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2005年04月30日
フールー小・レロイ小訪問
快晴。36度。終日とても暑い。私の大好きな季節となった。
午前中、停電あり。午後、夜も停電。トンチンカンホテルなど
冷房のある部屋は停電になると本当にしまつが悪い。
地獄の部屋と化す。
何となく体がだるく感じる最近ではある。
午前9時、山西八重子さんの告別式。
ベトナム事務所は今日から3日間の休暇。
4月30日(土)はベトナム全土解放30周年記念日。
5月1日(日)メーデー
5月2日(月)メーデーの代休
ベトナム事務所員は年に一度しかない三連休をそれぞれ
楽しんでいる。ハノイやホーチミン市に旅行する人、
ベトナム事務所長のミンさんのように家族でダナンの
親戚を訪ねる人。「子どもの家」のスタッフもぞれぞれ
家族との交流などを楽しんでいる。
今夜、トンチンカンホテルは私だけ。
午前8時半、ベトナム事務所のサンさんと一緒に
フールー小学校を訪問。副校長と懇談。
5月に行われるかもしれない日本テレビ取材の
基礎資料作り。学校での取材の可能性、学校の
特色などを5枚のアンケート用紙に書いてもらう訳だが、
直接管理職とお会いし説明しないと意味の分からないことが
多い、。ベトナムでは海外メディアの取材については
警察、情報文化省、人民委員会などの許可が必要である。
フールー小学校も今日は休みだったが、副校長先生が
出勤してきてくれた。1時間ほど説明し話し合う。
終了後、サンさんのオートバイの後ろに乗り、フエ市内の
中心にあるレロイ小学校の校長先生のお宅を訪問。
レロイ小→グエンチフン中→コックホック高校→フエ師範大
というのが、ベトナム中部の最高のエリートコースである。
さすがにレロイ小校長の家は豪邸だった。
話し合いの途中で夫が出てきた。トゥアティエンフエ省県警本部
副本部長である。本来は4月12日の静岡市フエ市との友好都市
提携調印式のために訪日するはずだった。
約1時間ほど、レロイ小校長にテレビ取材のアンケートを説明する。
午前11時前に2校の管理職への説明を終了。
外の気温は既に35度を超えている。天気予報では最高気温
36度と言っていたが、外気が相当あつくなっている。
サンさんは37度ですと言っていたが、根拠があるのかは不明。
トンチンカンホテルに戻り、エヤコンを入れた途端に停電。
洗濯機もとまり洗濯もできなくなってしまった。今から一体
いつまで停電するのかが全くわからない。1分間なのか
1時間なのか、1日なのか? アジアといえばそれまでだが・・。
1秒の列車の遅れをチェックする我が日本と比べると
何とのんびりとしていることだろうか? 昨日の結婚式も
1時間遅れ。JR西日本なら「再教育」へ回され、以前なら
草むしりやトイレ掃除を懲罰的にさせられ、1ヶ月10万円
程の減給となる。
20分程で電気がつく。バスタブにぬるま湯をいれ20分ほど
入浴。冷たい缶ビール2本。
午後2時まで昼寝をするつもりだったが、また、停電。
30分ほど。
午後3時、読書。中島みゆき「片思い」(新潮文庫)
1987年版。池袋駅のJR改札口を入った所にある
古本屋。100円だった。1980年頃、中島みゆきと
各界の人々との対談集。所ジョージ、根津甚八、勝新太郎、
吉行淳之介、高橋三千綱、村上龍、松任谷由美、桃井かおり、
河島英五、岩城宏之、糸井重里、春風亭小朝、村松友硯
1980年頃のこれらの人は結構率直に話をしている。
やはり日本という国がまだ大らかさの尻尾(しっぽ)をもっていた
時代であった。
私は1990年代になって中島みゆきのテープやCDを良く聞いて
いた。何と暗く、人生をはすっかいに生きる人なのか、と思って
いた。しかし、この人の生い立ち、人生など何も知らなかった。
札幌生まれで、札幌に今でも住んでいるとは知らなかった。
札幌の藤女子大を卒業している。以前、講演会に行ったことが
ある。一読の価値あり。明るい面白い人だった。
夕方、日教組「教育評論」7月号原稿仕上げ(1600字)
今日の「ベトナム全土解放記念30周年」も書き込む。
今日は30年前の1975年4月30日にアメリカ軍が
ベトナムから完全徹底した日。
アメリカのベトナム侵略が完全に破綻した日であり、
ベトナム社会主義革命の成功の日でもある。
午前のベトナムTVでは、ホーチミン市で盛大な記念式典が
行われていた。ノン・ドック・マインベトナム共産党主席、
ボー・グエン・ザップ元国防大臣などベトナム政府と
共産党の幹部が全員参加。元南ベトナム大統領官邸前
で式典は行われた。
NHKや新聞などの論調は、ドイモイ政策でで大きな経済成長を
もたらしたが貧富の格差も出てきていると言ったワンパターン
の報道である。
わが日本は60年前のアジア侵略の歴史をすっかりわすれて
しまった政治家が多い。
30年前のベトナム戦争すらもう忘れてしまった健忘症政治家も
いる。わが日本政府、ノーベル平和賞受賞の佐藤栄作首相が
「南ベトナム政府」を支持したこと、沖縄の米軍基地がなければ
アメリカがベトナム戦争はできなかったことなどの歴史的
事実をを忘れてはならない。
投稿者 koyama : 16:48 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月29日
友人結婚式出席
★今日は4月27日にお亡くなりになった山西八重子様の
御通夜。通夜には参列できなかったが、
私の部屋で私が持っている八重子さんから
頂いたキーホルダーを見ながら八重子さんを思い出した。
晴天。快晴。気温は35度。
午前中、ベトナム事務所で仕事。16通のメール受信。7通返信。
午後、日本テレビより電話。取材の打ち合わせ。小学校に関する
アンケートを急いでとることとなった。午後3時、5ページの
日本語アンケートをベトナム語に翻訳することとなった。
ミンさん、サンさんにアンケートの内容を逐条説明。
2時間で翻訳を完成してもらう。
フエ取材対象の小学校を4校選定。4月30日2校、5月3日1校、
5月4日はナムドン山岳少数民族の小学校を訪問し事前調査。
午後5時、知り合いの弟さんの結婚式。トンチンカンホテルの
隣りのズイタンホテルで。
招待状が午後5時開会とあったのでラームさんと一緒に午後5時
に会場へ行く。80%ほど入場。しかし、実際には始まったのは
午後6時。1時間の遅延。待っていた1時間の間、大音量の
音楽が流れる。隣にいるラームさんとの会話が出来ない。
いつも感じることだが、ベトナム人の音量感覚とはどうなって
いるのだろうか? 私は待っていた1時間の大音量攻撃で
すっかり疲れてしまった。
午後6時開会。家族と一緒に式場の真ん中に設えた
入場舞台から正面へ。
約300人の参加者があったが、多くの人たちは平服。
親族の挨拶5分。その後は、参加者のカラオケが延々と続く。
投稿者 koyama : 17:47 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月28日
JASS関係者「近畿JC」ご苦労さん会
午前8時、ズイタンホテルで齊藤さん・ハンさんと会う。
5月10日に行われる「フエ市・静岡市友好都市提携報告会」
に参加するJASS静岡の会の方へのフエ市長の招待状を
日本から郵送してもらうことをお願いする。
5月3日頃、届くものと思われる。
午前中、ベトナム事務所。終日停電。
エヤコン仕様の建物・部屋は停電になると急にもろくなる。
ベトナム事務所は熱気と高湿度で到底仕事をする状況ではない。
昨夜は、午後11時過ぎまで日記を書き就寝するも、3時間後の
午前2時過ぎに目が覚める。どういう訳かなかなか寝付けない。
何となくパソコンを開けてみると山西司郎副代表の
ご母堂八重子様(88歳)が急死されたとのメールが入って
いた。
何回かJASSの会合にも参加して頂き、お得意の貝の和風人形
を頂いたことがある。今、私がベトナムで使っているキーホルダー
も八重子さんに頂いたものである。ご冥福をお祈りする。
今日、午前2時半頃から、JASSとしての対応策を考え、
役員会の皆さんにメールで送る。福田副代表を中心に
花輪(生花)、香典、お手伝い、関係者への連絡などの
諸準備計画案。
午後2時過ぎ、大豪雨。雷。1時間半ほど続く。
テレビも止まる。32度の真夏から急に気温が下がる。
午後5時『「近畿JC・GTS」活動支援ご苦労さん会』を
行う。センチュリーホテルのレストラン。
ベトナム事務所員全員・「子どもの家」全スタッフ・東京平和産業
全スタッフが参加。
「日本で鉄道の大惨事が起こった。現時点での
死者は106人と報道されている。日本から5000キロも
離れているとは言え、亡くなられた方の御霊を慰霊したい。
合わせて4月30日はベトナム完全解放30周年記念日。
ベトナム戦争で亡くなられた全ての人間への哀悼の気持ち
も込めて黙祷を捧げたい」と提案。皆さんの賛同を得て、
全員で黙祷。
ベトナムでも尼崎の鉄道事故は大きく且つ詳細に報道されている。
「4月21日・22日・23日の近畿青年会議所のGTS
受け入れでは、皆さんに大変お世話になった。皆さんの
協力のお陰で近畿JCの皆さんの受け入れは大成功だった。
改めて御礼を言いたい。7月8月も多くの訪問者があると思うが
また、宜しくお願いした」とお礼を言う。
額は少ないが「子どもの家」スタッフに薄謝。
その後は、乾杯をし交流会となる。ベトナム事務所・
東京平和産業・「子どもの家」スタッフ全員が会う機会は
あまりない。時にはこうした交流を持つことも意味がある。
子どもたちのために協力して活動している皆さんに
JASSとしての感謝の気持ちを表す。
午後7時から「静岡フエ青年交流会館」日本語学校がある
ので、午後7時過ぎまでに交流会は終了する。
投稿者 koyama : 16:58 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月27日
「子どもの家」入所希望者自宅訪問
晴天。終日真夏日。
午前9時、「子どもの家」入所希望の子どもの家庭を訪問。
ミン君(6歳)。6年前に「子どもの家」へ入所し、その後卒業し
現在は、刺繍みやげ物店でミシンをしているHさん(18歳)の
甥に当たる。ミン君の母親がHさんの姉。
ミン君は諸般の事情で父親不明。母親は南の町のどこかに
いるとのこと。出生届けをしていないので、戸籍がない。
「子どもの家」に入所したら直ぐに戸籍を作ることにする。
現在は、祖母とHさんと3人で住んでいる。
祖母は62歳。路上などのビニールを回収して生活している。
ビニール拾いの1日の収入は40円位。月収1000円。
ベトナム事務所付属みやげ物店で働いている
おばさんのHさんの月収は5000円程度。
祖母、Hさんの月収合計は6000円ほど。
