベー27号の原稿(総会報告)の最終仕上げと
カット用の写真を探す。

昼寝。

午後、バンベ27号原稿(静岡・フエ友好都市提携)の原稿を
書く。必要なカット写真を探す。

私の自伝『ベトナムの「子どもの家」』を読んだ京都の
方から感想のメールが届く。有難いものである。
1時間ほどかけて返事を書く。10日ほど前にメールを
頂いていたが、静岡市長フエ訪問などがあり返事が
かけなかった。真面目に子どもたちのことを想っている
日本人がいることに心を強くする。

午後6時半、ラームさん、ミンさんと一緒にトンチンカンホテル
を出てフエ空港へ。
予定より30分早くフエ空港へ到着。
午後7時、日本テレビ取材団出迎え。名刺交換。

その足でライトアップされている王宮へ。

ラームさん・ミンさん・ハノイ情報文化省スタッフ(王宮前)

日本テレビスタッフと(王宮前)


午後8時半、フォンザンホテルへチェックイン。引き続き明日からの
取材日程等の確認を行いながら夕食。

その後、ベトナム事務所で今までの番組を見る。

午後10時過ぎトンチンカンホテルへ戻る。
明日、午前6時にレロイ小学校へ。

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2005年05月14日

税田真理子さんフエ到着

午前8時半、ベトナム事務所員全員集合。
福田副代表「フエ名誉市民賞」受賞お祝いのメッセージを書き、
福田副代表に送る。

ベトナム事務所で仕事。
日本テレビ、2年3年4年5年のクラス全員のアンケートの
集計が出来上がる。日本テレビに送る。

午前中、バンベ27号原稿(JASS11回総会と今後の活動)
の資料読み。総会提案活動報告、方針などに目を通し、
原稿の概略を考える。

午後1時、メール返信。14通。
バンベ原稿を書き上げる。2500字程度。
カット用の写真を探すが見当たらない。

太平観光の北垣会長に電話。コックホック高校に出していた
奨学金を中止し、ナムドン山岳少数民族の小学生に上げたい
との提案をした。コックホック高校はベトナム3つの国立高校
ということもあり、多くの海外支援団体から奨学金が寄せられ
るようになった。私たちが奨学金支給を始めた頃は、それほど
多くはなかった。しかし、海外支援というものの一般的な傾向
で、支援が1箇所に集中することがある。コックホック高校の
奨学金もそうした傾向を持っている。最近はコックホック高校
へ入学する生徒の家庭環境も大きく変化し、奨学金を必要と
する貧しい家庭の子どもたちが入学できなくなってきた。
幼稚園時代から進学塾に入り、レロイ小学校→グエンチフーン
中→コックホック高校へ入るベトナム中部最高の進学エリート
コースとなっている。幼稚園・小学校・中学と毎日進学学習塾
に通える子どもたちが多く入学するコックホック高校への
奨学金はもはや必要なくなったと判断。
 先日、ナムドン山岳少数民族の「THUONG LO 小学校」
を視察した。170人の小規模なカトィー族の学校だが、
100人が極貧生活をしているという。子どもたちは、
破れたシャツを着ていた。北垣会長と相談し、9月から
THUONG LO 小学校へ奨学金を支給することとなった。

午後7時、ミンさん、松下さん、中村さんと一緒にフエ空港へ。
新しくベトナム事務所員として赴任する京滋YOUの会の
税田真理子(さいた)さんの出迎え。
定刻7時40分にホーチミン市からのプロペラ機が到着。
たくさんの荷物を持ち、元気な顔を見せてくれた。

車で20分。トンチンカンホテルへ到着。ホテルではオーナーの
ディンラーム・ベトナム事務所員が待機。
税田さんの部屋の改修もすっかり終わり、直ぐに住めるよう
各種設備も整備。

●税田さんの部屋で

午後8時半から近くの大衆食堂で食事。

税田・ミン・松下・中村・原(日本語学校を終えて合流)

トンチンカンホテル帰着午後10時頃。
税田真理子さんの健康とフエでの生活に慣れることを祈る。

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2005年05月13日

日本テレビ取材準備

午前中、ベトナム事務所へ。停電。
サンさんとレロイ小学校へのアンケートの集計をする。
無風状態の会議室は40度以上の温室と化した。
1年から5年生までの200人の児童へのアンケートを
集計する。
とりあえず、1年A組40人のアンケートを集計した。
①好きな勉強
  ・チェス 9人
  ・算数 9
  ・絵   8
  ・国語 8
②嫌いな勉強
  ・絵   9
  ・工作  8
  ・英語  6
  ・道徳  5

③将来の夢
  ・医者 14
  ・先生 12
  ・軍人  3
  ・社長  3
  ・警察官 2
  
④学校での遊び
  ・鬼ごっこ  21
  ・縄跳び   17
  ・ビー玉    3
  ・めんこ    1
  ・先生ごっこ  1

⑤家での遊び
  ・コンピュータ 8
  ・先生ごっこ  4
  ・お店ごっこ  4
  ・鬼ごっこ   4
  ・サッカー   3
  ・めんこ    3

⑥家での手伝い  
  ・掃除           19
  ・親に水やお茶を入れる 8
  ・親に楊枝をだす     6
  ・食器洗い         5
  ・子守り          4
  ・洗濯物干し       1

⑦学校の自慢
  ・優秀な学校     15
  ・有名な学校      10

⑧今、一番興味のあること
  ・テストで高得点をとること  38人

⑨日本のことで何を知っていますか?
  ・桜         36人
  ・ドラエモン     34
  ・ロボット「アシモ」 27

2時間ほど「温室」で仕事をしたが、急激な体力の消耗を
感じた。

ベトナム事務所は、部屋の机の配置替えをした。

トンチンカンホテルでは、新ベトナム事務所員の税田さんの
部屋の整理が行われていた。
リー君が一生懸命新しい床のペンキを落としていた。

午後2時、ハノイ情報文化省からテレビ取材許可証が
トゥアティエンフエ省外務局に届く。
5月15日から18日まで、王宮、文化施設、レロイ小学校等
の取材。ところが、トゥアティエンフエ省外務局は
勝手にハノイ情報文化省の決定をひん曲げ、
レロイ小学校には「5月16日だけの取材許可だ」との
連絡をする。レロイ小学校は16日から18日までの
取材を既に私たちと打ち合わせていたので驚く。
しかし、トゥアティエンフエ省外務局の指示なので
変更できない。仕方なく、ハノイ情報文化省に
改めて取材許可内容を確認。やはり15日から18日まで
の許可が出ていた。
フエ市人民委員会外務部を通して、再度、トゥアティエンフエ省
外務局に問い合わせ。
何とか「けんか」をせずに取材が出来るようトゥアティエンフエ省
外務局の顔も立てて3日間のレロイ小学校取材を認めさせる。
基本的にはハノイ中央政府の取材許可があれば問題ないの
だが。ここがトゥアティエンフエ省の保守的・貴族的・縄張り
根性の強いところである。こうした非常識なことをいつまで
続けるのか。

