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2005年03月31日
福島で体調崩す。
昨日福島に着いたが寒い。昨夜 大下痢状態。一晩に十数回のトイレ通い。私以外の家族全員、体調良好。この間、少し無理をしたか?
●心配して一緒に寝てくれた孫。
少し体調回復? 朝、おかゆ。昼、うどん。人生で2番目に楽しみなものが飲めない。不満。今日は1日寝ていた。家の回りは杉林。見るだけでクシャミが出る。ベトナムからメール6通。3通緊急。返事を出す。
投稿者 koyama : 18:59 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月30日
成田・上野・福島
午前中7時成田着。乗機率は60%。
7時15分発の上野行普通に乗る。2時間弱で日暮里へ。妻と合流。9時半の東北新幹線に乗り11時福島着。駅で長男夫婦、孫と会い引っ越し先の宿舎へ。午後1時に札幌から荷物が着くとのこと。しばらく部屋の掃除。
●そうじを手伝う孫。
福島は寒く、風も強い。気温8度。風花が舞っていた。2日間ほど滞在の予定。
投稿者 koyama : 20:37 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月29日
今日、日本へ帰国
☆昨夜、遅くまで日記や帰国の荷物準備をしていた。
午後11時半ごろだろうか、NHKニュースで
スマトラでまた大きな地震が発生したとの第一報が
入った。すぐにCNNに切り替える。CNNは、
すでに現地からのレポートを流していた。
300人以上の方々亡くなったとのこと。
亡くなられた方には哀悼の意を表したい。被災者の
皆さんには2度の被災で、かけることばも思い浮かばない。
朝8時にトンチンカンホテルを出発、フエ空港へ。
午前10時20分発の飛行機でホーチミン市へ。
ホーチミン市のホテルで仮宿泊をし、午後9時、ホーチミン空港へ。
午後11時40分のベトナム航空で成田へ。
ホーチミン市は33度。暑い。日本人の観光客の姿が目立つ。
昼食は行きつけの韓国料理店で「冷麺」。
夕食はコムディア(200円)。
ホーチミン滞在中、ラームさんをはじめ、何本かの電話あり。
ホテルのテレビでは、小泉ライオン首相が、アメリカの
何とかという俳優とダンスをしていた。男同士のダンスも良いが、
もっとやることがあるだろうに・・・。もうこの種のパフォーマンスも
色褪せた。
今回の帰国は臨時帰国。4月に静岡市役所で調印式が行われる
「フエ市・静岡市友好都市提携調印式」の下準備などである。
今回の訪日はトゥアティエンフエ省共産党委員長・ベトナム共産党
中央委員・国会議員のマン氏、フエ市長のカオ氏、共産党フエ市
委員会副委員長・フエ市議会議長、祖国戦線議長、
省公安副本部長、フエ市外務部長ニエン氏、同外務部員通訳の
ディンラーム氏など。省・市の幹部のほとんどが訪日する。
今回の両市の友好都市締結は、私たち「ベトナムの子どもの家を
支える会」静岡の会が子供たちのベトナム派遣交流団を組織し
フエの子供の家へ来た事がきっかけとなった。
私たちJASSが「仲人」をしたことになる。小さなNPOでも
12年間現地で活動する事で、ささやかではあるが、日越友好の
橋渡しの一助をすることができたと自負している。
今回は4月10日から16日まで訪日する。この間、成田の
出迎えから静岡市役所、2日間の東京滞在など全ての日程
に同行、案内する。
東京では福田もえ子さんの「フエ市名誉市民賞」贈呈式も
行われる。5年半、フエのベトナム事務所や子どもの家の
日本語学校で活動したことに対するフエ市人民委員会の
高い評価の表れるである。福田さん、おめでとう。
午後11時40分にホーチミン空港を出て、3月30日午前7時半
成田着の予定。明日は、自宅へ帰らず、そのまま日暮里で
妻と合流し上野経由で福島へ行く。
長男が札幌から福島へ転勤となり引越しの日。その手伝い。
福島には全く知り合いがいないので、長男夫婦だけでの
引越しとなる。夫婦で孫の面倒を見る事になっているが、
孫の面倒を見るのか「見られるのか?」その辺は
定かではない。結果が楽しみである。
この12年間、この時期日本への帰国をしたことがない。
福島は一体どんな気候なのか? 何を着て行ったらよいのか?
まるで外国へ帰るような心境である。
飛行機の中でゆっくりとねることにする。
投稿者 koyama : 20:43 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月28日
ベトナムテレビインタビュー・ベトナム事務所員会議・上尾ツアー講演・日本語学校卒業式
今日も非常に忙しい1日だった。
午前7時半、ミンさんと一緒に「子どもの家」へ。
ハノイ中央「ベトナムテレビ」の取材を受ける。
4月30日のベトナム南部完全解放記念日の特集番組。
JASSだけが海外NGO代表としてインタビューを受ける。
「何故、ベトナムに来たのか?」「今、どんな活動をしているのか?」
「今後、どんな活動をする予定か」などの質問に答える。
放映はベトナム中部は3月30日、ベトナム全国放送は
4月20日
から30日の間。
午前9時からベトナム事務所でベトナム事務所員会議。
4月21日からの「子どもの家」を訪問する近畿青年会議所
(100人)への対応を協議する。「子どもの家」の中庭の
コンリート改修、オートバイ研修センターの庭の整備等を
行う。
午後1時半、「子どもの家」へ。
午後2時より、上尾国際交流協会の皆さんにベトナムでの
活動の話をする。1時間半。午後3時半まで。
午後4時、ベトナム事務所でODA支援金申請書の最終仕上げ。
バオミン・ベトナム事務所と1時間ほど最終点検。
午後7時、「静岡フエ青年交流会館」で日本語学校の卒業式。
中級修了式・上級卒業式。
福田もえ子さん、西山優子さん、坂本文子さんなど先人の努力と
現在の原・松下・中村・フーン・サン先生の努力とがあいまって
日本語学校は大きく成長することが出来た。改めて関係者の
皆さんにお礼申し上げたい。
私たちの日本語学校は、ベトナム中部最大の日本語学校と
なった。4月からは200人の学生を擁する日本語学校となる。
式典終了後(午後8時)、修了生・卒業生はそれぞれ関係の
先生方とお茶を飲みに行った。
投稿者 koyama : 23:23 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月27日
上尾市国際交流協会出迎え:フリースペース見送り:佐藤さん「子どもの家」で絵手紙
昨日から晴天。久々の太陽と青空。
午前7時半過ぎ、ラームさんと二人でフエ空港へ。
上尾市国際交流協会スタディーツアーの出迎え。
今回で4回目。予定時刻を10分早く飛行機は到着。
星野さん、加藤さんを先頭に12人の団員を出迎える。
大学生が一人で後は高校生。
●空港内で全員の記念写真
一緒にフエ市内へ。午前11時から11時半の間に上尾協会の
皆さんが昼食する予定なので、それまでラームさんが王宮など
を案内する。
私は午前11時まで明日3月28日午前9時からのベトナム事務所員
会議の資料作りを行う。
予定では午前11時半から上尾の皆さんと昼食を共にし、午後12時に
なったらバオミン・ホテルへフリースペースの皆さんの帰国の
見送りをする予定だった。
しかし、ミンさんから電話があり、ラームさんが案内している
上尾ツアーの参観が遅くなるとのこと。また、フリースペースの
出発が早まり午前11時45分になったとの話であった。
仕方なく、上尾ツアーとの昼食を断念し、フリースペースの
見送りに行くことにした。バオミン・ホテルに行くが、同行する
サン・ベトナム事務所員が来ていない。結局20分の遅刻。
出発は午後12時過ぎとなってしまった。それなら、上尾ツアー
との昼食が出来たのに・・・と思った。フエに住んで12年間、
ベトナムのこうした大雑把さには慣れているはずなのだが。
フリースペースの皆さんと一緒にフエ空港へ。
「日本へ帰りたくない」と言っている子どもたちも多かった。
●フリースペース フエ空港前で
午後1時半、トンチンカンホテルへ帰る。
結局、今日は予定していた朝食・昼食を摂れなかった。
そのせいもあり、部屋に帰ったら体が棒のようになり、疲労困憊。
体を動かすのが嫌になる。乾麺をゆでて麺つゆにつけるという
簡単な食事を作る。午後2時に今日初めての食事を摂る。
食事を急いで摂り、再びバオミン・ホテルへ。
高校同級生の佐藤さんが「子どもの家」で絵手紙を指導する。
ベトナム事務所見習いのソン君・佐藤さんと一緒に「子どもの家」
へ。
今日、日曜日は午後3時から絵画教室が開かれる。
3時に「子どもの家」へ着いたが誰もいない。
30分待ってやっとフエ芸大の絵画教室の先生がやってくる。
絵手紙をやりたい子どもたちが三々五々教室にやってくる。
佐藤さんがドンバ市場で買って来た「バナナ・リンゴ・ナス」など
の被写体を絵手紙に書くことを告げる。
絵は「はがき」からはみ出して書くこと、輪郭は墨で、色は
薄い色から段々濃い色へ。色を塗る時に白い所があっても良い、
など描き方を指導する。
子どもたちは佐藤さんの話をあまり聞かず、勝手に絵手紙を
描きはじめる。いつものことではあるが。
以下子どもたちの作品 NとTは「NGUYEN TRAI」(グエンチャイ)「子どもの家」の略称。
子どもたちの作品の「うまい」「下手」は分からない。
しかし、子どもたちの書いた絵手紙を見ていると、子どもたちの
