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2014年08月28日
高校クラス会兼「JASS20周年式典参加」反省会
午後1時半。池袋へ。
池袋のいつものビヤホールへ結集。
8月2日、フエ市役所で行われた「JASS・子どもの家創立20周年
式典」に参加した高校同級生を中心に反省会を行う。
夕方まで色々な話をする。解散。
有志で引き続き、反省を深める。痛飲。
2014年08月26日
中野亜里先生と懇談
小雨
午後、我が家の裏にある大東文化大学付近の
喫茶店に手、大東文化大中野教授と懇談。
2014年08月25日
自宅で休息
バオミンさん、富岡先生と連絡を取り合う。
自宅関連の仕事
2014年08月24日
ハノイ→成田着
晴れ
午前7時35分、成田空港着。
自宅着昼前。
疲れる。
2014年08月23日
フエ→ハノイ→成田
午後2時、宿舎を出て、フエ空港へ。
午後3時半、フエ空港→ハノイ空港(4時50分)
ダナン→成田、フエ→ホーチミン市→成田
の飛行機を予約してあった。ベトナム事務所内の
諸事情があって、予約された飛行機が満杯と
なってしまい、最悪のコースである「フエ→ハノイ→成田」
の飛行機となってしまった。
午後4時50分、ハノイ空港着。
ハノイ→成田便は、翌日(24日)00:10発。
ハノイ空港で7時間待たなければならない。
ハノイ空港で成田空港行きのチェックインをするが、
時間が早すぎると言われ、チェックインさせてくれない。
何人かのスタッフに話し、やっと空港内の待合室に
いれてもらう。
2014年08月22日
大極さん親子ベトナム事務所で治療:フエ市人民委員会会議
快晴
午前5時起床。
午前7時朝食。
午前8時半、ベトナム事務所へ。
ベトナム事務所では、大極さん親子が
ベトナム事務所員に対する鍼灸治療をしてくれていた。
午前11時半、昼食。
ラーメン風の麺類。
食後しばらく昼寝。
明日の帰国の荷物整理。
午後3時半、電動バイクで「フエ市文化会館」へ。
文化会館は、「フエ静岡青年交流会館」の隣り。
フエ市文化会館と静岡文化会館との「境はどこなのか?」
の論争が続いている。
フエ文化会館側は、徐々に徐々に「静岡会館」の土地に
「侵略」してきている。
こうした異常事態を打開するために私から提起し、
フエ市長の主催で、フエ市文化会館とフエ静岡青年
交流会館の堺はどこか?の論争・検討を行う。
きょうのようなJASSと静岡会館の最大の緊急事態の
日にバオミンさんが、青少年教育の会の案内のため
ホーチミン市へ。大事なフエ市長・フエ市文化会館館長、
地元人民委員会代表、フエ市人民委員会文化部長
など20人近くのベトナム人の会議に通訳のバオミンさん
なしで参加するというのは、JASSとしては「最悪」の
事態である。JASSと静岡青年交流会館の未来を
最終決定する最大に重要な会議に青少年教育の会
の案内でホーチミンに行っているのは残念な運命である。
フエ市文化会館側は、静岡会館の土地も自分たちの
ものだ、と主張。
私は、この問題は、「外交と政治の問題」と主張。
20人の関係者が参加。それぞれ意見を言う。
最終的には、フエ市文化会館と静岡青年会館の
間に「境界の塀のようなもの」を作るべきだとの
意見が多数を占める。
フエ市文化会館館長は、最後まで抵抗するが、
参加者の大勢的な意見は、間に「境界が必要」
とのもの。
1時間程の討論。フエ市長は非常に民主的な
運営を行った。参加者の意見を十分発言させ、
最終的にフエ市人民委員会としての意見を
述べる。「両者の間に境界は必要」「ニエンさん
など3人に委嘱し、境界線試案』を作るように、
とのことで会議は終わる。
会議終了後、実際に境界に行き、実情を
視察する。
私はこの「境界線問題は、外交問題であり、政治問題だ」
この点を理解しないで、技術的な論議をしても意味がない。
現在の東アジア情勢を考えれば、日本とベトナムとの友好・
提携は形式的なものではない。日本側の善意と意向を
無視して静岡青年会館の土地を「侵略するのはベトナムの
隣の大国と同じ態度だ」とフエ市文化会館を批判。
午後5時半、会議視察は終了。
その足でベトナム事務所へ。
しばらくすると日本料理店へ大極さん親子が
来店。一緒に夕食。フエでの鍼灸治療に感謝。
今日は12人の来客。午後9時半閉店。
明日、私は日本へ帰国。色々と仕事が入り、
帰国の準備が何も出来ていない。
2014年08月21日
「子どもの家」へ:青少年教育の会最後の晩餐会
午前中快晴。午後雨。
午前5時起床。広島で大きな地すべりあり。
多数の死者。哀悼。
午前7時朝食。
「フォー・ボー」(牛肉米麺)
午前中、当面のいくつかの課題・問題について、意見と
方針を考える。
この2週間ほどで3つの「時代小説」を読む。
江戸時代の江戸下町の庶民を中心とした
時代の匂いが良く分かる。
『その夜の雪」(北原亜以子著:新潮文庫)
『傷』(北原亜以子著:新潮文庫)
『再会』(北原亜以子著:新潮文庫)
午前11時半、昼食。
「イカの煮物」「野菜」・・・・
食べきれない。
食後、1時間程昼寝。
「子どもの家」へ。青少年教育の会の加藤さんと懇談。
「子どもの家」では、フエ師範大学化学科を卒業し
中高の化学の先生の職を待っているTHUYさんが
「子どもの家」の子どもたちに化学を教えていた。
午後6時半、青少年教育の会の皆さんと夕食会。
日本料理店で。
グエット接客主任が、「今日のメニュー」を日本語で
紹介。
私は肉を食べる気力がないので、「おつまみ」に
徹した食事を前もって作ってもらっていた。
おくらのワサビ和えは、美味しい。
9人の青少年の教育の会の皆さんは
日本料理店の夕食を堪能。
今日は参加者の中で2人の生徒さんが、誕生日。
即席の誕生会を行う。
最後に参加者一人ひとりが、ツアー参加の
感想を述べる。
午後9時過ぎ、フエでの最終日の夕食会を
終わる。
明日は、午前6時に朝食を摂り、午前6時半に
ホテルを出て、ホーチミン市へ行く。
バオミンさんが引率。
ホーチミンでは、クーチトンネル参観。
夜中にホーチミンを出て、明後日成田へ。
2014年08月20日
フエ市長と懇談:「子どもの家」退所式
午前中、快晴。午後雨。
午後は、少し涼しくなる。
午前6時起床。
午前7時朝食。
「肉団子入りチャオ・バイン・カイン」(小麦粉・キャッサバ麺)
午前9時半、フエ市人民委員会でTHANH(タイン)市長
と懇談。ニエン前外務部長・ホアン現外務部長・バオミンさん
フエ市人民委員会副総務部長などが参加。
フエ市人民委員会概観
いくつかの重要問題について協議
全ての問題で合意に達する
午前10時、フエ市人民委員会から「子どもの家」へ。
今日は3人の子どもたちが「子どもの家」を退所する。
(1)TUAN(トアン)君 15歳
「子どもの家」退所承諾書にサイン
セン委員長も退所に同意する文書にサイン
父親が盲人。フエ市郊外のフーロック郡の高校に
合格し、自宅から通うことになり、退所。
56歳の父、53歳の母。
7人の兄弟がいる。
25歳(女)・23歳(女)・20歳(女)→無職