午後1時半から午後4時までレロイ小学校1年生38人全員
のアンケートの集計をする。
午後4時半、ベトナム事務所へ。
ベトナム事務所では、2年生から5年生までのアンケート
160人分の日本語訳をしていた。
今夜から明日の午前中にかけて、サンさん、ハンさん
中村先生、松下先生たちが2年から5年まで4学年の集計を
することになった。ご苦労様。

障害児に奨学金を贈呈してる「暖炉基金」の芳村さんから
電話。

午後7時45分、「子どもの家」へ。
子どもたちの期末試験の様子を視察。
・小学校 ほどんと試験は終わり、来週17日(火)算数、
      ベトナム語の2教科を残すのみ。
・中学校 1年~3年は終了。中4は5月25日~6月5日(9人)
・高校  全教科終了

既に試験が終わった子どもたちは、リラックスしていた。

●洗濯・シャワーを浴びに行く子ども

●蒸し暑い夜8時過ぎ。試験も終わり寛ぐ子どもたち

●夜遅くまで中庭でサッカーに興じる子どもたち

●中学4年生を対象に英語の試験対策の特訓

●英語特訓

●大学入試は7月。絵画教室で黙々と受験勉強チュン君

午後8時過ぎ、日本テレビから電話あり。
バオミンさんに頼み、レロイ小学校校長の自宅へ連絡。

午後9時過ぎ、「子どもの家」から帰る。
日記を書く。その後、「古都千年」で軽く一杯。
ちょっと舐める程度。ほんの少し飲む。

火炎樹日記は1日、3回~4回程度の書き換え・追加が
ある。一度読んで終わりではない。夕方から書き始め
午後10時過ぎまで何度も書き直し・追加を行っている。


投稿者 koyama : 17:28 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月12日

静岡市訪問団フエを発つ。ロック寮長のお母さん亡くなる

午前7時半から日本テレ日取材の諸準備。
午前9時過ぎ、モーリンサイゴンホテルへ。小島市長一行と
シクロに乗り、市内を1時間ほど視察。
特に観光客の行かない一般市民の生活する場を視察したいとの
小島市長の希望もあり、実現。午前9時半から10時半まで
旧市街の裏路地をシクロで視察。外気温39度とのこと。
どの家でも玄関近くの木陰で昼寝をしたり、トランプをしたり
ビールを飲んだりと、のんびり生活していた。

午前11時ホテルをチェックアウト。
フエ市人民委員会主催の「お別れ昼食会」へ。
昼食会には、クアン・フエ市共産党委員長、カオ市長、
ニエン外務部長、3人の外務部員が参加。


午後1時半、昼食会を終わり、フエ空港へ。
小山、ミン、ラーム、ニエン外務部長などが見送り。
小島市長一行はハノイへ。

5月15日から18日までのフエ訪問であった。
昼食会、晩餐会、調印式など連日の各種行事があり、
その準備などで大変だった。
フエ空港からの帰り、バオミン・ベトナム事務所長が
「疲れた」とつぶやいた一言が心に残った。

海外ボランティアが日越両国の行政と協力して
友好交流を進める今回の取り組みは、今後の
海外NGOの進むべき一つの道を示すものだと
自負している。形式的には、フエ市と静岡市の
友好都市提携であるが、両市が提携するまで
12年間の私たちの両市でのの地道な
取り組みとその積み重ねがあった。
改めてJASS静岡の会の皆さんと関係者に感謝。

フエ空港から帰ると直ぐに「ロック寮長のお母さんが
亡くなった」との連絡が入る。午後4時から御通夜との
こと。急いでミンさん、ラームさんと「子どもの家」へ。
「子どもの家」ではセン運営委員長などスタッフが
ロックさんの家へ行く準備をしている。
ベトナム事務所では、香典と花輪を準備。

「子どもの家」スタッフと一緒にロックさんのお宅へ。
お母さん(TRAN THI MIA)は、71歳。脳溢血で
亡くなったとのこと。ロックさんは母親とロックさんと
二人で生活してきた。11年前に結婚し、現在は
10歳の長男、6歳の長女との生活である。
亡くなったお母さんのご冥福をお祈りする。

弔問する小山

焼香する「子どもの家」スタッフ

JASSと「子どもの家」名義の花輪

悲しみにくれる6歳の娘さん

午後7時、「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校を参観。
現在230人の生徒が学ぶ、ベトナム中部最大の日本語学校
となっている。
1997年、「ドキュメンタリー人間劇場」取材の際に
チャンティエン橋で出会ったリー君が、日本語を勉強していた。
一緒に「子どもの家」のスタッフのキムアンさん、会計のハンさん
も。
初級とレセプション合同コースは80人近い生徒が熱心に
勉強をしていた。6月からは初級とレセプションの2教室に
分かれえる予定。

●日本語を勉強しているリー君、ハンさん、キムアンさん

●熱心に日本語を学ぶリー君

●上手に日本語を教える原先生

●80人近くの学生が熱心に日本語を勉強していた

午後9時、日記も書き終わった。5日間の静岡市代表団の
案内も終わり、ほっとした気持ちもあり、軽く『賀茂鶴』を
飲む。JASS静岡の会の巣山先生から頂いた「岩塩」を
おつまみに冷えた純米吟醸酒をちびちびほんの少し飲む。
巣山先生に頂いた岩塩は1億5千万年前の海水が
乾燥し結晶化した、アメリカ・ユタ州産の塩。
吟醸酒のおつまみには「味わい」があり、美味しい。
ほんの数粒で不思議な味わいのある岩塩である。美味。
高血圧なので塩は一番悪い。体に悪いものがどうしてか
一番美味しいのである。お酒と岩塩。心臓病と高血圧には
一番よくない。こうしたことはあくまで理性的に処理すべき
ものである。ということで、純理性的に猪口(ちょこ)に10杯
ほど岩塩をつまにみガンガン飲んだ。疲れが取れた。