心の奥底にある「感性」というものが出ているような気がする。
子どもたちの感性はどこから出てくるのか? 子どもたちは
社会の産物である。社会が健全なら健全・真っ当な感性を
持った子どもたちが存在する。社会がいびつなら
子どもたちの感性も歪んでしまう。
子どもたちは佐藤さんの指導や説明はあまり聞いていなかった。
しかし。佐藤さんの描いた見本の絵手紙をよく見ていたこと、
また、絵を描くのは「楽しみ」という子どもたちが、勝手に
集まったことが上記の絵手紙になったような気がする。
「子どもの家」の絵画教室は強制しない。毎回、やりたい
子どもたちだけが勝手に部屋に入って来て好きなように
描く。点数も何もない。自分の持っている「描きたい」という
欲求を満たすだけである。芸術に強制はなじまない。
キライならやる必要はない。
子どもたちは「うまく描く」という気持ちももっていない。
「自分の気持ちを表出する、思いを描く」だけだったような
気がする。描いたら、子どもたちの絵手紙はおしまいなのである。
結果がどうかは関係ない。うまい、下手という気持ちもない。
「子どもの家」の子どもたちの絵手紙を見ていると、芸術というもの
の本質を見たような気がする。心と気持ちがなければ、本当の
芸術は成立しないような気がする。
「子どもの家」の子どもたちの感性は健全なもののような気がした。
佐藤さん、ご苦労様でした。
午後5時過ぎまで絵手紙教室は続く。
その後、佐藤さん、ソン君をバオミン・ホテルを送り、
トンチンカンホテルへ戻る。
この1ヶ月半の活動経過を日記で見た。
1ヶ月間ほど、ほとんど休みがなかった。
今日は正直、かなり体が動かなくなっていた。
体はほぼ限界に近づいているような気がした。
明日は、午前7時半から「子どもの家」で
ベトナムTVの取材、午後9時、ベトナム事務所員会議。
午後7時、日本語学校卒業式と日程が入っている。
もう一息、頑張ろう。
日記を書くのに4時間かかる。
フエでは電話回線でインンターネットをしている。
最近、インンターネットカフェーが林立し、電話回線が
常時満杯となる。写真がアップできない。
午前1時から午前4時の間が一番日記を書きやすい
時間帯である。
日記を書きながらNHK衛星放送を見ていた。
落語をやっていた。金原亭伯楽師匠の「文七元結」。
伯楽師は古今亭志ん生の長男・金原亭馬生師の
一番弟子。私の落語の師匠である「鈴の家馬勇」師匠は
伯楽師の次の馬生師匠の二番目の弟子。
そうした関係もあり、伯楽師匠とはかなり付き合いがあった。
上野の鈴本の楽屋で何度も話しあったことがある。
落語界で最初の大学卒の落語家であった。
二つ目時代は金原亭桂太。
今日の「文七元結」(ぶんしち もっとい)は、
名人咄家が数多く演じている。
久しぶりにしっかりとした骨組みの話を聞く。
古今亭系の落語の真髄は「簡潔」である。無駄な
言葉を切り取り、刈り込みしている。
柳家系と比べると良く分かる。伯楽師匠の話も
極力無駄な言葉を排し、簡潔にして、情景が浮かぶ
名演だった。
昭和の名人の後を継いだ噺家がほとんど、師匠を
超えられない現状である。
昨年、桂文楽(現)の高座を見た。円蔵、三遊亭金馬、
円歌と先代を知っている者に取っては、物足りない。
話を聞いていて、生まれ持った能力というものを感じた。
林家こぶ平が林家正蔵を襲名したそうだ。
先代の最後の話を上野鈴本で聞いた。彦六になって
いたが。
古今亭志ん生の長男・次男が結局、志ん生を継がずに
死んだ。馬生、志ん朝で既に一時代を築いている。
こぶ平は父親三平と先々代・祖父正蔵の名前の傘の下にいる。
父、祖父がいなければ、見向きもされない咄家である。
文楽・円蔵・金馬・円歌の二の舞にならないことを祈る。
古今亭志ん生の子どもたちに対する姿勢には見るべき
ものがある。
投稿者 koyama : 23:52 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月26日
フリースペースとナムドン山岳地帯へ
久しぶりに快晴。太陽を見る。
午前8時、ベトナム事務所へ。ミン・ベトナム事務所と打ち合わせ。
午前9時半、東京三鷹のフリースペースの宿泊している
バオミンホテルへ。
午前10時、フリースペース10人、高校同級生佐藤さん、
ラームさん、日本語教師の中村先生と一緒にナムドン
山岳少数民族との交流へ。
バスで1時間半、緑豊かなナムドンへ。本当にベトナムを知る
には、山岳地帯へ行くことである。緑豊かな自然がある。
午前11時半、ナムドン到着。昼食。
午後12時半、カトゥー族の村を訪問。
村では村人がこぞって歓迎してくれた。
午後3時過ぎまで交流は続く。
フエ到着午後5時過ぎ。その後、フリースペースは
自由行動。
ミンさんのバオミン・ホテルでODA支援申請書関連の
書類を点検。三社見積り書の英語・日本語訳の打ち合わせ、
ODA申請書再提出の諸準備を打ち合わせる。
来週中にバオミン・ベトナム事務所長が郵送することを確認。
午後6時過ぎ、ミンさん、高校同級生の佐藤さんと夕食。
蓮の実ご飯、生春巻きなどを食べる。
今日も1日かなり忙しく過ごす。
投稿者 koyama : 22:56 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月25日
ODA申請書・日本語学校打ち合わせ・・・
朝から霧雨。終日霧雨。寒い。気温19度。
現在、二つのスタディーツアーが来ている。
フリースペース、地球の歩き方。
午前8時、ベトナム事務所でバオミン・ベトナム事務所長と
打ち合わせ。ODA申請書の書き方等詳細を話し合う。
午前8時半、建築会社社長・技師を呼んでODA見積もり書の
再提出について打ち合わせ。明朝までに再提出の
見積書を作るよう依頼。ODA建築は三社見積もりが
必要。今日は順次、三社の社長や担当者を呼んで
見積書の再提出の依頼を行った。
午前9時。日本語学校関係者との打ち合わせ。
ミン・フーン・原・松下・中村の各先生。
3月28日(月)P7時から行われる上級コース・レセプションコース
の卒業式の最終打ち合わせ。
卒業する上級コースの生徒が連名で日本語教師に「引き続き
日本語の勉強をしたい。機会を作ってほしい」との要望を行った。
何度かの日本語教師の打ち合わせを経て、最終的に
「会話特別コース」を新たに設定することを決めた。
また、ホテル・レセプションコースの卒業生は省観光局に対し
「卒業後もスキルアップしたいのでJASSの行う
日本語学校で引き続き勉強する機会を作って欲しい」との
嘆願書を提出した。
省観光局から嘆願書の話を聞いて、新たに「レセプション
特別コース」を作るかどうかを話し合う。結論はもう少し
時間をかけて行うこととする。
4月2日に行う「初級コース」「ホテル・レセプションコース」の
入学式の打ち合わせ。
先日、観光局長・次長と打ち合わせをし省観光局が
募集を行った。フエにある200のホテルが企業として
日本語の出来る受付を養成するために学生を派遣する。
今回は18人が応募。第1期生20人が今回卒業する。
こうしてフエのホテルレセプションやレストランに日本語の
出来るスタッフが少しずつ増えていく。私たちの進める
支援は、こうした「人を育てる」支援に特化しつつある。
また、一般の市民を対象とした「初級コース」の応募者は
80人を超えている。一般コースはフエ市人民委員会外務
部長と先日相談し、テレビで募集を行うこととしたが、
テレビ募集の前に多くの市民が応募してきた。
現在80名を超えたので募集を一時ストップした。
4月2日の入学式以降、私たちの日本語学校は
200名近くの学生を擁する、ベトナム中部最大の日本語学校
となる。既に近隣中部各省からも学生が学びに来ている。
午前10時半、高校同級生の佐藤さんとベトナム事務所
で打ち合わせ。佐藤さんは昨日までハノイへ行っていた。
ハノイから16時間のバスの旅を終えてフエへ戻ってきた。
明日は、フリースペースの子どもたちと一緒にナムドン山岳
地帯で少数民族と交流。明後日の日曜日の午後3時から
「子どもの家」で行われる定例の絵画教室で「絵葉書」の
描き方を子どもたちに教えることになっている。
来週の月曜にはベトナム事務所員に絵葉書講習会を行う。
午後、ベトナム事務所でミン・ベトナム事務所と訪日する
フエ市幹部の日本入国ビザの件で話し合う。
4月21日から3日間フエに滞在し、GTS(グローバル・
トレーニング・スクール)を行う近畿青年会議所の
受け入れ準備の打ち合わせ。
ベトナム中央テレビより取材の申し入れ。受諾する。
4月30日のベトナム全土完全解放記念特集番組への
出演。3月28日午前8時に「子どもの家」で取材。
4月30日のベトナム解放記念日を前にした特別番組
の中で海外から来たNGOとして活動と意見を言って
欲しいとのこと。この番組はベトナム全土で放映される。
今日はフエ解放30週記念式典があった。
午後5時からフエ市のサッカー場で行われた。
私たちも招待されたが仕事が多く不参加。
フエ省の各省庁、省立企業、青年団、婦人同盟、
祖国戦線、フエ大学、中央病院、県警などが職場単位
で参加。
会場のサッカー場までは「花車?」を先頭に職場全員で
デモ行進する。「祝トゥアティエンフエ省解放30周年」
「ベトナム共産党は永遠」「ホーチミン主席の教えを守ろう」
「祖国の防衛・安全を守ろう」などのスローガンが書かれている。
●「花車?」を先頭に街頭デモ行進を行う。
フォンザンホテルの隊列
式典はベトナム中央放送で生中継された。
ハノイ中央から国会議長、レカフェ前ベトナム共産党総書記