8㎡(2M×4M)の1室を借りている。家賃は1500円。
1つのベッドに3人で寝ている。
家賃と食費で6000円の月収はなくなっています。
ミン君は9月から小学校1年生。このままでは
学校へ行けない。祖母の依頼で「子どもの家」へ
入所させることとした。ミン・ベトナム事務所長と
一緒に家庭を調査を実施した。
ミン君(6歳)に「子どもの家」に入りたい?と聞いてみた。
「うん」と大きな声で返事をした。
明日から「子どもの家」に入所させることとした。
「子どもの家」で明るく・元気に生活してくれることを
願う。
大変だが、入所希望の子どもたちは、私や
バオミン・ベトナム事務所長などが直接現地に行って
実態・実情を調査することにしている。書類調査はしない。
午後3時、フエ市人民委員会ヘ。ニエン外務部長と懇談。
7月9日、10日、11日、12日とフエ市を訪問する静岡市長
一行のフエ滞在日程を変更した。約1時間ほど公式行事の
内容を細かく協議した。
午後4時、日本テレビのディレクターから電話。
「笑ってコラえて」の取材申し込み。1時間程電話で
話し合う。
午後4時過ぎ、「子どもの家」へ。
「子どもの家」では近畿JCが作った中庭コンクリートの最終
仕上げをしていた。1センチほどのコンクリートを丁寧に
塗っていた。これで「子どもの家」の子どもたちも裸足で
サッカーが出来るようになる。改めて近畿JCの皆さん
に深謝。
「子どもの家」では子どもたちが楽しく夕食を摂っていた。
午後9時半、ハノイのテレビ取材コーディネーターより電話。
日本テレビ取材の件で話し合う。
日教組機関誌「教育評論」7月号の原稿骨子を考える。
今週中に1600字を書きあげる予定。
投稿者 koyama : 21:48 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月26日
静岡市長のフエ訪問打ち合わせ
終日晴天。暑い。
福知山の列車事故の死者は75名。(午後9時)
まだ10人位の方が車内にいるようだ。
亡くなられた方々は全く人生で予期しない出来事で
その生を閉ざされてしまった。
ニュースを見れば見るほど、痛ましい話である。
10代の若者が11人いたそうだ。親の気持ちは想像を
絶するものがある。怒りと悲しみで言葉が出ない。
JR西日本の無責任体質が露呈した。
8メートルのオーバーランと発表しておきながら、実は
40メートルのオーバーランだった。いい加減な調査結果
を記者会見で発表したことになる。
脱線転覆の直前のスピードは時速100キロを超えていた
とのこと。高速道路で100キロ以上出した時のスピードを
思い出してみれば、曲がり角で100キロも列車が出せが
どうなるかは、素人でも想像できると言うもの。
昨日JR西日本が「理論上は133キロ以上のスピードで
脱線する」と言い出した意味が分かるというもの。
100キロのスピードでは脱線しないとの伏線。
5年前から心臓病対策のため高血圧の降下剤を飲んでいる。
最初は1種類だったが、昨年から2種類。毎朝、起床時に
血圧測定をし血圧の管理をしている。医師の指示。医師に
結果を見せることになっている。
このところ薬のせいもあり、上130、下85程度で安定していた。
近畿JCツアー受け入れ後に上160、下100程度になり
この数日続いている。
午前9時、フエ市人民委員会で静岡市長一行のフエ訪問に
ついての打ち合わせ。
5月10日の午前7時40分、フエ空港着。滑走路まで出て
の出迎え。フエ市人民委員会での「友好都市提携報告会」、
夜の歓迎レセプション、王宮・皇帝廟視察などの日程を
確認する。
午前10時、刺繍関係の仕事をしたいと斉藤さんという方から
電話。午後2時半にトンチンカンホテルの隣のホテルに迎えに
行くことにする。
午前11時前にトンチンカンホテルに戻る。トンチンカンホテル
には、4月12日に静岡市との友好都市提携調印式に参加
した省警察副本部長が来ていた。私に自分が撮った写真を
渡しに来ていた。
午後1時半頃、静岡鉄道観光からメール。静岡市長の
フエ訪問の切符が全て変更になったとのこと。
今日時間をかけてフエ市人民委員会で打ち合わせをした
のはなんだったのか? 全く無駄な時間を過ごしたことになる。
直ぐにフエ市人民委員会に連絡し、明日午後3時から
再度、静岡市長のフエ訪問日程を打ち合わせし直すことにした。
午後2時半、トンチンカンホテルの隣のホテルへ斉藤さんを
迎えに行く。ホテルの入り口を入ると、頭の上から1Mほどの
椰子の葉が落ちて来て私の顔に当たる。椰子の大葉は、
枯れていてカチカチになり先がナイフのように尖っていた。
10センチほど落ちる場所が頭の方へ寄っていたら
頭の先にナイフのように刺さり即死していた。
上を見ると15メートルほどの椰子の木のトップに男が一人
のぼり、椰子の枯葉や大きくなった実を切って下に
落としていた。下を見ないでナイフのような硬い枯葉を
15メートルの頭上から落としたのである。
その男は木の上で「へらへら」笑っていた。さすがに
私も怒りがこみ上げ、ズイタンホテルの社長を呼び出し、
強く抗議した。10センチ間違っていたら即死だとの
私の指摘に社長も驚き、かちかちの先が尖った
枯葉を見た。社長は私に謝罪。私は樹上のへらへら男を
呼んで私に謝罪するよう抗議。社長は直ぐにへらへら
男を呼び厳しく怒る。男は、何か言い訳をしていた。
私は「言い訳をする前に直ぐに謝れ」と強く怒るが
日本語のため通じなかったが、日本人が怒っている
というのは分かったようだ。
(通訳はミン・ベトナム事務所長)
男は私の剣幕に驚き、社長の怒りに触れ、私に
謝罪する。こんなへらへら男といつまでも関わっていても
時間がもったいないので、齊藤さん、ミンさんと
ベトナム事務所へ。ホテルの入口なので黙っていたら
誰かの頭に椰子の実がぶつかるか、尖った枯葉が
ぶつかるかする可能性があった。こうしたことは無駄でも
誰かが言わなければならない。
午後3時過ぎ、ベトナム事務所で齊藤さん関連の
刺繍の打ち合わせをする。ミンさん、ハンさん、
ホン刺繍の先生。
内容は斉藤さんのデザインした刺繍通りの見本を作って
欲しいとのこと。ニューヨーク、ロンドンなどの知り合いの
店に出品したいとのことである。齊藤さんは、イギリスや
アメリカで刺繍のデザインを勉強し、「自立」をめざしている
海外ボランティアを支援する中で新デザインを施した
カバンや衣類の販売をしたいとのこと。
私たちの会の存在はホームページで知ったとのことだった。
午後4時頃、ハノイの北野公使から電話。
5月にワシントンに転出する、色々とお世話になったとのこと。
北野公使の健康と栄転のお祝いを述べる。
午後5時過ぎ、ハノイ大使館の方と電話。
諸々の問題を1時間ほど話し合う。
午後8時から当面の私の仕事、課題などの整理。
5月一杯の日程の整理等を行う。
この2週間ほど、トンチンカンホテルの食堂に大きなねずみが
出没している。昨日も昼食を摂っていると30センチほどの
ネズミが食堂の入口から入ろうとする。「シーッ」といいながら
足を踏むと出て行く。10分ほどするとまた、顔を出す。
今朝、1階のラームさんが使っている部屋に入り込み、
そこら中を食い荒らす。
怒ったラームさん、リー君、タイさん(ラームさんのお兄さん)
の3人が部屋で棒や板も持ってねず君を追い回す。
とうとう、ラームさんの強打でねず君は人生の終焉を迎えた。
原さんのご両親に「ねずみ取りの薬」を買って来てもらった
ばかりだ。
これからしばらくは「ずうずうしいねずみ一派」との死闘が
続く。
●戦いに勝利したラーム戦士
小泉政権が4年目を迎える。郵政民営化で自民党を変えると
いきまいているようだ。
韓国の金大中前大統領がアメリカのサンフランシスコで講演でし、
教科書や領土問題をめぐる最近の日韓関係の悪化について語り
「日本は極度に右傾化しており、批判されるのは避けられない」と
述べたそうだ。
金大中氏は、ドイツの過去に対する清算について紹介。徹底的に謝罪と
補償、教育を行ったと評価した。一方で「日本は過去をしっかり教育しない
ばかりか、逆に美化している」と批判。その上で「私たちは日本と良い隣人
になることを願う」と訴え、日韓関係の現状を「とても悲しいことだ」と述べた
そうだ。
金大中氏の言葉を小泉首相4年目の餞の言葉として送りたい。
投稿者 koyama : 07:46 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月25日
日本語教師原さんのご両親と懇親会
JR福知山線で起こった列車事故で亡くなった54人の方々に
心より哀悼の意を表します。
(2005年4月25日 ベトナム時間 午後9時10分時点)
JR西日本の第1回目の記者会見をテレビで見た。
記者会見をした幹部は、全く他人事のような会見だった。
最初に死者・負傷者への謝罪の一言があってしかるべきだ
った。謝罪は最後にもごもごと言っていた。
50数名の死者を出した責任者としての自覚が全く感じられ
なかった。
JR西日本は、まだ列車の中に負傷者がいる段階で
事故があたかも「置石」によるものであるかのような
情報をながしている。また、記者会見では133キロ以上の
スピードがでないと脱線しないかのような発表も行っている。
一般的に列車が133キロ以上のスピードを出すのは
難しいようだ。
こうしてJR西日本は、スピードの出しすぎ説を否定し、
置石の写真まで公表し、責任問題への布石を打っている。
公明党の北川国土交通大臣が、原因究明中なのに
こうした発表をしたJR西日本に「不快感」を表明したそうだが
当然の態度である。事故原因の究明は、犯人がするべきもの
ではない。事故調査委員会、国土交通省など第三者機関が
行うものである。JP西日本は先ずもって車内にいる被害者の
救出、入院治療中の被害者の救援に全力をあげるべきである。
異常な会社である。JR西日本は
社会的責任のある仕事をしているという自覚が役員に
欠けているように思われる。
偶然列車に乗り合わせただけで死亡するなど
信じることの出来ない家族が多いことと思う。
そうした被害者への「思いやりの気持ち」が
JR西日本の役員にはない。
早くも「責任逃れ」の画策をしているようでは情けない。
日本社会の「指導層」「管理層」の精神的荒廃を
象徴するような出来事だった。
こうしたニュースを何ら批判もせずに垂れ流している
NHKの無能ぶりも情けない。
昨日の衆議院福岡選挙区補選で山崎元自民党幹事長が
当選した。情けない。というのは福岡県民である。
政治を語る前に「性事」についてしっかりと弁明をしろと
なぜ問い詰めなかったのか? この程度の選挙民にこの程度の
政治家ということなのか? 小泉首相の盟友。
かたや「変態」、かたや「変人」。変態と変人の政治が
いつまで続くのか?