などといいながら飲んでいるうちに「賀茂鶴」がなくなって
しまった。不思議である。誰が飲んでしまったのだろう?
冷蔵庫を開けると「古都千年」(京都斉藤酒造
 栄勲純米吟醸酒)が入っていた。こういうところは、
将来への予見能力があると自負している。
早速、古都千年の味のチェックに入る。
お猪口を洗い「古都千年」を味わう。
静岡の会の笠井先生に教えてもらったように
「色」「香り」「含み香」「味」を楽しむ。ラベルに色々と
いわく因縁が書かれているが、関心なし。
自分で味わって美味しいかどうかが全てである。
美味しい。ほんの少し「古都千年」を飲む。
ちょっと舐める程度。飲んでいるうちに720mlの
純米吟醸酒は半分ほどに減る。


投稿者 koyama : 18:55 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月11日

「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校参観

気温34度。
午前中、ベトナム事務所へ。JASSの会から式典に参加した
藤井先生、巣山先生がお昼に帰国。ベトナム事務所で
しばらく意見交換。式典に参加して頂いたお礼を言う。

静岡市長一行は午前中、王宮、トゥードゥック帝廟参観。
午後2時45分、「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校
へ。
日本語学校の1階では原先生が「日本語ガイドクラス」(30人)、
2階ではフーン先生が「上級クラス」(20人)を教えていた。

●日本語学校で挨拶する小島市長

日本語ガイドクラス、上級クラスで挨拶をした後、
日本語ガイドクラスに入り、生徒たちと30分ほど日本語
で会話練習をする。


午後4時過ぎ、ドンバ市場視察。ドンバ市場の運営委員長が
案内。
ドンバ市場の2階でアオザイなどの布販売店を経営している
バオミン・ベトナム事務所長のお母さんと妹さんの店も視察。

●ミンさん、お母さん、妹さん、小嶋市長

午後6時半、フエ市人民委員会主催の船上晩餐会。
ユンフエ市副市長、ニエン外務部長など参加。
ベトナム事務所からは、ミンさん、ラームさん、松下さん、
サンさん、私が参加。
船上で食事をしながらフエ伝統音楽を聞く。

投稿者 koyama : 19:11 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月10日

静岡市・フエ市友好都市提携記念式典

午前8時半、宿泊先のモーリンサーゴンホテルへ。
静岡市訪問団の皆さんと合流。
車でベトナム事務所へ。ベトナム事務所では小嶋市長
より静岡市のお土産をもらう。小嶋市長以下訪問団の
皆さんが刺繍作品を大量に買ってくれる。

●小嶋静岡市長よりベトナム事務所へお土産

●ベトナム事務所刺繍みやげ物店で刺繍を買う

午前9時過ぎに「子どもの家」訪問。
セン運営委員長から歓迎の挨拶。静岡訪問団からは
子どもたちに玩具のお土産があった。その後、
「子どもの家」の各施設を案内。子どもたちとの交流。

●セン委員長歓迎の挨拶

●小島市長、ライオンズクラブの稲葉氏より玩具の贈呈

「子どもの家」視察・交流を終えた後、友好都市になったという
ことで、フエ市の知られざる自然地域を案内した。
市内から10分の所になる「ミーアン温泉」を視察。
草津と同じ硫黄泉に訪問団の皆さんは驚いていた。

その後、市内から20分ほどにある「トゥアン・アン海岸」
を視察。白砂とライトブルーの海を堪能。

●海岸へ同行したベトナム事務所員

昼食を一緒に摂り、暫時休憩。

午後3時、日本テレビ取材のためレロイ小学校を訪問。
校長先生と5月16日、17日、18日の取材の詳細を
打ち合わせ。学校の各施設、子どもたちの遊ぶ様子
などを調査。
●めんこで遊ぶレロイ小学校の男の子

午後5時、フエ市人民委員会で「友好都市調印式」。
今回はベトナム語版の調印書に署名。
日本側参加者:小嶋市長・秘書課長・国際課員
          静岡ライオンズクラブ3人
          JASS静岡の会(藤井先生・巣山先生)
          小山、ミン、中村、松下、ハン、サン
ベトナム側参加者:マン省共産党委員長(国会議員)
            リー省知事
           クアン市共産党委員長
           カオフエ市長 
           市議会議長、教育長、関連部長
           (20人)


●小嶋・静岡市長挨拶

●カオ・フエ市長挨拶

●日本側出席者

●ベトナム側参加者

●両市長の調印

●調印式終了後、フエ市人民委員会前で
 クアン・フエ市共産党委員長と記念写真

引き続き、午後6時半よりモーリンサイゴンホテルにて
フエ市人民委員会主催の晩餐会。

●セン運営委員長とベトナム事務所員

晩餐会は午後10時まで続く。
痛飲する。

投稿者 koyama : 10:27 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月09日

静岡市訪問団フエ到着

午前9時。フエ市人民委員会懇談。いくつかの問題を話す。
午前10時、「子どもの家」へ。「子どもの家」では
JASS静岡の会の藤井先生、巣山先生がボランティア活動を
行っていた。
近くのタイロック市場へ食材を買い物に行き、子どもたちと
一緒に調理。11時過ぎに子どもたちと昼食。

子どもたちと交流した後、ホテルへ戻る。ホテルで休憩。

午後2時過ぎ、藤井先生、巣山先生はベトナム事務所へ。
刺繍をたくさん買ってくれる。

午後、東大医学部大学院に留学しているベトナム人が
医学部の牛島教授の手紙を持ってベトナム事務所を訪問。
しばらく懇談。

午後2時過ぎ、日本テレビより電話。5月16日、17日、18日頃
の取材。

午後7時、フエ市人民委員会の皆さんと一緒にトンチンカン
ホテルを出て、フエ空港へ。
午後7時40分、定刻に小嶋静岡市長以下6人の訪問団が
フエ空港へ到着。
ニエン外務部長、3人の外務部員、小山、ミン、ラームが
出迎え。
フエ市人民委員会から訪問団全員に花束贈呈。
歓迎の花束をもらう小嶋静岡市長。