18歳(女)高校3年生
15歳(男)→本人(9月から高校1年生)
12歳(女)→中1(「子どもの家」に在籍)
10歳(男)
7人のお子さんがいる。ご夫妻で農業を営み、
生活しているが、父親が盲人のために
なかなか仕事がうまく進まない。
(2)チャムさん
フエ郊外の県立高校に合格。自宅のそばの高校なので
自宅へ帰る。
退所に同意する母親
JASS東京の会・「京滋YOUの会」の会員である
秋○さんが、「子どもの家」に来て椅子や机、箱などを
手作りで作ってくれている。
秋○さんが作ってくれた手作り箱を大事に
家まで持ち帰って行った。
午前11時過ぎ、宿舎へ帰る。
昼食。「海老・豚肉いりブン麺」
食後、疲れが出たのでしばらく横になる。
8月・9月日程を調整する。
午後5時半、雨の中徒歩で日本料理店へ。
午後9時半閉店。6人の来客あり。
2014年08月19日
午前中フエ中央病院へ:午後バオミンさんと打ち合わせ
快晴
40度近い。
午前中、「断水」。トイレの水が流れない。
午前7時朝食。
「豚肉・肉団子入りブン麺」
午前8時、ソン君が宿舎へ迎えに来てくれる。
最近ベトナムは「滞在ビザ」の制度が根本的に
変わり、3ヶ月毎のビザ更新時にベトナム中部では
「フエ中央病院」で総合的健康診断を受けなければ
ならなくなった。
今日は、ソン君の案内でフエ中央病院へ。
受付で健康診断料を聞く。「200ドル(2万円強)」とのこと。
200ドルは、ベトナムでは、公務員のほぼ月給に当たる。
異常に高い。外国人には、こうした暴利をむさぼるかのような
値段をつける。日本の値段にしたら「20万円」程度に当たる。
ソン君と話し合い、あまりにも健康診断料が高いので
一度ベトナム事務所へ帰る。
ベトナムは、外国人NGOの管理の形態が変わった。
以前はハノイ外務省の下部組織「パッコム」が管理していた。
数年前に「パッコム」から外部大臣が直接海外NGOの
管理責任者に変わった。
「パッコム時代」は、毎年、フエでのJASSの活動報告
、財政報告などを出せば、終わっていた。
数年前から海外NGOの管理が外務大臣直属となった。
強い政治的な意図が窺える。
今回、海外NGOのベトナム滞在ビザ方式が
根本的に変わった。
(第1)海外NGOは専門職。大学卒業の資格が
ない人は海外NGOとは認めない。
(第2)日本での専門職としての経歴証明書が必要。
(例)教員であれば、どこどこ小学校にいつからいつ
まで勤務したという証明書を提出。
(第3)日本で犯罪を起こしていない証明書。
上記1、2、3の3つの証明書を「公証役場」で
認証してもらい、その証明書を在日ベトナム大使館で
翻訳が正しいかを更に認証してもらう。
その後、ベトナムでの健康診断。(2日間の検診。2万円)
北部は、「バイックマー病院」「中部はフエ中央病院」
南部は「チョウライ病院」で総合的な健康診断を受ける。
(今日、私が行動したのは、この病院での健康診断)
その後、フエ省(県)の司法局で上記3つの書類が
正しいかを確認。
更にフエ省(県)の労働局が上記3つの書類を確認。
それらの作業が全て終わって、初めて3ヶ月の
NGO活動の許可がでる、というシステムになった。
馬鹿馬鹿しいシステムではある。
こんなことまでしてベトナムでのボランティア・NGO
活動をする気力はなくなる。
まるで「犯罪者」を扱うようなシステムである。
ハノイの外務省は何を考えているのだろうか?
社会主義の官僚主義の最たるものではある。
既にソ連や東欧で失敗した方策をベトナムで踏襲している
のではあるが・・・・。いつまでこんな馬鹿馬鹿しい
方策が続くのか?
ベトナムで活動している多くのNGOが撤退・帰国している。
フエでは、フランスと越僑のNGOが全て撤退してしまった。
撤退したフランスの行っていた「子どもの家」の子どもたちは、
JASSの「子どもの家」で受け入れている。
ベトナムで活動している外国人は、工場経営など
「金儲け」を目指している外国人だけとなりつつある。
真面目な海外NGOは次から次へと撤退し、帰国している。
ベトナム共産党・政府とベトナム外務省が何を考えている
のかは想像できる。政治的、自己保身のみが目的と
思う。貧しい子どもたち・家庭、困難を抱えている
ベトナム国民に寄り添っていない現実がある。
「ニせ社会主義」ともいえるし、そもそも「社会主義」の
本質はこんなものだとも言える。悲しい現実である。
上記の経過があり、2万円(日本の価値では20万円)の
健康診断料に疑義を感じ、帰宅。
午前11時半、昼食、
「魚いりのおじや」
1時間程昼寝をする。
午後3時まで宿舎で仕事。
午後3時、ベトナム事務所へ。
バオミンさん・富岡先生と8月・9月の
日程について打ち合わせ。
日本語学校の運営について打ち合わせ。
午後5時過ぎ、徒歩で宿舎へ。
2014年08月18日
大極さん来訪:「子どもの家」退所式
快晴 猛暑。
午前5時半起床。
午前7時朝食。
「フォー・ガー(鶏肉米麺)
午前8時過ぎ、針灸の大極さん親子がベトナム事務所
来訪
これから約1週間、「子どもの家」の子どもたち、スタッフ、
ベトナム事務所スタッフ、各地の障害児などへの
施術を行ってくれる。
大極親子に挨拶するソン君
午前11時半、昼食。
「肉団子入り小麦粉うどん」
午後3時、「子どもの家」へ。
3人の正式退所式を行う。
「子どもの家」にある戸籍を親などの戸籍に公式に
移す書類に親がサインをする。
(1)BAさん
2004年 に14歳で入所。現在24歳。
フエ看護専門学校を卒業。看護師の資格を取る。
現在、看護師の職場を見つけながら、当面、
レストランで仕事をしている。
月給は、250万ドン(日本円12500円)。
父親(農業:55歳)。複雑な家庭の事情あり。
(2)ホア君
2005年入所 現在23歳
14歳から23歳の今まで「子どもの家」に在籍。
フエ科学大学地質学部卒業。
現在、民間建築会社で助手ををしている。
給料250万ドン(12500円)
フーバイ空港付近の農村で母親と同居するとのこと。
ホア君の入所時には弟2人の3人で入所した。
現在弟は フエ高等技術専門学校在籍
3男は高校1年生。
母親は農業。
母親のことば。
長男が自立したので、家族4人で一緒に生活したい、
とのこと。
(3)フオンさん
11年前に入所。15歳の時。現在26歳。
フエ医科大学を卒業し、フエ医科大学助手。
8月末に韓国政府の奨学金でソウル大学医学
大学院に2年間留学する。
2年後には、フエ医科大学の公式助手→助教授のコース
に入るとのこと。歯学学科。
午後5時前、「子どもの家」を退去し、タクシーで
日本料理店経由宿舎へ。
父親はシクロの運転手をしていたが、急死。
母親はどこかえ行ってしまった。
両親がいなくなり、フオンさん、次女のホンニーさん
長男の3人が2003年に入所した。
同時に入所した弟は、フエ農業大学。
妹のホンニさんは、フエ医科大学(「子どもの家」在籍)
午後5時過ぎ、退所式を終え、「子どもの家」から退出
しようとした時、突然「変なおじさん」ことと『リー君』登場。
何故、私が「子どもの家」にるのかを知ったのか?