などが参加。北朝鮮と同じような式典を行う。
1000人ほどの学生が画用紙位の色付きの紙をもち、
ホーチミン主席の顔や共産党の旗、国旗などを
描いてゆく。テレビをみていると、真っ赤な色の国旗のはずが
何箇所にもわたり白が混じっていた。いかにもベトナムらしい
風景である。マスゲームも全員が「ぴたっと揃う」という訳には
ゆかない。大体揃うといったところ。
軍隊の行進、警察の行進から始まり、集会に参加した各企業
団体・組織の人々がオリンピックのように入場行進をする。
数千人の参加者があり、それなりに燃えていたように見えた。
午後8時、フエ解放式典が行われたフエの町の様子を見に行く。
小雨の中、町はオートバイ、自転車で溢れていた。何のために
小雨の中、外に出ているのかは不明。
丁度、その時刻。トンチンカンホテルでは、松下先生が
ベトナム人の先生からベトナム語を習っていた。
3月26日のフエ解放30周年の前日にベトナム語を学ぶ
松下先生であった。
投稿者 koyama : 23:21 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月24日
地球の歩き方ツアー・フリースペース懇談
朝から雨。終日雨となる。
午前10時、地球の歩き方ツアーがナムドン山岳地帯へ行く。
ホテルで見送り。今回は飛行機が2回遅れ、講演会が
出来なかった。今日は挨拶に。今回は女性6人が参加。
ラームさん、ソン君が引率。
午前中はODA支援申請書の書き直し。
午後12時から1時半まで昼寝。
午後もODA申請書の書き直し。途中、午後2時半頃
ベトナム事務所から電話。フリースペースの若者たちが
話をしたいとのこと。急いで雨合羽を着込みベトナム事務所へ。
10人の参加者とベトナム事務所会議室で2時間半にわたり
話し合う。人生、ベトナム、生き方、社会・・・・・・。
午後7時から地球の歩き方ツアーの皆さんと最後の晩餐会。
ラームさんと参加。午後9時まで。
参加者は全員アオザイを作り晩餐会に参加。
日本からのニュースの大半はNHK海外衛星放送からしか
入らない。このところ、NHKのトップニュースは
「ライブドアとフジテレビの争い」を連日報道している。
今日は朝から1日「愛知万博」の特別番組一色に塗られて
しまった。
ライブドアとフジ・サンケイグループとの争いもそれなりに
報道する意味があることは否定しないが、もっと国民が
知らなければならないこと、国民に知らせなければ
ならないことが「報道」されていない。
ライブドアとフジテレビの争いは所詮「資本の論理」を
基調とした資本のぶつかり合いである。
政府与党は「憲法改正」の国民投票法案を国会に提出しようと
している。憲法改正が目の前の日程に上っているという
重要な問題を報道していない。
小泉首相とコクドの堤会長との黒いつながりは全く報道されて
いない。
首相の資金管理団体「東泉会」の機関誌に西武系の
プリンスホテルの広告が掲載され、11年間で
二億四十五万円もの事実上の政治献金をもらっている。
橋本元首相らの日歯連1億円献金問題も報道されない。
社会保障全体が庶民に高負担という形で改編されようと
していることも報道されていない。
NHKの理事が、番組を放送する前に政治家に報告することも
あるとの発言を数日前にしていることも報道されていない。
日本では報道されたことではなく、報道されていないことを
報道するマスコミが必要である。
投稿者 koyama : 22:57 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月23日
服部日本大使と懇談ーODA草の根支援申請 フリースペース「子どもの家」へ泊まる
●3月20日夜10時半、高校同級生とハノイ(ノイバイ空港)で
別れ、空港タクシーで佐藤さんをハノイ市内のホテルへ送り、
更に車で20分ほどにある韓国のホテル「デーウー」へ。
午後11時半着。そのまま眠ってしまう。
●3月21日は日本大使館が休館。(春分の日)。大使館は
土日、日本の祝祭日を全て休み、更にベトナムの祝祭日も
休みだという。うらやましい。
3月21日は何人かの知り合いと懇談。
昼食は「チャーカー」。
●3月22日
大使館で服部大使と懇談。服部大使は、昨年「子どもの家」や
オートバイ研修センターなどを訪問している。
ODA草の根支援で「縫製研修センター」の建設を依頼。感触は
良好だった。
ODA草の根支援の担当者のY氏は郵政公社から派遣されている
方だが、私たちの活動を理解し、様々な面で協力してくれている
心のある方である。縫製研修センターにも好意的な反応であった。
但し、持て行った申請書に一部不備があり、全て持ち帰り
再度作り直すこととなった。ODA草の根支援のお願いは
まあまあと言った所。
夕食は私の大好きな大衆食堂で「コムディア」(大衆食)を
食べる。私が「マムトム」(海老の塩辛)を注文したら
お店の人が目を丸くして驚いていた。外国人がこんな臭い
ものを食べる訳がないと・・・・。
●3月23日
午後12時半、ハノイ発の飛行機でフエへ。トンチンカンホテル
着午後2時半。
直ぐにラームさんと懇談。フエ市長一行の訪日ビザの書類が
未だ出来ていない。4月10日フエを発つのだが、心配である。
3日間分の200数十通のメール受信。必要なメールに返信。
午後8時過ぎ、東京三鷹のフリースペース(子どもたちの居場所)
の子どもたちが泊まっている「子どもの家」へ様子を見に行く。
午後7時から「子どもの家」の子どもたちとフリースペースの
子どもたちと懇談会を開く。
議題は
・両国の現状
・両国の未来をどう考えるか
・自分の将来の生き方
・その他
午後9時からフリースペースの子どもたちと懇談会(午後9時45分まで)
午後10時半過ぎ、「子どもの家」の子どもたちと一緒に就寝
投稿者 koyama : 17:26 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月20日
高校同級生ボランティア支援ツアー最終日
終日雨。
午前10時、ベトナム事務所へ。刺繍作品をたくさん買う。
その足でドンバ市場へお土産を買いにいく。
お奨めお土産を買う。塩、干しえび、するめ、メースン(お菓子)
ベトナム焼酎、ベトナムコーヒー。
午前11時半。チャオバンカンを食べに行く。
チャオバンカンは、キャッサバ芋の粉と米粉をねって作った
手打ちうどん。海老と豚肉でしっかりと出汁(だし)を取り
唐辛子を入れて食べる。皆さん3杯から4杯食べる。
この店はフエの人もあまり知らない店である。
午後1時過ぎ、フエ郊外の山麓にある広大な中国茶店へ。
板敷きの部屋でウーロン茶やベトナム茶(タイグエン茶)、
ベトナムコーヒーを本当に入れ方で飲む。
午後4時、中国茶店を出て、第12代「カイディン皇帝廟」を参観。
私は午後3時半から地球の歩き方ツアー第4班に話をする予定
だったが、地球の歩き方ツアーの到着が遅れ午後8時着となり
講演会は延期となった。
午後6時、フエを出てフエ名物「ブンボーフエ」を食べる。
午後7時、フエ空港着。
午後8時半、6人の同級生と一緒にハノイ便に乗る。
午後10時、ハノイ空港着。空港で五井・與芝・相馬・清水・北田
諸氏と別れ、佐藤さんの泊まるハノイ市内のホテルを経由し
ハノイ郊外のデーウーホテルへ。ホテル着午後11時。
ハノイの日本大使館にODA草の根支援の申請を行うため
ハノイへ来る。
※3月21日~22日の日記はハノイ滞在のため休載。
投稿者 koyama : 18:33 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月19日
高校同級生ー王宮ー海鮮料理ー海ー温泉ー船上夕食会
今日は終日曇り、時々小雨。あいにくの気候。
午前9時半、ベトナム事務所サンさんと一緒に王宮へ。
●アジアホテル前にて
約200年前に建築された「グエン王朝」の王宮。ユネスコから
世界文化遺産に指定されている。王宮前の広場では
3月26日の「フエ解放30周年記念式典」に参加する
軍隊が分列行進の練習をしていた。
●王宮前で
午前10時半、フエ名物「バインベオ」「バインロック」「バインナム」
を食べる。米やキャッサバで出来たお菓子のようなもの。
12年前に作った「チーラン通り子どもの家」の近く
午前12時、フエの海で取れた海産物専門店で昼食。
この店では近くの海で取れた魚、いか、海老、蟹、貝など
生きている海産物をその場で料理してくれる。
午後3時、近くの「トゥアン・アン」海岸へ散歩
あいにくの悪天候で荒波。
午後4時、市内にある「ミーアン温泉」へ。
この温泉は草津と同じ硫黄泉。
午後7時、フエ市内を流れる清流「フオン川」に舟を浮かべ、夕食。
午後9時過ぎ、船上夕食会終了。
その後、午前12時までホテルにて「反省会」
投稿者 koyama : 23:39 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月18日
高校同級生ツアー フエ市「子どもの家」訪問
3月17日午後10時30分、成田発のJAL機はホーチミン空港へ
到着。入管・税関の手続きに1時間。空港の外に出てきたのは
午後11時半。車で「オムニサイゴンホテル」まで。
午前12時から五井君の部屋で簡単な「訪越記念祝賀会」。
皆さん、元気。午前1時まで。
ーーーーーーーーーーーー
3月18日、午前5時起床。午前5時半ホテルを出発。
ホーチミン空港へ。午前7時10分発の飛行機でフエ空港へ。