静岡訪問団とフエ市人民委員会記念写真

フエ市人民委員会の車でフエ市内へ。そのままで夕食会へ。
フエ市内を流れるフォン川にある水上レストランへ。
フエ市人民委員会からは副事務所長(日本の助役)の歓迎。

静岡側参加者

ベトナム側参加者

歓迎懇親会は午後10時に終わり、ホテルへチェックイン。
午後10時過ぎにトンチンカンホテルへ。
ちょっと「喉が渇いた」ので、「賀茂鶴」(純米吟醸)を
焼スルメでほんのちょっと飲む。その前にビールを
ちょっと飲む。


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2005年05月08日

終日、休日

気温35度。

久しぶりに1日休日。部屋で寝ていた。

午前6時半起床。
午前7時、NHK「日曜討論」を見る。
午前8時、アトピー友の会機関誌「あとぴナビ」原稿を書く。
1年間の連載の最終(8月)号。
一時は、日本教育公務員弘済会機関誌「きょうこう通信」、
「あとぴナビ」、日教組「教育評論」と三誌への連載が
重なった時があった。軽く引き受けた1年間の連載であったが、
毎月4000字ほどの原稿を書くのはかなりきつかった。
これで来年3月までの「教育評論」一誌となった。

午前10時、入浴。入浴剤湯「布院の湯」を入れて20分程
ぬるま湯に入る。
昨日、フエ市長からニャチャンの「スルメイカ」(20枚)を
もらう。昨日、軽くあぶり醤油をふりかけ、冷蔵庫に入れておく。
入浴後、NHK「のど自慢」を見ながらスルメイカをおつまみに
缶ビール3本飲む。午後2時、昼寝。
午後3時頃、テレビ局から電話。午後6時頃、再度テレビ局
から電話。取材が決まったとのこと。

今日は「母の日」。孫が母親に送った母の日の絵の写真が
フエに届く。

フエ・静岡市友好都市提携記念式典参加の
JASS静岡の会、藤井先生、巣山先生がフエに到着。

夜、再度入浴。石川県「山代の湯」。温泉に行けないので
擬似温泉体験をした今日いちいちだった。

JR西日本列車事故

4月25日の事故発生以来その推移を見守ってきた。
今回の事故とその後のJR西日本の対応を見ていると
今の日本社会を見事に象徴しているように思われる。

第1に会社の上層部の精神的荒廃現象が著しいという
ことである。人命・安全より営利最優先の思想があった。

私は、事故が起こった4月25日の日記でJR西日本の
村上恒美安全推進部長の記者会見には、人間の気持ちが
籠もっていないと批判した。JR西日本は、まだ生存者が
車内に残っている事故当日に、「置石による脱線の可能性が
大きい」と置石であるかのような写真まで示し記者会見を
した。また、133キロ以上のスピードを出さないと脱線は
しないと記者会見で発表した。
その時点で、「この会社は変だ」と直感的に思った。
既に多くの人が亡くなり、まだ車内に残されている生存者が
いるかもしれない「事故当日」に、一方的な「でっち上げ」の
情報を流し、自らの責任を回避するかのような態度がミエミエ。
こんな馬鹿な会社がどこにあるのかと思った。
案の定、事故調査委員会は公式に「置石説」を否定。
133キロ脱線説も乗客がいない場合の数字などど
あとで言い訳する始末である。

その後は、ボーリング大会、事故車に乗っていた社員の
「逃亡」、宴会、ゴルフなど次から次へと「信じられない」道徳的
腐敗現象としか思えないような「奇行」が発覚している。

JR西日本の会長、社長は今後の事故対策として、
社員教育を繰り返し言っているが、社員教育の前に
JR西日本は会長、社長教育が全く出来ていなかったの
である。生きた人間の命を預かっている鉄道事業という
重要な社会的な仕事をしているという自覚がなかった
張本人は会長、社長なのである。まず、会長・社長・
幹部の教育が必要である。

報道されているようにJR西日本は「金儲け第一主義」を
掲げ、人命や安全は二の次だった。そこから、無理な
ダイヤ・ゆとりのないダイヤが組まれていったのである。

国鉄時代は、運転手は、車の整備・点検を経験した
人を選抜したそうだ。列車の構造などを一番
良くしているからである。JRになってからは、車掌から
運転手になるシステムに変わった。現在の運転手は
列車の構造などについての実践的な知識をもっていない
まま、金儲けがうまい人間を運転手にしていったのである。

尼崎電車区でも、2001年に、機器トラブルの処置の為に
やむを得ず1分の列車遅延を発生させた運転士に対し、
乗務停止処分とを行い、嫌がらせ・見せしめ的な「日勤教育」
を加えた挙句、当該運転士を自殺に追い込んでいる。
そして今回の4月25日の事故の二週間前にも、JR尼崎駅発着
の全列車について、「1秒単位で列車の遅延状況を把握する」という、
正に「運転士を追い詰め、事故を誘発している」としか思えないような
労務管理を行っているのである。
 
1991年5月14日の信楽高原鉄道における信楽鉄道とJR車両との
正面衝突事故では、JR側は、一切の責任を信楽高原鉄道側に負わ
せる姿勢をとり、被災者遺族から強いひんしゅくを買っている。
 2002年11月6日には、東海道本線の塚本・尼崎間で、
現場に駆けつけた救急隊員が鉄道事故負傷者の救出を完全には
終えていないにも関わらず後続の特急列車を運行させ、
救急隊員を死傷させる事件を引き起こしている。
 カーブミラー設置でプラットホームの監視要員を削減し、
駅員の委託・派遣労働者への置き換えを遮二無二進めてきた。
今回の事故でも、現場のATS(自動列車装置)が旧式で
スピード超過に対して何ら抑止機能を持たなかった事や
、脱線防止ガードが設置されていなかった事が指摘されている。
事故が起これば現場の労働者の責任とする、経営者無責任
体質があったことは事実である。こうした体質を指摘し指導しなかった
政府の責任も大きい。