訳のわからない独特な「臭覚」と「情報網」を持っている
ようだ。
バオミンさんと日本料理店経由で宿舎へ。
午後6時、宿舎から徒歩で日本料理店へ。
午後6時過ぎ、笠井先生と日本料理店の
子どもたちとのお別れ会。
笠井先生は、明日の飛行機で日本へ帰国。
日本料理店の子どもたちの写真などを
網羅した色紙を贈呈する。
笠井先生の3週間のサポートに心から
感謝したい。「言うは易し、行うは難し」。
笠井先生は、3週間、日本料理店に来て実際に
日本料理店のサポートをしてくれた。
日本と違った環境である。
日本料理店の子どもたちとの認識の違いもある。
(これは、歴史と風土の違いでもある)
そうした違いを超えて、3週間日本料理店を支援して
くれた功績は大きい。
笠井先生(奥井さん)の活動を是非知ってもらいたい。
実際、現地に来て活動すれば、文化の違い、歴史の
違いなどで大きな違和感を感じ、数日で帰国して
しまう人もいる。笠井先生(奥さん)は当初、そうした
違和感を感じながら、日本とアジアの国との
平和・友好活動のために「一定程度我慢」をし、
一定程度妥協をし、一定程度、ベトナムから学び、
3週間の日本料理店での支援を行った。
心底、感謝したい。
その後、日本料理店来店の大極さん親子と
午後9時過ぎまで懇談。
午後9時半、徒歩で宿舎へ帰宅。
明日は、ビザを取るための「健康診断」。
日本料理店でビールと純米大吟醸を飲む。
午後10時前宿舎へ帰り、更に今日の
「おさらい」をする。
純米大吟醸が飲みたくて福島県二本松の
「奥の松純米大吟醸」を飲む。美味しい。
支援者の森田さんの差し入れである
「まぐろの酒盗」と桃屋の「いか塩辛」
で飲む。「奥の松」の純米大吟醸は
澄んだ味でありながら、濃があり、
適度の甘さがある。
日本酒が進む。体に悪いと言う意見は
正当な意見であるが、生身の人間は
必ずしも正当な意見を正しいとは思えない。
今、この瞬間の安らぎを求める。
私は心臓が悪いので血圧には厳しい注意を
払っている。「桃屋のイカの塩辛」や「まぐろの酒盗」
などは、塩分が多いので、絶対におつまみにしては
いけないものである。
2014年08月17日
笠井先生「お別れ朝食会」・青少年の会講演会
快晴
午前6時起床。
午前7時10分、電動バイクで「カメリアホテル」へ。
3週間日本料理店のサポートをしてくれた静岡の
笠井先生が8月20日に日本へ帰国する。
今日は日曜日で休みなので、早朝の「朝食バイキング」
を食べての「お礼・送別会」を行う。
日本料理店スタッフ(トゥオイ店長親子・グエット接客主任
ハン調理助手親子)と川原先生そして主賓の笠井先生。
富岡先生は体調を崩し、部屋で休養中。
午前7時半にカメリアホテルに集合。
トゥオイ店長・調理主任親子
ハン調理助手の息子
ハン調理助手が4歳の頃から支援を続けていた。
今は結婚してお子さんももうけている。
トゥイ店長は中1から「子どもの家」に入所。
今は、一児の母親をしながら日本料理店の
運営に携わっている。
トゥオイさんとハンさんのお子さん同士で遊んでいる。
そんな時代になってきた。20年の年月の積み重ねは
こうしたシーンを見ることが出来る年月でもあった。
快晴の日曜日。勇壮な眺望である。
午前7時半から午前10時まで食事をしながら、
笠井先生の3週間のサポートに感謝する。
午後10時過ぎ宿舎へ帰る。
いくつかの仕事をする。
洗濯。
午後1時から1時間昼寝。
午後3時、電動バイクで「子どもの家」へ。
今朝ホーチミン市参観からフエについた
「青少年教育の会」の皆さんへの
講演会。午後3時半~午後4時半までの
1時間。
遅刻をしてはいけないので、午後3時に
「子どもの家」に着く。(電動バイク)
「子どもの家」の学習室で、フエ高等師範大学
物理学科に入学した子どもが、「子どもの家」の
子どもたちに「物理」を教えていた。
定刻午後3時半を1時間程過ぎた頃に
青少年教育の会は「子どもの家」に
やってくる。私は1時間の講演会を
30分で終わらせる。
8月2日の「フエ市人民委員会での20周年式典」
のフエテレビニュース放映のDVDを観る。
<
9人の日本の子どもたちに30分の講演
講演会終了後、ソン君の「子どもの家」施設案内を
カットして、子どもたちの歓迎会を始める。
セン委員長の歓迎の挨拶
フランスやアメリカのNGOが全員フエから撤退した。
ベトナム外務省の無謀な措置に対する抗議で。
これらの「子どもの家」の子どもたちをJASSの
「子どもの家」で引き取る。
日曜日の出勤。「子どもの家」スタッフも
無料のボランティア。午後5時過ぎても
勤務についていてくれている。感謝。
歓迎の歌
「子どもの家」の
子どもたちの歓迎の踊りに入る。
青少年教育の会の子どもたちの出し物
歓迎の歌と踊りが終わり、疲れているので
宿舎に帰る。
日曜日に無給の出勤をしてくれた「子どもの家」の
全てのスタッフに感謝したい。
「子どもの家」は日本人だけで成り立っている訳では
ない。ベトナム人スタッフが20年間、一緒に働いて
くれたことで成り立っているJASS「子どもの家」」である
ことを肝に銘じるべきである。
2014年08月16日
ネズ公大取り物帳:チャンさん家族と会食
快晴
午前6時起床。
1階の浴室から異臭が漂う。見ると、昨夜仕掛けた
「ねずみ獲り」に「ねず公」が一匹かかっていた。
ネズ公は捕獲にあわてて、フン・尿を撒き散らす。
異臭が立ち込めている。
こんなネズ公が、夜中に私の寝ているベッドの中に
入ってきたら・・・・・、とか、ベッドで寝ている私の
顔の上を通り越して・・・・などと考えると怖くて
この宿舎にいられない。
料理のセンさんが来る。私と料理のセンさんは
ネズ公が放つ異臭、ネズ公自体に恐怖を感じている。
仕掛けにかかったネズ公を見るのも怖く、「震えている」
状態。
ネズ公の異臭に満ちた1階で朝食を取る。
ネズ公の糞と尿の異臭は強烈である。
「牛肉・海老・かに団子入りのブン麺」
牛肉など異臭を放つ小動物の肉のように思えて、
到底喉を通らない。
残すのは料理をつく手くれるセンさんに申し分けない
のではあるが、数口手をつけて残す。
直ぐに「ネズミ捕りの専門家」ソン君に電話をして
「助け」を求める。
直ぐにオートバイで来てくれる。
大きなプラスチックの「盥(たらい)」を持って。
大きな盥(たらい)を満水にし、「仕掛けに入ったままの
ネズ公」を溺死させる作戦にでた。
前回失敗したシャワー作戦などから戦術を学び、
今回は溺死作戦。
ネズミに「かみつかれ」ないように「しかけ」に2本の
針金をつける。この針金を持ち、大盥(おおたらい)に