昨日読んだ岩波ブックレットで三木睦子さんが語っていた
夫・三木武夫自民党総裁・首相は、はるかに人格と見識が
あったことが分かる。
午前8時、ベトナム事務所へ。打ち合わせ、必要な事務。
午後3時、研修生派遣会社へ。社長と懇談。
午後5時半、原さんとのご両親とレストランで懇親会。
投稿者 koyama : 22:33 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月24日
1日休息
4月18日にフエへ戻り、昨日まで「近畿JC」受け入れの
ために全力で活動した。さすがに疲労も極限に達し、今日は
昼まで寝ていた。
昼食、高校同級生が持ってきてくれたうどんを食べる。
午後、読書。
「憲法九条、いまこそ旬」(岩波ブックレット)
このブックレットは2004年7月24日に行われた
「九条の会発足記念講演会」の公講演速記録に加筆した
ものである。
講演者の言葉で注目した部分を抜粋した。
●井上 ひさし
憲法はアメリカの押し付けではない。仙台第1高等学校の
先輩である吉野作造の思想、1928年の戦争放棄に関する
「パリ不戦条約」、憲法作成時の幣原喜重郎の努力などの
結果。憲法は国民が政府の命令するもの、法律は政府が
国民に命令するものだ。
●梅原猛
私などはマルクス主義者に対して反対の立場を取って来たので
、マルクス主義者からは保守反動、右翼のようにいわれた
けれど、その当時から、私は、日本は平和憲法の下で
民主主義的な国家を作っていくべきである、平和憲法には
新しい人類の理想が盛られているので、それを守って
いこう、その理想の上に自分の思想を考えようという立場を
取ってきました。
●大江健三郎
アメリカのアーミテージ国務副長官は「憲法九条が日米同盟
の妨げだ」と公言しました。それをうやうやしく承ってきたのは
自民党国会対策委員長の中川秀直衆議院議員ほかであり
ました。
●奥平康平
憲法第一条には、天皇が国民の象徴である、日本国の
象徴であると規定しているにもかかわらず、僕はあえて
九条こそ、日本国をまとめ、日本国民を統合してきたとい
ふうに考えたい。
●小田実
戦争はしてはあかんのである、戦争はまちがっているんだ
ということを、否応なしに私は子ども心にも感じましたね。
どんな正義を言ったところで、民主主義を持ち込んだ
ところで、だめなんだ。そこで日本人は民主主義と
平和主義を結合したのだと思います。
民主主義と平和主義が車の両輪となって戦後の日本は
動き出した。それを忘れてはいけないと思う。
そこで私たち日本の民主主義は平和とアメリカの民主主義と
自由とは違った独自なものになった。アメリカの民主主義と
自由は平和主義と結合・車の両輪とを持たない民主主義と
自由です。しかし、我々は平和主義と結合させた。
これが平和憲法ですよ。そのシンボルが九条です。
●加藤周一
その第1は「集団的自衛権」といわれるものです。
「集団」とはどこの「集団」か?
実際は日米安保条約により日米集団でしょう。
「集団的自衛権」という時の「集団」は日中集団でも日韓
集団でもないはずです。「集団」とか「国際」とか言う言葉は
何を隠そう「日米関係」ということの文学的表現です。
●澤地久枝
いまいろいろなことで目つぶしのように、わけのわからない
おかしいことがいっぱいあるります。
マスコミ、その他、言論人たちも、言っていることが段々語尾
があいまいになってきて、賛成なのか反対なのかわからない。
小泉内閣の代弁者みたいなことを言う人が、ぬけぬけと
した感じでテレビなどでものを言っていると、私は非常に
腹が立つのですが、そこで腹を立てているだけでなく、
じゃ、おまえはどうなのかと私は自問自答をきちんと
やっていきたい。
●三木睦子
私は憲法九条をどうしても守らなければいけないと
思っています。それで夫(三木武夫首相)に「あなたは
なんで自民党なんどにいるのよ」と申したことがあります。
そうしたら、彼は「もしぼくがたじろいで、よその党に
行くとかなんとかいうことになったら、憲法九条を守れなく
なるんだよ、知っているのかい」といいました。
夕方、新英語研究会機関誌「新英語教育」
2001年11月、2002年5月、2004年9月号を
読む。
投稿者 koyama : 19:15 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月23日
近畿青年会議所最終日 帰国
お詫び: 4月23日、24日と
パソコンが故障。日記が書けずご迷惑をおかけしました。
4月25日の昼に修理し機能回復しました。
終日晴天。気温34度。湿度80%以上の真夏日。
午前8時15分、予定通りホテルへ出迎え。
ベトナム事務所、東京平和産業の皆さんと。
午前8時半、ホテルを出発し作業予定地の「子どもの家」、
縫製工場建築予定地へ。
「子どもの家」の中庭はさくじつ3分の2ほどセメントを入れた。
今日は残りの3分の1を午前中に終わらせる予定である。
「子どもの家」の子どもたちも参加し、真夏の太陽の下、
セメント・砂・砂利を混ぜる作業、運ぶ作業、セメントを面を
整える作業と分かれ、粛々と活動が行われた。
約600平方メートルの中庭は午前10時半にセメント敷設が
完了した。
縫製工場建築予定地は全ての草が刈り取られ、5センチほどの土が
かぶせられ整地された。縫製工場建設時にはかなりの事前の作業が
省かれることとなる。
こうして近畿青年会議所の「GTS」(グローバル・トレーニング
スクール)は所期の目的(体を使い汗を流したボランティア)を
達成した。84人の皆さん、ご苦労様でした。
「子どもの家」裏庭では昼食のカレー作りが行われていた。
近畿JCの皆さんが持って来たカレールーに大量の牛肉、人参、
玉ねぎ、ジャガイモを入れて美味しい和風カレーが出来上がった。
「子どもの家」のスタッフ、子どもたち、そしてJCの皆さんが
協力して調理にあたる。
午前11時15分、食堂前の裏庭で楽しい昼食。
午後12時過ぎ、出来上がったコンクリートの中庭で
閉会式を行う。セン委員長の挨拶、JC各班長さんの挨拶。
最後に全参加者で記念撮影。
午後12時半、近畿JCの皆さんは「子どもの家」に別れを告げ
いったんホテルへ戻り、作業の汗を流す。午後1時半、
ベトナム事務所の刺繍みやげ物店へ。
店内にはベトナム事務所と「子どもの家」卒業生のハンさん
など刺繍作りの皆さんが待機。
ベトナム事務所刺繍土産物店は84人のJCの皆さんで満杯。
皆さんは支援の意味も込めてたくさんの刺繍作品を買って
くれた。子どもたちの生活支援となる。近畿JCの皆さんに
感謝。
王宮参観後、ドンバ市場でお土産を買う。その間、1時間。
私はかなり疲れが溜まったのでトンチンカンホテルの自室で
休憩するつもりで、チャンティエン橋をシクロで渡っていると
日本語教師の原さんとご両親と出会う。挨拶。旅行中に
ベトナム事務所員と食事をしたい旨伝え別れる。
40分ほど自室で休憩。
午後5時、ヘリテージホテルへ。JCの皆さんはチェックアウトの
最中。
引き続いて、最後の晩餐会。それまでアルコール類は一切禁止
されていた。今日は最後の夕食会なので皆さん、ビーールで乾杯。
午後6時過ぎ、3台のバスでフエ空港(フーバイ空港)へ。
今回の帰りは飛行機の関係でホーチミン行き、ハノイ行きに別れる。
ホーチミン行きは65席で満席。JCの皆さんの事実上貸しきり。
そんな事情もありフーバイ空港には、近畿JC以外のお客さんは
誰もいなかった。
午後7時50分フーバイ空港発の飛行機で65人はホーチミン市へ。
ホーチミン市では、ラームさんの弟のレーさん、私の教え子の
ホアンさんが一足先に行っている。飛行場のチェックインなど
のお世話をする。ハノイには、ラームさんとヒーさんが同行。
たった2日間のボランティア受け入れであった。帰りのバスで
バオミン・ベトナム事務所長が「1週間も仕事したような気が
する」と言っていた。確かに密度の濃い二日間であった。
投稿者 koyama : 19:11 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月22日
気温35度の猛暑の中、近畿青年会議所「肉体労働」開始
午前6時、ホテルで近畿JC責任者4人と合流し、「子どもの家」
オートバイ研修センターの事前視察へ。ミン・ベトナム事務所長も。
午前8時、ヘリテージホテル前で出発式。
84人の近畿JCの皆さんとベトナム事務所員との対面式。
ヘリテージホテルでは日本語学校卒業生が2名働いていた。
松下先生、原先生と卒業後久々の対面。
「子どもの家」中庭で開会式を行う。84人の近畿JC、
「子どもの家」のスタッフ、ベトナム事務所員、子どもたち。
「子どもの家」中庭にコンクリートを5センチ埋める作業
オートバイ研修センターの空き地に作る縫製工場の整地
午後4時まで作業を続ける。
「子どもの家」中庭は3分の2、縫製工場整地も70%程度の
終了。午後4時過ぎから午後5時半までホテルへ戻り
シャワーを浴びる。
交流会では近畿JCより子どもたちにサッカーボールと
Tシャツ、帽子、クレパス等が寄贈された。
午後8時過ぎまで交流会は続いた。
その後、午後8時45分から午後9時50分まで
ホテルで講演会を行う。
今日は午前6時から午後10時まで休みなく活動が続く。
ベトナム事務所員、「子どもの家」スタッフ、東京平和産業
スタッフが全員一致協力して何とか84人という大所帯の
ツアーの活動を支えることが出来た。
スタッフの皆さんに感謝いたい。
投稿者 koyama : 19:02 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月21日
近畿青年会議所ホーチミン市到着
午前中、ベトナム事務所。停電。
ミンさんと近畿JC受け入れ問題その他の課題に
ついて打ち合わせ。
午後、ベトナム事務所で仕事。
27通のメール受信。15通のメール送信。
これから連休に入りベトナム事務所への訪問者も
増える。ベトナム事務所玄関の日よけが壊れていた
ので取り替える。訪問者が気持ちよく事務所へ来られる
ようにすることも大事なこと。
トンチンカンホテル前に建築中のフエ初の「5つ星」ホテルが
完成に近づいている。このホテルが出来るとフエの人の
流れが大きく変わるとの噂。
午後5時、ラームさんに電話を入れる。ラームさん、レーさん、
ヒーさん、ホアンさんの4人が近畿JCを出迎えに
ホーチミン市に行っている。
84人(予定は88人)の参加者は全員元気に
ホーチミン市空港に到着。その足で国内線の待合室に
行き待機中とのこと。団長の赤井さんと電話話す。
今日は午後7時過ぎのホーチミン市発の飛行機でダナンへ。
ダナンで夕食を摂り、バス3台でフエ市まで。フエ市着は
午後11時頃の予定。
明日は午前6時に私とミン・ベトナム事務所長とで
近畿JCの泊まっているホテルへ行く予定。
団長さん以下4人の役員の方々と「子どもの家」、
オートバイ修理研修センターなどの現場を下見の
予定。
午後9時過ぎ、ラームさんから電話が入る。
ダナンに着いたとのこと。これから夕食。
フエ着は12時になりそうだとのことだった。
フエは「下水道工事」問題で揺れている。
数年前トゥアティエンフエ省政府はスエーデンから
約20億円の借金をし、フエ市の主要道路を掘り起こして
大型下水道を埋設した。
しかし、いざ使う段になったら、この下水道配管が
ベトナム仕様に合わず、全く使えないことが判明。
ハノイ中央政府からも調査団が来て現地の実態調査を
行う。しかし、現実に配管は使えないことが判明。
現在、出たら目な配管の購入を決めた責任者は
誰かなどの調査が行われている。
多分、この問題はあやふやなうちに幕引きが行われる
ものと思われる。いつものことである。
しかし、20億円という膨大な大金を「ゴミくず」のように
捨てて、本当にもったいないことである。
ストリートチルドレン一人を育てるのに必要なお金は
年間4万円程度である。20億円あれば5万人の
ストリートチルドレンを1年間生活させることが出来る。
公務員の月給は7000円程度である。
人の痛みが分からない社会システムはいつかは
破産する。悲しい「社会主義」の実態である。
投稿者 koyama : 18:38 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月20日
ソン君の誕生日 近畿JC前日準備
晴天。気温30度以上。終日真夏。
フエに帰って3日目。杉花粉症の症状が消える。
これだけでもフエに帰った意味がある。
午前中、ベトナム事務所で打ち合わせ等。
今日はベトナム事務所員のソン君の23回目の誕生日。
ベトナム事務所で簡単な誕生祝を行う。
みんなで書いた寄せ書きを贈る。日本語教師の話によると
ソン君の日本語はベトナム事務所に勤めてから急速に
上達したとのこと。「子どもの家」を卒業した若者が
未来のベトナムを背負ってくれることを祈る。
こうした形で日越友好のお手伝いが出来ることは幸せな
ことである。
トンチンカンホテルの1階にある東京平和産業では
「子どもの家」卒業生のリー君が仕事をしていた。
今日は時間があったようで新聞を読んでいた。
「リー君、君は新聞が読めるの?」と聞いてみた。
「読めるよ」との答え。そういえば「俺は小学校を卒業した」
と威張って言っていたっけ・・・・。
こうしてリー君も紆余曲折を経て、成長してくれることを願う。
21世紀は「アジアの時代」と言われている。
私たちはアジアの一員である。歴史と文化の違いを乗り越え
アジアの人々と仲良く付き合い、生きてくことのできる
21世を築いていきたいものである。私たちがフエで行っている
諸活動が、そうした日本とアジアの友好・平和なお付き合いの
一助となることを願っている。
ソン君、リー君の健やかな成長を幸せな将来を祈っている。
午後、ミンさんと一緒に「近畿JC」ツアーの準備状況の
最終チェックに行く。
縫製工場整備の準備はしっかりと出来ていた。
諸道具類の準備も完了。
「子どもの家」の隅に砂と砂利、セメントが積み上げられていた。
早くも子どもたちが砂山で遊んでいた。
「子どもの家」のトイレが詰まって壊れてしまった。
早速、京滋YOUの会の水本さんから頂いた
支援金でトイレの改修工事を行う。水本さんに感謝。
夜7時からは日本語学校で「会話特別コース」、「上級コース」の
授業が行われていた。
会話特別コースは、初級・中級・上級を終了した生徒が
更に会話の特別授業を希望したため実施したもの。
今日は中村先生が約20名の生徒に授業を行っていた。
「静岡フエ青年交流会館」2階では、上級コースの学生が
フーン先生の指導で日本語を勉強していた。
今日4月20日はヒトラーの誕生日。
戦後の出発点はどこにあったのか?
第1次世界大戦、第2次世界大戦を経て、人類は何を失い
何を学んだのか?