第2に会社経営の大きな柱に「労務対策」をおいていたので
ある。会社に批判的な思想の持ち主や労働組合を徹底的に
排除し、「言いなりになる御用組合」を育成し、専制支配体制
を作り上げていたのである。
批判者を排除することはたやすいことかも知れない。
しかし、批判者があってこそ、間違いは正されるのである。
事故当日にボーリングをしたり宴会をしたりしていた多くの
社員は現場の管理職である。JR西日本は真っ当な
批判者を排除し、その排除活動に成果を挙げた社員を
管理職に抜擢すると言う、偏った人事制度を取り入れていた。
ボーリングなどをしていた区長など現場管理職は職場では
専制体制に君臨していたのである。そこから、社会常識が
失われ、JR西日本の社内でしか通用しない「非常識」が
横行していたのである。

第3に徹底した「処分」と減給という「見せしめ」による
職場支配である。なくなった23歳の運転手も何度か
処分を受けている。「再教育」と言う脅し、脅迫は
23歳の若者に恐怖心を与えたことは事実である。
草むしり、トイレ掃除、1日に何回も書く「反省書」。
こうしたことが、日本国憲法に明記されている
基本的人権を無視したことであることは明白。
JR西日本の中は、日本国憲法が通用しないかの
ような無法・恐怖地帯だったと思われる。
こうした会社環境の中では、黙って会社の言いなりに
なって行くか、正しいことを言って処分を受け、
人権侵害の毎日を過ごすかが日常的に一人一人の
社員に問われたのである。結局「長いものには
巻かれろ」式に、何も意見を言わない、見ても見ぬ振り、
上司の言いなりになる職場環境が出来上がっていくので
である。会社組織の自殺行為である。
会社や組織は常に内部に批判者を受け入れる姿勢
が必要である。

今後、原因究明が進み、責任問題、刑事告訴と
なっていくが、警察・検察は一体誰を責任者・犯人と
するのだろうか?

北側国土交通大臣は、今回の事故を「JR西日本」の
問題と言っていたが、JR西日本を管理監督する役所の
責任者は北側氏なのだ。JR西日本の超過密・余裕の
ないダイヤを承認したのも国土・交通大臣である。
国土交通省が責任の一端を担っていないとはいえない。


23歳の運転手だけを「人柱」にするような解決の仕方は
最悪である。スピードの出しすぎの深い原因を究明すべである。
107人の尊い人命と400人以上の負傷者のためにも
責任者への厳罰が求められる。亡くなった方は本当に
うかばれない。

今日の日本社会にJR西日本のような体質を持った組織は他に
ないと言えるだろうか?
西武・堤独裁体制・・・・・

そして東京都の教育も正に「処分」と「命令」「おどかし」
を基調としたJR西日本式教育に大きく変質してきている。
処分と脅しからは何も生まれない。
人間の内部にある本当に「やる気」を引き出す学校。
納得と意欲は連動している。脅しと命令は卑屈な教師と
子どもを量産する。

JR西日本体制は、今、日本全体を覆い始めた暗雲のような
ものである。国中が真っ暗になる前に「青空」を見たいものである。

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2005年05月07日

ベトナム事務所員全員会議

晴天。気温30度。
午前8時半、ベトナム事務所員全員会議。

議題は以下のよう。
①静岡市長などフエ訪問団受け入れ態勢
 5月8日からJASS静岡の会(2人)、5月9日から静岡市長など
 市役所(3人)、静岡ライオンズクラブ(3人)、合計8人の
 訪問団がやってくる。5月12日までの滞在。
  「子どもの家」、「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校、
 友好都市提携報告会、レセプション、観光などを行う。
  ベトナム事務所員全員で分担し、フエ市人民委員会と
  協力して接待に当たる。
②新ベトナム事務所員ー税田真理子さんの受け入れ態勢
 ・ベトナム事務所内机配置、机・椅子購入、各所鍵、
  自転車整備。事務所での仕事、設備等説明
 ・5月16日(月)午前8時半、ベトナム事務所員との顔合わせ
 ・5月16日(月)午後5時、歓迎会(全員参加)
 ・5月17日(火)午前9時、「子どもの家」へー紹介
 ・フエ市人民委員会、各機関への紹介

③JASS機関誌「バンベー」27号執筆分担

ベトナム事務所員会議終了後、サン・ベトナム事務所員の
誕生会。

みんなで書いた「寄せ書き」を贈る。

午前10時。ハンさん、ミンさんと刺繍関係の打ち合わせ。
現在日本の大手衣料会社から刺繍の引き合いが来ている。
既に見本を送り、生産を始める段階となっている。
また、HPをみてロンドンとニューヨークで刺繍デザインを
勉強した方から7種類の見本依頼を受け、先日、大極さんに
日本まで持って行ってもらった。
今後、刺繍依頼・注文が増えた場合の刺繍みやげ物店の
態勢をどうするか協議。

午後2時、フォンザングループ総支配人と2時間ほど懇談。


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2005年05月06日

日本語学校スピーチコンテスト

晴天。暑い。午後スコール。夕方雨。
午前中、ベトナム事務所。
バオミン・ベトナム事務所とテレビ取材の打ち合わせ。

午後3時半。日本語学校「日本語ガイドコース」の
スピーチコンテスト。午後2時から予選を行い、
決勝進出7人を決める。午後3時半から決勝。
自分で好きなテーマを決めて約3分間の日本語
スピーチ。

8ヶ月しか勉強していないのだが、日本語はなかなか
上手だった。何を言いたいのかが良く分かった。
また、日本語のアクセント、イントネーションもしっかり
していた。
「私の子どもの頃」「私の夢」「私にお金があったら」など
思い思いのテーマでスピーチをする。

入賞した7人①

入賞した7人②


一人一人のスピーチが終わった時点で、審査員の
小山、松下、原、中村、サン、フーンが採点。
原先生たちが作ってくれた採点表に従い、声の大きさ、
アクセント、言いたいことが伝わったかなど8項目の
ポイントを審査し、10点満点で記入。
その後、一人一人にスピーチ内容についての質問を
し、質疑応答となった。