水を張り、ネズ公の入っている仕掛けを沈める。
宿敵ネズ公虐殺の一部始終を観察する。
直ぐに溺死すると思っていたが、意外に
溺死しない。数分後に動かなくなる。
ネズ公に罪はない。フエが段々都会化し
ネズ公の住む場所が無くなってきただけなのだ。
汚水満々の土管の中で静かに生活していれば
良かったネズ公ではある。
その後、ソン君は浴室をきれいに洗ってくれて
かえる。感謝。
バオミンさんは、早朝からフエ空港→ホーチミン空港へ。
加藤さん・森田さんなど「青少年教育の会」スタディーツアー
の皆さんを出迎えにホーチミン空港へ。
成田空港の森田さんから電話あり。30分遅れるとの
こと。バオミンさんに電話をしたが、既に機上の人と
なっていた。
2015年4月1日から2016年3月31日まで
日本語教師をしてくれる京都のK君に「採用通知」
を出した。採用を受諾するとの連絡あり。
早速、詳細な採用通知、フエでの生活の仕方などの
資料を送る予定だ。
午前11時、バオミンさんのお母さん系の従兄妹(いとこ)
チャンさんの家に招待される。私と笠井先生。
チャンさんは、以前JASSベトナム事務所が実施していた
「ニフィープログラム」で静岡大学工学部に留学中。
この間、何度も静岡市内の笠井先生の家に招待され、
食事や生活など、様々な支援を受けている。
今日は、チャンさんのご両親(ミンさんの母と兄弟)
が日本留学への感謝とお礼の食事会を企画。
バオミンさんの次男「ベーター君(小2)も遊びに
きていた。
2時間程、チャンさんのご両親、バオミンさんの奥さん
たちと懇談・会食。
午後2時半過ぎ、宿舎へ。
昼寝。
午後4時半起床。
いくつかの仕事をする。
午後6時、徒歩で宿舎を出で
日本料理店へ。
今日は午後9時45分まで10人の来客あり。
自宅着午後10時過ぎ。
2014年08月15日
当面の日程等について打ち合わせ
快晴
午前中、停電。
午前7時朝食。
「肉団子入り 小麦粉の手打ちうどん」
昨日、料理のセンさんから「ねずみが蠢動している」
との報告を受けた。
今日、センさんが、「メズミ取り」を設置してくれる。
明朝までにネズミがかかることを願っている。
午前8時半、徒歩でベトナム事務所へ。
ベトナム事務所員は、真面目に仕事をしていた。
バオミンさん運営委員長
2人の美人日本語教師
出産間近なアンさん。安産を祈る。
イエス様と電話で打ち合わせ
ベトナム事務所の実働部隊の主力になったソン君。
この数日、吐き気・下痢などで体調を崩していた
川原先生・富岡先生。
日本語教育についての打ち合わせをしている。
ご苦労様。
バオミンさんと8月から9月までの日程を相談、
打ち合わせ。
午前11時過ぎ、宿舎へ帰る。
朝食時、料理のセンさんに「明日の昼食はいらない」と
ベトナム語で言ったのだが、通じていなかったようだ。
今日の昼食を中止すると思ったようで、昼食の
用意がない。
昼食抜きで昼寝。
午後3時半、日本料理店へ。
日本料理店のメニュー・料理の値段を値上げする
ことにする。昨年の日本料理店の収支決算をすると
それほどの大きな収入となっていない。
また、日本料理店に来るお客さんからホーチミンや
ハノイの日本料理店に比べると安過ぎるとの意見を
頂いている。
現在の日本料理店メニューの料理一つ一つについて
値段を検討し、一定程度の値上げをする。
ホーチミン市の日本料理店の値段をインターネット
で調べ、均衡を保つように料金を設定する。
午後6時過ぎ、「子どもの家」を視察したいとの
日本人が来店。東京の小学校の先生だとのこと。
学校の図書室で私の伝記を読んで来られたという。
タクシーで「子どもの家」まで案内する。
「子どもの家」には、卒業生のチュック君が
遊びに来ていた。
「子どもの家」は夏休み中なので「田舎の親戚」の家
に泊まりに行っている子どもたちもいる。
「子どもの家」の子どもたちは、2階の部屋で
ゲームで遊んでいたい。
東京の先生も入り、子どもたちと遊び。
日本からの訪問者を案内している「子どもの家」に
「変なの?」がやってきた。
異常な臭覚の持ち主である。私が「子どもの家」に
いることは、知らないはずであるが、どこかで情報を
得たようである。
リー君と出会って20年。27歳になるという。
長い付き合いである。それでも「かなり問題を持った子」
だったリー君が真面目にオートバイの警備員になり、
仕事をしている様子を見るとJASSの20年の活動に
少しは意味があったことを実感する。
午後8時、東京の小学校の先生と一緒に日本料理店
までタクシーで帰る。先生とは、日本料理店で別れる。
事前に連絡知れもらえれば、当方も準備が出来たのに、
などと思う。
その後、笠井先生と厨房で色々と話し合う。
午後9時までに2人の来客あり。
閉店。
今日は日本の敗戦記念日。69年になる。
既に戦争体験者はほとんどいなくなった。
戦争を伝えるのは、私たちの世代になった。
私たち「団塊の世代」が直接戦時中に生きていた
訳ではないが、①両親、家族が戦争に直接関係した
②戦後の政治・経済の混乱した社会で、明るい未来
をざす「戦後民主教育」を受けた第1世代でもある。
私的には、両親、兄・姉は、中国で生活していた。
敗戦で日本へ「引き上げてくる」途中、兄は5歳で
栄養失調で亡くなっている。20歳から35歳まで
中国で戦争に従事した父親は、これと言った
職業の専門家にはなっていず、強いて言えば
戦争の専門家であった。
敗戦と大変な苦労をしての日本への帰国。
途中で長男を栄養失調で失っている我が家族で
ある。
私が生まれたのは、戦後2年目である。
小学校から中学、高校まで「戦争は間違っている」
「平和」と「世界との友好」を基調とした教育を
受けてきた。間違っていない教育であったと自信を
持っていえる。
既に戦争体験者・戦時中生きていた方々が
亡くなってきている今、戦争の真実を語る
役割りは、戦後生まれの「団塊の世代」に
移って来ていると思っている。
①アジア・太平洋戦争が、アジア諸国に対する
侵略戦争であったという事実をしっかりと次世代に
伝えたい。
②その上に立った「現憲法」、特に「9条」を守り、
集団的自衛権などという「ペテン的な」手法に
反対する。憲法通り、戦力を持たない、交戦権を
否定するということを基本にした日本であって欲しい。
③集団席自衛権・積極的平和主義は、結局
徴兵制に移行せざるを得ない。
最初に自衛隊への入隊者が激減し、徴兵制に
移行する可能性がある。
日本は今、歴史的な岐路にある。
戦争をする国になるのか。戦後69年、戦争をしないで
きた日本国を引き続き続けるのか?