ホーチミン空港午前6時、ある風景を見て、今日1日の不安な予感が
頭をよぎる。
午前8時半、無事フエ空港着。空港にはラームさんが出迎えに
来てくれていた。
その足でハイバーチュン中・高校へ直行。途中でラームさんから
ベトナム事務所長のミンさんに担当が代わる。
6人のツアー参加者は元気にハイバーチュン中・高校を訪問。
6人全員が高校教師という触れ込みで。
ハイバーチュン中・高校で副校長先生と30分ほど教育論議。
その後、高校3年生のクラスを訪問。交流を行う。
初めに與芝団長が「英語」でツアーの紹介を見事に行う。
高校生から日本についての質問。高校生から
「日本の歌を紹介して欲しい」とのリクエストが出る。
日本人全員で「さくら」を歌う。
お返しに高校は「ホーチミン主席賛歌」を歌う。
午前10時、「子どもの家」を訪問。
「子どもの家」には清水君の里子のグエンさんが待っていた。
清水君は10年近くグエットさんの里親として生活費・通学費等
を支援してくれている。清水君の支援はグエットさんが7歳の
時から現在17歳まで続いている。
「子どもの家」の各施設を案内する。
子どもたちと一緒に昼食を摂る。
午後12時半、ホテルチェックイン。2時間ほど昼寝をする。
午後2時半、オートバイ研修センター・工場視察。
午後3時半、日本語学校参観。
自己紹介後、一人一人がベトナム人学生の中に入り、日本語で
交流。生徒の日本語教育・「聞き取り」の勉強の一助に。
日本語学校参観後、ミン・ベトナム事務所長の案内で
アオザイ作りへ。
午後6時、庶民の大衆食堂で夕食。
アヒルの玉子焼き、もやし炒め、豚肉と海老の塩辛、
トリのから揚げ、するめ焼き、豚肉・牛肉のオーセージ。
ビール49本。お店の主人の話では49本のビールを
飲んだお客は初めてとのこと。
午後9時、大衆食堂での交流会を終わり、「アジア・ホテル」へ帰る。
引き続き、アジアホテルで交流。缶ビール20本、焼酎などを飲む。
今日1日の真摯な反省会の終了は午後11時過ぎ。
長い1日だった。6人の訪問者は元気に1日を終了したようだ。
11時以降の行動は関知していない。
投稿者 koyama : 23:43 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月17日
高校同級生ツアーホーチミン市着
午前中、ODA草の根支援申請書(英文)作成。
支援金内訳明細を作る。(英文)
幸い、ベトナム事務所長のミンさんが英語が得意なので
私の書いた日本語原案を英文に直し、その英文を私が直しと
いう作業を何度も繰り返し、やっと今日午前中完成。
必要な添付資料も全て完成。3月22日午後3時半にハノイの
大使館で服部大使とお会いし、説明後手交。
縫製研修センター(縫製工場)が何とかできることを祈っている。
申請総額940万円。
若林さんが少し体調を崩した。午前中、ホテルへ様子を見に行く。
少しお腹が痛いとのこと。バオミンホテルでお粥と梅干をだして
くれる。昨夜、私が「大人のふりかけ」を持ってゆく。
若林さんも今日の夕方フエをでてホーチミン市経由で明朝成田着。
何とか体調を保って帰国して欲しい。
午後12時、トンチンカンホテル発。午後1時10分フエ発の
飛行機で高校同級生(6人)ツアーの出迎えにホーチミン市へ。
同級生は午後10時20分、ホーチミン市着。
市内のオムニホテル着午後11時。
詳細は明日の日記で。
明日は午前5時半ホテル発。午前時10分ホーチミン発の
飛行機でフエへ。
今日はホテルで5時間ほどの仮眠でフエへ行く予定。
投稿者 koyama : 13:22 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月16日
近畿JCツアー、ODA申請書、日本入国ビザ作成
午前9時、ミンさんと「子どもの家」へ。近畿青年会議所ツアー
の事前最終準備。
センさん・ロックさん・キムアンさんと打ち合わせ。
近畿JC(82人(、「子どもの家」、スタッフなど総計170人分の
食事の打ち合わせ。
●セン委員長・ロック寮長・キムアンさん
・4月22日昼食は「焼ソバ」「ご飯」
170人分の日本風の焼ソバを作るため食材の打ち合わせ。
・4月22日夕食は「焼き肉」「ブンボーフエ」
・4月23日昼食はカレーライス
それぞれの料理に必要な食材を何キロ買うか、必要な
調理用具(鍋、まな板、包丁・・・)の個数などを確認。
「子どもの家」の子どもたちはテレビを見たり、ミシンの
研修をしていた。
午後、ベトナム事務所でミン・ベトナム事務所とODA申請書に
添付する「3社見積り」を細かく分析する。
3月22日、ハノイの日本大使館に提出するODA申請書の
最終チェック。いくつか不具合が見つかった。再度、必要な
資料(写真、地図、設計図、見積書・・・)を総点検することにした。
今回は、ミン・ベトナム事務所長が精力的に動いてくれ
何とか3月19日(3月20日にハノイへ行く)までにODA資料が
出来そうである。
夕方、バオミン・ベトナム事務所長とフエ市長など7人の訪日幹部の
日本入国ビザ取得関連の書類のチェック。
未だにパスポートを作っていない幹部がいることが判明。
3月19日までに私の手に全ての資料が届かないと日本大使館に
届かない。悩みの種である。
昨日もらった薬が少し効いてきたのか体調は少し楽になった。
明日は高校同級生を迎えにホーチミン市へ行く。
到着は午後10時20分。ホテル着は午後11時頃。
明後日は朝5時半にホテルをでて、ホーチミン空港経由フエへ。
投稿者 koyama : 22:13 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月15日
ODA草の根支援申請作業
ランコービーチ列車脱線転覆事故。
今日のテレビ報道によると、交通省と保険会社の話し合いで
事故の死者には「2000ドル」(約21万円)、負傷者には
200ドル(2万1千円)のお見舞金が支給されることになった。
医療費は全額保険から出るとのこと。
ベトナムでは一人の命が20万円なのである。
午前8時半、バオミン・ベトナム事務所とキムロン病院内
障害児医療センターへ。宇都宮縫製工業協同組合から
寄贈された工業用ミシン50台の写真を撮る。
ODA草の根支援申請書添付用。ミシンと台を切り離し倉庫に
保管している。
その足で縫製工場(縫製研修センター)建設予定地である
オートバイ研修センターへ。
設計図作成会社の社長と設計士と落ち合う。
以前依頼しておいた設計図が出来上がった。750㎡ほどの
研修施設である。
「子どもの家」自立の最終段階として重要な施設である。
3月22日のハノイ大使館にもって行き、大使・ODA担当者に
説明する予定である。合わせてフエ市長など7人のベトナム人の
訪日ビザ申請書も持っていく。
午後3時、ベトナム事務所でミン・ベトナム事務所と懇談。
縫製研修センター申請書類の見積書の分析を行う。
午後5時、東京から来た平本さんと1時間ほど話し合う。
その後、平本さん、ラームさんと一緒に夕食を取る。
平本さんは太平観光の長年のお客さんである。
レストランに偶然、若林さんもいたので、一緒に夕食を摂った。
若林さんは、午後7時から「子どもの家」の日本語学校視察の
ため途中で退席。
●平本さんと
今日はまた、体調を崩す、7度5分の発熱。鼻水と喉の痛さ。
これから2週間、休みが取れないので急遽、薬をもらう。
投稿者 koyama : 22:57 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月14日
ベトナム事務所員会議、省観光局・フエ市人民委員会打ち合わせ
今日はハノイから寒風が吹き込み寒い。気温15度。
一昨日は30度近くあった。気候の変動が激しくついていけない。
昨夜から鼻かぜ状態。体力の減退を感ずる。
●ランコービーチ列車脱線事故の負傷者がフエ中央病院に
多数入院している。今日、フエ中央病院へ「被害者」支援の
申し入れをする。現在、ベトナム交通省と保険会社が相談し
被害者の医療費全額支給の打ち合わせをしているとのこと。
退院後の生活支援等が今後の課題なので、その際、
生活困難家庭への支援をお願いしたいとの回答を聞く。
午前8時半、ベトナム事務所員会議。
若林さんも臨時ベトナム事務所員として参加。
議題は3月後半のスタディーツアー受け入れ態勢作り
●3月17日(木)~20日(日) 小山高校同級生ツアー 7人
●3月20日(日)~25日(金) 地球の歩き方第3班 7人
●3月21日(月)~27日(日) フリースペース 15人
●3月27日(日)~30日(水) 上尾市国際交流協会 12人
小山日程
●3月17日(木)~18日(金) ホーチミン市へ
●3月20日(日)~22日(火) ハノイ市へ(大使館 ODA申請)
ベトナム事務所員会議終了後、原さん・中村さんの誕生祝。
原さん(3月15日)、中村さん(3月13日)。
大きなバースデーケーキをプレゼント。
午後3時、トゥアティエンフエ省観光局へ。日本語学校の打ち合わせ。
現在、私たちはトゥアティエンフエ省観光局と協力して、日本語学校で
観光コースを教えている。日本語ガイドコース(2年)、
ホテルレセプションコース・レストランコース(6ヶ月)。
既に2005年2月にレセプション・レストランコースの第1期生が
卒業している。
観光局側からは副局長、日本語担当主任が出席。
JASS側は小山・ミン・フーン日本語学校主任。
日本語学校の観光コース第2期募集について話し合う。
既に観光局は4月開講の観光コース第2期生を募集している。