6人の採点の結果、最高得点でHONGさんが優勝した。
賞状と記念品を贈呈する。

第2位

第3位

参加者全員に鉛筆と消しゴムを贈呈

こうした取り組みを通して、残り1年間、しっかりと勉強して
もらいたい。日本語教師の皆さんの日頃の努力に感謝。

夕食後、突然電話があり、京都精華大学の鳥羽美花先生と
お会いすることとなった。鳥羽先生は型染の専門家。
8月30日から9月6日まで、王宮で「鳥羽美花型染展」が
行われる。型染展成功のための話し合いを行う。
フォンザンホテル1階ロビーで午後10時近くまで。

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2005年05月05日

マブベ笑顔の会帰国

快晴。猛暑
午前中、ベトナム事務所でミンさん、サンさんと打ち合わせ。
新ベトナム事務所員の税田さんの受け入れ準備の原案を
サンさんが作る。最終確認を行う。
午後1時40分フエ空港を発つ予定だった大極さんたちの
飛行機の切符が某観光会社の連絡ミスで午後3時50分だった
ことが分かった。
ベトナム事務所では、午後1時40分フエ空港発に合わせて
見送り体制などを作っていた。全ての計画が崩れた。

午後2時、バオミン・ホテルへ。ホテルで大極さんたちと
落ち合い、バオミンさんと一緒にフエ空港へ。

「子どもの家」、ベトナム事務所、農村地域の診療所、
フールー小学校などで子どもたちを治療してくれた。
改めて感謝。

午後、あとぴナビ(アトピー友の会機関誌)、7月号・8月号
の原稿草案。

午後6時夕食。この2日間ほど体調を崩して寝ていた
原さんが回復。一緒に夕食。

午前中、用事がありハノイの日本大使館へ電話。
英語で「日本の休日は大使館も休みます」とのこと。
「はー」とため息がでた。
この連休中、多くの日本人がフエに来ていた。
多分、1年中でも一番多くの日本人がベトナムに来て
いたのかもしれない。当然、事故や盗難など様々な問題が
起こるはず。そうした時こそ、在留邦人を助けるのが
大使館の大きな任務。大使館の一番の出番の時に
大使館が長期連休をとるなど、正気の沙汰ではない。
何のために国民は税金を支払っているのか?
あってはならないが、ベトナムで列車の事故、交通事故、
航空機の事故などがあるかもしれない。大使館に電話を
しても「留守電」ではどうしようもない。
お役人天国とはこういうことを指すのだろう。
現場の多くの大使館員が本当に一生懸命仕事を
しているのも知っている。しかし、外務省設置法に明記
されている在外公館の任務の大きな一つである在留邦人
保護の体制が出来てない現実は悲しいことである。
「JR西日本体質」は、今や日本の大組織、大企業に
蔓延しているように思われる。

これは私が全く休みがなかったので怒って言って
いる訳ではない。民間の人間でもこの程度の
努力をして日越の友好交流のために努力をしているのに、
税金で生活している「公僕」がこの体たらくでは。
大使館はお得意の「連休中は自己責任」とでも
言いたいのだろうか?


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2005年05月04日

京滋YOUの会「チャリティーバザー」大成功

今日、京滋YOUの会のチャリティーバザーが行われた。
以下、京滋YOUの会からのメールの抜粋である。京滋YOUの会の
皆さんに心から感謝。



京滋Youの会です。5月3日に3回目の、「ベトナム子どもの家支援チャリティーバザー」を行いました。ボランティアの主旨に賛同いただいている東京の婦人服メーカー「VOWーINTERNATIONAL」様にご提供頂いた婦人服を破格の値段で売る、長岡では恒例になった行事です。今回はきりしまつつじの美しい長岡天満宮の参道にある長岡産業文化会館で初めて行いました。今年の商品など良い品が500円から高くても2000円とあって、たくさんの人に来ていただき、売り上げ枚数655点、683000円を売り上げることが出来ました。昼頃はお客さんが多く、レジを預かる駆る鈴木さんは昼を食べることもできませんでした。経費を引いてまたベトナムに寄付させていただきます。
 当日は会長の中村さん始め会員やお手伝いのメンバーが朝8:30に集合し、東京から来ていただいた会社のスタッフの方と準備をしました。会館前では写真パネルや会の紹介、刺繍製品も売りました。このバザーでは多くの人に来て貰えるので、子どもの家を知らせる良い機会になっています。ちなみに事前には8000枚のビラを個配したそうです。
 個人的にも、忙しく楽しく一生懸命(?)働いて、いろんな服をみんなでワイワイ言いながら安~く買って(これが何と言ってもうれしい)、寄付できるお金が集まって、と楽しい一日でした。
                                      以上報告は京滋Youの会

投稿者 koyama : 23:12 | コメント (0) | トラックバック

ナムドン山岳少数民族の小学校など訪問

終日晴天。連日の猛暑。

午前7時半過ぎ、ラームさんと一緒に車でナムドン郡の
山岳少数民族の小学校を訪問へ。日本テレビの取材のため。
フエ市からナムドン山岳地帯まで車で2時間弱。
午前10時過ぎ、ナムドン郡人民委員会へ到着。
ナムドン郡副主席、教育委員会などの関係者と懇談。

●ナムドン郡人民委員会と懇談

ナムドン郡人民委員会の紹介で子どもたちの全員が「カトゥー族」
の「THUONG LO 小学校」を訪問。
校長先生と1時間ほど話し合う。学校の様子、子どもたちの人数
等20項目のアンケートをとる。
その後、100人の子どもたちに10項目ほどのアンケートを行う。

●トゥオンロー小学校校門

●カトゥー族の子どもたち

●川と青空、山と緑一杯のナムドン山岳地帯

午後12時過ぎ、ナムドンからフエ市内へ戻る。
山岳地帯なので涼しいと思っていたが、とても暑かった。
往復車で4時間。くたくたになって帰宅。若干の昼寝。

午後3時、フエ市内から少し離れたビーザー地区にある
ビーザー小学校を訪問。校長先生、副校長先生と1時間ほど
懇談。20項目ほどのアンケートを行う。
4年生の1クラス44人に10項目のアンケートを行う。

●ビーザー小校庭
あまりに狭いので驚く。

●子どもたちに日常生活・学校生活などのアンケート

午後4時過ぎ、フールー小学校へ。
マブベ笑顔の会の大極さんたちが、フールー小学校の子どもたち
にタッチセラフィーを行っていた。子どもたちの様子を見ると
トローンとして目になっている子どももいた。気持ちが良いの
だろう。