短期間ではあるが日本に帰国し、テレビ・新聞など日本の
マスコミに囲まれると、「戦後の出発点は何だったのか?」と
の素朴ではあるが根源的な質問をしたくなる。
小泉首相、政府、政権政党やマスコミなどは
60年前の日本や世界の出発がなにかを全く忘れてしまったの
か、意図的に忘れているのか? と思われる論調で一杯である。
中国での「反日デモ」、フジ・サンケイグループとライブドアの争い、
NHK問題の3つに共通していることは、戦後世界の出発点、
日本の出発点を忘れてしまった「健忘症」からくる問題を
含んでいる。
それは、戦後の世界体制は「ファジズムとの闘い、ファジズムの
撲滅」から始まったということを忘れているのである。
国連の敵国条項を読むまでもなく、今日の世界の出発は
日独伊三国のファシズムを世界中の民主主義の力で打倒した
上に成り立った世界体制である。今でも世界の常識は
「二度と再びファシズムに回帰しない、ファシズムと決別する」
との決意こそ、現代世界の基本的な出発点である。
ドイツ・ヒトラーのナチズム、イタリア・ファシズムのムッソリーニ、
そして日本軍国主義である。これらのシステム・社会体制が
二度と再び蘇ることのない社会を建設することこそ20世紀、
現代の世界の基調である。
万が一にも「ヒトラー万歳」「ムッソリーニ万歳」を政治家が
叫んだなら、それは世界の政治からは追放される蛮行である。
ブッシュ大統領でもブレアー首相でも「ヒトラー万歳」を叫ぶこと
はない。
①中国の「反日デモ」
中国で起こった日本大使館や日本料理店などへの投石
を含む蛮行は絶対に許されるものではない。中国政府の
重大な責任である。このことをはっきりさせた上で、
デモに参加した中国の若者や民衆の訴えていることは
聞くべきものがある。
小泉首相や一部の政権政党の人々が基本的には
第2次世界大戦・アジア太平洋戦争を「ファシズムの
侵略戦争と認めない」との立場を取っていることである。
靖国神社の公式参拝を強行したり、支持したりすること、
新しい教科書を作る会の発行した教科書が戦前の
日本のアジア侵略戦争の記述を「自虐的歴史観」として排除し、
アジア・太平洋戦争を大東亜戦争と呼号し、アジア解放
の戦争と位置づけるかのように記述していることに
韓国や中国、アジアの人々が抗議やデモをすることは
道理にかなっているものである。日本は民主主義国家
だから色々な教科書が出ているのだ、などと詭弁を使って
いるが、中国や朝鮮、アジア侵略を正当化する教科書は
アジア諸国に対する挑戦状である。私たちが侵略された
立場にあったらどのような反応をするのかを考えれば
自ずからその是非は分かってくるというものである。
小泉首相と岡田民主党代表の党首討論をテレビで見た。
内容のないものであった。それは、ふたりとも基本的に
歴史認識が同じだからである。
岡田代表の質問や論議は、小泉首相が中国にきちんと
向き合っていないといっているだけである。
東条英機などA級戦犯を合祀している靖国神社を参拝する
ことは「ヒトラー」を慰霊するのと同じことであるとの指摘が
できない。
小泉首相は「日本の国のために死んだ人を慰霊して
何が悪い。靖国神社を参拝することで世界平和を祈っている」
などと詭弁を弄しているが、東条英機など60年前に世界から
追放されたヒトラーの仲間であるファシストを「英霊」として
慰霊することが、ヒトラーやムッソリーニを慰霊するのと
同じことであることを私たちは理解しなければならない。
欧米では「犯罪行為」にあたる。小泉首相は「埋葬した
亡霊」を再びこの世の中に生き返らそうとしているのである。
中国デモは反日デモではない。反歴史、反科学、ファシズム
の是正、アジア太平洋戦争をアジアや太平洋への
侵略戦争だったと真摯な反省と未来展望を持って欲しい
との意思表示のデモと理解すべきだと思う。
日本のマスコミなどでの「中国デモ問題」で一番欠落している
ことは、小泉首相など日本政府や一部の人々が60年前に
否定された亡霊である日本軍国主義を再び復活させようとして
いる点を指摘していないことである。
日本の首相の靖国参拝がヒトラー万歳を叫ぶことと同じ
政治的破廉恥行動であるということの理解がないのである。
②ライブドアーとフジ・サンケイ問題
この問題もどちらが勝つかなどという視点でマスコミは
面白おかしく報道している。フジ・サンケイグループの
扶桑社が新しい教科書を作る会の教科書を出版した
ことを一切報道していない。フジ・サンケイグループこそ
アジア・太平洋戦争を侵略戦争と規定することに反対し、
「自虐史観」との攻撃を仕掛けた張本人なのである。
マスコミはこの点を全く指摘していない。
韓国、中国などアジア諸国の批判はまさに「フジ・サンケイ」
がその発信人になっている「戦後の歴史教育は自虐的だ。
明るい日本の歴史を子どもたちに教えるべきだ」との
論調を批判しているのであり、日本や日本人そのものを
批判しているのではないと考えるべきである。
私たちは「是は是、非は非」と間違いは改め、謝った上で
未来志向の姿勢を示すべきである。
村山首相時代に戦後初めて首相が「アジアへの侵略を認め」
たが、小泉首相はその事実を忘れてしまったようである。
小泉首相は「平和のため」などと口では言いつつ、行動では
靖国参拝などアジア諸国の人々の気持ちを逆なでしている。
③NHK問題
この問題もNHk教育テレビ「TEV2001」で放映された
従軍慰安婦など戦争犯罪を裁く民間裁判を「偏向番組」
と非難し、事前検閲を行ったことが問題となったのである。
その安倍元幹事長や中川大臣などの考えの根底には
アジア・太平洋戦争は侵略ではないのに、NHK教育テレビで
放映されようとしている番組は「侵略である」との主張を
基調にしているから「問題のある偏向番組だ」と言っている
のである。
NHKが事前の検閲を申しでたり、安倍氏や中川氏などが
事前審査をしたかどうかは定かではないが、そうした
事前検閲問題も重要であるが、より重要なのは、
自民党の現職の幹部や現職の閣僚が「侵略戦争」と
認めていないことである。そうした立場から侵略戦争を
批判した意見が出ている番組を放送させないよう圧力を
かけたのである。
こうして「反日デモ」「フジ・サンケイグループ」「NHK問題」の
底流にあるものは、アジア・太平洋戦争が日本の侵略戦争
であることを認めない勢力の暗躍である。
今日はヒトラーの誕生日である。
アジア・太平洋戦争終結60周年でもある。
こうした節目の年に改めて今日私たちがこの地球に生き、
日本で生きていられるのは、第2次世界大戦・アジア・太平洋
戦争で多くの人命を失い、多くの犠牲を払った上で世界から
ファシズムを排除し、民主主義社会・世界を作り上げ(未完だが)
たことにあることを理解し感謝したいものである。
今日、本国憲法の改悪が叫ばれている。私は憲法9条の世界的な
素晴らしさに誇りを持っている。
憲法9条の絶対平和主義こそ、21世紀の世界を
リードする思想であることに私は自信をもっている。世界中に
拡げる価値のあるものである。
ヒトラーの誕生日にあたり、日本が再び軍国主義、ファジズムに
踏み込まないことを願い、生涯、日本の軍国主義化とファシズム
、反民主主義の傾向に反対する決意である。
投稿者 koyama : 09:56 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月19日
近畿JC受け入れ最終打ち合わせ
終日暑い。気温30度以上。真夏。
久しぶりに3人の日本語教師と朝食。フンボー。美味しい。
午前8時、ベトナム事務所でミンさんと打ち合わせ。
午前8時半、ベトナム事務所員全員・東京平和産業全員・
「子どもの家」4人の代表が集まり、近畿JCの「GTS」の
最終打ち合わせを行う。18人が参加。
たった一人でやって来て12年。
オートバイ修理工場、日本語学校、障害児医療センター
などを合わせるとスタッフの総勢は40人以上となる。
12年の歳月を感じる。
4月21日~23日まで「子どもの家」やオートバイ修理工場
などで「コンクリートの庭」を作ったり、草取り・土盛りをし
縫製工場の建築準備をしてくれる。「子どもの家」では
カレー、焼き肉など3回の食事も作り、子どもたちなどと
交流する。
90人近くの日本人を受け入れるには、ベトナム事務所・「子どもの家」
・観光の東京平和産業の全てのスタッフを総動員しなければ
成功することは出来ない。
1時間半の打ち合わせを行う。それぞれの部署の責任者などを決め
全体としてどのような取り組みが行われるのかを全てのスタッフ
が理解することが目的。
午前10時半から刺繍関連の新しい仕事について
刺繍の先生、ハンさん、ミンさんと打ち合わせ。
日本の大手の衣料会社からの特注を受けて、
Tシャツなどに刺繍をする仕事について相談する。
今後もこうした形の新しい分野に刺繍の仕事を
拡げて行きたいと思っている。
午後、ミンさん、ラームさん、サンさん、イックホアン(教え子)
と一緒に「子どもの家」、オートバイ修理工場へ。
近畿JCの作業の最終打ち合わせを地元の建築業者と行う。
今年の3月11日に高校同級生の若林君の娘さんと一緒に
現場調査に行った船上生活者の子どもDUY(ズイ)君である。
今年10歳。今まで学校へ行ったことはない。9月から
1年生として通学する予定である。
DUY君に聞いてみた。
(小山)友達は出来た?
(DUY)出来ない
(小山)「子どもの家」に慣れた?
(DUY)慣れた
(小山)「子どもの家」の食事は美味しい?