現在、レセプションコースの応募者15名、レストラン1名。
観光局からは、既に卒業したレセプションコースの卒業生
が更に日本語能力を伸ばしたいの「特別会話」コースを
作って欲しいとの申し入れが多数来ているとのこと。
4月2日午前8時半から第2期入学式を行うこととする。
午後4時半、フエ市人民委員会、ニエン外務部長と懇談。
静岡ーフエ友好都市提携問題。
ODA支援性問題(縫製研修・工場建築)
細々した打ち合わせを1時間ほど行う。
投稿者 koyama : 21:41 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月13日
ランコービーチ列車脱線転覆事件詳報
昨日の列車転覆脱線事故の詳報
昨日のランコー列車脱線事故は日本でも報道され、昨夜から
何人かの方々から事故見舞いなどの問い合わせがあった。
今日は、現時点で分かった列車転覆脱線事故について
何度かにわたって日記を書くこととする。
本来なら午後8時から10時に日記を書いているが・・・・
ベトナム事務所長のバオミンさんの親戚2人と友人4人が
この列車に乗り合わせていた。
以下はこの親戚の証言。
★事故は3月12日午後12時頃発生。
ちょうど車内で昼食を食べ終わった頃、
突然列車が転覆し、ラグーンに落ちたとのこと。
幸い6人はコンパートメント(ベッド付きの部屋)を取っていたので
大事に至らなかったとのこと。
親戚と友人はフエ駅から乗車、ホーチミン市へ行く予定だった
とのこと。事故現場は、フエ駅とダナン駅の間。
★午後1時頃、無事だった親戚の人からミンさんに電話が入り
事故を知る。その後、噂が超特急で走り、午後5時には料理の
フオンさんが私に教えてくれたという経過である。
昨夜のベトナムテレビは、2分間この事故を放送。事故の場面は
ほとんど写さず、鉄道省総裁のインタビューを放送。
総裁は「この場所は地盤がゆるく、列車が通過した時、自然の
力で地盤沈下し事故となった」と話している。
一方、ランコービーチの漁民は「いつもこの場所を列車が
通る時には、相当スピードを落としていた。しかし、今回は
スピードを落とさずに走って脱線転覆した」と話している。
鉄道省総裁は、鉄道に責任はなく、自然災害と主張、
地元漁民の目撃者は「運転手のスピードの出しすぎ」との
目撃談を話している。テレビは両者を報道していた。
昨夜の2分間の放送では、死者13名、負傷者100名以上と
言っていた。
今朝6時50分のベトナムTVのニュースを見る。死者13名、
行方不明(ラグーンに落ちて行方不明)3人、負傷者200名以上
と言っていた。
事故現場はフエ市内からは車で1時間半ほどの静かな内海。
事故は数時間でフエ市内まで伝わった。マスコミの報道は
噂の後追いとなっている。
ミンさんの家族・親戚は、6人が無事だったことを神様・ご先祖様に
感謝する儀式を昨夜おこなったとのこと。
●3月13日・日曜日 午後2時、ベトナムTVの英語放送
トップニュースは、「枯葉剤の国際サミナー」。
アメリカの枯葉剤製造の製薬会社をベトナムの枯葉剤
被害者がアメリカ連邦裁判所に訴えてたが、棄却された、
国家と国民が憤慨しているとの報道。
1967年のラッセル卿法廷、アメリカのベトナム侵略の歴史を
古いフィルムを交えて詳しく報道していた。ベトナム政府の
ベトナム戦争についての対米責任追及の姿勢は、
最近かなり強気となってきた。経済「発展」と発言力は
比例するようである。
それに比べて、わが日本の対米発言力は、経済発展と
ほとんど比例しない形で、常時、対米従属、植民地のような
姿勢である。沖縄国際大の軍用機墜落事件、沖縄での米兵の
犯罪、アメリカ産牛肉の輸入をめぐる外相、農水大臣の
卑屈な発言。イラク戦争開戦の数時間後に世界で最初に
「支持」した我が総理。普通の国などといっている人々の
対米姿勢、対米問題への卑屈な従属姿勢に目を向けるべきである。
もうすぐ、ベトナムはベトナム戦争勝利30周年記念日を迎える。
3月29日ダナン解放、30日フエ解放、4月30日サイゴン解放。
今年は30周年という節目の年である。大々的にベトナム南部解放
を祝う各種行事、キャンペーンが繰り広げられるようだ。
そして、2番目のニュースが、ランコービーチでの列車脱線転覆
事故。過去10年間で最大の列車事故となった。死者14名、
負傷者200名以上。負傷者は私たちも一部支援している
フエ中央病院へ収容され手当てを受けているとのこと。
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今日は朝から冬に戻る。昨日は30度近かったが、
今日は急に寒風が吹きすさみ、雨となった。寒い。17度。
教育評論(1600字)、あとぴナビ(800字)の原稿を書く。
投稿者 koyama : 14:12 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月12日
市場で買い物・料理・食事(「子どもの家」で)
今日3月12日(土)、フエとダナンの県境にあるランコービーチ
の近くでハノイ発(4月11日)ホーチミン市行きの列車が
脱線転覆した。多数の死者が出た模様。
ベトナムはマスコミが「発達」していない。政府や国家権力に
都合の良いニュースしか流さない。
ベトナム社会は「口コミ」社会である。夕方、夕食を作って
くれているフオンさんが、「今日、ランコー海岸で大きな列車事故が
あり100人以上が死んだそうだ」との話をしてくれた。
これではじめて大きな列車脱線事故があったようだということが
分かった。夜のベトナムテレビのニュースで報道はあったようだが
私は時間がなく見なかった。
事故のあったトゥアティエンフエ省フーロック郡は、1998年から
2001年までJICA「開発福祉支援」プロジェクトを実施した
地域であり、数年間、何度も通ったところである。
3月11日(金)の昼頃から地球の歩き方スタディーツアーの
皆さん17人が事故現場に遊びに行っていた。1日違いであった。
ラームさんは、支援者と一緒に明日3月13日にランコー経由で
クアンガイに行く予定だった。
今のところ、ベトナム事務所関係者の被害はないようだ。
列車事故で被害にあった多くの方々に心からお見舞いを申し上げたい。
また、亡くなられた方々のご冥福をお祈りする。
昨日は1日、インンターネットが一切使えなかった。
フエに「反政府運動の在仏仏教指導者」が来ている。
一昨日の夜、地球の歩き方ツアーと晩餐会を摂った
会場で「お説教」をしていた。たくさんの信者とたくさんの
秘密公安警察。噂では会場周辺でたむろしている信者風
の人たちの3分の1は公安警察だとのこと。
今日この仏教指導者はフエ市内の路上に繰り出し「托鉢」
行列をするとのこと。ホーチミン市、ハノイ市と活動して来た。
フエが最後。ベトナム政府はこの難民となった仏教指導者
の訪越を禁止していた。今回はこの仏教団体の世界協会会長
となったため、ベトナム政府も入国を拒否できなかったとのこと。
ホーチミン市、ハノイと相当厳重な監視体制の中で仏教指導者は
活動して来たようだ。今日の路上托鉢を前にして、海外から
フエ市民に送られる反共メールを阻止するため、
インンターネットをストップしたとの噂がもっぱらである。
お陰で私は午後7時から午前4時まで日記を書こうと挑戦したが
駄目だった。 お国柄の一端紹介。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
午前8時、ベトナム事務所で若林優希さんと合流。
「子どもの家」へ。
「子どもの家」では子どもたちと料理のムオイさんが待っている。
6人~7人の子どもたちと一緒に近くの「タイロック市場」へ
買い物へ行く。
タイロック市場まで徒歩5分。
豊富で新鮮な野菜、魚、肉類が山盛り状態。
市場での買い物が終わり、荷物を持って子どもたちと
「子どもの家」へ帰る。
午前9時半、「子どもの家」へ戻る。
午後通学する子どもたちが三々五々台所にやって来て、
昼食の準備をする。若林さんも一緒に。
午前11時過ぎ、昼食。メニューは ご飯、かつおの唐辛子煮、スープ
野菜炒め。
子どもたちは元気に生活していた。
5月には期末試験、6月には中学・高校卒業試験、
7月に大学入試と多くの試練が待ち受けている。
一人一人の子どもたちはこうした試練に打ち勝ち、
前進して行って欲しい。
午後、あとぴナビ(800字)、教育評論(1600字)の
原稿構想を考える。
午後4時半、ドンバ市場までウオーキング。1時間。
今日は気温28度。丁度良い気候。多少暑いが、
チャンティエン橋では、涼しい風が吹いている。
町を行く人々も厚手の「防寒着」から半袖シャツへ。
明日は、久しぶりに休み。このところ仕事が多く
かなり疲れ気味。
投稿者 koyama : 16:45 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月11日
「子どもの家」入所希望者の舟を訪問
午前8時、大学生の塩沢さん、フォスター・プランを
している平木さんと懇談。1時間。ベトナムでの活動、
里親里子の制度など。
午前9時、ベトナム事務所に松下さんが出勤。
大体、体調を回復したようである。若さは回復力を早める。
午前9時、「子どもの家」入所希望の家庭を訪問する。
ベトナム事務所から車で40分。フエ空港の先にある
フオン川の支流に浮かんでいる小舟が自宅。
家族と面会。
父親は30歳、母親は33歳。長男DUY君(10歳)ー入所希望。