今日は朝7時半から午後5時過ぎまで、猛暑の中での
活動だった。夕食後は体が動かなくなった。
午後7時過ぎから午後11時まで、今日取ったアンケート
2校分を集計。他の2校分はバオミン・ベトナム事務所長が
集計。

投稿者 koyama : 22:15 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月03日

期末試験中の「子どもの家」

終日猛暑。39度とも40度とも言っている。
パソコンが故障する。業者を呼んで修理してもらう。
原因は「ヤモリ」だった。ヤモリがパソコンのモーターの中に
入り、動けなくなり、そのまま焼けて固まり、モーターを止めて
しまった。そのためパソコンが起動しなくなってしまった。
今まで「停電」「かみなり」「電圧不良」「湿気」などでパソコン
が壊れたことはあったが、ヤモリが原因でパソコンが壊れる
とは思っていなかった。業者に聞いたら結構ヤモリが原因で
パソコンが壊れることがあるそうだ。何事も住んで見ないと
分からないものである。

午前中、ベトナム事務所でミン・ベトナム事務所と打ち合わせ。
午後2時、ベトナム事務所で刺繍の先生、ミンさん、ハンさんと
打ち合わせ。斉藤さんと言う方から依頼された刺繍の見本作製
についての打ち合わせ。1時間ほどかかる。
午後3時過ぎ、「子どもの家」へ。マブベ笑顔の会の大極さん
たちと刺繍作品を日本へ持ち帰ってもらう件で打ち合わせ。

その場でマブベ笑顔の会より多額の寄金を頂く。

セン委員長、リー君などと記念撮影

リー君が「子どもの家」へ遊びに来ていた。
突然、リー君が「日本では列車が転覆し170人もの人が
死んだそうだが、小山先生も知っているのか?」と質問
してきた。人数が107名ではなかったが、それでも
福知山の列車事故で多数の人々が亡くなったことを
「子どもの家」卒業生のリー君が知っていたとは驚いた。
ということは、多くのベトナム人がこの前代未聞の
大事故に関心を持っているということである。

「子どもの家」では、期末試験の真っ最中である。
明日、明後日で、中学4年生(日本の中3)の期末試験が
行われ、その結果だけで、高校入試となってします。
結果の点数で、高校への振り分けが行われる。
「子どもの家」では、既に試験の終わった子どもたち。
明日試験のある子どもたち、試験はあるが「泰然自若」
として、大きく構え、特別の対策を講じない子どもたちなど
様々だ。

午後5時半から夕食。ご飯、煮魚、インゲンの煮物、空芯菜のスープ。


今日は憲法記念日。
昨年の今日は日記に何を書いたのか調べた。
「今日は憲法記念日」とだけ。

一昨年の2003年は以下のよう。

『今日5月3日は、「憲法記念日」である。私たち「団塊の世代」の中心は昭和22年(1947年)産まれである。私は「日本国憲法」と共にうまれ育って来た世代だ。「日本国憲法」も生まれて56年。考えてみれば「日本国憲法」も団塊の世代だったのだ。数奇な運命を辿った憲法でもある。1947年に憲法が施行された時には多くの国民から歓迎された。それからしばらくたった1950年代には一部の人々から「押しつけ憲法」となじられるようになった。今日では、一部の人々は、憲法改正を公然と唱えている。今日の改憲派集会では、「イラクのフセイン大統領を見ても分るが、専守防衛では国は守れない、攻撃的軍備を持つべきだ」との主張をした大学教授がいたそうだ。憲法問題の中心は第9条に収斂される。私などは自分自身を「日本国憲法の申し子」と思っている。「日本国憲法」と共に生まれて過ごした56年間を消す事はできない。日本国憲法は私の精神的支柱そのものでもある。ここまで書いたら急に停電。バッテリーが10数分しかないもたない。これから本論へと佳境に入って行く所だったが、今日はここまで。また、阪神が勝ったようだ。「今年は阪神が優勝か?」。「トラぬ狸の皮算用」。』

自民党の野中元幹事長たちが今日の集会で「「平和と言うだけで偏った人に見られる」「自分と違う意見には容赦しないという雰囲気がまかり通っている」と現在の政界を批判したと言う。
野中氏の言うことを全て是とする立場は取らないが、それでも今の憲法や政治をめぐる「空気」を的確に
表現しているように思われる。

今日の新聞の社説を読んでみた。
朝日新聞はとても歯切れが悪いながらも、今の改憲の風潮に危惧を感じているような論調だった。
読売新聞は、「何年か前に読売新聞が先駆けて、改憲を主張し、自衛隊の位置づけをしっかりするよう
主張してきたが、今、読売新聞が行ってきたような世論となってきた」と自信満々に改憲の正しさをアピールしていた。

既に国会では80%が改憲派。社共など護憲派は極少数となった。

私は、憲法改悪を阻止する立場に立っている。野中氏がいうように憲法を守る、とりわけ憲法9条を絶対に守るとの立場を表明するのは、多少憚られる雰囲気があるのも事実である。それは、マスコミが作った雰囲気でもある。戦前、日本のマスコミが「戦争を鼓舞し」「国民に最後まで嘘の報道をし続け」たことすら忘れている今のマスコミである。

憲法問題はけしてイデオロギーの問題ではない。人間の命を守るかどうかの問題である。
思想・信条・政治的な立場を超えて、人間として何が大切なのか、21世紀の今、我が日本は世界に何を訴え、混沌とした世界の中で名誉ある日本の立場をどう作っていくのかという問題である。
私たちはつい60年前に300万人の日本人が殺された戦争をした。2000万人のアジアの人々を死へ追いやった侵略戦争をしたことは隠せない事実である。
日本でアジアで両親・兄弟・家族・親戚・友人・知人を死へ追いやった惨たらしい戦争を二度としないと誓ってまだ60年しかたっていない。

憲法問題の焦点は結局9条へ収斂する。第1項の戦争の放棄、第2項の戦争の放棄を物質的に裏付けるための「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と誓ったのである。