(DUY)美味しい、毎日5杯食べる
DUY君の幸福と成長を祈る。
フエ帰国初日はこうして終わった。
4月17日、トンチンカンホテルの近くの携帯電話屋さんに
強盗が入る。午後6時頃。開店中。高価な携帯電話だけ
ねらって盗み始めた。若い女性店員がそれを見つけたが、
強盗は女性店員の首をナイフでさして殺害。
警察に逮捕される。
フエに12年間住んでいるが、この種の強盗殺人事件を
聞くのは初めての事である。フエも物騒になったもので
ある。
強盗はハノイより北にあるランソン出身でハノイの大学
に入り、経済学を勉強していた。
途中で金持ちの不良仲間と友達になり、放蕩生活を
覚えてしまい、大学を退学。覚えた遊びを忘れることが
出来ず、フエで泥棒をしながら、贅沢な生活をしようと
したそうだ。
ベトナムの「経済発展」の見えない一面である。
投稿者 koyama : 20:46 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月18日
ベトナムへ帰る。ベトナムは真夏
午前4時起床。朝のお茶を飲む。
午前6時過ぎ自宅を出る。巣鴨ー日暮里経由で成田空港へ。
今回の帰国で成田に来たのは4回目である。
午前10時30分、成田空港を出発しホーチミン市へ。
機内は30%程度の乗機率。
成田空港内のデューティーフリーショップで「オールドパー」の
試飲会をしていた。ついフラフラと歩み寄り、オールドパーを
一杯飲む。新しく発売するものだそうだ。香り味も申し分ない。
美味しい。午前9時半頃、軽くウイスキーが体内に注入された。
ホーチミン市着午後2時半(日本時間午後4時半)
機内でビールと白ワインを飲む。
ホーチミン市は36度の真夏。
降機した人が少ないこともあり、入管は2分で通過。
ターンテーブルへ降りると既に荷物は出ていた。
午後3時(日本時間午後5時)、税関を出てる。
その足で国内線へ。午後5時50分ホーチミン発フエ行きに
乗る予定。
ホーチミン空港(タンソンチャット空港)の国内線でチェックイン。
2時間半待合室で待ち、機内へ。フエ行きはプロペラ機。
ホーチミンからフエまで2時間の旅。午後7時40分にフエ空港
着。気温は26度。暑い。
知り合いのタクシー運転手に頼みトンチンカンホテルへ。
午後8時半トンチンカンホテル着。
長い1日だった。トンチンカンホテルの部屋は2週間ほどの
不在中にカビが生えたのか? かび臭くなっていた。
トンチンカンで荷物の整理後、簡単(?)に無事到着の
お祝いを一人でする。フエビールの味を楽しむ。
この2週間でメールは150通ほど入っていた。
これから数日かけて目を通す予定。
投稿者 koyama : 03:59 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月17日
日本滞在最終日
晴天。気温20度を越す。
午前中、池袋へ買い物。帰国関連の品物を買う。
時計が壊れたので2000円の安い時計を買う。1000円の時計
もあったが、バンドがチタンではないので買えなかった。
私はひどい金属アレルギーのため普通の時計バンドでは
左腕の手首が真っ赤に腫れてしまう。チタンは金属が
溶け出さない。
日本では起こらなかったが、
ベトナムでは暑く汗を多量にかくため、汗で金属が溶け出し
アレルギーとなる。これは、めがねのフレームも同じである。
日本ではならなかったが、ベトナムへ行ったら多量の汗の
ためにフレームの金属が溶け出し、赤くただれ、黒くシミと
なってしまう。ベトナムに住むのも意外な所に困難があった。
久しぶりで池袋にでたら、人の多さに「酔って」しまった。
家族でサンシャインCITYをぶらぶらと1時間ほど歩いたが
ひどく疲れる。人ごみの流れの速さと雰囲気に呑まれた。
年齢のせいか、ベトナムに長期間住んだせいか?・・・・・
昼食はサンシャインCITYの蕎麦屋「文左衛門」へ。
盛りそば800円とやけに高い。狭いでお店で2人のお客が
タバコを吸っている。体中に私の一番嫌いなタバコの匂いが
染み付く。やたら手の込んだようなお蕎麦だったが、タバコの
匂いで味もなにもあったものではなかった。
高級で美味しい蕎麦を売りものにするのなら、最低室内を
禁煙にしないと蕎麦はまずくなる。
店の責任者の能力というものは、こうした所の配慮に
よく出るものである。自分で作った品物への評価と価値を
これほど低める店主もいないものである。
この店主は料理への才能と能力がない。美味しくお蕎麦を
食べるということの本当の意味を理解していない。
料理について無知な人間である。
喫煙者を追い出すと売り上げが減るなどというのでは、
自分の仕事への誇りが全くない人間であるといいたくなる。
タバコで美味しい料理が食べられないほど情けなく「腹が立つ」
こともない。
帰り池袋の外回りホームの下にある古本屋へ行く。
改札を入ってから古本が買えるのもありがたい。
・「片思い」(中島みゆき 著:新潮社)100円
・「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎 著:岩波書店)100円
本の内容と値段は全く一致しない。
明日のベトナム行きの飛行機で読む本。
午後2時頃帰宅。杉花粉症の症状がひどい。
この12年、3月末から4月に日本へ帰国したことはない。
4月17日まで花粉症で悩まされるとは・・・・・・。
明日はフエへ帰国できる。花粉症から解放される。
午後、近畿JC関連のベトナム側諸担当などの文書の
まとめ。ミンさんとの連絡など。
午後6時半、近畿青年会議所の赤井さんより電話。
4月21日からの「GTS」(グローバル・トレーニング・スクール)
最終的な打合わせ。
夜、人から預かってベトナムへ持っていく品物なとの最終点検。
高校の同級生の與芝君から「久保田万寿」(1、8ℓ:1升)をもらう。
新潟朝日酒造。新潟地震で大量の久保田など美味しいお酒が
割れてしまった。波田陽区流に言えば「残念」。
今回は千歳鶴(純米吟醸:札幌)があったので、とうとう飲めない
で明日フエへ帰国するはめとなった。今日は久保田万寿を
720mlびんに詰めて冷蔵庫へしまう。2ヶ月後の日本帰国時に
飲むため、今から準備。與芝君に感謝。
ぬか漬けが1日で漬かるようになった。
15度~20度以上になると1日。15度以下だと2日間
かかる。
投稿者 koyama : 17:58 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月16日
フエ市長たち7人、無事成田を発つ
午前4時、起床。
午前5時半に自宅を出て上野のホテルへ。ホテルでは既に
ラームさんや市長、マン共産党委員長などがスーツケースの
整理をしていた。午前6時半、ホテルを出発し京成上野駅へ。
午前7時19分京成上野発のスカイライナーで成田空港へ。
午前8時20分、成田空港着。空港には、山西副代表、
寒河江日本事務所長が見送りに来ていた。
土曜日と言うことなのか? 成田空港は超満員。
セキュリーティーチェック前には長蛇の列。
午前9時頃、フエ市長たちは無事空港待合室に入る。
山西さん、寒河江さんと若干の打合わせをした後、
スカイラーナーに乗り日暮里ー巣鴨経由で帰宅。
午後12時半、自宅着。朝食兼昼食を摂る。
4月11日朝から今日までフエの皆さんとお付き合いした。
さすがに疲れる。午後休息。
夕方、気分転換に買い物。夕食を作る。
伝統の和食(誰でも簡単に出来るもの)を作る。
これが一番の息抜き。
フエの皆さんを案内し、毎晩油の入ったカロリーの
高いものを食べていた。今夜はその反動で野菜中心とする。
今日の夕食の献立は、
・大根とイカの煮付け
・さやえんどうの卵とじ
・ごぼうと人参のきんぷら
・もやしと油揚げの煮びたし