長女8歳(学校へは行っていない)、次男(6歳)、三男(3歳)
両親は自宅にもなっている小舟で川の底にある砂を
取るしごと。
舟の中を見させて頂いた。小舟の3分の2は砂取りや砂置き場用の
場所。
奥の3分の1が生活の場。炊事場兼寝室となっている。
●船内
ミンさん、「子どもの家」医師のタムさん、私、両親、DUY君と
話し合い、DUY君が「子どもの家」に入所することとなった。
来週には入所式を行う。
両親は小舟の砂取り用のポンプエンジンと小舟を動かす
エンジンを砂を買う業者から借りている。結局、18立方メートルの
砂を取って業者に持っていくと200円程のお金がもらえる
という生活実態であった。月収4000円~6000円。
家族の食費で消える額である。
ホーチミン市・フエ市・ハノイ市は建築ラッシュである。お金もちは
大きな家やホテル建築費へ大金を投資し、高収入を上げている。
しかし、建築用の砂や砂利を取る船上生活者はきつい労働と
不安定且つ超低収入で生活している。
高層ビル建築ラッシュとDUY君家族の生活の実態は
ある意味で今のベトナムの実態を反映しているように
思えてならない。ドイモイ政策はこうして「貧富の格差」
を異常なまでに拡げ、かたや億万長者が、かたや「その日暮らし」
のベトナム人を大量に生み出している。
これがベトナム社会主義の実態である。
「子どもの家」への入所・支援は、必ずベトナム事務所員が
直接自分の目で見て困窮度、家庭の様子、本人の入所意思など
を確認している。本当に支援の必要な子どもたちへ支援の手が
差し伸べられるようにしたいものである。
投稿者 koyama : 21:24 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月10日
ナムドン山岳少数民族と交流
久しぶりに晴天。暑い。
朝食は松下さんも一緒。完全回復までには至っていない。
今週中はゆっくり休むように言う。
地球の歩き方ツアーのナムドン山岳行き用の冷水。
午前10時前、若林さんを迎えにバオミンホテルへ。
その足でトゥオンホアホテルへ。地球の歩き方ツアーと
合流。バスでナムドン山岳地帯へ。
17人の地球の歩き方、私、ラームさん、ソン君、リー君、
若林さん、中村さん。「子どもの家」の卒業生がこういう
形でJASSの仕事に協力してくれるとは夢にも思って
いなかった。
午前11時半、ナムドンの中心地に到着。
昼食を摂る。
リー君、若林さんも元気に昼食。
午後1時、カトゥー族の村へ到着。
村人全員と思えるほど多くの人々が歓迎してくれる。
地球の歩き方ツアーの皆さんは支援物資をもって村の
集会場へ。
午後5時過ぎ、フエ市内に帰る。
受信メールをチェック。必要なメールを送信。
添乗員の鈴木さんと参加者
自宅着午後10時。
今日は1ヶ月ぶりに暑い日となった。
1日、日本の大学生と付き合ったが、本当に真っ当な
未来を託せる若者であった。「今時の若者は・・・」
などという大人はこうした若者の実態を知るべきである。
私は若者に未来を託せると確信している。
託せないのは、橋本元首相、堤コクド元会長、三菱自動車、
フジ・サンケイグループ、旧態然とした政治家、官僚である。
今日は1日かなり疲れる日程ではあったが、快い疲れで
あった。
中村先生の妹の絵里さん、若林さんなど本当に有能で
未来を託せる若者と出会ったことは大きな収穫であった。
投稿者 koyama : 23:55 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月09日
ODA草の根支援申請書作成。若林さんフエ到着
終日、晴れ。太陽が出て気候温暖。
松下さん、徐々に体調回復。今日は久しぶりで松下さんも
一緒に夕食を摂る。
午前中から午後にかけて「ODA草の根支援申請書」を作成する。
夕方宇都宮縫製工業協同組合の佐藤裕信理事長より電話。
縫製工場建築の件で日本で様々な取り組みをしてくれていた。
深謝。
ODA申請書は英文翻訳をミンさんに、ベトナム語翻訳をサンさんに
依頼する。フーンさんと懇談。
2週間体調を崩し寝ていた。その後、体力が極端に落ちる。
体調回復後、できるだけ歩くようにしている。一種のリハビリ。
午前中、ベトナム事務所を往復40分徒歩。
午後はベトナム事務所からドンバ市場を経由してトンチンカンへ。
徒歩往復1時間。
夕食後、午後7時にトンチンカンホテルを出てフエ空港へ。
高校時代の親友・若林君の娘さんが「子どもの家」へ
やってくる。出迎え。午後7時40分、ホーチミン市からの
プロペラ機が無事到着。その足でバオミン・ベトナム事務所長の
「バオミンホテルへ」、午後8時半。
その後、市内の大衆食堂で一緒に夕食。午後10時帰宅。
16歳から18歳まで3年間同じクラスだった若林君にこんなに
大きな娘さんがいることは、私にとってはどうしても不思議な
出来事である。年月の経過を感じる。なかなか、真面目な
娘さんである。
●フエ空港の無事到着した若林さん
明日はナムドンの山岳少数民族を訪問する。
投稿者 koyama : 23:35 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月08日
「子どもの家」卒業生懇談。中村さん妹フエ訪問
午前9時。ベトナム事務所でフーンさん、原さん、ミンさん
サンさん、私で日本語学校運営について懇談。
内容は3月28日に卒業式を迎える「上級クラス」であるが、
多くの生徒が引き続き日本語の勉強をしたいとの強い要望を
持っている。卒業後も何らかの形で日本語を教えるかどうか相談
する。出来るだけ卒業後も日本語の練習が出来るよう何らか
の形で教えるようにすることで意見が一致。
今夜の上級クラスの授業の際、フーン先生、原先生が
生徒の意向を聞くことにする。
午前9時半。12年前にチーラン通りに作った「子どもの家」に
入所していたTHAI君(27歳)と奥さん(21歳)が
ベトナム事務所にやってきた。現在は3歳の長女と1歳の
長男がいるとのこと。
今日の話は奥さんのお兄さん(30歳)の家庭が貧しく、
子どもたちが学校へ行けないので「子どもの家」へ
入所させて欲しいとのこと。
奥さんのお兄さんは30歳で足が不自由だそうだ。
家族は船上生活。砂を取って生活している。
子どもは10歳の長男(通学していない)、6歳の長女、
4歳の次男、1歳の3男。そして妊娠8ヶ月のお腹の
赤ちゃん。子どもたちは全員学校へは行っていない。
月収は平均4000円~7000円。食べるだけで
終わる収入。今までの数多い体験から、この種の話は
実際に現地に行って状況を自分の目で見て確認することが
第一。ミンベトナム事務所長と相談し、3月11日(金)
午前8時半に船上生活の船の家へ行くことにした。
ベトナム事務所に日本語教師の中村友香先生の妹さんが
やってきた。「子どもの家」などの視察。
無事ベトナムツアーが終わることを願う。
昼食後、1時間ほど昼寝。
体調不良で寝込んでいる松下先生は熱も下がり、平常に戻りつつ
あるようだ。明日からベトナム事務所に出るとの話だったが、
明日は1日寝ているようお願いする。責任感の強い人である。
ゆっくりと休んで欲しい。
午後2時、トゥアティエンフエ省警察本部の外国人担当責任者
の父親(91歳)がなくなる。お葬式に参加。
ベトナム戦争中、北ベトナムのクアンビン省共産党副委員長
だったとのこと。私たち日本人がフエで生活することについて
の公安最高責任者の父親の葬儀。7年前からこの責任者とは
知り合いであった。こうした付き合いも海外ボランティアでは
必要なことである。
今日は「国際婦人デー」。
ベトナムではこの日の意味が忘れられ形骸化している。
庶民は「男性から女性に花を上げる日」となってしまっている。
町中の路上に花屋が店開き。戦争のない平和な時代を
象徴しているのかもしれないが・・・・。
今日は朝から太陽が顔を出していた。暖かな国際婦人デーの
夜の街には多くの市民が散策していた。
地球の歩き方ツアーの皆さんも町に出ていた。
これから、いよいよ夏になっていくようである。
暑くなることを楽しみにしている。
投稿者 koyama : 21:43 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月07日
地球の歩き方「子どもの家」・グエンフエ高校訪問
日本語教師の松下さんが体調を崩す。38度5分の発熱。
朝食が摂れない。料理のフオンさんに頼みおかゆを作ってもらう。
しばらく薬を飲んで部屋で寝ているようにする。
ゆっくりと養生し、体調を回復して欲しい。
今日の松下さんの担当分は私が交代する。
地球の歩き方の午前中「子どもの家」、昼食部分まで。
●午前8時、トゥオンホアンホテルへ
地球の歩き方ツアー参加者へベトナム事務所員の紹介。
●午前8時半、「子どもの家」訪問。
子どもたちの歓迎の歌と踊り
・セン委員長の歓迎の挨拶
歌と踊りの交流の後、私の方で「子どもの家」の各施設を案内。
●午前9時40分、「静岡フエ青年交流会館」でベトナム語入門講座
●午前11時半、地球の歩き方の皆さんと
フエ名物「ブンボーフエ」(米うどん)を食べに行く。
★1時間ほど休憩し、
午後1時45分、グエンフエ高校を訪問。
・グエンフエ高校生徒と交流
午後5時、グエンフエ高校の交流を終わりホテルへ戻る。
今日は朝8時から午後5時までの活動でかなり疲れる。
明日は「国際婦人デー」
投稿者 koyama : 19:21 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月06日