戦争は、結局、庶民が「泣きをみる」ものだ。
安部首相の祖父の岸信介は「A級戦犯容疑で
戦後逮捕されている」。安部首相は、戦争の
実態と戦後の歴史をしっかりと学ぶべきである。
2014年08月14日
停電時緊急用電灯を買いに行く
午前6時起床。
シャワーを浴びる。
午前7時朝食。
「フォー・ボー」(牛肉米麺)
午前中、いくつかの重要な問題についての整理と
私見をまとめる。
富岡先生、体調崩しホテルで休んでいる。
午前11時半、昼食。
「精進料理風ブン麺」
1時間昼寝。
午後、ソン君と一緒にフエの「秋葉原」へ行く。
停電になった際に自動的に電気がつく、蛍光灯
などを買いに行く。
午後6時過ぎ、日本料理店へ。
笠井先生、日本料理店の子どもたちが
来客の準備。
川原先生も体調を崩す。
夕食は笠井先生と子どもたち。
午後9時までに4人の欧米系(フランス等)の
来客あり。
2014年08月13日
フエ市人民委員会と懇談
午前6時起床
朝から蒸し暑い 今年はフエ滞在20年で一番暑い夏。
午前7時朝食。
「豚肉塊入りブン麺」
午前8時8時、リー君が宿舎に来る。
直してもらった腕時計が止まってしまった。
再度直しに出してもらう。
午前9時、バオミンさんのオートバイに乗せてもらって
フエ市人民委員会へ。
フエ市人民委員会外務部長などといくつかの件に
ついて、協議。意見一致。具体的行動に移す。
午前11時昼食。
「キャベツ・人参の茹でたもの」と「魚入りおじや」
量を少なくしてと何度もお願いしているのだが、
何故か多い。
午後1時間ほど昼寝。
読書。「その夜の雪」(北原亜以子著:新潮文庫)
午前中に行ったフエ市人民委員会にパソコンを
忘れてきた。
電動バイクで取りに行く。
当面の日本料理店の運営問題、いくつかの
問題について、私案をまとめる。
午後6時、徒歩で日本料理店へ。
今日は厨房見習いのハンさんが休む。
理由不明。
笠井先生・トゥオイさん・グエットさんの
3人。
富岡先生が体調を崩す。下痢と嘔吐。
川原先生、送別会で日本料理店不在。
午後9時まで3人の来客。
その後、葛飾区立飯塚小学校の先生だった方2人が
来店。しばらく懇談。
午後9時半過ぎ、弊店。
日本料理店の前の道を徒歩。
しばらくすると一帯が真っ暗。地域全体が停電。
ところどころの電柱に作業員が登っている。
町中が真っ暗なので、道路の凹凸がみえない。危険。
私の宿舎までの道も全て真っ暗。
宿舎の近くになったら、宿舎の前の小道から
電気が点いていた。
宿舎に着いて電気とエヤコンをガンガンつける。
今夜は、フエ市の広範囲で停電となった。
日本料理店と宿舎は免れた。
ベトナムは「社会主義共和国」。
計画経済の国ではあるが、停電に関しては、
「無計画」「思いつき」「故障」停電国家である。
実際の使用電力量と配給能力量との格差がある。
行政として、増えた電力に対応する電気の供給が
必要なのだが、その対策を打っていない。
過剰使用電力で、その地域の変電設備が故障。
地域全体が停電となるということを繰り返している。
そうした基本的な矛盾が分かっているのに何ら対策を
立てずにいる官僚主義が横行している。
「政治的」な批判勢力がないとこうした政治的な腐敗が
進行することが分かる。一党独裁の弊害ではある。
ベトナムの政治の現状を憂いうるだけではなく
我が日本の政治も嘆かわしい。
大阪の怪しい政党「日本維新の会」の府議が
中学生とラインで交流し、ラインから外されたら
脅迫まがいの言辞を弄している。こうした馬鹿馬鹿しい
府議は政党として除名すべきのだが、橋下代表は
「処分に待った」をかけているようである。
大阪維新の会は、政党としての「見かけ」すらない、
存在価値のない政党ではある。基本的には
ファシズム志向政党と私は思っている。
2014年08月12日
地球の歩き方スタディーツアー夕食会
快晴
午前5時起床。
午前7時朝食「肉団子入り小麦粉手打ちうどん」
リー君に、10年前日本で2500円で買った
チタンの腕時計の修理を頼む。
半日かけて業者が修理してくれる。
文字盤と秒針等を取り替えてくれる。
500円。
私は金属アレルギーなので、腕時計も
メガネもチタンでないとアレルギー症状が
出て、真っ赤に腫れてしまう。
ベトナムは貧しい国と思っている人もいるが、
15年前に2500円で買った安物腕時計を
チキンと直す「路上の腕時計業者」がいる
素晴らしい国でもある。
バオミンさんにいくつかのメールを送る。
今日はバオミンさんは、地球の歩き方スタディーツアー
の皆さんとナムドン山岳地帯へ行っている。
ソン君が、宿舎へ来てくれる。電動バイクが
動かなくなった。バッテリーを替えるため
業者にバッテリーを持って行ってくれる。
午前11時半昼食。
『ラーメン風海老入り麺』
量が多く食べきれない。
食後1時間程昼寝。
ソン君が電動バイクのバッテリーを直し、持って来てくれる。
ノートパソコンが故障。業者を呼ぶ。
午後2時から午後4時まで、ベトナム事務所でハノイから来た
日本人の方と懇談。
午後6時半。地球の歩き方スタディーツアーの
皆さんと日本料理店で夕食会。
富岡先生が司会をし夕食会は進行した。
グエット接客主任による「メニュー紹介」
関西から来た方の乾杯の音頭で夕食会は始まる。
ミモザサラダ
手作り『ハンバーグ』
スタディーツアーの皆さんは久し振りの日本食を
堪能していた。
午後8時半、夕食交流会終了。
日本料理店スタッフの自己紹介
最後に全員で記念写真
日本の若者がアジアに来て、アジアの若者と
交流することは、長い期間をj考えると
東アジアの安定につながるものでもある。
日本とアジアの若者と小さな交流ではあるが、
こうした努力を積み重ねることが、世界や
アジアの平和、戦争をしない国際環境を
作る土台になるのではと思っている。
日本の若者が、自費でこうしてベトナムへ
やってくることには、大きな意義がある。
「今時の若者」などと物知り顔で評論している
人もいるが、地道にこうしてベトナムに来る
若者がいることを忘れてはならない。
午後9時、宿舎へ帰る。
2014年08月11日
ベトナム事務所・日本料理店停電
午前5時起床。
午前6時朝食」。「フォー・ガー」(鶏肉米麺)
午前8時、バオミンさんから電話。ベトナム事務所が
停電とのこと。関係部署に連絡するとベトナム事務所
のある地域にミニホテルなどが多数新築され、
エヤコンなどの電気の需要が多く、変電器が対応できず
壊れてしまったとのこと。
いつ電気が点くか不明。午前中、ベトナム事務所を閉鎖したい
とのこと。了承する。
ドイモイ政策(社会主義市場経済)の中で、ベトナム事務所
付近は、フエ市内でもっともミニホテルや大型ホテルが
新築されている。各部屋にエヤコンを入れているので
この地区だけが特に大量の電気を消費している。