今晩の夕食の採点を妻と次男がした。(100点満点)
妻 次男 私
・大根とイカの煮付け 70 90 70
・さやえんどうの卵とじ 85 100 80
・ごぼうと人参のきんぷら 65 80 40
・もやしと油揚げの煮びたし 80 90 70
金平は味付けが強かった。
夜、ベトナム事務所のミンさんから近畿JC関連のメールがあった。
また、近畿JCツアーの観光会社から電話での問い合わせあり。
就寝後、夜11時半に再度、近畿JCから電話で
「フエに発泡スチロールはありますか?」との電話がある。
更にベトナムで参加者(88人)が使うベトナムドンを用意して欲しい
との連絡あり。
投稿者 koyama : 16:57 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月15日
午前中、メール整理・原稿書き。午後、上野でラームさんや訪日代表団と懇談
終日晴天。気温も高い。
午前中はメールの整理。近畿JCの件、5月静岡市長フエ訪問
に関する諸問題などについて関係者にメールを書く。
午後、日本経済評論社から依頼された「支援」についての
原稿1700字を書き送信。
午後3時半、自宅を出て上野へ。高校同級生のY君と
ラームさん、私で懇談。ベトナム事務所で作っている
刺繍の件で打合わせ。訪日しているマントゥアティエンフエ省
共産党委員長など7人の訪日代表団と懇談。
今日はさすがに体が固まり、上野に行くのはかなりの
気合入れが必要だった。
明日は午前4時半に起きて、上野のホテルに行き
訪日代表団と一緒に成田へ。
投稿者 koyama : 15:09 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月14日
静岡市での活動を終わり東京へ・福田副代表「フエ市名誉市民」となる
午前8時40分、ホテルをチェックアウト。
午前9時10分静岡駅発の新幹線で東京へ。
静岡駅には静岡市の局長、課長、など多くの方々の見送りが
あった。静岡市役所の方々、JASS静岡の会の皆さんなど
お世話になった多くの方々に感謝。
午前10時過ぎ、東京駅に到着。東京駅には山西さん、
西山優子さんが出迎えに来ていた。私は体調が悪く
帰宅。家で4日間のメールを整理。10通ほどの返信。
午後7時から上野でフエ市長などを歓迎するJASS主催の
歓迎夕食会。同時に福田もえ子副代表のフエ市名誉市民賞
贈呈式があった。
午後9時半に懇談夕食会は終了。自宅着午後11時。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
4月11日から4日間の静岡滞在は大きな成果があった。
静岡市・フエ市友好都市提携調印式。
JASSの「仲人」で両市が友好提携するようになった。
私たちのような小さなNGOではあるが、それでも
現地で12年間活動することで、日越の行政を動かし
日越友好交流を行政ペースでも行うようになるきっかけを
作った。
8年前にJASS静岡の会の子どもたちがフエの
「子どもの家」を訪問。その際、子どもたちが静岡市長の
メッセージを持ってフエ市長を訪問。
こうして、静岡市長とフエ市長との交流がはじまった。
その後、静岡市国際交流協会のスタディーツアー、
JASS静岡の会のスタディーツアー、静岡大学学生の
「子どもの家」訪問など様々な民間での交流が積み重ね
られた。
2000年には静岡市長の小嶋氏、ライオンズクラブなど
の団体の拠出で「静岡・フエ青年交流会館」が建設された。
(フエ市人民委員会とJASSベトナム事務所が管理責任者)
2003年には静岡・フエ青年交流会館内に日本語学校が
設立され、現在200人のベトナム青年が日本語を学んでいる。
JASS静岡の会やJASSベトナム事務所などが中心となり
静岡の政財界も巻き込んでの日越の友好交流を進めてきた。
こうした長年の地道な取り組みを基礎にして今回の
静岡市・フエ市友好都市提携となったのである。
読売新聞、静岡新聞、産経新聞、中日新聞などでも報道された。
友好都市提携を報道する読売新聞
4月12日の夜は、静岡市主催の「友好都市提携を祝う会」が行われ、
80人近くの関係者が参加した。
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2005年04月13日
静岡市政令指定都市移行記念式典の参加
午前中、静岡市科学館を視察。
午後3時過ぎに「静岡市政令指定都市移行記念式典」
に参加。
静岡市は2004年10月27日に第14番目の政令指定都市に
指定された。
今日はそのお祝いの会。
式典には2500人もの人々が参加。フエ市視察団は
最前列に席を与えられる。
式典の中で「静岡市・フエ市友好都市提携の報告」というコーナーがあり
フエ市使節団7人と私も壇上に上がり紹介される。
カオフエ市長の挨拶。静岡市長よりフエ市へ記念品の贈呈があった。
午後7時からベトナムの子どもの家を支える静岡の会主催の
交流夕食会があった。
静岡最後の日。ベトナムからの使節団は「労働者の行く飲み屋」に
行きたいとの希望があり、午後9時から午後11時まで居酒屋へ。
日本酒を痛飲。
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2005年04月12日
静岡市・フエ市友好提携調印式
静岡市は終日雨。午前中は駿府城を視察。茶室で煎茶を飲む。午後2時半、静岡市役所市長公室にて調印式。テレビ局3社、新聞社の取材。
午後6時半、提携記念パーティー。
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2005年04月11日
フエ市長たち成田着
11日午前7時8分、フエ市長たちは無事成田空港へ着いた。入管手続きが終わり税関に行く途中、震度5の地震に遭遇。1959年にフエで地震があったそうだ。年配の訪日者は二度目の地震体験。
私は午前4時半に起床し午前中5時半に自宅を出て日暮里経由で成田へ。成田の手前でスカイライナーが止まる。かなり遅れて成田に着く。午前7時40分、空港出口でフエ市長たちと出会う。空港には福田もえ子父子も出迎えに来ていた。
●集合写真
40分遅れで東京駅経由で静岡へ。昼食後、休息し市内散策。午後6時、静岡市助役などと夕食会。
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2005年04月10日
最後のお花見 上野公園へ
午前中、メールの返事。
午後、日本滞在中最後となるお花見へ。
上野公園へ妻と一緒に行く。
上野駅に着くと「人・人・人・・・・・・」。
国立博物館前の通称「桜通り」は見事な桜が咲き乱れていた。
風も強く桜の花は既に散り始めていた。
桜通りを歩き、不忍の池を経由して上野駅へ。
あまりに人が多いので人に酔ってしまう。一気に疲れが出る。
帰りのJR山の手線の電車は異様だった。
1車両全てがJICA(国際協力機構)の宣伝だった。
車内に70枚のJICAポスターが貼られ、フレームに入った
写真ポスターなどが20枚。更に車内のデジタルテレビの
画面は全て海外青年協力隊、シニア協力隊の募集ビデオ
が流れていた。降りるときに電車の外を見るとドアなどに
JICAの宣伝ステッカーが貼ってあった。
1車両を全て買い切っての車内・車外の宣伝。
内容は「海外青年協力隊員になろう」「シニアボランティアをしよう」
というもの。
多分、全車両が同様だったような気がする。あるいは、全ての
山手線電車が同様なのかも知れない。
この費用は大変な金額である。数千万円あるいは億単位の
税金を使っての募集活動である。ここまでして海外青年協力隊員を
募集しないと集まらないのだろうか?