地球の歩き方ツアー(2)フエ着
午前7時起床。NHK日曜討論を聞く。
何となく体調がいまいちなのでしばらく寝ている。
午前10時、5勺のおかゆを作る。
メール受信34通。必要な返信メールを書く。
午後12時半、トンチンカンホテルでラームさん
ソン君、リー君と落ち合い、フエ空港へ。
地球の歩き方スタディーツアー第2組の出迎え。
15人の学生さんと2人の添乗員が無事到着。
●フエ空港で全員の記念写真
●「子どもの家」卒業生のソン君(ベトナム事務所員見習い)
とリー君
●スーツケースを運ぶリー君
●午後3時半から午後5時過ぎまでホテル会議室で講演会
『「子どもの家」設立11年の経験』
ソン君とリー君がビデオなどの準備、2時間の講演会に付き合って
くれた。
●地球の歩き方ツアー参加の学生さん
こうして「子どもの家」の卒業生が「子どもの家」訪問者の
案内などの手伝いが出来るようになったことは本当に
嬉しいことである。12年間、フエで子どもたちと付き合って来た
結果である。時にはうまく子どもたちが育ち、時には子どもたち
が私の手元から去っていった。子育てがうまく行く時とうまく
行かない時がある。うまく行かない時の主な原因は両親か親族
が子どもたちを「金儲け」の手段と考えた時である。
また、子どもたちが未成熟であることもあって、お金や豊かさを
単純に追い求めた結果でもある。子どもたちが豊かさを追い
求めるのは、ある意味で仕方ないことである。子どもたちは
豊かさを求める大人の「犠牲者」でもある。子どもたちに主な
責任はないように思う。
子育てがうまく行かなかった時も諦めずに時間を待つ
必要がある。リー君もそうだが、随分長い間「紆余曲折」が
あった。今回、東京平和産業見習いとして勤めている。
何とか、うまく行くと良い。「子どもの家」から離れていく
子どもたちにも私たちはいつも「門戸」を開いておく必要が
ある。「子どもの家」は子どもたちがいつでも駆け込める
家庭である。
ミンさん、サンさんは、全国大学生協スタディーツアーと
一緒に農村のホームステー。
投稿者 koyama : 22:27 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月05日
ODA援助申請書ー友人の娘さんの結婚式
午前中は、ODA草の根支援の申請書を書いた。
縫製研修センター建築のための費用支援。
午後3時半、ラームさんと一緒に友人のボイチャンさんの
娘さんの結婚式に参加。フエ郊外の広大な敷地での
結婚式。弦楽奏団が入り、300人ほどの参加で盛大な
結婚披露宴となった。
ただ、雨の中、気温15度と寒い中での結婚式であり
私は寒さに負けた。
●新郎新婦(新郎は在米ベトナム人)
投稿者 koyama : 20:54 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月04日
「子どもの家」Tさん退所式ー日本語学校「節句の行事」
終日 雨。今日は特に寒い。15度。
午前8時、大学生協ツアーの皆さんにベトナム事務所員を
紹介。
●ベトナム事務所員紹介を聞く 大学生協ツアーの皆さん
午前9時、「子どもの家」でTさん(19歳)と話し合う。
今日はTさんの今後の人生を話し合う予定だったが、
Tさんの方では「退所」したいとの強い希望があり
最終的に退所式ということになった。
亡くなった母親の弟の妻という人がTさんと一緒に「子どもの家」
へ来ていた。
Tさん、義理のおばさん、セン委員長、ロック寮長、小山、ミン
はじめにセン委員長から話があった。
・Tさんは10年間「子どもの家」でお世話になった。Tさんの
人生の半分は「子どもの家」で過ごしたことになる。
・観光学校入学のため現在、叔父さんの家に行っている。
本人の強い希望があれば退所ということになる。
・10年間、JASSや日本の支援者のお陰でここまで大きく
なることが出来た。日本人への恩を忘れないように。感謝
の気持ちを忘れないように。
続いて、小山とTさんのやりとり
(小山)Tさんはこれから何をしたいの?
(Tさん)観光学校の受験をしたい。
(小山)「子どもの家」にはいたいの?
(Tさん)直ぐに退所したい。
(小山)おばさんはTさんを受け入れることは出来るの?
(おばさん)できる。
(小山)どうして今までTさんを自分で育てなかったのか?
急に今になって自分で育てたいという理由は?
(おばさん)育てたくなったから・・・・。
早く退所させて欲しい。
(小山)海外に行くという噂もはるが・・・
(Tさん、おばさん)フエにいる。
こんなやり取りの後、急遽退所式となった。
ロックさんが退所の書類を作り、即席の退所式を行う。
Tさんのお父さんは1980年代に「ボートピープル」でアメリカへ
渡った。フエに筋ジストロヒーで目も見えないTさんのお母さんと
小さなTさんを置いて。お父さんはアメリカで別の女性と結婚し
子どももできていた。Tさんは、目の見えないお母さんの手を
引いてフエの町を物乞いしながら歩いていた。病気の母親は
このままではTさんの人生が駄目になると言って、「子どもの家」
へ子どものTさんを連れてきた。「子どもの家」が出来た当初に
入所した子どもの一人である。2年前、Tさんの母親が亡くなる。
それまで、Tさん母娘に連絡すらしてこなかった父親が、母親死亡
の情報を聞いて、Tさんに毎月200ドルの生活費を仕送りするよう
になった。Tさんと母親の弟の妻は、「子どもの家」には200ドル
の話をしないまま今日に至った。昨年、Tさんは突然「子どもの家
ではうるさくて観光学校入試の勉強が出来ない。母親の弟の家で
勉強したい」と言って、「子どもの家」を出て行ってしまった。
今年のテト正月に父親はフエに一時帰国し、Tさんと一緒に母親の
弟の家で過ごした。その時に父親から大金をもらったようで、
Tさんはオートバイや高価な洋服を買い込み、時々、「子どもの家」
へ遊びにやって来た。
Tさんの叔父さんの家の直ぐそばに「子どもの家」のスタッフが
二人住んでいる。この二人の話では、Tさんや叔父さんは、近所
の人たちに「6月にTさんはアメリカに渡る」「Tさんが父親の
子どもであるとの証明が難しいので、アメリカ国籍のベトナム青年
と偽装結婚し、Tさんはアメリカに渡る」とのことだった。
そのためには、急いで偽装結婚の書類を作らなければならない。
現在、Tさんは「子どもの家」に戸籍・住民票があり、「子どもの家」
の許可がなければ戸籍や住民票を動かすことが出来ない。
そこで、今回、Tさんと叔父さん・おばさん・父親はTさんを
「子どもの家」から退所させ、戸籍を叔父さんの家に移し、
急いで訪米関係の書類を作ろうとしているという話であった。
そう言われれば、この10年間、Tさんに全く興味を示さなかった
叔父さん・おばさんなどが、急にTさんに興味を示し、自分で
Tさんを引き受けるなどと言い出したことと二人の「子どもの家」
スタッフの言い分は符合する。
結局、色々な人の話を総合するとTさんの叔父さん・おばさんは
Tさんが訪米することにより、自分の所にアメリカからお金が
贈られてくるということを期待しているようだ。
お父さんはTさんが大きくなったことで、アメリカに呼び、家事を
させたいという気持ちがあるようだ。
私は、今日、Tさんと訪米の話をするつもりだった。しかし、
Tさんとおばさんは、端(はな)から、叔父さんの家で
面倒みるの一点張りであった。
Tさんがアメリカへ行くことで「夢と希望、豊かさ」が実現する
との幻想を抱いていることは十分理解できる。
しかし、Tさんの訪米は、Tさんの夢が実現する可能性があるという
プラス面と義母、義兄弟との同居、異文化、英語が出来ないなど
多くのマイナス面もあることを伝えたかったのだが・・・。
結局、かなり強引にTさんとおばさんは、「子どもの家」を
退所して行ってしまった。私としては、10年間のTさんの
「子どもの家」での生活などを思い出し、心痛むものがあった。
Tさんの母親が亡くなった時もお金がなく、私たちが葬式の
費用をだしたのである。今になって急に叔父さん・おばさん・
お父さんがTさんの面倒を見たいなどという裏にある「異臭」
を感じてならない。しかし、叔父さん・おばさんという親戚が
引き取りたい、19歳になった本人がどうしても退所したい
と言われれば、どうしようもない。
Tさんの幸せな将来を願うだけである。お金と「豊かさという幻想」
は人間を大きく変質させてしまうようで怖いものを感じた。
同時に支援というものについて考えさせられる出来事であった。
物を与える支援は、時には人間を駄目にする可能性を持っている
と言うことを、支援者は十分知るべきである。善意の支援が
却って仇になることも頭の隅に入れておくことが必要である。
その後、昨年高校受験の失敗した3人の子どもたちと現在、
ミシンの研修をしている子どもの4人を呼び、セン委員長、
私で「自分の将来の展望・希望」を聞いてみた。
それぞれの子どもたちに合った自立の道を一緒に考える
一つの手がかりになった。子どもたちもこうした話し合いを
通して、「自分とは?」「自分が本当にしたいことは?」
と言った『人生』を深く考えるきっかけになってくれれば良い。
午後、ハノイの日本大使館に電話。ODA援助について話し合う。
急いで資料を作り送るよう言われる。夕方まで縫製工場支援の
ODA関連の概要説明の文書を作る。この一両日で完成の予定。
午後7時過ぎ、「静岡フエ青年交流会館」付属日本語学校で
「2月3月の行事紹介」の授業が行われる。
日本語学校の先生方が協力して準備。3月3日の「桃の節句」