そのため、この地区の「変電器」が故障してしまったとのこと。
午前中、当面のスタディーツアー等の日程調整。
午前11時半、昼食。
「マカロニ麺」 3分の1食す。
食後1時間程昼寝。
読書「はやぶさ新八御用帳ー春怨 根津権現」
娯楽として頭を休めることが出来る。
当面するいくつかの大きな問題について
私見をまとめ、バオミンさんに送る。
その後、バオミンさんと電話で協議。
午後6時、日本料理店へ。
富岡先生・川原先生の夕食。二人の先生は
まだ日本語教育を行っている。
午後6時半、富岡先生・川原先生が日本語学校へ
帰ってくる。夕食。
今日は午後9時半までの開店。6人の来客あり。
静岡の会の笠井先生が、厨房で奮闘してくれている。
非常に助かる。
午後8時半頃、停電。日本料理店内は、充電式蛍光灯
2本で対応。日本料理店の外は、真っ暗。
午後9時半まで6人の来客。
今年の夏は、今後も停電が続発する可能性が大。
日本料理店には、4つの充電式蛍光灯があるが、
2つが故障してしまっている。
明日は、日本料理店内2つ、厨房1つの3つの
停電対応の受電式蛍光灯を購入する予定。
笠井先生・富岡先生・厨房のトゥオイ・ハンさん
接客のグエットさんと別れ帰宅。
幸い、宿舎は停電していなかった。
2014年08月10日
終日、休息
20周年式典前から2ヶ月間ほど、本当に
忙しい毎日だった。
やっと大きな仕事が終えて、今日の日曜日
を迎えた。
ゆっくりとした1日を過ごした。
昼まで寝ていた。
高校同級生の五井君が20周年式典にフエへ来て
2冊の本を渡してくれた。
読書「王子稲荷の女(はやぶさ新八御用帳)
平岩弓枝著:講談社)
新任教員で18年間勤めた学校が駒込だった。
王子も近く、当時歩いた様々な道、町名が出てくる。
音無川 王子権現・王子稲荷、巣鴨村、駒込村・・・
1日で読了。軽く読めるこの種の本は疲れず、
推理もあり、平岩弓枝は、江戸時代の臭いがする
文章と内容である。肩が凝らずに読める。
続いて、「春怨 根津権現」(はやぶさ新八御用帳面}
これも姉の住んでいる根津権現などの地名があり、
江戸の空気がつたわる。
昼になり、電動バイクで「大衆食堂のほか弁」
を買いに行く。200円。
缶ビール3本を飲みながらベトナム「ほか弁」
をおつまみにする。
その後、引き続き昼寝。
夕方、受信メールに返信。
静岡会館の問題についてバオミンさんに
メールを送る。
夕食の食欲なし。料理のセンさんが作っておいて
くれた「ウドン」を3分の1程度食する。
2014年08月09日
地球の歩き方スタディーツアー2回講演
快晴 猛暑
午前6時起床
午前7時朝食。
「豚肉・かに団子入りブン麺」
肉が多すぎて食べきれない。
地球の歩き方スタディーツアー(11人)の
皆さんの年齢等を考え講演の「レジュメ」
を作る。
午前9時過ぎ、電動バイクで「静岡会館」へ。
途中で電動バイクの調子が悪くなり、漕いで
静岡会館へ。
午前9時半から10時45分まで
「ベトナムの歴史・生活」などについて話す。
高校生から大学生など各年齢の参加者あり。
電動バイクの「バッテリー』の電池が切れている。
ソン君に依頼し、私の宿舎から充電器を
持って来てもらい、静岡会館で充電。
午前11時前に講演会終了。
電動バイクで宿舎へ。
暑い。
午前11時半、昼食。
豚肉と野菜入りのおじや
1時間程昼寝。今日は本当に暑い。
いるだけでエネルギーを使う。
午後3時前、電動バイクで「子どもの家」へ。
午後3時半から午後4時半過ぎまで
地球の歩き方スタディーツアーの皆さんに
「子どもの家」の活動について講演。
17年前のテレビ東京の「子どもの家」取材番組
と8月2日の20周年式典のフエテレビの
番組を見る。
講演会終了後、セン「子どもの家」委員長の挨拶
「子どもの家」の子どもたちも参加
スタディーツアー参加者との交流会
「子どもの家」の子どもたちの歓迎の踊り
スタディーツアー参加者の皆さんの出し物
「AKB」の何とか何とか?
午後5時、「子どもの家」を出て日本料理店へ。
笠井先生と子どもたちが開店の準備。
午後6時過ぎ、日本料理店一帯が停電。
イングランド・アメリカから3人の来客あり。
日本料理店内の充電蛍光灯で何とか
食事をしてもらう。
40分ほどで停電終了。
9時までに3人の来客。
閉店。
2014年08月08日
ある会社訪問
午前6時起床。
午前7時朝食。
「肉団子入り チャオ・バイン・カイン」(小麦粉手打ちうどん)
1週間ほど『止まって』いたブログ「火炎樹日記」
に文章を書き、写真を探し貼り付ける。
半分ほど終わる
午前11時半、昼食。
海老入り・ブン麺
(量が多く、食べきれない)
1時間程昼寝。
午後3時。バオミンさんとある会社を訪問。
その後、日本料理店へ。
今日は店長のTUOIさんのお子さんが謬沖のため
店長さんが休む。同時に日本料理店も休店とする。
バオミンさんといくつかの件で打ち合わせ。
夕方宿舎へ帰り、ブログの最終を書きあげる。
結構時間がかかる。
2014年08月07日
ベトナム事務所へ
午前6時起床
午前7時朝食。
「フォー・ボー(牛肉米麺)」
午前8時半、ベトナム事務所へ。
ベトナム事務所のスタッフに「20周年記念式典」
でお世話になったことにお礼を言う。
川原先生は体調を崩す。
午前11時半、昼食。
量が多すぎ、食べられない。
午後5時半、日本料理店へ。
笠井先生をはじめ、日本料理店スタッフに
お礼を言う。
来客10人。
2014年08月06日
ハノイ→フエ
昨夜、高校同級生とルアンプラバンからハノイへ。
高校同級生は、ハノイから成田へ帰国する。
私はフエ行きの飛行機がなくなったので、
ハノイで1泊し、今日の飛行機で
ハノイからフエへ帰る。
2014年08月03日
フエ市を後にラオス・ルアンプラバンへ
(8月3日から5日までラオスの古都ルアンプラバンへ)
快晴
午前9時、ホテルをチェックアウトする前にフエ市共産党
委員長のユン氏が、わざわざホテルまで見送りに来、
フエ名物のお菓子「メイスン」を日本人全員に
手渡す。
ピースインツアーの20周年参加の皆さんと一緒に
天安山中腹にある「ウーロン茶(鉄観音茶)専門
喫茶店へ行き、数時間懇談・休養する。
午後3時半フエ発の飛行機でハノイへ。
ハノイへは、20周年式典参加の日本人と
高校同級生。
ハノイ空港でピースインツアー参加の日本人と
別れ、高校同級生と一緒にラオス・ルアンプラバンへ。
==============
8月3日・4日・5日の3日間ーラオス滞在
高校同級生と3日間、ラオスのルアンプラバンで
ゆっくりと過ごす。
私の一番好きな「ホテル」を同級生が予約して
くれ、ゆっくりと流れる1日を堪能した。
夜、ラオスー日本料理店へ。
ラオスの踊りを鑑賞しながら、楽しく食事・会話をする。
2014年08月02日
JASS・「子どもの家」創立20周年式典:記念昼食会