自民党の「威勢の良い」ことを言っている政治家たちは、9条を改悪し、自衛隊を軍隊とする、集団的自衛権を認めるといとも簡単に主張している。戦争を体験した自民党の長老議員の多くがこうした主張に躊躇している現状がある。戦争の体験がない「無知・無体験」な人間ほど「強い」ことを言うものである。
自衛隊を認め、軍隊を作り、交戦権を認め、集団的自衛権を容認すれば、戦争そのものへの歯止めがなくなる。既に9条で禁止されている自衛隊が存在し、そのうえ、イラクだけではなく、必要なら世界中で活動している現状である。禁止されていてもこれなのである。9条改悪は、必ず、「徴兵制」へと結びつく。
何もしらないでイラクへ派兵され、ノイローゼになり自殺するアメリカの若者も多い。ベトナム戦争で亡くなったアメリカの若者。
9条改悪は必ず日本の未来を担う若者を死へ追いやるものである。今、勇ましいことを言っている安部氏や改憲派の誰が、日本の若者を死から救うことができるのだろうか? せいぜい「靖国神社」に葬るくらいのことしか出来ない。憲法論議の最大の盲点は、自分自身はもう絶対に戦争に行かない、行くことの出来ない「爺さん」「婆さん」が「軍備をもとう」「戦争が出来る日本にしよう」と叫んでいるのである。
60年前のアジア・太平洋戦争でも戦死したのは多くの若者である。「きけわだつみの声」を読むまでもなく・・。
日本の若者の皆さん。今、貴方たちの命と運命は、自分では戦争にいけない人たちに握られているのです。声を上げましょう。大声を。黙っていると憲法9条が改悪され、徴兵制が敷かれ、否応なく、「国民の義務としての兵役」へ行かされることになるである。

永久に戦争をしないという主張は21世紀、世界に輝く、素晴らしい主張だと思っている。60年たって更に輝きを増した「戦争放棄」という主張。21世紀に入り、テロ・宗教・人種の争い。そうした今、『戦争放棄」は人類がたどり着くべき、課題を世界で最初に主張したものであり、私たちは誇り思うべきものである。

日本国憲法は、「アメリカからの押し付けだからだめだ」との主張がある。しかし、本当にアメリカから押し付けられたものは、「自衛隊」と「日米安保条約」である。この二つに目をつぶって、憲法を押し付け憲法と言っても説得力に欠ける。

憲法施行58周年に今日、平和を望み、再び戦争をしないと思ってる方は、是非「声を上げよう」。小さな声でも今上げなければ、日本は本当に恐ろしい軍事国家になっていく入口にたっているように
思うのである。「平和」「戦争反対」「9条を守れ」の声を自分の生活している足元から上げて行こう。

★声を上げる第一歩は、この日記の『コメント』欄に意見をかくことからでも始められる。無記名でも・・。

投稿者 koyama : 20:55 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月02日

ティエンムー寺・王宮案内

今日は特に暑い。天気予報では39、5度とのこと。
午前9時、バオミンホテルへ。マブベ笑顔の会の
お二人を案内してティエンムー寺へ。
ミンさんはロータアクトのお二人を案内。

ティエンムー寺はうだるような暑さだった。
午前10時過ぎ、王宮へ。午門、大和殿を案内し、
王宮の広場に行くと像使いが像の調教をしていた。

11時20分に王宮前で待ち合わせしていたタクシーだったが
中々来ない。結局30分待っても来なかった。
外の気温40数度。暑い中での待ちぼうけ。体力を相当消耗。
バオミンさんに電話をし他のタクシーを呼んでもらい昼食へ。
フォーサイゴンでフォーを食べる。鶏肉入りフォーを頼むが
「トリはおいていない」とのこと。トリ・インフルエンザの影響。
冷たいビールを飲んでやっと少し元気が出る。
マブベ笑顔の会の大極さんたちも暑さには参ったようだった。

午後1時からトンチンカンホテルで休憩。休憩中、2度日本テレビ
から電話が入り、昼寝を中断。11通のメール受信。12通の
メール送信。夕方、街を歩いてみる。やはり1日中暑かったせいで
夕方は涼しく感じる。家や店の前に人が出て「夕涼み」。
1950年・60年代には東京でもあった図式である。
何となく懐かしくなる。

午後7時過ぎ、1日の疲れが一気にでる。40度以上の
気温はさすがに暑さが好きな私にもかなり堪えたようだ。
相当の体力消耗を感じた。明日の朝体力が回復している
のだろうか? 最近一抹の不安を感じる。

投稿者 koyama : 20:43 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月01日

マブベの会、紫野・山科ローターアクトクラブ案内

最高気温37度。
今日は日曜日でありメーデー。ベトナムの休日。
午前7時40分、トンチンカンホテルに車が迎えに来る。
バオミンホテルへ。ホテルには、マブベ笑顔の会の
大極さんたち、京都紫野・山科ロータアクトの仁枝さんたちが
宿泊している。皆さん、JASSの支援者。
今回はどうしても日程がうまく折り合わず、日曜日の
「子どもの家」訪問となった。
午前8時半から午前10時半までの2時間、「子どもの家」を
訪問。

「子どもの家」では、近畿JCの皆さんが作ってくれた中庭で
サッカーを楽しんでいた。中庭は最後の仕上げをしていた。

●サッカーを楽しむ男子


●中庭作り最後のセメントねり

京都紫野・山科ローターアクトクラブはロータリークラブの青年部
と言ったところ。ローターアクトのお二人は、わざわざ日本から
10個近くのサッカーボールを持って来てくれた。
また、絵画教室で使うクレヨンなどをたくさん頂いた。

●サッカーボール贈呈

●絵画教室用の道具をロック寮長へ贈呈

大極さんは保健室で子どもたちに「タッチセラフィー」を行う。

今日は日曜日・メーデーであるが、子どもたちは学年末試験、
大学入試のため一生懸命勉強していた。

裏庭では昼食作り。

短時間ではあるが、子どもたちとの交流を楽しみ「子どもの家」を
後にした。午前10時半。

その後、一度、バオミンホテルに帰り、車で15分のトゥアンアン
ビーチへ。ソン君も一緒に6人で行く。するめ、ハマグリなど
美味しい海産物で昼食。

投稿者 koyama : 20:54 | コメント (0) | トラックバック