この宣伝費はどう考えても無駄である。この宣伝費を
海外ボランティアを実際にやっているNGOなどで使えば
本当に意味のあるものに使えるのになどと思ってしまう。
お役人の考えることは、本当に無駄が多い。お役所仕事の典型。
巣鴨で下車。巣鴨駅地下の「サミット」で食材を買う。
久しぶりに自宅で過ごす。夕食を作る。
レンコンの煮物を作る。だし汁と少しの塩、醤油と
皮をむいたレンコンを短時間煮る。
ポイントは歯ごたえ。思いっきり早めに火を止める。
歯ごたえのある美味しいレンコンの煮物が出来る。
スーパー「サミット」、かぶ5つで70円。
かぶと油揚げのごま油炒めを作る。かぶの青い茎が美味しい。
きゅうりと人参のぬか漬け(始めて1年半。美味しいぬか床が出来た)
あさりが安かったので「あさりの味噌汁」
冷たいだし汁に砂を吐かせたアサリを入れ、一煮立ち寸前に火を止める。
味噌を入れて出来上がり。
長男の義父から「メルカード」の鰊(にしん)の酢オイル漬けをもらう。
私の一番好きなおつまみ。本当に美味しい
缶ビール1本と北海道「千歳鶴 純米吟醸」(長男の義父に貰う)
で夕食を楽しむ。妻もかなりの食欲。
明日は5時起き。朝7時半、成田でフエ市長など7人の出迎え。
その足で静岡へ。
夜のテレビニュースを見る。
中国で反日デモが多発し、日本大使館、日本食堂などに投石を
したという。テレビ報道の画面を見ている範囲では、中国の警察は
見て見ぬ振りをしていたのは明らか。
今回の中国の反日デモの暴力の部分には賛成できない。
しかし、反日を叫ぶ中国の人々の声を冷静に聞く耳を私たちは
持たなければならない。
日本国内で性急なナショナリズム、反中国、反朝鮮の機運を
助長する国民的な動きが出ることが一番怖い。
アジア、とりわけ中国、朝鮮には冷静な対応が必要である。
感情的な対応がどのような結果をもたらしたか、先の戦争
(アジア・太平洋戦争)で私たちは痛いほどその実態を知った
はずである。
「勇ましいことを言う人ほど、敗戦後、卑怯な態度を取ったことを
思い出す」べきである。こんな時、「勇ましいこと」を言う人を
私は信用しない。小泉首相の靖国参拝反対、日本の国連の常任事理国
入り反対、アジア侵略をアジア解放とした扶桑社教科書批判など
聞くに値するものである。
21世紀はアジアの世紀である。アメリカ一辺倒の小泉・公明党政権
の路線が将来の日本に取って有益かどうか、政権党の好きな言葉を
使えば、「国益」に合うかどうかは、はなはだ疑わしいものである。
「郵政民営化」に特化した小泉政権にはこうした外交問題を解決する
気力と能力はないように思える。
アジアで日本はどのような役割を果すのか? 日本が名実ともに
アジアの一員としての位置を獲得する気があるのかどうかが
問われている。そのためには、アジア太平洋戦争での侵略は
真摯に反省し、アジアの平和と安定のための大きな役割を果すとの
決意をアジアの人民にアピールする必要がある。
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2005年04月09日
東京へ帰る
午前10時30分頃の南小樽発で新千歳空港へ。
午後12時半新千歳発午後2時羽田着。
京急・都営三田線で1時間半。自宅着。
東京は暖かかった。家の近くの公園を通ったが
桜は満開だが既に散り始めていた。
ラームさんなどからメールあり。返信。
明日1日、静岡市を訪問するフエ市長など7人の
出迎え準備をし、明後日4月11日から16日まで
の一行7人の案内。
4月18日にフエへ帰る航空券が取れる。
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2005年04月08日
今日は雪
今日の小樽は雨のち雪。とても寒い。
午前中、孫の幼稚園入園式に参加。キリスト教系の幼稚園。聖書を読み上げたり、讃美歌を歌ったりと宗教の伝道がバックグランドに位置付いていた。入園式中泣き出す子、母親が側にいないと心配な子、式中フラフラとどこかへ行ってしまう子と騒然とした入園式だった。
十数年ぶりに学校(幼稚園も学校)現場に行った。懐かしい空気と雰囲気だった。
●幼稚園で記念写真
夕方、小樽の地酒酒造「田中酒造」へ。純米大吟醸(今夜の飲み分)と「ふなくち酒」(純米原酒)を買う。夜は長男の嫁さん一家と鍋をつついて懇親会。ベトナムから4通のメールあり。返信を出す。
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2005年04月07日
春が近づく小樽
昨夜は長男の義父の病気・退院見舞い。手術のため多少痩せた感じだが、鉄アレーなどを使い、元気にリハビリに励んでいた。完全な健康回復を祈る。昨夜は小樽市内のホテルに泊まる。
今日は朝里温泉のマンションの一室を借り孫と過ごす。マンションから見た山の雪はかなり溶けて春の訪れを感じさせる。
●小樽の町
携帯にベトナムを含め10通近くのメール着信。返信を書く。
投稿者 koyama : 17:55 | コメント (0) | トラックバック
2005年04月06日
小樽へ
午前中、孫のはなとライオン公園で遊ぶ。
午後12時に羽田空港へ。
夕方小樽着、長男の義父へ挨拶。
●南小樽駅
夜、大和家で好きなお刺身をご馳走になる。
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2005年04月05日
新宿 榊原記念病院へ通院
午前8時、心臓の定例検診で新宿へ行く。
今日は快晴。気温も20度を超え、やっと春らしくなってきた。
ということは、杉花粉症が一層jひどくなるということ。
午前9時半、病院着。心電図をとった後、診察。
血圧が高いとの指摘を受ける。心臓の薬3種の投薬を受ける。
ついでに杉花粉症のインタールを頼む。
昼頃全ての診察を終わる。
往復の地下鉄、診療の待ち時間に「グローバリゼージョンと
戦争責任」(金子勝、高橋哲哉、山口二郎)を読む。
2000年11月11日に北海道大学で行われたシンポジューム
「21世紀の政策アジェンダ」の記録である。
冷戦構造が崩壊し、21世紀の世界はどうあるべきなのか?