午前9時。
フエ市人民委員会(フエ市役所)に於いて、
JASS・「子どもの家」創立20周年記念式典が行われた。
はじめに「子どもの家」卒業生のドゥオック君が
歌を歌う。
続いて、「子どもの家」の子どもたちのお祝いの
踊り
午前9時20分、式典開会。
司会は、ロック「子どもの家」寮長、ハンJASSベトナム事務長
財政部長
はじめにJASS代表小山の挨拶
バオミンさんが通訳をする
続いて、タン・フエ市長のお祝いの言葉
タン・フエ市長より「お祝いの花束」贈呈
「子どもの家」運営委員長センさんの挨拶
「子どもの家」から小山へ手作り刺繍の
「子どもの家」を贈呈。
今日の20周年式典には、フエ市共産党委員長のユン氏、
フエ市人民委員会主席(市長)の列席。
里親を代表して「京滋YOUの会」の
藤井志保子さんの挨拶
「子どもの家」卒業生を代表してタン君が挨拶。
タン君は1993年に私が最初に作った
『チーラン通り子どもの家」に4歳で入所した。
アールオイ山岳地帯の少数民族出身。
1994年現在の「37グエンチャイ子どもの家」を
完成さえた際に引越し、つい先日まで20年間
「子どもの家」の子どもとして生活していた。
中学校を終わり、各種研修を行ったが、
3ヶ月位すると研修を辞めてしまい、半年ほど
「子どもの家」で「自由行動」。また、「子どもの家」
ベトナム事務所で新しい研修を紹介すると
これもまた3ヶ月位で辞めてしまいということを
10数回繰り返した。なかなか手の焼ける子ども
ではあった。
現在は、漆の美術品やみやげ物などを作る
仕事をし自立している。「子どもの家」入所第1号
のタン君である。
続いて「子どもの家」在校生を代表して、フオンさん
が挨拶。
フオンさんは、小学校高学年で「子どもの家」に
入所。その後、フエ医科大学歯学部に入学し6年間
勉強・卒業。引き続いて、フエ医科大学大学院で
研修を行っている。将来は、フエ医科大に残り
大学の先生・研究者になるコースに入っている。
ベトナム事務所のハンさんが通訳
(下 右から ユンフエ市共産党委員長
中 タン・フエ市長
下 イックホアン・フエ市新外務部長)
夏らしい「ゆかた」で参加した小樽の菊先生と
静岡の笠井先生
高校の同級生
ニエン前フエ市外務部長
JASS20年の活動の全てを支援してくれた恩人。
左の2人は、「子どもの家」スタッフ
右は、フエ医科大学の先生
フランスのNGO代表
「子どもの家」の子どもたちと卒業生
「子どもの家」の寮母さん・整備員さん
=====================
20周年式典風景
長年の里親のWさんと里子のドゥオック君。
式典に参加した「子どもの家」の子どもたち
「ハイリーホテル」で数年間一緒に生活したH君。
長年の里子を再会した「京滋YOUの会」のFさん
多くの方々から20周年のお祝い金を頂く
日本料理店長のトウオイさんは、お子さんを
連れて式典に参加
立派に成長したタン君
何故か「怪しい男」が一人、ネクタイをして式典に闖入。
日本からの式典参加者一人ひとりと握手をしている。
70年安保世代の高校同級生。
大学で「壇上占拠闘争」を経験したのか
直ぐに壇上に上がる性癖がある。
角材をもっていないだけ、安心ではあるが・・・・・
6歳で「子どもの家」に入所した日本料理店接客係り
のグエットさんと高校同級生のS水君。20年間の支援
である。
4歳で「子どもの家」に入所したタン君。
最初から里親としてタン君を応援してくれた
「Tしだ」さんと姪御さん。
式典全体の記録係りをしてくれた富岡先生と
川原先生
「子どもの家」の寮母さんたち
式典に出席した「子どもの家」の子どもたち
心臓病で苦しんだTさん(左)。現在は完治。
「子どもの家」卒業生で日本料理店店長のトウオイさん
とお子さん
「子どもの家」卒業生と里親の「京滋YOUの会」のFさん
JASSベトナム事務所スタッフ
ユンフエ市共産党委員長とバオミンさん
ユン・フエ市共産党委員長・タン・フエ市長
高校同級生と
======================
式典終了後、フエ市所有のレストランで
フエ市人民委員会主催の「祝賀昼食会」があった。
フエの伝統料理。
主催者のタン・フエ市長より、20周年式典成功の
言葉があり、日本からの参加者へのねぎらいの
言葉があった。
被招待者であるJASS側から答礼の言葉
「京滋YOUの会」の中村さん
20周年式典お成功を祝って乾杯
昼食会後、ホテルで若干休息し、夜の「子どもの家」
で「夏祭り」の買い物等へ。
午後5時半。「子どもの家」で恒例の「夏祭り」を行う。
日本からの参加者25人とベトナム事務所スタッフ10人
「子どもの家」の子どもたちや卒業生、スタッフなど
70人近くが参加。
はじめに「竹とび」
バオミンさんもバドミントンで一汗かく。
ロック寮長の号令で子どもたちは整列(といってもベトナム風)
「子どもの家」労働組合室では、日本人が子どもたちに
「浴衣」を着せていた。
「子どもの家」では既に「絶滅危惧種」と揶揄されている
男子。「子どもの家」の男女比率は女子7対男子3である。
長年のJASS東京スタッフのN村さんの開会の挨拶
浴衣をきこなしているかどうかは、多少怪しいが・・・・・
浴衣で登場した女子
夏祭りのルールの説明。「子どもの家」の子どもたちは
ほとんど「ルール」を守る気はないが・・・・・。
ボールすくい
ヨーヨーつり
輪投げ
ソースせんべい
最後にお菓子セットをもらう
「子どもの家」の卒業生も親子で参加
(20年の歳月の流れを感ずる)
「子どもの家」の入所第1号の「タン君」
しばらく「ラオス」に行っていたチュック君
スイカ割り
「スイカ割り」が終わり最後の出し物「フォークダンス」
ジェンカを踊る
最後は「グチャグチャ ジェンカ」
夏祭りのフィーナーレ 大花火大会
フーン日本語部長も花火を楽しむ
午後8時。花火大会を終え、全員写真を撮って
夏祭りを終了した。
2014年8月2日
「JASS・「子どもの家」創立20周年」式典原稿
小山道夫
ユンフエ市共産党委員長・THANH フエ市長をはじめ、JASSそして「子どもの家」創立20周年式典にご列席の皆様。ありがとうございます。
私は21年前の1993年9月1日、フエ師範大日本語学科主任としてフエ市へやって来ました。当時、フエ市だけでも数百人のストリートチルドレンがいました。東京で小学校の教員をしていたこともあり、路上で寝たり、物乞いをしている子どもたちを見て、心が痛み、子どもたちの救済・支援活動を一人で始めました。
こうした私の活動を日本で支援してくれる日本人の皆さんが、20年前の1994年2月にベトナムの「子どもの家」を支える会(JASS)を設立しました。日本からベトナムのストリートチルドレンや生活困難な子どもたちの救済を支援するNGOです。