2月3日の「節分」の行事を日本語学校の学生に教える。
教室には3年前に静岡市から送られた「雛人形」を飾る。
●手作りの雛飾り
●おしるこを振舞う原先生・松下先生
●ひな祭りの行事を説明する中村先生
●サン先生・フーン先生
●おしるこを食べる学生
投稿者 koyama : 23:25 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月03日
全国大学生協ツアー(7人)フエ到着
終日 雨。
午前中、フエ市長など7人のフエ省・フエ市幹部の
静岡市訪問関連の書類を作る。5種類。
午後3時過ぎ、ラームさん、リー君と一緒にフエ空港へ。
全国大学生協連合会ツアーの出迎え。
当初、午後1時10分着だったが、突然、午後4時20分に
時刻が変更された。飛行場でしばらく待つが飛行機がこない。
30分ほど遅れてホーチミン市からの飛行機が到着。
7人の学生さん(北海道、四国、関西・・・)が到着。
リー君はトンチンカンホテルで東京平和産業の手伝い。
トンチンカンホテルで出たペットボトルを業者に売る手伝いをしていた。
リー君は午後、私、ラームさんと一緒にフエ空港へ。
トンチンカンホテル前で出迎えの車に乗る
生協ツアーをフオンホアンホテルまで送り、ツアーの皆さんの
スーツケースを部屋まで運ぶ。
3月1日から下宿を借りる。昨夜は、午後5時半に夕食を食べ、
午後6時過ぎに寝たそうだ。今朝は午前7時起床。13時間寝る。
3月1日以前は、シクロ(自転車)の中で寝ていたのであまり熟睡を
出来なかったようだ。トンチンカンホテル近くの大衆食堂と契約し
リー君が行くと3食食事が出来るように手配してある。
京滋YOUの会の水本さんがベトナム事務所に預けて行った
自転車をお借りし、リー君は通勤している。
日本は3月3日のひな祭り。NHKテレビでは繰り返し、佐藤ハチロー
の「うれしいひなまつり」を放送していた。聞くとはなしに聞いていた
が、2番の歌詞はおかしい。
「お内裏様とお雛様・・・」とあるが、これは「お内裏様とお姫様」と
言うべきである。お雛様には、お内裏様とお姫様が含まれる。
どうでも良いことではあるが、気になった。
作詞時の佐藤ハチロー大先生は、『身辺お忙しい』時だったので
あろう。(佐藤愛子 「血脈」に詳細あり)
と言ってもわが母校東京都豊島区立文成小学校の校歌の作詞は
佐藤ハチロー先生である。
コクド・西武グループの堤元会長が逮捕された。
インサイダー取引、有価証券虚偽報告等の容疑。
JOCの会長や財界関係者などの談話は「立派な方だったのに」と
堤容疑者を厳しく批判する「お偉いさん」はいなかった。
NHKなども堤容疑者とは言わず「堤元会長」である。
日本の支配層は仲間には甘甘(アマアマ)の体質を持っている。
この3週間ほど体調が悪く、日記を書いたり、物事をしっかりと
考えたりする精神的な余裕がなかった。
体調不良の中一番興味のあったことは「ライブドアーとフジ・サンケイ
グループ」の争いである。
フジテレビの日枝会長を見ていると、読売のナベツネなどと
同じ臭いを感じる。
ライブドアーとフジ・サンケイの争いは、古い日本資本主義と
新参・新興日本資本主義の争いであるように思えた。
堤、ナベツネ、三菱自動車、多くの銀行の不祥事は旧態然とした
日本資本主義の腐朽の結果である。戦前の日本資本主義は
天皇制という絶対主義と妥協し、歪んだ資本主義であった。
戦後の日本資本主義は対米従属というやはり歪な資本主義で
ある。日本資本主義はある意味では本来の資本主義ではない。
ライブドアーのニッポン放送の株取引にあたり、
旧態然とした日本資本主義の中心にある独占的資本家
は、よってたかってライブドアーへの批判を繰り返し、排他的、独占的
な姿勢をあらわにした。
ニッポン放送に至っては労働組合もない企業である。
今日のニュースでは、『ライブドア排除』を社員一同で決議したそうで
ある。労使一体もここまでくると批判する気もなくなる。
今回のライブドアーのニッポン放送の株取引は、通常の資本主義の
理論で行けば、何も大きな問題はないはずである。
「投資家が株を買い、たくさんの株を持っている株主が、
その会社の運営権を握る」と言うのは、資本主義の
常道である。多くの独占資本家は、ライブドアーに対して、公正な
市場が成り立たなくなるとの批判を繰り返していたが、そのことばは
堤に言うべきである。堤容疑者の犯罪は、正に日本の資本主義市場
の公正さを根本から覆す犯罪であった。しかし、お仲間の特権的
独占資本はあろうことか、ライブドアーの堀江氏への批判は強烈で
あっても、資本主義の根本を覆した堤容疑者の犯罪には長年目
をつぶり、批判もしないという、腐敗し、いびつな「互助会資本家」
であった。政治家も官僚もし独占資本家も堤容疑者の犯罪を長年
容認していたのである。
日本社会の腐敗を象徴しているようである。子どもたちや社会の
道徳喪失を言う前に、日本の支配層である独占資本そのものが
腐朽・腐敗している現実を直視すべきだある。
はた目でみていると、特権的で甘い汁を吸っている独占資本家が
新興資本家の参入に激怒し、感情的に排除するという図式に
見えてくる。旧守派資本主義の「ギルド的」権力独占姿勢も問題だが、
堀江氏の主張する新興資本主義もまた、本質的には旧態然組と
同一のものであることも理解しなければならない。
フジ・サンケイも堀江氏も「全てが金」の人間であることだけは
はっきりしている。資本とお金で人間を支配する人々であること、
彼らに未来を託すことは出来ないことを自覚しなければならない。
投稿者 koyama : 21:10 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月02日
支援希望者宅訪問
終日雨。寒い。
26通のメール受信。9通のメール送信。
2005年度の「ボランティア貯金申請書」を作成し、
渡辺さん、山西さんに送る。
午前9時、フエ市人民委員会外務部長のニエン氏、
バオミン・ベトナム事務所長と一緒に支援希望者の家庭訪問。
フエ市内から車で30分ほどの純農村地帯。
外務部長のニエン氏が中学校時代を過ごした場所。
支援希望者はニエン氏の中学校時代の同級生の知り合い。
10日前に母親(43歳)がガンで死亡。父親(52歳)は
生まれた時から右足首以下が欠損していた。
障害を持っている父親は、家で10頭(5頭は借り物)の
牛を育てて売却し収入を得ている。平均1ヶ月30万ドン(2000円)。
家族は4人の女の子と父親。
長女は大学で勉強。次女は15歳(中4)、三女・四女は双子で
13歳(中2)。
月収2000円では、3人の中学生の子どもたちを通学させることは
出来ない。長女は奨学金をもらっていたが、今年はどうなるか未定。
父親は5頭の牛を持ち、5頭の牛を借りて2年間かけて育てている。
1時間ほど、家族と話し合う。近くの人もやって来て話に加わる。
最終的に双子の中学2年生の二人に奨学金を支給することとした。
久しぶりに中学時代の同級生に会ったニエン外務部長
ニエン氏はベトナム戦争中は解放戦線側、友人は
南ベトナム軍。ベトナム戦争中は相対してた2人である。
中学の同級生で解放戦線に入ったのは、ニエン氏一人だそうだ。
双子の姉妹は成績優秀賞をもらっている。
こうして私たちが支援することで「勉学の機会」が出来、
努力するチャンスを得たことは大事なことだと思う。
二人が今後、努力して成長してくれることを祈るばかりである。
私たちの支援は、「人間を育てる支援」に特化したいものである。
支援することを目的とした支援はしたくないし、間違っている。
支援は手段である。支援の目的は子どもたちの成長、人を
育てることである。
トンチンカンホテルの入口の鍵が盗まれる。
鍵は壊すものであり、盗むものではないと思っていたが、
鍵だけを盗む人がいたのである。何を狙ったものなのか?
投稿者 koyama : 21:23 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月01日
設計会社打ち合わせ
終日、雨模様。寒い。
午前8時15分、ミンさんと一緒に「子どもの家」へ。
「子どもの家」で設計会社の社長・技師さんと会い、
オートバイ研修センターの空き地に建てる「縫製工場」の
設計図作成を依頼する。「子どもの家」では概略を説明。
その後、オートバイ研修センターに行き、現場の計測などをし
明日までに設計図の第1次案を作る予定。今週中に
ODA草の根援助の申請書を作り上げ(英文)、3月中に
ハノイの日本大使館へ提出するつもりである。
今日依頼した設計図をもとに「三社見積り」を取らなければ
ならない。ODA申請書に三社見積り、その他の資料を添付し
ハノイまで持って行かなければならない。かなり大変な作業。
午後、元「子どもの家」のリー君がラームさんと一緒にトンチンカン
ホテルへやってくる。
今日3月1日からリー君を東京平和産業の警備員・雑役として採用。
午前中、ラームさんとフールー小学校の近くに下宿を見つける。
トンチンカンホテル近くの大衆食堂のおばさんと、リー君が行ったら
三食提供すること契約する。
これからリー君は東京平和産業の前で自転車オートバイの整理、
スタディーツアー等の大人数の来訪者の空港出迎え、荷物の運搬
などを行うことになった。今日は早速、私のオートバイを修理屋さん
に持って行く。
午後、静岡市へ訪問するフエ市長などの訪日ビザ取得の資料作り。
午後4時、日本事務所の田中さんがベトナム事務所訪問。しばらく
懇談。