グローバリゼージョンの中で世界はアメリカの覇権主義が
一層強まり、世界経済も混沌とし、人々は未来を読みきれない
でいる。
金子氏は日本はアジア経済共同体を作るべきだと主張。
そのためにも「戦争責任」を明確にしなければならないという。
特にドイツの戦争責任問題の例を挙げながら。
戦争責任の明確化は過去の問題ではなく未来に向けた
最重要問題という。
高橋氏は戦争責任問題は、経済問題だけでなく、
理念の問題としても重要と主張。
午後、フエのラームさんと電話でフエ市長などの訪日問題に
ついて話す。
日本経済評論社よりメール。「評論」に1700字の原稿を依頼される。
テーマはボランティア、支援論。
夕方、「にくじゃが」「ひじきの煮物」をつくる。
●にくじゃが(新じゃが、人参、玉ねぎ、豚肉)
午後7時半、福島から嫁さんと孫が我が家にやってきた。
夕食を一緒に摂る。
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2005年04月04日
ピースインツアー社長と懇談
午前中、雨。午後曇りのち晴れ。
午後、早稲田にあるベトナム・カンボジア・ラオス専門の
旅行会社「ピースインツアー」の松永社長、橋本「地球の歩き
ツアー」担当と懇談。この1年半地球の歩き方、ピースインツアー
JASSの3組織で共同して行ってきた「地球の歩き方
スタディーツアー」の内容について、お互いの意見交換を
行った。全体的には大きな成功であったとの共通認識を
確認した。同時に細かい所でいくつかも改善点をも話し合った。
j引き続き、2005年夏の地球の歩き方スタディーツアー(5回)
についても成功させるよう努力しようとの話しする。
外は風が強く、杉花粉症にとっては最悪の気候。
話し合い中、洟がズルズルと情けない状態。
早稲田の界隈は入学式に向けてなのか、サークルの
看板をもった学生が行き来していた。若者ばかりで
活気を感じた。早稲田の本屋で岩波書店のブックレット
3冊購入。
●「グローバリゼーションと戦争責任」(金子勝・山口二郎・・)
●「学校に自由の風を」(東京都の君が代・日の丸問題)
●「憲法9条、今こそ旬」(井上ひさし、梅原猛、大江健三郎
奥平康弘、小田実、加藤周一、澤地久枝、鶴見俊輔、三木睦子)
現在進めているプロジェクト関係者と電話等で連絡。
①近畿青年会議所スタディーツアー関係者
②フエの日本語学校関係者
③地球の歩き方ツアーの責任者と
④ベトナム事務所刺繍みやげ物店での刺繍制作について
⑤宇都宮縫製工業組合佐藤社長研修生派遣問題
⑥2006年1月5日「新英語研究会」全国大会での講演について
関係者と連絡
フエ市長など7人の訪日者のビザ取得の見通しが立つ。
航空券、国内切符等の準備も終わる。4月11日朝7時半に
成田で出迎えをするのみとなる。何とかここまでたどり着き
ほっとする。
明日は朝8時に家を出て、新宿の病院へ心臓の定期健診。
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2005年04月03日
テレビ制作会社の人と懇談、春が始まる
終日晴天。春。
午前8時、自宅を出て池袋へ。午前9時、メトロポリタンホテル1階
でテレビ制作会社の方と懇談。
内容は私のテレビ取材について。2時間ほど懇談する。
ベトナム事務所や「子どもの家」などへ多くの日本の若者が
来ていることに興味を持っているようだった。
この方は地球の歩き方スタディーツアー参加者の「感動した」など
の感想文に心を動かされたようである。
その足でビックカメラへ。デジタルカメラを買う。高校同級生と
フエからハノイに行く際、布製バッグをベトナム航空へ預けた。
バッグの横のポケットにデジカメを入れておいたが、フエから
ハノイの間の空港関係者の誰かに盗まれてしまった。
ハノイ空港のターンテーブルからバッグが出てきたが、既に
デジカメはなかった。バッグの横のポケットに入れたのが悪い
と言われればそれまでだが・・・・・・。
この日記を書くためにデジカメは必需品。
2ヶ月ぶりに歩いた東京。気温も上昇。日曜日ということも
あって多くの人が池袋に出ていた。いつも人と会う時に使う
「談話室 滝沢」の前を歩いたが、4月1日より全館閉店する
との張り紙があった。40年間の営業を止めたとのこと。
値段が高いのか、こうして喫茶店で人と直接会って話すと言う
ことが少なくなってきたのか? 滝沢閉店は今の「人間関係が
希薄」になった日本、特に都会の人間社会を象徴しているよう
ある。
池袋からの帰り、久しぶりにブラブラと我が家の回りを
歩く。春である。そこら中に春の花が咲き始めている。
午後4時過ぎ、宇都宮縫製工業組合の佐藤理事長から電話。
縫製工場の件で打合わせ。
フエ市長など7人の訪日者の新幹線切符などが届く。
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2005年04月02日
2ヶ月ぶりに自宅で過ごす
昨夜9時過ぎに福島から自宅へ。
2ヶ月ぶりに自宅に泊まる。
今日は1日自宅で過ごす。2月初めから今日まで
仕事づくめ。いささか疲労気味。休養する。
朝食を作る。ご飯。味噌汁(豆腐、ねぎ、ワカメ)、
ハムエッグと千切りキャベツ、納豆、ぬか漬け。
ベトナム事務所から何通ものメール受信。
1日かけて10通の返信メール。
・近畿青年会議所GTS(グローバル・トレーニング・スクール)の
詳細日程、分担案の訂正・追加等をミンさんに送る。
4月21日から23日まで100人の近畿青年会議所の会員が
フエを訪問。「子どもの家」の中庭(20M×30M)のアスファルトを
張り替える作業、オートバイ修理研修センターの空き地500㎡
の草取り、縫製工場建築のため、土地の基礎作り。
3回の食事作りなどを行う。「子どもの家」スタッフ、ベトナム事務所
スタッフの役割分担等の諸準備。
・神奈川県青少年スタディーツアー実施結果報告への返事
・2006年1月5日の講演会(民間教育研究団体「新英語研究会」)
についての主催への連絡
・マブベ笑顔の会の大極安子さんのスリランカ津波支援報告への
返事。大学の同級生だった大極さんが日本からの支援金を持って
自ら直接スリランカへ赴き、実態を調査。本当に必要な支援者・
支援地へ支援金を手渡してきた。詳細報告がありその返事を書く。
こうして自ら直接行動する勇気と実践力はたいしたものである。
・静岡・フエ「友好都市提携調印式」に参加するフエ市長等7人の
訪日JR切符、新幹線切符等の手配。4月11日朝7時半に
成田へ出迎え、その足で静岡へ。4月12日、静岡市役所で
両市友好都市提携調印式、夜、記念レセプション、4月13日は
「静岡市政令指定都市移行記念祝賀会」参加。
4月14日朝東京へ。4月14日、15日は東京視察。4月16日の
朝10時の成田初でベトナムへ帰国。全ての日程の案内をする。
静岡市役所国際課、静鉄観光などと詳細打合わせのメール。
・先日、「子どもの家」を訪問した高校時代の同級生のY君から
ベトナム事務所にある刺繍みやげ物店の刺繍の注文。
Y君はアメリカの有名なジーンズ会社の日本での責任者。
フエ滞在中、婦人服につける刺繍の見本を作り会社へ
持ち帰る。会社での評価も高く、出来たら発注したいとのこと。
ベトナム事務所に生産能力、時間等の問い合わせ。
この話が軌道に乗ることを祈る。
・上尾スタディーツアー責任者の星野さんからメール。
今後の「子どもの家」への支援ついてかなり詳細・具体的な
提案を受ける。受けることを前提に時間をかかて検討する。
・京都産業大スタディーツアーで若干の問題。
ディーンラームさんから問題提起。私の方で関係者に問い合わせ
問題解決の努力。若干深刻な問題を孕む。
杉花粉症の症状あり。外出を控える。自宅で妻と「人生を語る」
といえば聞こえが良いが、爺さん・婆さんの「お茶のみ話」をする。
今の学校現場の実態。特に東京の荒廃した学校現場の実態を
話し合う。真っ当な先生がどんどん退職していく実態は目を
覆いたくなる。定年前に良心的な教師が大量に辞めていく。
戦前の軍隊のようになっている東京の学校現場。
責任者が責任を取らず、上司の命令で動く学校が出来上がりつつ
ある。学校現場を見ているだけで、日本社会が大きく「戦前」に
なりつつあることを実感する。人間の心を捨てさせる東京の
教育行政の腐った実態。人間の良心と自分の頭で考える
ことを停止する教師のみが生きてゆける学校現場が出来つつ
ある。などということを「美味しいお茶」を飲みながら二人で
息巻き、1日を終わる。もう早くもフエへ帰りたくなる。
日本は寒い、杉もいやだ、人間が多く、生活のテンポが
早く疲れる。
ベトナムでは今日、日本語学校の入学式。入学希望者が殺到し
100人以上が入学式に出たようである。「子どもの家」のスタッフ
キムアンさん、ハンさんも入学したそうだ。
ベトナム事務所はミンさん中心に3人の日本語教師も頑張って
くれている。感謝。
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2005年04月01日
下痢と花粉症
一昨日の下痢は多少回復したが、完治せず。
食事はおかゆやうどん。
宿舎の回りは大量の杉林。今日は晴天で風があった。
杉花粉の大量飛散を目撃。見た瞬間クシャミが連発。
1日中、目のかゆみ、鼻づまり。
長男は13年間札幌にいたので杉花粉症かどうか
知らなかったが、福島に来て杉花粉症が発症した。
北海道と沖縄は杉がないそうだ。
●福島の恐るべき杉林(花粉飛散状態・・)※杉に責任なし。
午後5時45分の新幹線で上野へ。自宅着午後9時。
やっと自宅へ着いた。
自宅についても宿舎にいてもベトナムにいても
今やどこに寝ても同じ感覚である。自宅へ帰ってからと
言って特別「落ち着く」ということはない。
この12年間の生活は正式には「住所不定」である。
住む所が定まっていないのである。ベトナム(時々ハノイ、
ホーチミン市・・・)、東京自宅、札幌長男宅、全国講演会で
各地を回る(年間50回から100回。推定で数十日は自宅外)。
職業は? と聞かれても即答できない。ボランティアです、と
言ってもボランティアが職業かどうか?
今の私は「住所不定、無職」といえなくもない。かなり怪しい
存在ではある。