私は何とか路上の子どもたち、生活困難な子どもたちを救いたいと思い、当時のフエ市長・外務部長と相談し、1994年11月、フエ市内のグエンチャイ通りに2000㎡(700坪)の土地をもらい、「子どもの家」の第一期工事を始めました。
こうしてはじめたベトナムのストリートチルドレンや生活困難な子どもたちへの支援活動は、気がつくと20年間が経過していました。時の流れは速いものです。
この間、214人の子どもたちを「子どもの家」や在宅支援で育て、社会へ送り出しました。また、JICAと協力して、フエ省全体の総合的な障害児支援を行いました。日本から1000台以上の車椅子をベトナム中部の障害児に寄贈しました。更に消防車1台の寄贈も行いました。フエ市と静岡市・京都市との間の「友好都市」「パートナーシップ協定」調印の仲介役にもなりました。日本語学校を設立し、約350人の卒業生を出しました。現在、フエの日本語ガイドの多くは、JASS日本語学校の卒業生です。
私たちの活動は、2年か3年で次の支援国に移動するというものではありませんでした。1箇所に定着し、一人ひとりの子どもたちの「一回だけの貴重な人生」を幸せに生きていって欲しいとの気持ちから、「子どもたちの自立」を目標にして20年間、活動して来ました。今日、これから挨拶するタン君は、フエ省の山岳地帯の少数民族の子どもでした。家庭の諸事情があり、5歳で「子どもの家」に入所し、紆余曲折がありましたが、現在25歳。芸術に才能のあるタン君は、漆(うるし)工芸の職人として、自立・自活しています。
あっという間の20年でもあり、長い20年でもありました。こうして今日、盛大な20周年式典を祝うようになるとは、夢にも思っていませんでした。これもタン市長やニエン前外務部長・セン「子どもの家」運営委員長をはじめとしたフエ市人民委員会の皆さんの政治的な指導とご支援のお陰です。心からお礼を申し上げます。同時に今日、ご列席の日本人の皆様。日本で20年間もの長い間、「里親」として、あるいは、JASS日本事務所員として「子どもの家」の子どもたちを支え続けて頂き、皆様方の「世界中の子どもたちの幸せを望む」気持ちに改めて御礼と感謝を申しあげます。
「中国の異常な覇権主義・侵略主義」が目に余る今日この頃です。今にも戦争が始まりそうな雰囲気さえ感じます。
私たちは、東アジアの平和を飽くまでも求めています。戦争のない、世界中の子どもたちが幸せに生きられる世の中を作って行きたいものです。
最後になりましたが、タン市長様をはじめ、フエ市人民委員会の皆様、セン委員長をはじめ「子どもの家」やJASSベトナム事務所のスタッフの皆様そして、遠路、日本からお越しの日本人の里親・支援者の皆様に心からお礼申し上げます。皆様方のご健康とご家族のご多幸を心からお祈りいたします。
2014年08月01日
20周年式典参加者「子どもの家」訪問・交流
快晴
午前8時半、ホテルを出発し、15人の「20周年式典」
参加者はバオミンさんとピースインツアーの添乗員の
案内で「子どもの家」へ。
「子どもの家」到着。セン「子どもの家」運営委員長
の歓迎の挨拶
同時刻。小樽の菊先生の主導で「子どもの家」に
常設「子どもの絵展示室」を作る。
富岡先生・ソン君が暑い中、作業を推進。
常設「子どもの絵展示場」を開設した小樽の菊先生
日本からたくさんのお客が来て喜ぶ子どもたち
約1時間、「子どもの家」での且20年の経験
を20周年式典参加の皆さん(15人)に話す。
「子どもの家」セン委員長の公式な歓迎の挨拶
歓迎の踊りを準備している子どもたち
20年間、子どもたちの世話をしてくれている寮母さん
子どもたちの歓迎会が始まる
20年間『里親」をしてくれたTさんと自立した里子
のタン君(現在漆・うるし細工職人)。
Tさんの姪御さんと最近入所した里子
小樽の菊先生の作った常設の子どもの絵画展示室の
第1号の参観者集団。20周年式典参加のJASSの
会員・里親の皆さん。
20周年式典の参加者のAさんは、福岡市から来訪。
20年ほど前から「子どもの家」を支援してくれている。
この日は、子どもたちに「日本茶」「茶道」(裏千家」を
体験させる。
子どもたち一人1個の「甘味」も用意。
子どもたちと一緒お茶を立てる
どんな味として「子どもの家」の子どもたちはお茶を
味わったのか? 異文化体験。良い経験をした。
子どもたちもお茶を立てる経験をする。
将来、何かに役立つことを期待する。
セン「子どもの家」委員長もお茶を楽しむ。
寮母さんも
高校の生物学の先生の職を待っているTさん。
フエ医科大学薬学部のNさん
最高齢(83歳)のTさん。旧里子(タン君)と
新里子と懇談
午前11時半から訪問者と子どもたちは一緒に昼食を摂る
小学校入学にに入所したTさん。心臓病で
走ることが出来ない状況だった。
里親の日本人や日本の慈善団体の支援金で
心臓の手術をし、今は原意に学校へ行っている。
式典参加者と子どもたち。楽しく昼食を摂る。
20年間、里親・里子だった二人。20年目に初めて
今日、顔を合わせることになった。
長い年月のご支援に感謝したい。
午後5時10分、高校同級生10人が、フエ空港到着。
バオミンさんと空港へ出迎えに行く。
1963年4月に都立ABC高校8組で同級となり、
3年間クラス替えがなく今日に至る。
出会ってから50年と言う月日が流れている。
それぞれ退職し、新しい人生に向かって挑戦している
皆さんではある。
そのままホテルへ直行。荷物を置いて日本料理店へ。
今夜は、ピースインツアー主催で既に来ている15人の
皆さんと高校同級生の皆さんの顔合わせの夕食会。
日本料理店で行う。
「京滋YOUの会」の中村さんの音頭で「乾杯」
25人の合同夕食会となる。
日本料理店では、トゥオイ店長(調理主任)、
グエット接客主任、ハン調理見習いの3人の
子どもたちと静岡の会の笠井先生が「合同夕食会」
の準備をしてくれていた。
今夜は、富岡先生も臨時に協力。
自己紹介
平均年齢60歳以上となる「高齢者合同夕食会」の
メニューを子どもたちは笠井先生の指導などもあり
低カロリー、さっぱりとしたものに計画していた。
高校同級生と
高校同級生ツアーには、3人の元女子高生も参加。
現在も現役看護婦さんのSさん。
札幌の鹿又さんは、今回の『20周年式典』全体の
映像を撮り記録してくれている。感謝。
バオミンさんも20周年参加ツアーの皆さんの
接客。
今回の「20周年式典参加ツアー」を企画提携した
ピースインツアーの添乗員さん。
83歳で参加。タン君の里親のTさん。
2時間程の会食が終わり、日本料理店の子どもたちの
お礼の挨拶。
今晩の日本料理店での夕食会は、静岡の会の
笠井先生の指導によるもの。
午後9時半、閉会。
その後、ホテルに戻り『明日の20周年式典』に備える。
高校同級生の一群は、ホテルに戻り、更に「反省会」
を続ける。午前0時を回る。